広田照幸「日本人のしつけは衰退したか」(1999)

 ウェーバーについて読み進めてはいますが、なかなかうまくまとまりません…。気分転換の意味も込めて、今回は教育関係の本と取りあげてみたいと思います。広田のこの著書については新書で手に入れやすいものですので、今回はノートを控えたいと思います。

○本書の概要
 本書は「家庭の教育力の低下」が指摘されている(当時の)状況について、実証的見地(歴史的変遷を追う作業を行う中)から、むしろ親のしつけに対する意識については過去に比べても高まっていること、その高まりは大正期ごろから除々に増加してきた「新中間層」が中心となっていることを取りあげながら批判する。そしてそのような「家庭の教育力の低下」言説は、当時の社会病理に対するわかりやすい物語として寄与しているとみる(p197)。
 また、それは社会病理に対するある種の「責任」の所在をめぐる問題であるともいえるだろう。その意味では「家庭の教育力の低下」ではなくむしろ「子供の教育に最終的な責任を家族という単位が一身に引き受けざるを得なくなっている」(p127)ことを指摘する。これは一つには伝統的な慣行や価値観を伝えた共同体の影響力が弱くなり高度成長期に消滅したこと、もう一つは学校との兼ね合いで「新中間層」から生まれた教育に熱心な「教育する家族」が70年代以降、「学校が余計なことをやりすぎる」ことへ批判を加えるようになったことが要因として挙げられる(p127-128)。これはある意味で「教育する家族」が主体として行ったものだが、必ずしも全てが「教育する家族」である訳ではないという意味で「家庭で責任をもってしつけを行う」という規範が客体として家族という枠組み全体で影響を与えることになる。つまり、単純に国家的・社会的な要請として「子どもは家族が育てなければならない」とされているだけでなく、むしろ「教育する家族」自身からもそのような影響力が確認でき、それが家族以外の教育の担い手を時には排除しようとし(特に学校との兼ね合いで)、その担い手は家族によって選ばれるべきものとされる動きの一翼となっているということである。

○本書の学術的価値
 もっとも、この「教育する家族」の影響力と、国家的な政策による教育投資の圧縮の問題について、どちらが強い影響を持っているのかは、本書では問題とならない。この点については、本書が「家庭の教育力の低下」や「家庭の責任の増大」といった論点がすでに広田以外の論者にも指摘されていることを前提した上で、「教育する家族」自身の影響力を示すという、学術的な意義についても考慮していた点が大きいといえよう。思うに、この議論は(直接の言及はないが)堀尾輝久、兼子仁、坂本秀夫といった教育法学者たちが指摘してきたような70〜80年代の親の教育権の問題、その強化の動きと並行して位置付けられるように思う。実際に広田もp131-133にて、「人権」という言葉でこの議論を取りあげている。日本教育法学会自体が杉本判決の直後の1970年8月に設立されているが、教育法学の中心的問題点が「教員vs国」という位置付けではなく、本書でいう「家族vs学校」という対立軸で語られてくるのが70年代になってからであり、本書でいう「学校で余計なことをやらせすぎている」という批判の提起の時期と一致しているのである。もっとも、教育法学の議論においては、親の教育権を強化していくことによる負の影響については、(特に80年代以降の教育法学の議論においては)考慮されることがほとんどなかったと述べるのは正しいように思う(※1)。広田が本書で貢献しているのは、この教育権強化の動きの逆機能について、それが教育の責任を親に求める動きを強めるものとして指摘していると位置付けることもできるだろう。

○「社会病理問題」の系譜からみた「家庭の教育力低下」への接近可能性について
 しかし、本書を読む上で注意すべき点、および問題があると思われる点が大きく分けて2点あるように思う。一つは本書における「社会問題の捉え方」をめぐる問題、もう一つは「家庭の教育力の低下」の議論のおける学校の捉え方についてである。

 まず、前者について。広田は「家庭の教育力の低下」の語られかたについて、それを積極的に「かつては教育力があった」ことを前提にした議論を批判しているが、いわゆる社会病理学の系譜を捉えていった際には、必ずしもそれが積極的に語られてきたとは限らないという点にも注目してよいと思われる。これは、以下の2つの観点から指摘することができる。


1. 社会病理学における家族病理の語りが、「アノミー論」や「資本主義批判」と結びつき、必ずしも現状を否定する論調と結びつくような議論がされないレトリックが意味を持っていたこと。転じて、家族病理が「家庭の教育力の低下」を直接言及することが相対的に弱かった状況があること

 海外では戦前から都市問題などの議論を介して「社会病理学」という一つのジャンルが存在していたが、これが特に日本でジャンルとして確立したのは60年代に入ってからと言って差支えないだろう。この分野の確立によって、当時の社会問題について網羅的に記述し、その問題の根にある要素を探究しようとするスタンスが基本的にとられるようになってきた(※2)。これはしばしば当時のアメリ社会学における社会病理学のアプローチと、マルクス主義的階層論の視点それぞれの欠点を埋め合わせた「融合形」を志向していたともいえる。

「しばしば指摘されるように、社会問題の認識については大別して二つの流れがあった。一つは、主としてマルクス主義社会学の観点に立つ社会問題論であり、二つは、アメリ社会学(ないし社会病理学)観点に立つ社会問題論である。前者は、社会問題の発生条件を資本主義体制に内在する矛盾や欠陥に認めて、体制そのものが一切の社会悪の元兇であるとし、そのほかの条件は余り重視しない、いわば体制一辺倒的な考え方であるのに対し、後者は、資本主義体制そのものは是認し、それを前提としてそのほかの条件を問題にしようとする、いわば体制没却ないし不問的な考え方である。」(大橋薫•大藪寿一編「社会病理学」1966、pi)

 そして、とりわけアメリ社会学における社会病理学の見方は、「資本主義体制≒既存の社会秩序形成」を是認する形をとっていた。そこでは、既存の秩序自体は否定されることなく、現存する社会問題については「アノミー論」に代表されるような旧秩序と新秩序の転換期における混乱として描かれた(※3)(※8)。ここにおいては、新しい家族というのは否定されるべきものとされることを前提とせず、むしろ転換における問題点を、秩序の確立ないし調整をもって解決することで家族を安定させるという見方を十分取り得た(※9)。
 他方、マルクス主義的な議論の系譜においては、確かにこのような批判が資本主義批判として提出されていた。しかし、好んで用いられた「疎外論」的アプローチというのは同じく当時流行っていた「マイホーム主義」という私的な家族に対しても当てはめ、資本主義批判という形で結びつけることで擁護しえた(※4)。
 しかし、とりわけ80年代以降、「ゆたかな社会」という認識が確立してくると、アノミー論的な説明が説明力をもたなくなり、マルクス主義的な議論もまた「ゆたかな社会」の実現とともに勢いを失っていった。むしろ既存の社会の秩序そのものの病理が問われざるを得なくなった。その際の改善というのは、既存のものとは「異なる」ものに見出されざるを得なくなるだろう。そのような状況の変化の中で、「教育力の低下」の根拠とされる「昔」の家庭がでっちあげられ、「家庭の教育力の低下」論を形成しやすい条件が整っていったということはできるように思う。


2. そもそも社会病理学に議論においては「家族」という位置付けについて、非常に曖昧であり、それが「核家族」を指すのか従来の家制度的家族を指すのかでも議論がありえたものが、「核家族」へと収斂していった可能性。

 これは、新しい家族像=核家族が自明の理となってしまうことで、家族の人数の減少という問題が正しく反映されることなく、それが父母への批判に集中する結果となった可能性があるということである。例えば、井上忠司が以下のような指摘をしている。

「私が思いますのは、大家族から小家族というのは家族の一つの近代化の過程してあったと思うんですが、その小家族というものと、核家族化というものとがごっちゃに考えられていて、それで核家族化がすなわち近代家族、あるいは近代化の指標としての家族であるという考え方が、一方に非常に強くあると思います。」(太田武夫編「現代の親子問題」1975、p160)

 確かに60年代から70年代にかけての家族病理論というのは、一方で3世代型の解体を指摘しつつ、それと同時にいわゆる「核家族」の病理についても言及していた(※7)。これは必ずしも「核家族」という限定をしている訳でなく、とりわけ家族病理の議論の中で「マイホーム主義」の問題や「母親蒸発」による捨て子問題など、その「社会病理学的」な網羅的議論の中で、それが核家族の問題であると素朴に想定可能であったにすぎない。しかし、だからといって、井上のいう「大家族」の解体というのが格別問題視されることとされていなかった。本来であれば、この「大家族から小家族へ」という議論の中にも、「家庭の教育力の低下」に繋がる一因、リスクを核家族のみが担う可能性について指摘することも可能であったといえる。もっともこのような議論のされ方は当時の議論にはほとんど見受けられなかったように思えるが。
 このために、ちょうどこの転換が忘れられてきた時期になって、もはや「核家族」を前提に議論をまとめざるを得なくなったのではないか、とも思えるのである。家族病理の問題は否応でもそれが「問題」である状況であり、それが核家族の問題であることが確定し、なおかつ以前のような「社会構造」に対する批判までもなくなってしまえば、それが「今の(核)家族自体に問題がある」という論調を回避できなくなり、それが昔との対比となり、「家庭の教育力の低下」に繋がった可能性が想定できるのである(※5)。

 ここで取りあげた「社会問題の捉え方」というのは、責任の所在をめぐる議論でもあり、その責任の所在が必ずしも特定化されている訳ではなかったという点がポイントである。思うに、この責任をめぐる問題というのはしばしば曖昧に語られつつ、それが同時に読者のミスリードに繋がり、責任を固定化してしまうような状況が徐々に見出されてきた動きがその中から出てくる流れがあったのではないか。このことの立証はまさに当時の「曖昧」な議論がいかに曖昧なのかを捉えつつ、かつそれをミスリードする側の主張も同時に捉える必要がある点で困難を極めるが、そのような可能性について検討の価値があるのではないかと思う。今後その例としてまず久徳重盛の「母原病」を取りあげたいと思う。

○「教育する家族」と「学校」との力関係について
 さて、後者の議論についてである。広田の議論で私が大いに問題であると思うのは、この両者の関係について、あくまで「教育する家族」側からのみの動向をとらえようとし、「学校」側が主体となってその力関係に与えた影響を捉える余地を与えず、あくまでも客体であり続けている点にあると思う。広田自身、70年代から親が学校を従属的に扱い、「子どもに余計な教育をさせない」ような動きを主体的に作ったかのような語りを行っている。しかし、実際のところこれにはかなりの疑問も提出できる。
 一つは「学校」にもとりわけ70年代にその機能縮小的な動きを行う余地が大いにありえた点である。とりわけ日教組が1970年に「時短方針」を打ちだし、その後余計なこと(子どもへの教育要求)を学校は引き受ける必要はないかのような動きが見られるのではないかということである(※6)。これについては表面的な展開が確かに見出しづらく、そのような影響力自体がどれくらいあったかは疑問も当然出るだろう。今後この点についても私自身も関心があるが、差し当たり、以前少し無着成恭の議論で取りあげていた「遠山啓」の議論から、考察を試みたい。遠山は日教組の集会などでもかなり大きな発言力を持っていたようであり、当時の日教組サイドの動きを少なからず代弁しているのではないかと思うのである。
 もう一つは、先述した教育法学の議論を踏まえての見解で、むしろ教育法学の議論における校則批判の動きというのは、逆さに読めば極めてマイノリティな存在のクレイム申し立て、異議の提出によって、当時のPTAの総意でさえあった校則さえも否定されてしまうような内容とも読めた。つまり、ここにおける「教育する家族」が果たして主体的に教育権獲得に振舞っていたのかについては、疑問を付けることができ、また、このような申し立てを行ったであろう主体が果たして「教育する家族」だったのか、という点についても疑問が提出できるのである。この問題については坂本秀夫「校則裁判」のレビューの際には取りあげる。
 総じていってしまえば、私自身は広田が70年代から教育する家族の発言力が強まったとする見解については否定的で、あったとしてもそれは80年代以降にならないと見出せないのではないのか、70年代を捉えるにはもう少し深く考察しておく必要があるのではないのかと思うのである。広田の議論も直接的にこの点を立証するのは、「しつけの主体として学校ではなく、親が担うべきだ」という割合が増えたというアンケート調査と、朝日新聞に連載された学校のおかしな指導の実態を提示し大反響を呼んだとする「いま 学校で」の話のみに依拠しており、主体的な「教育する家族」の実態というのは実証的観点から見えてこないのである。この点についてはむしろ、今後実証的観点からの検討が必要になってくるし、私も機会があれば取りあげてみたいと思っている。




※1 この点については、少なくとも70年代前半については、「マイホーム主義」といった私事的な事象について、社会的に批判が強かった影響もあると思われるが、教育法学の議論の中でも純粋に親の教育権を強調することを留保していた傾向が見受けられる。堀尾「現代教育の思想と構造」(1971=1992)では以下のような指摘がある。

 「ところで、教育の私事性の自覚が、単にそこにとどまるかぎり、そして父母の教育への私的関心が、本質的な意味での共通項の自覚を通じて連帯感を発展させえないかぎり、私事性の意識は、親のエゴイズムに堕落し、子どもたちの排他的出世主義を助長するだろう。そして、そこから生まれる不当な競争意識は、試験地獄、準備教育に拍車をかけ、かえって反動的教育政策を支えるテコとして利用されている。だから、私事は組織化されなければならないし、組織化されることによって、自由のための抵抗もまた方向性を獲得するのである。
 父母の教育的関心あるいは要求を組織するためには、その多様性から、次第に基本的な願いを意識化する作業を経て、教師の専門的指導性と親たちの生活体験との相互の交流の中で、子どもの成長の意義の中核にして、多様な要求を統合しなければならない。」」(堀尾1971=1992、p364-365)

 ここでは「私事の組織化」という表現がなされるが、個々の親の、そして親達の組織化に留まらず、教師との連帯についてもかなり強く意識されており、「親」のみが強いアクターとして学校に影響を与えようとすること自体が否定的に解されていたといえる。
 しかし、特に坂本秀夫の著書においては、学校の批判に終始しており、親への批判については言及が皆無といってよい。

※2 いくつか引用しておこう。

「こんにち都市社会には数多くの社会病理現象が発生している。たとえば、倒産、失業、貧困、スラム、犯罪、売春などの伝統的な社会病理現象から、心身障害、交通事故、公害、少年非行、老人問題などの現代的な社会病理現象にいたるまで、その範囲や形態は多種多様である。」(大橋薫•大藪寿一編「社会病理学」1966、pi)

「高度経済成長の下で、公害をはじめとして交通災害、住宅問題、過密過疎問題、通勤難問題、農業停滞、中小企業不安定問題、犯罪非行激化、労働単調、人間疎外等々の諸々の問題が続発し山積するのは、工業化が人間の福祉の増進にどれだけ役立つものであったかどうかを疑問視させるものである。」(日本教社会学会編「教育社会学の展開」1972、p151)

 社会病理学の議論を行う上でマクロな構造に問題をあてるためには、それこそ網羅的な議論を行わなければならないと考えられたのは当然であり、その中で、種々の問題がこのように一つにまとめられたことは、80年代以降、そのようなマクロな枠組みへの批判の姿勢がなくなった後も少なからず生き残っていたと思われる。

※3例えば、光川晴之「家族病理学」では、次のような形で家族病理の可能性を言及している。

「ところで、前近代社会では家族は多くの機能を果たしていたので、家族の役割構造は複雑であったし、夫の役割、妻の役割、子どもの役割は明確化されていた。しかるに現代家族では、家族の機能は縮小し、家事労働が機械化され、合理化され、共働き妻が増加するとともに、家事労働を分担する夫が増え、夫と妻との役割代替がみられるようになっている。従って、この点に関する家族成員間の病理性が生じる可能性がある。また、家族の変化が急激に行なわれている現代においては、家族成員相互に役割期待、役割認知、役割遂行のズレが生じ、役割の合理的な調整の必要性が生まれてきている。」(光川1973、p113)
※4 もっとも、「疎外論」と「マイホーム主義」の結びつけ方については、必ずしも明確に関連づいているとも言えないと思う。基本的にマイホーム主義は私的な家庭の問題として批判の対象とされつつ、それを疎外論と結びつけるにせよ、マルクス主義的アプローチをとる論者はそこから先の議論をほとんど進めることがない。つまり、どのようなアプローチをとれば家族病理の問題が解決されるのかという問いの答えを出そうとしているように思えないのである。これはただ漠然と資本主義批判という態度でこの批判を行っていることの弊害であるといえる。
 もっと言えば(この点についてはしっかりした検証が必要だが)、このような漠然とした、網羅的な社会病理の批判というのが、その後の曲解した「家庭の教育力の低下」の議論といとも簡単に結びついてしまったのではないか、とさえ思えなくもない。

※5 マクロな議論の消失、そして核家族の確定による「家庭の教育力の低下」への言及可能性の増大というのは、もちろん、60−70年代にそのような「家庭の教育力の低下」の言説がなかったと言うことを意味しない。あくまで、そのような言説が流通する可能性を低めるような、別の語り方の可能性というのがその当時には十分にあったということをここでは述べておきたいのである。

※6 ここでいう教育要求というのは、広田のいうような70年代からとりわけ強まったというような動きであるというよりは、戦前からずっとあったような子どもに何とか勉強をさせてほしいというような進学欲求をもとにしたような教育要求を指すものととらえてほしい。このような教育要求は特に「準備教育」「補習教育」と呼ばれてきた学校による放課後の教育活動に色濃く見受けられていたものである。

(追記:6月8日)
※7他の論者では、例えば一番ヶ瀬康子が家族制度の問題として社会問題を捉えることに対する批判的言及を行っている。

「とりわけ、家族間のつながりは、陰惨な嫁・姑の問題などをはらみながらも、強かったことは事実であった。しかも、戦前においては、日本特有の家族制度が、それを強めていたことはいうまでもない。したがって現在の家族生活の変化は、マスコミ的表現をかりれば、いわゆる「いえ」から「ホーム」への変貌であり、変化である。だが、その家族制度の崩壊や意識の問題のみをとくに過大視し、なかにはそれだけをとらえる人がいるが、必ずしも妥当ではない。それは、法制史あるいは風俗史的ではいざ知らず、基本的には賃金生活者の増加、労働者階級の増大が決定的に進行するなかでこそ、その変化は完結したのである。」(一番ヶ瀬康子「都市の中の家族」篠原一ら編「岩波講座現代都市政策X 都市社会と人間」1973、p168 )

「しかし、(※賃金生活者の都市集中の)理由は、それだけではない。最近の消費生活には、いわゆる大量生産・大量流通・大量消費の現代資本主義が、追いうちをかけてくる。それは、消費単位に縮小した現代家族の機能を利用して、いわば平均化したマイホーム自体を商品化し、さらに鋳型にあてはめる傾向が生じていく。」(同上、p169)

※8恐らく、以下のような楽観的な「秩序崩壊の状態」に対する見方というのは、当時の社会が過渡的な社会変動の只中にあり、将来的にはその再構築の余地あると見なされていなければできないように思う。

「児童の成長と発達からみての問題は、かかる社会的、家庭的変動にしたがって新しい時代にふさわしい家庭教育がまだ十分形づくられていないことである。考え方によれば、終戦から現在までは、家庭教育の過渡期であり、浮浪期であるといえよう。ここから、いろいろの新しい型の児童問題、たとえば、中流家庭の子どもの非行、母の稼動によるカギっ子、ママさん的なパパさんの出現、情緒障害児の増大などが生じてくるのであろう。」(佐藤修策「登校拒否児」1968、p180)

 もっとも、このような見方は「豊かな社会」が確立されたとされる時代においてもなおその「秩序の安定」がなされることがないことが明確になってくれば、社会病理を説明するための論調も変化していかざるを得なくなるように思われる。

(追記:9月11日)
※9 松田道雄の72年の論考においては、少々極端ではあるが、旧来的な家族においては「しつけ」についてあれこれ悩む必要性はなかったと読み、「家制度」的なしがらみから自由を獲得したことを高く評価しつつ同時にそのような過去のしつけのあり方を批判している。このような議論は戦争の前後の時期についてまだ明確な意識があった頃には当然ありえた議論であろう。

「自分が自分の主人でなく、いつも他の人間のさしずで生きていた時代には、そういう(※自分の生き方を自分で決める際に起こる「不安」の)おそれはありませんでした。
今の戦後派のおかあさんは、自分の子どもを自分の思うようにしつけることができます。けれども、こういうしつけでいいんだろうかというおそれが、いつもつきまといます。
戦前派のおかあさんでは、そういうことはありません。子どものしつけは、おばあさんの言うとおりにしなければなりません。子どもが年寄りの命じたことを、そのとおりやるかどうかの番をしていればいいだけです。子どもをこうしつけて、どうなるだろうかという不安もおそれもありません。」(松田道雄「私の幼児教育論」1980、p122)

「しかし、(※過去の)そういう固定化した教育が、頭の固い人間を作りだして、流動する世界情勢に対して柔軟な対応策を取れずに、戦争に飛び込ませてしまったのです。」(同上、p123)