持田栄一の捉える「近代」と「現代」について

 今回は、「進歩的文化人」の議論で「現代」の用法に言及した持田栄一を取り上げる(※1)。持田の議論は今から見れば独特の用法で「近代」について取り上げたと言える。これまで私が大塚久雄をはじめとして考察してきた近代化論(の言説分析)においては、「近代」がどのような性質を持っているのか(単線的/複線的かといった見方やそれが生産に寄与するものなのか)という分析を行ってきた。そしてそこで語られる「近代」とは、「近代的であるべき」という規範性を含みつつも、その近代の意味合いについては単線的なものではないとみてきた。

 では、何故単線的な近代観でなかったのか?この原因として考えられるものの一つとして、戦中期の大塚の言説と戦後の言説の連続性に見られるような「欧米的近代」を忌避しようとする志向、より正確には「現在の欧米ではなく、過去の欧米」のエートスに学ぼうとする姿勢が日本における「近代的主体」に求められていたということを私は指摘した。これは当然の如く「現在の欧米」と同一化する結果を招かないようにすることを前提とし議論されていたものであった。規範的なものとして「近代」を見る大塚の議論において、いわば複線的近代観の中に「正しい」近代を期待ともいえる。

 一方、持田が志向すべきとするのは「現代」である。彼の言う「近代」とは教育を「私事」として捉える考え方だとする(持田1973,p25)。「「近代」における「制度としての教育」が教育についての指摘分業と責任体制を「国家」権力によって「理念」的に「上から」共同化し社会化したもの」(持田編1973,p58-59)、端的に「近代公教育は、「国家権力」を媒体として教育を市民個人の「私事」として保障する体制」(持田編1973,p64)とする。そして、このような「近代」の志向だけでは足りないことを主張する。この批判はまず親の私事化がエゴイズムを助長し、教育ママが出現する一方親としての責任放棄を生むという主張に向かう(持田1973,p11-13)。これは当時においてはありきたりな主張であったが、これに加え持田は「近代」志向では足りないとする理由として主に①部分性②形式性③矛盾の存在の否定を挙げている。

 

①部分性

「この意味で、教育を社会的に規制し計画化していくことは、自由主義教育理論がいうように、けっして非人間的・非教育的なことではなく、むしろ人間の存在と教育の本質そのものに根ざす本来的なものというべきである。にもかかわらず、近代教育の現実においては、近代公教育と呼ばれる一九世紀後半以降の教育体制をふくめてそこには教育の「私事性」と「私的自治」の原則が前提とされるから、教育はかぎられた形でしか計画化され社会化されず、その基本的部分は自然成長するままに、放置され無政府状態におかれている。しかも、その計画化され社会化されている部分も「国家」を主体としているから、それはことば本来の意味で教育を「計画化」し、「社会化」するものとはいいがたい。」(持田1972,p208)

②形式性

「市民革命と、その所産として構築された市民社会が、もともと絶対君主に抗して闘った市民や農民、勤労者階級の力に支えられてきずきあげられたものにもかかわらず、それが具体化される段階においてはもっぱら市民階級を主体として現実化されたということから、市民社会においては「形式」と「実質」に矛盾がみられるのである。そして、このような矛盾は「近代的」意味における「教育権」の自覚、それを前提とした「近代公教育」にもみられるのである。そして、このような矛盾は「近代的」意味における「教育権」の自覚、それを前提とした「近代公教育」にもみられるのである。すなわち、「近代教育」においては、「形式」としては教育を国民の権利としてとらえ、すべての国民に彼らの生活の必要に即した教育を与えることを機会均等に保障することが課題とされながらも、資本主義公教育としてのその現実においては、それは一部市民層の教育機会を保障するにとどまっているという矛盾をふくんでいる。」(持田1965,p65)

③矛盾の存在の否定

「以上の所説(※アメリカ由来の近代化を指標とみる立場)は以上のことからもすでにうかがわれるように、近代教育を矛盾なき一枚岩のものとして肯定する立場に立っている。だから、その延長線上に現代の教育を展望している。そこにおいては教育の近代化の進行が不徹底であることが、前近代的な教育体制をとりのこしていると考えられているのである。……

 上記所説がいうように、工業化の進行、科学とテクノロジーの発展が国民の生活をたかめ、国民の教育機会を拡大したことは事実であるにしても、科学とテクノロジーの国民生活や教育機会の規定性は、資本主義社会においては資本主義的生産関係を通して具体化されるのであり、上記の図式は、現実には資本が要求する経済合理性と利潤追求の枠に合致したかぎりで具体化されるものに外ならない。この意味において、現在、マルクス主義教育学の一部でみられる「教育の近代化」は「教育の資本主義化」であり、それは「教育の反動化」だとする見解は、近代教育の現実においてみられる以上の点を指摘したものとして正当な一面をもっているといえるのである。そして、近代教育において以上のような一面がみられることそのことが、現在なお前近代的な教育体制がとりのこされる基本原因と考えられるのである。」(持田1965,p194)

 

 このうち、③に関してはかなり微妙な論点も含むように思う。というのも③については持田も認めるように「マルクス主義教育学の一部」はこの矛盾について適切に指摘しているからである。この点について結局持田は「「現代」資本主義社会における現実の分析を欠いてすすめられる場合、それは非現実的な抽象的なものとなる」ものとして批判を行うように(持田1965,p126-127)、実態を適切に捉えないまま理念だけで(「近代」の目線で)物事を語ることに安住することに対して批判を行っているとみてよいだろう。次のような主張にも「美化」して近代的価値観が語られることに対する疑義が示される。

 

「このような近代市民社会ーー資本主義経済社会の現実においては、本来社会共同の仕事であるべきはずの教育が市民各人の「私事」とされ、人間の教育がマンパウワー=労働力商品の形成として現存する。かくて、教育は、生活的実践のなかでの自主的集団的自己形成を助長し子どもの能力を未来に向って全面的に開花させる営みというよりは、マンパウワー=労働力商品たるに必要な一面の能力を形成するために一定量の知識と技術と道徳を効率的に伝授し習得させることとして立ちあらわれることとなる。

 このような現実においては、「親」たるの存在も矛盾したものとならざるを得ない。「親の教育権」といわれるものも、近代市民社会におけるそれは世の中で考えられるほどバラ色のものではないのである。」(持田1973,p28-29)

 

 また合わせて持田は日本の「近代」性に対する立ち位置について注目し、アメリカ・イギリス的な「下から」の民主化過程により制度が成立しているのとは異なり、ドイツと同様「上から」の民主化過程がなされたことによる遺構が残ったものとしてこれを捉える(※2)。これについては持田の前提である「リアールに物事を捉える」ことからすると当然両者の文化的背景の違いはそのまま対処すべき方策についても異なるものであるという主張がなされる。

 

○持田の戦略的な「現代」の用法について

 さて、それでは持田は「現代」をどのように捉えているのか。特徴的といえるのは、通常の近代化論者が「近代」を「分析的なもの」として捉えていたのに対し、これを積極的に「規範的なもの」として捉えているかのように語る点である。まず次のような典型的な「現代」理解の記述を読み解きたい。

 

「現在におけるわれわれの課題は、以上のような「現代」からの呼びかけにこたえて近代公教育の基本体制を他再編し変革することにあるが、周知のようにそこには二つの道すじがある。

 第一は、近代公教育体制を前提とし、その枠のなかで「改良」と「修正」をこころみる「再編」の道であり、第二は近代公教育の体制そのものの止揚と否定を志向する「変革」の道である。いわゆる「社会国家(福祉国家)」の教育構想は前者の立場に立ち、教育の社会主義化への道は後者をいう。

 いうまでもなく、マルクスが提起した課題は後者の立場に立つものであるが、それは「現代」においては社会主義国家が成立発展し、資本主義国家内部においても労働者運動が抬頭し階級闘争が激化するなかで、単なる理念としてではなく世界の各地に現実的に具体化され、その力はいよいよ発展してくる。しかし、現在、先進資本主義国家と呼ばれる国々においては、日本をふくめて学制改革は前者すなわち社会国家(福祉国家)の教育構想を基礎としてすすめられている。

 それは「現代」の教育課題を非社会主義化の方向において解決しようとするもので、この意味で、マルクスが提起した課題は先進資本主義国家においては現在なお解決されないままにのこされているというべきである。

 いわゆる社会国家(福祉国家)教育構想はさきにものべたような近代公教育——教育の社会化を国家を主体としてすすめる体制の枠のなかで教育の社会化を最高度にすすめようとするもので、そこにおいては近代公教育の本質は基本的に変わっていない。」(持田1972,p142)

 

 この引用では「現代」が3箇所出てくる。中段の議論は一応「分析的」であると捉えているとしても、最初と最後の「現代」の用法は「変革」や「解決」といった言葉と結びつき「現代」はそもそも変動的な時代であることが強調されている。この「現代」の変動性は持田の「分析的」な「現代」言説の主たるものと言えるだろう。

 

「「現代」という時代をどのようにとらえ、そこにおける教育をどのように特徴づけるか、周知のようにこの問題はきわめて論争的な問題である。しかし、もしかりに社会主義国家が単なる空想や理念としてではなく、現実にこの世界の一角に成立し、また、いわゆる社会国家の構想が実定憲法のなかに明文化されるようになった第一次世界戦争後の世界を称して「現代」と呼ぶことが許されるならば、「現代」はまさしく変動と移行の時期であり、近代社会に伝統のさまざまの体制が再編と変革を余儀なくされている。社会主義国家の成立、とくに第二次世界大戦後におけるその前進と飛躍、植民地従属国における民族独立運動、それにともなう国際政治場裡における東西の対立と両者の力の関係の変化、これらはすべて「現代」を特徴づける示標である。そして、このような「現代」的情況がすすむなかで、資本主義体制のなかでも、労働者階級の力がつよまり、これに対応して国民福祉の保障が政策の課題としてクローズ・アップされるようになっている。」(持田1972,p136)

 他方、次のような主張がなされる時、「現代」が極めて規範的なものとして語れている。

 

「ところで、「現代」において教育の本質のあり方を保障していくためには近代公教育体制を変革していくことが基本課題となる。……近代公教育の変革という「現代」における課題は、以上のようにみてくるならば、教育=自己教育を勤労人民の立場に立って「共同化」することを基礎として、幻想教育共同体としての近代公教育の限界と矛盾を明らかに、これ変革し超克していくこと、いい方をかえれば、近代公教育の基幹である教育の「私事性」原則と「私」的分業(責任)の体制を止揚し、教育を真に「社会共同の事業」として確立していくことによって果される。」(持田編1973,p64)

「以上のようにみてくるからば、さきにあげた所論においてみられるように、近代教育を矛盾なきものとして想定し、近代教育の延長線上に現代の教育を展望する考え方は、ことがらの全体を正しく指摘したものとはいえない。また、以上のようにみてくるならば、現在における教育の「近代化」は近代をのりこえること、すなわち近代教育の矛盾を解消する実践と運動とのかかわりにおいて想起されなければならないといえる。もしかりに近代教育の矛盾を解消することを称して教育の「現代化」と呼ぶならば、現在における教育の「近代化」は、「現代化」とのかかわりにおいて提起されなければならないといえる。」(持田1965,p195)

 

 持田の「現代」を変動的なものに捉える見方自体は70年代後半以降における「改善要求を行う日本人論」にも頻出した視点であった。しかし、持田においてはこれを「組織化」という言葉で語ることでその共同的性質を強調し、その方向性を「共同」の方向に持っていくべきものであることを強調する。その際に「私事」を「近代」と同一のものとして語ることでこれを批判の源泉とするのである。このような共同化の追求が持田理論の大きな特徴であるといってよいだろう。

 

○「現代」の戦略性と持田の議論における「矛盾」について

 このような「現代」性の強調は「公教育」を考えるにあたっては非常に重要な観点であるように思う。持田が変革の対象とすべきものとするのは「制度としての教育」である。

 

「ところで、このように、教育=自己教育を社会的にとらえようとする場合、教育変革の主軸は「制度としての教育」を変革していくことにもとめられる。

 教育=自己教育は社会共同の事業として「制度」として存在し、しかも、その「制度としての教育」が教育の本質的あり方を疎外しているからである。この意味において、教育制度の理論こそが教育理論の主軸として追求されなければならないのである。そして、「近代」における「制度としての教育」の現存を解明していくためには、以上のべて来たこととかかわって、「教育権」について言及し、また、「教育の条件整備」といわれることがらについて検討を加え、それを教育理論のなかに位置づけておくことが必要となる。」(持田編1973,p36)

 

 このように実際の「制度」に着目するというのは、当然どのように変革を行うのか、という点においても「具体的」なものであるはずであった。これは、持田が批判する「国民の教育権論」者のスタンスこそ「現実から切断されて、観念論的に認識された」ものであったこと(持田編1973,p39-40)や「教育行政論への具体的プログラムの提示を欠くか、あるいは教育行政論を制限することを主題として提示される」ものであったこと(持田1965,p141)からすれば当然であるように思える。

 

「もう少し具体的にいうならば、それは「教育の自由」と「平等」を「国民の教育権論」が語るように理念的に謳うのではなく、所与の教育関係を変革していくこととして具体的に宣言するものでなければならない。」(持田編1973,p42)

 

 ところが、持田は別の著書では次のように主張し、「行政の法制化」を否定する。

 

「以上のようにみてくるならば、現在におけるわれわれの課題は相互に関連するつぎの二つの点にもとめられよう。第一は、現行教育基本法体制とくにそこにおける「改良」的部分の限界を勤労大衆の教育要求と教育科学の法則に即して明らかにし、教育を「上から」の計画化のプログラム――総資本の教育要求にもとづく教育の社会化構想に代置される「下から」の批判教育計画——労働者階級のヘゲモニーによる教育の社会化の構想を具体的に明らかにする点、そして、第二は、総資本の教育要求を基礎として編成され、再構成されている近代公教育——教育基本法体制を変革していくための「主体」を形成していく課題、すなわち基本的にいうならば教育を「国家」を主体として、したがって、法制化された制度をとおして社会化していくのでなく、人間自らの社会的力を主体としていくための「主体」(自己権力)を形成していくことである。」(持田1972,p246-247)

 

 素朴に考えるのであれば、「法制化」というのは「制度化」のより具体的な側面であるとみなすことができる訳だが、そうであるならば、持田自身は「制度化」をここで否定していることになる。「制度」を見つめる必要はあるが、その改善はあたかも「国民の教育権論」者と同様に観念論的なものに陥ってしまう可能性を内包しているということができるように思える。

 このことに関連して指摘しておくべき点が2点ある。一つは持田の理論はあくまでもマルクス主義的立場にあるということである。持田がマルクス主義的立場にあったことは通説であるが(例えば、桜井智恵子「市民社会の家庭教育」2005,p181、佐藤晋平「教育行政学をめぐる環境変動と理論転換」2008)、先述の引用のとおり(持田1972,p142)、持田は「社会国家(福祉国家)」における「再編」ではなく、「近代公教育の体制そのものの止揚と否定を志向する「変革」の道」を目指す。これは「いわゆる社会国家の構想は、このような課題をマルクスとは異なった立場と方法、すなわち、非社会主義化——「総資本」の要請を基礎に「国家」を主体として解決しようとするものである。」という指摘のとおり(持田1972,p144)、徹頭徹尾「社会主義国家」の形成のための批判である。このような批判の形態において、持田が批判した「一部のマルクス主義者」においてみられた「非現実的で抽象的な」状況(持田1965,126-127)と何が異なるのか理解に苦しむことになる。「再編」は批判(正しくは否定)の対象だが、持田のとる実際の行動が「再編」なのか「変革」なのか一見するとよくわからないのである。整合性をとるなら、やはり「再編」を否定しており、この「再編」を避けた時点で「非現実的で抽象的」な世界にすでに入ってしまっているようにしか私には思えない。そしてこの解釈においては、持田の「近代」批判も有効性を失っているように思える。持田自身「資本主義が排除」されなければ「変革」はありえないと明言しているが(持田編1969,p69)持田がマルクス主義者としての態度をとっている以上この矛盾が解消されることはないのである。

 もう一つは持田が「専門性」に対して全面的に否定的な立場にあること、つまり「専門性」の改良を志向する立場にはあるとはとても言えない点である。ここで「専門性」の対義語として用いられるのはおなじみの「人間性」である。まずもって「専門職」としての教師は近代におけるものとし(持田1972,p272、持田1976,p270)、「専門職」に留まる以上「資本主義社会の価値法則から完全に自由であることや独立することは不可能」なことであり(持田1976,p210)、「真に人間的な教師」となるために専門職たることから脱皮すべきであるとする(持田1976,p213)。また、このように「人間的」となることで親の話に耳をかたむけることに重要な意味を見出すようになり(持田1973,p121)、「子ども・親とともに学び育つ」ことができ(持田1976,p213)、「子どもの生活に即してつねに改善発展させられ」ることのできる「生活者」たることができるとする(持田1976,p268)。

 

 ところが、持田はこの「専門性」について必ずしも否定的でない主張を行っているのも事実である。

 

「教員養成大学で教わった知識や技術ですべてが解決されるわけではなく、日常の生きた教育実践のなかでこそほんものの知識が習得され、技術がみがかれる。また幅ひろい総合的視野もひらかれる。……

 このようにして、「専門職」教師が「専門馬鹿」にならないで、真に「人間」的なものとして成長すればするほど、親の話に耳をかたむけることに重要な意味を見出すようになり、PとTの話し合いに積極的に参加することになろう。」(持田1973,p121)

 

 別の著書でも、「現代」的に機構を構成するためには、「「教職」の一人一人の教育力を組織し、その「学校」の基本機能「教授=学習過程」が、ことば本来の意味において、より効率的に展開されるような形に「校務運営」を「専門化」することが必要である」としていたり(持田1972,p444)、端的に「教師が「専門職」たることもつねに問いかえされなければならない」(持田1976,p268)とされる時、必ずしも「専門性」が否定されていないことがわかる。次のような主張までいくと、もはや専門性は実質的には肯定され、その残存が期待されている。

 

「しかし、といって、いまさら与える教育のいっさいを否定し、学校を解体してしまうことはできない。それはなぜかというと、もともと学校の教育が家庭や社会の教育から分化し成立したのは、与える教育を中心とした専門的施設を設けなければ、これを次の世代に伝達できないほどに文化遺産が高度化したためであった。とくに近代における学校は、科学技術の進歩と発展とにかかわって成長し発展したものである。だから、現在、学校を解体してしまうことは、過去の文化遺産とくに科学技術と断絶することを意味し、社会進歩を願うものにとって容易に肯定しがたいところである。

 それではこの問題をわれわれはどのように考えるべきであるのか。結論は明白である。現在、われわれの周囲において現存している学校、そこにおける与える教育を、学校内外における子どもの生活的諸実践、そこにおける自主的集団的自己形成作用と再結合させ、学校教育のなかに人間と生活を復元させることが現在におけるわれわれの課題として真面目に追求さるべきである。」(持田編1972,p71)

 

 これに関連して、持田は「権力」の行使についても決して否定的ではない。確かに1960年頃の持田は「非権力」という言葉を用いており(持田1980a、p10-11)、一見権力に対して否定であるかのように見えるもののその趣旨は「物理的強制強要するのではなく」「教育に内包される教育法則——にもとづいてなされること」(持田1980a,p10-11)、「教育行政を矮小化しその意味を否定するのでなく、否定するのはその権力的性格」であった(持田1980b,p127-128)。このような趣旨での権力行使については、持田理論の中で一貫している。結局、このような「擁護」を持田が行うことの趣旨は、近代の公教育制度形成過程における法律・制度についてそれが「教育権」に対し果たした一定の役割を認め、評価すること、このことをなくしてその「変革」を行うことに重きを置いていたからである。

 

「親と教師が共同して子どもの教育にあたるといっても、国家その他の公権力が存在するかぎり、それは国家や地方自治体を介して行なわれるものであるから、親や教師は共同して子どもの教育にあたるためにも国家や地方自治体の行政に介入参与して、それが親や教師の直接的コントロールのもとにすすめられるように努力すべきである。」(持田1973,p123)

「教育の内的事項をふくめて、教育への国家権力の介入のいっさいが近代公教育において否定さるべきでなく、当然のことながら教育への法律介入は許容さるべきである。」(持田1965,p208)

「一方、近代公教育の成立をまって教育が人民自身の手によって運営されるようになったことは、画期的なことであり、このような体制は教育基本法体制にもうけつがれており、この点が同体制の近代的特質となっている。しかし、そこにおいてみられる人民による教育支配の現実は、さきにものべたように、ブルジョアジーによる教育独裁のそれであり、ここに、近代公教育の限界がみられる。しかし、そのようなものであっても、教育の国家支配が確立したことは、同時に、労使の力の関係の変転がみられるならば、勤労大衆が教育を一元的に統括する可能性がつくり出されたことでもある。」(持田1979,p364)

 

○持田に「転換」はあったのか?—-通説に対する疑問について

 上記の議論に関連して、持田の議論が学生闘争以後変化したのではないのか、という主張が通説として持田栄一論者からなされる。例えば、持田栄一著作集のあとがきにおいて清原正義は次のように指摘する。

 

「ここではかつてのように「上から」の政策による改良的措置が「教育をうける権利」を保障する側面、共通利害保障的側面を拡充することが強調されるのではなく、むしろ「近代公教育の、そこにおける国民福祉をはかるための『改良』的措置は計画的組織的に拡大され、それが労働者階級を体制化しているのである」というように公教育制度にかかわる改良的措置自体が新たな階級的支配の様式だと指摘している。この叙述を先の『教育管理の基本問題』のそれと比較すれば、持田理論の転換を読み取ることが可能である。

 七〇年代持田理論の基調となった上記の公教育制度観は、状況的には大学闘争の影響を産み出したものであるが、理論的にはかつての構造改革論的発想に対する「自己批判」を経ることによって先生が到達されたところであった。」(持田1980a,p231)

 

 また、吉田直哉は佐藤(2008)も同様の指摘を行っていること踏まえ、次のように指摘する。

 

「前者については、持田が1968年以降激化した「東大紛争」を主導したグループと真剣な対話を繰り広げることによって、近代教育が存在論的に孕み持つ権力性に対して、彼が極めて否定的になったということが言える(佐藤[2008])。彼は、1960年代の自身の論考を、「構造改革派」の系列に属するものであったと位置づけ、それが、不十分な近代批判しか呈示しえなかったという点を、「自己批判」している。」(吉田直哉「持田栄一の「幼保一元化」批判論における公共性認識」2011,p58)

 

 しかし、遺稿となった著書を読んでみた場合に、次のような主張が近代教育を極めて否定的に考えていたものと読めるのだろうか。むしろ、このような主張は近代性の擁護を行っているようにしか見えない。

 

「われわれは、「現代」的情況のなかで、教育の「近代化」と「近代公教育」の矛盾と限界を批判し、止揚する課題としなければならなくなっているが、このことは、教育の「近代化」と「近代公教育」が、人類の教育の歴史においてもっている意味を過小に評価したり、否定したりすることであってはならない。しかし、一方において、近代教育原則を自然法的立場から絶対化し、超歴史的なものとして、価値化することも戒めなければならない。」(持田1979,p147)

 また、逆に、1965年の時点において次のような主張になされている状況は近代公教育に対して極めて否定的(正確には、現状の全面的否定)であるように読めないだろうか。

「ここに、「現代公教育」の特徴がある。また、「人材開発」論という形で提起されているさまざまの計画の実益があるが、しかし、右のような動向はそれ自体のパラドクシカルなものというほかない。そこでは資本の利潤追求をより効率化するために、資本主義が生み出した「近代公教育」を再編・変革するという矛盾した論理で支えられている。「人材開発」をめぐって展開されている「現代」における「公教育」動向については、以上のべたように一方において、「近代公教育」の再編と変革が課題とされながらも、そこにはそれが「資本主義公教育」であるかぎり、そのような課題の実践を拒むような一面が依然堅持されているのである。」(持田1965,P121-122)

 

 私は上記のような持田の思想転換、ないし精緻化のような状況があったという主張は、相対的な議論としては(つまり、「有効」と言える範囲で何らかの「向上」があったとは)認めがたいと考える。持田自身の主張は、私の過去のレビューで同じく70年前後に転換を行ったと分析した遠山啓や大塚久雄などと比べたらはるかに一貫したものであって、そこに区別をつけることはできないものと主張したい。これは、持田自身がしばしば自己批判的に過去の自己の主張を内省したと主張していることに反しているのは百も承知である。しかし、止揚というのはそもそも埋まらないものであってこれを仮にこれを精緻化したものと捉えた所で矛盾し続けていることには変わりないし、持田の場合は一定の評価を与えられるほどの精緻化もされていたと言い難い。むしろ持田の主張はつねに分裂した形でなされていたものであったと言うべきである。一方で、マルクス主義の立場を強調することで、共同化を志向し、そのために私事化を組織化・共同化することで止揚せんとした持田がいる。他方で、現実を過度に評価することで、一見実態に即した改善を促しているように見える持田がいる。しかし、後者の持田において問い返さなければならないのはむしろ持田が議論を続けていた20年少々の間における「現代」の時代の流れにおいて、何が評価されるべき事項で何が批判されるべき事項なのか、(少なくともタテマエ上は)分別が不可能である点である。つまり、持田は批判する際においては物事を全て否定するし、これを肯定する場合には何を肯定しているかわからないが故に実質的に全て肯定しているかのうように評することもできてしまうように思えてならないのである。持田はこれを「近代」と「現代」という言葉で片付けようとする中で無理やり「部分肯定」「部分否定」を含めようとするが、これを判別することはできない(※5)。

 

 これにあまり関連する訳ではないが、井深雄二が持田栄一の批判する際において、やはり「転換」を行った論者として紹介している(※3)。

 

「黒崎勲も指摘しているように、持田理論は、大学紛争を画期として一つの転換が行なわれ、一九六〇年代における持田の「現代教育の論理」の理解と一九七〇年代のそれとは様相を異にしている。すなわち、一九六〇年代においては、近代公教育が教育の私事性を内包しているという点で、私教育との連続性を持つものとしてその限界が指摘される一方、現代公教育には「正しく国民の共同利益・共同事業として組織し運営」されることを期待されている。そして、教育基本法第一〇条も、子どもの教育を受ける権利を保障するという見地から、価値中立的・技術的な単なる「条件整備としての教育行政」ではなく、「教授=学習過程」の「中核にくい入って」くる「福祉行政としての教育行政」の規定として理解すべきことが主張される。これに対して、一九七〇年代においては、現代公教育は近代公教育の「再編」にすぎないものとして教育の私事性は止揚され得ないとされ、したがって教育基本法体制は「変革」の対象とされる。いずれにしろ、持田にあっては、教育の私事性は教育の共同性(公共性)と相容れない。」(井深雄二「戦後日本の教育学」2016,p226)

「ところで、「五五年体制」下における教育の私事化は一方で国家的公共性の下で起きており、他方で私事の組織化を通して市民的公共性に至る経路が遮断されたところで起きている。換言すれば、教育の私事化は公共性の解体として起きている。しかし、教育の私事性を教育の共同性一般の敵対的対立物として措定する持田理論においては、この点を分析的に追求することができない。それ故、教育基本法体制は、教育の私事化を克服する持田の展望においては変革の対象とされたのである。」(同上、p225)

 

 ここで注目したいのは、井深の議論の真偽ではなく、そのロジックである。確かに持田の主張は「教育の私事性を教育の共同性一般の敵対的対立物として措定する」ように見えてしまう側面がある。ただ厳密に言えば正しくなく、このように対立的に捉えたとしても「止揚」は可能であると持田はみなしていたのである。しかし、これはあくまでも「持田の主張をそのまま支持した場合」についてそう言えるだけであり、「分析的な追求」を持田は行っていると言い難いのは井深の言う通りである。これは単純に「私事性を単純に共同化することはできず、常に何らかの排除があって初めて共同化は実現する」という命題は真というべきであろうということである。しかし持田は恐らくこれを真と考えていないことこそが問題なのである。井深の批判はこの持田の無自覚を了解していないため、持田の意図をとらえ損ねている。持田のいう「変革」とは、資本主義が生き延びるための福祉国家・社会国家への「再編」とははっきり異なる文脈で捉えられ、あくまでも止揚のための手段なのである。井深は持田(1979)を取り上げこのことを指摘しているものの、持田(1979)では真逆のことが言われているのである。 井深の誤認も含め、持田の転換言説というのは通説となっているように思えるが、これについては強い疑義が存在すると言わざるを得ない。

 

「近代理論家、あるいは、近代主義的立場に立つ理論家たちは、市民社会と政治的国家を対置的にとらえる。このようなところから、彼らの間では、市民社会における「私事」としての教育の秩序が実は教育の国家支配の下部機構であることを理解せず、前者に依拠して後者を撃つことがこころみられている。しかし、このような認識が誤りであることは、以上のべてきたことからも具体的に明らかである。そうであってみればわれわれは、市民社会における「私事」としての教育の秩序を変革し、超克していくことと、「教育の国家支配」を止揚していくことを統一して理解し、追求していくべきであろう。

 そして、このような観点に立った場合、現在、われわれの周囲においてみられる「上から」の「教育の国家支配」に対する「下から」の教育運動という図式、そして「国家教育」対「国民教育」という発想も、あらためて再検討されなければならなくなるのである。」(持田1979,p62)

 

 思うに、持田のこのような無自覚な状況というのは、むしろ持田自身が積極的にそのように「無自覚」たらんとしているような傾向があることにも注意する必要があると思う。ここで例として挙げたいのは、持田が日本の「後進性」を決して認めないという点である。正直な所、持田の議論は「講座派」特有の「日本の後進性」を指摘していることは明らかであるように思えるのだが、持田は決してそのことを認めようとしない。このような態度に「無自覚」へと繋がる要素があるように思えてならない。

 

「現在、われわれの周囲においては、近代主義の立場に立った公教育観が通説化しており、近代市民社会における「私事」としての教育の秩序が肯定的に理解されるとともに、このような「私事」としての教育の秩序が、教育の「国家統轄」と表裏するものであることは見落とされ、両者は対置的に理解されている。このようなところから、近代公教育のパターンは、イギリスやアメリカに求められ、その結果、ドイツや日本の近代公教育はつねに後進的なものとされ、その理由として、そこにおいては教育の国家支配は強力な形でみられることがあげられる。」(持田1976,p146)

 

 まずもって、ドイツ的近代とアメリカ的近代について持田は「直線的」なものとして捉えている。つまり60年代までの大塚と同様、ドイツ的近代、アメリカ的近代を突きぬけた近代の先に「現代」があることは当然のものとされている。両者の違いとして語られるのは「上からの」国家支配による近代化と「下からの」(市民・教育)運動による近代化であり、持田が強調するのは日本の「下から」の教育運動の必要性である(持田1972,p246-247;持田1979,p92-93など)。そして、その問題解決(組織化・共同化の達成)というのは、両者の型の実態の形態が多様としながらも「基本構造は同じ」であるとするのである(持田1980a,p25)。事実としてアメリカの手前におり、かつ向かう先が同じなのであれば、それに対しどうこう語ってみたところで「後ろにいる(後進である)」ことを否定したことになっていないのである。持田が上記の引用で「後進性」を否定しようとする理由は割と明確であり、「後進的である」という価値判断自体が現状を考える上であまり意味をもたないことを強調しており(cf.持田1976,p146)、「「私事」としての教育の秩序が、教育の「国家統轄」と表裏するものであることは見落とされ」とするのもやはり実態を適切に捉えることが「後進的である」という価値判断を行うことにより阻害されることを問題視してのことであるといえる。ここで天秤にかけられているのは「価値判断」と「実態分析」であり、持田は執拗に「実態分析」の重要性を説いているのである。しかし、この主張を行うことでかえって持田流の「無自覚さ」を生んでいると言うことはできないだろうか。つまり、『持田は共同化の不可能性について了解しているものの、それが価値判断になることを避けるためにこれを否定し「変革・止揚」に固執している』のではないか。私自身は分裂した持田像の読解についてこのような視点で読むのが最もしっくりくると感じるのである。そして、このような固執を行ってしまうことでやはり持田も「実態」を捉えることができていないとみなされてしまうのではなかろうか。

 

 以上述べてきたように持田の立場は「実質的」に変化がなかったというべきであるが、通説が指摘するような変化は「形式的」なレベルで行われていたということができることも指摘せねばならない。具体的引用は割愛するが、これは特に以下のような用語の整理というレベルにおいて相違が認められる点である(※4)。

 

①60年代の持田は「近代化」と「現代化」を同時に達成すべきだとしていた(持田1963,p113-114;持田1965p195以降)が、70年代は「近代化」を積極的に否定しようとしたこと(cf.持田1973,p39;持田1979,p17など)。

②60年代の持田は「近代公教育」と「近代私教育」という言葉を使いわけ、前者の肯定と後者の否定を行おうとしたが(持田1963,p128;持田1965,p196-197;持田1980a,p14)、70年代にはこの違いは意味のないものとされたこと(cf.持田1979,p57)。

③60年代の持田は「変革」という言葉を「再編」「改良」といった言葉とあまり相違のない意味で(正確には並列して)用いていたが(持田1965,p121-122)、70年代には「変革」のみを志向し「再編」「改良」は明確に否定したこと(cf.持田1972,p142;持田1979,p92-93)。

④60年代の持田は「専門性」を肯定的に捉えていたものの(cf.持田1963,p224;持田1965,p424-425)、70年代には積極的に否定しようとしたこと(持田1972,p272;持田1976,p213)。

 

 ここで気になるのは、このような態度変更が何故なされたのかという点である。単に「マルクス主義」の徹底として説明するには持田の70年代の議論はあまりにもお粗末であり、ある意味でそのお粗末さがこの徹底とは反対する意見にも繋がっているものと言える嫌いがある。この態度変更の理由が明確でないことこそこれまでの論者の議論が二分される理由にもなってしまっているように思う。であればどう考えるべきか。私から指摘できるのは持田の60年代の言説と70年代の言説で明確な相違が認められる「高校全入」を例にすると理解が深まるかもしれない、という点である。これはほぼ④の論点を踏襲したものであるが、結局この60年代における「高校全入」言説が持田自身の主張の失敗として捉えることが可能であるという意味でこの言説に注目すべきと考える。

 

 60年代の持田は「近代」「専門性」について肯定的である結果、高校入試制度の批判において、学力選抜(能力主義・選別の問題)に対する批判を適切に行えていると言い難かった。確かに全くそのような批判がなかったとは言い難いものの、それ以上に高校全入運動における高校数の「量的拡大」について積極的に議論することで選抜傾向も除去しようとしていたと言うことができる。結果としてあくまで「入学試験の緩和」が指摘されるに留まったり(持田1963,p140)、高校全入運動における量と質(資本主義的「選別」と「能力主義」の原理への批判)の問題は「統一してとらえるべきであろう」といった物言い(持田1965,p316-317)に留まることで不十分なものとなっていると見ることもできた。

 しかし、70年代に入り教育荒廃と選抜とそれに伴う序列の問題が大衆化してくると、序列に寄与する学力選抜そのものが否定されなければ高校入試をめぐる問題が解決しないことが次第に明らかになってきた。そしてこれに対し自己批判を行った場合、かつての「量的拡大」志向がそもそも不徹底であったという風に映るのは明白である。根本的に批判すべきは「学力選抜」であったはずなのに、そのような選抜が生き永らえたどころか、更に過酷になったものとして持田に映った可能性がある。

 

「しかし、このようなせっかくの教育の自由化と個性化のこころみも、近代公教育における能力主義的秩序を前提として具体化するかぎり、差別と選別を拡大するばかりであろう。われわれは、近代公教育における能力的秩序を問いかえし、教育を共同化することを志向するなかで、教育を自由化し個性化することを考えるべきであろう。」(持田1976,p245)

「われわれは、教育における選別そのものをなくしていくことを基本課題としなければならない。そのため、さしずめ、少なくとも後期中等教育が終了するまでは、選別の体制をひきのばすことが課題となる。」(持田1976,p247)

 

 そうすると学力選抜が否定されねばならないが、これと関連して当然「専門性」の価値観にも目を向けねばならない。「専門性」というのはいわば「過去の人類の叡智の遺産」であり、特に近代化の結果生じた産物であった。60年代の持田はこの遺産を生かしつつ、これを「再編・変革」しようとし、このような遺産に見向きもしようとしない勢力を批判する立場をとったのである。しかし70年代にはこの前提は持田の中で明確にではないにせよ崩れ落ちたのではないのか。この一種の絶望感が「専門性」を否定し、更には「近代化」への否定にも繋がっているように私には思えてならないのである。ここに残ったのが「近代化」の「再編・改良」を否定しつつ、これを「変革」し、その止揚を図ろうとするという、70年代の持田の態度なのであったのではないのか。しかし、持田の特殊性というのは、あくまで「リアール」な態度を取るためにはこの「過去の人類の叡智の遺産」についても適切に捉えるべきであると態度にあり、やはりこれを継承することについて積極的に否定せんとしても全否定できていないという点である。持田の「転換」を支えたのがこの間にある「対応の甘さ」であったはずなのだが、持田はこれを決して克服できなかったのである。そして、私は持田の「無自覚」はこの矛盾の中に現れているように思うのである。

 

○持田は「リアール」に問題を捉えていたと言えるか?――持田的「実践」の限界について

 上記の矛盾した態度と関連して持田の教育の現代化論において問題となりうるのは、「私事の組織化」をいかに行うかということである。最も気になる点は「私事の組織化」は「私事」そのものに対する自由の制約を伴うかという点である。厳密に言うならばこれは自由の制約となることが避けられない問題であるように思えるが、この点について持田は正面から問題に取り組もうとしなかった。結果としてここに矛盾が生じざるをえない。特に70年代の持田はこのような矛盾構造を強化していくことになった。

 これが露骨に現れている著書が「教育における親の復権」(1973)である。本書における持田の「私事の組織化」の実践における矛盾は2点述べることができる。1点は前述した自由制約の問題であり、子どものプール学習について、学校で行うことができるのはその基本的な部分に留まり、それを超える部分は「親の責任」にて社会教育施設で補えと主張する点においてこれが見られる。

 

「一概に水泳指導といっても、学校教育として行なうものには、自ら一定の限界がある。……さらに、「能力あるものには高い教育を。そして逆に能力の低い者には低い教育を」という能力主義原理が教育の本質とかかわって批判さるべきものであるならば、わたしの子どもの小学校が行なって来た水泳指導の実践は正当であるといわなければならない。」(持田1973,p163)

「ひとりひとりの子どもの能力をのばす指導は親の責任において社会教育の施設を利用してすすめるべきである。……親の要求のなかには利己的なものもあり、親自身考えなおすべき余地がある。」(持田1973,p164)

 

 ここでの能力主義批判の言説は厳密に言えば「専門性論」の延長線上にある議論であるが、これに対しては発達と教育が本来社会的であることからアトム化した「能力」なるものが虚構にすぎないとし批判される(持田1976,p194)。このような批判が提起される際、明らかに「反専門性」を持田は志向している訳だが、これは持田の実際の認識とは矛盾した主張となっている。「能力主義」という言葉を一度棚に上げ、「教育の共同化」を志向する立場からしてみれば、よりレベルの高い水泳を学校教育において行うことも否定されるべきではないのではないだろうか。しかしここで持田は自らのリアールな認識から、そこに「限界」を設定することで批判を行っているのである。

 

 もう一点は持田が「親と教師」の共同化を図る組織としてPTAという組織以外のものを全く想定していない点である。これは既存のPTA批判論に対する持田の再反論としてPTAを擁護しようとする際に露骨に出てくるものである。

 

「わたしも、多くのPTA無用論・解体論の批判者と同様、それにくみする者ではない。

 理由は簡単であり、明白である。PTAを解体したところで、「PTA」の現実を変革し、親と教師が現在かかえている矛盾を止揚していくことにはならないからだ。矛盾を止揚することにならないばかりか、無責任で機械的な解体論は、それをいよいよ固定化し、矛盾をより鋭くするのに役立つばかりだからである。

 しかし、さりとて、多くの「PTA民主化」論者がいっているように、真に人間的に協同し得ないような形で結合させられている「近代」における「親」と「教師」の現存をリアールにみつめ、それを問いかえすことをしないままに、親と教師を理念的に価値化し、両者が提携し連帯することの必要性と可能性を観念的に説いたところで、PTAの現実を変革することにならないことは明らかである。」(持田1973,p104-105)

 

 先ほどは能力主義のアンチテーゼを提示する際に矛盾を生じていたが、今度は「PTA無用論」へのアンチテーゼの提出を適切に対処していない。ここでも持田は暗に「リアールなPTA」を捉え、「それを生かす」ことを念頭に入れてしまうために、「PTA以外の組織」による親と教師の連帯、及び子どもの教育権の保障を高めるという可能性について閉ざしてしまっている。もっとも、別の著書では持田も「親と教師の関係を共同化し、親が教育にかかわる社会共同の場は「PTA」だけにかぎられるべきでなく」その外のさまざまな場でも設定される必要があるとするものの(持田1976,p265)、本書においてかなり具体的に教育を変革することを論ずるにあたって一種の曲解を生みだしてしまっているのである。

 

 この持田の2つの矛盾において共通する要素ははっきりしている。どちらも「現状」をベースにした議論を行っているという点である。①プールの事例においては実際のプール指導の指導者の問題などの現実的な教育的リソース(資源)を公教育内で確保することの限界から自由の制約が正当化されることになる。また、②PTAに対する擁護というのは、「私事の組織化」を適切に図るためには既存の組織の有効活用が何よりも大事であり、その要件を日本において満たすのがまさにPTAしかないため、PTAを基盤にしてその共同化の取り組みがなされなければならないことが持田理論の中では自明のことであったからであると読み取れる。PTA批判論は国民の教育権論と同様に理念的な批判を行い、かつPTAが不要であるとさえ論じるものであったため、到底持田には受け入れられなかったのだろう。

 ただ、この両者の議論はそのまま70年代の持田の議論の限界を示しているともいえるだろう。①については有限な資源の問題との兼ね合いであるが、「私事の組織化」を行うにあたり例えば「お金を払ってでも」よりリソースを高める取り組みを行うことが許されるのであれば、これを公教育内で行うべきものとして認めてよいのではないのかという議論が出てきてもよいように思う。もちろん、複数の学校の取り組みを共同化することによってリソースを高めることも可能性としてはある。そのような議論について持田はあらかじめ否定してしまっていることになる。実際の所、これを公教育の枠内でいかに行うことができるかという問題は残ろうが、現状不可能な取り組みであるとも言い難いものである。

 ②については現在では学校運営協議会や学校支援地域本部などの枠組みでPTAそのものとは異なる組織で共同化の枠組みを設定する可能性に開けていることは明らかになってきている。これについても「現状(の日本)」を基軸にしてしまうと、組織の可能性に閉ざしたものと捉えることができる。

 以上のようなことから「リアールに捉える」ということの一端も理解できる。ここで指摘せねばならないのは「リアールに捉える」ことは持田の考えるような「現在の日本の状況を基軸にする」ことに固執する必要性がないということである。もちろん、現状とその文脈の理解というのは、それなりの合理性を持って成立しており配慮すべき内容ではあるが、その前提は常に突き崩される可能性がなければならない。そしてその可能性のヒントというのは、過去の日本を参照することでもよければ、(過去・現在の)世界の事例をもって取り組んでもよいし、実在しないものを参照することが必ずしも問題となる訳ではない。持田の議論において重要なのは、あくまで既存の組織・法制度の重要性をよく理解し、そのことを生かすことはそれを殺すよりも既存の教育の自由を確保できる可能性があるという点である。これは制度改善の上で決して無視してはいけない論点である。

 

 持田独特の文脈依存性の問題というのは、「自己教育」の重要性を強調するときにも歪んだ形で現れている。持田は、「自己教育」を「与える教育」との対比で語り、前者を子ども主体で学ぶ対象を見つけていくこと、後者を教師等が与える教育として規定する。そして、両者の関係は次のように語られ、「与える教育」は自己目的化してはならないとする。

 

「教育の実践において教育主体がすすめる教育的働きかけが重要な意味をもつことは論をまたないところであるが、そのような「与える教育」は、「自己教育」――学習主体が生活実践のなかで、自主的共同的にすすめる自己形成を発展させる媒体として位置づけられるべきである。「与える教育」は「自己教育」をたかめるための媒体であって、それ自体が目的化されてはならないのである。しかし、現在、われわれの周囲において「与える教育」は、以上のようなものとしてはとらえられてはいない。」(持田1972,p372)

 

 ところが、「近代」においては、「与える教育」が「自己教育」から切り離されることとなったとし、この例として「幼保二元化」の議論も取り上げることとなる。

 

「しかし、そこにおいては、「近代」においては、なぜ教育が「与える」教育に矮小化されるのか、について掘り下げて検討し、そのような「与える」教育の体制そのものを変革しようとする問題意識は見られないから、せっかくの「自己教育」への着眼、教育の「生活化」への問題提起が観念的なものとなり、「与える」教育を変革することにならないばかりか、これを「補完」することになっているのである。」(持田1976,p65)

「第二、「与える教育」が「自己教育」からきりはなされて展開し、教育の焦点がここにもとめられるとき、教育を与える者の思惑によって「与える教育」の内実は多様化される。すなわち、本来一体のものとして運営されるべき「生活」と「あそび」と「学習」は分解され、そのどれかが強調されることとなる。」(持田1976,p240)

「幼保が二元化され、多様化され、幼・保それぞれの施設の間にもさまざまの格差がみられるのは、近代教育の本質とかかわってそれなりの必然性があるのだから、「幼保一元化」の構想は、近代における教育の本質観と体制を転換し変革することとかかわってとらえなければならない。それは近代における幼児教育の実践と体制を支配していた原理を全面的に変革し、止揚することとして理解されなければならない。」(持田編1972,p11)

 

 しかし、「近代」原理が果たして「教育」のみに目を向けていたと捉えてよいかはどうにも疑問が残る。私には本田和子などが述べる「子ども論」特有の「遊び」への着目や、「子どもの世界」の存在への信仰については「近代」原理特有の性質が与えられているように思えるし、これを「現代」的原理というのには非常に違和感がある。「遊び」の共同化・組織化志向は確かに「現代的」と言われるべきだろうが、「遊び」のみへの着目はむしろ「近代」原理なのではなかろうか?

 また、持田においては、この「自己教育」はそのまま「組織化」されるべきものとされる。しかし、ここには当然「子ども主体」であることと「組織化」に伴う排除の原理が付与される可能性があるという、先述した持田(1973)におけるのと同様の問題が生じることとなるが、持田はこの問題点を検討しようとしているように見えない。これは「止揚」により解決するものとして片付けてしまっているか、「自己教育」は「教育」の本質であり、教育は本質的に共同的なものであるからこのような問題は生じないかのように捉えているように思う。次の主張は少々奇妙なものだが、この矛盾が露呈したものと言うこともできるのではないか。

 

「ところで、このように、教育=自己教育を社会的にとらえようとする場合、教育変革の主軸は「制度としての教育」を変革していくことにもとめられる。

 教育=自己教育は社会共同の事業として「制度」として存在し、しかも、その「制度としての教育」が教育の本質的あり方を疎外しているからである。この意味において、教育制度の理論こそが教育理論の主軸として追求されなければならないのである。そして、「近代」における「制度としての教育」の現存を解明していくためには、以上のべて来たこととかかわって、「教育権」について言及し、また、「教育の条件整備」といわれることがらについて検討を加え、それを教育理論のなかに位置づけておくことが必要となる。」(持田編1973,p36、再掲)

 

 ここでは「教育=自己教育」の用語が実態のものか、本質的=共同的なものか整理できていないために読解が難しい部分である。『そもそも「教育=自己教育」とは「制度化」可能なものなのか?現状においてそれは「不十分」なものだが、きっと「制度化」することは可能である』という前提のもと書かれている主張であるが、その主張の真偽は定かであると言い難い。

 そしてもう一点指摘しておきたいのは、このように持田が「与える教育」と「自己教育」を二項図式的に区別しようとするとき、明らかに実態も二項図式的であるかのように語ろうとしている点である。私には実態は(特にその「近代」性を語るのであれば)そのような二項図式を取っている訳ではなく、明言できるのは両者が分断されているということ程度ではなかろうか。持田はこれについて戦略的に(悪く言うならば不当に)分断を図ろうとしているように見えてしまうのである。

 

○結局持田の近代論から何を読み取れるか?

 持田の近代論は実態としての「近代」ではなく、規範性をもった「現代」との対比から実態としての「近代」を捉えようとする視点があると指摘した。持田の議論は本質的に「組織化・共同化」を志向するものであり、それを教育そのものであると捉えた。しかし、この議論の致命的な疑問点は「教育=共同化」とした場合に果たして「教育を受ける利益」が「私的なものであること」を理由に排除されるのではないのか、という点であり、現に持田がそのような排除を行う傾向があったということであった。

 では、持田理論を持田の意図に反して『改良』し、この「教育=共同化」図式を「公教育=共同化」として読み替えてみたらどうだろうか?「公教育」という分野においては公的な資源(税金)を使って教育を営むことになる以上、そこに一定の共通項・ないしミニマムなスタンダードを設定することを回避することは不可能と言ってよい。その制約要因が何によるかにも目を向ける必要があるものの、公教育を運用するにあたっては常に何等かの制約に縛られることになる。そのような条件の中で如何に「共同化」を志向するのかという問いはそれこそリアールに追求されるべき課題であると考えられる。持田理論はこのような公教育における「べき論」を考える際の枠組みとしては現在もなお有効であるように思える。

 もっともここで注意すべきこともある。最も重大な論点となるのは、「公教育」の「公」が何を指すのかという答えを提示していない点である。これは「国」を指すのか、「地方自治体」を指すのか、それとも前提となる公的な資源との関連では漠然と語られがちな「地域」「学区」「学校」なのか。この点持田はどう考えていたかというと、やはり二重性を感じる部分がある。一方で持田は「先導的試行」を行う自治体に対して一定の評価をしつつも、その問題点を次のように指摘した。

 

「しかし「先導的試行」の方式が以上のような課題を正しく果たしていくためには、それが政府文部省によって専有され、一方的に運営されてはならない。いわゆる「先導的試行」のこころみは、現在、中教審や文部当局が考えている構想に批判的な見解まで含めて試行の対象としなければならない。そうでないかぎり、せっかくの「先導的試行」も中教審や文部省の学制改革構想の「先導」にすぎず、それは科学的でもなければ国民各層の批判と合意を確保することも不可能である。」(持田1979,p324)

「一方、「先導的試行」をさきにのべたような形で学制改革に対する一つの自主的実験として実施していくためには、教育課程についての国家基準をフレックシブルのものとする必要がある。しかし、中教審答申は一方において「先導的試行」の必要性を説くとともに、他方、教育課程についての「国家基準」をゆるめるどころか、一段と強化すべきことを提案している。」(持田1979,p325)

 

 持田はこれと合わせ私学支援に対しても、「標準化・画一化」されることを批判していること(持田1979,p354-355)、また国主導で行う「先導的試行」が国の意図に沿ったものであることも批判がされ、それが「複数民主主義」に基づくものであるべきだとしている(持田1979,p323)。しかし、このような「複数民主主義」を尊重せんとしても、個々の意志(理念)のみでどうにかなる訳ではない。ここには、複数民主主義を成立させるための(これは当然主体間の、複数性のある主体の中でも利害が一致ないし近似する者同士による「組織化・共同化」の過程を内包するものである)条件整備が必要であり、持田の言う制度に対する「リア―ルな認識」が必要になってくる部分である。これを持田のように制度の文脈依存性にとらわれず、分析的に捉えることが求められるということである。そしてこれが組織化・共同化を志向するものである以上、常にそこから排除される側への配慮も必要となる。この救済は持田の言い方でいえばまさに60年代に志向されていた「現代化」と「近代化」の両方を達成することでならなければならないということであろう。

 

※1 以下、持田文献については以下の内容を参照している。なお、持田1980a,持田1980bは1960年頃の持田の論文を取り扱ったものである。

持田1963「学校づくり」

持田1965「教育管理の基本問題」

持田編1969「講座マルクス主義6 教育」

持田1972「学校の理論」

持田編1972「幼保一元化」

持田1973「教育における親の復権

持田編1973「教育変革への視座」

持田1976「「生涯教育論」批判」

持田1979「持田栄一著作集6 教育行政学序説」

持田1980a「持田栄一著作集1 教育管理(上)」

持田1980b「持田栄一著作集2 教育管理(下)」

 

※2 後述するが、これまでの「近代論」の枠組みで言えば持田はタテマエとしては「複線的近代論」をとっており、物事をリアールに捉えるためにもその前提は明確である。しかし、問題解決(現代化の志向)を考えた場合には結果的に単線的に見ている傾向もある。

 

※3 ここでの批判というのは、実は吉田や佐藤が指摘する転換の方向性とは逆に作用していることにも注目したい。すなわち、吉田・佐藤の場合、マルクス主義的立場はむしろ徹底化されたものと捉えられる訳だが、井深はその逆で「徹底化しても無駄だからあきらめた」としているのである。なお、井深が指摘する黒崎勲「教育行政学」(1999)における黒崎の指摘も「構造改革路線と呼ばれたマルクス主義の戦略にしたがったものであった」ものが大学紛争以降「戦略展望は姿を消す」ものとされていた(黒崎1999,p13)という点では井深のような指摘を行っているものの、それに続いて黒崎は「教育を2つの過程の交錯のなかで把握する方法意識はそれ以後の持田の教育行政理論の別名である批判教育計画論にも一貫して受け継がれるものである。」とする(黒崎1999,p13)。これは要するに「近代」と「現代」を対比的に捉える中で「変革」を行っていこうとする持田の態度を言っているのであり、井深の指摘とは逆に持田の態度はむしろ一貫したものだったとする点で異なる。更に言えば、「マルクス主義的な戦略展望が姿を消した」というのは言葉通りの意味で捉えるべきだと私には思えない。持田が用いる「現代」の用語の規範性の強さは70年代においても十分にあり、これはある意味で明確な戦略性であると捉えることも可能である。

 

<2022年12月11日追記>

※4 以下で指摘する「60年代」「70年代」という区分は少々荒いので補足する。ここで念頭においているのは、持田自身が持田編1969における論文にてこの論文を持田1963及び持田1965の反省として書いたものであるとしている点にある。よって正しくはこの境目はひとまず1969年以降ということであるし、持田論者による転換理論もこの持田自身の言及に依拠しているとみてよい。

 しかしここで当然疑問となるのは、1965年から1969年まで4年の間が空いている部分についてどう考えるかである。結論としては、1969年を境にすべきという風に見るべきではなかろうかと思う。この間に書かれた二つの論文を転換前と転換後の枠組みで捉えると、以下のようにまとめることができるだろう。

 

・「教育権保障と公教育の組織化」『教育学研究』第34巻第2号(1967)

 本論ではすでに近代私教育と近代公教育は一体化したものとして語られている(持田1967,p100-101)。福祉国家の思想が「非社会主義的」であることについても言及しているが(同上、p101)、これに対して賛同するか反対するかは明言されていない。しかし、福祉国家的であるドイツについて「複数民主主義」が機能していることを指摘している(同上、p108)ことからすると、肯定的に捉えているとみるべきであると思われる。よって『転換』していると言い難い。

 

・「現代幼年期教育学制の展望」『教育学研究』第35巻第3号 (1968)

 本論では福祉国家と理念と実態のズレが強調され(持田1968,p237)、これについて「現在において、幼児の権利を保障し、かれ等の福祉をたかめていくためには、いわゆる福祉国家の幼年期教育の構想を建前どおりのものとして具体化し実質化していくことが必要である。このことは、あるいは福祉国家の幼年期教育構想そのものを止揚し、それに代る新しい幼年期教育体制をつくり出していくことであるかも知れない。しかし、このことを吟味することは暫くおく」(同上、p239)としており、態度が曖昧である。しかし、幼年期教育の「専門性」の必要性を強調している(同上、p241)から『転換』していると言い難い。

 

<2023年2月5日追記>

※5 広瀬裕子編「カリキュラム・学校・統治の理論」(2021)における広瀬論文「近代公教育の統治形態を論じる論理枠の構築について」において、持田栄一が取り上げられていたので、私の主張との相違等を見ながら問題点等を取り上げてみたい。

 

 まずもって、広瀬論文のタイトルそのものが持田理論との関連性でそもそも不可解さがあるという点である。「持田理論の特徴は、教育行政を近代公教育行政であると捉えたことにある」という指摘(広瀬2021,p221)は正しい。しかし、持田が「われわれの考えるべき教育を近代公教育、すなわち「私事」としての教育の国家保障と把握した」とすること(同上、p229)は9割方誤りである。正しいのは持田が志向したのが教育の国家保障であったことである点だが、「近代公教育」を「再編」することなく「変革」しようとする持田の課題はあくまでも「私事の組織化」であって、この「私事の組織化」という問いにおいて「私事性」が担保されるかという問いを持田は放棄していたこと、そして「私事の組織化」を具体的に持田が議論しようとした際には私事性が排除される形で組織化を志向することとなっていたことであり、これが持田理論として私事を排除するのはほとんど不可避的であることを私は立証しようとしたのである。このような誤りが発生するのは、広瀬は持田が繰り返し強調していた「現代」という言葉に内包されていた「近代」との距離感について全く言及しないことに起因するものである。仮に持田の志向していたものが「近代公教育」であると断ずることができるのであれば、私が評価した持田の議論と、広瀬が重要視する持田の議論はほとんど同じであるとみることも可能だ。しかし、70年代の持田の議論は理論上ここで擁護しようとする「近代公教育」を殺すことになるという点が私の批判点なのであり、だからこそ60年代のような「近代」と「現代」の同時的達成を志向する持田の理論こそ健全であると指摘したのであった。

 この点に関連して、広瀬論文は黒崎の持田理論の取り込みが60年代の持田の議論をベースにしていることに疑義を投げかけることから持田の議論を考察するが、70年代の持田の議論が優れている点として、「国家権力の警戒モードが最大化していること」を見出している(cf,同上、p227以降)。また、60年代から70年代に展開した持田自身の内省をそのまま評価することを重視すべきであるとし、黒崎の議論は70年代の持田の議論を検証しないまま、60年代の(理論途上の)持田理論を支持することを問題視している。しかし、結果的に私が70年代の持田ではなく、60年代の持田を支持する理由は十分にあることを指摘し、そもそも転換論を主張する持田論者が持田の理論を「精密化」されたものと評価すること自体が問題であるとした点はそのまま広瀬論文にも適用可能であったと言える。端的に言えば、広瀬論文においては、マルクス主義の立場をとる持田が主張する「止揚」という言葉の運用について肯定的に捉えすぎているのではないかと思う。私自身はこれまでも繰り返しているように「止揚」という言葉は無責任に物事を抽象化し、あたかも「否定の否定」が「肯定」になるかのように見えてしまうまやかしでしかない(その否定は方向性を反転させてしまう)、そしてそのような無責任の言説が過去に存在していたこととその系譜を明らかにしていこうとしているという立場で一貫している。広瀬は「この時期、持田は、国家権力、行政権力への警戒感を最大化させながら同時に制度を積極的に構想するという二律背反をかろうじて統御しうる方途を確保した格好である」(同上,p227)と持田を擁護するが、これを支持することはできないのである。