富永健一「日本の近代化と社会変動」(1990)

 今回は富永健一の標題著書を中心にして、『ヴェーバーの動機問題』について考えてみたい。

 富永の近代化論については、パーソンズの系統として、つまりアメリ社会学の系譜として語られるのが普通であろうし、私自身もこのことには賛同する。例えば、矢野善郎はヴェーバー読解において4つの類型を提示する。この類型のうち、西洋文明・文化特有のものとして「合理化」「合理主義」をみなし、他の文明文化は非合理的なものとするベンディクス・大塚久雄を挙げ、これに加え、進化論的な変動法則を伴ったものとして捉えたのがパーソンズ富永健一の立場であるとする(矢野善郎「方法論的合理主義の可能性」橋本努等編『マックス・ヴェーバーの新世紀』2000、p283-285)。

 アメリカの近代化論については、大塚久雄も自身の近代化論とは異なる系統であるとして否定的であった。

 

「つまり、資本主義以前の社会的諸形態のどれか一つから、資本主義だけでなく、社会主義への移行をも含めるようなものだったのである。ところが、この点が、私の説明不足もあって、多くの誤解を惹き起こす一因となったことは周知のとおりである。が、さらに運わるくいま一つの混乱が追加された。それはその後、主として低開発国問題への関心からアメリカの社会科学者たちによって提起された、〝modernization〟論のばあいの〝modernization〟が「近代化」と邦訳されて、わが国でも私の用語法など以上に広く流通しはじめ、その結果、そうした「近代化」の用語法としばしば混同されてしまうようになったことであった。」(大塚久雄大塚久雄著作集 第八巻」1969、p616-617)

 

 この言及については、大塚のレビューで述べたように、大塚はアメリカ的な近代化の用法について「低開発国の近代化問題」としてのアメリカ的近代化論は単線的であるのに対して、自身の近代化論はそのような単線的なものではない(上記引用の表現だけを引っ張ってくれば「社会主義への移行」の可能性もある)ものと主張するものであった。

 また、もう一点アメリ社会学における近代化論で無視してはならないのは、1960年の「箱根会議」における日本とアメリカの社会学者の仲違いについてである。アメリカ側は近代の度合いについて測量することを志向することに「どれだけ近代化しているのか」について研究しようとする姿勢があった。これが大塚のいう「低開発国」をいかに開発するのかという議論に繋がっていく。しかし、日本の社会学者側はこのような議論(結局は単線的な近代化論)を批判した。

 これについて苅谷剛彦は次のように述べている。

 

「ホールが示した「修正一覧表」に照らすことで、どれだけ日本が近代化しているように見えても、あるいはそれを統計資料として計量的に示すことができても、量的な把握が困難な民主化や民主主義といった「価値」を規準とした近代の理解には及ばない。もはや常識的な知識ともいえる、近代日本の後進性や前近代性、歪みや欠如といった偏差の認識が、近代化論を手放しでは受け入れることのできない知識の基盤にあった。アメリカ流近代化論への最も基底的な反応=反発として、民主化や民主主義といった、敗戦後にアメリカの占領政策が最重点とした「価値」からの偏差の問題が、根底にあったのだ。政治性や価値の問題をあえて含めないことで、一見中立的・客観的な社会「科学的」な議論を目指した、箱根会議でのアメリカ流の近代化論は、日本側の政治性へのこだわりというフィルターを通じて受容・理解された。中立性、客観性を一つの政治性と見たのである。」(苅谷「追いついた近代 消えた近代」2019、p15)

 

「ここに示された両者の距離には、「民主化」として要約された価値に照らして、日本近代化の遅れや歪みを問題視し続けた日本側の近代理解の特徴が示されていた。このような距離を前提にすれば、近代化論は、たとえアメリカ側が普遍的で一般的な社会変動の理論として提示しようと、近代日本やそこに至る過程を理解する助けとはみなされなかった。」(同上、p14)

 

 言ってしまえば、一元的な測量が可能であったとみたアメリカ側に対し、日本では従来から「民主化」という指標が近代化論に与えている影響が大きかった。以前レビューした日高六郎の言葉を借りれば、日本では「産業化的近代化論」に加え、「民主化的近代化論」という層があったということを意味する。

 

「かくして第三局面の近代化理論においては、産業化・近代化の歴史的過程それ自体を創始したのは先進諸国であるにしても、近代化の概念はもはやテンニェスやヴェーバーのようにヨーロッパのみのものとして考えられることなく、すべての社会に適用可能な普遍的概念として立てられるようになった。しかしもちろん、現実に存在している多くの非西洋・発展途上諸社会において産業化・近代化が現実に起り得るか否かは、開かれた問題である。そこで近代化理論の課題は、それらの非西洋・発展途上諸社会に産業化・近代化が起り得るための条件を明らかにし、またそれが起った場合に生ずる社会変動の性質について示唆を与えることである、と考えられるようになった。」(富永1990,p76-77)

 

 さて、このような発想から先ほどの箱根会議での仲違いを見た場合、何故両者が仲違いしたのか一見するとよくわからなくなる。少なくとも富永のいうパーソンズを土台にすれば、日本に近代化の独自事情があるのはむしろ自然なことでありえ、その条件について分析することこそアメリ社会学的な近代化論であるということができるからである(※1)。

この相違の詳細についてどう考えるべきかについては今回回答を与えられないが、少なくとも矢野善郎の指摘が的外れになっていることがわかるだろう。富永はここで西洋のみ合理化するという発想が正しいと考えている訳ではない。むしろ富永はそのように指摘したのがヴェーバーであり、自分はパーソンズと共にそのような立場を支持しないことを明言している。この議論のズレは次のように言い換えることができる。矢野は「ヴェーバー読解」について分類を行っていたはずだが、「富永のヴェーバー読解」と「富永の主張」を混同しているため上記のような曲解を行うのに至ったと考えられるのである。

 

 「かくして問題は、西洋社会の諸事例からひき出された一般化が、どの程度まで非西洋社会にまで拡張適用可能であるか」(富永1990,p81)を議論する中で、「近代化の帰結はしだいに収斂に向かうとしても、近代化に向かう途上で直面する諸問題の性質は、西洋先進国と非西洋後発国とではちがうのではないか」という見解を示す(同上、p95)。かくして課題は「非西洋後発社会の近代化が成功し得るための条件を定式化するという問題設定に向けて、独自の道を進まねばならない」とする(同上、p105)。ここにおいてほとんど産業社会論などにおける「日本人論」に近接する。

 

 さて、ここで検討せねばならないのは、

(1)「近代化」そのものが単一的か

(2)「近代化」へ至る道は単一的か

の違いについてである。そして、仮に(1)で真であるとみなした場合には、

(1´)「近代化」の単一性は「欧米の近代化」そのものではない

についても考慮すべきである。以上を『近代化問題(1)(2)(1´)』とそれぞれ定義する。

 

 これについて私はこれまで「単線的近代化」「複線的近代化」という形で分類してきた。しかし、特に日本を対象にした形で語られる場合にこの区分を用いる場合、決まってそこで含意される「近代化」というのは、産業的・経済発展的な意味での「近代化」を指していた(つまり、「民主的近代化」という論点は脇に置かれる)。もう少しソフトな表現とするなら、「豊かな社会」になるための条件が、欧米と同一的である必要があるのかどうか、という側面からみた場合の議論をしているのであって、逆に言えば「豊かさ=時代の要請」を大前提にした視点が「近代化」であることをも意味する。ここでまず「果たして近代化が全てなのか?」という問いは脇に置きたい。そうした場合においてここで重要視される「近代化」とは一体何を意味している(より正確には、何を到達点としている)のだろうか?よく考えると、実はここに「到達点」を設定することと「近代化が複数あるかどうか」という問いはほとんど同じことを言っているのではないのか、という疑問が出てきてしまわないだろうか?「複数的近代化」論者は差し当たっては間違いなくこの「到達点」の設定を行うことを前提にその議論を行っている。しかし、逆にこの「到達点」を設定しないと考えた場合には、あまりこの「複数性」を検討すること自体が意味のないものになってしまわないだろうか?私自身は富永自身の見解と富永読解の曲解の理由は、どうもこの論点の存在に集約されているように思うのである。

 

 富永の主張は私自身もどちらかと言えば「単線的近代化論」の論述のように見えてしまう。実はこれは前回レビューした持田栄一にも同じことが言える。富永にせよ、持田にせよ、ひとまず議論の方向性は上述の『近代化問題(2)』のことを言っているように見えてしまう。「近代化」はどうしても達成せねばならない問題であるが、その課題というのは欧米と非欧米では異なる。だからその課題を抽出するために測量化したり歴史的な分析をしたりし、課題に基づいた問題解決を行う。そのように富永・持田の議論は読めるのである。

 ここで確実に明言できるのは、「欧米的近代化」について批判を行っていないがために、富永・持田の議論が『近代化問題(2)』に見える、ということである。すでにレビューしたように持田のこの問題に対する対処法は「欧米的近代化」を直接批判することなく「現代化」を対置させ、この達成を強調することで実質的には『近代化問題(1´)』を疑似的に問うことができたとも言える。

 一方で大塚久雄はどうだったか。大塚の場合はもう少し複雑である。少なくとも『近代化問題(2)』については明確に議論していたと言えるが、『近代化問題(1´)』についても肉薄していた。これは『近代化問題(2)』においてその達成方法が明確に異なったエートスによって達成可能であるとみなしていた限りにおいて、当然その帰結にも複数性を与えていたから、ということができるだろう。もっとも70年代の大塚はこの複数性の前提を崩したこともすでにレビューした通りである。

 このような観点から言えば富永はどうであったか。ここで掛け金の一つとなるのは近代化を「尺度」として見た場合の欧米の立ち位置である。これを尺度からみて不十分な要素があるとして見た場合は当然「非欧米」的な「近代」の可能性が残されているが、専ら低開発国向けの議論に終始している場合においてはこれを「欧米的近代」を志向していると言うしかないだろう。もっと言えばこのような態度を理念型的な欧米を「聖化」することにもなりかねない。ここで富永のヴェーバー観は一つポイントとなる。富永のヴェーバー評価は『近代化問題(2)』について、「ただ西洋においてテーゼ」を根拠に単線的な評価をしていたとみなしている(富永1990,p73)。したがって、非西欧諸国は西欧諸国のような「近代化」ができないと結論付けたとする(※2)。しかし、「非西欧諸国においても近代化の可能性は開けている」としてこれが正しくないことを富永は強調する。この文脈で日本の分析が強調される。

 ところが、この結果何を富永が語っているのかも重要である。長い日本の歴史的考察を行ったあと富永は「非西洋後発諸国では、そのような内発的な精神革命は準備されなかった」としその近代化は「西洋からの文化伝播によるほかなかった」と結論付け、日本は経済的近代化を達成したものの、政治的・社会的・文化的近代化は経験することのなかった「跛行的近代化」となったとする(富永1990,p413-414)。そしてやはり他の非西欧諸国も「経済的近代化が他のサブシステムに先行している」とするが(同上、p416)、それ以上のことを述べることはない。

 

 もう少し「経済的近代化」を詳述しよう。これは経済活動が自律性をもった効率性の高い組織によって担われるものである(同上、p30)。「産業化は近代化の技術ならびに経済的側面にかかわるが、技術的側面は、近代科学の応用として普遍性が高いために、しかるべき学習手順を踏めば誰にとっても習得可能であるし、また経済的側面も、資本調達や企業経営や金融財政などのように技術的ならびに制度的なメカニズムにかかわるものであって普遍性が高いので、客観的な態度で習得され得る」(同上、p59)。コンフリクトという点でも「経済的近代化」が最も小さいと考えられる(同上、p64)のである。つまり富永からヴェーバーを見た場合、ヴェーバーの近代化論はあまりにその「近代」観が粗削りであったのであり、そのため非西欧諸国の近代化を説明できなかった。本来「近代化」とは多層的(パーソンズー富永的には4つの層に分かれたもの)であり、それぞれの近代化についてその伝搬性には差異があり、「経済的近代化」というのは最も普遍性の高い型である。日本などの非西欧諸国が達成できたのはまさにこの「経済的近代化」であり、他の近代化の要素を達成は後発的になる、と。

 以上の点からも富永が「西欧諸国」を批判的なものとして尺度化した訳ではないことが明確になる。ここでいう尺度というのは、測量的なものではなく、要素的な分割しか行っていないものであるがゆえ、西欧の近代化はそれ自体がすでに達成されているという前提を疑うことが全くないのである。いや、むしろ見方によってはそのような見方をより強固なものにしようとしているようにさえ見える。

 ただ、ここで再度はっきりさせねばならないのは、やはり矢野の指摘というのが「富永の指摘」としてしか妥当でなく、「富永のヴェーバー読解」とは異なるということである。「富永のヴェーバー読解」は徹頭徹尾矢野が指摘した所のペンディクス・大塚の理解と同じということになる。

 また、富永的発想によると、やはり「近代化問題(2)」しか語っていないことがはっきりしてくるし、「近代化問題(1)」については、やはり単線的なものしか想定していないということになる。このような結論に至るのは単に欧米的近代を批判しているからという訳ではなく、実際の所は非西欧の「多数の道」が日本と同じような形に収斂した形で語られてしまっていることからもそう言えてしまうのである。このような見方をしてしまっては単線的なものを想定していると言われても反論のしようがない。

 

 以上のような検討を経た場合、箱根会議で批判されたような「アメリカ的近代化論」と「日本的近代化論」をどう考えることができるか。日本側の論理は「普遍性」そのものへの忌避でしかなく、アレルギー反応のような形でそれを拒否しているように見えなくもない。ここでいう「普遍性」というのは、すでに述べたように「近代化問題(1)」及び「近代化問題(2)」という位相の分け方が可能である。果たしてアメリカ側の主張がどちらに寄っていたのか(どちらの問題により関心があるのか)というのは評価しかねる所がある。また、富永的発想をそのままアメリカの主張という形で見た場合においても、これをそのまま「近代化問題(1)」に安易に収斂させるべきでもないように思う。少なくとも苅谷の認識だけに基づけば、日本側の論者は近代化における「数量化」そのものや、アメリカ的価値そのものの追随に対する批判というよりは、ほとんど富永の主張と同じような問題意識を持っていたようにさえ解釈できるからである。しかしこれは同時に「近代化問題(1)」を回避した議論になっていない可能性があり、大塚が指摘したようなアメリカ的〝modernization〟論の領域から日本の論者における議論も抜け出していない、ということも意味してしまっていることになる。この奇妙な矛盾について、どの前提設定が誤っているのか、あるいはどこに議論の掛け違いがあるのかについては今後のレビューでも検討していきたい所である。

 

 

 最後に富永は『ヴェーバーの動機問題』についてどう考えていたと言えるかをまとめたい。富永(1990)及び富永(1998)では「職業としての学問」に触れられておらず、このような問い自体に焦点化されていないというべきであるように思えるが、強いて分類するのであれば、私には中野敏男と同じように第二の立場にあたる『二重の専門性論』を前提にしていたように思えるのである。すでに確認したように、富永はヴェーバー自身は西欧しか近代化できないとし、非西欧は近代化ができないとみなしていた。

 他方で、しばしば取り上げられるプロ倫における「精神のない専門人」「心情のない享楽人」に対しては、その分析自体を批判的に取り扱っている(富永「マックス・ヴェーバータルコット・パーソンズ橋本努等編『マックス・ヴェーバーの新世紀』2000,p35)。富永はこの指摘について、ヴェーバーアメリカ訪問を行った20世紀初頭においても「実際には」禁欲的精神で仕事を行う者が数多くいたはずであるにも関わらずこの評価を行うことは「理由なきペニシズム」でしかなく、そもそも官僚制に高い意義を見出した支配社会学の観点からも矛盾するものとし、アメリカ的世俗化とされるものについても宗教性が失われる訳ではないというパーソンズヴェーバー批判と合わせて議論している(富永2000,p34-35)。この見解は『一見無意味に見えてしまう専門性への専心』か、『二重の専門性』かを議論する『ヴェーバーの動機問題』から言い換えてしまえば、富永自身がそもそもそのような二重性そのものの存在を認めようとせず、この問いに取り組もうとしていないことを意味する(基本的には第三の立場にあるというべきである)。だが、敢えて分類するとすれば、ヴェーバーアメリカの官僚制について「精神のない専門人」などと言うのであれば、それは自己矛盾であって、第二の立場である『二重の専門性論』に寄る可能性があることを批判していると考えていると見ていると言ってよい。少なくとも第一の立場でヴェーバーが議論していると考える余地はないのである。このような評価を行った場合には、基本的に第二の立場というのはこれまでヴェーバーの議論をそのまま支持する論者によって成り立っていることを前提とした点について、更に視点を広げることになるという意味もあろう。

 

※1 これはどちらかといえば大塚久雄についても同じように関心がもたれていたことではなかったかとも思う。しかし大塚久雄においても、箱根会議における日本側の社会学者についても、何故か「アメリ社会学」に独特の忌避をもち、それが一種の曲解に基づいていた可能性についてよく把握しておくべきだろう。

 

※2 ヴェーバーが日本の評価を行ったことについてはどう整理できるのか?これについて、富永1990では触れられていない。この点富永健一マックス・ヴェーバーとアジアの近代化」(1998)では日本を「比較的容易に資本主義を外からの完成品として受け取ることができた」としたヴェーバーの見解を参照している(富永1998,p33)。しかしこれは「制度としての資本主義」とされ「精神としての資本主義」とは区別される(同上、p34)。気になるのは、日本が「資本主義を外からの完成品として受け取る」ことが「近代化の受容」を行ったものとみなさないのは何故なのか、という点である。富永は明らかに自らの理論をヴェーバーから構築しているとするものの、ヴェーバー自身はアジアの近代化はやはり否定的であり(同上、p49)、「精神としての資本主義」をもてないと「近代化」がなされたとは言えないとみなしていた、という風に解釈していたとみるしかないだろう。パーソンズAGIL図式のような視点がヴェーバーになかった点も含めて、ヴェーバーの「近代化」に関する視点はそれほど明確でなかったという風に捉えているともいえる(cf.同上、p27)この不明確さがヴェーバーの問題点であり、その洗練化こそ富永の功績ということなのだろう。

 

<読書ノート>

P8-9「しかしその頃(※1960年代)、近代化論といわれるものが、日本で一部の人びとにイデオロギー的偏見をもたらしているらしい、ということが私には気がかりであった。私にはその偏見の正体はよくつかめなかったのであるが、察するに、近代化というのは資本主義化であって、つまりブルジョワ化を意味し、日本が近代化に成功したなどと強調することは「ブルジョワ的」でよくない、ということではなかったかと思う。すなわちそれは、資本主義化を主題とする「ブルジョワ的」な近代化理論から、その次に来るべき社会主義化を主題とする「プロレタリア的」な視点にすすむのでなければならない、と主張していたのであろうと思う。しかし、本書の考え方の枠組みからするならば、資本主義というのは近代(モダン)であり、社会主義というのはその近代のつぎにくるより高度の発展段階(ポストモダン)であるという固定観念は、誤っていたのである。」

※ここでの社会主義批判が「実態」をもとにしていることを肝に命ずるべきである。

P27「しかしながら、現代日本の現実を直視すれば、われわれにとっては近代化はすでに問題ではないとか、近代化をわれわれはすでに卒業したとか、そういうことはけっして言えないことが分かってくるはずである。とくに問題なのは、ポストモダン論が、「ポストモダン」の名のもとに、じつは「プリモダン」の価値の残存を肯定し、あるいは近代化は必ずしも伝統をこわすことなしに進行し得るとして伝統的要素の残存を擁護する傾向があることである。そのような傾向にたいしては、私は、そういう傾向が出てくること自体、近代化の課題がまだけっして終わっていないことを物語るものである、ということを強調したいと思う。」

 

P36-37「ハバーマスがそうしたように、西洋の近代化を合理化としてとらえるヴェーバーの視点を「普遍史的」立場に立っていると解するならば、彼の「ただ西洋においてのみテーゼ」は、合理化が西洋においてのみ起る「特殊西洋的」文化の産物として主張しているのではなく、やがて非西洋も近代化が進むとともにこれらの文化項目を共有するようになると彼は考えていた、ということになろう。しかし、ではそれはいかにしてそうなのか。そう問題を建てるとき、だれしもは思いつく答えは、非西洋諸国は単に西洋の真似をしてそれらのものを持つようになるのである、とすることであろう。近代化とは西洋化である、とのテーゼがここから引き出される。これを「西洋化テーゼ」と呼んでおくことにしよう。」

※注でハーバマスもヴェーバーは普遍主義的に解釈していた訳ではない、としている(p422)。

☆p38-39「では「西洋化テーゼ」のほうは、どうか。これもまた、現在の時点に立って考える時、それら非西洋諸国において現実になされてきたことを正しく説明するものとはいえない。なぜなら、ヴェーバーのあげたような個々の文化項目が西洋人にとって創始されたものであったことは事実であるが、それらを伝播をつうじて学びとった非西洋諸国は、それ以前にけっして文化的に真空であったわけではなかったからである。伝播をつうじての近代化というのは、けっして単にほんらい無であったところに西洋近代がはいってきたといった単純なものではなかった。すなわちそれは、けっして単に模倣すればすむといったものではなくて、西洋文化に接しながら自国の伝統文化について深く考え、西洋文化を拒否するのではなく、さりとて伝統文化を単に棄てるのでもなくて、両者をいわば掛け合わせて、自国の伝統文化をつくりかえていこうとする運動であった。これはそれ自体すでに一つの創造的な行為である。しかも後述するように、この掛け合わせの過程は、その途上で両者のあいだに多くの深刻なコンフリクトを発生させやすく、それらにコンフリクトを解決することなしには成功しがたい。

 約言すれば、非西洋諸国が近代化に成功するとは、彼等が自分たちの伝統的文化を西洋文化と比較し、そのすぐれている点を選択的に学びとり、その学びとったものを自分たちの伝統文化と掛け合わせてこれをつくりかえるとともに、両者のあいだに生じたコンフリクトを処理していくという、創造的な行為である。日本の近代化は、まさにそのようなものの一つであったし、現在アジアNICs諸社会において進行しつつある近代化もまた、そのようなものであると考えられよう。

 かくして本書においては、非西洋諸国の近代化は、西洋近代からの文化伝播に始まる、自国の伝統文化のつくりかえの過程として、とらえられる。」

 

P40近代化の諸領域を「経済的近代化・政治的近代化・社会的近代化・文化的近代化」と捉える

パーソンズAGIL図式の発想である。

☆p55「資本主義の経済システムの中核は、市場と組織とにもとめられる。社会主義(共産主義)は、市場システムを否定することによって資本主義を超える価値理念をつくりだそうとしたが、戦後世界の現実のなかで、ついに真に経済的近代化を実現することができず、資本主義との競争に敗退してしまった。これからの社会主義は、市場経済をとりいれたものとなっていくほかないであろうから、資本主義と社会主義との関係は連続的なものとなり、両者の区別はカテゴリカルなものではなくなっていくであろう。そこで、資本主義の精神のほかに社会主義の精神を対置する必要はもはやない、とここでは考えておきたい。すなわち、ここでいう資本主義の精神は、経済的近代化を追求するものであるかぎりでの社会主義の精神をも、包含するものである。」

※他方で、ここでいう社会主義的思考は資本主義との批判的対比のなかでつねに想像される可能性が与えられている点は留意すべきである。

 

P72-73「テンニェスとちがってマックス・ヴェーバーは、西ヨーロッパ以外の社会についてたえず注意を払い、東洋学者の研究業績をとりこんで『儒教道教』や『ヒンドゥー教と仏教』を書いた。これらの著作がその一部をなすヴェーバーの膨大な『宗教社会学論文集』は、「行為の実践的機動力」をあたえるものとしての宗教倫理が人間の社会的行為、とりわけその一形態としての経済的行為をどのように規定しているかという問題を主題としていた。そしてその経済的行為の最も合理化された形態が資本主義であり、また資本主義は合理化された法、合理化された支配の様式すなわち近代官僚制、合理化された知識すなわち科学・技術、合理化された芸術等々とともに、近代化された社会の構成諸要素をなしているということが彼の着眼であったことを考えれば、ヴェーバーの宗教社会学や経済社会学法社会学や支配の社会学などの全体が、やはり第二局面における「近代化理論」の中に位置づけられると考えることは自然であろう。そしてこのように考えた場合の「近代化理論」の中味は、ヴェーバーにおいてはテンニェスのそれよりもはるかに広汎なものになることはいうまでもない。また上述のように西洋社会との対比においてたえず東洋社会に目をむけていたヴェーバーは、彼が西洋社会の歴史的事実から引き出した社会のさまざまな側面での合理化の進行に関する諸命題を、西洋とは初期条件を異にする対象である東洋社会に適用するという試みを、くりかえし行なっていたのであった。けれども、そのような試みから得られたヴェーバーの結論というのは結局、前章において言及した一連の「ただ西洋においてのみ」命題に帰着するのであった。すなわち、ヴェーバーにとって、近代化テーゼは非西洋社会にまで一般化することのできない、西洋においてのみ固有のものだったのである。そしてじっさい、ヴェーバーが述べたように、西洋社会以外の社会で近代の科学技術や専門人や資本主義や官僚制的組織を自主的に生み出した国はなく、またそれらを自主的にではないが文化伝播をつうじて土着化させることに成功した日本は、ヴェーバーの時代にはまだ産業化のほんの初期段階にあったにすぎなかった。」

※この言明はどう捉えるべきか。この前段でポパーのテンニース理解を引き合いに出し、ここでの近代化は「理論」としての確からしさを確認する行為として位置づけている(p72)。とすればやはり普遍則としての近代化を議論したものとして位置づけていると言えるか。対してテンニースは近代ヨーロッパで起こった記述に留まっていたという批判がされる。しかし、ヴェーバーはこの普遍化が適用不可であることを示しているとする。

 

P75「戦後における日本の近代化のやり直しの過程のなかで、大塚久雄丸山真男川島武宜は、のちに近代化論と一般に総称されるようになった諸論考によって、広範な読者を得た。」

※大塚は「近代化の人間的基礎」、丸山は「超国家主義の論理と心理」、川島は日本社会の家族的構成」が紹介される。

P76-77アメリカ60年代の近代化論は「普遍的概念」として近代化論を考え、それがいかにあてはめられるかに関心が寄せられた

※ただ説明は雑である。ヴェーバーアメリカの近代化に関心がなかったことを前提に議論している節がある(p80)。近代化は西ヨーロッパ固有のものと捉えられていたとしている。そして後発の近代化論を含めて「西洋諸社会と非西洋諸社会とでは、近代化の途上において直面する問題の性質が異なるという点への、適切な配慮を欠いていた」とする(p104)。この中で非西洋後発諸社会の近代化成功の事実としての日本が注目され、その原因究明に関心を向ける(p105)。「日本の近代化の歴史過程を近代化理論のなかにくり入れるという試みは、日本人自身がやらなければならない課題」とさえ言う(p107)。合わせて、この動きは「日本的特殊性テーゼ」も批判している(p108)。

 

P167-168「民主主義は百パーセント西洋起源の概念である。この語は、東洋には、近代以降に西洋からの文化伝播によってそれが輸入されるまで、概念自体として存在していなかった。したがって当然、日本の伝統社会の中にもそのような概念はなく、しかもそれが西洋から輸入されてからも、第二次世界大戦終結以前には、その訳語さえもまだ一定していなかったほど、この概念の伝播は遅かった。」

☆p169「資本主義と同じく、民主主義が近代に固有のものであるということは、上記のようにここでの中心論点である。」

P172「日本における歴史の事実の経過を見ると、政治的行為の領域における近代的価値は、経済的行為の領域における近代的価値に比して伝播可能性が低く、またそれを受け入れようとする動機づけも強くなかった、という事実に気づく。それゆえ、非西洋後発社会においては、経済的行為の領域における近代的価値すなわち産業主義にくらべて、政治的行為の領域における近代的価値すなわち民主主義は受容されにくい、という仮説命題が立てられ得るように思われる。」

※理由として「上からの民主化」はそもそも原則としてありえないこと、政治行為の領域は経済的行為の領域と比べ狭義の文化にかかわり伝統に拘束され抵抗を生みやすい、成果指標が難しいことを挙げる(p173)

 

P205-206「すなわち、福沢は象山の「東洋の道徳」とはまさに反対に、「西洋の道徳」に着目したのである。福沢の見るところによれば、日本人は象山のように西洋人が物質面の豊かさを実現した側面、すなわち洋服や鉄橋や器械等々にばかり目を奪われ、西洋文明の重要な特性は智徳の水準を高めたことにこそある、という側面に気づかない。前者は文明の外形にすぎず、重要なのは後者すなわち文明の精神である。文明の進歩とは、この精神、すなわち福沢の言葉を用いれば「智徳」の水準を高めることであり、西洋の文明はまさにそれを実現したのである。」

※この西洋理解は象山よりはるかに深いとし評価する(p206)。

P225-226「伝統主義の価値体系が敗戦とともに崩壊したので、経済的領域のみならず、政治的領域でも、社会的―文化的領域でも、西洋的価値のストレートな伝播を妨げるものは何もなくなった。そこで、明治初期の「欧化熱」に匹敵するような「アメリカニゼーション熱」が広まった。これには行き過ぎもあったとはいえ、戦争に敗れた日本の文化に比して、戦争に勝った西洋先進諸国、とりわけアメリカの文化の優越性は明らかであったから、これは当面必要なことであると国民の大部分は感じていた。……それどころか、アメリカの経済力と並んで、アメリカの民主主義とアメリカ的な自由・平等と合理主義こそが、正当化の中心を形成した。すべての領域において、日本の伝統的価値はすでに正当性を奪われていたから、アメリカ的価値の受容がそれらとコンフリクトを生ずる可能性はもはやなかった。こうして、西洋先進諸国からの価値体系の伝播に関して、その伝播可能性、それを受容しようとする動機づけ、およびその受容にともなう国内的コンフリクトの克服可能性は、いずれも高まった。」

※実際のところ、「西洋的価値のストレートな伝播」とは何だったのか?また、富永も単線的近代化論を支持していないように思えるが、どういう立場なのか?そもそも、「日本の伝統的価値はすでに正当性を奪われていた」という見方は正しくない。むしろそのような価値も包摂的なアメリカ的価値が支持されたのではないのか?

 

P233「もう一つの重要な変化は、日本人の価値体系の中における経済の位置づけという観点から見るとき、高度経済成長を契機として、経済的価値が政治的価値や社会的―文化的価値よりも上位に躍り出たと思われることである。すなわち戦後の日本人は、経済的欲望がとほうもなく肥大しただけでなく、企業および企業家の社会的地位が上がって、人材が経済的領域に集中するようになった。……一九七〇年代には、日本人のことを「エコノミック・アニマル」と呼ぶことが世界的に流行した。」

※これは海外での流行だったのか?

P233-234「このような経済的利益第一主義――この場合の経済的利益は生産者の利益であって消費者の利益でないということが重要であるーーの価値は、かつての日本人の伝統的価値と、整合的に接合し得るとは思われない。日本人の価値基準は、変化したのである。」

※これは「日本人論=大衆論」を大前提としている点で問題であるように思える。

 

☆p253-254「これらのうち、家の解体や自然村の解体はモダンであるが、「新中間大衆時代」の到来はすでにモダンをとおりこしてポストモダンであるといってもよい。しかし、それらの新中間大衆の内部には、なお「日本的経営」――しだいに解体しつつあるあるとはいえーーにおける集団主義や、その他流通機構の非近代性や、旧中間層の分解を阻止しようとする「大規模小売店舗法」規制など、多くのプリモダンの要素の残存がある。だからわれわれは、日本の戦後社会の社会構造のなかにもまた、経済的領域および政治的領域におけると同様に、プリモダンとモダンとポストモダンの三重構造が存在している、といい得るであろう。」

※ここでいうポストモダンは、あくまでも家制度崩壊「のあと」を指し、モダンはその過程として捉えられている。しかし、この理解は正しくない。ポストモダンについて富永の理解を列挙すれば、「支持政党なし」層の増加(p245)、日本経済(p236)、近年の流行(p338)という指摘にとどまる。もっと言えば、三重構造という理解についても正しくない。この指摘はただ「理念型は実態ではない」という事実の言い換え以上の価値が与えられているように見えない。これに価値が与えられる条件とは、ヴェーバー的議論を「実態」として捉えていること、「近代=西洋の実態」であることを確信している場合か、「近代=普遍的規範」であるとされる場合である。

 

P265「日本の家ゲマインシャフトを何か非常に特殊なもののように考え、そして日本社会は未来永劫にわたって「家社会」でありつづけるかのように考えることは、誤りである。西洋との比較において、日本社会に「家」的要素の残存があるのは事実であるが、それは先に社会的近代化が進んだ西洋と、遅れて近代化に出発しただけでなく、社会的近代化が他の諸領域よりもとりわけ遅れている日本とを、ただ平面的に並べて見た結果であるにすぎず、歴史的な立体性をもった見方であるとはいえない。」

※ここでいう立体化の先にあるのは普遍的文明観であることは間違いない。しかし、すべての変化を収斂するものと考えるのもまた明らかにおかしいだろう。