中野敏男「マックス・ヴェーバーと現代・増補版」(1983=2013)

 今回はヴェーバーの近代化論に関連し、今後折原浩の著書における議論を検討するための前段として、中野の著書を取り上げる。

 すでに折原については羽生辰郎との論争の考察の一環でその主張に関する検討を進めたが、そこでの最大の疑問点として提出したのは、「歴史的構成体としての理念型の有効性をみていく際の、ヴェーバーの『宗教社会学論集』に与える意義とは何なのか」という点だった。折原はこの重要性についてしきりに主張していたものの、それが具体的に如何なる意義があるのかについて、羽生との論争中に触れられているとは言い難かった。他方、折原は大塚久雄について名指しで批判しており、大塚とは違う方向性で「近代化論」を展開する論者であると自認している。しかし、やはり折原の著書からだけだとなかなか彼の主張の本旨が見えてこないことがあり、類似性が部分的に認められる中野の著書から先に検討したいと思った所である。

 例えば、折原は次のような主張により、自らの立場を表明している。

 

「ただし、日本は、その過程で、「ヘロデ主義」の「脱亜入欧米路線」に走り、欧米近代に倣って「経済力と軍事力との互酬―循環構造」を創り出し、列強某国とも、同盟関係を結びました。そのうえ、そうした軍事力を、近隣アジア諸国に振り向け、侵略を重ねる、という誤りを犯しました。わたくしは、この歴史を忘れません。むしろ、そうした日本近代史の汚点を反省するとじろから、「脱亜入欧路線」とその再版に警戒を怠らず、さりとて「ゼロト主義」的反動にも走らず、むしろ両者の「同位対立」を根底から乗り越える人間存在の原点に揺るぎなく腰を据えたいと思います。」(折原浩「マックス・ヴェーバーとアジア」2010、p175)

 

 ここでのポイントは折原が「人間存在の原点に腰を据える」というスタンスでいるという点である。「人間存在の原点」とは「神―人の不可分・不可同・不可逆の原関係」という言い換えもされている(折原2010,p175-176)が、わかるようでいて、ほとんどよくわからない物言いである。この引用で別途参照されている(※1)折原の著書でも、結局次のような指摘を行うにとどまっているように思える。

                 

「そして、わたくしたちは、なぜかこの原関係に背いて、あらゆる方向に伸びようとし、あちこちに偶像を立てがちな、思いや情念を去って、この「原点」に立ち返るとき、そこに無条件に恵まれている、真理への無制約的な促しを、素直に受けて立つことができ、と同時に、当の「原点」に発して現象界のすみずみにまでおよんでいる光に照らし出されてくる真理を、同じく素直に受けとめ、心して正確に表現していくことができます。」(折原浩「ヴェーバーとともに40年」1996、p99-100)

 

 折原はヴェーバーの宗教社会学論集にみられるような「比較宗教社会学的研究」(折原1996,p45)ないし「比較歴史社会学」(折原2010,p30)の意義として上記のような「人間存在の原点」に立ち返ることを企図しているのは明らかである。当然これが宗教社会学論集の「意義」として位置付けられているものであると言ってよいだろう。

 一方、中野敏男もヴェーバー的な「比較文化史的視座」を把握することの意義として、それが「徹頭徹尾〈人間主義的〉な関心に貫かれて」おり、「現実に生きているわれわれをして〈文化人〉としての自覚に目覚めさせ」るものであるという(p248)とき、極めて折原的な意義を共有しているように見える。折原とはスタンスが違うとしても、中野の議論を考察することは折原理解にも繋がるものと考えられる。

 

 

 中野は「人格性/物象化」というセットによる文化(ここでいう文化は文明的なものも内容したものとして、以下「<文化>」と表記する。)理解の重要性を説き、ヴェーバーこそ、この「人格性/物象化」というセットで<文化>理解を行おうとした人物として評価する(cf.p139,p233,p266)。「国家や文化圏や地域として囲まれて実体化されるような歴史のそれぞれの単位の相対にではなく、その担い手である文化人の行為理解に置く」ことで分析を行うことを「理解社会学」と中野は定義する(p332)。この文化人は、(自身の態度がどうあろうが)すでに特定の<文化>に内属した存在であり、その文化の中で主体性を行使する(=人格性、p132)(※2)。そして、その人格性は教育により再生産される(p136)。いわば人格性というのは<文化>の中でその正当性が機能するものである。

 さて、この人格性は必然的過程(中野的ヴェーバー理解においては「運命」)として物象化を伴うものである。これは<文化>の中で展開されるそれ自身の(独自の)合理化過程として表出するものである。ところが、この人格性は自らの依拠する<文化>の外に出ると、常に「無意味化」に突き当たる可能性が出てくるし、<文化>そのもの恣意性を自己内省し続けることで、その無意味性を自覚するに至る。この一連の動きを中野は<物象化>と呼び、<人格性>に内包する概念として語る。このあたりの核となる議論はp228-229のヴェーバーの宗教社会学論集の「中間考察」から引き出されているものであり、中野はヴェーバーの「理解社会学」の基本的モチーフをこの点に見出すのである。

 

 では、このような「理解社会学」はなぜ有意義なのか。中野はこれについて「覚醒預言性」を秘めたものとして捉え(p19-20)、「(特に西欧近代のそれとは別の)新しい文化的可能性の探究」(p20)に寄与するものであるからと明確に述べている。中野のこの説明は極めて明瞭である。

 

 この理屈はヴェーバー自身の「動機」を素朴に想定してみても同じように見いだせるように思われる。ヴェーバー自身が「合理性」の帰結についてそれが無意味化することについてはほとんど確信を持っていたという点については基本的に正しいものと私も考える(※3)。しかし、「専門家」としてのヴェーバー自身もまた<文化>に内包された存在であることを否定することはできないのではなかろうか?<文化>が無意味化されるのを理解してなおヴェーバーが専門的な「合理性」を追求し続けるように見えるのは何故なのか、という問いがここで想起されてよいように思える。簡単に言えば「無意味なものは無意味なのだから何故それ以上問おうとするのか」という疑問である。これを今後『ヴェーバーの動機問題』と呼ぼう。

 正直な所、この議論についてはこれまで論争としてはっきり明確化されていないものの、何故この論点が議論されないのか不思議でしょうがないというレベルで論者ごとに意見が分かれており、かつ論者ごとの意思の相違の理由の一つが、この問題を適切に捉えられていないことに見出せるように思えてならない。これは同様にヴェーバー自身の態度を「正しく捉える」ことが著しく困難であるか、不可能であることに起因すると言ってもよいように思われる。私がこれまでのヴェーバー研究者を理解する限りでは、大まかには次のような意見の相違が見受けられる。

 

1 無意味なものでもそれを追求することしか方法がない故、あえてこれを追求すると見る立場。

2 ヴェーバーの専門性というのは俗にいう専門性とは異なり、異なる(実質的には「より高度な」)立場にあると考える立場(これを今後のレビューでは「二重の専門性論」と呼ぼう)。

3 そもそもこの問題を回避しようとする立場。

 

 この『ヴェーバーの動機問題』に対する中野の答えは2に位置付けられる。先述した「新しい文化的可能性の探究」というのは、ヴェーバー自身の中で「無意味化」が回避されるという意味で有効であると見るのは一見して極めて自然だろう。思うに折原の見解も基本的には同じような点にあると考えてよい。もっと言えば、基本的に2の立場にいる者は、ヴェーバー読解を1の立場として考えている者について批判を行うか、3の立場にいる者に対し、その無自覚さを批判するという態度をとる傾向がある(※4)。

 もっとも、上記の議論は中野が言うように文化の「宿命」が真理であることを前提としていることにも注意を向けねばならない。ヴェーバーの実際の動機においては、確かにこの「宿命」が前提となっていると解釈すべきであるように思うが、ヴェーバーの議論から離れれば、人格性/物象化の過程で起こる「合理化」の帰結というもの自体が「理念型」であるため、実態はそのようになりえないと見る可能性もありえる。この立場を2とみるか3とみるかは微妙であるが、1・2の前提となっている「宿命」を回避しているという意味で、3の立場として今後考えていきたいと思う。

 

 さて、中野ら2の立場における議論は、基本的に既存の「専門性」とは異なる所に可能性を見出す。それぞれの文化に根ざした合理性に関連した言い方をすれば「新しい文化可能性」に寄与するものだと主張する。しかし、よく考えれば、「新しい文化可能性」についても論理的に考えれば既存文化に与えられた「無意味性」は除去できないことが前提になるはずである。この「無意味性」という観点からは文化そのものに色を付けることはできず、「善悪」もなければ「新旧」という区別にも何ら意味がない。にも関わらず、「新しい文化可能性」が重要であると主張するのは、ただのダブル・スタンダードではないのか?少なくとも、中野自身の論法においてこのようなダブル・スタンダードの傾向があったことは、中野「大塚久雄丸山真男」(1999)を考察した際にすでに見た通りである。中野の「主体動員論」批判は、中野自身の主張においてはあてはまらず、無根拠に別の「主体動員」を中野自身が要請してしまっている。こうなってしまう理由の説明は簡単である。結局中野はここで「新しい文化可能性」などという中途半端な議論しか行っていないため、これを具体的に中野自身が議論してしまうと自らが行った批判と同じ問題を抱えた主張しかできないのである。結局この立場の問題点というのは、どうして「比較文化史的視座」により楽観的に「新しい文化可能性」を獲得できるなどと言えてしまうのか、という点に尽きる。私自身はこのような可能性に関する議論は「比較文化史的視座」からは獲得できるとは主張できないものだと考える(百歩譲っても、安易にこのような主張がなされるべきではない、と考える)。

 

 さて、このような矛盾について考えた際に、果たしてヴェーバーがこの「新しい文化的可能性」を中野と同じように考えていたのかといえるのか、という点も検討されなければならないだろう。残念ながら、現時点でこの検討ができる状況にないが、今後のこの議論の考察のなかからヴェーバーの議論にも触れていきたいと思う。

 

人間主義的な動機とは何か?

 さて、このような「ヴェーバーの動機問題」におけるダブル・スタンダードを把握する切り口としてもう一つ押さえておきたいのが、ヴェーバー比較文化史的視座というのが「人間主義的」な関心に貫かれているという主張である(p248)。これも一見すると「合理性」に対する対抗手段として「人間的」という視点を与え、この視点を重視すべきであるという主張に見える。

 

ここで注意したいのは、中野の別の著書で語られるような<人間中心>という議論である。中野は「ヴェーバー入門」(2020)において、次のような指摘を行っている。

 

「本節で物象化という事象の両義性を見てきましたが、ここで述べられていることは、西洋の現世内禁欲は社会的関係をとりわけ物象化したということです。すなわち、社会的関係に含まれる「人間的な要素」を切り落として、モノの関係であるかのような「合理的」な扱いを推し進めたということ、そのような扱い方がその宗教倫理の「特別な結果」として生まれたということです。しかも前節で確認してきたように、現世内禁欲は、この結果を生み出す生活態度をその意味を問わないままに「義務」としたのでした。まさにここに、理解社会学が問い、また明らかにしている問題の一つの核心があります。」(中野2020,p216)

 

「そこでヴェーバーがまず指摘しているのは、両者の宗教的義務の違いです。すなわち、ピューリタニズムにおいては身の回りの人間たちとの関係がすべて彼岸の神に対する宗教的義務のための単なる手段や表現と見なされたのに対して(物象中心)、儒教ではその人間関係の中で効果を発揮することこそが宗教的義務とされた(人間中心)、ということです。そしてヴェーバーは、後者が「人間関係優位の立場における物象化についての限界」につながったと言います。」(同上、p229)

 

「さて、『儒教道教』をこのように読んでここまで来ると、そこで提出されている問題が、単なる中国史の問題ではないだけでなく、実はピューリタニズムという特定の二つの宗教だけに関わることですらないと気づかされるのではないでしょうか。儒教とピューリタニズムはそれぞれ極限事例であって、問題は「物象中心vs人間中心」という対抗軸で対比されるべき二つの類型の倫理がもたらす生活態度と社会秩序への影響のことなのです。そして、その弊害という意味で今日のわたしたちにとりわけ際立って感じられるのは、やはり「現世支配の合理主義」のことでしょう。現世を支配し、自然を支配し、世界を支配するそんな「合理主義」は、世界を制覇する力であるとともに、確かに脅威でもありうる。この危惧がさまざまに現実化して、いまやそれはピューリタンにとってだけではなく、わたしたちの時代そのものが直面し続ける世界の基本問題になっていると認めねばなりません。」(同上、p232-233)

 

 まずこの指摘で押さえるべきは、(少なくとも言説上は)中野のいう「人間性」を中野自身が擁護している訳ではないという点である。これを勘違いすると、西洋と東洋の優劣問題において、東洋が真の意味で優れているという主張が成り立ちかねない(※5)。繰り返しp229に立ち返る必要があるが、ヴェーバーによればいかに人間関係が優位にあろうとそれが<物象化>を回避できるわけではないし、中野のヴェーバー解釈もそのように捉えられている(p233)。上記最初の引用(中野2020,p216)は、本書との連続性があることを前提とした主張であり、別に中野の議論が揺らいでいる訳ではないことを示すものである。ところが、ヴェーバー論者がすべて中野のような態度を取るわけではないことをまずここでは押さえておきたい。

 また、結論から言ってしまえば、折原の主張はこの両者を混同しているかのような形で欧米(そして日本)を批判しているようにも思える。折原が曖昧に述べる「人間存在の原点に腰を据える」という言い方を滝沢克己由来のものとして考察すると、そのように解釈することしかできないからである。このことは今後のレビューで示していきたい。

 

※1 当引用で参照されているのは折原(1996)と滝沢克己の「人間の『原点』とは何か」(1970)の2著書である。滝沢の著書に対する検討は今後別途行う。

 

※2 これは折原浩が随所で存在の被拘束性と呼んでいるものと同じである。

 

※3 「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」や「職業としての学問」におけるヴェーバーが存命していた当時のアメリカへの言及や、「中間考察」における文化観に対するヴェーバーの語り(p228)からはそのように捉えるほかないだろう。

 

※4 なお、私が理解する限りにおいては、大塚久雄はかつては明確に1の立場であったにも関わらず、「止揚」の思考を否定した70年代以降3に寄る立場になったという理解でいる(正確には、ヴェーバー理解そのものから離れたというべきか)。

 

※5 しかし、例えば中野(1999)が批判を行っていた「主体動員論」について考えると必ずしもここでの理論的な区分けと実際の中野の主張が合致していないのではないのか、という見方も成り立ちうるように思える。「主体動員論批判」において、明らかに中野は「人間存在の擁護」を行っており、しかもそれは私が指摘したように屈折した形をとる中で中野の主張に自己矛盾を生むものとなっていた。この主体動員論についてもヴェーバー論者であった大塚久雄丸山眞男との関連性によって、ヴェーバー論として語る余地があると言ってしまえば、中野自身もここで議論する「人間性」に関して混同しているのではないか、と邪推することも可能である。

 

<読書ノート>

P17「ウェーバーを問うことは、つねに〈近代〉を問うことに結びついてきた。それゆえに、ウェーバー像の新たなる構成は、〈近代〉への可能な問いのあり方に、新たな視角を切り開くものでなければならない。」

P17-18「「戦後復興」と「近代化」とは、大衆の表層レベルの意識では、生活態度の「アメリカナイズ」に他ならなかったが、知識層においては、その理念型的な範型は〈西欧型近代市民社会〉にあったと言いうる。この両者は、戦後日本の「近代化」の過程で、両極にあって、相補的にそれを推し進めるエートスとなった。そうした中で、〈西欧型近代市民社会〉の姿を最も明瞭に教えたウェーバーは、「近代化」の旗手として承認されるに至ったのである。」

P18「従来の「近代化論」の見地からすれば、日本社会の「前近代性」とは、伝統主義的規範に拘束された、その「非合理性」に他ならない。すなわち、自由で自立した諸個人が「合理的」に行為する可能性と能力を持つという〈西欧型近代市民社会〉の「合理性」の理念を範型とすることによって、それは立論の根拠を得たのである。それゆえに、そうしたウェーバー当人が、その「合理性」の根底において、「人間自然の幸福観を強力に変形するような〈非合理的なもの〉の存在を強調していることは、看過しえないところであった。

 ウェーバーに依りながら「近代性」の理念を説いてきた大塚久雄は、この問題のもつ特別な意味を指摘する。」

※注目すべきは、ここで中野が大塚を近代化論者と別に捉えている点である。この大塚の指摘は64年のウェーバーシンポジウムの大衆に関する解釈についてである。

 

P19-20「これに対し、ウェーバーを読む側の主体としての立場に注意を喚起することによって、まったく新たなウェーバー像を提示したのは、折原浩であった。折原は、従来の近代化論者=ウェーバーという視点に替えて、むしろ近代西欧文化そのものがもつ問題性こそが、ウェーバーの関心の中心にあったのではないかと提起する。そして、ウェーバーが自らを、〈近代ヨーロッパ文化世界〉の「一員」と言わず「子」であると言っている点を捉え、つぎのように言う。「ウェーバーは、「近代ヨーロッパ文化世界」の「一員」ではなかった、ましてやその「擁護者」ではなかったーーそうではなくして、かれは、精神的に成熟したSohn(※子)であったーーつまり、自分自身の深い内面的原理を持たずに反抗したり、付和雷同したりする未成熟な子供ではなくて、親の遺産を慎重に検討したうえで、新しい人生に乗り出そうと身構えた、精神的に成熟したSohnであったと思うのであります。そして、その新しい人生とはいかなるものであるかーーそれはまさに私たち自身の問題である、と思うのであります」

 折原によれば、このようにウェーバーを捉えることで大塚が袋小路と感じたところのものを、絶対的な閉塞点としてではなく、むしろ、読者たるわれわれをして人生や世界の意味についての問いへと強く促す「覚醒予言性」を秘めたものとして見直しうるのである。そして、その点から、われわれは、ウェーバーによって示された〈近代ヨーロッパ文化世界〉の姿を、到達すべき〈近代の範型〉としてではなく、その固有性と問題性において捉え、さらに、それと鋭く対質させながら、〈近代日本文化世界〉の固有性と問題性を明らかにすることで、両者のマージナル・エリアに立って、新しい文化の可能性を探求しうるというわけである。

大塚の問題提起が、近代化論的な見地に立ってウェーバーに内在した場合の究極の限界点を示しているとすれば、折原のこの主張は、そこから新たなる方向へと展開する可能性を開いたものであった。」

ウェーバー自身をこのように位置付ける論点は大きな論争点となる。もっとも、折原のスタンスからすればウェーバーのこの側面を強調するのは必然である。そして、このような中立ぶった主張の価値というのはそのまま問題となる。また、折原の言う「新しい人生」も結局近代志向であることに変わりはない。にもかかわらず、そのようなものに対して「新しい」などという白紙委任の価値を与えようとしていること自体が問題である。そもそも「近代化論的な見地」に立っているなら大塚のヴェーバーシンポジウム時のような中途半端な主張にはならない。

 

P20「この〈比較文化史的視座〉を明確に把握することによって、今日のウェーバー研究は、従来の「近代化論」的見地とはまったく異なる新たな潜在力を持つようになったと思われる。すなわち、今日のウェーバー研究の有する〈普遍的意義〉は、ウェーバーの示したヨーロッパ近代の「範型」としての普遍性においてではなく、むしろ、彼の「ヨーロッパ意識」という特殊な関心に導かれたこの〈比較文化史的視座〉からする、新しい文化的可能性の探求に結びついているのである。」

※ここでいうヨーロッパ近代の「範型」としての普遍性とは一体なにか?

P26「すなわち、ウェーバーにおける〈物象化〉は、資本主義的な商品交換関係の構造から発生する倒錯的自体として、ネガティブに把握されたマルクスにおけるそれとただちに同一視はできない。しかしながら、〈比較文化史的視座〉をもったウェーバー〈物象化〉論の検討は、マルクス〈物象化〉論の成立する歴史的・社会学的背景にあらためて光を投げかけることにもなるであろう。」

※この物象化については、これを「理念型」的に捉えて良いのか、と言う議論が出てくる。

 

P46「すなわち、大塚の「理解的方法」の解釈は、理解された〈動機〉を一つの原因として、そこから因果関連を辿っていくという、「動機による説明の方法」だとまとめることができよう。

 さて、ところで、哲学者たちは、社会科学者の大塚が「解決」を見出したところに、「問題」そのものを見出すであろう。すなわち、大塚が出発点にしている〈動機〉そのものは何を根拠に理解しうると言えるのか、ということである。」

P60「ウェーバーはつぎのように言っている。「原因的要素として、或る具体的「歴史的」人格性の特性と具体的行為とが、「客観的」にーーすなわち、何らかの明瞭な意味で、「より創造的に」生起現象へち作用するということは決してない。なぜなら、「創造的なもの」という概念は、それが単に質的変化一般における「新しさ」と等置されず、それゆえ、まったく無色になることが場合には、なんら純粋な経験的概念ではなく、われわれが現実の質的変化を考察する際にもつ価値理念に関わっているからである」

 それゆえ、観察者における〈価値理念〉のあり方に従って、石炭層からダイヤモンドが形成されることも、預言者の直感から新しい宗教性が生み出されることも、同様に「創造的合成」と言いうることになるのである。ということは、逆から言うと、それらもまた同様に、質的変化にすぎないという面においてはなんら神秘的なものを含んでいないのである。……

 かくしてウェーバーは、心的生起に伴う〈人格性〉の要素もまた、なんら神秘的な超越性をもつものではなく、現実の因果的連鎖の生起に全連関のなかに内在することを明らかにするのである。」

※ここでいう神秘的なもの、という意味がわからない。どうもヴェーバーの一節より「具象名詞というものは、一般に、内包において無限の多様物であり、そこからは、歴史的な因果連関にとって、論理的に考えうるありとあらゆる個々の、科学にとってはただ「所与」として確かめうるにすぎないような構成部分のすべてが、因果的に意義あるものとして考慮されうるからである。」(p61)とし、「法則論的決定論」に批判的な態度を指摘し「実体的な原理としての「歴史法則」などというのは絶対に導出不可能なのである」と確信するが(p61)、これは二重の意味で問題含みとなりうる。一つは、この事実のみを盾にし、法則論的に解釈するすべての理論を否定すること。そしてもう一つは、ここで「導出不可能」であることを文字通り捉え、「理念型は実体と一致することはない」と述べてしまうこと、である。結局ウェーバーのここでの解釈は「神秘的ではなく解釈可能だが、その普遍的理解(解釈)はできない」という奇妙な主張であり、これは一見「神秘的」と解釈したくなるような発想にも見える。

 

☆P132「さて、〈文化人としての人格性〉の性格は、現実的因果連関に内在しているというだけでは明らかにならない。それは、さらに、特定の文化価値に結びついた〈意味連関〉に、すなわち、特定の〈文化〉内属しているのでなければならない。……しかし、ここで注意すべきことは、〈人格性〉が単に対象として〈文化〉に内属したものとして捉えうるというばかりではなく、そもそも人間は、特定の〈文化〉に内属し、それを自らのものとして担うときはじめて、〈人格性〉としての意義をもってくるということなのである。すなわち、〈人格性〉が〈文化〉に内属しているということは、何かあらゆる〈文化〉から超越するような「主体」としての抽象的な「人格性」(※ママ)なるものがまずあって、それが「文化を担う」というようなものではなく、当の〈文化〉を担うときはじめて〈人格性〉たりうるということである。これが、〈人格性〉を〈文化人〉という〈恒常的動機の複合体〉として捉えるということの意味なのである。」

※これは言い換えると、〈人格性〉を語ること自体がすでに何らかの「価値」にコミットした人間について語ることと同義である、ということである。だからこそ、折原は具体的な〈文化人〉を語ろうとしないのではないのか?このような否定性による主体論の将来は暗い。

P136ヴェーバーの引用…「ピューリタニズムの禁欲――およそ「合理的」な禁欲はすべてそうだがーーの働きとは、「恒常的動機」を、特に禁欲自体によって「修得」された恒常的動機を、特に禁欲自体によって「修得」された恒常的動機を、「一時的感情」に抗して、主張し、固守する能力を人間に与えることーーつまり、人間を、こうした形式的・心理学的意味における「人格性」へと教育することにある。」

※いわば教育された主体に対し、人格性という言葉を与える。「『プロ倫』では、このように、ピューリタニズムの禁欲から発する〈人格性〉の理想像が、その宗教的基盤を失って、「啓蒙主義的人格像」を経過しつつ、いわゆる「資本主義の精神」の担い手へと没意味化・転化していく過程が明らかにされる。」(p136-137)

P139「すなわち、ウェーバーにとって問題であり、経験科学的研究の対象とされねばならないのは、近代ヨーロッパに固有の「人格理想」にほかならなかった。しかしながら、ウェーバー以前の方法論的議論には、陰に陽に、プロテスタンティズムに由来し、「啓蒙主義思想」を経て論理的に純化した近代ヨーロッパ的人格像が前提化されていた。それゆえにこそ、まずは、〈人格性〉概念そのものの再検討から出発せねばならなかったのである。そして、その探求の末に到達した見地こそ〈文化人としての人格性〉であり、これによって近代ヨーロッパ的人格像そのものを考察の対象としうる基礎が論理的な意味においては築かれたことになるのである。」

※こう見ると、ヴェーバーの関心はやはり主体論的である。なお、この議論をイギリス的とするならともなく、ヨーロッパ的としてよいのかは問題含みでは。

 

P228ヴェーバーの引用…「ひたすら文化人へと自己完成を遂げていくことの無意味性、言い換えれば、「文化」がそこに還元されうるかにみえていた究極的価値の無意味性は、宗教的思考からすれば、――そうした現世内的立場から見てーー明らかな死の無意味性から帰結したのであって、この死の無意味性こそが、他ならぬ「文化」という諸条件のもとで、生の無意味性を決定的に前面に押し出したのだということになる。」

P229同上。「こう見てくると、「文化」なるものとはすべて、自然的生活の有機的にあらかじめ定められた循環から人間が抜け出していくことであり、まさにそれゆえに、一歩一歩ますます破滅的な無意味性に向かうように宿命づけられているものと見える。文化財への献身は、それが聖なる使命となり、「天職」となればなるほど、無価値であちこちに矛盾を孕んだ目標に、ますます無意味にもあくせくとわが身をせき立てる、そんな行為に転じていってしまうのである。」

P233「見られるように、〈官僚制〉に対するウェーバーの関心は、それの技術的優秀性や不可避性そのものではない。むしろ、〈官僚制的支配〉を〈物象化〉過程の極点として捉える視角から、ウェーバーの関心の中核に位置してくるのは、〈物象化〉過程に対応した〈人格性〉そのものの運命に他ならないのである。」

※奇妙な話である。別にイギリス的資本主義の議論に限らず、すべからくこの主張は成立してしまうように見える。

 

P235「官僚的職務は、〈物象的〉な必要性から、官僚に〈専門人〉たることを要求する」

P236「このように見てくると、官僚制的組織の〈物象化としての合理化〉は、それに伴う官僚の職業身分化を通じて、官僚から、その〈専門人〉の〈精神〉たる文化価値への〈即時的=物象的〉な献身を失わしめていく過程でもあることがわかる。」

※このような議論はヴェーバーの特権でもない。

P238ヴェーバーの引用…「「エートス」は、それが個々の問題において大衆を支配する時にはーーわれわれは、他の本能についてはここでは度外視するーー、具体的ケースと具体的人物に応じた実質的「公正」への要請をもって、官僚制的行政の形式主義と規律に縛られた冷酷な「物象性」と不可避に衝突し、さらにこの理由から、かつて合理的に要求されたところのものを感情的に非難する、ということにならざるをえないのである。」

P247「すなわち、〈文化人〉は一定の〈文化理念〉基づいて自ら〈世界像〉を形成しつつも、いったん固有の〈世界像〉が作り上げられると、彼はそれによって定められた軌道の上を不可逆な方向で進まざるをえないということである。そしてここに、〈文化人〉の〈運命〉が存し、〈文化史〉的過程の固有法則性が存することになる。

 このような歴史把握は、ウェーバーの〈比較文化史的視座〉を成立させる前提的認識になっている。」

 

☆p248「すなわち、ウェーバーの〈比較文化史的視座〉は、〈準拠枠としての行為類型論〉を根底に据えることにより、単なる相対主義決断主義とは異なる鋭い文化内在的批判の力を内に保持しているのである。

 かくて、長きにわたってきたわれわれの考察は、ようやくにして、ウェーバー〈理解社会学〉の根底に孕まれている〈比較文化史的視座〉の基本構想を把握するに至っている。それは、文化価値としてそれを担う文化人の運命に焦点を定めているという意味において、徹頭徹尾〈人間主義的〉な関心に貫かれていると言える。この視座は、歴史的現実において存在する多様な〈文化的価値〉を即対象的に受け取り、それをその固有性において〈理解〉し、その〈運命〉を見定めることを通じて、鋭い〈内在的批判〉と〈比較〉の視野に捉えていくといった、まさに〈価値自由〉な一連の方法的態度によって、かえって現実に生きているわれわれをして〈文化人〉としての自覚に目覚めさせ、〈文化諸価値〉の間に孕まれる鋭い緊張の中に立たしめるのである。」

※結局論点はここに尽きるように思う。折原はもちろん、中野もこの論点について「意義がある」と確信しているが、本当にそうなのか??少なくともヨーロッパ近代主義を一面的にしか批判できない議論、特にそれを著しい官僚化の帰結としか捉えられない議論においては、意味がないと思う。というのも、比較文化史的視座はこの官僚化、もしくは物象化の徹底を避ける手段を持っていないため、「批判」としての意味さえも持ち合わせてはいないのではないのか?この論法は、無意味に社会病理を批判する議論と同じように、現実的な解を見出す際には多分に弊害さえある。もっと言えば、ここでの自覚に対する価値の強調は、と〈運命〉を止揚的に捉える見方と極めて親和性が高く、実質的に同一のものと見てしまってもよいレベルで擁護しているように見える。

P250「ところで、この〈比較文化史的視座〉の方法論的構造は、それが現実に有効なものとなるためには、探求者において、ある特別な主体的態度を要請する。すなわち、この〈視座〉は、それを担う探求者たちの特別な主体的態度と結びついてはじめて、新たな〈文化〉的可能性を探求するために有効な指針となりうるわけである。」

P253「さて、このように『職業としての学問』の全体を〈近代ヨーロッパ文化〉の〈運命〉に焦点を定めて捉えると、われわれは、そこでウェーバーが一貫して一つの態度を批判していることに気がつく。その態度とは、一口に言えば、「時代の運命を正面から見据えることができず」、また、「時代の運命に男らしく耐えることができない」傾向があると言うことができる。」

 

P254「「時代の運命を正面から見据えることができない」傾向が問題を孕んでくるには、むしろそのつぎからである。

 文化諸領域が分化し、「神々の争い」とも言うべき諸価値の多元性が常態となっているという〈近代ヨーロッパ文化〉の現下の〈運命〉に耐えられない傾向は、学問の領域においてはさらに、その「合理主義」「主知主義」そのものを敵視するようになるか、あるいは教壇において、教師ではなく指導者を求めるようになる。」

※前者については「主知主義を脱け出そうと思っても、それを試みる人が目ざす目的とは反対の所へと導かれてしまう」ことにより批判し(p254)、後者は「狂信的なセクトを生み出すのみであって、決して真正な共同態を生み出しはしない」と批判される(p255)。どちらもヴェーバーの引用である。

P256「これに対して、すでに物象化を遂げ、専門化した文化諸領域・学問諸領域は、たしかに、非人格的な姿をとって屹立してはいるけれども、それ自体は、〈近代ヨーロッパ的人格性〉の成立根拠に他ならない。すなわち、なんら〈人格的〉な要素を感じさせない専門科学と言えども、それは、〈近代ヨーロッパ的人格性〉の〈凝結した精神〉、あるいは、あえてヘーゲルの用語を用いれば、〈疎外された精神〉に他ならないのである。

 それゆえに、この学問諸領域が与える〈物象(Sache)〉に仕える者こそが、真に〈人格性〉をもち、〈文化人〉として現下の〈文化諸問題〉に対決し、〈文化創造〉を担っていく主体たりうるというわけである。」

※これは終戦直後の大塚の主張と大して変わらない主張なのではないのか、という疑問が拭えない。化石化したものにあえて取り組め、と言っているのと同じであり、正しくは化石化したものから遡及して人格性にいたるべき、という意味であるからである。これは忠実に「近代」に仕えよ、と言っているのと同じである。もっとも、この思想自体にコミットすること自体が一種の宗教性ではないのか、という批判は妥当であるように思えるが。ヴェーバーの主張を支持することは、どうにもフロイト精神分析を支持する時のような、うさんくささを感じずにはいられない。これは結局ヴェーバーの場合は、彼の歴史的分析が絶対的に正しいことを前提にした議論をしてしまっていることによる違和感である。彼の議論を前提とすることで、禁欲的な「善」が内包されたまま議論を続けなければならなくなるのである。特にこの違和感はヴェーバー日本に対する「成功」を説明するとき、露骨に現れる。

 

P257「なぜならば、そうしてはじめて〈物象化としての合理化〉の根本孕まれる矛盾そのものを止揚しうる〈新たなる文化創造〉の可能的主体たりうるからである。もちろん、専門化した個別科学が新しい〈文化価値〉を生み出すというわけではない。そうではなく、それを担う探求者が、〈文化人〉として新たな〈意味〉を自覚する可能的主体となるのである。」

※ここでいう「可能的主体」とは文字通りの意味として理解しなければならない。つまりそれ自体は「実態」を伴わない。そしてこれを「新たなる」という言い方でまとめて良いかが極めて疑問である。「実態」を伴わないものが新しいかどうかは判別不能だからである。

P259ヴェーバーの引用…「こう見てくると、実際このユーモアは、その人を麻痺させる力について今日も前にお話のあったあの日常生活というものを支配し克服するまことに偉大な要素の一つであるのみならず、人間の尊厳はたとえ神々の力にでも屈してはならぬのだということをわれわれに理解させてくれる形式の一つでもあることがわかります。」

※これを「一切の皮肉とは全くかけ離れ、力強く、健康で快い、解放の笑いをわれわれに与える」とヴェーバーは定義づける(p258)。このユーモアが重要とするが、これは論点ずらしではないのか??

 

P260「われわれは、〈ウェーバー〉のなかに〈文化理想〉そのものの啓示を求めることはできない。」

※これは正しいだろうが、だからといって文化理想を求めてはならない、文化理想を主張してはならない、という言い方をするのは正しくないのではないか?これをヴェーバーの主張として取り上げるのは問題だが、そうでないならば別に議論されるべきものだろう。

P264-265「ところで、東洋の地にあって、既存の人格的社会関係を徹底的に解体するのではなく、むしろそれを改編しつつ積極的に利用し、システム全体としての実質合理性を追求することを通じて「成功裏に」〈近代資本主義〉を受容・展開してきた日本においては、今日の〈文化問題〉は両義的な意味をもたざるをえない。その両義性とは、一方において、いまや閉塞状況に直面しつつある〈近代西洋文化〉に取って代わり、この「日本」が、より強力な物象的力を発揮して、〈文化〉や〈自然〉を破壊する中心勢力に成長する可能性が増大しているということであり、しかしながら他方において、まさにそのことゆえに、〈近代資本主義〉を通じて共通の〈運命〉元に一体化しつつある〈現代世界〉は、この日本の地において、自己止揚へと導くべきいくつかの根底的な問題性を顕しているとみることができることである。

 〈近代日本文化世界の子〉としてのわれわれは、ウェーバーの方法に学びながら、こうした問題性を〈普遍史的意味〉において捉え返し、新たな〈文化理想〉の探求に寄与していかねばならない。そして、このようにして、ウェーバーのやり残した課題を引き受け、ウェーバーその人を超えて進まんとするときにこそ、〈ウェーバー〉学ぶことの真価が感得されるにちがいない。」

※このような主張はさながら「ご都合主義」に尽きるのではないのか?この文明的優位性は、ヴェーバーのいう資本主義の精神の議論と関連づいているようにとても見えない。

P266「〈近代ヨーロッパ文化世界の子〉としてのウェーバーは、〈近代ヨーロッパ的文化人〉の固有性を〈人格性―物象性〉の二項対立構造において〈理解〉し、それが辿る

らざるをえない〈運命〉を〈物象化としての合理化〉の展開のなかに発見した。」

※このようなまとめ方は端的におかしい。この二項対立構造はむしろ全ての「文化人」にあてはまるはずである。

 

P327「近代社会」というのはない、という主張

P329-330「本書が副題のひとつとして掲げて探求している「物象化としての合理化」というのは、このような近代に特有とされる緒形象が辿る合理化の特性を、ヴェーバーがどのように認識しているかを表示するものである。その点をしっかり捉えるなら、ヴェーバーの問いの形が見えてくる。すなわちこの学問は、全社会的な変動(近代化)の終極点として「近代社会」を問題にしようというのではなく(そもそもそんな社会発展の定型などないのだ!)、「物象化としての合理化」に進む問題的な社会諸形象が支配的な力をふるっている場として〈近代〉という時代を問題にしているのである。」

※存在しない近代を批判するのか??この提案には賛同していいが、中野が近代批判している部分について疑問が残る。

P331-332「そして、そのように歴史の単位が画定されその総体の発展コースが標準化されてこそ、歴史の「比較」ということも可能になると考えられてきたのだった。

 しかし、そのような総体についてのリニアな歴史の語りは、近代ヨーロッパの生成を歴史の先進形と見なす発展史観が「ヨーロッパ中心主義」と非難されうるように(ヴェーバーその人もしばしばそう誤解されてきた!)、標準とされる発展コースの把握に際して価値評価の先取りが不可避であるなど、重大な難点がいくつもあると認めなければならない。そもそも、国史の語りが国家意識の形成を企図し現にそれと相関しているように、単位を確定してその総体の歴史をリニアに語る営みというのは、それ自体が対象を独立した実体として立ち上げてしまう仮構の行為なのだ。であれば、各国史や地域史の単純な束などとしてはとうてい語りえない世界のグローバル化した現実の中で、歴史の語りについても根本的な転換が要求されているというのはやはり間違いないだろう。」

※そうだろうか?究極的には態度の取り方の問題のようにも思うが。これに対し、比較文化史的視座は、理解社会学を介して「国家や文化圏や地域として囲われて実体化されるような歴史のそれぞれの単位の総体にではなく、その担い手である文化人の行為理解に置く」で必要な視点とみる(p332)。しかしこれは言ってしまえば「当たり前」のことであるし、ヴェーバー自身もこれから離れることがないからこそ、ヴェーバーにコミットすることが「うさんくさい」と感じるのである。このような認識の改変にそこまで重要性があるようにはどうしても思えない。そしてこのような視点で分析を行うことは「むしろ学問のなしうることの限界について鋭く問題提起する言明と受けとめられねばならない。」とする(p334)が、このような言い分で「学問がでしゃばるな」という主張をおこなうなら理解が可能である。しかし繰り返すが、これは中野やヴェーバーにも等しく与えられなければならない制約である。