滝沢克己「日本人の精神構造」(1973)

 今回は前々回から折原浩の議論を理解する上で取り上げるべき人物としていた滝沢克己の著書を取り上げたい。両者は年齢的にも大きな隔たりがあるが、大学紛争時代にはそれなりに深い交友関係があったようである(cf.折原浩「東京大学 近代知性の病像」1973,p439)。滝沢の著書は本書と合わせて折原が参照していた「人間の「原点」とは何か」(1970)を読んだが、本書をレビューしたのは端的に「具体的」な内容だったからである。しかしこの「具体的」な内容をウェーバーと連結した場合には、私に言わせれば矛盾した内容となるようにしか思えてならない。

 

 シンプルな例示をしてしまえば、折原が「腰を据える」とした「人間存在の原点」について、「神-人の不可分・不可同・不可逆の原関係」であるという言及があった(折原「マックス・ヴェーバーとアジア」2010,p175-176)。一方滝沢によればこの「不可分・不可同・不可逆」であることとは、「弁証法的」であることと、文字通り同義のものとして扱われる(滝沢1970,p229-230及び本書p104,p120)。しかし、このヘーゲル的な「止揚」の世界観は、ヴェーバーにとっては非難されるべきものではなかったのか、という点で矛盾している。これは今後のレビューでも言及していくつもりだが、古くはカール・レーヴィットによってもウェーバーと「止揚」の関連性については次のように述べられている。マルクスが「止揚」に向かったのに対して、ヴェーバーは「止揚」とは異なる形で主体に関する問題を議論しているとする。

 

「矛盾そのもの積極的な生産性をこのように決定的に肯定しているという点で、ウェーバーマルクスは極端に対立する。マルクス市民社会の《矛盾》を原理的に止揚せんとした。その点では彼は誰にも負けずヘーゲリアンであった。もっともマルクスは、ヘーゲルのように絶対的組織としての国家のなかで市民社会を保存することによってではなく、まったく対立のない社会のなかで市民社会を完全に除去することによって矛盾を止揚せんとした、というちがいはあるが。これに対して、合理化された世界を承認することによって生ずる矛盾を、これと対抗する自己責任の自由への努力によってたえず克服しつづけること、これがウェーバーの態度全体を貫く原動力であった。

 この根本的矛盾の直接人間的な表現は、人間の内部における全人と専門人との矛盾である。したがって、合理性と自由の統一は、人間ウェーバーが専門人たる自己に対してとった特異の態度のなかにもっとも深刻な形で示されている。そしてここでも、彼の専門的関心の統一と分散に対応するものは、人間的矛盾の統一である。ウェーバーはいかなるときでも自分を全体として示したことはなく、つねに特定領域の成員としてのみ――何かきまった役割において、また何かきまった人間としてのみ――自分を示した……《論文においては経済的個別科学者として、教壇に立っては大学教授として、演壇にのぼっては政党人として、内輪のグループに入っては宗教的人間として》。しかしこのように生活領域を分立させること――その理論的表現が《価値自由》である――にこそ、じつはウェーバーそのひとの個性が、その全体の特質においてあらわされている。ここでもウェーバーにとっての問題は、――マルクスの場合のように、――合理化された世界の特殊的人間性、つまり専門人たることを、分業と同様いかにして止揚しうるかということではなく、不可避的に《分割化せる》人間性の只中において、なおかつ人間そのものが個人の自己責任への自由を全体において保持することがどうしたらできるか、ということである。ここでもウェーバーは、この、マルクスのいう人間の自己疎外を、実は肯定している。むろん、それは、この存在形態が最大限の《活動の自由》を彼に許したり与えたりしたからでなく、それを彼に押しつけたからである。《精神なき専門人と感性のない享楽人》とからなる、この専門化され訓練された世界の只中で、情熱的な否定力をもって、或いはここ、或いはかしことはたらきかけ、そのつど何らかの《隷従》の殻を突き破ろうとする――これが《活動の自由》の意味であった。」(カール・レーヴィットウェーバーマルクス」1932=1966、p68-69」

 

 また、滝沢の思想とヴェーバーの思想で明らかに異なるのは、滝沢の思想は明らかに「反近代」ないし「非近代」の発想によって語られている点である。折原も含めヴェーバー論者というのは総じて「近代」志向であること自体に否定的になることがない。「近代」の問題点を語ることはもちろんあるし、「近代」の問題点を語ろうとしないヴェーバー論者を批判するのもヴェーバー論者の特徴の一つと言えるかもしれないが、「近代」を志向すること自体は否定しないことがヴェーバーの趣旨であると解しているのである。ところが滝沢はこの近代原理として最重要なものとなるはずの個人主義、もっと極端には民主主義そのものについて否定を行っているのである(p154-155、p341-342など)。この否定は「不徹底」について批判を行っているのであればヴェーバー的な議論にもなるかもしれないが、そうではないのである。滝沢は文字通りそれを不要のものであるとみなしている。

 

○日本人論が「欺瞞」となる可能性について

 本書については、70年代に流行した日本人論の流れも汲みつつも、発想としては西田幾多郎に着眼がある意味で「近代の超克論」に近いような論述を行っている。しかし、すでに「近代の超克論」については菅原潤や「国体の本義」のレビューを行った際に確認したように、30年代後半の「近代の超克論」は、むしろ近代の延長線上にある議論であり、その意味ではヴェーバー的な側面もあったのである。ところが滝沢の場合はそのような議論とは異なる「反近代」の議論を行うが故に、どちらかといえば1940年代に入り言説として主流となった「日本礼賛」にコミットした議論と親和性が高い。特に本書では進歩的文化人のような「野蛮さ」としての日本人論にNOを突きつけ(これはそのまま講座派マルクス主義の近代観に対する批判でもある)、むしろ日本的な美点として捉え返すと共に、それが太古から日本に存在する不動の価値観となっていることを強調する(p136-137,p208)。ただ、私にはこれが百歩譲っても近代を捨てて古い日本的なものに逆行せよと言っているようにしか見えない。ウェーバー的な議論とは異なり、滝沢の場合は近代の問題の解決を近代を捨てることによってしかなされないため、それを支持するのはそれで結構であるが、佐藤俊樹のいうようにそれが価値観の著しい飛躍(現在生きている社会の前提条件の多大なる無視)を含んでいるために、得られるもの以上に、失っているものの方が(実際には)はるかに大きいようにしか私には見えないのである。

 そしてよりしっかり検討しなければならないのは、滝沢がその議論の背景としている西田幾多郎の議論について、果たしてそれが歴史的な意味で「日本的」と評すに値するものなのかという点である。明治以降日本の近代化論の系譜においては、飛躍した形で日本を語る論者が後を絶たない(そしてその飛躍によって日本人論が形成されてきたという逆説的な議論が成り立ってしまう)。それはむしろ「西洋」に対する過剰な反応として現状維持的な目的をもって「日本」を見ているに過ぎないのではないのか、という疑問が絶えない。それはまさに欺瞞的に日本人論を語る態度にほかならないのである。この点については今後検証する余裕があれば行いたい所である。

 

○「止揚された世界において『悪』が消滅されるとみなすこと」のナンセンスさについて

 さて、本書で滝沢は「止揚」された世界についての具体的な記述を行っている(p190以降)。民主主義が否定された世界においては私利私欲が捨てられることになる(cf.p194)。文字通り「滅私」の世界の果てに滝沢のいう「止揚」された世界像がある。この世界は文字通り全ての人が善人となり成立している世界であるから、だれがどのような役職に就こうが予定調和的にそれが成立してしまうのである(p198)。このような世界観というのは、能力主義批判がさかんだった時代にはそれなりに主張されていたものでもあるが、「近代的」な目線からからすればただただ「専門性」の著しい軽視にしかならない(誰にでもできる仕事に「専門性」は存在しないのではないのか?)し、いくら「善人」の集まりの世界が完成しようとも、それは「専門性」の欠落した世界でしか成立しえないだろう。

 また、このような滅私的世界は「善人」の集まりであることとセットとなることで(これが文字通り「止揚」されることで成り立つのであるが)有効に作動するというのは感覚的には理解できる。しかし、現実的に物事を考える人であれば、このような「善人」だけの世界がいかに非現実的かよくわかるだろう。百歩譲ったとしても、このような善人の世界はかなり極端な・強制的な「選民」を行った上で「悪人」を駆逐しなければ成立しない世界だろう。しかし私などはこのような強制的手段を行って「止揚」を試みようとしても、「悪人」は常に量産され続けるものであり、そのような世界の下では「滅私」であることは、戦中日本の「滅私奉公」としてしか機能しないのではないのか、そしてそれは結局滝沢的発想に立つこと自体が「滅私奉公」という「善人が都合よく使われる」ことに終始することで終わるしかないのではないのか、としか思えないのである。滝沢は何故このような世界を恥じらいもなく語ることができるのか不思議でしょうがないと私などは思うのである。これは「信念」でどうにかなる以前の問題であると思う。

 

 本書の滝沢のスタンスは若干特殊な所も認められる。例えば、滝沢が認めてきた「日本的」なるものの良さというのは、別の(そして本書よりも古い)著書では、「日本的」なものを過去のもととみなしつつ「距離」をとる形で語られていた。この「距離」というのは他方で「西洋的」なものと「日本的」なものの優劣をつける議論について一定の留保を与えるようにも機能しており、「現在」と「過去」の西洋・日本を切り分ける作業を行うことによってどちらの立場も尊重しうる議論を行っていたはずだ(そもそも滝沢はキリスト教にも「不可分・不可同・不可逆」な関係を認めている)。例えば私が読んだ他の滝沢の著書では、「民主主義」の批判についても、基本的には「戦後民主主義」に対する批判を行っているに過ぎず(滝沢1970、p229-230)、それを民主主義そのものの批判としては展開しているとは必ずしも言えなかった。

 しかし、本書においてはそれが少々逸脱しているのである。P208の言い方は過去と現在を結びつけてしまっているし、「滅私思想」を完成させた理想世界の記述に関しても他の著書と比較して飛躍が著しいと評価できるように思える(その意味で本書は滝沢の著書の中でも「異端である」と言う論者もいるのやもしれない)。

 

 思うに折原自身も滝沢の思想の先にこのような世界観が存在する(または、しうる)ことを十分には自覚してかったのではないかと思う(※1)。だからこそ無自覚に(素朴に)滝沢の言説を信用していたのだと思う。しかし、このような滝沢の「止揚」された世界に関する記述などは、典型的な「反近代」言説の成れの果てであり、それはあまりにも楽観的であり、その楽観さがむしろそこで想定されない「権力」に容易に絡めとられる運命しかないのではないかと思う。この運命が「日本人論」的思考の成れの果てだと言われるととても悲しい。だからこそこのような思考が「日本的」であると考えたくないと私は思っている節もあるように思う。

 

※1 もっとも近年の折原においては、滝沢の思想に対して「経験科学的な状況論がない」のではないのか、という疑問を表明しており、一種の違和感があることを認めている(hkorihara.com/zuisou3.htm)。

 

<読書ノート>

P44「日本人は太古以来、この世界の内部のどこか、何かに、その生の究極の根拠・絶対的基準を置こうとはしなかった」

※西洋的な神と比較して、「「人間」もしくは「人間性」の信徒だというところに、最も厳密かつ微妙な意味で、「日本人」の「日本人」たる所以のものがあるのである。」(p24)

「この世界のどこにも絶対的な中心あるいは基準を置かないことこそ日本人本来の気風である」(p48)

P58「そのとき、他の人々がこの真心に応えて各々その分を尽すことは、まさに人心の本来自然である。」

 

☆p79「こうして、「富国強兵」というスローガンのもとに、日本の資本主義経済は急速に発展した。そのための「教育」は普及し、「大学」もまた創設せられた。しかしそれによって、日本は辛うじて、一応列強による分割ないし植民地化を免れはしたが、それと同時に、西洋近代の自己欺瞞、無意識の偽善とあからさまな歪みは、もろに西洋のそれに幾重にも輪をかけて、日本のもの、日本人のものとなった。なぜなら、西洋近代の市民的自由主義は、少なくともその古典的な時期ないしはそこに至る過程において、いっさいの既成の権威・人為的偏見を去って、事実そのものに問い、これと対決・格闘することをとおして、人間共同の新しい生活・社会を打ち立てる意欲に燃えていた。……ところが、日本ではその反対に、その出来上った成果だけを、最小の労力で早急にわがものとすることによって、「先進列強」のあいだに、「独立国」としての地位と名目を保つことが、その公の指導者たちの、ほとんど唯一の関心ごとだったからである。」

※おなじみの言説。そしてこれは止揚言説を前提とする文明論者のにとっては自然なことである。

P82「第二に、それにもかかわらずかれらはいずれも、いわゆる「進歩的文化人」のように、ただ嬉々として西洋の「文明開化」に追随しようとはしなかった。」

 

P100「しかしながら、「絶対矛盾的自己同一」とかれの言い表わした根源的な一点には、もともと、「主観と客観」という近代哲学の図式によってはいうまでもなく、「一般概念と個物」、「空間と時間」、「直観と行為」、「物質と精神」等、西洋伝来の論理と概念だけではどうしても言い表わすことのできない、重大な関係・契機が含まれていた。」

※このような言い方からは「近代の超克」はもはや非近代となっているのは明らか。そしてこの「非」の性質は、観念論的であること一点に集約されることになる。

P103「いいかえると、人が成り立つのはそもそも、人ではない神の決定そのものを、神ではない人であるかぎりで、この世界のただなかに表現するべく成り立つのである。意識的にせよ「無意識的」にせよ人間の自己決定の背後――これを自己の前に置いて見ることの絶対不可能な背後――には、直ちに、神の決定=決定する神そのものが立っている。この意味では、その大いなる決定をといにしえの、神自身の、この世界のただなかにおける自己表現、人の思いの最も暗い隅々にまでも貫徹するかの決定の支配の外には、いかなる人の生活も、事実上一瞬も起こっていないし、また起こりえないということである。」

※「絶対的主体と人間的主体、かんたんにいって真実の神と人との関係は、絶対に不可逆的である。」(p102)というが、ここで定義される「神」が不在であることが問題である。

 

P104「弁証法的(絶対に不可分・不可同・不可逆的)関係」という表現

P107-108「人間の神聖は、人間にとって、それ自身無条件の単純な事実であると同時に、絶対にそれから身をかわすことを許されない厳格な命令なのである。そこに、人の人としての生の、失われることも奪われることも絶対に不可能な根基があり、原動力が秘められている。それとも知らず、これ無視して立とう伸びようとあうる意志のなかに、私たち人間がいつもくりかえして、そのじつはそこから派生してきたもろもろの宝をその生の第一の基礎・究極の目的と錯覚して、虚しい淵へと迷い出る源が潜んでいる。キリスト教や仏教をはじめ、いわゆる「世界的宗教」にその著しい例を見るように、私たち人間の最も「徹底」した「根源的」自覚さえ、それが生起するや否や、たちまちこの眼に見えぬ虚栄のからくりに巻き込まれる危険を免れない。しかし、そのために現実の人生・歴史がいかに醜く恐るべきものとなっても、そのことによって、かの人間の神聖の事実は微動もしない。かえってただ単純にこれを受けて新しく生きること、かの恐るべき傾きと闘うことを罪深い私たちすべての者に呼びかけてやまない。そこに、そしてただそこにのみ、弱く愚かな私たち人間に日ごと新しく恵まれてくる信と愛と希望の、真実確かな根拠があるのである。

 しかしながら、私たちがこの大いなる生命の真理を、それとして明らかに自覚するということはむろん、人間の生活・歴史の現実のすがたが、そのつどいかなるすがた・かたちをなしているかを、この自覚から引き出せるということではない。なぜなら、人間の事実的存在そのものがすでに人間の自覚の結果ではないのみならず、人間がかの神聖な決定の事実・要求に対してどう答えるかは、いつも新しく、その人自身の自由に委ねられているからである。人間存在の根源的構造を、その成立の基点において明確に把握するところの、根源的・原理的な認識そのものが、一々の人の現実・歴史のすがたはただそのつどこれを知覚的にーーこの眼をもって見、この手をもって触れることによってーー確認するほかはないことを、はっきりと示すのである。」

 

P119「世界の内部に現われてくる基本的関係における根源的本質規定と歴史的現実形態の弁証法的関係の把握は、ただ人間成立の根底に横たわる絶対主義即客体的主体、人間の根源的本質規定即人間の歴史的現実形態という唯一絶対の弁証法的関係の把握をとおしてのみ可能なかぎり、それもまた避けがたい成りゆきだったといわなくてはならないであろう。」

※これは何を指すのか?

P120「一人の人が実際に成立するのは、つねに真にそれ自身で在りかつ生きている創造的な主体とのあいだの、絶対に弁証法的(不可分・不可同・不可逆的)な関係において、人間に即していうと全人類的な基盤・使命においてである。」

P121-122「真に全人類・全人生を統一・整序・育成するものは、人間的主体成立の唯一・共通の基盤もしくは根源そのもの=人間的自由がただその似像・映しとして、それによりそれにおいて始めて成り立つところの、かの隠れたる主体のほか、この世界の内部のいかなる国、いかなる人にもありえない。」

 

P128-129「ただ、私たち人間が生命の光をみずからの内に所有する真実の主体であるかのごとく自惚れるかぎり、私たち人間の存在の場は私たち自身にとって、事実絶対に避けがたく、すべての望みを虚しくするたんなる死の淵に転化せざるをえない。そのとき、私たちはいかにもがいても、その闇の外に出ることはできない。行動も理論も、宗教も革命も、結局はただこの闇を自他の眼に蔽い隠して、かりそめの夢を貪る手だて、この夢を破ろうとするあらゆるものを見さかいなしに非難、嘲笑、抹殺する狂熱に転化するほかはない。「神」、「人間」、「理性」、「感性」、「祖国」、「人民」等々、ありとあらゆる美しい名による欺瞞と暴力、それが人類終局の運命ではないのであろうか」

P136-137「この不可見の、脚下の故郷、永遠に至る処に現在する生命の基盤に立ち還ることによって、かれは自分でも思いがけなく、太古以来「言挙げ」を忌む日本人の生き方、ものの考え方に、一つの必然的な根拠――たしかにその風土的・地理的諸条件に助けられてではあるが、けっしてそれに還元することのできない大いなる理由――のあることを発見した。なるほど日本の祖先たちは、この隠れたる根拠・理由を、それとしてことさらに言い表わすことをしなかった。ましてそこから、西洋人のするように、永遠と時、神と人、人と自然、自分と他人、個人と社会、感覚と理性、存在と思惟等々の問題を、客観的・論理的に説き明かそうとは企てなかった。しかしこのことはけっして明治以来の、「自由主義的・進歩的文化人」らがそう断定するように、日本古来の生き方、ものの考え方がただたんに未開とか野蛮だとかいうことではない。いなむしろそこには、従来の西洋人に一般的な生き方・考え方にはすでに欠落してしまっているけれども、事実存在する人生・社会にとって決定的に大切なある感覚が生きてきた。――そういってよいもの・いわなくてはならないものもまた含まれているのではないか。」

※彼とは、西田のことを指している。逆説的だが、西洋がそれほど二項図式的でなければ、「二項図式的」に固執しているのは、むしろ滝沢の方ではないのか、という議論が成り立ちうる。そしてここで強調される「日本的」という言葉は、いわば本来実体がないはずのものを無理やり実体化させるために用いられるレトリックとして語られていることになる。まさに日本人論の虚構性を体現しているかのような用い方である。

 

P142-143「大正から昭和にかけての帝国主義的反動化が、その荒廃の規模だけを大きくして急速に進行しつつある現在、私たちは、日本の国家にかんする右のような倒錯を、いかに警戒しても警戒し過ぎるということはないであろう。その表現が倒錯した権力に利用せられ、一般国民の錯覚を促す機会となるものをそれ自身のうちに含んでいたかぎり、真ッ先に筆者自身を含めて、潔くその責任を取らなくてはならないであろう。しかしながら、もしもそこに、イザヤ・ベンダサンのいうように、西洋、なかにもその近代の知性からはどうしても理解できないもの、その意味ではまったく「非合理的」であるにもかかわらず、人間存在の事実ないしは事理そのものの一表現として、ただたんにこれを切り棄てることを許されない大切な真理契機が含まれているとしたらどうであろうか。もしそのようなことがあるとすると、こんにちこれをもっぱら、帝国主義的国家権力への迎合、歴史的事実を歪曲する詭弁と断罪して葬り去ろうとする学者・政治家たちの言動は、事実はかえってかれらの主観的意図とは逆に、その切り棄てられた真理契機を盾にとって、そのようなかれらの企てを排撃・粉砕しようとする熱情を掻き立てることとなるであろう。……そうして、その結果は、第二次大戦のそれと始め日本そのもの、ひいては世界そのものの決定的破滅であろう。」

 

P154-155「なぜなら、その芯に、真実根源的に人間・世界を統べるものへの共同の志向を欠く「国際連盟」や「国際連合」が不可避的に、ついには破滅的な戦争にまで立ち至る権謀術数、盲目的な私心満ちた癒着と分裂の場に転化するように、同じ根源的志向を欠く「人間主義・民主主義」が、小は大学の教授会・評議会、一地方の裁判所から大は国会そのものに至るまで、惨澹たる退廃を結果することは、こんにち私たちが眼前にこれを見るとおりだからである。

 これに反して、私たちに真に全人生・全世界を統べるものを、人間的主体そのものの成立の根抵に宿る絶対矛盾的自己同一的関係(厳密には「創造的世界の創造的要素として人間的主体を成立せしめる当のもの」)において発見するとき、私たちは始めて、近代の人生・社会における右のような分極が人間の歴史に生起してきた必然的・合理的な根拠と、それにもかかわらずその分極が至るところで相補的な調和を欠いて、果てしのない分裂と野合、恣意的・非合理的な抑圧・管理とそれに対する激烈な抵抗・反撃を惹き起こさざるをえなかった理由を、――一言でいうと近代の人生・社会の、深く隠れた積極面と消極面を、はっきりと理解することができる。すなわち、歴史のなかに現われてきたいっさいの業績と所有、習慣と秩序に先立って、人間はそもそもの成り立ちの太初に、そして最後の最後まで無条件に、「創造的世界の創造的要素」、「絶対矛盾的自己同一世界の個物的契機」として、真にそれじたいで在る創造的主体ではない一個の物=客体にすぎないにもかかわらずどこまでも創造的主体的に活動すべく、定められている。」

※このようにして弁証法的関係の必要性をというものの、結局はその主張は消去法的に語られているに過ぎず、弁証法的関係の妥当性を何ら語ろうとしないのが問題である。私見によれば、この主張は、既存の権力関係の「看破」によってなされるものだと解釈されているように思われる(折原に限れば、その態度に留まるのは明白である)が、かの看破は「真に全世界を統べる」ことからは(著しく)飛躍した距離を持っていると言える。もっと言えば、この手の議論では決まって「看破」の不十分さが糾弾されるのだが、これもまた正しいとは言い難い。「看破すること」と「社会を変える」ことにも著しい飛躍があるからだ(ここにも権力関係が介在することで「看破」を無効化してしまう)。もっと言えば、ここでの糾弾もろくな理由づけがなされることなく、「帝国主義的」という言葉で片付けてしまっている。合わせて、このような形で「創造性」が語られていることにも注目せねばならない。どうやらこれは西田の「日本文化の問題」の中でも取り上げられているようである。

 

P156-157「それゆえ私たちは、第二次大戦の愚を繰り返して全人類の破滅に至らぬためには、ぜひとも近代市民的な自由主義、民主主義の「良識」に抗して、日常の「私生活」の隅々までも含めて各自の人生全体を統べる威力あるもの、すべての人、すべての国がまず第一に、そして最後の最後までただひたすらに、それに仕えるべき一つの故郷――互いの心の奥の通ずることを実際に可能ならしむる共通のことばーーを尋ね求めなくてはならない。真実にこれを見いだすとき、そこにはたしかに、全人類・全世界に対して妥当する一つの形が、歴史的・現実的な一つの態勢ないし体制が、生まれるであろう。しかし、その「体制」は、過去・現在・未来を問わず、いかに強大な国も、ただ「わが国だけの所有」としてこれを私することを許されぬものーーそのように自負する瞬間、その国にとって逆に極度の禍となるほかないようなものーーであるであろう。」

※このような主張と戦中の近代の超克論による帝国主義の正当化の区別はつけられないのではなかろうか。このようなレトリックによる主張はそれが観念論的であるがゆえに、常に志向に反することが実際になされることを了解してしまっている。そして、「新しい体制の誕生」にあまりにも楽観的すぎる。この楽観さと自己否定(ないしは他者批判)が二重基準ではないのかという疑問が拭えない。しかし滝沢は「止揚」によりこれを乗り越えてしまう。

 

P179「むしろただ人々が、ものものしく日本の古道を語り、世界の革命を絶叫しながら、そのじつはただ単純に明るく軽やかな遠い祖先の感覚を喪失し、徹底的に即時的な科学の道を逸脱して、われ知らず近代主義の空洞に落ち込んでいるからにすぎない。ほかならぬ自己成立の根底を無視し、そこに臨在する根源的な、全人類に共通な、限界=基盤に背いて、真実の主であろう、世界を秩序づけようと、不可能な夢を見ているから、ただそれだから、一方、日本の古道とそれにしたがって成り出でた形はすべて「近代以前」無知蒙昧の所産と見えるとともに、他方、現存の資本主義体制の革命を目指す働きは頭から、わが国体を侵すもの、その本来の精神に叛く不逞の企てとして恐怖されることとなるのである。」

※このような主張が「近代的」であるとはどうしても思えない。「近代的」であろうとすれば、どうしてもこの主張における批判の対象となることを免れることができるようには思えないからである。そもそも滝沢の主張も「世界を秩序づけよう」という目論見でないととても言えず、やはり自己矛盾しているのである。またここで観察できるのは、「理念型」として提出される2つの型を糾弾することで、問題を解決してしまっているかのように語っている点である。これは端的に「理念型」の悪用でしかない。

 

P191-192「そうだとすれば、来るべき、真に新しい世界国家の「国体」=そこにおいて支配的な精神の形が、いかなるものとならなくてはならないかもまたおのずから明らかである。すなわちそれは、まず第一にいっさいの人の思いに先立ち、特殊な資格を超えて無条件に、人間成立の根底に臨在・支配するところの、根源的弁証法的な関係・太初のロゴスから直接に由来するそれの表現として、徹頭徹尾この唯一の根源的な関係=ロゴスを指し示す一つの形でなくてはならぬ。そのかぎり、この形は、それ自身のうちにいかなる特殊歴史的な内容を含まぬもの、この意味において完全に無内容なものとして、同時に、他の一切の特殊歴史的形態からまったく独立な、純なる形であるであろう。」

※すでに文化とは真逆のものでは。なお、この世界国家なるものは、「その進展の途中で、全人類が滅亡するか、そうでないとしてもついに現われてくる「世界国家」」という二項図式により語られ始める(p190)。この世界国家においては人間的主体を根拠とする民主主義国家とことなり、公私の区別がない(p193)。当然、私利私欲で物事は考えられない(cf.p194)。

 

P196真に新たなる世界国家にあっても三権分立しているが、私利・越権はない

※なぜ三権分立しているのか?そもそも三権分立の必要性は議論できるのか?

P198「そこ(※真の新たなる世界国家)に内在する分極・文節の、いかなる位置にだれがつくかということも、いわゆる「選挙」をまつことなしに、おのずから定まってくるということも、かならずしも不可能ではないのである。」

※役割は存在するものの、常に互換性があるという主張。この主張はミーゼス的計画経済批判が成立するように思える。互換可能性はそのまま「専門性」の不在を意味する訳だが、これを不在にして社会が成立しうるのだろうか?弁証法的態度は全ての合理性を遂行した上でその全てを否定の上成立した社会像を描く訳だが、その社会がなぜか合理化であることを弁証法論者は前提にしてしまっている。しかし、これが合理的なままである保証はどこにもないし、それがありえると信じることは現在存在する人間を馬鹿にしているようにしか見えない。弁証法をこのように議論するのは愚行であるように思える。

P200-201「こうして西田幾多郎は、深く日本と世界の将来を憂いながら、果たすべき多くの仕事を残して世を去った。かれ自身戦争を阻止するため、眼に著しい何事もなしえなかった。そうして、このことはおそらく、前節に明らかにしたかれの哲学そのものの難点と無関係ではなかったであろう。なぜなら、かれが「絶対矛盾的自己同一」の原点に横たわる関係の不可逆性を十分に明らかにせず、その哲学になお一体形而上学的傾向を残して、マルクス経済学の方法をわがものとするに至らなかったということは、とりもなおさずかれが明治以来の人として、一面において、近代自由主義者の擬似「寛容」から、他面において東洋ないし日本の古い伝統の枠から、徹底的に解き放たれてはいなかったということにほかならないからだ。」

※このような物言いからも、滝沢とマルクス経済学的理解は神話的であることがわかる。

 

P208「「日本人」が古来、ともかくも一つの纏まった国としてこんにち至ったとすれば、そこにはかならずや、何か特定の心(全人生・世界そのものにかんする感覚もしくは理解の仕方)が、一般的・支配的な形を成して生き続けているはずである。」

※この前提も不可解。

P222ベンダサンの引用…「その時代と地方、身分、職業、境遇等の如何を問わず、日本人のものの考え方、感じ方には、一つの基本的な型がある。すなわちかれらは、「人間(という概念)」を究極的な支点として立ち、基準としてすべてを測る。では、その「人間」とは何であるか。それはかれらのとって、あらためて問うまでもない自明のこと、定義も、説明も、論証も、不可能かつ不必要な何ものかである。」

P224同上…「ところが、日本人の実体語の世界と世界の空体語の世界の対立・関係は、西洋の現実と理想、具体と抽象等々のそれとはまるで違う。実体語の世界と空体語の世界は、そのいずれでもない「人間」という唯一支点を介して、互いに離れがたく関係すると同時に、その一方から出発し、ただたんにこれを引き延ばして他方に至るということは絶対に不可能なように区別されている。したがって日本人の論理は、西欧人の言うような意味で「首尾一貫」するということがない。かれらはそのような「論理の一貫性」を意志しさえしない。そういう意味では徹底して「非論理的」である。だから、西欧人から見ると、かれらはどうしても、どこか基本的にでたらめで、ずるくて、ともに事をなすに足りないというふうに見える。しかしそれは西欧人にとって自明なものの見方、考え方をもって日本人を律するからそうなのであって、日本人の世界は、むしろそれとは別の世界、それなりにこれまで生成・持続してきた一つの独特の世界なのである。いなそれどころか、日本ではまさにそのような「非論理的」な生活・言葉づかいこそ、正常なのである。」

※「出鱈目」という評価に対しこのような反論があるなら、これ以上議論することはないだろう。そしてこのような社会は「理想的」なのか、という問いの方がなによりも重要である。滝沢は理想的であることを疑わないが、実体はそうでもないだろう。

 

☆p238-239「万事につけて「私」をもととする西洋近代の生活様式の侵入、それにもかかわらず人間存在の事実に強いられて確立し来たった科学的思惟の方法は、現代日本に住む私たちすべての者に、否応なく、たんなる人間の思い、概念や信念ではない・真にそれじたいで実在する・確かな視点を尋ね求めること、この一点にかんして西洋渡来の「新しい」生き方、考え方とともに、日本固有の「古い」伝統・風習を厳密に反省することを要求してやまないからだ。したがって、「人間」という「概念」を「自明」の支点「無意識の前提」として生きるということは、たといそれがイザヤ・ベンダサンのいうように「日本人」にとっていかに「自然」であっても、実際の事としては、最も悪しき意味における「無反省」、まさにかれ自身のいうとおり、事実に学ぶとか突きつめてものを考えるとかいうことのまるでない「半睡・半醒」の状態で、万事好い加減にお茶を濁してゆく、ということにならざるをえない。そのような生き方・ものの考え方方は、それこそ古今・上下を通じて変らない「日本教徒」の「本質」だと、いかにイザヤ・ベンダサンが強弁しても、けっして日本人本来の特性などではありえない。反対にむしろ、それは、日本人本来の、根源的に事実感覚の失われたその空隙に、避けがたく立ち現れる擬似状態、頽落状態にすぎない。」

※ここでの批判こそまさに「唯一絶対の弁証法的関係の把握」(p119)に基づくものと言いたいのだろう。

 

P262「ただ、それにもかかわらず、かれ(※本多勝一)が前述のように「真の事実とは主観のことだ」と断言するとき、そしてさらに、「主観的事実を選ぶ目を支えるもの、問題意識を支えるものの根柢は、やはり記者の広い意味でのイデオロギー」だと断定するとき、その誇りとしてやまない「論理」そのものに、なおかれ自身の嘲笑するイザヤ・ベンダサンのばあいと同じ根本的な曖昧が潜んでいるのを見ないわけにはいかない。すなわち、この著者もまた、全人生の支点=全人類の歴史の基盤=人間的主体(自己)成立の根基・基準にかんして、「語られた事実」と「事実」そのものとの厳格無比の区別―つまり、私たちがいかに明らかにそれを語り、身をもってそれを実践しても、「語られた事実」には絶対になりえない事実もしくは事理そのものの臨在――を知らない。ただに知らないばかりではなく、知らないと気づいて真剣にこれを突きとめようと努めさえしない。」

※これもダブルスタンダードではないかと疑問視したくなる主張。

☆P268「すなわち、人間が人間として事実成り立ってくるその点には、そもそもの太初から、人間が意識的・無意識的にみずから置く諸前提とはまったくその次元を異にする一つの大前提が含まれている。いいかえると、絶対に人間ではない真実の主体とのあいだの、無条件に親しくかつ厳しい関係においてのほか、人間が人間としての事実成立・活動するということは、絶対にできないし、また起こってもいない。この神・人の、唯一無二の根源的関係において、人間の「自由・主体性」はただ単純に根絶されている」

※ここでの議論を最大限擁護するなら、滝沢は人間は人間でなければならないと主張するのだが、人間である必要性は、どこまでも倫理的要請以上の理由がない。これを真理と主張することに滝沢の欺瞞さがある。倫理的要請であることを自覚しつつ要求すべきなのではないのか。まだジジェクのように自分を守るために人間であるべきと主張する方が説得力がある。

 

P331「いやしくも事実存在するかぎり、人はもと絶対に主体ではない客体的主体として真にそれ自体で実在する創造的主体と、他の何ものの「媒介」を容れる余地なく直接に一であるからーーそもそもの太初に、そしてつねに新たに、真実主体をその身に表現するべくさだめられているからーー一切の理論的反省以前すでに、与えるものなくして与えられた時と処とにおいて、一あって二なき生活・社会を形成する。」

※主体性が否定されている。

P336-337「古来のもろもろの教えについてはいましばらく措くとして、ひとくちに「近代」といっても、その古典的形態、すなわち積極的に探究的・創造的な、本来の「近代精神」と、むしろこれを回避して無用の穿鑿と扇動をのみ事とする「近代主義」的頽廃状態とは、その根本の方向において、存在そのものと虚無そのものほどの甚だしい相違がある。前者はなお近代一般の疎外形態のなかでとはいえ、やがては一転してこれを根本的に止揚克服する現代の科学の方法、フォイエルバッハマルクス、キュルケゴールその他先覚の歩んだ道に連なるものに反して、後者はむしろ、デカルトがそれを嫌った中世のそれに対応する「近代煩瑣主義」とも名づくべきものであろう。」

※滝沢の態度はどうよめばよいのか。近代精神と近代主義は本当にそこまで違うものなのか??

P341-342「ほんとうに欠けているのは、「近代民主主義」にいわゆる「個人の自由・基本的人権」そのものの真実の根拠・目的・動力にかかわる根本的な認識、国民各個の徹底的な自覚であるのに、それとは逆に、出来合いの「国家・社会」の観念と権力をもって、この空洞を埋めようと奔走する。そうして、これらすべての自己欺瞞、意識的・無意識的な偽善の招く内外の叛乱・反撃は、年々歳々増大する「戦力なき軍隊」によって、容赦なく鎮圧しようと身構えつつある。」

※ここだけ読めば一見為政者だけの批判にも見えるが、実際はそうではないのがポイント。戦力なき軍隊とは自衛隊となし、全面的にその存在を否定し待っている姿(p364)は、専門性の否定とも同じ意味合いで見なければならないのではないか。