「理念型」の考察―羽入辰郎「学問とは何か」を中心に―その2

(その1の続きです。)○妥当性問題…理念型の「妥当性」を判断する者は誰か? すでに何度か理念型の「妥当性」については触れたが、その考察をしよう。この妥当性というレベルで「理念型」を議論せずに「あてはまるかどうか」のみで考えることはそもそも理念…

「理念型」の考察―羽入辰郎「学問とは何か」を中心に―その1

今回はずっと保留してきたヴェーバーの「理念型」についての考察を行っていきたい。それにあたり、羽入辰郎の文献と、その批判を行っている折原浩の議論を中心に検討しながら行いたいと思う(※1)。今回は考察が長くなったため、ノートは省略する。また、内…

芹沢俊介「現代〈子ども〉暴力論 増補版」(1989=1997)

今回は大久保のレビューでもとりあげられていた芹沢の著書である。本書は新版、増補版と2度構成の変更を行っているが、基本的な部分については1989年の出版の時点で確定した内容であったとみてよいだろう。内容に対する批判については読書ノートに多くコメ…

森田洋司/清水賢二「新訂版 いじめ」(1986=1994)

今回は前回の大久保のレビューで引用されていた、森田・清水の「いじめ」を取り上げる。読んだのは新訂版であったが、最初の部分のみが追加されているようであるため、本旨については、1986年の時点での議論であるとみなしてよいだろう。 まず最初に簡単に本…

大久保正廣「混迷の学校教育」(2010)

今回は、長らく現場教師も務めていた大久保の著書のレビューである。 本書は戦後日本で展開されてきた規律や指導の言説について分析を行う中で、特に「管理主義」言説を展開する、全国生活指導研究協議会(全生研)を中心にした教育運動に欠落する視点を指摘…

チャールズ・ライク「緑色革命」(1970=1971)

今回は、リースマンのレビューの際に少しだけ出てきた「緑色革命」を取り上げます。 当初は理念型の議論の理解のため、意識1、2、3の捉え方をみていきたいと思っていました。この論点についてはノートのコメント(※部分)でも少し言及してますが、また後日…

遠山啓の教育論ーその歴史的変遷から—

今回は予告していた遠山啓の議論を検討していく。広田のレビューにおいては、70年代の教師側からの教育の役割を縮小するような議論の例として取り上げることを予告しておいたが、これについては最後に取り上げたい。むしろ、今回は遠山の議論をできるだけそ…

ミシェル・フーコー「真理の勇気」(2009=2012)

随分と時間がかかってしまいましたが、今回はフーコーのレビューです。1984年の2〜3月のコレージュ・ド・フランスの講義内容となっていますが、フーコー自身が84年6月に亡くなっているため、「最終講義」という位置付けがされる本となります。 以前行った…

久徳重盛「母原病」(1979)

今回は前回に続き、広田文献で予告した久徳重盛を取りあげます。 私の手に取った本は1981年10月で55刷のものですが、当時のベストセラーになった本でもあります。本書の主張がそのまま受け入れられたというには、非常に極端な内容も含んでおりますが、反響は…

坂本秀夫「校則裁判」(1993)

今回は前回予告していた中で、坂本秀夫の教育権論について検討する。取り上げたのは本書と「生徒懲戒の研究(1982)」「文部省の研究(共著、1992)」「増補新版 PTAの研究(1994)」「戦後民主主義と教育の再生(2007)」である。○「学校」と「家庭」の教育分業論…

広田照幸「日本人のしつけは衰退したか」(1999)

ウェーバーについて読み進めてはいますが、なかなかうまくまとまりません…。気分転換の意味も込めて、今回は教育関係の本と取りあげてみたいと思います。広田のこの著書については新書で手に入れやすいものですので、今回はノートを控えたいと思います。○本…

作田啓一「個人主義の運命」(1981)

今回は、以前レビューした阿部謹也の「世間論」にみる個人観と本書の個人主義の議論を比較してみます。<読書ノート> p24 ジラール、欲望の現象学p9で内的媒介と外的媒介の距離について触れる ※「願望可能圏」という言い方をするが、これは心理的な問題。 p…

デイヴィッド・リースマン、加藤秀悛訳「孤独な群衆」(1950=2013)

今回はウェーバーの理念型の考察の前にリースマンの理念型論について検討しておきたい。リースマンも基本的にウェーバーと同じような文脈で理念型について語っているように思います。 参照した訳書は最近みすず書房より出たものになります。<読書ノート、上…

ジャック・デリダ「他者の言語」(1989)

次のレビューはウェーバーにしようと思っていたのですが、思っていた以上に理解が進まず、結局デリダを先に取りあげることにしました。デリダについてはこれまでも簡単に触れるような機会はありましたが、今回本書と「法の力」(訳書1999)、「精神分析の抵…

阿部謹也「近代化と世間」(2006)

今回は阿部謹也の世間論から、贈与について検討を行ってみたい。 私が今回考察の対象にしたのは、本書と「「世間」論序説」(1999)、「学問と「世間」」(2001)、「ヨーロッパを見る視角」(2006)の4冊である。ベーシックな内容と思われる「「世間」とは何か」…

矢野智司「贈与と交換の教育学」(2008)

「自己変容による物語」でも矢野の贈与論は批判を行っていましたが、本書はそれよりもひどい方向に洗練された贈与論を展開しています。ひどい贈与論のテクストとしては典型的なものとして有効かと思ったので、今回取りあげました。(考察) ○ジラールに対す…

贈与論序説—高橋由典「行為論的思考」再訪

今回から何回か「贈与」をテーマにしたレビューを行いたいと思います。これまでも「模倣」と「贈与」の関係性については検討してきましたが、少し詰めた議論をしてみたいと思います。 まず、これまで私自身の用語としてまとめた「純粋模倣」について復習する…

スラヴォイ・ジジェク「大義を忘れるな」(2008=2010)

<考察> 今回はジジェクの議論をまとめてみたい。 ジジェクの主体論は基本的に「大文字の<他者>」に依拠しようとする主体と、そのような主体に対する「幻想」を走査しようとする主体(これをラカン的主体とここでは呼びたい)の2つが対比されながら展開…

牧野篤「認められたい欲望と過剰な自分語り」(2011)

<考察> 今回はフーコーを批判するジジェクを読む前にジジェクのラカン解釈を改めて確認する意味で、牧野文献を読みます。読書ノートの注(※)で一通り違いを指摘していますが、こちらでは、要点をまとめていきたいと思います。本書を取り上げたのは、ある…

私立明星学園母親グループ「無着先生との12年戦争」(1983)

久しぶりにここに文章を書きます。表での活動が一段落したので、リハビリがてら印象が強かった本を先に記録として残しておこうと思います。 まず、この著書を執筆した無名の「母親(たち)」には感謝したいと思う。おそらくマスコミだったり、ルポライターだ…

ミシェル・フーコー「主体の解釈学」(2004)

今回は改めてフーコーを読みます。前回のフーコーのレビューから一通り「知への意志」以後のフーコーの著作を読み返し、紆余曲折した結果、まず、コレージュ・ド・フランスの1981−1982年講義にあたる本書を取扱うことにしました。次はいつになるかわかりませ…

ヴァルター・ベンヤミン「暴力批判論」

前回大澤が引用していたベンヤミンをレビューしておきたいと思います。訳は晶文社の著作集(1969)からのものです。(読書ノート) p10 「自然法は、目的の正しさによって手段を「正当化」しようとし、実定法は、手段の適法性によって目的の正しさを「保証」…

大澤真幸「不可能性の時代」(2008)

今回は大澤真幸です。3年前に一度読んで、最近読み返したのですが、思う所が多かったのでレビューしてみます。(読書ノート) p29 「理想」としてのアメリカ p77 「要するに、村上の『羊をめぐる冒険』は、三島から直接にバトンを受け取るように小説を書き…

ジョルジュ・バタイユ、湯浅博雄他訳「至高性 呪われた部分」(1976=1990)

前回の議論を踏まえ、バタイユを読みます。何冊か読んだ中で一番内容が濃い印象だったので、本書を取り上げました。(読書ノート) p10 「原則として、労働へと拘束されている人間は、それなしには生産活動が不可能となるような最低限の生産物を消費する。そ…

矢野智司「自己変容という物語」(2000)

なかなかフーコーが読解できずにいたので、どんどん後回しになってしまいそうです… ニーチェの議論も関連した矢野の著書を今回は読みます。(読書ノート) p61 「純粋な贈与としての「教える」という行為は、学ぶ者の側の主体的な参入を必要とする賭けなので…

フリードリヒ・ニーチェ「権力への意志」

今回はニーチェを読みます。訳書は理想社版のニーチェ全集から、11巻と12巻を取りあげます。(読書ノート、上巻) p22 「ニヒリズムとは何を意味するのか? ——至高の諸価値がその価値を剥奪されるということ。目標が欠けている。「何のために?」への答…

宮沢章夫「東京大学「80年代地下文化論」講義」(2006)

本を読む方に随分時間を取られて、レビューが追いつきません…月に3冊ペースでと思ってましたが、今月このままだと一冊になってしまうので、今回は記憶に残っている本をレビューしておきます。 クラブミュージックをかじっていた私にとっては、この80年代…

ミシェル・フーコー「性の歴史1 知への意志」(1976=1986)

さて、今回はフーコーを読もうと思います。 随分と時間がかかってしまったのはフーコーのどの本をベースにするのかを選ぶのに時間がかかったのと、自分自身がフーコーの議論に袋小路にされてしまっていたのが理由です(汗)。まだ十分に議論を掴み切れていな…

「シルバー事件」にみるミメーシス

さて、今回かなり前に(ミメーシスの議論を始めた頃)に話題に挙げていたシルバー事件について取りあげたいと思います。 もともとは、「過去を殺す」というキーワードとナドーのメランコリーの議論を関連づけながら、もっと面白い視点を提供してくれる作品で…

アブラハム.H.マズロー、上田吉一訳「完全なる人間」(1962=1964)

今回から検討したいのは、「人間性(ヒューマニティ)」についてである。これまでも関連的な分野をレビューしてきたように思うが、だいぶ考えもまとまってきたので、考察の対象として加えていきたい。ちなみに訳書は1979年の新装版を読んでいます。(読書ノ…