マックス・ヴェーバー「政治論集1・2」(訳書1982)

 今回はこれまで検討してきた『ヴェーバーの動機問題』に関連して、政治論集における近代観を簡単に整理していきたい。合わせて、ヴェーバーが本書で語る「官僚制」の性質についても取り上げつつ、その性格の特徴等も押さえておきたいと思う。

 本書においても「官僚制」については、ドイツの内外を問わず、批判の対象にされていることが読み取れるが、特に注目すべきなのは、官僚制自体は近代的な産物であって、それは不可避的であると述べられる点であろう(p361)。これは、中野敏男のレビューの際にも取り上げたヴェーバーの宗教社会学論集の中間考察等における「文化」に対する捉え方と基本的に同じ見方をしている。つまり、合理的官僚制はそれ自体で完結した制度下に置かれると、堕落する宿命にある、と。部分的にはp364のような物言いがその典型であり、これはどちらかと言えば、「強大な官僚制化によって、個人主義的な活動の自由はほとんど救い出すことがほとんど不可能な状況である」ことを指摘しているものと見てよいであろう。ヴェーバーは官僚制そのものを否定する訳ではない。それは技術や専門性を発揮する際には優れているものであるとみなしており(p101、p384)、近代官僚制そのものはそれ自体で合理的に機能するものとみなされる。しかし他方でこれを推し進めるのではなく、どう対抗させるのか考えることの重要性を説く(p102-103)。この主張には若干の含みはあるものの、差し当たり官僚が政治的な立場にあるような状況や、君主が支配することにより行政が監督できない状況下において、官僚制は堕落化してしまうため、その合理性が機能しなくなってしまうものと考えておこう。
 恐らくこの堕落化を防ぐための有効な対応策は本書から2点取り上げることができる(※1)。一つは私的な法律家が官僚よりも合理的な観点から抑制を行いうる関係にある場合には正常に作動しうると言えるだろう(p362-363)。官僚によって法律家はより徹底した合理的存在であり、自らの合理的な活動の非合理性を許さない法律家は厄介者と考えられている(p293)。ただ、この指摘はあまり本書では重要な位置を占めているとは言い難く、後述する矛盾も抱えることになる。むしろより重要なもう一つの方法は、十分に官僚を監督する政治家が存在することにあるとヴェーバーは主張する。つまり、政治家が議会の場を通じて適切に行政活動に対して体系的な訊問がなされる状況下に置いてこれが適切になされうるものとみなされる(p385)。官吏は議会に服従せねばならないとも述べられる(p642)。この政治家の優れた性質というのは、官僚と性質の異なる存在であるからであるとみなされていると言ってよいだろう。つまり、政治家は官僚と異なりあらかじめ専門教育を受けた者ではなく、「議員生活の経歴を重ねるなかで、不断の厳しい活動を通じてのみ、達成される」ものであり(p388)、「近代の政治家にとっては議会での闘争が、政党にとっては国のなかでの闘争が、与えられた道場である」(p379-380)。また、このような政治家は責任の持ち方が官僚と明確に異なる。p366にあるように、官僚は統一的な理念のもとにいかに独自性を出せるかが重要である一方、政治家は自らの理念をいかに貫くか、それが貫けないのであれば政治家としての地位を辞する覚悟があるかが重要であるとみなされる(※3)。
 では、このことは「投票行動」の重要性の指摘(p287)とどう関連するか。ここには、ニーチェ的な認識が介在しているように私には思われる(※2)。p311-312で語られるように、常に「国家」と対峙しながら民主制を貫くことが必要と語られる。p286では「生産者利益の組織」に対抗する住民の需要にこたえるように管理することができるほど十分強力な権力が必要であると説かれる。ここでも対抗勢力として大衆が取り扱われることになる。そしてその対抗性を十分に備えていることこそ重要であるとみなされるのであるが、このような民衆の立場と「政治家」のありようとどう関連しうるかは、私にはよくわからなかった。

 

 以上がヴェーバーの官僚制に対する対抗原理、言い換えれば『ヴェーバーの動機問題』におけるヴェーバー自身の回答であるともいえるだろうが、このような議論において前提とされている内容についてはいくつか疑問もある。
 一つは官僚の性質についてである。ヴェーバーにとって官僚は主に「法律」をあらかじめ学んだ者が想定されていること、この点にその特殊性を与えている。この点は今なお有効であるように見える反面、2つの方向で現在の視点においては理解に苦しむ部分もある。一方で官僚の優位性は法律だけではなく、多様な「専門性」に支えられている部分もあるのではないのかという点である。これはp385を素直に読めばヴェーバーも同じことを考えていたと読むこともできなくはないが、本書を読む限り、官僚に対抗できる者を法律家に求めていることはこの専門性を一面的に捉えすぎている結果ではないのかと思う。このことは、官僚をコントロールすることにおける「法律家」の比重が弱まっていることを意味するし、そのコントロール可能性は多様な分野の専門家に広がりを持っていることを意味する。もう一方の方向においては、p385で語られる「官職の装置という手段を通じて官僚のみが入手しうる知識」の希少性が実際はかなり高いのではないのかという疑問である。
 もう一つの疑問は政治家の役割に関してである。ヴェーバーの議論からはどうしても政治家の役割は合理的にふるまう官僚をコントロールすることが重視されてしまい、政治家がなさんとすることに対する政策に対する配慮が弱いように思う。というか、この点はかなり大きく後者に傾いており、果たして政治家が官僚をコントロールするべきだという点を求めることが適切なのか、当時のドイツの文脈からもそれが妥当だったのかは理解に苦しむ。これに関連して、官僚の議論を明らかにするフィールドは、単に議会にあるものと考えてしまってよいのかという疑問もある。議会は大衆にも明らかにされる場による官僚の統制手段であるが、現在の日本に当てはめれば、各省庁のトップに政治家を据えて、そのトップとその下で使える官僚との間で、一般大衆の目から必ずしも明らかにならない場でなされたとしても問題ないのではなかろうか。
 また、この点に関連して、ヴェーバーアメリカにおける猟官制には否定的な態度を取っているように見える(p567)。ヴェーバーはむしろ猟官制が衰退することが不可避な動きであると捉えようとする。つまり、官僚制度としての猟官制は非合理的なものであって、これが別のものにとって代わることは避けられなかったということである。ここでは専門的官吏自体は、政治家の意向によって変化するものではなく、固有のものとして捉えられるべきであるとみなしているということである。ところが、この点は、官僚組織の外部に優れた「専門家」がいる可能性についてあらかじめ排除した考え方であり、ヴェーバーの主張の矛盾した点であると言うことも可能ではないのか。

 

 総じて言えば、ヴェーバーは基本的には「少数者からなる指導的グループのもつ卓越した政治的機動力」(p380-381)により官僚をコントロールし、大衆はこのような優れたコントロールを行う政治家を選び、それこそが優れた政治家を生み出すためのシステムとなることを望んでいるということになろう。

 

※1 本書ではもう一点、官僚の倫理の議論を行っており(p567)、このような倫理の持ちようで一見官僚制の腐敗を解決できそうであるように見えなくもない。しかし、ヴェーバーにとっては官僚が政治に手を出し、権力を持った場合には、官僚制の腐敗は宿命付けられたものとして位置付くこととなる。あくまで(官僚とは明確に異なった)政治家による「カエサル主義的」政治的支配というのが、ヴェーバーにとって官僚制に対抗するための回答となる。

(2023年8月9日追記)
※2 ここでニーチェ的と表現したものの、相違する点があることも注意しなければならない。「権力への意志」のレビューで考察したように、ニーチェにおいては強者と弱者を区別し、それぞれに対する処方を出していた。この点はヴェーバーもp311-312で極めて良く似た発想で、2つの選択肢を用意しており類似性が認められる。片方は「弱者は弱者なりの生き方をせよ」と説くものであり、もう一つは弱者の発想に対する「抵抗」として強者の生き方を提示するという方法である。ニーチェについては精読していないので明言できる立場にはないことを前提に言えば、ニーチェにおいてはこの強者と弱者は極めて固定的なものとして描かれている(女性を弱者と同一視している態度が典型である)。しかし、ヴェーバーはこれを選択肢として、強者にも弱者にもなりえるものとして価値判断を保留している点が大きな違いであると言うことができるだろう。ニーチェにおいては貴族主義的発想で強者の資格を定めていたものの、ヴェーバーにおいてはこれが間接的にであれ、大衆の手においても関連付くことが指摘されているのである。

(2023年12月3日追記)

※3 このような政治家像を「カリスマ」というカテゴリーで呼びたくなるかもしれない。そのように解する余地もあるかと思うが、本書においてはカリスマ概念との関連性に全く言及されていなかったため、差し当たりそれとは別の可能性もあるものとして、その特徴を整理した。

 

<読書ノート>

P101「官僚制のメカニズムが技術の面ですぐれていることは、動かしようもない事実であります。」 
P102「もともとドイツ人は杓子定規のやりかたがいちばん馴染んでいる国民ですが、官僚制化へのこの情熱の意味するものは、ちょうど杓子定規のやりかただけが政治を牛耳ることを許される、といったようなことです。」 
P102-103「ですから肝心かなめの問いは、どうやってわれわれはこの発展をなお一層おし進め、そのテンポを早めるか、ではなく、なにをわれわれはこの機構に対抗させることができるか、であります。わずかに残る人間性を、魂のこの分割状態から、官僚制的生活理想のこの独裁から守るために、なにを対抗させることができるか、であります。」 


P273「正常な市民的=資本主義的エートスがこのように解体し、その影響が消え去るまでには数世代はかかる。――では、それは新しい経済倫理の基礎となるだろうか。われわれはなによりもまず、かつての経済倫理の水準に再度到達するよう努力しなければならない!だがこうしたことは、すべて副次的問題にすぎない。」 
P286「そんなことにでもなれば、カルテルによって代表されるあの資本主義的な生産者の利害関心と収益の利害関心だけが国家を支配するだろう。生産者利益を統制し、住民の需要にこたえるように管理することができるほど十分強力な権力が、生産者利益の組織に対置されるのでなければ、きっとそうなるだろう。」 
P287「だから、近い将来生産者利益の組織が経済を動かすときには、それが機能しはじめる前に、したがって今すぐに財生産の職種にしたがって選ばれた機会ではなく、大衆需要の代表の原理にしたがって選ばれた議会――平等選挙権の議会――が最高の権力を担って対置されることがどうしても必要である。この議会は、従来よりも本質的にはるかに強力な権力をもたなければならない。」 
P287「結局は、投票用紙がこの支配に対抗する唯一の権力手段である。」 

P293「官僚層は、言うまでもなく弁護士のことを厄介な仲介者とか苦情屋として憎んでいる。彼の収益チャンスにたいする妬みからも憎んでいる。議会と内閣が弁護士だけで統治されるのは、たしかに望ましいことではない。だが優秀な弁護士層をしっかりとかかえこむとしたら、現代のいずれの議会にとっても望ましいであろう。――ともかく「貴族」は、いまやイギリスにおいてすら、もはや弁護士層のなかに形成されない。それは市民の勤労階層、もちろん政治的にゆとりのある階層のなかに形成されているのである。」 
P303「このドイツの因習は、その内的本質からして決して紳士的でもなければ「貴族的」でもない。徹頭徹尾平民的である。それにもかかわらず、否むしろそれだからこそこの因習は民主化されないのである。ロマン民族の名誉律は広範な民主化がかのうであった。まったく別種のアングロサクソン民族の名誉律も同様であった。これにたいし「決闘申込みに応じる能力」という特殊なドイツ的概念は、どう考えても民主化することができない。ところが、この概念は大きな政治的影響力をもっている。」 

P309「「真の」民主主義は、議員のなかの弁護士層が官吏の実際の仕事を妨げることができないようなばあいに、また妨げることができないようなところで、もっとも純粋に具体化されるだろう。」 
☆p309「いわゆる直接民主主義の制度は、小さな州でのみ技術的に可能であるにすぎない。大衆国家ならどこでも、民主主義は官僚制的行政をもたらす。しかも議会主義化が行なわれなければ、民主主義は純然たる官僚支配に導く。」 
P309-310「議員が素人であるように、現代の君主はいつも素人さらざるをえない。したがって行政を監督することができない。両者の相違はつぎの点にある。1、議員は政党の闘争のなかで言葉の影響力を考慮することを学ぶことができるが、君主は闘争から遠ざかっている。2、議会は調査権をもつから、議会は宣誓にもとづく反対訊問を行なうことによって実情を知ることができ、したがって官吏の行動を監督することができる。君主はこれをいかにして実行することができるだろうか。議会なき民主主義はこれをいかにして実行することができるだろうか。」 

P310-311「だが、やや複雑な法律を制定したり、文化の内容にかんして規制を行なったりするばあいには、大衆国家におけるレファレンダムの意味は、あらゆる進歩を強力に機械的に阻止することにあった。」 
P311-312「官僚国家による身分構成の平準化という意味での「民主化」は、事実である。だから、つぎのいずれかの選択があるだけである。見かけだけ議会主義の官僚主義的「官憲国家」のなかで、国家市民大衆は権利もなく自由もなく家畜の群のように「管理」されるか、――さもなくば、国家市民大衆は国家の共同の主人としてこの国家のなかに編入されるかのいずれかである。だが王者の民族――そしてそのような民族だけが「世界政策」を行なうことができるし、行なってもよいーーはこの点にかんしていかなる選択の余地もない。民主化はおそらく(当面は)失敗するかも知れない。なぜなら強力な利害、偏見、さらに臆病が一緒になって民主化に反対しているからである。しかしこうした反対がドイツの全未来を犠牲にするものだということは、やがてはっきりするだろう。そのときには大衆は、全力を尽して、彼らが単なる対象にすぎず参加者でもない国家に対抗して闘うだろう。」 
※ここにも強力なニーチェ臭が。そしてここではやはり国家は対立軸とみなされてしまう。大衆が国家を体現してしまった場合にはこの図式は崩れてしまう。 

 

P350「近代国家において支配が現実に力を発揮するのは、議会の演説でもなければ、君主の宣言でもない。日常生活における行政の執行が現実の力なのであるから、この支配は、不可避的に文武の官僚の掌握するところとならざるをえない。」
p351「現代の私的大経営についても、なんら事情に変わりはない。とくに大規模経営になればなるほど、いっそう官僚主義の前進が起こっている。」
P353「だが、このように非常に古いかたちでの資本家的営業と対比したとき、近代資本主義の特質は何であるか。合理的技術を基盤とする厳密に合理的な労働組織がこれであるが、こうした特質は、かように非合理な構成の国家制度のもとではこれまでどこにも成立しなかったし、またけっして成立しえなかった。なぜというに、こうした特質が成立するためには、固定資本と精確な計算によって営まれる近代的経営形態は、法律と行政の非合理性をあまりにも耐え難く感ずるからである。したがって、近代的経営形態は、つぎのようなところでのみ成立することができた。すなわち、イギリスにおけるように、法律の実際的形成が事実上弁護士の手中にあり、しかも弁護士が資本家的利害関係人の依頼に応じて適当な営業形態を考案し、さらにこれらの弁護士のなかから「判例」という計算可能な範式を厳守する裁判官が輩出したところ、これがひとつ、もしくは、合理的法律をもった官僚制的国家におけるように、裁判官が程度の差こそあれ法律条項の自動販売機になっていて、上から費用と手数料を添えて訴訟記録を投げ入れれば、下から多少とも根拠のある理由付きの判決が出てくるところ、それゆえ裁判官の機能がともかく一般に計算可能なところ、これがひとつ、この二つのうちいずれかの場合に、近代的経営形態が成立したのである。」

P359「この最後の場合、すなわち、名望家または利害関係人代表が官僚を上にいただくという場合は、とくに自治体行政にみられるところである。この現象は、実際問題としてはたしかに重要なことがらであるが、しかしここではわれわれの問題からはずれている。なぜなら、大衆団体の行政においては、専門教育を受けた常勤の官僚層がつねに機構の中核を形成すること、そしてこの官僚層の「規律」が成果を生み出す絶対的な前提条件をなしていること、ここではそれだけが問題となるからである。」
P361「官僚制は、官僚制以外に近代的・合理的な生活秩序を歴史的に支えているものと比べれば、それらよりはるかにいっそう深刻な不可避性を有している点に特徴がある。……けれどもこれら過去の官僚制は、比較的にまだすこぶる非合理な形態なもの、すなわち「家産制的官僚制」であった。これらの過去の事例と比べて、近代的官僚制のきわだっている点はどこにあるかというと、その不可避性を本質的な点で決定的に根拠づけている特性、つまり、合理的専門的な特殊化と訓練という点にある。……近代の官吏は、近代的生活の……近代の官吏は、近代的生活の合理的技術に対応して、不断に、また不可避的に、ますます専門的に教育され、特殊化されてきている。地上のすべての官僚制はこの道を歩んでいる。」
※これがある意味官僚を無意味に批判しない理由にもなっているのだろう。

P361-362「例えば、政党の官職授与権によって職についた昔のアメリカの官吏は、選挙戦場と自分のたずさわっている「実務」について、専門的「玄人」であることに間違いなかったが、どうみても専門的な教育を受けた専門家ではなかった。ここにアメリカにおける腐敗の原因があったのであって、わが国の文筆家が公言しているように、民主主義そのものに腐敗の原因があったわけではない。もっとも、いまようやくアメリカにも定着してきた「公教育制度」の、大学教育を受けた専門的官吏にとっては、同じく近代イギリスの官僚制のなかで、いまやますます名望家による自治にとってかわりつつある専門的官吏にとっては、あの腐敗が無縁のものになってきている。」
☆p362-363「国家の官僚制は、私的資本主義が除去されたあかつきには、独裁的に威力をふるうだろう。今日では私的制と公的官僚制とは、並行して、少なくとも可能としては対抗して、活動しているから、とにかくある程度たがいに抑制しあっている。しかしもしそのようなことになったならば、この二つの官僚制はただ一つの階層的秩序のなかに溶けこんでしまうであろう。それは古代エジプトの再現のごとくであるが、ただ古代エジプトの場合とはくらべものにならぬほど合理的なかたちで、そして合理的なるがゆえに逃れられぬかたちで、再現することだろう。」
※「もしも純技術的にすぐれた、すなわち合理的な、官僚による行政と事務処理とが、人間にとって、懸案諸問題の解決方法を決定するさいの、唯一究極の価値であるとするならば、人間はたぶんいつの日か、古代エジプト国家の土民のように、力なくあの隷従に順応せざるをえなくなろう。」(p363)。ではどうするのか。

P364「この官僚制化の強大な傾向に直面して、なんらかの意味で「個人主義的な」活動の僅かに残った自由をすこしでも救い出すことは、そもそもどうすればまだ可能であるか。」
※しかし「いまわれわれの関心はこの問題にない」とする(p364)。
P365「これよりもはるかに目立つ相違は、大臣にたいして、まさに大臣にたいしてのみ、他の官吏にたいしなされるような専門教育の資格証明の必要がなんら規定されていないという事実である。このことは、大臣が、まさしくその地位のもつ意味からして、私経済内部の企業家や総支配人とどこか類似した相違を、他の官吏にたいしてもっていることを暗示している。いや、大臣は他の官吏とはなにか別物であるべきことを暗示している、こう言ったほうが正確であろう。実際そのとおりなのである。」
※官吏が大臣になってしまえば役に立たないとする。
P365-366「相違はそうしたところにあるのではなくて、両者の責任のとりかたの違いにある。この違いから、両者の特性にたいして提出される要求の種類も、もとより広範囲に規定されてくる。」
※官僚は上級職との信念が相違する場合、その理念を受けながらも自らの本来の信念を遂行することが「名誉」でさえある。しかし政治的指導者がそのようなことをすれば軽蔑に値する。そうではなく、それを通すか辞職するかであるべきとする。官僚なら超党派態度をとるべきである。自己の権力のための闘争と、獲得した権力から生じてくる自己の課題にたいする固有の責任、これが政治家としての、また企業家としての生命の素なのである。(以上p366要約)

P369「君主は、政党の闘争や外交活動のなかで訓練された政治家ではけっしてない。」
※このようにしてドイツ君主制を批判する。
P379「文筆家は……自分自身を官僚として、また官僚の父として自負している」
P379-380「あらゆる政治の本質は、のちにもしばしば強調することだが、闘争であり、同志と自発的追随者を徴募する活動である。……ビスマルクにとっては、周知のとおり、フランクフルト連邦議会が自己訓練の場であった。軍隊において訓練は戦闘のための訓練なのであるから、この訓練は軍事的指導者を輩出しうる。近代の政治家にとっては議会での闘争が、政党にとっては国のなかでの闘争が、与えられた道場である。この道場は、他の何物によっても置き換えることができない価値をもっている。」
☆p380-381「代議士の大群は、すべて特定の「リーダー」または内閣を構成する少数の「リーダー」の追随者としてのみ働くのであって、「リーダー」が成功を収めるかぎり、盲目的に「リーダー」に服従する。そうでなければならない。「少数の原則」、すなわち少数者からなる指導的グループのもつ卓越した政治的機動力が、つねに政治的行為を支配する。この「カエサル主義的」な特徴は、(大衆国家では)根絶し難いものである。
 この「カエサル主義的」な特徴だけが、多頭統治を行なう集会内部では雲散霧消してしまう公共にたいする責任を、特定の数人に帰しめることもまた保証するのである。まさに本来の民主制において、この事実が明らかになる。」

P381「アメリカにおいては大統領の任命する裁判官は、国民に選ばれた裁判官よりも、能力と廉潔の点ではるかにすぐれていた。理由は、裁判官を任命する指導者が官吏の素質にたいしてつねに責任をもつ地位についていたこと、そして、もしこの点で大きな失策があったときには、与党は、のちになってこの失策を痛感しなければならなかったこと、これである。」
P384「官僚の行政にたいする有効な不断の監督という単純な〔議会の〕使命の達成を阻んでいるのも、このものである。このような監督の仕事は、はたして余計なお節介だろうか。
 官僚層は、明確に限定された専門的なことがらに属する職務上の課題について、自己の義務感、不偏性および組織上の諸問題を裁量する能力を示さねばならぬ場合には、いつもすばらしい真価を発揮した。」
☆P385「すべての官僚の権力地位の根拠となっているのは、行政の分業的技術そのもののほかに知識である。この知識には二種類ある。第一が、専門教育によって獲得される広い意味での「技術的な」専門知識である。それが議会においても代弁されているか、あるいは代議士が個々の場合ごとに専門家から私的に情報を蒐集しうるか、ということは、偶然的事象であり個人的問題である。このようなことは、行政の監督の代替物にはけっしてなりえない。行政の監督は、あくまでも議会委員会の席上、関係部門の官僚召喚のもとに、消息通が行なう体系的な訊問によってのみ保障されるのであり、多方面にわたる質問も、この訊問方式によってのみ保障される。」

P385「しかし、専門知識だけが官僚の権力の基礎となっているのではない。第二は、官職の装置という手段を通じて官僚のみが入手しうる知識であって、官僚の行動の規準となる具体的な事実にかんする知識、すなわち職務上の知識である。この事実にかんする知識を官僚の行為に頼らずに入手できる人だけが、個々の場合に行政を有効に監督することができる。事情によって異なるが、このためには、書類閲覧、実地検証、さらに極端な場合には、議会委員会の席上、証人として出頭する関係者に宣誓させて訊問することが考えられる。帝国議会はこの権利もまた持っていない。」
※議会による適切な監督の必要性を説いている。
P387「実際わが国では、官僚が自分の仕事として取り組まねばならない問題が明るみに出ることは皆無である。官僚の業績が理解され、評価されることはけっして起こりえない。……専門教育というものは、近代の諸事情のもとになっては、政治目標達成のための技術的手段を知るうえに、欠くことのできない前提なのであるから。しかしながら、政治目標を設定することはけっして専門事項ではなく、専門官僚は、専門官僚であるかぎりは政治を規定すべきではないのである。」
P388「政治家の政治的訓練は、議会の本会議における見せかけだけのお飾り用の演説によっては、もちろん達成されない。それは、議員生活の経歴を重ねるなかで、不断の厳しい活動を通じてのみ、達成されるのだ。イギリスの議会指導者の重鎮と目される人びとは、かならず委員会活動の訓練を受け、またそこから出発してしばしば全行政部門を一巡して手ほどきを受けたのち、はじめて高位につく。……そういう選抜の場として、イギリス議会は今日まで他国の追随を許さない。」

P423「ドイツの政党内部の社会的構造はいかにもさまざまではあるが、官僚制化と合理的な財政運営が民主化の随伴現象であることは、ドイツでもどこでも同じである。」
P480「そのうえこの国民は、似非非君主制的空語にまどわされて、統制されない官僚支配に甘んじる。こんな国民はけっして王者の民族ではない。こんな国民は、虚栄心から世界の運命に心を砕くようなまねはやめて、日々の仕事にいそしむがよかろう。」
※どう考えてもニーチェの影響を受けた物言い。
P507「まさしくこの組織の国家社会主義的要素は、企業家なしにはまったく存立することができなかったのである。その大規模な経済組織の構想と業績は、ほとんど例外なく実業家によって生み出されたのであって、官僚によってではない。純粋な官吏経済が、結局は適してもいないし慣れてもいないこうした(※戦時経済下の)組織の仕事を遂行しようとしたところでは、大量の消耗と一部では腐敗が横行した。」

P526-527「官吏の国民選挙は、官職規律をことごとく破壊する。そしてこのことは、とくに厳格な社会化にとって決定的に重要である。国民選挙の官吏は、みんながお互いに知り合いである地域集団に、したがって小さな地方自治体にむいている。大きな地方自治体でも、アメリカの経験によれば、市長の選挙はーーただし市長が上級官吏を任命する独裁的権限を握っているばあいーー強力な改革の手段でありうる。これにたいし選挙人大衆は、専門官吏をその資質にもとづいて審査することができない。」
※ある意味で素人批判。
P558「ここでとりわけわれわれの興味を惹くのは、三つの型中の第二のもの、すなわち支配が「指導者」の純粋に個人的な「カリスマ」に対する服従者の帰依に基づいている場合である。「天職」という考え方が最も鮮明な形で根を下ろしているのが、この第二の型だからである。預言者、戦争指導者、教会や議会での傑出したデマゴーグがもつカリスマに対する帰依とは、とりもなおさずその個人が、内面的な意味で人々の指導者たる「天職を与えられている」と考えられ、人々が習俗や法規によってではなく、指導者個人に対する信仰のゆえに、これに服従するという意味である。指導者個人は、彼が矮小で空疎な一時的な成り上がり者でない以上、自分の仕事に生き、「自分の偉業をめざす」であろう。しかし彼に従う者……の帰依の対象は、彼の人柄であり、その人の資質に向けられている。」
※以下「職業としての政治」から。ここで仕事(ザッへ)に生きるという物言いは、決して肯定的な意味合いで取られている訳ではないだろう。むしろそれは当然なされるべきことを行う、というニュアンスであり、それ以上でもそれ以下でもないのでは。

P567「長期間にわたる準備教育によってエキスパートとして専門的に鍛えられ、高度の精神労働者になった近代的な官吏は、他方で、みずからの廉直の証として培われた高い身分的な誇りをもっている。もし彼らの誇りがなかったら、恐るべき腐敗と鼻もちならぬ俗物根性という危険が、運命としてのわれわれの頭上にのしかかり、それによって、国家機構の純技術的な能率性までが脅かされることのなろう。アメリカ合州国では、猟官政治家による素人行政によって、下は郵便配達夫にいたるまで数十万の官吏が大統領選挙の結果如何で替えられてしまい、終身の専門官吏も存在しなかったが、このような状態は公務員制度改正によってかなり前から通用しなくなっている。こうした発展は、純技術的な行政に対する不可避的な要請によるものである。」
P596-597「政治にとっては、情熱、責任感、判断力の三つの資質がとくに重要であるといえよう。ここで情熱とは、事柄に即するという意味での情熱、つまり「事柄(※ザッへ)」への情熱的献身、その事柄を司っている神ないしデーモンへの情熱的献身のことである。……情熱は、それが「仕事」への奉仕として、責任性と結びつき、この仕事に対する責任性が行為の決定的な規準となった時に、はじめて政治家をつくり出す。そしてそのためには判断力――これは政治家の決定的な心理的資質であるーーが必要である。すなわち精神を集中して冷静さを失わず、現実をあるがままに受けとめる能力、つまり事物と人間に対して距離を置いて見ることが必要である。……しかし、距離への情熱――あらゆる意味での――がなければ、情熱的な政治家を特徴づけ、しかも彼を「不毛な興奮に酔った」単なるディレッタントから区別する、あの強靭な魂の抑制も不可能となる。」

P612-613「政治とは、情熱と判断力の二つを駆使しながら、堅い板に力をこめてじわっじわっと穴をくり貫いていく作業である。もしこの世の中で不可能事を目指して粘り強くアタックしないようでは、およそ可能なことの達成も覚束ないというのは、まったく正しく、あらゆる歴史上の経験がこれを証明している。しかし、これをなしうる人は指導者でなければならない。」
※以上職業としての政治。
P642「官吏は議会に服従していなければならない。完全に。官吏は技術者なのです。……わが国では官吏は不遜にも「政治」に手を出している。」

上原善広「差別と教育と私」(2014)

 今回は上原の著書を介して「八鹿高校事件」について取り上げたい。上原の著書自体は八鹿高校事件に限らず、部落差別に関わるテーマを実際に自らが取材した上で考察している内容で、「当事者」としての視点がなければ行えないであろう内容も取り扱っており、非常に読み応えのある本である。

 ある意味で断片的に取り上げている「八鹿高校事件」について本書を基軸に検討するのは、この事件をめぐっては政治的二項対立図式として語られがちで、「中立」に近い立場で語られているか疑義が多いことが挙げられる。上原もp111で述べるように「解放同盟で活動した経験をもつ者のほとんどは「八鹿事件は共産党のデマだ」と教えられてきた」という状況も(近年はわからないが)長く続いており、「何が事実だったか」の認定をめぐってさえ当事者間では相違が多くある。私などは東上高志「ドキュメント 八鹿高校事件」(1975)もかなり事実に近いものではないのかと思っているものの、東上が明確に共産党系の人物であるため、しばしば解放同盟側の人物から批判の対象とされている(高杉晋吾「部落差別と八鹿高校」1975)。特に本事件についても共産党機関紙「赤旗」で積極的に取り上げられており、この事件への関与について共産党が直接関わったとする資料があるとする見解もある。上記の事情から、事実認定の議論については、本書と裁判判例による事実認定を基軸に考え(※1)、それ以上について立ち入らないことにしたい。幸いことに、この事件の議論というのは当事者の並々ならぬ努力による豊富な資料があり、Wikipediaでもかなりその内容が整理されているため、事件の詳細についてはそちらに譲りたい。

 

○「暴力」の正当性について――「法治国家」の限界をどう考えるか?

 八鹿高校事件を考える上で「暴力」が行使されることが正当化されるのかどうか、という論点はその「暴力」の定義も含め極めて重要であるように思える。

 上原も思う所のあった南但地区で出会った男性の差別発言(p88)の持っている意味は非常に重いものである。このような者がいるという事実のもとでは、丸尾の物言いについても極めて「正当」である部分がある。なぜならば、「部落の者が対等に扱われているか」という基準のもとでは、これが全く達成されておらず、今なお、根強い「差別」があると言うことができるからである。そして、それは今までの差別是正の方法が甘かったからだったのではという疑念まで出てくる。

 かつてこのような状態を是正するために部落闘争で用いられたのが「確認会」の場であり、それを認めるための「糾弾権」の憲法上の保障の獲得というのは部落解放において重要なものとされていた。この確認会の場も理想的な形態としては、中立な行政職員等の介在の中、被差別者の問題点を明らかにした上で、そのような行為を今後行わないことを書面で証する場とみなされている。しかし、このような場が設けられること自体、法治国家的にはかなりイレギュラーであることは明らかであろう。特に他の社会問題、ないしは教育問題と比較してしまうと、そのような疑念はより明確なものになる。「いじめ」を受けた子どもの加害者にこのような「確認会」を行うことは、必要なことかもしれないが、部落闘争における「確認会」と同じような手続で行われることは不可能に近いし、そもそも「確認会」に類する行為自体が行われないことだって多々あるのではないのか。その場合にいじめの被害者側の人権擁護はどうなってしまっているのか、と問うたとしても、社会・国家の側からは何の応答もなく、そのまま放置されてしまう。このような状況にあるのであれば、部落闘争において行われていることは「特権的」になりはしないか?(※2)

 これは合わせて、部落民が「実際の差別にあうこと」がどれほどありえるのかという論点にも繋がる。この論点提起においては個別事例があまり意味を持たない。本書において上原は部落闘争で言われるような差別を受けた経験がないことから部落闘争にも違和感を感じている(p243)。もっともこのような話も一事例に過ぎず、「そのような人物は何らかの優れたものを持っていたから排除を実感できないのであって、一般的にはそうでない」という反論も十分可能だ。いずれにせよ実証的には不十分である。

 このような状況下において、かつ法治国家という形式をとっている日本の状況を考慮すれば、基本的には法により人権が確保されるべきであり、それを脅かすものがあるならば、法によって罰せされるべき内容である。このように考えていった場合には、上記南但地区男性の差別発言は法治国家としては何らかの問題があったものと認めることが難しい。しかし、何らかの具体的実害が出ている状況もないという意味では、このような発言まで「確認会」のようなものをもって糾弾しようとすること自体が問題だという整理をするしかないのだろう。厄介なのは、教育の場において、具体的実害が出ないにせよ、これを助長するようなことがなされるのは如何か、という問題である。第三者が介入すべきかという論点は置いておくとしても、当事者においては教育の場における是正の機会は必要であるように思える。

 その意味でこの事件の悲劇の一つはp112-113にあるように、当事者であった生徒たちの声が届かなかったということである。ここで「暴力的」に対して問い返されるのが「民主的」どうかという基準での議論である。「民主的」かどうかでは解決しないからこそ「暴力的」なものに傾いたものと解釈することもできるが、「民主的」であることを否定することこそ何よりの問題なのではないか、という合意がこの事件を含む部落解放運動で調達できていなかったように思えてならない(※3)。

 

 そしてこれに関連して問題となるのが、丸尾自身は自らの行為が正しいものであったとしている点である。言い換えれば、司法判断というものに対して正しいものであると認めていないということである。実際、本事件について司法で認めた事実関係を認めようとしない立場はある。これは八鹿高校事件に限らず、他の部落闘争との兼ね合いの中から「司法」というものが位置付けられている側面も無視することができない。例えば、狭山闘争を指揮していた西岡智などの司法に対する見方は「国家権力の手先」のようなものであり、中立性を決して認めていない(cf.西岡智「荊冠の志操」2007、p124)(※4)。これは悪く言ってしまえば、「自分に対して都合の悪いことを言っている者は皆でつるんでいる」という見方をしているということにもあるが、このような闘争観は確実に部落闘争の系譜として存在していたものであるといえる。50年代後半から部落解放同盟の議論で出てくる「朝田理論」に基づく認識においては、「部落においてつねにおこるいっさいの部落民に不利益なことは、差別として考えなければならない」とされたり(部落問題研究所「戦後部落問題論集 第一巻」1998、p34)、「今日独占資本主義の段階では独占資本の超過利潤追求の手段として部落民を主要な生産関係の生産過程から除外」するものとされ(同上、p39-40)、極めて階級論に依拠した議論がなされていた。「独占資本の支配」という場合その対象が極めて抽象的であり、言い換えれば曖昧さもある中で、司法に対してもこのような「支配層」に位置付けられることは容易になされる環境にあるものと考えられるのである。しかし、このような階級闘争観は実態を単純に、かつ「自らの主観的尺度により」二項図式化する傾向があるため、それだけで実態をとらえ損ねることにもつながりかねないのである。

 

○行政の機能不全について

 ある意味この事件で最も問題であるとして捉えるべきは「行政の中立性」が全く機能していないといえることだろう。1967年の「同和対策事業特別措置法」が成立して以降、各自治体には部落解放同盟の地域支部との「窓口一本化」が進められ、闘争の資金調達を容易なものとしていた。合わせて「朝田理論」に基づく「差別」認定を各自治体に要求し、部落解放同盟自治体が逆らうことができない状況というのが生まれてしまった。これは八鹿高校事件における警察の動きが著しく悪かったこと(上原2014,p112-113)や、事件後に周辺自治体の長名で事件について中立性が疑われる文書が出されたこと(東上1975,p113-114)など行政側の動きが鈍かったことようであることが語られる。この点、警察の問題については、Wikipediaにもまとめられているように明確化しているが、行政側の問題については、国会答弁を調べればわかるが「特に問題が報告されていない」とされ続けていたことなどもあって警察と比べれば明確化されていると言い難い。

 

 行政側の問題として表面化している例として挙げられるのは、公金支出の不当性が問われた裁判判決(神戸地方裁判所 昭和50年(行ウ)15号 判決)で、解放同盟に「窓口一本化」し補助金を支出することが公的支出であったかという点が問われた。「窓口一本化」については、その理念としては「適切に部落の要望を行政に伝えていく手段」として正当化されていたのであるが、実際は部落全体の公益性に反するような形で部落解放同盟の言うことを聞かないといけない部落出身者が一定数いたとされる(東上1975,p47)。実際、上記判例でも次のように公平性を欠いたものだったと説明される。

 

「この点に関し、被告ら(※八鹿町長)は、高等学校において部落解放問題について本質的に取り組み研究するために解放研が設置され、兵庫県教育委員会もその設置を進める方針であつたのに、八鹿高校教師団は、管理職及び生徒の意思に反し、断固これを拒否し、話し合いにも応じず、ハンガースト中の生徒を放置したまま下校するなどの教育者として許されない行動に出たため、八鹿高校の教育正常化を求めた部落完全解放のための闘争であり、右共闘会議には地域団体を始め広範囲の団体を通じて絶対多数の住民が参加していて右共闘会議への補助はこれら住民の要望であり、右共闘会議に苦しい生活環境の中から積極的に多数参加していた解放同盟員に対する費用弁償的補助は同和行政の責務であつたと主張する。しかし、八鹿高校では、従前においても生徒のクラブ活動として部落問題研究会が存在して活動を続けており部落解放問題が無視されていた訳ではないし、解放研の設置の否定がただちに部落完全解放の否定に結びつくものでもないし、右共闘会議への補助が住民の要望であつたとの点についても、〈証拠〉によると、南但一〇町の行政関係者は、八鹿高校教育正常化共闘会議の段階で事態を正確に理解しないままこれに参加していたこと、A町長のもとで昭和五〇年二月まで八鹿町の助役をしていた森木正三ですら八鹿高校闘争は解放同盟の行き過ぎであるとの意識を当時から有していたことなどが認められ、右事実によると、右共闘会議に絶対多数の住民が正確な認識のもとに参加し右共闘会議への補助を要望していたものとは、たやすく認定できないものがあるし、解放同盟員に対してのみ費用弁償することは公平を欠くものであるから、被告らの右主張はたやすく採用し難い。」(神戸地方裁判所 昭和50年(行ウ)15号 判決)

 

 判例から推察するに、行政側も「確認会」等を通じて強制的に解放同盟側の主張を受け容れざるを得ない状況があり、更に言えばこれは兵庫県から市町村への圧力の存在があったものとしても解釈しうる内容であると思われる。まさに解放同盟の運動性が行政側の「権力者」に直接働きかけ、そこからトップダウン式に従属させていく過程だったことの一端がわかる内容である。そのようなトップダウン式だったからこそ「南但一〇町の行政関係者は、八鹿高校教育正常化共闘会議の段階で事態を正確に理解しないままこれに参加していた」のではないのか。

 また、これに関連して行政側から特殊な利益を得ていた事例として、建設業界の根深い癒着関係はよく語られる(西岡2007,p255; 野中広務辛淑玉「差別と日本人」2009,p4-5)。本事件から学べる教訓は、「行政」自体が中立性を装いながらも意外と脆く、特定の利害関係者と容易に結びつきうるということだろう(※5)。であれば、行政が行っていることが(情報公開として)可視化され、問題を指摘しうる状況を作りだすことということも行政の中立性の確保のためには重要だということになるだろう。

 

○部落差別問題をめぐる「政治性」への還元について

 最後にこの事件がp111でも触れられているような「政治性」の問題に、特に共産党絡みの議論として語られることに言及しておきたい。これについては高杉晋吾が八鹿高校事件に関連して共産党が八鹿高校に直接関与するよう指示する文書があるという指摘をしたり(高杉1975,p35)、部落研を民青養成機関であると指摘したり(同上、p53)する始末である。恐らく多かれ少なかれ共産党が政治的に絡んだこと自体は事実であるとしても、それが過大評価され事件の事実・問題点が曲解される傾向があることもまた事実と言うべきだろう。

 ここで気になるのは何故そのような執着をしたのかである。これに関連して西岡が少々興味深い指摘をしている。

 

「もちろん、解放運動の側も自己批判が必要だ。「あることないこと」といったが、一部は「あった」し、内部で批判や闘争があった。それを公然とし難かったのは「日共に利用される。事実であっても不当な文脈の中で曲げられる」という思いが多くの人にあったからだ。さらには組織内部の会議等でも隠そうとされることもあった。」(西岡2007,p259)

 

 管見の限り、このような指摘はまだ他に見かけたことがない。これは言い換えると、「政治的」に攻撃を行ってきた共産党勢力に対して同じように「政治的」に対抗しなければ自らの運動が潰されると感じたから、ということが可能だろう。これは部分的に正しい可能性がある一方で、当時の運動全般の動きとして二項図式に基づく「政治的」問題への還元が日常的に行われていたことの弊害があることも否定できないように思えてならない。この点については今後も検討が必要だろう。

 

※1 もっとも、現在でも判例の事実認定を無視した言説が再生産され続けていることも事実である。この理由の一端として本書でも確認できるように、丸尾自身この事件の裁判所の判決を不当であると考え続けており、ある意味で裁判所の事実認定も認めないような姿勢があることも念頭に入れねばならないだろう。このような姿勢については「法治国家としての体裁を放棄したいのか?」という批判をせざるをえない。

 

※2 このような議論を考えるにあたり、例えばいじめの問題が80年代中頃からの社会問題であることや、現在に至るまでのマイノリティの権利保障の議論も考えると、まだ70年代という時代はこのような強硬的な手段に対して寛容たりえたのかもしれない。

 

※3 泉幸夫「「糾弾権」はいま」(1987)では、全国水平社の理念に立ち返りこの問題に言及する。上原の著書でも水平社の主張を否定的に捉える節があるが(p57)泉によれば、このような水平社の理念は曲解であり、むしろ「フランス革命のスローガンで、自由・平等とともにかかげられた友愛のよびかけにまでさかのぼるもの」と捉える(泉1987,p76)。これに対し確認会をはじめとして解放運動が「一方的」なものであったことが批判されている。同書において八鹿高校事件後の八鹿高校生徒の意見として次のようなものがある。なお、地裁判決(神戸地方裁判所 昭和49年(わ)768号 判決)では、八鹿高校の解放研設置については「教える者と教えられる者との間に良好な教育的秩序の維持が必要な学校教育において、その全てを根底から破壊しかねない重大な危険性を帯有している」などとし、その意義を否定している。

 

「十一月十八日から職員室前に座りこみをはじめました。その原因は解放研の生徒が、〝話し合い〟をやりたいと先生方に申し込んだそうですが、先生方はそれ以前に但馬文教府でおこなわれた一泊研修会の話し合いでは、話し合いというものの相手側には発言権がないような一方的な話し合いでした。そこで先生方はそんな話し合いになるのではないかと恐れて話し合いの内容、時間他などについて質問されたが回答がなく、職員会議としては話し合いはできないと決められました。しかし、三人の先生が話し合いをしなくてはいけないと思われて、解放研の生徒と話し合われた。でも話し合いは外部の団体(他校の解放研他)がまわりにいたりして、解放研の生徒は全員立ち大声で訴えていたそうです。先生方を『差別者』としてしかみず訴えていたのです。相手の言うことも聞かないのは話し合いでしょうか?。」(泉1987,p18-19)

 

※4 この西岡の視点に関連して、黒田伊彦はより直接的に「司法権の独立なんていうのは嘘っぱちで、権力支配そのものだといえますね」と発言している(西岡2007,p120)。

 

※5 これに関連して泉幸夫は次のようにして逆説的に行政を批判しているが、このような批判もある意味で妥当ということになるだろう。

 

「しかし、それを知りつつも町、県当局、マスコミ、警察等は『部落』だからという理由で彼らを特別扱いにし、悪事を放置し、彼らを助長させてきたのだ。そのような人々こそ真の『差別者』と言われるべきである。

 はっきり言って解放同盟、町、県当局、マスコミ、警察、校長、教頭等は部落解放どころか、逆に部落差別を助長しているのだ。従って今度の事件によって受けた被害は先生達はもちろんだが、切実に『部落解放』を望んでいる人々はそれ以上の苦しみを味わったはずである。だから解放同盟と彼らをのさばらせた人々と、彼らが自分達の犯した罪の大きさに気づき、深い反省といっしょに正しい解放運動を進めていくまで許す訳にはいかないのだ。」(泉1987,p84)

 

<読書ノート>

P11「しかし、そんなことを知らなかった幼い私には、いずれも楽しみなお祭り騒ぎでしかなく、寸劇やゼッケン登校が楽しみで仕方なかった。

 隣にある堺市の一般地区から路地へと嫁いできた母は、こうした活動に批判的で、私が楽しそうにはしゃいでいるのを複雑な顔で見ていた。

しかし同和改良住宅と呼ばれる団地に住んでいる者にとって、この種の解放同盟の活動への動員に応じるのは必須条件であった。解放同盟などの活動によって一九六九年に成立した同和対策事業特別措置法により、私の父も、住居や税金などの面で恩恵を受けていたからだ。」

P44「私は間違いなく、解放教育の実践によって立ち直ることができた。しかし一方で姉のように反発し、また兄のように犯罪者にまで堕ちた者もいる。そのような個人差を考えても詮無いことだが、妹尾教諭の一言は決定的だった。私の中で解放教育は、生きる希望と虚しさと、そして疑問を同時にもたらしていた。

 そもそも解放教育は、同和教育から生まれた〝異端児〟だったという。

 そんな解放教育の「牙城」と呼ばれた松原第三中学は、私の幼馴染のいる望郷の象徴であり、同時に人権派教師たち憧れの〝聖地〟でもあったという。しかし、その当の三中から赴任してきた解放教育派の妹尾教諭は三中どころか、更池まで疑問視するようになっていた。

 彼女の中で、いったい何があったのだろう。そもそも彼女のいた三中での解放教育とは一体、どのようなものだったのか。」

※「おそらく同和、解放教育が正義であり権勢をふるっていたあの頃、自由なことが言えない風潮に対する反発だったのだろう。また同和・解放教育が作りだした〝差別のない理想郷〟の中で、路地の生徒たちを一種の過保護状態で育てることに対する反発だったのかもしれない。しかし彼女が亡くなった今、それを確かめることはできない。」と回答する(p255-256)。

 

P57「この融和主義に対抗して大正一一年に結成されたのが、全国組織の水平社だ。水平社は差別に対して徹底抗戦、実力行使の糾弾闘争を旨とし、融和主義を「ただの差別主義だ」と批判していた。矢野たちは左翼思想と水平社の理念に則って行動していたため、教頭以上の管理職を、基本的に全て差別者と決めつけていた。」

P66「実は、合宿はこれが初めてではない。それまでにも解放教育派の教師たちが共同で、荒れた生徒たちを連れて高野山や奈良の古寺で二泊三日の合宿を行っていたのだが、あまり効果がなかった。そのため「今度は徹底的にやろう」ということに決まり、一カ月以上もの合宿が計画された。

 これは夏休みを利用したものでもない。強豪校の運動部でもないのに、非行生徒のため平日に公立中学校が合宿を張るのは、他に例をみない取り組みだった。」

P68-69「当時、路地では極道になる者が多かった。それは貧しかったという事情もあるが、仕事につくにしても差別され、学歴もないため、厳しい肉体労働しかなかった。それを疎んじ、差別を力でねじ伏せようとした者は、だいたい極道になった。逆にいえば、肉体労働以外で生きようと思えば、それしかなかったのである。」

※女性の選択肢が絶望的にないのでは。

 

P73-74「その一方で矢野は市教委の人事権を握り、解放教育派の教師ばかりを三中はじめ小学校、高校にも集めていたので批判も少なくなかった。良くも悪くも、これが「松原共和国」と揶揄されることになる。

 何しろ子供会を担当する市の職員から、果ては学校の事務職まで路地の者や元活動家で固めているのだから、「勝手し放題、独立国なみや」と周囲から批判されたのも無理はなかった。

 後に松原方式の解放教育は、全国的にも知られるようになり、とうとう国会でも取り上げられ「偏向教育だ」と批判される。しかし矢野はもちろん、体制側にいた北山も一切構うことはなかった。

 何より三中が市内でも一、二を争うほど荒れた学校であったのは事実であり、その矯正に解放教育の「しんどい子を中心に据える」という手法が成功していたのも、また事実だったからだ。」

P75「北山は、現在の教育についても憂慮する。

「イジメは当事者はもちろんやけど、実はそれを見てる子が一番問題なんです。『ぼくは関係ない』『かかわったら面倒や』『自分の成績が大事』と傍観してる子。この子たちを指導し切らないと、イジメなんかなくなりません。今の日本を作ってきたのは偏差値教育、それは確かです。しかし日本をつぶすのも偏差値教育なんです。平気で仲間を蹴落としていく。最近は先生も冷たい。今は離婚する家庭も増えたから『母子家庭やからこんな子になるんや』なんて平気で言いよる。先生がその子の生活の実態を見てない」

※結局、傍観者も偏差値教育の産物と見ていると言うしかない。民主主義的には正しいのかもしれないが、法治国家的な発想からはかけ離れているようにも見える。

 

P85「兵庫県警警備部などの調べによると、同校ではこれまでに生徒のクラブ活動として「部落問題研究会」があったが今年七月、他の生徒が新たに部落解放同盟系の「部落解放研究会」を結成、正式なクラブ活動として認め先生に指導してほしい、と学校側に要求していた。しかし、同校の職員会議は「解放研は外部団体の指導によってつくられたものであり、正式なサークル活動としては認められない」との方針を決めた。」

P88「しかし「そうは言っても、若い人で結婚する人もいるでしょう」そう私が話を向けると、彼は真剣な顔でこう返答した。

「上原さんね、これは教育ですよ。幼い頃からエッタと付き合っていかんと言うておくんです。エッタには美人が多いですからな。私の小さい頃はエッタに美人がおったので好きになったこともありますけど、やっぱり怖いし、親にも注意されていたので諦めたことがあります」

 路地に「美人が多い」というのは、昔から言われていた俗信だ。一般地区の者と、路地の女との恋愛は必然的に「禁断の恋」となるので、より美人に見えるのかもしれない。または一般地区における〝逆説的な戒め〟なのかもしれない。

 それにしても、私は今まで面と向かって「エッタ」だの「ヨツ」だのと言われたことがなかったし、ことさら何度も繰り返されるものだからこれには堪えた。哀しいというよりも、まず呆気にとられ、時間がたつにつれて胸やけしたように気分が悪くなった。

 「ヨツ」というのは、路地の者たちが四足の牛や馬を解体していたからとも、「四足の畜生なみの存在」だとされたことからともいわれる差別語だが、この話でわかったことは、事件の舞台となった南但地域は、今も路地への差別が根深い地域だということだ。この背景は、事件にも深く関わってくる。」

※八鹿高校卒の67歳男性の発言から。

 

P92「こうして一九七〇年に解放同盟から共産系が脱退、彼らは別に全解連を結成した。自民党系は、一九六〇年に全日本同和会をすでに結成している。

こうして反原水爆運動と同じく、解放運動も目的を一つにしているにも関わらず、三つの団体に分かれることになったのである。……

この解放同盟による窓口一本化は、一九八〇年代まで一〇年ほど続き、地方によって多少のバラつきはあるものの、それ以後も解放同盟が主体となって行政との交渉を行うようになる。共産系が以後「同和問題は解決済みだ」という方針を打ち出すようになるのは、窓口一本化反対という経緯も含まれてのことだ。

この同和対策事業の解放同盟窓口一本化により、各地方自治体との交渉窓口が必要となったため、解放同盟は同盟員を急激に増やして、地方支部を次々と創設するようになる。」

P93「一九七三年一〇月、八鹿を含めた南但地域に、解放同盟南但支部青年部が結成される。彼らは三〇代以下の若者たちが中心で、学生運動や組合運動を経験した血気盛んな世代だ。

八鹿高校事件が起こったのは翌七四年だが、その年の一月頃から、八鹿町の周辺で大きな差別事件が相次いで起こっている。

これらの事件は、解放同盟の支部が結成される前には、おそらく住民たちにとって「ごく普通の日常的なこと」だったのだろう。しかし支部や青年部の結成によって、その「日常的なこと」が、次々と公にされ事件化していった。」

※非日常化によって改善が図られたと言えるのかどうか。

 

P95「七〇年に解放同盟と共産党が分裂すると、大阪府の各学校では「部落解放研究部」が活発に活動を始めるようになる。国法を後ろ盾にした解放同盟は、教育委員会や校長など管理職に「差別問題を解消するため『解放研』を設置せよ」と迫った。そして大阪の松原をはじめとして、生徒たちが教師を「差別者だ」と糾弾する教育運動が起こる。」

P96-97「ところが七四年六月、相次ぐ差別事件を機に、解放同盟が支援する『部落解放に立ち上がる高校生の宿泊研修会』八鹿高の校長と教頭が参加、そこで校長らは解放研の設置を約束させられる。

 このとき教職員の大半は「解放研」設置に反対していたため、校長ら管理職も反対の意向だったが、インディアン方式と呼ばれる糾弾により解放研の設置を了承させられたと言われている。インディアン方式とは当時おこなわれていた糾弾の手法で、当事者を七、八人に囲んで口々に批判する方法だ。……

 その是非はともかく、校長らが解放研設置の了承に至ったのはこうした激しい解放運動だけが理由ではない。やはり六九年に施行された同対法の影響により、八鹿町教育委員会は、解放同盟の指示に従うよう校長らに指示していたのである。

 当時、普通科一年生で解放研のメンバーだった女性は、当時を振り返ってこう語る。

「七四年の夏休み明けくらいから、解放研をつくろうとなりました。解放研も三分の一くらいは一般地区の生徒です。それまでの同和教育って、部落史の資料を読んだり、結婚差別で自殺した人のエピソードを聞いたり、岡林信康フォークソング『手紙』を紹介するだけ。活動も一学期に一、二回しかなくて『可哀想だから差別するのはやめよう』という感じでした。だけどそれだけだと、自殺した人のことしか印象に残らない。部落出身という自分のことは、これからもずっと隠していかなくてはいけない。そのことに違和感があったんです。そんな中で、部落の子だけがなぜ余所の子よりも乱暴な子が多いのか、それは差別の結果だということを、わかりやすく教えてくれたのが解放運動でした」」

 

P98-99「解放同盟系のクラブは「解放研」と呼ばれるのだが、歴史の古い学校では解放同盟系であっても「部落研」という名称を使うことも少なくない。この「部落研」は、多くの場合は解放同盟と共産系が分裂する以前からあったためだ。分裂以後、大体は共産系教師が指導するクラブを意味するようになったが、解放同盟が主導権を握った「部落研」は、そのまま「部落研」という名称で活動することもあった。……

 しかし八高は、日教組を母体とする共産党系の教師が強かったので、「部落研」もその流れを汲んで融和教育に力を入れていたのである。

 そこへ解放同盟の指導をうけた一部の生徒たちの「解放研」結成の動きに、八高の教師のうち共産系はもちろん、保守系も猛反発する。共産系の教師は路線対立を背景にもっていたが、保守系の教師は「中立であるはずの教育現場に、そこまで運動団体が露骨に介入していいのか」を理由に反対していた。

 地元住民の多くも、七三年から突如として起こった南但支部の激しい糾弾闘争に強く反発していた。そのため保守系教師も解放研の結成要請に対し、共産系教師と共に強く反対を唱えていたのである。」

 

P105「現在も「八鹿事件」というと、共産系教師と解放同盟が学校内で衝突したと思われているが、事実は共産党はあまり関係なく、〝八高教師と解放同盟〟の闘いだったと、元八高教師たちは語る。」

※解放同盟側のプロパガンダが強く働いていたともいえる。

P108-109「事件後、ほとんどの教師は転勤したが、K教諭は地元出身ということもあり、事件後も八高に勤めることになった。

「私は赴任してきたばかりだということもあり、事件後も残っていました。解放研の生徒とは、向こうも話しかけづらいだろうし、こっちも話しかけにくい。あれから解放研は結成されたけど、結局は二、三年でなくなりました。事件の時に一年生だった生徒が卒業したら自然消滅したのです」

 以前からあった部落研も、事件から五年後の七九年に自然消滅。結局、「同和問題を学んで差別をなくす」はずだったクラブは、数年のうちに八高では全て廃部してしまうことになる。」

P111「私も含め、解放同盟で活動した経験をもつ者のほとんどは「八鹿事件は共産党のデマだ」と教えられてきた。しかし今、できるだけ先入観を排し、こうして事件を丹念に追ってみると、暴力行為があったのは事実だと確信した。

 ただし、丸尾の言う通り「そんな時代だった」ことも否めない。

 当時の学生運動をはじめとして、暴力をともなう実力行使の激しい社会運動と激しい差別は、当時の社会情勢の特徴だ。路地への差別も社会運動も、現在では考えられないくらい過激だった。」

 

P112-113「丸尾の暴力行為は許されるものではないが、かといって片山ら教師たちが目指していた「同和教育」が、生徒たちに、路地への差別を無くすきっかけになっていたとは思えない。丸尾らの暴力行為だけをただ批判する片山らの言い分も、元々の原因を考えると、いま一つ釈然としないものを感じる。暴力の有無もさることながら、こうして外部から見ていると、ただ思想信条の違いだけで大人同士が意固地になって張り合っているようにしか見えないのだ。

 しかし、この事件では、何かが忘れられている。

 それは事件の最大の被害者であり、事件の本当の主人公である「八鹿高校の生徒たち」である。

 体育館で糾弾会が行われていた当初、休校を知らされた八高生たちは下校することなく教室で自習していたが、教師たちに暴力行為が行われていることを知り、普通科の生徒のほぼ全員、約千人が河原に集合していた。

 警察に訴えても取り合ってもらえないため、生徒たちは警察署でデモの許可をとってデモ行進しようとした。しかしデモを許可した当の警察によって、河原から出ることを阻止されてしまう。八高生たちは警察と押し問答を繰り返した後、夕方には大人しく解散したが、後に残ったのは大人たちへの不信感であった。」

※おそらくこの視点だけは正しいものだろう。「〝正義〟というものに挟まれた、当時の八高生たちのこと思うと、私は何ともいいようのない虚しさに襲われるのだった。」(p117)

 

P189-190「三中では生徒会長には必ず路地の生徒がなり、路地の生徒は自動的に全員、部落問題研究部に所属させられた。ゼッケン登校した日は、授業中でもゼッケンをつけていなければならず、外していいのは水泳の授業だけだ。学校内は「路地の生徒は特別」という風で、路地の生徒の方が、一般地区の生徒よりも偉そうにしていたという。

当の路地の生徒たちも、この風潮には批判的だった。」

P189-190「「オレらくらいの世代(生まれが七〇年代半ば以降)では、解放教育はかえって押しつけになってました。オレも小学校から三中、松原高校と地元集中で行ってましたけど、純粋培養されていただけというか、世間が狭くなるだけで、社会に出たら通用しない。一般社会に出たら、差別も多少あるけど、結局は自分で対処していかなあかんわけです」

 私が「解放教育って結局、何だったのかな」と訊ねると、彼はこう答えた。

「トラウマですかね。ムラ(路地)の子の立場からすると、今もやっていたとしたら可哀想だと思います」

 こうして一般地区の生徒だけでなく、当の路地の生徒までもが、解放教育に批判的になっていた。

 さらには同対法の期限切れを前に教師たちはもちろん教頭や校長、そして教育委員会も、以前のような熱心さで同和教育に取り組もうとはしなくなっていた。九〇年代にはすでに生徒たちの意識も変わり、大阪で北山や矢野らが行なっていた指導方法は通用しなくなっていたのだ。

 もはや時代は、同和・解放教育でなくなりつつあった。

 そして二〇〇二年、ついに同対法が期限切れとなり、同和問題の解決は国策ではなくなった。二一世紀になると同和教育は時代遅れとなり、同和教育は「人権教育」と名を変えた。また解放教育は過去の「過激な教育実践」として、急速に忘れ去られようとしていた。」

 

p195「同和教育実態調査とは、八〇年代後半から九〇年代にかけて各県や市で行われた調査のことで、福岡では県教委が行っている。

 この結果、父母の学歴が一般地区より低いのはもちろん、路地の子供たちは一般地区と比べて、だいたい一〇パーセントほど学力が劣っていることがわかった。

 また路地の子供は家庭で裕福でも貧しくても、享楽傾向にあることなどが共通していた。享楽傾向とは、例えば「テレビを一日中見ている」といったことを指す。この調査結果から、路地の住民たちの教育への無関心と、今までの同和教育では学力がついていないことが明らかになったのである。

「部落解放のための教育なのか、学力向上のための教育なのか、教育現場でかなり議論がありました。共産党系の先生方は、調査そのものに激しく反対していましたしね」」

※流れの変化とは「とにかく地区の子の学力向上に力を入れていくことになった」ことを指す(p196)。偏差値教育批判が消滅していったこととも関連しているだろう。しかし、共産党が調査を嫌ったのは何故なのか。

P215-216「西日本に限られていたとはいえ、同和教育は八〇年代までは旧文部省も支援した大きな教育運動だった。

 しかし路地の住民の中流化、一般的な差別の希薄化にともない、路地の子供だけを〝特別扱い〟することに、路地の中からも疑問が呈されるようになっていく。そのため国旗国歌問題や法律切れをきっかけに、同和教育の屋台骨が揺らぐと、現場教師は「これからどうやって同和教育をしていくべきか」と迷い始めた。」

 

P243「そもそも生まれてこのかた、私自身は差別されたことが一度もなかった。私の差別体験はすべて、昔の話や人からの伝聞であった。結婚差別はよく聞いており、実際に糾弾会に出たことはあったが、高校生の時点では正直、実感すら湧かない。

 だから人権劇で飲んだくれの親父をうまく演じられても、差別されたことがないのだから、差別だと言われても、どうもよくわからないのだった。」

P257「私は思うのだが、それがどのようなものであれ、教育は確かに切実なものである。しかし、やがて少年が成長するにつれ一人でそれを乗り越え、切り拓いていくところに、教育の本当の意味があるのではないだろうか。」

富永健一「日本の近代化と社会変動」(1990)

 今回は富永健一の標題著書を中心にして、『ヴェーバーの動機問題』について考えてみたい。

 富永の近代化論については、パーソンズの系統として、つまりアメリ社会学の系譜として語られるのが普通であろうし、私自身もこのことには賛同する。例えば、矢野善郎はヴェーバー読解において4つの類型を提示する。この類型のうち、西洋文明・文化特有のものとして「合理化」「合理主義」をみなし、他の文明文化は非合理的なものとするベンディクス・大塚久雄を挙げ、これに加え、進化論的な変動法則を伴ったものとして捉えたのがパーソンズ富永健一の立場であるとする(矢野善郎「方法論的合理主義の可能性」橋本努等編『マックス・ヴェーバーの新世紀』2000、p283-285)。

 アメリカの近代化論については、大塚久雄も自身の近代化論とは異なる系統であるとして否定的であった。

 

「つまり、資本主義以前の社会的諸形態のどれか一つから、資本主義だけでなく、社会主義への移行をも含めるようなものだったのである。ところが、この点が、私の説明不足もあって、多くの誤解を惹き起こす一因となったことは周知のとおりである。が、さらに運わるくいま一つの混乱が追加された。それはその後、主として低開発国問題への関心からアメリカの社会科学者たちによって提起された、〝modernization〟論のばあいの〝modernization〟が「近代化」と邦訳されて、わが国でも私の用語法など以上に広く流通しはじめ、その結果、そうした「近代化」の用語法としばしば混同されてしまうようになったことであった。」(大塚久雄大塚久雄著作集 第八巻」1969、p616-617)

 

 この言及については、大塚のレビューで述べたように、大塚はアメリカ的な近代化の用法について「低開発国の近代化問題」としてのアメリカ的近代化論は単線的であるのに対して、自身の近代化論はそのような単線的なものではない(上記引用の表現だけを引っ張ってくれば「社会主義への移行」の可能性もある)ものと主張するものであった。

 また、もう一点アメリ社会学における近代化論で無視してはならないのは、1960年の「箱根会議」における日本とアメリカの社会学者の仲違いについてである。アメリカ側は近代の度合いについて測量することを志向することに「どれだけ近代化しているのか」について研究しようとする姿勢があった。これが大塚のいう「低開発国」をいかに開発するのかという議論に繋がっていく。しかし、日本の社会学者側はこのような議論(結局は単線的な近代化論)を批判した。

 これについて苅谷剛彦は次のように述べている。

 

「ホールが示した「修正一覧表」に照らすことで、どれだけ日本が近代化しているように見えても、あるいはそれを統計資料として計量的に示すことができても、量的な把握が困難な民主化や民主主義といった「価値」を規準とした近代の理解には及ばない。もはや常識的な知識ともいえる、近代日本の後進性や前近代性、歪みや欠如といった偏差の認識が、近代化論を手放しでは受け入れることのできない知識の基盤にあった。アメリカ流近代化論への最も基底的な反応=反発として、民主化や民主主義といった、敗戦後にアメリカの占領政策が最重点とした「価値」からの偏差の問題が、根底にあったのだ。政治性や価値の問題をあえて含めないことで、一見中立的・客観的な社会「科学的」な議論を目指した、箱根会議でのアメリカ流の近代化論は、日本側の政治性へのこだわりというフィルターを通じて受容・理解された。中立性、客観性を一つの政治性と見たのである。」(苅谷「追いついた近代 消えた近代」2019、p15)

 

「ここに示された両者の距離には、「民主化」として要約された価値に照らして、日本近代化の遅れや歪みを問題視し続けた日本側の近代理解の特徴が示されていた。このような距離を前提にすれば、近代化論は、たとえアメリカ側が普遍的で一般的な社会変動の理論として提示しようと、近代日本やそこに至る過程を理解する助けとはみなされなかった。」(同上、p14)

 

 言ってしまえば、一元的な測量が可能であったとみたアメリカ側に対し、日本では従来から「民主化」という指標が近代化論に与えている影響が大きかった。以前レビューした日高六郎の言葉を借りれば、日本では「産業化的近代化論」に加え、「民主化的近代化論」という層があったということを意味する。

 

「かくして第三局面の近代化理論においては、産業化・近代化の歴史的過程それ自体を創始したのは先進諸国であるにしても、近代化の概念はもはやテンニェスやヴェーバーのようにヨーロッパのみのものとして考えられることなく、すべての社会に適用可能な普遍的概念として立てられるようになった。しかしもちろん、現実に存在している多くの非西洋・発展途上諸社会において産業化・近代化が現実に起り得るか否かは、開かれた問題である。そこで近代化理論の課題は、それらの非西洋・発展途上諸社会に産業化・近代化が起り得るための条件を明らかにし、またそれが起った場合に生ずる社会変動の性質について示唆を与えることである、と考えられるようになった。」(富永1990,p76-77)

 

 さて、このような発想から先ほどの箱根会議での仲違いを見た場合、何故両者が仲違いしたのか一見するとよくわからなくなる。少なくとも富永のいうパーソンズを土台にすれば、日本に近代化の独自事情があるのはむしろ自然なことでありえ、その条件について分析することこそアメリ社会学的な近代化論であるということができるからである(※1)。

この相違の詳細についてどう考えるべきかについては今回回答を与えられないが、少なくとも矢野善郎の指摘が的外れになっていることがわかるだろう。富永はここで西洋のみ合理化するという発想が正しいと考えている訳ではない。むしろ富永はそのように指摘したのがヴェーバーであり、自分はパーソンズと共にそのような立場を支持しないことを明言している。この議論のズレは次のように言い換えることができる。矢野は「ヴェーバー読解」について分類を行っていたはずだが、「富永のヴェーバー読解」と「富永の主張」を混同しているため上記のような曲解を行うのに至ったと考えられるのである。

 

 「かくして問題は、西洋社会の諸事例からひき出された一般化が、どの程度まで非西洋社会にまで拡張適用可能であるか」(富永1990,p81)を議論する中で、「近代化の帰結はしだいに収斂に向かうとしても、近代化に向かう途上で直面する諸問題の性質は、西洋先進国と非西洋後発国とではちがうのではないか」という見解を示す(同上、p95)。かくして課題は「非西洋後発社会の近代化が成功し得るための条件を定式化するという問題設定に向けて、独自の道を進まねばならない」とする(同上、p105)。ここにおいてほとんど産業社会論などにおける「日本人論」に近接する。

 

 さて、ここで検討せねばならないのは、

(1)「近代化」そのものが単一的か

(2)「近代化」へ至る道は単一的か

の違いについてである。そして、仮に(1)で真であるとみなした場合には、

(1´)「近代化」の単一性は「欧米の近代化」そのものではない

についても考慮すべきである。以上を『近代化問題(1)(2)(1´)』とそれぞれ定義する。

 

 これについて私はこれまで「単線的近代化」「複線的近代化」という形で分類してきた。しかし、特に日本を対象にした形で語られる場合にこの区分を用いる場合、決まってそこで含意される「近代化」というのは、産業的・経済発展的な意味での「近代化」を指していた(つまり、「民主的近代化」という論点は脇に置かれる)。もう少しソフトな表現とするなら、「豊かな社会」になるための条件が、欧米と同一的である必要があるのかどうか、という側面からみた場合の議論をしているのであって、逆に言えば「豊かさ=時代の要請」を大前提にした視点が「近代化」であることをも意味する。ここでまず「果たして近代化が全てなのか?」という問いは脇に置きたい。そうした場合においてここで重要視される「近代化」とは一体何を意味している(より正確には、何を到達点としている)のだろうか?よく考えると、実はここに「到達点」を設定することと「近代化が複数あるかどうか」という問いはほとんど同じことを言っているのではないのか、という疑問が出てきてしまわないだろうか?「複数的近代化」論者は差し当たっては間違いなくこの「到達点」の設定を行うことを前提にその議論を行っている。しかし、逆にこの「到達点」を設定しないと考えた場合には、あまりこの「複数性」を検討すること自体が意味のないものになってしまわないだろうか?私自身は富永自身の見解と富永読解の曲解の理由は、どうもこの論点の存在に集約されているように思うのである。

 

 富永の主張は私自身もどちらかと言えば「単線的近代化論」の論述のように見えてしまう。実はこれは前回レビューした持田栄一にも同じことが言える。富永にせよ、持田にせよ、ひとまず議論の方向性は上述の『近代化問題(2)』のことを言っているように見えてしまう。「近代化」はどうしても達成せねばならない問題であるが、その課題というのは欧米と非欧米では異なる。だからその課題を抽出するために測量化したり歴史的な分析をしたりし、課題に基づいた問題解決を行う。そのように富永・持田の議論は読めるのである。

 ここで確実に明言できるのは、「欧米的近代化」について批判を行っていないがために、富永・持田の議論が『近代化問題(2)』に見える、ということである。すでにレビューしたように持田のこの問題に対する対処法は「欧米的近代化」を直接批判することなく「現代化」を対置させ、この達成を強調することで実質的には『近代化問題(1´)』を疑似的に問うことができたとも言える。

 一方で大塚久雄はどうだったか。大塚の場合はもう少し複雑である。少なくとも『近代化問題(2)』については明確に議論していたと言えるが、『近代化問題(1´)』についても肉薄していた。これは『近代化問題(2)』においてその達成方法が明確に異なったエートスによって達成可能であるとみなしていた限りにおいて、当然その帰結にも複数性を与えていたから、ということができるだろう。もっとも70年代の大塚はこの複数性の前提を崩したこともすでにレビューした通りである。

 このような観点から言えば富永はどうであったか。ここで掛け金の一つとなるのは近代化を「尺度」として見た場合の欧米の立ち位置である。これを尺度からみて不十分な要素があるとして見た場合は当然「非欧米」的な「近代」の可能性が残されているが、専ら低開発国向けの議論に終始している場合においてはこれを「欧米的近代」を志向していると言うしかないだろう。もっと言えばこのような態度を理念型的な欧米を「聖化」することにもなりかねない。ここで富永のヴェーバー観は一つポイントとなる。富永のヴェーバー評価は『近代化問題(2)』について、「ただ西洋においてテーゼ」を根拠に単線的な評価をしていたとみなしている(富永1990,p73)。したがって、非西欧諸国は西欧諸国のような「近代化」ができないと結論付けたとする(※2)。しかし、「非西欧諸国においても近代化の可能性は開けている」としてこれが正しくないことを富永は強調する。この文脈で日本の分析が強調される。

 ところが、この結果何を富永が語っているのかも重要である。長い日本の歴史的考察を行ったあと富永は「非西洋後発諸国では、そのような内発的な精神革命は準備されなかった」としその近代化は「西洋からの文化伝播によるほかなかった」と結論付け、日本は経済的近代化を達成したものの、政治的・社会的・文化的近代化は経験することのなかった「跛行的近代化」となったとする(富永1990,p413-414)。そしてやはり他の非西欧諸国も「経済的近代化が他のサブシステムに先行している」とするが(同上、p416)、それ以上のことを述べることはない。

 

 もう少し「経済的近代化」を詳述しよう。これは経済活動が自律性をもった効率性の高い組織によって担われるものである(同上、p30)。「産業化は近代化の技術ならびに経済的側面にかかわるが、技術的側面は、近代科学の応用として普遍性が高いために、しかるべき学習手順を踏めば誰にとっても習得可能であるし、また経済的側面も、資本調達や企業経営や金融財政などのように技術的ならびに制度的なメカニズムにかかわるものであって普遍性が高いので、客観的な態度で習得され得る」(同上、p59)。コンフリクトという点でも「経済的近代化」が最も小さいと考えられる(同上、p64)のである。つまり富永からヴェーバーを見た場合、ヴェーバーの近代化論はあまりにその「近代」観が粗削りであったのであり、そのため非西欧諸国の近代化を説明できなかった。本来「近代化」とは多層的(パーソンズー富永的には4つの層に分かれたもの)であり、それぞれの近代化についてその伝搬性には差異があり、「経済的近代化」というのは最も普遍性の高い型である。日本などの非西欧諸国が達成できたのはまさにこの「経済的近代化」であり、他の近代化の要素を達成は後発的になる、と。

 以上の点からも富永が「西欧諸国」を批判的なものとして尺度化した訳ではないことが明確になる。ここでいう尺度というのは、測量的なものではなく、要素的な分割しか行っていないものであるがゆえ、西欧の近代化はそれ自体がすでに達成されているという前提を疑うことが全くないのである。いや、むしろ見方によってはそのような見方をより強固なものにしようとしているようにさえ見える。

 ただ、ここで再度はっきりさせねばならないのは、やはり矢野の指摘というのが「富永の指摘」としてしか妥当でなく、「富永のヴェーバー読解」とは異なるということである。「富永のヴェーバー読解」は徹頭徹尾矢野が指摘した所のペンディクス・大塚の理解と同じということになる。

 また、富永的発想によると、やはり「近代化問題(2)」しか語っていないことがはっきりしてくるし、「近代化問題(1)」については、やはり単線的なものしか想定していないということになる。このような結論に至るのは単に欧米的近代を批判しているからという訳ではなく、実際の所は非西欧の「多数の道」が日本と同じような形に収斂した形で語られてしまっていることからもそう言えてしまうのである。このような見方をしてしまっては単線的なものを想定していると言われても反論のしようがない。

 

 以上のような検討を経た場合、箱根会議で批判されたような「アメリカ的近代化論」と「日本的近代化論」をどう考えることができるか。日本側の論理は「普遍性」そのものへの忌避でしかなく、アレルギー反応のような形でそれを拒否しているように見えなくもない。ここでいう「普遍性」というのは、すでに述べたように「近代化問題(1)」及び「近代化問題(2)」という位相の分け方が可能である。果たしてアメリカ側の主張がどちらに寄っていたのか(どちらの問題により関心があるのか)というのは評価しかねる所がある。また、富永的発想をそのままアメリカの主張という形で見た場合においても、これをそのまま「近代化問題(1)」に安易に収斂させるべきでもないように思う。少なくとも苅谷の認識だけに基づけば、日本側の論者は近代化における「数量化」そのものや、アメリカ的価値そのものの追随に対する批判というよりは、ほとんど富永の主張と同じような問題意識を持っていたようにさえ解釈できるからである。しかしこれは同時に「近代化問題(1)」を回避した議論になっていない可能性があり、大塚が指摘したようなアメリカ的〝modernization〟論の領域から日本の論者における議論も抜け出していない、ということも意味してしまっていることになる。この奇妙な矛盾について、どの前提設定が誤っているのか、あるいはどこに議論の掛け違いがあるのかについては今後のレビューでも検討していきたい所である。

 

 

 最後に富永は『ヴェーバーの動機問題』についてどう考えていたと言えるかをまとめたい。富永(1990)及び富永(1998)では「職業としての学問」に触れられておらず、このような問い自体に焦点化されていないというべきであるように思えるが、強いて分類するのであれば、私には中野敏男と同じように第二の立場にあたる『二重の専門性論』を前提にしていたように思えるのである。すでに確認したように、富永はヴェーバー自身は西欧しか近代化できないとし、非西欧は近代化ができないとみなしていた。

 他方で、しばしば取り上げられるプロ倫における「精神のない専門人」「心情のない享楽人」に対しては、その分析自体を批判的に取り扱っている(富永「マックス・ヴェーバータルコット・パーソンズ橋本努等編『マックス・ヴェーバーの新世紀』2000,p35)。富永はこの指摘について、ヴェーバーアメリカ訪問を行った20世紀初頭においても「実際には」禁欲的精神で仕事を行う者が数多くいたはずであるにも関わらずこの評価を行うことは「理由なきペニシズム」でしかなく、そもそも官僚制に高い意義を見出した支配社会学の観点からも矛盾するものとし、アメリカ的世俗化とされるものについても宗教性が失われる訳ではないというパーソンズヴェーバー批判と合わせて議論している(富永2000,p34-35)。この見解は『一見無意味に見えてしまう専門性への専心』か、『二重の専門性』かを議論する『ヴェーバーの動機問題』から言い換えてしまえば、富永自身がそもそもそのような二重性そのものの存在を認めようとせず、この問いに取り組もうとしていないことを意味する(基本的には第三の立場にあるというべきである)。だが、敢えて分類するとすれば、ヴェーバーアメリカの官僚制について「精神のない専門人」などと言うのであれば、それは自己矛盾であって、第二の立場である『二重の専門性論』に寄る可能性があることを批判していると考えていると見ていると言ってよい。少なくとも第一の立場でヴェーバーが議論していると考える余地はないのである。このような評価を行った場合には、基本的に第二の立場というのはこれまでヴェーバーの議論をそのまま支持する論者によって成り立っていることを前提とした点について、更に視点を広げることになるという意味もあろう。

 

※1 これはどちらかといえば大塚久雄についても同じように関心がもたれていたことではなかったかとも思う。しかし大塚久雄においても、箱根会議における日本側の社会学者についても、何故か「アメリ社会学」に独特の忌避をもち、それが一種の曲解に基づいていた可能性についてよく把握しておくべきだろう。

 

※2 ヴェーバーが日本の評価を行ったことについてはどう整理できるのか?これについて、富永1990では触れられていない。この点富永健一マックス・ヴェーバーとアジアの近代化」(1998)では日本を「比較的容易に資本主義を外からの完成品として受け取ることができた」としたヴェーバーの見解を参照している(富永1998,p33)。しかしこれは「制度としての資本主義」とされ「精神としての資本主義」とは区別される(同上、p34)。気になるのは、日本が「資本主義を外からの完成品として受け取る」ことが「近代化の受容」を行ったものとみなさないのは何故なのか、という点である。富永は明らかに自らの理論をヴェーバーから構築しているとするものの、ヴェーバー自身はアジアの近代化はやはり否定的であり(同上、p49)、「精神としての資本主義」をもてないと「近代化」がなされたとは言えないとみなしていた、という風に解釈していたとみるしかないだろう。パーソンズAGIL図式のような視点がヴェーバーになかった点も含めて、ヴェーバーの「近代化」に関する視点はそれほど明確でなかったという風に捉えているともいえる(cf.同上、p27)この不明確さがヴェーバーの問題点であり、その洗練化こそ富永の功績ということなのだろう。

 

<読書ノート>

P8-9「しかしその頃(※1960年代)、近代化論といわれるものが、日本で一部の人びとにイデオロギー的偏見をもたらしているらしい、ということが私には気がかりであった。私にはその偏見の正体はよくつかめなかったのであるが、察するに、近代化というのは資本主義化であって、つまりブルジョワ化を意味し、日本が近代化に成功したなどと強調することは「ブルジョワ的」でよくない、ということではなかったかと思う。すなわちそれは、資本主義化を主題とする「ブルジョワ的」な近代化理論から、その次に来るべき社会主義化を主題とする「プロレタリア的」な視点にすすむのでなければならない、と主張していたのであろうと思う。しかし、本書の考え方の枠組みからするならば、資本主義というのは近代(モダン)であり、社会主義というのはその近代のつぎにくるより高度の発展段階(ポストモダン)であるという固定観念は、誤っていたのである。」

※ここでの社会主義批判が「実態」をもとにしていることを肝に命ずるべきである。

P27「しかしながら、現代日本の現実を直視すれば、われわれにとっては近代化はすでに問題ではないとか、近代化をわれわれはすでに卒業したとか、そういうことはけっして言えないことが分かってくるはずである。とくに問題なのは、ポストモダン論が、「ポストモダン」の名のもとに、じつは「プリモダン」の価値の残存を肯定し、あるいは近代化は必ずしも伝統をこわすことなしに進行し得るとして伝統的要素の残存を擁護する傾向があることである。そのような傾向にたいしては、私は、そういう傾向が出てくること自体、近代化の課題がまだけっして終わっていないことを物語るものである、ということを強調したいと思う。」

 

P36-37「ハバーマスがそうしたように、西洋の近代化を合理化としてとらえるヴェーバーの視点を「普遍史的」立場に立っていると解するならば、彼の「ただ西洋においてのみテーゼ」は、合理化が西洋においてのみ起る「特殊西洋的」文化の産物として主張しているのではなく、やがて非西洋も近代化が進むとともにこれらの文化項目を共有するようになると彼は考えていた、ということになろう。しかし、ではそれはいかにしてそうなのか。そう問題を建てるとき、だれしもは思いつく答えは、非西洋諸国は単に西洋の真似をしてそれらのものを持つようになるのである、とすることであろう。近代化とは西洋化である、とのテーゼがここから引き出される。これを「西洋化テーゼ」と呼んでおくことにしよう。」

※注でハーバマスもヴェーバーは普遍主義的に解釈していた訳ではない、としている(p422)。

☆p38-39「では「西洋化テーゼ」のほうは、どうか。これもまた、現在の時点に立って考える時、それら非西洋諸国において現実になされてきたことを正しく説明するものとはいえない。なぜなら、ヴェーバーのあげたような個々の文化項目が西洋人にとって創始されたものであったことは事実であるが、それらを伝播をつうじて学びとった非西洋諸国は、それ以前にけっして文化的に真空であったわけではなかったからである。伝播をつうじての近代化というのは、けっして単にほんらい無であったところに西洋近代がはいってきたといった単純なものではなかった。すなわちそれは、けっして単に模倣すればすむといったものではなくて、西洋文化に接しながら自国の伝統文化について深く考え、西洋文化を拒否するのではなく、さりとて伝統文化を単に棄てるのでもなくて、両者をいわば掛け合わせて、自国の伝統文化をつくりかえていこうとする運動であった。これはそれ自体すでに一つの創造的な行為である。しかも後述するように、この掛け合わせの過程は、その途上で両者のあいだに多くの深刻なコンフリクトを発生させやすく、それらにコンフリクトを解決することなしには成功しがたい。

 約言すれば、非西洋諸国が近代化に成功するとは、彼等が自分たちの伝統的文化を西洋文化と比較し、そのすぐれている点を選択的に学びとり、その学びとったものを自分たちの伝統文化と掛け合わせてこれをつくりかえるとともに、両者のあいだに生じたコンフリクトを処理していくという、創造的な行為である。日本の近代化は、まさにそのようなものの一つであったし、現在アジアNICs諸社会において進行しつつある近代化もまた、そのようなものであると考えられよう。

 かくして本書においては、非西洋諸国の近代化は、西洋近代からの文化伝播に始まる、自国の伝統文化のつくりかえの過程として、とらえられる。」

 

P40近代化の諸領域を「経済的近代化・政治的近代化・社会的近代化・文化的近代化」と捉える

パーソンズAGIL図式の発想である。

☆p55「資本主義の経済システムの中核は、市場と組織とにもとめられる。社会主義(共産主義)は、市場システムを否定することによって資本主義を超える価値理念をつくりだそうとしたが、戦後世界の現実のなかで、ついに真に経済的近代化を実現することができず、資本主義との競争に敗退してしまった。これからの社会主義は、市場経済をとりいれたものとなっていくほかないであろうから、資本主義と社会主義との関係は連続的なものとなり、両者の区別はカテゴリカルなものではなくなっていくであろう。そこで、資本主義の精神のほかに社会主義の精神を対置する必要はもはやない、とここでは考えておきたい。すなわち、ここでいう資本主義の精神は、経済的近代化を追求するものであるかぎりでの社会主義の精神をも、包含するものである。」

※他方で、ここでいう社会主義的思考は資本主義との批判的対比のなかでつねに想像される可能性が与えられている点は留意すべきである。

 

P72-73「テンニェスとちがってマックス・ヴェーバーは、西ヨーロッパ以外の社会についてたえず注意を払い、東洋学者の研究業績をとりこんで『儒教道教』や『ヒンドゥー教と仏教』を書いた。これらの著作がその一部をなすヴェーバーの膨大な『宗教社会学論文集』は、「行為の実践的機動力」をあたえるものとしての宗教倫理が人間の社会的行為、とりわけその一形態としての経済的行為をどのように規定しているかという問題を主題としていた。そしてその経済的行為の最も合理化された形態が資本主義であり、また資本主義は合理化された法、合理化された支配の様式すなわち近代官僚制、合理化された知識すなわち科学・技術、合理化された芸術等々とともに、近代化された社会の構成諸要素をなしているということが彼の着眼であったことを考えれば、ヴェーバーの宗教社会学や経済社会学法社会学や支配の社会学などの全体が、やはり第二局面における「近代化理論」の中に位置づけられると考えることは自然であろう。そしてこのように考えた場合の「近代化理論」の中味は、ヴェーバーにおいてはテンニェスのそれよりもはるかに広汎なものになることはいうまでもない。また上述のように西洋社会との対比においてたえず東洋社会に目をむけていたヴェーバーは、彼が西洋社会の歴史的事実から引き出した社会のさまざまな側面での合理化の進行に関する諸命題を、西洋とは初期条件を異にする対象である東洋社会に適用するという試みを、くりかえし行なっていたのであった。けれども、そのような試みから得られたヴェーバーの結論というのは結局、前章において言及した一連の「ただ西洋においてのみ」命題に帰着するのであった。すなわち、ヴェーバーにとって、近代化テーゼは非西洋社会にまで一般化することのできない、西洋においてのみ固有のものだったのである。そしてじっさい、ヴェーバーが述べたように、西洋社会以外の社会で近代の科学技術や専門人や資本主義や官僚制的組織を自主的に生み出した国はなく、またそれらを自主的にではないが文化伝播をつうじて土着化させることに成功した日本は、ヴェーバーの時代にはまだ産業化のほんの初期段階にあったにすぎなかった。」

※この言明はどう捉えるべきか。この前段でポパーのテンニース理解を引き合いに出し、ここでの近代化は「理論」としての確からしさを確認する行為として位置づけている(p72)。とすればやはり普遍則としての近代化を議論したものとして位置づけていると言えるか。対してテンニースは近代ヨーロッパで起こった記述に留まっていたという批判がされる。しかし、ヴェーバーはこの普遍化が適用不可であることを示しているとする。

 

P75「戦後における日本の近代化のやり直しの過程のなかで、大塚久雄丸山真男川島武宜は、のちに近代化論と一般に総称されるようになった諸論考によって、広範な読者を得た。」

※大塚は「近代化の人間的基礎」、丸山は「超国家主義の論理と心理」、川島は日本社会の家族的構成」が紹介される。

P76-77アメリカ60年代の近代化論は「普遍的概念」として近代化論を考え、それがいかにあてはめられるかに関心が寄せられた

※ただ説明は雑である。ヴェーバーアメリカの近代化に関心がなかったことを前提に議論している節がある(p80)。近代化は西ヨーロッパ固有のものと捉えられていたとしている。そして後発の近代化論を含めて「西洋諸社会と非西洋諸社会とでは、近代化の途上において直面する問題の性質が異なるという点への、適切な配慮を欠いていた」とする(p104)。この中で非西洋後発諸社会の近代化成功の事実としての日本が注目され、その原因究明に関心を向ける(p105)。「日本の近代化の歴史過程を近代化理論のなかにくり入れるという試みは、日本人自身がやらなければならない課題」とさえ言う(p107)。合わせて、この動きは「日本的特殊性テーゼ」も批判している(p108)。

 

P167-168「民主主義は百パーセント西洋起源の概念である。この語は、東洋には、近代以降に西洋からの文化伝播によってそれが輸入されるまで、概念自体として存在していなかった。したがって当然、日本の伝統社会の中にもそのような概念はなく、しかもそれが西洋から輸入されてからも、第二次世界大戦終結以前には、その訳語さえもまだ一定していなかったほど、この概念の伝播は遅かった。」

☆p169「資本主義と同じく、民主主義が近代に固有のものであるということは、上記のようにここでの中心論点である。」

P172「日本における歴史の事実の経過を見ると、政治的行為の領域における近代的価値は、経済的行為の領域における近代的価値に比して伝播可能性が低く、またそれを受け入れようとする動機づけも強くなかった、という事実に気づく。それゆえ、非西洋後発社会においては、経済的行為の領域における近代的価値すなわち産業主義にくらべて、政治的行為の領域における近代的価値すなわち民主主義は受容されにくい、という仮説命題が立てられ得るように思われる。」

※理由として「上からの民主化」はそもそも原則としてありえないこと、政治行為の領域は経済的行為の領域と比べ狭義の文化にかかわり伝統に拘束され抵抗を生みやすい、成果指標が難しいことを挙げる(p173)

 

P205-206「すなわち、福沢は象山の「東洋の道徳」とはまさに反対に、「西洋の道徳」に着目したのである。福沢の見るところによれば、日本人は象山のように西洋人が物質面の豊かさを実現した側面、すなわち洋服や鉄橋や器械等々にばかり目を奪われ、西洋文明の重要な特性は智徳の水準を高めたことにこそある、という側面に気づかない。前者は文明の外形にすぎず、重要なのは後者すなわち文明の精神である。文明の進歩とは、この精神、すなわち福沢の言葉を用いれば「智徳」の水準を高めることであり、西洋の文明はまさにそれを実現したのである。」

※この西洋理解は象山よりはるかに深いとし評価する(p206)。

P225-226「伝統主義の価値体系が敗戦とともに崩壊したので、経済的領域のみならず、政治的領域でも、社会的―文化的領域でも、西洋的価値のストレートな伝播を妨げるものは何もなくなった。そこで、明治初期の「欧化熱」に匹敵するような「アメリカニゼーション熱」が広まった。これには行き過ぎもあったとはいえ、戦争に敗れた日本の文化に比して、戦争に勝った西洋先進諸国、とりわけアメリカの文化の優越性は明らかであったから、これは当面必要なことであると国民の大部分は感じていた。……それどころか、アメリカの経済力と並んで、アメリカの民主主義とアメリカ的な自由・平等と合理主義こそが、正当化の中心を形成した。すべての領域において、日本の伝統的価値はすでに正当性を奪われていたから、アメリカ的価値の受容がそれらとコンフリクトを生ずる可能性はもはやなかった。こうして、西洋先進諸国からの価値体系の伝播に関して、その伝播可能性、それを受容しようとする動機づけ、およびその受容にともなう国内的コンフリクトの克服可能性は、いずれも高まった。」

※実際のところ、「西洋的価値のストレートな伝播」とは何だったのか?また、富永も単線的近代化論を支持していないように思えるが、どういう立場なのか?そもそも、「日本の伝統的価値はすでに正当性を奪われていた」という見方は正しくない。むしろそのような価値も包摂的なアメリカ的価値が支持されたのではないのか?

 

P233「もう一つの重要な変化は、日本人の価値体系の中における経済の位置づけという観点から見るとき、高度経済成長を契機として、経済的価値が政治的価値や社会的―文化的価値よりも上位に躍り出たと思われることである。すなわち戦後の日本人は、経済的欲望がとほうもなく肥大しただけでなく、企業および企業家の社会的地位が上がって、人材が経済的領域に集中するようになった。……一九七〇年代には、日本人のことを「エコノミック・アニマル」と呼ぶことが世界的に流行した。」

※これは海外での流行だったのか?

P233-234「このような経済的利益第一主義――この場合の経済的利益は生産者の利益であって消費者の利益でないということが重要であるーーの価値は、かつての日本人の伝統的価値と、整合的に接合し得るとは思われない。日本人の価値基準は、変化したのである。」

※これは「日本人論=大衆論」を大前提としている点で問題であるように思える。

 

☆p253-254「これらのうち、家の解体や自然村の解体はモダンであるが、「新中間大衆時代」の到来はすでにモダンをとおりこしてポストモダンであるといってもよい。しかし、それらの新中間大衆の内部には、なお「日本的経営」――しだいに解体しつつあるあるとはいえーーにおける集団主義や、その他流通機構の非近代性や、旧中間層の分解を阻止しようとする「大規模小売店舗法」規制など、多くのプリモダンの要素の残存がある。だからわれわれは、日本の戦後社会の社会構造のなかにもまた、経済的領域および政治的領域におけると同様に、プリモダンとモダンとポストモダンの三重構造が存在している、といい得るであろう。」

※ここでいうポストモダンは、あくまでも家制度崩壊「のあと」を指し、モダンはその過程として捉えられている。しかし、この理解は正しくない。ポストモダンについて富永の理解を列挙すれば、「支持政党なし」層の増加(p245)、日本経済(p236)、近年の流行(p338)という指摘にとどまる。もっと言えば、三重構造という理解についても正しくない。この指摘はただ「理念型は実態ではない」という事実の言い換え以上の価値が与えられているように見えない。これに価値が与えられる条件とは、ヴェーバー的議論を「実態」として捉えていること、「近代=西洋の実態」であることを確信している場合か、「近代=普遍的規範」であるとされる場合である。

 

P265「日本の家ゲマインシャフトを何か非常に特殊なもののように考え、そして日本社会は未来永劫にわたって「家社会」でありつづけるかのように考えることは、誤りである。西洋との比較において、日本社会に「家」的要素の残存があるのは事実であるが、それは先に社会的近代化が進んだ西洋と、遅れて近代化に出発しただけでなく、社会的近代化が他の諸領域よりもとりわけ遅れている日本とを、ただ平面的に並べて見た結果であるにすぎず、歴史的な立体性をもった見方であるとはいえない。」

※ここでいう立体化の先にあるのは普遍的文明観であることは間違いない。しかし、すべての変化を収斂するものと考えるのもまた明らかにおかしいだろう。

持田栄一の捉える「近代」と「現代」について

 今回は、「進歩的文化人」の議論で「現代」の用法に言及した持田栄一を取り上げる(※1)。持田の議論は今から見れば独特の用法で「近代」について取り上げたと言える。これまで私が大塚久雄をはじめとして考察してきた近代化論(の言説分析)においては、「近代」がどのような性質を持っているのか(単線的/複線的かといった見方やそれが生産に寄与するものなのか)という分析を行ってきた。そしてそこで語られる「近代」とは、「近代的であるべき」という規範性を含みつつも、その近代の意味合いについては単線的なものではないとみてきた。

 では、何故単線的な近代観でなかったのか?この原因として考えられるものの一つとして、戦中期の大塚の言説と戦後の言説の連続性に見られるような「欧米的近代」を忌避しようとする志向、より正確には「現在の欧米ではなく、過去の欧米」のエートスに学ぼうとする姿勢が日本における「近代的主体」に求められていたということを私は指摘した。これは当然の如く「現在の欧米」と同一化する結果を招かないようにすることを前提とし議論されていたものであった。規範的なものとして「近代」を見る大塚の議論において、いわば複線的近代観の中に「正しい」近代を期待ともいえる。

 一方、持田が志向すべきとするのは「現代」である。彼の言う「近代」とは教育を「私事」として捉える考え方だとする(持田1973,p25)。「「近代」における「制度としての教育」が教育についての指摘分業と責任体制を「国家」権力によって「理念」的に「上から」共同化し社会化したもの」(持田編1973,p58-59)、端的に「近代公教育は、「国家権力」を媒体として教育を市民個人の「私事」として保障する体制」(持田編1973,p64)とする。そして、このような「近代」の志向だけでは足りないことを主張する。この批判はまず親の私事化がエゴイズムを助長し、教育ママが出現する一方親としての責任放棄を生むという主張に向かう(持田1973,p11-13)。これは当時においてはありきたりな主張であったが、これに加え持田は「近代」志向では足りないとする理由として主に①部分性②形式性③矛盾の存在の否定を挙げている。

 

①部分性

「この意味で、教育を社会的に規制し計画化していくことは、自由主義教育理論がいうように、けっして非人間的・非教育的なことではなく、むしろ人間の存在と教育の本質そのものに根ざす本来的なものというべきである。にもかかわらず、近代教育の現実においては、近代公教育と呼ばれる一九世紀後半以降の教育体制をふくめてそこには教育の「私事性」と「私的自治」の原則が前提とされるから、教育はかぎられた形でしか計画化され社会化されず、その基本的部分は自然成長するままに、放置され無政府状態におかれている。しかも、その計画化され社会化されている部分も「国家」を主体としているから、それはことば本来の意味で教育を「計画化」し、「社会化」するものとはいいがたい。」(持田1972,p208)

②形式性

「市民革命と、その所産として構築された市民社会が、もともと絶対君主に抗して闘った市民や農民、勤労者階級の力に支えられてきずきあげられたものにもかかわらず、それが具体化される段階においてはもっぱら市民階級を主体として現実化されたということから、市民社会においては「形式」と「実質」に矛盾がみられるのである。そして、このような矛盾は「近代的」意味における「教育権」の自覚、それを前提とした「近代公教育」にもみられるのである。そして、このような矛盾は「近代的」意味における「教育権」の自覚、それを前提とした「近代公教育」にもみられるのである。すなわち、「近代教育」においては、「形式」としては教育を国民の権利としてとらえ、すべての国民に彼らの生活の必要に即した教育を与えることを機会均等に保障することが課題とされながらも、資本主義公教育としてのその現実においては、それは一部市民層の教育機会を保障するにとどまっているという矛盾をふくんでいる。」(持田1965,p65)

③矛盾の存在の否定

「以上の所説(※アメリカ由来の近代化を指標とみる立場)は以上のことからもすでにうかがわれるように、近代教育を矛盾なき一枚岩のものとして肯定する立場に立っている。だから、その延長線上に現代の教育を展望している。そこにおいては教育の近代化の進行が不徹底であることが、前近代的な教育体制をとりのこしていると考えられているのである。……

 上記所説がいうように、工業化の進行、科学とテクノロジーの発展が国民の生活をたかめ、国民の教育機会を拡大したことは事実であるにしても、科学とテクノロジーの国民生活や教育機会の規定性は、資本主義社会においては資本主義的生産関係を通して具体化されるのであり、上記の図式は、現実には資本が要求する経済合理性と利潤追求の枠に合致したかぎりで具体化されるものに外ならない。この意味において、現在、マルクス主義教育学の一部でみられる「教育の近代化」は「教育の資本主義化」であり、それは「教育の反動化」だとする見解は、近代教育の現実においてみられる以上の点を指摘したものとして正当な一面をもっているといえるのである。そして、近代教育において以上のような一面がみられることそのことが、現在なお前近代的な教育体制がとりのこされる基本原因と考えられるのである。」(持田1965,p194)

 

 このうち、③に関してはかなり微妙な論点も含むように思う。というのも③については持田も認めるように「マルクス主義教育学の一部」はこの矛盾について適切に指摘しているからである。この点について結局持田は「「現代」資本主義社会における現実の分析を欠いてすすめられる場合、それは非現実的な抽象的なものとなる」ものとして批判を行うように(持田1965,p126-127)、実態を適切に捉えないまま理念だけで(「近代」の目線で)物事を語ることに安住することに対して批判を行っているとみてよいだろう。次のような主張にも「美化」して近代的価値観が語られることに対する疑義が示される。

 

「このような近代市民社会ーー資本主義経済社会の現実においては、本来社会共同の仕事であるべきはずの教育が市民各人の「私事」とされ、人間の教育がマンパウワー=労働力商品の形成として現存する。かくて、教育は、生活的実践のなかでの自主的集団的自己形成を助長し子どもの能力を未来に向って全面的に開花させる営みというよりは、マンパウワー=労働力商品たるに必要な一面の能力を形成するために一定量の知識と技術と道徳を効率的に伝授し習得させることとして立ちあらわれることとなる。

 このような現実においては、「親」たるの存在も矛盾したものとならざるを得ない。「親の教育権」といわれるものも、近代市民社会におけるそれは世の中で考えられるほどバラ色のものではないのである。」(持田1973,p28-29)

 

 また合わせて持田は日本の「近代」性に対する立ち位置について注目し、アメリカ・イギリス的な「下から」の民主化過程により制度が成立しているのとは異なり、ドイツと同様「上から」の民主化過程がなされたことによる遺構が残ったものとしてこれを捉える(※2)。これについては持田の前提である「リアールに物事を捉える」ことからすると当然両者の文化的背景の違いはそのまま対処すべき方策についても異なるものであるという主張がなされる。

 

○持田の戦略的な「現代」の用法について

 さて、それでは持田は「現代」をどのように捉えているのか。特徴的といえるのは、通常の近代化論者が「近代」を「分析的なもの」として捉えていたのに対し、これを積極的に「規範的なもの」として捉えているかのように語る点である。まず次のような典型的な「現代」理解の記述を読み解きたい。

 

「現在におけるわれわれの課題は、以上のような「現代」からの呼びかけにこたえて近代公教育の基本体制を他再編し変革することにあるが、周知のようにそこには二つの道すじがある。

 第一は、近代公教育体制を前提とし、その枠のなかで「改良」と「修正」をこころみる「再編」の道であり、第二は近代公教育の体制そのものの止揚と否定を志向する「変革」の道である。いわゆる「社会国家(福祉国家)」の教育構想は前者の立場に立ち、教育の社会主義化への道は後者をいう。

 いうまでもなく、マルクスが提起した課題は後者の立場に立つものであるが、それは「現代」においては社会主義国家が成立発展し、資本主義国家内部においても労働者運動が抬頭し階級闘争が激化するなかで、単なる理念としてではなく世界の各地に現実的に具体化され、その力はいよいよ発展してくる。しかし、現在、先進資本主義国家と呼ばれる国々においては、日本をふくめて学制改革は前者すなわち社会国家(福祉国家)の教育構想を基礎としてすすめられている。

 それは「現代」の教育課題を非社会主義化の方向において解決しようとするもので、この意味で、マルクスが提起した課題は先進資本主義国家においては現在なお解決されないままにのこされているというべきである。

 いわゆる社会国家(福祉国家)教育構想はさきにものべたような近代公教育——教育の社会化を国家を主体としてすすめる体制の枠のなかで教育の社会化を最高度にすすめようとするもので、そこにおいては近代公教育の本質は基本的に変わっていない。」(持田1972,p142)

 

 この引用では「現代」が3箇所出てくる。中段の議論は一応「分析的」であると捉えているとしても、最初と最後の「現代」の用法は「変革」や「解決」といった言葉と結びつき「現代」はそもそも変動的な時代であることが強調されている。この「現代」の変動性は持田の「分析的」な「現代」言説の主たるものと言えるだろう。

 

「「現代」という時代をどのようにとらえ、そこにおける教育をどのように特徴づけるか、周知のようにこの問題はきわめて論争的な問題である。しかし、もしかりに社会主義国家が単なる空想や理念としてではなく、現実にこの世界の一角に成立し、また、いわゆる社会国家の構想が実定憲法のなかに明文化されるようになった第一次世界戦争後の世界を称して「現代」と呼ぶことが許されるならば、「現代」はまさしく変動と移行の時期であり、近代社会に伝統のさまざまの体制が再編と変革を余儀なくされている。社会主義国家の成立、とくに第二次世界大戦後におけるその前進と飛躍、植民地従属国における民族独立運動、それにともなう国際政治場裡における東西の対立と両者の力の関係の変化、これらはすべて「現代」を特徴づける示標である。そして、このような「現代」的情況がすすむなかで、資本主義体制のなかでも、労働者階級の力がつよまり、これに対応して国民福祉の保障が政策の課題としてクローズ・アップされるようになっている。」(持田1972,p136)

 他方、次のような主張がなされる時、「現代」が極めて規範的なものとして語れている。

 

「ところで、「現代」において教育の本質のあり方を保障していくためには近代公教育体制を変革していくことが基本課題となる。……近代公教育の変革という「現代」における課題は、以上のようにみてくるならば、教育=自己教育を勤労人民の立場に立って「共同化」することを基礎として、幻想教育共同体としての近代公教育の限界と矛盾を明らかに、これ変革し超克していくこと、いい方をかえれば、近代公教育の基幹である教育の「私事性」原則と「私」的分業(責任)の体制を止揚し、教育を真に「社会共同の事業」として確立していくことによって果される。」(持田編1973,p64)

「以上のようにみてくるからば、さきにあげた所論においてみられるように、近代教育を矛盾なきものとして想定し、近代教育の延長線上に現代の教育を展望する考え方は、ことがらの全体を正しく指摘したものとはいえない。また、以上のようにみてくるならば、現在における教育の「近代化」は近代をのりこえること、すなわち近代教育の矛盾を解消する実践と運動とのかかわりにおいて想起されなければならないといえる。もしかりに近代教育の矛盾を解消することを称して教育の「現代化」と呼ぶならば、現在における教育の「近代化」は、「現代化」とのかかわりにおいて提起されなければならないといえる。」(持田1965,p195)

 

 持田の「現代」を変動的なものに捉える見方自体は70年代後半以降における「改善要求を行う日本人論」にも頻出した視点であった。しかし、持田においてはこれを「組織化」という言葉で語ることでその共同的性質を強調し、その方向性を「共同」の方向に持っていくべきものであることを強調する。その際に「私事」を「近代」と同一のものとして語ることでこれを批判の源泉とするのである。このような共同化の追求が持田理論の大きな特徴であるといってよいだろう。

 

○「現代」の戦略性と持田の議論における「矛盾」について

 このような「現代」性の強調は「公教育」を考えるにあたっては非常に重要な観点であるように思う。持田が変革の対象とすべきものとするのは「制度としての教育」である。

 

「ところで、このように、教育=自己教育を社会的にとらえようとする場合、教育変革の主軸は「制度としての教育」を変革していくことにもとめられる。

 教育=自己教育は社会共同の事業として「制度」として存在し、しかも、その「制度としての教育」が教育の本質的あり方を疎外しているからである。この意味において、教育制度の理論こそが教育理論の主軸として追求されなければならないのである。そして、「近代」における「制度としての教育」の現存を解明していくためには、以上のべて来たこととかかわって、「教育権」について言及し、また、「教育の条件整備」といわれることがらについて検討を加え、それを教育理論のなかに位置づけておくことが必要となる。」(持田編1973,p36)

 

 このように実際の「制度」に着目するというのは、当然どのように変革を行うのか、という点においても「具体的」なものであるはずであった。これは、持田が批判する「国民の教育権論」者のスタンスこそ「現実から切断されて、観念論的に認識された」ものであったこと(持田編1973,p39-40)や「教育行政論への具体的プログラムの提示を欠くか、あるいは教育行政論を制限することを主題として提示される」ものであったこと(持田1965,p141)からすれば当然であるように思える。

 

「もう少し具体的にいうならば、それは「教育の自由」と「平等」を「国民の教育権論」が語るように理念的に謳うのではなく、所与の教育関係を変革していくこととして具体的に宣言するものでなければならない。」(持田編1973,p42)

 

 ところが、持田は別の著書では次のように主張し、「行政の法制化」を否定する。

 

「以上のようにみてくるならば、現在におけるわれわれの課題は相互に関連するつぎの二つの点にもとめられよう。第一は、現行教育基本法体制とくにそこにおける「改良」的部分の限界を勤労大衆の教育要求と教育科学の法則に即して明らかにし、教育を「上から」の計画化のプログラム――総資本の教育要求にもとづく教育の社会化構想に代置される「下から」の批判教育計画——労働者階級のヘゲモニーによる教育の社会化の構想を具体的に明らかにする点、そして、第二は、総資本の教育要求を基礎として編成され、再構成されている近代公教育——教育基本法体制を変革していくための「主体」を形成していく課題、すなわち基本的にいうならば教育を「国家」を主体として、したがって、法制化された制度をとおして社会化していくのでなく、人間自らの社会的力を主体としていくための「主体」(自己権力)を形成していくことである。」(持田1972,p246-247)

 

 素朴に考えるのであれば、「法制化」というのは「制度化」のより具体的な側面であるとみなすことができる訳だが、そうであるならば、持田自身は「制度化」をここで否定していることになる。「制度」を見つめる必要はあるが、その改善はあたかも「国民の教育権論」者と同様に観念論的なものに陥ってしまう可能性を内包しているということができるように思える。

 このことに関連して指摘しておくべき点が2点ある。一つは持田の理論はあくまでもマルクス主義的立場にあるということである。持田がマルクス主義的立場にあったことは通説であるが(例えば、桜井智恵子「市民社会の家庭教育」2005,p181、佐藤晋平「教育行政学をめぐる環境変動と理論転換」2008)、先述の引用のとおり(持田1972,p142)、持田は「社会国家(福祉国家)」における「再編」ではなく、「近代公教育の体制そのものの止揚と否定を志向する「変革」の道」を目指す。これは「いわゆる社会国家の構想は、このような課題をマルクスとは異なった立場と方法、すなわち、非社会主義化——「総資本」の要請を基礎に「国家」を主体として解決しようとするものである。」という指摘のとおり(持田1972,p144)、徹頭徹尾「社会主義国家」の形成のための批判である。このような批判の形態において、持田が批判した「一部のマルクス主義者」においてみられた「非現実的で抽象的な」状況(持田1965,126-127)と何が異なるのか理解に苦しむことになる。「再編」は批判(正しくは否定)の対象だが、持田のとる実際の行動が「再編」なのか「変革」なのか一見するとよくわからないのである。整合性をとるなら、やはり「再編」を否定しており、この「再編」を避けた時点で「非現実的で抽象的」な世界にすでに入ってしまっているようにしか私には思えない。そしてこの解釈においては、持田の「近代」批判も有効性を失っているように思える。持田自身「資本主義が排除」されなければ「変革」はありえないと明言しているが(持田編1969,p69)持田がマルクス主義者としての態度をとっている以上この矛盾が解消されることはないのである。

 もう一つは持田が「専門性」に対して全面的に否定的な立場にあること、つまり「専門性」の改良を志向する立場にはあるとはとても言えない点である。ここで「専門性」の対義語として用いられるのはおなじみの「人間性」である。まずもって「専門職」としての教師は近代におけるものとし(持田1972,p272、持田1976,p270)、「専門職」に留まる以上「資本主義社会の価値法則から完全に自由であることや独立することは不可能」なことであり(持田1976,p210)、「真に人間的な教師」となるために専門職たることから脱皮すべきであるとする(持田1976,p213)。また、このように「人間的」となることで親の話に耳をかたむけることに重要な意味を見出すようになり(持田1973,p121)、「子ども・親とともに学び育つ」ことができ(持田1976,p213)、「子どもの生活に即してつねに改善発展させられ」ることのできる「生活者」たることができるとする(持田1976,p268)。

 

 ところが、持田はこの「専門性」について必ずしも否定的でない主張を行っているのも事実である。

 

「教員養成大学で教わった知識や技術ですべてが解決されるわけではなく、日常の生きた教育実践のなかでこそほんものの知識が習得され、技術がみがかれる。また幅ひろい総合的視野もひらかれる。……

 このようにして、「専門職」教師が「専門馬鹿」にならないで、真に「人間」的なものとして成長すればするほど、親の話に耳をかたむけることに重要な意味を見出すようになり、PとTの話し合いに積極的に参加することになろう。」(持田1973,p121)

 

 別の著書でも、「現代」的に機構を構成するためには、「「教職」の一人一人の教育力を組織し、その「学校」の基本機能「教授=学習過程」が、ことば本来の意味において、より効率的に展開されるような形に「校務運営」を「専門化」することが必要である」としていたり(持田1972,p444)、端的に「教師が「専門職」たることもつねに問いかえされなければならない」(持田1976,p268)とされる時、必ずしも「専門性」が否定されていないことがわかる。次のような主張までいくと、もはや専門性は実質的には肯定され、その残存が期待されている。

 

「しかし、といって、いまさら与える教育のいっさいを否定し、学校を解体してしまうことはできない。それはなぜかというと、もともと学校の教育が家庭や社会の教育から分化し成立したのは、与える教育を中心とした専門的施設を設けなければ、これを次の世代に伝達できないほどに文化遺産が高度化したためであった。とくに近代における学校は、科学技術の進歩と発展とにかかわって成長し発展したものである。だから、現在、学校を解体してしまうことは、過去の文化遺産とくに科学技術と断絶することを意味し、社会進歩を願うものにとって容易に肯定しがたいところである。

 それではこの問題をわれわれはどのように考えるべきであるのか。結論は明白である。現在、われわれの周囲において現存している学校、そこにおける与える教育を、学校内外における子どもの生活的諸実践、そこにおける自主的集団的自己形成作用と再結合させ、学校教育のなかに人間と生活を復元させることが現在におけるわれわれの課題として真面目に追求さるべきである。」(持田編1972,p71)

 

 これに関連して、持田は「権力」の行使についても決して否定的ではない。確かに1960年頃の持田は「非権力」という言葉を用いており(持田1980a、p10-11)、一見権力に対して否定であるかのように見えるもののその趣旨は「物理的強制強要するのではなく」「教育に内包される教育法則——にもとづいてなされること」(持田1980a,p10-11)、「教育行政を矮小化しその意味を否定するのでなく、否定するのはその権力的性格」であった(持田1980b,p127-128)。このような趣旨での権力行使については、持田理論の中で一貫している。結局、このような「擁護」を持田が行うことの趣旨は、近代の公教育制度形成過程における法律・制度についてそれが「教育権」に対し果たした一定の役割を認め、評価すること、このことをなくしてその「変革」を行うことに重きを置いていたからである。

 

「親と教師が共同して子どもの教育にあたるといっても、国家その他の公権力が存在するかぎり、それは国家や地方自治体を介して行なわれるものであるから、親や教師は共同して子どもの教育にあたるためにも国家や地方自治体の行政に介入参与して、それが親や教師の直接的コントロールのもとにすすめられるように努力すべきである。」(持田1973,p123)

「教育の内的事項をふくめて、教育への国家権力の介入のいっさいが近代公教育において否定さるべきでなく、当然のことながら教育への法律介入は許容さるべきである。」(持田1965,p208)

「一方、近代公教育の成立をまって教育が人民自身の手によって運営されるようになったことは、画期的なことであり、このような体制は教育基本法体制にもうけつがれており、この点が同体制の近代的特質となっている。しかし、そこにおいてみられる人民による教育支配の現実は、さきにものべたように、ブルジョアジーによる教育独裁のそれであり、ここに、近代公教育の限界がみられる。しかし、そのようなものであっても、教育の国家支配が確立したことは、同時に、労使の力の関係の変転がみられるならば、勤労大衆が教育を一元的に統括する可能性がつくり出されたことでもある。」(持田1979,p364)

 

○持田に「転換」はあったのか?—-通説に対する疑問について

 上記の議論に関連して、持田の議論が学生闘争以後変化したのではないのか、という主張が通説として持田栄一論者からなされる。例えば、持田栄一著作集のあとがきにおいて清原正義は次のように指摘する。

 

「ここではかつてのように「上から」の政策による改良的措置が「教育をうける権利」を保障する側面、共通利害保障的側面を拡充することが強調されるのではなく、むしろ「近代公教育の、そこにおける国民福祉をはかるための『改良』的措置は計画的組織的に拡大され、それが労働者階級を体制化しているのである」というように公教育制度にかかわる改良的措置自体が新たな階級的支配の様式だと指摘している。この叙述を先の『教育管理の基本問題』のそれと比較すれば、持田理論の転換を読み取ることが可能である。

 七〇年代持田理論の基調となった上記の公教育制度観は、状況的には大学闘争の影響を産み出したものであるが、理論的にはかつての構造改革論的発想に対する「自己批判」を経ることによって先生が到達されたところであった。」(持田1980a,p231)

 

 また、吉田直哉は佐藤(2008)も同様の指摘を行っていること踏まえ、次のように指摘する。

 

「前者については、持田が1968年以降激化した「東大紛争」を主導したグループと真剣な対話を繰り広げることによって、近代教育が存在論的に孕み持つ権力性に対して、彼が極めて否定的になったということが言える(佐藤[2008])。彼は、1960年代の自身の論考を、「構造改革派」の系列に属するものであったと位置づけ、それが、不十分な近代批判しか呈示しえなかったという点を、「自己批判」している。」(吉田直哉「持田栄一の「幼保一元化」批判論における公共性認識」2011,p58)

 

 しかし、遺稿となった著書を読んでみた場合に、次のような主張が近代教育を極めて否定的に考えていたものと読めるのだろうか。むしろ、このような主張は近代性の擁護を行っているようにしか見えない。

 

「われわれは、「現代」的情況のなかで、教育の「近代化」と「近代公教育」の矛盾と限界を批判し、止揚する課題としなければならなくなっているが、このことは、教育の「近代化」と「近代公教育」が、人類の教育の歴史においてもっている意味を過小に評価したり、否定したりすることであってはならない。しかし、一方において、近代教育原則を自然法的立場から絶対化し、超歴史的なものとして、価値化することも戒めなければならない。」(持田1979,p147)

 また、逆に、1965年の時点において次のような主張になされている状況は近代公教育に対して極めて否定的(正確には、現状の全面的否定)であるように読めないだろうか。

「ここに、「現代公教育」の特徴がある。また、「人材開発」論という形で提起されているさまざまの計画の実益があるが、しかし、右のような動向はそれ自体のパラドクシカルなものというほかない。そこでは資本の利潤追求をより効率化するために、資本主義が生み出した「近代公教育」を再編・変革するという矛盾した論理で支えられている。「人材開発」をめぐって展開されている「現代」における「公教育」動向については、以上のべたように一方において、「近代公教育」の再編と変革が課題とされながらも、そこにはそれが「資本主義公教育」であるかぎり、そのような課題の実践を拒むような一面が依然堅持されているのである。」(持田1965,P121-122)

 

 私は上記のような持田の思想転換、ないし精緻化のような状況があったという主張は、相対的な議論としては(つまり、「有効」と言える範囲で何らかの「向上」があったとは)認めがたいと考える。持田自身の主張は、私の過去のレビューで同じく70年前後に転換を行ったと分析した遠山啓や大塚久雄などと比べたらはるかに一貫したものであって、そこに区別をつけることはできないものと主張したい。これは、持田自身がしばしば自己批判的に過去の自己の主張を内省したと主張していることに反しているのは百も承知である。しかし、止揚というのはそもそも埋まらないものであってこれを仮にこれを精緻化したものと捉えた所で矛盾し続けていることには変わりないし、持田の場合は一定の評価を与えられるほどの精緻化もされていたと言い難い。むしろ持田の主張はつねに分裂した形でなされていたものであったと言うべきである。一方で、マルクス主義の立場を強調することで、共同化を志向し、そのために私事化を組織化・共同化することで止揚せんとした持田がいる。他方で、現実を過度に評価することで、一見実態に即した改善を促しているように見える持田がいる。しかし、後者の持田において問い返さなければならないのはむしろ持田が議論を続けていた20年少々の間における「現代」の時代の流れにおいて、何が評価されるべき事項で何が批判されるべき事項なのか、(少なくともタテマエ上は)分別が不可能である点である。つまり、持田は批判する際においては物事を全て否定するし、これを肯定する場合には何を肯定しているかわからないが故に実質的に全て肯定しているかのうように評することもできてしまうように思えてならないのである。持田はこれを「近代」と「現代」という言葉で片付けようとする中で無理やり「部分肯定」「部分否定」を含めようとするが、これを判別することはできない(※5)。

 

 これにあまり関連する訳ではないが、井深雄二が持田栄一の批判する際において、やはり「転換」を行った論者として紹介している(※3)。

 

「黒崎勲も指摘しているように、持田理論は、大学紛争を画期として一つの転換が行なわれ、一九六〇年代における持田の「現代教育の論理」の理解と一九七〇年代のそれとは様相を異にしている。すなわち、一九六〇年代においては、近代公教育が教育の私事性を内包しているという点で、私教育との連続性を持つものとしてその限界が指摘される一方、現代公教育には「正しく国民の共同利益・共同事業として組織し運営」されることを期待されている。そして、教育基本法第一〇条も、子どもの教育を受ける権利を保障するという見地から、価値中立的・技術的な単なる「条件整備としての教育行政」ではなく、「教授=学習過程」の「中核にくい入って」くる「福祉行政としての教育行政」の規定として理解すべきことが主張される。これに対して、一九七〇年代においては、現代公教育は近代公教育の「再編」にすぎないものとして教育の私事性は止揚され得ないとされ、したがって教育基本法体制は「変革」の対象とされる。いずれにしろ、持田にあっては、教育の私事性は教育の共同性(公共性)と相容れない。」(井深雄二「戦後日本の教育学」2016,p226)

「ところで、「五五年体制」下における教育の私事化は一方で国家的公共性の下で起きており、他方で私事の組織化を通して市民的公共性に至る経路が遮断されたところで起きている。換言すれば、教育の私事化は公共性の解体として起きている。しかし、教育の私事性を教育の共同性一般の敵対的対立物として措定する持田理論においては、この点を分析的に追求することができない。それ故、教育基本法体制は、教育の私事化を克服する持田の展望においては変革の対象とされたのである。」(同上、p225)

 

 ここで注目したいのは、井深の議論の真偽ではなく、そのロジックである。確かに持田の主張は「教育の私事性を教育の共同性一般の敵対的対立物として措定する」ように見えてしまう側面がある。ただ厳密に言えば正しくなく、このように対立的に捉えたとしても「止揚」は可能であると持田はみなしていたのである。しかし、これはあくまでも「持田の主張をそのまま支持した場合」についてそう言えるだけであり、「分析的な追求」を持田は行っていると言い難いのは井深の言う通りである。これは単純に「私事性を単純に共同化することはできず、常に何らかの排除があって初めて共同化は実現する」という命題は真というべきであろうということである。しかし持田は恐らくこれを真と考えていないことこそが問題なのである。井深の批判はこの持田の無自覚を了解していないため、持田の意図をとらえ損ねている。持田のいう「変革」とは、資本主義が生き延びるための福祉国家・社会国家への「再編」とははっきり異なる文脈で捉えられ、あくまでも止揚のための手段なのである。井深は持田(1979)を取り上げこのことを指摘しているものの、持田(1979)では真逆のことが言われているのである。 井深の誤認も含め、持田の転換言説というのは通説となっているように思えるが、これについては強い疑義が存在すると言わざるを得ない。

 

「近代理論家、あるいは、近代主義的立場に立つ理論家たちは、市民社会と政治的国家を対置的にとらえる。このようなところから、彼らの間では、市民社会における「私事」としての教育の秩序が実は教育の国家支配の下部機構であることを理解せず、前者に依拠して後者を撃つことがこころみられている。しかし、このような認識が誤りであることは、以上のべてきたことからも具体的に明らかである。そうであってみればわれわれは、市民社会における「私事」としての教育の秩序を変革し、超克していくことと、「教育の国家支配」を止揚していくことを統一して理解し、追求していくべきであろう。

 そして、このような観点に立った場合、現在、われわれの周囲においてみられる「上から」の「教育の国家支配」に対する「下から」の教育運動という図式、そして「国家教育」対「国民教育」という発想も、あらためて再検討されなければならなくなるのである。」(持田1979,p62)

 

 思うに、持田のこのような無自覚な状況というのは、むしろ持田自身が積極的にそのように「無自覚」たらんとしているような傾向があることにも注意する必要があると思う。ここで例として挙げたいのは、持田が日本の「後進性」を決して認めないという点である。正直な所、持田の議論は「講座派」特有の「日本の後進性」を指摘していることは明らかであるように思えるのだが、持田は決してそのことを認めようとしない。このような態度に「無自覚」へと繋がる要素があるように思えてならない。

 

「現在、われわれの周囲においては、近代主義の立場に立った公教育観が通説化しており、近代市民社会における「私事」としての教育の秩序が肯定的に理解されるとともに、このような「私事」としての教育の秩序が、教育の「国家統轄」と表裏するものであることは見落とされ、両者は対置的に理解されている。このようなところから、近代公教育のパターンは、イギリスやアメリカに求められ、その結果、ドイツや日本の近代公教育はつねに後進的なものとされ、その理由として、そこにおいては教育の国家支配は強力な形でみられることがあげられる。」(持田1976,p146)

 

 まずもって、ドイツ的近代とアメリカ的近代について持田は「直線的」なものとして捉えている。つまり60年代までの大塚と同様、ドイツ的近代、アメリカ的近代を突きぬけた近代の先に「現代」があることは当然のものとされている。両者の違いとして語られるのは「上からの」国家支配による近代化と「下からの」(市民・教育)運動による近代化であり、持田が強調するのは日本の「下から」の教育運動の必要性である(持田1972,p246-247;持田1979,p92-93など)。そして、その問題解決(組織化・共同化の達成)というのは、両者の型の実態の形態が多様としながらも「基本構造は同じ」であるとするのである(持田1980a,p25)。事実としてアメリカの手前におり、かつ向かう先が同じなのであれば、それに対しどうこう語ってみたところで「後ろにいる(後進である)」ことを否定したことになっていないのである。持田が上記の引用で「後進性」を否定しようとする理由は割と明確であり、「後進的である」という価値判断自体が現状を考える上であまり意味をもたないことを強調しており(cf.持田1976,p146)、「「私事」としての教育の秩序が、教育の「国家統轄」と表裏するものであることは見落とされ」とするのもやはり実態を適切に捉えることが「後進的である」という価値判断を行うことにより阻害されることを問題視してのことであるといえる。ここで天秤にかけられているのは「価値判断」と「実態分析」であり、持田は執拗に「実態分析」の重要性を説いているのである。しかし、この主張を行うことでかえって持田流の「無自覚さ」を生んでいると言うことはできないだろうか。つまり、『持田は共同化の不可能性について了解しているものの、それが価値判断になることを避けるためにこれを否定し「変革・止揚」に固執している』のではないか。私自身は分裂した持田像の読解についてこのような視点で読むのが最もしっくりくると感じるのである。そして、このような固執を行ってしまうことでやはり持田も「実態」を捉えることができていないとみなされてしまうのではなかろうか。

 

 以上述べてきたように持田の立場は「実質的」に変化がなかったというべきであるが、通説が指摘するような変化は「形式的」なレベルで行われていたということができることも指摘せねばならない。具体的引用は割愛するが、これは特に以下のような用語の整理というレベルにおいて相違が認められる点である(※4)。

 

①60年代の持田は「近代化」と「現代化」を同時に達成すべきだとしていた(持田1963,p113-114;持田1965p195以降)が、70年代は「近代化」を積極的に否定しようとしたこと(cf.持田1973,p39;持田1979,p17など)。

②60年代の持田は「近代公教育」と「近代私教育」という言葉を使いわけ、前者の肯定と後者の否定を行おうとしたが(持田1963,p128;持田1965,p196-197;持田1980a,p14)、70年代にはこの違いは意味のないものとされたこと(cf.持田1979,p57)。

③60年代の持田は「変革」という言葉を「再編」「改良」といった言葉とあまり相違のない意味で(正確には並列して)用いていたが(持田1965,p121-122)、70年代には「変革」のみを志向し「再編」「改良」は明確に否定したこと(cf.持田1972,p142;持田1979,p92-93)。

④60年代の持田は「専門性」を肯定的に捉えていたものの(cf.持田1963,p224;持田1965,p424-425)、70年代には積極的に否定しようとしたこと(持田1972,p272;持田1976,p213)。

 

 ここで気になるのは、このような態度変更が何故なされたのかという点である。単に「マルクス主義」の徹底として説明するには持田の70年代の議論はあまりにもお粗末であり、ある意味でそのお粗末さがこの徹底とは反対する意見にも繋がっているものと言える嫌いがある。この態度変更の理由が明確でないことこそこれまでの論者の議論が二分される理由にもなってしまっているように思う。であればどう考えるべきか。私から指摘できるのは持田の60年代の言説と70年代の言説で明確な相違が認められる「高校全入」を例にすると理解が深まるかもしれない、という点である。これはほぼ④の論点を踏襲したものであるが、結局この60年代における「高校全入」言説が持田自身の主張の失敗として捉えることが可能であるという意味でこの言説に注目すべきと考える。

 

 60年代の持田は「近代」「専門性」について肯定的である結果、高校入試制度の批判において、学力選抜(能力主義・選別の問題)に対する批判を適切に行えていると言い難かった。確かに全くそのような批判がなかったとは言い難いものの、それ以上に高校全入運動における高校数の「量的拡大」について積極的に議論することで選抜傾向も除去しようとしていたと言うことができる。結果としてあくまで「入学試験の緩和」が指摘されるに留まったり(持田1963,p140)、高校全入運動における量と質(資本主義的「選別」と「能力主義」の原理への批判)の問題は「統一してとらえるべきであろう」といった物言い(持田1965,p316-317)に留まることで不十分なものとなっていると見ることもできた。

 しかし、70年代に入り教育荒廃と選抜とそれに伴う序列の問題が大衆化してくると、序列に寄与する学力選抜そのものが否定されなければ高校入試をめぐる問題が解決しないことが次第に明らかになってきた。そしてこれに対し自己批判を行った場合、かつての「量的拡大」志向がそもそも不徹底であったという風に映るのは明白である。根本的に批判すべきは「学力選抜」であったはずなのに、そのような選抜が生き永らえたどころか、更に過酷になったものとして持田に映った可能性がある。

 

「しかし、このようなせっかくの教育の自由化と個性化のこころみも、近代公教育における能力主義的秩序を前提として具体化するかぎり、差別と選別を拡大するばかりであろう。われわれは、近代公教育における能力的秩序を問いかえし、教育を共同化することを志向するなかで、教育を自由化し個性化することを考えるべきであろう。」(持田1976,p245)

「われわれは、教育における選別そのものをなくしていくことを基本課題としなければならない。そのため、さしずめ、少なくとも後期中等教育が終了するまでは、選別の体制をひきのばすことが課題となる。」(持田1976,p247)

 

 そうすると学力選抜が否定されねばならないが、これと関連して当然「専門性」の価値観にも目を向けねばならない。「専門性」というのはいわば「過去の人類の叡智の遺産」であり、特に近代化の結果生じた産物であった。60年代の持田はこの遺産を生かしつつ、これを「再編・変革」しようとし、このような遺産に見向きもしようとしない勢力を批判する立場をとったのである。しかし70年代にはこの前提は持田の中で明確にではないにせよ崩れ落ちたのではないのか。この一種の絶望感が「専門性」を否定し、更には「近代化」への否定にも繋がっているように私には思えてならないのである。ここに残ったのが「近代化」の「再編・改良」を否定しつつ、これを「変革」し、その止揚を図ろうとするという、70年代の持田の態度なのであったのではないのか。しかし、持田の特殊性というのは、あくまで「リアール」な態度を取るためにはこの「過去の人類の叡智の遺産」についても適切に捉えるべきであると態度にあり、やはりこれを継承することについて積極的に否定せんとしても全否定できていないという点である。持田の「転換」を支えたのがこの間にある「対応の甘さ」であったはずなのだが、持田はこれを決して克服できなかったのである。そして、私は持田の「無自覚」はこの矛盾の中に現れているように思うのである。

 

○持田は「リアール」に問題を捉えていたと言えるか?――持田的「実践」の限界について

 上記の矛盾した態度と関連して持田の教育の現代化論において問題となりうるのは、「私事の組織化」をいかに行うかということである。最も気になる点は「私事の組織化」は「私事」そのものに対する自由の制約を伴うかという点である。厳密に言うならばこれは自由の制約となることが避けられない問題であるように思えるが、この点について持田は正面から問題に取り組もうとしなかった。結果としてここに矛盾が生じざるをえない。特に70年代の持田はこのような矛盾構造を強化していくことになった。

 これが露骨に現れている著書が「教育における親の復権」(1973)である。本書における持田の「私事の組織化」の実践における矛盾は2点述べることができる。1点は前述した自由制約の問題であり、子どものプール学習について、学校で行うことができるのはその基本的な部分に留まり、それを超える部分は「親の責任」にて社会教育施設で補えと主張する点においてこれが見られる。

 

「一概に水泳指導といっても、学校教育として行なうものには、自ら一定の限界がある。……さらに、「能力あるものには高い教育を。そして逆に能力の低い者には低い教育を」という能力主義原理が教育の本質とかかわって批判さるべきものであるならば、わたしの子どもの小学校が行なって来た水泳指導の実践は正当であるといわなければならない。」(持田1973,p163)

「ひとりひとりの子どもの能力をのばす指導は親の責任において社会教育の施設を利用してすすめるべきである。……親の要求のなかには利己的なものもあり、親自身考えなおすべき余地がある。」(持田1973,p164)

 

 ここでの能力主義批判の言説は厳密に言えば「専門性論」の延長線上にある議論であるが、これに対しては発達と教育が本来社会的であることからアトム化した「能力」なるものが虚構にすぎないとし批判される(持田1976,p194)。このような批判が提起される際、明らかに「反専門性」を持田は志向している訳だが、これは持田の実際の認識とは矛盾した主張となっている。「能力主義」という言葉を一度棚に上げ、「教育の共同化」を志向する立場からしてみれば、よりレベルの高い水泳を学校教育において行うことも否定されるべきではないのではないだろうか。しかしここで持田は自らのリアールな認識から、そこに「限界」を設定することで批判を行っているのである。

 

 もう一点は持田が「親と教師」の共同化を図る組織としてPTAという組織以外のものを全く想定していない点である。これは既存のPTA批判論に対する持田の再反論としてPTAを擁護しようとする際に露骨に出てくるものである。

 

「わたしも、多くのPTA無用論・解体論の批判者と同様、それにくみする者ではない。

 理由は簡単であり、明白である。PTAを解体したところで、「PTA」の現実を変革し、親と教師が現在かかえている矛盾を止揚していくことにはならないからだ。矛盾を止揚することにならないばかりか、無責任で機械的な解体論は、それをいよいよ固定化し、矛盾をより鋭くするのに役立つばかりだからである。

 しかし、さりとて、多くの「PTA民主化」論者がいっているように、真に人間的に協同し得ないような形で結合させられている「近代」における「親」と「教師」の現存をリアールにみつめ、それを問いかえすことをしないままに、親と教師を理念的に価値化し、両者が提携し連帯することの必要性と可能性を観念的に説いたところで、PTAの現実を変革することにならないことは明らかである。」(持田1973,p104-105)

 

 先ほどは能力主義のアンチテーゼを提示する際に矛盾を生じていたが、今度は「PTA無用論」へのアンチテーゼの提出を適切に対処していない。ここでも持田は暗に「リアールなPTA」を捉え、「それを生かす」ことを念頭に入れてしまうために、「PTA以外の組織」による親と教師の連帯、及び子どもの教育権の保障を高めるという可能性について閉ざしてしまっている。もっとも、別の著書では持田も「親と教師の関係を共同化し、親が教育にかかわる社会共同の場は「PTA」だけにかぎられるべきでなく」その外のさまざまな場でも設定される必要があるとするものの(持田1976,p265)、本書においてかなり具体的に教育を変革することを論ずるにあたって一種の曲解を生みだしてしまっているのである。

 

 この持田の2つの矛盾において共通する要素ははっきりしている。どちらも「現状」をベースにした議論を行っているという点である。①プールの事例においては実際のプール指導の指導者の問題などの現実的な教育的リソース(資源)を公教育内で確保することの限界から自由の制約が正当化されることになる。また、②PTAに対する擁護というのは、「私事の組織化」を適切に図るためには既存の組織の有効活用が何よりも大事であり、その要件を日本において満たすのがまさにPTAしかないため、PTAを基盤にしてその共同化の取り組みがなされなければならないことが持田理論の中では自明のことであったからであると読み取れる。PTA批判論は国民の教育権論と同様に理念的な批判を行い、かつPTAが不要であるとさえ論じるものであったため、到底持田には受け入れられなかったのだろう。

 ただ、この両者の議論はそのまま70年代の持田の議論の限界を示しているともいえるだろう。①については有限な資源の問題との兼ね合いであるが、「私事の組織化」を行うにあたり例えば「お金を払ってでも」よりリソースを高める取り組みを行うことが許されるのであれば、これを公教育内で行うべきものとして認めてよいのではないのかという議論が出てきてもよいように思う。もちろん、複数の学校の取り組みを共同化することによってリソースを高めることも可能性としてはある。そのような議論について持田はあらかじめ否定してしまっていることになる。実際の所、これを公教育の枠内でいかに行うことができるかという問題は残ろうが、現状不可能な取り組みであるとも言い難いものである。

 ②については現在では学校運営協議会や学校支援地域本部などの枠組みでPTAそのものとは異なる組織で共同化の枠組みを設定する可能性に開けていることは明らかになってきている。これについても「現状(の日本)」を基軸にしてしまうと、組織の可能性に閉ざしたものと捉えることができる。

 以上のようなことから「リアールに捉える」ということの一端も理解できる。ここで指摘せねばならないのは「リアールに捉える」ことは持田の考えるような「現在の日本の状況を基軸にする」ことに固執する必要性がないということである。もちろん、現状とその文脈の理解というのは、それなりの合理性を持って成立しており配慮すべき内容ではあるが、その前提は常に突き崩される可能性がなければならない。そしてその可能性のヒントというのは、過去の日本を参照することでもよければ、(過去・現在の)世界の事例をもって取り組んでもよいし、実在しないものを参照することが必ずしも問題となる訳ではない。持田の議論において重要なのは、あくまで既存の組織・法制度の重要性をよく理解し、そのことを生かすことはそれを殺すよりも既存の教育の自由を確保できる可能性があるという点である。これは制度改善の上で決して無視してはいけない論点である。

 

 持田独特の文脈依存性の問題というのは、「自己教育」の重要性を強調するときにも歪んだ形で現れている。持田は、「自己教育」を「与える教育」との対比で語り、前者を子ども主体で学ぶ対象を見つけていくこと、後者を教師等が与える教育として規定する。そして、両者の関係は次のように語られ、「与える教育」は自己目的化してはならないとする。

 

「教育の実践において教育主体がすすめる教育的働きかけが重要な意味をもつことは論をまたないところであるが、そのような「与える教育」は、「自己教育」――学習主体が生活実践のなかで、自主的共同的にすすめる自己形成を発展させる媒体として位置づけられるべきである。「与える教育」は「自己教育」をたかめるための媒体であって、それ自体が目的化されてはならないのである。しかし、現在、われわれの周囲において「与える教育」は、以上のようなものとしてはとらえられてはいない。」(持田1972,p372)

 

 ところが、「近代」においては、「与える教育」が「自己教育」から切り離されることとなったとし、この例として「幼保二元化」の議論も取り上げることとなる。

 

「しかし、そこにおいては、「近代」においては、なぜ教育が「与える」教育に矮小化されるのか、について掘り下げて検討し、そのような「与える」教育の体制そのものを変革しようとする問題意識は見られないから、せっかくの「自己教育」への着眼、教育の「生活化」への問題提起が観念的なものとなり、「与える」教育を変革することにならないばかりか、これを「補完」することになっているのである。」(持田1976,p65)

「第二、「与える教育」が「自己教育」からきりはなされて展開し、教育の焦点がここにもとめられるとき、教育を与える者の思惑によって「与える教育」の内実は多様化される。すなわち、本来一体のものとして運営されるべき「生活」と「あそび」と「学習」は分解され、そのどれかが強調されることとなる。」(持田1976,p240)

「幼保が二元化され、多様化され、幼・保それぞれの施設の間にもさまざまの格差がみられるのは、近代教育の本質とかかわってそれなりの必然性があるのだから、「幼保一元化」の構想は、近代における教育の本質観と体制を転換し変革することとかかわってとらえなければならない。それは近代における幼児教育の実践と体制を支配していた原理を全面的に変革し、止揚することとして理解されなければならない。」(持田編1972,p11)

 

 しかし、「近代」原理が果たして「教育」のみに目を向けていたと捉えてよいかはどうにも疑問が残る。私には本田和子などが述べる「子ども論」特有の「遊び」への着目や、「子どもの世界」の存在への信仰については「近代」原理特有の性質が与えられているように思えるし、これを「現代」的原理というのには非常に違和感がある。「遊び」の共同化・組織化志向は確かに「現代的」と言われるべきだろうが、「遊び」のみへの着目はむしろ「近代」原理なのではなかろうか?

 また、持田においては、この「自己教育」はそのまま「組織化」されるべきものとされる。しかし、ここには当然「子ども主体」であることと「組織化」に伴う排除の原理が付与される可能性があるという、先述した持田(1973)におけるのと同様の問題が生じることとなるが、持田はこの問題点を検討しようとしているように見えない。これは「止揚」により解決するものとして片付けてしまっているか、「自己教育」は「教育」の本質であり、教育は本質的に共同的なものであるからこのような問題は生じないかのように捉えているように思う。次の主張は少々奇妙なものだが、この矛盾が露呈したものと言うこともできるのではないか。

 

「ところで、このように、教育=自己教育を社会的にとらえようとする場合、教育変革の主軸は「制度としての教育」を変革していくことにもとめられる。

 教育=自己教育は社会共同の事業として「制度」として存在し、しかも、その「制度としての教育」が教育の本質的あり方を疎外しているからである。この意味において、教育制度の理論こそが教育理論の主軸として追求されなければならないのである。そして、「近代」における「制度としての教育」の現存を解明していくためには、以上のべて来たこととかかわって、「教育権」について言及し、また、「教育の条件整備」といわれることがらについて検討を加え、それを教育理論のなかに位置づけておくことが必要となる。」(持田編1973,p36、再掲)

 

 ここでは「教育=自己教育」の用語が実態のものか、本質的=共同的なものか整理できていないために読解が難しい部分である。『そもそも「教育=自己教育」とは「制度化」可能なものなのか?現状においてそれは「不十分」なものだが、きっと「制度化」することは可能である』という前提のもと書かれている主張であるが、その主張の真偽は定かであると言い難い。

 そしてもう一点指摘しておきたいのは、このように持田が「与える教育」と「自己教育」を二項図式的に区別しようとするとき、明らかに実態も二項図式的であるかのように語ろうとしている点である。私には実態は(特にその「近代」性を語るのであれば)そのような二項図式を取っている訳ではなく、明言できるのは両者が分断されているということ程度ではなかろうか。持田はこれについて戦略的に(悪く言うならば不当に)分断を図ろうとしているように見えてしまうのである。

 

○結局持田の近代論から何を読み取れるか?

 持田の近代論は実態としての「近代」ではなく、規範性をもった「現代」との対比から実態としての「近代」を捉えようとする視点があると指摘した。持田の議論は本質的に「組織化・共同化」を志向するものであり、それを教育そのものであると捉えた。しかし、この議論の致命的な疑問点は「教育=共同化」とした場合に果たして「教育を受ける利益」が「私的なものであること」を理由に排除されるのではないのか、という点であり、現に持田がそのような排除を行う傾向があったということであった。

 では、持田理論を持田の意図に反して『改良』し、この「教育=共同化」図式を「公教育=共同化」として読み替えてみたらどうだろうか?「公教育」という分野においては公的な資源(税金)を使って教育を営むことになる以上、そこに一定の共通項・ないしミニマムなスタンダードを設定することを回避することは不可能と言ってよい。その制約要因が何によるかにも目を向ける必要があるものの、公教育を運用するにあたっては常に何等かの制約に縛られることになる。そのような条件の中で如何に「共同化」を志向するのかという問いはそれこそリアールに追求されるべき課題であると考えられる。持田理論はこのような公教育における「べき論」を考える際の枠組みとしては現在もなお有効であるように思える。

 もっともここで注意すべきこともある。最も重大な論点となるのは、「公教育」の「公」が何を指すのかという答えを提示していない点である。これは「国」を指すのか、「地方自治体」を指すのか、それとも前提となる公的な資源との関連では漠然と語られがちな「地域」「学区」「学校」なのか。この点持田はどう考えていたかというと、やはり二重性を感じる部分がある。一方で持田は「先導的試行」を行う自治体に対して一定の評価をしつつも、その問題点を次のように指摘した。

 

「しかし「先導的試行」の方式が以上のような課題を正しく果たしていくためには、それが政府文部省によって専有され、一方的に運営されてはならない。いわゆる「先導的試行」のこころみは、現在、中教審や文部当局が考えている構想に批判的な見解まで含めて試行の対象としなければならない。そうでないかぎり、せっかくの「先導的試行」も中教審や文部省の学制改革構想の「先導」にすぎず、それは科学的でもなければ国民各層の批判と合意を確保することも不可能である。」(持田1979,p324)

「一方、「先導的試行」をさきにのべたような形で学制改革に対する一つの自主的実験として実施していくためには、教育課程についての国家基準をフレックシブルのものとする必要がある。しかし、中教審答申は一方において「先導的試行」の必要性を説くとともに、他方、教育課程についての「国家基準」をゆるめるどころか、一段と強化すべきことを提案している。」(持田1979,p325)

 

 持田はこれと合わせ私学支援に対しても、「標準化・画一化」されることを批判していること(持田1979,p354-355)、また国主導で行う「先導的試行」が国の意図に沿ったものであることも批判がされ、それが「複数民主主義」に基づくものであるべきだとしている(持田1979,p323)。しかし、このような「複数民主主義」を尊重せんとしても、個々の意志(理念)のみでどうにかなる訳ではない。ここには、複数民主主義を成立させるための(これは当然主体間の、複数性のある主体の中でも利害が一致ないし近似する者同士による「組織化・共同化」の過程を内包するものである)条件整備が必要であり、持田の言う制度に対する「リア―ルな認識」が必要になってくる部分である。これを持田のように制度の文脈依存性にとらわれず、分析的に捉えることが求められるということである。そしてこれが組織化・共同化を志向するものである以上、常にそこから排除される側への配慮も必要となる。この救済は持田の言い方でいえばまさに60年代に志向されていた「現代化」と「近代化」の両方を達成することでならなければならないということであろう。

 

※1 以下、持田文献については以下の内容を参照している。なお、持田1980a,持田1980bは1960年頃の持田の論文を取り扱ったものである。

持田1963「学校づくり」

持田1965「教育管理の基本問題」

持田編1969「講座マルクス主義6 教育」

持田1972「学校の理論」

持田編1972「幼保一元化」

持田1973「教育における親の復権

持田編1973「教育変革への視座」

持田1976「「生涯教育論」批判」

持田1979「持田栄一著作集6 教育行政学序説」

持田1980a「持田栄一著作集1 教育管理(上)」

持田1980b「持田栄一著作集2 教育管理(下)」

 

※2 後述するが、これまでの「近代論」の枠組みで言えば持田はタテマエとしては「複線的近代論」をとっており、物事をリアールに捉えるためにもその前提は明確である。しかし、問題解決(現代化の志向)を考えた場合には結果的に単線的に見ている傾向もある。

 

※3 ここでの批判というのは、実は吉田や佐藤が指摘する転換の方向性とは逆に作用していることにも注目したい。すなわち、吉田・佐藤の場合、マルクス主義的立場はむしろ徹底化されたものと捉えられる訳だが、井深はその逆で「徹底化しても無駄だからあきらめた」としているのである。なお、井深が指摘する黒崎勲「教育行政学」(1999)における黒崎の指摘も「構造改革路線と呼ばれたマルクス主義の戦略にしたがったものであった」ものが大学紛争以降「戦略展望は姿を消す」ものとされていた(黒崎1999,p13)という点では井深のような指摘を行っているものの、それに続いて黒崎は「教育を2つの過程の交錯のなかで把握する方法意識はそれ以後の持田の教育行政理論の別名である批判教育計画論にも一貫して受け継がれるものである。」とする(黒崎1999,p13)。これは要するに「近代」と「現代」を対比的に捉える中で「変革」を行っていこうとする持田の態度を言っているのであり、井深の指摘とは逆に持田の態度はむしろ一貫したものだったとする点で異なる。更に言えば、「マルクス主義的な戦略展望が姿を消した」というのは言葉通りの意味で捉えるべきだと私には思えない。持田が用いる「現代」の用語の規範性の強さは70年代においても十分にあり、これはある意味で明確な戦略性であると捉えることも可能である。

 

<2022年12月11日追記>

※4 以下で指摘する「60年代」「70年代」という区分は少々荒いので補足する。ここで念頭においているのは、持田自身が持田編1969における論文にてこの論文を持田1963及び持田1965の反省として書いたものであるとしている点にある。よって正しくはこの境目はひとまず1969年以降ということであるし、持田論者による転換理論もこの持田自身の言及に依拠しているとみてよい。

 しかしここで当然疑問となるのは、1965年から1969年まで4年の間が空いている部分についてどう考えるかである。結論としては、1969年を境にすべきという風に見るべきではなかろうかと思う。この間に書かれた二つの論文を転換前と転換後の枠組みで捉えると、以下のようにまとめることができるだろう。

 

・「教育権保障と公教育の組織化」『教育学研究』第34巻第2号(1967)

 本論ではすでに近代私教育と近代公教育は一体化したものとして語られている(持田1967,p100-101)。福祉国家の思想が「非社会主義的」であることについても言及しているが(同上、p101)、これに対して賛同するか反対するかは明言されていない。しかし、福祉国家的であるドイツについて「複数民主主義」が機能していることを指摘している(同上、p108)ことからすると、肯定的に捉えているとみるべきであると思われる。よって『転換』していると言い難い。

 

・「現代幼年期教育学制の展望」『教育学研究』第35巻第3号 (1968)

 本論では福祉国家と理念と実態のズレが強調され(持田1968,p237)、これについて「現在において、幼児の権利を保障し、かれ等の福祉をたかめていくためには、いわゆる福祉国家の幼年期教育の構想を建前どおりのものとして具体化し実質化していくことが必要である。このことは、あるいは福祉国家の幼年期教育構想そのものを止揚し、それに代る新しい幼年期教育体制をつくり出していくことであるかも知れない。しかし、このことを吟味することは暫くおく」(同上、p239)としており、態度が曖昧である。しかし、幼年期教育の「専門性」の必要性を強調している(同上、p241)から『転換』していると言い難い。

 

<2023年2月5日追記>

※5 広瀬裕子編「カリキュラム・学校・統治の理論」(2021)における広瀬論文「近代公教育の統治形態を論じる論理枠の構築について」において、持田栄一が取り上げられていたので、私の主張との相違等を見ながら問題点等を取り上げてみたい。

 

 まずもって、広瀬論文のタイトルそのものが持田理論との関連性でそもそも不可解さがあるという点である。「持田理論の特徴は、教育行政を近代公教育行政であると捉えたことにある」という指摘(広瀬2021,p221)は正しい。しかし、持田が「われわれの考えるべき教育を近代公教育、すなわち「私事」としての教育の国家保障と把握した」とすること(同上、p229)は9割方誤りである。正しいのは持田が志向したのが教育の国家保障であったことである点だが、「近代公教育」を「再編」することなく「変革」しようとする持田の課題はあくまでも「私事の組織化」であって、この「私事の組織化」という問いにおいて「私事性」が担保されるかという問いを持田は放棄していたこと、そして「私事の組織化」を具体的に持田が議論しようとした際には私事性が排除される形で組織化を志向することとなっていたことであり、これが持田理論として私事を排除するのはほとんど不可避的であることを私は立証しようとしたのである。このような誤りが発生するのは、広瀬は持田が繰り返し強調していた「現代」という言葉に内包されていた「近代」との距離感について全く言及しないことに起因するものである。仮に持田の志向していたものが「近代公教育」であると断ずることができるのであれば、私が評価した持田の議論と、広瀬が重要視する持田の議論はほとんど同じであるとみることも可能だ。しかし、70年代の持田の議論は理論上ここで擁護しようとする「近代公教育」を殺すことになるという点が私の批判点なのであり、だからこそ60年代のような「近代」と「現代」の同時的達成を志向する持田の理論こそ健全であると指摘したのであった。

 この点に関連して、広瀬論文は黒崎の持田理論の取り込みが60年代の持田の議論をベースにしていることに疑義を投げかけることから持田の議論を考察するが、70年代の持田の議論が優れている点として、「国家権力の警戒モードが最大化していること」を見出している(cf,同上、p227以降)。また、60年代から70年代に展開した持田自身の内省をそのまま評価することを重視すべきであるとし、黒崎の議論は70年代の持田の議論を検証しないまま、60年代の(理論途上の)持田理論を支持することを問題視している。しかし、結果的に私が70年代の持田ではなく、60年代の持田を支持する理由は十分にあることを指摘し、そもそも転換論を主張する持田論者が持田の理論を「精密化」されたものと評価すること自体が問題であるとした点はそのまま広瀬論文にも適用可能であったと言える。端的に言えば、広瀬論文においては、マルクス主義の立場をとる持田が主張する「止揚」という言葉の運用について肯定的に捉えすぎているのではないかと思う。私自身はこれまでも繰り返しているように「止揚」という言葉は無責任に物事を抽象化し、あたかも「否定の否定」が「肯定」になるかのように見えてしまうまやかしでしかない(その否定は方向性を反転させてしまう)、そしてそのような無責任の言説が過去に存在していたこととその系譜を明らかにしていこうとしているという立場で一貫している。広瀬は「この時期、持田は、国家権力、行政権力への警戒感を最大化させながら同時に制度を積極的に構想するという二律背反をかろうじて統御しうる方途を確保した格好である」(同上,p227)と持田を擁護するが、これを支持することはできないのである。

滝沢克己「日本人の精神構造」(1973)

 今回は前々回から折原浩の議論を理解する上で取り上げるべき人物としていた滝沢克己の著書を取り上げたい。両者は年齢的にも大きな隔たりがあるが、大学紛争時代にはそれなりに深い交友関係があったようである(cf.折原浩「東京大学 近代知性の病像」1973,p439)。滝沢の著書は本書と合わせて折原が参照していた「人間の「原点」とは何か」(1970)を読んだが、本書をレビューしたのは端的に「具体的」な内容だったからである。しかしこの「具体的」な内容をウェーバーと連結した場合には、私に言わせれば矛盾した内容となるようにしか思えてならない。

 

 シンプルな例示をしてしまえば、折原が「腰を据える」とした「人間存在の原点」について、「神-人の不可分・不可同・不可逆の原関係」であるという言及があった(折原「マックス・ヴェーバーとアジア」2010,p175-176)。一方滝沢によればこの「不可分・不可同・不可逆」であることとは、「弁証法的」であることと、文字通り同義のものとして扱われる(滝沢1970,p229-230及び本書p104,p120)。しかし、このヘーゲル的な「止揚」の世界観は、ヴェーバーにとっては非難されるべきものではなかったのか、という点で矛盾している。これは今後のレビューでも言及していくつもりだが、古くはカール・レーヴィットによってもウェーバーと「止揚」の関連性については次のように述べられている。マルクスが「止揚」に向かったのに対して、ヴェーバーは「止揚」とは異なる形で主体に関する問題を議論しているとする。

 

「矛盾そのもの積極的な生産性をこのように決定的に肯定しているという点で、ウェーバーマルクスは極端に対立する。マルクス市民社会の《矛盾》を原理的に止揚せんとした。その点では彼は誰にも負けずヘーゲリアンであった。もっともマルクスは、ヘーゲルのように絶対的組織としての国家のなかで市民社会を保存することによってではなく、まったく対立のない社会のなかで市民社会を完全に除去することによって矛盾を止揚せんとした、というちがいはあるが。これに対して、合理化された世界を承認することによって生ずる矛盾を、これと対抗する自己責任の自由への努力によってたえず克服しつづけること、これがウェーバーの態度全体を貫く原動力であった。

 この根本的矛盾の直接人間的な表現は、人間の内部における全人と専門人との矛盾である。したがって、合理性と自由の統一は、人間ウェーバーが専門人たる自己に対してとった特異の態度のなかにもっとも深刻な形で示されている。そしてここでも、彼の専門的関心の統一と分散に対応するものは、人間的矛盾の統一である。ウェーバーはいかなるときでも自分を全体として示したことはなく、つねに特定領域の成員としてのみ――何かきまった役割において、また何かきまった人間としてのみ――自分を示した……《論文においては経済的個別科学者として、教壇に立っては大学教授として、演壇にのぼっては政党人として、内輪のグループに入っては宗教的人間として》。しかしこのように生活領域を分立させること――その理論的表現が《価値自由》である――にこそ、じつはウェーバーそのひとの個性が、その全体の特質においてあらわされている。ここでもウェーバーにとっての問題は、――マルクスの場合のように、――合理化された世界の特殊的人間性、つまり専門人たることを、分業と同様いかにして止揚しうるかということではなく、不可避的に《分割化せる》人間性の只中において、なおかつ人間そのものが個人の自己責任への自由を全体において保持することがどうしたらできるか、ということである。ここでもウェーバーは、この、マルクスのいう人間の自己疎外を、実は肯定している。むろん、それは、この存在形態が最大限の《活動の自由》を彼に許したり与えたりしたからでなく、それを彼に押しつけたからである。《精神なき専門人と感性のない享楽人》とからなる、この専門化され訓練された世界の只中で、情熱的な否定力をもって、或いはここ、或いはかしことはたらきかけ、そのつど何らかの《隷従》の殻を突き破ろうとする――これが《活動の自由》の意味であった。」(カール・レーヴィットウェーバーマルクス」1932=1966、p68-69」

 

 また、滝沢の思想とヴェーバーの思想で明らかに異なるのは、滝沢の思想は明らかに「反近代」ないし「非近代」の発想によって語られている点である。折原も含めヴェーバー論者というのは総じて「近代」志向であること自体に否定的になることがない。「近代」の問題点を語ることはもちろんあるし、「近代」の問題点を語ろうとしないヴェーバー論者を批判するのもヴェーバー論者の特徴の一つと言えるかもしれないが、「近代」を志向すること自体は否定しないことがヴェーバーの趣旨であると解しているのである。ところが滝沢はこの近代原理として最重要なものとなるはずの個人主義、もっと極端には民主主義そのものについて否定を行っているのである(p154-155、p341-342など)。この否定は「不徹底」について批判を行っているのであればヴェーバー的な議論にもなるかもしれないが、そうではないのである。滝沢は文字通りそれを不要のものであるとみなしている。

 

○日本人論が「欺瞞」となる可能性について

 本書については、70年代に流行した日本人論の流れも汲みつつも、発想としては西田幾多郎に着眼がある意味で「近代の超克論」に近いような論述を行っている。しかし、すでに「近代の超克論」については菅原潤や「国体の本義」のレビューを行った際に確認したように、30年代後半の「近代の超克論」は、むしろ近代の延長線上にある議論であり、その意味ではヴェーバー的な側面もあったのである。ところが滝沢の場合はそのような議論とは異なる「反近代」の議論を行うが故に、どちらかといえば1940年代に入り言説として主流となった「日本礼賛」にコミットした議論と親和性が高い。特に本書では進歩的文化人のような「野蛮さ」としての日本人論にNOを突きつけ(これはそのまま講座派マルクス主義の近代観に対する批判でもある)、むしろ日本的な美点として捉え返すと共に、それが太古から日本に存在する不動の価値観となっていることを強調する(p136-137,p208)。ただ、私にはこれが百歩譲っても近代を捨てて古い日本的なものに逆行せよと言っているようにしか見えない。ウェーバー的な議論とは異なり、滝沢の場合は近代の問題の解決を近代を捨てることによってしかなされないため、それを支持するのはそれで結構であるが、佐藤俊樹のいうようにそれが価値観の著しい飛躍(現在生きている社会の前提条件の多大なる無視)を含んでいるために、得られるもの以上に、失っているものの方が(実際には)はるかに大きいようにしか私には見えないのである。

 そしてよりしっかり検討しなければならないのは、滝沢がその議論の背景としている西田幾多郎の議論について、果たしてそれが歴史的な意味で「日本的」と評すに値するものなのかという点である。明治以降日本の近代化論の系譜においては、飛躍した形で日本を語る論者が後を絶たない(そしてその飛躍によって日本人論が形成されてきたという逆説的な議論が成り立ってしまう)。それはむしろ「西洋」に対する過剰な反応として現状維持的な目的をもって「日本」を見ているに過ぎないのではないのか、という疑問が絶えない。それはまさに欺瞞的に日本人論を語る態度にほかならないのである。この点については今後検証する余裕があれば行いたい所である。

 

○「止揚された世界において『悪』が消滅されるとみなすこと」のナンセンスさについて

 さて、本書で滝沢は「止揚」された世界についての具体的な記述を行っている(p190以降)。民主主義が否定された世界においては私利私欲が捨てられることになる(cf.p194)。文字通り「滅私」の世界の果てに滝沢のいう「止揚」された世界像がある。この世界は文字通り全ての人が善人となり成立している世界であるから、だれがどのような役職に就こうが予定調和的にそれが成立してしまうのである(p198)。このような世界観というのは、能力主義批判がさかんだった時代にはそれなりに主張されていたものでもあるが、「近代的」な目線からからすればただただ「専門性」の著しい軽視にしかならない(誰にでもできる仕事に「専門性」は存在しないのではないのか?)し、いくら「善人」の集まりの世界が完成しようとも、それは「専門性」の欠落した世界でしか成立しえないだろう。

 また、このような滅私的世界は「善人」の集まりであることとセットとなることで(これが文字通り「止揚」されることで成り立つのであるが)有効に作動するというのは感覚的には理解できる。しかし、現実的に物事を考える人であれば、このような「善人」だけの世界がいかに非現実的かよくわかるだろう。百歩譲ったとしても、このような善人の世界はかなり極端な・強制的な「選民」を行った上で「悪人」を駆逐しなければ成立しない世界だろう。しかし私などはこのような強制的手段を行って「止揚」を試みようとしても、「悪人」は常に量産され続けるものであり、そのような世界の下では「滅私」であることは、戦中日本の「滅私奉公」としてしか機能しないのではないのか、そしてそれは結局滝沢的発想に立つこと自体が「滅私奉公」という「善人が都合よく使われる」ことに終始することで終わるしかないのではないのか、としか思えないのである。滝沢は何故このような世界を恥じらいもなく語ることができるのか不思議でしょうがないと私などは思うのである。これは「信念」でどうにかなる以前の問題であると思う。

 

 本書の滝沢のスタンスは若干特殊な所も認められる。例えば、滝沢が認めてきた「日本的」なるものの良さというのは、別の(そして本書よりも古い)著書では、「日本的」なものを過去のもととみなしつつ「距離」をとる形で語られていた。この「距離」というのは他方で「西洋的」なものと「日本的」なものの優劣をつける議論について一定の留保を与えるようにも機能しており、「現在」と「過去」の西洋・日本を切り分ける作業を行うことによってどちらの立場も尊重しうる議論を行っていたはずだ(そもそも滝沢はキリスト教にも「不可分・不可同・不可逆」な関係を認めている)。例えば私が読んだ他の滝沢の著書では、「民主主義」の批判についても、基本的には「戦後民主主義」に対する批判を行っているに過ぎず(滝沢1970、p229-230)、それを民主主義そのものの批判としては展開しているとは必ずしも言えなかった。

 しかし、本書においてはそれが少々逸脱しているのである。P208の言い方は過去と現在を結びつけてしまっているし、「滅私思想」を完成させた理想世界の記述に関しても他の著書と比較して飛躍が著しいと評価できるように思える(その意味で本書は滝沢の著書の中でも「異端である」と言う論者もいるのやもしれない)。

 

 思うに折原自身も滝沢の思想の先にこのような世界観が存在する(または、しうる)ことを十分には自覚してかったのではないかと思う(※1)。だからこそ無自覚に(素朴に)滝沢の言説を信用していたのだと思う。しかし、このような滝沢の「止揚」された世界に関する記述などは、典型的な「反近代」言説の成れの果てであり、それはあまりにも楽観的であり、その楽観さがむしろそこで想定されない「権力」に容易に絡めとられる運命しかないのではないかと思う。この運命が「日本人論」的思考の成れの果てだと言われるととても悲しい。だからこそこのような思考が「日本的」であると考えたくないと私は思っている節もあるように思う。

 

※1 もっとも近年の折原においては、滝沢の思想に対して「経験科学的な状況論がない」のではないのか、という疑問を表明しており、一種の違和感があることを認めている(hkorihara.com/zuisou3.htm)。

 

<読書ノート>

P44「日本人は太古以来、この世界の内部のどこか、何かに、その生の究極の根拠・絶対的基準を置こうとはしなかった」

※西洋的な神と比較して、「「人間」もしくは「人間性」の信徒だというところに、最も厳密かつ微妙な意味で、「日本人」の「日本人」たる所以のものがあるのである。」(p24)

「この世界のどこにも絶対的な中心あるいは基準を置かないことこそ日本人本来の気風である」(p48)

P58「そのとき、他の人々がこの真心に応えて各々その分を尽すことは、まさに人心の本来自然である。」

 

☆p79「こうして、「富国強兵」というスローガンのもとに、日本の資本主義経済は急速に発展した。そのための「教育」は普及し、「大学」もまた創設せられた。しかしそれによって、日本は辛うじて、一応列強による分割ないし植民地化を免れはしたが、それと同時に、西洋近代の自己欺瞞、無意識の偽善とあからさまな歪みは、もろに西洋のそれに幾重にも輪をかけて、日本のもの、日本人のものとなった。なぜなら、西洋近代の市民的自由主義は、少なくともその古典的な時期ないしはそこに至る過程において、いっさいの既成の権威・人為的偏見を去って、事実そのものに問い、これと対決・格闘することをとおして、人間共同の新しい生活・社会を打ち立てる意欲に燃えていた。……ところが、日本ではその反対に、その出来上った成果だけを、最小の労力で早急にわがものとすることによって、「先進列強」のあいだに、「独立国」としての地位と名目を保つことが、その公の指導者たちの、ほとんど唯一の関心ごとだったからである。」

※おなじみの言説。そしてこれは止揚言説を前提とする文明論者のにとっては自然なことである。

P82「第二に、それにもかかわらずかれらはいずれも、いわゆる「進歩的文化人」のように、ただ嬉々として西洋の「文明開化」に追随しようとはしなかった。」

 

P100「しかしながら、「絶対矛盾的自己同一」とかれの言い表わした根源的な一点には、もともと、「主観と客観」という近代哲学の図式によってはいうまでもなく、「一般概念と個物」、「空間と時間」、「直観と行為」、「物質と精神」等、西洋伝来の論理と概念だけではどうしても言い表わすことのできない、重大な関係・契機が含まれていた。」

※このような言い方からは「近代の超克」はもはや非近代となっているのは明らか。そしてこの「非」の性質は、観念論的であること一点に集約されることになる。

P103「いいかえると、人が成り立つのはそもそも、人ではない神の決定そのものを、神ではない人であるかぎりで、この世界のただなかに表現するべく成り立つのである。意識的にせよ「無意識的」にせよ人間の自己決定の背後――これを自己の前に置いて見ることの絶対不可能な背後――には、直ちに、神の決定=決定する神そのものが立っている。この意味では、その大いなる決定をといにしえの、神自身の、この世界のただなかにおける自己表現、人の思いの最も暗い隅々にまでも貫徹するかの決定の支配の外には、いかなる人の生活も、事実上一瞬も起こっていないし、また起こりえないということである。」

※「絶対的主体と人間的主体、かんたんにいって真実の神と人との関係は、絶対に不可逆的である。」(p102)というが、ここで定義される「神」が不在であることが問題である。

 

P104「弁証法的(絶対に不可分・不可同・不可逆的)関係」という表現

P107-108「人間の神聖は、人間にとって、それ自身無条件の単純な事実であると同時に、絶対にそれから身をかわすことを許されない厳格な命令なのである。そこに、人の人としての生の、失われることも奪われることも絶対に不可能な根基があり、原動力が秘められている。それとも知らず、これ無視して立とう伸びようとあうる意志のなかに、私たち人間がいつもくりかえして、そのじつはそこから派生してきたもろもろの宝をその生の第一の基礎・究極の目的と錯覚して、虚しい淵へと迷い出る源が潜んでいる。キリスト教や仏教をはじめ、いわゆる「世界的宗教」にその著しい例を見るように、私たち人間の最も「徹底」した「根源的」自覚さえ、それが生起するや否や、たちまちこの眼に見えぬ虚栄のからくりに巻き込まれる危険を免れない。しかし、そのために現実の人生・歴史がいかに醜く恐るべきものとなっても、そのことによって、かの人間の神聖の事実は微動もしない。かえってただ単純にこれを受けて新しく生きること、かの恐るべき傾きと闘うことを罪深い私たちすべての者に呼びかけてやまない。そこに、そしてただそこにのみ、弱く愚かな私たち人間に日ごと新しく恵まれてくる信と愛と希望の、真実確かな根拠があるのである。

 しかしながら、私たちがこの大いなる生命の真理を、それとして明らかに自覚するということはむろん、人間の生活・歴史の現実のすがたが、そのつどいかなるすがた・かたちをなしているかを、この自覚から引き出せるということではない。なぜなら、人間の事実的存在そのものがすでに人間の自覚の結果ではないのみならず、人間がかの神聖な決定の事実・要求に対してどう答えるかは、いつも新しく、その人自身の自由に委ねられているからである。人間存在の根源的構造を、その成立の基点において明確に把握するところの、根源的・原理的な認識そのものが、一々の人の現実・歴史のすがたはただそのつどこれを知覚的にーーこの眼をもって見、この手をもって触れることによってーー確認するほかはないことを、はっきりと示すのである。」

 

P119「世界の内部に現われてくる基本的関係における根源的本質規定と歴史的現実形態の弁証法的関係の把握は、ただ人間成立の根底に横たわる絶対主義即客体的主体、人間の根源的本質規定即人間の歴史的現実形態という唯一絶対の弁証法的関係の把握をとおしてのみ可能なかぎり、それもまた避けがたい成りゆきだったといわなくてはならないであろう。」

※これは何を指すのか?

P120「一人の人が実際に成立するのは、つねに真にそれ自身で在りかつ生きている創造的な主体とのあいだの、絶対に弁証法的(不可分・不可同・不可逆的)な関係において、人間に即していうと全人類的な基盤・使命においてである。」

P121-122「真に全人類・全人生を統一・整序・育成するものは、人間的主体成立の唯一・共通の基盤もしくは根源そのもの=人間的自由がただその似像・映しとして、それによりそれにおいて始めて成り立つところの、かの隠れたる主体のほか、この世界の内部のいかなる国、いかなる人にもありえない。」

 

P128-129「ただ、私たち人間が生命の光をみずからの内に所有する真実の主体であるかのごとく自惚れるかぎり、私たち人間の存在の場は私たち自身にとって、事実絶対に避けがたく、すべての望みを虚しくするたんなる死の淵に転化せざるをえない。そのとき、私たちはいかにもがいても、その闇の外に出ることはできない。行動も理論も、宗教も革命も、結局はただこの闇を自他の眼に蔽い隠して、かりそめの夢を貪る手だて、この夢を破ろうとするあらゆるものを見さかいなしに非難、嘲笑、抹殺する狂熱に転化するほかはない。「神」、「人間」、「理性」、「感性」、「祖国」、「人民」等々、ありとあらゆる美しい名による欺瞞と暴力、それが人類終局の運命ではないのであろうか」

P136-137「この不可見の、脚下の故郷、永遠に至る処に現在する生命の基盤に立ち還ることによって、かれは自分でも思いがけなく、太古以来「言挙げ」を忌む日本人の生き方、ものの考え方に、一つの必然的な根拠――たしかにその風土的・地理的諸条件に助けられてではあるが、けっしてそれに還元することのできない大いなる理由――のあることを発見した。なるほど日本の祖先たちは、この隠れたる根拠・理由を、それとしてことさらに言い表わすことをしなかった。ましてそこから、西洋人のするように、永遠と時、神と人、人と自然、自分と他人、個人と社会、感覚と理性、存在と思惟等々の問題を、客観的・論理的に説き明かそうとは企てなかった。しかしこのことはけっして明治以来の、「自由主義的・進歩的文化人」らがそう断定するように、日本古来の生き方、ものの考え方がただたんに未開とか野蛮だとかいうことではない。いなむしろそこには、従来の西洋人に一般的な生き方・考え方にはすでに欠落してしまっているけれども、事実存在する人生・社会にとって決定的に大切なある感覚が生きてきた。――そういってよいもの・いわなくてはならないものもまた含まれているのではないか。」

※彼とは、西田のことを指している。逆説的だが、西洋がそれほど二項図式的でなければ、「二項図式的」に固執しているのは、むしろ滝沢の方ではないのか、という議論が成り立ちうる。そしてここで強調される「日本的」という言葉は、いわば本来実体がないはずのものを無理やり実体化させるために用いられるレトリックとして語られていることになる。まさに日本人論の虚構性を体現しているかのような用い方である。

 

P142-143「大正から昭和にかけての帝国主義的反動化が、その荒廃の規模だけを大きくして急速に進行しつつある現在、私たちは、日本の国家にかんする右のような倒錯を、いかに警戒しても警戒し過ぎるということはないであろう。その表現が倒錯した権力に利用せられ、一般国民の錯覚を促す機会となるものをそれ自身のうちに含んでいたかぎり、真ッ先に筆者自身を含めて、潔くその責任を取らなくてはならないであろう。しかしながら、もしもそこに、イザヤ・ベンダサンのいうように、西洋、なかにもその近代の知性からはどうしても理解できないもの、その意味ではまったく「非合理的」であるにもかかわらず、人間存在の事実ないしは事理そのものの一表現として、ただたんにこれを切り棄てることを許されない大切な真理契機が含まれているとしたらどうであろうか。もしそのようなことがあるとすると、こんにちこれをもっぱら、帝国主義的国家権力への迎合、歴史的事実を歪曲する詭弁と断罪して葬り去ろうとする学者・政治家たちの言動は、事実はかえってかれらの主観的意図とは逆に、その切り棄てられた真理契機を盾にとって、そのようなかれらの企てを排撃・粉砕しようとする熱情を掻き立てることとなるであろう。……そうして、その結果は、第二次大戦のそれと始め日本そのもの、ひいては世界そのものの決定的破滅であろう。」

 

P154-155「なぜなら、その芯に、真実根源的に人間・世界を統べるものへの共同の志向を欠く「国際連盟」や「国際連合」が不可避的に、ついには破滅的な戦争にまで立ち至る権謀術数、盲目的な私心満ちた癒着と分裂の場に転化するように、同じ根源的志向を欠く「人間主義・民主主義」が、小は大学の教授会・評議会、一地方の裁判所から大は国会そのものに至るまで、惨澹たる退廃を結果することは、こんにち私たちが眼前にこれを見るとおりだからである。

 これに反して、私たちに真に全人生・全世界を統べるものを、人間的主体そのものの成立の根抵に宿る絶対矛盾的自己同一的関係(厳密には「創造的世界の創造的要素として人間的主体を成立せしめる当のもの」)において発見するとき、私たちは始めて、近代の人生・社会における右のような分極が人間の歴史に生起してきた必然的・合理的な根拠と、それにもかかわらずその分極が至るところで相補的な調和を欠いて、果てしのない分裂と野合、恣意的・非合理的な抑圧・管理とそれに対する激烈な抵抗・反撃を惹き起こさざるをえなかった理由を、――一言でいうと近代の人生・社会の、深く隠れた積極面と消極面を、はっきりと理解することができる。すなわち、歴史のなかに現われてきたいっさいの業績と所有、習慣と秩序に先立って、人間はそもそもの成り立ちの太初に、そして最後の最後まで無条件に、「創造的世界の創造的要素」、「絶対矛盾的自己同一世界の個物的契機」として、真にそれじたいで在る創造的主体ではない一個の物=客体にすぎないにもかかわらずどこまでも創造的主体的に活動すべく、定められている。」

※このようにして弁証法的関係の必要性をというものの、結局はその主張は消去法的に語られているに過ぎず、弁証法的関係の妥当性を何ら語ろうとしないのが問題である。私見によれば、この主張は、既存の権力関係の「看破」によってなされるものだと解釈されているように思われる(折原に限れば、その態度に留まるのは明白である)が、かの看破は「真に全世界を統べる」ことからは(著しく)飛躍した距離を持っていると言える。もっと言えば、この手の議論では決まって「看破」の不十分さが糾弾されるのだが、これもまた正しいとは言い難い。「看破すること」と「社会を変える」ことにも著しい飛躍があるからだ(ここにも権力関係が介在することで「看破」を無効化してしまう)。もっと言えば、ここでの糾弾もろくな理由づけがなされることなく、「帝国主義的」という言葉で片付けてしまっている。合わせて、このような形で「創造性」が語られていることにも注目せねばならない。どうやらこれは西田の「日本文化の問題」の中でも取り上げられているようである。

 

P156-157「それゆえ私たちは、第二次大戦の愚を繰り返して全人類の破滅に至らぬためには、ぜひとも近代市民的な自由主義、民主主義の「良識」に抗して、日常の「私生活」の隅々までも含めて各自の人生全体を統べる威力あるもの、すべての人、すべての国がまず第一に、そして最後の最後までただひたすらに、それに仕えるべき一つの故郷――互いの心の奥の通ずることを実際に可能ならしむる共通のことばーーを尋ね求めなくてはならない。真実にこれを見いだすとき、そこにはたしかに、全人類・全世界に対して妥当する一つの形が、歴史的・現実的な一つの態勢ないし体制が、生まれるであろう。しかし、その「体制」は、過去・現在・未来を問わず、いかに強大な国も、ただ「わが国だけの所有」としてこれを私することを許されぬものーーそのように自負する瞬間、その国にとって逆に極度の禍となるほかないようなものーーであるであろう。」

※このような主張と戦中の近代の超克論による帝国主義の正当化の区別はつけられないのではなかろうか。このようなレトリックによる主張はそれが観念論的であるがゆえに、常に志向に反することが実際になされることを了解してしまっている。そして、「新しい体制の誕生」にあまりにも楽観的すぎる。この楽観さと自己否定(ないしは他者批判)が二重基準ではないのかという疑問が拭えない。しかし滝沢は「止揚」によりこれを乗り越えてしまう。

 

P179「むしろただ人々が、ものものしく日本の古道を語り、世界の革命を絶叫しながら、そのじつはただ単純に明るく軽やかな遠い祖先の感覚を喪失し、徹底的に即時的な科学の道を逸脱して、われ知らず近代主義の空洞に落ち込んでいるからにすぎない。ほかならぬ自己成立の根底を無視し、そこに臨在する根源的な、全人類に共通な、限界=基盤に背いて、真実の主であろう、世界を秩序づけようと、不可能な夢を見ているから、ただそれだから、一方、日本の古道とそれにしたがって成り出でた形はすべて「近代以前」無知蒙昧の所産と見えるとともに、他方、現存の資本主義体制の革命を目指す働きは頭から、わが国体を侵すもの、その本来の精神に叛く不逞の企てとして恐怖されることとなるのである。」

※このような主張が「近代的」であるとはどうしても思えない。「近代的」であろうとすれば、どうしてもこの主張における批判の対象となることを免れることができるようには思えないからである。そもそも滝沢の主張も「世界を秩序づけよう」という目論見でないととても言えず、やはり自己矛盾しているのである。またここで観察できるのは、「理念型」として提出される2つの型を糾弾することで、問題を解決してしまっているかのように語っている点である。これは端的に「理念型」の悪用でしかない。

 

P191-192「そうだとすれば、来るべき、真に新しい世界国家の「国体」=そこにおいて支配的な精神の形が、いかなるものとならなくてはならないかもまたおのずから明らかである。すなわちそれは、まず第一にいっさいの人の思いに先立ち、特殊な資格を超えて無条件に、人間成立の根底に臨在・支配するところの、根源的弁証法的な関係・太初のロゴスから直接に由来するそれの表現として、徹頭徹尾この唯一の根源的な関係=ロゴスを指し示す一つの形でなくてはならぬ。そのかぎり、この形は、それ自身のうちにいかなる特殊歴史的な内容を含まぬもの、この意味において完全に無内容なものとして、同時に、他の一切の特殊歴史的形態からまったく独立な、純なる形であるであろう。」

※すでに文化とは真逆のものでは。なお、この世界国家なるものは、「その進展の途中で、全人類が滅亡するか、そうでないとしてもついに現われてくる「世界国家」」という二項図式により語られ始める(p190)。この世界国家においては人間的主体を根拠とする民主主義国家とことなり、公私の区別がない(p193)。当然、私利私欲で物事は考えられない(cf.p194)。

 

P196真に新たなる世界国家にあっても三権分立しているが、私利・越権はない

※なぜ三権分立しているのか?そもそも三権分立の必要性は議論できるのか?

P198「そこ(※真の新たなる世界国家)に内在する分極・文節の、いかなる位置にだれがつくかということも、いわゆる「選挙」をまつことなしに、おのずから定まってくるということも、かならずしも不可能ではないのである。」

※役割は存在するものの、常に互換性があるという主張。この主張はミーゼス的計画経済批判が成立するように思える。互換可能性はそのまま「専門性」の不在を意味する訳だが、これを不在にして社会が成立しうるのだろうか?弁証法的態度は全ての合理性を遂行した上でその全てを否定の上成立した社会像を描く訳だが、その社会がなぜか合理化であることを弁証法論者は前提にしてしまっている。しかし、これが合理的なままである保証はどこにもないし、それがありえると信じることは現在存在する人間を馬鹿にしているようにしか見えない。弁証法をこのように議論するのは愚行であるように思える。

P200-201「こうして西田幾多郎は、深く日本と世界の将来を憂いながら、果たすべき多くの仕事を残して世を去った。かれ自身戦争を阻止するため、眼に著しい何事もなしえなかった。そうして、このことはおそらく、前節に明らかにしたかれの哲学そのものの難点と無関係ではなかったであろう。なぜなら、かれが「絶対矛盾的自己同一」の原点に横たわる関係の不可逆性を十分に明らかにせず、その哲学になお一体形而上学的傾向を残して、マルクス経済学の方法をわがものとするに至らなかったということは、とりもなおさずかれが明治以来の人として、一面において、近代自由主義者の擬似「寛容」から、他面において東洋ないし日本の古い伝統の枠から、徹底的に解き放たれてはいなかったということにほかならないからだ。」

※このような物言いからも、滝沢とマルクス経済学的理解は神話的であることがわかる。

 

P208「「日本人」が古来、ともかくも一つの纏まった国としてこんにち至ったとすれば、そこにはかならずや、何か特定の心(全人生・世界そのものにかんする感覚もしくは理解の仕方)が、一般的・支配的な形を成して生き続けているはずである。」

※この前提も不可解。

P222ベンダサンの引用…「その時代と地方、身分、職業、境遇等の如何を問わず、日本人のものの考え方、感じ方には、一つの基本的な型がある。すなわちかれらは、「人間(という概念)」を究極的な支点として立ち、基準としてすべてを測る。では、その「人間」とは何であるか。それはかれらのとって、あらためて問うまでもない自明のこと、定義も、説明も、論証も、不可能かつ不必要な何ものかである。」

P224同上…「ところが、日本人の実体語の世界と世界の空体語の世界の対立・関係は、西洋の現実と理想、具体と抽象等々のそれとはまるで違う。実体語の世界と空体語の世界は、そのいずれでもない「人間」という唯一支点を介して、互いに離れがたく関係すると同時に、その一方から出発し、ただたんにこれを引き延ばして他方に至るということは絶対に不可能なように区別されている。したがって日本人の論理は、西欧人の言うような意味で「首尾一貫」するということがない。かれらはそのような「論理の一貫性」を意志しさえしない。そういう意味では徹底して「非論理的」である。だから、西欧人から見ると、かれらはどうしても、どこか基本的にでたらめで、ずるくて、ともに事をなすに足りないというふうに見える。しかしそれは西欧人にとって自明なものの見方、考え方をもって日本人を律するからそうなのであって、日本人の世界は、むしろそれとは別の世界、それなりにこれまで生成・持続してきた一つの独特の世界なのである。いなそれどころか、日本ではまさにそのような「非論理的」な生活・言葉づかいこそ、正常なのである。」

※「出鱈目」という評価に対しこのような反論があるなら、これ以上議論することはないだろう。そしてこのような社会は「理想的」なのか、という問いの方がなによりも重要である。滝沢は理想的であることを疑わないが、実体はそうでもないだろう。

 

☆p238-239「万事につけて「私」をもととする西洋近代の生活様式の侵入、それにもかかわらず人間存在の事実に強いられて確立し来たった科学的思惟の方法は、現代日本に住む私たちすべての者に、否応なく、たんなる人間の思い、概念や信念ではない・真にそれじたいで実在する・確かな視点を尋ね求めること、この一点にかんして西洋渡来の「新しい」生き方、考え方とともに、日本固有の「古い」伝統・風習を厳密に反省することを要求してやまないからだ。したがって、「人間」という「概念」を「自明」の支点「無意識の前提」として生きるということは、たといそれがイザヤ・ベンダサンのいうように「日本人」にとっていかに「自然」であっても、実際の事としては、最も悪しき意味における「無反省」、まさにかれ自身のいうとおり、事実に学ぶとか突きつめてものを考えるとかいうことのまるでない「半睡・半醒」の状態で、万事好い加減にお茶を濁してゆく、ということにならざるをえない。そのような生き方・ものの考え方方は、それこそ古今・上下を通じて変らない「日本教徒」の「本質」だと、いかにイザヤ・ベンダサンが強弁しても、けっして日本人本来の特性などではありえない。反対にむしろ、それは、日本人本来の、根源的に事実感覚の失われたその空隙に、避けがたく立ち現れる擬似状態、頽落状態にすぎない。」

※ここでの批判こそまさに「唯一絶対の弁証法的関係の把握」(p119)に基づくものと言いたいのだろう。

 

P262「ただ、それにもかかわらず、かれ(※本多勝一)が前述のように「真の事実とは主観のことだ」と断言するとき、そしてさらに、「主観的事実を選ぶ目を支えるもの、問題意識を支えるものの根柢は、やはり記者の広い意味でのイデオロギー」だと断定するとき、その誇りとしてやまない「論理」そのものに、なおかれ自身の嘲笑するイザヤ・ベンダサンのばあいと同じ根本的な曖昧が潜んでいるのを見ないわけにはいかない。すなわち、この著者もまた、全人生の支点=全人類の歴史の基盤=人間的主体(自己)成立の根基・基準にかんして、「語られた事実」と「事実」そのものとの厳格無比の区別―つまり、私たちがいかに明らかにそれを語り、身をもってそれを実践しても、「語られた事実」には絶対になりえない事実もしくは事理そのものの臨在――を知らない。ただに知らないばかりではなく、知らないと気づいて真剣にこれを突きとめようと努めさえしない。」

※これもダブルスタンダードではないかと疑問視したくなる主張。

☆P268「すなわち、人間が人間として事実成り立ってくるその点には、そもそもの太初から、人間が意識的・無意識的にみずから置く諸前提とはまったくその次元を異にする一つの大前提が含まれている。いいかえると、絶対に人間ではない真実の主体とのあいだの、無条件に親しくかつ厳しい関係においてのほか、人間が人間としての事実成立・活動するということは、絶対にできないし、また起こってもいない。この神・人の、唯一無二の根源的関係において、人間の「自由・主体性」はただ単純に根絶されている」

※ここでの議論を最大限擁護するなら、滝沢は人間は人間でなければならないと主張するのだが、人間である必要性は、どこまでも倫理的要請以上の理由がない。これを真理と主張することに滝沢の欺瞞さがある。倫理的要請であることを自覚しつつ要求すべきなのではないのか。まだジジェクのように自分を守るために人間であるべきと主張する方が説得力がある。

 

P331「いやしくも事実存在するかぎり、人はもと絶対に主体ではない客体的主体として真にそれ自体で実在する創造的主体と、他の何ものの「媒介」を容れる余地なく直接に一であるからーーそもそもの太初に、そしてつねに新たに、真実主体をその身に表現するべくさだめられているからーー一切の理論的反省以前すでに、与えるものなくして与えられた時と処とにおいて、一あって二なき生活・社会を形成する。」

※主体性が否定されている。

P336-337「古来のもろもろの教えについてはいましばらく措くとして、ひとくちに「近代」といっても、その古典的形態、すなわち積極的に探究的・創造的な、本来の「近代精神」と、むしろこれを回避して無用の穿鑿と扇動をのみ事とする「近代主義」的頽廃状態とは、その根本の方向において、存在そのものと虚無そのものほどの甚だしい相違がある。前者はなお近代一般の疎外形態のなかでとはいえ、やがては一転してこれを根本的に止揚克服する現代の科学の方法、フォイエルバッハマルクス、キュルケゴールその他先覚の歩んだ道に連なるものに反して、後者はむしろ、デカルトがそれを嫌った中世のそれに対応する「近代煩瑣主義」とも名づくべきものであろう。」

※滝沢の態度はどうよめばよいのか。近代精神と近代主義は本当にそこまで違うものなのか??

P341-342「ほんとうに欠けているのは、「近代民主主義」にいわゆる「個人の自由・基本的人権」そのものの真実の根拠・目的・動力にかかわる根本的な認識、国民各個の徹底的な自覚であるのに、それとは逆に、出来合いの「国家・社会」の観念と権力をもって、この空洞を埋めようと奔走する。そうして、これらすべての自己欺瞞、意識的・無意識的な偽善の招く内外の叛乱・反撃は、年々歳々増大する「戦力なき軍隊」によって、容赦なく鎮圧しようと身構えつつある。」

※ここだけ読めば一見為政者だけの批判にも見えるが、実際はそうではないのがポイント。戦力なき軍隊とは自衛隊となし、全面的にその存在を否定し待っている姿(p364)は、専門性の否定とも同じ意味合いで見なければならないのではないか。

佐藤俊樹「社会科学と因果分析」(2019)

 今回は、前回少し考察した『ヴェーバーの動機問題』、つまり「合理性についてシニカルな態度を取りながらもその合理性をめぐる議論についてヴェーバーがコミットしようとするのは何故か」という問いにおいて、この問題を回避する「3」の立場に立つ議論として、佐藤俊樹ヴェーバー論を取り上げる。

 端的に本書で佐藤が『ヴェーバーの動機問題』に対して語っているのは次のような部分においてである。

 

「ここでウェーバーは、歴史の一般法則やそのあてはまり方を解明しようとしたのではない。彼の関心はあくまでも、一回しか観察できなかった事象の因果をどう科学的に解明できるのか、にあった。彼が論証したのは、個別的な事象に原因を求める場合も、一般的な事象に原因を求める場合も、基本的に同じ因果同定手続きを用いている、ということだ。だからこそ、文化科学/法則科学という区別は成り立たない。

 それゆえ、経験的なデータにもとづいて同定された因果も「法則」ではない。」(佐藤2019、p232)

 

「(2)(※理解することの意味をどこに見出すのか)はまさにそこに関わる。この「暴力」性についても社会学は反省を積み重ねてきたが、私自身はこう考えている。――他人による観察から「暴力」性を消し去ることはできない。だからこそ、それに対応する「役に立つ」が必要になるのではないだろうか。

 社会学の歴史でいえば、主観主義的社会学は理解の正当化をめぐって迷走していった。それは「役に立つ」を棄てたからではないか、と私は考えている。「役に立つ」を棄てたがゆえに、絶対的に正しい理解以外の記述が許容できなくなった。その点でいえば、「法則論的/存在論的」知識という枠組みをA・シュルツが見逃したことは、やはり大きな失敗だった。

 主観と客観という抽象語をあえて使えば、主観主義的社会学は機能主義を全否定したために、自分は客観的で透明な理解ができている、と主張するしかなくなった。それこそが主観主義的社会学の陥った落とし穴だったのではないか。

 他人による観察は、因果の特定にせよ、意味の理解にせよ、どこかしら「暴力」である。そうであることをまぬかれない。それゆえ、もしその「暴力」に対して対価を差し出せないとしたら、何もしないか、あるいは、「暴力」にならない特権的な方法が自分にはあると主張するか、どちらかしかない。社会科学の営みにひきつけていえば、社会科学の暴力性をひたすら告発するメタ社会科学に閉じこもるか、さもなければ、客観的で科学的な理解の方法は自分はもっていて、他人の行為や因果や意味を正しく理解できる、と主張するしかない。

 しかし、私はどちらの途も正しくないと考えている。いや、はっきり言おう。どちらの途も逃避だと考えている。

 理解社会学は、ある意味で機能主義的であるしかない。他人を「暴力」的に理解しながら、それを用いて、その他人に対して何か「役立つ」ことの可能性を提示し、選べるようにする。そういう形で因果のしくみの理解と説明を結びつけるしかない。その一方を否定すれば、もう一方も否定せざるをえない。

 それは、ウェーバーの方法論の最終的な到達点でもある。」(佐藤2019,p401-402)

 

 ここでは少なくとも中野敏男が指摘していたような「新しい文化的可能性の探究」の議論とは少し位相が異なるところでヴェーバーの研究意義を議論していることが確認できる。中野敏男、そしてその大元としての折原浩における議論においては、「近代」は明らかに『批判』の対象として位置付いていた。この『批判』は一つの価値判断として「古い文化=西欧的近代」の否定を伴うことで、「新しい文化的可能性」というのは、その『必要』性が急務とされざるを得ない地位に置かれるものとなっている。ところが、佐藤の議論においてはこのような『批判』性は機能していない。そしてこの両者の態度の違いは致命的に重要な論点であると私は考える。

 この『批判』性に内在した問題として私が最大の問題としたのは、この『批判』が、本来それに対応して自らが考える「正しい主張」にも適用されることでダブル・スタンダードに陥ることを避けられていないという点である。これは『批判』という行為そのものに内在しているものであるとは決して思えないと私は考えているが、このダブル・スタンダードの問題はこれまで私がレビューしてきた様々な論者が陥っていた問題であった(スラヴォイ・ジジェクの「主体」に対する考え方やジャック・デリダの「贈与」に対する考え方などもそうだ)。直近では竹内好もその典型と捉え、確かに子安忠邦のようにこの『批判』性を擁護する選択肢はありえるが、私自身はこの立場にないとした。これは端的にこれまでそのような『批判』性を擁護する論者にまともな論者がついぞいなかった、という事実に基づく判断である。

 この『批判』性を擁護する論者は、もしかするとその『批判』性がなければ、既存の社会について変化をもたらすことができないと考えているのかもしれない。そのことに対する回答を私は用意できない。しかし、このダブル・スタンダードに陥る論者は一部の例外を除いて本書でいう「明晰さ」に欠けていることが問題だろう。結局私自身もこのような「明晰さ」に欠けた『批判』論にうんざりしている所である。

 これは恐らく『批判』という行為自体に価値判断が与えられていることについての自覚が欠けているからではないのか(この価値判断は何らかの肯定的価値にコミットするときに初めて機能するものと勘違いしているからではないのか)と思えてならない。

 

 一方で、佐藤の捉えるヴェーバー像(及び佐藤自身の立場)は、このような『批判』性を帯びていない。全くその「批判」性がないと言うこととは異なるかもしれないが、少なくともそのような『批判』の視点を凌駕し議論の中心に据えられているのは、「分析的」であることに向けられているのは明らかである。本書の特徴は、このような「分析的」なヴェーバー像として、「可能性」をめぐる議論を積極的にヴェーバー自身が探求していたことと、従前のヴェーバー研究者がこの論点を取り逃していることに対する批判である。そしてその議論の中心にあるのが「法則論的/存在的」という区分である。そしてこの枠組みを用いてヴェーバーは「1回きりの現象について、その因果関係を探求し続けた人物」として捉えられている(佐藤2019,p232)。このような「探求」というのは、そのまま直接『批判』に繋がるわけではない。むしろ『批判』は「探求」の一歩先にある価値判断である。この両者の態度は一見すればあまりにも大きい。

 もっとも、この両者の区別はできないという見方も可能である。「探求」活動を行う際、この「因果関係」の解明において、その分析者が用いようとする「因果」の探究自体はその分析者の主観に基づくものであり続ける限り、何らかの「価値観」と結びつきうる(※1)。しかし、ここで重要なのは、これがあくまでも「可能性」の問題であるということである。この問題を「可能性」のままでいるためには、①それが分析的態度であり続けることと②その分析を行う「価値観」に自覚的である(自分の分析対象の明確化に加え、それが他の分野といかに関連しているのか、自らの対象を適切に『世界』の中に位置付ける)こと、更には③その「価値観」の自覚を「明言すること」にある。このような「明言」を可能にするためにはそれこそその「価値観」に結びつくための連関を明確にし、整理された記述が求められるのである。佐藤はヴェーバーがこれを完全に行っているとは言わずとも、その態度を推し進めた人物として評価しているのである。

 

 さて、このように捉える佐藤の議論は、『ヴェーバーの動機問題』で言えば2の態度をとっていないのは明らかであるように思える。しかしまだ1の可能性が否定されたとも言い難い。この議論を考えるため、もう少し佐藤の議論を検討してみたい。ここで検討を行うのは、「意味とシステム」(2008)における佐藤の「システム論」である。本書で議論するベイズ統計学への理解のシステム論的な適用については、佐藤自身が「意味とシステム」での議論の修正を行う必要があることを認めており(若林・立石・佐藤編「社会が現れるとき」2018,p380)、基本的に本書と「意味とシステム」の議論には連続性があることを認めてよいだろう。ところが「意味とシステム」における中心議論はニクラス・ルーマンのシステム論であり、ヴェーバーとの関連性も示唆されているが、本線という訳ではない。したがってこの点についても整理をしておくことは有意義だろう。以上の背景から、作業課題として次の点を明確化していきたい。

 

1.佐藤にとって、「開いた議論」と「閉じた議論」の違いとは何なのか。

2.佐藤のシステム論は、ヴェーバーの議論と本当に適合的なのか(佐藤が『ヴェーバー論』としているものは本当にヴェーバーの言っていることに合致しているのか)。

 

1については今後のレビューの中でも中心的な論点になると考えているが、「専門性」を典型にした合理性の型について考えた際、この「専門性」自体を「開いた」ものとみるか、「閉じた」ものとみるかが致命的に重要となるからである。すでに古くはポール・ウィリスのレビューなどでも取り上げたが、資本主義社会に適合的な制度はそれだけで「閉じた」ものとみなされがちであり、あまりにもそれが自明のものとみなされるために弊害が生じることはままある事態である。そしてこれは『ヴェーバーの動機問題』において2の立場に立つものが基本的に持ち合わせている論点であり、1の立場に立つことが「閉鎖性」に繋がること、より多数派の考え方では「閉鎖的」であることが宿命であることを根拠として、それ以外の選択肢として2の立場に立とうとするのである。実際、佐藤はこの「開いた」「閉じた」ということについてしばしば言及しているが、どのようにして(どのような立場で)これを言及しているのか。

 

○佐藤のいう「有用さ」とは何なのか?

 この開放性と閉鎖性の議論を考える前に、先に佐藤のいう理論の「有用さ」とは何かについて考えてみたい。佐藤は「「役立つ」ことの可能性を提示し、選べるようにする」ことが重要としていた。ここでいう有用さというのは限定的な意味で用いられていることに注意すべきである。例えば、折原浩や中野敏男的発想に基づいて議論すれば、「現在の資本主義的世界」と「そうでない世界」の切り分けは可能であり、このどちらを選ぶのがよいのか、という問いの立て方が可能となる。この2つの世界についても「有用さ」を議論することは可能であり、その選択について議論することもまた「有用さ」をもとにした議論であると一見言うことができる。

 しかし、佐藤にはこのような議論は恐らく「有用さ」の議論の枠内に入っていない。何故か?佐藤は「意味とシステム」において、システム論的な議論が複数ありえることを指摘し、その良し悪しについて比較をしている(佐藤2008,p227以降参照)。この際に行っていることというのは、実は「分析の方法論」に対する良し悪しの議論を行っているに過ぎず、何らかの価値判断を前提にした現実の選択ではないのである。

 

「コミュニケーションシステム論はさまざまなものがありうる。そのうちどれが良いかを理論的に決めることはできない。

 だからこそ、コミュニケーションシステム論は経験に開かれている。これはむしろ具体的な分析において真価を発揮する理論なのである。」(佐藤2008,p220)

 

 このような議論においては、「現在の資本主義的世界」と「そうでない世界」という区分け(これをより単純に「西洋世界」と「東洋世界」と言ってしまってもよいが)は、その良し悪しの比較の方法選択手段を選ぶという議論はありえるだろうが、この2つの世界に対し真の意味で「良し悪し」を行うことができるとは考えていないように思えるのである。この議論も究極的には「経験的に妥当性が高い」ことが検証可能であるようにも思えるという意味で佐藤が語る「有用性」との相違を考えることが難しい。それは「有用性」の定義をめぐって論争が絶えないからである。佐藤が考える理論上の「有用性」とは、『社会の現象に対してそれがどれだけ説明可能』かというものであった。それは当然「何を説明できており、何を説明できていないのか」という視点を含んでいるはずのものであり、端的に言えば『完全に説明可能な理論は存在しない』ことを大前提にしたものである。したがって、「現在の資本主義的世界とそうでない世界のどっちが有用か」という問いも何を説明でき、何が説明できていないのかを比較する必要がある。ところがこの比較をしようとした場合、「尺度(群)」が恣意的に用いられてしまうことが危惧されるのである。佐藤の言い方で言えば、「経験的な記述との整合性を失う」ことは「システムがない」ことを意味するものであり、「システムがある」ことを前提とするシステム論としては致命的な問題を抱えこんでしまうのである(cf.佐藤2008,p63)。

 

 逆に、仮にこのような比較を行う立場に佐藤がいる場合、「システムの複数性」が実在し、それについての考察もシステム論的に要求されることを意味する。ところが佐藤はシステム論において「複数のシステムがあるかどうか」という問いは解けていないと指摘している(佐藤2008,p63)。これは私に言わせれば「システム論の前提上、複数のシステムの存在を認めることができないか、想定する意義を持ち合わせていない」という方が正しい表現である。この理由の一つは「分析的」であることに見出すことができるが、それ以上にそもそもシステム論的な見方において自己産出的なものを想定していること自体、かなり強い意味で「自己のシステムに対して『内省的』であること」を要求しているという前提があり、「自己のシステム」以外の「他のシステム」の存在可能性について考えることに乏しいか、そもそも考えることに意味を与えていない仕組みがシステム論に内在していることが理由になっていると思える(少なくとも、私にはそうとしか思えない)。少なくとも、システム論はシステムの複数性を前提としてしまっては基本的に不都合が生じてしまうのである(どちらかのシステムの自己産出性に根本的な疑義が出てしまう)。

 

○佐藤の「開放性」「閉鎖性」に対する理解について

 さて、以上の議論も踏まえて、実際に佐藤が「開いた」「閉じた」と言及している部分についてみていこう。まず押さえておきたいのは、佐藤自身が学生時代から「閉じた」議論に対して否定的であったという言及である。

 

「進学先が決まってから、T・パーソンズの『社会体系論』も読んでみた。行為の組み合わせの形式で、「社会」と呼ばれる事象を一般化する。その発想には「なるほど」と思ったが、延々つづく類型論はつまらなかった。常識的な見方を抽象語にして分類しただけ。一体どこが面白いのだろう?

 そんな経験を通じて、一つわかったことがある。社会学者とは社会の全体をわかったつもりになりたがるものらしい。だから、雑が強引でも「近代」とは何かがわかった気になれたり、分類をならべて体系化したように見せる著作が過大評価される。」(佐藤2008,p390-391)

 

 ここでは、社会学者が「全てをわかったつもりでいる」こと、つまり自らの理論で社会の現象について全てカバーできると言い張っていることに対する疑義が述べられている。

 

「「理解社会学」のなかには、世界の全てを見渡したいという一般理論への欲望と、執拗に問い直し考え直すという反省の思考が、奇妙な形で共存している。……

 そういう「理論」たちが私は嫌いだった。たぶん私には、世界を見渡して安心したいという欲望が、あるいはそういう欲望を喚起する不安が少ないのだろう。」(佐藤2008,p8)

 

 ここでこのような「全体性」への言及が「閉じた」議論とみなしてよいのかという論点が残っている。これについては佐藤はそうみなしていると言ってほぼ間違いないように思われる。システム論に対する次のような理解がその説明になるだろう。

 

「コミュニケーションシステム論では、システムが徹底的に「ある」と考えられている。けれども、どう「ある」のかについては、まだ十分明確になっていない。その意味で、第三章で述べるように、現時点で使われる「システム」は単純化であり、近似的なものだと考えるべきだ。

 そして、だからこそ、どう「ある」のか、言い換えればどう自己産出しどう反射しどう反省するのかについて、どこまで積極的に語れるかが決定的に重要になってくる。近似解が自閉的な記述ループに入っていないかを見分けるためには、それが欠かせないのである。」(佐藤2008,p64)

 

 ここで、「社会の全体をわかったつもりになる」とは、システムが徹底的にあるのと同時に、どうあるのかもはっきり把握できている状態を意味する。というのもシステム論的な言い方では「はっきり把握できている状態」においては、完全な意味で「自閉的な記述ループ」を行うことを意味するからである。

 これにも関連するが、佐藤は閉鎖性について言及する際、これを「作動の閉鎖性」と呼んでいる。

 

「作動の閉鎖性とは、[このシステムの]コミュニケーションは[このシステムの]コミュニケーションにのみ接続し接続されてコミュニケーションになっていくことである。ルーマン自身の言い方では、「システム……を構成する諸要素がこれら諸要素自体のネットワークにおいてうみだされる」にあたる。

 そのためには、コミュニケーションにおいて「[このシステムの]コミュニケーションである」という同一性が何らかの形で成立していなければならない。この同一性は内部イメージとしての「内」、先の言い方を使えば、「接続そのものに関わる」という形での区別と指し示しにあたるが、あるコミュニケーションが接続し接続されるという、一つの事態において成立していればよい。コミュニケーションに関して作動の閉鎖性から導けるのは、このこと、すなわちコミュニケーションが同一性をもち、それを識別できることだけだ。」(佐藤2008,p226)

 

 何やら奇妙な定義に見えなくもないが、結局の所、この議論は「システム」そのものがどのような前提をなしているのかと関連付けて閉鎖性が議論されているからこそこのような定義付けになってしまうということである。完全な意味での閉鎖性とは、結局の所先述した完全な意味での「自閉的な記述ループ」がなされている状態を意味するが、それは本来程度問題を抱えているはずのものである(少なくともシステム論はそうみなしているものとされる)。言い換えれば、コミュニケーションシステム論的には、常に「閉鎖性」は多かれ少なかれ存在しているのである。ところがこれを程度問題として認識しないケースにおいては無条件で「閉鎖的」なものとして取り扱われるということを言っているに過ぎない。

 では、逆に「開かれている」状況とはどういう状況を指すのか。察しの通りこの議論と同じように説明がなされることになる。「開放性」は端的に「環境開放性」として説明される(佐藤2008,p218)。詳しい説明はルーマンの引用も交えp244-247でなされているが、やはりこの「環境開放性」というのは、自明なものとして定義されているものではない。

 

「システムは環境に対して選択的にふるまうのではなく、刺激にたいして選択的にふるまう。つまり環境を積極的に知るわけではないが、環境の影響をきっかけにした刺激はうける。ただし、そのシステム自身も自己刺激ができるので、刺激が全て環境によるものではない。」(佐藤2008,p245)

 

 環境がはっきりとした形でシステムと関連づけられていないのは、やはりシステム自身が自己産出的なものであることに由来しているといえるだろう。この自己産出性が環境を明確な外部に相当するものとして定義づけることを拒んでいるのである。そしてこの不明確さが「環境開放性」を必ずしも「開放的」なものであることを保障しきるものではないものとして位置付けるのである。

 

 さて、以上のような佐藤のシステム論的認識に基づき、「真理」に対する考え方を捉えてみると、システム論的に閉じているとは、ある主張が「真理」であることを確定することであることに違いないが、事は単純ではないとみてとれる。その主張そのものが他の主張と連関していることで、その連関していたものも「真理」であることを要求され、更にその連関されたものも「真理」であることが求められる…そのような「連鎖」としての真理性がシステム論的には要求されることになる。無限に連鎖が続いているのであれば、当然この「真理」は確定したものとならない。だから佐藤はシステム論を本質的には「開いたもの」と位置付けるのである。

 以上のように、仮にヴェーバーの思想にシステム論的着眼があるとみなせる場合、『ヴェーバーの動機問題』の前提である開放性と閉鎖性の論点はもはや意味をなしていると言い難い。この動機問題の根本にあった「専門性とは閉鎖的である」という命題に対する答えを与えることがないからである。従って、やはり佐藤のヴェーバー論は『ヴェーバーの動機問題』との関連では3の立場にいることになる。

 

○佐藤のシステム論はヴェーバーの議論として説明するのは適切なのか?

 自分が行っている他者の主張自体が自分の主張なのか、他者の主張の適切な代弁たりえているのか、この説明の妥当性の判断は非常に難しい。しかし①他者の主張を網羅的に拾えているか②自分の主張と合致する他者の主張が適切に参照(引用)されているか③その網羅的な他者の主張から自分の主張としているものと異なる可能性がある事実を丁寧に列挙し、検証すること、の3点をカバーできていれば、ある程度このことは確認可能であることと私は考える。

 少なくとも、佐藤のヴェーバー解釈が通説から見れば異端的な位置にあることは明らかであろう。そもそも佐藤は本書で通説的な(いや、『過去のすべての』いう方が正しいか)ヴェーバーの議論がヴェーバー統計学的認識を理解しておらず、彼自身の「分析的」な認識を適切に捉えることができていなかったことを強調している。残念ながら私にはこのことを学術的な意味で検証するだけの能力はない。ただ、断片的にであれば③の視点から検証することは可能である。

 マックス・ヴェーバーという人物は通説では「闘争的」な人間だったという理解がされる。佐藤が多く参照している向井守もそうだが、今後レビューしていく折原浩や野崎敏郎なども口をそろえてそのような人物像であったと主張する。そして、私自身もそのことには賛同する立場にある。ここでいう「闘争的」とは、様々な他者と対峙を行いながら自らの主張を展開していくことに他ならないが、同時に「感情的」であるというニュアンスも含まれる。この典型といえるのがプロ倫におけるアメリカ人に対する「精神のない享楽人」という評価である。厳密な意味で「分析的」であるとするならば、このような言明にあまり意味はないはずである。この言明はしばしば近代資本主義の「必然的な」帰結をもたらす心性であるかのように捉えられることがあるが、ヴェーバーはこのような態度をとっているとは言い難い。むしろこのような言明はヴェーバー自身の態度に誤解を招くものであってあまり不用意に行うべきではないような類のものであるはずである。しかし、今後向井守や野崎敏郎のレビューで明らかにするがヴェーバーはこのような配慮を行うような人物であったとは考え難いのである。ヴェーバーの「闘争的」という評価は、「分析的」であることと矛盾するかのような語り口をしばしばヴェーバー自身が行っていたこととも関連付けられるのである。

 

※1 より細かな話を言ってしまえば、因果云々以前の問題として、ある現実の問題を検討しようという行為自体がすでに立派な価値判断である。「近代」の問題を考えるにあたって、「場所(ヨーロッパか、アメリカか、アジアか日本か、etc)」「分野(政治か、経済か、教育か、文化か、etc)」「時期(今か、過去か)」のどこに着目するのか、特に「どこに着目することによって『近代』の問題を適切に分析できるか」のかは完全に個人差の問題があるし、その個人差はある程度「妥当」な差異であると言える。何故なら、人間の把握できる範囲が有限である以上、その有限さの中で「どこ」に精通しているかどうかだけでも千差万別だからである。このようにみてくと「価値判断」の問題というのは、ただ単純な個人の指向の問題で片付けることもできないものである。だからこそ、①何を分析しているのかを明確にすること②他の「場所」「分野」「時期」(この三つについて説明する言葉として『世界』という言葉を定義しておきたい)の整合性についての視点を「欠落」させることがあってはならない。

中野敏男「マックス・ヴェーバーと現代・増補版」(1983=2013)

 今回はヴェーバーの近代化論に関連し、今後折原浩の著書における議論を検討するための前段として、中野の著書を取り上げる。

 すでに折原については羽生辰郎との論争の考察の一環でその主張に関する検討を進めたが、そこでの最大の疑問点として提出したのは、「歴史的構成体としての理念型の有効性をみていく際の、ヴェーバーの『宗教社会学論集』に与える意義とは何なのか」という点だった。折原はこの重要性についてしきりに主張していたものの、それが具体的に如何なる意義があるのかについて、羽生との論争中に触れられているとは言い難かった。他方、折原は大塚久雄について名指しで批判しており、大塚とは違う方向性で「近代化論」を展開する論者であると自認している。しかし、やはり折原の著書からだけだとなかなか彼の主張の本旨が見えてこないことがあり、類似性が部分的に認められる中野の著書から先に検討したいと思った所である。

 例えば、折原は次のような主張により、自らの立場を表明している。

 

「ただし、日本は、その過程で、「ヘロデ主義」の「脱亜入欧米路線」に走り、欧米近代に倣って「経済力と軍事力との互酬―循環構造」を創り出し、列強某国とも、同盟関係を結びました。そのうえ、そうした軍事力を、近隣アジア諸国に振り向け、侵略を重ねる、という誤りを犯しました。わたくしは、この歴史を忘れません。むしろ、そうした日本近代史の汚点を反省するとじろから、「脱亜入欧路線」とその再版に警戒を怠らず、さりとて「ゼロト主義」的反動にも走らず、むしろ両者の「同位対立」を根底から乗り越える人間存在の原点に揺るぎなく腰を据えたいと思います。」(折原浩「マックス・ヴェーバーとアジア」2010、p175)

 

 ここでのポイントは折原が「人間存在の原点に腰を据える」というスタンスでいるという点である。「人間存在の原点」とは「神―人の不可分・不可同・不可逆の原関係」という言い換えもされている(折原2010,p175-176)が、わかるようでいて、ほとんどよくわからない物言いである。この引用で別途参照されている(※1)折原の著書でも、結局次のような指摘を行うにとどまっているように思える。

                 

「そして、わたくしたちは、なぜかこの原関係に背いて、あらゆる方向に伸びようとし、あちこちに偶像を立てがちな、思いや情念を去って、この「原点」に立ち返るとき、そこに無条件に恵まれている、真理への無制約的な促しを、素直に受けて立つことができ、と同時に、当の「原点」に発して現象界のすみずみにまでおよんでいる光に照らし出されてくる真理を、同じく素直に受けとめ、心して正確に表現していくことができます。」(折原浩「ヴェーバーとともに40年」1996、p99-100)

 

 折原はヴェーバーの宗教社会学論集にみられるような「比較宗教社会学的研究」(折原1996,p45)ないし「比較歴史社会学」(折原2010,p30)の意義として上記のような「人間存在の原点」に立ち返ることを企図しているのは明らかである。当然これが宗教社会学論集の「意義」として位置付けられているものであると言ってよいだろう。

 一方、中野敏男もヴェーバー的な「比較文化史的視座」を把握することの意義として、それが「徹頭徹尾〈人間主義的〉な関心に貫かれて」おり、「現実に生きているわれわれをして〈文化人〉としての自覚に目覚めさせ」るものであるという(p248)とき、極めて折原的な意義を共有しているように見える。折原とはスタンスが違うとしても、中野の議論を考察することは折原理解にも繋がるものと考えられる。

 

 

 中野は「人格性/物象化」というセットによる文化(ここでいう文化は文明的なものも内容したものとして、以下「<文化>」と表記する。)理解の重要性を説き、ヴェーバーこそ、この「人格性/物象化」というセットで<文化>理解を行おうとした人物として評価する(cf.p139,p233,p266)。「国家や文化圏や地域として囲まれて実体化されるような歴史のそれぞれの単位の相対にではなく、その担い手である文化人の行為理解に置く」ことで分析を行うことを「理解社会学」と中野は定義する(p332)。この文化人は、(自身の態度がどうあろうが)すでに特定の<文化>に内属した存在であり、その文化の中で主体性を行使する(=人格性、p132)(※2)。そして、その人格性は教育により再生産される(p136)。いわば人格性というのは<文化>の中でその正当性が機能するものである。

 さて、この人格性は必然的過程(中野的ヴェーバー理解においては「運命」)として物象化を伴うものである。これは<文化>の中で展開されるそれ自身の(独自の)合理化過程として表出するものである。ところが、この人格性は自らの依拠する<文化>の外に出ると、常に「無意味化」に突き当たる可能性が出てくるし、<文化>そのもの恣意性を自己内省し続けることで、その無意味性を自覚するに至る。この一連の動きを中野は<物象化>と呼び、<人格性>に内包する概念として語る。このあたりの核となる議論はp228-229のヴェーバーの宗教社会学論集の「中間考察」から引き出されているものであり、中野はヴェーバーの「理解社会学」の基本的モチーフをこの点に見出すのである。

 

 では、このような「理解社会学」はなぜ有意義なのか。中野はこれについて「覚醒預言性」を秘めたものとして捉え(p19-20)、「(特に西欧近代のそれとは別の)新しい文化的可能性の探究」(p20)に寄与するものであるからと明確に述べている。中野のこの説明は極めて明瞭である。

 

 この理屈はヴェーバー自身の「動機」を素朴に想定してみても同じように見いだせるように思われる。ヴェーバー自身が「合理性」の帰結についてそれが無意味化することについてはほとんど確信を持っていたという点については基本的に正しいものと私も考える(※3)。しかし、「専門家」としてのヴェーバー自身もまた<文化>に内包された存在であることを否定することはできないのではなかろうか?<文化>が無意味化されるのを理解してなおヴェーバーが専門的な「合理性」を追求し続けるように見えるのは何故なのか、という問いがここで想起されてよいように思える。簡単に言えば「無意味なものは無意味なのだから何故それ以上問おうとするのか」という疑問である。これを今後『ヴェーバーの動機問題』と呼ぼう。

 正直な所、この議論についてはこれまで論争としてはっきり明確化されていないものの、何故この論点が議論されないのか不思議でしょうがないというレベルで論者ごとに意見が分かれており、かつ論者ごとの意思の相違の理由の一つが、この問題を適切に捉えられていないことに見出せるように思えてならない。これは同様にヴェーバー自身の態度を「正しく捉える」ことが著しく困難であるか、不可能であることに起因すると言ってもよいように思われる。私がこれまでのヴェーバー研究者を理解する限りでは、大まかには次のような意見の相違が見受けられる。

 

1 無意味なものでもそれを追求することしか方法がない故、あえてこれを追求すると見る立場。

2 ヴェーバーの専門性というのは俗にいう専門性とは異なり、異なる(実質的には「より高度な」)立場にあると考える立場(これを今後のレビューでは「二重の専門性論」と呼ぼう)。

3 そもそもこの問題を回避しようとする立場。

 

 この『ヴェーバーの動機問題』に対する中野の答えは2に位置付けられる。先述した「新しい文化的可能性の探究」というのは、ヴェーバー自身の中で「無意味化」が回避されるという意味で有効であると見るのは一見して極めて自然だろう。思うに折原の見解も基本的には同じような点にあると考えてよい。もっと言えば、基本的に2の立場にいる者は、ヴェーバー読解を1の立場として考えている者について批判を行うか、3の立場にいる者に対し、その無自覚さを批判するという態度をとる傾向がある(※4)。

 もっとも、上記の議論は中野が言うように文化の「宿命」が真理であることを前提としていることにも注意を向けねばならない。ヴェーバーの実際の動機においては、確かにこの「宿命」が前提となっていると解釈すべきであるように思うが、ヴェーバーの議論から離れれば、人格性/物象化の過程で起こる「合理化」の帰結というもの自体が「理念型」であるため、実態はそのようになりえないと見る可能性もありえる。この立場を2とみるか3とみるかは微妙であるが、1・2の前提となっている「宿命」を回避しているという意味で、3の立場として今後考えていきたいと思う。

 

 さて、中野ら2の立場における議論は、基本的に既存の「専門性」とは異なる所に可能性を見出す。それぞれの文化に根ざした合理性に関連した言い方をすれば「新しい文化可能性」に寄与するものだと主張する。しかし、よく考えれば、「新しい文化可能性」についても論理的に考えれば既存文化に与えられた「無意味性」は除去できないことが前提になるはずである。この「無意味性」という観点からは文化そのものに色を付けることはできず、「善悪」もなければ「新旧」という区別にも何ら意味がない。にも関わらず、「新しい文化可能性」が重要であると主張するのは、ただのダブル・スタンダードではないのか?少なくとも、中野自身の論法においてこのようなダブル・スタンダードの傾向があったことは、中野「大塚久雄丸山真男」(1999)を考察した際にすでに見た通りである。中野の「主体動員論」批判は、中野自身の主張においてはあてはまらず、無根拠に別の「主体動員」を中野自身が要請してしまっている。こうなってしまう理由の説明は簡単である。結局中野はここで「新しい文化可能性」などという中途半端な議論しか行っていないため、これを具体的に中野自身が議論してしまうと自らが行った批判と同じ問題を抱えた主張しかできないのである。結局この立場の問題点というのは、どうして「比較文化史的視座」により楽観的に「新しい文化可能性」を獲得できるなどと言えてしまうのか、という点に尽きる。私自身はこのような可能性に関する議論は「比較文化史的視座」からは獲得できるとは主張できないものだと考える(百歩譲っても、安易にこのような主張がなされるべきではない、と考える)。

 

 さて、このような矛盾について考えた際に、果たしてヴェーバーがこの「新しい文化的可能性」を中野と同じように考えていたのかといえるのか、という点も検討されなければならないだろう。残念ながら、現時点でこの検討ができる状況にないが、今後のこの議論の考察のなかからヴェーバーの議論にも触れていきたいと思う。

 

人間主義的な動機とは何か?

 さて、このような「ヴェーバーの動機問題」におけるダブル・スタンダードを把握する切り口としてもう一つ押さえておきたいのが、ヴェーバー比較文化史的視座というのが「人間主義的」な関心に貫かれているという主張である(p248)。これも一見すると「合理性」に対する対抗手段として「人間的」という視点を与え、この視点を重視すべきであるという主張に見える。

 

ここで注意したいのは、中野の別の著書で語られるような<人間中心>という議論である。中野は「ヴェーバー入門」(2020)において、次のような指摘を行っている。

 

「本節で物象化という事象の両義性を見てきましたが、ここで述べられていることは、西洋の現世内禁欲は社会的関係をとりわけ物象化したということです。すなわち、社会的関係に含まれる「人間的な要素」を切り落として、モノの関係であるかのような「合理的」な扱いを推し進めたということ、そのような扱い方がその宗教倫理の「特別な結果」として生まれたということです。しかも前節で確認してきたように、現世内禁欲は、この結果を生み出す生活態度をその意味を問わないままに「義務」としたのでした。まさにここに、理解社会学が問い、また明らかにしている問題の一つの核心があります。」(中野2020,p216)

 

「そこでヴェーバーがまず指摘しているのは、両者の宗教的義務の違いです。すなわち、ピューリタニズムにおいては身の回りの人間たちとの関係がすべて彼岸の神に対する宗教的義務のための単なる手段や表現と見なされたのに対して(物象中心)、儒教ではその人間関係の中で効果を発揮することこそが宗教的義務とされた(人間中心)、ということです。そしてヴェーバーは、後者が「人間関係優位の立場における物象化についての限界」につながったと言います。」(同上、p229)

 

「さて、『儒教道教』をこのように読んでここまで来ると、そこで提出されている問題が、単なる中国史の問題ではないだけでなく、実はピューリタニズムという特定の二つの宗教だけに関わることですらないと気づかされるのではないでしょうか。儒教とピューリタニズムはそれぞれ極限事例であって、問題は「物象中心vs人間中心」という対抗軸で対比されるべき二つの類型の倫理がもたらす生活態度と社会秩序への影響のことなのです。そして、その弊害という意味で今日のわたしたちにとりわけ際立って感じられるのは、やはり「現世支配の合理主義」のことでしょう。現世を支配し、自然を支配し、世界を支配するそんな「合理主義」は、世界を制覇する力であるとともに、確かに脅威でもありうる。この危惧がさまざまに現実化して、いまやそれはピューリタンにとってだけではなく、わたしたちの時代そのものが直面し続ける世界の基本問題になっていると認めねばなりません。」(同上、p232-233)

 

 まずこの指摘で押さえるべきは、(少なくとも言説上は)中野のいう「人間性」を中野自身が擁護している訳ではないという点である。これを勘違いすると、西洋と東洋の優劣問題において、東洋が真の意味で優れているという主張が成り立ちかねない(※5)。繰り返しp229に立ち返る必要があるが、ヴェーバーによればいかに人間関係が優位にあろうとそれが<物象化>を回避できるわけではないし、中野のヴェーバー解釈もそのように捉えられている(p233)。上記最初の引用(中野2020,p216)は、本書との連続性があることを前提とした主張であり、別に中野の議論が揺らいでいる訳ではないことを示すものである。ところが、ヴェーバー論者がすべて中野のような態度を取るわけではないことをまずここでは押さえておきたい。

 また、結論から言ってしまえば、折原の主張はこの両者を混同しているかのような形で欧米(そして日本)を批判しているようにも思える。折原が曖昧に述べる「人間存在の原点に腰を据える」という言い方を滝沢克己由来のものとして考察すると、そのように解釈することしかできないからである。このことは今後のレビューで示していきたい。

 

※1 当引用で参照されているのは折原(1996)と滝沢克己の「人間の『原点』とは何か」(1970)の2著書である。滝沢の著書に対する検討は今後別途行う。

 

※2 これは折原浩が随所で存在の被拘束性と呼んでいるものと同じである。

 

※3 「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」や「職業としての学問」におけるヴェーバーが存命していた当時のアメリカへの言及や、「中間考察」における文化観に対するヴェーバーの語り(p228)からはそのように捉えるほかないだろう。

 

※4 なお、私が理解する限りにおいては、大塚久雄はかつては明確に1の立場であったにも関わらず、「止揚」の思考を否定した70年代以降3に寄る立場になったという理解でいる(正確には、ヴェーバー理解そのものから離れたというべきか)。

 

※5 しかし、例えば中野(1999)が批判を行っていた「主体動員論」について考えると必ずしもここでの理論的な区分けと実際の中野の主張が合致していないのではないのか、という見方も成り立ちうるように思える。「主体動員論批判」において、明らかに中野は「人間存在の擁護」を行っており、しかもそれは私が指摘したように屈折した形をとる中で中野の主張に自己矛盾を生むものとなっていた。この主体動員論についてもヴェーバー論者であった大塚久雄丸山眞男との関連性によって、ヴェーバー論として語る余地があると言ってしまえば、中野自身もここで議論する「人間性」に関して混同しているのではないか、と邪推することも可能である。

 

<読書ノート>

P17「ウェーバーを問うことは、つねに〈近代〉を問うことに結びついてきた。それゆえに、ウェーバー像の新たなる構成は、〈近代〉への可能な問いのあり方に、新たな視角を切り開くものでなければならない。」

P17-18「「戦後復興」と「近代化」とは、大衆の表層レベルの意識では、生活態度の「アメリカナイズ」に他ならなかったが、知識層においては、その理念型的な範型は〈西欧型近代市民社会〉にあったと言いうる。この両者は、戦後日本の「近代化」の過程で、両極にあって、相補的にそれを推し進めるエートスとなった。そうした中で、〈西欧型近代市民社会〉の姿を最も明瞭に教えたウェーバーは、「近代化」の旗手として承認されるに至ったのである。」

P18「従来の「近代化論」の見地からすれば、日本社会の「前近代性」とは、伝統主義的規範に拘束された、その「非合理性」に他ならない。すなわち、自由で自立した諸個人が「合理的」に行為する可能性と能力を持つという〈西欧型近代市民社会〉の「合理性」の理念を範型とすることによって、それは立論の根拠を得たのである。それゆえに、そうしたウェーバー当人が、その「合理性」の根底において、「人間自然の幸福観を強力に変形するような〈非合理的なもの〉の存在を強調していることは、看過しえないところであった。

 ウェーバーに依りながら「近代性」の理念を説いてきた大塚久雄は、この問題のもつ特別な意味を指摘する。」

※注目すべきは、ここで中野が大塚を近代化論者と別に捉えている点である。この大塚の指摘は64年のウェーバーシンポジウムの大衆に関する解釈についてである。

 

P19-20「これに対し、ウェーバーを読む側の主体としての立場に注意を喚起することによって、まったく新たなウェーバー像を提示したのは、折原浩であった。折原は、従来の近代化論者=ウェーバーという視点に替えて、むしろ近代西欧文化そのものがもつ問題性こそが、ウェーバーの関心の中心にあったのではないかと提起する。そして、ウェーバーが自らを、〈近代ヨーロッパ文化世界〉の「一員」と言わず「子」であると言っている点を捉え、つぎのように言う。「ウェーバーは、「近代ヨーロッパ文化世界」の「一員」ではなかった、ましてやその「擁護者」ではなかったーーそうではなくして、かれは、精神的に成熟したSohn(※子)であったーーつまり、自分自身の深い内面的原理を持たずに反抗したり、付和雷同したりする未成熟な子供ではなくて、親の遺産を慎重に検討したうえで、新しい人生に乗り出そうと身構えた、精神的に成熟したSohnであったと思うのであります。そして、その新しい人生とはいかなるものであるかーーそれはまさに私たち自身の問題である、と思うのであります」

 折原によれば、このようにウェーバーを捉えることで大塚が袋小路と感じたところのものを、絶対的な閉塞点としてではなく、むしろ、読者たるわれわれをして人生や世界の意味についての問いへと強く促す「覚醒予言性」を秘めたものとして見直しうるのである。そして、その点から、われわれは、ウェーバーによって示された〈近代ヨーロッパ文化世界〉の姿を、到達すべき〈近代の範型〉としてではなく、その固有性と問題性において捉え、さらに、それと鋭く対質させながら、〈近代日本文化世界〉の固有性と問題性を明らかにすることで、両者のマージナル・エリアに立って、新しい文化の可能性を探求しうるというわけである。

大塚の問題提起が、近代化論的な見地に立ってウェーバーに内在した場合の究極の限界点を示しているとすれば、折原のこの主張は、そこから新たなる方向へと展開する可能性を開いたものであった。」

ウェーバー自身をこのように位置付ける論点は大きな論争点となる。もっとも、折原のスタンスからすればウェーバーのこの側面を強調するのは必然である。そして、このような中立ぶった主張の価値というのはそのまま問題となる。また、折原の言う「新しい人生」も結局近代志向であることに変わりはない。にもかかわらず、そのようなものに対して「新しい」などという白紙委任の価値を与えようとしていること自体が問題である。そもそも「近代化論的な見地」に立っているなら大塚のヴェーバーシンポジウム時のような中途半端な主張にはならない。

 

P20「この〈比較文化史的視座〉を明確に把握することによって、今日のウェーバー研究は、従来の「近代化論」的見地とはまったく異なる新たな潜在力を持つようになったと思われる。すなわち、今日のウェーバー研究の有する〈普遍的意義〉は、ウェーバーの示したヨーロッパ近代の「範型」としての普遍性においてではなく、むしろ、彼の「ヨーロッパ意識」という特殊な関心に導かれたこの〈比較文化史的視座〉からする、新しい文化的可能性の探求に結びついているのである。」

※ここでいうヨーロッパ近代の「範型」としての普遍性とは一体なにか?

P26「すなわち、ウェーバーにおける〈物象化〉は、資本主義的な商品交換関係の構造から発生する倒錯的自体として、ネガティブに把握されたマルクスにおけるそれとただちに同一視はできない。しかしながら、〈比較文化史的視座〉をもったウェーバー〈物象化〉論の検討は、マルクス〈物象化〉論の成立する歴史的・社会学的背景にあらためて光を投げかけることにもなるであろう。」

※この物象化については、これを「理念型」的に捉えて良いのか、と言う議論が出てくる。

 

P46「すなわち、大塚の「理解的方法」の解釈は、理解された〈動機〉を一つの原因として、そこから因果関連を辿っていくという、「動機による説明の方法」だとまとめることができよう。

 さて、ところで、哲学者たちは、社会科学者の大塚が「解決」を見出したところに、「問題」そのものを見出すであろう。すなわち、大塚が出発点にしている〈動機〉そのものは何を根拠に理解しうると言えるのか、ということである。」

P60「ウェーバーはつぎのように言っている。「原因的要素として、或る具体的「歴史的」人格性の特性と具体的行為とが、「客観的」にーーすなわち、何らかの明瞭な意味で、「より創造的に」生起現象へち作用するということは決してない。なぜなら、「創造的なもの」という概念は、それが単に質的変化一般における「新しさ」と等置されず、それゆえ、まったく無色になることが場合には、なんら純粋な経験的概念ではなく、われわれが現実の質的変化を考察する際にもつ価値理念に関わっているからである」

 それゆえ、観察者における〈価値理念〉のあり方に従って、石炭層からダイヤモンドが形成されることも、預言者の直感から新しい宗教性が生み出されることも、同様に「創造的合成」と言いうることになるのである。ということは、逆から言うと、それらもまた同様に、質的変化にすぎないという面においてはなんら神秘的なものを含んでいないのである。……

 かくしてウェーバーは、心的生起に伴う〈人格性〉の要素もまた、なんら神秘的な超越性をもつものではなく、現実の因果的連鎖の生起に全連関のなかに内在することを明らかにするのである。」

※ここでいう神秘的なもの、という意味がわからない。どうもヴェーバーの一節より「具象名詞というものは、一般に、内包において無限の多様物であり、そこからは、歴史的な因果連関にとって、論理的に考えうるありとあらゆる個々の、科学にとってはただ「所与」として確かめうるにすぎないような構成部分のすべてが、因果的に意義あるものとして考慮されうるからである。」(p61)とし、「法則論的決定論」に批判的な態度を指摘し「実体的な原理としての「歴史法則」などというのは絶対に導出不可能なのである」と確信するが(p61)、これは二重の意味で問題含みとなりうる。一つは、この事実のみを盾にし、法則論的に解釈するすべての理論を否定すること。そしてもう一つは、ここで「導出不可能」であることを文字通り捉え、「理念型は実体と一致することはない」と述べてしまうこと、である。結局ウェーバーのここでの解釈は「神秘的ではなく解釈可能だが、その普遍的理解(解釈)はできない」という奇妙な主張であり、これは一見「神秘的」と解釈したくなるような発想にも見える。

 

☆P132「さて、〈文化人としての人格性〉の性格は、現実的因果連関に内在しているというだけでは明らかにならない。それは、さらに、特定の文化価値に結びついた〈意味連関〉に、すなわち、特定の〈文化〉内属しているのでなければならない。……しかし、ここで注意すべきことは、〈人格性〉が単に対象として〈文化〉に内属したものとして捉えうるというばかりではなく、そもそも人間は、特定の〈文化〉に内属し、それを自らのものとして担うときはじめて、〈人格性〉としての意義をもってくるということなのである。すなわち、〈人格性〉が〈文化〉に内属しているということは、何かあらゆる〈文化〉から超越するような「主体」としての抽象的な「人格性」(※ママ)なるものがまずあって、それが「文化を担う」というようなものではなく、当の〈文化〉を担うときはじめて〈人格性〉たりうるということである。これが、〈人格性〉を〈文化人〉という〈恒常的動機の複合体〉として捉えるということの意味なのである。」

※これは言い換えると、〈人格性〉を語ること自体がすでに何らかの「価値」にコミットした人間について語ることと同義である、ということである。だからこそ、折原は具体的な〈文化人〉を語ろうとしないのではないのか?このような否定性による主体論の将来は暗い。

P136ヴェーバーの引用…「ピューリタニズムの禁欲――およそ「合理的」な禁欲はすべてそうだがーーの働きとは、「恒常的動機」を、特に禁欲自体によって「修得」された恒常的動機を、特に禁欲自体によって「修得」された恒常的動機を、「一時的感情」に抗して、主張し、固守する能力を人間に与えることーーつまり、人間を、こうした形式的・心理学的意味における「人格性」へと教育することにある。」

※いわば教育された主体に対し、人格性という言葉を与える。「『プロ倫』では、このように、ピューリタニズムの禁欲から発する〈人格性〉の理想像が、その宗教的基盤を失って、「啓蒙主義的人格像」を経過しつつ、いわゆる「資本主義の精神」の担い手へと没意味化・転化していく過程が明らかにされる。」(p136-137)

P139「すなわち、ウェーバーにとって問題であり、経験科学的研究の対象とされねばならないのは、近代ヨーロッパに固有の「人格理想」にほかならなかった。しかしながら、ウェーバー以前の方法論的議論には、陰に陽に、プロテスタンティズムに由来し、「啓蒙主義思想」を経て論理的に純化した近代ヨーロッパ的人格像が前提化されていた。それゆえにこそ、まずは、〈人格性〉概念そのものの再検討から出発せねばならなかったのである。そして、その探求の末に到達した見地こそ〈文化人としての人格性〉であり、これによって近代ヨーロッパ的人格像そのものを考察の対象としうる基礎が論理的な意味においては築かれたことになるのである。」

※こう見ると、ヴェーバーの関心はやはり主体論的である。なお、この議論をイギリス的とするならともなく、ヨーロッパ的としてよいのかは問題含みでは。

 

P228ヴェーバーの引用…「ひたすら文化人へと自己完成を遂げていくことの無意味性、言い換えれば、「文化」がそこに還元されうるかにみえていた究極的価値の無意味性は、宗教的思考からすれば、――そうした現世内的立場から見てーー明らかな死の無意味性から帰結したのであって、この死の無意味性こそが、他ならぬ「文化」という諸条件のもとで、生の無意味性を決定的に前面に押し出したのだということになる。」

P229同上。「こう見てくると、「文化」なるものとはすべて、自然的生活の有機的にあらかじめ定められた循環から人間が抜け出していくことであり、まさにそれゆえに、一歩一歩ますます破滅的な無意味性に向かうように宿命づけられているものと見える。文化財への献身は、それが聖なる使命となり、「天職」となればなるほど、無価値であちこちに矛盾を孕んだ目標に、ますます無意味にもあくせくとわが身をせき立てる、そんな行為に転じていってしまうのである。」

P233「見られるように、〈官僚制〉に対するウェーバーの関心は、それの技術的優秀性や不可避性そのものではない。むしろ、〈官僚制的支配〉を〈物象化〉過程の極点として捉える視角から、ウェーバーの関心の中核に位置してくるのは、〈物象化〉過程に対応した〈人格性〉そのものの運命に他ならないのである。」

※奇妙な話である。別にイギリス的資本主義の議論に限らず、すべからくこの主張は成立してしまうように見える。

 

P235「官僚的職務は、〈物象的〉な必要性から、官僚に〈専門人〉たることを要求する」

P236「このように見てくると、官僚制的組織の〈物象化としての合理化〉は、それに伴う官僚の職業身分化を通じて、官僚から、その〈専門人〉の〈精神〉たる文化価値への〈即時的=物象的〉な献身を失わしめていく過程でもあることがわかる。」

※このような議論はヴェーバーの特権でもない。

P238ヴェーバーの引用…「「エートス」は、それが個々の問題において大衆を支配する時にはーーわれわれは、他の本能についてはここでは度外視するーー、具体的ケースと具体的人物に応じた実質的「公正」への要請をもって、官僚制的行政の形式主義と規律に縛られた冷酷な「物象性」と不可避に衝突し、さらにこの理由から、かつて合理的に要求されたところのものを感情的に非難する、ということにならざるをえないのである。」

P247「すなわち、〈文化人〉は一定の〈文化理念〉基づいて自ら〈世界像〉を形成しつつも、いったん固有の〈世界像〉が作り上げられると、彼はそれによって定められた軌道の上を不可逆な方向で進まざるをえないということである。そしてここに、〈文化人〉の〈運命〉が存し、〈文化史〉的過程の固有法則性が存することになる。

 このような歴史把握は、ウェーバーの〈比較文化史的視座〉を成立させる前提的認識になっている。」

 

☆p248「すなわち、ウェーバーの〈比較文化史的視座〉は、〈準拠枠としての行為類型論〉を根底に据えることにより、単なる相対主義決断主義とは異なる鋭い文化内在的批判の力を内に保持しているのである。

 かくて、長きにわたってきたわれわれの考察は、ようやくにして、ウェーバー〈理解社会学〉の根底に孕まれている〈比較文化史的視座〉の基本構想を把握するに至っている。それは、文化価値としてそれを担う文化人の運命に焦点を定めているという意味において、徹頭徹尾〈人間主義的〉な関心に貫かれていると言える。この視座は、歴史的現実において存在する多様な〈文化的価値〉を即対象的に受け取り、それをその固有性において〈理解〉し、その〈運命〉を見定めることを通じて、鋭い〈内在的批判〉と〈比較〉の視野に捉えていくといった、まさに〈価値自由〉な一連の方法的態度によって、かえって現実に生きているわれわれをして〈文化人〉としての自覚に目覚めさせ、〈文化諸価値〉の間に孕まれる鋭い緊張の中に立たしめるのである。」

※結局論点はここに尽きるように思う。折原はもちろん、中野もこの論点について「意義がある」と確信しているが、本当にそうなのか??少なくともヨーロッパ近代主義を一面的にしか批判できない議論、特にそれを著しい官僚化の帰結としか捉えられない議論においては、意味がないと思う。というのも、比較文化史的視座はこの官僚化、もしくは物象化の徹底を避ける手段を持っていないため、「批判」としての意味さえも持ち合わせてはいないのではないのか?この論法は、無意味に社会病理を批判する議論と同じように、現実的な解を見出す際には多分に弊害さえある。もっと言えば、ここでの自覚に対する価値の強調は、と〈運命〉を止揚的に捉える見方と極めて親和性が高く、実質的に同一のものと見てしまってもよいレベルで擁護しているように見える。

P250「ところで、この〈比較文化史的視座〉の方法論的構造は、それが現実に有効なものとなるためには、探求者において、ある特別な主体的態度を要請する。すなわち、この〈視座〉は、それを担う探求者たちの特別な主体的態度と結びついてはじめて、新たな〈文化〉的可能性を探求するために有効な指針となりうるわけである。」

P253「さて、このように『職業としての学問』の全体を〈近代ヨーロッパ文化〉の〈運命〉に焦点を定めて捉えると、われわれは、そこでウェーバーが一貫して一つの態度を批判していることに気がつく。その態度とは、一口に言えば、「時代の運命を正面から見据えることができず」、また、「時代の運命に男らしく耐えることができない」傾向があると言うことができる。」

 

P254「「時代の運命を正面から見据えることができない」傾向が問題を孕んでくるには、むしろそのつぎからである。

 文化諸領域が分化し、「神々の争い」とも言うべき諸価値の多元性が常態となっているという〈近代ヨーロッパ文化〉の現下の〈運命〉に耐えられない傾向は、学問の領域においてはさらに、その「合理主義」「主知主義」そのものを敵視するようになるか、あるいは教壇において、教師ではなく指導者を求めるようになる。」

※前者については「主知主義を脱け出そうと思っても、それを試みる人が目ざす目的とは反対の所へと導かれてしまう」ことにより批判し(p254)、後者は「狂信的なセクトを生み出すのみであって、決して真正な共同態を生み出しはしない」と批判される(p255)。どちらもヴェーバーの引用である。

P256「これに対して、すでに物象化を遂げ、専門化した文化諸領域・学問諸領域は、たしかに、非人格的な姿をとって屹立してはいるけれども、それ自体は、〈近代ヨーロッパ的人格性〉の成立根拠に他ならない。すなわち、なんら〈人格的〉な要素を感じさせない専門科学と言えども、それは、〈近代ヨーロッパ的人格性〉の〈凝結した精神〉、あるいは、あえてヘーゲルの用語を用いれば、〈疎外された精神〉に他ならないのである。

 それゆえに、この学問諸領域が与える〈物象(Sache)〉に仕える者こそが、真に〈人格性〉をもち、〈文化人〉として現下の〈文化諸問題〉に対決し、〈文化創造〉を担っていく主体たりうるというわけである。」

※これは終戦直後の大塚の主張と大して変わらない主張なのではないのか、という疑問が拭えない。化石化したものにあえて取り組め、と言っているのと同じであり、正しくは化石化したものから遡及して人格性にいたるべき、という意味であるからである。これは忠実に「近代」に仕えよ、と言っているのと同じである。もっとも、この思想自体にコミットすること自体が一種の宗教性ではないのか、という批判は妥当であるように思えるが。ヴェーバーの主張を支持することは、どうにもフロイト精神分析を支持する時のような、うさんくささを感じずにはいられない。これは結局ヴェーバーの場合は、彼の歴史的分析が絶対的に正しいことを前提にした議論をしてしまっていることによる違和感である。彼の議論を前提とすることで、禁欲的な「善」が内包されたまま議論を続けなければならなくなるのである。特にこの違和感はヴェーバー日本に対する「成功」を説明するとき、露骨に現れる。

 

P257「なぜならば、そうしてはじめて〈物象化としての合理化〉の根本孕まれる矛盾そのものを止揚しうる〈新たなる文化創造〉の可能的主体たりうるからである。もちろん、専門化した個別科学が新しい〈文化価値〉を生み出すというわけではない。そうではなく、それを担う探求者が、〈文化人〉として新たな〈意味〉を自覚する可能的主体となるのである。」

※ここでいう「可能的主体」とは文字通りの意味として理解しなければならない。つまりそれ自体は「実態」を伴わない。そしてこれを「新たなる」という言い方でまとめて良いかが極めて疑問である。「実態」を伴わないものが新しいかどうかは判別不能だからである。

P259ヴェーバーの引用…「こう見てくると、実際このユーモアは、その人を麻痺させる力について今日も前にお話のあったあの日常生活というものを支配し克服するまことに偉大な要素の一つであるのみならず、人間の尊厳はたとえ神々の力にでも屈してはならぬのだということをわれわれに理解させてくれる形式の一つでもあることがわかります。」

※これを「一切の皮肉とは全くかけ離れ、力強く、健康で快い、解放の笑いをわれわれに与える」とヴェーバーは定義づける(p258)。このユーモアが重要とするが、これは論点ずらしではないのか??

 

P260「われわれは、〈ウェーバー〉のなかに〈文化理想〉そのものの啓示を求めることはできない。」

※これは正しいだろうが、だからといって文化理想を求めてはならない、文化理想を主張してはならない、という言い方をするのは正しくないのではないか?これをヴェーバーの主張として取り上げるのは問題だが、そうでないならば別に議論されるべきものだろう。

P264-265「ところで、東洋の地にあって、既存の人格的社会関係を徹底的に解体するのではなく、むしろそれを改編しつつ積極的に利用し、システム全体としての実質合理性を追求することを通じて「成功裏に」〈近代資本主義〉を受容・展開してきた日本においては、今日の〈文化問題〉は両義的な意味をもたざるをえない。その両義性とは、一方において、いまや閉塞状況に直面しつつある〈近代西洋文化〉に取って代わり、この「日本」が、より強力な物象的力を発揮して、〈文化〉や〈自然〉を破壊する中心勢力に成長する可能性が増大しているということであり、しかしながら他方において、まさにそのことゆえに、〈近代資本主義〉を通じて共通の〈運命〉元に一体化しつつある〈現代世界〉は、この日本の地において、自己止揚へと導くべきいくつかの根底的な問題性を顕しているとみることができることである。

 〈近代日本文化世界の子〉としてのわれわれは、ウェーバーの方法に学びながら、こうした問題性を〈普遍史的意味〉において捉え返し、新たな〈文化理想〉の探求に寄与していかねばならない。そして、このようにして、ウェーバーのやり残した課題を引き受け、ウェーバーその人を超えて進まんとするときにこそ、〈ウェーバー〉学ぶことの真価が感得されるにちがいない。」

※このような主張はさながら「ご都合主義」に尽きるのではないのか?この文明的優位性は、ヴェーバーのいう資本主義の精神の議論と関連づいているようにとても見えない。

P266「〈近代ヨーロッパ文化世界の子〉としてのウェーバーは、〈近代ヨーロッパ的文化人〉の固有性を〈人格性―物象性〉の二項対立構造において〈理解〉し、それが辿る

らざるをえない〈運命〉を〈物象化としての合理化〉の展開のなかに発見した。」

※このようなまとめ方は端的におかしい。この二項対立構造はむしろ全ての「文化人」にあてはまるはずである。

 

P327「近代社会」というのはない、という主張

P329-330「本書が副題のひとつとして掲げて探求している「物象化としての合理化」というのは、このような近代に特有とされる緒形象が辿る合理化の特性を、ヴェーバーがどのように認識しているかを表示するものである。その点をしっかり捉えるなら、ヴェーバーの問いの形が見えてくる。すなわちこの学問は、全社会的な変動(近代化)の終極点として「近代社会」を問題にしようというのではなく(そもそもそんな社会発展の定型などないのだ!)、「物象化としての合理化」に進む問題的な社会諸形象が支配的な力をふるっている場として〈近代〉という時代を問題にしているのである。」

※存在しない近代を批判するのか??この提案には賛同していいが、中野が近代批判している部分について疑問が残る。

P331-332「そして、そのように歴史の単位が画定されその総体の発展コースが標準化されてこそ、歴史の「比較」ということも可能になると考えられてきたのだった。

 しかし、そのような総体についてのリニアな歴史の語りは、近代ヨーロッパの生成を歴史の先進形と見なす発展史観が「ヨーロッパ中心主義」と非難されうるように(ヴェーバーその人もしばしばそう誤解されてきた!)、標準とされる発展コースの把握に際して価値評価の先取りが不可避であるなど、重大な難点がいくつもあると認めなければならない。そもそも、国史の語りが国家意識の形成を企図し現にそれと相関しているように、単位を確定してその総体の歴史をリニアに語る営みというのは、それ自体が対象を独立した実体として立ち上げてしまう仮構の行為なのだ。であれば、各国史や地域史の単純な束などとしてはとうてい語りえない世界のグローバル化した現実の中で、歴史の語りについても根本的な転換が要求されているというのはやはり間違いないだろう。」

※そうだろうか?究極的には態度の取り方の問題のようにも思うが。これに対し、比較文化史的視座は、理解社会学を介して「国家や文化圏や地域として囲われて実体化されるような歴史のそれぞれの単位の総体にではなく、その担い手である文化人の行為理解に置く」で必要な視点とみる(p332)。しかしこれは言ってしまえば「当たり前」のことであるし、ヴェーバー自身もこれから離れることがないからこそ、ヴェーバーにコミットすることが「うさんくさい」と感じるのである。このような認識の改変にそこまで重要性があるようにはどうしても思えない。そしてこのような視点で分析を行うことは「むしろ学問のなしうることの限界について鋭く問題提起する言明と受けとめられねばならない。」とする(p334)が、このような言い分で「学問がでしゃばるな」という主張をおこなうなら理解が可能である。しかし繰り返すが、これは中野やヴェーバーにも等しく与えられなければならない制約である。