佐藤俊樹「社会科学と因果分析」(2019)

 今回は、前回少し考察した『ヴェーバーの動機問題』、つまり「合理性についてシニカルな態度を取りながらもその合理性をめぐる議論についてヴェーバーがコミットしようとするのは何故か」という問いにおいて、この問題を回避する「3」の立場に立つ議論として、佐藤俊樹ヴェーバー論を取り上げる。

 端的に本書で佐藤が『ヴェーバーの動機問題』に対して語っているのは次のような部分においてである。

 

「ここでウェーバーは、歴史の一般法則やそのあてはまり方を解明しようとしたのではない。彼の関心はあくまでも、一回しか観察できなかった事象の因果をどう科学的に解明できるのか、にあった。彼が論証したのは、個別的な事象に原因を求める場合も、一般的な事象に原因を求める場合も、基本的に同じ因果同定手続きを用いている、ということだ。だからこそ、文化科学/法則科学という区別は成り立たない。

 それゆえ、経験的なデータにもとづいて同定された因果も「法則」ではない。」(佐藤2019、p232)

 

「(2)(※理解することの意味をどこに見出すのか)はまさにそこに関わる。この「暴力」性についても社会学は反省を積み重ねてきたが、私自身はこう考えている。――他人による観察から「暴力」性を消し去ることはできない。だからこそ、それに対応する「役に立つ」が必要になるのではないだろうか。

 社会学の歴史でいえば、主観主義的社会学は理解の正当化をめぐって迷走していった。それは「役に立つ」を棄てたからではないか、と私は考えている。「役に立つ」を棄てたがゆえに、絶対的に正しい理解以外の記述が許容できなくなった。その点でいえば、「法則論的/存在論的」知識という枠組みをA・シュルツが見逃したことは、やはり大きな失敗だった。

 主観と客観という抽象語をあえて使えば、主観主義的社会学は機能主義を全否定したために、自分は客観的で透明な理解ができている、と主張するしかなくなった。それこそが主観主義的社会学の陥った落とし穴だったのではないか。

 他人による観察は、因果の特定にせよ、意味の理解にせよ、どこかしら「暴力」である。そうであることをまぬかれない。それゆえ、もしその「暴力」に対して対価を差し出せないとしたら、何もしないか、あるいは、「暴力」にならない特権的な方法が自分にはあると主張するか、どちらかしかない。社会科学の営みにひきつけていえば、社会科学の暴力性をひたすら告発するメタ社会科学に閉じこもるか、さもなければ、客観的で科学的な理解の方法は自分はもっていて、他人の行為や因果や意味を正しく理解できる、と主張するしかない。

 しかし、私はどちらの途も正しくないと考えている。いや、はっきり言おう。どちらの途も逃避だと考えている。

 理解社会学は、ある意味で機能主義的であるしかない。他人を「暴力」的に理解しながら、それを用いて、その他人に対して何か「役立つ」ことの可能性を提示し、選べるようにする。そういう形で因果のしくみの理解と説明を結びつけるしかない。その一方を否定すれば、もう一方も否定せざるをえない。

 それは、ウェーバーの方法論の最終的な到達点でもある。」(佐藤2019,p401-402)

 

 ここでは少なくとも中野敏男が指摘していたような「新しい文化的可能性の探究」の議論とは少し位相が異なるところでヴェーバーの研究意義を議論していることが確認できる。中野敏男、そしてその大元としての折原浩における議論においては、「近代」は明らかに『批判』の対象として位置付いていた。この『批判』は一つの価値判断として「古い文化=西欧的近代」の否定を伴うことで、「新しい文化的可能性」というのは、その『必要』性が急務とされざるを得ない地位に置かれるものとなっている。ところが、佐藤の議論においてはこのような『批判』性は機能していない。そしてこの両者の態度の違いは致命的に重要な論点であると私は考える。

 この『批判』性に内在した問題として私が最大の問題としたのは、この『批判』が、本来それに対応して自らが考える「正しい主張」にも適用されることでダブル・スタンダードに陥ることを避けられていないという点である。これは『批判』という行為そのものに内在しているものであるとは決して思えないと私は考えているが、このダブル・スタンダードの問題はこれまで私がレビューしてきた様々な論者が陥っていた問題であった(スラヴォイ・ジジェクの「主体」に対する考え方やジャック・デリダの「贈与」に対する考え方などもそうだ)。直近では竹内好もその典型と捉え、確かに子安忠邦のようにこの『批判』性を擁護する選択肢はありえるが、私自身はこの立場にないとした。これは端的にこれまでそのような『批判』性を擁護する論者にまともな論者がついぞいなかった、という事実に基づく判断である。

 この『批判』性を擁護する論者は、もしかするとその『批判』性がなければ、既存の社会について変化をもたらすことができないと考えているのかもしれない。そのことに対する回答を私は用意できない。しかし、このダブル・スタンダードに陥る論者は一部の例外を除いて本書でいう「明晰さ」に欠けていることが問題だろう。結局私自身もこのような「明晰さ」に欠けた『批判』論にうんざりしている所である。

 これは恐らく『批判』という行為自体に価値判断が与えられていることについての自覚が欠けているからではないのか(この価値判断は何らかの肯定的価値にコミットするときに初めて機能するものと勘違いしているからではないのか)と思えてならない。

 

 一方で、佐藤の捉えるヴェーバー像(及び佐藤自身の立場)は、このような『批判』性を帯びていない。全くその「批判」性がないと言うこととは異なるかもしれないが、少なくともそのような『批判』の視点を凌駕し議論の中心に据えられているのは、「分析的」であることに向けられているのは明らかである。本書の特徴は、このような「分析的」なヴェーバー像として、「可能性」をめぐる議論を積極的にヴェーバー自身が探求していたことと、従前のヴェーバー研究者がこの論点を取り逃していることに対する批判である。そしてその議論の中心にあるのが「法則論的/存在的」という区分である。そしてこの枠組みを用いてヴェーバーは「1回きりの現象について、その因果関係を探求し続けた人物」として捉えられている(佐藤2019,p232)。このような「探求」というのは、そのまま直接『批判』に繋がるわけではない。むしろ『批判』は「探求」の一歩先にある価値判断である。この両者の態度は一見すればあまりにも大きい。

 もっとも、この両者の区別はできないという見方も可能である。「探求」活動を行う際、この「因果関係」の解明において、その分析者が用いようとする「因果」の探究自体はその分析者の主観に基づくものであり続ける限り、何らかの「価値観」と結びつきうる(※1)。しかし、ここで重要なのは、これがあくまでも「可能性」の問題であるということである。この問題を「可能性」のままでいるためには、①それが分析的態度であり続けることと②その分析を行う「価値観」に自覚的である(自分の分析対象の明確化に加え、それが他の分野といかに関連しているのか、自らの対象を適切に『世界』の中に位置付ける)こと、更には③その「価値観」の自覚を「明言すること」にある。このような「明言」を可能にするためにはそれこそその「価値観」に結びつくための連関を明確にし、整理された記述が求められるのである。佐藤はヴェーバーがこれを完全に行っているとは言わずとも、その態度を推し進めた人物として評価しているのである。

 

 さて、このように捉える佐藤の議論は、『ヴェーバーの動機問題』で言えば2の態度をとっていないのは明らかであるように思える。しかしまだ1の可能性が否定されたとも言い難い。この議論を考えるため、もう少し佐藤の議論を検討してみたい。ここで検討を行うのは、「意味とシステム」(2008)における佐藤の「システム論」である。本書で議論するベイズ統計学への理解のシステム論的な適用については、佐藤自身が「意味とシステム」での議論の修正を行う必要があることを認めており(若林・立石・佐藤編「社会が現れるとき」2018,p380)、基本的に本書と「意味とシステム」の議論には連続性があることを認めてよいだろう。ところが「意味とシステム」における中心議論はニクラス・ルーマンのシステム論であり、ヴェーバーとの関連性も示唆されているが、本線という訳ではない。したがってこの点についても整理をしておくことは有意義だろう。以上の背景から、作業課題として次の点を明確化していきたい。

 

1.佐藤にとって、「開いた議論」と「閉じた議論」の違いとは何なのか。

2.佐藤のシステム論は、ヴェーバーの議論と本当に適合的なのか(佐藤が『ヴェーバー論』としているものは本当にヴェーバーの言っていることに合致しているのか)。

 

1については今後のレビューの中でも中心的な論点になると考えているが、「専門性」を典型にした合理性の型について考えた際、この「専門性」自体を「開いた」ものとみるか、「閉じた」ものとみるかが致命的に重要となるからである。すでに古くはポール・ウィリスのレビューなどでも取り上げたが、資本主義社会に適合的な制度はそれだけで「閉じた」ものとみなされがちであり、あまりにもそれが自明のものとみなされるために弊害が生じることはままある事態である。そしてこれは『ヴェーバーの動機問題』において2の立場に立つものが基本的に持ち合わせている論点であり、1の立場に立つことが「閉鎖性」に繋がること、より多数派の考え方では「閉鎖的」であることが宿命であることを根拠として、それ以外の選択肢として2の立場に立とうとするのである。実際、佐藤はこの「開いた」「閉じた」ということについてしばしば言及しているが、どのようにして(どのような立場で)これを言及しているのか。

 

○佐藤のいう「有用さ」とは何なのか?

 この開放性と閉鎖性の議論を考える前に、先に佐藤のいう理論の「有用さ」とは何かについて考えてみたい。佐藤は「「役立つ」ことの可能性を提示し、選べるようにする」ことが重要としていた。ここでいう有用さというのは限定的な意味で用いられていることに注意すべきである。例えば、折原浩や中野敏男的発想に基づいて議論すれば、「現在の資本主義的世界」と「そうでない世界」の切り分けは可能であり、このどちらを選ぶのがよいのか、という問いの立て方が可能となる。この2つの世界についても「有用さ」を議論することは可能であり、その選択について議論することもまた「有用さ」をもとにした議論であると一見言うことができる。

 しかし、佐藤にはこのような議論は恐らく「有用さ」の議論の枠内に入っていない。何故か?佐藤は「意味とシステム」において、システム論的な議論が複数ありえることを指摘し、その良し悪しについて比較をしている(佐藤2008,p227以降参照)。この際に行っていることというのは、実は「分析の方法論」に対する良し悪しの議論を行っているに過ぎず、何らかの価値判断を前提にした現実の選択ではないのである。

 

「コミュニケーションシステム論はさまざまなものがありうる。そのうちどれが良いかを理論的に決めることはできない。

 だからこそ、コミュニケーションシステム論は経験に開かれている。これはむしろ具体的な分析において真価を発揮する理論なのである。」(佐藤2008,p220)

 

 このような議論においては、「現在の資本主義的世界」と「そうでない世界」という区分け(これをより単純に「西洋世界」と「東洋世界」と言ってしまってもよいが)は、その良し悪しの比較の方法選択手段を選ぶという議論はありえるだろうが、この2つの世界に対し真の意味で「良し悪し」を行うことができるとは考えていないように思えるのである。この議論も究極的には「経験的に妥当性が高い」ことが検証可能であるようにも思えるという意味で佐藤が語る「有用性」との相違を考えることが難しい。それは「有用性」の定義をめぐって論争が絶えないからである。佐藤が考える理論上の「有用性」とは、『社会の現象に対してそれがどれだけ説明可能』かというものであった。それは当然「何を説明できており、何を説明できていないのか」という視点を含んでいるはずのものであり、端的に言えば『完全に説明可能な理論は存在しない』ことを大前提にしたものである。したがって、「現在の資本主義的世界とそうでない世界のどっちが有用か」という問いも何を説明でき、何が説明できていないのかを比較する必要がある。ところがこの比較をしようとした場合、「尺度(群)」が恣意的に用いられてしまうことが危惧されるのである。佐藤の言い方で言えば、「経験的な記述との整合性を失う」ことは「システムがない」ことを意味するものであり、「システムがある」ことを前提とするシステム論としては致命的な問題を抱えこんでしまうのである(cf.佐藤2008,p63)。

 

 逆に、仮にこのような比較を行う立場に佐藤がいる場合、「システムの複数性」が実在し、それについての考察もシステム論的に要求されることを意味する。ところが佐藤はシステム論において「複数のシステムがあるかどうか」という問いは解けていないと指摘している(佐藤2008,p63)。これは私に言わせれば「システム論の前提上、複数のシステムの存在を認めることができないか、想定する意義を持ち合わせていない」という方が正しい表現である。この理由の一つは「分析的」であることに見出すことができるが、それ以上にそもそもシステム論的な見方において自己産出的なものを想定していること自体、かなり強い意味で「自己のシステムに対して『内省的』であること」を要求しているという前提があり、「自己のシステム」以外の「他のシステム」の存在可能性について考えることに乏しいか、そもそも考えることに意味を与えていない仕組みがシステム論に内在していることが理由になっていると思える(少なくとも、私にはそうとしか思えない)。少なくとも、システム論はシステムの複数性を前提としてしまっては基本的に不都合が生じてしまうのである(どちらかのシステムの自己産出性に根本的な疑義が出てしまう)。

 

○佐藤の「開放性」「閉鎖性」に対する理解について

 さて、以上の議論も踏まえて、実際に佐藤が「開いた」「閉じた」と言及している部分についてみていこう。まず押さえておきたいのは、佐藤自身が学生時代から「閉じた」議論に対して否定的であったという言及である。

 

「進学先が決まってから、T・パーソンズの『社会体系論』も読んでみた。行為の組み合わせの形式で、「社会」と呼ばれる事象を一般化する。その発想には「なるほど」と思ったが、延々つづく類型論はつまらなかった。常識的な見方を抽象語にして分類しただけ。一体どこが面白いのだろう?

 そんな経験を通じて、一つわかったことがある。社会学者とは社会の全体をわかったつもりになりたがるものらしい。だから、雑が強引でも「近代」とは何かがわかった気になれたり、分類をならべて体系化したように見せる著作が過大評価される。」(佐藤2008,p390-391)

 

 ここでは、社会学者が「全てをわかったつもりでいる」こと、つまり自らの理論で社会の現象について全てカバーできると言い張っていることに対する疑義が述べられている。

 

「「理解社会学」のなかには、世界の全てを見渡したいという一般理論への欲望と、執拗に問い直し考え直すという反省の思考が、奇妙な形で共存している。……

 そういう「理論」たちが私は嫌いだった。たぶん私には、世界を見渡して安心したいという欲望が、あるいはそういう欲望を喚起する不安が少ないのだろう。」(佐藤2008,p8)

 

 ここでこのような「全体性」への言及が「閉じた」議論とみなしてよいのかという論点が残っている。これについては佐藤はそうみなしていると言ってほぼ間違いないように思われる。システム論に対する次のような理解がその説明になるだろう。

 

「コミュニケーションシステム論では、システムが徹底的に「ある」と考えられている。けれども、どう「ある」のかについては、まだ十分明確になっていない。その意味で、第三章で述べるように、現時点で使われる「システム」は単純化であり、近似的なものだと考えるべきだ。

 そして、だからこそ、どう「ある」のか、言い換えればどう自己産出しどう反射しどう反省するのかについて、どこまで積極的に語れるかが決定的に重要になってくる。近似解が自閉的な記述ループに入っていないかを見分けるためには、それが欠かせないのである。」(佐藤2008,p64)

 

 ここで、「社会の全体をわかったつもりになる」とは、システムが徹底的にあるのと同時に、どうあるのかもはっきり把握できている状態を意味する。というのもシステム論的な言い方では「はっきり把握できている状態」においては、完全な意味で「自閉的な記述ループ」を行うことを意味するからである。

 これにも関連するが、佐藤は閉鎖性について言及する際、これを「作動の閉鎖性」と呼んでいる。

 

「作動の閉鎖性とは、[このシステムの]コミュニケーションは[このシステムの]コミュニケーションにのみ接続し接続されてコミュニケーションになっていくことである。ルーマン自身の言い方では、「システム……を構成する諸要素がこれら諸要素自体のネットワークにおいてうみだされる」にあたる。

 そのためには、コミュニケーションにおいて「[このシステムの]コミュニケーションである」という同一性が何らかの形で成立していなければならない。この同一性は内部イメージとしての「内」、先の言い方を使えば、「接続そのものに関わる」という形での区別と指し示しにあたるが、あるコミュニケーションが接続し接続されるという、一つの事態において成立していればよい。コミュニケーションに関して作動の閉鎖性から導けるのは、このこと、すなわちコミュニケーションが同一性をもち、それを識別できることだけだ。」(佐藤2008,p226)

 

 何やら奇妙な定義に見えなくもないが、結局の所、この議論は「システム」そのものがどのような前提をなしているのかと関連付けて閉鎖性が議論されているからこそこのような定義付けになってしまうということである。完全な意味での閉鎖性とは、結局の所先述した完全な意味での「自閉的な記述ループ」がなされている状態を意味するが、それは本来程度問題を抱えているはずのものである(少なくともシステム論はそうみなしているものとされる)。言い換えれば、コミュニケーションシステム論的には、常に「閉鎖性」は多かれ少なかれ存在しているのである。ところがこれを程度問題として認識しないケースにおいては無条件で「閉鎖的」なものとして取り扱われるということを言っているに過ぎない。

 では、逆に「開かれている」状況とはどういう状況を指すのか。察しの通りこの議論と同じように説明がなされることになる。「開放性」は端的に「環境開放性」として説明される(佐藤2008,p218)。詳しい説明はルーマンの引用も交えp244-247でなされているが、やはりこの「環境開放性」というのは、自明なものとして定義されているものではない。

 

「システムは環境に対して選択的にふるまうのではなく、刺激にたいして選択的にふるまう。つまり環境を積極的に知るわけではないが、環境の影響をきっかけにした刺激はうける。ただし、そのシステム自身も自己刺激ができるので、刺激が全て環境によるものではない。」(佐藤2008,p245)

 

 環境がはっきりとした形でシステムと関連づけられていないのは、やはりシステム自身が自己産出的なものであることに由来しているといえるだろう。この自己産出性が環境を明確な外部に相当するものとして定義づけることを拒んでいるのである。そしてこの不明確さが「環境開放性」を必ずしも「開放的」なものであることを保障しきるものではないものとして位置付けるのである。

 

 さて、以上のような佐藤のシステム論的認識に基づき、「真理」に対する考え方を捉えてみると、システム論的に閉じているとは、ある主張が「真理」であることを確定することであることに違いないが、事は単純ではないとみてとれる。その主張そのものが他の主張と連関していることで、その連関していたものも「真理」であることを要求され、更にその連関されたものも「真理」であることが求められる…そのような「連鎖」としての真理性がシステム論的には要求されることになる。無限に連鎖が続いているのであれば、当然この「真理」は確定したものとならない。だから佐藤はシステム論を本質的には「開いたもの」と位置付けるのである。

 以上のように、仮にヴェーバーの思想にシステム論的着眼があるとみなせる場合、『ヴェーバーの動機問題』の前提である開放性と閉鎖性の論点はもはや意味をなしていると言い難い。この動機問題の根本にあった「専門性とは閉鎖的である」という命題に対する答えを与えることがないからである。従って、やはり佐藤のヴェーバー論は『ヴェーバーの動機問題』との関連では3の立場にいることになる。

 

○佐藤のシステム論はヴェーバーの議論として説明するのは適切なのか?

 自分が行っている他者の主張自体が自分の主張なのか、他者の主張の適切な代弁たりえているのか、この説明の妥当性の判断は非常に難しい。しかし①他者の主張を網羅的に拾えているか②自分の主張と合致する他者の主張が適切に参照(引用)されているか③その網羅的な他者の主張から自分の主張としているものと異なる可能性がある事実を丁寧に列挙し、検証すること、の3点をカバーできていれば、ある程度このことは確認可能であることと私は考える。

 少なくとも、佐藤のヴェーバー解釈が通説から見れば異端的な位置にあることは明らかであろう。そもそも佐藤は本書で通説的な(いや、『過去のすべての』いう方が正しいか)ヴェーバーの議論がヴェーバー統計学的認識を理解しておらず、彼自身の「分析的」な認識を適切に捉えることができていなかったことを強調している。残念ながら私にはこのことを学術的な意味で検証するだけの能力はない。ただ、断片的にであれば③の視点から検証することは可能である。

 マックス・ヴェーバーという人物は通説では「闘争的」な人間だったという理解がされる。佐藤が多く参照している向井守もそうだが、今後レビューしていく折原浩や野崎敏郎なども口をそろえてそのような人物像であったと主張する。そして、私自身もそのことには賛同する立場にある。ここでいう「闘争的」とは、様々な他者と対峙を行いながら自らの主張を展開していくことに他ならないが、同時に「感情的」であるというニュアンスも含まれる。この典型といえるのがプロ倫におけるアメリカ人に対する「精神のない享楽人」という評価である。厳密な意味で「分析的」であるとするならば、このような言明にあまり意味はないはずである。この言明はしばしば近代資本主義の「必然的な」帰結をもたらす心性であるかのように捉えられることがあるが、ヴェーバーはこのような態度をとっているとは言い難い。むしろこのような言明はヴェーバー自身の態度に誤解を招くものであってあまり不用意に行うべきではないような類のものであるはずである。しかし、今後向井守や野崎敏郎のレビューで明らかにするがヴェーバーはこのような配慮を行うような人物であったとは考え難いのである。ヴェーバーの「闘争的」という評価は、「分析的」であることと矛盾するかのような語り口をしばしばヴェーバー自身が行っていたこととも関連付けられるのである。

 

※1 より細かな話を言ってしまえば、因果云々以前の問題として、ある現実の問題を検討しようという行為自体がすでに立派な価値判断である。「近代」の問題を考えるにあたって、「場所(ヨーロッパか、アメリカか、アジアか日本か、etc)」「分野(政治か、経済か、教育か、文化か、etc)」「時期(今か、過去か)」のどこに着目するのか、特に「どこに着目することによって『近代』の問題を適切に分析できるか」のかは完全に個人差の問題があるし、その個人差はある程度「妥当」な差異であると言える。何故なら、人間の把握できる範囲が有限である以上、その有限さの中で「どこ」に精通しているかどうかだけでも千差万別だからである。このようにみてくと「価値判断」の問題というのは、ただ単純な個人の指向の問題で片付けることもできないものである。だからこそ、①何を分析しているのかを明確にすること②他の「場所」「分野」「時期」(この三つについて説明する言葉として『世界』という言葉を定義しておきたい)の整合性についての視点を「欠落」させることがあってはならない。