芹沢俊介「現代〈子ども〉暴力論 増補版」(1989=1997)

 今回は大久保のレビューでもとりあげられていた芹沢の著書である。本書は新版、増補版と2度構成の変更を行っているが、基本的な部分については1989年の出版の時点で確定した内容であったとみてよいだろう。内容に対する批判については読書ノートに多くコメントを入れたのでそちらに譲るとして、ここで3点ほど本書の位置づけについて考える。

 一つはこれまで私が捉えようとしてきた「社会問題」の捉え方の変化が「親の教育力の低下」という「親の責任論」に至る語られ方の変遷についての本書の位置づけである。これは非常に私の仮説には都合がよい内容であると思う。
 まず、森田・清水の著書との関連でいえば、本書では特に「システム」「国家」「社会」という言葉が無責任に用いられており、それらが極めて解決困難な問題であるように位置付き、半ば解決が放棄されているという点が共通している。他方で、「社会問題」についての責任主体が森田・清水については明確化していなかったが、芹沢においては「親」「教師集団」という明確な責任主体の存在を想定しつつ、「付加されたイノセンス」を与える者として批判を加えている点にある。これは久徳の「父原病」に近いような責任の与え方である一方で、わずかながら親等が責任主体として問題視される可能性について解除される要因として「システム」などの言葉が用いられていることがわかる(p27-28)。しかし、責任への批判が主流になっており、責任解除に関する語られ方はわずかである。ここには、「社会問題」自体の深刻化への意識が介在している可能性が十分に考えられる。言ってしまえば、「社会問題」の深刻化という実態把握が、背景となっている問題(森田・清水のレビューでは「社会変動」の問題として捉えた)の固定化によってその背景要因の改善を放棄する代わりに、そのまま直接的な影響を与える主体への「責任論」を強化していくという、一連の動きを実証する内容を本書は持ち合わせているということである。
 
 二つ目は大久保が本書の批判を行ったことに関連して、厳密な意味で「教育実践」と乖離していると言いきれないという点を述べておきたい。例えばp248のような部分を読めば(もっとも、この部分は1997年に追加された部分だが)問題の改善についても大久保が述べたような実践的課題につなげることも不可能とまでは言えない。大久保も「学級担任の指導力」に期待を強めている教育運動に対して批判をしており(大久保2010:277)、芹沢の批判の要点も大久保と同じように、教師が生徒を指導しようという責任感が、学校を校則で縛りつける一因になっているという解釈も十分可能である。しかし、全体として「既成秩序としての学校をいかに解体するかが前提となった」議論をしている(大久保2010:438-439)という指摘は妥当であろう。子どものイノセンスからの解放の欲望に対する配慮について述べられているものの(p27)、それが「子どもとの合意のとれたルールの適用」(cf.p137,p137-138)につながるかどうかはなかなかに疑問もある。芹沢の態度は「戦後民主主義の亡霊のようなもの」と表現したが、これは結局60年代頃までは活発に存在しえた子ども自身による自治の可能性が著しく撤退したあとの民主主義論の一つの現れということである。60年代までであれば、当然このような議論は子どもに対する積極的な期待によって語られていたであろうが、この時期にはもはやそのような期待を寄せることは難しく、むしろ過剰な制約を与えている親や教師集団の問題として読み替えられるようになったため、「子ども主体」という発想が空洞化しているのである(少なくとも芹沢にはそのような見方があることを否定できないだろう)。大久保が解釈したように、このような「子ども主体」の欠落は、制約を与えることが絶対悪であり、それに対する対案が何なのかわからない状況になってくるのである(いってしまえば、教育などいらないという極論に達する)。

 最後にもう一点、本書でことさらに強調される「教師と生徒のルール服従の非対称性」、つまり、教師はルールに従う必要はなく、生徒にのみ強要されている状況の問題視(P137)については、ノートでも示したように意味を持ち合わせていないことは改めて強調しておきたい。これは本書に一貫して批判されている芹沢のイノセンスの問題の見方にも密接に関わっているのではないかとどうしても拡大解釈したくなってくる。「イノセンス」という言葉自体の恣意的な導入についてはノートで指摘した所だが(根源的な意味を恣意的に用いているという意味でP21、また、それが子どもにしか適用しないと定義している点についてはp222⁻223で矛盾した言明をはじめたことで恣意的な運用をしているとみなせる)、そうすると本書で問題視しているものもまたそもそも問題と呼ぶに値しないという可能性を持ち合わせているということである。これまでのレビューにおいても、社会問題の議論において「そもそもその社会問題として議論されているものは、問題として妥当性を持っているのか?」という問いを立ててきたわけだが、本書の語り口を見ると、まさにこのような疑念が明確に見て取れるのである。


(読書ノート…引用ページのうち、P235-258は1997年増補版で追加、p1-20、p200-234が1994年新版での追加された内容である。)
p21「生まれてくる子どもは、自分が生まれるべきか否かを考えたり選んだりすることができない。自分を生む親を誰にすべきか選ぶことができない。もうひとつ、生まれてくる子どもは自分の身体および性を選ぶことができない。もちろん生後に親によってつけられる名前さえも選べない。生まれてくる子どもはこうした何重もの不自由を背負っている。これらの不自由は暴力と言いかえてもいい。いずれにしろ子どもは根源的に幾重にもわたって受身であることは確かである。この根源的な受動性をイノセンスと呼ぶことにする。子どもは根源的にイノセンスである。イノセンスであるということは、あらゆる行動の責任を問われることがないということだ。なぜなら――トートロジーになるが――子どもは自分の意志で生まれてくることを選んだわけではないからである。」
※これを不自由とみなすことの問題は、「自由」の存在を否定している点ともいえるか。そして、そうであるなら、果たしてそれが不自由と言えるのかも合わせて問われねばならないのでは?合わせていくつも問題点がある。子どもに責任がないことはそのまま大人にも実は責任がないこと(なぜなら、大人も子どもであったのだから、その無責任であることは承認されるはずである、したがって世の人間には誰にも責任などないという論理が成立すること)、また、子どもの出生と子どもの命名権について同じ「イノセンス」として定義することで、あたかもそれが変更できないものであると主張しているのではないか、という点を指摘できる点である。

P22「子どもがおとなになるためには、その本質であるイノセンスを捨てなくてはならない。イノセンスを捨てるということは、さきに挙げた何重もの不自由を自ら選びなおすことを意味する。それらの不自由は強制されたという点ですべて暴力であるという観点に立てば、この選びなおしの過程は、子どもによる何重もの対抗暴力と化すことを意味する。親は子どもによるこの対抗暴力を受け止め、肯定し、それらの不自由が実は自分の存在の根拠であるというように能動的な選びなおしを子どもが行うことができる機会を作っていかなくてはならない。自分がこの世に生まれたことを肯定し、自分がその親たちから生まれたことを肯定し、自分がこの身体この性とこの名前として生まれてきたことを肯定する。こうした肯定が子どもがひとりで世界と出会えるための契機であり、世界との出会いのプロセスそのものである。」
※そして、これを校則にあてはめるなら、それを否定する選択も当然認められるし、議論として、否定することによってしか問題の解決はありえないものとなる。それが別の校則であるとしても、主体性であることへの躓きがそのままイノセンスとなるのである。もっといえば、本書においても問題の解決について、具体的方策を示すことはない。いわば、この考え方は、戦後民主主義の亡霊のようなものである。また、後半についてはまさにイノセンスが解決不能なものであり、ただただ従順的になるしかないことを認めよと言っているのと同じなのである。この言明には、改名権という可能性が否定されており、また、校則についても従属することの要求を含んでいることに、なぜ芹沢は気付かないのか。しかもそれが親が行うものらしい。これのどこが対抗暴力なのだろう?結局、この親への命令も主体としての子どもが放棄されているに過ぎないのでは?芹沢の態度は基本的にダブル・バインドそのものである。

P22「こうした肯定、つまり選びなおしに失敗したらどうなるか。……これらの例や子どもが現在引き起こしているさまざまな出来ごとは「このままでは現実を引き受けられない」というメッセージそのものの表出を意味しており、こうした表出の核には、このような何重もの拘束や不自由を自分が世界に存在する与件として積極的に選びなおすことに失敗した体験が見出せるはずだ。そして子どもの選びなおしの失敗には必ず、親=おとなが関与しているというのが、この小さな本全体における私の見解である。」
※この観点は、その因果についてここまで断定的ではなくとも、森田/清水とも一致した発想である。しかし何故子どもの主体化の躓きが大人に転化するのだろう。躓きはイノセンスが不可避である以上、誰にでも当然あり得るものである。結局子どもに責がないことを脚色するために、いわば責任転嫁を正当化するためにイノセンスなどという概念を持ち出しているようにしかみえないのだが。ここには大人もイノセンス問題を抱えていることに何の言及もされていないにもかかわらず、責任のみ付与されている。言ってみれば子どもが無責任であること、大人が有罪であることはセットになっており、根源的な関係とみなされ、それが可能であるかのように語っているふりをしていたとしても、当然回避不能なのである。
またもう一点、無視できないのは、この辺りではその責任が親に転化されているにも関わらず、学校の問題においては「教師集団」なる「具体的」な責任主体を持ち出しつつ非難を行っている点である。責任論の応酬のメカニズムの一端を体現している内容であるとも言える。もちろん、この具体的な責任転嫁は「イノセンス」概念からは論理的に導き出せないにも関わらず、何故か因果が確定し、責任付与の経路も確定させてしまうのである(親もまたその子どもを生むことを望んでいたかどうかといった問題は一切無視され、責任者の不在の可能性だけでなく、複数の主体による責任付与や責任問題の双方向性の問題もなぜか考慮されないまま、「イノセンス」なる言葉だけを一人歩きさせ、芹沢自身もその言葉に振り回される。芹沢を振り回しているのは、まさに「社会問題」そのものである。

P25「根源的な拘束、根源的な暴力のうえに加えられるこうした受動性を要求する暴力——禁止や強制——を子どもにとっての新たな強制的な受動性の要求という意味で付加されたイノセンス(付加された環境と言ってもいい)と呼ぼう。付加されたイノセンスの特徴はそれがいつでも社会的交換の様相を帯びることだ。これが制度化されたものの代表が義務教育である。……ほんらい子どものために国家が学校を作ることと子どもが学校へ行くことは、相互に恣意的な相互贈与の関係にあるはずなのに、それが最初から強制性を帯びていた点にこの制度の特徴がある。恣意性のうえにかぶせられた強制性を基盤に交換が発生する。……登校拒否はこの交換を拒絶する。その結果、その下に埋れていた恣意性をあばき出した。この拒絶は子どもが登校義務という現実をそのままでは引き受けられないという点で子どものイノセンスの表出であり、それによって生じてきた新たな世界を引き受けざるをえないという点でイノセンスの解体の危機なのである。」
※まずもって、すでに付加されたイノセンスイノセンスの違いは芹沢にしか存在しない。イノセンスとして説明されたものにすでに付加されたイノセンスが含まれていたことはすでに説明した通りである。しかし、「イノセンスの解体の危機」とは一体何なのか。解体のチャンスではないのか?これは「新たな世界を引き受けざるをえない」という文脈を含んでいるのか?ここでいう新たな世界とは何か。

P26「子どもによるこうした対抗暴力を認めないこと、言いかえればあらかじめ子どものイノセンスの表出の機会を封じ込めることは、おとなが子どもを産んだのが他ならぬ自分だということを認識するのを拒否してることを意味する。子どもを産んだという現実をそのままでは引き受けられないと訴えているのである。社会の約束ごとをうけいれていくのは、おとなが教えるからではなく、子ども自身がイノセンスからの自己解放を行う過程で、世界を引き受ける態勢が作られて行くからだ。だがおとなたちは逆に考える。禁止や強制が先で、それを受け入れた――内面化した後に子どもたちの自己解放が認められるのであると。ここにおとなたちの大きな錯覚がある。この錯覚にもとづいて、おとなは子どもに社会の約束を教えこもうとする。それは同時に、子どもが自ら選びなおすという課題を遂行する機会を奪い、封じ込めることでもあるというのに。」
※この言明は一見まともに見えて深い問題を内包している。結局これは大人=自ら選択し行為した主体、として読み替えると、その後の行為については、無責任であることを禁止していると言っているのと同じなのではないだろうか。言い換えると、イノセンスに抵抗し、一度その選択を行った者(これこそが大人の定義とみなせる)はもはやそれに対して責任を取らないということはありえないのである。この原則は当然子ども自身にも当てはまるはずである。にも関わらず子どもはイノセンスなどと述べているということは、それを無責任でよいか、責任を取るべきかを判断するのは、恣意的な個人(芹沢)なのである。もし、恣意的でないと述べるなら、ここでいう大人とは何かに答えるべきである。そして、このことは、イノセンスが大人の世界には存在しないとみなされることを同時に意味する。しかしそれはどう考えてもおかしい。そもそも学校の拘束についても、親にとってイノセンスと当然みなせるのではないのか。しかし、芹沢は最終的にそうみなしていないように思える。それは芹沢にとっては大人はいくら子ども時代に主体的な選択をしたかどうかに全く関係なく、責任を取らなければならない主体だからである。余談だが、そもそもこのイノセンスの概念の語りの中でガタリを引用している所(p23-24)から信用ならない。

P27「これは、おとなが子どもを教え、導く対象としてみていることから生じてくる錯覚である。おとなは同時にこのとき、子どもを見下してもいる。」
※さて、何故大人の態度を結論ありきで語るのか。これは厳密には制度が個人を拘束していることと同じなのではないのか。
P27「おとなが成すべきは、子どもの教えの対象とみなすことでも、権力関係に立って子どもに上から教えをたれることでもない。子どもの欲望すなわちイノセンスの状態から自己を解き放ちたいという欲望を受け止め、肯定し、そのための機会を幾つも作ってやることだ。このことはまず、親が子どもに最初に不可避にふるった暴力を、自分の手で回収することを意味する。子どもが何重もの不自由から解放されようとして試みるさまざまな努力を、受け止め、助けることである。」
※問題はここで述べられている「解決策」らしきものが、何ら大人の議論に反映していないという矛盾である。大人の定義がここで肯定的に語られる「自らの意志で選択した者」とされていない以上、別にここでの「解決策」は「どうでもいい」ものとみなしているのと同じなのである。

P27-28「ところで、子どもがこのような存在論的な社会的課題を遂行しようとする過程に介入し、それを阻止し、禁止してゆく一連の親=おとなの動きは、決してその親=おとなの個人の感情によってのみ生まれてくるのではない。こうした一連の動きは、社会システムの要請によるところが大きい。」
※さて、システムとは何か。
P28「工業社会が高度化し、社会システム化の度合いが高まれば高まるほど、こうした集団的労働力(集団的身体)の枠組みが締めつけと同時にそれへの依存が起こってくる。個々が個々であることができるのは、かれがいつ誰とでも交換可能な交換価値として自己を立てているときだけである。かれはシステムの網の目のひとつの位置であるという自覚によって、個人であるにしぎない。……それとともにシステムの網の目から離れることは、自分をさまざまな集団性から引き離すことであり、これはとりもなおさず自殺行為につながる。」
※主に金銭を媒介した関係性を抜きにして生活することは困難である、と言っているのと同じか。しかし、交換行為を抜きにした人間などそもそも想定できないだろう。

P28-29「こういう状況のなかで、親=おとなはふたつの方向から子どもに介入してゆく。……もうひとつはシステムの意志をおとなが受け入れることによって子どもの身体に介入してゆくかたちである。いまくらい親やおとなが積極的に子どものからだを規律に従わせたがっている時代はないのではないか。」
※これは主体としての親=大人を指しているのか、それともシステムの話か。
P29「子どもたちは、自己の根源的なイノセンスを解体することもできないうちから、さらにそのうえに、システムが要求するイノセンスを付加される。子どもたちの身体はがんじがらめに拘束されるのだ。」
※では、親=大人はシステムとどう付き合うべきなのか。
P31「イノセンスを解体したいという欲求は、イノセンスつまり子どもに内在的なものである。」
※この語り口に主体的な子どもを想定しづらい。そもそもイノセンスへの抵抗が芹沢による恣意的な定義の上にあるものであって、その抵抗がすでにイノセンスに上塗りされているのではなかろうか。

P42-43「暴力がイノセンスの解体であるという側面は、もっと実際的場面でも確かめることができる。暴力は、これをふるった子どもたちにおもむろにはねかえってくる。……こうして、イノセンス固執しようとしてふるう暴力が、逆にイノセンスの解体を目的としてしまうという逆説的な現象を呈してくるのである。だがこのようにして生じるイノセンスの解体は、その表出が肯定的に受け止められた結果ではないという点で、子どもにとって、決して好ましいこととは言えないという点は申し添えておく必要があるだろう。」
※逆説的ではなく、むしろ順説的である。

P80-81「すぐ分かるとおり、喫煙もシンナー吸引も、ダブダブズボンも髪を染めることも、みな本質的には自傷行為である。このことは、授業の速度や雰囲気について行けないというきとに対し、子どもたちが、どこか深いところで自分の責任であるとみなしていることを示唆している。……この最初の自己への暴力が、次の対器物および対教師暴力(たんなる器物や個人ではなく、学校という共同幻想的存在の身体への暴力)へと発展する。」
※このまとめかたがどれだけ暴力的か。芹沢のいう本質はとても薄っぺらく見える。そしてここで責任論を持ち出すことで、更に大人との違いがよくわからなくなる。あたかも責任を持つことが悪であるかのような語り口だ。芹沢はイノセンスが理不尽だからこのように語るが、すでに述べているようにそもそもイノセンスの概念自体が問題含みである。また、対自的暴力と対他的暴力の関連も理解しかねる。これも子どもの「心」に容量なるものが存在し、それオーバーになっているから暴力が内から外に向くものとされる。しかし、こんなに簡単な関連性は現実にどれくらい妥当するのだろうか。この主張は逆に子どもの「心」の存在を自明の理とする見方を強化しようとしているとみてとれる。奇妙なのは二点。まずイノセンスが厳密に否定される状況がありえないにもかかわらず、それがあるかのように振舞い、治癒(イノセンスの除去)の可能性を先取りして述べていること、もうひとつは暴力の志向性を先取りすることで、見た目の暴力対象を、そのまま制度的な抵抗、攻撃とみなしていること(ガタリの立場)。

P84「この規範意識の裏側には、上級生は下級生に対し、無条件で隷従を求めることができるという学校内だけでしか通用しない論理が貼りついている。」
※当然、「学校でしかない通用しない論理」であるのは芹沢の思い込みである。一体芹沢は学校外の事象の何を考察したというのだろうか?そしてそれは、おそらく責任論の発想と全く同じ理由が介在しているのではないか。つまり、責任を付与することは一種の特定化であり、責任主体の具体化を意味する訳だが、この具体化に成功することで、「内部/外部」の区分けができ、あたかも外部は内部の話にコミットしないかのような論理が成立しうる。ここでの語りも内部と外部の区分けを強調することに意義を見出している。

P94「他方、年齢が中学をこえると別の意味で行為の共同性は成立しがたくなる。社会化の度合の高まりとともに個の観念が大きく生成しそれが行為の共同性を一義的に成立させにくくするからだ。」
※やはり芹沢にとって大人は皆個が確立しているらしい。
P113「セックスはほんらい、相手の異性との一対一の関係である」

P130「学校空間において、教師集団は制度的にイノセンスを独占することによって、校内暴力を悪と断罪し、それに対処するあらゆる方途を生徒指導という美しい正義の、善としての名目に集約することができた。校内暴力と生徒指導という対立は、善悪の価値観を取り払ってみれば、戦争における戦闘という性格が浮上してくる。」
※戦争等の「変な言葉群」は丁寧に読んでいこう。まず、「ここで集団による別の集団に対する暴力を戦争と呼ぼう。」と定義している(p131)。
P131「イノセンスの独占というテーマは、天皇制の問題に直結している。天皇のためにという一言で、あらゆる行動や言葉が無謬性や正当性を獲得したのと同様の状況が、学校空間に生じているのである。」
※ここで、学校において天皇に対応するものは何であるとみなされているのか?

P135「だが、強制された頭髪型という戦争期のテーマは、戦後も消滅することなく、残ったのだ。それも、興味深いことに民主主義を率先して指導する建前になっている教育空間において。いや、残ったというより再び校則というかたちで復活したのである。……軍人らしさは、中学生らしさに変わり、大政翼賛会は、校則を支持するPTAの親たちに姿を変えただけで、頭髪型における戦争の構造は、そっくりそのまま保存されている。」
※さて、いつのまにか芹沢のいう戦争とは、第二次世界大戦をそのままなぞった言葉として位置付いている。

P137「教師集団および学校関係者の多くは、校則の主目的を、規則の内面化においている。……だが、こうした予め免責されたものたちのいるような規則つまり校則は、たとえ内面化されたとしても、社会一般の規則を学び、内面化することに役立たない。そればかりでなく、むしろ逆の有害な効果を及ぼす。」
※ここでいう「予め免責」されているとは、「自分たちはその決定した規則を共有していないこと」、いってみれば教師集団自身が「丸刈りしないこと」である。
P137-138「同じ学校空間に共存していながら規則の適用を免れるものとそうでないものとがいるということは、幾つかの点で社会にとって有害である。ランダムに拾い上げてみるとまず、例外を認めない法の原則に真向から対立する態度を作り上げる。権力のあるものは、法の外に立った行動をしても誰も異議を唱えてはならないという態度を学習することだ。民主主義社会は、こうした態度から育つはずがないばかりか、民主主義を根本から崩壊させる力とさえなることが知れよう。」
※しかし、このランダムな批判にほとんど意味はない。なぜなら、ここでいう法外の立場で振る舞うという現象が解決し、教師集団に全く同じ丸坊主のルールが適用されても、芹沢は民主主義的でないと当然批判するからである。ここで批判している内容自体が意味のあるものなのかを芹沢が判断できていないという問題と、転じてイノセンス自体を語ることの意味をやはり自覚していないという可能性が見出せるのである。

P139「学校空間が管理ファシズムである所以は、頭髪型や服装という外形を通して「心」=内面を管理するところにもっともよく現れている。」
※なぜ管理するのかの問いを芹沢は欠いており、それが大久保の立場と決定的に異なる。いわば日本の教育が管理的になりやすい理由に答えられない。芹沢の見方は根源的な議論をしているかのような振る舞いをしているように見えるが、それに反して極めて表面的な事象を根拠なく根源的に見せているだけであり、それが何らかの意義や解決法を提示できるようなものとはいえない。

P141「校則の有害性・暴力性の主なものは指摘しえたと思う。その根源、よってきたる場所はすでに明らかにしてある。すなわち、学校空間において教師集団が予め免責され、生徒たちだけが規則の適用を受けるという、校則における特殊なイノセンスの構造である。」
※すでに述べたが教師集団の免責性は理由になっていない。結局これは民主主義的でないことをもう一回りひねくらせた表現としてしか有効性がない。
P143「法が認めている自由をさらに狭めるかたちで権力が、法とは別のもうひとつの規範を設定する。このような権力は、国家権力ではなく、国家権力からイノセンスの独占を制度として保障された教師集団が握っている。校則は、この教師集団が、教師と生徒のあいだに引いた限界線である。」
※ここの語りも「システム」同様の外的なものの影響を想定している。

P143-144「なぜ、限界としての権力が、特別な権力関係として、学校空間に設定されるのであろうか。おそらく、学校空間を戦争状態に仕立てなくてはならない理由が、私たちの社会にあるからである。だとすれば、校則という特別権力関係すなわち暴力の契機を、一般権力関係のなかに解消してゆく闘いは、言いかえれば限界としての権力を解体してゆく努力は、教師集団の制度化されたイノセンスの独占を解体することであり、それは取りも直さず、私たちの社会から暴力と戦争を消滅させてゆく行動そのものとなるはずである。」
※今度は「社会」なるものが外的要因とされている。国家、システム、社会それぞれの関連性は??また、一般権力関係論をこのように支持することと、積極的に法に服すること(個人が法に従うことを肯定的に行うこと)は全く別の話なのでは。
P146「学校空間に矛先が向かいがちなのは、子どもめぐる暴力を検討するなかで、学校空間において、教師集団が、対生徒、対家族において、イノセンスを独占していること、しかもその独占を制度が過剰に保障していること、さらに、その事実に教師集団が気づいていないこと、などが明らかになってきたからである。」

P154「だが、学校の決めた規則・きまり、つまり校則にはまるで根拠のないものの方が多い。頭髪・服装等に関する校則はその典型的なもので、これを押しつける学校側の理由で正当なものはなにひとつないと断言していい。たとえば頭髪は丸刈りでなくてはなぜ学校の秩序が乱れるのか、だれかへりくつではなく説明してみるがいい。服装についても同じだ。」
※へりくつとは、どのようなものを想定しているのかよくわからないが、ここで「必然性」を求めているなら、そもそも「教育なるもの」において必然性などどこにもないことへの配慮に欠けているように思う。
P156「教師集団はいまや、法を超えて自由に権力線を設定できるのである。その不可欠な技術・手段のひとつである体罰をどうして手放したりするであろうか。戦争状態を自ら解消しようと意欲しないかぎり、体罰は強力な指導手段として依然として、教師集団の手に残ることになろう。」
※ここで問題となるのは、芹沢が本当に「法」への遵守と、民主主義の徹底を同じものとして捉えているかどうかである。特に民主主義的なものを強調する立場ならば、通常そのように解釈されるのはタテマエであるにすぎず、実際はそう考えないことの方が多いだろう。もちろん、この法への遵守は教師集団の指導の放棄にも繋がりうるが。そして、法への遵守が学校空間の聖域性を完全に否定し社会空間のルールと統一することを意味することに意識しない結果、いじめ自殺や学級崩壊などの問題に派生する可能性は十分ありえるだろう。

P161「殺意が生じるということと、殺意が固定化することとは違う。……殺意は生じてもそれは通常持続せず、おそかれはやかれ消滅してしまう。ほかの欲望にとって代られるからだ。その意味で少しも危険ではない。問題なのは、殺意が固定化することの方である。」
※キレる少年問題に対する問題に欠けているように思えるが。
P163「これが、親による子どものイノセンスの強制的解体=すなわち暴力を意味する」
※先述されたイノセンスの解体が危機になるとは、このような子どもの意志が反映されていない強制的状況においてと言える。

P173-174「この綾瀬という地域は、県全体の公立高校がほぼ完全な教師集団による暴力空間と化しているので有名な千葉と、千葉ほどではないにしても同様な校則と体罰による管理システムをとっているところが多い埼玉県とに隣接していることも指摘しうる。言いかえるなら、この地帯一帯の子どもたちにとっての暴力は、日常から馴染み深いものである(あった)ということである。」
※どうやらシステム、国家、社会ときて、次は地域らしい。

P191「フロイトの理解によれば、子どもはいつも早くおとなになりたいという願望をもっている存在である。「大人のコントロール」、「大人の期待」とはそれゆえ、こうした子どもの願望が抑えられるべきであるということ、つまり子どもは一定期間、〈子どもらしさ〉(イノセンス)という枠組のなかに静かに納まっているべきだ、という内容に翻訳できよう。」
※ここではイノセンスパターナリズムと直接結びついている。
P192「法の対象としての非行は、反社会的な行為に限定されている。他方、教育の対象としての非行は、反社会的な行為の範囲内にとどまることなく、反学校的な行為にまでその境界を押しひろげている。法と教育のあいだで非行概念は、これほどずれてきてしまっているのだ。」
※私に言わせれば、学校とは本質的に非行概念のズレが存在しているものである。そのズレは今にはじまったことでは断じてない。もっとも、芹沢はいわゆる「学校は子どもの楽しさのためにあるべき」といった学校論にしか触れていないからこのような主張になるのだろう。教育史的にいえば恐ろしい無理解だが。

P193「その主な理由のひとつを明治三十三年感化院法の成立求めることができよう。非行はここに刑罰の対象から外され、教育の対象へと完全に移されたのだが、この移行こそいまからみると、非行を学校の問題へと封じこめてゆく根源的なきっかけとなったと考えられる。もうひとつの理由は当然、これ以後の過程で、とりわけ戦後において急速に進んだ教育の学校化、学校による教育の独占的な囲いこみという新しい事態である。」
※ここでも学校の歴史学的な性質上の問題を語らずに、表面的な刑罰の議論からのみ法教育の不一致化を語っている。このような態度をとっている以上、「原因の除去」が全く意味を持たない。そもそも芹沢のいう根源とか、本質は本人の主観でしかないことに注意すべき。デュルケム「フランス教育思想史」あたりを読むべき。
P199「人間中心主義的な意味での教育空間としての学校は、消滅しつつある。」
P207「イノセンスとは、子どもの根源的受動性のことである。子どもは自らの意思と選択においてこの世に生まれてきたのではないという点で、子どもは自分が生まれてきた現実をそのままでは引き受けることができない。」
※子どもに限る理由が全くわからない。

☆P222-223「どこの家庭でも子どもが登校拒否を起こすとまず親(とりわけ父親)がパニックを起こす。このパニックの意味のひとつは、学校に行っているということが、親が世間に顔を上げて歩ける最小限の条件と見なされていることを表している。もうひとつ父親が真っ先にパニックを起こす理由は、自分が毎日学校に通うことの意味を否定されたと思うからである。登校拒否はこの場合には教育家族としてのその家族と挫折が親が子どもから通達されたことを意味する。……子どものためにという口実には、私たちの基本概念であるイノセンスが臭っている。イノセンスとはここでは自分の行動理由を自分以外の人に転化すること、すなわち自己不在化の論理のことである。」
※父親に限定している理由がまず不明。そしてこともあろうにここでイノセンスを「おとな」まで拡張して議論を始めている。

P237「この、登校すべしと規範を生み出す力、あるいはそれに類するものを教育権力と呼んでおこう。教育権力を内側に組み込んだ家族を教育家族と呼ぼう。」
P242「だが難しい時期の子どもの困ったときの駆け込み寺にもなれないとしたら、親というのはいったいなんなのだろう。教育家族はしかし、駆け込み寺にもなれない親を日本中に輩出したのである。」
P248「私たちがこの小論においてポイントとして指摘したのはたったひとつ。それは生徒を指導しなくてはならないという教員の権力意識であり、それに伴った使命感である。権力意識と使命感に強くとらわれている場合ほど、体罰という名の暴力は親しみのあるものになる。」
※この発言も見方を変えれば、教師に指導をさせないような制度設計(まさに問題のある生徒を学校に包摂する努力をするのではなく、学校から排除する制度)を行わなければならない、という見方も可能である。もちろん、大久保のような具体的レベルでの議論には欠くが。