マックス・ヴェーバー「政治論集1・2」(訳書1982)

 今回はこれまで検討してきた『ヴェーバーの動機問題』に関連して、政治論集における近代観を簡単に整理していきたい。合わせて、ヴェーバーが本書で語る「官僚制」の性質についても取り上げつつ、その性格の特徴等も押さえておきたいと思う。

 本書においても「官僚制」については、ドイツの内外を問わず、批判の対象にされていることが読み取れるが、特に注目すべきなのは、官僚制自体は近代的な産物であって、それは不可避的であると述べられる点であろう(p361)。これは、中野敏男のレビューの際にも取り上げたヴェーバーの宗教社会学論集の中間考察等における「文化」に対する捉え方と基本的に同じ見方をしている。つまり、合理的官僚制はそれ自体で完結した制度下に置かれると、堕落する宿命にある、と。部分的にはp364のような物言いがその典型であり、これはどちらかと言えば、「強大な官僚制化によって、個人主義的な活動の自由はほとんど救い出すことがほとんど不可能な状況である」ことを指摘しているものと見てよいであろう。ヴェーバーは官僚制そのものを否定する訳ではない。それは技術や専門性を発揮する際には優れているものであるとみなしており(p101、p384)、近代官僚制そのものはそれ自体で合理的に機能するものとみなされる。しかし他方でこれを推し進めるのではなく、どう対抗させるのか考えることの重要性を説く(p102-103)。この主張には若干の含みはあるものの、差し当たり官僚が政治的な立場にあるような状況や、君主が支配することにより行政が監督できない状況下において、官僚制は堕落化してしまうため、その合理性が機能しなくなってしまうものと考えておこう。
 恐らくこの堕落化を防ぐための有効な対応策は本書から2点取り上げることができる(※1)。一つは私的な法律家が官僚よりも合理的な観点から抑制を行いうる関係にある場合には正常に作動しうると言えるだろう(p362-363)。官僚によって法律家はより徹底した合理的存在であり、自らの合理的な活動の非合理性を許さない法律家は厄介者と考えられている(p293)。ただ、この指摘はあまり本書では重要な位置を占めているとは言い難く、後述する矛盾も抱えることになる。むしろより重要なもう一つの方法は、十分に官僚を監督する政治家が存在することにあるとヴェーバーは主張する。つまり、政治家が議会の場を通じて適切に行政活動に対して体系的な訊問がなされる状況下に置いてこれが適切になされうるものとみなされる(p385)。官吏は議会に服従せねばならないとも述べられる(p642)。この政治家の優れた性質というのは、官僚と性質の異なる存在であるからであるとみなされていると言ってよいだろう。つまり、政治家は官僚と異なりあらかじめ専門教育を受けた者ではなく、「議員生活の経歴を重ねるなかで、不断の厳しい活動を通じてのみ、達成される」ものであり(p388)、「近代の政治家にとっては議会での闘争が、政党にとっては国のなかでの闘争が、与えられた道場である」(p379-380)。また、このような政治家は責任の持ち方が官僚と明確に異なる。p366にあるように、官僚は統一的な理念のもとにいかに独自性を出せるかが重要である一方、政治家は自らの理念をいかに貫くか、それが貫けないのであれば政治家としての地位を辞する覚悟があるかが重要であるとみなされる(※3)。
 では、このことは「投票行動」の重要性の指摘(p287)とどう関連するか。ここには、ニーチェ的な認識が介在しているように私には思われる(※2)。p311-312で語られるように、常に「国家」と対峙しながら民主制を貫くことが必要と語られる。p286では「生産者利益の組織」に対抗する住民の需要にこたえるように管理することができるほど十分強力な権力が必要であると説かれる。ここでも対抗勢力として大衆が取り扱われることになる。そしてその対抗性を十分に備えていることこそ重要であるとみなされるのであるが、このような民衆の立場と「政治家」のありようとどう関連しうるかは、私にはよくわからなかった。

 

 以上がヴェーバーの官僚制に対する対抗原理、言い換えれば『ヴェーバーの動機問題』におけるヴェーバー自身の回答であるともいえるだろうが、このような議論において前提とされている内容についてはいくつか疑問もある。
 一つは官僚の性質についてである。ヴェーバーにとって官僚は主に「法律」をあらかじめ学んだ者が想定されていること、この点にその特殊性を与えている。この点は今なお有効であるように見える反面、2つの方向で現在の視点においては理解に苦しむ部分もある。一方で官僚の優位性は法律だけではなく、多様な「専門性」に支えられている部分もあるのではないのかという点である。これはp385を素直に読めばヴェーバーも同じことを考えていたと読むこともできなくはないが、本書を読む限り、官僚に対抗できる者を法律家に求めていることはこの専門性を一面的に捉えすぎている結果ではないのかと思う。このことは、官僚をコントロールすることにおける「法律家」の比重が弱まっていることを意味するし、そのコントロール可能性は多様な分野の専門家に広がりを持っていることを意味する。もう一方の方向においては、p385で語られる「官職の装置という手段を通じて官僚のみが入手しうる知識」の希少性が実際はかなり高いのではないのかという疑問である。
 もう一つの疑問は政治家の役割に関してである。ヴェーバーの議論からはどうしても政治家の役割は合理的にふるまう官僚をコントロールすることが重視されてしまい、政治家がなさんとすることに対する政策に対する配慮が弱いように思う。というか、この点はかなり大きく後者に傾いており、果たして政治家が官僚をコントロールするべきだという点を求めることが適切なのか、当時のドイツの文脈からもそれが妥当だったのかは理解に苦しむ。これに関連して、官僚の議論を明らかにするフィールドは、単に議会にあるものと考えてしまってよいのかという疑問もある。議会は大衆にも明らかにされる場による官僚の統制手段であるが、現在の日本に当てはめれば、各省庁のトップに政治家を据えて、そのトップとその下で使える官僚との間で、一般大衆の目から必ずしも明らかにならない場でなされたとしても問題ないのではなかろうか。
 また、この点に関連して、ヴェーバーアメリカにおける猟官制には否定的な態度を取っているように見える(p567)。ヴェーバーはむしろ猟官制が衰退することが不可避な動きであると捉えようとする。つまり、官僚制度としての猟官制は非合理的なものであって、これが別のものにとって代わることは避けられなかったということである。ここでは専門的官吏自体は、政治家の意向によって変化するものではなく、固有のものとして捉えられるべきであるとみなしているということである。ところが、この点は、官僚組織の外部に優れた「専門家」がいる可能性についてあらかじめ排除した考え方であり、ヴェーバーの主張の矛盾した点であると言うことも可能ではないのか。

 

 総じて言えば、ヴェーバーは基本的には「少数者からなる指導的グループのもつ卓越した政治的機動力」(p380-381)により官僚をコントロールし、大衆はこのような優れたコントロールを行う政治家を選び、それこそが優れた政治家を生み出すためのシステムとなることを望んでいるということになろう。

 

※1 本書ではもう一点、官僚の倫理の議論を行っており(p567)、このような倫理の持ちようで一見官僚制の腐敗を解決できそうであるように見えなくもない。しかし、ヴェーバーにとっては官僚が政治に手を出し、権力を持った場合には、官僚制の腐敗は宿命付けられたものとして位置付くこととなる。あくまで(官僚とは明確に異なった)政治家による「カエサル主義的」政治的支配というのが、ヴェーバーにとって官僚制に対抗するための回答となる。

(2023年8月9日追記)
※2 ここでニーチェ的と表現したものの、相違する点があることも注意しなければならない。「権力への意志」のレビューで考察したように、ニーチェにおいては強者と弱者を区別し、それぞれに対する処方を出していた。この点はヴェーバーもp311-312で極めて良く似た発想で、2つの選択肢を用意しており類似性が認められる。片方は「弱者は弱者なりの生き方をせよ」と説くものであり、もう一つは弱者の発想に対する「抵抗」として強者の生き方を提示するという方法である。ニーチェについては精読していないので明言できる立場にはないことを前提に言えば、ニーチェにおいてはこの強者と弱者は極めて固定的なものとして描かれている(女性を弱者と同一視している態度が典型である)。しかし、ヴェーバーはこれを選択肢として、強者にも弱者にもなりえるものとして価値判断を保留している点が大きな違いであると言うことができるだろう。ニーチェにおいては貴族主義的発想で強者の資格を定めていたものの、ヴェーバーにおいてはこれが間接的にであれ、大衆の手においても関連付くことが指摘されているのである。

(2023年12月3日追記)

※3 このような政治家像を「カリスマ」というカテゴリーで呼びたくなるかもしれない。そのように解する余地もあるかと思うが、本書においてはカリスマ概念との関連性に全く言及されていなかったため、差し当たりそれとは別の可能性もあるものとして、その特徴を整理した。

 

<読書ノート>

P101「官僚制のメカニズムが技術の面ですぐれていることは、動かしようもない事実であります。」 
P102「もともとドイツ人は杓子定規のやりかたがいちばん馴染んでいる国民ですが、官僚制化へのこの情熱の意味するものは、ちょうど杓子定規のやりかただけが政治を牛耳ることを許される、といったようなことです。」 
P102-103「ですから肝心かなめの問いは、どうやってわれわれはこの発展をなお一層おし進め、そのテンポを早めるか、ではなく、なにをわれわれはこの機構に対抗させることができるか、であります。わずかに残る人間性を、魂のこの分割状態から、官僚制的生活理想のこの独裁から守るために、なにを対抗させることができるか、であります。」 


P273「正常な市民的=資本主義的エートスがこのように解体し、その影響が消え去るまでには数世代はかかる。――では、それは新しい経済倫理の基礎となるだろうか。われわれはなによりもまず、かつての経済倫理の水準に再度到達するよう努力しなければならない!だがこうしたことは、すべて副次的問題にすぎない。」 
P286「そんなことにでもなれば、カルテルによって代表されるあの資本主義的な生産者の利害関心と収益の利害関心だけが国家を支配するだろう。生産者利益を統制し、住民の需要にこたえるように管理することができるほど十分強力な権力が、生産者利益の組織に対置されるのでなければ、きっとそうなるだろう。」 
P287「だから、近い将来生産者利益の組織が経済を動かすときには、それが機能しはじめる前に、したがって今すぐに財生産の職種にしたがって選ばれた機会ではなく、大衆需要の代表の原理にしたがって選ばれた議会――平等選挙権の議会――が最高の権力を担って対置されることがどうしても必要である。この議会は、従来よりも本質的にはるかに強力な権力をもたなければならない。」 
P287「結局は、投票用紙がこの支配に対抗する唯一の権力手段である。」 

P293「官僚層は、言うまでもなく弁護士のことを厄介な仲介者とか苦情屋として憎んでいる。彼の収益チャンスにたいする妬みからも憎んでいる。議会と内閣が弁護士だけで統治されるのは、たしかに望ましいことではない。だが優秀な弁護士層をしっかりとかかえこむとしたら、現代のいずれの議会にとっても望ましいであろう。――ともかく「貴族」は、いまやイギリスにおいてすら、もはや弁護士層のなかに形成されない。それは市民の勤労階層、もちろん政治的にゆとりのある階層のなかに形成されているのである。」 
P303「このドイツの因習は、その内的本質からして決して紳士的でもなければ「貴族的」でもない。徹頭徹尾平民的である。それにもかかわらず、否むしろそれだからこそこの因習は民主化されないのである。ロマン民族の名誉律は広範な民主化がかのうであった。まったく別種のアングロサクソン民族の名誉律も同様であった。これにたいし「決闘申込みに応じる能力」という特殊なドイツ的概念は、どう考えても民主化することができない。ところが、この概念は大きな政治的影響力をもっている。」 

P309「「真の」民主主義は、議員のなかの弁護士層が官吏の実際の仕事を妨げることができないようなばあいに、また妨げることができないようなところで、もっとも純粋に具体化されるだろう。」 
☆p309「いわゆる直接民主主義の制度は、小さな州でのみ技術的に可能であるにすぎない。大衆国家ならどこでも、民主主義は官僚制的行政をもたらす。しかも議会主義化が行なわれなければ、民主主義は純然たる官僚支配に導く。」 
P309-310「議員が素人であるように、現代の君主はいつも素人さらざるをえない。したがって行政を監督することができない。両者の相違はつぎの点にある。1、議員は政党の闘争のなかで言葉の影響力を考慮することを学ぶことができるが、君主は闘争から遠ざかっている。2、議会は調査権をもつから、議会は宣誓にもとづく反対訊問を行なうことによって実情を知ることができ、したがって官吏の行動を監督することができる。君主はこれをいかにして実行することができるだろうか。議会なき民主主義はこれをいかにして実行することができるだろうか。」 

P310-311「だが、やや複雑な法律を制定したり、文化の内容にかんして規制を行なったりするばあいには、大衆国家におけるレファレンダムの意味は、あらゆる進歩を強力に機械的に阻止することにあった。」 
P311-312「官僚国家による身分構成の平準化という意味での「民主化」は、事実である。だから、つぎのいずれかの選択があるだけである。見かけだけ議会主義の官僚主義的「官憲国家」のなかで、国家市民大衆は権利もなく自由もなく家畜の群のように「管理」されるか、――さもなくば、国家市民大衆は国家の共同の主人としてこの国家のなかに編入されるかのいずれかである。だが王者の民族――そしてそのような民族だけが「世界政策」を行なうことができるし、行なってもよいーーはこの点にかんしていかなる選択の余地もない。民主化はおそらく(当面は)失敗するかも知れない。なぜなら強力な利害、偏見、さらに臆病が一緒になって民主化に反対しているからである。しかしこうした反対がドイツの全未来を犠牲にするものだということは、やがてはっきりするだろう。そのときには大衆は、全力を尽して、彼らが単なる対象にすぎず参加者でもない国家に対抗して闘うだろう。」 
※ここにも強力なニーチェ臭が。そしてここではやはり国家は対立軸とみなされてしまう。大衆が国家を体現してしまった場合にはこの図式は崩れてしまう。 

 

P350「近代国家において支配が現実に力を発揮するのは、議会の演説でもなければ、君主の宣言でもない。日常生活における行政の執行が現実の力なのであるから、この支配は、不可避的に文武の官僚の掌握するところとならざるをえない。」
p351「現代の私的大経営についても、なんら事情に変わりはない。とくに大規模経営になればなるほど、いっそう官僚主義の前進が起こっている。」
P353「だが、このように非常に古いかたちでの資本家的営業と対比したとき、近代資本主義の特質は何であるか。合理的技術を基盤とする厳密に合理的な労働組織がこれであるが、こうした特質は、かように非合理な構成の国家制度のもとではこれまでどこにも成立しなかったし、またけっして成立しえなかった。なぜというに、こうした特質が成立するためには、固定資本と精確な計算によって営まれる近代的経営形態は、法律と行政の非合理性をあまりにも耐え難く感ずるからである。したがって、近代的経営形態は、つぎのようなところでのみ成立することができた。すなわち、イギリスにおけるように、法律の実際的形成が事実上弁護士の手中にあり、しかも弁護士が資本家的利害関係人の依頼に応じて適当な営業形態を考案し、さらにこれらの弁護士のなかから「判例」という計算可能な範式を厳守する裁判官が輩出したところ、これがひとつ、もしくは、合理的法律をもった官僚制的国家におけるように、裁判官が程度の差こそあれ法律条項の自動販売機になっていて、上から費用と手数料を添えて訴訟記録を投げ入れれば、下から多少とも根拠のある理由付きの判決が出てくるところ、それゆえ裁判官の機能がともかく一般に計算可能なところ、これがひとつ、この二つのうちいずれかの場合に、近代的経営形態が成立したのである。」

P359「この最後の場合、すなわち、名望家または利害関係人代表が官僚を上にいただくという場合は、とくに自治体行政にみられるところである。この現象は、実際問題としてはたしかに重要なことがらであるが、しかしここではわれわれの問題からはずれている。なぜなら、大衆団体の行政においては、専門教育を受けた常勤の官僚層がつねに機構の中核を形成すること、そしてこの官僚層の「規律」が成果を生み出す絶対的な前提条件をなしていること、ここではそれだけが問題となるからである。」
P361「官僚制は、官僚制以外に近代的・合理的な生活秩序を歴史的に支えているものと比べれば、それらよりはるかにいっそう深刻な不可避性を有している点に特徴がある。……けれどもこれら過去の官僚制は、比較的にまだすこぶる非合理な形態なもの、すなわち「家産制的官僚制」であった。これらの過去の事例と比べて、近代的官僚制のきわだっている点はどこにあるかというと、その不可避性を本質的な点で決定的に根拠づけている特性、つまり、合理的専門的な特殊化と訓練という点にある。……近代の官吏は、近代的生活の……近代の官吏は、近代的生活の合理的技術に対応して、不断に、また不可避的に、ますます専門的に教育され、特殊化されてきている。地上のすべての官僚制はこの道を歩んでいる。」
※これがある意味官僚を無意味に批判しない理由にもなっているのだろう。

P361-362「例えば、政党の官職授与権によって職についた昔のアメリカの官吏は、選挙戦場と自分のたずさわっている「実務」について、専門的「玄人」であることに間違いなかったが、どうみても専門的な教育を受けた専門家ではなかった。ここにアメリカにおける腐敗の原因があったのであって、わが国の文筆家が公言しているように、民主主義そのものに腐敗の原因があったわけではない。もっとも、いまようやくアメリカにも定着してきた「公教育制度」の、大学教育を受けた専門的官吏にとっては、同じく近代イギリスの官僚制のなかで、いまやますます名望家による自治にとってかわりつつある専門的官吏にとっては、あの腐敗が無縁のものになってきている。」
☆p362-363「国家の官僚制は、私的資本主義が除去されたあかつきには、独裁的に威力をふるうだろう。今日では私的制と公的官僚制とは、並行して、少なくとも可能としては対抗して、活動しているから、とにかくある程度たがいに抑制しあっている。しかしもしそのようなことになったならば、この二つの官僚制はただ一つの階層的秩序のなかに溶けこんでしまうであろう。それは古代エジプトの再現のごとくであるが、ただ古代エジプトの場合とはくらべものにならぬほど合理的なかたちで、そして合理的なるがゆえに逃れられぬかたちで、再現することだろう。」
※「もしも純技術的にすぐれた、すなわち合理的な、官僚による行政と事務処理とが、人間にとって、懸案諸問題の解決方法を決定するさいの、唯一究極の価値であるとするならば、人間はたぶんいつの日か、古代エジプト国家の土民のように、力なくあの隷従に順応せざるをえなくなろう。」(p363)。ではどうするのか。

P364「この官僚制化の強大な傾向に直面して、なんらかの意味で「個人主義的な」活動の僅かに残った自由をすこしでも救い出すことは、そもそもどうすればまだ可能であるか。」
※しかし「いまわれわれの関心はこの問題にない」とする(p364)。
P365「これよりもはるかに目立つ相違は、大臣にたいして、まさに大臣にたいしてのみ、他の官吏にたいしなされるような専門教育の資格証明の必要がなんら規定されていないという事実である。このことは、大臣が、まさしくその地位のもつ意味からして、私経済内部の企業家や総支配人とどこか類似した相違を、他の官吏にたいしてもっていることを暗示している。いや、大臣は他の官吏とはなにか別物であるべきことを暗示している、こう言ったほうが正確であろう。実際そのとおりなのである。」
※官吏が大臣になってしまえば役に立たないとする。
P365-366「相違はそうしたところにあるのではなくて、両者の責任のとりかたの違いにある。この違いから、両者の特性にたいして提出される要求の種類も、もとより広範囲に規定されてくる。」
※官僚は上級職との信念が相違する場合、その理念を受けながらも自らの本来の信念を遂行することが「名誉」でさえある。しかし政治的指導者がそのようなことをすれば軽蔑に値する。そうではなく、それを通すか辞職するかであるべきとする。官僚なら超党派態度をとるべきである。自己の権力のための闘争と、獲得した権力から生じてくる自己の課題にたいする固有の責任、これが政治家としての、また企業家としての生命の素なのである。(以上p366要約)

P369「君主は、政党の闘争や外交活動のなかで訓練された政治家ではけっしてない。」
※このようにしてドイツ君主制を批判する。
P379「文筆家は……自分自身を官僚として、また官僚の父として自負している」
P379-380「あらゆる政治の本質は、のちにもしばしば強調することだが、闘争であり、同志と自発的追随者を徴募する活動である。……ビスマルクにとっては、周知のとおり、フランクフルト連邦議会が自己訓練の場であった。軍隊において訓練は戦闘のための訓練なのであるから、この訓練は軍事的指導者を輩出しうる。近代の政治家にとっては議会での闘争が、政党にとっては国のなかでの闘争が、与えられた道場である。この道場は、他の何物によっても置き換えることができない価値をもっている。」
☆p380-381「代議士の大群は、すべて特定の「リーダー」または内閣を構成する少数の「リーダー」の追随者としてのみ働くのであって、「リーダー」が成功を収めるかぎり、盲目的に「リーダー」に服従する。そうでなければならない。「少数の原則」、すなわち少数者からなる指導的グループのもつ卓越した政治的機動力が、つねに政治的行為を支配する。この「カエサル主義的」な特徴は、(大衆国家では)根絶し難いものである。
 この「カエサル主義的」な特徴だけが、多頭統治を行なう集会内部では雲散霧消してしまう公共にたいする責任を、特定の数人に帰しめることもまた保証するのである。まさに本来の民主制において、この事実が明らかになる。」

P381「アメリカにおいては大統領の任命する裁判官は、国民に選ばれた裁判官よりも、能力と廉潔の点ではるかにすぐれていた。理由は、裁判官を任命する指導者が官吏の素質にたいしてつねに責任をもつ地位についていたこと、そして、もしこの点で大きな失策があったときには、与党は、のちになってこの失策を痛感しなければならなかったこと、これである。」
P384「官僚の行政にたいする有効な不断の監督という単純な〔議会の〕使命の達成を阻んでいるのも、このものである。このような監督の仕事は、はたして余計なお節介だろうか。
 官僚層は、明確に限定された専門的なことがらに属する職務上の課題について、自己の義務感、不偏性および組織上の諸問題を裁量する能力を示さねばならぬ場合には、いつもすばらしい真価を発揮した。」
☆P385「すべての官僚の権力地位の根拠となっているのは、行政の分業的技術そのもののほかに知識である。この知識には二種類ある。第一が、専門教育によって獲得される広い意味での「技術的な」専門知識である。それが議会においても代弁されているか、あるいは代議士が個々の場合ごとに専門家から私的に情報を蒐集しうるか、ということは、偶然的事象であり個人的問題である。このようなことは、行政の監督の代替物にはけっしてなりえない。行政の監督は、あくまでも議会委員会の席上、関係部門の官僚召喚のもとに、消息通が行なう体系的な訊問によってのみ保障されるのであり、多方面にわたる質問も、この訊問方式によってのみ保障される。」

P385「しかし、専門知識だけが官僚の権力の基礎となっているのではない。第二は、官職の装置という手段を通じて官僚のみが入手しうる知識であって、官僚の行動の規準となる具体的な事実にかんする知識、すなわち職務上の知識である。この事実にかんする知識を官僚の行為に頼らずに入手できる人だけが、個々の場合に行政を有効に監督することができる。事情によって異なるが、このためには、書類閲覧、実地検証、さらに極端な場合には、議会委員会の席上、証人として出頭する関係者に宣誓させて訊問することが考えられる。帝国議会はこの権利もまた持っていない。」
※議会による適切な監督の必要性を説いている。
P387「実際わが国では、官僚が自分の仕事として取り組まねばならない問題が明るみに出ることは皆無である。官僚の業績が理解され、評価されることはけっして起こりえない。……専門教育というものは、近代の諸事情のもとになっては、政治目標達成のための技術的手段を知るうえに、欠くことのできない前提なのであるから。しかしながら、政治目標を設定することはけっして専門事項ではなく、専門官僚は、専門官僚であるかぎりは政治を規定すべきではないのである。」
P388「政治家の政治的訓練は、議会の本会議における見せかけだけのお飾り用の演説によっては、もちろん達成されない。それは、議員生活の経歴を重ねるなかで、不断の厳しい活動を通じてのみ、達成されるのだ。イギリスの議会指導者の重鎮と目される人びとは、かならず委員会活動の訓練を受け、またそこから出発してしばしば全行政部門を一巡して手ほどきを受けたのち、はじめて高位につく。……そういう選抜の場として、イギリス議会は今日まで他国の追随を許さない。」

P423「ドイツの政党内部の社会的構造はいかにもさまざまではあるが、官僚制化と合理的な財政運営が民主化の随伴現象であることは、ドイツでもどこでも同じである。」
P480「そのうえこの国民は、似非非君主制的空語にまどわされて、統制されない官僚支配に甘んじる。こんな国民はけっして王者の民族ではない。こんな国民は、虚栄心から世界の運命に心を砕くようなまねはやめて、日々の仕事にいそしむがよかろう。」
※どう考えてもニーチェの影響を受けた物言い。
P507「まさしくこの組織の国家社会主義的要素は、企業家なしにはまったく存立することができなかったのである。その大規模な経済組織の構想と業績は、ほとんど例外なく実業家によって生み出されたのであって、官僚によってではない。純粋な官吏経済が、結局は適してもいないし慣れてもいないこうした(※戦時経済下の)組織の仕事を遂行しようとしたところでは、大量の消耗と一部では腐敗が横行した。」

P526-527「官吏の国民選挙は、官職規律をことごとく破壊する。そしてこのことは、とくに厳格な社会化にとって決定的に重要である。国民選挙の官吏は、みんながお互いに知り合いである地域集団に、したがって小さな地方自治体にむいている。大きな地方自治体でも、アメリカの経験によれば、市長の選挙はーーただし市長が上級官吏を任命する独裁的権限を握っているばあいーー強力な改革の手段でありうる。これにたいし選挙人大衆は、専門官吏をその資質にもとづいて審査することができない。」
※ある意味で素人批判。
P558「ここでとりわけわれわれの興味を惹くのは、三つの型中の第二のもの、すなわち支配が「指導者」の純粋に個人的な「カリスマ」に対する服従者の帰依に基づいている場合である。「天職」という考え方が最も鮮明な形で根を下ろしているのが、この第二の型だからである。預言者、戦争指導者、教会や議会での傑出したデマゴーグがもつカリスマに対する帰依とは、とりもなおさずその個人が、内面的な意味で人々の指導者たる「天職を与えられている」と考えられ、人々が習俗や法規によってではなく、指導者個人に対する信仰のゆえに、これに服従するという意味である。指導者個人は、彼が矮小で空疎な一時的な成り上がり者でない以上、自分の仕事に生き、「自分の偉業をめざす」であろう。しかし彼に従う者……の帰依の対象は、彼の人柄であり、その人の資質に向けられている。」
※以下「職業としての政治」から。ここで仕事(ザッへ)に生きるという物言いは、決して肯定的な意味合いで取られている訳ではないだろう。むしろそれは当然なされるべきことを行う、というニュアンスであり、それ以上でもそれ以下でもないのでは。

P567「長期間にわたる準備教育によってエキスパートとして専門的に鍛えられ、高度の精神労働者になった近代的な官吏は、他方で、みずからの廉直の証として培われた高い身分的な誇りをもっている。もし彼らの誇りがなかったら、恐るべき腐敗と鼻もちならぬ俗物根性という危険が、運命としてのわれわれの頭上にのしかかり、それによって、国家機構の純技術的な能率性までが脅かされることのなろう。アメリカ合州国では、猟官政治家による素人行政によって、下は郵便配達夫にいたるまで数十万の官吏が大統領選挙の結果如何で替えられてしまい、終身の専門官吏も存在しなかったが、このような状態は公務員制度改正によってかなり前から通用しなくなっている。こうした発展は、純技術的な行政に対する不可避的な要請によるものである。」
P596-597「政治にとっては、情熱、責任感、判断力の三つの資質がとくに重要であるといえよう。ここで情熱とは、事柄に即するという意味での情熱、つまり「事柄(※ザッへ)」への情熱的献身、その事柄を司っている神ないしデーモンへの情熱的献身のことである。……情熱は、それが「仕事」への奉仕として、責任性と結びつき、この仕事に対する責任性が行為の決定的な規準となった時に、はじめて政治家をつくり出す。そしてそのためには判断力――これは政治家の決定的な心理的資質であるーーが必要である。すなわち精神を集中して冷静さを失わず、現実をあるがままに受けとめる能力、つまり事物と人間に対して距離を置いて見ることが必要である。……しかし、距離への情熱――あらゆる意味での――がなければ、情熱的な政治家を特徴づけ、しかも彼を「不毛な興奮に酔った」単なるディレッタントから区別する、あの強靭な魂の抑制も不可能となる。」

P612-613「政治とは、情熱と判断力の二つを駆使しながら、堅い板に力をこめてじわっじわっと穴をくり貫いていく作業である。もしこの世の中で不可能事を目指して粘り強くアタックしないようでは、およそ可能なことの達成も覚束ないというのは、まったく正しく、あらゆる歴史上の経験がこれを証明している。しかし、これをなしうる人は指導者でなければならない。」
※以上職業としての政治。
P642「官吏は議会に服従していなければならない。完全に。官吏は技術者なのです。……わが国では官吏は不遜にも「政治」に手を出している。」