佐藤俊樹「社会科学と因果分析」(2019)

 今回は、前回少し考察した『ヴェーバーの動機問題』、つまり「合理性についてシニカルな態度を取りながらもその合理性をめぐる議論についてヴェーバーがコミットしようとするのは何故か」という問いにおいて、この問題を回避する「3」の立場に立つ議論として、佐藤俊樹ヴェーバー論を取り上げる。

 端的に本書で佐藤が『ヴェーバーの動機問題』に対して語っているのは次のような部分においてである。

 

「ここでウェーバーは、歴史の一般法則やそのあてはまり方を解明しようとしたのではない。彼の関心はあくまでも、一回しか観察できなかった事象の因果をどう科学的に解明できるのか、にあった。彼が論証したのは、個別的な事象に原因を求める場合も、一般的な事象に原因を求める場合も、基本的に同じ因果同定手続きを用いている、ということだ。だからこそ、文化科学/法則科学という区別は成り立たない。

 それゆえ、経験的なデータにもとづいて同定された因果も「法則」ではない。」(佐藤2019、p232)

 

「(2)(※理解することの意味をどこに見出すのか)はまさにそこに関わる。この「暴力」性についても社会学は反省を積み重ねてきたが、私自身はこう考えている。――他人による観察から「暴力」性を消し去ることはできない。だからこそ、それに対応する「役に立つ」が必要になるのではないだろうか。

 社会学の歴史でいえば、主観主義的社会学は理解の正当化をめぐって迷走していった。それは「役に立つ」を棄てたからではないか、と私は考えている。「役に立つ」を棄てたがゆえに、絶対的に正しい理解以外の記述が許容できなくなった。その点でいえば、「法則論的/存在論的」知識という枠組みをA・シュルツが見逃したことは、やはり大きな失敗だった。

 主観と客観という抽象語をあえて使えば、主観主義的社会学は機能主義を全否定したために、自分は客観的で透明な理解ができている、と主張するしかなくなった。それこそが主観主義的社会学の陥った落とし穴だったのではないか。

 他人による観察は、因果の特定にせよ、意味の理解にせよ、どこかしら「暴力」である。そうであることをまぬかれない。それゆえ、もしその「暴力」に対して対価を差し出せないとしたら、何もしないか、あるいは、「暴力」にならない特権的な方法が自分にはあると主張するか、どちらかしかない。社会科学の営みにひきつけていえば、社会科学の暴力性をひたすら告発するメタ社会科学に閉じこもるか、さもなければ、客観的で科学的な理解の方法は自分はもっていて、他人の行為や因果や意味を正しく理解できる、と主張するしかない。

 しかし、私はどちらの途も正しくないと考えている。いや、はっきり言おう。どちらの途も逃避だと考えている。

 理解社会学は、ある意味で機能主義的であるしかない。他人を「暴力」的に理解しながら、それを用いて、その他人に対して何か「役立つ」ことの可能性を提示し、選べるようにする。そういう形で因果のしくみの理解と説明を結びつけるしかない。その一方を否定すれば、もう一方も否定せざるをえない。

 それは、ウェーバーの方法論の最終的な到達点でもある。」(佐藤2019,p401-402)

 

 ここでは少なくとも中野敏男が指摘していたような「新しい文化的可能性の探究」の議論とは少し位相が異なるところでヴェーバーの研究意義を議論していることが確認できる。中野敏男、そしてその大元としての折原浩における議論においては、「近代」は明らかに『批判』の対象として位置付いていた。この『批判』は一つの価値判断として「古い文化=西欧的近代」の否定を伴うことで、「新しい文化的可能性」というのは、その『必要』性が急務とされざるを得ない地位に置かれるものとなっている。ところが、佐藤の議論においてはこのような『批判』性は機能していない。そしてこの両者の態度の違いは致命的に重要な論点であると私は考える。

 この『批判』性に内在した問題として私が最大の問題としたのは、この『批判』が、本来それに対応して自らが考える「正しい主張」にも適用されることでダブル・スタンダードに陥ることを避けられていないという点である。これは『批判』という行為そのものに内在しているものであるとは決して思えないと私は考えているが、このダブル・スタンダードの問題はこれまで私がレビューしてきた様々な論者が陥っていた問題であった(スラヴォイ・ジジェクの「主体」に対する考え方やジャック・デリダの「贈与」に対する考え方などもそうだ)。直近では竹内好もその典型と捉え、確かに子安忠邦のようにこの『批判』性を擁護する選択肢はありえるが、私自身はこの立場にないとした。これは端的にこれまでそのような『批判』性を擁護する論者にまともな論者がついぞいなかった、という事実に基づく判断である。

 この『批判』性を擁護する論者は、もしかするとその『批判』性がなければ、既存の社会について変化をもたらすことができないと考えているのかもしれない。そのことに対する回答を私は用意できない。しかし、このダブル・スタンダードに陥る論者は一部の例外を除いて本書でいう「明晰さ」に欠けていることが問題だろう。結局私自身もこのような「明晰さ」に欠けた『批判』論にうんざりしている所である。

 これは恐らく『批判』という行為自体に価値判断が与えられていることについての自覚が欠けているからではないのか(この価値判断は何らかの肯定的価値にコミットするときに初めて機能するものと勘違いしているからではないのか)と思えてならない。

 

 一方で、佐藤の捉えるヴェーバー像(及び佐藤自身の立場)は、このような『批判』性を帯びていない。全くその「批判」性がないと言うこととは異なるかもしれないが、少なくともそのような『批判』の視点を凌駕し議論の中心に据えられているのは、「分析的」であることに向けられているのは明らかである。本書の特徴は、このような「分析的」なヴェーバー像として、「可能性」をめぐる議論を積極的にヴェーバー自身が探求していたことと、従前のヴェーバー研究者がこの論点を取り逃していることに対する批判である。そしてその議論の中心にあるのが「法則論的/存在的」という区分である。そしてこの枠組みを用いてヴェーバーは「1回きりの現象について、その因果関係を探求し続けた人物」として捉えられている(佐藤2019,p232)。このような「探求」というのは、そのまま直接『批判』に繋がるわけではない。むしろ『批判』は「探求」の一歩先にある価値判断である。この両者の態度は一見すればあまりにも大きい。

 もっとも、この両者の区別はできないという見方も可能である。「探求」活動を行う際、この「因果関係」の解明において、その分析者が用いようとする「因果」の探究自体はその分析者の主観に基づくものであり続ける限り、何らかの「価値観」と結びつきうる(※1)。しかし、ここで重要なのは、これがあくまでも「可能性」の問題であるということである。この問題を「可能性」のままでいるためには、①それが分析的態度であり続けることと②その分析を行う「価値観」に自覚的である(自分の分析対象の明確化に加え、それが他の分野といかに関連しているのか、自らの対象を適切に『世界』の中に位置付ける)こと、更には③その「価値観」の自覚を「明言すること」にある。このような「明言」を可能にするためにはそれこそその「価値観」に結びつくための連関を明確にし、整理された記述が求められるのである。佐藤はヴェーバーがこれを完全に行っているとは言わずとも、その態度を推し進めた人物として評価しているのである。

 

 さて、このように捉える佐藤の議論は、『ヴェーバーの動機問題』で言えば2の態度をとっていないのは明らかであるように思える。しかしまだ1の可能性が否定されたとも言い難い。この議論を考えるため、もう少し佐藤の議論を検討してみたい。ここで検討を行うのは、「意味とシステム」(2008)における佐藤の「システム論」である。本書で議論するベイズ統計学への理解のシステム論的な適用については、佐藤自身が「意味とシステム」での議論の修正を行う必要があることを認めており(若林・立石・佐藤編「社会が現れるとき」2018,p380)、基本的に本書と「意味とシステム」の議論には連続性があることを認めてよいだろう。ところが「意味とシステム」における中心議論はニクラス・ルーマンのシステム論であり、ヴェーバーとの関連性も示唆されているが、本線という訳ではない。したがってこの点についても整理をしておくことは有意義だろう。以上の背景から、作業課題として次の点を明確化していきたい。

 

1.佐藤にとって、「開いた議論」と「閉じた議論」の違いとは何なのか。

2.佐藤のシステム論は、ヴェーバーの議論と本当に適合的なのか(佐藤が『ヴェーバー論』としているものは本当にヴェーバーの言っていることに合致しているのか)。

 

1については今後のレビューの中でも中心的な論点になると考えているが、「専門性」を典型にした合理性の型について考えた際、この「専門性」自体を「開いた」ものとみるか、「閉じた」ものとみるかが致命的に重要となるからである。すでに古くはポール・ウィリスのレビューなどでも取り上げたが、資本主義社会に適合的な制度はそれだけで「閉じた」ものとみなされがちであり、あまりにもそれが自明のものとみなされるために弊害が生じることはままある事態である。そしてこれは『ヴェーバーの動機問題』において2の立場に立つものが基本的に持ち合わせている論点であり、1の立場に立つことが「閉鎖性」に繋がること、より多数派の考え方では「閉鎖的」であることが宿命であることを根拠として、それ以外の選択肢として2の立場に立とうとするのである。実際、佐藤はこの「開いた」「閉じた」ということについてしばしば言及しているが、どのようにして(どのような立場で)これを言及しているのか。

 

○佐藤のいう「有用さ」とは何なのか?

 この開放性と閉鎖性の議論を考える前に、先に佐藤のいう理論の「有用さ」とは何かについて考えてみたい。佐藤は「「役立つ」ことの可能性を提示し、選べるようにする」ことが重要としていた。ここでいう有用さというのは限定的な意味で用いられていることに注意すべきである。例えば、折原浩や中野敏男的発想に基づいて議論すれば、「現在の資本主義的世界」と「そうでない世界」の切り分けは可能であり、このどちらを選ぶのがよいのか、という問いの立て方が可能となる。この2つの世界についても「有用さ」を議論することは可能であり、その選択について議論することもまた「有用さ」をもとにした議論であると一見言うことができる。

 しかし、佐藤にはこのような議論は恐らく「有用さ」の議論の枠内に入っていない。何故か?佐藤は「意味とシステム」において、システム論的な議論が複数ありえることを指摘し、その良し悪しについて比較をしている(佐藤2008,p227以降参照)。この際に行っていることというのは、実は「分析の方法論」に対する良し悪しの議論を行っているに過ぎず、何らかの価値判断を前提にした現実の選択ではないのである。

 

「コミュニケーションシステム論はさまざまなものがありうる。そのうちどれが良いかを理論的に決めることはできない。

 だからこそ、コミュニケーションシステム論は経験に開かれている。これはむしろ具体的な分析において真価を発揮する理論なのである。」(佐藤2008,p220)

 

 このような議論においては、「現在の資本主義的世界」と「そうでない世界」という区分け(これをより単純に「西洋世界」と「東洋世界」と言ってしまってもよいが)は、その良し悪しの比較の方法選択手段を選ぶという議論はありえるだろうが、この2つの世界に対し真の意味で「良し悪し」を行うことができるとは考えていないように思えるのである。この議論も究極的には「経験的に妥当性が高い」ことが検証可能であるようにも思えるという意味で佐藤が語る「有用性」との相違を考えることが難しい。それは「有用性」の定義をめぐって論争が絶えないからである。佐藤が考える理論上の「有用性」とは、『社会の現象に対してそれがどれだけ説明可能』かというものであった。それは当然「何を説明できており、何を説明できていないのか」という視点を含んでいるはずのものであり、端的に言えば『完全に説明可能な理論は存在しない』ことを大前提にしたものである。したがって、「現在の資本主義的世界とそうでない世界のどっちが有用か」という問いも何を説明でき、何が説明できていないのかを比較する必要がある。ところがこの比較をしようとした場合、「尺度(群)」が恣意的に用いられてしまうことが危惧されるのである。佐藤の言い方で言えば、「経験的な記述との整合性を失う」ことは「システムがない」ことを意味するものであり、「システムがある」ことを前提とするシステム論としては致命的な問題を抱えこんでしまうのである(cf.佐藤2008,p63)。

 

 逆に、仮にこのような比較を行う立場に佐藤がいる場合、「システムの複数性」が実在し、それについての考察もシステム論的に要求されることを意味する。ところが佐藤はシステム論において「複数のシステムがあるかどうか」という問いは解けていないと指摘している(佐藤2008,p63)。これは私に言わせれば「システム論の前提上、複数のシステムの存在を認めることができないか、想定する意義を持ち合わせていない」という方が正しい表現である。この理由の一つは「分析的」であることに見出すことができるが、それ以上にそもそもシステム論的な見方において自己産出的なものを想定していること自体、かなり強い意味で「自己のシステムに対して『内省的』であること」を要求しているという前提があり、「自己のシステム」以外の「他のシステム」の存在可能性について考えることに乏しいか、そもそも考えることに意味を与えていない仕組みがシステム論に内在していることが理由になっていると思える(少なくとも、私にはそうとしか思えない)。少なくとも、システム論はシステムの複数性を前提としてしまっては基本的に不都合が生じてしまうのである(どちらかのシステムの自己産出性に根本的な疑義が出てしまう)。

 

○佐藤の「開放性」「閉鎖性」に対する理解について

 さて、以上の議論も踏まえて、実際に佐藤が「開いた」「閉じた」と言及している部分についてみていこう。まず押さえておきたいのは、佐藤自身が学生時代から「閉じた」議論に対して否定的であったという言及である。

 

「進学先が決まってから、T・パーソンズの『社会体系論』も読んでみた。行為の組み合わせの形式で、「社会」と呼ばれる事象を一般化する。その発想には「なるほど」と思ったが、延々つづく類型論はつまらなかった。常識的な見方を抽象語にして分類しただけ。一体どこが面白いのだろう?

 そんな経験を通じて、一つわかったことがある。社会学者とは社会の全体をわかったつもりになりたがるものらしい。だから、雑が強引でも「近代」とは何かがわかった気になれたり、分類をならべて体系化したように見せる著作が過大評価される。」(佐藤2008,p390-391)

 

 ここでは、社会学者が「全てをわかったつもりでいる」こと、つまり自らの理論で社会の現象について全てカバーできると言い張っていることに対する疑義が述べられている。

 

「「理解社会学」のなかには、世界の全てを見渡したいという一般理論への欲望と、執拗に問い直し考え直すという反省の思考が、奇妙な形で共存している。……

 そういう「理論」たちが私は嫌いだった。たぶん私には、世界を見渡して安心したいという欲望が、あるいはそういう欲望を喚起する不安が少ないのだろう。」(佐藤2008,p8)

 

 ここでこのような「全体性」への言及が「閉じた」議論とみなしてよいのかという論点が残っている。これについては佐藤はそうみなしていると言ってほぼ間違いないように思われる。システム論に対する次のような理解がその説明になるだろう。

 

「コミュニケーションシステム論では、システムが徹底的に「ある」と考えられている。けれども、どう「ある」のかについては、まだ十分明確になっていない。その意味で、第三章で述べるように、現時点で使われる「システム」は単純化であり、近似的なものだと考えるべきだ。

 そして、だからこそ、どう「ある」のか、言い換えればどう自己産出しどう反射しどう反省するのかについて、どこまで積極的に語れるかが決定的に重要になってくる。近似解が自閉的な記述ループに入っていないかを見分けるためには、それが欠かせないのである。」(佐藤2008,p64)

 

 ここで、「社会の全体をわかったつもりになる」とは、システムが徹底的にあるのと同時に、どうあるのかもはっきり把握できている状態を意味する。というのもシステム論的な言い方では「はっきり把握できている状態」においては、完全な意味で「自閉的な記述ループ」を行うことを意味するからである。

 これにも関連するが、佐藤は閉鎖性について言及する際、これを「作動の閉鎖性」と呼んでいる。

 

「作動の閉鎖性とは、[このシステムの]コミュニケーションは[このシステムの]コミュニケーションにのみ接続し接続されてコミュニケーションになっていくことである。ルーマン自身の言い方では、「システム……を構成する諸要素がこれら諸要素自体のネットワークにおいてうみだされる」にあたる。

 そのためには、コミュニケーションにおいて「[このシステムの]コミュニケーションである」という同一性が何らかの形で成立していなければならない。この同一性は内部イメージとしての「内」、先の言い方を使えば、「接続そのものに関わる」という形での区別と指し示しにあたるが、あるコミュニケーションが接続し接続されるという、一つの事態において成立していればよい。コミュニケーションに関して作動の閉鎖性から導けるのは、このこと、すなわちコミュニケーションが同一性をもち、それを識別できることだけだ。」(佐藤2008,p226)

 

 何やら奇妙な定義に見えなくもないが、結局の所、この議論は「システム」そのものがどのような前提をなしているのかと関連付けて閉鎖性が議論されているからこそこのような定義付けになってしまうということである。完全な意味での閉鎖性とは、結局の所先述した完全な意味での「自閉的な記述ループ」がなされている状態を意味するが、それは本来程度問題を抱えているはずのものである(少なくともシステム論はそうみなしているものとされる)。言い換えれば、コミュニケーションシステム論的には、常に「閉鎖性」は多かれ少なかれ存在しているのである。ところがこれを程度問題として認識しないケースにおいては無条件で「閉鎖的」なものとして取り扱われるということを言っているに過ぎない。

 では、逆に「開かれている」状況とはどういう状況を指すのか。察しの通りこの議論と同じように説明がなされることになる。「開放性」は端的に「環境開放性」として説明される(佐藤2008,p218)。詳しい説明はルーマンの引用も交えp244-247でなされているが、やはりこの「環境開放性」というのは、自明なものとして定義されているものではない。

 

「システムは環境に対して選択的にふるまうのではなく、刺激にたいして選択的にふるまう。つまり環境を積極的に知るわけではないが、環境の影響をきっかけにした刺激はうける。ただし、そのシステム自身も自己刺激ができるので、刺激が全て環境によるものではない。」(佐藤2008,p245)

 

 環境がはっきりとした形でシステムと関連づけられていないのは、やはりシステム自身が自己産出的なものであることに由来しているといえるだろう。この自己産出性が環境を明確な外部に相当するものとして定義づけることを拒んでいるのである。そしてこの不明確さが「環境開放性」を必ずしも「開放的」なものであることを保障しきるものではないものとして位置付けるのである。

 

 さて、以上のような佐藤のシステム論的認識に基づき、「真理」に対する考え方を捉えてみると、システム論的に閉じているとは、ある主張が「真理」であることを確定することであることに違いないが、事は単純ではないとみてとれる。その主張そのものが他の主張と連関していることで、その連関していたものも「真理」であることを要求され、更にその連関されたものも「真理」であることが求められる…そのような「連鎖」としての真理性がシステム論的には要求されることになる。無限に連鎖が続いているのであれば、当然この「真理」は確定したものとならない。だから佐藤はシステム論を本質的には「開いたもの」と位置付けるのである。

 以上のように、仮にヴェーバーの思想にシステム論的着眼があるとみなせる場合、『ヴェーバーの動機問題』の前提である開放性と閉鎖性の論点はもはや意味をなしていると言い難い。この動機問題の根本にあった「専門性とは閉鎖的である」という命題に対する答えを与えることがないからである。従って、やはり佐藤のヴェーバー論は『ヴェーバーの動機問題』との関連では3の立場にいることになる。

 

○佐藤のシステム論はヴェーバーの議論として説明するのは適切なのか?

 自分が行っている他者の主張自体が自分の主張なのか、他者の主張の適切な代弁たりえているのか、この説明の妥当性の判断は非常に難しい。しかし①他者の主張を網羅的に拾えているか②自分の主張と合致する他者の主張が適切に参照(引用)されているか③その網羅的な他者の主張から自分の主張としているものと異なる可能性がある事実を丁寧に列挙し、検証すること、の3点をカバーできていれば、ある程度このことは確認可能であることと私は考える。

 少なくとも、佐藤のヴェーバー解釈が通説から見れば異端的な位置にあることは明らかであろう。そもそも佐藤は本書で通説的な(いや、『過去のすべての』いう方が正しいか)ヴェーバーの議論がヴェーバー統計学的認識を理解しておらず、彼自身の「分析的」な認識を適切に捉えることができていなかったことを強調している。残念ながら私にはこのことを学術的な意味で検証するだけの能力はない。ただ、断片的にであれば③の視点から検証することは可能である。

 マックス・ヴェーバーという人物は通説では「闘争的」な人間だったという理解がされる。佐藤が多く参照している向井守もそうだが、今後レビューしていく折原浩や野崎敏郎なども口をそろえてそのような人物像であったと主張する。そして、私自身もそのことには賛同する立場にある。ここでいう「闘争的」とは、様々な他者と対峙を行いながら自らの主張を展開していくことに他ならないが、同時に「感情的」であるというニュアンスも含まれる。この典型といえるのがプロ倫におけるアメリカ人に対する「精神のない享楽人」という評価である。厳密な意味で「分析的」であるとするならば、このような言明にあまり意味はないはずである。この言明はしばしば近代資本主義の「必然的な」帰結をもたらす心性であるかのように捉えられることがあるが、ヴェーバーはこのような態度をとっているとは言い難い。むしろこのような言明はヴェーバー自身の態度に誤解を招くものであってあまり不用意に行うべきではないような類のものであるはずである。しかし、今後向井守や野崎敏郎のレビューで明らかにするがヴェーバーはこのような配慮を行うような人物であったとは考え難いのである。ヴェーバーの「闘争的」という評価は、「分析的」であることと矛盾するかのような語り口をしばしばヴェーバー自身が行っていたこととも関連付けられるのである。

 

※1 より細かな話を言ってしまえば、因果云々以前の問題として、ある現実の問題を検討しようという行為自体がすでに立派な価値判断である。「近代」の問題を考えるにあたって、「場所(ヨーロッパか、アメリカか、アジアか日本か、etc)」「分野(政治か、経済か、教育か、文化か、etc)」「時期(今か、過去か)」のどこに着目するのか、特に「どこに着目することによって『近代』の問題を適切に分析できるか」のかは完全に個人差の問題があるし、その個人差はある程度「妥当」な差異であると言える。何故なら、人間の把握できる範囲が有限である以上、その有限さの中で「どこ」に精通しているかどうかだけでも千差万別だからである。このようにみてくと「価値判断」の問題というのは、ただ単純な個人の指向の問題で片付けることもできないものである。だからこそ、①何を分析しているのかを明確にすること②他の「場所」「分野」「時期」(この三つについて説明する言葉として『世界』という言葉を定義しておきたい)の整合性についての視点を「欠落」させることがあってはならない。

中野敏男「マックス・ヴェーバーと現代・増補版」(1983=2013)

 今回はヴェーバーの近代化論に関連し、今後折原浩の著書における議論を検討するための前段として、中野の著書を取り上げる。

 すでに折原については羽生辰郎との論争の考察の一環でその主張に関する検討を進めたが、そこでの最大の疑問点として提出したのは、「歴史的構成体としての理念型の有効性をみていく際の、ヴェーバーの『宗教社会学論集』に与える意義とは何なのか」という点だった。折原はこの重要性についてしきりに主張していたものの、それが具体的に如何なる意義があるのかについて、羽生との論争中に触れられているとは言い難かった。他方、折原は大塚久雄について名指しで批判しており、大塚とは違う方向性で「近代化論」を展開する論者であると自認している。しかし、やはり折原の著書からだけだとなかなか彼の主張の本旨が見えてこないことがあり、類似性が部分的に認められる中野の著書から先に検討したいと思った所である。

 例えば、折原は次のような主張により、自らの立場を表明している。

 

「ただし、日本は、その過程で、「ヘロデ主義」の「脱亜入欧米路線」に走り、欧米近代に倣って「経済力と軍事力との互酬―循環構造」を創り出し、列強某国とも、同盟関係を結びました。そのうえ、そうした軍事力を、近隣アジア諸国に振り向け、侵略を重ねる、という誤りを犯しました。わたくしは、この歴史を忘れません。むしろ、そうした日本近代史の汚点を反省するとじろから、「脱亜入欧路線」とその再版に警戒を怠らず、さりとて「ゼロト主義」的反動にも走らず、むしろ両者の「同位対立」を根底から乗り越える人間存在の原点に揺るぎなく腰を据えたいと思います。」(折原浩「マックス・ヴェーバーとアジア」2010、p175)

 

 ここでのポイントは折原が「人間存在の原点に腰を据える」というスタンスでいるという点である。「人間存在の原点」とは「神―人の不可分・不可同・不可逆の原関係」という言い換えもされている(折原2010,p175-176)が、わかるようでいて、ほとんどよくわからない物言いである。この引用で別途参照されている(※1)折原の著書でも、結局次のような指摘を行うにとどまっているように思える。

                 

「そして、わたくしたちは、なぜかこの原関係に背いて、あらゆる方向に伸びようとし、あちこちに偶像を立てがちな、思いや情念を去って、この「原点」に立ち返るとき、そこに無条件に恵まれている、真理への無制約的な促しを、素直に受けて立つことができ、と同時に、当の「原点」に発して現象界のすみずみにまでおよんでいる光に照らし出されてくる真理を、同じく素直に受けとめ、心して正確に表現していくことができます。」(折原浩「ヴェーバーとともに40年」1996、p99-100)

 

 折原はヴェーバーの宗教社会学論集にみられるような「比較宗教社会学的研究」(折原1996,p45)ないし「比較歴史社会学」(折原2010,p30)の意義として上記のような「人間存在の原点」に立ち返ることを企図しているのは明らかである。当然これが宗教社会学論集の「意義」として位置付けられているものであると言ってよいだろう。

 一方、中野敏男もヴェーバー的な「比較文化史的視座」を把握することの意義として、それが「徹頭徹尾〈人間主義的〉な関心に貫かれて」おり、「現実に生きているわれわれをして〈文化人〉としての自覚に目覚めさせ」るものであるという(p248)とき、極めて折原的な意義を共有しているように見える。折原とはスタンスが違うとしても、中野の議論を考察することは折原理解にも繋がるものと考えられる。

 

 

 中野は「人格性/物象化」というセットによる文化(ここでいう文化は文明的なものも内容したものとして、以下「<文化>」と表記する。)理解の重要性を説き、ヴェーバーこそ、この「人格性/物象化」というセットで<文化>理解を行おうとした人物として評価する(cf.p139,p233,p266)。「国家や文化圏や地域として囲まれて実体化されるような歴史のそれぞれの単位の相対にではなく、その担い手である文化人の行為理解に置く」ことで分析を行うことを「理解社会学」と中野は定義する(p332)。この文化人は、(自身の態度がどうあろうが)すでに特定の<文化>に内属した存在であり、その文化の中で主体性を行使する(=人格性、p132)(※2)。そして、その人格性は教育により再生産される(p136)。いわば人格性というのは<文化>の中でその正当性が機能するものである。

 さて、この人格性は必然的過程(中野的ヴェーバー理解においては「運命」)として物象化を伴うものである。これは<文化>の中で展開されるそれ自身の(独自の)合理化過程として表出するものである。ところが、この人格性は自らの依拠する<文化>の外に出ると、常に「無意味化」に突き当たる可能性が出てくるし、<文化>そのもの恣意性を自己内省し続けることで、その無意味性を自覚するに至る。この一連の動きを中野は<物象化>と呼び、<人格性>に内包する概念として語る。このあたりの核となる議論はp228-229のヴェーバーの宗教社会学論集の「中間考察」から引き出されているものであり、中野はヴェーバーの「理解社会学」の基本的モチーフをこの点に見出すのである。

 

 では、このような「理解社会学」はなぜ有意義なのか。中野はこれについて「覚醒預言性」を秘めたものとして捉え(p19-20)、「(特に西欧近代のそれとは別の)新しい文化的可能性の探究」(p20)に寄与するものであるからと明確に述べている。中野のこの説明は極めて明瞭である。

 

 この理屈はヴェーバー自身の「動機」を素朴に想定してみても同じように見いだせるように思われる。ヴェーバー自身が「合理性」の帰結についてそれが無意味化することについてはほとんど確信を持っていたという点については基本的に正しいものと私も考える(※3)。しかし、「専門家」としてのヴェーバー自身もまた<文化>に内包された存在されていることは否定することはできないのではなかろうか?<文化>が無意味化されるのを理解してなおヴェーバーが専門的な「合理性」を追求し続けるように見えるのは何故なのか、という問いがここで想起されてよいように思える。簡単に言えば「無意味なものは無意味なのだから何故それ以上問おうとするのか」という疑問である。これを今後『ヴェーバーの動機問題』と呼ぼう。

 正直な所、この議論についてはこれまで論争としてはっきり明確化されていないものの、何故この論点が議論されないのか不思議でしょうがないというレベルで論者ごとに意見が分かれており、かつ論者ごとの意思の相違の理由の一つが、この問題を適切に捉えられていないことに見出せるように思えてならない。これは同様にヴェーバー自身の態度を「正しく捉える」ことが著しく困難であるか、不可能であることに起因すると言ってもよいように思われる。私がこれまでのヴェーバー研究者を理解する限りでは、大まかには次のような意見の相違が見受けられる。

 

1 無意味なものでもそれを追求することしか方法がない故、あえてこれを追求すると見る立場。

2 ヴェーバーの専門性というのは俗にいう専門性とは異なり、異なる(実質的には「より高度な」)立場にあると考える立場(これを今後のレビューでは「二重の専門性論」と呼ぼう)。

3 そもそもこの問題を回避しようとする立場。

 

 この『ヴェーバーの動機問題』に対する中野の答えは2に位置付けられる。先述した「新しい文化的可能性の探究」というのは、ヴェーバー自身の中で「無意味化」が回避されるという意味で有効であると見るのは一見して極めて自然だろう。思うに折原の見解も基本的には同じような点にあると考えてよい。もっと言えば、基本的に2の立場にいる者は、ヴェーバー読解を1の立場として考えている者について批判を行うか、3の立場にいる者に対し、その無自覚さを批判するという態度をとる傾向がある(※4)。

 もっとも、上記の議論は中野が言うように文化の「宿命」が真理であることを前提としていることにも注意を向けねばならない。ヴェーバーの実際の動機においては、確かにこの「宿命」が前提となっていると解釈すべきであるように思うが、ヴェーバーの議論から離れれば、人格性/物象化の過程で起こる「合理化」の帰結というもの自体が「理念型」であるため、実態はそのようになりえないと見る可能性もありえる。この立場を2とみるか3とみるかは微妙であるが、1・2の前提となっている「宿命」を回避しているという意味で、3の立場として今後考えていきたいと思う。

 

 さて、中野ら2の立場における議論は、基本的に既存の「専門性」とは異なる所に可能性を見出す。それぞれの文化に根ざした合理性に関連した言い方をすれば「新しい文化可能性」に寄与するものだと主張する。しかし、よく考えれば、「新しい文化可能性」についても論理的に考えれば既存文化に与えられた「無意味性」は除去できないことが前提になるはずである。この「無意味性」という観点からは文化そのものに色を付けることはできず、「善悪」もなければ「新旧」という区別にも何ら意味がない。にも関わらず、「新しい文化可能性」が重要であると主張するのは、ただのダブル・スタンダードではないのか?少なくとも、中野自身の論法においてこのようなダブル・スタンダードの傾向があったことは、すでに中野「大塚久雄丸山真男」(1999)を考察した際にすでに見た通りである。中野の「主体動員論」批判は、中野自身の主張においてはあてはまらず、無根拠に別の「主体動員」を中野自身が要請してしまっている。こうなってしまう理由の説明は簡単である。結局中野はここで「新しい文化可能性」などという中途半端な議論しか行っていないため、これを具体的に中野自身が議論してしまうと自らが行った批判と同じ問題を抱えた主張しかできないのである。結局この立場の問題点というのは、どうして「比較文化史的視座」により楽観的に「新しい文化可能性」を獲得できるなどと言えてしまうのか、という点に尽きる。私自身はこのような可能性に関する議論は「比較文化史的視座」からは獲得できるとは主張できないものだと考える(百歩譲っても、安易にこのような主張がなされるべきではない、と考える)。

 

 さて、このような矛盾について考えた際に、果たしてヴェーバーがこの「新しい文化的可能性」を中野と同じように考えていたのかといえるのか、という点も検討されなければならないだろう。残念ながら、現時点でこの検討ができる状況にないが、今後のこの議論の考察のなかからヴェーバーの議論にも触れていきたいと思う。

 

人間主義的な動機とは何か?

 さて、このような「ヴェーバーの動機問題」におけるダブル・スタンダードを把握する切り口としてもう一つ押さえておきたいのが、ヴェーバー比較文化史的視座というのが「人間主義的」な関心に貫かれているという主張である(p248)。これも一見すると「合理性」に対する対抗手段として「人間的」という視点を与え、この視点を重視すべきであるという主張に見える。

 

ここで注意したいのは、中野の別の著書で語られるような<人間中心>という議論である。中野は「ヴェーバー入門」(2020)において、次のような指摘を行っている。

 

「本節で物象化という事象の両義性を見てきましたが、ここで述べられていることは、西洋の現世内禁欲は社会的関係をとりわけ物象化したということです。すなわち、社会的関係に含まれる「人間的な要素」を切り落として、モノの関係であるかのような「合理的」な扱いを推し進めたということ、そのような扱い方がその宗教倫理の「特別な結果」として生まれたということです。しかも前節で確認してきたように、現世内禁欲は、この結果を生み出す生活態度をその意味を問わないままに「義務」としたのでした。まさにここに、理解社会学が問い、また明らかにしている問題の一つの核心があります。」(中野2020,p216)

 

「そこでヴェーバーがまず指摘しているのは、両者の宗教的義務の違いです。すなわち、ピューリタニズムにおいては身の回りの人間たちとの関係がすべて彼岸の神に対する宗教的義務のための単なる手段や表現と見なされたのに対して(物象中心)、儒教ではその人間関係の中で効果を発揮することこそが宗教的義務とされた(人間中心)、ということです。そしてヴェーバーは、後者が「人間関係優位の立場における物象化についての限界」につながったと言います。」(同上、p229)

 

「さて、『儒教道教』をこのように読んでここまで来ると、そこで提出されている問題が、単なる中国史の問題ではないだけでなく、実はピューリタニズムという特定の二つの宗教だけに関わることですらないと気づかされるのではないでしょうか。儒教とピューリタニズムはそれぞれ極限事例であって、問題は「物象中心vs人間中心」という対抗軸で対比されるべき二つの類型の倫理がもたらす生活態度と社会秩序への影響のことなのです。そして、その弊害という意味で今日のわたしたちにとりわけ際立って感じられるのは、やはり「現世支配の合理主義」のことでしょう。現世を支配し、自然を支配し、世界を支配するそんな「合理主義」は、世界を制覇する力であるとともに、確かに脅威でもありうる。この危惧がさまざまに現実化して、いまやそれはピューリタンにとってだけではなく、わたしたちの時代そのものが直面し続ける世界の基本問題になっていると認めねばなりません。」(同上、p232-233)

 

 まずこの指摘で押さえるべきは、(少なくとも言説上は)中野のいう「人間性」を中野自身が擁護している訳ではないという点である。これを勘違いすると、西洋と東洋の優劣問題において、東洋が真の意味で優れているという主張が成り立ちかねない(※5)。繰り返しp229に立ち返る必要があるが、ヴェーバーによればいかに人間関係が優位にあろうとそれが<物象化>を回避できるわけではないし、中野のヴェーバー解釈もそのように捉えられている(p233)。上記最初の引用(中野2020,p216)は、本書との連続性があることを前提とした主張であり、別に中野の議論が揺らいでいる訳ではないことを示すものである。ところが、ヴェーバー論者がすべて中野のような態度を取るわけではないことをまずここでは押さえておきたい。

 また、結論から言ってしまえば、折原の主張はこの両者を混同しているかのような形で欧米(そして日本)を批判しているようにも思える。折原が曖昧に述べる「人間存在の原点に腰を据える」という言い方を滝沢克己由来のものとして考察すると、そのように解釈することしかできないからである。このことは今後のレビューで示していきたい。

 

※1 当引用で参照されているのは折原(1996)と滝沢克己の「人間の『原点』とは何か」(1970)の2著書である。滝沢の著書に対する検討は今後別途行う。

 

※2 これは折原浩が随所で存在の被拘束性と呼んでいるものと同じである。

 

※3 「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」や「職業としての学問」におけるヴェーバーが存命していた当時のアメリカへの言及や、「中間考察」における文化観に対するヴェーバーの語り(p228)からはそのように捉えるほかないだろう。

 

※4 なお、私が理解する限りにおいては、大塚久雄はかつては明確に1の立場であったにも関わらず、「止揚」の思考を否定した70年代以降3に寄る立場になったという理解でいる(正確には、ヴェーバー理解そのものから離れたというべきか)。

 

※5 しかし、例えば中野(1999)が批判を行っていた「主体動員論」について考えると必ずしもここでの理論的な区分けと実際の中野の主張が合致していないのではないのか、という見方も成り立ちうるように思える。「主体動員論批判」において、明らかに中野は「人間存在の擁護」を行っており、しかもそれは私が指摘したように屈折した形をとる中で中野の主張に自己矛盾を生むものとなっていた。この主体動員論についてもヴェーバー論者であった大塚久雄丸山眞男との関連性によって、ヴェーバー論として語る余地があると言ってしまえば、中野自身もここで議論する「人間性」に関して混同しているのではないか、と邪推することも可能である。

 

<読書ノート>

P17「ウェーバーを問うことは、つねに〈近代〉を問うことに結びついてきた。それゆえに、ウェーバー像の新たなる構成は、〈近代〉への可能な問いのあり方に、新たな視角を切り開くものでなければならない。」

P17-18「「戦後復興」と「近代化」とは、大衆の表層レベルの意識では、生活態度の「アメリカナイズ」に他ならなかったが、知識層においては、その理念型的な範型は〈西欧型近代市民社会〉にあったと言いうる。この両者は、戦後日本の「近代化」の過程で、両極にあって、相補的にそれを推し進めるエートスとなった。そうした中で、〈西欧型近代市民社会〉の姿を最も明瞭に教えたウェーバーは、「近代化」の旗手として承認されるに至ったのである。」

P18「従来の「近代化論」の見地からすれば、日本社会の「前近代性」とは、伝統主義的規範に拘束された、その「非合理性」に他ならない。すなわち、自由で自立した諸個人が「合理的」に行為する可能性と能力を持つという〈西欧型近代市民社会〉の「合理性」の理念を範型とすることによって、それは立論の根拠を得たのである。それゆえに、そうしたウェーバー当人が、その「合理性」の根底において、「人間自然の幸福観を強力に変形するような〈非合理的なもの〉の存在を強調していることは、看過しえないところであった。

 ウェーバーに依りながら「近代性」の理念を説いてきた大塚久雄は、この問題のもつ特別な意味を指摘する。」

※注目すべきは、ここで中野が大塚を近代化論者と別に捉えている点である。この大塚の指摘は64年のウェーバーシンポジウムの大衆に関する解釈についてである。

 

P19-20「これに対し、ウェーバーを読む側の主体としての立場に注意を喚起することによって、まったく新たなウェーバー像を提示したのは、折原浩であった。折原は、従来の近代化論者=ウェーバーという視点に替えて、むしろ近代西欧文化そのものがもつ問題性こそが、ウェーバーの関心の中心にあったのではないかと提起する。そして、ウェーバーが自らを、〈近代ヨーロッパ文化世界〉の「一員」と言わず「子」であると言っている点を捉え、つぎのように言う。「ウェーバーは、「近代ヨーロッパ文化世界」の「一員」ではなかった、ましてやその「擁護者」ではなかったーーそうではなくして、かれは、精神的に成熟したSohn(※子)であったーーつまり、自分自身の深い内面的原理を持たずに反抗したり、付和雷同したりする未成熟な子供ではなくて、親の遺産を慎重に検討したうえで、新しい人生に乗り出そうと身構えた、精神的に成熟したSohnであったと思うのであります。そして、その新しい人生とはいかなるものであるかーーそれはまさに私たち自身の問題である、と思うのであります」

 折原によれば、このようにウェーバーを捉えることで大塚が袋小路と感じたところのものを、絶対的な閉塞点としてではなく、むしろ、読者たるわれわれをして人生や世界の意味についての問いへと強く促す「覚醒予言性」を秘めたものとして見直しうるのである。そして、その点から、われわれは、ウェーバーによって示された〈近代ヨーロッパ文化世界〉の姿を、到達すべき〈近代の範型〉としてではなく、その固有性と問題性において捉え、さらに、それと鋭く対質させながら、〈近代日本文化世界〉の固有性と問題性を明らかにすることで、両者のマージナル・エリアに立って、新しい文化の可能性を探求しうるというわけである。

大塚の問題提起が、近代化論的な見地に立ってウェーバーに内在した場合の究極の限界点を示しているとすれば、折原のこの主張は、そこから新たなる方向へと展開する可能性を開いたものであった。」

ウェーバー自身をこのように位置付ける論点は大きな論争点となる。もっとも、折原のスタンスからすればウェーバーのこの側面を強調するのは必然である。そして、このような中立ぶった主張の価値というのはそのまま問題となる。また、折原の言う「新しい人生」も結局近代志向であることに変わりはない。にもかかわらず、そのようなものに対して「新しい」などという白紙委任の価値を与えようとしていること自体が問題である。そもそも「近代化論的な見地」に立っているなら大塚のヴェーバーシンポジウム時のような中途半端な主張にはならない。

 

P20「この〈比較文化史的視座〉を明確に把握することによって、今日のウェーバー研究は、従来の「近代化論」的見地とはまったく異なる新たな潜在力を持つようになったと思われる。すなわち、今日のウェーバー研究の有する〈普遍的意義〉は、ウェーバーの示したヨーロッパ近代の「範型」としての普遍性においてではなく、むしろ、彼の「ヨーロッパ意識」という特殊な関心に導かれたこの〈比較文化史的視座〉からする、新しい文化的可能性の探求に結びついているのである。」

※ここでいうヨーロッパ近代の「範型」としての普遍性とは一体なにか?

P26「すなわち、ウェーバーにおける〈物象化〉は、資本主義的な商品交換関係の構造から発生する倒錯的自体として、ネガティブに把握されたマルクスにおけるそれとただちに同一視はできない。しかしながら、〈比較文化史的視座〉をもったウェーバー〈物象化〉論の検討は、マルクス〈物象化〉論の成立する歴史的・社会学的背景にあらためて光を投げかけることにもなるであろう。」

※この物象化については、これを「理念型」的に捉えて良いのか、と言う議論が出てくる。

 

P46「すなわち、大塚の「理解的方法」の解釈は、理解された〈動機〉を一つの原因として、そこから因果関連を辿っていくという、「動機による説明の方法」だとまとめることができよう。

 さて、ところで、哲学者たちは、社会科学者の大塚が「解決」を見出したところに、「問題」そのものを見出すであろう。すなわち、大塚が出発点にしている〈動機〉そのものは何を根拠に理解しうると言えるのか、ということである。」

P60「ウェーバーはつぎのように言っている。「原因的要素として、或る具体的「歴史的」人格性の特性と具体的行為とが、「客観的」にーーすなわち、何らかの明瞭な意味で、「より創造的に」生起現象へち作用するということは決してない。なぜなら、「創造的なもの」という概念は、それが単に質的変化一般における「新しさ」と等置されず、それゆえ、まったく無色になることが場合には、なんら純粋な経験的概念ではなく、われわれが現実の質的変化を考察する際にもつ価値理念に関わっているからである」

 それゆえ、観察者における〈価値理念〉のあり方に従って、石炭層からダイヤモンドが形成されることも、預言者の直感から新しい宗教性が生み出されることも、同様に「創造的合成」と言いうることになるのである。ということは、逆から言うと、それらもまた同様に、質的変化にすぎないという面においてはなんら神秘的なものを含んでいないのである。……

 かくしてウェーバーは、心的生起に伴う〈人格性〉の要素もまた、なんら神秘的な超越性をもつものではなく、現実の因果的連鎖の生起に全連関のなかに内在することを明らかにするのである。」

※ここでいう神秘的なもの、という意味がわからない。どうもヴェーバーの一節より「具象名詞というものは、一般に、内包において無限の多様物であり、そこからは、歴史的な因果連関にとって、論理的に考えうるありとあらゆる個々の、科学にとってはただ「所与」として確かめうるにすぎないような構成部分のすべてが、因果的に意義あるものとして考慮されうるからである。」(p61)とし、「法則論的決定論」に批判的な態度を指摘し「実体的な原理としての「歴史法則」などというのは絶対に導出不可能なのである」と確信するが(p61)、これは二重の意味で問題含みとなりうる。一つは、この事実のみを盾にし、法則論的に解釈するすべての理論を否定すること。そしてもう一つは、ここで「導出不可能」であることを文字通り捉え、「理念型は実体と一致することはない」と述べてしまうこと、である。結局ウェーバーのここでの解釈は「神秘的ではなく解釈可能だが、その普遍的理解(解釈)はできない」という奇妙な主張であり、これは一見「神秘的」と解釈したくなるような発想にも見える。

 

☆P132「さて、〈文化人としての人格性〉の性格は、現実的因果連関に内在しているというだけでは明らかにならない。それは、さらに、特定の文化価値に結びついた〈意味連関〉に、すなわち、特定の〈文化〉内属しているのでなければならない。……しかし、ここで注意すべきことは、〈人格性〉が単に対象として〈文化〉に内属したものとして捉えうるというばかりではなく、そもそも人間は、特定の〈文化〉に内属し、それを自らのものとして担うときはじめて、〈人格性〉としての意義をもってくるということなのである。すなわち、〈人格性〉が〈文化〉に内属しているということは、何かあらゆる〈文化〉から超越するような「主体」としての抽象的な「人格性」(※ママ)なるものがまずあって、それが「文化を担う」というようなものではなく、当の〈文化〉を担うときはじめて〈人格性〉たりうるということである。これが、〈人格性〉を〈文化人〉という〈恒常的動機の複合体〉として捉えるということの意味なのである。」

※これは言い換えると、〈人格性〉を語ること自体がすでに何らかの「価値」にコミットした人間について語ることと同義である、ということである。だからこそ、折原は具体的な〈文化人〉を語ろうとしないのではないのか?このような否定性による主体論の将来は暗い。

P136ヴェーバーの引用…「ピューリタニズムの禁欲――およそ「合理的」な禁欲はすべてそうだがーーの働きとは、「恒常的動機」を、特に禁欲自体によって「修得」された恒常的動機を、特に禁欲自体によって「修得」された恒常的動機を、「一時的感情」に抗して、主張し、固守する能力を人間に与えることーーつまり、人間を、こうした形式的・心理学的意味における「人格性」へと教育することにある。」

※いわば教育された主体に対し、人格性という言葉を与える。「『プロ倫』では、このように、ピューリタニズムの禁欲から発する〈人格性〉の理想像が、その宗教的基盤を失って、「啓蒙主義的人格像」を経過しつつ、いわゆる「資本主義の精神」の担い手へと没意味化・転化していく過程が明らかにされる。」(p136-137)

P139「すなわち、ウェーバーにとって問題であり、経験科学的研究の対象とされねばならないのは、近代ヨーロッパに固有の「人格理想」にほかならなかった。しかしながら、ウェーバー以前の方法論的議論には、陰に陽に、プロテスタンティズムに由来し、「啓蒙主義思想」を経て論理的に純化した近代ヨーロッパ的人格像が前提化されていた。それゆえにこそ、まずは、〈人格性〉概念そのものの再検討から出発せねばならなかったのである。そして、その探求の末に到達した見地こそ〈文化人としての人格性〉であり、これによって近代ヨーロッパ的人格像そのものを考察の対象としうる基礎が論理的な意味においては築かれたことになるのである。」

※こう見ると、ヴェーバーの関心はやはり主体論的である。なお、この議論をイギリス的とするならともなく、ヨーロッパ的としてよいのかは問題含みでは。

 

P228ヴェーバーの引用…「ひたすら文化人へと自己完成を遂げていくことの無意味性、言い換えれば、「文化」がそこに還元されうるかにみえていた究極的価値の無意味性は、宗教的思考からすれば、――そうした現世内的立場から見てーー明らかな死の無意味性から帰結したのであって、この死の無意味性こそが、他ならぬ「文化」という諸条件のもとで、生の無意味性を決定的に前面に押し出したのだということになる。」

P229同上。「こう見てくると、「文化」なるものとはすべて、自然的生活の有機的にあらかじめ定められた循環から人間が抜け出していくことであり、まさにそれゆえに、一歩一歩ますます破滅的な無意味性に向かうように宿命づけられているものと見える。文化財への献身は、それが聖なる使命となり、「天職」となればなるほど、無価値であちこちに矛盾を孕んだ目標に、ますます無意味にもあくせくとわが身をせき立てる、そんな行為に転じていってしまうのである。」

P233「見られるように、〈官僚制〉に対するウェーバーの関心は、それの技術的優秀性や不可避性そのものではない。むしろ、〈官僚制的支配〉を〈物象化〉過程の極点として捉える視角から、ウェーバーの関心の中核に位置してくるのは、〈物象化〉過程に対応した〈人格性〉そのものの運命に他ならないのである。」

※奇妙な話である。別にイギリス的資本主義の議論に限らず、すべからくこの主張は成立してしまうように見える。

 

P235「官僚的職務は、〈物象的〉な必要性から、官僚に〈専門人〉たることを要求する」

P236「このように見てくると、官僚制的組織の〈物象化としての合理化〉は、それに伴う官僚の職業身分化を通じて、官僚から、その〈専門人〉の〈精神〉たる文化価値への〈即時的=物象的〉な献身を失わしめていく過程でもあることがわかる。」

※このような議論はヴェーバーの特権でもない。

P238ヴェーバーの引用…「「エートス」は、それが個々の問題において大衆を支配する時にはーーわれわれは、他の本能についてはここでは度外視するーー、具体的ケースと具体的人物に応じた実質的「公正」への要請をもって、官僚制的行政の形式主義と規律に縛られた冷酷な「物象性」と不可避に衝突し、さらにこの理由から、かつて合理的に要求されたところのものを感情的に非難する、ということにならざるをえないのである。」

P247「すなわち、〈文化人〉は一定の〈文化理念〉基づいて自ら〈世界像〉を形成しつつも、いったん固有の〈世界像〉が作り上げられると、彼はそれによって定められた軌道の上を不可逆な方向で進まざるをえないということである。そしてここに、〈文化人〉の〈運命〉が存し、〈文化史〉的過程の固有法則性が存することになる。

 このような歴史把握は、ウェーバーの〈比較文化史的視座〉を成立させる前提的認識になっている。」

 

☆p248「すなわち、ウェーバーの〈比較文化史的視座〉は、〈準拠枠としての行為類型論〉を根底に据えることにより、単なる相対主義決断主義とは異なる鋭い文化内在的批判の力を内に保持しているのである。

 かくて、長きにわたってきたわれわれの考察は、ようやくにして、ウェーバー〈理解社会学〉の根底に孕まれている〈比較文化史的視座〉の基本構想を把握するに至っている。それは、文化価値としてそれを担う文化人の運命に焦点を定めているという意味において、徹頭徹尾〈人間主義的〉な関心に貫かれていると言える。この視座は、歴史的現実において存在する多様な〈文化的価値〉を即対象的に受け取り、それをその固有性において〈理解〉し、その〈運命〉を見定めることを通じて、鋭い〈内在的批判〉と〈比較〉の視野に捉えていくといった、まさに〈価値自由〉な一連の方法的態度によって、かえって現実に生きているわれわれをして〈文化人〉としての自覚に目覚めさせ、〈文化諸価値〉の間に孕まれる鋭い緊張の中に立たしめるのである。」

※結局論点はここに尽きるように思う。折原はもちろん、中野もこの論点について「意義がある」と確信しているが、本当にそうなのか??少なくともヨーロッパ近代主義を一面的にしか批判できない議論、特にそれを著しい官僚化の帰結としか捉えられない議論においては、意味がないと思う。というのも、比較文化史的視座はこの官僚化、もしくは物象化の徹底を避ける手段を持っていないため、「批判」としての意味さえも持ち合わせてはいないのではないのか?この論法は、無意味に社会病理を批判する議論と同じように、現実的な解を見出す際には多分に弊害さえある。もっと言えば、ここでの自覚に対する価値の強調は、と〈運命〉を止揚的に捉える見方と極めて親和性が高く、実質的に同一のものと見てしまってもよいレベルで擁護しているように見える。

P250「ところで、この〈比較文化史的視座〉の方法論的構造は、それが現実に有効なものとなるためには、探求者において、ある特別な主体的態度を要請する。すなわち、この〈視座〉は、それを担う探求者たちの特別な主体的態度と結びついてはじめて、新たな〈文化〉的可能性を探求するために有効な指針となりうるわけである。」

P253「さて、このように『職業としての学問』の全体を〈近代ヨーロッパ文化〉の〈運命〉に焦点を定めて捉えると、われわれは、そこでウェーバーが一貫して一つの態度を批判していることに気がつく。その態度とは、一口に言えば、「時代の運命を正面から見据えることができず」、また、「時代の運命に男らしく耐えることができない」傾向があると言うことができる。」

 

P254「「時代の運命を正面から見据えることができない」傾向が問題を孕んでくるには、むしろそのつぎからである。

 文化諸領域が分化し、「神々の争い」とも言うべき諸価値の多元性が常態となっているという〈近代ヨーロッパ文化〉の現下の〈運命〉に耐えられない傾向は、学問の領域においてはさらに、その「合理主義」「主知主義」そのものを敵視するようになるか、あるいは教壇において、教師ではなく指導者を求めるようになる。」

※前者については「主知主義を脱け出そうと思っても、それを試みる人が目ざす目的とは反対の所へと導かれてしまう」ことにより批判し(p254)、後者は「狂信的なセクトを生み出すのみであって、決して真正な共同態を生み出しはしない」と批判される(p255)。どちらもヴェーバーの引用である。

P256「これに対して、すでに物象化を遂げ、専門化した文化諸領域・学問諸領域は、たしかに、非人格的な姿をとって屹立してはいるけれども、それ自体は、〈近代ヨーロッパ的人格性〉の成立根拠に他ならない。すなわち、なんら〈人格的〉な要素を感じさせない専門科学と言えども、それは、〈近代ヨーロッパ的人格性〉の〈凝結した精神〉、あるいは、あえてヘーゲルの用語を用いれば、〈疎外された精神〉に他ならないのである。

 それゆえに、この学問諸領域が与える〈物象(Sache)〉に仕える者こそが、真に〈人格性〉をもち、〈文化人〉として現下の〈文化諸問題〉に対決し、〈文化創造〉を担っていく主体たりうるというわけである。」

※これは終戦直後の大塚の主張と大して変わらない主張なのではないのか、という疑問が拭えない。化石化したものにあえて取り組め、と言っているのと同じであり、正しくは化石化したものから遡及して人格性にいたるべき、という意味であるからである。これは忠実に「近代」に仕えよ、と言っているのと同じである。もっとも、この思想自体にコミットすること自体が一種の宗教性ではないのか、という批判は妥当であるように思えるが。ヴェーバーの主張を支持することは、どうにもフロイト精神分析を支持する時のような、うさんくささを感じずにはいられない。これは結局ヴェーバーの場合は、彼の歴史的分析が絶対的に正しいことを前提にした議論をしてしまっていることによる違和感である。彼の議論を前提とすることで、禁欲的な「善」が内包されたまま議論を続けなければならなくなるのである。特にこの違和感はヴェーバー日本に対する「成功」を説明するとき、露骨に現れる。

 

P257「なぜならば、そうしてはじめて〈物象化としての合理化〉の根本孕まれる矛盾そのものを止揚しうる〈新たなる文化創造〉の可能的主体たりうるからである。もちろん、専門化した個別科学が新しい〈文化価値〉を生み出すというわけではない。そうではなく、それを担う探求者が、〈文化人〉として新たな〈意味〉を自覚する可能的主体となるのである。」

※ここでいう「可能的主体」とは文字通りの意味として理解しなければならない。つまりそれ自体は「実態」を伴わない。そしてこれを「新たなる」という言い方でまとめて良いかが極めて疑問である。「実態」を伴わないものが新しいかどうかは判別不能だからである。

P259ヴェーバーの引用…「こう見てくると、実際このユーモアは、その人を麻痺させる力について今日も前にお話のあったあの日常生活というものを支配し克服するまことに偉大な要素の一つであるのみならず、人間の尊厳はたとえ神々の力にでも屈してはならぬのだということをわれわれに理解させてくれる形式の一つでもあることがわかります。」

※これを「一切の皮肉とは全くかけ離れ、力強く、健康で快い、解放の笑いをわれわれに与える」とヴェーバーは定義づける(p258)。このユーモアが重要とするが、これは論点ずらしではないのか??

 

P260「われわれは、〈ウェーバー〉のなかに〈文化理想〉そのものの啓示を求めることはできない。」

※これは正しいだろうが、だからといって文化理想を求めてはならない、文化理想を主張してはならない、という言い方をするのは正しくないのではないか?これをヴェーバーの主張として取り上げるのは問題だが、そうでないならば別に議論されるべきものだろう。

P264-265「ところで、東洋の地にあって、既存の人格的社会関係を徹底的に解体するのではなく、むしろそれを改編しつつ積極的に利用し、システム全体としての実質合理性を追求することを通じて「成功裏に」〈近代資本主義〉を受容・展開してきた日本においては、今日の〈文化問題〉は両義的な意味をもたざるをえない。その両義性とは、一方において、いまや閉塞状況に直面しつつある〈近代西洋文化〉に取って代わり、この「日本」が、より強力な物象的力を発揮して、〈文化〉や〈自然〉を破壊する中心勢力に成長する可能性が増大しているということであり、しかしながら他方において、まさにそのことゆえに、〈近代資本主義〉を通じて共通の〈運命〉元に一体化しつつある〈現代世界〉は、この日本の地において、自己止揚へと導くべきいくつかの根底的な問題性を顕しているとみることができることである。

 〈近代日本文化世界の子〉としてのわれわれは、ウェーバーの方法に学びながら、こうした問題性を〈普遍史的意味〉において捉え返し、新たな〈文化理想〉の探求に寄与していかねばならない。そして、このようにして、ウェーバーのやり残した課題を引き受け、ウェーバーその人を超えて進まんとするときにこそ、〈ウェーバー〉学ぶことの真価が感得されるにちがいない。」

※このような主張はさながら「ご都合主義」に尽きるのではないのか?この文明的優位性は、ヴェーバーのいう資本主義の精神の議論と関連づいているようにとても見えない。

P266「〈近代ヨーロッパ文化世界の子〉としてのウェーバーは、〈近代ヨーロッパ的文化人〉の固有性を〈人格性―物象性〉の二項対立構造において〈理解〉し、それが辿る

らざるをえない〈運命〉を〈物象化としての合理化〉の展開のなかに発見した。」

※このようなまとめ方は端的におかしい。この二項対立構造はむしろ全ての「文化人」にあてはまるはずである。

 

P327「近代社会」というのはない、という主張

P329-330「本書が副題のひとつとして掲げて探求している「物象化としての合理化」というのは、このような近代に特有とされる緒形象が辿る合理化の特性を、ヴェーバーがどのように認識しているかを表示するものである。その点をしっかり捉えるなら、ヴェーバーの問いの形が見えてくる。すなわちこの学問は、全社会的な変動(近代化)の終極点として「近代社会」を問題にしようというのではなく(そもそもそんな社会発展の定型などないのだ!)、「物象化としての合理化」に進む問題的な社会諸形象が支配的な力をふるっている場として〈近代〉という時代を問題にしているのである。」

※存在しない近代を批判するのか??この提案には賛同していいが、中野が近代批判している部分について疑問が残る。

P331-332「そして、そのように歴史の単位が画定されその総体の発展コースが標準化されてこそ、歴史の「比較」ということも可能になると考えられてきたのだった。

 しかし、そのような総体についてのリニアな歴史の語りは、近代ヨーロッパの生成を歴史の先進形と見なす発展史観が「ヨーロッパ中心主義」と非難されうるように(ヴェーバーその人もしばしばそう誤解されてきた!)、標準とされる発展コースの把握に際して価値評価の先取りが不可避であるなど、重大な難点がいくつもあると認めなければならない。そもそも、国史の語りが国家意識の形成を企図し現にそれと相関しているように、単位を確定してその総体の歴史をリニアに語る営みというのは、それ自体が対象を独立した実体として立ち上げてしまう仮構の行為なのだ。であれば、各国史や地域史の単純な束などとしてはとうてい語りえない世界のグローバル化した現実の中で、歴史の語りについても根本的な転換が要求されているというのはやはり間違いないだろう。」

※そうだろうか?究極的には態度の取り方の問題のようにも思うが。これに対し、比較文化史的視座は、理解社会学を介して「国家や文化圏や地域として囲われて実体化されるような歴史のそれぞれの単位の総体にではなく、その担い手である文化人の行為理解に置く」で必要な視点とみる(p332)。しかしこれは言ってしまえば「当たり前」のことであるし、ヴェーバー自身もこれから離れることがないからこそ、ヴェーバーにコミットすることが「うさんくさい」と感じるのである。このような認識の改変にそこまで重要性があるようにはどうしても思えない。そしてこのような視点で分析を行うことは「むしろ学問のなしうることの限界について鋭く問題提起する言明と受けとめられねばならない。」とする(p334)が、このような言い分で「学問がでしゃばるな」という主張をおこなうなら理解が可能である。しかし繰り返すが、これは中野やヴェーバーにも等しく与えられなければならない制約である。

日高六郎編「現代日本思想大系34 近代主義」(1964)

 今回は、日高六郎の近代化論の指摘をもとに、これまでの大塚久雄を中心とした近代化論の議論を少し整理してみたい。というのも、本書における日高の指摘については、他の論ではなかなか見られないものがあり、かつそれが適切な指摘であるように思えるからである。私自身も大塚読解において日高の視点を捉えられていた訳ではなかったため、大塚を再読した結果について整理してみたい。

 まず押さえておきたいのは、この「近代主義」という言葉自体が、「近代の批判」を行う論者によって語られるものであり、「近代の肯定」を行う論者は近代について明言していないという特徴についてである(p10)。これはある意味で「近代を肯定」を行う論者自身が、(自身がその立場にない、という議論も含め)「近代主義」について明確に定義・整理していないということを意味する。例えば、丸山真男などは一つの典型であろう。彼に至っては、私自身も未だに「近代主義者」としての位置付けを理解できていないが、そもそも「肯定的」な意味で「近代主義」を議論しておらず、専ら過去の日本の「封建制」について批判を行うことに終始する場合についても、「近代主義者」というレッテルが貼られているのである(※1)。

 

○「近代主義=欧化主義」をどう見るか?「産業化的近代化論」と「民主化的近代化論」について

 また、大塚久雄に関して言えば、はっきりと「近代主義者」である筈なのだが、大塚自身は「近代主義」のレッテルを貼られることについて、ひどく毛嫌いしていた。これについては、すでに指摘したように、「近代主義=欧化主義」という図式で語られがちであったことについて大塚は否定的であったと言える。私自身もこの議論について「単一的近代」「複数の近代」という軸から大塚について考察を行い、その態度が70年代以降矛盾していくことについて指摘した。

 一方、日高は「産業化的近代化論」と「民主的近代化論」という2つの近代化論の存在を指摘している(p22)。「産業化的近代化論」は後発的な議論であり(p25)、かつ保守的支配層はこの議論を民主的近代化論から転換できると見てとったとき「近代化」を説きはじめることになったという(p22)。

 大塚の議論から近代化を考えてしまうと、この両者の区別はあまり明確になってこない。というのも大塚自身がヴェーバーエートス論を経由してこれを基本的に同一のものとして扱っていたからである。しかし、この態度は一貫していない。すでに考察したが、まとめると次のようになる。

 

・戦中の大塚の言説は、「産業化的近代化論」にも強く根ざした形で、「最高度の生産性」のため「最高度の倫理」を目指したものであったこと

・戦後直後の大塚の言説は、欧米の近代化エートスに学ぶ形で、「民主的な心性」をまず重視するため近代化論が語られたこと

・特に70年代以降の大塚の言説は欧米的な近代の帰結である官僚化と頽廃について強調され(これは「民主的近代化論」の帰結として語られる)、これを日本の状況と同一視したこと

 

 上記のように語られていた大塚の議論は、日高がp39で指摘するように、産業化的近代化論の視点で見た場合同一視されがちである「風俗的次元でのアメリカ化現象」と同じように見るのは誤りであるのは間違いない。しかし、ここで改めて注目しなければならないのは、70年代以降の大塚の態度変更である。この時期の大塚は、すでに日本と欧米の状況を同一化し、近代化論そのものの批判に目が向いていたが、このことを「民主的近代化論」の議論として見た場合、どのような状況で問題を捉えていたと言えるだろうか?実際の所、戦時中から一貫して大塚は「欧米と同一視される近代化」については否定的態度があり、これはヴェーバーアメリカ観に代表される、近代化の一種の帰結としての頽廃に対する見方を共有したものであった。にも関わらず、終戦直後の大塚は、それと同じ「近代化」を強調することを行っていたのである。これはある意味で「将来的に頽廃することがわかっていたにもかかわらず、近代化を強調した」という批判が成り立つものであるはずである。しかし、少なくとも終戦直後の大塚はそのようには全く考えなかったと言えるだろう。何故別物として考えられたのだろうか?

 これを戦時中の強烈な「止揚」の発想の下に語られていた「最高度の自発性」の議論に引きずられていたから、とか文字通り戦後日本はゼロからスタートしたものであるから、といった説明は非常に簡単である。むしろそのような説明の方が妥当なのかもしれない。そして戦後日本は経済復興していく中で、ヴェーバーの予言通り、つまり欧米と同じ道を辿ってしまったからこそ、見切りをつけてしまったというのが素朴な説明として一番しっくりくる。

 しかし、それでも私がなお腑に落ちないのは、70年代の大塚自身が日本の状況について「(産業的近代化論的に)近代が(欧米と同レベルのものとして)完了してしまった」という前提のもと欧米の状況と同一視していることが明確であることである。このことについて、大塚がまだ日本の(民主的近代化論的に)近代が未熟であるという認識に立つことは可能であったように思う。特に80年代以降の「改善言説」を求めるようになった日本人論全般についても、基本的に「産業的民主化論」としては完成した日本に対し、(生産性に従属した議論に限った)「民主的近代化論」については未熟な状況を指し改善を図るものである、という見方が可能である。もちろん、生産性如何に関わらず、日本が民主的でないという日本人論は山のように存在し続けた中で、大塚はそのような視点から議論を行うのをやめてしまっているのである。

 このように考えてしまうと、「産業的近代化論」と「民主的近代化論」を大塚が一体的に扱ってきたといえども、70年代以降の大塚もまた「産業的近代化論」の影響を強く受け、「民主的近代化論」の議論の必要性については著しく軽視するようになったという結論を出さざるを得ないように思われる。

 ただ、これに合わせてもう一点問わなければならないのは、そもそも大塚的な理解により「民主的近代化論」というのを「産業的近代化論」と一体として語ろうとする論法自体が適切であったのかという点である。これ自体はヴェーバー由来(ただし、これは大塚の独自理解としてのヴェーバー理解)の議論であり、本書で言えば丸山真男川島武宜などは実際にヴェーバーの影響を受け「民主的近代化論」について語っていた論者であったのは確かである。しかし、例えば教育界における「民主的な教育」の議論においては、かなり早い段階(遅くとも50年代半ば以降)で「産業的近代化論」とは「決別」し、これを否定した「民主的近代化論」を展開していったと見ることは概ね正しい理解であるように思える(そしてその系譜は一応現在にまで続いている)。また、大塚のヴェーバー理解によれば、確かに過去のイギリスやアメリカではこのような倫理が存在し、それが生産性の高い産業発展につながったものと見るが、それはすでに現在においては存在していないものである。その意味で、本当にそのようなものが「存在」していたのかという疑問も当然ありえるように思える。また、私が提出した論点として、この「産業的近代化論」と「民主的近代化論」の結びつきとしての議論はそれ自体「止揚」の発想に基づくものであり、大塚が「止揚」の発想を捨てたからこそ、70年代以降簡単に態度を変えられたとみる仮説の立場から言えば、そもそもこの二つの近代化論を結びつけようとする試み自体が「無理筋」であった可能性も否定できない。確かに見方によっては現状の近代化論は「産業的近代化論」に支配され「民主的近代化論」の議論が消えてしまった、という見方をするのは簡単だが、この忘却というのは、むしろ「無理筋」だったものに対する消極的な反省と言えるのかもしれないのである。その意味では本書で指摘されるp40やp47のような「民主的近代化論」の無理解による欧米との同定化志向というのも、むしろ必然的なものであるのかもしれない。この議論は今後実際の言説をもとに考察していきたいところである。

 

※1 例えば伊東祐吏「丸山眞男の敗北」(2016)では「丸山の論考が常に傾向や風潮に逆らって否定的なかたちでしか提出されず、積極的な処方箋としてはありえない」ものだったとしている(伊藤2016,p24)。

 

<読書ノート>

☆p7「近代主義は、「近代主義」的傾向なるものを批判しようとする人々によって外部からつけられた他称である。」

※この主張自体が興味深いとも言える。これが一般則として成立するのであればなおさら。

P8「近代主義とはなにか、近代主義者とはだれか、ということについて、みずから名のりでるものがないとすれば、その定義および支持者の範囲は、近代主義批判者に聞くほかないともいえる。」

P8「近代主義者たちに共通のものは、日本の近代化とその性格そのものにたいする強い関心である。同時に制度的変革としての近代化だけではなく、その変革をになう主体としての、いわゆる近代的人間確立の問題にたいする強い関心である。……外部からの大塚批判があたっていたかどうかは別として、敗戦直後に大塚の発想に近い、あるいはそれを支持する一群の人々が存在していたことは否定できない。」

P9「いちおう日本共産党の政治路線に沿うマルクス・レーニン主義者を正統派マルクス主義者と名づけるならば、それらの人々は自分を近代主義者とはっきり区別している。彼らは、第一には、近代化は要するに資本主義化にほかならないと考える点で近代化の概念そのものを不正確と考えていたし、第二には近代的人間確立が個人主義的方向で理解されやすいことを懸念していた。しかし彼らの批判についてはあとでさらにくわしく取上げよう。他方欧米学者が日本の近代化の問題を考えるとき、その接近の仕方は日本の学者のそれとはかなりちがっていた。簡単にいえば、欧米の学者が近代化という言葉を使うとき、それは自国の問題としてではなく、後進国、特にアジア、アフリカ、ラテン・アメリカなどの低開発国の問題――主としてその産業化の問題――として考えている。しかし日本の学者のばあいにはそれはつねに自国の問題として、したがって主体それ自体の問題として、考えないわけにはいかないということがある。「近代化」という概念自体は欧米産でありながら、この概念を使う当事者としての私たち、あるいは後進諸地域の人々にとっては、それはまったく自分自身の問題にほかならない。そういう逆説が、近代化の問題にはある。近代主義者が、主体あるいは主体性の問題に強い関心を持ったのもひとつにはこうした事情が背景にあるのである。」

 

☆p10「ところで近代主義という言葉が卑俗にマイナス・シムボルとして使用されるとき、それは欧化主義と等置されやすいが、しかしこの巻で登場する人々はけっして単純な意味での欧化主義者ではない。しかし同時に、それらの人々は、とくに西欧の思想学芸にたいして窓をひらくことにたいしてつねに積極的な人々であったということは否定できない。その教養も広く深く西欧的である。そのことはそれらの人々の仕事の利点でさえあった。しかもなお大塚がなげくように、大塚のいわゆる「近代的人間類型の創出」などという発想にたいして、「たとえば過去のイギリスを現代日本の理想像として設定し、それとの距離で現在の日本の歴史的位置を計ろうとしているといった類の奇妙な曲解が生じ」たということが起った。大塚の意図は、もちろん「近代初期のヨーロッパの事情を現代日本の模範としようとしたり、それとの距離で現代日本の歴史的位置を計ろうとしているのでは、さらさらな」かったのである。しかしこうしたことが起るのは、日本の近代化と西欧化との関連について、また今後の見通しについて、さまざまの見解が思想学芸の世界で渦をまいており、だれもこの渦の外に立つことはできないという単純な事実のためであったろう。」

※お茶を濁した総括といってしまえばそれまでだが、これはこれとして一つの総括である。

P19「蔵原(※惟人)は(※前衛1948年8月号にて)近代主義を次のように説明した。「近代精神と近代主義とは区別されなければならない。近代はその勃興と発展と没落の歴史をもっている。近代主義は近代資本主義の末期、特にその帝国主義の時代にブルジョア文化のうちに現われた一つの頽廃的な潮流である。」」

☆p22「こうした文脈(※政府やアメリカにおける)での近代化論は、反共を軸としながらの産業化的近代化論と言える。これに対して、敗戦直後の近代化論の発想は質的にちがっていた。すなわち、そこでは前近代的社会(とくに封建社会)や前近代的人間関係(とくに封建的人間関係)の克服が第一に問題となった。近代化にはもちろん荒廃した生産力の回復ということもふくまれていたが、そのためにもまずなによりも諸制度、社会のなかの人間関係、個人の思考・行動様式のすべてにわたっての民主化が必要だと考えられた。それは民主化的近代化論であった。そのときいわゆる「民主主義の行きすぎ」を危惧する支配層はけっして「近代化」を口にしなかった。近代化論を民主主義的近代化論ではなく産業化的近代化論に切りかえることができると見てとったとき、はじめて保守的支配層は「近代化」を説きはじめる。」

※この区分について大塚は極めて曖昧だったと言わねばならない。

 

P25「さて以上は、近代化を理解するばあいの最も典型的な四つの接近方法である。ところで敗戦直後に近代化あるいは近代的人間の問題が議論されたときには、いまあげた四つの接近方法のうち、第一と第四とがもっとも重要だったと考える。第二の産業化的近代化論が問題となるのは、ずっとあとである。また第三の複数指標説は敗戦直後の知的雰囲気からは遠かった。敗戦直後の時期には、価値転換は全面的でなければならないという気分が圧倒的だった。そうした時期には複数指標説は人々を十分にはひきつけない。議論の大半は、現象的にはすべて第一の枠組みのなかで展開され、そしてその内部でいくつかの分岐が生れた。そしてその分岐の一部が(少数者をのぞけば、そのことは十分に意識されなかったが、)第四の発想に近づいていた。」

※第一の発想は封建社会から資本主義社会への転換を意味するもの、第四は超歴史的に「近代化は近代史の過程のなかでどの程度にか現実化するかもわからないし、あるいはしないかもわからない」ものとする立場(p23)。

☆p37「国体原理による西欧化の取捨の誤りも指摘された。そこで西欧文明を、その精神をふくめて全面的に学ぶ必要が強調される。むしろ西欧文明をささえる人間類型あるいは精神そのものに注意がむけられたむけられたといってよい。ところで注意がその側面にむけられると、西欧に存在するものーー民主主義の原理とか、個人の自由と独立とか、ナショナリズム個人主義の結合とか、普遍宗教あるいは超越的原理の自覚とかーーが日本にまったく存在しない、あるいはほとんど存在しないという、いわゆる「欠如理論」となりやすい。」

☆P39「ところでそうした全面的西欧化の姿勢そのものは、ほとんど物理的といえるだけに、その反動もやがて物理的に起ってくることは歴史的必然である。しかしもし欠如理論を批判する立場がこうした物理的反動を利用しているとすれば、そのことはけっして欠如理論そのものの批判とはならないし、ましてそれをのりこえていく力には到底なりにくい。たとえば荒正人が原始キリスト教や近代個人主義を考えたということと、風俗的次元でのアメリカ化現象とを同一の次元で考え、後者にたいする批判のほこ先を前者にまでもむけていくとすれば、それは一八〇度見当はずれだったというほかない。前者は社会の全面的民主化の主体性の原理としてーーそれは当然西欧文化にたいする自主的選択を予想するーーいわゆる近代個人主義を求めていたからである。同様に大塚久雄が「プロテスタンティズムの倫理」を考えたときも、それは象徴的原理的に考えられていたのであって、その歴史的時代を日本のなかで再現することとか、その倫理をジャズと一緒に輸入することとかが考えられていたわけではない。」

※これとは別に西欧化を具体的にアメリカ化とみなすかどうかという論点もある。ここでいう「物理的」とは、物的文化を指すのではなく、具体的な指示対象となる思想も含んでいるはずのものであり、日高もそれを前提にし荒正人を引用している。ただ、日高がここで述べているのは文字通り「物的文化」をタテに全体的な思想も「物的文化」と同様の発想がなされることを意味しているわけではないように見える。また、結局「象徴的原理的」レベルのものは「自主的選択」によるもので、それはおのずと「形そのままの模倣」でないことや、「とりいれるものととりいれないもの」の選択でもあることを暗示する。さらに、ここで「それをのりこえる」こととの兼ね合いから批判の意味を捉えることも重要に思える。

 

P40「しかし他面、敗戦後の日本の知的思想的支柱として西欧文化のエッセンスを学ぼうというとき、それが物理的とでもいってよい欧化現象が社会の全領域で進行中であるという雰囲気のなかで主張されることで、かえってその本来の意味がおそろしくゆがめられていったという現実も忘れてはならない。「国体原理」による取捨を批判し、西欧をトータルに学ぼうと言ったとき、そのトータルが、アメリカ独立宣言からコカ・コーラまでの量的全体として受けとられる状況のなかでは、その質的全体そのものの皮相化という現象がおこっている。現に敗戦直後そのことがおこったのである。たとえば、教育理論のなかに、にわかにアメリカ教育学用語がはんらんし、現場の教師がすべてカリキュラムだのシークエンスだのという言葉を口にする時期があったことは、量的全体を導入しようとする衝動のあらわれであった。そうした導入は欠如理論の信用をますますなくすことに役立った。」

※理念と実態の相違をどう考えればよいのか。そしてここで「教育」が取り上げられているのも注目すべきか。

P41「もともとマルクス主義には理論的には、かなり簡単に欠如理論と結びつく性格がある。すなわち、日本の資本主義の発展そのものが、ブルジョア民主主義革命をきわめて不完全な形でしか通過しなかったということを強調したのは、マルクス主義それ自体だった。マルクス主義の世界史の発展段階法則が普遍性を持つとすれば、後進国にとっては欠如理論はある意味では不可能である。」

 

P46「竹内の議論の中心は、「独立」の強調と、「民族」要素の強調とにあることは、すでに述べた。この「独立」の強調で、彼は正統派マルクス主義以外の近代主義者にある面では接近するように思われる。竹内の独立は個人の独立と切りはなせないからである。」

☆p47「そして最後に、第三の(※近代主義にからまる)問題として、近代主義が、歴史的「近代」を固定化したいと考えている人々、それをさらに乗りこえようとする政治的あるいは思想的傾向にたいしてかならずしも積極的ではないような人々によって支持されやすいということがある。じつは近代主義の論理は、本質的には、自分自身が民主主義者であり、自分の属する社会が民主主義社会であることに自足するのではなく、たえず民主主義者となり、民主主義社会となることをめざす、いわば永久革命的志向持っている。しかし現実には、近代主義は「近代」主義となって、「近代」同定の論理におちこむ危険をはらんである。(なぜそうした危険がおこるのかは、ひとつの重要な問題点である。)

 ただしここで指摘しておかなければならないことは、こうした問題点は、他称近代主義者のなかでの最もすぐれた思想家の「思想」それ自体が引きうけなければならない直接的責任ではないということである。むしろそのなかには、ここであげた問題点のまさに正反対のことを主張しつづけた人たちが存在している。ただ思想の内実とその社会的機能とのあいだに、思いがけないズレが生れ、そのズレそのものが自動的に運動していくという現象が起ることも否定できない。近代主義もまたこうしたズレと無関係ではなかったのである。」

※以上日高六郎の解説。

 

P73「いま一度いうならば、それは社会関係の固定性がますます破れ、人間の交渉様式がますます多様になり、状況の変化がますます速かになり、それと同時に価値基準の固定性が失われてパースペクティヴがますます多元的となり、したがってそれら多元的価値の間に善悪軽重の判断を下すことがますます困難となり、知性の試行錯誤による活動がますます積極的に要求され、社会的価値の、権力による独占がますます分散して行く過程にほかならぬ。この大いなる無限の過程こそ文明であり、この過程を進歩として信ずること、それが福沢の先に述べたような神出鬼没ともいうべき多様な批判を根底において統一している価値意識であった。」

丸山真男。「社会関係の固定しているところに権力が集中」する社会と「人間相互の関係が一刻も固定していずに普段に流動」する社会(p72)を「理念型」とする(p73)ことを前提にする主張。なお、日高の解釈では「「近代」の理念のイメージを福沢に託して語るもの」とされる(p55)。

 

P93「わが国経済の再建が民主的方向においてなされなければならないということは、いうまでもなく、いまや一つののっぴきならぬ至上命令となっている。」

※民主的方向に向かう経済の再建とは具体的にどのような状況を言うのか。

P93「ところで、ここで私が強調したいのは、こうした経済民主化の方向を推進するところの政治的主体が十全に形づくられ得るためには人間的主体の民主的基盤が広汎にどうしても成立していなければならないということである。」

P94「もし民衆が示す人間類型が封建的、さらにいわゆるアジア的であったとして、しかも外側から強力によって民主化が強制された場合には、そこに結果として生ずるものはいわば魂の抜けた形骸に過ぎぬであろう。」

※ここで大塚は明らかに「民衆の間に近代的・民主的人間類型の形成をあまり見ることな」いこと、「外側からアンシャン・レヂームの解体と経済の近代的・民主的再建を強制されること」を問題視する(p94)。

P98「民主主義的社会秩序を作り上げかつこれを支えて行く人間的主体たる近代的民衆は、何よりもこうした個人の内面的価値を深くも自覚するところの、人間を人間として尊重するごときエートスに支えられねばならない。」

※大塚はこの議論をするにあたり「儒教道教」の議論を引っ張り、アジア的なエートスは「体面を保つ」ことに重きが置かれていることを批判している(cf.p97)。以上大塚「近代的人間類型の創出」1946。

 

P105-106「が、しかし、それはロビンソン的人間類型の単なる排斥や拒否を意味すべきではあるまい。むしろ、その生ける方面はより高い人間類型のうちに止揚されて、より高められつつ保存されねばならないとわたくしは考える。何故なら、それこそが、真の否定であり、揚棄であるからだ。だからこそ、わが国のように近代的人間類型の確定をほとんど見ない場合での経済(生産力)の正しい建設のためには、やはり、あの勤労、節約、周到、それを貫く自発的合理的な生活の組織化、また「強く」逞しい積極的な建設力、そうした内面的エートスの民衆的確立が特殊的に重要視されねばならないのではないかと思う。」

ロビンソン・クルーソー止揚的な人間像を見出す論考。大塚「ロビンソン・クルーソウの人間類型」(1947)

 

☆P114「そうではなくて、私の意図してきたところは、むしろ、そうした史実の分析を通じて、禁欲の社会的堀進作用、文化形成作用の重要さを知り、かつ、そこから、禁欲に関する一般的な経験法則とでもいうべきものを導き出そうとするにすぎない。なぜなら、日本を含めて、あらゆる国々において、一定の歴史的条件が存するばあい、禁欲は現在でも同様な強烈な作用をおよぼす可能性を依然もっていると十分に想定されるかぎり、その現象の分析基準として、そうした禁欲思想とその行動の一般的な経験法則をあらかじめ知っておくことが、どうしても大切だと考えられるからである。」

※さて、禁欲性と民主性はどう関連するのか。

P115「ところで、戦後はどうか。いわゆる百八十度の転換によって俄かに神聖視されはじめた「自由」の思想は、伝統主義的な旧体制の束縛から民衆を解放したという一面の正しさにもかかわらず、このばあい、あたかもルネサンス思想と同じように、伝統主義的束縛とともに禁欲一般を断罪し、湯水とともに赤子を流しさった嫌いがないではない。私は終戦直後このことを強く感じたのだが、その感じはいまでも強まるばかりである。そこへいわゆる経済の高度成長とともに、レジャーとか、バカンスとかのよび声に支えられて、シニカルで反禁欲的な享楽的消費の高揚が出現した。」

※ここでは戦中までは禁欲性を認めることを前提にしているが、残念ながら、これはどう見ても問題のすり替えである。保守回帰による禁欲性は免罪符になるはずがそうともとらえてないようにさえ見える。ここで非難されるのは退廃的人間と、他律的禁欲志向の人間であるが、「近代的人間類型の創出」ではただただ封建的な人間を否定していたではないか。大塚「現代日本の社会における人間的状況」(1963)

 

P210-211「後進国が、文化を異にする先進国によって征服ないし植民地化されることによって、異質の先進文化を強制された例は史上に少なくはない。しかし、明治維新後の日本のように、当時明らかに後進国ではあったが、すでに独特の、かなり高度の文化をもち、しかもそれが一般国民の中にかなり浸透していたところの民族が、独立を保ちつつ自発的に、異質の文化を摂取し、それによって自国の近代化改革をはかって、これに成功し、急速に後進性を脱却した例は、世界史上にかつて前例がないのである。ここに日本における問題の特殊性がある。」

P231「こういうのが日本における(※「伝統」の)典型的な用例であって、そこでは伝えられたものの内容はさして重要でなく、ただ「長くつづいたもの」にたいする愛着に力点がかかる。もちろん、それを簡単にセンチメンタリズムとして排斥すべきではないが、ただ何でも古いものは残しておきたいという感情をそのまま肯定し、あるいはその上に乗って利用しているだけでは、改良ないし改革ということは出てこないのである。」

桑原武夫「伝統と近代化」(1957)

 

P239「このような社会関係は、民主的=近代的な社会関係とはその原理をことにする。元来、民主的な社会関係の特質は、人がみずからの行動について自主的に判断し決定することと、その必然的な他の一面としての人間失格の相互的な尊重と、であるが、ここにはこのような原理は存在しない。いうまでもなく「権威」というものは、人間精神とその行動との自主性とはまさに反対のものである。なるほど人は、戸主や父や夫の権力や権威にみずからすすんで服従する。しかし、民主的な自主的服従というものは。抗しがたい権威に対する卑屈な服従ではない。」

P240「だからこそ、儒教的家族制度は、政治的権力による命令とくに法律によって強行されることと結びつき、かつそのことを矛盾と感じないのである。すなわち、そこでは、孝や貞は決して人間の内心の問題であるのではなく、法律によって強制されるのであり、道徳はそのまま法律である。近代的モラルによれば、親子や夫婦の関係はなによりも自発的内面的な人間精神の問題であるのだが、武士のつくったわが民法は、家族制度的な権力や権威を規定し、それを法で強制しようとしているのであるし、しかも、大正昭和になっても多くの人々はそれでもあきたらずに、もっと権威的にしようとさえ主張したのであった。」

P240「ここでは、親子や夫婦の関係は、一方的な支配と一方的な服従な関係、一方が権力のみを有し他方は義務のみを負う関係であり、両者が互いに「権利」をもち「義務」を負うという関係ではない。」

※近代的な関係性においては、「互いに平等な主体者の間の関係」とする(p240)。

 

P242-243民衆の家族生活についての説明…「家族秩序は、人の自主的精神によって媒介されるのではなく、直接に「外から」人を拘束するのである。……しかし、ここで注意されねばならぬのは、権威はここでははなはだ人情的情緒的性質をおび、だから権力が権力としてあらわれないということである。権威は一つのあたたかな人情的情緒的雰囲気のなかにあり、だから、それは同時に共同体的意識をともなっている。個々の人間の「権威」はしばしば稀薄となり、家族の全体的「秩序」のみが全体に対し「権威」をもっているにすぎぬものとなる。ここでは、かの儒教的家族におけるような、形式主義的なうやうやしい畏敬は支配しないで、くつろいだ・なれなれしい・遠慮のない雰囲気が支配し、そのなかを、そうしてそのような雰囲気に媒介されて、客観的な秩序が貫徹しているのである。……すなわち、儒教的家族制度は、外的力そのものの強制によってーーだから政治権力や法律による強制によってーー維持されうるしまた維持される必然性をもつが、ここではそのような外的力によっては秩序は維持されないし、またそのようなものによって維持される必然性もない。ここでは人情・情緒が決定的である。しかし、この家族が、同様に法律や政治権力によって強制されるのでないところの近代家族と同一の原理・同一の精神的基礎の上に立っているわけでは全くない。両者の間には決定的な差異がある。なぜかといえば、ここで家族的人情や情緒を決定するものは、人間の合理的自主的反省をゆるさぬところの盲目的な慣習や習俗であるが、近代家族においては、合理的自主的反省、「外から」規定されることなくみずからの「内から」の自律によって媒介されるところの「道徳」が支配するからである。だからここでは何びとも個人として行動することはできないし、独立な個人としての自分を意識することはできない。何びともつねに、協同体的な雰囲気につつまれ、そこに支配する客体として、みずからを意識しなければならない。」

河合隼雄の「権威がない」欧米人像は明らかにこの主張に紐付く。「すべては雰囲気のなかでなんとなくわかっており、またわかっているように思いこませるのである。」

 

P244「家族制度の生活原理は、家族の内部においてだけでなく、その外部においても、みずからを反射する。そうしてこのことによって、家族生活の非近代的=非民主的社会関係を必然ならしめる。

 このような家族生活のなかに生きている人々にとっては、家族外の社会は、「秩序」のない人間関係、本来何の必然的つながりのない関係、としてあらわれる。……そこには、近代的な、契約の自発的履行の義務意識、他人の所有権の自発的な尊重の意識はなく、ただ担保や手付けが交付されることにより義務が外国化された場合にのみ、義務履行の意識を生じ、また所有者が現実に占有している限りにおいてのみ、人はそれを尊重せざるをえぬ外部的必然性に基づき尊重する。」

※ここで指している型がどちらのものかわからない。両方を指しているつもりか。

P248「「長をとり短をすてる」ことによって家族制度の民主化がなされうると考えるのは「甘い」考えであり、ほかならぬ温存主義であり、これこそは、民主主義革命がわれわれの「内から」自主的に出てきたのでなく「外から」――悲しいかな非民主主義的にーー強力的に課せられたというわれわれの歴史的運命の所産である。」

※以上、川島武宜「日本社会の家族的構成」(1946)

 

P266「戦後の民主化の過程から生じた精神上の変化には、その後もとへひきもどそうとする力が加わったにもかかわらず、容易にもとへもどらぬものがある。もとへもどらぬものは日本人としての自覚であって、枝葉の接木としての西洋文化の輸入というようなことではない。」

加藤周一「日本文化の雑種性」(1955)。模倣的西洋感は否定されているといえる。

P358「終戦後に「科学への期待」が叫ばれたことの背後には、私はさらに第三の面があったと思う。それは、科学的精神が不十分であったために無用の戦争を始めることになってしまった、という反省である。」

※科学がなかった(軍閥が尊重しなかった)、今後の日本は科学なしにはやっていけない、というのが他の側面とみる。都留重人「科学と政治」(1952)

佐藤忠男「草の根の軍国主義」(2007)

 今回は日本人論の議論の一環で佐藤忠男を取り上げたい。

 本書の中心的な議論は日本人の心性における「忠臣蔵」の影響力についてである。これは「忠臣蔵-意地の系譜」(1976)という著書でも基本的に同じ議論をしているので、適宜そちらも取り上げながら佐藤の日本人論を検討してみるが、本書でも「日本人にとっての聖書」とさえ述べる位重要性をもったものと認識している(p224)。

 1930年生まれの佐藤の問いというのは、あれほど戦時期に「鬼畜米英」などという言葉で対抗的であったアメリカに対し、何故敗戦するとまるで何もなかったかのように振舞えたのかというものであった(cf.p164-165)。これは、戦時期に学校教育を受け、優等生的な軍国少年であろうとした佐藤自身の実感としてもあったものであり、自身に対する問いでもある。

 この問いに対して、佐藤は映画における欧米との比較を起点に議論する。その特徴の一つはp152にあるように、日本の戦時中の映画が「反戦映画」にさえ見えるほど、戦意昂揚映画には見えないことである。この視点はピーター・ハーイのレビューでも見たように、「他者認識」に関する議論とリンクしてくる内容であるが、別の著書では次のような指摘もされ、日本では「人を殺していいのか」といった視点から描かれた映画が終戦直後までは皆無だったとする。

 

「戦争とは、まず、人を殺すことである。敵はむざむざ殺されはせず、逆にこちらを殺そうとするから、結果としてこちらが死ぬ可能性も大きいわけだが、戦争をする目的は人を殺すことであって、自分が死ぬことではない。ところが日本の戦争映画では、戦争中の戦意昂揚映画はもちろん、戦後につくられた反戦的な作品でさえも、自分がいかにして死ぬ覚悟を得られるか、また自分を死地に追いやる者をいかに憎むかということしか問題にしていない。人を殺していいのか、自分には人を殺すことができるのか、ということがテーマになることはかつてないのである。」(佐藤「日本映画と日本文化」1987,p111)

 

 そしてもう一つが、「忠臣蔵」的心性とも総称される、一種の「意地」によるものである。「忠臣蔵」的心性は古くから日本で支持され続けた考え方であり、その発想は部分的には他国から「奇妙」に映る部分であるとされる。

 さて、この「忠臣蔵」的心性とはいったい何を指しているのか。これは必ずしも佐藤の中で明確に定義づけられているものと言い難いが、概ね互いに関連付けられた3つの視点から述べられていると捉えることができる。

 

①(自)死の美化

 「忠臣蔵」では討入りしたことに伴う切腹処分というシナリオが赤穂浪士の「義」を示すものとして美化され、「死」の正当性を「忠臣蔵」と同じように正当化することと結びつけられたことを佐藤は指摘する。P252-253では集団自決を美化する日本人の特殊性を指摘するが、「忠臣蔵」以降の物語群の中で繰り返し同様の美学が語られ、それは佐藤が中心的に映画評論に関わった戦中期にまで及んでいた。

 

「維新の戦争にも、太平洋戦争にも、ただみじめなだけの死に方をした戦死者のほうが圧倒的に多いわけであるが、白虎隊や特攻隊の死に方が死者の代表として語り継がれ、他は我々に忘れられてゆく。白虎隊だって、特攻隊だって、よくよく考えればみじめなものだと思うのだが、なにしろわれわれは、「忠臣蔵」いらい、儀式化された切腹をショーとして美化してきたので、集団的な自殺というものを崇高な情感のあふるるものとしてイメージする、そのイメージの仕方を心得きっているのである。」(佐藤1976,p206-207)

 

二・二六事件の起った一九三〇年代の日本は、満州事変とそれに次ぐ国際社会での孤立化のなかで、帝国主義的列強諸国から包囲されて国際的な意地悪を受けているという意識を強く抱いていた。国民のなかの国家主義的な感情としては、この意地悪に対して意地を張ることを軍に期待していた。……浅野が切腹して一年九カ月後に四十七士が吉良邸に討入ったように、二・二六事件が起ってから一年五カ月後に日本軍は中国軍と本格的な戦争状態に入る。皇道派青年将校たちは、処刑されたときには統制派の上官たちをこそ憎んでいた。しかし国家主義的な国民感情としては、青年将校たちは中国との戦いでこそ死にたかったはずだ、と察し、日本軍が中国を攻撃したことで、死んだ彼らの靈もなぐさめられているはずだ、というふうに感じていたはずである。この点も「忠臣蔵」的である。」(佐藤1976,p170-171)

 

②「意地」の正当化

 佐藤が最も「忠臣蔵」的心性の議論で重きを置くのがこの「意地」についてである。この意地については決して「日本人論的」に語られるべきではないという留保を佐藤自身つけている(佐藤1976,P227)。これに関連して、佐藤が小中学生などを対象に書いたと思われる「戦争はなぜ起こるか」(2001)では、特殊日本的な語りはほぼ皆無であり、一般的な視点から、不当な支配を受けている他国の「解放」や、将軍の「意地」により戦争が継続してしまうことといったことから戦争が起こる理由と継続する理由を説明している。

 

「日本が中国を侵略しているとき、日本人自身はそれを侵略だと思わず、アジアを解放しているのだと思った、と前に書いた。そういう勝手な思い込みは、日本人に限らずしばしば起こることである。」(佐藤2001,p64)

「これで分かるように、外国にたくさんの軍隊を送ってしまった国が、それをひきあげるのは、たいへんむずかしいことである。しかし、将軍たちは軍人としての名誉が丸つぶれになるからひきあげたがらなくても、政治家がはっきりと命令を下してひきあげさせれば、まったくできないということではないはずである。」(佐藤2001,p76)

 

 本書ではp164-165でこの意地に触れられているが、この意地を正当化することを「忠臣蔵」の物語群は支持し、それが日本人の心性にも生きていることを佐藤は指摘するのである。

 

「突飛な連想のようだが、太平洋戦争の開戦も、日本人の心理のなかでは「忠臣蔵」ふうの過程をたどった。われわれは、われわれのほうで中国に対して徹底的な意地悪をしていることなど念頭になく、ただただ、アメリカ、イギリス、オランダなどから、意地悪のかぎりをつくされていると感じていた。浅野内匠頭や早野勘平に相当するのは、日清、日露、そして日中戦争ですでに死んでいる何十万という英霊たちであり、その英霊たちをなぐさめるためには、国民は要するに、堀部安兵衛武林唯七のように勇気をふるいおこせばいいのだ、と思っていた。……真珠湾攻撃はまさに討入りであった。」(佐藤1976,p94)

 

③「大衆」による美化の再生産

 佐藤の議論で注目したい点の一つは、この「忠臣蔵」的心性の形成における「大衆」の役割である。ここでいう「大衆」というのは正確な定義が難しい所だが、簡単に言えば、「メディア」と同義でもよいかもしれない。事件以降の芝居や読物、そして戦時期には映画にもその議論を正当化するものとして語られた。

 これは単なる物語の作り手側の問題ではなく、受け手側の「大衆」側の問題としても強いと佐藤はみている。本書で言えば、「爆弾三勇士」の美化も権力側ではなく、むしろ大衆側からさかんに賛美の対象とされたことを指摘しているが(p102)、これもまた「忠臣蔵」と同じように、大衆側からこの事件が解釈・単純化され、それを模範的なものとして再生産していった事実を佐藤は強調したいのである。

 

「彼ら(※当事者)に代って、これが敵討ちであると主張したのは世論である。そしてさらに、浅野の死に吉良が責任があるという話をたくさんつくり出して、その世論が論理的に一貫しているものであるかのように体裁をととのえたのは、まさに後世の歌舞伎作者たちであり講釈師たちであり小説家たちである。敵討ちとしての大義名分が成り立つかどうか疑わしいケースを、世論が強引に敵討ちにしてしまったのである。」(佐藤1976,p10-11)

 

○「意地」と日本の「近代観」について…「他者理解」との関連可能性について

 さて、この「忠臣蔵」的心性との関連で議論したいのが、日本的な「近代観」である。というのも、侵略戦争の正当化ということ自体が「近代の超克」といった言葉などによって欧米を乗り越えるための「意地」の産物であるように読み取れるからである。

 この議論を展開するのに先立ち、佐藤の2つの指摘から考えてみたい。一つは、p152で語られるような他者認識の欠落の議論についてで、もう一つはp143で語られている「敵国の捕虜となった場合、自分の家族が迫害される」という状況の背景をどう考えるかという点である。

 

 まず前者についてであるが、これは日本が『屈折した近代観』を持っていた事実と関連付けると腑に落ちる部分も多いことがわかる。佐藤はこれについてヨーロッパ人などは親類同士という意識があることとの関連性も指摘する(佐藤1987,p113)。これは島国日本が「外国人」と接する機会が少ないから他者感覚に乏しい、という議論にも似た所があり、部分的には間違えていないようにも思える。しかし、日本人の閉鎖性などの議論により他者認識が欠落したという見方で日本の戦争映画における特異な状況を説明し尽してよいかと言われると、私には疑問な点もある。

 そこで考えられるのが日本における『屈折した近代観』である。そもそも日本は欧米に対する対抗心を対外的戦争における正義として位置付けた。これは欧米的帝国主義(侵略的な立場)や個人主義的心性に対する対抗心として現れたものであった。ということは、そもそも日本においては「侵略」は表面上はタブー視されたのは当然であろう。キャプラなどが日本の映画を「反戦映画」としてみたのは、文字通り日本において「反侵略映画」が描かれることを求められていたからではないのか?

 そして、侵略を前提としない、戦意を高める映画として、侵略される「他者」に注目した内容ではなく、「自己」の心理に徹底的に注目した形で戦争を描く、という選択肢しか、日本には形式的にはなかったのではなかろうか?但し、これを考えるにあたっては、「鬼畜米英」や「暴支膺懲」といった言葉をどう考えるべきかという議論が重要になってくる。これらは明らかに(具体的でないかもしれないが)「他者」に対する言葉であり、「自己」に向かう映画の議論と噛み合わないようにも見えるからである。佐藤的な回答としてはこれもまた「意地」の産物ということになるのであろうか?まさに『屈折した近代観』に反する米英や中国は懲らしめられる対象でなければならない、という意識の強さ(=意地)が排他的言説を生んだが、これを戦後は驚くほど対抗的でなくなったという事実からすれば、非難の対象は具体的他者なのではなく、何か抽象的な、そして漠然としたものであったのかもしれない(※1)。

 

 さて、もう一つの論点である「捕虜の家族迫害」の関連性について考察してみたい。これも閉鎖的なコミュニティと「草の根の軍国主義」が生んだ排他的行動の現れとして見れば理解可能なようにも思える。少なくとも、このような排他的態度を行う者の側は、敵国の捕虜になってしまうことを大変惨めなこと、ないし「反忠臣蔵」的な態度として捉え、それを何故か家族にまで責任転嫁してしまう、という愚行を行うことをどう考えるべきか。本書からはとっかかりがないものの、別著で次のような指摘を佐藤が行っていることから考えてみたい。佐藤は「判官びいき」について次のような指摘を行っている。

 

判官びいきという心理が日本人にあるのは事実だが、それは敗者一般や弱者一般に同情するというヒューマニズムの一種なのでは必ずしもないように思われる。……しかし、判官びいきというのは、それよりももっと、御霊信仰的な性格に近いものなのではないか。つまり、たんなる敗者なら軽蔑するだけだが、死んで悲憤の荒魂と化したと想像されれば尊重するのである。

 こういう心理は、敗者に味方するヒューマニズムというより、むしろ、権威崇拝の行きすぎにある程度ブレーキをかける一種の自動制御装置というべきものであるように思われる。勝者は尊敬されるべきであり、人民は勝者に服従すべきである。敗者は軽蔑されて仕方がない。が、しかし、勝者といえども敗者に対して勝手ほうだいになにをやってもいいというわけではない。殴ったり犯したり、ツバを吐きかけたり、人格的な侮辱ぐらいはどうやらかまわないらしい。しかし、虐殺だけはいけないのである。不当に抹殺されると、それは荒魂となって害をなすおそれが生じるのである。かつて日本人は、勝者に追従しながら、しかし、勝手に追従しすぎて彼らに無限の力を与えることの危険を制御するために、そういう信仰の歯止めをかけようとしたのではなかろうか。勝者はおおいに威張るがよい。が、しかし、威張りすぎて自分に歯向う者を虐殺するようなことがあると、そのときは人民の同上は虐殺された者に集り、為政者といえども不信の眼で見守られることになるぞ、と。」(佐藤1976,p120-121)

 

 この判官びいきの心理について、村八分の制度にも類似のことが言えるとしている(佐藤1976,p122)が、捕虜の家族の迫害は、基本的に村八分的なものに近しいように思える。これは結局、①「忠臣蔵」的心性を持つことが当時の大衆にとって遵守されねばならないことであったこと②捕虜となる行為自体が「忠臣蔵」的心性に真っ向から対立すること③規範に反した者の家族は捕虜同様の「違反者」であり、排他的態度が正当化されること、という順での解釈を行う他はないだろう。少なくとも、佐藤はこのようなメカニズムの発生を明確にではないが抱いていたのではなかろうかと思う。

 そして、このような制度にはヒューマニズムが介している訳ではなく、権威の発動をよりソフトなものにするための原理として用いられているという点も無視できない。結局この議論も「他者理解」をもとにしている訳であると言えない、ということでもある。

 さて、このような理解だと「捕虜の家族迫害」は『屈折した近代』観とはあまり関係がなく、むしろ近代以前の日本の慣習との関連性の方が強いように思えてくる。この事実がある可能性は否定しないが、映画でこのような「捕虜の家族迫害」が語られた理由として、当時の実態が反映されたからではなく、(実態を伴わない)言説が流布していた可能性は別に存在する。ジョン・ダワーは捕虜の家族迫害に関連して、捕虜に関する議論について次のように指摘する。

 

「かなりの人数の日本兵が捕虜になった場合もあるにはあったが、たしかにジャングルや太平洋諸島での戦いにおいては、日本兵の大部分は、殺されるまで戦うか、あるいは自ら命を絶った。それには多くの理由があった。その大きなものは、天皇および国のために自らを犠牲にせよという教えと、降伏はするなという上官の命令であった。日本人は、この戦いは鬼のような敵に対する聖戦であると教えられ、そして実際多くの者が崇高な目的のために命を捧げると信じて死んでいった。そうした姿は、敵側から見れば「狂犬」であったが、彼ら自身からすれば神聖なる献身であり、また日本国民の目からすれば英雄であった。集団心理や集団逆上は、たしかにこうした死を煽り、バンザイ突撃に一種の陶酔感さえ与える一因であったが、同様に、使命、栄誉、従順という日本の風土に深く根ざした要素も、その一翼をになった。すなわち、日本兵は、ただ国や支配者がそうしろというから命を捨てたのである。またある者は、自分が降伏すれば家族が村八分になると信じて、最後まで戦った。

 しかし見過ごされやすいのは、他の方法がなくて見絶えた日本兵が数えきれないほど多い、という事実である。一九四五年六月付の報告書の中で、戦時情報局は、尋問を受けた日本兵捕虜の八四パーセントが、捕虜になったら殺されるか拷問にかけられると思っていたと述べた、と記録している。情報局の分析家たちはこれを典型的なものと称し、「武士道」よりも降参したあとに起こることへの恐れこそが、戦場で追いつめられた日本兵たちが死を選ぶ大きな動機であるとしている。そしてそれは、他の二つの大きな要因に匹敵するもの、あるいはたぶんそれらを超える要素であろうとしている。その他の二つとは、家名を傷つけることへの恐れと、「国、祖先、神である天皇のために死にたいという積極的な願望」である。一方、たとえ投降の意思があったとしても、それは容易なことではなかった。たとえば、終戦直後に戦時情報局用に作成された概要報告書を見ると、日本人捕虜に関する書類には、降伏を試みて、しかも撃ち殺されないためにはどうしたらいいかに関して、捕虜たちが知恵をしぼった話がたくさん記載されている。すなわち、これは連合軍側が「捕虜をとることに難色を示したために、降伏が実際に難しい状況にあった」ことを示すものである。

 アメリカの分析家たち自身認めたように、こうした日本側の恐れは決して不合理なものではなかった。戦場では、連合軍兵士も司令官も多数の捕虜を望まない場合が多かった。これは決して公式の政策ではなく、場所によっては例外もあったが、アジアの戦場においてはほとんど常態であった。」(ジョン・W・ダワー「人種偏見」1986=1987、p86)

 

 ジョン・ダワーの場合、降参の拒否というのは、「意地」に代表される忠臣蔵的日本人論的解釈というよりも、「降参したあとの恐れ」がそれを上回るものだったという見方をしている。これは、「忠臣蔵」的なイメージは確かに存在し、戦場で戦う日本人の制約となっていたのも確かであるものの、それ以上に「自死」が迫られる状況にあったことが重要な要因だったということである。また、このダワーの指摘からは「捕虜の家族迫害」は一つの有力な言説として成立していたことも注目すべき所だろう。

 類似の指摘がヘレン・ミアーズによってもなされている。むしろダワーの議論は、ヘレン・ミアーズの指摘に基づく部分も大きいものと想定される。

 

「それに、日本兵の多くは農村出身者だった。神道には多くの農耕儀礼が含まれている。彼らの心に深く根を下ろす郷土愛が、彼らの愛国心をより強いものにしていた。日本兵はよく訓練され、質素でスパルタ的生活に耐えるよう鍛えられていた。彼らは任務を果たした。しかし、戦場からの報道を読んでも、日本兵が「戦うのが好きだから」、あるいは「戦死は崇高な運命」と思っているから、あるいは「天皇のために死にたいというファナティックな願望」から、あるいは勝利を確信して、圧倒的に優勢な敵に立ち向かったことを裏づけるものは何も見出せないだろう。

 もちろん、ファナティックな蛮勇の表われと思われるような「撃ちてしやまん」型の戦闘はあった。しかし、それはほとんどの場合、カミカゼ特攻隊員、人間魚雷で単独で乗りこむ乗員、選り抜きの攻撃隊員だった。カミカゼパイロットはほとんどが大学生だった。彼らは熱烈な愛国主義者であり西洋嫌いであった。なぜなら、昔から白人はアジア人を劣等人種と考え、人が見ていないところでは、実際に劣等人種として扱っていると彼らは思っていたからだ。

 自ら溺死したり、圧倒的に優勢な敵に無益な攻撃をかけるという集団自決行為は、明らかにヒステリーと絶望の結果である。こうした集団自決の動機は、多くの場合、降伏したらどのような扱いを受けるかわからないという恐怖だった、と信じるに足る明白な証拠がある。日本のプロパガンダは、私たちと同じように敵である私たちの野蛮さと残虐さを強調していた。アメリカ人を野蛮で残虐な人種として描くプロパガンダに対して、私たちが一人でも多くの日本人を殺すことで応えたことは、きわめて重要だ。一方、日本人は自分たちを殺すことで応えたのだった。

 戦争の初期の段階では、捕虜の数はきわめて少なかった。これは一面では、拷問と虐待を恐れる日本兵がかなりの数にのぼり、捕虜になるより自殺を選んだためであり、また一面では、全体として、捕虜にしないという私たちの方針によるものだ。こういう方針がなぜ許されたかというと、日本人捕虜は危険であることがわかっていたからだという。日本人捕虜が自分を人間爆弾にして、捕らえたものを巻き添えに自爆することが何回かあったというのだ。」(ヘレン・ミアーズ「アメリカの鏡・日本」1948=1995、p124-125)

 

 ミアーズの議論で注目すべきは、日本人が影響を受けていたプロパガンダである「残虐さ」である。私などは、この「残虐さ」の認識に『屈折した近代』の見方が関連しているように見えてならない。結局、自らの「近代の超克」を実現するにあたり帝国主義的近代観を単純化してしまう中でこのような「残虐性」といったプロパガンダも「近代」の象徴として強調されやすくなり、その悪影響を受けてしまっていたという言い方もできるのではないかと思う。

 この見方は佐藤の「草の根の軍国主義」的発想とは対立する議論であろう。佐藤は実際にそのような迫害があった根拠として「捕虜の家族迫害」を論じたが、私がここで指摘するのはむしろ言説化した「捕虜の家族迫害」であり、そのような言説が映画に影響を与えた可能性と、戦場で「自死」した者の動機が「捕虜の家族迫害」という言説にも回収される可能性であり、その言説はそもそも『屈折した近代』を経由している可能性があるということである。

 

 以上のような議論を前提とした場合、本書を読む上で特に注意すべきは、p47-48で語られるような「アジアの侵略」に関する内容である。正直な所、佐藤が引用した映画の内容からは「侵略を積極的に推進する」だけの文言に出くわすことはない。にも関わらずそのように見えてしまうのも、『屈折した近代』観によりアジアが自らの領土であることを「前提」にしてしまった映画の内容となってしまっているからである。ここで重要なのは当時の日本が「侵略」を意識していたどうかという議論ではない。むしろ重要なのは、そのような積極的な「意思」がなくても、「侵略」に代表されるような他者への侵害行為を行うことが可能であるという事実である。そして、その要因となっているのが「意地」であるという点である。合わせて、『屈折した近代』が「日本人論」を増幅させるような議論が、戦時中において多分に存在していたということも確認できるだろう。本書を評価すべき点はここにあると考える。

 

※1 もっともこれは「意地」といった系譜を引き継いでいない、単なるプロパガンダ以上の意味はなかったという見方も行えるだろう。安岡章太郎の回想として次のような話があるようである。

「戦時体制下であっても、国民を戸惑わせたのは「鬼畜米英」の政治プロパガンダである。昭和戦前期をとおして形成された親米感情は、途絶えることなく、日本社会の底流として存在しつづけた。

 以下は作家の安岡章太郎の回想である。「『鬼畜米英』という言葉は、軍事や右翼イデオローグたちの造語にすぎないだろう。戦時中、どこかの奥さんが、捕虜になった米兵を見て『お可哀いそうに』と言ったので軍人たちが憤慨したというエピソードがあるくらいで、一般の日本人には、アメリカ人を鬼畜として憎む気持ちはなかったのではないか。/戦前から私たちは、むしろアメリカ文化に対する羨望の気持の方が強かった」。」(井上寿一「戦前昭和の社会」2014,p227)

 もっとも、本書で自身の幼少時代を懐古し、丁寧に如何なる「軍国少年」であったかを語る佐藤から見れば、明らかに「意地」が自身の実感としてあったため、このような単なる言説上の問題ではありえなかったのだろう。

 

 

<読書ノート>

P47-48「この映画は一方で西洋列強の侵略からアジアを解放することは「日本の使命」だと恰好よく謳いあげながら、他方、じつは日本自体も貧乏でニッチもサッチもゆかないのだからアジアの侵略だってやるという本音も、けっこうあからさまに表に出しています。そこが迫力のあるところです。」

※1934年頃製作されたとされる「一九三六年」の説明。全編の引用があるものの(p35-45)、この言い方は適切に見えない。P37で南洋および満州が「日本の生命線」とされ、p44と農村疲弊と都市の頽落が語られる。直接な侵略の正当性は語られることなく、欧米に奪われる可能性についてそれを断固拒否すべきという論法を展開している。

 

P59「明治十五年の「幼学綱要」から明治二十三年の教育勅語までの間に、忠と孝の徳目の位階序列に逆転が生じています。」

P59-60「江戸時代の庶民教育の権威である石川謙によれば、江戸時代の寺子屋で用いられた教材の中に忠という観念が現れてくるのは江戸時代も半ばを過ぎてからだそうです。明治以前あるいは江戸時代以前の古い時代というと、われわれは殆んど小説や映画やテレビドラマなどの物語を情報源として知っているわけですが、人気のある物語類の大部分は侍を主人公にしたものです。そして侍にとってはいちばん大事な徳目は忠義なので、つい、忠こそは昔の日本人の最高の徳目、と思い込みがちなのですが、じつは江戸時代まで、一般庶民にとってはそうではなかった。農民や漁民にとっては、せいぜい寺子屋でこの字を習うことがある程度だったようで、あまり実感のともなうものではなかったようです。

 なぜなら、農民は領主に年貢を納めるだけで、直接には領主の臣下ではなかったからです。地主や村役人に対しても、その家に奉公するのでないかぎり、その家来だったわけではありません。」

P60「いっぽう、孝のほうは、観念としては中国の儒教から来ているものですが、寺子屋儒教道徳の一部として教わるまでもなく、家庭生活の自然のあり方に根ざした観念として古くから農民は身につけていたはずです。」

P61「ごく大雑把に言って、忠は侍のモラルの基本、孝は農民のモラルの基本、両者のモラルははっきりしていてアイマイなところはありません。」

※「農民のモラルこそが社会の基盤」であったといえるし(p62)、これが、明治新政府の課題ともなったとする。

 

P102「その慎重さからすると、やはり、前述したような逃げ遅れやミスや事故ではなかったかという疑問点とそれに関連する噂は相当な障害だったようです。教科書に載せろ、という運動がいくつかあったにもかかわらず、それが実現したのは太平洋戦争になってから、戦争の話をとくにたくさん載せるように改訂したときです。陸軍のほうも、日露戦争のヒーローである海軍の広瀬中佐や陸軍の橘大隊長のことは軍神と呼んだのに、爆弾三勇士はあくまで勇士であって軍神の呼称はついに用いませんでした。将校のエリートなら軍神と呼んでもいいが、下層の兵卒にはいかがなものか、という差別的なためらいがあったようです。

 これらを考え合わせますと、軍も政府も三勇士を愛国心教育の絶好の材料として利用したことは確かですが、熱意の点では新聞と国民大衆のほうが先行して燃えていたと思います。」

※少々教科書の話は無理矢理な感がある。この話に関係なく、そもそも国定教科書の改訂はそう簡単にできなかっただろう。

P103「三勇士の記事が出たのは二月二十四日ですが、翌三月にはじつに七本もの「爆弾三勇士」ものの映画が作られて公開されました。いくら当時、即席で作られる映画が多かったにしてもこれは異常です。じじつ外国映画の戦闘場面などをつなぎ合わせた中に若干の三勇士の場面を演出して入れ込んだというような粗末なものが多かったのですが、それがみんな大入りになって社会現象化しました。」

P104「私はものごころついた頃にはすでにそのブームは過ぎていたわけですが、それも折にふれ、絵として歌として語られていましたし、特別な精神教育など受けていない名もなき庶民でもこんな崇高な行動ができる、それが日本人の、日本人ならではの凄いところだというふうに雑誌や本で述べられていました。」

 

P140-141「一般的に言って日本兵は確かに勇敢に戦った。捕虜になることより戦死するほうを選んだ。「戦陣訓」発布以前からそうだった。そのことを日本兵たちの国家や天皇への忠誠心の高さのためだったと考えてもいいし、民族主義がとくに強かったからだと言ってもいい。しかしそんな颯爽として勇ましくさえある動機には要約しきれない心情もそこにあったと思います。むしろ捕虜になどなったら郷里の家族が迫害を受ける、という暗黙の認識がそうさせたのだと考えるほうが私には分りやすい。」

P143「映画「足摺岬」で見た、兄が捕虜になったために故郷の村で居たたまれないような迫害を受けて東京に出てきているという、あまりくわしく描かれているわけでもない薄幸の姉弟の小さなエピソードひとつを根拠にして、旧大日本帝国軍隊の士気を論じるというのはかなり無茶なことかもしれません。

 私はあの映画の姉弟に涙しましたが、それが日本の社会には一般的に言えることだと主張できるだけのなにか客観的な数字などのデータを持っているわけではありません。しかし私は、この議論の進め方をさらに拡大して、近隣の人々が捕虜の家族を迫害するような心性を、かつて日本の社会には確実に根を張っていた〈草の根の軍国主義〉であると言いたい気持を抑えきれません。」

 

P147-148「太平洋戦争の最中に、アメリカでは学者や映画人たちを動員して日本映画の研究をやっていました。日本人というやつは自分たちの常識からかけ離れた連中であって、どう扱ったらいいのか分らない。日本人の取り扱い方を知るためにも日本人の国民性について知らなければならない。それには日本映画を見て分析研究するのがいいかもしれない。アメリカにはハワイやロスアンゼルスのように日本人がたくさん住んでいる地域があり、そこには日本映画専門の映画館もあって、映画も手に入るから、ということで、文化人類学者のルース・ベネディクトや、ハリウッドの有名な監督で政府の要請を受けて戦争遂行のための宣伝映画を作る任務についていたフランク・キャプラなどがそれに参加していました。」

P152「というのは、ルース・ベネディクトは「菊と刀」で、前述した日本映画の研究会で見た日本の戦争プロパガンダ映画について、大要つぎのような見解を述べていたからです。

それらの日本の戦争映画は日本軍の強さとか正義といったものをあまり強調していない。敵を憎まなければならない理由もあまり描かない。ただただ描かれているのは、あまり強そうでもない見るからに善良そうな兵士たちが、苦しい戦場にひたすら黙々と耐えている姿ばかりである。フランク・キャプラに言わせれば、これらは戦意昂揚映画であるどころか反戦映画だという。」

 

P164-165「私にはやはり、敗戦の前の日本についにひとつも戦争反対の暴動が起らなかったこととおなじくらい、敗戦直後のアメリカ軍の占領下におかれた時代に、どうやらひとつも反米テロが生じなかったことが、いまだに不思議に感じられます。繰り返し言うが、いったいわれわれ日本人は本当にアメリカを憎んでいたのか。じつは憎んでなどはいなかった。中国人も憎んではいなかった。ただ、中国人や朝鮮人に対してはひどい差別意識を持っていた。戦争というのはいつも中国大陸でするものだと思っていましたし、そこは日本軍が自由に動きまわってかまわない場だと思っていて、抵抗する奴はこらしめてやればいうのだと思っていた。それをアメリカに止められたとき、われわれは逆上しました。アメリカに戦争をいどんだのは、中国人や朝鮮人を軽蔑することでやっと手に入れた世界の一等国民という自惚れをとりあげられようとしたことへの愚かな意地だった。」

※後半の主張は正しいのか??

P170-171「検閲が厳しくて戦争に批判的な記事は載せることができなかったと戦後になると言われて、事実そうだったことは間違いないんだけど、しかしそれにしては、じつにもう、とても冷静な頭で書いたとは思えない記事ばかりでした。熱狂的な軍国主義者でないと書けないような記事で紙面が埋めつくされているのが当時の新聞だったことは強調してもし足りないと思います。たぶんそういう酔っぱらったような記事でいっぱいの新聞がよく読まれて、冷静な新聞はあったとしても売れなかったのではないか。読者がそうだから新聞のほうもそうなった、と言って言えないこともない。」

 

P209「こうして冷笑をあびながらも東京裁判での東条は持ち前の敢闘精神を発揮してよく検事と渡り合っています。日本の侵略戦争をすべて正当化するその論理は間違っていますが、責任はすべて自分にあるとして他の被告をかばい、とくに天皇をかばいぬきました。最初から死刑は覚悟のうえであり、ドイツのゲーリングニュールンベルグ裁判で死刑の判決を受けたうえで自殺したことを知って、自分はそんな卑怯なことはしないと言っています。」

P224「「忠臣蔵」が巨大な物語群となって日本人に浸透すると、日本人はどうも、この物語の信仰の型というのが身についてしまって、その型に合わせて現実を解釈することがクセになってしまったようです。西洋人は聖書の物語の型に合わせて現実の歴史を解釈することがあるでしょう。「忠臣蔵」が日本人にとっての聖書か、というと、違うような気もしますが、当っているところもあるのではないでしょうか。」

 

P245暴支膺懲…「なんでも中国は日本をあなどって手向ばかりするからこらしめてやらなければならない、という意味」で新聞やラジオがしきりに言っていた言葉

P252-253「日本人としてこの映画(※中国映画の「晩鐘」)見ていると、日本人は集団自殺したがる不思議な民族だ、というこの映画の大前提をのみ込んでいないから、はじめはちょっととまどいます。私たちは確かに、四十六人の侍が同じ日に腹を切って果てる「忠臣蔵」のラストにある種の崇高美を感じたり、可憐な少年たちが何十人も炎上する城を遠くに望みながら自決してゆく白虎隊の物語を、明治維新の国内戦の敵味方の争いを昇華するイメージとして大事にしている。だから集団自決を美化する独特の美意識があると言えるのですが、敗戦のときにはそれがさまざまな悲惨な出来事を生みました。中国でもそういうことがあったのでしょう。そしてそれは中国人の目には、奇異で憐れな習性に見えたに違いない。

 日本人が当然のこととして崇高美を感じるところに、中国人は奇異で憐れなものを感じる。この食い違いを知ることこそが私には外国映画を見るいちばんの興味です。」

P254「日本では輝ける知的エリート集団として伝説的に語り伝えられている旧制の第一高等学校の寮の伝統に〈鉄拳制裁〉なるものがあったそうで、学校の名誉を汚した者の頭を殴ることが〈愛の鞭〉であると知的エリートも思い、民衆もこれに毒されていた。それが日本兵対アジアの民衆というレベルでは耐え難い人格的侮辱と受け止められ、日本人のレベルの低さを示すものと見られていた。アジアの映画を見るとそんなことも分かります。」

藤田英典「市民社会と教育」(2000)

 以前黒崎勲のレビューで藤田英典の議論に触れたが、今回はその続きである。本書と黒崎「学校選択と学校参加」(1994)を中心に検討していくが、この両書を読んでみていわゆる学校選択制をめぐる「藤田-黒崎論争」の見方も少し変わった所があった点があったため、そこにも触れてみたい。本書に着目したのは、黒崎が藤田の議論に対し「改善策がない」ことを批判した(黒崎2000,p147)のに対し、本書が比較的具体的な議論に踏み込んだものであったからであった。

 

 黒崎のレビューでは80年代以降の日本人論の「改善要求」言説について検討するため、「1実態をどう捉えているか」「2その実態の何が問題か」「3その問題を改善するためにどのような方法により解決するのか」の問いのセットである『改善言説の枠組み』をもとに検討を行おうとした。まず黒崎は実態として官僚制が幅をきかせている状況自体が問題であると捉え、学校選択制のような「親の選択の自由が、学校を解放し、専門家教職員の責任を直接に問いかけるインパクトをもつことになるのは明らか」とする(黒崎「教育の政治経済学」2000,p137)。黒崎(1994)ではもう少し具体的に議論を行う。特に注目すべきは、この官僚制を「民主主義的制度の帰結」と捉えている点である(cf,黒崎1994,p46など)。一見民主主義的制度はそれ自体民意が反映されるのだから何ら問題ないと考えられるが通常であった(そして、藤田も支持する「国民の教育権論」も当然これを前提としていた)が、黒崎はアメリカの学校選択制論者であるチャプとモーの実証研究を引用しながら、民主主義的な制度は「公的、行政的に要請される詳細な規定があらゆる方面から課せられるようになり、実際に学校が自由に活動しうる余地というものはきわめて狭いものとなっている」と述べる(黒崎1994,p46)。結局黒崎は明確な民主的決定を行う場合、この決定手続きを整備する必要があり、その手続き自体が運用の中で精密化されることが求められるのが避けられないため、学校選択制のようなこの原理とは異なる観点からの制度を導入することにより「自由」を確保する必要性を主張しているのである。

 

 一方で、藤田は黒崎のような問題の立て方をしていない。まずもって藤田は「何が問題か」という内容について具体的に①いわゆる教育病理の問題②有能な人材を育むための「教育」の質の問題③教師の自律性・専門性の確保の問題といった問題系を分けて考えている。これは、黒崎の問題の発端が「(保護者の)公教育の不信」であるため、具体的な問題系に触れずに議論を行っていることと対照的である。そして、藤田はそれぞれの問題について、個別の解決策を見出そうとする。特に①の問題については、諸外国と比べ日本は大した問題を抱えていないこと、黒崎のいう「公教育の不信」についても大きな問題とみておらず、むしろ事実に背いた「ウワサ」以上のものではないとして軽視しているのは明らかである。②については、特に一般教養の重要性について強調しており、個性を生かした教育については、義務教育段階や高校よりも大学で行われるべきだとし、大学教育の改善をむしろ強調する。そして③については、教師の自律性を強調し、統制的な教育委員会制度に対しても改善を求めている。これら3つの視点は両者で大きく異なっているため、具体的に触れていこう。

 

①教育病理の議論について

 この教育病理の議論については、どうしても「日本人論」との関連性に触れないわけにはいかない。これは前回も指摘したように、「改善要求的」なものとなった日本人論は一連の教育改革と連動しており、その背景として持ち出されたのが「教育病理」であったからである。70年代までの教育病理問題は、むしろマルクス主義的な教育論者によって教育病理を資本主義固有の問題として強調し非難した所であったが、その枠組みを80年代の新自由主義的教育政策は引継ぎ、日本人論の改善要求言説として語られることとなった経過はすでに過去のレビューで検討を行ってきた所でもある。

 そして一つはっきり言えるのは、藤田の日本人論は相当に歪んでいるという点である。藤田の議論は確かに改善要求ありきのネオリベ言説から距離を取ろうとするものの、「社会問題に毒されている」がゆえに、事実を歪め、日本人論を根拠なく擁護することとなってしまっている。二つ例を挙げよう。
 一つは、「学校での少年事件」の日米比較においてみられる視点である。ここで取り上げられているのは、黒磯で起きた中学生の教師へのナイフ刺殺事件(1998年1月28日)と、デンバーの高校で起こった銃乱射事件である(日本時間1999年4月21日、p28)。藤田はこれに対し日本のマスコミや政策担当者はアメリカを色眼鏡で見てしまっており、かつ日本の教育に対しても色眼鏡で見てしまっていることを非難している。しかし、この主張自体は正しいものなのだろうか?結論からいえば、藤田のこの主張は、根拠のない思い込みでしかない。これは当時の実際の新聞記事を読めば明らかである。

 まず、日本のマスコミで黒磯のナイフ殺人について、「学校教育の問題」としたとする点が誤りである。読売、毎日、朝日の主要3紙で総じて主張されているのは、「大人対子ども」という対立軸において、これを「大人の問題」ないしは「親の問題」であるとし、決して学校教育の問題ありきで語ったわけではなかった。

 

「背景には、自己抑制力や忍耐力の不足がある。……これらは、幼児期からの生身の人間のやり取りや、家事の手伝いなどを含む生活体験の中で培われていくものだ。第一義的には、ルールや秩序感覚などの面で、親が子供のモデルにならなければならない。……子供は地域の中で育つものである。……この、平凡だが基本的な原則に立ち返って、家庭の内外で、さらに行政による支援システムを含めて、子育ての環境を再構築したい。」(1998年1月30日、読売社説)

 

「子どもたちが何にむかついているのか。教師でも親でもいい。大人がひとりの人間としてきちんと向き合わなければ、見えないものがあるにちがいない。

 自分を十分実現できることばを、まだ持ち合わせていない年ごろだ。その心を理解する責務は、大人の側にある。」(1998年1月30日、朝日社説)

 

 読売新聞はどちらかと言えば親の責任論を強調しており、2月4日には「家庭の子育てを問い直そう」という社説を掲載している。また、朝日に至っては具体的な責任論、対応策について言及しておらず、そのような原因等についての言及自体を回避し事実のみの報道に留める傾向があるかのようにも読めた。その態度の表れか2月5日に子ども向けの社説記事を掲載し、「イライラがあれば信頼できる友だち、親、教師、電話相談などでも言ってみよう」と呼びかけている。

 一方、若干学校の責任について強調する傾向があったのが毎日新聞である。社説記事では確かに「教育、学校の意義が改めて問われている。……状況は難しくなっているが、学校でできることはある。教育委員会や地域社会がそれを支え、バックアップしていくことが必要だ。」(1998年1月29日)と学校にのみ目を向けた責任論を展開する記事を掲載している。しかし、同日の別記事で河上亮一のコメントとして「こうした子育てがよかったのか、大人一人一人がそれぞれの立場で考え、子供とのつきあい方を改めるしかない。」と掲載されており、ここでもやはり「大人/子ども」を基軸にした議論を行っている。更には2月26日の社説記事では黒磯事件に触れつつ、次のように家庭・大人の問題としての議論も展開している。

 

「座長骨子案は、従来になく家庭のしつけにまで踏み込み、もう一度家庭を見直そう、地域社会の力を生かそう、心を育てる場として学校を見直そう――などと提言した。いずれも、もっともなことだが、より注目されるのは、なぜこうしたことが現実のものとなっていないのか、についての認識だ。……

 社会全体がカネや地位の欲望のとりこになり、短絡的な快楽志向に走っているときに、子供たちに思いやりや規範意識を求めても説得力はない。特効薬はないと考えた方がよく、迂遠のようでも、大人が、それぞれの場で、自分の生き方、価値観を問い直すことから始めなければならないだろう。」(1998年2月26日毎日社説)

 

 以上のように黒磯の事件でマスコミは藤田の言うような「学校責任論」を展開することはなく、これを広く大人の問題と捉えていたのであり、色眼鏡で見ているのはむしろ藤田の方であることが明らかになった。どうして藤田はこのような勘違いをしてしまったのかは容易に想像がつく。当時の記事を確認せず、印象でしか語っていなかったからであるが、それは結局藤田自身が「教育畑」の人間であったことに起因するものと考えてよいだろう。丁度この時期中央教育審議会による教育改革の議論がなされていた中で黒磯の事件が起きた。当然学校関係者はこの事件について真面目に考えなければならない。となれば「教育畑」の中の人間は当然最初に学校教育の改善を目指そうとするのだ(中教審委員としての西尾乾二のように「教育畑」にいるべき人間が企業をなんとかしようとする、という例外もありはするが…)。当時の中央教育審議会会長だった有馬朗人会長はこの事件について「心の教育」の重要性について言及しているが(1998年1月31日読売朝刊)、これは「教育畑」から見れば当然の態度である。藤田の問題は、このような「教育畑」と「社会」との区分けができていない点なのである。

 

 そしてこれはデンバーの銃乱射事件についての当時の新聞記事を見るとより一層明確になる。藤田はデンバーの事件はアメリカに対する固定観念があることが日本の事件との違いを生んだと強調していたが、まず、この事件自体がアメリカの銃社会等の問題であることはほとんど自明であり「固定観念」の問題とはとても言えないことを強調しておきたい。

 

「未成年でも銃を入手しやすい銃社会アメリカの抱える病理を改めて示した。……今回の事件は、人種対立を抱え、人種的憎悪を背景とするヘイトスクラムなどが絶えない米社会の不気味な負の部分を浮き彫りにしている。」

「容疑者たちがネオナチ的なグループに所属し、銃乱射の際、主に黒人が中南米系などの少数派人種を標的にしていた、といった情報が事実とすれば、他人種への憎悪が背景にあった可能性が強い。」(以上1999年4月21日読売夕刊)

 

 この事件自体、犯人となった高校生が人種差別を自明のものとするグループに属し、人種的対立に起因するものであることは明らかであったし、教師生徒計13人が死亡したこと、かつ殺傷能力の高い銃を用いた犯行であったという事実はいずれも「固定観念」の問題で片付けてよい問題ではなく、紛れもなく日本との「差異」として語られるべき問題であった。日本では銃の所有の問題として語られていたことは藤田の趣旨とも一致するものの、もう一点押さえなければならないのは、「アメリカにおけるこの事件の受け止め方が日本でどう語られたか」という点である。興味深いことに時のクリントン政権は教育政策にも熱心に取り組んでいることもあって、この事件もまた教育の問題として捉える傾向が強いことが紹介されている。

 

「事件に関連し、クリントン大統領は「米国の教育はまったく進歩していない」との声明を発表し、「これは単にリトルトンの問題ではない、全国民の問題として真剣に考えてほしい」と訴えた。……

米国では、今回の事件の背後にある銃社会を問題にするより、教育や暴力映像などメディアの問題としてとらえようとする傾向が強い。

 だが、より本質的な問題は、銃の所持を厳しく規制しないことである。」(1999年4月22日毎日社説)

 

 ここで押さえておくべきは藤田のような二項図式的な「教育の問題ではなく、(銃)社会の問題である」という認識にマスコミはなっておらず、むしろ「教育の問題よりも、(銃)社会の問題である」という論理で語られている点である。この点も藤田はあからさまに見誤っている。他の記事からも決してデンバーの事例に教育の問題が関係していないなどと読めるものはないといってよい。

 

「米国の学校は自由放任で、日本の学校詰め込み教育という違いはあるが、自己のアイデンティティーの確立に心を悩ます思春期において、生きることの意味を教える教育が欠落していることは共通している。例えばボランティア活動や野外活動などを通して自分とは何かについて目覚めるきっかけを与えてあげることが大切だ。向上心は強い子どもたちだったのだから、変な方向の信念や哲学に走らせ、一線を越えさせてしまったのが残念でしかたない。」(1999年4月25日読売朝刊)

「一連の事件の背景には、だれでも簡単に銃を手に入れることのできる米国社会の仕組みがある。教育の荒廃などがあるにしても、そこに大きな問題があることを改めて指摘しないわけにはいかない。」(1999年4月22日朝日社説)

 

 ここまで見てしまうと、やはり藤田の「日本人論」自体が歪んでいることを起因にして勘違いがなされているようにしか思えない。つまり、日本人はアメリカ人を色眼鏡でしか見ることができず、全く異なる見方で教育について問題を捉えようとしているという見方を藤田は確信しているからこそ、ここまで事実と異なることを堂々と言ってしまうのではないだろうか。

 

 これに関連して言及しなければならないのが、藤田が指摘する「三重の<甘やかし社会>」なる日本人論である(p125-131)。三重の甘やかしとは構造的甘やかし(大学まで卒業まで就業なしで生活可能な状況となっていることによる甘やかし)、実践的あまやかし(親からの独立が遅い)、規範的甘やかし(迷惑をかけなければ何をやってよいという規範)を指し、藤田は著書でエビデンスを提示しながら、このことを強調している。しかし、ここでいう「規範的甘やかし」に関する議論は千石保と同じ日本青少年研究所の断片的な(いや、正しくは「規範を守らない日本人像」を取り出すのに都合のいい調査結果だけ)からの主張であり、これはすでに千石のレビューで事実に反することを指摘した通りである。他の論点も「甘え」の条件となりえたとしても、その事実を実証するものとしては極めて不十分なものであり、藤田の主張の正しさが示されているとは思えない。また、この「三重の<甘やかし社会>」は日本の教育施策等における(政策立案者の)「思い違い」の結果助長されたものであるとするが、すでに述べたように藤田は「社会問題に毒されている」論者の一人であり、適切にこの問題を捉えられているとはとても思えない。「教育畑」の中の議論としてなら(特に教育の)政策立案者の問題は確かにありえるかもしれないが、少なくともそれがマスコミ等を含めた全体的な議論として捉えようとする藤田の姿勢には明確に批判せねばならないだろう。

 合わせて藤田はこの教育病理を他国と比較し大きな問題として捉える視点を持っていなかったのは確かであるが、繰り返すように黒崎は問題の起点を「公教育の不信」に置き、藤田はその不信感は「ウワサにすぎない」とすることであたかも社会全体が事実を勘違いしているかのように捉えていること(cf.p65)、マスコミ等はそれを助長していることを批判することで反論する訳だが、結局それが「ウワサ」にすぎないことを立証するために藤田自身が「ウワサ」止まりの議論に留まってしまうことが問題といえるだろう。

 

②教育の「質」の問題について

 この教育の「質」の問題は、特に藤田独自の主張により所謂ネオリベ的教育政策で語られる教育論に対する批判を行うという論理になってしまっており、結局の所「藤田独自の主張」がどこまで正しいかによってくる。

 目を向けなければならないのは、大学教育の質の問題の重要性を主張している点であろう(cf.p352)。つまり「個性を伸ばす」といったことで競争力を高めるための人材の問題は初等中等教育の問題でなく、むしろ大学教育の問題であると強調しているのである。これはこれで考察の(つまり諸外国と比較した場合の人材育成上の問題を大学教育から見出すという考察)の必要があるように思うが、本書はこれを実証的に示している訳ではないため、検証できない。それよりも気になるのは、藤田の定義する「創造性」についてである。

 藤田は義務教育段階の教育について「個性を尊重した教育」よりも「その基礎ともなる共通の基本的な能力や性向の構えの育成」こそ重要であると説く(p333-334)、これは「トータルなもの」こそ創造性に寄与するという藤田の理念に基づく主張である(p339)。ただ、創造性についてどうみるかという問いは夏堀のレビューの際に取り上げたように多くの見方がありえる(※1)。藤田の定義は川喜田二郎の考える創造性に近いが教養主義的なものに創造性を見出す藤田と異なり、川喜田は個人と組織の壁を溶解させるような「ひと仕事した」体験にこそ価値を見出す点で視点は異なる。また市場主義的な見方がなされる創造性とは、夏堀睦が述べたような「一般人が考える創造性」に従い定義されるものであったし、チクセントミハイの考える創造性は、専門家との接触を如何に行うかという視点が重要であった点で、どちらも藤田の議論と異なる。結局藤田のいう「創造性」が正しいかどうかは、過去の日本の教育が寄与した「創造性」をどう評価するかによるとしか言えないように思える。藤田はこれまでの集団主義的な教育について否定を行っておらず、むしろこれを基本的に崩さないことこそ今後の日本の教育にとって必要であると強調する。そして新自由主義的な教育政策における「個性」はこの教育の良さを軽視しているとして批判するのである。私は藤田のこの見方には否定的であるが、藤田の議論の正しさはこの主張をどう考えるかに大きく左右されると言えるだろう。

 

③教員の自律性の問題について

 これは「専門性」をめぐる議論とも関連するものであるが、黒崎の議論と何故か嚙み合わない論点でもある。というのも、教員の自律性及び専門性の確保については、黒崎藤田両者とも極めて重要な視点であるという点で一致している。にも関わらず、学校選択制をめぐる議論においても両者の方向性は異なるし、「自律性」に対する意味合いについても恐らく両者は異なっているように見える。

 この理由の一つはすでに述べた「民主主義的制度を運用することの意味」が両者で異なっていることに見出すことができる。合わせて問題となるのが、「教育を行うのは誰か」という問いをめぐる両者の複雑な見方の相違によるものであると考える。

 シンプルな回答を与えるのはやはり藤田の方である。藤田は原則として「教職員集団が自由であること」こそが最も重要なよい教育の実践(=専門性の確保)につながるものであることを確信している。本書においても外圧的な制度変更が教師の自律性を妨げることを指摘するが、藤田の著した「教育改革」(1997)でもあくまで教育は教師(と生徒)を中心に行うべきで、親や教育委員会は観客、裏方、劇場主であるとする(藤田1997、p244-245)。このような教師の自発性にあくまで期待する態度は国民の教育権論の系譜とも同じである。

 しかし、黒崎の場合は、教職員集団のみの自律性が確保できる可能性については懐疑的である。何より独断的な取り組みがなされた時に学校選択という手段がなければこの独断から逃げることができず、従うしかなくなる(黒崎2000,p112)。また黒崎(1994)を読んでいると、日本の教職員組合や、アメリカの教育委員会の選挙を否定的に見ているかのような記述も見受けられる。学校選択制の成功事例として、アメリカのイーストハーレムの学校選択制について黒崎は取り上げるが、なぜか教育委員会の選挙によりこの制度枠組みが阻害される可能性について繰り返し否定的な発言を繰り返す。端的に「すぐれた教育改革の実践が政治的に攻撃されるという危険は防ぎえない」と述べる際(黒崎1994,p121-122)の黒崎の態度は、藤田の目線からすれば「あくまで学校選択を嫌った民意の反映であって、これを『教育改革の阻害』などというのはナンセンスである」と映るに違いない。

 中心的な争点は「自由な「専門性」をいかに確保するのか」であり、この関心は藤田黒崎両者とも一致している。より正確に言えば、この主体はあくまで教職員であり、このことに対するチェック体制もまた必要であるということについても争いはない。問題はチェック体制の方法である。あくまで民主的手法にこだわるのが藤田であり、「学校選択」という方法がその枠組みから外れたものであるからこそ有効であると主張するのが黒崎である。

 ただ、問題なのは、藤田がいう「民主的手法」とは、必ずしも「直接選挙で選ばれた市民による意思決定」とは同じではないということである。藤田は教育行政におけるオンブズマン的制度、ないしは信任制が必要であるという(p271,p272)。現行の教育改革は教育行政の核である教育委員会制度についての改善には具体的提言が乏しいことを藤田は批判しているが、このような批判から見ても、結局藤田は「国民の教育権論」と同じような民主主義的プロセスの確立こそ必要であり、それを経ていない教育改革などは、当時の政策担当者(しかもこれが選挙等で選ばれていない者)の独断で行われる恐れがあり、それに対抗する原理を準備できていない状況においては、教育の政治的決定を促進し、これに対する(教員の)専門性・自律性が著しく損なわれる恐れも危惧しているものとみられる。ただ奇妙に思えるのは、オンブズマン制度について、それが最高裁の国民審査のような手続きによって行われるのでもよいと言っている点である(p274)。私は流石に最高裁の国民審査のような話では完全に形骸化しており、これは無意味に信任を与え、黒崎が言う民主的手続が「官僚化」を促進する要素に絡めとられるのは目に見えているように思う。

 また、このレベルの「民主的手続」で許されるのであれば、他にも対応できる「民主的手続」がいくつか考えられるのではなかろうか。一つは、議会や首長による教育へのコントロールである。これはそもそもの教育委員会の趣旨に反し教育が政治に使われるといった批判が「国民の教育権」論者からの痛烈な批判があったものであるが、例えば、以前考察した中津川市の偏向教育の事例などについても、結局その抑止力となりえたのは議会でしかなかった。このような批判等が広く市民にも可視化された形で行われているのであれば、それはそれで一種の抑止力ともなり、かつ促進要因にもなりえるように思える。

 合わせて、個別の教育政策の在り方について、広く市民に意見を募り、それを反映させていくことでも十分「民主的手続」を確保したことになるであろう。最も単純なのは、特定の教育政策について市民にその是非を問うという形でアンケートを行うような方法でも、十分に民意が反映できているのではないのか。民主的手続を重視する立場から言えば、たとえ専門家でも「外野」がどうこう言うまでもなく、その土地の市民が学校選択制に対し賛成ならば、それで事足れりとなるはずである(※3)。黒崎もこの論点(民主的手続の必要性)に対しては、鼻から否定的であるかのような見方をしている傾向もあるため、藤田-黒崎論争の中ではこの論点はあまり明確に議論されることもなかったが、重要性を否定することはできないだろう。

 

 また他方で、民主的手法をとることが教員の専門性・自律性に繋がるという論点自体に矛盾がある可能性にも目を向けなければならない。藤田はそもそも日本の教育改革自体が専門性・自律性を軽視し、それを損ねる方向に進んでいることを確信している(cf.p336-337)ため、日本の教育改革を批判する訳だが、それに対する具体的対案としてどのようなことを想定するか。基本線となるのは学校単位での予算上の裁量権・弾力化の強化になっているものの(p276-277等)、基本的に「国民の教育権論」側が主張する程度の並な主張しかなされていない。「非常勤職員の採用」についても、例えば、専門性豊かな退職教員や校長の有効活用といった視点からの語りを明言している訳でもないため、この非常勤職員の議論が市場主義的な労働者の勤務形態の弾力化の議論の域を出ておらず、逆に教員の職の不安定さしか生まないのではないのか、といった批判を許すような漠然とした主張しか確認できない。

 もちろん、このような藤田の議論に批判的な黒崎の議論が「専門性・自律性」の強化に繋がるかは疑問もある。しかし、黒崎の関心は何よりも「公教育不信」への応答であって、そのような不信感に応えるための教育改革と、その一環として市民のチェック体制の一つとして学校選択制が必要であり、その中で教育改善を行うべきであるという見方にあった。過去の黒崎のレビューでも指摘したように、「民主的手続」が官僚制を回避できず、又は「民主的手続」という名の政治的暴走を防ぐ方法として「退出」の可能性を保証することこそ最も重要であるという見方は教育権の担保のためにも重要であり、これを頭から否定してしまう論法の方がよほど「非民主的」とみることも可能なのである。藤田にとっては教育とは教員集団による自律性にこそその専門性の根拠を見出し、そこから外れるような状況においては専門性は養われない、という確信があるため(cf.藤田1997,p244-245)、そもそも黒崎の提案は受け入れられないのである。黒崎の提案は結局教職員集団の目線から見れば「外圧的」なものでしかなくなるからである。もっとも、このような立論を藤田が続ける以上、「国民の教育権論」と藤田の立場の違いに相違がなくなることになり、この専門性論と「民主的手続」の関連性が不透明になるのである。黒崎が次のように佐貫浩の批判をする際、この関係性の不明確さが問題とされるのである。結局このような議論においては、教職員集団が暴走する可能性を著しく軽視することにしかなく、藤田が強調していたはずの「チェック機能」も機能する余地がないのである(※4)。

 

「しかし、せっかくそうした課題をたてながら、佐貫氏の議論には、父母参加による学校づくりの運動の経験の列挙以上の、理論的な提起と呼べるものをほとんど見出すことができない。たとえば、そこでは、「指導の過程や結果に対して異議申し立てをする権限を、親や子どもが留保していることを含んだ制度的仕組み」が提案されているが、それが何を指すのか、教師の専門的自由の保障といかなる関係を保つのかについては、何も検討されていないのである。

わが国における学校参加のもっとも有力な理論的根拠は、いわゆる「国民の教育権論」によって示されてきた。佐貫氏の議論もこの理論的影響の下にある。しかし、教育の内的事項外的事項区分論を中核とするこの理論においては、親の教育権は教師の教育権を根拠づけるために名目的に扱われる傾向をもち、十分に、学校参加の要求を意義づけるものとはなっていない。さらに、教育行政参加と学校参加とを区別しようとする最近の理論的傾向も、親の参加への要求の意味を正当に受けとめるものとはいえない。それは、あくまでも学校運営の専門職主義を堅持するためのものであり、専門的自治と民衆統制の統合という教育行政理論のもっとも基本的課題を回避するものと評価せざるをえない。」(黒崎1994,p18-19)

 

○学校選択は「利己主義」なのか?——転居をどう考えるか?

 本書で特徴的な点の一つとして、藤田が学校選択について、一般的に言われる「私事化」という言葉ではなく、「利己主義」として糾弾する点が挙げられる(p175,p236)。これについては、すでに黒崎のレビューで私立学校が選択できることについて触れ、これに対して何故改善を促さないのか、という批判を行った。実際、黒崎からも同じ批判がされていた。つまり「学校選択の理念の提唱は、すでに富裕な階級が持っている学校選択の自由を貧困な階層に保障しようとするものであると意義づけられ」るものということである(黒崎1994,p63)。

 そして、この学校選択に対し強調されたのが「共生」の発想であった。この発想は、すでに藤田が主張する「創造性」や義務教育段階で必要な「努力」(p345-346、これは「忍耐」という解釈でもそこまで外れていないように思える)の一環としても、避けるべきではないことを強調された。

 

「この「共生」という価値は、〝選ぶ〟という行為によってではなくて、〝受け入れる〟という行為、〝関わる〟という行為によって実現されるものである。」(藤田1997,pviii)

 

「しかし、こんにち主張されている〈学校選択の自由化〉は、そうした性質のものではない。それは、日常的・自生的な居住・生活圏に関わりなく、文化的嗜好・選考によって学校を選べるようにしようとするものである。それは、居住・生活圏としてのコミュニティを無意味なものとして否定・解体する志向、その衰弱を是認する志向を宿している。しかし、近代的な理念としての〈市民社会〉が〈自律的で平等な個人の共生〉と〈その共生空間への開かれた参加〉を基本とするものであるなら、その〈市民社会〉もそこでのハーバーマス的な〈市民的コミュニケーション〉も、その区画化がたとえ行政的に行われたものであろうとも、現にそこにある居住・生活圏において成立・展開しうるはずのものである。言い換えれば、そのような〈市民社会〉を理念として掲げ志向することに価値があると考えるなら、その前提ないし要件として、現にそこにある居住・生活圏において、〈市民的共生〉〈市民的コミュニケーション〉の十全な展開を志向し追求することが課題となるはずである。なぜなら、それは〈公開性=非差別性・非排他性〉を基本的な特質としているはずだからである。」(藤田英典ほか編「教育学年報7 ジェンダーと教育」1999,p385)

 

 このような主張に対し、私から擁護しうると思われるのは、「子どもが成長する上で積極的な意味(教育的効果の期待)でも消極的な意味(犯罪防止や精神面の安定など、安全面を確保すること)でも地域の安定した基盤の教育を行うことは、子どもにとってプラスになる」という命題が成立する可能性においてである。藤田の議論は「共生」をやはり「理解不能な他者との対話可能性の模索」として用いている傾向が強いわけだが、これを強調するのであれば、私立学校への選択自体も制限しなければ意味がないのではと黒崎のレビューの際に指摘した。

 しかし、社会学的にはもう一点押さえておかねばならない観点があった。それが「人口移動」である。この観点からアメリカの学校選択を擁護する論理は十分にありえるように思える。つまり、アメリカ人は実態として生涯10回を超える転居を行っており、日本においてはそれが少ないとされる(荒井良雄等編「日本の人口移動」2002、p93-94)中では、既存の地域性を生かす教育よりも学校選択を容易にし、転居可能な者と同じ権利を転居困難な者にも与えようとする発想である。もっとも、これもあくまで相対的な議論を行っているにすぎず、「転居回数が多ければ学校選択がされるべき」なのか、「(1回でも)転居する層がいるから学校選択がされるべき」かは当然議論が必要である。「1回でも転居をする」という意味では、日本においても基本的に子どもを持つ家庭は転居を行う傾向があり、どちらにせよ「地域性」というのは当事者にとっては基本的に生得的にあるものではなく、選択の結果であると考えるべき状況にあるからである(※5)。

 結局、藤田の学校選択制の否定についても、根においては「望ましい教育観」が付随していることが明らかなのであり、この教育観の妥当性や、学校選択における子どもの教育的な影響を丁寧に考察することを無視して、制度の議論を行うこと自体が不毛であるのではないのか、というのが正直な所である。今後そのような教育的効果についての研究の蓄積にも期待したい所である。

                                                                                       

 

※1 夏堀のレビューでは取り上げなかったが、もう一点押さえておきたい「創造性」の議論として、市川亀久彌の「等価変換理論」を挙げることができる。簡単に言えば、あるモノに対してその機能を適切に抽象化し、別のモノを作り出す際に応用していく技術のことを指す。「創造性の科学」(1970)を読んでも、等価変換理論に基づく創造性の発揮は一定のトレーニング(あらゆるモノの共通性に注目して、その機能を抽象化し思考するトレーニング)が行われることを期待された理論と考えられ、市川のいう創造性も漠然とした藤田のような教養性を身につけるという議論とは隔たりがあるものといえる。

 

※2 この論理は一理あるように思えるが、管見の限り藤田はアメリカとの対比において「アメリカでは直接選挙による教育委員会で行われる教育改革であるから擁護できうる」という視点で教育改革の議論を行っているのを見かけていない。

 

※3 もっとも、藤田はこのことについても、例えば学校選択制に関しては「ウワサ」が悪影響を与えるなどして、民意が適切に反映されるということ自体に半信半疑となっているよう(市民は適切な判断に欠ける傾向にあることを認め、それを信用しないよう)に見える点があるため、全面的に賛同する姿勢ではないように思える。

 

※4 結局このような議論に落ち着いてしまう理由は、(教育の自由/不自由)という二項図式を掲げ、「不自由となるものはすべて除去されるべきである」という国民の教育権論に典型的に批判の論法そのものにあると言わなければならないだろう。この議論に必要なのは、あくまで「現状がどうであるか」という分析のもとにたって専門性をめぐる議論を行うことであるが、国民の教育権論が教育法学を根拠に、「日本国憲法」や「教育基本法」を持ち出した法解釈・権利の問題として片付けようとする姿勢を崩さない時点で、すでに議論として成立のしようがないのである。確かに現状分析の議論は黒崎も精度が高いかは疑問だが、藤田の場合は、すでに「社会問題に毒された」ものとなっており、まともに現状分析ができていないのは明らかである。

 

※5 子どもがいる家庭(DEWKS)と子どもがいない家庭(DINKS)の比較として、北村安樹子「家族形成と居住選択」(2010)では結婚後の転居経験・回数がDEWKS世帯の方が多く、特に子どもの誕生や成長に合わせ住居購入を行うケースがあるのではないかと指摘する(北村2010,p23)。

 

<読書ノート>

P5「というのも、学校五日制、公立中高一貫校の導入、学校選択自由化への動向、さらには、学校五日制の完全実施に伴う学習指導要領の改訂など、どれをとっても、合理性・適切性に欠けるからであり、教育政策が準拠すべき倫理を歪めるものだからであり、さらには、その結果として、子どもの生活と社会のありようを差別的に再編し、学校教育の難しさを増幅し、日本の将来を危うくしかねないからである。」

※学校五日制反対の議論において、「公務員としての教員」という議論はあったのだろうか?本書ではそれがいかに語られるか?それは文字通り教員への「過度な期待」ではないのか?

P7「また、欧米諸国では、情報知識社会の進展と国際競争の新たな展開を背景にして、学力・基礎学力の向上、就学率の向上、学校出席率の向上などが主要な改革目標になっているのに、日本の改革はそれを軽視しているように見えるからである。さらには、欧米諸国がその階級的遺制のゆえに未だ十分に達成しえていない教育機会の制度的平等を、日本の教育システムは達成しているのに、それを後退させるような改革が進められているからである。」

 

P12「学校五日制と教職員の週休二日制の問題をはっきり区別し、たとえば土曜日は自由登校日にして、補習授業や発展学習や自由な特別活動を行うとか、一律に土曜日を休みにするのではなく、サラリーマンの有給休暇のように、体験休暇・リフレッシュ休暇をとれるようにするという方法を検討してもよかったはずである。いずれにしても、学校過剰論や学校縮小論・教育自由化論は、すでに述べた教育のエリート主義的再編という問題に加えて、さらに次の二点で重大な問題を孕んでいる。」

※これは明らかに公機能の縮小であった。しかし、いわゆる「福祉バラマキ批判」による公機能と別の次元の次元であったため、「福祉バラマキ論」と比べれば具体性があったにもかかわらず、驚くほど関心が低い分野であった。

P13「しかし、いじめ、不登校、校内暴力、学級崩壊、非行・逸脱などの諸問題は、そうした〈心の専門家〉を増やせば解決できるというものではない。それは、心理学的な心の問題というよりも、その結果に対処しようとするものでしかない。」

P15「この〈面〉としての生活圏が重要なのは、それこそがリアルな日常生活の基盤だからである。親子であれ、仲間であれ、顔見知りの人であれ、あるいは見知らぬ人であれ、多様な他者と出会い、さまざまの関係を築き上げ、その関係のなかで喜んだり悲しんだり、思い悩んだり葛藤したり、反目・対立したり、協力し合ったりしながら生きていく、その基盤である。好きか嫌いか、好みに合うかどうかに関わりなく、対面的で包括的・多面的な関係に組み込まれていく、その基盤である。人間の生活も社会もそういうものである。……

 ところが、学校縮小論や学校選択自由化論は、この〈面〉としての生活圏を〈点や線〉の集合に解体・再編しようとしている。」

P20「教育をよくするには、何を措いても、その営みを担う教職員の質の向上とその活動条件の改善を図ることが肝要である。そのために何ができるか、何をしようとするのかを、いま一度考え直す必要がある。」

 

P26-27「それに対して日本では、ほとんど例外なく、そうした問題は教育病理・学校病理として捉えられ、学校教育のせいにされてきた。ナイフ事件だけではない。酒鬼薔薇事件もそうであったし、校内暴力、いじめ、不登校、学校崩壊などもそうである。すべて原因は学校にある、受験体制・学歴社会にある、教育過剰・管理過剰な日本の教育の在り方に問題がある、だから学校を変えなければならない、と議論されてきた。」

☆P28「以上のように、デンバー事件も黒磯ナイフ事件も在学中の生徒が学校内で起こした事件であり、どちらも、どの学校で起こっても不思議ではないとコメントされたにも関わらず、その原因ないし背景については、まったく異なった解釈が何の疑問もなく平然と繰り返され受け入れられてきた。日本のマスコミや識者も、政策担当者も、そうしたまったく対照的な解釈を特に疑問を抱くこともなく受け入れてきた。

 それはおそらく、日本のマスコミや識者や政策担当者の間には、自明視されているステレオタイプな認識枠組みがあるからだろう。アメリカの青少年問題・教育問題の多くはアメリカ社会の矛盾や歪みに根ざす問題であるのに対して、日本の青少年問題・教育問題の多くは日本の学校教育の歪みに根ざす問題である、だから根本的な教育改革が必要であるという認識がそれである。」

※このような認識自体は正しいといえるのか、言説分析すべきでは。「黒磯ナイフ事件でも酒鬼薔薇事件でも、日本のマスコミや識者は、歪んだ学校教育の在り方や「学校性ストレス」が背景になっていると論じていた。」(p25)という論点が一つ。しかし藤田は、p26-27のような飛躍も同じ論理であるかのように語る。そしてそれを「教育問題・青少年問題に対する日本のマスコミ・識者や政策担当者のまなざしがいかに歪んでいるか、その歪みがどれほど独善的・非合理的で問題の多いものかということを見てきた。」(p33)と断じ、合わせて「一九八〇年代半ば以降の改革論議と改革動向には、類似の歪んだまなざしと非合理的で独善的・欺瞞的な議論や政策があまりに多い」とまで言う(p33-34)。そしてその矛先を週休5日制と中高一貫校議論に向ける(p34)。

 

P40「エリート校をつくるのではないとか、教育の多様化・複線化が時代の要請だといった欺瞞的な議論で事を選ぶのではなくて、はっきりとエリート校をつくりたいと明言して、その是非を問うべきである。」

※これは一理ある。

P44「しかし、それ(※学校選択制中高一貫校の導入)は「特色ある学校」と「多様な選択肢」ということを前面に出し、序列化や受験競争の低年齢化が起こる可能性はないという建前論に留まっているからである。」

※何故タテマエであることが確定しているのか。少なくとも、藤田にはタテマエにしかみえないのだろう。同時にこれは規制緩和という大前提に対しても否定しか生まない。

P57通学区域の弾力的運用や再編成には否定的でない

P65「しかも、ここで注意しなければならないのは、実際に荒れているかどうかということでなく、荒れているらしいという〈噂〉によっても左右される傾向があるということである。……つまり、さまざまの社会的差別が学校選択を規定するようになり、子どもたちと学校を差別化し分断することになりかねないということである。さらには、そのようにして学校に持ち込まれた差別と分断が、社会生活における差別と分断を触発・助長することにもなりかねない。」

※よく考えるとこの理由はどこまで成立しているのかよくわからない。差別される側が選択しないことが自明視されているからである。結局、これはこのような人々の「選択する能力のなさ」を自明視しているのと同義だが、これも結局そのような人々に「合わせる」ことを公立学校は強制するのか、という議論に直結しかねない。この議論はしまいには「居住を変えられるか、変えられないか」の議論が存在する可能性をまるで考えない。

 

P88「黒崎氏は、市場原理的な学校選択制とは異なる「学校選択制の理念」が構想可能であると主張している。それは現在の画一化し閉塞した公教育・公立学校を再建していくための触媒となるような学校選択制だという。各学校の自主的・自律的な学校づくりを喚起し保障するには、多様な特色ある学校の存在が許容・歓迎されることとそれらの〈特色ある学校〉を選べるということが前提となるから、適切な学校選択制の導入が必要であり正当化されるというのである。黒崎氏は、この学校選択制の理念は、市場原理的な学校選択制とは異なり、各学校の自主性・自律性を重視するものだからといって、市場的競争のメカニズムの作動を抑止することになるという保証はどこにもない。それどころか、たとえその理念を掲げて学校選択制にしても、結果的に市場原理的な選択制になる可能性はきわめて高い。」

※黒崎1994が出典。

P89「つまり、(※「選択・責任・連帯の教育改革」でいわれるような)現代の公立学校の荒廃の原因は「連帯の欠如」「信頼の欠如」にあるから、その「連帯」「信頼」を回復するためにも、学校選択の自由化が必要だと主張し、もう一方で、選択制によって各学校は競争し切磋琢磨することになるから学校は総じて良くなるというのである。保護者や子どもが学校を選ぶようになれば、その選んだ学校にポジティブに関わるようになり、もう一方で、市場的競争のメカニズムが作動して各学校は学校改善に真剣に取り組むようになるから、学校は良くなるというのである。」

 

P108「とはいえ、すでに繰り返し述べたように、学校選択制を採用するかどうかは、子どもの教育・学習・生活・自己形成の機会をどのようにして豊かで開かれたものにしていくのか、その方法についての考え方の問題であり、社会的な選択の問題である。そして、筆者は、その点で現行の通学区制の下で、各学校内での学習・生活・自己形成の機会を豊かにしていくことが望ましいと考えているわけだが、そのためには、各学校のさらなる改善の努力と、それを可能にする制度改革・条件整備を進めていく必要がある。そして、その際、たんに既存の枠組みのなかで改善の努力を進めるというだけでなく、教育行財政面でも、さらには、カリキュラムや教育実践の面でも、基本的な発想の転換や考え方の再検討が必要である。そうした課題に政策担当者も校長や教師もそれぞれに専門家として誠実に取り組む必要がある。」

※このような主張をするなら、適切な論点整理は必須であるように思うが、藤田の議論はとてもそうなっているとは言えない。結局「変化」について日本の教育風土には適していない、という主張一点張りにしかなっていない。

P131-132「図2と表1の調査結果は、こうした三重の〈甘やかし社会〉の一つの表れと見ることができる。図2は、日本青少年研究所が、一九九六年に、日本、アメリカ、中国の高校生を対象に行った調査の結果で、表示された諸項目について、「本人の自由でよい」と回答した者の割合を示したものである。

 それにしても、なぜ日本の高校生の規範意識はこれほどまでに低いのか。その原因を特定することは容易なことではないが、右に述べたような〈甘やかし社会〉がその一因だと見て間違いないであろう。」

千石保のレビューにて、この日本青少年研究所の調査の問題は指摘済み。表1は藤田1991でも参照した総理府の調査結果の引用で、「両親のいいつけに従わない」「先生のいうことに従わない」ことについて「絶対にしてはいけない」割合の低さを指摘している。三重の甘やかしとは構造的甘やかし(子どものモラトリアム期間に関する甘やかし)、実践的あまやかし(親からの独立が遅い)、規範的甘やかし(迷惑をかけなければ何をやってよいという規範)三つを指摘する。実践的甘やかしについては1998年の世界青年意識調査結果をもとにしている(p127)。

 

P143「他方、異なる点は、欧米諸国では教育水準・学力水準の向上が改革の主要な目標として掲げられてきたのに対して、日本では、その点がむしろ批判の対象とされてきたことである。受験体制・偏差値教育なるものが校内暴力やいじめや不登校などの元凶として批判され、進歩主義的な教育思潮と新自由主義的な政治社会風潮の奇妙な連携の下に、教育の多様化・個別化・自由化が推し進められてきた。」

※少々不正確だが、日本の教育が学力を放棄するかの言説があったのも事実ではある。学力水準の否定がされたという見方は藤田にとっては正しかったのかもしれない。

P151「世界各国がそのような関心の下に改革を進めている時代に、日本の大学改革は国家公務員の定数削減といったまったく非常識な関心の下に進められようとしている。」

※いかに非常識なのか説明すべきでは?

P161「評論家やマスコミは、しばしば、受験学力ではなくて、〈自ら学ぶ力〉や思考力・表現力・企画力やバイタリティやチャレンジ精神などの重要性を説くが、高校・大学の入試においても雇用市場においても一貫して優先されてきたのは、受験学力の高い学生であり、入試偏差値の高い高校・大学の卒業生である。大学入試の多様化が進んできたが、受験学力の低い者を優先的に入学させようとしているわけではない。」

竹内洋の主張と対立する。企業が既存学力を求める根拠として成立していない。藤田の擁護したい点は明らかであるが「受験学力は、たんに入試によって評価・測定された〈達成された学力〉に過ぎないのではなくて、その達成を可能にした努力や学習可能性(潜在的能力)をも示しているのである。」(p162)と述べるが、このことが既存の「受験学力」を正当化する根拠に何一つならない。もっと言えば、藤田自身も受験偏重・詰め込み教育がよいと認めていない(p159、p163)。

 

P175「また、学校選択制は、欧米諸国でも一九八〇年代以降実質的に広まってきたが、それは教育に対する利己主義的な消費者的関心が高まってきたからであり、そうした関心を正当化する新自由主義的なイデオロギーが優勢になってきたからである。それは、時代の趨勢であるとか、好ましい変化だと見るようなものではなくて、教育の公共性を重視し、それを人びとが協力して維持していこうとする立場が優勢になってきたことの表れでしかない。」

※このようなイデオロギーの議論で片付けてしまってよい議論か?「問題は、それが当の子どもにとって本当に好ましいかどうか、教育的に好ましいかどうかである。」(p176)は当たり前であり、それに疑義があるからこその教育改革の議論だったのでは??

 

P224「しかし、子どもの学力・興味・関心や学習への構え・意欲の多様化が進むなかで、大規模の学級を基本としてすべての学習を組織することはさまざまの困難が伴う傾向が強まってきたことも確かである。それゆえ、そうした条件の変化に対応し、学習の効率化・適正化を図るためにも、学級を学校における学習・生活の基本単位としながらも、学習集団については適切な範囲で弾力的に編成できるようのする必要性が高まっていると言える。」

※多様化が問題なのか疑問だが…これまで学習が剥奪されていただけでは?また習熟度学級編成については「私立の一部」なら問題化しないが、「一般の公立学校」では好ましい結果になると限らないとする(p224)。

P224-225「他方、学級を基盤にした固定的な習熟度別学級編成や落第制度や飛び級制を小中学校段階で導入することには、筆者は基本的に反対である。その理由は、三章飛び級制に言及した際に述べた通りだが、その要点は次の三点である。一つは、それは劣等感・優越感や差別意識を育み、もう一方で、社会性や仲間意識の形成基盤をますます脆弱なものにし、結果的に公教育の意義を貶めることになるからである。二つ目は、そうした方向で学習集団の多様化・弾力化を進めるなら、そのときはこれまで繰り返し批判の対象とされ改革の必要性の根拠とされてきた受験競争・進学競争の低年齢化が進行し、そのプレッシャーが小中学生の生活と意識を覆うようになる可能性が大きいからである。というのも、日本社会は、欧米諸国に比べて、文化社会的な階級遺制や貧富の差が少なく、平等で社会的な移動機会の開かれた社会であると言えるが、そのためもあって、学校教育に対する競争的な関心が強い社会であり、そのことが受験競争・進学競争の背景となってきたからである。三つ目は、二つ目の点が現実のものとなればなるほど、そうした方向での学習集団の編成は、教育機会の制度的差別化を促進することになるからである。」

※これはすでに程度の問題ではなく、だからこそ、全面的に批判的な態度を藤田はとる。ところが、これらの三つの論点はすべて私立学校という外枠を設けていることですべて私立学校との差別問題として問題視されるべき問題点とならないのか?また、この主張は「階級制の否定」をそもそも論として語る一方、みずからもそれに加担する主張を行うという愚策を行なっている。ここでいう「文化的」なるものは自らが無責任に拡張していることに自覚的である必要があるのではなかろうか?藤田はこの配慮を明らかに欠いている。

 

P225-226「第二に、学習集団の適切な範囲での弾力化を図るとしても、これまでと同様、集団を単位にした一斉指導を基本的に重視することが望ましい。というのも、集団を単位にした一斉指導(グループ学習や個別学習の併用を含む)は、学習のリズムと密度を効率的なものとして維持するうえでも、子どもたちの協調性やアイデンティティ形成のうえでも、さらには、教師の授業の力量を高め維持するうえでも重要だからである。」

P226「この力量(※集団を相手にする授業する力量)が問われないとき、教師は往々にして授業改善の工夫を怠ることになりがちである。実際、興味深いことに、小中学校の数学と理科の国際比較学力調査で平均学力の高かったシンガポール、韓国、日本、香港、ハンガリーなどはいずれも、主要教科では伝統的な一斉指導方式が基本になっている国である。」

※教員の質の議論と、集団授業の効果、官僚制を混同しているようにも見えるが…

P226-227「各学校が、学級や一斉学習の基本的な重要性を確認したうえで、学習集団の編成や学習指導の方法について、学校・生徒集団の特徴を考慮して最適な方法を工夫することができるように、教員配置の充実をはじめとした条件の整備を進めることが重要である。とくに教職員の配置については、①現行制度のように、学級数を基礎にした教員定数の算出・配置ではなくて、生徒総数を基礎にした算出・配置とする、②近年の改革動向のように、たとえばティーム・ティーチングを採用するなら教員を加配するといった目的別加配方式によって教員数を増やすというのでなく、学級規模の標準を現行の40人から、たとえば25人ないし30人に縮小し、各学校での学級編成・学習集団の編成については、各学校が弾力的に工夫することができるようにする、③国の定める学級規模の標準に基づく国庫補助・県費負担教職員の枠内で、非常勤講師や正規雇用のパートタイム教師を採用できるようにする、などの制度改革・条件整備を進めることが重要である。」

※苅谷の議論ともずれている。実質的に総額裁量制を認める発想で、これでは「面の平等」が失われてしまう。

 

P227「これまで繰り返し指摘したように、臨教審以降、個性・創造性や自ら学び考える力の育成が強調され、学校像の転換、新しい学校像の創出の必要性が言われ、個別学習の拡大や学校選択制の導入が推奨されるようになった。そして、その背後で、一斉指導や習得学習の重要性が軽視され、その補完を塾・予備校や家庭学習に期待する傾向が強まってきた。しかし、学校で過ごす時間が子どもの生活時間・学習時間の中核を占めていることを考えるなら、こうした傾向が進めば、学校教育の機能低下はますます深刻化するであろう。」

※この問題の見方がそもそも誤りであったのでは。

P236「それに対して日本では、こうした理念的対立は曖昧にされ、進歩主義的関心と利己主義的関心が新自由主義的風潮の下に連携し、結果的に市場的競争を容認する方向に向かっている。言い換えれば、一連の改革及びその推進論は重大な矛盾を孕んでいるにもかかわらず、改革すること自体が道義的に正当化され至上目的化しているために、その矛盾が隠蔽されている。」

※藤田は学校選択制の議論を「利己主義」の問題と捉えている。また「矛盾」を問題視することこそが、素朴、無意識的な「不変」の正当化に繋がっているのではなかろうか。

P243「その際、政策的にも各大学の方針という点でも重要になってくるのは、大学間の移動がどの程度開かれたものになっていくかということである。具体的に言えば、四年制の大学への転・編入学がどの程度広く認められるようになるか、大学院がどの程度拡大するか、大学院への進学要件がどの程度緩和されるか、ということである。」

 

P250-251「大学入学者の学力水準の維持・向上という点、あるいは、高校教育の充実という点で、大学入試のありようが重要であるとしても、この点での社会的責任を根拠にして私立大学の入試方法に制約を加えることは妥当なことではない。そこで、国・公立大学にこの責任を担ってもらうのが適当であろう。」

※なぜ私立擁護??

P251「むろん、国・公立大学の存在意義はそれだけ(※授業料)ではない。高等教育機会の平等な保障、学問研究の維持・発展、地域(県レベル)の人材育成や文化・経済・社会の活力の維持・促進などの点でも重要であることは言うまでもない。しかし、受益者負担論が優勢になりつつあるこんにちの状況では、これらの側面は必ずしも国・公立大学の安い授業料を正当化する根拠として十分なものと見なされていない。」

※藤田は国公立では一割程度しか大学生の機会を保障できない事実にはどう考えているのか。

P264「とはいえ、一般論として言えることは、とくに東京をはじめ私立・国立の割合が多く、公立と私立・国立との激しい地域では、公立と私立・国立との入試制度上の差別を取り払うことが考えられる。具体的には、現在は公立の試験日と私立・国立との試験日が分かれているが、これをすべて一緒にして、公立・私立・国立を問わず、数日間にわたって複数受験できるようにするという方法である。その際、おそらく公立の学区の拡大(大学区化)も合わせて行う方がよいであろう。」

P255「以上のほかに、入試制度について、もう一つの根本的な改革案が考えられる。それは、大学の入学者選抜に高校別の割当制を導入することである。国・公・私立を問わず、各大学は、学生規模に応じて、一つの高校から一定数以上の入学を認めないようにするという改革である。たとえば国立大学は一つの高校から一定数以上の入学を認めないようにするという改革である。たとえば国立大学は、一つの高校から五〇人以上は入学させないとか、各高校の上位二〇%以内を入学者選抜の主要な基準の一つにするという方式が、それである。そうすれば、大学入試のありようは大きく変わることになるだけでなく、大学の序列も影響を受けることになるだろう。」

※序列化回避の観点からいえばこの方法は最適であるように思える。

 

P261「また、学校評議員制度の導入が提案されているが、この制度も、教育委員会と学校との一元的で官僚制的な統制・指導関係を変えるものとして構想されていない。言い換えれば、必ずしも学校の自律性・独立性や教職員の自主性・専門性を高めるものとして構想されていない。」

※この意図は教育改革が官僚制を強化することによる教師の自律性・専門性の疎外の可能性の指摘である(p262)。黒崎は民主主義が官僚制に寄与するとしたが、藤田はそれ以外の要因でも官僚制化する可能性に言及する。日本の議論では通常中央集権化こそ官僚制の条件である(cf.p265)。「教員の専門性・自律性や教職員のモラール・協同性の重要性について、近年の改革動向はこれを軽視しすぎているように見受けられる。」(p264-265)

P268「進行中の改革では、教育人事や予算配分や学校運営・教育実践面の日常的な指導・監督などの点で、教育委員会事務局(教育長・部長・専門的職員=指導主事)の権限がこれまで以上に増大すると予想されるが、それをチェックする権能が必ずしも担保されていない。」

P269「しかし、こんにち問われるべき問題は、むしろ行政府内部の恣意性・世論迎合性や党派性が教育行政の中立性・継続性を脅かす傾向が強まっているという事態をどう考えるかという問題であろう。」

P270「確かに教育委員会制度は、戦後日本の教育行政と教育水準の維持・向上に重要な役割を果たしてきた。この点は高く評価してよい。しかし、もう一方で、それは学校現場の官僚制的統制の基盤となり、しばしば学校改革の新しい取り組みや教職員の自主性・創意工夫を抑制する働きをしてきたことも否定できない。」

※この評価はあまりにも唐突な感がある。

P271「その意味で、教育に限らず、これからの社会制度で重要となるのは、市民的なチェック機能(オンブズマン的機能)を組み込んだシステムづくりをしていくことだと考えられる。」

P272改革案の一つとして想定されるオンブズマン機能を拡充するにも「教育委員ないし教育行政オンブズマンの選任方法として公選制ないし準公選制の採用を再度検討する必要があると考えられる。」

※これは最高裁の信任投票のような方法でもよいだろうとする(p274)

P276-277自律性を高めるための職員加配や、学校への一定程度の非常勤職員のための予算配置をすべき

 

P305「というのも、(※アメリカでは、)生徒指導上の問題が多い学校では、一般の教師とディシプリンティーチャーや心理臨床カウンセラーとの連携・協力がうまくいっていないとこぼす校長・教師や、問題行動を繰り返す生徒や生活上のトラブルを抱える生徒の問題はディシプリンティーチャーやカウンセラーの責任だとして関与しようとしない教師が少なくないからである。日本の学校では、教師と養護教諭がそれらの仕事を連携・協力して担っているわけだが、その方が理にかなっていると考えられるからである。」

※分業体制が問題という指摘。

☆P333-334「以上のように、能力的個性・趣味的個性のどの側面でも、小・中学校段階の教育が担うべき中心的な役割は、個々人によって多様な差異的個性の育成ではなくて、その基礎ともなる共通の基本的な能力や性向の構えの育成である。むろん、三章でも述べたように、それでも子どもたちはそれぞれに自分なりの個性を育む。その多様な個性は、それぞれに尊重されるべきものである。しかし、それは、日常の教育活動において尊重されるべきものであって、教育の目的としてその実現を制度的に保障しようとするものではない。」

※この主張は根本的な前提の議論にかかわる。

☆P336-337「この点で、一九八〇年代以降の日本社会は重大な考え違いをしてきたように見受けられる。学校がそれをどのように引き受けるか、家庭や社会がその責任をどのように果たすか、そのありようは多様でありうることを前提に、その適切な在り方を考え責任を持って実践していくことが本当は問われていたのに、それを怠り、日本の学校はあれこれ引き受けすぎているとか、過剰な干渉をしすぎているとして、その役割の縮小を主張し、学校・教師の努力に敬意を払うどころか、それを〈余計なお世話・不当な干渉〉だとして否定し、もう一方で、家庭・保護者や社会の責任が重要だと言いながら、その責任が適切に果たされていない状況を放置し、事態の悪化に加担してきた。三章でも述べたように、日本の社会は〈三重の甘やかし社会〉という傾向を強めてきた。臨教審以降の改革動向は、その傾向に拍車をかけてきた。」

※これを「怠った」と価値判断するには、それなりの実証が欲しいところだが、おそらく藤田にはその実証が絶望的なまでに欠落している。藤田の批判も見方によれば「社会問題に毒された言説」が考え違いを起こしたと読めるものの、それは藤田自身にもあてはまってしまう。特にここでは甘やかし社会構造の助長が問題視されているが、甘やかしの事実自体は藤田のエビデンスからは何も見えてきていない。「してはいけない」の規範性についても、「学校をさぼることはいけない」という規範が日本はそこまで低いという事実自体に藤田は言及していない。気になるのは「親との同居が多い」ことを根拠にする「実践的甘やかし」であるが、これもいくらでも他の説明がつくのではなかろうか?もっと言えば、ここでの主張はナイフ事件言説の議論における教育の議論と矛盾している。

 

P337「しかし、勘違いすべきでない。学校があれこれやりすぎているのではなくて、家庭や社会でやるべきことをしなくなったのであり、できなくなったのである。それどころか、自分たちができないことを棚に上げて、ときには、学校がやりすぎていると言い、ときには、学校でやるべきことをやっていないと言って批判し、その活動の基盤を掘り崩してきた。その〈やりすぎていること〉と〈やるべきこと〉とがほとんど重なり合っているという矛盾にまったく無頓着に、学校批判を繰り返し、学校・教師の活動基盤も脆弱化に加担してきた。」

※この勘違いは藤田にもそのまま当てはまるのでは?「社会問題に毒される」ことこそ、学校の信頼基盤を崩すことにそのまま寄与する。なお、ここでの主語は「改革動向」である。

P339「同様のことは、創意工夫の習慣についても言える。これには知的好奇心やチャレンジ精神なども含まれるが、この創意工夫の習慣は、学校教育はもちろん、家庭や地域や職場でのさまざまな経験のなかで育まれるものである。……筆者の考えでは、それは、特定の時間を設けたり、特定のプログラムを設定したりすれば育まれるというよりも、もっとトータルなものであり、創意工夫を必要としている活動の場や創意工夫の余地のある活動の場のカルチャーによって育まれるものである。」

※藤田のいう創造性は「一般教養を身につけていることが創造性を高める」という主張とマッチする。「また、学校生活もさることながら、それ以上に、家庭生活や学校外でのさまざまのボランティア活動などは、そうした創意工夫や自発性を生かす余地が大きいと言える。」(p339-340)個性尊重の議論と対立するのも、この創造性観の影響がかなり大きいと考えられる。

 

P342「生活者能力としての創造性はどうであろうか。この点でも、その基本は、生産者能力としての創造性の場合と同じである。とくに、積極的な構えと創意工夫の習慣については、重要なことはまったく同じと言ってよい。」

※ただし、「豊かな経験」を積むことが「生きた知識・学力」につながるという意味で生活者能力としての創造性には別途必要とみる(p342)。

P345-346「ところが、臨教審以降の改革は、努力することの重要性を軽視し、能力の基本を歪曲してきた。努力も苦労もせずに、能力や〈生きる力〉が身に付くかのように論じ、学習の内容と時間を削減し、自由な時間を拡大し、生徒中心の教育を奨励するという改革を進めてきた。……学校は楽しいものでなければならないが、同時に、努力し苦労する場でもなければならない。」

※具体的に何が言いたいのか。この辺は西尾に似ているのか。いや、西尾は個人主義だが藤田は極めて集団主義的発想に親和的である。

P351「〈教育については誰もが一家言持っている、誰でも経験や信念に基づいて発言できる〉という、一見もっともらしい通念を根拠にして、そうした〈有識者〉の思い込みと偏見に基づく改革が正当化され具体化されてきた。しかも、一連の改革や施策の妥当性や有効性が検証されることは一度もなかった。〈有識者〉は、自分たちの主張や提案の妥当性や責任を問われることはなかった。具体的な改革もさることながら、こうした無責任体制を改めることこそ、いま必要とされているかもしれない。」

※これはそっくりそのまま藤田に返すべき主張である。藤田もまた改革の検証などにはタッチしているといえないし、偏見が含まれるのは既述の通りである。そして、何よりそのような地盤を整備してこなかったのは戦後日本の教育学界だったのでは、という批判さえ成り立つのでは。

 

P352「この無責任体制は、エリート的人材の育成・輩出の第三の要因である〈人材を生かす研究・仕事の場〉の重要性を軽視ないし見落としていることにも表れている。こんにち、日本社会がエリート的人材の輩出という点で問題があるとするなら、その主要な原因は、高校までの教育にあるというよりも、むしろ、大学以上の教育の不適切さと〈人材を生かす研究・仕事の場〉が十分に整備されていないことにある。」

※確かに大学教育の議論のすり替えとして義務教育の個性が叫ばれているなら問題だが、これも議論のすりかえでは。

P371「とはいえ、筆者はけして伝統的な共同体への回帰を主張しているのではない。抑圧的な困習(※ママ)と監視のまなざしが充満していた伝統的な共同体への回帰ではなくて、自由で自律的な市民から成る新しい共生社会、多様性を許容しつつ協同の責任を担い合う新しい共生社会の構築が課題となっている、というのが筆者の基本的な考えである。」

市民派の謳い文句。

萩野富士夫「戦前文部省の治安機能」(2007)

 今回は「国体の本義」をめぐる議論の補論として、荻野の著書を取り上げる。本書の主題は戦時期を中心にした文部省の「教学錬成」、「臣民」としての国民育成の機能についての議論を中心としているが、その中で「国体の本義」や「臣民の道」についても触れられており、特にとの編纂過程などについて細かく分析がなされている。

 

 ただ、本書で指摘されている「国体の本義」と「臣民の道」の比較による違い(p255)については疑義を出さざるをえない。本書では両者の違いとして①欧米への排除の傾向②忠孝の優先度の違いがあるとしているが、両方ともスタンスは変わらないというのが私の見方である。②は読書ノートの内容からほぼ自明であると思うが、①については少し詳しく触れる必要があるだろう。

 確かに私も「臣民の道」については欧米諸国に対する対立構造が強いものであることを認めており、①のような指摘がなされることも理解できるが、これは一方的な欧米思想の排除として捉えてしまうと日本の態度として自己矛盾が生じてしまうため、解釈として適当と言い難いと考えられる。ここで押さえなければならないのが、「欧米思想に学ぶことができる」ことを日本の強みとしていた「国体の本義」における基本的スタンスとの関係性である。結局この謙虚に学ぶ姿勢というのは、欧米思想の排除からは生まれることがなくなってしまい、その基本姿勢そのものの否定にもつながりかねない問題を孕んでしまうのである。「臣民の道」においても、日本が「西洋文物の摂取」を行ってきた事実に触れられ、そのこと自体に対して否定的見解が示されていない以上、これを全面的に否定してしまうことは日本そのものの否定につながってしまうため許されないのである。その意味で、「国体の本義」と「臣民の道」は見方は違えど、基本的な「近代観(欧米観)」については連続性の存在を強調すべきであると思う。

 ではこれはどのようにすれば許されるものとなるのか。答えはこれら2書と、1942年に文部省教学局から出版された「大東亜戦争とわれら」(cf.p352-353)の比較によって明確に見えてくる。一言でいえば、「日本が西洋文物を摂取してきた」事実自体を無視するというのがその答えである。「大東亜戦争とわれら」では「臣民の道」からさらに進んだ形で米英を「悪」と断じ、「八紘一宇」を正義の原理として戦争に打ち勝つ精神を鼓舞するという、見慣れた二項図式論に基づく、細かな・厄介な問題の忌避(無視)という議論に行きついていることが確認できる。合わせて注目すべきは、このような観点からは「近代の超克」という議論はすでに存立しえないことである。欧米由来の「近代」はすでに克服される対象ではなく、排除し打倒する対象とみなされているため、「近代」という地盤そのものが不要のものとみなしえるからである。そしてそれに代わり立ち上がるのがそれとは全く異なる原理により現れる「東亜新秩序」なのであった。このような「善悪」ベースの二項図式論の弊害については教訓とされねばならない論点が含まれているだろう。結局当時の日本人も多くの恩恵を受けていたはずのものであり、5年前までは同じ立場にいるはずの者(文部省自身)がその価値を強調してきた「近代」なるものの継承は、その事実を無視する形で、見方によっては事実を歪める形で否定されることとなったのである。

 

 また、本書で指摘されている内容として注目すべきは、「国体の本義」における草案と刊行版との相違点であろう。特に注目すべきは「国体の本義」の草案における、「我が国体に関する一の説き方に止るものであつて、これ以外の研究を拘束するものではなく」といった記述である(p195)。これは本書における欧米思想に関する記述が難航していたこと(p192,p194)とも大いに関連していたものと思われる。「国体の本義」においては、刊行本では矛盾した態度も現われるものの、比較的まじめに「近代の超克」についての議論がなされていたのであり、まさに現在進行形として近代をいかに受容し、醇化していくのかか課題であったがゆえに、有力な一解釈を超えるものでありえるはずがなかったのである。にも関わらず、「国体の本義」は刊行に向けて調整が進むにつれ、「聖典」としての位置付けを強めていったのである。

 更に文部省が行ってきた「教学錬成」については、本書でしばしば批判の対象として捉えられていたことが指摘される。これはまず文部省(教学局)と「国民精神文化研究所」という、研究機関(あくまで学術的に「国体解明」を目指そうとした機関)のスタンスの違いや「国民精神文化研究所内」内にも存在していた「思いつきや神がかりの国体論」への批判(p141)にも表れている。前述した「国体の本義」の性格についても、この書物がもともと「国民精神文化研究所研究部ヲシテ日本精神ノ聖書経典トモ称スベキ簡明平易ナル国民読本ヲ編纂シ之ヲ広ク普及セシムルコト」を意図していた(p188)ことを踏まえると腑に落ちる所だろう。「国体の本義」が当初他の国体研究と排他的でない態度であったというのは、この国民精神文化研究所のスタンスとも無関係であるとはいえないだろう(なお、「臣民の道」は文部省教学局が主体となって作成を進めたものであった)。また、「教学錬成」そのものが主体に有効なものなのかといった批判をはじめ、文部省の政策批判も多くあったという実態というのは、この時期の思想政策が必ずしも「官」主導で行われている訳ではなかった、または「官」主導で行われることが好まれていなかったこと(これは『近代の超克』座談会における「官」批判がある意味常識的なものであったこと)を示唆する内容であり、当時の「臣民」育成においても複雑な議論が存在していたことを読み取ることができ興味深かった。

 

<読書ノート>

P10-11「明治維新以降の国家による教育体制の構築が大日本帝国憲法下の「臣民」育成を目標にしたことは、これまでの分厚い蓄積を持つ教育史研究によって明らかにされてきたことではあるが、一九三〇年代後半からの「臣民」はそれ以前と質を異にするものであった。マルクス主義は強権的に弾劾されるのと軌を一にして、個人主義自由主義・民主主義なども欧米からの輸入物として一斉に排撃され、その対極に絶対的に拠るべきものとして「国体明徴」・日本精神があらゆる領域を覆いつくした。その結果、「臣民」は「皇国民」として「教学錬成」に駆り立てられていったのである。」

 

P93「ことに「忠誠奉公ノ精神」を第一に掲げたことは、(※国民精神文化)研究所の実質的中心人物である伊東学生部長の意向を強く反映していると思われる。伊東は「我国体は永久不変であり、永遠に栄え、皇位は真に万世一系である。此の真我を把握し、此の国体を体認する。そこより我国の学問が発展し、我国の教育が建設せられる」という認識に立ち、欧米流の分析的方法・実証的手段・抽象的理論を排し、「全的綜合、内面的把握、人格的証悟、実体的把握」によって「初めて真の知識、学問が成立つ」という論理を展開する。創設当初、「所長事務取扱」となっていた文部次官栗屋謙は「東西二大文化の精粋を尽し、この基礎上に世界的新文化を建設する」ことを「現代日本国民の歴史的使命」としていた。まだ東西文明融合に傾斜する栗屋に比べて、伊東の欧米的価値観の排斥は際立っている。」

 

P128「ところで、思想局創設に対する世評は批判的なものが多かった。最もきびしいものの一つは留岡清男の論で、「一体思想対策などといふ問題が、文政上の国策として成立つだらうか。思想問題が起らねばならなかつた源を遡及するならば、学生部それ自身の創設が問題とならねばならぬ。之を思想局に昇格するなんていふに至つては、最早お話にならない」という。」

※有光次郎は思想局のすることは実際の行政にちっとも反映されず、遠吠えみたいなものとする(p129)。

P136山本勝市の指摘から…「また今日の学生は個人主義的な考方で教育され、唯物的機械的な考方にならされて居るが為めに、実に容易く左翼思想に侵される様に出来て居る」

P139-140「「日本精神の真義」の徹底は、すべての教育領域にわたるが、大学・高校などにおいてこの時期に新たに試みられたのが「日本文化講義」の実施である。……

 これらに対する学生の反応はどうだろうか。露骨に「国民的性格ノ涵養及ビ日本精神ノ発揚」を唱道する講義は不評だったと思われる。」

 

P141「斎藤首相兼文相の「(※国民精神文化研究所開所式)祝辞」には……研究所の第一義的使命である「新日本文化ノ創造、建設」という研究部での成果についての言及がなかった。いみじくもここに示されるように、研究面における達成・成果の乏しさや、そもそも文部省の機関で「新日本文化ノ創造、建設」なるものが可能かどうかという点からも、研究所の存在に疑問が投げかけられていた。

 それは研究所の当事者にも認識されていた。三四年九月に研究部長に就任する吉田熊次は、「自分の国民精神の学説は、思いつきや神がかりの国体論ではないのだとして、薄弱な国民精神論者を厳しく批判した」という。部長就任にあたり、「我が国の思想界・学界はあらゆる主義・主張を包容するが故に、是等を融合して整理して、我が国民精神を培養することが特に本研究部の任務でなければならぬ」と述べるのは、おそらく紀平正美らに代表される「思いつきや神がかりの国体論」への牽制だったと思われる。

 しかし、その後、吉田が満足するような研究部の運営ができなかったことは、教学刷新評議会特別委員会の場での発言から推し量れる。」

 

P188「さらにさかのぼれば、前章で指摘したように、一九三三年の思想対策協議委員の幹事会で「思想善導案」が検討される最初の段階では、「国民精神文化研究所研究部ヲシテ日本精神ノ聖書経典トモ称スベキ簡明平易ナル国民読本ヲ編纂シ之ヲ広ク普及セシムルコト」が入っていた。そのことからは、文部省にとって「日本精神ノ聖書経典」たる「国民読本」の編纂は宿願であったことがうかがえる。」

P192「先に伊東談話と重ねてみると、「国体の本義といふと兎角古い歴史的な事」については、第一段階から第四段階まで、「大日本国体」と「国史における国体の顕現」の二章を配置することで一貫している。それに比べて、伊東が「社会的にも十分検討して時代認識に立つて国体の本義を明かにする」と意気込みを語った部分は、まだ構成段階とはいえ難航している。なかでも「現代思想」のうち「欧米思想」の扱いをどうするかで試行錯誤が繰りかえされたことがわかる。第三段階の「要綱」までは一章を費やして欧米思想の批判克服を意図したが、第四段階で扱いを縮小することに転換した。」

 

P194「草案第一稿では、「外来思想」の流入がかなり詳しく紹介され、北村透谷や幸徳秋水の名前さえ登場する。また、「自然主義的傾向の余りに現実の魂のみを見るに対して、理想を一面に尊重する所から新理想主義が起り、トルストイズムが謳歌され、ここに人間性にもとづいた思想が謳歌されるに至つた」という一文まである。こうした叙述は、次第に「消化せられない西洋思想」の弊害という観点から整理され、「西洋個人本位の思想は、更に新しい旗幟の下に実証主義及び自然主義として入り来り、それと前後して理想主義的思想・学説も迎えられ、又続いて民主主義・社会主義無政府主義共産主義の侵入になり、最近に至つてはファッシズム等の輸入を見、遂に今日我等の当面する如き思想上・社会上の混乱を惹起し、国体に関する根本的自覚を喚起するに至つた」という刊本の叙述に行き着く。

 刊本ではこれにつづいて、「今日我が国民の思想の相剋、生活の動揺、文化の混乱」は、「真に我が国体の本義を体得することによつてのみ解決せらる」と断じる。そして、これは日本のためだけでなく、「今や個人主義の行詰りに於てその打開に苦しむ世界人類のためでなければならぬ。ここに我等の重大なる世界史的使命がある」と展開する。いわば「八紘一宇」的発想にすぐ手が届く地点にまで進んだことになるが、これは草案第一稿には見えず、三六年六月の「要項」から「要綱草案」作成段階でもおしらく発想されていない。改稿過程で「今や我等は重大なる世界史的使命を担ふものとして、先ず国体の本義を開明し、大いにその体現に努めなければならない」という発想が生まれ、「世界人類のため」という名分に結びつけられたのである。」

※見方によっては国体志向が改稿に影響を与えたともいえるのではないか。

P195「注目すべきは、後半の、特に「我が国体に関する一の説き方に止るものであつて、これ以外の研究を拘束するものではなく」という部分である。これは修正版でもまだ「素より本書は完全なるものでなく、又これ以外の研究と叙述とを拘束するものではない」と残されているが、刊行本では前述のように「本書の叙述はよくその真義を尽くし得ないことを懼れる」という箇所に多少の痕跡をとどめるだけで、削除されてしまう。文部省編纂の権威ある刊行物たるためには、「我が国体に関する一の説き方に止るもの」という消極的抑制的な表現は不適と判断されたのだろう。」

※端的に草案段階では「理性的に客観的な視点」がわずかながらあったものとする(p195)。

 

P196「『国体の本義』は刊行とともに普及徹底が図られた。文部省から三〇万部が中等学校、小学校、青年学校教員全員のほか地方教育関係者にも広く配布された。市販された内閣印刷局版は約一年後には二〇万部を突破し、一九四三年三月現在で一九〇万部に及んだ。さらに文部省では約九万部の複製や全文転載も認めた。」

P251「一九四一年七月、教学局から『臣民の道』が刊行された。『臣民の道』については、「『国体の本義』の「実践的奉体」を意図した『国体の本義』の姉妹編」という評価が通説的なものだろう。これは実質的な受容のされ方としては妥当だが、その当初の編纂の意図からすると、やや異なったところから出発している。」

※むしろ「指導書」として編纂の出発点では意識されていたという(p251)。

 

☆P255「『臣民の道』が『国体の本義』の注解篇ないし姉妹篇という性格づけなされたものの、その四年間という刊行の時差は、内容において大きな相違をもたらした。まず、思想の帰一化の進展である。『国体の本義』においては、「我が国民の使命は、国体を基として西洋文化を摂取醇化し、以て新しき日本文化を創造し、進んで世界文化の進展に貢献する」とし、「西洋文化の摂取醇化と国体の明徴とは相離るべからざる関係」と捉えていた。ところが、『臣民の道』においては、「我が国民生活の各般に於いて根強く浸潤せる欧米思想の弊を芟除」することを必須とし、それらを「自我功利の思想」と一括して全面否定するのである。刊行本においては消えるが、「動もすれば複雑多岐に分れ勝ちなる考へ方や見方を統一」することを目的の一つとすることからいえば、この思想の帰一化は当然であった。

これと関連して、忠と考の関係にも差異が生じる。」

※欧米思想そのものの排除を指摘しているわけではなく、前段の評価は言い過ぎ感がある。「西洋文物の摂取」を行ってきた日本に対して、その態度を全面的な否定を行なっているわけではないからである。また後段の忠孝の関係性についても、忠孝一本の姿勢から忠の価値が優先されたのが『臣民の道』のスタンスと指摘するが、「国体の本義」でも「忠の道を行ずることが我等国民の唯一の生きる道であり、あらゆる力の源泉である」「孝は、直接には親に対するものであるが、更に天皇に対し奉る関係に於て、忠のなかに成り立つ」としており、何ら関係性に違いはない。

 

P339「この6の総括(※佐賀県における中等学校の思想調査の傾向から)は、自由主義個人主義的傾向の排除に文部省・教学局が躍起となっているだけに、地方の実情からの批判として興味深い。」

※そもそもそのような傾向の生徒がいないことに対して、重点課題のようにとらえることをナンセンスに見ている。「その一方で、大人の世代の時局認識の不徹底や精神的弛緩が問題視されていく」とする(p340)。

P352-353「大東亜戦争とわれら」、学校に約三万部を配布し、内閣印刷局からも四〇万部が市販された

P357-358「安岡(※正篤)は「今日の世上に行はれてゐる錬成といふものは多分に又あるべき道から外れてゐますね。何かかうむやみに従来のものから離れた真新しい或る特定の行をやることがそれが錬成だという風になつてゐますね。非常に癖のある、一般人に喜ばれない、何か不自然を感ぜしめるやうな錬成が行はれ過ぎて居るのではないかと思ふ」と述べ、末広や安倍の賛同を誘う。末広(※厳太郎)も「人生観或ひは世界観の押売りといふやうなことが可成り行はれて居りはしないか、それはそれで目的があつて結構ですけれども、私はその結果個性を必要以上に殺して、そのために学問の発達に害が有る方面もありはしないか」という。」

ピーター・B・ハーイ「帝国の銀幕」(1995)

 今回も「近代の超克」の議論に関連したレビューを行う。

 本書は戦時中の映画についての分析を行ったものであるが、特にその映画の「大衆性」に注目し、そのことと戦時の統制的なイデオロギーとのズレについての描写を中心的に行っていることが特徴的である。統制的イデオロギーに対する「抵抗」もそうだが、そのようなイデオロギーに対する冷ややかな大衆の態度についても重点的に語られている点で、当時の多層的な議論の存在が非常に興味深い。

 例えば、大衆の新体制に対する無関心さ(p259)や、非常事態の「消費」について(p34)、戦争への楽観主義(p266)がそれである。これは映画という市場に極めて近い所にある媒体の分析を行った結果というバイアスの存在も否定できないが、それでも特に都市部における戦争受容の一端を垣間見ることができる内容である。また、映画製作者と統制する側との緊張関係についての描写も非常に多い。統制的であることと、(映画製作における)創造的であることとは根本的には矛盾したものであり、製作者側はそこに独自の工夫を加えながら、適合ないし抵抗しようとする。抵抗に近い例として示すのは木下恵介「陸軍」をはじめとする作品で(cf.p367-368)、検閲が厳しい脚本のレベルでは適合的でも映像表現でそれを逃れようとする戦略など、製作者側の苦悩の一端も細かく記述している。

 

○統制的イデオロギー=「近代の超克」の矛盾の露呈について

 映画という媒体自体、極めて実践的なレベルでその表現が求められ、「理念」とは対極的な側面を持ちうる分野であることを著者自身は強く自覚しており、統制的イデオロギーの理念が実態としての映画でいかに矛盾したものとなっているのかについて、本書では詳しく記述がなされることになる。

 

・生得的な「日本人であること」と「日本人となること」の矛盾について

「国体の本義」(1937)においては半ば議論を誤魔化すかのように、実態における「西欧の影響に伴う悪影響」と理想としての「真の国体」は矛盾を内包し語られていた。しかし、映画という媒体ではそのような誤魔化しは露骨に表面化せざるを得ず、それ自体がナンセンスに見えてくることもしばしばあることを本書では示唆している。P194にあるように映画の世界でも繰り返しこの矛盾は現れているといえる。結局今も昔も「日本人であること」とは、何らかの(架空か実態かを問わず)参照軸を以て描かれるものであり、それ自体は理念型と同様、実態である必要性はない。そして、それが「日本人となること」を要求する場合、当然矛盾として現れることになる。これが最も致命的な矛盾として現れるのが、「日本人であること」を生得的なものとして定義する場合においてである。これは客観的に見れば滑稽でしかないが、「日本人であること」は決して疑問に付されることが許されていない以上、矛盾を矛盾として受け入れなければならない。もし、この矛盾を避けるのであれば、登場人物自体が「日本人であること」と同義となってしまうが、それは飛躍でしかないため、p220で言われるように「正常な、理解可能な」人物像として読み取ることができないか、具体的にはp374に見られるように「超人的」であることが要求される。これではとてもじゃないが「国民生活に根ざした」映画にはつながらない(p301)。

 当然このことに苦労したのが映画製作人側であったことは言うまでもない。国体の理想と実態の乖離はそのまま官僚と一般映画人が「同じ言語を話していない」ことと同義であり(p301)、常にその映画が検閲される立場にあった映画製作者側は、理想的な要求に沿った映画を作らなければならなかったが故に、「困惑を生み、困惑が不安を生む。そしてその不安が、さらにいっそうはっきりした統制を懇願させる」という悪循環も生むことになった(p302)。

 

・統制的イデオロギーとの根本的な矛盾について――「(文化的)包摂」をめぐる論点について

 一方でこの理念と実態の一致をそもそも志向しない分野もまた存在した。これは「日本人が描く外国人」という場面において露骨であったと本書は見ている。この一因として日本人の文化的貧困さに見出しているが(cf.p394)、それと同程度に観衆側の無関心さの影響の大きさも本書は一因と見ている(cf.p337)。

 「国体の本義」では日本(人)の優れた点として欧米の「対立的」構造ではなく、「包摂的」な性質があったと指摘された。文化受容についても日本は積極的に欧米文化を模倣し、近代化を行っていったこともその評価の根拠として語られていた。結論から言えば、「対立的」構造に乏しいという点では確かに正しい指摘である。しかし、これはどちらかと言えば、そのような差異に対して無頓着(更に悪く言えば、無知)であることを根源としているかのように本書では語られる。まさに日本人は「他者」を語ることについての方法論を欠落させていた。したがって、これがそのまま「包摂的」になることから離れた原因にもなったのである。

 これは結局日本映画においても、「包摂的」要素を欠落させる形で、例えば「勤労精神」と言ったものですべてを解決し、他国にもそれを波及させることこそ至上命題であるという見方を正当化した(p400)。すでにこのことは理念自体が崩壊したものとして把握すべき内容であろう。

 

 そして、この論点はそのまま「帝国主義」の正当化と何ら変わらない結果を生むことを意味していた。一つには被植民国に対するステレオタイプとして(p326-327)、又もう一つは日本文化の絶対的信仰とその波及として(p400)。このような議論について「国体の本義」では欧米的な二項図式論(そして、それは「個」の問題に還元して語られていた)として揶揄されていたものであったはずだが、結局映画という「現場」においてさえもこの考え方は理解されることなく、帝国主義的発想が支配することになるのであった。

 

 私自身はこのような議論とわか・こうじが語ったという事例(p439-440)との類似性を意識せずにはいられない。結局この上官もまた、「国体」を都合よく解釈することによって、「不可能を可能にすることが重要だ」という価値観に支配されていた。この「不可能を可能にすること」自体は極めてシンプルな「超克」の発想に基づくものであり、それは「国体の本義」とも部分的には合致していた。しかしこれは「国体の本義」そのものの表現では決してないのである。結局の所、「国体の本義」が抱えていた矛盾というのが、この上官には都合のいい部分だけを解釈・受容し、自らの権力行使にあたり断片的なものをわか・こうじに与えたという構図が出来上がっている。結局のところ、「国体の本義」のような聖典も現場の人間に都合よく解釈され、その権力行使の場で運用されていたという所が実態であったのではなかろうか。ここで重要なのは、いくら「理念」を語ったとしても、それが「実態」を意味する訳ではなく、かつ常にそれが「理念」とのズレを生じさせる可能性があるという問題である。「近代の超克」をめぐる議論で私が最も気に食わないのは、この議論が結局「超克」という「理念」に回収される言説であり、その過程で「実態」が不問に付せられることと、その状況が戦後の教育界における言説と極めて似た性質をもったものだと感じる点にある。「近代の超克が有効である」という主張に常に問わなければならないのは、このようなズレについてどのように問題に取り組むのかという観点ではないだろうか。

 

○敗戦に対し無反省であったのは何故か?——「日本人論」に対する反省の必要性について

本書ではこの無反省さについての問いについて、意味のある回答を与えている(p469)。このような連帯責任感が戦争責任について不問としたということは、かなりの部分真実であるように思える。これは、戦争責任論自体が極めて単純化された議論(例えば、統制に対する従属的態度そのものへの批判)と、それへの反発(愛国的であることの正当化)といった次元をなかなか出てこないことと無関係であるとも言えないだろう。本書が与える視点というのは、このような図式からは外れたものであり、極めて現実を直視することから問題点を抽出しようという観点は今後も行っていなかければならないだろうと思う。

 また戦争責任を不問にするという論理は、「戦争を体験していない」世代に対して何ら正当性がなく、むしろその世代に対して弊害となっていることに本書も目を向けている(cf.p472)。戦時中までの議論の回避と戦後の議論をあたかも別物として語ろうとする態度が無関係とは思えないし、むしろその連続性について注視すべきであると本書では強調されているが、これについては強く支持したい。

 私自身特に注視すべきと考えるのは「日本人論」における戦中戦後の連続性である。現在の日本人論は、あまりにも当時の言説と連続性があるにも関わらず、そこへの「創作性」について、つまり「ユニークであることを強調していること」について無頓着であり続けているように思える。これは欧米の研究者にとっては、あたりまえのように連続的な見方を行っているが(逆に過去の言説に引きずられ過ぎている可能性も否定できないが)、日本における日本人論はこの継承をほとんど行っていない(これは、日本人論を総括する立場で著されているはずの杉本・マオア「日本人は『日本的』か」(1982)や青木保「「日本文化論」の変容」(1990)などが戦後からの議論に留まっていることからも言えるだろう)。また、このような議論は80-90年代にかけて教育をめぐる議論にも大きな影響を与え、現在に至っていることも含め、「日本人論」の系譜について、それがいかに語られ、それがいかに国民性を語る上で正しい(実態のある)言説だったのかという問いは問われ続けなければならないものだろう。

 

<読書ノート>

P28「事件の首謀者であり、実際に犬養首相を撃った古賀中尉はその裁判で、五・一五事件の陰謀者たちは「破壊を第一に考え、決して建設という使命を実行しようなどと思っていなかった」と認めている。彼らは、陸軍大将荒木貞夫の助言に基づき、国民精神を見失わせる西洋化の「歪み」という分厚いベールを、「大和魂」によって払いのけなければならないと決意したのだった。すでに陸軍大臣であった荒木は、「これらの純粋で素朴な若者たち」の行動を褒めたたえ、「押さえきれない涙とともに」拍手喝采した。新聞やラジオで裁判の行方を見守った人々の多くもまた同様であった。

 荒木がまもなく「非常時日本」と呼ぶことになる新時代においては、直接的な行動が言論よりも勇ましいとされ、「誠実な信念」が若い熱狂的軍人たちの排他的特性となった。」

P29「明治時代以来の国民心理の構造に内在してきたものは、国家への奉仕に関しては「なぜと問うようなものではない」という確信である。徳川専制政治を倒し、平等社会の実現を夢見た坂本龍馬でさえ、疑いの余地なくこれを支持している。……文部省が「臣民の道」についての手引きを配布する一九四一年までに、個を滅して国家に仕えることが、日本国民の定義そのものとなっていた。……もちろん、どの「召集令もの」においても、召集される者の問題は、当局の何らかの代表者によって解決される。これは、国家がその国民を、慈悲深く親のような愛情で見守るというイメージを強調する。しかし同時に、実際には内在するジレンマを解決することがないので、国家への忠誠という、奥底にあるテーマまでぼんやりしたものになってしまう。そこに残されるのは、個人にとっての利益と国の規定する「臣民の道」との間の本質的矛盾である。」

 

P31「以上に述べたような映画は、超国家主義的で精神主義的なメッセージを表現していたが、それでは極右組織は、どれほどの影響力を直接的に映画産業に及ぼしていたのだろうか。五十年以上たった今でも、その答えは謎に包まれている。映画業界には、右翼にしても左翼にしても、有力なイデオローグはほとんど含まれていなかったので、業界内部からの、映画製作に対する純粋なイデオロギー的な直接の影響はおそらく無視してよいであろう。」

P34「「非常時」というキャッチ・フレーズは、時代の陳腐な決まり文句のひとつとして定着した。しかし、それはしばしばその本来の意図に反して使われた。「今、何時?」「非常時!」というだじゃれは、喫茶店などで広まったが、新時代に対する消極的な抵抗がうかがわせる。

 「非常時」は、すぐに商業主義によって横領され、内容のないものになってしまった。「非常時日本」を利用して、国内の物質的状況を改善しようというキャンペーンの一環として、滋養強壮飲料の広告が出回った。」

P35「牛島(※一水)は、ジャーナリスト、政治家、文芸運動家、右翼思想家を、何か得体の知れない大きな動物の正体をつかもうと一生懸命に手探りする盲人たちとして描いている。その巨大な羊のような動物には、「ファッショ」とラベルが貼られている。しかし、日本をむさぼり食おうとしている怪獣は、もちろん、ヨーロッパ的な意味でのファシズムではなく、日本的な意味での、軍国主義的官僚制だったのである。」

 

P43「とにかく、ナチス・モデルがいくら魅力的であっても、そのイデオロギーはほとんど日本の官僚の目的には役立たなかった。日本土着の思想は、しばしばまとめて「日本主義」と呼ばれ、個人と国家との間の家族的に密接な絆を強調し、必要とされるあらゆる道徳基準を提供していた。

 例えば、一九三四年のくだらない「ママーパパ」論争は、ナチスの人種・文化純化政策とは、ほとんど無関係であろう。同年八月二九日、文部大臣松田源治は、当時「ママーパパ」と言うようになった子供たちの新習慣を激しく非難した。」

P50「なぜ革新官僚は、批評の禁止というナチスの先例に従わなかったのか。その理由はおそらく、協力を確保するのに、はるかに確実な手段があったということであろう。その手段とはもちろん、不敗の「懇談会」戦法である。この手法は、他の分野の作家や芸術家には非常に有効だと、すでに判明していた。中心的批評家に対する御機嫌とりは、特高警察の手荒な戦術よりも、はるかに多くを成し遂げていたのである。批評家らは、内務省の丸テーブル、あるいは「料亭」に招かれ、たやすく協力的雰囲気に包まれていった。実際、誰がこのような「求愛」のもてなしに抗することができたであろう。

 太平洋戦争終結まで、映画雑誌は頻繁に、数人の批評家と政府、軍の官僚が出席する「座談会」を大きく取り上げた。そこで討議されたのは、批評家(ないし映画製作者)はいかにして国策への最良の貢献をなし得るか、についてであった。田中三郎や津村秀夫のような批評家は、政府に仕える公職の地位を与えると誘われさえしていた。」

P60-61「映画改革者帰山教正は、一九二九年の「映画の性的魅力」と題されたエッセイの中で、どういう基準で映画俳優が美しいと判定されるかについて書いている。その基準はすべて、伝統的な日本人の顔よりはむしろ、西洋人の顔に基づいている。……

 また映画法の時期は特に、学童が日本民族の神話的起源について『国体の本義』に基づいて教えられている時でもあったので、この「白人コンプレックス」は屈辱的遺産と考えられるようになっていた。一九四〇年ごろ、文部省映画改善委員斎藤昌は、もし日本人が映画に見る西洋人の肉体的特性を崇拝し続けるならば、「我々は永久に彼等の精神的植民地に終わるより他はない」と警告している。

 しかし、外国映画、とくにアメリカ映画を徹底して非難するための論理を構築することは、極端に根拠の弱い仕事である。まず第一に、日本映画界が西洋からこうむった歴史的な恩恵はいかに説明すればよいであろうか。」

 

P67「映画に関連する革新官僚の中で、最も多く筆により主張したのは不破祐俊である。……

 不破は、次のように述べている。「文化という言葉は、改良或は改善の能力をその中に含んでいるものを培い育て上げてその能力を完成させて行く、と言う意味をもっている。文化は絶えず進歩発展する。その進み行くときに我々は生き甲斐を感ずる。」

 ここで思い浮かべられる官僚像は「保守主義者」でもなく「国体の本義」の誠実な信奉者でもない。むしろ、社会を人間(特定すれば官僚自身)によって完成させることができると考える、楽観的な十八世紀合理主義者の像である。」

P67-68「後の章でも見るように、革新官僚の「健全なる娯楽」に対する要請は、映画監督、脚本家、撮影所長らをノイローゼ寸前まで追い込んだ。その原因は明らかである。映画製作者は気づて(※ママ)なかったが、官僚たちはこの「健全」を、一般に「娯楽」として受け取られているものとはほとんど正反対の概念として使っていたのである。」

P68-69「不破が次の一節で明らかにしているように、革新官僚の活動を決定する中心的概念は、十九世紀の保守主義者の「社会有機体説」ではなく、十八世紀の「機械論」を露骨に体現したものであった。「文化政策は国民文化の生まれる所のそれぞれの文化機構の整備が刻下の急務である。文化機構が整備されればボタン一つ押せばその機構が総動員してたちどころに文化動員の態勢となり、国家の意図する啓発宣伝政策が軌道に乗り得るわけである。」

 おそらく、この子供じみた単純な発想が、日本文化のファシズム化の二本柱である「精神総動員」と、情報局による「文化団体の再編成」の概念的な枠組みを用意したのであろう。」

 

P194「「ヒューマニズム」戦争映画は、兵士たちに備った「人間らしさ」を強調した上で自然に湧き上がる仲間同士の共感というかたちで彼らの「日本人らしさ」をも描き出していた。そこには、その「日本人らしさ」をめぐって何らかの緊張が感じられたり、それが要求する基準を満たすために何らかの内面的葛藤が見られることは決してなかった。それとは対照的に、精神主義映画は例外なく精神的葛藤のドラマであり、「日本人らしさ」が深刻に問題化されている。主人公は、「日本人らしさ」を生まれながらに備えているにもかかわらず、それを自分の生き方に具現するために、精神的葛藤に満ちた遍歴を経験しなければならないというパラドックスと格闘することになるのである。」

※例えば、大塚恭一は「我々は祖先の血を受け継いだ日本人である以上、そのために自分の中の日本的なものが亡びてしまったとは思えない。かえって日本的なものに対する愛着は色々な形となって自分の身内に湧き起こって来るのを感ずる。」と話したとし(p194)、長谷川如是閑は「西洋人が自分の歴史について語るとき、一定の客観的立場を取りながら、外国勢力の侵入、そしてその結果として民族の血の混合について触れる。それに対して日本人は、自国に歴史に対するときでも、自分の家系の先祖をたどるのと同じような、より主観的な態度でのぞむ。……したがって日本映画は、いかにその媒体が「近代化」されようとも、日本の「心」刻みつけられたメッセージを見失ってはならないし、この「心」は、母国語に宿る精神をも含んでいる。」という(p194-195)。

☆P220「あらゆる精神主義映画に共通する一つの欠点は、主人公を表面的な「立派さ」においてのみとらえることに終始しがちなことである。このことが、心理的内面へのすべてに入り口を遮断し、正常な、理解可能な動機に基づいてドラマを構成することを不可能にしてしまうのである。」

※実際に表現する立場にある映画界固有の問題点であるともいえる。

 

P259「秋の到来とともに、新体制の姿が浮き彫りになり始めた。その中心的なものが「大政翼賛会」で、これは、一〇月一二日に発足し、さまざまな奉仕団体の活動を通して、政府を支持するために国民の団結を促す公事結社であった。……国民は、このようなやり方はすでにあきあきしており、新体制に興味を示す者はほとんどいなかった。『文芸春秋』による一九四一年一一月の世論調査では、六百八十人のうち六百人までが、なんのことか事態を把握できていないという結果が出た。」

※この出典は文芸春秋そのものではなく、他著者の論文に拠っている。表現が漠然としているのはそのせいか。

P262懇談会(1938年7月30日)において映画脚本家に対しまとめた指針の一つに「家族体系や国家に対する自己犠牲に見られる「日本的精神」を讃えること」が挙げられる

P266「しかし、これらの新たな外国勢力の脅威や日常生活の一層の困窮化にもかかわらず、一般市民はあいかわらず、戦争はこれ以上拡大せず、最後の最後には何らかの妥協がはかられるだろうと信じていた。新聞でアメリカ映画がいかに批判されようとも、映画雑誌は依然としてハリウッドのゴシップを載せていたし、目に見えて減少してはいたものの、アメリカ映画はやはり上映され続けていた。」

※1941年の話をしている。

 

P301「「これからの映画」は、一九四一年五月に「国民映画」という公式名を与えられる。情報局によるこの新映画の定義は、混乱と不安を生じさせることを意図しているかのようである。「国民生活に根ざし、高邁なる国民的理想を顕現すると共に、深い芸術味を有し、ひいては国策遂行上、啓発宣伝に資する。」いったいどうやればこのような定義にのっとった映画をつくることができようか。恐ろしいほどの矛盾である。もし「国民生活に根ざし」た映画をつくるとすれば、政府規制により公然と攻撃されている松竹お得意の「小市民劇」とどこが違うのか。それに、「深い芸術味」とは何を意味するのだろうか。これも否定されてきたのではないのか?」

※「国民生活に根ざす」ことが期待されるのは、「高邁なる理想」を所与のものとして捉える態度は同じだろう。それこそが矛盾だといえる。

P301「官僚と一般映画人が同じ言語を話していないということはすぐさま明らかになったが、説明を求めるたびに返って来るのは、漠然とした崇高な激励の言葉だけであった。「我々は、国民全体に愛され、理解され、国民の気持ちを高揚し、国民にあらゆる障害や敵を克服する勇気を与え、希望ある健康生活を送らせ、健全なる思想という原動力を国民に吹き込む映画を期待しているのです。」」

P302「統制が困惑を生み、困惑が不安を生む。そしてその不安が、さらにいっそうはっきりした統制を懇願させる。これこそが、映画人を征服した心理的悪循環の正体だったのである。」

 

P326-327「他方、この映画(※「続・南の風」、1942)で戯画化されている東南アジア人が、西洋がさまざまな民族集団を描くために用いて来た、滑稽か、さもなくば邪悪というステレオタイプといかに類似しているかは、まさに驚きである。例えば斎藤達雄(シェン)(※シンガポール人)の出っ歯と卑屈さは、ハリウッド映画に出てくる「悪辣なジャップ」のイメージとほとんど同じである。……

 これらの(※シェンの)「子供っぽい」とか「嘘つき」という形容は、有名な人類学者マーガレット・ミードが、一九四四年一二月にニューヨークで行われた会議の報告で、日本文化をさして用いることになる言葉そのものであった。太平洋戦争中のアメリカでは、敵国人である日本人の性格を明らかにするために、擬似精神分析を用いるのがはやっていた。日本人の行動を、パラノイア、犯罪性向、尊大などと分析する者もいた。PsychoanalyticalReviewのある記事では、日本人男子の「現実を無視した幼児性」に注意が向けられた。言うまでもなく、これらの戦時中の「科学的発見」は、それまで長らく流布してきたステレオタイプ的な見方を、さらにいっそう固めるのに役立ったにすぎない。「子供っぽい」という表現は、十七世紀以来、インディアンや黒人に対して用いられた言葉であったが、ハリウッド映画の初期から、東洋人を形容する際には、それに「邪悪で不可解」という表現がつけ加えられた。

 したがって『南の風』は、西洋人は日本人を描くときの民族蔑視的な表現を、新たに占領した領土の人々に適用したものであった。」

※ジェフリー・ゴーラーなども擬似精神分析の典型論者。このような国民性論が、特に対外的なものとして語られる場合に、実体を伴わない「偏見のステレオタイプ」を表現したものに過ぎない、という典型例でもある。

P327「その後の太平洋戦争中の映画は、特に「ドキュメンタリー」的なアプローチを取ろうとするものは、占領地の民族と日本民族の間の「勤勉さ」の違いを基準にする傾向があった。例えば『ビルマ戦記』のナレーターは、こう語る。「暮らしが楽であった住民は、素直で、気楽な性質をもっているかわりに、一般に怠け者であり、ひたすらに来世の生活を信じて楽天的である。」しかし一方、「桃太郎・海の神兵」という漫画映画では、さまざまな種類の動物として描かれた島民が、日本軍の飛行場建設を手伝う際に大変な勤勉さを示し、面目を躍如としている。

 先駆者のヨーロッパ人たちと同じく、日本の植民地政策は、世界を文化の優劣という観点でとらえていた。」

※言うまでもなく桃太郎では、被植民地国の従順さに重きが置かれているということ。

 

P335「おそらく(※マレー戦記における)ドイツ映画にはけっして見られないシーンは、シンガポールの通りを進む戦車の凱旋パレードであろう。シンガポールの通りを進む戦車の凱旋パレードであろう。通り過ぎる各戦車のハッチから半身を出している乗員は首から白い布で包んだ箱を掛けている、彼らは、この戦闘で死んだ戦友の骨箱を下げているのである。「欧米人には恐らく奇異の感を誘う」という津村の言葉は正しい。」

P337「日本の観客が、政府の「大東亜共栄圏」政策の「民衆解放」を謳うレトリックには全く感動しなかったこともあって、映画は失敗作となった。観客の関心は、日本軍の行動と、西洋勢力に対する日本軍の優秀性の誇示に集中していた。超国家主義と人種的ナルシシズムの時代に、外国国民の政治的独立の成否など一般の観客にはまったくどうでもよかったのであろう。」

※大衆的にどうでもよくても、プロパガンダ映画としては必要な要素だったともいえる。なお、本映画(ビルマ戦記)の不人気さの指摘は1942年に作られた45本の映画で36位だったという事実に基づく(p336)。対してマレー戦記は一位だった。

P360「英米の映画もたいてい、勇気をもって耐えることと、ささやかではあっても自分の責任を果たすことをテーマとしている。しかし、強力なボランティア精神の存在にもかかわらず、戦争遂行のための市民の団結は、あくまでもゲゼルシャフトの次元に留まっている。他方、銃後の増産努力を描く日本の精神主義映画に支配的なコンテクストは、一種のゲマインシャフトである。個人と国家、市民と兵士、平和と戦争、そして、まさに生と死さえ切れ目のないものとして繋がっているのである。

 精神主義の戦争映画では、戦争活劇映画とは違って、敵は、それがいかに卑劣な存在として描かれていようとも、中心主題には関係がない。戦争とは精神を鍛える場所であって、敵とは、己の内に住む猜疑心や快楽を求める心などの、戦意を弱める気持ちである。外敵に重点を置くことは精神的な集中を乱すことに他ならない。したがって、被害妄想的なスパイなどの形を取って、敵が重要人物として登場する敵愾心映画は、数段低いジャンルに属するとみなされた。」

 

P370「他方、上述の将校の言葉にある新しい没個人的な戦争においては、武士道的な英雄主義は格下げされて、新型の集団的英雄主義が前面に押し出された。これは教科書政策上の編集方針の変化を反映している。一九三四年に行われた国語教科書の改訂により、「勇気」にかわって「忠義」が兵士や市民の最高の美徳の座についたのである。教科書は、国民の「共通の知識」の中で、国家が直接に操作できる部分であった。実際に国家は、教科書を改訂することによって国民の「共通の知識」を書き換えてきた。一九〇四年から四三年の間に、五回の改訂が行われた。一九三二年までは軍国主義教育の教材は、もっぱら際立った個人とその偉業の話であった。しかしその後は、偉業が語られることはあっても、行為者の名は「ある兵士」として伏せられることが多くなった。手柄は個人から、顔のない集団全体のものに変わって行ったのである。偉大な行為は集団の結束した努力によってこそ可能になると強調された。一九四三年の第五期の教師用指導参考書は、この点に関して詳しく記述している。すなわち、真珠湾攻撃の際に戦死して国民的英雄となった九人の潜水艦乗組員についての話を新しく挿入する意義を説明し、その目的は、九人の軍神を取り上げられながらも、個人的な勇気ではなく協力の本質を教えることであるとしている。」

P374「この教義では、兵士にとっての人間の真髄とは、日本人であれば生まれつき持っている「大和魂」である。各人の私的存在は、迷い以外の何ものでもない。『海軍』では、予科練の士官の一人が、自分の訓練生に向かって言う。「お前たちには、手も足もない。困難と苦労は、自分を自分とみなす心の所産に過ぎない。」軍神としての「不死」とは、実際には、あらゆる個性の消滅であり、非個人的抽象との完全な同一化のことなのである。死ぬことによってしか、人はその抽象を現実に転換することはできない。」

P376「実際の製作用として最終的に選ばれた脚本の多くには、急激に上げられてゆくノルマを不服とする労働者たちが扱われていた。決まって主人公は、自己犠牲的英雄行為か超人的努力によってこの抵抗を克服し、肉体的疲労や過剰使用の機械類の故障といった日常的な問題が精神力によって解決できることを労働者たちに証明して見せる。ここには、全国の工場で労働意欲がたえず減退しつつあり、この危機的状況が生産性を鈍らせ、戦略的に重要な兵器の品質にも影響していたことが反映されている。」

 

P387「不破祐俊と他の革新官僚らは、三〇年代の末から、時代劇を史実に基づいた「歴史映画」に変身させることを要求していた。映画業界は、これに真剣に取り組み、この理想に沿って多くの作品を生み出した。……しかしながら、これらの作品はすべて、日本史上の出来事しか扱っていなかった。しかし太平洋戦争の中期になると、日本の外で起きた歴史的進展を描くことが、映画製作者の責任として要求されるようになった。この結果、敵愾心喚起のための宣伝材料を西洋諸国のアジア侵略の歴史に求めた映画が、多数制作された。

 荒井良平のスペクタクル『海の豪族』(日活、一九四二年一〇月)は、この種の最初のものであった。……興行的にはかなりの成功を収めたが、ほとんどの批評家はあざ笑うか、まったく無視するかであった。飯島正の映画評は一行足らずだった。「ただただ滑稽である。」

P394「杉浦のコメントは、無意識のうちに敵愾歴史映画の最大の弱点をさらけだしてしまっている。つまり、これらの映画は時代劇メンタリティーの所産だということである。歴史映画に託された二つの宣伝機能は、(1)一般大衆に、日本と西洋列強との間の「多次元的」(政治的、文化的、思想的、軍事的)な摩擦の歴史的文脈を示すこと、(2)うまくいけば、いっそうの戦争協力につながり得る敵愾心を民心に起こさせること、であった。

 制作された歴史映画は両方の点においてーー少なくとも部分的にはーー失敗したが、その原因の大部分は、この使命を任された脚本家と監督がB級時代劇映画の単純な物語展開という因習から自らを解放することができなかったことにある。時代劇は、個人的復讐の物語として本質的に非歴史的であり、異なる思想体系ないし政治制度の間の弁証法的な対決という概念をまったく持っていないのである。

 行動規範の間の衝突もまた存在しない。明確に存在するのは唯一、武士という行動規範のみであり、この規範を維持しようとする者と、それを無視するか意識的に壊そうとする者との間にある衝突のみである。」

 

P400「南方の未開の地域に対する日本政府の政策は、できるかぎり日本的精神をたたき込むというものであり、それは、日本的で「勤労精神」のよってのみ彼らにも進歩が可能になるという仮説に基づいていた。フィリピン、インドネシア、その他の東南アジア諸国でも、この政策は真剣に推し進められた。日本語を普及させようという一斉努力は、日本文化の導入をより容易にするためでもあり、最終的には日本文化、つまり、日本民族のみが盟主であるという価値観を植えつけることを目指していたのである。同様に、立花夫妻の文化的ナルシシズムも、当時の「インテリ」向けの雑誌ならどこにでも載っていたような、定説を反映したものに過ぎない。極端ではあるが、十分に定型的な例が、志村陸城の論文の「大東亜秩序の原則」という一節に見られる。「世界の全ての業績――人類営々の努力の帰向点はわが日本の国体を中核とする真底の文化にあること、世界文化史の終局的な満足点はこの日本にこそあること、それを極め尽くしたる自信がなくして対外政策は考えることが出来ぬのである。」」

如実に出てくる帝国主義的思想。「解放」映画というジャンルの話だが、「「解放」映画の驚くべき特徴のひとつは、「解放」される地域の土着文化に関心がほとんど払われていないことである。」(p397)とも言われる。

P417「対照的に、太平洋戦争期の日本では、陸上の実践における自国の歩兵たちの試練や奮闘を扱った映画はごく少数だった。……その上、ストーリーラインも古い話の繰り返しであり、強調されるメッセージは単調な決まりきったものであった。すなわち、(1)日本の兵士は戦闘において勇敢であり、効果的な働きをする。(2)敵兵は、戦うよりも敗走する腰抜けの臆病者である。」

※娯楽としての消費以上のものでなかった、という見方もできる。

 

P430-431「一九四四年の半ばまでには、映画批評そのものも息を秘め、各映画の粗筋の紹介に、国策目的のごく簡略な説明を加えただけのものになっていた。また、一九四四年の春以後、映画雑誌は、映画とはまったく無関係の記事も掲載せねばならず、国家防衛の仕組みや軍需物資生産における生産力増強について紙面を割かざるを得なくなった。」

P439-440「この時代の精神的異常さを物語る例として、名古屋在住の現役の弁士わか・こうじ氏は、次のような実話を語ってくれた。

一九四五年一月に、わか・こうじは九州中部の都城陸軍特攻隊基地に技術部門一等兵として現役招集された。ある日、南方の基地から未現像のままのニュースフィルムが届いた。上官は彼に、「すぐ現像せよ」と命令した。「しかし、この基地には現像する設備は何もないからできません」と答えると、上官は、「わが帝国の航空隊は天皇陛下のものであって、不可能はないはずだ。何とかしろ」と再度命令した。わかは考えた末に、たくあんをつくるための樽を使って現像した。質のよい現像ができなかったことは言うまでもない。何百フィートもの現像されたフィルムを兵舎でのばして、扇いで乾かした。腕は、付着した酸であちこちがかゆくなり、掻くと血がにじみ出た。次に出された命令は、「試写しろ」であった。「ネガを試写したら、キズがついておしまいですよ」と反対すると、上官は激怒し、「お前は、態度が大きい。不可能はない」と言って、靴で顔面をなぐられ、一時間くらい気絶していた。そのときの傷は今も残っているという。意識が戻ると、上官は、「どうしても試写しろ」と再度命令した。上映会が行われたが、現像状態が悪かったので、映像全体が茶色っぽく見えた。それでも上官は、現像と試写に成功したことを喜んだ。上官は「できない、できないと言ったのに、できたじゃないか」と格別に満足した様子であった。この作業に成功したことで、わかは賞金三十円と一週間の休暇を褒美として与えられた。

 上官がこれほど満足したというのも、やはり、精神主義が本当に効力を発揮することを証明できた、という点にあったのである。」

※「超克」の意味を考えさせられる。

 

P456「政府も、それなりの対策を用意していた。「憤慨」「決心」「忍耐」などの用語を連発しつつも、数年前からの厳しい緊縮規制のいくつかを和らげることに着手したのである。映画業界は、この政策転換の恩恵を被った主要な領域のひとつであった。一月二三日、急速に悪化する戦況のもとで劇映画の生産継続に対する政府援助に関する議題が阿子島議員によって予算会議にかけられた。」

P458「一九四五年には、三本ものあたらしい喜劇映画が作られた。三本とも東京空襲も開始以前に制作に入っていたが、これらが次々と封切りされたことからも、政府が捜し求めていた「精神対策」に、恰好の手段であったことがうかがえる。」

P465「天皇の演説の直後、内務省は全国の映画館に一週間、閉館するよう命じた。東京の街路では、至るところに混乱が見られた。皇居の前では自殺が相次ぎ、絶対不服従を主張する青年将校たちは上官を殺害した。厚木航空隊の飛行機が空から町中にビラを巻いて、戦争継続を訴えた。降伏反対派によって捏造されたと思われるうわさが広まったが、それは、日本人男子はすべて去勢され、女子は売春を強要されるというものであった。五歳以下の子供は、アメリカ人が軍用犬のえさにするから、絶対に見つからないよう隠しておかなければならないというものもあった。」

 

P469「戦後の世代は、十五年戦争期の映画業界における個人の責任が一度も徹底的に追求されたことがないのはなぜだろうかと、しばしば不思議に思う。答えの一端は、きっと、全日本映画従業員同盟が、一九四五年一二月に東宝で催した会議の席上、この問題が初めて(かつ、最後に)公に提起されたときにもち上がった、論理的ジレンマの中に見出されるだろう。……そのとき、一九四四年に文化映画『大いなる翼』を監督した関川秀雄が、「戦争中みんな何等かの形で、大なり小なり戦争に加担したんだ」ということと、宮島自身、阿部豊の『あの旗を撃て』カメラマンであったことを指摘して、これに反論した。……だれもが幾分かは「罪」を共有している以上、他者を糾弾する権利はだれにもなかった。……

 業界内の者たちがこの問題の口火を切ることはできないとしたら、映画評論家はどうだろう。……しかしここでも、同じ論理的ジレンマが沈黙を強いていた。津村秀夫は、これまでに見てきたように、軍国主義国家の映画政策の形成に深く関与し、戦争の終盤には、敵愾心昂揚映画の熱烈な提唱者に転じていた。飯島正は、大日本映画協会に公的な関係にあり、『君と僕』の脚本に協力し、さらにもう一つ、戦争宣伝映画用に脚本を書いた。……これらの活動の多くは、戦時下の必要に迫られた自然な反応と説明することも出来ただろう。しかし、批評家たちは、自分たちも「お前だって……」という追及から逃れることはできないと感じた。」

※しかし、これはどこまでも同年代の者同士の議論の中でしか成立しない議論であり、自己内省に乏しかった点についての弁解にはならないだろう。

P472「長州藩士も映画人も、大きな歴史的断絶の時代に生きた。あまりに大変動のために、その前と後とでは連続性が見出しにくいほどである。実際、過去はあらゆる価値を失い、ただひとつ残ったのは、墨で黒く塗りつぶされた教科書のように、否定されなければならない負の教訓のみであった。そして新時代は、過去を「うそ」としてあまりにも完全に拒絶してしまったために、その誕生の時点から深奥に疵を持つことになったのである。この事実の認識こそが、伊丹万作をして、次のように言わせたに違いない。「『だまだれていた』といって平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。いや、現在もすでに別のうそによってだまされ始めているに違いないのである。」

 この本を書き進めていくうちに次第に明らかになって来たことは、伊丹のこの指摘の正しさである。その「うそ」中でも一番大きいものは、戦前、戦後という言葉が歴史上に実在する断絶を表しているという考えである。それは錯覚にすぎない。実際には断絶したものより、持続して来たものの方がはるかに多い。その代表的なものの一つとして、「官僚」がある。自分たちを、国民と国民によって選ばれた政治家を超越する存在と考えている官僚たちによって、支配され操られ続けている日本の現状は、戦前となんら変わるところがない。」

※これは、あらゆる日本人論に対しても、ほとんど真理でありうる。つまり、それは戦争を介して捏造された国民性論が残存し続けたものであるという可能性が常にあるということである。

本人は『日本的』か」(1982)や青木保「「日本文化論」の変容」(1990)などが戦後からの議論に留まっていることからも言えるだろう)。また、このような議論は80-90年代にかけて教育をめぐる議論にも大きな影響を与え、現在に至っていることも含め、「日本人論」の系譜について、それがいかに語られ、それがいかに国民性を語る上で正し言説なのかという問いは問われ続けなければならないものだろう。

 

<読書ノート>