上原善広「差別と教育と私」(2014)

 今回は上原の著書を介して「八鹿高校事件」について取り上げたい。上原の著書自体は八鹿高校事件に限らず、部落差別に関わるテーマを実際に自らが取材した上で考察している内容で、「当事者」としての視点がなければ行えないであろう内容も取り扱っており、非常に読み応えのある本である。

 ある意味で断片的に取り上げている「八鹿高校事件」について本書を基軸に検討するのは、この事件をめぐっては政治的二項対立図式として語られがちで、「中立」に近い立場で語られているか疑義が多いことが挙げられる。上原もp111で述べるように「解放同盟で活動した経験をもつ者のほとんどは「八鹿事件は共産党のデマだ」と教えられてきた」という状況も(近年はわからないが)長く続いており、「何が事実だったか」の認定をめぐってさえ当事者間では相違が多くある。私などは東上高志「ドキュメント 八鹿高校事件」(1975)もかなり事実に近いものではないのかと思っているものの、東上が明確に共産党系の人物であるため、しばしば解放同盟側の人物から批判の対象とされている(高杉晋吾「部落差別と八鹿高校」1975)。特に本事件についても共産党機関紙「赤旗」で積極的に取り上げられており、この事件への関与について共産党が直接関わったとする資料があるとする見解もある。上記の事情から、事実認定の議論については、本書と裁判判例による事実認定を基軸に考え(※1)、それ以上について立ち入らないことにしたい。幸いことに、この事件の議論というのは当事者の並々ならぬ努力による豊富な資料があり、Wikipediaでもかなりその内容が整理されているため、事件の詳細についてはそちらに譲りたい。

 

○「暴力」の正当性について――「法治国家」の限界をどう考えるか?

 八鹿高校事件を考える上で「暴力」が行使されることが正当化されるのかどうか、という論点はその「暴力」の定義も含め極めて重要であるように思える。

 上原も思う所のあった南但地区で出会った男性の差別発言(p88)の持っている意味は非常に重いものである。このような者がいるという事実のもとでは、丸尾の物言いについても極めて「正当」である部分がある。なぜならば、「部落の者が対等に扱われているか」という基準のもとでは、これが全く達成されておらず、今なお、根強い「差別」があると言うことができるからである。そして、それは今までの差別是正の方法が甘かったからだったのではという疑念まで出てくる。

 かつてこのような状態を是正するために部落闘争で用いられたのが「確認会」の場であり、それを認めるための「糾弾権」の憲法上の保障の獲得というのは部落解放において重要なものとされていた。この確認会の場も理想的な形態としては、中立な行政職員等の介在の中、被差別者の問題点を明らかにした上で、そのような行為を今後行わないことを書面で証する場とみなされている。しかし、このような場が設けられること自体、法治国家的にはかなりイレギュラーであることは明らかであろう。特に他の社会問題、ないしは教育問題と比較してしまうと、そのような疑念はより明確なものになる。「いじめ」を受けた子どもの加害者にこのような「確認会」を行うことは、必要なことかもしれないが、部落闘争における「確認会」と同じような手続で行われることは不可能に近いし、そもそも「確認会」に類する行為自体が行われないことだって多々あるのではないのか。その場合にいじめの被害者側の人権擁護はどうなってしまっているのか、と問うたとしても、社会・国家の側からは何の応答もなく、そのまま放置されてしまう。このような状況にあるのであれば、部落闘争において行われていることは「特権的」になりはしないか?(※2)

 これは合わせて、部落民が「実際の差別にあうこと」がどれほどありえるのかという論点にも繋がる。この論点提起においては個別事例があまり意味を持たない。本書において上原は部落闘争で言われるような差別を受けた経験がないことから部落闘争にも違和感を感じている(p243)。もっともこのような話も一事例に過ぎず、「そのような人物は何らかの優れたものを持っていたから排除を実感できないのであって、一般的にはそうでない」という反論も十分可能だ。いずれにせよ実証的には不十分である。

 このような状況下において、かつ法治国家という形式をとっている日本の状況を考慮すれば、基本的には法により人権が確保されるべきであり、それを脅かすものがあるならば、法によって罰せされるべき内容である。このように考えていった場合には、上記南但地区男性の差別発言は法治国家としては何らかの問題があったものと認めることが難しい。しかし、何らかの具体的実害が出ている状況もないという意味では、このような発言まで「確認会」のようなものをもって糾弾しようとすること自体が問題だという整理をするしかないのだろう。厄介なのは、教育の場において、具体的実害が出ないにせよ、これを助長するようなことがなされるのは如何か、という問題である。第三者が介入すべきかという論点は置いておくとしても、当事者においては教育の場における是正の機会は必要であるように思える。

 その意味でこの事件の悲劇の一つはp112-113にあるように、当事者であった生徒たちの声が届かなかったということである。ここで「暴力的」に対して問い返されるのが「民主的」どうかという基準での議論である。「民主的」かどうかでは解決しないからこそ「暴力的」なものに傾いたものと解釈することもできるが、「民主的」であることを否定することこそ何よりの問題なのではないか、という合意がこの事件を含む部落解放運動で調達できていなかったように思えてならない(※3)。

 

 そしてこれに関連して問題となるのが、丸尾自身は自らの行為が正しいものであったとしている点である。言い換えれば、司法判断というものに対して正しいものであると認めていないということである。実際、本事件について司法で認めた事実関係を認めようとしない立場はある。これは八鹿高校事件に限らず、他の部落闘争との兼ね合いの中から「司法」というものが位置付けられている側面も無視することができない。例えば、狭山闘争を指揮していた西岡智などの司法に対する見方は「国家権力の手先」のようなものであり、中立性を決して認めていない(cf.西岡智「荊冠の志操」2007、p124)(※4)。これは悪く言ってしまえば、「自分に対して都合の悪いことを言っている者は皆でつるんでいる」という見方をしているということにもあるが、このような闘争観は確実に部落闘争の系譜として存在していたものであるといえる。50年代後半から部落解放同盟の議論で出てくる「朝田理論」に基づく認識においては、「部落においてつねにおこるいっさいの部落民に不利益なことは、差別として考えなければならない」とされたり(部落問題研究所「戦後部落問題論集 第一巻」1998、p34)、「今日独占資本主義の段階では独占資本の超過利潤追求の手段として部落民を主要な生産関係の生産過程から除外」するものとされ(同上、p39-40)、極めて階級論に依拠した議論がなされていた。「独占資本の支配」という場合その対象が極めて抽象的であり、言い換えれば曖昧さもある中で、司法に対してもこのような「支配層」に位置付けられることは容易になされる環境にあるものと考えられるのである。しかし、このような階級闘争観は実態を単純に、かつ「自らの主観的尺度により」二項図式化する傾向があるため、それだけで実態をとらえ損ねることにもつながりかねないのである。

 

○行政の機能不全について

 ある意味この事件で最も問題であるとして捉えるべきは「行政の中立性」が全く機能していないといえることだろう。1967年の「同和対策事業特別措置法」が成立して以降、各自治体には部落解放同盟の地域支部との「窓口一本化」が進められ、闘争の資金調達を容易なものとしていた。合わせて「朝田理論」に基づく「差別」認定を各自治体に要求し、部落解放同盟自治体が逆らうことができない状況というのが生まれてしまった。これは八鹿高校事件における警察の動きが著しく悪かったこと(上原2014,p112-113)や、事件後に周辺自治体の長名で事件について中立性が疑われる文書が出されたこと(東上1975,p113-114)など行政側の動きが鈍かったことようであることが語られる。この点、警察の問題については、Wikipediaにもまとめられているように明確化しているが、行政側の問題については、国会答弁を調べればわかるが「特に問題が報告されていない」とされ続けていたことなどもあって警察と比べれば明確化されていると言い難い。

 

 行政側の問題として表面化している例として挙げられるのは、公金支出の不当性が問われた裁判判決(神戸地方裁判所 昭和50年(行ウ)15号 判決)で、解放同盟に「窓口一本化」し補助金を支出することが公的支出であったかという点が問われた。「窓口一本化」については、その理念としては「適切に部落の要望を行政に伝えていく手段」として正当化されていたのであるが、実際は部落全体の公益性に反するような形で部落解放同盟の言うことを聞かないといけない部落出身者が一定数いたとされる(東上1975,p47)。実際、上記判例でも次のように公平性を欠いたものだったと説明される。

 

「この点に関し、被告ら(※八鹿町長)は、高等学校において部落解放問題について本質的に取り組み研究するために解放研が設置され、兵庫県教育委員会もその設置を進める方針であつたのに、八鹿高校教師団は、管理職及び生徒の意思に反し、断固これを拒否し、話し合いにも応じず、ハンガースト中の生徒を放置したまま下校するなどの教育者として許されない行動に出たため、八鹿高校の教育正常化を求めた部落完全解放のための闘争であり、右共闘会議には地域団体を始め広範囲の団体を通じて絶対多数の住民が参加していて右共闘会議への補助はこれら住民の要望であり、右共闘会議に苦しい生活環境の中から積極的に多数参加していた解放同盟員に対する費用弁償的補助は同和行政の責務であつたと主張する。しかし、八鹿高校では、従前においても生徒のクラブ活動として部落問題研究会が存在して活動を続けており部落解放問題が無視されていた訳ではないし、解放研の設置の否定がただちに部落完全解放の否定に結びつくものでもないし、右共闘会議への補助が住民の要望であつたとの点についても、〈証拠〉によると、南但一〇町の行政関係者は、八鹿高校教育正常化共闘会議の段階で事態を正確に理解しないままこれに参加していたこと、A町長のもとで昭和五〇年二月まで八鹿町の助役をしていた森木正三ですら八鹿高校闘争は解放同盟の行き過ぎであるとの意識を当時から有していたことなどが認められ、右事実によると、右共闘会議に絶対多数の住民が正確な認識のもとに参加し右共闘会議への補助を要望していたものとは、たやすく認定できないものがあるし、解放同盟員に対してのみ費用弁償することは公平を欠くものであるから、被告らの右主張はたやすく採用し難い。」(神戸地方裁判所 昭和50年(行ウ)15号 判決)

 

 判例から推察するに、行政側も「確認会」等を通じて強制的に解放同盟側の主張を受け容れざるを得ない状況があり、更に言えばこれは兵庫県から市町村への圧力の存在があったものとしても解釈しうる内容であると思われる。まさに解放同盟の運動性が行政側の「権力者」に直接働きかけ、そこからトップダウン式に従属させていく過程だったことの一端がわかる内容である。そのようなトップダウン式だったからこそ「南但一〇町の行政関係者は、八鹿高校教育正常化共闘会議の段階で事態を正確に理解しないままこれに参加していた」のではないのか。

 また、これに関連して行政側から特殊な利益を得ていた事例として、建設業界の根深い癒着関係はよく語られる(西岡2007,p255; 野中広務辛淑玉「差別と日本人」2009,p4-5)。本事件から学べる教訓は、「行政」自体が中立性を装いながらも意外と脆く、特定の利害関係者と容易に結びつきうるということだろう(※5)。であれば、行政が行っていることが(情報公開として)可視化され、問題を指摘しうる状況を作りだすことということも行政の中立性の確保のためには重要だということになるだろう。

 

○部落差別問題をめぐる「政治性」への還元について

 最後にこの事件がp111でも触れられているような「政治性」の問題に、特に共産党絡みの議論として語られることに言及しておきたい。これについては高杉晋吾が八鹿高校事件に関連して共産党が八鹿高校に直接関与するよう指示する文書があるという指摘をしたり(高杉1975,p35)、部落研を民青養成機関であると指摘したり(同上、p53)する始末である。恐らく多かれ少なかれ共産党が政治的に絡んだこと自体は事実であるとしても、それが過大評価され事件の事実・問題点が曲解される傾向があることもまた事実と言うべきだろう。

 ここで気になるのは何故そのような執着をしたのかである。これに関連して西岡が少々興味深い指摘をしている。

 

「もちろん、解放運動の側も自己批判が必要だ。「あることないこと」といったが、一部は「あった」し、内部で批判や闘争があった。それを公然とし難かったのは「日共に利用される。事実であっても不当な文脈の中で曲げられる」という思いが多くの人にあったからだ。さらには組織内部の会議等でも隠そうとされることもあった。」(西岡2007,p259)

 

 管見の限り、このような指摘はまだ他に見かけたことがない。これは言い換えると、「政治的」に攻撃を行ってきた共産党勢力に対して同じように「政治的」に対抗しなければ自らの運動が潰されると感じたから、ということが可能だろう。これは部分的に正しい可能性がある一方で、当時の運動全般の動きとして二項図式に基づく「政治的」問題への還元が日常的に行われていたことの弊害があることも否定できないように思えてならない。この点については今後も検討が必要だろう。

 

※1 もっとも、現在でも判例の事実認定を無視した言説が再生産され続けていることも事実である。この理由の一端として本書でも確認できるように、丸尾自身この事件の裁判所の判決を不当であると考え続けており、ある意味で裁判所の事実認定も認めないような姿勢があることも念頭に入れねばならないだろう。このような姿勢については「法治国家としての体裁を放棄したいのか?」という批判をせざるをえない。

 

※2 このような議論を考えるにあたり、例えばいじめの問題が80年代中頃からの社会問題であることや、現在に至るまでのマイノリティの権利保障の議論も考えると、まだ70年代という時代はこのような強硬的な手段に対して寛容たりえたのかもしれない。

 

※3 泉幸夫「「糾弾権」はいま」(1987)では、全国水平社の理念に立ち返りこの問題に言及する。上原の著書でも水平社の主張を否定的に捉える節があるが(p57)泉によれば、このような水平社の理念は曲解であり、むしろ「フランス革命のスローガンで、自由・平等とともにかかげられた友愛のよびかけにまでさかのぼるもの」と捉える(泉1987,p76)。これに対し確認会をはじめとして解放運動が「一方的」なものであったことが批判されている。同書において八鹿高校事件後の八鹿高校生徒の意見として次のようなものがある。なお、地裁判決(神戸地方裁判所 昭和49年(わ)768号 判決)では、八鹿高校の解放研設置については「教える者と教えられる者との間に良好な教育的秩序の維持が必要な学校教育において、その全てを根底から破壊しかねない重大な危険性を帯有している」などとし、その意義を否定している。

 

「十一月十八日から職員室前に座りこみをはじめました。その原因は解放研の生徒が、〝話し合い〟をやりたいと先生方に申し込んだそうですが、先生方はそれ以前に但馬文教府でおこなわれた一泊研修会の話し合いでは、話し合いというものの相手側には発言権がないような一方的な話し合いでした。そこで先生方はそんな話し合いになるのではないかと恐れて話し合いの内容、時間他などについて質問されたが回答がなく、職員会議としては話し合いはできないと決められました。しかし、三人の先生が話し合いをしなくてはいけないと思われて、解放研の生徒と話し合われた。でも話し合いは外部の団体(他校の解放研他)がまわりにいたりして、解放研の生徒は全員立ち大声で訴えていたそうです。先生方を『差別者』としてしかみず訴えていたのです。相手の言うことも聞かないのは話し合いでしょうか?。」(泉1987,p18-19)

 

※4 この西岡の視点に関連して、黒田伊彦はより直接的に「司法権の独立なんていうのは嘘っぱちで、権力支配そのものだといえますね」と発言している(西岡2007,p120)。

 

※5 これに関連して泉幸夫は次のようにして逆説的に行政を批判しているが、このような批判もある意味で妥当ということになるだろう。

 

「しかし、それを知りつつも町、県当局、マスコミ、警察等は『部落』だからという理由で彼らを特別扱いにし、悪事を放置し、彼らを助長させてきたのだ。そのような人々こそ真の『差別者』と言われるべきである。

 はっきり言って解放同盟、町、県当局、マスコミ、警察、校長、教頭等は部落解放どころか、逆に部落差別を助長しているのだ。従って今度の事件によって受けた被害は先生達はもちろんだが、切実に『部落解放』を望んでいる人々はそれ以上の苦しみを味わったはずである。だから解放同盟と彼らをのさばらせた人々と、彼らが自分達の犯した罪の大きさに気づき、深い反省といっしょに正しい解放運動を進めていくまで許す訳にはいかないのだ。」(泉1987,p84)

 

<読書ノート>

P11「しかし、そんなことを知らなかった幼い私には、いずれも楽しみなお祭り騒ぎでしかなく、寸劇やゼッケン登校が楽しみで仕方なかった。

 隣にある堺市の一般地区から路地へと嫁いできた母は、こうした活動に批判的で、私が楽しそうにはしゃいでいるのを複雑な顔で見ていた。

しかし同和改良住宅と呼ばれる団地に住んでいる者にとって、この種の解放同盟の活動への動員に応じるのは必須条件であった。解放同盟などの活動によって一九六九年に成立した同和対策事業特別措置法により、私の父も、住居や税金などの面で恩恵を受けていたからだ。」

P44「私は間違いなく、解放教育の実践によって立ち直ることができた。しかし一方で姉のように反発し、また兄のように犯罪者にまで堕ちた者もいる。そのような個人差を考えても詮無いことだが、妹尾教諭の一言は決定的だった。私の中で解放教育は、生きる希望と虚しさと、そして疑問を同時にもたらしていた。

 そもそも解放教育は、同和教育から生まれた〝異端児〟だったという。

 そんな解放教育の「牙城」と呼ばれた松原第三中学は、私の幼馴染のいる望郷の象徴であり、同時に人権派教師たち憧れの〝聖地〟でもあったという。しかし、その当の三中から赴任してきた解放教育派の妹尾教諭は三中どころか、更池まで疑問視するようになっていた。

 彼女の中で、いったい何があったのだろう。そもそも彼女のいた三中での解放教育とは一体、どのようなものだったのか。」

※「おそらく同和、解放教育が正義であり権勢をふるっていたあの頃、自由なことが言えない風潮に対する反発だったのだろう。また同和・解放教育が作りだした〝差別のない理想郷〟の中で、路地の生徒たちを一種の過保護状態で育てることに対する反発だったのかもしれない。しかし彼女が亡くなった今、それを確かめることはできない。」と回答する(p255-256)。

 

P57「この融和主義に対抗して大正一一年に結成されたのが、全国組織の水平社だ。水平社は差別に対して徹底抗戦、実力行使の糾弾闘争を旨とし、融和主義を「ただの差別主義だ」と批判していた。矢野たちは左翼思想と水平社の理念に則って行動していたため、教頭以上の管理職を、基本的に全て差別者と決めつけていた。」

P66「実は、合宿はこれが初めてではない。それまでにも解放教育派の教師たちが共同で、荒れた生徒たちを連れて高野山や奈良の古寺で二泊三日の合宿を行っていたのだが、あまり効果がなかった。そのため「今度は徹底的にやろう」ということに決まり、一カ月以上もの合宿が計画された。

 これは夏休みを利用したものでもない。強豪校の運動部でもないのに、非行生徒のため平日に公立中学校が合宿を張るのは、他に例をみない取り組みだった。」

P68-69「当時、路地では極道になる者が多かった。それは貧しかったという事情もあるが、仕事につくにしても差別され、学歴もないため、厳しい肉体労働しかなかった。それを疎んじ、差別を力でねじ伏せようとした者は、だいたい極道になった。逆にいえば、肉体労働以外で生きようと思えば、それしかなかったのである。」

※女性の選択肢が絶望的にないのでは。

 

P73-74「その一方で矢野は市教委の人事権を握り、解放教育派の教師ばかりを三中はじめ小学校、高校にも集めていたので批判も少なくなかった。良くも悪くも、これが「松原共和国」と揶揄されることになる。

 何しろ子供会を担当する市の職員から、果ては学校の事務職まで路地の者や元活動家で固めているのだから、「勝手し放題、独立国なみや」と周囲から批判されたのも無理はなかった。

 後に松原方式の解放教育は、全国的にも知られるようになり、とうとう国会でも取り上げられ「偏向教育だ」と批判される。しかし矢野はもちろん、体制側にいた北山も一切構うことはなかった。

 何より三中が市内でも一、二を争うほど荒れた学校であったのは事実であり、その矯正に解放教育の「しんどい子を中心に据える」という手法が成功していたのも、また事実だったからだ。」

P75「北山は、現在の教育についても憂慮する。

「イジメは当事者はもちろんやけど、実はそれを見てる子が一番問題なんです。『ぼくは関係ない』『かかわったら面倒や』『自分の成績が大事』と傍観してる子。この子たちを指導し切らないと、イジメなんかなくなりません。今の日本を作ってきたのは偏差値教育、それは確かです。しかし日本をつぶすのも偏差値教育なんです。平気で仲間を蹴落としていく。最近は先生も冷たい。今は離婚する家庭も増えたから『母子家庭やからこんな子になるんや』なんて平気で言いよる。先生がその子の生活の実態を見てない」

※結局、傍観者も偏差値教育の産物と見ていると言うしかない。民主主義的には正しいのかもしれないが、法治国家的な発想からはかけ離れているようにも見える。

 

P85「兵庫県警警備部などの調べによると、同校ではこれまでに生徒のクラブ活動として「部落問題研究会」があったが今年七月、他の生徒が新たに部落解放同盟系の「部落解放研究会」を結成、正式なクラブ活動として認め先生に指導してほしい、と学校側に要求していた。しかし、同校の職員会議は「解放研は外部団体の指導によってつくられたものであり、正式なサークル活動としては認められない」との方針を決めた。」

P88「しかし「そうは言っても、若い人で結婚する人もいるでしょう」そう私が話を向けると、彼は真剣な顔でこう返答した。

「上原さんね、これは教育ですよ。幼い頃からエッタと付き合っていかんと言うておくんです。エッタには美人が多いですからな。私の小さい頃はエッタに美人がおったので好きになったこともありますけど、やっぱり怖いし、親にも注意されていたので諦めたことがあります」

 路地に「美人が多い」というのは、昔から言われていた俗信だ。一般地区の者と、路地の女との恋愛は必然的に「禁断の恋」となるので、より美人に見えるのかもしれない。または一般地区における〝逆説的な戒め〟なのかもしれない。

 それにしても、私は今まで面と向かって「エッタ」だの「ヨツ」だのと言われたことがなかったし、ことさら何度も繰り返されるものだからこれには堪えた。哀しいというよりも、まず呆気にとられ、時間がたつにつれて胸やけしたように気分が悪くなった。

 「ヨツ」というのは、路地の者たちが四足の牛や馬を解体していたからとも、「四足の畜生なみの存在」だとされたことからともいわれる差別語だが、この話でわかったことは、事件の舞台となった南但地域は、今も路地への差別が根深い地域だということだ。この背景は、事件にも深く関わってくる。」

※八鹿高校卒の67歳男性の発言から。

 

P92「こうして一九七〇年に解放同盟から共産系が脱退、彼らは別に全解連を結成した。自民党系は、一九六〇年に全日本同和会をすでに結成している。

こうして反原水爆運動と同じく、解放運動も目的を一つにしているにも関わらず、三つの団体に分かれることになったのである。……

この解放同盟による窓口一本化は、一九八〇年代まで一〇年ほど続き、地方によって多少のバラつきはあるものの、それ以後も解放同盟が主体となって行政との交渉を行うようになる。共産系が以後「同和問題は解決済みだ」という方針を打ち出すようになるのは、窓口一本化反対という経緯も含まれてのことだ。

この同和対策事業の解放同盟窓口一本化により、各地方自治体との交渉窓口が必要となったため、解放同盟は同盟員を急激に増やして、地方支部を次々と創設するようになる。」

P93「一九七三年一〇月、八鹿を含めた南但地域に、解放同盟南但支部青年部が結成される。彼らは三〇代以下の若者たちが中心で、学生運動や組合運動を経験した血気盛んな世代だ。

八鹿高校事件が起こったのは翌七四年だが、その年の一月頃から、八鹿町の周辺で大きな差別事件が相次いで起こっている。

これらの事件は、解放同盟の支部が結成される前には、おそらく住民たちにとって「ごく普通の日常的なこと」だったのだろう。しかし支部や青年部の結成によって、その「日常的なこと」が、次々と公にされ事件化していった。」

※非日常化によって改善が図られたと言えるのかどうか。

 

P95「七〇年に解放同盟と共産党が分裂すると、大阪府の各学校では「部落解放研究部」が活発に活動を始めるようになる。国法を後ろ盾にした解放同盟は、教育委員会や校長など管理職に「差別問題を解消するため『解放研』を設置せよ」と迫った。そして大阪の松原をはじめとして、生徒たちが教師を「差別者だ」と糾弾する教育運動が起こる。」

P96-97「ところが七四年六月、相次ぐ差別事件を機に、解放同盟が支援する『部落解放に立ち上がる高校生の宿泊研修会』八鹿高の校長と教頭が参加、そこで校長らは解放研の設置を約束させられる。

 このとき教職員の大半は「解放研」設置に反対していたため、校長ら管理職も反対の意向だったが、インディアン方式と呼ばれる糾弾により解放研の設置を了承させられたと言われている。インディアン方式とは当時おこなわれていた糾弾の手法で、当事者を七、八人に囲んで口々に批判する方法だ。……

 その是非はともかく、校長らが解放研設置の了承に至ったのはこうした激しい解放運動だけが理由ではない。やはり六九年に施行された同対法の影響により、八鹿町教育委員会は、解放同盟の指示に従うよう校長らに指示していたのである。

 当時、普通科一年生で解放研のメンバーだった女性は、当時を振り返ってこう語る。

「七四年の夏休み明けくらいから、解放研をつくろうとなりました。解放研も三分の一くらいは一般地区の生徒です。それまでの同和教育って、部落史の資料を読んだり、結婚差別で自殺した人のエピソードを聞いたり、岡林信康フォークソング『手紙』を紹介するだけ。活動も一学期に一、二回しかなくて『可哀想だから差別するのはやめよう』という感じでした。だけどそれだけだと、自殺した人のことしか印象に残らない。部落出身という自分のことは、これからもずっと隠していかなくてはいけない。そのことに違和感があったんです。そんな中で、部落の子だけがなぜ余所の子よりも乱暴な子が多いのか、それは差別の結果だということを、わかりやすく教えてくれたのが解放運動でした」」

 

P98-99「解放同盟系のクラブは「解放研」と呼ばれるのだが、歴史の古い学校では解放同盟系であっても「部落研」という名称を使うことも少なくない。この「部落研」は、多くの場合は解放同盟と共産系が分裂する以前からあったためだ。分裂以後、大体は共産系教師が指導するクラブを意味するようになったが、解放同盟が主導権を握った「部落研」は、そのまま「部落研」という名称で活動することもあった。……

 しかし八高は、日教組を母体とする共産党系の教師が強かったので、「部落研」もその流れを汲んで融和教育に力を入れていたのである。

 そこへ解放同盟の指導をうけた一部の生徒たちの「解放研」結成の動きに、八高の教師のうち共産系はもちろん、保守系も猛反発する。共産系の教師は路線対立を背景にもっていたが、保守系の教師は「中立であるはずの教育現場に、そこまで運動団体が露骨に介入していいのか」を理由に反対していた。

 地元住民の多くも、七三年から突如として起こった南但支部の激しい糾弾闘争に強く反発していた。そのため保守系教師も解放研の結成要請に対し、共産系教師と共に強く反対を唱えていたのである。」

 

P105「現在も「八鹿事件」というと、共産系教師と解放同盟が学校内で衝突したと思われているが、事実は共産党はあまり関係なく、〝八高教師と解放同盟〟の闘いだったと、元八高教師たちは語る。」

※解放同盟側のプロパガンダが強く働いていたともいえる。

P108-109「事件後、ほとんどの教師は転勤したが、K教諭は地元出身ということもあり、事件後も八高に勤めることになった。

「私は赴任してきたばかりだということもあり、事件後も残っていました。解放研の生徒とは、向こうも話しかけづらいだろうし、こっちも話しかけにくい。あれから解放研は結成されたけど、結局は二、三年でなくなりました。事件の時に一年生だった生徒が卒業したら自然消滅したのです」

 以前からあった部落研も、事件から五年後の七九年に自然消滅。結局、「同和問題を学んで差別をなくす」はずだったクラブは、数年のうちに八高では全て廃部してしまうことになる。」

P111「私も含め、解放同盟で活動した経験をもつ者のほとんどは「八鹿事件は共産党のデマだ」と教えられてきた。しかし今、できるだけ先入観を排し、こうして事件を丹念に追ってみると、暴力行為があったのは事実だと確信した。

 ただし、丸尾の言う通り「そんな時代だった」ことも否めない。

 当時の学生運動をはじめとして、暴力をともなう実力行使の激しい社会運動と激しい差別は、当時の社会情勢の特徴だ。路地への差別も社会運動も、現在では考えられないくらい過激だった。」

 

P112-113「丸尾の暴力行為は許されるものではないが、かといって片山ら教師たちが目指していた「同和教育」が、生徒たちに、路地への差別を無くすきっかけになっていたとは思えない。丸尾らの暴力行為だけをただ批判する片山らの言い分も、元々の原因を考えると、いま一つ釈然としないものを感じる。暴力の有無もさることながら、こうして外部から見ていると、ただ思想信条の違いだけで大人同士が意固地になって張り合っているようにしか見えないのだ。

 しかし、この事件では、何かが忘れられている。

 それは事件の最大の被害者であり、事件の本当の主人公である「八鹿高校の生徒たち」である。

 体育館で糾弾会が行われていた当初、休校を知らされた八高生たちは下校することなく教室で自習していたが、教師たちに暴力行為が行われていることを知り、普通科の生徒のほぼ全員、約千人が河原に集合していた。

 警察に訴えても取り合ってもらえないため、生徒たちは警察署でデモの許可をとってデモ行進しようとした。しかしデモを許可した当の警察によって、河原から出ることを阻止されてしまう。八高生たちは警察と押し問答を繰り返した後、夕方には大人しく解散したが、後に残ったのは大人たちへの不信感であった。」

※おそらくこの視点だけは正しいものだろう。「〝正義〟というものに挟まれた、当時の八高生たちのこと思うと、私は何ともいいようのない虚しさに襲われるのだった。」(p117)

 

P189-190「三中では生徒会長には必ず路地の生徒がなり、路地の生徒は自動的に全員、部落問題研究部に所属させられた。ゼッケン登校した日は、授業中でもゼッケンをつけていなければならず、外していいのは水泳の授業だけだ。学校内は「路地の生徒は特別」という風で、路地の生徒の方が、一般地区の生徒よりも偉そうにしていたという。

当の路地の生徒たちも、この風潮には批判的だった。」

P189-190「「オレらくらいの世代(生まれが七〇年代半ば以降)では、解放教育はかえって押しつけになってました。オレも小学校から三中、松原高校と地元集中で行ってましたけど、純粋培養されていただけというか、世間が狭くなるだけで、社会に出たら通用しない。一般社会に出たら、差別も多少あるけど、結局は自分で対処していかなあかんわけです」

 私が「解放教育って結局、何だったのかな」と訊ねると、彼はこう答えた。

「トラウマですかね。ムラ(路地)の子の立場からすると、今もやっていたとしたら可哀想だと思います」

 こうして一般地区の生徒だけでなく、当の路地の生徒までもが、解放教育に批判的になっていた。

 さらには同対法の期限切れを前に教師たちはもちろん教頭や校長、そして教育委員会も、以前のような熱心さで同和教育に取り組もうとはしなくなっていた。九〇年代にはすでに生徒たちの意識も変わり、大阪で北山や矢野らが行なっていた指導方法は通用しなくなっていたのだ。

 もはや時代は、同和・解放教育でなくなりつつあった。

 そして二〇〇二年、ついに同対法が期限切れとなり、同和問題の解決は国策ではなくなった。二一世紀になると同和教育は時代遅れとなり、同和教育は「人権教育」と名を変えた。また解放教育は過去の「過激な教育実践」として、急速に忘れ去られようとしていた。」

 

p195「同和教育実態調査とは、八〇年代後半から九〇年代にかけて各県や市で行われた調査のことで、福岡では県教委が行っている。

 この結果、父母の学歴が一般地区より低いのはもちろん、路地の子供たちは一般地区と比べて、だいたい一〇パーセントほど学力が劣っていることがわかった。

 また路地の子供は家庭で裕福でも貧しくても、享楽傾向にあることなどが共通していた。享楽傾向とは、例えば「テレビを一日中見ている」といったことを指す。この調査結果から、路地の住民たちの教育への無関心と、今までの同和教育では学力がついていないことが明らかになったのである。

「部落解放のための教育なのか、学力向上のための教育なのか、教育現場でかなり議論がありました。共産党系の先生方は、調査そのものに激しく反対していましたしね」」

※流れの変化とは「とにかく地区の子の学力向上に力を入れていくことになった」ことを指す(p196)。偏差値教育批判が消滅していったこととも関連しているだろう。しかし、共産党が調査を嫌ったのは何故なのか。

P215-216「西日本に限られていたとはいえ、同和教育は八〇年代までは旧文部省も支援した大きな教育運動だった。

 しかし路地の住民の中流化、一般的な差別の希薄化にともない、路地の子供だけを〝特別扱い〟することに、路地の中からも疑問が呈されるようになっていく。そのため国旗国歌問題や法律切れをきっかけに、同和教育の屋台骨が揺らぐと、現場教師は「これからどうやって同和教育をしていくべきか」と迷い始めた。」

 

P243「そもそも生まれてこのかた、私自身は差別されたことが一度もなかった。私の差別体験はすべて、昔の話や人からの伝聞であった。結婚差別はよく聞いており、実際に糾弾会に出たことはあったが、高校生の時点では正直、実感すら湧かない。

 だから人権劇で飲んだくれの親父をうまく演じられても、差別されたことがないのだから、差別だと言われても、どうもよくわからないのだった。」

P257「私は思うのだが、それがどのようなものであれ、教育は確かに切実なものである。しかし、やがて少年が成長するにつれ一人でそれを乗り越え、切り拓いていくところに、教育の本当の意味があるのではないだろうか。」