チャールズ・ライク「緑色革命」(1970=1971)

 今回は、リースマンのレビューの際に少しだけ出てきた「緑色革命」を取り上げます。
 当初は理念型の議論の理解のため、意識1、2、3の捉え方をみていきたいと思っていました。この論点についてはノートのコメント(※部分)でも少し言及してますが、また後日ウェーバー関連のレビューをするまでとっておきます。
 今回はむしろ、遠山のレビューで取り上げた「転換」について理解する意味で少しだけ考察します。教育業界では60年代の科学化と70年代の人間化という議論がされることもありますが、そのような議論の変遷については別途検討が必要になるでしょうが、背景をみる上でひとつのケーススタディとなるかと思います。

<読書ノート、なお本来「意識1、2、3」はローマ数字表記だが、文字化けするため、アラビア数字としている>
p16「アメリカの組織をこれほど全体的に狂わせた原因はなにであろうか?まず第一にあげられるべき重要事実は、いたるところに無力感がみられる現象だ。われわれは、だれが創造したのでもなければ、だれが希望したわけでもない、そんな社会に住んでいるように感じられる。この無力感は管理職にある人びとにまで及んでいる。しかし逆説的にいえば、われわれを悩ます諸問題のすべてを処理するきっかけとなる手段が、われわれの掌中にあることも事実なのだ。」
p15「人間が能力主義にひきずりこまれるにつれて、彼の労働生活は家庭生活からひきはなされ、その結果、両方の生活が完全なものではなくなってくる。ついに、人びとは事実上、自分の職業や役割や仕事そのものになりさがり、したがって、自分自身にとってもなじみのない存在となってしまうのである。」
※これも結局農業からの脱却の問題として明確化されただけなのでは??

p17「したがって、アメリカのこの危機は、行動することが不可能になっているという事情と関連していることがはっきりしてくる。ところで、この麻痺状態の原因はいったいなにであろうか?……これは、われわれが行動しようとしなかったからではなく、行動することができないため、げんにもっている知識を利用することができないためなのだ。」
※どういうことか?少なくとも、1968年に行動を「しようとした」ことが前提となっている。「大多数の人は確実平和を希求していたのに、この個々の意思を社会ぜんたいの行動に転化することができなかった」と述べられている(p17)。
p19「アメリカの危機にかんするマルクス主義の分析には、説得的な面もあるようだが、果たしてそれが満足のいく説明といえるだろうか?難点は、経済的利害関係を強調するあまり、こんにちをがっしりと支配している官僚主義、組織、技術といった重大な要因が考慮されていないことだ。これらの要因は、おそらく階級的利益と矛盾はしていないかもしれぬが、そんなことは無関心であるといったほうがいいような、それ自身の強い慣性力をもっている。こうして、われわれをがっしり把握しているのは、資本家による搾取者たちではなく、それ自身の非人間的な論理を追求する精神なき、人間以外の力なのである。きわめて多数の証拠が、この見解を裏づけてくれるのだ。」
※もっとも、マルクス主義にとって、この変革の不可能性は、まさにそのような多様な見方をとることが根源を見失う、という論調として語られるのだろうが。水掛け論になりかねない。

☆p23「大衆現象としては、意識はその基盤となっている経済的・社会的条件によって形成される。かつて中世時代には、農民とともに存在する意識があったし、アメリカにおいては、前・産業時代の小さな町の生活とともに存在する意識があった。文化や政治も意識と密接にからみあっており、それらは意識の産物であるが、また意識の形成にも役だっている。意識は、どんな社会制度にせよ、その制度を創造する主体だが、いったん制度が創造されたあかつきには、制度におくれをとることもあり、その制度によって操作されることさえありうる。こうしたズレと操作こそ、非現実的な特徴をもった意識をうみだす要因なのである。われわれは自由企業に確信をおいている。しかし、国家は緊密に提携しあったひとつの集中的システムであるとするなら、われわれはズレの犠牲者として、非現実の中に生きているわけであり、現存の集中化したシステムと拮抗するにはあまりにも無力なのである。
 アメリカにおいて、どんななりゆきでこうした事態にたちいったかを示すため、また、新しい世代がもっている真の意味を示すため、意識の三つの普遍的な型を分類してみた。これら三つのタイプが、現在、アメリカの全般にわたって存在している重要な型である。ひとつは十九世紀に形成され、第二の型は今世紀の前半に形成され、第三の型は、ちょうどいま出現しているさなかである。意識1は、アメリカ農民、小規模なビジネスマン、しきりに出世を求めている労働者などの伝統的人生観である。意識2は、組織を重視する社会の諸価値を代表する。意識3が、つまり、新しい世代である。もちろん、これら三つの範疇は、きわめて印象的な、独断的なものである。学問的な分類である、などとてらうつもりは毛頭ない。さらに、それぞれの意識タイプはつくられた概念でもあるから、ある現実の人間が、いずれかの意識タイプにそなわる特徴を全部、つごうよく完全に表現するわけでもないのだ。」
※このあたりまでで意識論の分類の動機が明らかになる。しかしここで「自由企業への確信」というのは、誰かそのように考えているというのか?これは「意識論」に裏付けされた主張なのか、それとも別のものか??裏付けがされているなら、それはどの層を想定して発言しているのか??ウェーバー的に言えば、もはや政治性に帯びた内容であることは明らかである。しかし、ライクのこの議論を政治的主張として読んだ者が果たしてどれくらいいたというのだろう?後述するように、ライクは意識3の転換可能性について触れているが、それをみとめてしまうと、意識1や意識2がかつては意識3のような性質をもっていたことを否定することができなくなってしまわないだろうか??これは理念型の提示として、著しく論理性に欠いていないか??もちろん理念型はそもそも変更可能性を内包せざるを得ない性質のものだろうが、それが提示された時点で明らかに想定可能な状況ではあってならないのではなかろうか?そして、意識論を「完全にあてはまる性質のものではない」としておきながら、そのれ必要であるとのべる態度は、明らかに学術的性質が欠落していると言うしかない。それがもはやライク自身の当為論にしかならないからである。そして問題は、これを理念型の例として挙げられてしまう状況そのものにある。

p64「ニュー・ディール時代からうみだした永続的な産物は、そのヒューマニズムでも理想主義でもなく、まずなによりも、支配と支配のもとで生きる必要性を信じた、ひとつの新しい意識であった。改革運動から生じたこの意識を、すでに意識2と呼んだはずである。この意識を〝リベラリズム″または〝改革主義″と呼んでは正確さを欠く。リベラリズムも改革主義も、アメリカにおいては公正な試練の場に立たされたことはない。じじつ、十分に考えぬかれ、徹底的に追跡される計画をもったヒューマニズムリベラリズムなら、ニュー・ディールののち多年にわたってもちこたえるような社会をもたらしたはずだ。」
※最後の一文が重要。
p73「意識2の古典的な実例は、ケネディ家と「ニューヨーク・タイムズ」の社説欄である。それは〝リベラリズム″の意識、民主党が広く提唱する意識、〝改革″の意識である。アメリカにおける大部分の政治闘争は、意識1と意識2のあいだでたたかわれた。意識2の信じるところでは、当時のアメリカの危機を救う道は、個人がもっと大幅に公的な利益にコミット活動ーー規制、企画、福祉国家の促進、国家的行政・管理のいっそうの合理化ーーなどであった。みかけは楽観主義的であるが、そのかげに意識2は深刻な悲観主義をもっている。意識2は、人間をホッブス的な見地からながめる。つまり、人間は性来的に攻撃性、競争心、権力を追求する心をもっており、文明化されない人間はたんなるジャングルの野獣にすぎない、という見地である。」

p75「意識2は〝私的な利益″が〝公的な利益″に従属すべきことを強調する。……意識2は、個人にたいして、いかなる〝絶対的″自由も認めない。むしろ、個人の自由はすべて、それより優位の国家利益に従属するものと考える。」
p82「意識2は、一般化された基準に従って各人を分類し判断するから、しばしばその分類にわざわいされて、特異な人間というものを見落としがちである。」
p83「意識2は、数多くの改革運動に味方するけれども、そのたたかいのため、自分の地位を危険にさらそうとしない。自分のからだを戦列におこうとはしない。
 仕事上の生活における価値と家庭生活の価値のあいだに、意識2は厳格な分離の線を引く。その家庭生活は、その仕事上の価値と正反対のさまざまな価値を特徴としてもっている。家庭では温和で、人間的で、陽気であろう。……しかし、こうした価値のすがたは、私的生活という厳重に保護された住まいの内部にあらわれるだけである。意識2は、その収入全部を自分と家族のため、個人的避難の場所につぎこむ。」
※アイロニカルな没入。そして、家庭のいわゆる疎外論的解釈をしている?「このように、意識2の重要な側面は、深刻な精神分裂症、つまり働く自己と私的な自己との分裂である。」(p84)

p86「影響に弱い人間に強い影響力をもった機械が存在するわけだから、その結果、意識2の大部分は、〝虚偽意識″、つまり国家の目的のため、国家によって押しつけられた意識なのである。」
p87「マルクスとマルクーゼは、人間のほんとうの自己がつくりだす必要と、社会によって外部から押しつけられる必要とを区別している。人間はなぜスキーをするのか?自己認識にもとづいてそうするのか、広告にあおられたのか、社会から押しつけられた他の圧力によるのだろうか?後者の動機がもとになっているとすれば、その行動は自己をほんとうに満足させ、自己をさらに成長させることはできまい。それを行なう人間が、たとえ自分では楽しんでいると〝思っても″、その行動には本質的な空虚がひそんでいるのだ。」
※虚偽であることに成長を決して認めようとしない。
p89「しかし、問題の核心にはまだ到達していない。どんな理由でその経験にとびこんだにせよ、また、どれほど自覚に欠けていようと、すべての経験には、なおなんらかの自己発見の可能性がひそんでいるのではないか。どれほど見当ちがいの理由からでも、モーツァルトやスキーを試みることはできるし、その結果、なにか自分に起こるはずではないか。いや、そうではないのだーー意識2の人生を構成しているさまざまな関心や行動のすべてには、もっと深刻な虚偽性が根をおろしているのである。つまり、若いカップルがどんな経験をもとうとも、その結果として起こる程度のことはとうてい十分なものとはいえないのだ。」
※結局、問題が解決しない状況がなにより問題であり、だからこそ、意識2の態度が批判されるのがみてとれる。

p90「意識2の主張によれば、〝真の″経験とは支配されている経験のことであり、無防備で開放的な人間にふりかかるような経験ではないのだ。」
※キャンプ旅行の例があるが、意識1の人たちには「つねに崇敬心の領域が残っていた」が(p91)、意識2の人間は「あまりにも有能な人たち」なので、何も起こらず、「経験の可能性」も起こらない(cf.90ー91)
p91「能力主義社会の下側には、人間が生きることを完全に停止してしまう奈落がひかえている。こうして、社会が自己というものをどう判断するかはさておき、自己にたいする現実感覚が喪失されてしまうわけだ。そして、このために組織や社会についての現実感覚も失われてしまう。どんなシステムや構造や価値がつくりだされようと、戦争による大量破壊でさえも、なんら疑問にされることなく、それらが〝現実″として通用する。効率、技術の進歩、なにか政治的必然性をもった教義による大量虐殺など、現実としてまかりとおるものを正当に評価したり、それに反対したりする主体的基準を人間はもたなくなるのだ。」

p131「だが、警察は無力な層にたいしてはつねに残酷であり、無・法律であったのだ。」
※これは法律を求める態度か、そうではないのか。
☆p132「重要点は、管理国家内では、法の統治なるものさえ存在しえないということである。法の統治という理想は、政府の力を制限し、多様性の存在を許すような政治的抵抗の国家でなければ実現しえないのだ。その概念は、つねに権力の問題と結びついているからだ。いかなる社会においても、現実の重要問題は権力の程度の問題である。つまり権力は分散されているか、集中されているか、また、それは制御されているか、という問題なのだ。人間が国家の巨大な規制権力に服従しているような経営社会においては、法の統治という概念は空虚であり、にせものである。」
※法の背後には「合理」が含まれ、統合国家の「合理」は、あまりにも多くの人間要求を無視するという(p134ー135)。

p142「強力に発達した美的感覚、自然への愛情、音楽にたいする情熱、思索への欲求、きわめてはっきりした独立心などをもった人間は、工場の仕事やホワイトカラーの仕事に幸福感や満足感をとうていもちえないだろう。だからというわけで、こうした特性は、学校の過程で抑圧される。趣味は引き下げ、低俗化し、内的な思索は最小に抑え、美にたいする感情は断ち切らなければならないのだ。」
※学校は、「事実上、無制限の自由裁量の幅をもっているという点で」「純粋な意味で無・法律的である」という(p143)。
p143「さらに、学校の力ははるか未来にまで果てしなく延びている。なぜなら、学校はある職業への就職や、大学進学の見込みを実現させることも、妨害することもできるのだから、高校で罰点をつけられると、大学進学の見込みを実現させることも、妨害することもできるのだから、高校で罰点をつけられると、生徒は生涯だめになったと思い、一流の大学へもはいれず、そのため希望の職業も追求できないと考えるだろう。」
※問題はこの学歴主義をそれが現前したものとして位置づけることに対する是非である。
p144ー145「学校教育の全期間を通じて行なわれる基礎的な過程は、社会が要求するような人間になるための勉強であり、ありのままの人間、または自分がなりたいと思うような人間になる勉強ではないのだ。」
p145「初等教育の学校以来ずっと、疎外にいたる訓練は、まず大学での専攻を選択せざるをえないとき、ついで職業を選ぶとき、その頂点に達する。こうした選択の瞬間瞬間を経過して、しだいに完成してゆく図は、人生におけるたったひとつの〝適正な″職業、自分に〝最もぴったりした″職業、それにたいする適性テストや訓練を受けることのできる職業をもった生きものという人間像である。とりわけ、自分の本性は期待される基準には適合しないということがわかっているばあい、選択の瞬間は大きな不安と疑念につつまれる。」
※これは遠山的な職業教育の議論と絡めると、そもそもその職業選択をさせようとする状況そのものの問題と映る。

p191「きわめて明白なことだが、核家族というものは、コミュニティ的な愛情圏のもつ温かさや、安定感や、親密感をあたえるに十分な単位ではない。ふたりのほうがひとりよりもいいことはわかっているが、それくらいでは十分とはいえまい。ふたりがさらに多くの人間との接触を求めたとしても、なかなかいい相手は見つかるものではない。」
※前提として「統合国家によってひきおこされた貧困化の、最大にして最も目に見えない形態のものは、おそらくコミュニティの破壊だろう。」(p190)と述べる。ここでコミュニティの機能は確定し、過去のコミュニティの実体も実証的検討なしに導入される。
p228「一九六0年代のなかば、少数の人間たちにはじまり、その後いっそう急速に数をましてゆき、驚くべき奇跡的な現象として、アメリカ統合国家という硬直した土壌から、意識3は芽をふいたのである。」
※なぜ理論でしかなかったはずの意識論にこのような語りがなされるのか。

p236「意識3の基底にあるものは解放である。それは、人間が社会的至上命令機械的な受容と社会がさしだす個人的目標を、もはや無批判に受けいれはしない。個人的目標の変革が、意識3の最初にくる最も基本的は要素なのである。解放の意味は、人間が自分自身の哲学と価値、自分のライフ・スタイル、自分の文化などを、新しい萌芽から自由につくりだすことである。
 意識3は自己を起点とする。意識2は、社会、公的利益、諸制度を第一現実として受容するが、それと対照的に、意識3は、人間の自己こそ唯一の真の現実である、と明言する。
※仮に意識3に規範を求めるなら、それは直ちに矛盾することに気がついているのか?
p237「自己を起点にするといっても、それは利己主義を意味するのではない。権力とか地位とかいったような統合国家の人工的な産物を前提にするのではなく、人間的生命とその他の自然を基底にした前提からの出発を意味するのだ。……自我中心主義ではなく、あらゆる問題にたいする誠実、総体性、純粋性である。」

p237「意識3は、すべての人間存在ーーすべての自己ーーの絶対的価値を肯定する。意識3は、人生における敵対主義または競争主義を否定する。」
p238「意識3は、意識2にとってきわめて重要であった優秀性の概念や競争における実力という概念をすべて放棄する。通常一般の基準による人間評価を拒否するし、人間を分類したり、分析したりしない。各人は、自分自身の個性をもち、他人のどんな個性とも比較されるべきではないのだ。」
p239「意識3は、この世界で人間のあいだに起こっている事象のほとんどーー他人を操縦すること、意思に反して他人になにかを強制すること、皮肉をあてこすり、自衛的なよそよそしさーーを拒否する。意識3は、また、権威とか隷属という人間関係を拒絶する。命令をあたえることもなければ、それに従うこともしない。」
※これは明らかに法の否定と受け取れる。
p241「社会にたいする意識3の批判は、すべてヴェトナム戦争によって最もするどい焦点をむすんだ。というのは、ヴェトナム戦争こそ、われわれの社会の害悪ーー人間の破滅、環境の破壊、技術の非人間的利用、貧乏人と無力な人間にたいする金持と権力者の戦争、抽象的合理性を下敷にした正当化の理屈、欺瞞と虚言、個人の良心、価値観、自己を無視して、戦争機械の部品や他国民に死をもたらす非人間的弾丸になれという要求ーーを集約した事件であったと思われるのだから。」

p264ー265「人間どうしコミュニティにかんする意識3の理念は、新しい文化のもうひとつの基本的な側面である。それはたがいに補完しあうふたつの概念、つまり、各人の特異性にたいする敬意と、〝一緒″という言葉が表現する理念とを基盤においている。すでに述べたように、各人が相互に人間を認めあうことが意識3の本初的な前提のひとつである。……人びとは同じ様式で同じことがらを経験するとき、〝ツギャザー″の状態にあるわけだ。一緒という状態にあるためには、なにも愛しあったり、友だちになったり、物質であれ、情緒であれ、なにかをやりとりしたりする必要はない。大きな群衆が、平和行進またはロック・フェスティバルでは一緒になりうるし、小さなグループが、レコードを聴きながら、または日没や嵐を見まもりながら、強力な〝ツギャザー″感をもてるわけだ。新しい文化の多くの側面は、こうした感情の創出に役だっている。……彼らは、ひとつの感情、ひとつの瞬間、ひとつの経験をわかちあうために、ひたすら一緒に集まるのであり、こうして、同じ時期、同じ場所に自分たちの人間を参加させることが基本であるようなコミュニティのなかで、ともに結びあった感情をいだくのだ。」
p270「意識3は、論理、合理性、分析、原理などに大きな疑念をいだく。」
p275「法律は抑圧の道具である」
※一方で「社会構造、つまり法のシステムというものは、意識をともなわなければ無にひとしい。構造を押しつけるだけでは、まるで効果がない。社会の変革が発生するとき、意識こそ変革エンジンの動力源であろうことがわかる。」と述べる(p350)。平たく言えば、合意の取れた法こそ、機能するということ?これは、逆に法律が必要という主張の根拠。

p370「意識1や意識2は、もはや現代社会の指針としては不十分なことが証明されている。求められているのは、もっと高度な論理ともっと高度な合理である。新しい意識の創出は、アメリカにおける真の必要事のなかで最も急を要するものである。
 この必要性を認識したときこそ、意識3と名づけた形態のなかに進展しつつあるものを見さだめることができる。意識3は超越性を獲得する試みである。そのことは意識3を意識1ならびに意識2と比較してみれば明瞭になろう。1と2とでは違った面よりも類似した面のほうが多い。双方とも、一八世紀に端を発した産業開発と市場経済の時代に即応する意識の基本形態をあらわすものだ。どちらも、経済システムにおける人間の役割を人間の本性よりも優位におくのであり、意識1は経済中心の産業主義を根本にし、意識2は組織体への参加を根本に据える。どちらも、技術による環境の支配を是認する。どちらも、意識1は見えざる手の理論により、意識2は社会的公益の教説により、人間を国家に従属させる。両方とも、人間をおたがいどうし根本的に敵対する存在とみなし、どちらも、法律、行政、権力に合意するという条件をはずした人間的コミュニティの理論はなにひとつもちあわせていない。どちらも、社会の動きにたいする個人の責任を否定する。双方とも、人間存在を物質的視点から定義し、進歩の概念も同様な視点で定義する。どちらも、科学を前提に据えて、思想を定義する。意識1と2が違っているのは、主として、2のほうがいっそう大規模な組織、経済的企画、より高度の政治的管理だといった諸事実に調節ずみであるという点だ。」
※??これは、やはり法律否定の主張。
p375「意識3はわれわれの人生にとって現実的なものをけっして破壊しない。それは仕事とか優秀性を放棄せよとはいわず、筋の通らない、意にそわない隷従の態度を放棄せよと提案する。法律、組織、政府などを放棄せよとはいわず、筋の通った、人間的な目的に従うように要求する。」
※おそらく、ここでいう「破壊」は、そう言おうとしないだけであって、新しい社会を定めることで「破壊」をすることにしかならないだろう。そもそも従属的でない法律等が存在しうるのかという問いを放棄しており(特にある人にとっては「筋が通った」ものであるが、他のものにとっては「筋の通らない」ものである場合の対応についてなんら議論しないどころか、そのような態度はありえないという前提をとっているようにーーこれは最初の問題意識であるベトナム戦争が防げない原因の認識のズレにも繋がるがーー思える)、そもそも法律なるものが従属を条件にした制度であることも無視しているし、それに従う成員は日々変化している訳だから(※日々成人が現われ、子どもは生まれ、死者も出る)制度として調整が取れるという発想は根本的に矛盾しているようにしか見えない。更にこの前提では、なぜアナーキズムが志向される選択肢として存在しないのかにも答えられない。

p375「では、意識3は、いったいどんな社会秩序を提案しているのか?こうした疑問が出てくるのは、統合国家の欠陥について根本的なことが認識できてないからだ。現代の大きな誤謬は、社会構造や制度を視点した解答を信じきっていたことである。敵は各人の内部にいるのだ。そして、それが真実とすれば、どんな構造も、みんな一様に望ましくないものになる。意識1と2は、社会を完全に説明•定義するには、その構造やシステムを問題にしさえすればことたりると信じた。意識3は、現在のところ、新しい社会を定義するには、新しい生活形式を定義しさえすればいい、発言する。さきに、従来とことなる生活様式のことを概説したとき、未来において意味をもちうるようなものにしか触れなかった。これは、現代のむずかしい疑問に答えるのを逃したわけではない。これらの難しい疑問はーーかりにそれが政治・経済的組織の問題を意味するとしてもーーあまり意義のある問題でもなく、あまり妥当性のない問題ですらある。」
※当為論に閉じこもれば万事解決である、と言っているようにしか見えない。何故なら、ライクの言うような「社会問題」はすべて過去の反省によって認識された問題であるから、未来しか問わないのであれば、それは当然問題など何も起こらないことが自明だからである。そして更に納得できないのは、そのような態度をとるのに、過去の批判などを行うことの正当性が何らないことである。批判のソリューションとして意識3の必要性を語ることに論理的な関連性などないのである。ここに大きな欺瞞があると言ってよいだろう。
☆p376「新しい生活様式が確立されたとき、構造や制度にかんする疑問があらたに討議するだけの価値をもつことになるだろう。社会の形態が、ふたたび、人間はどう生きるべきかの課題に影響するだろう。けれども、げんに存在する形態は非常に合理や妥当性をはずれているので、新しい生活様式をはじめるのに必要なきっかけは、社会の形態に関係なくても十分おこりうるものだ。」
※このような態度が、相対主義的な楽観論にしか見えてこない。現場があまりにもひどいので新しい生活様式は現状よりよいものであることが約束されている、とでも言いたそうだ。転じて言えば、意識3の正当性もそのレベルにおいて妥当するものでしかなく、それが妥当となる基準を問わざるをえない。しかし、ライクのような論法では「抑圧の生む」としか問えず、それは(少なくともライクの前提に限れば)常に正しいとしかいえないものだろう。ここに矛盾が生じるが、その矛盾の所在は絶対的な観点(抑圧観)と相対的な観点(現在との比較)を同時に語っていることにある。この矛盾にライクの考えは甘えているように思える。だから「法律」にたいする考えが相対的なものとして、絶対的観点からの否定を無視してしまう。そもそもこの矛盾の源泉はベトナム戦争への評価のなかにあり、その反省は絶対的な観点を支持してしまっていることに(何故「皆」が行動に移せなかったのか?の問いに)あるのだろう。

p377「この新しい生活様式の、まず第一に主要な課題は教育でなければならないーーそれは学校での訓育という狭い意味での教育ではなく、最も規模の大きい、最も人間的な意味での教育である。アメリカにおける中心的な問題は、教育の失敗と定義してもよいだろう。組織や技術の要求をみたすのに必要な教育の量や意識の量を、われわれはひどく過小に評価してきた。いままでの〝教育″のほとんどは、いかにして技術を操作するか、ある組織体の構成分子としていかに機能すべきか、をおしえてきた。必要なのは、技術の利用を可能にしてくれ、技術を制御し、それに指令をあたえ、われわれの選んだ価値に技術を奉仕させるような教育なのである。」
p379「ある特定の方法が〝正しい″方法であるなどと、だまって聞かされているより、むしろもろもろの現象や思想の多様性を評価すべきである。できるだけ広範な変化に富んだ経験や対照的な事象に繰りかえし身をさらすべきである。とりわけ、自分自身の潜在能力、個性、独自性を探求し、開発することをさとるべきであり、これこそ〝教育する″という言葉で文字どおり意味しているものである。緊急に必要なのは、訓練ではなく教育であり、教義をおしえこむことなく各人の拡大ーーつまり、生活を通じて継続する進行過程ーーであり、一言でいえば、意識のための教育である。」
※教育でなんとかなると考えている以上、相対主義的な立場に偏っているといえるか?

p382「きわめて真実にそった意味からすれば、新しい意識に〝意識3″というような名称をつけることがすでに誤解のもとである。なぜなら、新しい意識とは、その定義からしても、つねに成長し、変化しつづけるものだろうから。……だとすれば、われわれはさらに意識4、5、6などを期待しなければならなくなる。……教育はこうした不断の変化、生命をあたえつづける変化のため、大きな道をもうけてくれるものである。」
※自らの主張が誤りであることさえも先取りしてしまう状況は、相対主義者にはよくあること。なおかつその定義がやはり文脈依存的、歴史的に定義された概念であるということを認めていることにもなる。
p388「じじつ、個人の優秀さの水準は、社会の規定する道程を消極的にたどるときより、自分自身の仕事をみずから選んだときのほうが、はるかに高度なものになるはずだ。
 そこで、この経歴無視の姿勢をいまの社会の内部で追求する方法•手段の発見が必要になってくる。」
※「たとえ選んだものが既成の職業であったばあいでも、その既成の枠組みはおそらくあまりにも硬直し、ありふれたものであるから、人間らしい職業としては適切でないだろう。だからこそ、個々の人間は自分自身の職業経歴と自分自身の条件を自分で規定しなければならないのだ。」という(p387)

p392「これにたいする解決策は、各人が一生のあいだに、同時的にせよ継起的にせよ、いくつかの職業をたどるべきである、ということだ。……技術がもはや必要でなくなり、個々の人間が技術的に時代遅れにならないために、そういう生きかたが必要なのである。」
※これも極めて相対主義的である。職業に就くこと自体を否定しているのだから、複数の職業についても何も変わらないはずである。また、職業にたいするこのような見方は結局専門性の否定にしかならない。専門性を究めるという行為はそのままその固定化に寄与し、自らもそこから疎外を受けるものだととらえられることになる。ここでは技能はあってないようなものだ。学問の取り扱いも当然同じ状況となり、学校教育においても専門性はむしろ不要のものとされる。
p393「ある青年が、同時に水泳コーチ、医者、文学研究者、になろうとする関心や能力を、自分の内部に発見したばあいを考えてみよう。別々にこれらの職を追求しても、たがいに貢献しあうことはほとんどなく、分断された個人がうまれるだけだろう。けれども、余暇、不断の教育、思索などによって、自分の行なっている行為を総合する道が見いだせるのだ。」
※断片的なものが批判にさらされたからこそ、このような発想に至るのではないのか。そして、ここでのソリューションはかなり精神論的な話に傾いているように読めなくもない。

p402ー403「したがって、いまの政治システムは、権力を配分し、制限しておくため、苦労して行政的な抑制と均衡をはかる。すべて人間はまず第一に、自己のみかかわる物質的利害関係によって動機づけられると考えるから、したがって、こうした各人の相剋する利害関係にバランスと妥協をもたらすため、多元主義という制度をあてがう。人間は、もし抑制されなければ、相互の権利を侵害しあうと想定するがゆえに、いまの政治システムは法律をあらゆる人間よりも優先させる。人間は自分のことしか懸念しないものと想定するがゆえに、いまのシステムは、よい社会という実体の信仰よりも、政治機構ーーデモクラシーの諸形式ーーの崇拝を、国家的宗教として建てるのだ。」
※そのようなエゴイズムが、むしろ個人を守るために必要であるという発想はライクにはないのだろう。「人間として理解しあえれば問題は解決する」という発想からすれば確かに正しいようにみえる。しかし、それが不可能なことだとしたら、搾取するものが常にそこに存在するものがいた場合に、私自身の権利を擁護することが究極的な意味で可能であるといえるのだろうか?少なくとも、不自由さを助長することは自明であるように思う。結局このような批判も相対主義的解釈からは正しくなりうるとしかいえない。ライクの言い分は悪く言えば、個人を守るために用意してきた人権概念を否定し、搾取の主体の助長を促しているとも解釈できる。もっともライクの言い分では、そのような制度自体が自分のことしか考えないような主体を作り出すと考えるのだろうが。

p405「しかし、こうしたコミュニティは法律による統制を全然受けないとか、個人的なものをいっさい寛容しないで、集団への埋没を要求するとか想像するのは、まったくの誤認である。それとは逆に、意識�のコミュニティはいまの統合国家に存在するよりも、はるかに純粋な概念による法律や、個人にたいしてかぎりなく大きな敬意をもつことになるのだ。
 意識3のコミュニティの基礎には、主要な価値についての合意がなければならない。統合国家の暴圧は、大部分が、そうした価値の欠如に基因している。環境破壊、不平等性、個人にたいする搾取、そして大量虐殺さえ、それらが〝公的な利益に奉仕するもの″、つまり国家の利益に奉仕するものなら、許されるというのだ。いかなる価値、いかなる人間をも、これを尊重する合意の協定がないために、人生は力と特権をねらう闘争になっているのだ。」
※この手の議論でいつでも問題となり、かつほとんど無視されることはそのような他者への配慮と自己の利害が対立しうるような場面の問題であり、それを無視して他者へ配慮せよというのは、そのまま自己の否定しか意味しない、ということである。そのような可能性を否定するところに意識3の議論があり、そしてそれが「未来しか語らない」という態度から出てしまっているのが何より問題なのである。ここで賭け金となるのは、自分の「過去」との、これまで自己を形成してきたものとの関係性であり、なおかつ私が変化することによって、私が守っていたものが失われる可能性がないのかという問題である。これは未来の議論をしているようでいて、実際はそうではない。なぜなら未来は変化しようとしまいとどうなるかわからない性質のものであるはずであり、かつこれまでの私に守るものがあるなら、当然それを守るために自己を形成してきた「はず」だからである。行き着く先は生存権をめぐる議論になるだろうが、恣意的な解釈をしないような生存権の議論がありえるのか、疑問もある。ライクの主張は、この合意について「絶対的な」観点から語りをしてしまっている。「人間性」というテーゼ自体がそのような絶対性の確保のための議論だったのかもしれない。また、このような合意というのが真の意味での法律であるとさえ言っている(p405)。確かにこれが「ゆがんだ意味での法律」(p405)ではないが…

p417「世界は金属やプラスチックや不毛の石で回復不能なほどおおわれてしまったと考える者にとって、新しい意識は緑に萌えるアメリカの若い力であろう。」
p421 解説部分における「意識1」の説明…「これは一九世紀に形成され、いわゆる「アメリカの夢」を基本にする意識であり、個人の尊厳とか個人の強烈な渇望を重視するアメリカ農民、小規模なビジネスマン、しきりに出世を求める労働者などの伝統的な人生観である。」


<考察>
 ライクの問題関心は、ベトナム戦争の反対などにおいて、意思はあっても行動に移せなかったのはなぜかというものであった(p17)。そしてその分析において3つの「意識」について言及する。意識は、その時代時代の制度に働きかけをするものであるのと同時に、その制度等を通じてその時期の人々を統制するものであるとみなされる(p23)。
その中で特に議論が集中されるのが20世紀前半に形成されたという「意識2」と60年代顕著に現れた「意識3」の比較である。意識2の議論は典型的な疎外論的解釈に基づいている。まずもって公益優先、国家への従属を志向し(p75)、その中で我々が何らかの「役割」(職業など)を担うことが強要される。それはほんものの私からすれば虚偽意識にしかならない(p86)。この分裂的性質から意識2の人間は一種の逃避を行うことになる。それが家庭への逃避であったり、遊びへの逃避だったりする。結局ライクは、このような逃避的性格を自らの地位の固守と結びつけ、ベトナム戦争のようなもの反対の行動に移せなかった要因とみなしているといってよい(p83)。

 このような批判は学問の捉え方に対してもほとんど同じように議論できる。そもそもライクの発想では、技術なるものは更新されていくものであるからこそ、古い技術は文字通り時代遅れになるだろうことを予想している(cf.p392)。遠山の議論はもう少しソフトで、このような情報過多、新しい技術の更新と適応の問題は、「一を聞いて十を知る」ものを獲得していく必要性の主張(「意識性と積極性(1968)」「遠山啓エッセンス第4巻」2009、p32)と結びついていた。学校教育における議論においても、「確かに教えている内容が時代遅れになっている」という主張は部分的には正しいだろう。しかし、それが直ちに既存の価値の全面的な否定とみなされるのが正しくないというのが批判の一つのとしてある。また、ライクの教育に対する批判は既存の価値に追随する点、社会の要求に従うこと自体に対してであった(p143)。このような見方は日本でも頻出した批判だったといえる。ただ、これはやはり「その学問にとって必要なことを教える」という観点から立てば失敗を後退を避けられない。何より学歴主義なるものが学問を修めることと、社会のニーズに応えることの違いを曖昧にしたと見ることも可能である。
 ライク自身、この教え込みによって学習が成り立たないとまでは言っていないが(cf.p89)、それが「強制」であり、「虚偽」である以上、「本当の自己」になるための「教育」には劣るのである。更に、能力主義という枠組み自体が批判の対象とされている(p90)。それが人間を見ないことが何よりの証拠とされる。ここから、評価による序列付けは否定される。このような動きの中で、遠山の転換に見られた「転換」も正当性が与えられていったとみることができるだろう。

○意識3における「矛盾」について—福祉との対峙
 当然問題となってくるのは、この「人間的なるもの」の内実である。ポイントとなるのは「法」に対する見方である。基本的に管理国家内では法が「機能していない」とみなされるが(p132、無・法律とも言われる)、それが批判の対象となるのは、結局我々の意思に反するように法が作用してしまうこと自体が問題であると見ているようにしか思えない。ライクにとって、「法が機能する」とは、「純粋な概念による法律」の同意がなされているという状況といえよう(p405)。大澤真幸の「アイロニカルな没入」の議論もそうだが、ここでの同意状況というのは、私自身の変化をそのまま要求するようなものである。そして、その意味で「意識3」の理想は、基本的な価値が合致している国家・社会によって「法」が機能することだといえる。

 ライクの人間性の議論は、環境破壊や大量虐殺など、極端な事例についてそれを適用しているのである。これについては問題がないと仮にしよう。しかし、これを人間としての生をなおざりにしているという状況は、特にその「なおざり」さが、「他者の承認なしにはなりたたない」性質のものにまで拡張する場合に、問題となりうる。これはいわば「福祉」の分野全般における「人間性」の問題として現れることになる。言い換えれば、ライクの議論の正当性は、福祉の分野の議論を含めた場合に矛盾する。何故なら、福祉という分野はまさに誰かに何かをさせなければ権利が剥奪されるとみなされる領域だからである。ここで「他人への要求」と「同意」形成が対立関係になる可能性がある。
 そしてより厄介な状況は、個人が「福祉」的役割を担っているいるような状況下で、私自身への変化を要求するようなケースにおいてである。わかりやすい例は子どもへの育児や高齢者の介護を行っている者がこれにあたる。ライクのロジックでは、このような場合に保守的な態度をとることもまた批判の対象とされる。それは、ライクがそのような「福祉」の役割を、個人ではなく、当然国家・社会が担えることを前提にしているからこそ妥当する。しかし、これを実際の状況に結びつけると一つの飛躍が存在しうる。一つはその担い手の転換を行えるかどうかという点で時間的な飛躍がある点、もう一つはそれが何らかの強制要因でありうることに変わりはなく、その矛盾が本当に飲み込まれるのかどうかという、論理的矛盾に対する飛躍である。後者の議論は特に金銭的な負担などに対する問題として現前化してくるだろう。常識的に考えるならば、福祉の負担としての金銭を個人が負担するのか、国家が負担するのかというのはトレードオフの関係になっているが、そこでその負担についての合意をめぐる問題が深刻なものとして現れてくるだろう。
 ライクの議論を成立させるには、必要条件としてこの2点が必要になってくるが、私などはこの飛躍に対して怯む態度をとること、ライク的に言えば、意識を行動に移せないという態度をとることは当然ありうることであるように思う。特にライクが「意識3」で想定しているのは若者たちであり、ある意味でそのような福祉の役割を担う必要を感じていない層に対しての呼び名としている解釈も可能であろう。

 もっとも、ライクはこのような「福祉」領域の議論まで想定していなかったと見ることも可能であるかもしれない。しかし、ライクの主張に含まれる多様性の評価だとか(p379)、不平等性(p405)のような内容は、この福祉の領域への議論の派生を容易にしているように思われる。「普通の生」という問題が内包することで、福祉への介入が避けられないのである。
 以上のように、ライクの議論はその行動の移せなさを問題にしていた訳だが、話はライクの言うほど簡単なものではないと考える。もっとも、それでもライクの関心は相対的な、戦争などの悪への支持の問題だったのだとしても、そのことを示すことなく、漠然とした「善」として「人間性」を持ち出すことには疑問しか出てこないのである。