2015-01-01から1年間の記事一覧
今年最後のレビューは久々に精神分析関連の著書である。十川の著書は以前「精神分析への抵抗」を読んだ際に、なかなか私に近い解釈もしているなという印象を持っていた所である。本書においても、基本的にはメラニー・クラインの解釈も類似している印象があ…
(その1の続きです。)○妥当性問題…理念型の「妥当性」を判断する者は誰か? すでに何度か理念型の「妥当性」については触れたが、その考察をしよう。この妥当性というレベルで「理念型」を議論せずに「あてはまるかどうか」のみで考えることはそもそも理念…
今回はずっと保留してきたヴェーバーの「理念型」についての考察を行っていきたい。それにあたり、羽入辰郎の文献と、その批判を行っている折原浩の議論を中心に検討しながら行いたいと思う(※1)。今回は考察が長くなったため、ノートは省略する。また、内…
今回は大久保のレビューでもとりあげられていた芹沢の著書である。本書は新版、増補版と2度構成の変更を行っているが、基本的な部分については1989年の出版の時点で確定した内容であったとみてよいだろう。内容に対する批判については読書ノートに多くコメ…
今回は前回の大久保のレビューで引用されていた、森田・清水の「いじめ」を取り上げる。読んだのは新訂版であったが、最初の部分のみが追加されているようであるため、本旨については、1986年の時点での議論であるとみなしてよいだろう。 まず最初に簡単に本…
今回は、長らく現場教師も務めていた大久保の著書のレビューである。 本書は戦後日本で展開されてきた規律や指導の言説について分析を行う中で、特に「管理主義」言説を展開する、全国生活指導研究協議会(全生研)を中心にした教育運動に欠落する視点を指摘…
今回は、リースマンのレビューの際に少しだけ出てきた「緑色革命」を取り上げます。 当初は理念型の議論の理解のため、意識1、2、3の捉え方をみていきたいと思っていました。この論点についてはノートのコメント(※部分)でも少し言及してますが、また後日…
今回は予告していた遠山啓の議論を検討していく。広田のレビューにおいては、70年代の教師側からの教育の役割を縮小するような議論の例として取り上げることを予告しておいたが、これについては最後に取り上げたい。むしろ、今回は遠山の議論をできるだけそ…
随分と時間がかかってしまいましたが、今回はフーコーのレビューです。1984年の2〜3月のコレージュ・ド・フランスの講義内容となっていますが、フーコー自身が84年6月に亡くなっているため、「最終講義」という位置付けがされる本となります。 以前行った…
今回は前回に続き、広田文献で予告した久徳重盛を取りあげます。 私の手に取った本は1981年10月で55刷のものですが、当時のベストセラーになった本でもあります。本書の主張がそのまま受け入れられたというには、非常に極端な内容も含んでおりますが、反響は…
今回は前回予告していた中で、坂本秀夫の教育権論について検討する。取り上げたのは本書と「生徒懲戒の研究(1982)」「文部省の研究(共著、1992)」「増補新版 PTAの研究(1994)」「戦後民主主義と教育の再生(2007)」である。○「学校」と「家庭」の教育分業論…
ウェーバーについて読み進めてはいますが、なかなかうまくまとまりません…。気分転換の意味も込めて、今回は教育関係の本と取りあげてみたいと思います。広田のこの著書については新書で手に入れやすいものですので、今回はノートを控えたいと思います。○本…
今回は、以前レビューした阿部謹也の「世間論」にみる個人観と本書の個人主義の議論を比較してみます。<読書ノート> p24 ジラール、欲望の現象学p9で内的媒介と外的媒介の距離について触れる ※「願望可能圏」という言い方をするが、これは心理的な問題。 p…
今回はウェーバーの理念型の考察の前にリースマンの理念型論について検討しておきたい。リースマンも基本的にウェーバーと同じような文脈で理念型について語っているように思います。 参照した訳書は最近みすず書房より出たものになります。<読書ノート、上…
次のレビューはウェーバーにしようと思っていたのですが、思っていた以上に理解が進まず、結局デリダを先に取りあげることにしました。デリダについてはこれまでも簡単に触れるような機会はありましたが、今回本書と「法の力」(訳書1999)、「精神分析の抵…
今回は阿部謹也の世間論から、贈与について検討を行ってみたい。 私が今回考察の対象にしたのは、本書と「「世間」論序説」(1999)、「学問と「世間」」(2001)、「ヨーロッパを見る視角」(2006)の4冊である。ベーシックな内容と思われる「「世間」とは何か」…