藤田英典「市民社会と教育」(2000)

 以前黒崎勲のレビューで藤田英典の議論に触れたが、今回はその続きである。本書と黒崎「学校選択と学校参加」(1994)を中心に検討していくが、この両書を読んでみていわゆる学校選択制をめぐる「藤田-黒崎論争」の見方も少し変わった所があった点があったため、そこにも触れてみたい。本書に着目したのは、黒崎が藤田の議論に対し「改善策がない」ことを批判した(黒崎2000,p147)のに対し、本書が比較的具体的な議論に踏み込んだものであったからであった。

 

 黒崎のレビューでは80年代以降の日本人論の「改善要求」言説について検討するため、「1実態をどう捉えているか」「2その実態の何が問題か」「3その問題を改善するためにどのような方法により解決するのか」の問いのセットである『改善言説の枠組み』をもとに検討を行おうとした。まず黒崎は実態として官僚制が幅をきかせている状況自体が問題であると捉え、学校選択制のような「親の選択の自由が、学校を解放し、専門家教職員の責任を直接に問いかけるインパクトをもつことになるのは明らか」とする(黒崎「教育の政治経済学」2000,p137)。黒崎(1994)ではもう少し具体的に議論を行う。特に注目すべきは、この官僚制を「民主主義的制度の帰結」と捉えている点である(cf,黒崎1994,p46など)。一見民主主義的制度はそれ自体民意が反映されるのだから何ら問題ないと考えられるが通常であった(そして、藤田も支持する「国民の教育権論」も当然これを前提としていた)が、黒崎はアメリカの学校選択制論者であるチャプとモーの実証研究を引用しながら、民主主義的な制度は「公的、行政的に要請される詳細な規定があらゆる方面から課せられるようになり、実際に学校が自由に活動しうる余地というものはきわめて狭いものとなっている」と述べる(黒崎1994,p46)。結局黒崎は明確な民主的決定を行う場合、この決定手続きを整備する必要があり、その手続き自体が運用の中で精密化されることが求められるのが避けられないため、学校選択制のようなこの原理とは異なる観点からの制度を導入することにより「自由」を確保する必要性を主張しているのである。

 

 一方で、藤田は黒崎のような問題の立て方をしていない。まずもって藤田は「何が問題か」という内容について具体的に①いわゆる教育病理の問題②有能な人材を育むための「教育」の質の問題③教師の自律性・専門性の確保の問題といった問題系を分けて考えている。これは、黒崎の問題の発端が「(保護者の)公教育の不信」であるため、具体的な問題系に触れずに議論を行っていることと対照的である。そして、藤田はそれぞれの問題について、個別の解決策を見出そうとする。特に①の問題については、諸外国と比べ日本は大した問題を抱えていないこと、黒崎のいう「公教育の不信」についても大きな問題とみておらず、むしろ事実に背いた「ウワサ」以上のものではないとして軽視しているのは明らかである。②については、特に一般教養の重要性について強調しており、個性を生かした教育については、義務教育段階や高校よりも大学で行われるべきだとし、大学教育の改善をむしろ強調する。そして③については、教師の自律性を強調し、統制的な教育委員会制度に対しても改善を求めている。これら3つの視点は両者で大きく異なっているため、具体的に触れていこう。

 

①教育病理の議論について

 この教育病理の議論については、どうしても「日本人論」との関連性に触れないわけにはいかない。これは前回も指摘したように、「改善要求的」なものとなった日本人論は一連の教育改革と連動しており、その背景として持ち出されたのが「教育病理」であったからである。70年代までの教育病理問題は、むしろマルクス主義的な教育論者によって教育病理を資本主義固有の問題として強調し非難した所であったが、その枠組みを80年代の新自由主義的教育政策は引継ぎ、日本人論の改善要求言説として語られることとなった経過はすでに過去のレビューで検討を行ってきた所でもある。

 そして一つはっきり言えるのは、藤田の日本人論は相当に歪んでいるという点である。藤田の議論は確かに改善要求ありきのネオリベ言説から距離を取ろうとするものの、「社会問題に毒されている」がゆえに、事実を歪め、日本人論を根拠なく擁護することとなってしまっている。二つ例を挙げよう。
 一つは、「学校での少年事件」の日米比較においてみられる視点である。ここで取り上げられているのは、黒磯で起きた中学生の教師へのナイフ刺殺事件(1998年1月28日)と、デンバーの高校で起こった銃乱射事件である(日本時間1999年4月21日、p28)。藤田はこれに対し日本のマスコミや政策担当者はアメリカを色眼鏡で見てしまっており、かつ日本の教育に対しても色眼鏡で見てしまっていることを非難している。しかし、この主張自体は正しいものなのだろうか?結論からいえば、藤田のこの主張は、根拠のない思い込みでしかない。これは当時の実際の新聞記事を読めば明らかである。

 まず、日本のマスコミで黒磯のナイフ殺人について、「学校教育の問題」としたとする点が誤りである。読売、毎日、朝日の主要3紙で総じて主張されているのは、「大人対子ども」という対立軸において、これを「大人の問題」ないしは「親の問題」であるとし、決して学校教育の問題ありきで語ったわけではなかった。

 

「背景には、自己抑制力や忍耐力の不足がある。……これらは、幼児期からの生身の人間のやり取りや、家事の手伝いなどを含む生活体験の中で培われていくものだ。第一義的には、ルールや秩序感覚などの面で、親が子供のモデルにならなければならない。……子供は地域の中で育つものである。……この、平凡だが基本的な原則に立ち返って、家庭の内外で、さらに行政による支援システムを含めて、子育ての環境を再構築したい。」(1998年1月30日、読売社説)

 

「子どもたちが何にむかついているのか。教師でも親でもいい。大人がひとりの人間としてきちんと向き合わなければ、見えないものがあるにちがいない。

 自分を十分実現できることばを、まだ持ち合わせていない年ごろだ。その心を理解する責務は、大人の側にある。」(1998年1月30日、朝日社説)

 

 読売新聞はどちらかと言えば親の責任論を強調しており、2月4日には「家庭の子育てを問い直そう」という社説を掲載している。また、朝日に至っては具体的な責任論、対応策について言及しておらず、そのような原因等についての言及自体を回避し事実のみの報道に留める傾向があるかのようにも読めた。その態度の表れか2月5日に子ども向けの社説記事を掲載し、「イライラがあれば信頼できる友だち、親、教師、電話相談などでも言ってみよう」と呼びかけている。

 一方、若干学校の責任について強調する傾向があったのが毎日新聞である。社説記事では確かに「教育、学校の意義が改めて問われている。……状況は難しくなっているが、学校でできることはある。教育委員会や地域社会がそれを支え、バックアップしていくことが必要だ。」(1998年1月29日)と学校にのみ目を向けた責任論を展開する記事を掲載している。しかし、同日の別記事で河上亮一のコメントとして「こうした子育てがよかったのか、大人一人一人がそれぞれの立場で考え、子供とのつきあい方を改めるしかない。」と掲載されており、ここでもやはり「大人/子ども」を基軸にした議論を行っている。更には2月26日の社説記事では黒磯事件に触れつつ、次のように家庭・大人の問題としての議論も展開している。

 

「座長骨子案は、従来になく家庭のしつけにまで踏み込み、もう一度家庭を見直そう、地域社会の力を生かそう、心を育てる場として学校を見直そう――などと提言した。いずれも、もっともなことだが、より注目されるのは、なぜこうしたことが現実のものとなっていないのか、についての認識だ。……

 社会全体がカネや地位の欲望のとりこになり、短絡的な快楽志向に走っているときに、子供たちに思いやりや規範意識を求めても説得力はない。特効薬はないと考えた方がよく、迂遠のようでも、大人が、それぞれの場で、自分の生き方、価値観を問い直すことから始めなければならないだろう。」(1998年2月26日毎日社説)

 

 以上のように黒磯の事件でマスコミは藤田の言うような「学校責任論」を展開することはなく、これを広く大人の問題と捉えていたのであり、色眼鏡で見ているのはむしろ藤田の方であることが明らかになった。どうして藤田はこのような勘違いをしてしまったのかは容易に想像がつく。当時の記事を確認せず、印象でしか語っていなかったからであるが、それは結局藤田自身が「教育畑」の人間であったことに起因するものと考えてよいだろう。丁度この時期中央教育審議会による教育改革の議論がなされていた中で黒磯の事件が起きた。当然学校関係者はこの事件について真面目に考えなければならない。となれば「教育畑」の中の人間は当然最初に学校教育の改善を目指そうとするのだ(中教審委員としての西尾乾二のように「教育畑」にいるべき人間が企業をなんとかしようとする、という例外もありはするが…)。当時の中央教育審議会会長だった有馬朗人会長はこの事件について「心の教育」の重要性について言及しているが(1998年1月31日読売朝刊)、これは「教育畑」から見れば当然の態度である。藤田の問題は、このような「教育畑」と「社会」との区分けができていない点なのである。

 

 そしてこれはデンバーの銃乱射事件についての当時の新聞記事を見るとより一層明確になる。藤田はデンバーの事件はアメリカに対する固定観念があることが日本の事件との違いを生んだと強調していたが、まず、この事件自体がアメリカの銃社会等の問題であることはほとんど自明であり「固定観念」の問題とはとても言えないことを強調しておきたい。

 

「未成年でも銃を入手しやすい銃社会アメリカの抱える病理を改めて示した。……今回の事件は、人種対立を抱え、人種的憎悪を背景とするヘイトスクラムなどが絶えない米社会の不気味な負の部分を浮き彫りにしている。」

「容疑者たちがネオナチ的なグループに所属し、銃乱射の際、主に黒人が中南米系などの少数派人種を標的にしていた、といった情報が事実とすれば、他人種への憎悪が背景にあった可能性が強い。」(以上1999年4月21日読売夕刊)

 

 この事件自体、犯人となった高校生が人種差別を自明のものとするグループに属し、人種的対立に起因するものであることは明らかであったし、教師生徒計13人が死亡したこと、かつ殺傷能力の高い銃を用いた犯行であったという事実はいずれも「固定観念」の問題で片付けてよい問題ではなく、紛れもなく日本との「差異」として語られるべき問題であった。日本では銃の所有の問題として語られていたことは藤田の趣旨とも一致するものの、もう一点押さえなければならないのは、「アメリカにおけるこの事件の受け止め方が日本でどう語られたか」という点である。興味深いことに時のクリントン政権は教育政策にも熱心に取り組んでいることもあって、この事件もまた教育の問題として捉える傾向が強いことが紹介されている。

 

「事件に関連し、クリントン大統領は「米国の教育はまったく進歩していない」との声明を発表し、「これは単にリトルトンの問題ではない、全国民の問題として真剣に考えてほしい」と訴えた。……

米国では、今回の事件の背後にある銃社会を問題にするより、教育や暴力映像などメディアの問題としてとらえようとする傾向が強い。

 だが、より本質的な問題は、銃の所持を厳しく規制しないことである。」(1999年4月22日毎日社説)

 

 ここで押さえておくべきは藤田のような二項図式的な「教育の問題ではなく、(銃)社会の問題である」という認識にマスコミはなっておらず、むしろ「教育の問題よりも、(銃)社会の問題である」という論理で語られている点である。この点も藤田はあからさまに見誤っている。他の記事からも決してデンバーの事例に教育の問題が関係していないなどと読めるものはないといってよい。

 

「米国の学校は自由放任で、日本の学校詰め込み教育という違いはあるが、自己のアイデンティティーの確立に心を悩ます思春期において、生きることの意味を教える教育が欠落していることは共通している。例えばボランティア活動や野外活動などを通して自分とは何かについて目覚めるきっかけを与えてあげることが大切だ。向上心は強い子どもたちだったのだから、変な方向の信念や哲学に走らせ、一線を越えさせてしまったのが残念でしかたない。」(1999年4月25日読売朝刊)

「一連の事件の背景には、だれでも簡単に銃を手に入れることのできる米国社会の仕組みがある。教育の荒廃などがあるにしても、そこに大きな問題があることを改めて指摘しないわけにはいかない。」(1999年4月22日朝日社説)

 

 ここまで見てしまうと、やはり藤田の「日本人論」自体が歪んでいることを起因にして勘違いがなされているようにしか思えない。つまり、日本人はアメリカ人を色眼鏡でしか見ることができず、全く異なる見方で教育について問題を捉えようとしているという見方を藤田は確信しているからこそ、ここまで事実と異なることを堂々と言ってしまうのではないだろうか。

 

 これに関連して言及しなければならないのが、藤田が指摘する「三重の<甘やかし社会>」なる日本人論である(p125-131)。三重の甘やかしとは構造的甘やかし(大学まで卒業まで就業なしで生活可能な状況となっていることによる甘やかし)、実践的あまやかし(親からの独立が遅い)、規範的甘やかし(迷惑をかけなければ何をやってよいという規範)を指し、藤田は著書でエビデンスを提示しながら、このことを強調している。しかし、ここでいう「規範的甘やかし」に関する議論は千石保と同じ日本青少年研究所の断片的な(いや、正しくは「規範を守らない日本人像」を取り出すのに都合のいい調査結果だけ)からの主張であり、これはすでに千石のレビューで事実に反することを指摘した通りである。他の論点も「甘え」の条件となりえたとしても、その事実を実証するものとしては極めて不十分なものであり、藤田の主張の正しさが示されているとは思えない。また、この「三重の<甘やかし社会>」は日本の教育施策等における(政策立案者の)「思い違い」の結果助長されたものであるとするが、すでに述べたように藤田は「社会問題に毒されている」論者の一人であり、適切にこの問題を捉えられているとはとても思えない。「教育畑」の中の議論としてなら(特に教育の)政策立案者の問題は確かにありえるかもしれないが、少なくともそれがマスコミ等を含めた全体的な議論として捉えようとする藤田の姿勢には明確に批判せねばならないだろう。

 合わせて藤田はこの教育病理を他国と比較し大きな問題として捉える視点を持っていなかったのは確かであるが、繰り返すように黒崎は問題の起点を「公教育の不信」に置き、藤田はその不信感は「ウワサにすぎない」とすることであたかも社会全体が事実を勘違いしているかのように捉えていること(cf.p65)、マスコミ等はそれを助長していることを批判することで反論する訳だが、結局それが「ウワサ」にすぎないことを立証するために藤田自身が「ウワサ」止まりの議論に留まってしまうことが問題といえるだろう。

 

②教育の「質」の問題について

 この教育の「質」の問題は、特に藤田独自の主張により所謂ネオリベ的教育政策で語られる教育論に対する批判を行うという論理になってしまっており、結局の所「藤田独自の主張」がどこまで正しいかによってくる。

 目を向けなければならないのは、大学教育の質の問題の重要性を主張している点であろう(cf.p352)。つまり「個性を伸ばす」といったことで競争力を高めるための人材の問題は初等中等教育の問題でなく、むしろ大学教育の問題であると強調しているのである。これはこれで考察の(つまり諸外国と比較した場合の人材育成上の問題を大学教育から見出すという考察)の必要があるように思うが、本書はこれを実証的に示している訳ではないため、検証できない。それよりも気になるのは、藤田の定義する「創造性」についてである。

 藤田は義務教育段階の教育について「個性を尊重した教育」よりも「その基礎ともなる共通の基本的な能力や性向の構えの育成」こそ重要であると説く(p333-334)、これは「トータルなもの」こそ創造性に寄与するという藤田の理念に基づく主張である(p339)。ただ、創造性についてどうみるかという問いは夏堀のレビューの際に取り上げたように多くの見方がありえる(※1)。藤田の定義は川喜田二郎の考える創造性に近いが教養主義的なものに創造性を見出す藤田と異なり、川喜田は個人と組織の壁を溶解させるような「ひと仕事した」体験にこそ価値を見出す点で視点は異なる。また市場主義的な見方がなされる創造性とは、夏堀睦が述べたような「一般人が考える創造性」に従い定義されるものであったし、チクセントミハイの考える創造性は、専門家との接触を如何に行うかという視点が重要であった点で、どちらも藤田の議論と異なる。結局藤田のいう「創造性」が正しいかどうかは、過去の日本の教育が寄与した「創造性」をどう評価するかによるとしか言えないように思える。藤田はこれまでの集団主義的な教育について否定を行っておらず、むしろこれを基本的に崩さないことこそ今後の日本の教育にとって必要であると強調する。そして新自由主義的な教育政策における「個性」はこの教育の良さを軽視しているとして批判するのである。私は藤田のこの見方には否定的であるが、藤田の議論の正しさはこの主張をどう考えるかに大きく左右されると言えるだろう。

 

③教員の自律性の問題について

 これは「専門性」をめぐる議論とも関連するものであるが、黒崎の議論と何故か嚙み合わない論点でもある。というのも、教員の自律性及び専門性の確保については、黒崎藤田両者とも極めて重要な視点であるという点で一致している。にも関わらず、学校選択制をめぐる議論においても両者の方向性は異なるし、「自律性」に対する意味合いについても恐らく両者は異なっているように見える。

 この理由の一つはすでに述べた「民主主義的制度を運用することの意味」が両者で異なっていることに見出すことができる。合わせて問題となるのが、「教育を行うのは誰か」という問いをめぐる両者の複雑な見方の相違によるものであると考える。

 シンプルな回答を与えるのはやはり藤田の方である。藤田は原則として「教職員集団が自由であること」こそが最も重要なよい教育の実践(=専門性の確保)につながるものであることを確信している。本書においても外圧的な制度変更が教師の自律性を妨げることを指摘するが、藤田の著した「教育改革」(1997)でもあくまで教育は教師(と生徒)を中心に行うべきで、親や教育委員会は観客、裏方、劇場主であるとする(藤田1997、p244-245)。このような教師の自発性にあくまで期待する態度は国民の教育権論の系譜とも同じである。

 しかし、黒崎の場合は、教職員集団のみの自律性が確保できる可能性については懐疑的である。何より独断的な取り組みがなされた時に学校選択という手段がなければこの独断から逃げることができず、従うしかなくなる(黒崎2000,p112)。また黒崎(1994)を読んでいると、日本の教職員組合や、アメリカの教育委員会の選挙を否定的に見ているかのような記述も見受けられる。学校選択制の成功事例として、アメリカのイーストハーレムの学校選択制について黒崎は取り上げるが、なぜか教育委員会の選挙によりこの制度枠組みが阻害される可能性について繰り返し否定的な発言を行う。端的に「すぐれた教育改革の実践が政治的に攻撃されるという危険は防ぎえない」と述べる際(黒崎1994,p121-122)の黒崎の態度は、藤田の目線からすれば「あくまで学校選択を嫌った民意の反映であって、これを『教育改革の阻害』などというのはナンセンスである」と映るに違いない。

 中心的な争点は「自由な「専門性」をいかに確保するのか」であり、この関心は藤田黒崎両者とも一致している。より正確に言えば、この主体はあくまで教職員であり、このことに対するチェック体制もまた必要であるということについても争いはない。問題はチェック体制の方法である。あくまで民主的手法にこだわるのが藤田であり、「学校選択」という方法がその枠組みから外れたものであるからこそ有効であると主張するのが黒崎である。

 ただ、問題なのは、藤田がいう「民主的手法」とは、必ずしも「直接選挙で選ばれた市民による意思決定」とは同じではないということである。藤田は教育行政におけるオンブズマン的制度、ないしは信任制が必要であるという(p271,p272)。現行の教育改革は教育行政の核である教育委員会制度についての改善には具体的提言が乏しいことを藤田は批判しているが、このような批判から見ても、結局藤田は「国民の教育権論」と同じような民主主義的プロセスの確立こそ必要であり、それを経ていない教育改革などは、当時の政策担当者(しかもこれが選挙等で選ばれていない者)の独断で行われる恐れがあり、それに対抗する原理を準備できていない状況においては、教育の政治的決定を促進し、これに対する(教員の)専門性・自律性が著しく損なわれる恐れも危惧しているものとみられる。ただ奇妙に思えるのは、オンブズマン制度について、それが最高裁の国民審査のような手続きによって行われるのでもよいと言っている点である(p274)。私は流石に最高裁の国民審査のような話では完全に形骸化しており、これは無意味に信任を与え、黒崎が言う民主的手続が「官僚化」を促進する要素に絡めとられるのは目に見えているように思う。

 また、このレベルの「民主的手続」で許されるのであれば、他にも対応できる「民主的手続」がいくつか考えられるのではなかろうか。一つは、議会や首長による教育へのコントロールである。これはそもそもの教育委員会の趣旨に反し教育が政治に使われるといった批判が「国民の教育権」論者からの痛烈な批判があったものであるが、例えば、以前考察した中津川市の偏向教育の事例などについても、結局その抑止力となりえたのは議会でしかなかった。このような批判等が広く市民にも可視化された形で行われているのであれば、それはそれで一種の抑止力ともなり、かつ促進要因にもなりえるように思える。

 合わせて、個別の教育政策の在り方について、広く市民に意見を募り、それを反映させていくことでも十分「民主的手続」を確保したことになるであろう。最も単純なのは、特定の教育政策について市民にその是非を問うという形でアンケートを行うような方法でも、十分に民意が反映できているのではないのか。民主的手続を重視する立場から言えば、たとえ専門家でも「外野」がどうこう言うまでもなく、その土地の市民が学校選択制に対し賛成ならば、それで事足れりとなるはずである(※3)。黒崎もこの論点(民主的手続の必要性)に対しては、鼻から否定的であるかのような見方をしている傾向もあるため、藤田-黒崎論争の中ではこの論点はあまり明確に議論されることもなかったが、重要性を否定することはできないだろう。

 

 また他方で、民主的手法をとることが教員の専門性・自律性に繋がるという論点自体に矛盾がある可能性にも目を向けなければならない。藤田はそもそも日本の教育改革自体が専門性・自律性を軽視し、それを損ねる方向に進んでいることを確信している(cf.p336-337)ため、日本の教育改革を批判する訳だが、それに対する具体的対案としてどのようなことを想定するか。基本線となるのは学校単位での予算上の裁量権・弾力化の強化になっているものの(p276-277等)、基本的に「国民の教育権論」側が主張する程度の並な主張しかなされていない。「非常勤職員の採用」についても、例えば、専門性豊かな退職教員や校長の有効活用といった視点からの語りを明言している訳でもないため、この非常勤職員の議論が市場主義的な労働者の勤務形態の弾力化の議論の域を出ておらず、逆に教員の職の不安定さしか生まないのではないのか、といった批判を許すような漠然とした主張しか確認できない。

 もちろん、このような藤田の議論に批判的な黒崎の議論が「専門性・自律性」の強化に繋がるかは疑問もある。しかし、黒崎の関心は何よりも「公教育不信」への応答であって、そのような不信感に応えるための教育改革と、その一環として市民のチェック体制の一つとして学校選択制が必要であり、その中で教育改善を行うべきであるという見方にあった。過去の黒崎のレビューでも指摘したように、「民主的手続」が官僚制を回避できず、又は「民主的手続」という名の政治的暴走を防ぐ方法として「退出」の可能性を保証することこそ最も重要であるという見方は教育権の担保のためにも重要であり、これを頭から否定してしまう論法の方がよほど「非民主的」とみることも可能なのである。藤田にとっては教育とは教員集団による自律性にこそその専門性の根拠を見出し、そこから外れるような状況においては専門性は養われない、という確信があるため(cf.藤田1997,p244-245)、そもそも黒崎の提案は受け入れられないのである。黒崎の提案は結局教職員集団の目線から見れば「外圧的」なものでしかなくなるからである。もっとも、このような立論を藤田が続ける以上、「国民の教育権論」と藤田の立場の違いに相違がなくなることになり、この専門性論と「民主的手続」の関連性が不透明になるのである。黒崎が次のように佐貫浩の批判をする際、この関係性の不明確さが問題とされるのである。結局このような議論においては、教職員集団が暴走する可能性を著しく軽視することにしかなく、藤田が強調していたはずの「チェック機能」も機能する余地がないのである(※4)。

 

「しかし、せっかくそうした課題をたてながら、佐貫氏の議論には、父母参加による学校づくりの運動の経験の列挙以上の、理論的な提起と呼べるものをほとんど見出すことができない。たとえば、そこでは、「指導の過程や結果に対して異議申し立てをする権限を、親や子どもが留保していることを含んだ制度的仕組み」が提案されているが、それが何を指すのか、教師の専門的自由の保障といかなる関係を保つのかについては、何も検討されていないのである。

わが国における学校参加のもっとも有力な理論的根拠は、いわゆる「国民の教育権論」によって示されてきた。佐貫氏の議論もこの理論的影響の下にある。しかし、教育の内的事項外的事項区分論を中核とするこの理論においては、親の教育権は教師の教育権を根拠づけるために名目的に扱われる傾向をもち、十分に、学校参加の要求を意義づけるものとはなっていない。さらに、教育行政参加と学校参加とを区別しようとする最近の理論的傾向も、親の参加への要求の意味を正当に受けとめるものとはいえない。それは、あくまでも学校運営の専門職主義を堅持するためのものであり、専門的自治と民衆統制の統合という教育行政理論のもっとも基本的課題を回避するものと評価せざるをえない。」(黒崎1994,p18-19)

 

○学校選択は「利己主義」なのか?——転居をどう考えるか?

 本書で特徴的な点の一つとして、藤田が学校選択について、一般的に言われる「私事化」という言葉ではなく、「利己主義」として糾弾する点が挙げられる(p175,p236)。これについては、すでに黒崎のレビューで私立学校が選択できることについて触れ、これに対して何故改善を促さないのか、という批判を行った。実際、黒崎からも同じ批判がされていた。つまり「学校選択の理念の提唱は、すでに富裕な階級が持っている学校選択の自由を貧困な階層に保障しようとするものであると意義づけられ」るものということである(黒崎1994,p63)。

 そして、この学校選択に対し強調されたのが「共生」の発想であった。この発想は、すでに藤田が主張する「創造性」や義務教育段階で必要な「努力」(p345-346、これは「忍耐」という解釈でもそこまで外れていないように思える)の一環としても、避けるべきではないことを強調された。

 

「この「共生」という価値は、〝選ぶ〟という行為によってではなくて、〝受け入れる〟という行為、〝関わる〟という行為によって実現されるものである。」(藤田1997,pviii)

 

「しかし、こんにち主張されている〈学校選択の自由化〉は、そうした性質のものではない。それは、日常的・自生的な居住・生活圏に関わりなく、文化的嗜好・選考によって学校を選べるようにしようとするものである。それは、居住・生活圏としてのコミュニティを無意味なものとして否定・解体する志向、その衰弱を是認する志向を宿している。しかし、近代的な理念としての〈市民社会〉が〈自律的で平等な個人の共生〉と〈その共生空間への開かれた参加〉を基本とするものであるなら、その〈市民社会〉もそこでのハーバーマス的な〈市民的コミュニケーション〉も、その区画化がたとえ行政的に行われたものであろうとも、現にそこにある居住・生活圏において成立・展開しうるはずのものである。言い換えれば、そのような〈市民社会〉を理念として掲げ志向することに価値があると考えるなら、その前提ないし要件として、現にそこにある居住・生活圏において、〈市民的共生〉〈市民的コミュニケーション〉の十全な展開を志向し追求することが課題となるはずである。なぜなら、それは〈公開性=非差別性・非排他性〉を基本的な特質としているはずだからである。」(藤田英典ほか編「教育学年報7 ジェンダーと教育」1999,p385)

 

 このような主張に対し、私から擁護しうると思われるのは、「子どもが成長する上で積極的な意味(教育的効果の期待)でも消極的な意味(犯罪防止や精神面の安定など、安全面を確保すること)でも地域の安定した基盤の教育を行うことは、子どもにとってプラスになる」という命題が成立する可能性においてである。藤田の議論は「共生」をやはり「理解不能な他者との対話可能性の模索」として用いている傾向が強いわけだが、これを強調するのであれば、私立学校への選択自体も制限しなければ意味がないのではと黒崎のレビューの際に指摘した。

 しかし、社会学的にはもう一点押さえておかねばならない観点があった。それが「人口移動」である(※6)。この観点からアメリカの学校選択を擁護する論理は十分にありえるように思える。つまり、アメリカ人は実態として生涯10回を超える転居を行っており、日本においてはそれが少ないとされる(荒井良雄等編「日本の人口移動」2002、p93-94)中では、既存の地域性を生かす教育よりも学校選択を容易にし、転居可能な者と同じ権利を転居困難な者にも与えようとする発想である。もっとも、これもあくまで相対的な議論を行っているにすぎず、「転居回数が多ければ学校選択がされるべき」なのか、「(1回でも)転居する層がいるから学校選択がされるべき」かは当然議論が必要である。「1回でも転居をする」という意味では、日本においても基本的に子どもを持つ家庭は転居を行う傾向があり、どちらにせよ「地域性」というのは当事者にとっては基本的に生得的にあるものではなく、選択の結果であると考えるべき状況にあるからである(※5)。

 結局、藤田の学校選択制の否定についても、根においては「望ましい教育観」が付随していることが明らかなのであり、この教育観の妥当性や、学校選択における子どもの教育的な影響を丁寧に考察することを無視して、制度の議論を行うこと自体が不毛であるのではないのか、というのが正直な所である。今後そのような教育的効果についての研究の蓄積にも期待したい所である。

                                                                                       

 

※1 夏堀のレビューでは取り上げなかったが、もう一点押さえておきたい「創造性」の議論として、市川亀久彌の「等価変換理論」を挙げることができる。簡単に言えば、あるモノに対してその機能を適切に抽象化し、別のモノを作り出す際に応用していく技術のことを指す。「創造性の科学」(1970)を読んでも、等価変換理論に基づく創造性の発揮は一定のトレーニング(あらゆるモノの共通性に注目して、その機能を抽象化し思考するトレーニング)が行われることを期待された理論と考えられ、市川のいう創造性も漠然とした藤田のような教養性を身につけるという議論とは隔たりがあるものといえる。

 

※2 この論理は一理あるように思えるが、管見の限り藤田はアメリカとの対比において「アメリカでは直接選挙による教育委員会で行われる教育改革であるから擁護できうる」という視点で教育改革の議論を行っているのを見かけていない。

 

※3 もっとも、藤田はこのことについても、例えば学校選択制に関しては「ウワサ」が悪影響を与えるなどして、民意が適切に反映されるということ自体に半信半疑となっているよう(市民は適切な判断に欠ける傾向にあることを認め、それを信用しないよう)に見える点があるため、全面的に賛同する姿勢ではないように思える。

 

※4 結局このような議論に落ち着いてしまう理由は、(教育の自由/不自由)という二項図式を掲げ、「不自由となるものはすべて除去されるべきである」という国民の教育権論に典型的に批判の論法そのものにあると言わなければならないだろう。この議論に必要なのは、あくまで「現状がどうであるか」という分析のもとにたって専門性をめぐる議論を行うことであるが、国民の教育権論が教育法学を根拠に、「日本国憲法」や「教育基本法」を持ち出した法解釈・権利の問題として片付けようとする姿勢を崩さない時点で、すでに議論として成立のしようがないのである。確かに現状分析の議論は黒崎も精度が高いかは疑問だが、藤田の場合は、すでに「社会問題に毒された」ものとなっており、まともに現状分析ができていないのは明らかである。

 

※5 子どもがいる家庭(DEWKS)と子どもがいない家庭(DINKS)の比較として、北村安樹子「家族形成と居住選択」(2010)では結婚後の転居経験・回数がDEWKS世帯の方が多く、特に子どもの誕生や成長に合わせ住居購入を行うケースがあるのではないかと指摘する(北村2010,p23)。

 

(2024年1月3日追記)

※6 この着眼点は学区制度に着目すればむしろ出てきて然るべき観点といえた。千葉正士「学区制度の研究」(1962)では、学区概念の変遷について分析しているが、日本の近代学校教育制度が成立した当初地域住民の寄付等により設立された学校は、都市部において人口移動により新たな学区が形成され新たに設置された学校と、早くから学区をなしていた学校と比較すれば、その財産には大きな差がつくことが想定される(cf.千葉1962.p266)。地域住民による学校を標準化するのであれば、学区の捉え方は変更されざるをえなかったといえるし、その動因としての人口移動の問題は無視できないものである。

<読書ノート>

P5「というのも、学校五日制、公立中高一貫校の導入、学校選択自由化への動向、さらには、学校五日制の完全実施に伴う学習指導要領の改訂など、どれをとっても、合理性・適切性に欠けるからであり、教育政策が準拠すべき倫理を歪めるものだからであり、さらには、その結果として、子どもの生活と社会のありようを差別的に再編し、学校教育の難しさを増幅し、日本の将来を危うくしかねないからである。」

※学校五日制反対の議論において、「公務員としての教員」という議論はあったのだろうか?本書ではそれがいかに語られるか?それは文字通り教員への「過度な期待」ではないのか?

P7「また、欧米諸国では、情報知識社会の進展と国際競争の新たな展開を背景にして、学力・基礎学力の向上、就学率の向上、学校出席率の向上などが主要な改革目標になっているのに、日本の改革はそれを軽視しているように見えるからである。さらには、欧米諸国がその階級的遺制のゆえに未だ十分に達成しえていない教育機会の制度的平等を、日本の教育システムは達成しているのに、それを後退させるような改革が進められているからである。」

 

P12「学校五日制と教職員の週休二日制の問題をはっきり区別し、たとえば土曜日は自由登校日にして、補習授業や発展学習や自由な特別活動を行うとか、一律に土曜日を休みにするのではなく、サラリーマンの有給休暇のように、体験休暇・リフレッシュ休暇をとれるようにするという方法を検討してもよかったはずである。いずれにしても、学校過剰論や学校縮小論・教育自由化論は、すでに述べた教育のエリート主義的再編という問題に加えて、さらに次の二点で重大な問題を孕んでいる。」

※これは明らかに公機能の縮小であった。しかし、いわゆる「福祉バラマキ批判」による公機能と別の次元の次元であったため、「福祉バラマキ論」と比べれば具体性があったにもかかわらず、驚くほど関心が低い分野であった。

P13「しかし、いじめ、不登校、校内暴力、学級崩壊、非行・逸脱などの諸問題は、そうした〈心の専門家〉を増やせば解決できるというものではない。それは、心理学的な心の問題というよりも、その結果に対処しようとするものでしかない。」

P15「この〈面〉としての生活圏が重要なのは、それこそがリアルな日常生活の基盤だからである。親子であれ、仲間であれ、顔見知りの人であれ、あるいは見知らぬ人であれ、多様な他者と出会い、さまざまの関係を築き上げ、その関係のなかで喜んだり悲しんだり、思い悩んだり葛藤したり、反目・対立したり、協力し合ったりしながら生きていく、その基盤である。好きか嫌いか、好みに合うかどうかに関わりなく、対面的で包括的・多面的な関係に組み込まれていく、その基盤である。人間の生活も社会もそういうものである。……

 ところが、学校縮小論や学校選択自由化論は、この〈面〉としての生活圏を〈点や線〉の集合に解体・再編しようとしている。」

P20「教育をよくするには、何を措いても、その営みを担う教職員の質の向上とその活動条件の改善を図ることが肝要である。そのために何ができるか、何をしようとするのかを、いま一度考え直す必要がある。」

 

P26-27「それに対して日本では、ほとんど例外なく、そうした問題は教育病理・学校病理として捉えられ、学校教育のせいにされてきた。ナイフ事件だけではない。酒鬼薔薇事件もそうであったし、校内暴力、いじめ、不登校、学校崩壊などもそうである。すべて原因は学校にある、受験体制・学歴社会にある、教育過剰・管理過剰な日本の教育の在り方に問題がある、だから学校を変えなければならない、と議論されてきた。」

☆P28「以上のように、デンバー事件も黒磯ナイフ事件も在学中の生徒が学校内で起こした事件であり、どちらも、どの学校で起こっても不思議ではないとコメントされたにも関わらず、その原因ないし背景については、まったく異なった解釈が何の疑問もなく平然と繰り返され受け入れられてきた。日本のマスコミや識者も、政策担当者も、そうしたまったく対照的な解釈を特に疑問を抱くこともなく受け入れてきた。

 それはおそらく、日本のマスコミや識者や政策担当者の間には、自明視されているステレオタイプな認識枠組みがあるからだろう。アメリカの青少年問題・教育問題の多くはアメリカ社会の矛盾や歪みに根ざす問題であるのに対して、日本の青少年問題・教育問題の多くは日本の学校教育の歪みに根ざす問題である、だから根本的な教育改革が必要であるという認識がそれである。」

※このような認識自体は正しいといえるのか、言説分析すべきでは。「黒磯ナイフ事件でも酒鬼薔薇事件でも、日本のマスコミや識者は、歪んだ学校教育の在り方や「学校性ストレス」が背景になっていると論じていた。」(p25)という論点が一つ。しかし藤田は、p26-27のような飛躍も同じ論理であるかのように語る。そしてそれを「教育問題・青少年問題に対する日本のマスコミ・識者や政策担当者のまなざしがいかに歪んでいるか、その歪みがどれほど独善的・非合理的で問題の多いものかということを見てきた。」(p33)と断じ、合わせて「一九八〇年代半ば以降の改革論議と改革動向には、類似の歪んだまなざしと非合理的で独善的・欺瞞的な議論や政策があまりに多い」とまで言う(p33-34)。そしてその矛先を週休5日制と中高一貫校議論に向ける(p34)。

 

P40「エリート校をつくるのではないとか、教育の多様化・複線化が時代の要請だといった欺瞞的な議論で事を選ぶのではなくて、はっきりとエリート校をつくりたいと明言して、その是非を問うべきである。」

※これは一理ある。

P44「しかし、それ(※学校選択制中高一貫校の導入)は「特色ある学校」と「多様な選択肢」ということを前面に出し、序列化や受験競争の低年齢化が起こる可能性はないという建前論に留まっているからである。」

※何故タテマエであることが確定しているのか。少なくとも、藤田にはタテマエにしかみえないのだろう。同時にこれは規制緩和という大前提に対しても否定しか生まない。

P57通学区域の弾力的運用や再編成には否定的でない

P65「しかも、ここで注意しなければならないのは、実際に荒れているかどうかということでなく、荒れているらしいという〈噂〉によっても左右される傾向があるということである。……つまり、さまざまの社会的差別が学校選択を規定するようになり、子どもたちと学校を差別化し分断することになりかねないということである。さらには、そのようにして学校に持ち込まれた差別と分断が、社会生活における差別と分断を触発・助長することにもなりかねない。」

※よく考えるとこの理由はどこまで成立しているのかよくわからない。差別される側が選択しないことが自明視されているからである。結局、これはこのような人々の「選択する能力のなさ」を自明視しているのと同義だが、これも結局そのような人々に「合わせる」ことを公立学校は強制するのか、という議論に直結しかねない。この議論はしまいには「居住を変えられるか、変えられないか」の議論が存在する可能性をまるで考えない。

 

P88「黒崎氏は、市場原理的な学校選択制とは異なる「学校選択制の理念」が構想可能であると主張している。それは現在の画一化し閉塞した公教育・公立学校を再建していくための触媒となるような学校選択制だという。各学校の自主的・自律的な学校づくりを喚起し保障するには、多様な特色ある学校の存在が許容・歓迎されることとそれらの〈特色ある学校〉を選べるということが前提となるから、適切な学校選択制の導入が必要であり正当化されるというのである。黒崎氏は、この学校選択制の理念は、市場原理的な学校選択制とは異なり、各学校の自主性・自律性を重視するものだからといって、市場的競争のメカニズムの作動を抑止することになるという保証はどこにもない。それどころか、たとえその理念を掲げて学校選択制にしても、結果的に市場原理的な選択制になる可能性はきわめて高い。」

※黒崎1994が出典。

P89「つまり、(※「選択・責任・連帯の教育改革」でいわれるような)現代の公立学校の荒廃の原因は「連帯の欠如」「信頼の欠如」にあるから、その「連帯」「信頼」を回復するためにも、学校選択の自由化が必要だと主張し、もう一方で、選択制によって各学校は競争し切磋琢磨することになるから学校は総じて良くなるというのである。保護者や子どもが学校を選ぶようになれば、その選んだ学校にポジティブに関わるようになり、もう一方で、市場的競争のメカニズムが作動して各学校は学校改善に真剣に取り組むようになるから、学校は良くなるというのである。」

 

P108「とはいえ、すでに繰り返し述べたように、学校選択制を採用するかどうかは、子どもの教育・学習・生活・自己形成の機会をどのようにして豊かで開かれたものにしていくのか、その方法についての考え方の問題であり、社会的な選択の問題である。そして、筆者は、その点で現行の通学区制の下で、各学校内での学習・生活・自己形成の機会を豊かにしていくことが望ましいと考えているわけだが、そのためには、各学校のさらなる改善の努力と、それを可能にする制度改革・条件整備を進めていく必要がある。そして、その際、たんに既存の枠組みのなかで改善の努力を進めるというだけでなく、教育行財政面でも、さらには、カリキュラムや教育実践の面でも、基本的な発想の転換や考え方の再検討が必要である。そうした課題に政策担当者も校長や教師もそれぞれに専門家として誠実に取り組む必要がある。」

※このような主張をするなら、適切な論点整理は必須であるように思うが、藤田の議論はとてもそうなっているとは言えない。結局「変化」について日本の教育風土には適していない、という主張一点張りにしかなっていない。

P131-132「図2と表1の調査結果は、こうした三重の〈甘やかし社会〉の一つの表れと見ることができる。図2は、日本青少年研究所が、一九九六年に、日本、アメリカ、中国の高校生を対象に行った調査の結果で、表示された諸項目について、「本人の自由でよい」と回答した者の割合を示したものである。

 それにしても、なぜ日本の高校生の規範意識はこれほどまでに低いのか。その原因を特定することは容易なことではないが、右に述べたような〈甘やかし社会〉がその一因だと見て間違いないであろう。」

千石保のレビューにて、この日本青少年研究所の調査の問題は指摘済み。表1は藤田1991でも参照した総理府の調査結果の引用で、「両親のいいつけに従わない」「先生のいうことに従わない」ことについて「絶対にしてはいけない」割合の低さを指摘している。三重の甘やかしとは構造的甘やかし(子どものモラトリアム期間に関する甘やかし)、実践的あまやかし(親からの独立が遅い)、規範的甘やかし(迷惑をかけなければ何をやってよいという規範)三つを指摘する。実践的甘やかしについては1998年の世界青年意識調査結果をもとにしている(p127)。

 

P143「他方、異なる点は、欧米諸国では教育水準・学力水準の向上が改革の主要な目標として掲げられてきたのに対して、日本では、その点がむしろ批判の対象とされてきたことである。受験体制・偏差値教育なるものが校内暴力やいじめや不登校などの元凶として批判され、進歩主義的な教育思潮と新自由主義的な政治社会風潮の奇妙な連携の下に、教育の多様化・個別化・自由化が推し進められてきた。」

※少々不正確だが、日本の教育が学力を放棄するかの言説があったのも事実ではある。学力水準の否定がされたという見方は藤田にとっては正しかったのかもしれない。

P151「世界各国がそのような関心の下に改革を進めている時代に、日本の大学改革は国家公務員の定数削減といったまったく非常識な関心の下に進められようとしている。」

※いかに非常識なのか説明すべきでは?

P161「評論家やマスコミは、しばしば、受験学力ではなくて、〈自ら学ぶ力〉や思考力・表現力・企画力やバイタリティやチャレンジ精神などの重要性を説くが、高校・大学の入試においても雇用市場においても一貫して優先されてきたのは、受験学力の高い学生であり、入試偏差値の高い高校・大学の卒業生である。大学入試の多様化が進んできたが、受験学力の低い者を優先的に入学させようとしているわけではない。」

竹内洋の主張と対立する。企業が既存学力を求める根拠として成立していない。藤田の擁護したい点は明らかであるが「受験学力は、たんに入試によって評価・測定された〈達成された学力〉に過ぎないのではなくて、その達成を可能にした努力や学習可能性(潜在的能力)をも示しているのである。」(p162)と述べるが、このことが既存の「受験学力」を正当化する根拠に何一つならない。もっと言えば、藤田自身も受験偏重・詰め込み教育がよいと認めていない(p159、p163)。

 

P175「また、学校選択制は、欧米諸国でも一九八〇年代以降実質的に広まってきたが、それは教育に対する利己主義的な消費者的関心が高まってきたからであり、そうした関心を正当化する新自由主義的なイデオロギーが優勢になってきたからである。それは、時代の趨勢であるとか、好ましい変化だと見るようなものではなくて、教育の公共性を重視し、それを人びとが協力して維持していこうとする立場が優勢になってきたことの表れでしかない。」

※このようなイデオロギーの議論で片付けてしまってよい議論か?「問題は、それが当の子どもにとって本当に好ましいかどうか、教育的に好ましいかどうかである。」(p176)は当たり前であり、それに疑義があるからこその教育改革の議論だったのでは??

 

P224「しかし、子どもの学力・興味・関心や学習への構え・意欲の多様化が進むなかで、大規模の学級を基本としてすべての学習を組織することはさまざまの困難が伴う傾向が強まってきたことも確かである。それゆえ、そうした条件の変化に対応し、学習の効率化・適正化を図るためにも、学級を学校における学習・生活の基本単位としながらも、学習集団については適切な範囲で弾力的に編成できるようのする必要性が高まっていると言える。」

※多様化が問題なのか疑問だが…これまで学習が剥奪されていただけでは?また習熟度学級編成については「私立の一部」なら問題化しないが、「一般の公立学校」では好ましい結果になると限らないとする(p224)。

P224-225「他方、学級を基盤にした固定的な習熟度別学級編成や落第制度や飛び級制を小中学校段階で導入することには、筆者は基本的に反対である。その理由は、三章飛び級制に言及した際に述べた通りだが、その要点は次の三点である。一つは、それは劣等感・優越感や差別意識を育み、もう一方で、社会性や仲間意識の形成基盤をますます脆弱なものにし、結果的に公教育の意義を貶めることになるからである。二つ目は、そうした方向で学習集団の多様化・弾力化を進めるなら、そのときはこれまで繰り返し批判の対象とされ改革の必要性の根拠とされてきた受験競争・進学競争の低年齢化が進行し、そのプレッシャーが小中学生の生活と意識を覆うようになる可能性が大きいからである。というのも、日本社会は、欧米諸国に比べて、文化社会的な階級遺制や貧富の差が少なく、平等で社会的な移動機会の開かれた社会であると言えるが、そのためもあって、学校教育に対する競争的な関心が強い社会であり、そのことが受験競争・進学競争の背景となってきたからである。三つ目は、二つ目の点が現実のものとなればなるほど、そうした方向での学習集団の編成は、教育機会の制度的差別化を促進することになるからである。」

※これはすでに程度の問題ではなく、だからこそ、全面的に批判的な態度を藤田はとる。ところが、これらの三つの論点はすべて私立学校という外枠を設けていることですべて私立学校との差別問題として問題視されるべき問題点とならないのか?また、この主張は「階級制の否定」をそもそも論として語る一方、みずからもそれに加担する主張を行うという愚策を行なっている。ここでいう「文化的」なるものは自らが無責任に拡張していることに自覚的である必要があるのではなかろうか?藤田はこの配慮を明らかに欠いている。

 

P225-226「第二に、学習集団の適切な範囲での弾力化を図るとしても、これまでと同様、集団を単位にした一斉指導を基本的に重視することが望ましい。というのも、集団を単位にした一斉指導(グループ学習や個別学習の併用を含む)は、学習のリズムと密度を効率的なものとして維持するうえでも、子どもたちの協調性やアイデンティティ形成のうえでも、さらには、教師の授業の力量を高め維持するうえでも重要だからである。」

P226「この力量(※集団を相手にする授業する力量)が問われないとき、教師は往々にして授業改善の工夫を怠ることになりがちである。実際、興味深いことに、小中学校の数学と理科の国際比較学力調査で平均学力の高かったシンガポール、韓国、日本、香港、ハンガリーなどはいずれも、主要教科では伝統的な一斉指導方式が基本になっている国である。」

※教員の質の議論と、集団授業の効果、官僚制を混同しているようにも見えるが…

P226-227「各学校が、学級や一斉学習の基本的な重要性を確認したうえで、学習集団の編成や学習指導の方法について、学校・生徒集団の特徴を考慮して最適な方法を工夫することができるように、教員配置の充実をはじめとした条件の整備を進めることが重要である。とくに教職員の配置については、①現行制度のように、学級数を基礎にした教員定数の算出・配置ではなくて、生徒総数を基礎にした算出・配置とする、②近年の改革動向のように、たとえばティーム・ティーチングを採用するなら教員を加配するといった目的別加配方式によって教員数を増やすというのでなく、学級規模の標準を現行の40人から、たとえば25人ないし30人に縮小し、各学校での学級編成・学習集団の編成については、各学校が弾力的に工夫することができるようにする、③国の定める学級規模の標準に基づく国庫補助・県費負担教職員の枠内で、非常勤講師や正規雇用のパートタイム教師を採用できるようにする、などの制度改革・条件整備を進めることが重要である。」

※苅谷の議論ともずれている。実質的に総額裁量制を認める発想で、これでは「面の平等」が失われてしまう。

 

P227「これまで繰り返し指摘したように、臨教審以降、個性・創造性や自ら学び考える力の育成が強調され、学校像の転換、新しい学校像の創出の必要性が言われ、個別学習の拡大や学校選択制の導入が推奨されるようになった。そして、その背後で、一斉指導や習得学習の重要性が軽視され、その補完を塾・予備校や家庭学習に期待する傾向が強まってきた。しかし、学校で過ごす時間が子どもの生活時間・学習時間の中核を占めていることを考えるなら、こうした傾向が進めば、学校教育の機能低下はますます深刻化するであろう。」

※この問題の見方がそもそも誤りであったのでは。

P236「それに対して日本では、こうした理念的対立は曖昧にされ、進歩主義的関心と利己主義的関心が新自由主義的風潮の下に連携し、結果的に市場的競争を容認する方向に向かっている。言い換えれば、一連の改革及びその推進論は重大な矛盾を孕んでいるにもかかわらず、改革すること自体が道義的に正当化され至上目的化しているために、その矛盾が隠蔽されている。」

※藤田は学校選択制の議論を「利己主義」の問題と捉えている。また「矛盾」を問題視することこそが、素朴、無意識的な「不変」の正当化に繋がっているのではなかろうか。

P243「その際、政策的にも各大学の方針という点でも重要になってくるのは、大学間の移動がどの程度開かれたものになっていくかということである。具体的に言えば、四年制の大学への転・編入学がどの程度広く認められるようになるか、大学院がどの程度拡大するか、大学院への進学要件がどの程度緩和されるか、ということである。」

 

P250-251「大学入学者の学力水準の維持・向上という点、あるいは、高校教育の充実という点で、大学入試のありようが重要であるとしても、この点での社会的責任を根拠にして私立大学の入試方法に制約を加えることは妥当なことではない。そこで、国・公立大学にこの責任を担ってもらうのが適当であろう。」

※なぜ私立擁護??

P251「むろん、国・公立大学の存在意義はそれだけ(※授業料)ではない。高等教育機会の平等な保障、学問研究の維持・発展、地域(県レベル)の人材育成や文化・経済・社会の活力の維持・促進などの点でも重要であることは言うまでもない。しかし、受益者負担論が優勢になりつつあるこんにちの状況では、これらの側面は必ずしも国・公立大学の安い授業料を正当化する根拠として十分なものと見なされていない。」

※藤田は国公立では一割程度しか大学生の機会を保障できない事実にはどう考えているのか。

P264「とはいえ、一般論として言えることは、とくに東京をはじめ私立・国立の割合が多く、公立と私立・国立との激しい地域では、公立と私立・国立との入試制度上の差別を取り払うことが考えられる。具体的には、現在は公立の試験日と私立・国立との試験日が分かれているが、これをすべて一緒にして、公立・私立・国立を問わず、数日間にわたって複数受験できるようにするという方法である。その際、おそらく公立の学区の拡大(大学区化)も合わせて行う方がよいであろう。」

P255「以上のほかに、入試制度について、もう一つの根本的な改革案が考えられる。それは、大学の入学者選抜に高校別の割当制を導入することである。国・公・私立を問わず、各大学は、学生規模に応じて、一つの高校から一定数以上の入学を認めないようにするという改革である。たとえば国立大学は一つの高校から一定数以上の入学を認めないようにするという改革である。たとえば国立大学は、一つの高校から五〇人以上は入学させないとか、各高校の上位二〇%以内を入学者選抜の主要な基準の一つにするという方式が、それである。そうすれば、大学入試のありようは大きく変わることになるだけでなく、大学の序列も影響を受けることになるだろう。」

※序列化回避の観点からいえばこの方法は最適であるように思える。

 

P261「また、学校評議員制度の導入が提案されているが、この制度も、教育委員会と学校との一元的で官僚制的な統制・指導関係を変えるものとして構想されていない。言い換えれば、必ずしも学校の自律性・独立性や教職員の自主性・専門性を高めるものとして構想されていない。」

※この意図は教育改革が官僚制を強化することによる教師の自律性・専門性の疎外の可能性の指摘である(p262)。黒崎は民主主義が官僚制に寄与するとしたが、藤田はそれ以外の要因でも官僚制化する可能性に言及する。日本の議論では通常中央集権化こそ官僚制の条件である(cf.p265)。「教員の専門性・自律性や教職員のモラール・協同性の重要性について、近年の改革動向はこれを軽視しすぎているように見受けられる。」(p264-265)

P268「進行中の改革では、教育人事や予算配分や学校運営・教育実践面の日常的な指導・監督などの点で、教育委員会事務局(教育長・部長・専門的職員=指導主事)の権限がこれまで以上に増大すると予想されるが、それをチェックする権能が必ずしも担保されていない。」

P269「しかし、こんにち問われるべき問題は、むしろ行政府内部の恣意性・世論迎合性や党派性が教育行政の中立性・継続性を脅かす傾向が強まっているという事態をどう考えるかという問題であろう。」

P270「確かに教育委員会制度は、戦後日本の教育行政と教育水準の維持・向上に重要な役割を果たしてきた。この点は高く評価してよい。しかし、もう一方で、それは学校現場の官僚制的統制の基盤となり、しばしば学校改革の新しい取り組みや教職員の自主性・創意工夫を抑制する働きをしてきたことも否定できない。」

※この評価はあまりにも唐突な感がある。

P271「その意味で、教育に限らず、これからの社会制度で重要となるのは、市民的なチェック機能(オンブズマン的機能)を組み込んだシステムづくりをしていくことだと考えられる。」

P272改革案の一つとして想定されるオンブズマン機能を拡充するにも「教育委員ないし教育行政オンブズマンの選任方法として公選制ないし準公選制の採用を再度検討する必要があると考えられる。」

※これは最高裁の信任投票のような方法でもよいだろうとする(p274)

P276-277自律性を高めるための職員加配や、学校への一定程度の非常勤職員のための予算配置をすべき

 

P305「というのも、(※アメリカでは、)生徒指導上の問題が多い学校では、一般の教師とディシプリンティーチャーや心理臨床カウンセラーとの連携・協力がうまくいっていないとこぼす校長・教師や、問題行動を繰り返す生徒や生活上のトラブルを抱える生徒の問題はディシプリンティーチャーやカウンセラーの責任だとして関与しようとしない教師が少なくないからである。日本の学校では、教師と養護教諭がそれらの仕事を連携・協力して担っているわけだが、その方が理にかなっていると考えられるからである。」

※分業体制が問題という指摘。

☆P333-334「以上のように、能力的個性・趣味的個性のどの側面でも、小・中学校段階の教育が担うべき中心的な役割は、個々人によって多様な差異的個性の育成ではなくて、その基礎ともなる共通の基本的な能力や性向の構えの育成である。むろん、三章でも述べたように、それでも子どもたちはそれぞれに自分なりの個性を育む。その多様な個性は、それぞれに尊重されるべきものである。しかし、それは、日常の教育活動において尊重されるべきものであって、教育の目的としてその実現を制度的に保障しようとするものではない。」

※この主張は根本的な前提の議論にかかわる。

☆P336-337「この点で、一九八〇年代以降の日本社会は重大な考え違いをしてきたように見受けられる。学校がそれをどのように引き受けるか、家庭や社会がその責任をどのように果たすか、そのありようは多様でありうることを前提に、その適切な在り方を考え責任を持って実践していくことが本当は問われていたのに、それを怠り、日本の学校はあれこれ引き受けすぎているとか、過剰な干渉をしすぎているとして、その役割の縮小を主張し、学校・教師の努力に敬意を払うどころか、それを〈余計なお世話・不当な干渉〉だとして否定し、もう一方で、家庭・保護者や社会の責任が重要だと言いながら、その責任が適切に果たされていない状況を放置し、事態の悪化に加担してきた。三章でも述べたように、日本の社会は〈三重の甘やかし社会〉という傾向を強めてきた。臨教審以降の改革動向は、その傾向に拍車をかけてきた。」

※これを「怠った」と価値判断するには、それなりの実証が欲しいところだが、おそらく藤田にはその実証が絶望的なまでに欠落している。藤田の批判も見方によれば「社会問題に毒された言説」が考え違いを起こしたと読めるものの、それは藤田自身にもあてはまってしまう。特にここでは甘やかし社会構造の助長が問題視されているが、甘やかしの事実自体は藤田のエビデンスからは何も見えてきていない。「してはいけない」の規範性についても、「学校をさぼることはいけない」という規範が日本はそこまで低いという事実自体に藤田は言及していない。気になるのは「親との同居が多い」ことを根拠にする「実践的甘やかし」であるが、これもいくらでも他の説明がつくのではなかろうか?もっと言えば、ここでの主張はナイフ事件言説の議論における教育の議論と矛盾している。

 

P337「しかし、勘違いすべきでない。学校があれこれやりすぎているのではなくて、家庭や社会でやるべきことをしなくなったのであり、できなくなったのである。それどころか、自分たちができないことを棚に上げて、ときには、学校がやりすぎていると言い、ときには、学校でやるべきことをやっていないと言って批判し、その活動の基盤を掘り崩してきた。その〈やりすぎていること〉と〈やるべきこと〉とがほとんど重なり合っているという矛盾にまったく無頓着に、学校批判を繰り返し、学校・教師の活動基盤も脆弱化に加担してきた。」

※この勘違いは藤田にもそのまま当てはまるのでは?「社会問題に毒される」ことこそ、学校の信頼基盤を崩すことにそのまま寄与する。なお、ここでの主語は「改革動向」である。

P339「同様のことは、創意工夫の習慣についても言える。これには知的好奇心やチャレンジ精神なども含まれるが、この創意工夫の習慣は、学校教育はもちろん、家庭や地域や職場でのさまざまな経験のなかで育まれるものである。……筆者の考えでは、それは、特定の時間を設けたり、特定のプログラムを設定したりすれば育まれるというよりも、もっとトータルなものであり、創意工夫を必要としている活動の場や創意工夫の余地のある活動の場のカルチャーによって育まれるものである。」

※藤田のいう創造性は「一般教養を身につけていることが創造性を高める」という主張とマッチする。「また、学校生活もさることながら、それ以上に、家庭生活や学校外でのさまざまのボランティア活動などは、そうした創意工夫や自発性を生かす余地が大きいと言える。」(p339-340)個性尊重の議論と対立するのも、この創造性観の影響がかなり大きいと考えられる。

 

P342「生活者能力としての創造性はどうであろうか。この点でも、その基本は、生産者能力としての創造性の場合と同じである。とくに、積極的な構えと創意工夫の習慣については、重要なことはまったく同じと言ってよい。」

※ただし、「豊かな経験」を積むことが「生きた知識・学力」につながるという意味で生活者能力としての創造性には別途必要とみる(p342)。

P345-346「ところが、臨教審以降の改革は、努力することの重要性を軽視し、能力の基本を歪曲してきた。努力も苦労もせずに、能力や〈生きる力〉が身に付くかのように論じ、学習の内容と時間を削減し、自由な時間を拡大し、生徒中心の教育を奨励するという改革を進めてきた。……学校は楽しいものでなければならないが、同時に、努力し苦労する場でもなければならない。」

※具体的に何が言いたいのか。この辺は西尾に似ているのか。いや、西尾は個人主義だが藤田は極めて集団主義的発想に親和的である。

P351「〈教育については誰もが一家言持っている、誰でも経験や信念に基づいて発言できる〉という、一見もっともらしい通念を根拠にして、そうした〈有識者〉の思い込みと偏見に基づく改革が正当化され具体化されてきた。しかも、一連の改革や施策の妥当性や有効性が検証されることは一度もなかった。〈有識者〉は、自分たちの主張や提案の妥当性や責任を問われることはなかった。具体的な改革もさることながら、こうした無責任体制を改めることこそ、いま必要とされているかもしれない。」

※これはそっくりそのまま藤田に返すべき主張である。藤田もまた改革の検証などにはタッチしているといえないし、偏見が含まれるのは既述の通りである。そして、何よりそのような地盤を整備してこなかったのは戦後日本の教育学界だったのでは、という批判さえ成り立つのでは。

 

P352「この無責任体制は、エリート的人材の育成・輩出の第三の要因である〈人材を生かす研究・仕事の場〉の重要性を軽視ないし見落としていることにも表れている。こんにち、日本社会がエリート的人材の輩出という点で問題があるとするなら、その主要な原因は、高校までの教育にあるというよりも、むしろ、大学以上の教育の不適切さと〈人材を生かす研究・仕事の場〉が十分に整備されていないことにある。」

※確かに大学教育の議論のすり替えとして義務教育の個性が叫ばれているなら問題だが、これも議論のすりかえでは。

P371「とはいえ、筆者はけして伝統的な共同体への回帰を主張しているのではない。抑圧的な困習(※ママ)と監視のまなざしが充満していた伝統的な共同体への回帰ではなくて、自由で自律的な市民から成る新しい共生社会、多様性を許容しつつ協同の責任を担い合う新しい共生社会の構築が課題となっている、というのが筆者の基本的な考えである。」

市民派の謳い文句。