孫歌「竹内好という問い」(2005)

 今回は竹内の著書を直接レビューするか、孫歌のレビューのどちらを行うか迷った所があるが、「近代の超克」及び人物「竹内好」解釈をめぐる議論について相対的な見方を重視するため、孫歌の方をレビューすることにした。

 

 まず、私の竹内に対する評価を示しておこう。私が最大限譲歩し竹内好に何らかの意義があるものを評価しうるものを見いだせというのであれば、それは丁度ヴェーバーの理念型の議論で検討した羽生辰郎のそれと全く同じ性質のものだろう。羽生は私が指摘した理念型α(類的理念型)と理念型β(歴史的構成体と理念型)の違いについて理解できておらず、「知的誠実性」をめぐる議論も曲解する原因を生んだものであった。しかし羽生は折原浩等を想定したヴェーバー研究者という「別の問題のある他者」が登場して初めて真価を発揮した。その他者への批判のポイントは部分的に適切なものであったと認められるものであった。しかし、これが真に生産的な立場と言われれば全くそんなことはないし、羽生の議論について真の意味で参考にすべき議論であるようにも思えない、というのが私の指摘であった。

 竹内好も議論もまさにこれと同じように「近代の超克」を下らない「ナショナリズム」と同一視しようとするような勢力に対する批判としてみるのであれば評価の余地があるように思えるが、これは生産的な議論を生むものであると言えない。結論から言えば、本書はこの非生産性について軽視し竹内を過大評価しているようにどうしても見えてしまう点が問題であると考える。

 また、更に言えば、竹内的な視点を基準点にすることを強調してしまうと、その議論は本書で示される竹内的な視点を超えることはありえない。そしてその視点は絶望的に無意味であると考える。これは詰まる所松下圭一的な無意味な「批判的態度」にしか行きつかないのではないのか、という懸念が強いことが理由であることをあらかじめ強調しておきたい。

 

 

○「実体としてのアジア」とは何か?——「理念型」との関連性から

 本書の初発的な関心として、竹内の志向論理の全体像を捉えようとすることが挙げられる(pix)。この試みから出てくる解釈の一つがp31のような魯迅的な「無」の思想を竹内の思想そのものとして位置付けるような議論である。

 この認識自体は誤りであると言い難い。次の主張は戦時中の竹内の言説となるが、この「無」と呼ばれるような性質は、竹内において強烈な自己否定を伴いながら語られる(又は語られるべき)ものとして捉えられているといえるだろう。

 

「私は、大東亜の文化は、自己保全文化の超克の上にのみ築かれると信じている。わが日本は、既に大東亜諸地域の近代的植民地支配を観念として否定しているのではないか。私はそれを限りなく正しいと思う。植民地支配の否定とは、自己保存慾の抛棄ということである。個が他の個の収奪によって自らを支えるのではなく、個が自らを否定することによって他の個を包摂する立場を自らの内に生み出してゆくことである。……この大東亜理念の限りない正しさは、私たちの日常生活の末にまで滲透し、それを根底から揺り動かし、そこから新しい文化を自己形成してゆかねばならぬ。行為を通じてのみ、自己否定の行為によってのみ、創造はなされるのであろう。」(竹内好「近代の超克」1983,p238) 

 

大東亜戦争は世界史の書き換えであると云われている。私は深くそれを信ずる。それは近代を否定し、近代文化を否定し、その否定の底から新しい世界と世界文化を自己形成してゆく歴史の創造の活動である。この創造の自覚に立ったとき、私たちははじめて自己の過去を見、その全部を理解することが出来た。……中国文学研究会は否定されねばならぬ。つまり現代文化は否定されねばならぬ。現代文化とは、現代においてあるヨーロッパ近代文化の私たち自身への投影である。私たちは、そのようにある自己自身を否定しなければならぬ。」(同上、p241)

 

 しかし、本書のp65-66のような言説が竹内に当てはまっているという指摘には強い疑義がある。ここで孫は竹内の自己内省的な批判スタイルを基本的に認める。孫のこの一節は明らかに竹内の論文『方法としてのアジア』における「西洋をもう一度東洋によって包み直す、逆に西洋自身をこちらから変革する、この文化的な巻返し、あるいは価値の上の巻返しによって普遍性をつくり出す」という言葉の言い換えを試みた部分であると言える。

 ここでは「抵抗」の一般的意味に対する妥当性の議論は置いておくとして、孫が竹内好の議論を評価しているポイントとして考えられるのは、①自己内省的であること②二項図式でないこと、の2つが考えられる。ただ、①については②と比べればそこまで重きが置かれていないように思われる。というのも①に議論に留まると孫がp65-66で言うような否定のプロセスとしての二面性を十分に説明できないからである。よって「方法としてのアジア」とは一義的には二項図式的な実体化を回避しながらも具体的な行為として効力をもちうる批判概念として意味があること、そしてそれを竹内が実践したことについて孫が評価していることがわかる。P57の指摘も端的にそのことを表しているといえる。

 しかし、私には竹内の言説が東洋と西洋の対立という二項図式的な視点から竹内が離れていたなどとはとても言えないと考える。もっと言えば、竹内は孫が期待するような二項図式を回避しようと意図をもって議論を行っていたかも怪しいように思える。というのも、竹内は基本的に西欧の近代的価値についてはその影響力があまりにも大きいとみており、その価値をむしろ前提とした上で「アジア的であること」を探求しようとし、その中で「近代なるもの」の批判を徹底しようとするからである。

 

 ここで最大の掛け金となるのは、「方法としてのアジア」の対義として想定される「実体としてのアジア」とは何なのか、という問いである。竹内は魯迅ゴダール孫文といった人物や中国の市民運動を引き合いに出しながら、その中に孫のいう「猙扎」という名の抵抗を見出している。そして、よくよく読むと、この竹内の発見は、次のような主張に見られるように実際の中国の主流派とさえ無縁であるかのような語り方がされることもある。このような実際の中国との距離の取り方は孫の主張を支持するかのようにも見える。

 

魯迅のような人間は、日本の社会からはうまれない。たとえうまれても、成長しない。それは受けつがれるべきものとしての伝統にならない。もちろん、魯迅は中国文学のなかで孤立している。しかし、孤立している形が見える。そしてそれは受けつがれている。」(竹内1983、p35)

 

 ここで竹内は魯迅的主体について中国(文学)の中でも独特であるかのように語っている点は注目されるべきである。しかしながらそれは「アジア的な個性」として継承可能な型としてある種確立されたものも持っていることも認める。

 また、次の主張も端的にアジアやヨーロッパが実体としては存在しないことを前提とする主張として非常にわかりやすいものである。

 「このような現象は、かなりの程度まで、東洋諸国に共通のように思う。また、ヨオロッパのおくれた国にもある。純粋のヨオロッパというものはないし、純粋の東洋というものもないから、それは程度の差といってもいい。」(竹内1983,p18)

 しかし、これは竹内を断片的に取り上げた態度として捉えるほかないように私には思える。端的に言えば、孫が解釈するような「方法としてのアジア」を探求する竹内像に反する主張というのは、いくらでも提出できるように思える程存在している。そしてそれは竹内が日本を批判する際にその「方法」性を放棄しているのである。例えば、次のような竹内の主張はどのように解釈すればよいであろうか。

 

「私は、日本文化は転向文化であり、中国文化は回心文化であるように思う。日本文化は革命という歴史の断絶を経過しなかった。過去を断ち切ることによって新しくうまれ出る、古いものが甦る、という動きがなかった。つまり歴史が書きかえられなかった。だから新しい人間がいない。日本文化のなかでは、新しいものはかならず古くなる。日本文化は構造的に生産的でない。」(竹内1983,p37)

 

 竹内の前提によれば、このような主張はあくまでも「程度」の問題に過ぎないという主張を継承しているはずである。「程度」問題においては、それはあくまで「傾向」であるに過ぎず、絶対ではないはずである。ところが竹内はここで「新しい人間がいない」とその「不在」を断言する。これは明らかに程度問題としての議論を逸脱している。このような断言は「魯迅のような人間は日本では存在しえない」とする上述の主張とも共通している。結局、この断言というのは、そのまま「実体としてのアジア」を表象しているのと同義ではないのか、というのが私の批判のポイントである。「実体としての日本」を定義しているにも関わらず、「実体としてのアジア」が表象されていないという保証は、竹内の議論から見出すことができず、むしろ魯迅孫文ゴダールといった実名を挙げることこそが「実体としてのアジア」としての見方を明らかに促進しているようにしか見えないのである。結局竹内のレトリックは「実在している主体がいるからそのような主体化を日本でも行うべきである」という形で日本人の主体化を鼓舞するものであるが、その実在的主体が「アジア」をどうしても実体化しているようにしか見えないのである。私はこれは結局、「アジア」という言葉を竹内が用いた時点で失敗であるという意味を与えるしかないことだと思う。この言葉はたとえいくら竹内が「地理的なもの」を排除すると定義しようとも、そもそも地理的な概念を包含した言葉であるがゆえに、容易に誤読を招く。その土地に実在する人物の議論がたとえ一事例であるに過ぎなくとも、それが容易に結び付けられるような条件を整えてしまっている態度こそ問題とされるべき部分ではないだろうか。竹内がいくら「実体視」していなかったとしても、それを「実体視」する他者と同じような語り方を行ってしまっていれば、そこに差異を見出すことはできないし、最大限竹内を擁護したとしても、やはりそのような「実体視」を避けるための語りを竹内が行っているという評価はとてもできないのである。これはちょうど一部の精神分析論が「父」という言葉を用いる際に陥っている問題と同じ構造を持っているといっていいだろう。

 

 この「実体視」に拍車をかけているのは、日本の今後の価値観として「アジア的価値観」が絶対に必要であり、「西欧的価値観」を持ち続けるという選択肢を竹内が全く持っていなかったとしか思えなかった、という点からも言えるだろう。

 

「中国の革命は、挫折と成功、破壊と建設の全過程をふくめて、ヨーロッパ文明への挑戦とみることができる。あらゆる近代化論は、日本の近代化は説明できても、この中国の近代化は説明できない。挑戦や抵抗は、侵略の側からは、無益な、計算外の要素となるからだ。日本の近代史が抵抗ぬきの脱アジアとすれば、中国の近代史は抵抗によるアジア化である。」(竹内「竹内好全集 第五巻」1981,p179)

 

 「日本には、型といえるようなものがない。つまり抵抗がない。強いていえば型のないのが日本型である。個性のないのが日本の個性だ。私は、日本がヨオロッパに抵抗を示さなかったのは、日本文化の構造的な性質からくるのではないかと思う。日本文化は、外へ向っていつも新しいものを持っている。文化はいつも西からくる。儒教も仏教もそうだ。だから待っている。」(竹内1983,p41-42)

 

 現在の日本を「個性のない」ものと定義し、それに対し中国型の個性ある、かつヨーロッパに対抗する主体が必要であると主張するのが竹内のアジア論であったといってよい。孫は竹内が「アジア」を始めとした一連の概念を出発点でもなく到達点でもないと捉えているが(pxix)、このような解釈は竹内の評価としては適切であるとは思えない。竹内のアジア観を到達点でないと解釈するのは、それが「理念型」同様、極概念が実体として通常ありえないと考える限りにおいて妥当しうる論点ではあるが、そのような中途半端な「点」の提示をしているという割には竹内の議論は極めて具体的に現在の日本を批判しすぎている。その批判はまさにある「点」をもとにした評価をした結果行うことができるものに他ならないが、その「点」が絶対ではないのなら、なぜここまで現在の日本を確信をもって批判できるのか、全くわからなくなるからである。孫の議論を前提にした場合、この矛盾について何も説明ができない。

 

 

○「方法としてのアジア」とは何か?――他の論者の竹内評と孫歌の竹内評との比較から 

「現代のアジア人が考えていることはそうではなくて、西欧的な優れた文化価値を、より大規模に実現するために、西洋をもう一度東洋によって包み直す、逆に西洋自身をこちらから変革する、この文化的な巻返し、あるいは価値の上の巻返しによって普遍性をつくり出す。東洋の力が西洋の生み出した普遍的な価値により高めるために西洋を変革する。これが東対西の今の問題点となっている。これは政治上の問題であると同時に文化上の問題である。日本人はそういう構想をもたなければならない。

 その巻き返す時に、自分の中に独自のものがなければならない。それは何かというと、おそらくそういうものが実体としてあるとは思わない。しかし方法としては、つまり主体形成の過程としては、ありうるのではないかと思ったので、「方法としてのアジア」という題をつけたわけですが、それを明確に規定することは私にもできないのです。」(竹内1983,p137-138)

 

 上記引用が論文『方法としてのアジア』の最後の部分にあたり、問題の焦点となっている「方法」について言及されている部分である。孫はこの「方法」についての解釈として「実体的な概念ではない」と述べているが(p60-61)、ここでは孫自身が「実体的」という言葉にどのような意味を与えているのか検討してみよう。

 今回の読書ノート中で、孫がこの「実体的」という言葉を実に多用していることがわかるが、まず押さえたいのはp57やp63における「実体」である。ここでは「固定的」という言葉とセットとなる形で「実体的でない」であることが語られていることがわかる。一方p89やp108では、「流動的」「機能的」という言葉が用いられ、「「正しい」観念的抽象化を放棄し、リアルで複雑な現実に直正面から向き合うこと」を求めるために「実体的」であることが否定されることになる。

 ここまで見てくると、すぐにヴェーバー的な「理念型」をこの「実体的」の対義語として想定していることがみてとれるように思える。この例外と言えるのは、p31のような説明の中にある。

 

「そして竹内が、魯迅の伝記や思想、作品と人生の分析を通じて導き出した一連の結論も、彼自身「着物を脱ぎすてるように棄て」たものに過ぎない。真に竹内の生涯につきまとったのは、『魯迅』のなかで「暗黒」ないし「無」として表現された、究極における文学的正覚であり、あたかもブラックホールのようにあらゆる光と影を呑み尽くす、実体化しえぬ、髑髏のような存在であった。その実体化の不可能性は、それを取り巻く光について説明することでしかその存在を暗示することができないという点にあらわれている。」(孫2005,p31) 

 

 竹内の思想は極めて自己否定的な原理に支えられており、魯迅の思想もまたそれに類するものであったのだろう。「理念型」が「実体的であること」と混同されていけないのは、あくまでそれが分析的概念として用いられるからである。しかし、理念型そのものが実在しないということも自明ではなく、これもまた何らかの検証を経てこそそれが明らかになるような性質のものである。しかし、竹内的な「実体的でないこと」とは、このような同一化の可能性をあらかじめ否定しているのである。簡単にいってしまえば、「実体化している」とは「所与のものとして前提としている」と同じ意味であると言ってよいだろう。

 

 この見方をよりラディカルに述べているのが子安宣邦の解釈である。ただ、下記の引用は孫との解釈のズレも合わせて確認できる点で注目すべきである。

 

「ヨーロッパ的原理は近代日本の国家形成の基底にはっきりと文明的実体をもって存在してきた。だがアジア的原理は、ヨーロッパ的原理が日本の国家形成過程に存在してきたように、存在してきたわけではない。それはヨーロッパ的原理への対抗と抵抗とが要請する非実体的な負の原理である。ヨーロッパに対するアジアの概念自体がすでにそうであった。「文明の否定を通しての文明の再建である。これがアジアの原理であり、この原理を把握したものがアジアである」竹内はいっている。文明一元論的に世界を支配し、世界に浸透するヨーロッパ的文明に否定的に抵抗し、その否定として文明を再建しようとする原理がアジア的原理であり、その原理を把握するものがアジアであると竹内はいうのである。これは竹内によるアジア概念のすぐれた非実体的構成である。さらばこそアジア的原理とは、日本近代史の非正統的少数者にになわれた抵抗的原理であったのである。とすればアジア的原理とは、近代日本の国家的戦略の基底にヨーロッパ的原理と矛盾しながら二重性をなして存在するような原理ではないはずである。ところが竹内の「近代の超克」再論は、「大東亜戦争」の二重性によって、近代日本国家の戦争伝統における矛盾する二つの原理の緊張的な持続をいい、それが「永久戦争」の運命を大平洋戦争に与えたというのである。これは一体何なのか。竹内は自らに反してアジア的原理を歴史的に対抗原理として実体化しているのではないか。」(子安宣邦「「近代の超克」とは何か」2008,p202-203)

 

 子安のこの指摘は基本的に正しいと私は考える。竹内の「方法としてのアジア」の議論は少なくとも、彼自身の議論の中で一貫としたものとして認めることができない。竹内の「方法(非実体的であること)」を「理念型」として捉えた場合、明らかにこれを逸脱した(実体化させた議論)というのが随所に出てくるし、この動きに対して抵抗するだけの理論を十分に竹内は持ち合わせていない。このことを孫は(無視しているとも言い難いが)軽視しているようにどうしても見えるのである。

 結局は子安はこのような中途半端な竹内の議論の継承は容易にアジアを実体化することに繋がることを危惧しており、だからこそ「方法としてのアジア」としての論法をあくまで「実在性の否定」にこだわることによって、竹内の議論を再解釈し、この点についてのみ擁護するのである。

 

「いま日本から提示される「東アジア共同体」とは、このアジアの悲惨を隠すだけではない。この悲惨を増幅させている己自身をも欺く希望の提示である。竹内ならこの偽りの希望の提示に否ということにこそアジアはあるというだろう。二一世紀の現代における「方法としてのアジア」とは、人間の生存条件を全球的に破壊しながら、己の文明への一元的同化と開発と戦争とによって進めていく現代世界の覇権的文明とそのシステムに、アジアから否と持続的に突きつけ、その革新への意思をもち続けることである。」(子安2008,p252)

 

 この論点をもう少し深めるため、酒井直樹の議論にも触れておこう。酒井の議論は孫の議論の前提とかけ離れている点に注目すべき点がある。酒井は「再帰性」という言葉とキーとして、竹内に議論から抜け落ちている論点を指摘する。

 

再帰性は自己画定には必ず同伴する事態であって、問題はこの再帰性を「敗北」に見立ててしまう、西洋の自律性という思い込みの方にある。西洋の自律性という虚構が解体されないかぎり、アジアの近代は「敗北」であり続けるだろう。アジアが負けたのは相手が偶々勝ったからではなく、この敗北はアジアにとって本質的である。経済成長率で勝ち、外貨準備高が増加し、軍事予算が急激に増えたからといって、アジアの敗北は拭い去ることができるようなものではない。彼の議論の弱さはここにある。

 別のところで説明したように、竹内は西洋とアジアの関係を外部にあるものと内部にあるものの対決として表象してしまっている。……彼は、西洋とアジアの関係を一つの国民国家と別の国民国家のあいだの相互的な外部性の関係にすることがアジアの独立であり、自立であると考えてしまったのである。ということは、竹内にとって、アジアは領域性をもった国民国家と対比されるべき政体のごときものであり、植民地権力は能動・受動の回路を通じて働くことが当然視されてしまっている。そして、西洋への抵抗は国民や民族といった集団の団結によってしかなしえないのだから、「抵抗」は国民の主体化なしには達成できなくなってしまう。「抵抗」は内人を作るための準備に過ぎなくなってしまう。」(酒井直樹・磯前順一編「「近代の超克」と京都学派」2010、p133)

 

「ここには、自己指示が再帰性を含まざるをえないと言った配慮は存在していない。「私」が想定されるためには「汝」が予定され、「汝」が「もう一つの我」として想定されるためには「私」が「汝の汝」として併存しているのでなければならないが、そのような私と汝が再帰性においてある、といった考察は存在していない。「私」と「汝」が物象化されているとき、「私」が「汝」に働きかけるか、「私」が「汝」に働きかけられるかのいずれかに選択肢は限られてしまう。そこでは、「私」と「汝」が実体ではなく、社会関係において成立する対象項である事が看過されてしまっているのであり、両者がお互いに外部にあることになる。……竹内好について、彼にはアジアを関係性において認識することができなかった、といったのは、彼のもつ民族主義的な性向を指している。ただし、同じ問題が「西洋」を自律性としてみる西洋中心主義にもある点は忘れてはならない。」(同上、p138)

 

 このような酒井の議論は半分は正しいが、問題点もある。端的に言えば、子安が指摘したような竹内自身の議論の矛盾について、適切に捉えられているとは言い難いという点が問題である。酒井は関係性をめぐる議論を竹内は無視しているという。酒井の議論の正しさは、以下のような竹内のいうドレイ論が掛け金となっているように思う。

 

「このような人間観は、自由競争を前提とした、個人主義的人間観とは対立する。個の独立は、排他的に行われるのではなくて、他との協調関係の中で打ち立てられると考える。現に中国に実現しつつある新しい人間像は、そのようなものである。たとえば、中国革命のエネルギイの源泉である土地改革に際しては、封建的な土地所有関係を打破するだけでなく、それを通じて人間の意識内容が変革されることが要求されている。しかも農民からドレイ根性をなくすというだけでなしに、地主から、ドレイ根性の裏がえしである支配者根性をなくすことが同時に強調されているのである。」(竹内1981,p8) 

 

 この部分における竹内のドレイ論とは、ほとんどフーコー的な権力論と同様に、自らの行使する/自らに行使される権力への欲望への抵抗そのものである。他者を従わせないこと/他者に従わないことに対するこのような自覚性は、明らかに再帰性を伴う主体化においても随伴するものであり、酒井の批判はこのような竹内の議論を無視しているように見えるのである。従って孫的な視点からはこのような批判は文字通り竹内好を適切に評価していないというように見えるだろう。

 しかし、酒井は竹内のこのような議論が無視されうるだけの「物象化」の方を問題視していることも無視できない。これは子安が指摘した「実体化」の要因となる議論そのものであり、竹内がこのような「物象化」が自己矛盾となる可能性について自覚していなかったことも事実である。この「物象化」の議論で最たる問題点を具体化するならば、「方法としてのアジア」と「方法としての中国」の違いについて、竹内の議論からは何も説明できないこと、という点にあるだろう。竹内はこの「方法」の提示のために決まって魯迅やダゴール、孫文といった人物を取り上げるか、中国における市民運動の興隆を例示し語っている。問題はこの「例示」と「方法」との関連性である。竹内はどう見てもこれらを関連性をもったものとして語っているようにしか見えないし、それが関連性を持っているからこそ、「方法としてのアジア」という問題提起が成立することになる。しかし他方で、明らかに竹内は「アジア」や「中国」に含まれる具体的内容については「どうでもいい」と思っている(※1)。この「どうでもいい」というのは、「西洋に抵抗していればそれでいい」という意味でどうでもいい、ということであり、孫的に(肯定的に)言えば「「暗黒」ないし「無」」(p31)という意味となる。竹内の議論はそれがいくら具体性を欠く(実体的でない)としても、「無」という形でそれを「物象化」せざるを得ないし、その過程で「無」に含まれないもの(西洋的価値)を例証していくのである。子安はこの論法に対してわずかな可能性を見出しているものの、酒井においてはこの論法自体がすでに破綻しているとみなしているのである。その破綻が自明であるからこそ、竹内の細かな議論については触れようとしない、という解釈が正しいだろう。私自身も基本的な立場としては酒井の議論を支持したいと思うが、酒井の立論は少々飛躍している部分があるといえるのである。

 

○文学的であることとは?

 この「実体性」をめぐる議論というのは、そのまま前回のレビューでも捉えた「文学」の価値に関する議論ともリンクしてくるだろう。孫は比較的この論点を重要視しながら竹内の読解を行っていた節がある。私の読んだレベルでは竹内の「文学」に対する価値は十分読み込めていないため、孫の議論を前提にした上での竹内評となってしまうが、宿題としていたため一応触れておきたい。

 孫の指摘する竹内が希求した「文学」的価値観というのは、「実体化」の回避のための手法の一つであったと言えるだろう。P89で指摘されるようにこれは竹内に限らず、丸山真男もそうであったという。竹内がここで想定していたのは、自律的領域としての「文学」という領域と、文壇ギルドの閉鎖性の批判に伴う、その領域の開放性の強調であったという。しかし、この自律的領域としての「文学」について批判を行ったのが野間宏であったと孫は言う。この批判に対し竹内自身が次のように指摘しているのは重要である。

 

「私が文学の自律性をいうとき、政治と文学を実体的に区別したような印象を野間氏に与えたとすれば、それは私の説明が足りなかったからであって、私はそう考えているわけではない。私は、政治と文学とは機能的に区別しなければならないことを主張しただけである。」(孫2005,p101、元引用は『竹内好全集』第7巻、p63-64) 

 

 この議論が重要であるのは、先述した「実体的であること」の定義をめぐる議論の捻れが端的に表現されているからであり、かつ孫のこの捻れに対する評価もまた、他の論者の竹内評との違いをそのまま説明するからである。私の理解であれば、竹内自身はここではヴェーバー的な「理念型」的な分析概念として、それを「機能的」と表現することで、「実体的」であることと区別すべきであると考えている。ところが、この竹内の指摘は、竹内自身の主張が「実体的」な語りであるかどうかを全く説明していない。そして、私は竹内の主張はどう見ても「実体的」であると評価している。ところが、孫は竹内と同様、この両者の違いの議論について棚上げしたままとし、p103のように竹内と野間の議論のズレを指摘するに留まり、それ以上問題に言及しないのである。これはある意味で孫が適切に竹内の議論に従っているともいえるだろう。しかし、「文学的であること」の価値について議論するのであれば、このズレに対する議論は決して無視することができないはずである。これは前回レビューした「多様な価値観があるから『近代の超克』論は有効である」という素朴な議論への批判と直結することになる。このような素朴な議論は、竹内もそうであったように暗に固定的な価値観(=実体的であること)を批判することに終始し、その批判を介して多様な価値観を擁護しているように見える。結論として、孫的な議論では、竹内の価値を擁護しようとしても、その価値が「有意義か」を判断できない。私が孫の議論で最も問題があると思うのはこの点である(※2)。

 ただここで想定しておかねばならないのは、このような価値観は竹内に限らず、本書で丸山とも「驚くべき一致」があったと言われるように(孫2005,p88-89)、比較的戦中・戦後の知識人層には広く「文学」的価値観として浸透していた可能性である。「文学」というものが多様な価値観の源泉となることは、特に本書においては重要視されているように見える。孫はp89で見られるように、文学が「つねに流動状態になければならず、自己更新され得るもので、凝固不変のものではない」ことを強調している。

 これはこれで注目せねばならない論点であるのは確かであるが、他方で竹内は文学の価値を国民統合の一手段として重要視していたのも明らかである(cf.竹内「竹内好全集第六巻」1980,p15)。ここでは「文学」は多様な価値観を包摂するというよりも、未だ実現(顕現)していない価値に対して、その顕現を強く推進するエネルギーとなることをむしろ重要視していることも明らかである。ここで、竹内は孫が強調するような文学的価値観よりも、こちらの顕現をめぐる議論の方に注視していたのではないのか、という疑問が出てくるのである。竹内が「実体化」を避けていたのは明らかであるが、その目指すところは、「流動状態」にあるのではなく、あくまで民族性の確立であったのではないのか、と。

 

 この論点は、結局先述した「方法的」と「理念型」のズレをめぐる議論と同じものであるように思える。理念型においては価値中立的であることが要求されることとなり、「方法的」であることに内包されるべき「顕現」に関する議論についてはいったん放棄されることになる。しかし、竹内の議論においてこの「顕現」をめぐる議論を放棄することは許されるべきではないだろう。孫は竹内の「理念型」的な側面を強調している嫌いがあるが、他の論者的にみれば、竹内はあまりこの枠内で語ることに意義があるように見えてこないのである。特に孫の論点からは「近代の超克の再考」というのがそのまま「文学的価値の再考」をも意味することになるが、このような形で復刻される価値観が、前回取り上げた加藤尚武的な議論を捉えることが全くできないように思える点で、その有効性は極めて疑問である。

                                                                                                

加藤尚武的な議論ができないのは何故なのか?——「近代の超克」論の限界とは何か?

 上記の議論についてもう少し考えてみると、次のような構造を「文学的価値の再考」としての「近代の超克」の議論は抱えていることになるのではないか。価値中立性をタテにして議論にとりかかることにより、既存の価値観(「近代」とされるもの)と新しい価値観(「近代の超克」とされるもの)た並列的に語ることが許される。このような議論が正しい意味で「理念型」的なものであるならば、つまり分析的概念をもって、その議論を徹底するということであれば問題はない。しかし、そのような前提に立ってしまうと、そもそも「近代の超克」と呼んでしまっている価値は「超克」を意味しなくなってしまう。逆に言ってしまえば、「超克」という言葉を使ってしまっている時点で、すでに価値判断に加担しているのである。とてもわかりやすいダブル・バインドの状態となってしまうのである。この矛盾の解消のためには、ハナから「超克」について語らず、「分析的であること」に徹底すべきとするか(私はこの立場を支持する)、価値中立的であるというタテマエを捨て、積極的に「超克」の価値にコミットしていくこと(子安が最終的にこの立場にあったように思える)のどちらかの態度をとらねばならないだろう。竹内の魯迅的態度はこのダブル・バインドに積極的に加担するような立場であるものの、結局は「超克」の価値へコミットすることを避けることはできず、どこまでも中途半端に終わってしまうようにしか見えない。この点は竹内好の議論を行う上で軽視されるべきではない。この点、子安は自己否定の価値観を強調することで竹内の議論をわずかに擁護するが、竹内が抱えたダブル・バインドの問題にまでは具体的に議論を進めているわけではないという意味で、このような立場をとることが可能かどうかについてはっきりしているとはいえない。

 

 さて、竹内的な「近代の超克」の議論を擁護することができるのは「自己否定」であるとした場合、何故加藤的な議論を行うことができなくなるのか。これは必然という訳ではないように思うが、結局如何なる「自己否定」を行うのか、ということと関連しているという他ない。ここで『近代の超克』座談会における科学をめぐる議論を手掛かりに、当時の自己否定性の文脈を捉えてみたい。

 座談会における科学の取り扱いについては、複数の著書において基本的な論点となりえなかったとみている。座談会中ではわずかに下村寅太郎がその重要性を指摘するのにとどまり、他の論者はこのこと触れないか、批判的であったとされる。

 

「座談会「近代の超克」の参加者にとって、問題はあくまでも日本「精神」の危機であり、下村を除けば、みずからを脱中心化する動きをしめす科学技術がとわれることはなかった。そして、没落していくヨーロッパの普遍性とは異なって、太平洋戦争の開戦とともに、日本精神は大東亜共栄圏を覆い尽くし、同時にヨーロッパ精神にとって代わるものになることが高らかに謳われた。」(酒井・磯前編2010、p63)

 

 

下村寅太郎は、近代の超克という場合必ず科学の問題を何とか解決しなければならない、とした。それに対して林房雄は「僕は科学者が神の下僕になれば宜いのだと思つてゐる」とし、亀井は、「僕の希求するのは近代をのりこえる力ありとすれば、神への信だといふ他にない」とした。林や亀井において、近代をのりこえる力は神への信、ということになる。」(石塚正英・工藤豊編「近代の超克」2009、p94-95)

 

 上記のように、科学に対する関心自体がなく、むしろ「精神」こそが座談会においては重要であるとみなされた(cf.石塚・工藤編2009,p118)。しかし留意しなければならないのは、下村も実際は「精神」を中心にした近代の超克に帰着している点である。

 以下は座談会2日目終盤の場面での対話である。長い引用となるが極めて重要な論点なので容赦願いたい。

 

「津村 だからアメリカの理想は物質的に庶民の生活水準を高めることでせう。

鈴木 その平均が高いのが餘程問題ですね。アメリカの本體はさういふ所にあるのぢやないか。機械文明をどういふやうに克服するか、差當つて機械文明といふものは否定出来ない。

津村 機械文明は絶對に避けることは出来ないが、逆手と取つて、それをこつちから使ひこなさければならん。

河上 然し僕にいはせれば、機械文明といふのは超克の對象になり得ない。精神が超克する對象には機械文明はない。精神にとつては機械は眼中にないですね。

小林 それは賛成だ。魂は機械が嫌ひだから。嫌ひだからそれを相手に戰ひといふことはない。

河上 相手に取つて不足なんだよ。

林 機械といふのは家来だと思ふ。家来以上にしてはいかんと考へる。

下村 それで濟まないと思ふ。機械も精神が作つたものである。機械を造つた精神を問題にせねばならぬ。

小林 機械は精神が造つたけれども、精神は精神だ。

下村 機械を作つた精神、その精神を問題にせねばならぬといふのです。

小林 機械的精神といふものはないですね。精神は機械を造つたかも知れんが、機械を造つた精神は精神ですよ。それは藝術を作つた精神とが同じものである。

下村 機械を造つた精神そのものの性格が問題ですよ。これは新しい精神の性格である。この精神に近代の吾々の中に實際に事實として生きて居るから、それを單に嫌ひだと言ふだけでは問題を避けて居るにすぎない。これは單に魂だとか、覺悟だけでは濟まないと思ふ。そういふ魂は謂はゞ古風な精神で、勿論そのやうな精神は我々の底に必要であるが、しかし近代の超克といふ問題には機械を作つた精神と同様にこのやうな單に古風な精神の超克も問題になると思ふ。前に「理性」も近代の理性は言葉を自己の表現とするやうなロゴス的な理性でなく、近代的な性格をもつと言ひましたが、これはもつと一般的に言へば今の問題になるのですが、つまり「精神」や「魂」も近代的な變革を遂げていることです。今まで魂は肉體に對する靈魂だつたが近代に於ては身體の性格が變つて来た。つまり肉體的な身體でなく、謂はば機械を自己のオルガン(器官)とするようなオルガニズムが近代の身體です。古風な靈魂ではもはやこの新しい身體を支配することが出来ない。新しい魂の性格が形成されねばならぬと思ふ。近代の悲劇は古風な魂が身體に――機械に追随し得ない所にある。ここで後へ退くか前へ進むかが問題で、勿論後へ退くことは出来ない。機械を造つた精神は決して唯物論ではない。それは先に言つたやうな意味で近代科學の精神と同じイデアリズムスだと思ふ。近代のモラリストや宗教家は謂はば古風な魂の概念に拘泥してゐるのではないか。この問題の打開は寧ろ魂の概念そのものの轉換にあるのではないか。心身の關係に對する新しき形而上學が必要だと思ふ。これは巨大なスケールの問題で、從來のやうな個人的主觀的な方法では不可能で、社會的政治的方法を必要とするもので、それには更に新らしい叡智或は神學が必要だと思ふ。これが今後の科學論が當面する問題で、近代の超克をいかにして果すかと言ふ實際の問題を考へる時にはこれを拔にしては不可能だと思ひます。

吉滿 ベルグソンが機械と神秘主義といふことを論じて居るが、機械文明にも何か神秘主義の代用品とならうとしてゐる面もある。近代の技術的科學主義といふやうなものにも、妙にマジックな興味に通ずるものがある。神話と機械とが結びついて、精神の形而上學の代用をつとめようとする傾向もあるものだ。……それだから機械の極限にはミスティクが要求されてゐるので、機械文明の極限で魂の空虚が現實に意識されてくれば、機械は自ら魂に国を譲るが、その魂の代りに機械がなつてやらうとする。ここでも眞の「靈性のロゴス的秩序」が眞の近代の超克として考へられねばならない。

河上 ヴァレリイのあらゆる文明論の結論も、結局機械のミスチツクに外ならないんですが、その貼が僕にとつてヴァレリイが結局つまらないと思ふ所なんだ。だから僕にいはせれば「幾何學の精神」は一つの「精神」です。これは何も精神の闘ふ相手ぢやなく、又近代機械文明の聚積と直接關係ありません。要するに機械が何故精神にとつてつまらないか? それは機械の齎すエトリス・ノイエスが常に量の問題を出ないからなんです。……機械と戰ふものはチヤツプリンとドンキホーテがあれば澤山だ。

吉滿 それを克服する爲に魂を持つて來る。魂の空虚を感ずるといふ所から「近代の超克」が始まるんぢやないですか。その時に魂は文明と機械に統御されず、霊性が一切を第一義性生の立場で統御して行く。つまり僕は「近代の超克」は「魂の改悔」の問題であると思ふ。東洋と西洋とを相通じて、神と魂とが再発見されねばならない。そしてそこから初めて祖國の深い宗教的傳統にもつながつて行けるのだと信ずるのです。」(河上徹太郎等編「近代の超克-知的超克会議」1943,p288-292)

 

 ここで下村寅太郎と吉満義彦は基本的に同じ見解をとり、津村秀夫も同じ路線の立つ一方で、下村の発想を河上徹太郎小林秀雄林房雄(彼は座談会では合いの手を入れるばかりで立場が不透明なところもあるが)は理解していないという構図が出来上がっている。押さえておくべきはこの座談会の司会は河上が行っており、この前段では津村と下村、そして鈴木成高アメリカ映画から機械文明の超克をめぐる議論を熱心に行っていたところで、河上がそれを遮るかのように批判、小林も追随したが、下村が再反論する場面であるということである。これに対する応答はなく、基本的に議論が仲違いに終わっている場面ともいえる。

 ただ、ここで押さえるべきは下村の論理である。下村はここで人類と機械文明の折り合いがつかない理由(近代の悲劇)を「古風な魂」の問題として捉えている。改めるべきは機械文明に適切に対応する「魂(精神)の転換」の問題であり、それこそが近代の超克の中でも極めて重要問題であるとみていると言える。加藤尚武が問うような次元の議論をここではしていない。ここでは機械文明そのものをいかに改善するかという議論ではなく、ある意味で自動的に生成される機械文明に人類がいかに適応していくのか、という形で議論が行われているといえる。機械と人類とはいかなる主従関係を結ぶのかという論点が林からも出ているが、科学も含めた当時の「近代観」がここに大きな影響を与えていることが確認できるだろう。そして「超克」という言葉というのも、まさに機械文明をコントロールするという意味合いで用いられていたということも確認できる。つまり科学は個別具体的に「何を生かし、何を捨てるか」という議論ではなく、全体として「それをいかに生かすか」という議論を行うべきものであるという見方がなされていたということである。このパースペクティブの変化というものそれ自体に考察が深められなければならないように思える。そしてそれは下村的な論理を下支えしていた当時の「近代観」に対しても、検討が必要であるということを意味する。このような着眼点がいかに存立しえたのかという問いは今後も検討していく必要があるように思う。

 

※1これは竹内自身の魯迅に対する評価への言及からもそう言える。結局竹内は「方法としてのアジア」の典型として魯迅を挙げるものの、魯迅の文学自体は「中国文学のなかで孤立している」とする(竹内1983、p35引用前掲)。ただ一方で魯迅の精神は形あるものとして「継承可能」であるとする点を竹内は評価し、それを「方法としてのアジア」と結びつけるのである。このような議論からも魯迅の議論はアジア(中国)の現状を「実体化」したものでは決してないことが言える。しかしそれは「実体化」されることを強く望まれた議論であることが強調される。

                                                                    

魯迅のような人間がうまれてくるのは、激しい抵抗を条件にしなければ考えられない。ヨオロッパの歴史家がアジア的停滞とよび、日本の進歩的な歴史家がアジア的停滞(!)とよんだような、おくれた社会のなかからでなければ出てこない型である。……魯迅のような人間は、進歩の限界をもたぬヨオロッパの社会のなかからは出てこぬだろう。」(竹内1983,p34)

 

 もっともこの主張だけでは別に日本がこのような魯迅的な主体を希求すべきであるという主張をしているとは認められないという逃げ口上も成立する。しかし、竹内は日本を西洋近代を形だけきれに模倣した「優等生文化」と皮肉交じりに述べる一方で、それが極めてもろいものであることを強調することで、魯迅的主体を強く求めるのである。

「そうだ。教育は成功するだろう。敗戦の教訓に目ざめた劣等生は、優等生に見ならって賢くなるだろう。優等生文化は栄えるだろう。日本イデオロギイに敗北はない。それは敗北さえも勝利に転化させるほど優秀な精神力のかたまりだから。見よ、日本文化の優秀さを。日本文化万歳。」(竹内1983,p27)

 

「見かけは進んでいるが日本はもろい。いつ崩れるかわからない。中国の近代化は非常に内発的に、つまり自分自身の要求として出て来たものであるから強固なものであるということを当時言った。」(竹内1981,p100)

 

 もっと言ってしまえば、「日本はもろい」と言った主張をする段では、日本と中国(アジア)は極めて一般化された形で語ってしまっており、当初の魯迅や中国の民衆運動の議論からは飛躍した議論を行ってしまっているのも、俗流な日本人論同様の問題として抱えていることも念のため指摘しておく。このような飛躍は孫が軽視した部分であり、子安の言う自己矛盾の本質部分であり、酒井はこの片側だけを要約して竹内を批判するのである。

 

※2 もっとも、孫の読解の上で注意せねばならないのは、孫も竹内の議論についてさほど好意的に捉えていない点があるということである。端的に言えば、p191の指摘がそれを示している。しかし、竹内の議論の問題について、子安ほど適切に指摘できていないという点では、(本書の目的が「竹内の包括的な理解」に向けられていたことも踏まえれば少々酷かもしれないが)やはり大きな問題であるように思える。

 

<読書ノート>

Pxvi「ここでは、竹内の複雑な立場が見えてくる。ガンジー孫文を生み出した「アジア」の歴史は、決してヨーロッパ式の進歩主義に嵌め込めることはできない。しかし、そのいっぽうで、アジアの人々にとって、土着の保守的流儀に対抗するためには、ヨーロッパの思潮を生かさなければならない。ただし、そのような思想闘争においては、ヨーロッパの思想の役割はせいぜい「生かす」程度までのことであることが忘れられがちであり、アジアの人々はヨーロッパの思想ないし思潮を絶対化し、そのようなドグマ主義の態度を「進歩」として理解する傾向さえ生じる。まさにそのような「進歩主義」に対して、竹内はアジアの本源的なものからは、「進歩が可能か」という疑問も発生しうると注意を促した。」

Pxvⅱ「『魯迅』において発展段階論を拒否した竹内好だが、歴史に「進歩」があるという主張は拒否していなかった。竹内はまた「進歩」とは人間の幸福であるという説明も加えていた。しかし彼の認めた「進歩」と「反動」は、絶対的な価値判断ではなく、時として反対の極に転移もできるような歴史的動きでしかない。竹内にとって、「進歩」という啓蒙主義の普遍的価値は、アジアの歴史を解明する場合の媒介に過ぎず、前提ではない。」

 

P31「そして竹内が、魯迅の伝記や思想、作品と人生の分析を通じて導き出した一連の結論も、彼自身「着物を脱ぎすてるように棄て」たものに過ぎない。真に竹内の生涯につきまとったのは、『魯迅』のなかで「暗黒」ないし「無」として表現された、究極における文学的正覚であり、あたかもブラックホールのようにあらゆる光と影を呑み尽くす、実体化しえぬ、髑髏のような存在であった。その実体化の不可能性は、それを取り巻く光について説明することでしかその存在を暗示することができないという点にあらわれている。」

※「ただ、この直接的には語り得ず、しかし避けて通ることも許されぬブラックホールに、竹内好が思考した文学というものの位置が示唆されているのだ。」(p31)

P34「竹内好は『魯迅』の中でひとつの基本原則を提起した。それは内部から発した否定のみが真の否定であるという命題である。言い換えれば、自己否定のみが否定の価値をもつということであり、自己否定を経ない思想や知識、外からやって来た既成のものは、いかなるものであれ生命力をもたず、死んだ知識であるということだ。」

※このような基本発想からは日本の状況を全否定する選択肢しか存在しないのは明らか。

 

P55竹内の引用。「近代とは、ヨオロッパが封建的なものから事故を解放する過程に、その封建的なものから区別された自己を自己として、歴史において眺めた自己認識であるから、そもそもヨオロッパが可能になるのがそのような歴史においてであるともいえるし、歴史そのものが可能になるのがそのようなヨオロッパであるともいえるのではないかと思う。」

P57「言い換えれば、竹内は決してこの世界の東洋/西洋の対立問題と歴史的形成の図式に対して哲学的に一つの「答え」を出そうとしていたわけではなかった。竹内が直面していたのはすぐれて現実的な対立の局面であり、その歴史哲学は、彼が不満を抱いていた、知識というもののおかれた位置の問題にぴたりと照準を合わせていたのである。竹内が私たちに伝えようとしていたのは、歴史がいままさに実体化され、知識を用いれば絶えず接近可能な客観的実在物として固定化されようとしているということ。そして、そうした凝り固まった思考様式のもとで、東洋と西洋との対立の問題あるいは歴史認識の相対化といった、人々が論争に明け暮れている類の問題は偽物の命題に過ぎないということであった。」

※合理主義なるものの批判も行なっている(p57)。

 

P59-60「竹内が第一の問題、すなわち西洋と東洋との関連性の問題を検討した際に依拠したのは、既成のモデルすなわち西洋と東洋とを対立概念と見なす見方であった。しかし彼は、このような対立はヨーロッパと東洋の間に存在するのではなく、ヨーロッパ内部にしか存在していないと明確に指摘した。」

P60-61「竹内における西洋と東洋は、決して真の実体的な概念ではないことは、すでに多くの日本の論者によって指摘されており、その指摘は基本的に正しい。同時に、ヨーロッパと東洋という概念は竹内のコンテクストにおいてプラス評価とマイナス評価、両方の価値判断を同時に含むものであり、肯定の対象である時もあれば、否定の対象である時もあり、いかにも混乱の様相を呈していることも指摘しておかなければならないだろう。」

※実体の地域概念の導入も見られなくはないが、それは竹内の議論全体では重要性をもつものでないと評する(p289)。

P63「物質的運動の近代化は彼の考察対象ではなく、彼が関心を抱いたのはわずかに「精神的運動」のみであった。竹内は、東洋にはヨーロッパ的な精神の自己運動がなく、そのため、東洋が西洋の近代化運動――それはさまざまなレベルでの拡張として体現されたがーーに直面したとき、西洋の運動を〝固定化〟し、〝実体化〟する傾向が容易に生まれたと考える。具体的に言えば、前進と後退を孤立した実体的なものとして固定化し、両者の間の相互依存と相互媒介の関係を捨象してしまうものであり、そうなれば、残されるのはただ単純な価値判断のみになってしまうに違いない。」

 

P65-66「通常の意味にしたがえば、抵抗という言葉は方向性が外向きであり、それが主体内部の自己変革ないし自己否定を引き起こすことはまずあり得ない。そのため他者を排斥するという意味を含みがちである。これに対し、竹内においては、抵抗の方向性は内向きなのであって、あたかも「猙扎」という語が象徴しているように、それは自己に対する一種の否定性の固守と再構築なのである。『魯迅』のなかの政治と文学に関する章の論述とリンクさせれば、いわゆる「猙扎」とは、主体が他者のなかで行う自己選択にほかならないことがはっきり見えてくるであろう。「猙扎」のプロセスとは、他者に内在しながら他者を否定するプロセスであり、それは同時に自己のなかに他者が入ることによって自己を否定するプロセスでもあるのだ。竹内にとって、この両者はすべからく同時進行で進むべきものなのである。そして否定とは、観念的なカテゴリーではなく、既成の秩序を破壊する具体的な行為である。」

P71竹内の引用…「かれは自己であることを拒否し、同時に自己以外のものであることを拒否する。それが魯迅においてである、そして魯迅そのものを成立せしめる、絶望の意味である。絶望は、道のない道を行く抵抗においてあらわれ、抵抗は絶望の行動化としてあらわれる。それは状態としてみれば絶望であり、運動としてみれば抵抗である。そこにはヒュウマニズムのはいりこむ余地はない。」

P73「日本のヒューマニスト作家と魯迅との間に横たわっている根本的な違いは、前者が「解放」を与えられるものとして求め、自らがドレイの境遇にあることを認めることを拒み、眼前の絶望的状況を正面から直視することで絶望に対して絶望し、そうした極限状態の猙扎のなかで抵抗を生み出していくという点にあるのだ。」

 

P89「彼ら二人が文学の本源性の問題について論じる場合、たとえ文学がどのような位置にあるにせよ、その位置はまず何よりも機能的なものでなければならず、実体的なものではない。それはつまり、文学はつねに流動状態になければならず、自己更新され得るもので、凝固不変のものではないということだ。これこそ竹内が『魯迅』の中で繰り返し強調した文学は行為であるということの真意である。丸山真男について言えば、彼が文学の機能を参照しながら議論したのは、日本政治思想史研究はいかにして実体的思惟を突破するか、ないしは日本社会の政治的メカニズムはいかにして肉体性から解放されて真に近代的なフィクション精神を獲得できるかといった問題であり、丸山がここから導き出した思考の方向性は近代的政治の「フィクション性」であった。一方、竹内好について言えば、こうした議論で打破せねばならないのは日本文壇の狭隘なる閉鎖性であり、竹内はそれを文壇ギルドと呼んだ。この小さな集団の中では私小説式の思惟方式が不断に再生産され、そうして文学の問題も狭い範囲内に閉じこめられてしまうのである。」

 

P101竹内の野間宏への主張の引用…「私が文学の自律性をいうとき、政治と文学を実体的に区別したような印象を野間氏に与えたとすれば、それは私の説明が足りなかったからであって、私はそう考えているわけではない。私は、政治と文学とは機能的に区別しなければならないことを主張しただけである。文学は政治を代行すえず、政治は文学を代行しえない。目的は全人間の解放であり、その目的にたいして政治と文学は、それぞれの側面から責任を持たねばならぬのである。小説を書くことも、一方では政治行為であり、綱領の文書表現は文学的行為である。それぞれの機能を責任をもって果すことによって目的のために有機的に結ばれたものが、真の自律性である」

有機的に結ばれることを想定している点が奇妙である。

P102「国民文学論争の中で、文学を政治と対立させ、文学の自立性とは政治の介入を排除することだとする考え方は、典型的な実体的発想法である。なぜならば、そこでは、政治は単なる政治権力の暴力あるいは体制の抑圧に限定され、モラルの位相でそれを抽象的に「悪」とすることによって、政治過程の中でのさまざまな可能性や諸々の複雑な矛盾などが安易に抹殺されてしまったからである。一方、野間宏が各領域の連合を強調し、民族の独立のためにこの一連の領域がそれぞれに自己の責任を負うべきと唱えたとき、実は文学を抽象化し政治・経済などと並置された「物」にしていたわけで、それはせいぜい文学の排他的「自律」に対するアンチテーゼとしての意味をもつに過ぎず、文学のあり方の問題はおよそ深められることはなかったのである。竹内が機能としての文学と政治を区別すべきだと主張したとき、彼が注目していたのは、文学が一種の特殊な「文化政治」の過程となって、単純に政治的結論を導き出してしまうような悪循環からいかに解放されうるか、という問題であった。あたかも丸山真男政治学の領域において現代政治の「フィクション性」を強調することで政治判断を打ちたてようとしたのと同じように、竹内好は文学領域においても機能性を強調することで文学を直感性から解放し、精神の営みとしての自律的性格を確立しようとしたのだ。明らかに、野間の誤読は、竹内のこのような実体的思惟と対決した、政治性を備えた文学の自律性を理解できなかったところにある。しかし、野間宏のこのような誤読は、果たして竹内の「説明が足りなかった」せいだっただろうか。実際に、竹内は同時代のほぼすべての重大な問題に関わるとき、いつもこのような「機能的な」反応をするのだが、しかしそれはたびたび、まわりの「実体的な」思考様式によって誤読されている。」

※論法云々で性格が変わるものでないように思うが。

 

P108「それなら、なぜ野間と竹内の間に、政治と文学の関係について真の対話が成立しえなかったのか。

 おそらくそれは、この日本の文学者の視野のなかに、ある基本的な参照軸が欠けていたからではなかろうか。それは、魯迅を代表とする中国現代文学、そして竹内好が中国現代文学を読むときの読みの視座にほかならない。もし『魯迅』を竹内の思想的な原点と見なさなければ、彼の日本文学や日本思想に対する全発言は理解することができないであろう。まさにこの「魯迅」こそ、竹内の言うように、機能的なものであって実体的なものではなかった。……魯迅は竹内を野間と異なる政治理解へと導いたのである。それはいわば、「正しい」観念的抽象化を放棄し、リアルで複雑な現実に直正面から向き合うことである。なるほど、野間宏の時局に対する分析は確かに正しいだろう。しかしこの正しい「あるべき姿勢」が、微妙に戦後日本の大衆社会の基本課題から遊離したのであって、日本文学もこの種の「イデオロギー的責任」を果たすことができなかったのである。」

P127「いかに善意をもって見ようとも、竹内好のこのことばは弁護しがたい。それは、日本の侵略戦争を合理化した態度のためではない。国家と距離を保ってきた自らの立場に背いて、「日本国と同体である」と宣言したことにこそ問題がある。しかしここで私が興味を持つのは、竹内が晩年にいたるまでこの文章を懺悔したり隠蔽したりせず、それどころか、一九七三年出版の評論集『日本と中国のあいだ』に収録されることを黙認したのはなぜなのかという問題である。」

※ただ自覚が足りなかった可能性は…「大東亜戦争と吾等の決意」への言及。

 

P160「中国人民の日本に対する抵抗意識は、まさにこうした野蛮で無恥な行為への道徳的な義憤を出発点として奮いおこされた。……竹内好はこうした「野蛮人本能」への本質的な省察を基盤として、一九四五年八月十五日以来、日本の思想伝統の形成に向けた一貫した努力をスタートさせたのである。」

※明らかにこの野蛮さは日本人の野蛮さとして描かれることになり、西洋人はその視野から外される。

P161「今日に至るまで、進歩的知識人を含む一部の日本人は、それぞれの理由から、日本の侵略戦争を「通例化」しよう、すなわち他の戦争と同列に論じようとしてきた。そのことの看過できない問題点は、「野蛮性」の問題を見逃すことにある。」

※この認識が正しいかはよくわからない。竹内自身が野蛮性に与えた意味如何による。進歩的知識人も全体的な意味で野蛮性を強調する一派がある。松下圭一もその系譜である。

P164-165「つまり、二元対立の思考形式ではこの出来事の核心にふれることはできない。東京裁判への賛成もしくは反対といった漠然とした政治的立場によっては、この複雑な出来事に対して政治的判断力を生かすことはできない。」

 

P174「五〇年代末トインビーが日本を訪問したとき、反共親米知識人を中心として「日本優越論」がとなえられた。アジアは「文明序列の劣位」に位置づけられ、「日本」は、福沢が初期に持っていた緊張感を持たないまま、再び脱亜した。こうした脱亜のコンテクストで東京裁判の問題が再審されたが、日本は西洋と質の近代文明国家であると見なされたため、東京裁判の合法性を問い質すものはいなかった。」

P190「清水幾太郎は、自分が運動の中で原理を追っていると信じていた。またアカデミズムのエリートは、自分たちのやり方で原理を現実運動に結実させようと努力していた。したがって彼らはともに、自分たちが原理と現実の関係を扱っていると考えていた。しかし彼らは追いかけている問題の方向性が異なっていたため、両者のあいだに、相互に排斥しあうような関係性の場が形成された。この関係性の場そのものこそが、理論と現実のパラドキシカルな関係を示している。いかなる指導的な原理であれ、原理のレベルにおいて、複雑な現実を変えることはできない。また現実の実践目標は、具体性・直接性を備えているため、具体的な目標を転移させる可能性をもつ原理的な思考を排斥しがちである。理論と現実のあいだの真の関係は、理論もしくは実践のどちらかにおいて単独で示されることはありえない。したがって、不断に議論され続けてはいるものの、討論が理論もしくは実践どちらかで行われている限りは、真の解決を得ることは困難である。」

※「排斥しがち」かもしれないが、理論的帰結ではない。また後段ももっともらしいことを言うが、これが正しいことを何ら積極的に定義しない。孫歌「それは、竹内好が他の知識人よりも優れていたという意味ではない。ほかの知識人との関連付けという構造のなかで考察されてはじめて、竹内好の批判的知識人としての貢献を認識することが可能となるという意味である。」(p191)という主張が文字通り全てであり、これは言い換えれば「50歩100歩」でしかない。竹内の議論により何らかの可能性が存在するという評価に意味はない。

 

P203「丸山において、問題は二元対立として処理された。しかし竹内好は一貫してそうした対立の外で活動した。丸山真男は日本の肉体的思惟を批判したとき、問題を理性的なフィクションの精神へと向けた。」

P230「以上の小見出しから見て取れるのは、この座談会が、西洋モダニティの限界を討論することを通じてそれを「超克」することを目標としていたこと、そして近代の超克という意味において日本文化の優位性を強調していたことである。」

小見出しから座談会の内容を読み取ることに収穫はないというが、同時に日本優位論を語っているのかどうか、小見出しからはとても読み取れない。

P231「十年隔てて行われた二回の座談会にある種の関連を見出すならば、そこではっきりするのは、「近代の超克」とはもともと文学者たちが発起し彼らによって継承された討論だったということである。「近代の超克」に参加した学者たちの戦後の活動がそれをさらに証明する。その二年後、別の座談会で「現代とは何か」という問題が討論された。司会を務めたのはかつて「近代の超克」に参加した鈴木成高であった。この座談会は「世界史的立場と日本」で議論された世界史の哲学の問題をある屈折した形で継承したものであり、「近代の超克」の内在的な方向性とはまったく接点を持たなかった。」

※これは、廣松などが注目した京都学派とは別の派閥による意図が強かったことを示す。「現代日本の知的運命」という座談会が1952年1月に開かれており、これが「近代の超克」の後継とする。

 

P236「京都学派の学者たちは、自分たちの対話空間では「近代の超克」座談会で感じたような困難を感じていない。『文学界』同人は純学術的な議論を好まず、学者たちに一つの「見解」を求めていた。言い換えるならば彼らは、十分な学術的訓練をつんだ学者から有用な結論を引き出そうと望んでいた。」

P237「二つの座談会はともに第二次大戦が白熱化した時期における世界の中の日本の地位を問題化し、日本の優越性とヘゲモニーを鼓吹しようとしていた。しかし議論参加者のポジションが異なっていたため、両座談会のテーマには根本的な差異が生じた。「近代の超克」が定めたテーマは参加者の主体的な自己の問題であった。それに対して「世界史的立場と日本」は参加者の前に存在する学術的な対象をテーマと定めていた。」

P238「しかしながら小林の出発点は「反近代」であり、近代の歴史発展論への対抗という意味において歴史の中に変わらないものについての語りを紡ぎ出したのに対して、西谷、鈴木の意図は、現代人と過去の人間との精神のつながりをめぐるパラドキシカルな性質を強調することにあった。」

 

P240「文学者たちにとって「反近代」とは「清潔な吾々の伝統」に対する肯定にほかならず、学者たちにとって日本の優越性の強調は世界史の語りの一部分にすぎなかった。」

P241「京都学派の雄大なる世界史の語りにおいて、「日本」は、近代西洋に代わるべき重要なポジションを与えられてはいたが、論述の目的地とされることは決してなかった。「近代の超克」と「世界史的立場と日本」という題名の差異は、日本的「肉感」を強調する前者の「西洋への対抗」的立場と、日本的肉感を意識する「暇がない」後者の「世界史」的立場とのあいだの微妙な差異を象徴的に示している。」

※「そして座談会についての回想は完全に文学者たちのものになった。」(p245)

P243「彼らが「近代の超克」で示した対立とは、近代の語りにおいて「日本」と「西洋」をいかに叙述するかという一点をめぐって構成されていた。」

P244「日本人は、ナショナリズムの問題を避けて新しいアイデンティティを見出すことができるかという厳しい試練に直面した。……

 戦後の一億総懺悔のあと、「近代の超克」はひとつの「トラウマ」として京都学派に関係のあった学者たちの戦後の語りから消失した。それに対して「世界史の立場」は、「日本文化フォーラム」という反共親米の色彩を持つ保守派の民間団体によって継承された。京都学派の四人の学者はほとんど皆このフォーラムに姿を現したが、『文学界』の文学者たちはそれとは関係を持たなかった。」

 

P247「明らかに、(※竹内の主張は)正しいイデオロギー的結論ばかりを目指すのとはまったく異なる立場である。竹内好のいう「思想」とは、正しい思想のみならず、さまざまな錯誤さらには有害な思想を含むものであった。しかしながら思想である以上は、政治体制から相対的に独立した影響力を持っており、それこそが思想が社会に影響を及ぼす根拠であった。「近代の超克」と「世界史的立場と日本」はまさにそうした意味での「思想」を持っていた。」

P252「五〇年代日本知識界の数々の座談会を見ると、論争の陣営は進歩的知識人と保守的知識人といった基準で厳格に区分されていたわけではなく、むしろ多くの場合、西洋モダニティ理論を利用する方式と習熟の程度によって分かれていたことがすぐに見て取れる。」

P253「竹内好は鋭く見抜いていた。新しい東西二元対立モデルによって日本はいかなる道を歩むべきかという問題を解決することはできないのだ、と。というのは、五〇年代末期に日本優越論が再燃し、「日本文化フォーラム」のような文化人の言説においては日本は東アジアの指導的国家として描き出された。「近代の超克」が失敗した地点で戦後の日本主義者たちは同じ轍を踏んだのだが、それに対して進歩的知識人は西洋の思想遺産によってこの状況に対処する有効な方法を見出せなかったからである。危機意識をもった竹内洋は「近代の超克」の封印を解き、イデオロギー批評によって単純化されていたこの思想史上の出来事から新たな可能性をひろいだそうとした。」

 

P255「荒正人日本共産党への入党経験を持ち、のちに意見の食い違いから離党した進歩的知識人」

P256「たとえば竹内は「近代の超克」と「世界史的立場と日本」の差異を完全に無視し、後者を前者の中に組み込んでいる。その結果彼は知らず知らずのうちに、特定の時代の思想形成に関わる多重的な可能性を思考することを妨げられた。」

※一方で「彼が論じたのは特定の時代および歴史的文脈の中における座談会の位置づけの問題にほかならなかった」とする(p256)。ここでいう歴史的文脈の議論をどう評価しているのか、読み取り難い。

P257「同時に竹内好は、東京裁判をきっかけにして、日本とアメリカは東アジアの植民地争奪戦争をしただけで、文明対野蛮、正義対侵略の戦争ではなく帝国主義帝国主義の戦争であったという観点を固めた。それに対して荒正人は、第二次大戦を考える視覚として一貫してソ連を重視しており、アメリカに対しても、ソ連および中国の同盟国として、歴史の行為としては民族統一戦線を授けて日本ファシズムに対抗したという命題を導き出した。」

※見方によっては、竹内の方がはるかに「二項図式」的に見えてしまう。

 

☆P259「とはいえこの議論はその後にわたる日本の進歩的知識人内部の基本的な分岐を象徴的に示している。四〇年が過ぎた現在、日本の知識人はほとんど実質的に進歩のないままヒロシマ問題において荒正人竹内好の問題意識を反復しているように見える。これはいったいどうしてなのだろうか。

 基本的な思考の手がかりは、やはり竹内好の「近代の超克」の中にある。皮肉なことに、あまたある「近代の超克論」の中には、政治的に竹内好よりも正しくまた読解として竹内より精緻なテクストがいくつもあるが、竹内好のこのテクストほど時空を超えてたびたび言及されるテクストはほかになく、民族主義ないし大東亜主義の「嫌疑」濃厚な竹内のテクストばかりが日本思想史上の名著となっている。」

※このような評の正当性がいかにあり得るのかが最も気になる。

P259-260「竹内好は二元対立に替わる理論モデルを見出すことはなかったが、戦争経験者の感情記憶を揺り動かし、感情記憶の中に生きている原理を発掘しようと試みた。竹内好の見るところ、戦後行われた戦争に対する省察はむしろ生きている原理を覆い隠すものだった。なぜならば、日本のモダニティの問題は第二次大戦を頂点としながら、様々な形での対外拡張として戦後も基本的に生き延びていたからである。」

P263「まず第一点目について廣松は次のように批判した。京都学派は開戦の詔勅を完璧に説明してみせる教義学を持っていただけにすぎなかったとしても、それだけで充分に戦争とファシズムイデオロギーとして認定されるべきである。」

※もう一点廣松は近代の超克論はそのアポリアを「解決ないし止揚統一を志向していた」と断じ(p264)仲違いの可能性を否定した。

 

P266-267「しかしながら、三木清が『文学界』および同人を代表できるかという問題はさておくとしても、より大きな問題として、この置き換え作業が一つの理論的なすり替えであることが指摘できる。すなわち、歴史上の明確に限られた範囲を持つシンボルであった「近代の超克」が無限に拡大され、昭和思想史全体の基本的構造とされたということである。その基本構造とは、廣松渉が関心を寄せていた、天皇制を頂点とする国家独占資本主義の社会構造およびそのイデオロギーである。……彼が竹内好の「方法論的手続き」が狭隘にすぎると批判したのは、竹内が文明論と文化論の視野でしか問題を扱わず、社会史的角度から廣松渉と同様の課題を扱わなかったためにほかならない。」

※「廣松渉雄大な社会史と観念史の語りにおいて、竹内好を批判することによって、竹内好によって提起された荒正人等によって明確化された重要な思考を見逃した。」(p267)とするが、これこそ50歩100歩の議論であり、どちらの議論もその正当性についてろくな言及が存在しないように見える。

P270「廣松渉雄大な枠組みの中に、正しい批判的立場や観念分析・社会史分析は充分にあるが、思想伝統を建設しようとする努力は不足している。」

※孫の議論を読んでいると、「生活体験」と「多様性」が同一のものに見えてくる。

菅原潤「「近代の超克」再考」(2011)

 今回は前回の大塚久雄の議論や、日本人論とも関連してくる「近代の超克」をテーマとした著書を検討していく。

 近代の超克をテーマとした著書は2000年代以降それなりの数のものがあるようである。背景としては、3.11という事件以降改めて近代に対する問いへの関心が高まっていること、また同時期からの保守派ナショナリズムの動向に「近代の超克」をめぐる議論の論点と同質の傾向をみてとり、更には「アジア主義」的な観点についての評価を行う動きの中から、戦中期のこの言説の再考を行う動きがあるようである。

 

 本書を読むうえでまず注意しなければならないのは、本書の対象が1942年の雑誌「文学界」における座談会をめぐる「解釈」に向けられた、ある種徹底した言説分析であるという点である。ここでは当時「近代の超克」という言葉が一般的にどう受容されたかという議論はカッコ付けされる。これは菅原自身のスタンスがもともとそうであるということもできるのかもしれないが、それ以上にこれまでの「近代の超克」をめぐる歴史的な議論に対する一種の批判的態度をそのまま表明しているようにも私には思えた。このことについては、今後も検討していきたいと思うが、この「近代の超克」をめぐる議論というのは、それ自体が本書で指摘されているように「適切な理解」というものを欠くものとみなされがちであった。『近代の超克』座談会内における京都学派(鈴木成高西谷啓治)的な「近代の超克」理解というのは、決して本筋であったと言い難い。しかし、廣松渉が典型であるように、京都学派的な理解こそが真の意味で「近代の超克」を体現するかのような主張がなされることも影響力も強かったことを、本書ではその前提としているように思える(cf.p9-10)(※1)。廣松的な歴史観に基づく「近代の超克」論も、その当時の「大衆」がこの「近代の超克」をいかに捉え、それが当時の社会にどのような影響を与えたのか、といった問いは本書においては意図的に放棄され、座談会前後の「近代の超克」がそれを語った各論者の中でいかなる意味づけをされていたのか、ということをその思想的背景も含めて検討することとなる。

 ただし合わせて留意すべきなのは、竹内好以来、この『近代の超克』座談会においてグループ分けされている「京都学派」側の論理と「文学界」及び「日本浪漫派」の論理の系譜について、その思想的系譜の関連性については本書においてほとんど議論がなされない。「京都学派」の議論は、主に鈴木成高高山岩男の文明史観についての議論を中心とし、「文学界」等の議論は、「超克」の意味合いについて着目しながらその系譜を追う作業を行っている。また『近代の超克』座談会に参加していない三木清保田与重郎も含めた議論の系譜も本書では丁寧に追っているが、これは「文学界」側の論理の議論であり、本書ではこのような周辺部の議論はあまり「京都学派」側からはなされていない。本書の関心の問題から、どちらかといえば「文学界」側の系譜に重点が置かれている。

 

〇「近代の超克」とは結局何だったのか?

 菅原は「近代の超克」の「文学界」側の意味合いをめぐる議論について、まずニーチェ理解という観点から読み進め、その初期における生田長江的な理解(p20)と、その後の「シェストフ」的理解との違いについて言及する(p27-28)。そして、「近代の超克」の言説の中心的な立場はシェストフ的理解に基づくものだとする(p33)。この両者の違いは生田が「近代の徹底」としての批判的態度とみなされたのに対し、シェストフ的理解はそれさえも批判する立場にあるとされる。そして、菅原は生田の議論は資本主義・共産主義両方からとる態度であったが、シェストフ的議論は資本主義のみに向けられていたことを強調する。

 菅原はここからシェストフ的な「近代の超克」論が二項図式的な議論に陥りやすく、結果として共産主義的な議論に似通る可能性を指摘している。それは共産主義者の転向においてシェストフが果たした役割を強調し、そのような「近代の超克」の語りが、一度は否定したはずの共産主義の(無意識的な)肯定に結びついてしまうという思想的変遷における帰結であるとされる。しかし厄介なのは、このことが生田的な超克論が二項図式でないという根拠になっていない点である。これは生田が「近代の超克」の意味合いで用いる「超近代」の定義を見れば明らかで、それは「商業主義よりも重農主義を、都会よりも村落を、文明よりも文化を、西洋よりも東洋を撰び取ろうとする」態度であった(p21)。もっとも、「彼のなかには反近代的な主張と近代に特有な批判精神が混在しており、しかもこの相反する契機が座談会「近代の超克」にも及んでいる」とする(p28)点にも注意する必要がある。ここでの菅原の語りは生田長江の受容のされ方をもって「近代の徹底」とした見方も成立すると述べているが、これがその言説に裏付けられていたものかは、本書の記述からはよくわからない。結局本書から読み取れることは、「近代の超克」の言説はそれ自体「近代の徹底」と「反近代」との間でのせめぎあいそのものを示したものであり、その躓きの連続であるという見方をする一方で、『近代の超克』座談会の話に限れば、「近代の徹底」へ、なおかつそれは近視眼的な内省の態度に収斂していた、という見方が成り立つということだろう(※2)。

 

 またもう一点押さえるべきは、「文学界」の系譜における「超克」という言葉が、半ば無意識的に達成されるべきものであるという性質を持っているという点である。これは「止揚」の発想と対比すると理解しやすい。「止揚」はどちらかといえばそれが意識的な否定のプロセスを経て達成されるものという理解がされやすい。これに対して、「超克」という言葉は、本書でも語られるように(p20,p141)、基本的には「(本人は意識せずに)いつの間にか達成されている」性質のものであるとみなされていた。この意味合いはいくつか考えられるが、本書に照らし合わせれば、それはあくまで一種の「実践」の中から形成されるものであり、意識的にプロセスを経るような「止揚」のような見方は、それ自体が実態をとらえ損ねるイデオロギー的見方を強化するものとして毛嫌いされたものであると、読み取ることもできるだろう。当時のコンテクストから言えば、それは政治から距離をとった「文学」の領域の意義を語る上でも重要な考え方であったと読み取ることができるだろう。このような「文学」的な超克の意義は竹内好などにも強く影響を与えているように思える。

 ただここで少々厄介となるのが、『近代の超克』座談会における京都学派と文学界派の立場の違いをどう理解すべきかという点である。

 京都学派は歴史的普遍性という立場を強調し、「近代の超克」についてもその文脈からなされることを強調していた。それは今の視線からすれば一元的な、欧米の「近代」の影響力を決して無視できない歴史観の上に「超克」をいかに考えるのかという見方を前提としていた。そしてこれは帝国主義的立場、侵略史観に親和的である(p109)。しかしながら、「京都学派」側の近代観についても、安直な「近代の支持」と「帝国主義の肯定・追随」を意味していたわけではない。70年代以降の大塚久雄が強調した態度ともよく似ているが、「新たな中世」思想にもみられるように、文明論的な立場を強調しつつ、そこからの転換の可能性もその論の中から見出そうとする立場が京都学派であったと本書では位置付けている。ただしこの文明論的立場からの問題は、大塚久雄がそうであったと自認するように、「近代なるもの」それ自体は大きな影響力、そして社会の健全な発展に貢献する勢力であることとして(これを終戦前の文脈で言うと、侵略するか・されるかという力関係の議論として)決して無視することはできず、無視すべきではないと考えられていた。本書を読む限り、鈴木成高の基本的態度はまさにここにあったといってよい。ここにおいても「近代志向の揺らぎ」が存在するのである。「文学界」側の「近代志向の揺らぎ」との違いを考えるとすれば、どちらかと言えば「文学界」側はほとんど認識そのもののズレをめぐる争いであった感が強く(このことから各論者が「近代追随」であるか「反近代」であるかは割とどうでもよい感じがする)、「京都学派」側は、物的な状況をめぐるせめぎあいの中でそれが揺らぐものであったという整理はできるだろう。

 

〇何を「進歩」とみなすのか

 本書の主張で押さえておくべきは、この「近代の超克」をめぐる議論のなかで、何をもって「進歩」と考えるべきであるのか、という点について論者によって異なってきていた点である。これをざっくり分ければ2つの見方で整理できる。

 一つは欧米的近代の追随こそ進歩であるとみなす立場である。ただこの見方は基本的には大塚久雄のように近代なるもののエートスの取得こそ重要であるという態度も少なからず含まれていることに注意せねばならない。もう一つは本書でいう林房雄(cf.p165)、竹内好や、これまでレビューしてきた西尾乾二(※3)にもみられる進歩観である。この立場において第一の進歩の立場というのは、安直な欧米の追随であると批判され、(国家・民族などの)「個性」を鍛え上げ、確固たるものとしそれを原動力とすることこそ「進歩」であるとみなされる。ただ、第二の進歩の立場というのは、その「個性」の強調ゆえに、他者との比較について著しい軽視が基本的になされることになる。他者との比較など文字通りどうでもよく(※4)、そんなものはなくとも「進歩」が可能であると信じて疑わないからである。本書ではこの第二の進歩観における右派・左派の奇妙な共通性について強調していることは他書と比べると特徴的でといえると思う(p181)(※5)。

 ただ本書全体の流れの中では、菅原はこのような「個性」の強調がある意味で京都学派の文明史的な読みの可能性を否定するものとなっており、ある意味で極めて近視眼的な近代志向を助長する原因になっているものと考えているように思える。この近視眼的な態度は80年代以降の日本人論として私が指摘してきた改善要求ありきの日本人論の議論と同じ特徴をもっているものであり、そのような態度を「文学界」側が強調してきたという見方も可能である。

 

〇「近代の超克」論と70年代以降の「日本人論」との相違について

 ここで「近代の超克」の議論で語られる日本人論と、これまでのレビューで検討してきた日本人論における議論との異同についても触れておきたい。ここで特に参照点とするのは、土居健郎である。以前私が指摘したように、土居の日本人論が70年代以降の日本人論の一つの典型とみなすとすれば、この「近代の超克」をめぐる議論というのは、それ以前の日本人論として検討することができるだろう。

 まず相違点についてであるが、特に大きな違いは、「近代の超克」論が文明史観について特に強調するのに対して、土居的な日本人論はその文化的側面を強調する。ただ、本書の見解も踏まえれば、「近代の超克」論にもこの両者の強調については幅があり、京都学派は文明史観をより強調するのに対し、文学界側は文化的側面の強調もなされている。しかし、総じて言えば、文明史観が比較的優位な状況にあったことは当時の状況を踏まえれば納得ができる。特に鈴木成高の主張から読み取れるのは(p109,p113)、欧米的な支配する・支配されるという論理があまりにも強力であり、その影響力を無視して歴史を語ることなどとてもできない(支配の論理を無視して歴史を語ることに意味を見出すことができない)という主張そのものは、安易に正当性を否定することはできない論理が含まれている。だからこそ高山岩男の文明論も鈴木に凌駕されてしまったともいえるのである。

 一方で、土居が語る日本人論は、単一的な文明史観をそもそもその前提として受け入れている(それは「社会問題の普遍化」をめぐる主張に集約される)という意味では、この文明史観の延長線上にあるとみなすことが可能である。その単一的なまなざしがそのまま土居の西欧批判、つまり近代批判の起点となっている。しかし、土居の議論は結局文化論的な側面に偏ることとなり、「甘え」の文化の強調へと(少なくとも本人は)結びつけた。土居に見られたダブル・バインドの態度はある意味でこのような「近代」に対する見方の受容が歪んだ形で現れているものと解釈することができる。このような歪んだ態度自体は「近代」をめぐる議論において常にあったものと考えることは可能であり、実際『近代の超克』座談会についてもそのような見方が文学界側からなされたものと読むこともできる。このような近代受容をめぐるジレンマについては、共通・連続したものとして捉えることも可能だろう。但しこれについては土居においては強くみられるものの、その後の日本人論にまで同じようなジレンマがあったかどうかは検討すべき部分である。どちらかといえば、このようなジレンマは精神分析的な側面からの議論(河合隼雄に続く系譜)には(土居と同じ問題を抱えたまま)残存したものの、西尾乾二に影響を与えている類の、70年代後半以降の日本人論には確認ができないだろう。

 結局は、70年代(以降)の日本人論の語りの中においては、すでに「支配するか・支配されるか」という論点は認識されず、「欧米的価値観の確立」という枠組みで理解されるようになったのである。ここにおいて問題は価値観の問題に移行し、そこからの転換の可能性の中で議論を行う余地が大いに出てきたのである。

 

 廣松渉が行ってきた「近代の超克」論が、京都学派の支配史観をあまりにも強調しなされてしまったことはある意味で不幸なことであったのと同時に、近年再評価される「近代の超克」自体がこの反動として、安直に近代の多様性をめぐる議論として語られているように見えるのも果たして妥当なのかという疑問が出てくる。結局このような多様性の強調は、土居的な議論の変奏、しかもそれが特段具体的な議論に向かわないという意味では、逆に劣化したかのような印象も受けるのである。この点はまた別途取り上げたい。

 

〇「近代の超克」のポテンシャルは有効か?

 本書執筆の目的は「近代の超克」の射程とそのポテンシャルを問うものである(p2)が、今後「近代の超克」をめぐる議論を検討する上で確認しておきたい点がある。この「近代の超克」の議論は00年代以後活発になされているようであるが、この議論の可能性について肯定的に捉えることについてどう考えるべきか、という点である。

 ここで参照すべきは加藤尚武の「近代の超克」批判である。加藤は「二一世紀への知的戦略」(1987)にて、「近代の超克」を主張する立場に対し、①それが近代からの断絶にしかならないこと(加藤1987,pi-ii)(※6)、そして②「技術の倫理の対話の場面を切り開」くことこそ重要であると指摘する(同上、piv)。次の主張はこれら2つに応えるものである。

 

「今日の科学が西欧・近代に成立したということは、歴史的事実である。その歴史的事実を科学史という科学が確認している。ところが相対主義者は、こう主張する。「科学はあくまで西欧・近代の科学であって普遍的科学ではない」。それではこの相対主義者は、いかなる科学によって科学史を認識したのか。どのようにして東洋人であるわれわれが西欧の科学を学びえたのか。それに答えることがわれわれの科学論の任務ではないのか。相対主義の観点をとれば「新しい科学」を作り出せると考えるのは、浅はかである。相対主義が正しいとすれば、その「新しい科学」はわれわれの理解の彼方にあるものだからだ。」(同上、p29)

 

 まずここで押さえておくべきは「近代の超克」の言葉の意味についてである。菅原は「近代の超克」の議論においてそれが無意識のうちに克服される性質のものであるという論点を述べた。ただこの「無意識」というのはある意味でご都合主義の言葉であり、①『近代の超克』座談会自体が「近代の超克」を意識的に語るものである以上、無意識的に議論していると呼ぶことが可能なのかという論点と②結局はこれが過去との断絶でしかないのではないのか、という疑問点を残す。加藤の批判はここでいう②について、むしろ論理的に考えて断絶せざるを得ないことを主張するものである。なぜなら、「近代の超克」を主張する論者は近代の産物であった科学について、その性質そのものを語らずそれは「超克後の社会」における科学についても何も語らないものだからである。これは科学に限らず、文化といったものにも同じように述べることができるだろう。結局イデオロギー的なものに還元される「近代の超克」という理念そのものが意味をなさないものであると加藤は強調するのである。

 上記引用においても、加藤は「近代の超克」を強調する相対主義者は「新しい科学」を超克により生みだせるものだと考えていると主張している節がある。もっとも私はこれは言い過ぎであると思う。そもそも「近代の超克」論者は、そのような「科学」を語ることの重要性自体に気付いていないために、このような言説を述べていたと考えられる。もっと言えば、『近代の超克』座談会においては、この「超克」の重要性を述べたのは、文学界からのものであり、それは同時に(「政治」と対峙する)「文学」の可能性についての言及でもあったといえるだろう(※7)。これはそもそも「文学」を語ることが万能であるということに対する問題として議論すべき内容であるのかもしれないが、少なくとも「既存のもの」を如何に変えるべきであるかという議論よりも、「既存のもの」を変えなければならないという意識が先行し、その変えるべき内容については二の次となっていることは「近代の超克」論全般に指摘できるという意味では加藤の指摘は正しいように私には思える。

 

 そして近年の「近代の超克」に対する再評価の動きに関して、この論点は過小評価されているように思えなくもない節がある。この「近代の超克」の議論に限らず、「近代」そのものの問い・批判のなかでしばしば取り上げられるのは、「多様性」についてである。これは近代が単線的な発達史観に基づく、ということも含むが同時に「近代」の機械性が人間性を尊重しないだとか、帝国史観的暴力性が問題であるとか、個の強調がエゴイズムを無視しており問題であるとか、という論点に対抗する原理として「多様性」が用いられる。しかし、「多様性が大事である」で終わる議論は加藤の主張を待たずとも非生産的でありえる。また、本書のように学術的な意味においても「多様性」が尊重されることがあるが、それもまたいかなる意味で有意義であるのかという問いは別に設定されるべきである。このことはまた別の機会に検討を行っていきたい。

 

※1 そもそもの前提として、この「近代の超克」をテーマに何らかの意義を見出す作業をする場合に、当時の状況を捉えるため言説分析の題材として「近代の超克」が選ばれること自体が適切でない可能性もあることも留意すべきであろう。むしろ「東亜新秩序」「大東亜共栄圏」といった言語群の分析をする方が広く一般的な流通をしていたものであるといえるだろうし、そのような言説群と比べれば「近代の超克」という言葉はそれ自体影響力として限定的である。しかし本書はあえてそれらの主流言説から距離を置き「近代の超克」の哲学的・思想的論点の抽出を目指していることに留意せねばならない(p2)。

 

※2 ただし、合わせて問わねばならないのは、本当に「近代の超克」という言葉がそれを語る各論者にとって意識的に(何かしらの概念に収斂する意味をもちえたものとして)語られていたものなのか、という点ではなかろうか。この「近代の超克」という概念自体、一種のダブル・バインドを容易に要求するものであることは明らかであり、その時々で都合のいい方向にその意味を変化させることもまた容易であることを意味する。「近代を超克」をめぐる議論においては、この論点も非常に重要であると思うが、近年の「近代の超克」をめぐる議論の中で、このことがどのように考えられているのかにも今後注目し検討していきたい。

 

※3 西尾が「ヨーロッパ像の転換」(1969)において、日本の戦前の教育制度をアメリカ由来のものであると、事実と相違する主張を行ったことはすでにレビューしたが、西尾が安直に「アメリカ的なもの」が昔から日本にあったと思い込んだこと自体にも注目してよいかもしれない。つまり、西尾には戦前から存在し、『近代の超克』座談会内でも批判の対象となった「アメリカニズム」の系譜を曲解し、日本の教育制度に当てはめた可能性があるということである。このように見た場合、西尾の議論もまた「近代の超克」をめぐる議論の系譜に位置付けることが可能になってくるのである。

 

※4 しかし逆にどうでもよいという態度は、そもそもの第一の進歩観における「追随」の意味についても軽視する結果となっており、実態についても特に吟味しないまま批判を行うというスタンスが基本となってしまっていることも指摘せねばならない。このことは今後も具体的に言及していきたい。

 

※5 このような議論と高山岩男の「モラリッシュ・エネルギー論」(p108-109)との関連も気になるところである。結局この議論も「近代的なるもの」に対抗するための原理の一つとして行われているものと考えることができる。ただ、この両者の議論は本書においては関連性の議論がなされていない。

 

※6 引用すると、次のように主張している。

「未来技術が近代のそれと通約できない断絶を示すとは考えにくい。……また、未来の人間が技術を廃棄して、近代以前の生活様式を営むという見通しも成り立ちにくい。未来の技術は近代技術の継続という本質をもつであろう。……

 これに対して連続の要素を認めず、未来を近代からの断絶とみなして、未来を「近代の超克」という観念だけで考えようとする思想は根強い影響力を持ちつづけている。未来の文化は近代の限界を超え、近代知の構造とは本質的に異なるパラダイムで営まれるのだという。……そこでは知のパラダイムの変換によって技術の倫理的問題に解決が得られるかのような無責任な幻想がふりまかれる。」(加藤1987,pi-ii)

 

※7 このような「文学」の価値は、竹内好も強調していたところである。この点については、また別途検討していく予定である。

 

<読書ノート>

P9「こうした議論の運び方を見れば、鈴木が「近代の超克」に臨む際に念頭に置いていたことは、古代の立派な文明を備えつつ近代を経由した日本にはモラリッシュ・エネルギーがあることを世に知らせること、あとやや些末な問題だが、自分とともに「近代の超克」に参加する西谷との間のルネサンスの評価をめぐる論争に決着をつけることだと予想される。

 けれども「近代の超克」における鈴木の役割は、近代はルネサンスから始まるという議論の大前提が正しいかどうかを、歴史学者の立場から判定してもらうということに限定されてしまう。孫歌の指摘するようにこのように「イデオロギーを表現するときにそれを学術化しようと試みる」のは「京都学派のお家芸」だからなのだが、「近代の超克」で重要なのは「あなたにとって近代とは何か」ということなのであり、学術的な発言は遮られてしまう。その後鈴木は、中世的なルネサンス観と近代的なルネサンス観をうまく折衷させようとする西谷の発言を受け、西谷に対する弁明を何回か試みるが、その後「われわれの近代」が議論の中心になると、目立った発言をしなくなる。」

P9-10「ここに「近代の超克」と「世界史的立場と日本」の間のすれ違いがある。前者に参加した鈴木と西谷以外のメンバーの多くは、「近代の超克」という共通テーマを与えられたときから最初からヨーロッパと日本の関係しか考えなかったのであり、それゆえ議論は次第に「日本人にとって近代とは何か」、「日本人にとっての古典とは何か」に収斂していくのである。そうなると、日・中・欧の関係を考察する西洋史学者の鈴木の出番はない。

 こうした議論の推移を見れば、船曳建夫が日本人としてのアイデンティティの不安の表明として「近代の超克」を捉えるのは正鵠を射ているといえるだろう。「世界史的立場と日本」と比べれば「近代の超克」には、一般に思われているほど侵略戦争を正当化するような勇ましいプロパガンダを見つけることが難しい。それゆえ広松から始まる昨今の「近代の超克」論は、あまりにも京都学派に結びつけた議論をしており、そもそもの「近代の超克」のテーマに沿った解釈をしているといえないのではないか。」

※最後の議論の例として柄谷行人と町口哲生を挙げる(p196)。

 

P20生田長江のいう超克…「近代的な一切の事物に対する堪えがたき嘔吐感から出発しているだけに、超近代主義は一応近代主義の単なる否定の如く、単なる反対物の如く見えるかも知れない。けれども実際は近代主義からあとへ引き返したのではなくして、さきへ通りぬけてしまったのであり、所謂超克したのである。即ち超近代主義は人性主義精神の単なる否定や反対物であるよりも寧ろそれらの超克されたものであり、従って大抵の近代思想の単なる否定や反対物であるよりも寧ろそれらの思想の超克されたものである。」

※「超近代派宣言」からの引用。

P21「商業主義よりも重能主義を、都会よりも村落を、文明よりも文化を、西洋よりも東洋を(単なるセンチメンタリズムからではなく、『近代』生活に対する最も深刻な批判の結果として)選び取ろうとするーーこれは超近代的である。」

※同上。否定ではなく、肯定による定義をしている部分。

 

P27-28「もう一つは「超克」をどう考えるべきかという、本書の本質に関わる問題である。河上がシェストフに認めた批判精神は、考えようによっては先に三木と佐藤によってなされた生田長江人道主義者として位置づける見方と合流するように思われる。つまり河上や長江といった、亀井や唐木からすれば「旧世代」に属する批評家は、ニーチェの思想を近代精神の全否定ではなく、むしろヨーロッパ近代精神の健全な発展だと見ていると考えることができる。そのように考えれば、長江が『超近代派宣言』で表明した激烈な反近代的主張も、実は近代の批判精神の徹底だと捉え直すことができるのではないだろうか。

 ここで注意しなければならないのは、長江にとって超近代は、資本主義と社会主義の彼岸に立たされてあることである。これに対して亀井勝一郎の立場は、超近代を社会主義からの転向として、つまりは社会主義の裏面として位置づけている。こうした超近代の位置づけの違いは微妙な問題を随伴する。つまり長江のような超近代のスタンスであれば、資本主義や社会主義は本当の近代が分かっていない浅薄な思想として近代の批判精神から断罪するということが可能になるが、亀井のような立場だと社会主義を批判しながらその用語法、発想が皮肉にも敵であるはずの社会主義にだんだん似通ってくるという事態を巻き起こしかねないからである。」

※これは論理的必然なのかよくわからない。

p32「その長江がニーチェ全集の本邦の初訳者であること、「超克」の語がニーチェの『ツァラトゥストラはこう言った』の訳書にある語であることに留意すれば、「近代の超克」の思想的起源はニーチェにあると言ってよいかに見える。

 確かにこの推論は大まかに言って間違ってはいないが、長江の受容状況を見るかぎり「近代の超克=生田長江ニーチェ」の図式はいささか単純なように思われる。なぜなら、やはり前章で触れたように、昭和期を代表する三木清が長江を、一般的なニーチェ理解にそぐわないヒューマニストとして規定し、長江の直弟子を称する作家の佐藤春夫も同様の意見を示しているからである。……こうなると、生田長江は「近代の超克」の先駆者とは言いにくくなってしまう。」

 

P33「つまり、「近代の超克」の基本的なトーンを規定しているのは確かにニーチェだが、それは長江によりヒューマニスティックに解釈されたニーチェではなく、「シェストフ=亀井」路線のニヒリスティックなニーチェなのである。

 それでは、同じニーチェを解釈するにしてもどうして二つの立場で大きく見解が異なるかが問題になる。ニヒリスティックなニーチェ解釈からすれば、彼らの言うニヒリズムを語る際にどうしても考えることが避けられない、ある思想的な立場が存在する。その立場こそが共産主義である。「シェストフ=亀井」における「近代の超克」には、共産主義からの転向において成立するという特徴がある。」

P37「なぜなら(※シェストフ・ブームが起こったのは)、『悲劇の哲学』が刊行される前年の一九三三年は、先述した小林多喜二の惨殺を受け、さらに共産党の最高指導者である佐野学・鍋山貞親の声明をきっかけに、多くの共産主義者が転向した年であり、共産主義にシンパシーを抱く多くの知識人の心情を代弁するものとして『悲劇の哲学』が受け止められたからである。このシェストフ・ブームを三木清は「シェストフ的不安」と呼び、当時の文壇において不安が大いに話題にされた。」

亀井勝一郎については、「人間の未来を幸福にすると約束した学説」が共産主義と同義だったとし(p38)、共産主義からの転向を正当化する論理をシェストフのニーチェ論から読み取ったとする(p39)。

 

P89「ここまでの三木の議論を見ると、先ほどの高山の議論と同様に三木が民族の問題に関心を寄せていることが分かる。ただし高山が『哲学的人間学』のなかで生命と労働の問題を論じた後に民族と文化の関連で考察するのに対し、三木の『哲学的人間学』では民族は文化との関連ではなく、身体と密接に関わるパトスとの関係で把握されているという違いがある。言い方を換えれば、高山において民族が人間精神の発展過程に媒介されているのに対し、三木の場合は「血と地の結合」というかたちで直接的に要請されているのである。」

※民族は民族として生得的であると見る点で、原始的な国民性論とも言えるか。

P102-103「それでは、特殊的世界史について鈴木はどう考えるのか。鈴木は「地球上には多くの世界史が並存し、それらがやがて「単」なる世界史に収斂せられきったところに、近代の驚くべき世界史的事件がある」と考えている。高山の考え方は世界史的ではなく、高山の前著を念頭に置いて「甚だ文化類型学的」だと批判する。鈴木は高山の考え方が世界史的ではないとする理由として「本来世界史はいくつかの特殊的世界において見出されるのではなく、一つの普遍的世界において見出されるのであるが、しかしかかる普遍的世界の圏外に立って孤立する民族も明らかに存在」することを挙げる。そうした民族は、高山の言う文化類型学的に見れば「卓れた文化をもち、一貫した歴史をもって」いても、世界史の見地に立てば「その歴史は世界史とは別のものと考えられねば」ならず、したがって「歴史には世界史的なる歴史と然らざる歴史が存立している」のであって、文化類型学的アプローチから世界史を捉えることは強く反対するのである。」

 

P107鈴木成高の発言から…「高山君の日本に近世が二つあるというのは大体に於て賛成だ、大体として。(中略)東洋には古代がある、その古代は非常に立派な古代である。しかし如何に古代が立派であっても、程度の高い古代であっても、それは近代ではないんだ。だから東洋には非常に立派な古代があって、高さにおいてヨーロッパと決して劣らない、寧ろそれ以上のものがあるんだが、しかし東洋は近代というものをもたない。ところが日本は近代をもった、そしてこの日本が近代をもったということが、東亜に新しい時代を喚び起す、それが非常に世界史的なことだ。」

P108高山岩男の発言から…「ドイツが勝ったということは、僕はドイツ民族のもつ道義的エネルギーが勝ったことだと思う……よく世界史は世界審判だ、といわれるが、それは何も世界史の外で神様が見ていてそれを審判する、というようなことではない。国民自体が自己自身を審判するということだと思う。国が亡びるということは、外からの侵略とか何とか外的原因に基くのではない。外患などというものは一つの機会因に過ぎない。国が亡びるのは実は国民の道義的エネルギーが枯渇したということに基くんだ。敵国外患なければ国亡ぶというのも、つまりはこの意味だと思う。国家滅亡の原因は決して外にない、内にある。」

※道徳的であると、強国であることが同義で語られる。「ここにいたって高山は、前述の鈴木とのやりとりで示唆した特殊的世界史から普遍的世界史に転換する際の経済・政治的要因の分析を怠り、世界史の転換をランケ流のモラリッシュ・エネルギーのみに求めるようになる。そしてモラリッシュ・エネルギーの強弱の観点から文化の優位性を論じるという、単純な見方に陥っているように見える。」(p108-109)

 

P109「このように見てゆけば、「世界史的立場と日本」の高山は、「世界史の理念」および「世界史の種々の理念――鈴木成高氏の批評に答ふ――」で提示した歴史的世界の多元性と特殊的世界の視点を放棄し、鈴木張りの西洋史的発想の世界史的構想に屈服し、中国侵略のイデオローグに転落したと結論せざるをえない。」

※このような言説になってしまっている事実自体が重要。

P113「こうした高山の議論の推移を見て考えられるのは、ヨーロッパ中心主義から脱却することの難しさである。たしかに近代とはヨーロッパにとって栄光であってもアジアにとっては悲惨であり、ヨーロッパを相対化することの営為が日本というアジアの国から提起されるのは自然の成り行きである。けれども、そのアジアの悲惨さを論じる場合でも悲惨にしたヨーロッパの枠組で議論を展開しなければならず、ヨーロッパを相対化する当初の目論見は挫折せざるを得ない。」

P118鈴木の「近代の超克」で論ずべきテーマとしたものから…「(六)歴史学としては、特に最も関係の深い問題として「進歩の理念」を超克することが問題となり、また歴史学固有の問題として歴史主義の超克が最も大きな根本問題とならねばならない。歴史主義の超克は即ち歴史学における近代の超克である。」

 

P131「けれどもこうした鈴木の遠大な歴史像は、近代以前の西洋に関心を持たない河上をはじめとする文学界グループによって顧みられず、議論は日本人は本当に西洋の近代を理解したのかという方向に進んで行く。この章の見出しに示した「真剣に近代というものを通って来たか」という捨て台詞を吐いたのも文学界に属する作家の林房雄であり、そこにいたるまでの議論をリードしたのも、文学界の同人である小林秀雄である。」

P141「同時に「伝統のない場所で生き生きと哲学を考えた」シェストフとドストエフスキーを重ね合わせれば、小林が前記の発言で「一流の人物は皆なその時代を超克しようとする」と言うことの真意も見えてくる。つまり小林は、通常言われるように近代の西洋思潮を学びそれを手本にすることで日本を近代化することは考えず、広い意味でヨーロッパと考えられるものの近代化という点では遅れたロシアを、同じく近代化から遅れた日本に似た存在と見、ロシア文学の成果ではなくその担い手の生き方を学ぼうとしている。それゆえ小林はロシアないしドストエフスキーの姿に西洋近代そのものを見届けず、むしろ西洋近代を格闘するうちに格闘の対象を凌駕すると考えたのである。したがってドストエフスキーという「一流の人物」が近代を「超克しようとする」という小林の言い方は適切ではない。近代を克服の対象と意識的に見定めそれを乗り越えたのではなく、格闘するうちに自分では知らないうちに乗り越えて「しまった」と言うべきである。小林自身は意識していないが、この事態はかつて生田長江が「さきへと通りぬけてしまったのであり、所謂超克したのである」と言ったのと同義である。

 したがって座談会の議論はいきおい、西洋近代に取って替わるオールタナティブを提示する方向ではなく、むしろなかなか分からない西洋近代をこれからも学ばなければならないという方向に向かって行く。」

※小林は「文学は社会の表現だとか、時代の表現だとかいう」ことに欠陥があるとし、一流の作家は「一般通念との戦いに勝った人」でありかつ「その勝った処を見ない」(p136)。とする。そしてその後「どういう時代の一流の人物はその時代を超克しようとする処に、生き甲斐を発見している」と述べる(p137)。注意すべきは小林は「どういう社会的な或は歴史的な条件がある文学を成立させたかということ如何に調べても、それは大文学者が勝って捨てた滓、形骸を調べるに過ぎず、勝った精神というものを捉えることはできない。」という(p137)点である。これはやはり大文学者自身が明確に意識していないから、という意味だろうか。菅原は「太平洋戦争を正当化するイデオローグとされる座談会「近代の超克」の事実上の結論は、皮肉にも近代主義的なものである。」とする(p143)。

 

P162「このように自由民権運動の明暗を冷静に把握する林の議論は、プロレタリア大衆芸術を規定する際に拠り所になった「遅れたもの」に進歩性を認める彼の複眼的視座に起因するものといってよい。」

※次の主張は林によるもの。「文学者にしても卑俗をにくみ、文学道のほか、なにものにも忠実でありたくないという信念をもって精進をつづけて行く人は、その作品の中に、一行の社会的政治的文句がなくとも、人の心を正しくひらくという点で、自称プロレタリア作家などに十倍する進歩的な役割を演ずる。」(p158)「遅れたもの」という表現が正しいかはよくわからない。

P165「もう一度復習すれば、幕府の開国政策は一見すると他国との交易を求める点で「進歩的」だが、幕藩体制を維持するための政策という点を強調すれば「保守的」であるのに対し、長州藩の排外主義は外国との交際を求めない点で「保守的」であるものの、既存の幕藩体制を打破するという点で「進歩的」である。……ここで林は、ただ海外の文物を輸入すれば事足れりとする平坂な「進歩主義」から一線を画し、見かけ上は排外的だが実は海外との交流を求めるという「保守主義」に媒介された「進歩主義」を長州藩にみていることが分かる。

※ここで「遅れている」とは、あくまで「近代=欧米的価値観の注入」という観点からの議論とわかる。そしていわゆる進歩的文化人批判のコンテクストと極めて似通る。

 

P167「こうしたいわば逆説的な近代のあり方を意識的に追求したのが、他ならぬ座談会「近代の超克」を復刻した中国文学者竹内好である。」

P171「こうした竹内は、今日の経済発展を知る目からすると、奇異に見えるくらい中国の近代における抵抗のあり方を理想的に規定し、これに比べて抵抗せずに易々と近代化を受け容れる日本文化の「優秀さ」を皮肉混じりに批判する。……取り敢えず林房雄との対比で考えれば、日本文化が「革命という歴史の断絶を経過しなかった」とする竹内の診断は林による明治維新における長州藩の「進歩性」の理解とはすれ違っているかに見える。というよりも、ヨーロッパ文化に対する抵抗からアジアにおける近代を捉え続ける竹内からすれば、そもそも西洋文化を易々と受け入れる日本の知識人は唾棄すべき存在としてしか見られないようにすら思われる。」

P173「これらの加藤の発言を総合すれば、日本の伝統は外国からの直輸入であるから、その延長上でフランス文学を直輸入せよと呼びかけるものだと要約できるだろう。これでは従来通りのヨーロッパ文化の猿まねの主張に他ならず、竹内の持論からすればまさしく日本らしい「優等生文化」にのっとったものだとして一蹴されかねない代物である。けれども竹内の眼からすれば、加藤は中国文化と同様に敗北の事実を直視するものと見、その点を高く評価している。」

※竹内は目標点について「日本文学の国民的解放」という目的は「自明」の一致をしているとみる(p173)。

 

P180加藤の意見から…「明治以後の日本についていえることは、必ずしも徳川時代の日本についてはいえない、と思う。鎖国の日本には、外来の思想を次から次へと受けいれてゆく条件がなかった。明治維新以後の日本に、西洋思想との対決がなかったとしても、明治維新そのものは、西洋との対決を通じて決断を迫られた結果であったろう。そのかぎりで、辛亥革命明治維新との竹内流の対照は、私を充分に納得しない。」

※ここで菅原は林房雄のいう「遅れたもの」に対する進歩性が竹内の議論に接近しているとみる(p180)。

P181「既に竹内が言っているように、「ドレイの主人」は近代的原理を性急に学ぶことで自分がドレイであることを忘れるがゆえに、自分がドレイであることを自覚しているドレイよりも一層ドレイ的である。そういう「ドレイの主人」であるヨーロッパと日本が戦い、また加藤の言うように日本の明治維新に一定の評価が下されるならば、ドレイであることを自覚しつつアジアの解放を謳う日本は、ドレイであることを忘れたヨーロッパよりも「革命的」だということになる。他方で中国に対して侵略的な日本は、中国よりも自分がドレイであることを自覚していない点で、中国に比して「保守的」となるだろう。

 この考え方は前章で取り上げた林房雄の『大東亜戦争肯定論』から換骨奪胎して解釈した日朝関係にも通じるものである。その議論を改めて繰り返せば、日本は朝鮮半島に侵略した点で「保守的」であるものの、朝鮮の抵抗の意識を目覚めさせた点で「進歩的」であり、これに対し日本の侵略に抵抗する朝鮮はナショナリズムを国民に注入する点で「保守的」であるが、抵抗をバネに近代化に向かう点で「進歩的」である。

 なるほど二〇世紀前半に限定すれば日本の大陸侵略の要素が際立ち中国と朝鮮の被害者であることが目立つのだが、二一世紀の世界情勢まで念頭に置けば、このように加藤周一の主張を媒介にして、林房雄竹内好も議論を総合することで得られる世界史の進行の理解は、一方的にどこかの国を「保守」か「進歩」かのレッテル貼りを行わない優れた弁証法的なものであり、また今までの議論の経緯を考慮すれば、座談会「世界史的立場と日本」と「近代の超克」の間に高山岩男鈴木成高で交わされた世界史の構想に取って代わるものとして位置づけられるのではないか。」

大塚久雄の「近代」観に関する試論 その2

 大塚のレビューについては続けないつもりでいたものの、せめて著作集の内容くらいは触れておこうと思い、著作集10巻以降の内容も踏まえ、改めて大塚久雄の「近代」観について考察を行ってみる。

 前回、深草論文において大塚の議論の転換を70年代に見出せるという内容を紹介したが、改めてその転換について着目しながら大塚の思想についてどのように捉えるべきか検討したい。

 

 まず、このような転換についての議論は深草論文に限らないという話からまず森政稔の指摘を引用しよう。この引用では、大塚に限らずヴェーバー論者全体の傾向として転換について次のように指摘している。

 

「それに対して、一九六〇年代から目立ってきた解釈は、ヴェーバーのなかに近代批判のモメントを見出そうとする点で特徴的である。たしかに『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の末尾での「精神なき専門人」となる「最後の人間」のニーチェからの引用はよく知られていた。しかし、従来このようなウェーバーの悲観は、近代市民が堕落した大衆に当てはまるものであり、ウェーバーのメッセージは近代の原点に戻ることにあるというように読まれた。すなわち近代自体の価値を問題化するには及ばなかったのである。

 ニューレフト時代のウェーバー研究が、「近代主義ウェーバー」像に替えたものは、現代の「意味喪失状況」と格闘するウェーバーの姿だった(折原1969)。当時「鉄の檻」などと呼ばれた官僚制の冷たい規律に耐える現代人の運命をもたらしたのは近代の精神であって、近代と現代とが対立しているというよりも、現代を生み出した近代の精神そのもののなかに問題と責任がある。カルヴィニズムは労働の意味を問うことを「禁欲」し、隣人愛を神への忠誠を競う容赦のない競争に変えたのであり、近代主義的解釈が評価するような内面性が尊重されたのではない。このような近代への疑いこそ、ウェーバー自身の研究動機を支える契機だったのだ、とニューレフト時代のウェーバー研究者たちは指摘した。そして、さらにウェーバー近代主義者というよりむしろ、近代の限界を先駆的に捉えた点で、ニーチェにつながる思想家だと解釈替えされることがこの後は多くなった(山之内1997)。」(森政稔「戦後「社会科学」の思想」2020、p198-199)

 

 ここで押さえるべきは転換というのが60年代あったというのと、その転換が「近代志向から近代への懐疑」への転換として語られているという点を押さえておきたい。私自身の見解を述べれば、後者については大塚における転換についても同じであると考える。一方、前者に関しては70年代(※1)に転換があったと考える。ヴェーバー研究者がそうであったように、大塚についても近代の捉え方、そしてヴェーバー解釈が変化したと考えている。

 

〇「精神のない専門人」「化石的機械化」といった言説の転換について

 このことを実証するにあたり、まずヴェーバーの言説の中でもよく語られる「精神のない専門人」「化石的機械化」といった、センセーショナルな言葉を大塚がどう捉えたか比較してみたい。これらの内容について触れた5つの論文の引用し、それらの内容を見比べてみたい。最初の論文ほど古い記述である。

 

 ① 「マックス・ヴェーバーにおける資本主義の「精神」」(1964-65、元論文は1943-46)

「このようにして「資本主義の精神」は、近代に独自な経済体制としての資本主義――産業資本主義――の機構の成立を力づよく促進した。しかし、それは、ヴェーバーによれば、そうした資本主義の機構の確立とともに消失していく。というのは、確立された鉄のごとき機構自体が、みずから、諸個人に禁欲的生活を強制するのであって、その維持のための禁欲的「倫理」の支柱などもはや必要としなくなったからである。そして、「職業義務」の思想は、かつての「資本主義の精神」の単なる残滓として、そうした外枠にはめこまれたわれわれの生活の中を、ただ経廻りあるいている。このように記したのち、ヴェーバーは、本稿でわれわれが問題とした論文を、次のような印象的な言葉でもって結ぶのである。「将来この外枠の中に住むものが誰であるのか、そして、この巨大な発展がおわるとき、まったく新しい預言者たちが現れるのか、あるいはかつての思想や理想の力強い復活がおこるのか、それとも――そのどちらでもないなら――一種異常な尊大さをもって粉飾された機械的化石化がおこるのか、それはまだ誰にもわからない。云々」と。ヴェーバーの叙述のうち、主要な筋はたしかにここで終わってしまう。しかし、ただ一言だけ筆者の感想を追加することを許されるならば、ヴェーバーがすでに六〇年前に予測していた資本主義の機械的化石化の状態を突きぬけて、思想家によって指し示された新しい道が現実の経済的利害状況のうちにみごとに定着するならば、そのばあいには、「資本主義の精神」のうちに含まれていた「生産倫理」がふたたび目を覚まし、新たな装いのもとに、歴史の進歩の方向に沿って、人々の上に強烈な作用をおよぼすことになるのではあるまいか。また、そうあるべきであろう。」(「大塚久雄著作集第八巻」1969,p99-100)

 ② 「フランクリンと「資本主義の精神」」(1956)

「それでは、ヴェーバーは現在における「資本主義の精神」の亜流的末裔たちをいったいどう見ているのか。批判は舌端火を吐くほど痛烈である。彼はいう。預言者がおこって新しい道を指し示すこともなく、しかもそこに一種の病的な自己陶酔をもって粉飾された化石的機械化がおこるとすれば、次の語が真となるだろう。――「精神のない専門人、心情のない享楽人。これら無のものは、かつて達せられたことのない人間性の段階にまですでに登りつめた、と自惚れるのだ」と。読者たちは、こんどは、このフランクリンならぬ、ヴェーバーの論理をどう考えられるだろうか。」(同上、p128) 

 ③ 「忘れえぬ断章」(1962)

「――「精神のない専門人」。それぞれ専門化された特殊な仕事に従事しつつ、しかも自分の仕事が人類にとって、全体の運命にとって、どのような意味をもつかを全く知らず、また知ろうとする内的な要求ももたない人々、また「心情のない享楽人」。感覚的な刺戟を慰安としてやたらに追い求めながら、それが真の楽しさとして彼らの内面に到達することがないような、そうした美しさ、楽しさへの内的な感受性をどこかに置き忘れた人々。こうした「人間」の内面はからっぽであり、端的にいえば「無」である。しかも彼らはみずから、その生活がおそろしく充実しているように錯覚し、人間として歴史上かつてみないほどの高みにまで到達したというような、尊大な自惚れにおちいるのだ、と。

 私はいつもこの一節を読むごとに、その激しさに慄然とし、その鋭さにむしろなにがしかの抵抗をさえ感じる。なぜというに、いまから六〇年もまえに記されたこの一節が、あまりにも如実に第二次世界大戦後の世相を表現しているように思われるのである。精神を失って独走しようとする科学、販売のためにはモラルの頽廃をさえ意に介さぬ経済戦略、消費ブーム、スピード狂、数字のロマンティシズムなど、要するに豊富の中の堕落!

 私は、ヴェーバーのこうした「預言」の中に、事後的にあまりにも多くのものを読みこみすぎているかも知れない。が、それはともかく、このごろ盛んに使われる大衆社会現象という語の意味するところをと、ヴェーバーの述べているところと、どこまで相覆い、またどこで食いちがうのか、その道の専門の方々に、ぜひ御教示を乞いたいと思う。」(同上、p131)

 ④ 「もう一つの貧しさについて」(1978、元講演は1973)

「その「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」の末尾に近いあたりで、ヴェーバーはこういう意味のことを述べております。――この「資本主義の精神」は近代の資本主義文化を作りだした。が、それが到りつくであろう究極のところでは、いったいどういう現象が現われてくることになるだろうか。もしも預言による歴史の大きな方向転換がなく、大規模な復古運動も見られないままで推移していくとしたらーーという留保をつけた上でのことですがーーそこに最後に現われてくるのはこういう人々だろう。すなわち、「精神のない専門人、心情のない享楽人」がそれで、この人々は自分の内面がまったくのNichts、からっぽでありながら、しかも、自分では人間精神の最高段階にまで登りつめたなどと自惚れるようになる……だとすれば、近代の資本主義文化が行きつく果てには、「心の貧しさ」が大量的に作り出され、人々のあいだに広がっていくことになるだろう、そういうふうに、七十年もまえの今世紀の初めに彼はすでに予言していたということになります。」(「大塚久雄著作集第十三巻」1986、p68)

 

「このようにして、ヴェーバーは、近代の資本主義文化の行きつくところ社会全体の経営化、あるいは管理社会化が現われてき、その結果として、民衆のあいだには「精神のない専門人、心情のない享楽人」、そうした内面的窮乏ともいうべき様相が社会的規模において広がってくるにちがいない、と考えた。」(同上、p71)

 

⑤「社会科学における人間」(1977,元講演は1976-1977)

ヴェーバーの言っていること(※精神のない専門人、心情のない享楽人)は、いまになって見れば、まだまだ抽象的であり、やや的外れなところもありそうな気がします。しかし、いくら偉い人でも、神ならぬ身が七〇年も後のことについて具体的な、しかも、正確なイメージを作り上げるというようなことは、もちろん不可能でしょう。だから、抽象的なのは止むを得ませんが、しかし、抽象的であるにせよ、こういう予告をすでに与えていたということはまことに驚くべきことです。というのは、わが国だけについて見てさえも、一九六〇年以後あの高度経済成長期の激しい動きのなかで、社会的規模における精神的貧困の蔓延がついに問題となってきているからです。」(「大塚久雄著作集第十二巻」1986、p130) 

 

 さて、これら引用をあえて分けるのであれば、①、②と③、④と⑤の3種類に分けるべきであると思う(※6)。

 最初の引用は一応60年代のものであるようだが、元論文は40年代のものであり、主張が過激、かつ「近代の人間的基礎」のような強い近代志向が存在していることが明らかである。大塚が敢えて付け加えた「機械的化石化」のあとの話については、当時の大塚にとっては適切な「資本主義の精神」を身につけていれば当然語ることに正統性があるとの確信のもと書かれているに違いない。重要なのは近代原理として析出した「資本主義の精神」というのは、機械的化石化などとは異なるエートスであり、それを克服する原理として提示されている点である。

 次に②と③であるが、若干の含みをもった言い方となっている。ヴェーバーは確かに預言者的に痛烈に現状を批判しているように思える。そして大塚はその判断を各々の読者・専門家に判断を仰ぎたいとする。しかし一方で大塚自身はこの預言に対し「その鋭さにむしろなにがしかの抵抗をさえ感じる」と意見している。これは①のような問題意識を60年代においてはまだ強く意識していたと感じていたと考えるのが自然である。現状批判と理想形としての資本主義の精神は別物だという前提にあるからである。

 最後に④と⑤である。これも一見すると②や③と同じような含みはある。しかしその含みはかつての「ヴェーバーの主張は、事実に反する『可能性』がありえる」というスタンスではなく、むしろそれは正しい預言であるものの、若干の不十分さとして語られているといえる。同時に強調されているのは、その当時の時代状況があまりにもヴェーバーの言っていることと一致していることについてである。これが前回も指摘した「資本主義の精神」と連続した形で現在が語られる、一元的近代観と容易に結びついた大塚の言説につながっているといえる。そして、このヴェーバー言説に対抗することがあたりまえであった40年代の大塚の姿は見当たらないと読める。

 

〇70年代の「禁欲」、ないし「合理主義」の否定について

 もう一点、大塚の言説で注目せねばならないのは「禁欲」及び「合理主義」に対する価値観についての変化である。前回も指摘したように、「資本主義の精神」を大塚が擁護することの本質はその「禁欲」という性質にあり、なおかつそれは否定の否定としてなされる「止揚」によって発揮させられるべきであることを、40年代にはあからさまに強調していた。これも60年代まではやはり同じ認識を持ち、「禁欲」であることについての重要性を説いていた。

 

「ところで、戦後はどうか。いわゆり百八十度の転換によって俄かに神聖視されはじめた「自由」の思想は、伝統主義的な旧体制の束縛から民衆を解放したという一面の正しさにもかかわらず、このばあい、あたかもルネサンス思想と同じように、伝統主義的束縛とともに禁欲一般を断罪し、湯水とともに赤子を流しきった嫌いがないではない。私は終戦直後このことを強く感じていたのだが、その感じはいまでは強まるばかりである。そこへいわゆる経済の高度成長とともに、レジャーとか、バカンスとかのよび声に支えられて、シニカルで反禁欲的な享楽的消費の高揚が出現した。ただ、保守の側では伝統主義への郷愁に支えられてある種の禁欲を復興しようとする動きがみられなくはないし、また新興宗教のなかにも別種の、これはかなり強烈な禁欲運動の前進がみられるほかは、保守の側でも、革新の側でも、右でも、左でも、いまや禁欲はいたるところ、いちじるしく姿をひそめるにいたったという感じが強い。こうした現状は、おそらく大衆社会現象とひろくよばれているものなのであろう。

 さて、私はおそれるのだが、こうした人間的状況のもとで、もしある種の反時代的な非合理的な社会的内実を目ざす禁欲運動――日本では宗教的外装を伴ってくる可能性がある――が出現したとするならば、ばあいによっては、それは、無人の野をゆく勢で伸びひろがる可能性もあることは明らかだ、といわねばならない。そこで、こうした動きに対して対応する態度をとろうとするのならば、そしてまた、現在のこうした人間的状況が自由を禁欲一般と抽象的に対立させた思想動向の帰結だとするならば、いまや自由をふたたび禁欲にむすびつけるような思想的立場こそ、今日もっとも緊要なものといえるのではあるまいか。」(「著作集第八巻」1969、p577、論文は1963年のもの)

 

 70年代に入っても「資本主義の精神」の重要性については、伝統主義との対比において、その「合理性」を評価し続けている。

 

「ところで、このような伝統主義とちがって、イギリスやアメリカ合衆国で労働者たちの行動様式を内面から支え、歴史上合理的経営の一般的成立を促すという作用方向をもったエートスを、ヴェーバーはひとまず「合理主義」とよびます。合理主義のばあいには、顔を将来に向けて行動の基準を探し求める。顔は伝統主義のように過去の方を向いてはいない。いつでも将来になんらかの理想をもち、その理想に照らして行動の目標を設定する。そして、それを達成するためには何をなすべきか、というふうに考える。そのために良ければ伝統的なものでも採用するでしょうし、そのために良くなければそうした伝統的なものはどしどし捨てさるでしょう。こういうのが、簡単にいってしまえば、合理的なエートスで、ヴェーバーの表現をかりると、思考の集中能力と冷静な克己心、労働を義務とするひたむきな態度、しかもしばしばそれと結びついて、賃金の額を勘定する経済的合理主義という姿をとって現われている、ということになるわけです。」(「著作集第十一巻」p299、論文は1972年のもの)

 

 また、同時に「低開発国」に限った話をしているものの、現在においても「資本主義の精神」の重要性があることについて、1972年の段階ではまだ強調されていた。

 

「が、とにかく、低開発国問題を考える場合にヴェーバーのこの論文が重要な示唆をあたえるという考え方に私が大賛成であり、またアイゼンシュタット教授の見解を高く評価する、そうしたことの意味もお分かりいただけたかと思います。同時にまた、ヴェーバー論文をいっそう正確に理解するための努力はまだまだ続けられねばならぬ、と私が考えることの意味もお分かりいただけたかと思います。「資本主義の精神」の持主は企業家ないし資本家だけだとか、「資本主義の精神」は営利慾ないしは「最大限の利潤を追求しようとする志向」だとか、ヴェーバーがそんなふうに考えていたというような誤解をきっぱり捨ててしまわないかぎり、低開発国問題にとってヴェーバー論文は真に有用なものとはなりえないのではないか。」(「著作集十二巻」p205、論文は1972年のもの)

 

 しかし、このような態度は70年代に入り大塚の主張には積極的に見いだせなくなってくる。次の論文は1972年に国際基督教大学のチァペルアワーにおける講演をもとにしたもので、「科学」という言葉の説明に注目する。「科学」という言葉自体がかつての大塚の言説とはあまり関連性を見いだせない言葉であることにも注目したいが、やはり重要なのは「科学」の語られ方である。

 

「それでは、科学はどうして最近にいたってそうしたマイナスの面をつぎつぎに露呈することになってきたのでしょうか。考えてみると、その由って来るところはやはり科学の営み自体の根本的な性質のなかにひそんでいるように思われます。」(「著作集第十三巻」1986、p52、元論文は1979年で1972年の講演を書き改めたもの)

 

 さて、ここでいう科学の営みの根本的な性質とは何か。これを大塚はやはりヴェーバーの「資本主義の精神」とほとんど同じ論法で語る。

 

「それでは、歴史上こうした「世界の呪術からの解放」の過程を推しすすめていった原動力は、いったい、どこから来たのでしょうか。科学そのものの中から来たのでしょうか。もう少し言いかえてみますと、科学者を内面から支えているそうした根本的な態度(エートス)は、そもそもはじめから科学の営みそのものの中にはらまれていたものなのでしょうか。もし、そのように楽観的に考えることができるとしますと、この幾年かこのかた喧しく論じられてきている「科学の倫理」――その中にはもちろん社会科学のばあいも含めるべきだと私は思いますーーといったことは何の意味をもち、また、何の必要があってそうしたことを改めて論じなければならないのでしょうか。」(同上、p49-50)

 

 確かに、ここではそのエートスの問題を「資本主義の精神」という言葉を用いて大塚は語っていない。しかし、「近代の人間的基礎」においては「世界の呪術からの解放」が強く協調された形で民主主義的原理として「資本主義の精神」と同じエートスを取り出し、生産性の議論とも重ねながら議論していたことを考えると、この「科学」の言説も全く同じように語られているようにしか私には思えないのである。

 そして、更に注目したのは、先述した合理主義の議論に関連して、「形式合理性」の議論を強調して語っている点である。

 

「ところで、そういう文化状況(※精神的に一面の沙漠と化してしまった、バベルの塔の混乱のような文化状況)から科学は人々を救い出すことができるでしょうか。もう諸君もある程度気づいてきているように、まあ不可能というほかはないと思います。その理由としては、さしあたって、こういうことがあります。科学――もちろん社会科学を含めて――は、正確には、経験科学と言われるように、その関心の対象を現世内のことがらだけに限ります。宗教が関心を示す彼岸のことがらなどには目もくれないでしょう。そのうえ、すでに話したように、こういう根本的な性質があります。科学は形式合理的な思考によって対象をつかもうとする。つまり、対象の帯びているさまざまな価値や意味にはまったく興味を示さず、むしろそれを惜しげもなく切り捨て、あるいは括弧に入れた上で、そうしたいわばまる裸かにされた対象を数理的にとらえようとします。」(同上、p54-55)

 

 ここでは、「形式合理的」という言葉を用いて、現状の問題を語っているが、そこで語られる近代観は極めて一元的である。先述した1972年の論文(「著作集第十一巻」p299の引用)では、未だ「合理主義」というざっくりした分類の中にとどまっていた表現であったものと考えられる。言い換えれば、「合理主義」という言葉については、かつては大塚にとって肯定的価値観の典型であったものであった訳だが、これを「形式合理性」の議論として整理し直し、否定的価値観の強い論調で批判を加えているのである(※2)。これは控えめに言っても「後だしジャンケン」の状況であり、なぜそれまで大塚がこの議論を展開しなかったのか、ということは強く問われなければならないだろう。

 また、合わせて注目すべきは、この時期の大塚の言説で時折みかけるこの「バベルの塔」という言葉で、この言葉は「「甘え」と社会科学」(1976)でも登場した「合法性のぐるぐる回り」という表現と同じ意味であると考えて問題ないだろう。大塚にとってそれは「不可能なもの」である以上に、「不毛なもの」のメタファーという意味合いが強い。繰り返すが、かつての大塚はこのようなものを決して「不毛なもの」と考えてはいなかった。「資本主義の精神」というのは、そのような「不毛なもの」さえも転換させうるようなエートスであり、その意義を強調していたのであった。

 

〇なぜ大塚は「資本主義の精神」を捨てたのか?

 さて、この大塚の議論の転換の理由についてはやはり検討しなければならないだろう。いくつか仮説を挙げてみたい。

 

仮説1:「禁欲」の言説が支配の原理に絡めとられてしまうから

 特に大塚が強調していた「禁欲」原理については、すでに戦中の事例で明らかなように、容易に支配の原理に(為政者にとって都合のいい内容として)絡めとられかねないものである。大塚がこのことを強く自覚し、自らの主張をひっこめた可能性はありえるが、これは少なくとも主たる理由とは言えない。大塚の議論の転換は70年代に入ってからのものだが、このような意識は以前から大塚が持っていたものと考えられるからである。先に引用した1963年の論考では、「保守の側では伝統主義への郷愁に支えられてある種の禁欲を復興しようとする動きがみられなくはないし、また新興宗教のなかにも別種の、これはかなり強烈な禁欲運動の前進がみられる」と語っていたように(「著作集第八巻」p577)、恣意的にこの「禁欲」原理が語られることに対してはかつてから問題視していたのである。

 

仮説2:「生産性の向上」という原理そのものへの疑問

 大塚における「資本主義の精神」において顕著であったのは「生産性」との結びつきであった。つまり、それが営利慾に留まらず合理的な生産性の向上に寄与するエートスであったことが欧米の資本主義発展にとって決定的であったという歴史観を大塚は持っており、その高い生産性の達成のため、このエートスの獲得を日本人にも要求したのであった。

 しかし、70年代になって近代固有の問題としてさかんに語られるようになった環境問題、南北問題といったものはこの「生産性」原理に真っ向から対立するのではないのか、という議論が、少なくとも俗流の近代批判にはあったと言ってよい。大塚もそのような態度をとっていたも不思議ではない、という見方をした場合でに出てくる仮説である。

 ただ、この批判自体が「形式合理的」になった近代の帰結であって、それは近代の必然的帰結ではなく、「資本主義の精神」に立ち返るという選択肢も決してない訳ではないように思える。特にこの「資本主義の精神」は隣人愛(もっとも、これは戦中の滅私的な思想の延長上にあるものにすぎないという風にも読むことができるのだが)に根ざしたものであることを70年代後半の大塚は強調しており、そのような態度から、平等な生産性の向上、富の分配といったものも「合理的選択」として提示できたのではないのかと思う。特に大塚の場合、環境問題に対する言及をほとんど見かけず、南北問題への言及が中心であるため、なおのことその可能性には開かれているのではないかとも思う(※7)。

 しかし、実際の大塚の選択肢は「合理性の徹底」ではなく、「宗教への回帰」であった。これはすでに「「甘え」と社会科学」でも漠然とした内容で語られていたが、別の論考では次のように宗教性の必要について強調される。

「しかし、こうした非合理主義は、さきに言ったレジャーのばあいと同じように、一時の麻酔的な気ばらしのほかは、結局無効果に終わるのではないかと思います。いや、それどころか、長い歴史的道程のなかで科学が確実なものにしてきた「世界の呪術からの解放」の巨大な成果を、逆に掘り崩していくということになるでしょう。現代文化のバベル的混乱を救うといった仕事は、われわれはどうしても、それを宗教らしい宗教に期待するより他はない。私はそう考えます。ただしそれは、そうした宗教が自己のいままでの足跡を十分に反省する、といったことを前提しておりますけれども。」(「著作集第十三巻」、p57)

「究極の価値から切りはなされ、意味を喪失してしまったこの世界の諸現象に再び豊かな意味をあて、現代文化のバベルの塔のような混乱から人々を救いだす、そうした大事業のために、キリスト教はいま、近代科学の力の限界をのりこえて、乗り出すべき時が来ているのではないでしょうか。キリスト教はその実績からみて、十分にその底力をもっていると信じるからです。ただ、キリスト教以外の諸宗教についてはいまはその点に関して何事も申さないことにしておきます。というのは、そういう諸宗教の信仰に主体的に参入するような体験を私はまったくもっていないからです。が、しかし、お互いに敬意をもって同じ目的のために協力すべきであろうと思っております。」(同上、p57) 

 

仮説3:「止揚」の存在そのものの否定

 もっとも上記の議論に合わせて押さえておかねばならないのは、大塚が期待する「宗教性」においても、ほとんどそれが極めて困難、ないし先述の引用の通り「不可能」なこととして捉えられていることである。このような態度も大塚自身の考え方の中では重大な変更であるといえる。かつての大塚は戦中に顕著であったように、「止揚」にこそ価値を見出していた。それは「資本主義の精神」を支える「禁欲」というエートスの中に当然のごとく含まれていないといけない価値観であった。しかし、このような止揚の発想というもの自体が「不可能」なものであることと同義であると70年代に入り大塚が「正しく(私にとっては、という留保を一応つけておくが)」認識した可能性は大いにありえると思う。思うに止揚の発想はマルクス主義的な論者においても基本的態度の一つとして共通した認識があったわけであるが、70年代はこの「止揚」の発想を解体させるような認識が一般的な意味でなされていった時期であると思う。大塚もこの例外に漏れずその認識を行い、「止揚」の発想に支えられていた「資本主義の精神」の重要性を語らなくなったという可能性が極めて高いと私には思えるのである。

 

〇大塚の近代観は本当に「一元的」なのか?

 この試論の最後に、この問いにはある程度答えておかねばならないだろう。70年代後半の大塚の近代観は極めて一元的であり、「資本主義の精神」のエートスに支えられた多様な近代の発展の可能性すら否定してしまうものであったということをこれまで確認してきた。ただし、大塚自身が決して一元的であることを認めていたわけではなく、大塚の言説自体がそのようにしか読めなくなった、という意味合いにおいてそのように私がみなしてきたものであった。

 このような「一元化」の理由は、明らかに多元性を確保する理由付けとなっていたはずの「資本主義の精神」の重要性を大塚自身が捨ててしまったことに起因することが大きいのは確かであるが、だからといって「一元化」の可能性に閉ざされる筋合いは私はないと考える。そもそも大塚の議論においてこれが一元化してしまったのは、近代の帰結というのが一元的にしか、つまり「精神のない専門人」の世界、ないし「世界の意味喪失」(著作集第十三巻、p26)が不可避的であるとしか強調しなかったことに由来するが、そもそも「当時の先進国社会が文化的に(無という意味で)同一的であったのか」という問いを改めて考えれば、NOと呼びうるエビデンスは山のようにある。その典型は私が過去に検討した70年代後半の日本における「競争と選抜」の言説において、その日本的経営論の中であまりにも豊富に語られていた「日本的文化」に根ざした議論の中に見出すことができる。結局大塚は私の言い方であれば「社会問題に毒された」論者の一人に過ぎず、実態を冷静に捉えることに欠けていた、という批判は十分に成立するように思う。特に、彼の主張が「文化の『無』」にあったこと、そして合理性の徹底化を非難する態度にあった点に対しては、そもそも当時の諸先進国で本当にそこまで徹底していた、という疑問として提起できるだろう(※3)。結局、大塚はヴェーバーの議論を借り、イギリスやアメリカにおける「資本主義の精神」に支えられた議論を逆さにして、当然のごとくその発想(エートスそのものではなく、合理的な態度)がヨーロッパ先進国、ないし日本にも波及したものと考えたが、その波及の度合いというのは、全く大塚の中で検討されているものではなく、むしろ教条主義的な立場からこれを示しているにすぎないのである(※4)。

 

 確かに大塚は表向きには多元的な発展の可能性は当然ありうるものと考えていたはずである。しかし、そのような近代の可能性についての議論については棚に上げてしまい、ある意味でヴェーバー研究者としての態度に固執してしまったことで、ヴェーバーからしか「近代」をみることができなかったから、多元的な近代の実態を擁護する立場、ないしは語れる立場になかった、というのは、最上級の大塚の擁護理由となるだろう。しかし、そのような立場にしかいられないのであれば、研究者として立場を弁える態度をもってよかったのではなかろうか。大塚自身の影響力を考えれば、そう言わざるを得ないように思う。例えば、「著作集十三巻」で「形式合理性の強調」「宗教への期待」という語りがなされたのは、チャペルアワーでの講演という、半ば宗教的な意味でも私的領域と呼びうる場における大塚の語りをその場のもので終わらせるのであればまだよかったのかもしれない。しかし大塚は自らの著作集の中に堂々とそれを提示し後世に問う態度を表明した時点で、これについても擁護できない。そのような態度はこれに限らず、40年代言説の反復を60年代にも繰り返すことによる大塚の議論の全体的な混乱(「人間の近代的基礎」であった「近代の啓蒙」と、60年代の「近代の啓蒙」の否定という自己矛盾)にも言えるものである(※5)。

 

 

※1 もし厳密な意味での区別を行うのであれば、管見の限りでは1972年において転換していたと考えられる。今回引用した文献において、1972年については、転換前後の言説が混在しているが、それ以前、以後についてはそのような混在が確認できなかった。

 

※2 別の論文では、次のように形式合理性の批判を行っている。もっともここで語られる解決策についても、かつての「資本主義の精神」との議論とは結びつけて議論している訳ではない。

「近代合理主義を批判する人々が問題としているのは、実は、この独走する、「鉄の檻」と化した形式合理性の文化、そうした姿における合理主義に他ならない。さきにも言ったことだが、それに対して抽象的に非合理主義一般を対立させ、ただ拒否的な態度に終始するだけではとうてい根本的な批判とはなりえないだろう。そうではなくて、新しい、別種の実質合理性の原理――それは形式合理性の立場からすれば非合理性の原理と見えるだろうーーを対立させ、それによって、形式合理性文化の根底的な非合理性を白日の下に曝すことこそが必要なのではなかろうか。」(「著作集第十二巻」p414、論文は1976年のもの)

 

※3 ただし、このような視点が70年代に蔓延していた点について軽視されるべき論点ではない。日本人論的なコンテクストで言えば、70年代という時期に限れば、普遍的な文化の否定性と特殊日本的な状況が並行的に語られる時代であったし、土居健郎のような態度はそれらを矛盾しながらもミックスしたものであったからである。このような並行的議論の意味合いについては更に深く考察されねばならないだろうし、今後もレビューとして進めていきたい。

                            

※4 もっとも、大塚自身はほぼ間違いなく「私は資本主義の精神の重要性を捨てた訳ではない。それはやはり歴史的な意味で重要なものであったし、今なおその重要性は消えない」と反論したことだろう。ヴェーバーが語った「資本主義の精神」の重要性は、それが正しいものと証明したい一心からそのような態度をとる、という訳ではないだろうが、ある意味で70年代における大塚の言説は決して一元的価値観によるものとは言い難い。それは「宗教による救い」に求める態度においてもそれが「キリスト教」以外によってなされることを否定するものではないことなどからそう言えるだろう。

 しかし、問題なのは大塚このような用語をする際に想定される「絶対性」(「資本主義の精神」は重要であるという問題)の議論ではなく、「相対性」(「資本主義の精神」は現在においてどのような影響を与えているか)の観点からの議論なのである。大塚は「資本主義の精神」の価値の擁護をする以上に、確固とした歴史観をもって現在の社会(先進国全般)に批判を加える中で、多元的発展観の関する可能性を一元的なものとして還元(=相対的なものとして無意味化)してしまっていることが問題なのである。

 

※5 だめ押しでもう一点この大塚がとった相対的な「単一的発展観」に関する問題を挙げておこう。前回も大塚は所々で自身の主張を擁護し、自らの主張は欧米に見られる「単一的発展観」の押し付けではないことを強調してきた。しかしこの70年代に入ってからの態度変更というのは、この「単一的発展観」の押し付けを行っているという批判をかえって強化する結果になってしまったと見るべきである。引用についても反復の意味も込めて取り上げておこう。

 

「ところが、それを批判するさいの価値基準を多くの人々は、われわれが近代のヨーロッパ、たとえばイギリス、フランス、そしてアメリカ合衆国なんかの近代社会の状態を典型と考え、そして日本の中にあるそういうものと違った点を洗いざらしにし、それを取り出してきて断罪した、ヨーロッパ文化を典型と考えて日本文化を批判した、というふうに取ったわけです。そんなことを言っているのではなかったのですが、そう取られました。もう少し具体的に申しますと、そうした批判はマルクス主義の歴史家、あるいは思想家の側からでてきたのでした。……それに対して、私なんかはこう考えていたのです。たしかに資本主義経済は発達しており、ある意味で近代と言わねばならない面も含んでいる。そういう面が確かに明治以後の日本文化の中にあるにしても、日本文化全体をとってみると、はたして第二次大戦終了直後のまだ農地改革の行なわれていないころ、それはまるごと近代化していたと言えるかどうか。あるいは、資本主義経済は発達していても、近代社会といいますか、このごろよく使われる語ですと、市民社会という面からみますと、私にはどうしても日本文化、日本の社会は、ヨーロッパのような意味での資本主義文化、あるいは市民社会になっていたとはとうてい考えられなかった。……ともかく、われわれにはこれからなすべき事柄がまだ多く残っている。それをわれわれは課題としての近代化と考えたわけです。」(「著作集第十一巻」1986、p111、論文は1968年のもの)

 ここで大塚批判の論者はヨーロッパ(正しくはイギリス・アメリカ)の近代が理想と考え、日本文化を批判したと考えたとある。これ自体は「近代の人間的基礎」を見れば明らかに正しいものであることを前回確認した。もっとも、これに若干の擁護を行いうるのが、「資本主義の精神」というエートスの必要性を強調をあくまで大塚は行ったのであって、欧米文化そのものを模倣せよとした訳ではないから、そこから発生する近代化の型というのは多様でありうることを許容していたということこそ本旨だ、という主張もまた正しい。結局ここで論点がズレる可能性は2つある。一つは①日本文化の批判を行ったかどうか、もう一つは②欧米化を大塚は強要したかどうか、である。①については大塚が「近代の人間的基礎」において批判を行っていたと解釈するしかない。しかし、②については、その強要の性質については争う余地があるということであった。

 ところが、70年代の大塚の主張は②の主張さえその争いを無に帰してしまうのである。「資本主義の精神」を捨てた大塚は単一的発展観を前提にして現状を批判してしまった。本来であればこの批判にこそ多様性を与えなければならなかったにも関わらず、大塚はそれを資本主義社会における先進国の共通の問題の帰結とみなしてしまったのである。ここに更に大塚の議論を混乱させる要素が生まれてしまったのであった。

 

(2021年3月10日追記)

※6 もう一箇所、「精神のない専門人」に関する引用を行った論文が著作集にあったので紹介したい。「大塚久雄著作集 第九巻」(1969)所収の「現代における社会科学の展望」(1967)の内容である。プロ倫の該当部分を引用の上、次のように続ける。

 

「いうまでもなく、これは一九〇四、五年頃、つまり資本主義の精神の生き生きとした息吹の残存が、なおあちこちに強く感じられていたときに記された言葉です。こうしたヴェーバーの言葉は現在いうところの大衆社会現象をすでに半世紀もまえに予見していたと言えないこともありますまい。が、それはともかくとして、私がここで問題にしたいのは、こういうことなのです。——近代の資本主義文化のつくりあげた「専門化」の傾向は、それが極まるところ、ついに精神の抜けおちた「専門人」を生みだしていることになる。……もちろん、そこには、預言者が現われてきて世界史に大きな方向転換の道を指し示すことがなければ、という限定がついていますけれども、ともかく、ここでは、ヴェーバーは「専門人」と「専門化」の将来に対して、暗い疑惑を投げかけて、その限界を歴史的に画し切ろうとしているのです。そうした厳しい姿勢がうかがわれるわけです。」(「大塚久雄著作集 第九巻」1969、p181)

 

 この引用について大塚は「専門としての職業人」における専門性の議論と対照的であると指摘し、専門人に対する明るい見通しと暗い見通しの格差の議論を考察する。これがほとんどこの論文の中心となる。そこで大塚はこの「専門性」について、「理論的専門化」と「実践的専門化」という言葉を区別し、この「精神のない専門人」の議論は「実践的専門化」のなれのはてだとする(同上、p187)。「実践的専門化」とは一言でいえば「生活の現実のなかで人々に解決を迫ってくるようなある具体的な問題をとり上」げ、「それをいかに解決するかという課題を設定」するものである(同上、p184)。一方、「理論的専門化」とは「文化的諸領域のそれぞれに成立する独自な法則を純粋に理論的につかまえて、その独自な法則をそれぞれについて一般的な形に定式化していこうとする営みがある」とする(同上、p184)。その上で、このプロ倫の引用について次のように整理する。

 

「経済学のばあいなら、経済のことがら自体にはなんらの顧慮もあたえないで、ただ、すでにできあがっている理論体系をもってき、それを理論的にまちがいないものへと整理していくというような、よくない意味での神学みたいな仕事だけをやっていましたら、社会科学はいっこうに進歩しないだろう。それどころか、そういうことばかりやっていると、そもそもことがらそれ自体をよく知らないために、いつしか、すべての現象が理論から演繹されて出てくるかのように思い誤る、そういう倒錯した学問になってしまうだろう。ヴェーバーふうにいえば、まさしく精神のない専門人ですね。そういうのではなくて、ある具体的な課題を現実のなかからとりだして、問題を設定し、それを解決しようという角度から学問的にアプロウチする。そういう実践的専門家の方向に立っている研究と、直接あるいは間接に関連を保ちながら、そこから生じてくる必要をいわば牽引力として、理論的研究の方向に専門化していく。理論研究は、まさしく、こうしたやり方によってのみ進歩してきた、これが現在までの歴史的事実だ、とヴェーバーは主張いているのです。そう言ってよいだろうと思います。(同上、p190)

 

 ここでの大塚の「精神のない専門人」の言説は統一感がないように見える。P187の部分においては、どちらかといえば「目先の問題にだけこだわる」者についてこの言葉を用い、p190の部分においては、「理論が万能である」ことを奢る者に対してこの言葉を用いている。実際、大塚は「二つの専門化がたがいに離ればなれになって、「精神のない」ものと化するような可能性を見てとったときに、「専門化」の将来に暗い見通しをもったのだ」と結論付けている(同上、p190)。

 70年代の大塚の言説と比較した場合に、ここで何よりも重要なのは、大塚はかの「資本主義の精神」のエートスの議論の重要性を失っていない、言い換えれば「生産性」原理を否定していないという点である。むしろ、このような注釈を細かく加えることで「近代」原理としての専門性について必死に擁護する態度が60年代までの大塚にははっきり見てとれる。ところが、70年代にはこのような擁護はほとんど影を潜め、むしろヴェーバーの言う通り「預言者の到来」の方に期待するかのような大塚の態度の方が前面に出てくるのである。

 

(2021年3月12日追記)

※7 実際、1948年の論文「宗教改革と近代社会」において大塚は次のように禁欲的プロテスタンティズムの性質を説明する。

 

「第二に、「良心」的人間類型の創造は、さきに指摘した「魔術からの解放」によって、民衆に、人間的な権威や伝統をいささかも恐れることなく批判的でありうる「合理性」を賦与した。そして、それは民衆のうちに、一方において近代的徳性の女王である「公平」の精神を生みおとすとともに、他方において合理的な思惟能力を、科学精神の温床を深くも培ったのである。……ただ禁欲的プロテスタンティズムは、右のように勤労民衆のうちに合理的思惟能力を造り出すことによって、科学を民衆のための民衆のもの、したがって社会全体の共有財産にまで高め、その結果として近代におけるあの顕著な科学の進展のための精神的推進力ともなったのである。」(「大塚久雄著作集 第八巻」1969,p417)

 

 ここには、生産力の向上というものについて、一部の人間に独占させるのではなく、広く大衆に広めることもまた、禁欲的プロテスタンティズムエートスであったことが示される。なぜこのような原理が南北問題の解決策の可能性として大塚は暗に否定してしまったのだろうか。大塚の弁明からは宗教的価値観があまりにも多様であり、このような「合理性」を与えるエートスが介在する余地が残っていないという読み方も不可能ではない。しかし、そのような解釈が正しいのかという疑問符も与えられるべきではななかろうか。何より大塚の態度は「南」だけでなく、「北」の問題に対してもこの原理を適用することを放棄したのであるから。

「主体動員論批判」について―中野敏男「大塚久雄と丸山真男」再訪

 前回、中野敏男に触れた。中野の著書は私のこの読書記録帳の1冊目のレビューで、当時課題についても提示していたこともあったので、このタイミングで私の回答を行っておきたいと思う。

 

 中野の著書は、「ボランティア動員論」に対する批判を、その背景にある戦後民主主義思想との関連性について触れながら行っていた。大塚久雄が「近代の人間的基礎」で行っていた「資本主義への精神」の模倣の強要、更には戦中における「責任」の強調というのは、端的にいって主体(我々個々の日本人)への「啓蒙」に他ならない。その「啓蒙」を行う大塚は一つの「主体」を形成するための言説をヴェーバーの議論に見出し、それを繰り返し主張した。これは大塚に限らず、市民社会論者一般に言える話(私がレビューした松下圭一も)であり、それは確かに「ボランティア動員論」にも結び付いているのかもしれない。

 

「ここに至って、「ボランティア」と「人間の主体性」の限定なき価値評価は、歴史的な欺瞞と罪過に転化する。さらに重要なことは、その同一の自発性の思想が、特に反省されることなく戦後に引き継がれて「近代的人間類型の創出」という主張に再生し、戦後啓蒙をリードする市民社会派の思想的な中核を形成したということである。だから、本当に幾重にも重ねて問題を残し反省しなければならないのは、むしろ戦後の方なのだ。さればこそ、ボランティア活動の高まりに市民社会の可能性を再発見する今日の主張にも、そのような系譜に連なる思想がなお残留しているのではないかと、わたしは疑っているし、またもしそれが当たっているなら問題は重大だと思うのである。大塚久雄から平田清明を経て理論的系譜がつながっている今日の市民社会論者に、そのような反省はあるのだろうか。」(中野1999=2014、p261-262)

 

 しかし、他方で中野はボランティア動員論そのものが問題であるという認識でおり、その点について9年前の私は疑問符を付けた。次のような主張は「ボランティアが大事である」というすべての言説(主張)について否定的な態度をとっているという風に読まざるをえないだろう。

 

「以上のように見てくると、「ボランティアという生き方」の推奨が、現状とは別様なあり方を求めて行動しようとする諸個人を捉えて、その行動を現状の社会システムに適合的なように水路づける方策として、あまりにぴったりであることに驚かされよう。

 何よりも重要なことは、ボランティア活動においては、諸個人は、まず「何かをしたい」とだけ意志する「主体=自発性」として承認されることだ。これにより、現状において別様でもありうると「自由の可能性」を知覚しつつあった個人は、現状を離れて抽象的に意志する「ボランティア主体」になるのである。おそらく、ここが決定的な岐路なのだ。というのも、「個人化のポテンシャル」の中で「自由の可能性」と認められうるのは、現状の中にある権力関係の交錯そのものが、諸個人に「別様でもありうる」という可能性を知覚させ、現状への反省を促すという意味で、自省的―再帰的な〈選択の自由〉の可能性であったはずである。それなのにここに成立しているのは、自省性―再帰性ではなく、抽象的に「何かをしたい」と意志する単なる「主体=自発性」にすぎないからである。

 そこで、この抽象的にすぎぬ主体=自発性には、選択されるべき「内容」があとから与えられることになる。かくてこうなる。このボランティア活動の内容があなたの「意志」であるのは、抽象的な主体=自発性であったあなたが、与えられた内容を「折良く出会ったもの」として選択し、それをあなたのものとして「意志」したからである。……

  要するに、「ボランティアという生き方」の称揚とは、このように抽象的な「ボランティア主体」への動員のことであり、この主体=自発性は、抽象的であるがゆえにかえって、「公益性」をリードする支配的な言説状況にどうしても親和的にならざるをえない仕掛けになっているのであった。」(同上、p280-281)

 

 ここでのポイントは、最後の「「公益性」をリードする支配的な言説状況にどうしても親和的にならざるをえない」という部分が問題なのか、という点である。

 先に中野の結論を紹介しておくならば、結局中野は「肯定的」な言説、つまり「この行為はこういう点がよいから、そのように行為すべきである」とする全ての言説というのは「主体」形成に関する議論として適切ではなく、それは常に「主体」の「分裂=脱構築」をしなければならないものだとする。

 

「「主体が問われる」というのは、実はそういうことなのだ。すなわちここでは、「自己同一的な主体」として/となって責任を負うというのではなく、むしろ、責任を果すプロセスにおいて自らの「主体」に内在する暴力の痕跡を解体するということ、言い換えると、主体の確立がではなく主体の分裂=脱構築が問われているということなのである。」(同上、p294)

 

 これは確かに一理ある主張のように見えるが、まず押さえるべきは中野の主張は真の意味で「脱構築」されている訳ではない点で問題だということである。次の主張は最もらしいが、中野の言う「真の主体論」からすると、非常に問題がある主張である。

 

「ところが、「責任を果たす」ということを、実際にその責任を問う具体的な「他者」への応答として考えると、それは自己同定の営みなのではなく、むしろ逆にそれがまた自己分裂の営みでなければならないと分かってくる。すなわち、「日本人としての責任」を承認しそれを果たすということは、「わたし」にとって、不可避に自己分裂的な葛藤を抱え込みそれを切り開いていくプロセスとなるのである。その出発点は、他者の声を聞くという基本的に受動的な体験である。被害の声がわたしに届くという仕方で、あるいは「突きつけられる」という仕方で、さもなくば見ないで済ませていたかも知れぬわたしが、過去の暴力や憎悪の存在を知るということである。」(同上、p296)

 

 問題はここでいう「他者」とは「何(『誰』という表現は正しくない)」なのかということである。ここでの議論は暗黙の前提として「日本人としての責任は、「日本人たれ!」という命令による主体形成では果たせない」という主張がなされている。つまり、「他者」とは「日本人ではないもの」から発せられる声であり、それは積極的に「日本人であること」を主体化することに対して「脱構築」せんとする主体化である。そのような議論こそ正しいのだと中野は言っているのである。

 この議論の誤りは、「真の主体化=主体の脱構築」が真理かどうかという議論が、「反主体」化せんとする「他者」とは全く関係ないということである。主体の脱構築はどこまでも主体の脱構築であるべきであり、結局中野が言う「他者」の声に対しても脱構築されるべき(つまり、それを「肯定」して聞き入れるべきではない)のは明らかだからである。このような「他者」の主体化を認めるのであれば、中野の言説は根底から疑義が出てくることになるのである。そもそも「他者」とは何なのかをその主体(主体化される当人)に限らず、具体的な「誰か」に行うことができるのか?という問題であり、この答は中野本来の前提からはNOという選択肢以外ありえないのである(※1)。

 

 これに関連して問題が出てくるのが、まさに中野がどんな「肯定」的言説も否定されるべきだと主張していることそのものになる。結局中野は恣意的に「肯定」的言説を選んでしまっているのであり、その選択行為自体は本当に問題とされるべきなのか、という完全な「脱構築」から一歩離れた問いの立て方が成立するのではないのか、ということである。これは少なくとも中野自身の議論からは成立していることになる。

 これは私が過去に本書をレビューした際に問いとした内容の一つ(※2)であり、「自発性」と呼びうる言葉への定義の問題でもあった。ここまでの議論で確認したのは、少なくとも中野の枠組みでは「自発性」は完全に主体個人に還元された議論ではありえない。であれば「他者(誰が)」の次元での「動員」自体はそれ自体悪ではなく、むしろその動員の方法の問題なのではないのか、と思うのである。極めて平たく言えば、「何もやらないよりも、何でもいいからやったほうがいい」し、別にその行為への模倣行為を「意識化」さえできればそれで十分なのではないのか、と思うのである。この「意識化」も与える動員論というのは具体的にどうやるのか、という問題はもちろんあるが、不可能な話では決してないと思う。端的にボランティア活動に「聖性」を与えず「社会経験」とすればそれで足りる、という見方もありえるのではなかろうか。

 

※1 過去のレビューで私は「自発と非自発、主と従といった二項対立図式を突き崩す」ことが必要だと考え、これにあたりドゥルーズフーコーデリダなどを検討してきた。そこで見出した知見の一つは、中野と同様、「二項図式を脱構築する」と主張している者こそが「二項図式に固執している」という事実であった。そして、結局二項図式が崩れていない以上、その「二項図式を崩す=脱構築」という行為は、厳密には意味をなしていないという意味で不毛である(その主張に価値がない)と捉えることができたのである。これは、大塚のように「何らかの価値を否定する=別の価値観に暗黙のうちにコミットしている」ことも意味していることであった。従って、脱構築を主張するのであれば、「何を脱構築し、それにより何を構築したのか」を明言しない限り、その主張はえてして虚偽であるとみなすことができるのである。

 

※2 当時の私のレビューにおける表現が理解しにくいものの、当時の私の疑問は2つに集約される。一つはこの自発性の定義の問題であり、もう一つは動員のための「政策=意図的な主体化作用を目指す働きかけ」というのは、どの範囲までを「政策」とみるのかという点である。

大塚久雄の「近代」観に関する試論

 今回は大塚久雄の読解から、言説としての「近代」に対する見方について理解を深めていきたい。これまで行っていた進歩的文化人の議論においても谷沢永一(1996)をもってそのルーツであるとされ、中野敏男(1999)をもって市民社会論者の理論的系譜の祖とみなされることからも、大塚久雄進歩的文化人の系譜に与えた影響力は大きいといわざるをえないだろう。大塚はマックス・ヴェーバーの議論をもとに「近代」を語っていたと一般的にみなされていることからも、それがいかに語られていたのかはしっかり押さえておくべきところである。

 この「近代」というテクストは非常に厄介であり、丁寧に考察が必要であるように思う。そこでできるだけその分析の枠組みを提示しながら、それとの比較というのを積極的に行っていく中で、大塚が語る「近代」について検討していきたい。まず、次のような「近代」のテクストの理念型を示しておこう。

 

 一つは「①近代とは単一的発展史観であること(近代①)」と解釈する態度である。この立場の延長に「②近代とは欧米的価値観であること(近代②)」がある。

 もう一つは「③近代とは生産性を重視する歴史観である(近代③)」と解釈する態度がある。この立場の延長に「④近代とは『資本主義の精神』の習得に基づくものであること(近代④)」とする態度がある。

 ここで「近代①・③」は生産性そのものに着眼した場合の見方であり、「近代②・④」は価値観に関係する見方である。

 

 これら4つの態度はどれも本質的には異なる立場であり、その違いを明確に理解し整理する必要がある。近代①~④について大雑把に理解すれば近代③という見方も可能である。そこで、ここで理念型として示している③の考え方は①に収束しないような、「近代とは複数的発展史観がありえる」という態度を内包しており、ここでは①の価値を含まないものとして③を定義したい。

 特に①と②は実態として生産性が高かったと評価される欧米の存在が意識されている。それは現在にまで連続的に欧米史が近代として語られるものである。この両者は同じものに見えるが、実際の議論においては①の観点が無視されたかのように②の議論が語られることがままあるため、これをひとまず分けて考えておく。

 一方、③と④はむしろ大塚久雄がとろうとした態度の延長上にあるものであると考える。大塚はヴェーバーの議論をもとにして、近代の発生時点における「資本主義の精神=禁欲的かつ現世否定的な生産性のエートス」に重きを置く語りを基本的にはしている。この態度に基づけば、近代はそのエートスさえあれば複数の歴史観がありえる。もっとも、後述するが、この態度は大塚の態度とみなすべきだと思う反面、大塚自身は何故かそれを否定している傾向もある。

 

 また、大塚の通史的な「近代」を議論の志向性についても検討が必要であり、次のような仮説を提示しておく。

(1-ア)大塚の議論は「近代=単一的発展史観」志向で一貫している

(1-イ)大塚の議論は「近代=単一的発展史観」に対し否定的な態度で一貫している

(1-ウ)大塚の議論は「近代=単一的発展史観」に対する志向は時期によってバラバラである

 この問いについては、基本的に「近代①」との関連からそれを肯定しているか、否定しているかという議論を検討していく。

 

 

〇先行研究における大塚の「近代」理解の整理

 さて、大塚久雄の議論というのは研究も豊富であるようである。ここではもちろんそのすべてには触れず、かなり恣意的な選択となるが、インターネットからアクセスしやすい論文及び中野敏雄の著書から、最近の大塚久雄の「近代」観にかかわる議論を少し整理してみる。

 

中島健二「大塚久雄の近代社会像の再考」(1996、『金沢大学経済論集 33巻』p33-62)

「さて、このような大塚の関心は、国際的あるいは地域間における生産力の規定や伝搬にともなって、それぞれの地域のエートスが複合的に形成されていくという見方にわたしたちを導いていく。従来の生産力的構造と相互に規定しあっていたエートスは外的な生産力の規定や伝播を受けて、複合的な変化をとげざるをえなくなるのである。そうなると、近代西洋とは歴史的地域的に異なる場所において存在する、あるいは存在すべきエートスは必然的に近代西洋のそれとは歴史的に異なるものとなるであろう。大塚は彼の時代にあっても、このことを否定できなかったはずである。また、エートスの相対的な自立性を強調するヴェーバー=大塚の宗教社会学とこうした見方とは、すくなくとも矛盾しているとはいえない。それにもかかわらず、大塚の近代的・合理的な人間類型の実現の理想は、彼自身の世界史の把握から導き出されてくる、理想に対するこのような対外的・複合的な批判の契機を遮断し、近代西洋の歴史的経験から導きだされた価値合理的な理念型に収斂してしまっている。

対外的・複合的な批判の契機を導入しない大塚の理想は、世界が近代西洋の歴史的経験を後追いするという単線的な発展史観に避けがたく陥っているといわざるをえない。大塚の歴史学は単線的発展史観ではないかということはつとに指摘されてきた。しかし、筆者はこうした指摘にはにわかには賛同できない。なぜなら、上述したような複合的な仮説や構図を大塚はもっていたのであり、さらにつぎの節でみるように、彼は世界市場における各国経済の根づよい相互規定を十分に認識していたからでもある。実際のところ、ここで批判する単線的な発達史観は経済の領域に見いだされたのではない。むしろ近代西洋を時系列的に後追いする単線的な発展の見取り図へと大塚を帰着させていったのは、この節で考察したエートスの領域であり、またつぎの節で考察する国民主義という政治の領域であるといわねばならない。」(中島1996,p4546)

 

 

 中島が指摘するのは、まさに「経済の領域=生産性」の議論と「エートス=価値観」の区分けの必要性である。まず、大塚はえてして「近代①」の態度をとっているように見られがちであったとする。しかしそれは正しくなく、その複数性について許容している。にもかかわらず、単線的な態度をとっているのはそのエートスをめぐる部分であり、それはまさに大塚が「近代④」の立場にあるからだ、という主張として整理できる。また大塚の思想として(1-ア)は支持せずむしろ基本的には(1-イ)であったとみていることになる。

 

深草正博「大塚久雄の理論的変化・再考」(2015,『皇學館大學紀要第53巻』p33-49)

深草は大塚の思想の変化に注目しており、70年代以降、大塚が提示してきていた「近代的人間類型」が相対化されて議論されたとする。

 

「確かに一九七〇年代以前においては、およそここで指摘されている通りであろうと思う。私も先に触れた拙稿のなかで、その時期には大塚に近代西洋中心主義といってよいものがあったと指摘した。まさに近藤氏のいう「近世・近代の西欧の経験を範式とする発想」である。しかし、氏は七〇年代以降の大塚の変化については、全く看過している。すなわち、すでに六〇年代に大塚は、「低開発の開発」とは言わないにしても、「モノカルチャー体制によって代表されるような植民地体制が、低開発諸国の経済に押しつけた歪み」といった表現は使っており、さらにその後先に述べたように、七〇年代以降には、低開発諸国に先進諸国の諸事実に基づいた従来の社会科学をもってしては、低開発諸国の社会・経済現象を十分に捉えることができないのであって、究極にひそむ文化現象の重要性を指摘していたのである。……さらに、近代そのものに対しても、七〇年代以降になると、「合理性概念の再検討」のところでも触れたように、西洋の近代に対しても実に厳しい批判がなされているのであって、近藤氏のいうような「近代そのものを問題視するような省察」がないとは決していえないのである。」(深草2015,p41-42)

 

 

 深草の議論からは「生産性」の議論と「価値観」の議論は必ずしも明確に区分されているように読みとれない。ただ、少なくともそれまで(1-ア)の態度をとっていた大塚が70年代以降に(1-イ)の態度に転換した、というように読み取れるだろう。

 ではなぜそのような変化があったのか。その原因について深草は「南北問題あるいは低開発地域の研究の深まり」と指摘する(深草2015,p45)。この説明はまあそうなのだろうという理解を示すことができるが、一方でこの理由説明だけでそれまでの大塚の「近代」把握の議論がなかったものにできるのか、と疑問を出すと納得がいかないところがある。確かに深草が指摘するように、多くの大塚論者がこの変化を理解できていなかった、という指摘は正しいのかもしれない。だが他方でこのような「誤解」の発生原因は大塚自身ではなく、大塚論者側に帰すべき問題なのか、というのが疑問に思えるのである。このことは後程大塚の言説から検討する。

 
・遠藤興一「丸山眞男マックス・ヴェーバー」(2018『明治学院大学社会学社会福祉学研究150巻』p99-153)

 遠藤は大塚の議論が「ヴェーバー」を正しく参照しているか、という問題を丸山眞男が投げかけていた、という論点を提示する。つまり、大塚のヴェーバー解釈はあくまで解釈にすぎないこと、また近代的精神を考えるにあたり、ヴェーバーをあてはめて議論しようとすることに問題があるのではないか、という議論をおこなったとする。1947年の座談の引用をもってつぎのように指摘する。

 

「大塚が近代精神の核心となるのは宗教的な超越志向であり、そしてそこから導き出される普遍的規範であり、禁欲的エートスによって実現されるものであるとするのに対して、丸山はそもそも人間には生得的に持っている能動的主体性志向があり、それを認識し、発揮することによって、大塚の目指す普遍的規範の実現、具現は可能ではないかとみた。この違いこそが、後になってあのズレやスレ違いを生む遠因になった。」(遠藤2018,p125-126) 

 

 ここでは、近代精神がヴェーバーのいう「資本主義の精神」のみでしか達成されないものなのか、むしろそれはもっと生得的なものによって(少々語弊のある表現だが、要は欧米に存在していたエートスを模倣せずとも、)近代精神の獲得は可能ではないかと問題提起しているといえる。これは丸山に限らない主張であるが(※1)近代④の要件を満たしていなくても、近代③の可能性は開かれているという主張である。

 また、丸山は大塚が近代④の条件に固執しているように見えたのだろう。次のように「信仰」に基づいているのではないのか、という問題提起も行っていたようである。

 

「「事実をして語らしめる」信仰と、理論と歴史との本質的一致の信仰は、表現形態は正反対ですが、方法論上の「呪術からの解放」という観点から見ると、どうも文化的基盤が似ているのではないか。非常に暴言を吐いて恐縮ですけれども、そこには一種のアニミズム的な考え方、つまりわれわれの研究対象そのもののなかに精霊がやどっている、というほとんど古代的な信仰にまでつらなる要素がないだろうか。それが個別的な史料のなかにそれぞれに意味が内包しているという想定に立てば、素朴実証主義、或いは史料的帰納主義としてあらわれるし、他方、歴史のなかになにか生きた力、或いはエネルギーが潜在していて、それが生成発展して自己を展開し、自己を顕現してゆくという想定にたてば、一種の発展法則史観としてそれがあらわれる。…研究対象(世界)へのもたれかかりを徹底して排除したヴェーバーの考察が、わが国で「演繹的」だとか、「非歴史的」だとか言われがちなことの背景には、こうしたアニミズム的伝統とつながる要素がないだろうか。」(遠藤2018,p132-133,元引用は「丸山眞男座談 第5巻」p329)

 

 近代の達成において「脱魔術化」が必要であり、「資本主義の精神」が存在しなかった社会というのは、得てして伝統的な信仰といったものが近代精神的な生産性を阻害しているとするのが大塚の基本的な発想であった。しかし、大塚の「脱魔術化」の原則に反するかのように「資本主義の精神=禁欲的かつ現世否定的な生産性のエートス」の中には一つのアニミズム思考が含まれていうのはおかしいのではないかという言明と考えてよいだろう。大塚の歴史観は確かにこの点に限れは極めて「単一的」な近代観を持っていたのであり、丸山の批判も大いに納得できるところである。

 

・中野敏男「大塚久雄丸山真男」(1999、引用ページ数は2014年の新装版による)

 最後に中野敏男である。中野は通史的な大塚読解を試みその連続性を強調する。その中で初期の大塚はむしろ「近代」に対して批判的であったという見方を行っている。

 

「このような無教会派キリスト教徒たちを生み出す思想状況が、言い換えると、「自己」のために「惜しみなく奪い取る」ところの近代人を最も忌み嫌う思想が生まれ出てくる思想状況が、二〇年代から三〇年代に向かって進展してゆく日本社会の変容を背景に形成されていたことは間違いない。すなわち、急激に進展する産業化と都市化という社会変容の中で、大量生産と大量消費という産業と生活の構造が現出し、それに伴って生活様式の規格化・画一化が進行して、その中からいわゆる「大衆社会」状況が噴出してくるという時代の推移が、この同時代人たちに思想の「危機」として受けとめられているのである。」(中野1999=2014、p39)

 

 

 ところが、戦中の大塚は「近代」を条件付きで認めるようになったという。それが「生産性」に寄与する「資本主義の精神」(つまり、近代③、もしくは近代①)の観点であった。

 「このことは、資本主義の精神についての理解にも大きな変化をもたらしている。すなわち資本主義の精神は、一途な信仰の立場からは「富中心」への堕落として評価するしかなかったのだが、無自覚的であるとはいえそれが「国民的生産力」に寄与している点を考慮すれば、「国中心」の立場から一定のポジティヴな評価を与えることが可能になるのである。すなわちここで大塚は、「営利」に導かれた資本主義の精神も、それが「国」という「全体」に奉仕するかぎりで評価できると考えるようになったのである。」(中野1999=2014、p55)

 

 このような考え方の方向性の変化は確かにあったが、中野はその連続性として、大塚の議論の「啓蒙性」を強調し、なおかつ大塚の態度を(1-ア)、ないし「近代①」としてみることは「一面的」であると指摘する。

 

「「人間類型」という概念が戦中の「生産力」の思想を引き継ぐ道具立てだとすれば、新しい人間類型を「創出」するという要請は、戦後復興への貢献の倫理とそれを担う主体の創出を意味することは間違いない。それゆえ戦中の大塚の言説が「戦時動員」の思想になっているとすれば、戦後のこの大塚の言説は、いわば〈戦後動員〉の思想であると見なす他はあるまい。この全体(=国家)中心の動員という思想において、大塚の戦中と戦後とははっきりと連続している。大塚=ヴェーバーの倫理的な言説は、この意味で一貫している。

 このように見てくると、大塚における戦中から戦後における移行の実相が、ようやくはっきりと理解できるようになるだろう。それを一口で言えば、戦後においては、「近代化の遅れた日本」という内閉した視界の中で、動員の思想が語られるようになっているということである。戦中においては、「新しい経済倫理」の確立は、「資本主義の精神」の価値倒錯を超えて直接に「最高度自発性」を促すものとして、それゆえ、西欧の資本主義近代を「超克」する「わが国」の世界史的使命として語られた。それは、帝国主義の覇権争奪に視界が「開かれて」いて、その同時代の意識から課題が捉えられているからである。これに対して戦後においては、視界ははじめから「近代化の遅れた日本」に限定されている。だからここでは、近代の精神を語り、近代的人間類型の禁欲的性格を説くことが、日本の戦後復興に目標を示して人々を動員する、まさしく啓蒙的な言説として機能するのである。……

 とすれば、この大塚を「近代主義」とか「西欧中心主義」と規定して済ませるようなありきたりの大塚批判は、少なくとも事柄の一面しか捉えていないということになるだろう。本章の考察の主軸となっている三〇年代からの軌跡という観点から見るならば、大塚の戦中と戦後における以上のような動員の思想は、自己中心的近代人への批判というもう一つ背後にある思想的モチーフの一貫生のなかに包摂される。この背後にある思想的モチーフが、戦争とそれに続く敗戦という日本の国難に際会して、国中心の貢献という思想にまで積極化し、大塚をして人々に動員を呼びかける啓蒙家たらしめたということなのである。だから、大塚自身の主観においては、そもそも「近代主義」などという批判は全くお門違いだと思われただろうし、この全体に奉仕する主体という思想そのものについては、決して反省すべきところはないと信じられていたと思う。」(中野1999=2014, P78-79)

 

 そして中野も遠藤論文で批判の対象とされていた大塚のヴェーバー読解の問題に触れる。これは「プロテスタンティズムと資本主義の精神」の邦訳の問題にまで触れながら議論されているが、その問題点をまとめて次のように語っている。

 

「大塚=ヴェーバーの思想は、プロテスタンティズムの禁欲と「職業人」理想に力を借りつつ成立してきた近代資本主義の圧倒的な生産性(=国民的生産力)を高く評価しながら、その下で、やがて人々が「富の『誘惑』」という試練に負けて「貧慾の蝕み」を受け、富中心の生活へと堕落してゆくということを批判するものである。言い換えるとこれは、近代的生産力の観点から、職業人たらんと欲する「主体」をもたらしたプロテスタンティズムの倫理の意義を高く見て、そこからの倫理の堕落を憂い、人々に「本来」の意味の自覚、あるいは意味への覚醒を求めるという構成をとっている。このような近代人批判は、それゆえ諸個人の意識のあり方にあくまで定位するもので、もともと啓蒙主義的あるいは説教家的であって、それゆえ、無教会派クリスチャンとして出発した三〇年代の大塚が意識した自己中心的近代人への批判がその延長線上に辿り着いた形であると見てよい。

 これに対してヴェーバー自身が示している結論は、「職業人」を理想とするプロテスタンティズムの禁欲が直接に人々を規律して、忠実な職業労働という規範に組織し、これが近代的経済秩序という「強力なコスモス」を作り上げるのに大きな力を与えたということである。そして近代においては、この「コスモス」が一切の諸個人の生活スタイルを否応なく決定し支配するようになる、と見るのである。ここで批判の視線は、意識の堕落というよりはむしろ、職業人を理想とする人間の規律化とそれにともなって進行する社会的秩序の物象化的な自立そのものに向けられている。」(中野1999=2014, P86-87) 

 

 以上中野の議論をまとめると、基本的に大塚は「近代」を支持しておらず、それをヴェーバーの翻訳の誤りとも関連付けて語っている。ある意味で「資本主義の精神」について、あらかじめ「堕落する」方向に向かうことを強調しているかのような態度をとっていると基本的に考えている。このような態度に対して、どのような近代観に立っているとみなすべきかはなかなか難しい。中野の議論からはむしろ「近代批判」という言葉に代表されるように、むしろ近代に対して批判的であると大塚像が強く描かれている。大塚の「近代」の認識自体は「近代①」や「近代②」だとしつつも、その近代自体を批判している(ないし否定的にみている)と中野は指摘するのである。

 中野のこのような解釈は結果としては正しいように私も思う。しかし、後述するように大塚理解としては少し雑な所(説明不足な所)があるように思う。というのも大塚自身「資本主義の精神」と俗に言われる「資本主義の帰結としての堕落」を同一視していると考えていない。しかし、このような「理論的位置付け」について行うように大塚を整理しようとすると、大塚自身がそのような整理のされ方を放棄しているとしか読めず、整理のしようがないのである。

 

〇大塚の考える「近代」について

 さて、大塚のテクスト読解に移りたい。ここでは再びいくつかの問いと仮説をたてつつ、大塚の考え方に迫るアプローチを行ってみたい。

 

(2-1)人間類型論は実在する人間とどう関連しているとみなすか

 大塚は特に「資本主義の精神」をもった人間類型は過去のある時期においてイギリスやアメリカにおける実在の人間と結びつけ、「大勢」であったものとして位置付けている。

(2-2)人間類型と「生産性」についてどう関連するとみなしているか

 大塚は基本的には理想的な近代的人間類型は生産性に寄与するものと考える。これが戦中の大塚言説においては特に重きを置かれていた感があり、「より生産的である」ことを志向するため、ヴェーバーを取り上げてきた感がある。大塚の言説内ではこれを「決定的」とみなさざるをえなかった、なぜなら別の可能性について大塚はすべて否定をし、プロテスタンティズムが真としてしか読めない歴史観を展開してきたのであるから。

(2-3)「資本主義の精神」という人間類型は「今の」欧米人を指すものとみなされているか

 今はヴェーバーが想定したとおりの時代となっており、今の欧米人を指す言葉ではない。むしろ基本的には今の欧米人は堕落した存在と位置付けられており、「資本主義の精神」をもった人間類型として位置付けられているとは言い難い。

 

(2-4)近代的人間類型を「模倣」すべきとみているか(単一的な価値観の強要)

 時期によって態度が違う。近代的人間志向をすべきとする時期と肯定していない時期がある。ただ、単一的な価値観を強要しておいて別の価値観がありえるという状態は虫がよすぎるのではないのか?という批判もありえる。

 模倣すべきものとして強調されているのは、「資本主義の精神」における禁欲性であり、近代④の考え方に基づいている。

 

 

 まず、大塚の人間類型の議論で大きなポイントとなるのは「近代の人間的基礎」(1948)の位置づけ方であろう。というのは本書において大塚は明らかに日本人について「近代人となれ」(模倣しろ!)と主張しているのである。その近代人とはまさに「近代④」に基づく人間類型そのものであった。引用しよう。

 

「わが国経済の再建が民主的方向においてなされなければならないということは、いうまでもなく、今や一つののっぴきならぬ至上命令となっている。……

 ところで、ここで私が強調したいのは、こうした経済民主化の方向を推進するところの政治的主体が十全に形づくられうるためには、人間的主体の民衆的基盤が広汎にどうしても成立していなければならないということである。いいかえれば、民衆が――この民衆がという点がなによりも重要である――広く近代的・民主的な人間類型に打ち出されていなければならないということである。」(大塚「大塚久雄著作集第八巻」1969,p169)

 

「わが国の民衆が一般に示しつつあるところの人間類型、あるいは彼らの醸し出しつつあるエートスが、現在なおおよそ近代的・民主的なものでないことは社会学的観点から見てとうてい否み難いところである。このことを明らさまに指摘することは国民的感情として忍び難い感が無きにしも非ずであるが、現下におけるわが国経済社会の近代的・民主的な再建の問題を真剣に考えるならば、このことはどうしてもはっきりと指摘されねばならない。

 わが国民衆の示しつつある人間類型は、簡単に封建的といい切ることはできないいっそう複雑な、いわばアジア的なものであると思うが、今われわれはこの点に深く論及する余裕をもたないので、その詳細な社会学的分析は今は割愛せねばならない。が、少なくとも近代「以前」的なものであるということは殆んど説明を要しないことであろう。」(同上、p170-171)

 

 ここで強調されていることは「広く近代的・民主的な人間類型に打ち出されていなければならない」こと、そして日本にはそれがなく、「少なくとも近代「以前」的なものである」ことが自明のこととされていることである。

 さて、それでは近代的・民主的な人間類型とは何だろうか。

 

「もはや何の説明も要しないであろうと思う。民主主義的社会秩序を作り上げかつそれを支えてゆく人間的主体になる近代的民衆は、なによりもこうした個人の内面的価値を深くも自覚するところの、人間を人間として尊重するようなエートスをもたねばならない。こうしたエートスの創造こそが現下の基本問題の一つではないかと思う。」(同上、p175)

  

 「個人の内面的価値を深くも自覚するところの、人間を人間として尊重するようなエートスをもつ」ことがその回答である。そして、このようなエートスは何を指しているのだろうか。引用するまでもないが、大塚の場合、それはヴェーバーのいう「資本主義の精神」である。

 

「かつてマックス・ヴェーバーは、さきにもふれたベンジャミン・フランクリンが書き記した数々のものについて、そこでは「古典的といいうるまでに純粋に」近代的人間類型の姿が描き出されているという意味のことを述べているが、この点では筆者も全く同意見であって、近代的人間類型の理想的映像を描きだそうとするばあい、彼の書き記した数多くのもの、なかんずく『自伝』は格好な手がかりとなるであろう。」(同上、p182)

「近代的人間類型のつくり出す精神的雰囲気のなかでは、一見外形的な自然法的な枠は取り去られるけれども、そうした外面的な枠よりは遥かに強力な社会的連帯の内面的意識が、かえって全体への顧慮をつくり出してくることを忘れてはならない。」(同上、p184)

 

 ここまで同一の著書ではっきりと因果関係を説明している以上、この著書における大塚にとっては、「近代」への模倣を日本人が行うことが至上命題となっていたのは明らかであると認めなければならない。つまり、(2-4)の問いについては、「近代の人間的基礎」の時期において紛れもなく肯定しているのでなる。

 ただ、その性質の理解のため「資本主義の精神」についてはもう少し丁寧にみてみよう。次の一節は一見すると奇妙と思われるかもしれない。

 

「筆者は、近代的人間類型の創出のためにはあらゆる場面で周到に「教育」が推し進められなければならないと言った。ところで、このばあい、「教育」を最広義に解するとしても、「教育」だけでは決して十分ではないのである。すなわち「教育」を効果あらしめるためには、それを必要な客観的諸条件、なかんずく物質的諸条件によって裏づけてゆかねばならない。それは、フランクリンの教説を紹介したところですでにある程度までふれたところであるが、民衆の決定的部分が近代的人間類型まで「教育」されてゆくためには、まず彼らの労働の生産性が高まり、富裕が増大せねばならない。すなわち、最も順調な民主化のためには、主観的条件と客観的条件が互いに相援護しつつ同時に進行することが必要である。」(同上、p185)

 

 この主張のどこが奇妙なのか。それは「教育」がなされる前に「『まず』彼らの労働の生産性が高まり、富裕が増大せねばならない」としている点である。一見すると、「資本主義の精神」よりも「富の増大」が優先して語られていること自体が、「生産性」の議論を行っている上で矛盾していないか、と思えてしまうのである。そもそも、「生産性」は「資本主義の精神」なくとも可能なのではないのか、という主張がありえてしまうからである。

 しかし、大塚はこの主張を行った背景にあるのは、「資本主義の精神」がそもそも商人層に対する営利活動に対して「否定」の態度をとっていたことを挙げることができる。別の著書からの引用となるが、大塚は次のような説明を行っている。

 

「そうだとすると、皆さんの脳裡にはこういう疑問が浮かんでいくでしょう。何故に、そんな反営利的な思想が資本主義の勃興期に産業経営者のいわば幼虫たちに結びつき、彼らを内面から推進するような「資本主義の精神」を生み出すことになったのか、と。これに対していちおうは、それは古い商人や高利貸しへの激しい批判を意味していたのだ、と答えることで済みそうにも思われます。が、しかし、初期の産業資本家たちと反営利的なプロテスタンティズムとの結びつきは、やはり、もう少し立ち入った説明を必要としそうです。実は、ヴェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」という問題の立て方の根底にあったものは、まさにこの、初期の産業経営者たちは何故にあの反営利性の強い禁欲的プロテスタンティズムに結びつくことになったのか、ということだったのです。」(大塚「社会科学における人間」1977、p141-142)

 

 さて、ここでいう「古い商人や高利貸しへの激しい批判」とは何か。これまた別の論では次のように説明していた。

 

「古い型の商人は、近代の資本家と異なって、「利潤追求」に対してほぼこのような意識をもっていた、とヴェーバーはいうのである。つまり、彼らは利潤を追求しはするが、たとい無意識にもせよ、心の底では、それを罪だと考えていたというのである。

 では、この心の底に秘められていたという彼ら古い型の商人・高利貸の経済倫理とは、いったいどのようなものであったのか。それは、ヴェーバーの用語をかりれば、経済的「伝統主義」にほかならなかった。この「伝統主義」とは、「人がその身分相応の生活に必要なるだけ外的富財を一定の度合において有せんと努むるかぎり、善なり」というトマス・アクィーナスの有名な語のうちに古典的に表現されているところの、封建的な身分秩序の維持を志向する経済倫理である。」(大塚1969,p365)

 

 大塚はまさにここが古い型の商人・高利貸について「高い生産性」がなされなかった理由であるとみる。他方で彼らは紛うことなく「営利性」の追求者であったのであり、これに対する「否定」を「カルヴィニズム、ないしプロテスタンティズム」が持ち合わせていたということなのである。大塚は明らかにこのような「否定」の過程を経なければ「資本主義の精神」が養われることはないことを確信していたからこそ、それを否定する条件にあたる「まず彼らの労働の生産性が高まり、富裕が増大せねばならない」としたのである。

 以上の議論で(2-2)の問いには回答できるだろう。つまり、「資本主義の精神」は高い生産性に寄与するエートスである。しかし、先行研究で述べられているように、このような大塚の議論は他の生産性のエートスが存在する可能性が否定されていたのである。

 

 さて、次に(2-4)の問いについてもう少し時代の変化による整理をしてみたい。ここで押さえておきたいのは、「戦中期」の言説と、「近代の人間的基礎」以後の2種類の言説である。この「以後」をいつにすべきかは今回の分析は判然としなかった。極端な話をすれば「近代の人間的基礎」だけの整理となるかもしれないし、深草が指摘したように70年代以降の変化としてみるべきかもしれない。

 ここで言説として注目するのは「ヴェーバーを超える」言説についてである。大塚にとってヴェーバーの読解は近代精神の読解としてある意味一貫したものであったと言ってよいだろう。しかし、上記2種類の言説は文字通り「近代の模倣=ヴェーバー的精神の必要性」に限定的ないし否定的であり、それを超える必要性について主張しているのである。

 

 まず、戦中の言説についてみていこう。

「もとより、われわれがヴェーバーの見解を無批判に受領して、そこに停止するようなことは、世界史の現実がとうていゆるさないであろう。たとえば、世界史の現段階が「近代的営利」を超克しつつあるといわれるとき、われわれはもとより「資本主義の精神」のもつ歴史的限界(営利性)を批判し、ヴェーバーを超えてしかも歴史的事実の上にしかと足場をふまえつつ、より高邁なエートスを構想しなければなるまい。しかし、世界史の現段階が近代西欧的なものを批判しうち超えつつあるといっても、その遺産の総てを捨て去ることではなく、その「営利」的性格を徹底的に抹殺しつつ、しかもその「生産力」――近代工業力は何といっても世界史上近代西欧において最初に形成されたものである――をより高邁なる歴史的現実のうちに発展的に摂取することが問題であるならば、さらにまた、そうであるが故に、それを「営利」から切り離し、「資本主義の精神」についてもまたそのうちに含まれる「営利心」(いわゆる個人主義)を破砕しつつ、しかもその生産力的エートスを一概に捨て去ることなく、より高邁な精神史のうちに批判的に摂取し高めることが、われわれの一つの重要な問題とならねばならぬであろう。そしてわが国が今や世界史的使命を達成するために、近代的生産力(工業力)の拡充がどうしても必要だというのであるならば、このことはまさに真剣に考えねばならぬ問題であることも明瞭であろう。」(大塚1969、p351-352)

 

 ここでは「営利(そしておそらくはそれに後続する『堕落』)」と「生産力(そしてそれに後続する『禁欲』)」の切り離しを強調しているといえる。ここでは「個人主義」さえも切り離されていることが重要である。では、「資本主義の精神」のどこに具体的問題があるとみていたのか。大塚はそれを「責任の欠如」と結びつけて次のように語る。

 

「「資本主義の精神」のうちにも「責任」という要因が見出されないのではない。それどころか、極めて広義に解するならば、生産責任さえもそのうちに含まれているということができよう。しかし、それは「資本主義の精神」のうちにあっては、個人的な営利(利潤の追求)によって媒介されている。一層正確に表現すれば、生産責任は、個人的営利の遂行を媒介しつつ、みずからも営利に媒介されながら現実化しているのである。」(同上、p340)

 

 やはり、ここでは個人主義的な営利が否定の対象とされている。それを生産力から切り離し、責任ある生産力を確保することが大塚の命題である。このような議論の解決策は、おなじみの全体主義的思想である。

 

「ところが、いまや、世界史の現実はこのすぐれて歴史的な「資本主義の精神」を批判し、その限界をうちこえて、新たな「経済倫理」がしだいに姿をあらわしはじめているのである。そのばあい、「資本主義の精神」に固有な価値の倒錯が現実の破局に直面して、覆うべくもなくなったという消極的な事実ももとより看過すべきではない。しかし、一層積極的に、いまや新たに姿を現わしつつある「経済倫理」が「資本主義の精神」と異なって、「全体」(国家)からの生産力拡充の要請に対する個人の「生産責任」を、「営利」による媒介などを揚棄して、直接にかつ明確に意識するものであるという事実を、何にもまして、はっきりと識別しなければならないであろう。」(同上、p341)

 

 しかし、戦中におけるこのような思想は、最大限擁護したとしても、精神論の一環として、「禁欲」の思想を容易に「滅私奉公」の思想と同一視させることに寄与したことは想像に難くない。これこそまさに安易な「個」の否定の帰結である。同時期の大塚はやはり「止揚」に対する大きな評価を与えていた。

 

「この否定を通じて高められた、つまり止揚された本能はまことに美しい。それはともかく、この否定の否定、そうした真のひていをとおしてはじめて真実の人間解放は達成されるばかりでなく、そこに真実の「人間」が啓示される。これこそが、単なる動物的な「感性的欲求の束」としての人間とはおよそ対蹠的に、「人格」として捉えられた人間なのであるまいか。」(同上、p167)

 

 私にはこのような態度はもはや「否定への逃避」にしか見えてこない。そしてこのような「否定への逃避」は別の意図しない思想との差異の説明まで行うことを放棄してしまっているのである。「否定への逃避」は何ら肯定的な価値を与えず、その限りにおいて、その価値に対する批判から免れることが許される(と、そのような発想になる論者は考えてしまう)のである。だからこそ、私はこれまで一貫して「止揚」に対してはその枠組自体が有害であると考えているのである。

 

 それでは、戦後の言説の方はどうか。ここでは「「甘え」と社会科学」(川島武宜土居健郎との共著、1976)に着目してみたい。本書が注目されるべきなのは、土居の「甘え」の理論を大塚がどう解釈し、何を主張したのか、という点である。「甘え」の理論は土居が主張するように「日本人論=特殊日本的」な態度が内在されており、それまでの大塚の「近代論」ともどのように関連付くのか、一見するとよくわからないという点で、検討すべき著書といえる。本書が成立した経緯として土居の著書に大塚が注目したことが挙げられており(大塚他1976,piv)、両者の議論が接近したのは間違いないのである。

 しかし、実際の論調として、土居のような日本人論を展開することはない。何より「甘え」をヴェーバーが語る「ピエテート」と同一視し、検討を加えている時点で、すでに「甘え」が日本独自の概念とする土居の主張とも相違しているように思える。もっとも、大塚は「特殊=日本的なものを社会科学的にとらえる方法的枠組をつくり出そうと努力してみたんです。しかし、自分の専門は当面西洋経済史でしょう。そこで逆に、日本人の目で西洋、とくに英米の事象を見ていくとどうなるか。そういう形で問題を考え詰めていったんです。」と述べている(大塚他1976,p23)。ある意味で日本人としてどのように普遍的な現象を解釈できるのか、日本人だからこそできるアプローチがあるのではないのか、という目線から「甘え」の問題をとらえたようである。

 では、大塚は具体的に土居のどの部分について共感をもったのだろうか。直接的な言及こそないものの、それが土居が「門外漢」であるにも関わらず強調していた、かの西洋思想が「甘え」を克服できなかったという一節に対してだったようであるという推測は可能である。そして、この議論の中で大塚は「資本主義の精神」を相対化して語っている。大塚はいつものごとくヴェーバーを参照しながら「資本主義の精神」によりピエテートは「抑圧しきった」ものとし、そのことこそが「近代の合法性意識の支配に道をひらいた」と述べる(大塚他1976,p220)。しかしながら、土居と同様、結局は「第二次大戦後抑圧の力が弱まって、その結果「甘え」が再び意識の前面に現われ始めた。」とみる(同上、p218)。

 また、大塚が「甘え=ピエテート」の概念を用いて何を説明したのか。これは次のような形で語られる。

 

「大塚 少々話は飛びますが、これからの世界、そのあるべき文化についてですがね、私はどうしてもこういうことを考えざるをえないのです。近代ヨーロッパ文化の中では抑圧されてしまっている「甘え」の構造――それはアジアでは現在でも古い姿のままで残っているのですが――そういう「甘え」の構造が、もちろんはるかに昇華された形ですが、もう一度現われてくるべきだし、また現われてこざるを得なくなるんじゃないでしょうか。そしてそこに世界史の救いが見出されるのではないか。そういう考えを押えきれないのです。」(大塚他1976,p240)

 

 さて、少々突拍子もないが「甘え」に「世界史の救い」を求めているようである。当然ここには「近代」の枠組みでは解決不能な問いに対して「ピエテート」が鍵になると大塚は考えているのである。これは明らかにヴェーバーを超えた問いの立て方を行っていると言えるだろう。これは戦中の大塚のヴェーバー読解に近似する発想である。

 では、何故ピエテートが「世界史の救い」となると考えられるのか。これに関連し大塚は次のように主張する。

 

「大塚 つまり、禁欲的プロテスタンティズムには、この場合ヴェーバー的意味での家族的「ピエテート」とは言いがたいでしょうが、まだまだキリスト教的「ピエテート」、つまり強い価値へのつながり、ヴェーバー風にいうと実質的なものが含まれておりました。が、「資本主義の精神」になると、それがいまや失われて、さきに申しましたような合法性のぐるぐる回りが現われてくるわけなんです。そして神とマモンの地位の逆転が起こる。ヴェーバーはそういう逆転はすでに、カトリック修道院内部でもくりかえし起こりえたことだ、といっております。だからこそ、くりかえし修道院の改革が行なわれなければならなかったというわけです。ところがプロテスタンティズムの場合には、それが世俗生活を基盤として全社会的な規模で生起したために、その改革がおそろしく困難なものとなってしまった。ヴェーバーはそう言います。」(同上1976、p221)

 

 ここでのポイントは「改革」という言葉である。つまり、「資本主義の精神」へ依存してしまうと、固定された社会観となってしまい、「改革」が行われなってしまう。だから問題であると言いたいようである。

 しかし、ここまできてこのような態度を「近代の人間的基礎」で語られていた「近代」観と比べると、暴論を行っているように思えてくる。そもそもここでいう「「資本主義の精神」が変革をもたらさない」という価値判断が正しいようにとても思えないのである。むしろそのような「改革」の核になるものこそ「資本主義の精神」ではなかったのか?しかし大塚はそれでもなお「ヴェーバーは、近代ヨーロッパの資本主義文化、つまり厳密な意味での近代社会をそういうものとして捉えていた」としているのである(大塚他1976,p221)。

 

 大塚のこのような主張はあまり耳を傾ける価値がない。押さえるべきはむしろこの時期の大塚が「資本主義の精神」と「現在の欧米」との区別をほとんどできていないという点にある。先述したように、「近代の人間的基礎」における大塚は基本的に「近代④」の立場にあったと述べた。ところが本書における大塚の立場は「近代②」にあると解釈する他ないのである。

 拡大解釈するとこのような態度になってしまったことにも、戦中との比較であれば容易に理由が認められる。特に戦中のヴェーバー読解というのは、それ自体現在の欧米とは一定の距離を置かなければ言論そのものとして成立ができないものであった。つまり「現在の欧米は問題があるが、過去の欧米には学ぶべきものがある」という論法において、「資本主義の精神」が見出され、近代④の立場から「近代の人間的基礎」ではそのエートスの模倣を強要したのであった。しかしこの70年代における大塚はすでにそのような区別を行う必要がある立場にはなかったのだろう。だからこそ容易に両者(過去の欧米と現在の欧米)は一体のものとして語れるのである。もちろん、ここには深草が言うような事情もあるのかもしれないが、それ以上に意図的な、そして理論的には致命的な態度変更を大塚は行ったというように見えてならないのである。

 少なくともこの段階では(2-4)の問いについては「模倣すべき」というより逆にもはや拒否されるべき対象とさえなっているように見えてくる。また、(2-3)の問いに対しても、過去においてはむしろ区別されることが極端に言えば「時代の(戦時中としての)」要請だった訳だが、70年代においてはすでに「今」の欧米人を指す言葉として「資本主義の精神」を語っていると言えるのである。

 

〇大塚は自らの主張をいかに擁護したのか?

 このような「自らの語っていること」と「自らの(他人からの)解釈」のズレについては、大塚も自覚があり、しばしばそのことについて言及している。例えば、「ピエテート」の議論についても、「大塚はイギリスをモデルにして日本を割り切ろうとしているという、全然逆の理解されて今にいたっている」とする(p23)。この部分に限れば大塚自身が「近代①」や「近代②」を主張していると言われるが、自分はむしろ近代的思考に与していない、という主張を行っていることになる。

 

 ただこの大塚の弁解は自分のどの主張に関する議論かが不明瞭であることもあり、奇妙なものも存在する。例えば、次の主張は1963年にされたものである。

 

「ただ、この点について、さきにもちょっとふれたが、いまだに奇妙な誤解があるように思われるので、ここで一言つけ加えておきたい。私がしばしば禁欲的プロテスタンティズムの史実を範例にとってきたのは、もちろん、近代初期のヨーロッパの事情を現代日本の模範にしようとしたり、それとの距離で現代日本の歴史的位置を計ろうとしているのは、さらさらないのである(ついでながら、私の表現の不備な点についてはお許しを願うとともに、今後この種の誤解はぜひやめにしていただきたいと思う)。そうではなくて、私が意図してきたところは、むしろ、そうした史実の分析を通じて、禁欲の社会的堀進作用、文化形成作用の重要さを知り、かつ、そこから、禁欲に関する一般的な経験法則とでもいうべきものを導き出そうとしたにすぎない。なぜなら、日本を含めて、あらゆる国々において、一定の歴史的条件が存在するばあい、禁欲は現在でも同様な強烈な作用をおよぼす可能性を以前もっていると十分に想定されるかぎり、その現象の分析基準として、そうした禁欲思想とその行動の一般的な経験法則をあらかじめ知っておくことが、どうしても大切だと考えられたからである。」(大塚1969、P575-576)

 

 正直なところ、この弁解には無理がある。先述の「近代の人間的基礎」で行った主張について「史実の分析を通じて、禁欲の社会的堀進作用、文化形成作用の重要さを知り、かつ、そこから、禁欲に関する一般的な経験法則とでもいうべきものを導き出そうとした」という次元には到底留まっていない。大塚の弁解は何やら「科学的法則」の探究に向けられているかに見えるが、「近代の人間的基礎」においては、その域を超えてしまっているのである。

 しかも、大塚は上記弁解の直後に次のような主張を行っているのである。

 

「ところで、戦後はどうか。いわゆる百八十度の転換によって俄かに神聖視されはじめた「自由」の思想は、伝統主義的な旧体制の束縛から民衆を解放したという一面の正しさにもかかわらず、このばあい、あたかもルネサンス思想と同じように、伝統主義的束縛とともに禁欲一般を断罪し、湯水とともに赤子を流しきった嫌いがないではない。私は終戦直後このことを強く感じていたのだが、その感じはいまでは強まるばかりである。そこへいわゆる経済の高度成長とともに、レジャーとか、バカンスとかのよび声に支えられて、シニカルで反禁欲的な享楽的消費の高揚が出現した。ただ、保守の側では伝統主義への郷愁に支えられてある種の禁欲を復興しようとする動きがみられなくはないし、また新興宗教のなかにも別種の、これはかなり強烈な禁欲運動の前進がみられるほかは、保守の側でも、革新の側でも、右でも、左でも、いまや禁欲はいたるところ、いちじるしく姿をひそめるにいたったという感じが強い。こうした現状は、おそらく大衆社会現象とひろくよばれているものなのであろう。

 さて、私はおそれるのだが、こうした人間的状況のもとで、もしある種の反時代的な非合理的な社会的内実を目ざす禁欲運動――日本では宗教的外装を伴ってくる可能性がある――が出現したとするならば、ばあいによっては、それは、無人の野をゆく勢で伸びひろがる可能性もあることは明らかだ、といわねばならない。そこで、こうした動きに対して対応する態度をとろうとするのならば、そしてまた、現在のこうした人間的状況が自由を禁欲一般と抽象的に対立させた思想動向の帰結だとするならば、いまや自由をふたたび禁欲にむすびつけるような思想的立場こそ、今日もっとも緊要なものといえるのではあるまいか。」(大塚1969、P577)

 

 「今日もっとも緊要」な「禁欲」とは、言わずもがなヴェーバー的な「エートス」であり、「近代初期のヨーロッパの事情を現代日本の模範にしようとした」ものであることは明らかである。とするならば、この主張はやはり「近代を模倣しろ」という態度そのものなのではなかろうか?このような弁解を行う大塚に対して、すでに理論がデタラメなのではなかろうかと思う論者が出てきてもおかしくないし、谷沢永一のように「大塚は本音をなかなか語ろうとしない」と考えられても不思議はない。大塚はこのような弁解において自分の説明が悪いかもしれないことも認めているものの、上記のような議論の仕方はもはやその領域を超え、明らかな自己矛盾の語りを行っているとしか読めない。

 もっとも、上記の主張だけを見れば、まだヴェーバーに立ち返り「資本主義の精神」とはあくまでも「理念型」であり、「理念型」である以上、実態とは関連性を持たないという弁解をすることも(ヴェーバーの論理から言えば)不可能ではない。しかし、大塚のヴェーバー理解において、このような議論の可能性は存在しない。大塚は明らかに「資本主義の精神」をイギリス・アメリカの一時代において存在しているものであったと断じているのである。

 この態度が露骨になったのが「社会科学における人間」(1977)において、「人間類型」の定義を明確にした点にあった。

 

「さて、このようにある時代のある国民が全体として特徴的に示す思考と行動の様式、そのタイプをこれからは人間類型とよぶことにしたいと思います。ただ、それには少しばかりこういう注釈をつけておかねばなりません。ある時代のある国民と言いましても、どの人もこの人もみなそういうタイプに打ち出されているというわけではありません。それはもうピンからキリまでいろいろな人がいるに違いないのです。……つまり、例外的な人間はいくらでもいるんですが、全体として見たとき、ある特徴的な思考と行動の様式を共通にしている人々はそのなかの決定的な部分を占めている、そういうことなんです。」(大塚1977、p14)

 

 管見の限り、大塚自身、戦中からずっと「人間類型」という言葉を用いていたが、それが「人々の共通要素」と明確にみなされたことはなかったように思う。思うにこの「人間類型」の語りは当時の「日本人論」の影響も強く受け、悪い方向に「洗練」されてしまった成果であるように思うが、このような語りを晩年まで何も疑問も持たずに行ってきた中で、このような主張がなされるのは、大塚にとって「資本主義の精神」の存在は紛れもない「歴史的事実」だ、という確信があったからに他ならない。直接的には「ロビンソン的人間類型というのは、十七、八世紀のイギリスや、北アメリカのニューイングランドあたり、それから西ヨーロッパの国々のある部分という、ある時期のある国々にだけ現実に存在したものですね。」(大塚1977、p67)とも語っておりその時代・その地域における社会の「典型的なもの」とみなされていたのである。(2-1)の問いにはこれで答えていることになる。

 

 さて、以上のように大塚の議論について検討してきた。最初の問いに戻るならば、少なくとも(1-ア)の態度を大塚がとっていたという見方は総じて言えば誤りであろうが、「近代の人間的基礎」においては、そのように読まれる余地も大いにあったともいえる。「近代の人間的基礎」は確かに1948年の著書であるもの、1968年に復刻しており、それは決して終戦直後にだけ限られた大塚読解とみなされていなかったこと、もっと言えばこのような極端な内容である著書を大塚自身が何の疑問もなく再生産し続けたこと自体もやはり問題であるように思える。

 そこで、読めば読むほど(1-ウ)が支持される要素が多いことがわかる。仮にそれを回避する良心的な大塚読解をするなら(1-イ)として読まれるほかないのだろうと思う。もっとも、この意味するところは大塚自身が「近代④」の立場にあったとして読まれるべきか、大塚が「近代②」の批判を行っていたとみなされるべきかも議論が分かれてしまうところである(※2)。もしかしたら今後松下圭一のような精読を行うこともあるかもしれないが、徒労に終わってしまうように今の私には思えてならない。

 

 

※1 例えば、伊豆公夫は戦後直後にすでに同旨を批判を行っている(伊豆公夫「社会発展の理論」1948,p278)。

 

(2021年2月2日追記)

※2 先行研究においても論者ごとに大塚の態度の評価がズレている傾向が認められるが、これは単に大塚久雄の議論を通史的に捉えようとすることを論者が怠ったというだけではなく、大塚自身の態度にも大きな問題があり、その議論の焦点を合わせることができなかったということである。特に「近代」観に関して言えば、明らかに戦後途中までの大塚のスタンスは「近代④」にあったはずだが、70年代のテキストにおいてその「近代」を相対化する試みの中で「近代④」のエッセンスを捨ててしまい、その「近代」を基本的に「欧米の歴史観」として語ってしまっていることに、そもそも「近代④」のスタンスをとっていた時代においても、その焦点化が十分ではなかったのか、という批判が成立してしまいそうだし、何より大塚が繰り返し弁解していたはずの「大塚は近代①ないし近代②の論者である」という否定についてまで、無効化してしまっている気がしてならない。ある意味で「大塚読解」というのは厳密な意味で成立不能であるという結論も出せる。

 

 しかしそれでもなお、敢えて「大塚読解」を行い、その意図をくみ取ろうとするのであれば、近代④のスタンスを大塚がとっていたと解するべきだろう。大塚の弁解として、1969年頃に書いたものであろう、全集のあとがきには、次のようなものもある。

 

「つまり、資本主義以前の社会的諸形態のどれか一つから、資本主義だけでなく、社会主義への移行をも含めるようなものだったのである。ところが、この点が、私の説明不足もあって、多くの誤解を惹き起こす一因となったことは周知のとおりである。が、さらに運わるくいま一つの混乱が追加された。それはその後、主として低開発国問題への関心からアメリカの社会科学者たちによって提起された、〝modernization〟論のばあいの〝modernization〟が「近代化」と邦訳されて、わが国でも私の用語法など以上に広く流通しはじめ、その結果、そうした「近代化」の用語法としばしば混同されてしまうようになったことであった。」(大塚久雄大塚久雄著作集 第八巻」1969、p616-617) 

 

 ここでは資本主義社会だけではない社会の可能性についても大塚が語る「近代」は意味していたということが強調されている。なおかつ、単一的発展観ないし「アメリカへの模倣」を意味するものでさえなかったという。このような主張が成立する要件は、私には「近代④」のように現在の資本主義社会とは切り離した上のそのエッセンス(エートス)としての「資本主義の精神(これは「資本主義そのもの」ではない、ということさえ含意する)」を掬いだした上で、その重要性を議論していたのが大塚であったという整理をしないと、説明がつかないと考えるのである。当然、このように捉える大塚は「単一的歴史観」から距離を置いている意味で「1―イ」の立場にあると考えるべきとなる。

 

夏堀睦「創造性と学校」(2005)

 今回は前々回デュークのレビューで取り上げた「創造性」の議論に関連して、夏堀の著書を取り上げる。

 まず、本書が異色の書であることを押さえておきたい。それは「①ネオリベの立場から書かれた②実証的な著書」という点である。①②それぞれの立場から書かれた著書というのはよくある。しかし「①ネオリベの立場」から書かれた著書というのは、既存の議論の批判ありきで書かれていることが多く、実証的な観点に欠くという問題点を抱えていた。過去のレビューで取り上げた黒崎勲などもこの立場として位置づけられるべき論者であり、実証性の乏しさに問題があった。また、「②実証的な著書」についても、基本的にネオリベに対してか、それ以前の政策に対する議論の検証・批判といった観点書かれたものが(こと教育界に限れば)基本であり、基本的にネオリベを支持しないか、明確な反対の意思を持っているものがほとんどである。良く言っても「中立」であるに留まる。

 では、学術書である本書は「中立」ではないのか、という疑問が出てくる。もしかすると、夏堀本人はそう考えているのかもしれないが、残念ながら、とてもそのように評価することはとてもできない。本書はその分析の枠組みの中に、ネオリベありきの議論を含んでいるからである。それが本書における「創造性」の考え方に如実に反映されているのである。

 

〇「創造性」の捉え方について――川喜田二郎の事例から

 本書はまず学校が「創造性」を抑制している場として機能していることを実証的に示す。これは一般の人が考える「創造性」について、学校の場においては道徳性が強く働いていることから抑制されているものと捉える。例えば本書ではこれを一定層の教師における「創造性」のディレンマとして描く(p206)。この物語自体はとてもわかりやすい。本書のスタンスはあくまで「何が欠けているか」ということに関心をもち、この点を問題視している。

 問題はここで欠乏の議論を行い、「創造性」とは何かを問うていないことである。確かに本書では「創造性」について比較的積極的な定義を行っているかのように見える。しかし、この定義付けについては、それ自体で大きな問題を持っており、それが本書における「ネオリベの肯定」と悪い意味でマッチしてしまっているのである。

 

 類似した問題を抱えている著書として、川喜田二郎「創造性とは何か」(2010)を取り上げてみよう。川喜田も前提として、強烈な西欧的な「個人主義」批判を行っていることに注目しなければならない。

 

「ところで、文明とその階級社会が発生して以来、奇妙な個人主義というものが生まれてきた。それによれば、人間の本音は利己がすべてであり、他人のためというのは擬装したおためごかしのように考える。

 いかにも深くうがったように見せるが、人間は「語りつぎ言いつぎゆかん」と思っているほうが、率直な実態だと思う。ともかくこの個人主義の上に、さらに西欧近代風のイデオロギー的な個人主義まで加わってきた。世界中の知識人、とくに日本のそれが、このイデオロギーに振り回されている。」(川喜田2010、p7)

 

「この西欧文明の創造観では、主体=自分のほうは変わらないで、客体=相手だけが作られるという考え方であるから、相手を支配し征服するという支配欲、あるいは権力志向であって、自らもまた、作られるという総合的な思想はまったく無視されてしまうのである。」(同上、p165)

 

 

 一種の近代批判とその行き詰まりを指摘しつつ、かといって二項図式的に望ましい社会像を提示する訳でもない。

 

「これをさらに一歩進めて言うならば、これは資本主義の行き詰まりということでもある。しかし、それならば共産主義も、あんなに行き詰まっているではないかと言われるのなら、私は、共産主義も同じで、物質文明の行き詰まりという点では、この両者にはまったく変わりがないと感じているのである。」(同上、p44)

 

 

 では、創造性をどうとらえているかというと、「新陳代謝」の一種とみなし、我々が生きていく上で不可欠なものとみなしている。

 

「結論を言うと、創造的行為をやっているかぎりでは、個人と組織との間には壁はない。いや、壁はなくなっているということができる。もっとも創造が終わったら、壁はしだいにできてくるけれども、けっして元どおりまで戻ることはなくて、組織と個人はずっと血の通ったものとなっているのである。しかし、ときどき創造的行為を繰り返さないと、個人も組織もやがてだめになってくるのであるが……。」(同上、p171-172)

 

 

 ここでは、これまでのレビューでもみてきた、80年代以降の日本人論における「改善要求」と全く同じことが語られていることに気付く。「改善要求」の言説(そしてこの言説を主導したのはネオリベ勢力であった)に「創造性」が結びついているのである。

 その前提のもとで、川喜田は自己達成感らしきものを「創造性」とみなすにいたる。

 

「創造的行為の内面、それもひじょうに深いところに宿っている不可思議な何かに導かれているのではないかという気持ちは、創造的行為を達成したときの人の心に、自ずから愛と畏敬の念を生み出すのである。」(同上、p114)

「自己変革を目標にするよりも、物を作って、結果的に自分も脱皮するというように考えるべきなのである。

 つまり、人は何か価値を生み出す「ひと仕事」によって自分を変容させていくべきで、それを何らの「ひと仕事」もせずに悟り澄まして、自らを変えていけると思っていることは、結局逃げていることだと思う。」(同上、p143)

 

 

この達成観を感じる主体には川喜田が否定する個人主義的価値観はないものとみなされる。なぜなら、「創造的行為をやっているかぎりでは、個人と組織との間に壁はない」からである(p171)。しかし、この議論がゆがむのは、なぜ、その行為が「創造的」なのかを何一つ説明しないからである。川喜田の言説からは「創造的行為」と「ひと仕事」の違いを全く説明できないのである。

そして「創造性」においてこの違いを説明できないことは致命的に重要である。それが夏堀も分析の中心としている「ラージC」と「スモールC」の違いなのである。

 CとはCreativityの略号であり、どちらも確かに「創造性」という言葉が与えられているが、「創造性=新しさ」というのは、おおざっぱに分ければそれが「個人」にとってのものなのか、「社会」にとってのものなのか、というものである(pⅱ-ⅲ)。ここでこの二分法が強調されるのは「個人」にとって新しくても「社会」にとって新しくなければ、真の意味で「創造的」とは言えないのではないのか?という点にポイントがある。特に心理主義に陥っているとたびたび指摘される教育の議論において、この着眼点を無視することはできない。スモールCのみの充足というのは、それが個人にとってよいことでも、結局「自己満足」で終わってしまう可能性があるということなのである。川喜田の議論は、この「自己満足」の可能性で終わる可能性について、何ら言明をしていないという点で、「創造性」の議論を行っているのかどうか最後までわからないのである。

 

〇本書のラージC、スモールCの用法は「適切」か?――「創造性」を評価するのは誰なのか?

 さて、それではラージCについて、どのように捉えればよいのだろうか?本書におけるこの違いの説明は先述したように単純明快であるようでいて、実際の所はかなり曖昧さが残っており、本書におけるその用法に統一感がない。

 これはなぜかというと、上記の定義付け自体が、やはりおおざっぱであることに起因する。「自己満足」で終わる創造性というのは、狭くとらえることもできれば、相当に広くとらえることもできてしまうという、その範囲の曖昧さに起因している。

 この点について最も厳密に定義しているのが、本書でも取り上げるチクセントミハイのモデルに基づく「ラージC」の定義付けだろう。チクセントミハイは文化そのものが存する領域(domain)、評価者である場(field)、そして実際に創造的行為を行う個人(person)の3領域の関連性によって形成されるとした(チクセントミハイクリエイティヴィティ」1996=2016、p7,p31)。以前ルネ・ジラール「地下室の批評家」のレビューの際に、欲望の三角形モデルを用いて学校教育における「よい模倣」の2つのパターンを示したが、対象(学問)志向的な三角形モデルというのが、ほとんどチクセントミハイの考える理想的な創造性モデルであると考えてもよいように思える。このケースの場合、学問そのもののあり方と教師が考える理想的な学問像は一致しており、生徒に対する「評価」も適切に行うことが想定される。この「評価」という着眼点が重要である。生徒の行為について適切か・適切でないかを判断し、よりよい方向に導くことが職業としての教師には求められているという点も重要だが、それ以上に「評価」なしには「創造性」について判定できないという前提に立っていることも重要である点を押さえておきたい。

 そしてこのような素朴な前提について学校教育でも機能すれば理想なのであろうが、実際はそうはならない、というのが本書の重要な主張の一つである。この理由として、学校が持つ規範的なイメージ、もしくは「かくあるべき」というイメージというのが阻害する、とするのが本書の立場である。しかし、実際にこれがうまくいかない理由はもう一つある。それは、「そもそも教師は『創造性』の評価者として適切か?」という問題である。

原則論に立ち返ると、チクセントミハイが評価のフィールドとして設定したのは、その「創造性」の中心にあるべき専門家(たち)であったはずである(チクセントミハイ1996=2016,p31,32)。

 

 ここでおさえるべきは、教師は何らかの専門家であることは否定されないが、具体的な分野における創造性の評価というのは、その分野の専門家にしかできないのではないのか、という「専門性」をめぐる根本的な問いである。本書において、この着眼点が乏しいのは明らかである。なぜなら、本書はこの「専門家による評価」の代わりに「一般人の評価」というのを「創造性」に対する評価であるかの如く示しているからである。本書が対象とするのは児童文学である。ということは児童文学に対する創造性評価であれば、学問的な意味での児童文学の研究家、百歩譲っても児童文学の分野で何らかの意味で「成功」したとされる作家が行うのが適切であるはずである。しかし本書は何の断りもなく一般人が考える評価指標をもって「何が創造的か」を議論してしまっている。私が批判するのは、このような致命的な創造性に対する考え方の抜け落ちについて、現状の学校教育批判、「創造性」に対する見方自体の批判をありきとすることで、着眼点として隠蔽している、本書の分析の構造的な問題である。「社会構築主義」に基づく分析者を名乗り「社会」の分析を行う者は、その分析を行った際の近視眼さそのものについて十分自覚を持っていないと、原則論さえ無視してしまうという、悪い事例の一つであるように思えてならない(※1)。

 本書においては、それが「市場主義」を暗黙に肯定していることにしかならないのである。そして、この「創造性」と金銭的価値の関係性について、素朴に一致するものと通常考えられることは少ないし、チクセントミハイもこれを同一視していない(※2)。

 

 さて、本書がなぜこのような誤りをしたのだろうか?単なる著者の思い込みであるとみなせればよい。実際そうみなすことも可能であるが、一応本書の論理に従うのであれば、このような議論は、「過去の教育心理学における『創造性』をめぐる言説」に対する批判の強調が一因として挙げられるだろう。つまり、初期の心理学的研究では、「傑出」概念(社会的名声)を志向していたことにラージCを目指す方向性が見出せるものの、戦後の研究はむしろスモールCの方向に傾いたという(p6)。しかし、この見方がスモールCの概念自体を歪めている。スモールCの定義として、「個人にとって新しいもの」というものが挙げられているが、本書では「過去の研究の動向」を根拠にし、これに加え「個人に還元される能力観」についてもスモールCであると断じてしまう。これは決して同じものではないことがとても重要である。結局本書では知能指数の測定といったもの自体に対して、それが漠然とした(抽象的な)指標でしかなく、具体的なもの(成果)を測ったものではないことを根拠にスモールCであるとみなしているのである(cf.p67)。しかしこれは必然的ではない話のはずである。IQそのものは創造性を示す指標そのものではないが、創造的な人物である可能性まで否定していないのではないのか、ということである。もう一点、本書がIQをスモールCの指標であるとするのは、それが「個人」の能力観を示す指標でしかないというものがある。つまり、個人の能力に還元される能力観であること自体が問題であるかのように主張するのである。これによっては「社会的な評価を拾うには不十分だ」とされる(cf.p66)。これは、「創造性」の定義に立ち返り、「創造性の評価は専門家を介すべき」という点から言えば正しいが、これもまた本書では「専門家はIQを評価しない」といったことを自明視するために適切な評価ができていない。更に本書の分析は全体としてこの専門家評価自体を無視していることもすでに指摘した通りである。

 類似の話として、学校教師一個人が各児童を評価するシステム自体が極めて抽象的な、本書的な言い方をすればせいぜいのところ「スモールC」しか評価できないのでは、つまり、多元的にありうるはずの「創造性」の評価指標について、教師自身の主観の名の下に、単純化してしまうことにならないか、という考え方も大いに成り立つだろう。本書では結局このような疑義の可能性について、「一般人」の評価を疑似的に「ラージCである」とみなしたうえで教師もおおむねそれに追随していることで否定しようとした訳であるが、そもそも「一般人」の評価を「ラージCである」とみなしえたのは、夏堀の基本スタンスである市場主義的観点からのみ(ただ、厳密に言えば、一般人の言うことが市場主義的価値があるという立論にも無理があるように思う)であって、それは「創造性」と呼ぶべきかどうか、少なくともチクセントミハイとの比較においては無理がある主張である。

 

 しかし、更に考えなければならないのは、本書が注目した「創造性」に対し、過去の教育心理学の系譜自体がそのまま応えようとした訳ではないという点であろう。では何を志向していたのかは今の私には答えられない訳だが、少なくとも、「専門家評価」の問題の回避のために、抽象的な指標が導入されたことは一定の合理性があることは評価されなければならないのではなかろうかと思う。「専門家評価」というのは、然るべき立場にいる人間でないとそもそもできない。義務教育段階にいる子どもの全てにその「専門家評価」を適応すること自体が不毛なことであるとさえ思える。その中で、その専門性についてある程度抽象化し、測量可能とすることで子どもの能力を評価しようという動き自体が存在するのは極めて自然なことであり、その点に対してまで不要な批判が与えられる筋合いはない(本書のような別の価値観、ラージCの考え方について極めてあいまいな態度をとる著書であればなおさらである…)。また、言説分析固有の問題であるが、本書が分析しようとした「教育心理学の系譜」自体がそのまま系譜として妥当であるかについても議論が出てくる可能性もあろう。少なくとも本書の対象領域が恣意的である可能性については何ら言及がない。本書が「学校」そのものの研究をしていることを考えると、それを下支えする領域として教育心理学の系譜が適切であるかというような問題も抱えている。このように本書の分析枠組みには多くの詭弁が存しうる。

 

〇本書の意義と本書が自明視する「児童観=教育される主体」について

 さて、以上の問題点を抱えてはいるが、本書が全く無価値かというとこれも留保すべきであろう。まずもって本書が実証的研究であり、それが最初に述べた、これまでになかった視点から語られている点においてそう言える。留保すべき点は多いものの、本書が示した内容というのは、これまでにほとんど問われてこなかった学校教育の運用をめぐるものであったというのも事実である。

 具体的には、平等主義的な学校における規範的価値の強調に対する問題視である(p179など)。もっともこのことも必ずしも一般的に見て問題視すべきことなのか、というのは議論が分かれる。本書の分析対象は私立小学校であるものの、一般的な公立学校に求めるものとして、「創造性」が主たるものなのかどうか、規範的であることはむしろ「しつけ」といったものと合わせて学校教育に求められているものなのではないのか、という議論の余地も大いにある。合わせて、「規範性」という軸とはずれるが、苅谷剛彦などがいうように、むやみやたらな「個性」の強調を行う教育が義務教育としての基礎学力形成という側面の無視につながることもまた問題点となりうる。本書は少々そのような論点を軽視している感が否めず、「専門家」が介しうる学校教育像についてもかなり楽観的である(cf.p203)。チクセントミハイも「創造性」は学校全般の中で養われるとは見ておらず、むしろそれは不可能であるとさえ見ている印象がある(cf.チクセントミハイ1996=2016、p193)(※3)。その意味で「規範性」と「創造性」との比較でどちらがよいのかという判断は極めて難しい。とはいえ、本書で語られる平等主義的に等しい学習経験を与えることが創造性にとって大きな弊害になるのではなのかという問い(cf.p178-179)や、平等主義的な価値観に違和感を持たない教師が多数派として存在すること(そして、それらの教師は彼らが考える誤った『創造性』を平等主義のもと達成可能と考えてしまう)の問題もそれ自体が問われるべき状況となる可能性はありえるだろう。

                                      

 最後に、本書の分析そのものにおける児童観について押さえておきたい。これは以前矢野智司のレビューを行った際にも確認した教育学の議論における教育の「関係に入る」ことを前提にした議論、すなわち教師は当然のごとく児童生徒を教育可能であるとみる態度を本書でも共有しているという点である。本書の調査では児童文学を児童に創作させ、その内容について評価をする、というスタンスをとった。これが成立するためには、児童自身がこの調査(ゲーム)のルールを守る形で参加しなければならない。作品そのものを児童の現状そのものを見ているからこそ、児童が手抜きをし、まじめに取り組まないこと自体を許さないのである。私自身はその可能性にも開かれていなければならないと考える立場である。本書の調査対象が私立小学校だからという若干のバイアスもあってか、本書の内容を見る限りこの点は調査に影響を与えていなかったように思える(※4)。しかし、日本の小学校全般について同じ見方を行い、同じ調査を行うことで、同じ前提にたった分析を行ってよいものかと問われれば、私には疑問しか出てこない。また、このような見方が「あたりまえ」のものとした上で分析を行っていることも、本書の枠組みが曖昧だと言える点の一つである。

 

※1 もっとも、本書がこの点を完全に無視していたとまではいえないかもしれない。本書が最後に「ドメインに焦点化した研究からの意味づけ」ということを強調したこと(p207)も、専門性領域そのものについての必要性を意識してのことかもしれない。しかし、本書の論調は全体として、この点を無視した内容としか私は読み取れなかった。本書の分析スタンスは、仮に研究手法として確立しているとみなし擁護されようとも、留保なき手法の使用そのものが問題であることを強調しなければならないだろう。

 

※2 

「たしかに、これらの人々は皆、自分たち自身の助言を心に留めていたように思われる。誰ひとりとして金銭や名声を追い求めた者はいない。発明や著書によって快適な生活ができる程度に裕福になった人々もいるが、それが理由で幸福と感じた人は一人もいなかった。彼らが幸福と感じていたのは、自分が楽しんでかかわっていることに金銭的報酬がついてくるということであり、そのうえに、自分のすることが人類を取り巻く状況に役立つかもしれないと感じられることであった。」(チクセントミハイ1996=2016,p139)

「しかし、たとえ自由市場が実在したとしても、私たちの将来の幸福に関する限り、自由市場の決定が賢明であるかは、疑わしい。そもそも、市場の決定は現在指向的である。」(同上、p366)

 

 

※3 一方で、チクセントミハイも早い段階から適切な評価を行う「専門家」と出会うことの重要性は認識している(cf.チクセントミハイ1996=2016,p375)。ただし、それは学校の正課内の活動ではなく、むしろ課外活動の一環として出会うことを想定しているように思える(cf.チクセントミハイ1996=2016,p13,p424-425)。このような創造性の芽の学校教育の導入を考える上では、課内活動における別の目的との兼ね合い等も踏まえれば、課内・課外といった認識の議論も重要であるように思える。

 

※4 ここで問題となるのは、いわゆる「悪ふざけ」の問題である。この悪ふざけについて、本書では児童同士の「同僚性」の位置づけ、及び学校の規範的価値を吸収した上で、そこからずれようとする児童の態度の反映とみた訳だが、本書における児童はいたって素直である印象がみられるが故、このような評価自体は誤りとは言い難いという印象であった。

 

<読書ノート>

Pii「創造性研究において創造性の捉え方は、常に2つの極の間で揺れ動いてきた。2つの極とは、ラージCと呼ばれる「社会にとっての新しさ」をもって創造性とする立場と、スモールCと呼ばれる「個人にとっての新しさ」をもって創造性とする立場である。創造性が心理学の研究対象となり始めた頃、創造性研究は確かに天才研究からラージCの立場を継承してきた。しかし、戦後の創造性研究ではスモールCの立場から研究が蓄積されてきた。そして1980年代以降、アメリカではラージCの復権を主張する動向が一部に生まれてきている。背景には、アメリカでの才能教育が法的に整備され、子どもの才能を伸ばすための個別カリキュラムの開発や実施がなされていることがある。一方、日本においては、依然スモールCを中心とする創造性観が非常に根強く支持されているようである。」

Pⅱ-pⅲ「ここでこの2つの創造性観は、本来二分法で語れるものなのかどうかを考えてみる必要があるだろう。学校でのスモールCは「その子にとっての新しさ」と言い換えることができるだろう。確かに、子どもは将来どのような仕事をし、ぢのような生活を送るのか、全く未知数のあらゆる可能性を持った存在であり、日々何かしらを経験し成長していく存在である。その子どもが何か一歩歩みを進めたことに注目するのが「その子にとっての新しさ」であり、その歩みをもって創造性とみなし励ますことは教師や大人の大事な役目である。しかし、その一歩がどの方向に踏み出されたときに「新しさ」とするのだろうか。その一歩が、単なる移動や変化ではなく、「新しさ」であるとするその判断基準はどこと照らし合わせるのだろうか。ガードナーはその答えを「領域特殊性」と「本物の評価」に求めている。簡単に言うと、創造的であると判断される内容は活動領域によって異なり、その活動の職業的専門性に基づくのだということである。つまり、これはラージCの考え方を拡張したものである。これまで、ラージCは伝記に名を残すような人たちに限られたものと考えられてきた傾向がある。しかしラージCを、職業として身を立てるということ、その領域のプロとしてやっていけるだけの人材として社会的に認められることとつなげて考えれば、子どもの活動や作品を「本物の評価」に照らし合わせて、子どもが一歩踏み出した方向性を検討することができるようになるのではないだろうか。むしろ恐いのは、「新しい」という価値の基準を領域普遍的に抽象化してしまうことでかえって教育現場での多様な解釈が成立し混乱を招き、学校での子どもの創造活動を歪めてしまったり、大人の創造性と子どもの創造性は別物だとして「本物の評価」に出会う前に子ども自身をその活動領域から遠ざけてしまうことではないだろうか。」

 

P1「近年、創造性研究は2つの大きなパラダイムのなかで進められている。1つは、創造性を個人内能力や特性の高低として捉え、創造性の個人差あるいは年齢による発達を説明することを目的とした研究である。この研究は、「〜歳になると〜できる」あるいが「〜といった思考ができる人は〜ができるようになる」といった、主に「個人にとっての新しさ」を創造性として扱う。こうした日常生活における問題解決を創造的活動の到達点として扱う。こうした日常生活における問題解決を創造的活動の到達点とする創造性は、スモールCと呼ばれている。もう一方では、創造性を社会文化的な視点から捉え、芸術作品や科学の進歩、さらには政治的リーダーシップまで含めた「社会にとっての新しさ」を創り出すことを創造性の本質とみる研究がある。この「社会にとっての新しさ」の創出を基準とする創造性は、ラージCと呼ばれている。」

P2「まず第1に、創造性の研究動向として1950年代から主流をなしてきたのは、Guliford.J.Pの創造力の因子説をもとにした、サイコメトリックなアプローチである。Gulifordは創造力を、①問題を受け取る能力、②思考の円滑さ、流動性、③思考の柔軟さ、柔軟性、④独自性、独創性、⑤再構成する能力、⑥完成へ工夫する能力、入念性の6つの因子に分け、さらに個人のモティベーションや気質の違いといった特性が、創造的な仕事ともっとも密接に関係すると主張した。」

 

P6「ここで、1つ問題が生じる。「天才」と「創造性」は違うとする主張が存在することである。特に、日常生活の問題解決能力を想定するスモールCの創造性研究を志向する人たちは、そのように主張するであろう。しかし、ここでは天才研究とラージC研究との接合を次のように図りたい。先に論じたようにラージC研究が事例研究で対象とした人と、天才研究が対象とした人の才能は別物だろうか。……第1章の歴史分析で明らかにするが、創造性研究は天才研究を土台とし、そこから教育による開発可能性や子どもが将来創造的人物になることを予測するための予測可能性が社会的に求められたことと、心理学内部の方法論上の問題から、スモールCを主流とする方向に傾いていった。これに対して、「社会にとっての新しさ」を創造性とするラージCから創造性を捉え直そうという近年の動向は、天才研究と密接な関係である。おそらく天才研究の対象とされる人々が大衆一般への知名度を想定したものであるのに対し、ラージC研究は、ある特定の領域の専門家の間で「創造的」であるとされる人々を対象とするので、天才より広範な範囲を研究対象とすることができるのではないだろうか。」

P8-9「この研究では、「社会的評価の獲得」を創造性とする定義を選択する。それは、具体的には次のように提示されている。「所産あるいは反応が創造的であるのは、ある程度適格な観察者たちがそれが創造的であると自律的に同意した結果である。適格な観察者とは、所産や反応を創造し表現したその領域に通じている人である。」(Amabile,1990)。これは、通常考えられているように、創造性が個人内の能力や特性、あるいは思考といった形で、個人内に潜在的に備わっているものとして捉える創造性定義とは異質のものである。社会的評価の獲得を創造性とする定義では、特定の創造活動の領域で、その領域の専門家や評価者に認められたときにはじめて創作主体である個人に創造性が認められることになる。」

 

P32-33「天才はここでは一般知能指数が120以上ある天才児と定義される。そして天才を扱ううえで問題なのは創造する者としての性格的特徴であり、英才児が他の仲間との社会的適応に欠けず「全き人としての完成」に教師が配慮するよう述べられている。さらに、英才児は異常児童であっても、原則として普通児との混合学級で教育されるが、自由学習や課外活動において才能を伸ばすことが期待されている。ここでは明確に、天才は子どもの問題として論じられるようになり、社会的評価の獲得とは切り離された「可能態」であっても「知能指数120以上」という個人内特性だけで天才の称号が与えられることになる。そして「傑出」の意味は、他の児童との調和を重んじるような教育的配慮が必要な性格としてネガティブに捉えられるようになる。」

※本書ではこの議論と、「個人にとっての新しさ」をスモールCの定義として混同している。

P42「野口(1999)によれば、社会的構築主義の基本的な主張は、「現実は社会的に構成される」というものである。したがって社会的構築主義パースペクティブは、心理学の領域では既存の個人内の特性、思考、認知等の諸条件から現象の因果的説明をするような理論に対し、その「欺瞞」を暴露するような研究に用いられる。つまり、社会的構築主義の発想は、「解放」の実践性とつながるだけでなく、この研究の目的である創造性を個人内的なものと捉えることから、社会的なものと捉えることへの脱却を図ることにも対応するのである。言い換えれば、社会的構築主義は実践性というメタ理論の次元においても、創造性の理論の次元においても、ここでの研究目的を追求するための理論的道具としては最適なのである。」

イデオロギーの表明であるのは構わないが、その研究が片手間で終わってしまっていることには問題しかないことにもなる。

 

P66「1つはある個人がその個人にとって何か新しさを持った解決に到達すればその行為は創造的であるという観点である。もう1つの立場は、それとは逆に新しさとはその創造的所産が創造的になるためには、歴史的に流動的なその時代のある専門家のグループによって受容されることが必要であるというものである(Amabile,1990)。実際、芸術の領域、あるいは科学的な発見、新製品の開発といったいわゆる「創造的」な領域においては、社会的な「評価」の問題は切り離して考えることはできない。」

P67「さらにこの2人の違いは、創造性の「新しさ」の定義の違いだけでなく、創造性を捉える際に、所産なのか過程なのかといった創造活動のどこに焦点化するのかという研究上の立場の違いにも表れている。

※所産に重きを置くのがラージC、過程に重きを置くのがスモールCだろう。認知心理学の研究の系譜としてこの関連を説明している。前者はマスロー、後者はチクセントミハイ

P68「さらに、個人内に焦点化して創造性を考えた場合に、創造性の大きな特徴である「領域特殊性」の問題は、まったく考慮されない。その点を含め現実社会のなかでの創造的と呼ばれる現象とあまり切断されているこれまでの研究内容から脱却し、天才研究が蓄積してきたような振り出し、つまり創造性の「傑出」の意味に戻って「創造的である」ということはどういうことなのかを考えるために、社会歴史的なアプローチが必要になってきたのである。」

 

P70「「特別才能の創造性」よりも「自己実現の創造性」を重視するということは、すなわち創造性の所産よりも創造性の過程を重視することを意味し、完成された作品や偉大な創造的業績といった立場からではなく、工夫やインスピレーションを強調する立場をとることをマスローは明言する。」

※マスローはこれを「健康な人格」の追求によるものだとする(p70)。

P72「マスローが個人の内部で経験され、宗教的、例的感覚と強く結びついた「至高体験」を重要視した創造性理論を展開したのに対し、チクセントミハイは「最適経験」に理論の基礎を置く。最適経験とは、心理的エントロピーと呼ばれる恐れや脅威による意識の無秩序とは反対の状態であり、注意が自由に個人の目標達成のために投射されている状態である。」

※善に対する考え方の問題だろう。なおかつ、至高体験にこそ社会的なるものへの連接を見出しているという節さえある。

P73チクセントミハイの最適経験の8つの構成要素…「課題に達成の見通しがあること、集中、明瞭な目標、直接的なフィードバック、深いけれど無理のない没入状態での行為、自己統制感、行為中の自己意識の喪失とフロー後の自己感覚の強化。時間経過の感覚の変化。」

※ポイントはフィードバック、つまり他者評価の議論とみる(p73)。

 

P75「このモデルは、創作活動に必要とされる過去に文化として蓄積された知識体の集合であるドメインドメインから知識を獲得し変換する創作主体としての個人、個人の所産が創造的である、あるいは創造的ではないと評価するフィールドは3つのサブシステムから構築されている。ドメインは文化に支えられたサブシステムであり、個人の背景には個人的な生育史が存在する。そして、評価機能を担うフィールドは社会のサブシステムである。

 このサブシステムの間の関係性は、1988年の論文では次のような所産の循環によって表されていた。創作主体である個人は、興味のあるドメインの知識を獲得していき、そのうちにそのドメインでの新しい知識を提案する。そして、その新しい知識が創造的であるかそうでないかは、フィールドで考慮され評価される。もし、個人が提案した新しい知識がそのフィールド受け入れられたならば、新しい知識はドメインに加えられることになる。そして、また別の個人がそのドメインから知識を獲得するときに、その新しく加えられた知識もその領域の知識として獲得していく。創造性は、こういった世代間の循環的な関係が繰り返されていくものとして考えられている。

チクセントミハイによるDIFIモデルの説明だが、概ねジラールの欲望の三角形モデルにおける典型的な「良い模倣」のケースに合致する。

P74「「創造性の領域特殊性」という場合の各領域間の区分の次元は、チクセントミハイは学問の領域区分であっても既存の領域間で結合することで新たな領域を形成する例を出し、何を領域の区分とするかは明らかでないとする。チクセントミハイがこのモデルについて、既存の活動領域の境界を超える領域が増えればさまざまな循環も生じるといった場合の「領域」は、小文字のdomainで表記されており、システムを一巡する「領域」を指示しているので、ドメインからもフィールドからも区分される「領域」を想定する必要がある。」

 

P105-106「教示時における子どもたちの反応や課題終了後の会話から、子どもたち自身は破壊的な表現を「おとなに怒られる」「ふざけた」ものであると考えていることが伺える。子どもたちは、学校文化において教師に「良い物語」と評価される物語を「悪い物語」と評価されるものがあることを理解している。そして、破壊的な表現を用いた物語は「悪い物語」として評価されることを推測している。しかし同時に、資料4.3から破壊的な表現を用いた物語は、男子にとっては「おもしろい」ものと考えられていることがわかる。」

P109「しかし、音楽、美術、小説といった芸術の諸領域では、創造性=問題解決という図式は該当しない。つまり、創造性の特殊領域性を考慮した場合、創造性=問題解決という図式は普遍的に用いることはできないし、物語創作領域のように結末を限定してしまい、創作そのものを規制するようはたらく可能性さえあるのである。」

P109「そのほかにも、創造性=個人内特性という図式の問題点はある。創作した物語が、その子どもの性格特性や心理的な問題の反映として解釈される危険性である。これは、破壊的な物語からそのこの攻撃性が高いとか、何か家庭に問題があるのではないかといったネガティブな憶測を招いてしまう。創造性=個人内特性という図式は、所産=個人の内面の投影といった図式へと安易に転換されてしまう可能性がある。この所産を個人と同一視する解釈は、創作者に対する不当なラベリングへとつながるであろう。」

※この議論は重要である。結局本書が「教育の関係に入る」ことを自明視している点において、ここでの個人と社会の差異が消失してしまいかねない点との関連で。これまマズローにおける善の価値観の内包の話ともリンクしている。

 

P110「ここまでのところでは、子どもたちは「先生」や「おとな」が良いと評価する物語と悪いと評価する物語を推測し、6年生になるとそれを参照しながら創作に反映できるようになると考えられる。」

※この「学校の良い評価を意識しあたかも悪い評価となるような作品を書いた」というのは、「教育の関係に入る」ことを前提にしている。しかし、このような作品を書くのは単に「授業に興味がなく(=教育の関係に入らない)、友人達とふざけ合った結果書かれたもの」以上の何者でもない、という解釈も本来ありえるのではないのか。もっとも、本書における作品描写(p96)や児童の態度描写(p104)を見る限りはこのような層はいないようだが。

P112「第1章の歴史分析で明らかになった創造性の2つの意味、「傑出」と「自己超越性」、言い換えるとラージCとスモールCの意味の間で、創造的であるとはどのようなことを指すと社会的に受け止められているのかを明らかにする。」

※ここで傑出とは、基本的に「社会的名声や社会的評価の獲得」(p30)、そしてこの社会的名声は「事後的承認」であり、事前的研究とは異なると強調する松本金寿(1942)を参照していること(p29)を踏まえれば、ここでいう「社会」について、本書ではその極めて曖昧な定義をそのまま受容していることがわかる。「創造性は生産的か」という議論を行った際に、この曖昧な「社会」観ではラージCとスモールCのどちらが生産的か判断できないのである。これを(ある程度)規定するのは「領域特殊性」を定めるドメイン領域に極めて近い「社会」、すなわちその領域における専門家集団と考えるべきだろう。

 

P128「これらのテクニックが恋愛小説やミステリーといった市場性を持つ物語、言い換えれば「おもしろい」「つまらない」という社会的評価が、読者を得られるかどうかを決定する物語で重要視されることは、容易に理解できる。」

※市場性?

P129「学校での創作活動に対する教育は、こうした読者あるいは鑑賞者の評価に対する配慮という点で、市場性を持った物語領域と切り離されていると考えられる。」

☆p130「第4章では、高学年の児童の創作する物語が、物語の展開がより複雑になる傾向とは関係なく、男子では破壊的な物語へ、女子では道徳的な物語へと志向が分かれていくことを示した。そして課題遂行中に男子生徒が自分の創った物語を見せ合う様子が観察されたため、男子の破壊的表現の使用について、評価のフィールドが教師から仲間集団へと代わったためではないか、と考察した。これは仲間集団では非道徳的な破壊的表現が受容されやすく、おもしろいと思われると考えたためである。しかし調査2の結果から、「対仲間」の物語の評価は「対教師」の物語と差がなく道徳性が重要視されていると人々に考えられていることが示された。

 高学年男子に見られる破壊的表現の使用は、むしろ道徳性を重要視する学校内の物語評価そのものに反発する態度として考えるほうが妥当であろう。資料4.2からわかるように、実際に物語創作する前後の状況で、男子児童が破壊的表現を使用した物語を「ふざけた」ものと認識していて、その「ふざけた」物語を創作してもよいかどうかを複数の男子児童が調査者に確認している様子が観察されていた。つまり、破壊的表現を用いた男子児童は、学校内で評価される物語は「まじめな」物語であるが、「まじめな」という評価基準に反発して「ふざけた」物語を創作したということである。……

 学校独自の評価に対する姿勢のなかに、別の文化の生成の可能性を見い出す議論もある(ウィリス、1996)。しかし、破壊的表現はミステリーや怪奇小説といった社会ですでに認知されている物語ジャンルにおいて不可欠な1つの要素でしかない。」

※調査結果の用い方がおかしい。調査2では大卒の青年・中年層に対して「対教師」「対仲間」での評価を「推測」してもらっているが、これは当の小学生そのものの意見ではない。そもそもこの評価調査では因子分析を行なっているが、この調査項目自体に「教育から離れる(ここでいうと物語評価から離れる)」可能性を考慮した回答項目がないように思える。また、ウィリス批判の態度に関しても、離れる可能性そのものを否定し「創造性」の議論に組み込まれることを所与のものとしているのは違和感がある。

 

P135一般人における「天才児」と「創造的児童」の違い…「天才児は理解に優れこれから学習する内容も先取りしてしまうといった「能力観」で示されるのに対し、創造的児童は積極的に質問する、自発的に学習を進めるといった授業への「態度観」で示される。また天才児は「授業を聞いてなくても良い成績が取れる」といった「成果」で特徴づけられるのに対し、創造的児童は「自分なりの問題を見つける」といった「問題発見」までが特徴とされ、課題解決できるかどうかといった学習成果は問題とされない。」

※類似の指摘として「創造的人物の特徴において、成果があまり重視されていない」とされる(p138)。

P135「天才児が文化資本に富む家庭環境と想定されているのに対し、創造的児童の家庭環境は会話が多く円満である。また、スモールCといわれる日常の小さな問題解決能力に結びつくような生活的知識を獲得しやすい環境である。」

※ここでのスモールCの定義は相当に曖昧である。

P138-139「「傑出」の意味が失われた創造的児童観は、社会のなかで創造的であることから切り離されている。つまり、同じ創造的という言葉で表現される状態が、学校のなかで創造的であることと、社会のなかで創造的であることとの間で、異なるものとして人々が受けとめているのである。学校で創造的であるためには、天才概念が内包していた「普通の人ではないこと、普通とは違うこと」を目指すのではなく、他者と協調的であり自発的な態度で学習活動に参加し、家庭も円満で生活的知識が獲得されていることが必要となる。この結果は、戦後文部省編『教育心理』で打ち出された創造性の意味が、社会的に浸透し貫徹していることを示しているのではないだろうか。

 学校で創造的であることが社会で創造的であることと異なるならば、学校で子どもを創造性に富む人間に育成するという教育目標が、非常に空虚で社会的意義を持たないものとなる。」

※色々な部分で詭弁がある。前提としてここでいう社会が「創造性」を定義するという点がおかしいのではないのかという点、同じ意味で学校と社会で「創造性」の優劣はつけられないという点、更に「傑出」の意味が失われたとする言説はあくまでも「心理学界」のものであり、これまた社会とは異なるという点。ここで最大の問題は「社会」の言葉の意味が持つ多義性を利用して、それを過大評価しようとする態度があるのではと見えてしまう所。ここでいう社会的意義をそのままラージCと捉えてはいけないのではないのか?

 

P140「これらの信念が示しているのは、学校での創造性教育がラージC、言い換えると「社会にとっての新しさ」を目指しているのでもないし、スモールC、「自分にとっての新しさ」を目指しているのでもない、ということである。」

P140「確かに高学年が創作する物語は、その構造が複雑さを増す。その反面、男子のなかであるいは女子のなかで、非常に似通った印象の物語しか創られなくなっていく。これは、オリジナリティという視点からすれば、創造性が低くなったと判断せざるを得ない。」

※これは何による判断か?少なくとも何か客観的に示された指標により本書で立証している訳ではない。物語の傾向を量的に示しているのは「問題解決構造による分類」(p91)のみであるが、これを見るとむしろ学年が経るにつれ、問題解決のタイプは分散しているため、これだけならむしろ多様な傾向があるとさえ読める。著者の主観以上のものを指摘する内容ではない。

P140-141「この社会的信念は、児童に対して社会的信念の内容に準拠した行動をとるか、あるいは反発するかの二者択一の態度形成を促す。そのことによって、準拠する場合の物語パターンをなぞるか、反発する場合の物語パターンをなぞるかしか、創作の手段として選べなくなる。その結果、どちらかのパターンに分類できる似たような物語が多く産出される。」

※これはいわゆるダブルバインドの強要と同じ問題点を抱えており、やはり言い過ぎ。そもそもゲームに参加するかどうかという観点が欠けている。

 

P142「学校のなかで評価される創造性は、学校文化に適応的である範囲においてのみ高いと評価されるのであって、それは市場性を持った創造性とは異なる評価基準を持っているから(※小説家として成功するための経験は学校生活から得られないので)ある。」

※あたかも創造性=市場的価値に収斂させる態度自体に問題がある。本書を通じてこの前提は疑われない。

P142「まとめてしまえば、社会一般の人々は、学校というフィールドでは、市場性を持った創造性、職業に結びつくような創造性、つまりラージCは育成されないと考えているといえるだろう。」

※これも厳密に言えば、因子分析をもとに傾向を指摘しており、因子形成における質問項目形成において「市場性」以外のラージCが存在する可能性をあらかじめ否定していること、及び厳密に言えば「市場性」の必要条件しか示していない因子群でしかなく、「市場性」とこれを表現すべきかは議論すべき。(むしろ「おもしろさ」以上ではない)

P168-169「本章ではさらに創作活動における「平等主義」の徹底という教育実践上の価値が問題となった。しかし、創造性の問題に限定した場合、教師のなかには道徳性の強調に対しても「平等主義」の徹底に対しても、学校内で求め伸長の観点からこうした言説を疑問視しているといえるだろう。不一致群の教師たちのこうした傾向は、何を表していると考えられるのか。」

※しかし、この不一致群とされる教師はマイノリティである。どの程度かの判断は難しいが、思った以上に少ない可能性がある。説明が難しいのは「社会と教師の認識のズレ」がそのままこのような説明に繋がるとは限らないという意味においてである。

P171「また、学業成績との関係と副次的特徴では注目すべき特徴がある。挙げられた数の多いほうから見ていくと、学業成績は良く、本をよく読み知識が豊富で、自発的な学習態度で授業に臨み、親とは良好的な関係である子どもが創造的であるとされている。これは、調査4で明らかになった一般成人が持つ創造的児童のイメージと一致している。つまり、創造的児童とは、学校文化に適応的な子どもを指しているのである。」

 

P175「破壊的な表現を使用し不幸な結末で終わる物語4の評価の場合、教師の66%が意味内容を否定した。そして、さらに否定的評価での一致群では、多くの教師が創作者である子どもに心理的問題があることを推測している。これは「認めてあげる」という姿勢の一貫性が失われているばかりではなく、「行き過ぎたカウンセラー」的態度といえるだろう。」

※ただしこのような解釈者も、一致層中半分以下(41%)である。また、逆に不一致層において「いたずら」を示唆する者が半数近くであることも興味深い傾向。なお、逆の層の回答割合はどちらの場合も4分の1程度。

P178-179「主人公がいない劇を体験することは、みんなが参加する学校行事としては意味があるかもしれない。しかし、そのような実践は、教師には子どもの演劇の素養を見出し励ます機会を、子どもには自分の才能に気づく機会を奪っていると考えられないだろうか。スポーツの例にしても、学芸会の演劇の例にしても、誤った平等主義の考え方が浮かび上がってくる。どの子もすべての領域で平等な成果があげられるわけではない。それは学芸会の特定の役ごとに、希望者全員に対してオーディションを実施するといった機会の平等とは異なるはずである。すべての子どもに対してすべての領域で同じ活動量を保証することが平等主義ではないだろう。「みんなができる」ことを強いられれば、才能のある子どもたちは不利益を被ることにもある。創造性は特殊領域なのである。むしろ、創造的活動のさまざまな領域を体験した後は、その子どもごとに才能が見出せたり興味関心がある特定の領域で、プロフェッショナルへの道筋が見えてくるような経験を積ませることが大事なのではないだろうか。」

P179「むしろ、創造的活動のさまざまな領域を体験した後は、その子どもごとの才能が見出せたり興味関心がある特定の領域で、プロフェッショナルへの道筋が見えてくるような経験を積ませることが大事なのではないだろうか。

 「平等主義」の徹底という教育的価値が創造的伸長と葛藤するということは、「社会的評価の獲得」を創造性とする創造性定義からすれば、当然のことであろう。ここで重要なのは、この2つの価値の間で葛藤を感じる教師は、おそらく創造性を「傑出」の意味で捉えているがゆえに、創造的伸長と「平等主義」の徹底がぶつかると感じているのではないかということである。つまり、不一致群の教師はラージCあるいは「社会にとっての新しさ」を創造性として考えていることが推測されるのである。ラージCの概念には「普通からの傑出」という要素が含まれている。これは「みんな一緒に、みんな平等に」という相対評価を不可能にする実践とは相容れないので葛藤を生じさせる。しかし、スモールCは「その子どもにとっての新しさ」に基準を置く到達度評価によるので、「みんな一緒に、みんな平等に」という実践とは矛盾せずに創造性伸長に取り組めることになる。」

※平等主義と創造性の対比。

 

P180「そうであるならば、子どもがもっと多様な物語が創れるように方向づけるためには、教師が道徳性の強調ではない多様な評価軸を用意する必要がある。その点から考えれば、社会的信念と不一致な評価を行う教師の存在は、子どもの創造性伸長に非常に有益であると考えられる。

 しかし、それでも問題は残る。肯定的評価に関して、つまり何を創造的であるとするのか、何を目指して創造的活動を指導していけば良いのかについて、教師のなかに一貫した言説が存在しないのである。「豊かな〜」というレトリックで創造的児童を表現する教師は多かった。では「豊か」にするには何をすべきなのか。」

※それどころか、本書自体が創造性の望ましさについて放棄しているように見える。

P185「おそらく現代の「危機」は、課題として与えられた場合に創作活動自体を放棄することではなくて、自分独自の創造による創作を放棄することなのではないだろうか。教師やおとなにとって、創作活動自体を放棄するほうが「危機」として捉えやすいし、対処を考える必要性に迫られるであろう。しかし、自分独自の想像による創作の放棄は、「危機」としげ認識することすら難しいし、対処がし難い。このようにわかりにくい「危機」を乗り越えることなどできるのだろうか。」

※この主張は主観的前提である、同一的物語の傾向が強まることによる創造性の喪失を前提にしている。ただ、ここでいう「危機」自体を教育可能性の危機として捉え、それがそのまま「創造性」の危機につながる可能性自体は否定されないように思われる。これはまま「創作活動自体の放棄」の話である。結局この論点の違いは「教育可能性」という論点そのものを放棄する形で展開されており、それこそが本書の問題点である。そしてこのことを社会構築主義的アプローチによって展開しようとしてしまう態度そのものの問題にも繋がる。

P187「不一致群の教師は、学校に内在的な価値を越えたところにあるのが創造性であると想定し、ラージCの観点から創造性を捉えていると考えられる。したがって不一致群の教師は学校内で創造性伸長を図ることの困難さを抱えている。」

※これも一種の飛躍であり、本書で定義された不一致群の教師が皆この態度を取っているとは必ずしも言えない。調査結果における不一致の解釈が多義的でありえるからである。本書ではそれを一元的解釈に還元してしまっている。それは、この意味における不一致群の割合がどれだけか、という問いへの解答の難しさと一致する。

 

P188「スモールCの創造性理論は所産、成果といった観点は抜け落ちている。したがって、「態度」で表される一般成人の創造的児童観は、スモールCを強調してきた創造性研究と親和性を持つのだろう。」

※しかし、そもそも学校空間でラージCの取り組みが可能なのかは本書の議論で蚊帳の外ではなかろうか?それはある意味で一般的な教育空間内での教育そのものを否定することになりはしないか??ここでも「学校」「社会」そして「学問(発達心理学)」の諸フィールドの特性を考慮に入れないまま、むしろそれを混同し議論してしまっている弊害はないか。ここには無責任な「個の尊重」と同じ学校現場の実態無視の態度が見受けられる。

P203「創造性において重要なのは、評価なのである。実際に子どもたちが職業的専門家から、専門的な評価基準によって評価される経験が重要なのである。専門的な評価基準は、学校に創造性の多様な評価基準を持ち込み、教師の子どもに対する評価そのものを揺るがすことになる。おそらく、職業的専門家は、教師が「〜が豊かである」というレトリックで創造性の高さを指摘した子どもではない子どもに創造性の高さを見出すことも多いだろう。その専門家の介入によって、学校での評価が多様になることは、ピグマリオン効果がより多様な評価基準に沿って生じることも期待できる。少なくとも、演劇の専門家の指導ならびに評価であれば、子どもの出演機会が均等になることを最優先とし、演劇そのものの構造を破壊するような実践が行われることはないだろう。

 地域と連結して進める総合学習の形態は、「傑出」の意味やラージCの創造性につなげるような創造性教育の実施には好都合であると考えられる。地域に在住する、ある特定の領域で社会的に評価された専門家とのコーディネートを担当する職員を、担任を持たない教員や市区町村の行政機関のなかで設ければ、すべての教員が総合学習の準備に負担を背負うことはなくなり、それにともなう経費も減少するはずである。総合学習で取り上げる領域もセミプロも含めて多様なものにすれば、専門家1人あたりの学校教育に割く時間もそれほど多くはならない。地域在住の専門家には、ボランティアの一貫として学校教育に取り組んでもらうことを要請すれば、高額の謝礼を必要とすることはない。」

※これについても正課内でやるべきものか、正課外でやるべきものとかという論点はあってよいように思える。また、ボランティア論についても、「補習」の性質を持つ教育ボランティアならともかく、「専門性」との関連では報酬の問題を軽視していいのかという論点が気になる。

 

P206「⑤の批判にある教職の専門性ということについては同調できない。確かに、基礎学力に関する教科の教授や、生活指導の面で教師の専門性は見出されるし、保護しなければいけないのかもしれない。しかし、調査で明らかになったように、創造性教育において教師が「何を創造性であるとするのか」という創造性に、創造性教育において教師が「何を創造的であるとするのか」という創造性の評価基準は曖昧なものであり、そこに専門性があるとは考えにくい。また、さらに佐藤(※学)は教師たちが専門家として自律性と見識を形成し合うために、同僚性を構築することを提案している。この点については疑問が残る。調査5での回答のように、不一致群の教師は、一致群の教師に対して自分が「浮いている」あるいは一致群の教師に対して「嫌い」であると感じている。おそらく、道徳性以外の評価基準を形成する可能性があるのは、不一致群の教師たちである。しかし、同僚性の構築は、不一致群の教師も一致群の教師もひとまとめにし、共通の言説を支持するよう機能するだろう。そしてそれは、社会の言説と一致する方向で機能すると予測できる。なぜなら、学校で道徳性が重視されることを間違っているとは、誰も否定できない。道徳性が創造性の単一の評価内容を形成していることは問題として指摘できるが、道徳性が教育現場で価値を持つことを否定することはどの教師もできないのである。」

※繰り返すが、本書自体が創造性を定義する努力を怠っている。また、既存の学校の枠組みを前提にしては創造性に問題が出てくるのをほとんど回避できないとする前提に立つ以上、ネオリベ支持の態度を本書は基本とる。しかし水掛け論以上の論点は本書で提出されているという評価はできない。なお、創造性の定義の欠落について、危機との関連から「ドメインに焦点化した研究から意味づけをされなければ、本当に説明したことにならない」と、一定の注釈は加えている(p207)。

日本における「競争と選抜」の言説について―西尾幹二を起点にして―

 今回は西尾幹二の教育論を検討するのに先立ち、その中心的論点の一つとなっている「競争と選抜」の関する議論を検討したい。この「競争と選抜」の議論は、日本人論が興隆した時期に並行して、70年代後半から80年代にかけて多くの言説が語られたように思える。西尾の「競争」観もこの日本人論の興隆時期の言説と適合的である一方で、多くの論点を排除しながら90年の中教審答申における「競争」観に反映されていることが確認できたため、今回はそのことについて集中的に考察してみたい(※1)。

 

〇西尾の「競争」観について

 西尾の議論する「競争」観についての特徴をまとめると、次のようなものがある。

 

  • 日本においては、大人の社会における「競争」を避けており、それが野蛮なものとさえ見られている(西尾2013,p44)、その競争が18歳時の「選抜」に集中しており、これが学歴社会を生む決定的要因となっているとする。
  • 大人の社会では「競争」は適切に行われていない(西尾2013、P251、p254)。
  • この「競争回避」は日本人の心性に基づく(西尾2013,p699)。具体的には、日本の近代社会は江戸中期農民の村落共同体の上にあり(西尾2013,p193)、これについて「村落的メンタリティ」(西尾2013,p230-231)だとか「同族的メンタリティ」(西尾2000,p175)という言葉で表現している。
  • 日本型合意社会は個性やロマン的情熱をじわじわと吸い取って、人間を小型化し、勇気を阻喪させる独特な効率化社会でもある(西尾1992,p23)、このような社会からは日本人が率先して世界に寄与できる新しい原理や、真の創意というのは生まれてこない(西尾2013,p261)

 

 以上のような形で語られている「競争」というのは、どう考えても見かけ上の「競い合い」を意味しているのではなく、その「競い合い」によって導かれる「能力の向上」に対して目が向けられているのは明らかであるように思える。このため本論における「競争」は、この「能力の向上の枠組みとして機能する競争」を前提とし、そのような『競争=能力向上』というのがこれまでの言説の中で如何に語られていたのかを考察する。

 また、上記の議論を一見する限りは、大人の社会では「競争」が行われていないかのような印象も受ける。このため、検討の対象については、企業における競争に特に注目して行いたい。

 

〇「競争」の概念整理、及び教育社会学における「競争」について

 さて、この「競争」という言葉に含まれる意味も多義的であることも留意すべきである。まずこの「競争」は(ア)「個人」の能力向上に寄与するプロセスとして捉えられる。今回の考察の中心となる論点はこの意味における「競争」である。しかし、まず「競争」は(イ)学歴獲得ないし地位獲得プロセスとして語られているに過ぎず、あくまで「学歴」「地位」そのものを指しているにすぎない、という可能性もある。これは「競争」と呼んでいたものが実質的に競争として機能していない場合に起こる。次に、特に職場を対象にした「競争」の場合、(ウ)競争というのは「個人」を対象にしたものではなく、「企業間」の競争を行っているに過ぎない可能性もある。これは成果指標を「企業」の生産性向上として捉えている場合、生じうる論点である。特に集団主義的な組織が語られる際、その組織が優れているという見方をする場合はこの「競争」の用法が用いられている可能性がある。最後にこの「競争」が(エ)「能力」の向上ではなく、「生産性」の向上を指している場合である。この「能力」と「生産性」の違いというのは、そこに「時間(労働時間)」の概念を含むか含まないかという点と密接に関わる。管見の限り、この観点から日本の「競争」の優位を語っている文献はあまりないように思える(※2)が、端的に言えば日本が競争力があったというのは、長時間労働を強いられてきた結果なのではないのか、という見方である。この論点は「競争」を語る上で無視してはいけない論点ではなかろうかと思う。以上を簡単にまとめると、(ア)の定義を中心とした場合それぞれの関係性は、

 

「競争(ア)」は、競争が機能し、個人の競争を指し、かつ能力向上を志向したものであること

「競争(イ)」は「競争(ア)」の定義から競争が機能していないもの

「競争(ウ)」は「競争(ア)」の定義から競争の個人的側面が無視されたもの

「競争(エ)」は「競争(ア)」の定義から競争による能力向上を否定し生産性向上のみから捉えるもの

 

と整理することができる。

 

 この「競争」の議論がなされていたフィールドの一つとして教育社会学の分野が挙げられるだろう。教育社会学における「競争」の議論というのは特に学歴論、ないし「メリトクラシー」の議論としてとして集中的に行われていた。中村高康はこの「メリトクラシー=業績が社会的成功の指標となる」傾向が進展するとする「メリトクラシー進展論」と、業績よりもむしろ特定の社会的階層に社会的成功は制約されているとする「メリトクラシー幻想論」の2つの系譜の存在を指摘する(中村「大衆化とメリトクラシー」2011,p34-35)。

 ここでいう「メリトクラシー進展論」はおおむね「競争(ア)」を支持する論とみてよいが(ただし、「競争(エ)」の議論を行っている可能性も否定できない)、「メリトクラシー幻想論」は基本的に「競争(イ)」を支持している論とみることもできるように見える。しかし、厳密にいえばこの指摘は正しいと言い難い。というのも「競争(ア)」と「競争(イ)」というのは、定義として「絶対的」な指標から差異を語るものであるが、メリトクラシーの2つの立場からされる「競争」の議論における「業績」の有効性というのは、あくまで「相対的」なものにすぎないのである。結局、「メリトクラシー幻想論」についても、競争が能力向上に寄与するということまで否定している訳ではなく、それ以上に階層等の影響を強く受けるということを実証的に示していた系譜にすぎないのである。本論の趣旨からいえば、むしろ「メリトクラシー幻想論」もまた「競争(ア)」の枠組みに入れるべき論であるということである。

 このような性質を踏まえると、教育社会学の分野からは概ね総意として「競争(ア)」が正しいかのような結論を導きかねないことに注意が必要である。実際、このような収束の可能性について、教育社会学ではしばしば「再帰性」の概念をもって、つまり、「誰が見ても納得できる基準が用いられているのではなく、そもそもオールマイティな基準など設定するのが不可能である以上、メリトクラシーは常に「本当か?」と反省的に振り返って問い直される性質を本来的に持っている」(中村2011,p19)ことをもって、メリトクラシーを検討しているのである。

 但しこの検討というのは、「競争(イ)」の焦点となる競争の機能の有無を検討するというよりも、「競争(ア)」の観点から「どれだけ競争が機能するのか」を問うものである。これは、教育社会学自体が「階層問題」といった不平等をめぐる問題について焦点を当てるため、それを回避するための平等な制度設計を目指す立場にあるからこそ、「競争(ア)」への収束を結果的に行おうとしてしまうのである。言い換えれば、教育社会学にとって「競争(ア)」か、「競争(イ)」かという論点はそれ自体が直接の対象になっていないのである。

 

 結果として、この「競争」をテーマとした議論というのは、教育社会学ではなく、労働研究が中心的な地位を占めるといってよいだろう。

 

〇西尾の「競争」観の構築と参照著書の見解について

 さて、まず西尾の「競争」観に影響を与えたと思われる、西尾が参照している文献にあたってみよう。西尾の「競争」観が確立したのは「日本の教育 ドイツの教育」(1982)においてであり、本論であたるのは基本的に1982年以前の文献となる。

 

・脇山俊「社会の出世競争」(1978)

 ある意味で西尾のいう「競争」観というのに最も適合的なのが、脇山の著書で語られる「競争」観である。

 まず、脇山は「日本=チームとしての組織」「アメリカ=個人の能力を最大限に生かす組織」と捉え、「日本でも従来のチーム制は、人件費が安く労働力が豊富であった時代の産物」だったとする(脇山1978,p47)。このような「競争(ウ)」や「競争(エ)」として日本の競争力があったという見方は決して脇山に限らず、堺屋太一などが述べていた、低賃金体系が日本の高度経済成長を支えたといった言説ともマッチする(堺屋太一「「中年」日本の憂愁」1978,『文芸春秋1978年7月号』)。

 また脇山は、日本の「競争」は陰性とするのに対し、アメリカの競争は陽性であるとして、アメリカの競争の方が優れているものと述べている。

 

「つまり、アメリカのように、堂々と正面から競争を挑むという陽性的なところに欠けている。陽性の競争と陰性の競争と、どちらが「激しい」競争であるかといえば、矢張りカルテル協定の制限的効果は何者にも増して大きく、日本の方が、激しさは少ないと言わざるをえない。

 一発勝負という余りにも激しいゲームのルールを設定してしまったがために、競争そのものはお互いに尻込みしてしまっているわけである。岩田氏は、単に、ゲームのルールという前提条件が厳しいことをもって、競争そのものが厳しいことの理由にしているようであるが、そこに論理の飛躍があると考えざるをえない。」(脇山1978,p66)

 

 そして、このような優劣関係の根源となるのは、アメリカは「何度でも競争できる」環境にあることであると脇山は考えているようである。

 

「このようにアメリカは、大学でも企業でも敗者復活戦を何回か戦うチャンスが与えられる社会である。チャンスは何回か与えるかわりに、一つ一つの勝負は厳しく純粋に勝負として割切っていくという考え方である。日本のような「泣き」や、温情の入り込む余地はない。日本では、大学も企業も、すべて一発勝負である。一発勝負だから、アメリカよりも厳しい血みどろの戦いとなってもよさそうなものだが、実際には、そうではなくて、お互いに、ギリギリの勝負を避けて、馴れ合いの八百長試合をやったり「泣き」を入れて同情を買っているような中途半端なところがある。

 一発勝負であるために、お互いに勝負に徹し切れないのである。」(脇山1978,p67)

 

 後述するが結論から言えば、このアメリカ的なイデオロギーを含む「競争」観が正しいかどうかは大いに疑問に付すべき点である(※3)。しかし、西尾幹二の「競争」観は完全にこの見方を支持しており、これの改善するために執拗なまでに大学入試改革を主張するようになるのである。

 またもう一点、本書と西尾に議論の共通点として挙げられるのは、「日本の制度疲労」とでも言うべき状況に時代が差し掛かっている、という見方である。

 

「経済的要因と非経済的要因とがもはや両立せず、両者が矛盾するようになるのである。企業の業績は伸び悩み、経済的には、従来のような日本的経営をそのまま踏襲して行くことは不可能となる。また、年功序列などを始めとする日本的経営の要素をすべて維持していくことは不可能となり、日本人に適しない経営方針をも、敢えて採用しなければならないという、不整合な選択を強いられることになる。あるいは、試行錯誤を経て、新しい形の整合性が実現されるのかもしれないが、それには、多分、長い時間がかかるのだろう。」(脇山1978,p191)

 

 この背景的要因の一つとしては「競争(エ)」の観点から、つまり効率の良い生産性という観点が挙げられる訳だが、それ以上に日本人論的には、先進的となった国として、他国を追随する時代は終わっただとか、他国をリードする創造的なものの産出こそ重要だ、といった言説が影響力を与えていると言えるだろう。

 

・麻生誠、潮木守一編「ヨーロッパ・アメリカ・日本の教育風土」(1978)

 本書も西尾の「競争」観の基礎を支える一冊といえる。まず、本書はアメリカの競争社会性については次のような認識に立っている。

 

「このように自由と平等と、それにもとづく幸福の追求、つまり成功を重視するアメリカ社会における教育の機能様式の基本的な性格を、社会学者のターナーは「競争移動」という理念型を使って、あざやかに描き出している。

 「競争移動とは、多くの人間が、公認されたわずかな賞を目指して競う、競技会のようなものである。競技会はすべての参加者が公平な立場で競い合う場合にだけ、公平だと評価される。勝利はただ自分の力だけで獲得しなければならない」。これが理念型化されたアメリカ社会であることは、いうまでもない。」(麻生・潮木編1978,p54-55)

 

 「競争」の観点から言えば、「このように、アメリカの大学の門戸は、日本と違って大きく開かれている。しかし競争は入学時ではなく入学後にはじまる。」(麻生・潮木編1978,p62)といった指摘は西尾もそのまま語る。しかし、他方で西尾の主張と異なる主張を本書では行っていることも無視してはならないだろう。例えば、初等・中等教育段階における「競争」についてである。西尾は欧米の競争は18歳未満の子供には適用されていないと断じる。

 

「ヨーロッパの教育でもアメリカの教育でも、共通しているのは、競争は十八歳から始まるということだ。十八歳未満の子供は齷齪した勉強から解放され、本当に好きなことをいろいろ暢やかにやる。その結果、一見、同じ年齢の子供の算数などの成績は日本の方がずっといいということになるやもしれないが、明日利益を生まないものに賭けてみる貴族主義的精神や、遊びの中の冒険の精神――それがなければパラダイムを転換する力は育たない――が生まれるのは、子供の頃の独創的生活があるか否かにかかっている。」(西尾1992,p287-288)

 

 しかし本書で語られている「競争」観というのは、アメリカの競争は万能であり、18歳未満の子どもも当然競争にさらされているというものであった。

 

「競争の平等の問題は、小学校から始まる。学齢に達した子どもは、コミュニティの小学校に通学する。そこでは子どもたちは、出身階層や経済条件だけでなく、人種や国籍についても、完全に平等に扱われる。家族連れで渡米する日本人が、まず驚かされるのはこの点である。ほとんどの日本人の子どもはアルファベットも十分に知らない。しかし入学を申し出れば、実にあっさりとむずかしい手続きもなしに、その日からクラスに加えてもらえる。移民の国ということもあるかも知れない。しかしそれ以上に教育の普遍性と機会の平等の理念が、そこには働いているとみていいだろう。

 しかし日本人の子どもは、やがてその機会の平等が、競争の自由と表裏の関係にあることを知らされる。たとえかれが日本の小学校の三年生で、アメリカでも三年生のクラスに入ったとしよう。先生はすぐにかれの算数の学力がケタはずれに高いことに気づく。そしてかれは、四年生あるいは五年生のテキストを与えられる。しかし国語となると、これはとても授業にいていけない。その時間になると、かれは一年生か幼稚園のクラスに送られたり、特別の授業をうけることになる。それは一般のアメリカの子どもの場合にも同様である。同じ三年生のクラスに所属していても、学ぶ内容や水準は、子どもによって同じではない。ターナーのいう「競技会」は、すでに小学校の段階から始まっている。」(麻生・潮木編1978,p55-56)

 

 また、西尾の主張として、「欧米人は進学に対して自分の能力を弁える」というものがある。これは本書からの影響も確実にある点である。

 

「以上イギリス、フランス、ドイツのいずれにおいても、日本にみられるような無差別な学歴信仰は存在しない。国民は自らの分際を守り、自分の置かれた身分や階級や役割の差を越えようとはしない。ましてや教育によって、この差を越えようとは考えていないし、越えられるとも思っていない。」(西尾2013,p39)

「どこの学校を出たかという「学歴」が問題にならない理由のひとつとして、「学外試験」や「国家試験」制度の効果があることも指摘のとおりであるが、だからといって、分をわきまえずに「アカデミック」なものを志向する愚かさはイギリスの人には縁遠いようである。」(麻生・潮木編1978,p38)

 

 しかし、この議論は必ずしも「国民性」の話で片付けてしまってよいものか検討の余地があるように思う。西ドイツの事例においては、次のような「大学に出ることの難しさ」自体が進学するメリットの阻害要因になっていることを示唆する。

 

「話がやや横道に入ったが、いずれにしても、西ドイツの場合には、いったん大学教育を受けるとなると、かなりの長期間の学習生活が必要で、最終的な資格をもらえるのが二〇歳台(※ママ)後半になるのが、ごく一般的なケースである。このように、義務教育終了とともに職業生活に入れば、二〇歳代前半には一応経済的に自立できるようになるのに、いったん大学教育を受けるとなると、かなり長期間、場合によっては三〇歳ぐらいになるまで、経済的自立はむずかしい。こうした事情がひとつ、西ドイツで大学進学熱があまり高まらない原因になっているものと考えられる。」(麻生・潮木編1978,p126-127)

 

 西尾の教育論も比較対象としては西ドイツが中心であったが、このような観点から「進学しないこと」が語られたことはなく、「国民性」の問題、又は競争が活発であることの説明としてのみ扱われ(※4)、配慮されることはないのである。

 余談であるが、「競争」をめぐる言説が日本人論とあまりに密接となっていたことはこの当時の「競争」をめぐる言説をみれば明らかである。「タテ社会原理」(麻生・潮木編1978,p200) 「甘え学歴社会の構造」(麻生・潮木編1978,p179) 「「恥の文化」の超克」(占部1978,p92)、「甘えの意識構造」(占部1978,p133)など、この時期の日本人論で語られていた用語がそのまま議論の背景の説明として目立って用いられている。これはある意味で小池和男のかの病的なまでの「日本論」批判にもこの系譜の存在が如実に表れていたのでないのか、ある意味で小池の言説もその一点に限り擁護の余地があるのではないのか、という見方はあながち間違いでないように思えてしまう程である。

 

・岩田龍子「改訂増補版 学歴主義の発展構造」(1981=1988)

 岩田の議論においてまず重要なのは、日本と欧米の能力観の違いについての指摘である。

 

「すなわち、著者の知るかぎり、アメリカの社会において、ある人間のもつ能力が問題となるとき、人びとは〝潜在的な可能性〟としての「能力」よりも、圧倒的に「実力」すなわち訓練と経験によって彼が現実に到達しえた能力のレヴェルに関心をしめすもののように思われる。このことは、たとえばアメリカの人事慣行、なかでも採用のやり方に明瞭にあらわれている。と同時に、それはまた、アメリカにおける経営組織の構造とも密接な関係をもっている。すなわち、しばしば指摘されるように、アメリカの経営組織は、一人の人間によって担当しうるような、明確に規定された職務を積みあげて、全体として組織目標を達成できるように構成されている。このような型の組織が要求する人材は個々の職務を遂行するにたる「実力」をもつ人びとであり、また一部の幹部候補をべつとすれば、遠い将来大成する可能性よりも、現在空白のポストを埋めるにふさわしい人物、その職務をこなすにたる人物である。

 このような傾向は、しかし、経営体の人事採用においてばかりではなく、その他の分野、たとえば大学入学者の選択や大学における受験科目の決定などにもかなり明瞭にあらわれているように思われる。……

 これに対して、日本の社会においては、人びとは潜在的可能性としての「能力」にたいしてよりつよい関心をしめす傾向がみられる。このように、日本の社会には、能力の一般的性格についての、あるぬきがたい信仰のようなものが存在しているために、すぐれた「能力」をもつ人、すなわち「できる人」はなにをやらせてもできるのであり、逆に「駄目な奴」はなにをやらせても駄目なのだと考えられやすい。」(岩田1981=1988,p121-122) 

 

 ここで「潜在的」「顕在的」とでもいうべき区分けで能力観を規定し、なおかつ日本の社会における評価はアメリカと対比されながら、「能力評価の基準がとかく一元化するような傾向、および能力評価が人間評価につながりやすいという傾向がみられる。」とされる(岩田1981=1988,p126)。この全人格的な評価がされるという傾向については、幅広く「競争」論者に支持された言説であり、西尾もその例外ではない。

 

「言い換えれば、ヨーロッパには純粋に知識を知識として愛するという伝統がある反面、知識は局部的にしか人格に関わっては来ない。知識は人間的価値の一部にすぎないという観念が根強く存在する。結果を問わない知識愛、すなわち自己目的以外のいかなる目的も持たない認識へのパッションが、やがては近代科学を生み出して行くのだが、それは全人格的な行為ではなく、人格からいったん切離された真理探究心に支えられている。行き過ぎれば不毛な、破滅的な認識欲になりかねない。

これに反し日本人は、知識と人格とを分けて意識することができない。知識を人間的価値の一部にすぎないとはどうしても割り切ることができない。これはある意味で日本人の強さでもある。現代でも日本の会社員は、スペシャリストとしての知識を会社に切り売りするのではなく、全人格的に会社に奉仕し、私生活をも顧みない。」(西尾2013,p240)

 

 しかし、本書は前掲2書と比べ「競争」の語り口が異なる。前掲2書が概ね日本の「競争」に対しては否定的・批判的な見方をしていた、つまり「競争(ア)」の観点が日本に乏しかったとするのに対し、本書は比較的肯定的な立場をとっており、絶対的とは断じていないものの、就職後もなお「競争」は激しいものとして捉えるのである。

 

「さて、しかし、すでに「学歴決定論」批判において検討したように、この能力の証明がその後の出世コースを決定してしまうわけではもちろんない。この点で、「学歴決定論者」は決定的な誤りを犯しているといってよい。

逆に、このような誤った見解への反動として、現実の企業が能力主義を採用していることを理由に、学歴社会の存在を否定ないし軽視する見解も、前者とは逆の誤りに陥ったものということができよう。実態は、いくつかの節目をもつ、ハンディキャップ競争とみるのが正しい」(岩田1981=1988,p165) 

「第三の機会は、経営体に参加したのちにおこなわれる昇進競争においてめぐっている。そこでは、勝敗は第一・第二の挑戦の結果賦与されたハンディキャップを負いながらも、基本的には本人の能力に大きく左右される。また、この機会は、第一・第二の機会にみられるような一発勝負ではなく、停年時(※ママ)までつづく、長くて苦しい競争の過程であたえられる。この競争過程は、その大筋においては、本人の能力に・貢献度に規定される、一種の能力主義的な過程であると考えられる。しかし、岩内亮一氏のすぐれた分析によれば、学歴のいかんは、この過程にもなお微妙にからんでいる。ここでも、人びとはなんらかのハンディキャップを負って競争しているのである。しかし、そのハンディキャップは、克服困難なほどのものではないことも、また事実であるように思われる。」(岩田1981=1988,p166-167)

 

 そして、この主張の背景として語られるのが実際の「昇進」と「学歴」の関係であった。週刊ダイヤモンド1981年3月11日号で公表された東証一部二部上場企業の重役の出身大学調査を用いながら、次のように指摘する。

 

「このような有名大学卒の地盤沈下を指摘したうえで、同調査は「なにも有名大学へ入るために大きな苦労を積まなくても、企業社会に入ってから十分に努力し、実力を発揮すれば、重役への道は開かれるということだ」とむすんでいる。

 学歴主義問題の重点は、第二章において検討したように、社会的上昇の問題から、しだいに「能力アイデンティティ」の問題などにみられるような、誇りと自信の問題へと移行しつつあるように思われる。こんにち、学歴主義の最大の問題は、入試に失敗した若者たちの劣等感と意欲の喪失にあるとみるのはゆきすぎだろうか。いずれにしても、学歴主義の問題を、処遇の面からのみとらえるのは片手落ちではないかと思われる。」(岩田1981=1988、P194)

 

 これらの議論で述べられているのは、「企業内昇進」と「競争」との関連性である。西尾も含めた「学歴決定論」の立場からは、学歴が企業内での「競争」を阻害する要因として決定的であり、大人は競争を避けるものと捉えていた。しかし、昇進をめぐる実証的な調査からは学歴が企業内の昇進に決定的影響を与えているという見方は基本的にされていない。実態はかなり広範囲な競争がなされているものとして捉えられている。この議論を総括的にまとめているのが、後述する竹内洋メリトクラシー論である。

 ただし、ここで注意しなければならない点がある。それは実証的に示されているのが「企業内昇進」と「学歴」との関連性という、教育社会学的関心に留まっている点である。すでに指摘したようにこの議論は「競争(ア)」と「競争(イ)」の違いを説明することができていないのである。言い換えれば企業内昇進という「競争」は、それが能力向上として寄与しているものとして担保されていることまで実証されていないのである。

 
小池和男「日本の熟練」(1981)

 本書はすでにレビューしたため、内容については割愛する。しかし、本書が競争観の系譜において重要なのは、先述した企業内の「競争」が能力向上に寄与していることを実証的に示すため、「知的熟練論」なるものを「日本的な特性」として小池が展開していったという点である。更に言えばそのような実証的作業というのが、遠藤公嗣や野村正實により「虚偽」として告発されているにも関わらず、学問的に反省がなされている状況とはいい難い点である。

 つまり、小池の主張が正しければ、実証的にも「競争(ア)」が日本において正しく機能していることを示すものとなる。この点において、小池の主張というのは、それまでの労働社会学からすれば極めて「斬新」なものとなるはずだった。しかし、これは実証的観点を全く欠いたものであった(※5)。

 

・占部都美「日本的経営を考える」(1978)

 最後に占部の著書である。本書の立ち位置は少し理解し難い。というのも一方で日本的なものを批判しておきながら、「そうでない」状況というものについて十分な説明が与えられていないからである。

 

「日本的経営の特質を本質的に探り出そうとするかぎり、日本に伝統的な社会や文化あるいは日本人に固有の心理特性にそのよりどころを求めるのは、当然といえば当然といえるかもしれない。とくに、研究者が社会学者や文化人類学者であるばあいには、そうなるのが当然であろう。しかし、その結果は、過去の時代には通用したが、これからの未来には通用しない日本的経営の特質しかとらえられないという欠陥をもたらしている。」(占部1978,p15-16)

 

 「未来には通用しない日本的経営」という言葉に端的に表れているが、これはすでに過去のレビューにおいて指摘した80年代以降の「改善言説」としての日本人論という、矛盾したテーマが含んでいるにもかかわらず、なお本書の態度は日本人論へのこだわりがあるように見える。このことが話を厄介にしているように思える。

 このような態度をとる際、やはり歴史的な観点からの議論が出てくる.「過去の日本の方法は近代化に貢献しえたが、今はそうではない」という論法である。占部も欧米の弊害としての「同族経営」について指摘する。

 

「どこの国でも、企業は家族経営から始まり、同族経営をへて大企業になるものである。そして、欧米では、大企業になっても、同族経営の性格を多く温存しているのである。

 これに引きかえて、日本の会社は経営者人材の養成に学歴主義を早くから採用したために、同族経営の弊風を早くから排除することに成功している。

 同族経営の下では、経営者は世襲制である。いく代もの間に、必ず無能な経営者が出てきて、会社をつぶすのである。」(占部1978,p51)

 

 このような世襲制に抗うことに「学歴主義」は貢献し、それにすがる日本はある意味で欧米より優れていたものの、そのままでいると「制度疲労」を起こす。そしてこの論法はそのまま西尾の学歴主義観とも一致する。

 

「有名大学を入社した人間ほど、歪められたエリート意識をもちやすい。人一倍に昇進への野心は強いが、学歴を既得権とみなし、レッテルの上にあぐらをかき、入社してから学習を怠るという一部の傾向がある。他人の意見に耳を貸さず、独善的となり、新しい知識の追求も怠るのである。……

 学歴主義が陳腐化すると、会社の内部に学閥を生ずるという危険をもってくる。同じ大学の出身者は、先輩と後輩あるいは同級生という関係で結ばれ、インフォーマルなコミュニケーションは効率的であり、意見の対立もなく、協調性が保たれるであろう。しかし、反面では、競争的な刺激がなく、意見の対立がないところでは、革新は行なわれない。」(占部1978,p59)

 

 もう一点注目すべきは「先任権」制度についてである。労使関係研究において頻出する「先任権」の議論であるが、この制度はむしろ欧米の「競争」を阻害するものとして語られていた(占部1978,p72-73)。

 そして更に無視できないのは、70年代末頃の労使関係論では、未だに欧米では先任権制度が主力であったかのように語っている点であった。

 

「日本の企業の終身雇用制のもとでは、技術革新や合理化はただちに労働者の失業に結びつかないために、生産性や能率にたいして労使双方が共通の価値観をもつことができるという特色がある。

 前述したように、イギリス的労使関係のもとでは、産業別・職種別組合であるために、特定の職種の仕事を不必要とする技術革新や合理化は、その組合の組合員の失業を招き、組合にとってつねに脅威としてうけとられる。したがって、労働節約的な技術革新や生産性の向上は、企業の競争上必要であるが、それは労働者には失業や労働強化をもたらすものとして、労使の利害対立的な問題としてうけとられる。」(占部1978,p237-238)

「イギリスやアメリカに比べて、日本の労働者の組合加入率は一般に低い。一九四九年のピーク時に、組合加入率は五五%に達したが、一九五三年には三六%に減少し、一九六〇年代以降において、三五―六%の水準を維持している。

 イギリスの労働者の組合加入率が約四五%であるのにたいして、日本の組合加入率は低いといえる。しかし、それは英米労働組合は横断的であり、中小企業の労働者をも、大企業に労働者と同じように、包摂するからである。……

 このように、日本では、大企業労働者の組合加入率が英米に比べて高いのは、企業別組合の形態をとっているからである。」(占部1978,p243-244)

 

 つまり、労使関係研究においては、「組合加入率」をエビデンスとして、「競争」との兼ね合いで日本の方が「競争的」であると指摘していたとみることが可能である。

 もっともここで厄介となるのは、「そもそも労使関係研究が労働関係全体に与えている影響について適切に捉えられていたのか」という観点である。欧米においては先任権が適用される企業とそうでなかった企業の乖離が著しかったと見るべきであろう。この点、石田・樋口「人事制度の日米比較」(2009)では、ブルーカラーとホワイトカラーにおける賃金制度を比較することで、この差異の大きさについて指摘する(石田・樋口2009,p55-56)。つまり、完全な勤続年数に応じた賃金上昇のある企業はブルーカラー系に集中しているのであり、先任権的制約もまたブルーカラー=工場労働者に集中しているのではないのか、という論点が提起されているのである。また、更に言えば、労働組合の加入率自体が過半に満たないのは、70年代当時の欧米でもおおむね共通する事項といえるのであり、その意味では労使関係に注目する立場からの主張は、欧米の企業全般の傾向として不適切ではないのかという疑義が当然出せるのである。

 

 最後に先述の小池の議論とも関連する占部が用いる「年功」という概念を考えたい。私自身は「年功」は「勤務年数」と同義のものとつかわれているものと感じていたが、占部はそう考えず、職場での熟練度がそこに影響しているものとして位置付けている。

 

「しかし、年功と年齢ないし勤続年数とは、かならずしも同義語ではない。特定の会社に勤続年数を重ねることによって、その人の職務上の熟練が増し、職務知識は豊かになり、所属する集団の人間関係にも十分適応してくる。さらに、その人は技術的な技能を身につけるだけでなくて、人間の機微を理解する能力をもち、人間関係をうまく処理する「社会的技能」をも身につけてくる。」(占部1978,p70-71)

「年功とは、たんなる年齢や勤続年数を意味するのではなく、勤続年数とともにそれにともなう熟練、職務知識、人間関係能力、リーダーシップ能力、忠誠心や責任感などの成熟度を仮定しているのである。さらに、長い勤続年数の間には、なんらかの業績が示されたのであろう。年功制には、過去の業績に報いるという意味も含まれている。

 いずれにしても、年功と年齢とは、決して同義語ではない。したがって、年功昇進制とは、年齢や勤続年数とともに、機械的に昇進することを意味するものではない。」(占部1978,p71)

 

 ここで注意すべきことの一つは、このような熟練が成立する要件として「人間性」を重視しているように見える点であり、これは岩田の議論(日本の全人的な評価傾向)とも関連する点である。また、この熟練が成立するかのような印象を与える背景として終身雇用の慣行があることも無視できない(占部1978,p26)。

 そしてこの議論の最大の争点となりうるのは、賃金構造に関する内容である。「年功制」の肝であるこの議論で占部はドーアの調査を引用し、イギリスの企業は年功賃金制ではなく、日本の企業(日立)は年功賃金制だという。しかも、日立は「旧式」の年功賃金制ではなく、「能力主義賃金」をとることで30歳をすぎると「基本給には約五割に相当する賃金格差を生じている」などという(占部1978,p129-130)。直接の言明こそないが、ここではあたかも「年功制」が能力向上の結果=競争(ア)の結果として作用している制度であるかのように表現しているのである。実際のところ、小池和男の知的熟練論というのも、このような占部の言説の延長線上にあり、かつ「あたかも実証的かのように言い張った」議論であるようにも思える。

 

 さて、西尾は占部の年功制の議論について参照したと言いながら、次のような主張をしている。

 

「日本的集団の神経症的「平等」配慮が企業の年功人事にも反映していることが、私の単なる憶測ではなく、経営学者の観察によっていわば専門的に裏書きされたといっていい。」(西尾2013,p256)

 

 ここまで語ってきた占部の議論からすると、西尾のこの主張は誤りにも見えるが、西尾は占部のp77-79の部分を次のように引用している。

 

「日本の会社では、各人の職務遂行能力や業績を短期間にフィードバックして、抜擢を行うような昇進政策をあまりとろうとしない。長期的な評価に時間をかけることによって、上司一個人の主観的判断を避けて、集団全体の評価が固まるのを待って、選択を行なう。さらには、職務の遂行能力や業績だけでなくて、その人の人間関係の能力や会社への忠誠心などのソフトな要素をも考慮する。……

 上司としては、各自に屈辱感を与えないように気を配る……。人間関係能力や会社にたいする忠誠心などのソフトな評価要素は、客観的な尺度がないために、上司の主観的な思いやりによって左右される。……

 かくて、年功主義による昇進は、選択的であるが、人事考課はお座なりになり、選択は、結局、学歴と勤続年数という、本人も、同僚も文句をつけられない形式的な基準に頼るのが、年功昇進制の実態をなしてくる。

 《恥の文化》に育てられた日本の従業員に屈辱感を与えまいとすれば、学歴と勤続年数という形式的な基準によって一律に昇進を決定し、評価による選択的責任を回避することが、もっとも無難である。」(西尾2013,p255-256)

 

 確かに占部はこのような指摘することで年功制の批判を行う。それでは西尾の言うように欧米的な個人主義志向をもっていたかというとそれも正しくない。何より占部は年功制そのものを否定していない。むしろ否定しているのは、その「実態」である。

 

「このように、年功主義は、それを形成する文化的要因としては、日本に特有の「恥の文化」に根ざしており、それは、長所をもつと同時に、実態としては、重要な弱点をもつことに注意しなくてはならない。」(占部1978,p79) 

 

 この実態はある種の日本的特性によるものと考えていたが、他方でそれを取り除く(占部的には「超克」すること、占部1978,p98)ことで年功制でもよいと考えているのである。これは西尾が考える欧米の企業観を占部が持っていなかったこと、つまり「先任権」に見られるように、そもそも欧米では「能力主義」的な競争的の企業の存在についてそもそも懐疑的であったことが大きな理由であるように思える。

 

 西尾がこのような観点から「専門家」の議論を無視しているのは明らかであるが、他方で、占部の主張にもいくつもの問題があるのもまた事実である。まず、「約五割の賃金格差」についてであるが、あくまで「基本給」以外の「業績給」「職能給」として支払われている賃金が全職員で平均として5割であるという事実でしかなく、「業績給」や「職能給」という名目のものが「競争(ア)」の結果差がつくものであるとする根拠は何一つない。

 また、もう一点無視できないのが占部の捉える「年功賃金制」の根拠である「年齢を重ねるごとに賃金が上がっていく構造」について、これをそのまま熟練と結びつける点である。このような「賃金の上がり方」へ着目すること自体の問題を遠藤公嗣「賃金の決め方」(2005)では指摘されている。遠藤は「賃金の上がり方」研究に終始したことの原因を小池和男に見出し、このことが実際に賃金(の上がり方)の決め方をどうしているのかの検討を無視することとなったとみる。遠藤のいう「賃金の決め方」の議論は「競争」の議論とも関連する「査定」の議論を主に指すものの、年収の年齢別推移に見られるような「賃金の上がり方」をもって年功制を占部も語っているという点で、競争(ア)の観点が含まれているかどうかの検証作業は全く含まれていないことが明らかであろう。

 遠藤(2005)はこの点について日本における労働研究には観念的社会科学観と呼ぶ「ストーリーありきで実証性を伴わない」議論が支配的であることを強く批判している(遠藤2005,p50)。言い換えれば労働研究における「競争」の概念も全く同じように実証的観点に欠いていた可能性があるということであり、過去の「競争」の議論の正しさというのは精査されなければならないものだということも(小池の事例をみれば)明らかであるように思う。したがって、「競争」の系譜というのは、このような根拠に乏しいもののなかで形成されてきたものなのである。西尾が引用してきた「競争」の系譜はこのように極めて危い論点を含んでいるのである。

 

 以上、70年代後半から80年代前半にかけての「競争」をめぐる議論をみてきたが、西尾はこのような「競争」の議論の系譜について、その論点について受容するものがある一方で、完全に無視された論点、更に西尾によって無根拠に否定された論点が提出されていることが明らかとなった。この無視された論点の存在は、西尾が恣意的に論点を抽出し、自身に都合のいい論点のみを取り上げていることの証拠である。本来であれば、西尾の主張と反する論点というのは、十分な反証材料を提供した上で「過去の文献ではこのように言っているが、反証材料からすれば誤っている」ことを主張したうえで、自らの主張を行うべきなのである。西尾が「評論家」などという学術的に中途半端な立場にいるのであれば、なおのこと無視してはいけない立論のプロセスのはずであるが、西尾にはそれを行う態度はない。これは次回レビューする西尾の教育論にも影響を与える見方である。

 

竹内洋メリトクラシー論における「競争」観

 ここでは基本的に西尾の競争論後となるものの、「競争」の系譜として無視できない竹内のメリトクラシー論を取り上げたい。

 西尾の「競争」論以後、大きなインパクトを与えたのはローゼンバウムの「トーナメント移動」の議論であった。ローゼンバウムの研究の重要性は、R.H.ターナー的なアメリカの「競争社会」の理念を否定してみせたことであった。つまり、アメリカの学校内・企業内のトラッキング構造というのは、それぞれの競争段階における敗者が「再チャレンジ」せず、常に競争的であるという環境が成立していないというものであったのである。

 

「ローゼンバウムの研究は、アメリカ社会が敗者復活の機会に満ちているという競争移動は幻想であり、現実にはトーナメント型の移動であるという意外な知見をもたらした。しかしそれだけではない。ローゼンバウムのトーナメント移動の発見には次のような重大な含みがある。近代社会のメリトクラシーが階級文化などの属性要因を選抜過程に密輸しているというのが葛藤理論が暴く疑惑であるが、こうした葛藤理論からは死角になってしまうメリトクラシーのもうひとつの疑惑に目をむけさせたことである。メリトクラシーが継続的な選抜システムとして自己展開することによって立ち挙げる増幅効果という疑惑である。」(竹内1995,p58)

 

 また、合わせて竹内は企業における競争性について「採用」段階、「昇進」段階ともに一定の競争性があることを認めている。

 

「日本のホワイトカラーをみていて、不思議なのは、長期間にわたって、ほぼ全員に競争意欲があることだ。平等処遇が長いといってもある時点から昇級差がつけられる。だから、三〇代後半から四〇代になれば、定年までのおおよその自己の昇進予測ができる。ところがノン・エリート・ホワイトカラーも降りてしまって、「オアシスに憩う」というわけでもない。ノン・エリートにもかなりの競争意欲があり、頑張るのが特徴である。……

 たしかにノン・エリートは、エリート競争は諦めてはいる。しかし、これまでみてきたような選抜システムは、課長になるかならないかの競争ではない。一年刻みあるいは半年刻みの昇進スピード競争だから、ノン・エリートも長期間にわたって細かな網の目のなかで差異化される。ノン・エリートとして鎮められるのではなく、却って焚きつけられるのである。日本企業の選抜システムはノン・エリートへの煽りの構造でもある。」(竹内1995,p180)

「表―12をみるとわかるように、現代人の学歴偏重意識は、高学歴が出世や昇進に「決定的」に有利と考えているわけではないのだ。昇進の機会は「決定的」学歴による、と考えている人は少ない。むろん「学歴」(二三%)を有力な要因とみているが、「能力」(二二%)や「実績」(一三%)もかなり重要な要因とみられている(だから小池和男・渡辺行郎両氏に代表される学歴社会虚像論の最大の問題点は、日本が学歴社会という人々の「思い込み」のついての論者の「思い込み」であるように思われる。)このことは重要である。現代の学歴偏重意識が学歴万能論であれば、それが虚像であることを容易に示すことができる。しかし、それが学歴有意観といったものであれば、実態との乖離を指摘することが困難になる。」(竹内「競争の社会学」1981、p124-125,参照された調査は「月刊世論調査1980年9月号」による)

 

 もっとも竹内のとらえる企業内の競争は単純な競争ではない。相対的には競争的だが、日本の選抜もトーナメント移動が作用していることを認め、一律的処遇をする「平等」的取り扱いから次第に競争的になるようなイメージをもっているようである。

 

「このような競争型は、上位にいけばいくほど職位の数が少なくなるようなピラミッド組織で、かつ個人の過去の情報がたえず選抜のために利用され易い組織に生じる、と述べているが、この調査も、日本の企業の昇進競争が「トーナメント」型に近いことを示唆する。

 その点で、日本の企業の昇進システムは長期間をかけた選抜に特徴がある、とする近年流行の日本的人事の通説に、いささかの疑問が生じるのである。」(竹内「選抜社会」1988,p104)

「とすると、日本の企業の昇進システムに特徴は「長期間をかけた選抜」にあるとみるよりも、昇進競争が時間によって平等からふり落とし競争に転調することにある、とみるほうが正確である。

 そして、このパタンは不思議なほど日本の教育の選抜パタンと似ている。中学校までは一部の者を例外としてはほとんど公立学校に通い、差の少ない平等な教育をうける。しかし高校からは競争が厳しくなり、有名大学への進学は有名高校生の間でのふり落とし競争となる。……また、キャリア組官僚の昇進パタンもこれに似ている。一定期間はほぼ同じ昇進をするが、しだいに同期の間に競争が激しくなる。徐々に肩たたきがおこなわれ、間引きされていく。学校と官庁、企業の選抜をめぐるこのような一致・対応は偶然ではないだろう。日本人の選抜、競争観を反映した構造的類似性ではないだろうか。」(竹内1988,p107)

 

 また、竹内は日本的な「競争」作用について、日本人論的な解釈を強くもっており、次のような言及もしている。

 

「こうした日本社会の能力観を考えるときに、徳岡秀雄のいう日本人の「矯正可能」説が示唆的である。徳岡はモルデカイ・ローテンバーグのカルヴィニズム的人間観に依拠しながら、西洋の人間観をつぎのようにいう。カルヴィニズムに代表されるように、生来的に神に選ばれた民と呪われた民という厳密な二分法がある。これは運営のレッテルを貼られた人に対しても、人間は立直ることができるという見方によってレッテル効果を無効化する傾向があることを摘出する。それが「適正可能」的人間観である。」(竹内1995,p175)

 

 竹内の「競争」論で注目すべきは、採用段階において「学歴主義」が働くことをあまりにも素朴に想定していた議論に対して批判を行っている点である。先述の意識調査における昇進機会の要因についての結果もそうだが、更に竹内は踏み込んで企業の実際の採用方法について調査をしている。この背景として、先述した労働研究における「賃金の上がり方」の議論同様、結果にのみ着目した調査をもって価値判断をすることで、そのプロセスに対する検討を無視することの弊害を強く意識しての調査であったといえる(※6)。

 

「しかしこういう説明には重大な欠陥が含まれている。大企業就職率の統計的結果が偏差値上位大学優位となっているのだから、当然採用は偏差値という物差しでおこなわれているはぅだという論理構成であるが、それは「結果」を「意図」によって説明しているにすぎない。結果や関連の指摘それ自体はなんら因果的説明ではない。」(竹内1995,p125)

 

 企業の採用プロセスの調査により竹内が見出したのは、一定の合理性のもと「多様な大学(一流大学に限らない!)」からの採用がなされている事例であった。

 

「なおA社の一九八七年度採用において当初の採用目標大学にリストされていなかった大学からの採用はまったくない。目標と実績があまりにも整合的である。採用目標校はあくまでも内部の枠だから、採用目標校以外の大学からの応募もあるはずである。そして、面接をするとかなりよい人材とおもわれる学生がいることも考えられる。このような可能性について、A社の採用担当者は否定しなかった。ではどうしてそのような大学から採用しないのかというわれわれの質問に対しての採用担当者の説明を要約し、解釈すれば次のようになる。もし採用目標校以外の大学からの採用をすれば、当初の計画を変更して最初の目標校からの採用を減らさなければならない。また目標校ではないのだから、採用担当者は上司とも通常以上の交渉をしなければならない。……ここには採用が合理的選抜理論を前提とする能力主義だけを基準として動いているわけではないことの一端が露呈している。」(竹内1995,p133)

「そこで、われわれは面接で人事担当者に少し挑戦的な質問もおこなった。「営業であれば、業績は数字ではっきりでるが、いったい今年の採用が良かったとかわるかったというのは、どういうことで反省したり評価したりするのか」と。こういうわれわれの質問に対して、「今年は去年よりもいろいろな大学から採用できたというのが重要な評価基準である」と説明している。入試難易度の高い大学の代替としてその他大学から採用するというのではなく、採用大学数を増やそうとするのは積極的意図である。」(竹内1995,p139)

「われわれが事例調査したA社の属する業種では学校歴による分断的選抜が一般的であるが、あらゆる企業がA社にみられるような分断的選抜をおこなっているわけではない。A社とは別にわれわれは異なった業種のB社についても採用担当者の面接調査をしたが、B社では採用数の多い三つの大学についてのみ事前に人数を決めている。ただし、残りの大学については採用大学や人数の事前決定はおこなわれていないが、一つの大学から採用が多くならないこと、大学数をできるだけ増やすことは配慮されている。特定の大学に人数が偏らない採用を意図しているところに分断的選抜をみることは可能である。」(竹内1995,p147)

 

 竹内の以上の指摘は西尾の競争観から真っ向から対立するといえる。竹内は日本的な競争システム自体の永続性自体には疑問も持っているものの、日本の競争システムの優位性を見出している点については、西尾が言うような「大人は競争したがらない」という主張に対し、事実は真逆でもありうるという状況を見出すことができるだろう。

                                       

〇西尾の企業における「競争」性の肯定について

 最後に改めて西尾の企業における「競争」観について考察したい。問うべきは西尾の企業における競争は「競争(ア)」と「競争(ウ)」のどちらかという点である。この点、西尾がより関心を示していた大学に関して言えば、個人の競争、大学間の競争どちらとも競争がされていないことが批判されており、そのような状況の改善こそ西尾が望んでいたものであった。では、企業についてはどうだろうか。

 この点、「日本人論」に依拠した西尾の論は、結局「競争」をめぐる問題を単一的に捉えがちであると言わざるを得ないだろう。組織としての大学が問題でなければ、企業もまた問題でないはずがないのである。

 実際、西尾の82年の著書では企業が競争的であることは、少なくとも肯定的には捉えていなかった。「「学歴社会」を問題とするからには、日本の教育の抱えた諸相をもっとトータルに考察の範囲の中に入れて取り掛るべきだろう。そうすれば、企業は成功し日本は繁栄しているかもしれないが、同時に何処かにその結果としての犠牲を出している可能性があることに対し、想像力が及ぶに違いない」 (西尾2013,p235)という主張には若干の含みがあるが、「競争」という用語を用いていないこと、また、競争しているとしても、今後同じような競争は出来なくことを暗示するかのような言い方をしている。

 

 しかし、西尾の企業における「競争」の見方はその後徐々に「競争的」であると認めるようになる。まず、1985年の論文では次のように語られる。

 

「欧米の労働者は企業体に縛られずに、「個人」の資格の免許や技術を基本に労働する関係で、職能組合に依存し、企業単位の組合を作らない。日本の企業内労働組合がこの点でまったく異質な結社の型を作り出したことも、これまで度々指摘されてきた。この点を逆の面から言えば、日本の企業と企業との間の競争は確かにすさまじいかもしれないが、企業内の「個人」の競争は、欧米に比べれば、はるかに激しさを欠き、抑制されているといえる。」(西尾2013,p366)

 

 ここでは「競争(ア)」と「競争(ウ)」の明確な分化をはかろうとする反面、企業間競争が激しいという解釈を西尾はまだ全面的には認めていないようである。このことを全面的に認めるのは、管見の限り91年になってからであったようである。

 

「一方企業社会を見ると、これも激しく厳しい競争社会である。ところが、大学だけは競争していない。」(西尾2013,p730)

「周知のとおり、今の日本で、高校と高校生は激しく競争している。企業と企業人も同じく激しく競争している。しかし、大学と大学人だけがほとんど競争していない。競争しないで済む背景があるからである。」(西尾2013,p469)

 

 ここで後段の引用に注目したい。この内容は「企業人」までも競争的であると認めており(「競争(ア)は成立している!」、今までの西尾自身の主張を全面的に否定したものであるとさえ言える。もっとも、92年の著書では更に少し語られ方が異なったことを言っている。

 

「それはよく言われるとおり、他人との協調を大切にする日本型合意社会では、他人より著しくぬきんでることではなく、他人と同じである人並意識を何よりも尊重し、その許される範囲の中で競争し合う暗黙の合意が成り立っている事情に由来すると思われる。つまり競争回避心理の上に、初めて一定の節度ある競争が可能となる。それが日本の成人社会のいわば黙約である。したがって、日本の企業と企業との間の競争は確かにすさまじいかもしれないが、企業内の「個人」の競争は、欧米に比べれば、はるかに激しさを欠き、抑制されていると言える。言い換えれば、大学生以上の大人の社会の全体が赤裸々な個人競争を避けるために、人生の競争の儀式を、十八歳と十五歳の子どもたちに押し付けている。しかも最近では十二歳へと段々年齢的に下の層へ押し付ける圧力を強めていることが憂慮すべき問題なのである。

 言い換えれば、大人の社会が競争を避ける分だけ、子どもの世界が競争を肩代わりして、それが今日の日本の教育の病理のもう一つの様態を示している。」(西尾2013,p699、西尾1992所収部分)

 

 ここでは改めて「競争(ア)」と「競争(ウ)」の違いについて触れることで、あくまで企業の競争は「個人」間の競争がなされていない、という見方として修正を行っているのである。確かにこれまでの「同族的メンタリズム」が支えた競争回避というのは、個人間の競争だったと解釈する余地はあるかもしれないが、先述の「企業と企業人も同じく激しく競争している」という主張を聞いてしまうと、やはり西尾自身の議論に混乱が大きいように見えてしまうのである。結局「日本人論」的論理からは、企業内個人の競争性が乏しいから、大学だけでなく、企業そのものも競争も乏しいものとみなされていたはずである。何より重要なのは、西尾は大学に関していては最後まで個人・組織どちらも競争的でないという風に認めているのは明らかであり、何故企業組織と事情が異なってしまったのかを日本人論からはもはや説明できなくなってしまったのである。

 この代わりになるものであり、かつ以前から語っていたものとして「日本の大学は制度的に序列が固定化している」という言説があった。そしてこれを固定化しようとする制度そのものが問題であるというような主張が、少なくとも論理としては次第に主流となったはずである。しかし、西尾は90年代に入ってもなお「日本人論」的に日本の教育を批判する態度をやめようとしなかったのであった。ここに西尾自身の混乱の原因が見出せるのではなかろうか。ここで「混乱」が見受けられるということは西尾自身が自身の主張に(特に日本人との関連において)自覚的でないことと関係しているように思える。このような日本人論の位置付け方については、次回の西尾の教育論の本論でも再度触れていきたい。

 

 

※1 今回取り上げる西尾の著書は「教育と自由」(1992)「西尾幹二の思想と行動3 論争の精神」(2000)及び「西尾幹二全集第8巻 教育文明論」(2013)の3冊である。西尾(2013)の中に西尾(1992)が収録されている関係で一部「教育と自由」の内容も西尾(2013)として引用する場合がある。

 

※2 確かに労働問題として労働時間の長さが指摘されることはあるが、日本の競争力が優れている理由として労働時間が長いことが直接挙げることはないということである。

 

※3 もっとも、脇山の指摘からは日本が学ぶべき点もあることは事実である。業務上作成されるメモの取り扱い(作成者の名前を入れ、それが作成者の功績とそのままなる)といったものからは、確かに個人を評価し、かつ個人の意欲をかきたてるだけの要素が含まれている。その意味で「競争」的であることが否定される筋合いはないだろう。

 しかし問題なのは、アメリカの企業一般について脇山が務めていた世界銀行の事例をイコールとしてもよいのだろうか、という点である。後述するように、この一般性自体が欧米の労働研究において大きな争点となりうるものである。

 

※4 次のような言及などを見ていると、やはり西尾は日本の現状批判(一定期間大学に帰属するだけで資格が与えられること)ありきであり、ドイツがそうなっていない実態についての意味をあまり深く考えているようには思えない。

「大学は在籍していただけでは特別の資格を与えない。つまり、ドイツには、自分の責任で資格を取得する試験はあっても、なにかの組織に一定期間帰属して修業したという証明が独自の価値を生むことはないのだ。どちらかというとアメリカに似て、個人的な免許を個人の努力で次々と獲得していく生涯競争のシステムに近い。すべてが個人の責任に任されている。」(西尾2013,p115)

 

※5 遠藤(2005)は、小池和男が職務給の採用過程について、小池自身が「実証的な議論を行った」と言っているにもかかわらず、実際は全く実証的な議論が存在しないことを批判しているが(遠藤2005,p10-11)、これは知的熟練論に関連する内容についても全く同じであり、このような基本態度を小池が取ったことによる関連議論全体に与えた混乱というのは精査されねばならないだろう。この点について言及を行ったものとして上井・野村編「日本企業 理論と現実」(2001)があるが、本書は少々小池和男を諸悪の根源とする傾向が強すぎており、小池の知的熟練論の前史である(ないしは根拠の背景としていた)労使関係論への着目といったものについては乏しい。

 

※6 このような着眼点はこれまでなかった訳でもないようである。例えば渡辺行郎は企業の採用において大学別採用者は重層的であり、かつ偏差値の高い大学を重視している企業に特段高い生産性が認められているわけではないとする(渡辺行郎「学校歴による人材選別の経済効果」1987、市川昭午編『教育の効果』p42-61)。