ジャック・デリダ「他者の言語」(1989)

 次のレビューはウェーバーにしようと思っていたのですが、思っていた以上に理解が進まず、結局デリダを先に取りあげることにしました。デリダについてはこれまでも簡単に触れるような機会はありましたが、今回本書と「法の力」(訳書1999)、「精神分析の抵抗」(訳書2007)、「絵葉書1」(訳書2007)、「散種」(訳書2013)あたりを読みながらデリダの贈与論をとらえていきます。「他者の言語」はデリダのいくつかの日本での講演・対談をまとめたものですが、贈与論についてまとまった語りを行っているのも5冊の中では一番だったと思います。また、日本の論者からデリダに質問がなされる場面も多いですが、鋭い質問が多く、デリダ理解にも一役買う内容であると思います。


<読書ノート>
p66 「ところで贈与は、もしそうしたものがあるとすれば、たしかにエコノミーに関連をもつでしょうが、しかし贈与は、もしそういうものがあるとすれば、エコノミーを妨害するまさに当のものを意味するのではないでしょうか。すなわち、エコノミー的計算を一時中断させ、もはや交換を行なわせず、円環を開き、相互性ないしは均斉を、共通の尺度を不可能ならしめ、帰還をそらせる——取り返しようもなく——まさに当のものを意味するのではないでしょうか。」
p67 「贈与は不可能であるのではなく、不可能なものであるのです。それは不可能なものとしておのれを告知し、おのれを考えられるべく与えます。」
p70 「不可能なこと、これをどう解するべきだったのでしょうか。
 私はこれからそれについて話します。私はこれからそれについて話します、と。言いかえれば、私はこれから不可能なことを名づけましょう、と言っているのであって、つまりそれを現前化するのではなく、みなさんにそれを聞くべくないしは考えるべく与えることを試みましょう、と言っているのです。……つまり、贈与は不可能であるが、しかしそれは思考しうる、ということになれば、これは何を意味するのでしょうか。」

p74 「贈与があるために必要なことはただ単に、受贈者が返さない、返済しない、償わない、報いない、契約に入らない、ということにとどまりません。ぎりぎりのところでは、彼がその贈与を贈与として認めさえしないのでなければなりません。もし彼がそれを贈与して認めたら、もしその贈与が贈与として彼に現われたら、もしそのプレゼントがプレゼントとして彼に現前したら、この単なる認知だけでその贈与を廃棄するのに十分です。なぜでしょうか。なぜなら、その認知は、物そのものの代わりに、一つの象徴的な等価物を返すからです。」
p75 「極限においては、贈与としての贈与はそれの受贈者に贈与として現われてはならないでしょう。それは贈与として現前しないことによってしか、贈与としての贈与ではありえないのです。」
※ここで厄介な問題は、それでは時間差的な贈与行為はすべて「贈与」と呼ばれるべきなのか、という点。ここでいう「現前していない」状況は、その贈与されたものが真でない、という意味も含まれている。それは余計なもの、とも言えようか?
p75 「私は故意にこう言いました。贈与がおのれの現象性を引きとめておくだけで十分である、と。しかし、〈引きとめておく〉は〈取る〉をことを始めます。他者が受け取るや否や——ということはすなわち、たとえ彼が、贈与として彼が認知もしくは承認した贈与を拒否したとしても——たがって、彼が贈与に贈与の意味合いを引きとめておくや否や、もはや贈与はあらぬのであります。それゆえ、贈与があらぬならば、贈与はあらぬのでありますが、しかし他者によって引きとめておかれて贈与とみなされる贈与があるならば、やはり贈与はあらぬのであり、いずれにしても、贈与は現実に存在せず、おのれを現前させないのです。もしそれがおのれを現前させれば、それはもはやおのれを現前させません。」
※贈与もないが、負債もないのでは??

p76-77 「贈与の不可能とダブル・バインドというのは、つまり次のことです。贈与があるためには、贈与は現われさえしてはならず、贈与として知覚されてはならず、取られたり保有されたりさえしてはならないのです。」
p77 「言いかえれば、ただ受贈者が贈与をそれとして知覚してはならず、それについて意識をも記憶をも承認をも有してはならず、彼がそれを受け取るまさにその瞬間にそれを忘れなければならない、というだけにとどまりません。そればかりではなく、その忘却がきわめて根底的であって、そのためにそれは忘却の精神分析的カテゴリーからはみ出るのでなければならず、抑圧の忘却、諸抑圧の忘却でさえあってはなりません。というのも、これらの抑圧は、ラカンが明示しているように、留保しておくことによって、保有によって、つまり忘却されたもの、抑圧されたもの、ないしは検閲されたものについてそれら抑圧が行なうエコノミーによって、負債と交換を再構築するからです。」
※ここでの解釈はラディカルである。デリダは結局ここで述べているのは負債と交換の再構築「の可能性」でしかない。その可能性も排する条件を贈与にみる。ラカン解釈で言えば、ありえない目標の追求なるものは、デリダのなかでありえないということにもなりうる。いや、正確にはここで「可能性を排する」ための言及でなく、時間の経過で「必然的にそうなる」という前提が必要か。

p79 「贈与が贈与として現われてしまったら、その時点から直ちに、それは象徴的、犠牲的、ないしはエコノミックな構造のなかにかかわり込んでしまうでしょうし、そしてこの構造が贈与を廃棄して円環のなかに組み入れてしまうでしょう。しかもこのことは、一つの主体があるや否や、つまり贈与者と受贈者が、同一的な、同一化可能な主体に、自己を構成するや否や、起こるのです。」
※むしろ、亡霊的なものはこの間に現れるものなのではないのか??デリダのいう現前と私のいう現前、明らかに異なる。私の言う現前は、「それが真理であるとみなす場合」を指す。一方デリダはそれが存在として「ある」とみなされた時点で現前するという。私の言うレベルの場合、それは「存在の可能性としてはありえるが、実際のところ、存在が認められていない」状況である。もちろん、それが現前される可能性はある。だが、それは必然的ではない。
 一般論としての幽霊の存在を、デリダはどう見るか?我々は一般論として幽霊について認知している。ということはデリダの論理でいけばこれはもうすでに現前したものである。しかし、この幽霊は果たしてエコノミーに組みいられたものであると言えようか??そのときどきで(夜、暗いところなどで)「かもしれない」に出くわすことはあるかもしれない。しかし一般論としては日常的に幽霊を意識していることなどありえないし、それはある意味で「ない」からであると考えているからなのか?しかし、ここでの恣意的な「ない」という状況は、デリダにとってどのように位置付けられるのだろう??それは贈与を受け取っていないという状況なのか?やはり、そうはいえない。贈与としてはすでに受け取っている。しかし、一般論としてはやはり環が閉じているなどとはいえないのではなかろうか?デリダの批判は贈与と環の閉鎖が同値でないと示せれば十分だ。

p79-80 モースは贈与の廃棄を導くもの全てを語るが、贈与については語っていないという結論
p82 「すなわち、贈与は現実存在できないこと、贈与は決して現前しないこと、なぜなら、現前するためには、現前的な主体が他の現前的な主体に一つの現前的な客体を与えねばならないが、これは贈与を贈与として承認することを前提にしており、したがって贈与の廃棄を前提しているから、というのがそれです。」
フーコーを想定すれば、このような客体はそもそも確立しえないものと見る可能性もあることがわかる。それが確立するからこそ環は閉じる。ここでの承認が「真理」を指すのでは。おそらく訳語の問題も絡んでわかりづらいのではないか…とも思える。
p91 「モースにとって贈与と交換が矛盾しないのは、単に、期限がきたら、つまり或る遅れを含んで、交換が行なわれなければならない、という理由によるのです。」
※「——しかし、そうであれば、時間は不可欠なわけです——」(p92)

p92 「このように時間化が待期に変貌することが、贈与/反対贈与のこの欲望の運動なのであり、そしてそれは、贈与されー交換される事物のなかに書き込まれているわけです。」
※贈与は時間を与えるという…時間とはある意味で究極的な資本。
p106 「掟の起源まさに非現出的なものとして現われ、そして自らを現前させることは決してありえないので、人が掟に直面することは決してありません。」
※その時点で物質化している必要はない。デリダのいうように、待期が設定され、そこから外れた時に物質化するのでは、と思い反射的に行動するのが問題。それは、その掟が真であると認めた時、と解せるのでは?

p110 「贈与があるためには、贈与を忘却せねばなりませんが、しかしそれと同時にそういった忘却それ自体は保持されねばならないのです。贈与が生起するためには、それはどんな忘却であってもかまわないというわけではありません。消去せねばならぬと同時に、消去の痕跡を保持せねばならないのです。」
p110 「したがって、この贈与が生起するためには、他者は私が彼に与えるということを知っていなければなりません。……しかしながら、私が与えるということを知っていたり、私のほうもまた知っているならば、贈与はこの象徴的な認知(感謝)によって廃棄されてしまいます。では、どうすればよいのでしょうか。とはいえ、贈与はあらねばなりませんし、贈与はよいのです。ですから、贈与の想定それ自体、つまり贈与の狂気、これはダブル・バインドの状況なのです。」

p111 「人が与えるとき——これが恐ろしい点であり、贈与をただちに毒に変えてしまい、したがって贈与をエコノミー的円環のうちへ引きずり込んでしまうのですが——人が与えるとき、人はなんらかの掟を与えるのであり、掟をつくる〔命じる〕のです。」
p112 「すなわち、痕跡はそのものとして現前せず、決して自らを一つの現前者として現前化せずに、いつも他なるものへと、他のものへと差し向ける、したがってそれは己れ自身の現前性を消去してしまう、といった点がそれです。……どの贈与もそのものとしては現われず、他なるものへ差し向ける、という意味で贈与はどれも痕跡なのです。」

p118 「散種とは、返礼なしに与える仕方です。とにかく私はこのように、散種という語を規定しようと試みました。」
p120 「テクストは言語(※ラング)に還元されません。言語はいくばくかのテクストなのです。とはいえ、私が規定しようと試みた広い意味での、一般的な意味でのテクストは、言語外の実在をも、つまり狭い意味での言語の空間ではない空間をも含んでいます。したがって厳密に言えば、テクストなしに贈与はないし、また贈与なしにテクスト、痕跡はない、ということになります。」

p241 「ヘーゲルに関しては私はもっと複雑な態度をとっています。私はヘーゲル思想の力を大いに尊重しています。私はヘーゲルを批判したことは一度もありません。」
p276 ヘーゲルは「多くの幽霊の出没する館」という。


<考察>
 デリダの読解は焦点をずらしにくるような語り方をしているので、「デリダにとっての現前性、贈与とは何を意味するのか?」という問いを意識しながら読んでいきました。まず、デリダの贈与論を議論するにあたり、これまで議論してきた贈与・模倣論と異なる点がいくつかあり、まずこの点を確認したい。

○贈与の「対象性」の放棄について
 高橋の議論から始めていた贈与の議論において大前提となっていたのは、「贈与」というものが「交換」の対義的な意味をもち、それに関連して、ある者が他者に与える行為であるとして位置付けられていた。しかし、デリダはここで誰かに与えるという「対象性」を放棄するような語りを多くしている。
 「他者の言語」では言及がなかったようにも思われますが、例えば、「絵葉書1」にて、手紙は宛先に届く前に他者に奪われてしまうという点を指摘している。ここでの「手紙」はデリダが多用する比喩の一つであり、贈与一般を指すとはいえないものの、エクリチュール(書かれた言葉)を媒介にした贈与として位置付けることは妥当だろう。「絵葉書1」は著書自体が手紙として、私的なものとして特定の対象に送られることを念頭におきつつ、その書かれた日付と内容が記されている構成となっている。しかし、その手紙はそれが記されれば、他の誰かに読まれざるを得ないと述べる。

「もちろん、私は書いているまさにその瞬間に感じ取っていた、この手紙が、他のすべての手紙と同じように、途中で奪われることを、他のいかなる押収よりも、どのような偶発的な横取りよりも前に——たとえば、君の幼児期のライバルかもしれないあの女性郵便局員が横取りするよりも前に。君がこの世のすべての予防策を講じても無駄だろう、……、それでも、手紙はあらかじめ横取りされているのだ。それはどんな人の手にも落ちる、かわいそうな絵葉書よ、絵葉書は最後には地方の古本屋の陳列ケースに並べられ、都市の名に従って、この商品は分類される。ひとたび横取りされると——それには一秒で十分だ——、メッセージはもう、特定=規定可能な誰かへと、何らかの(特定=規定可能な)場へと到達するチャンスをもたない。」(「絵葉書1」p80-81)
 なぜこのような対象の固定が否定されなければならないのか。直接的な理由らしきものは見つからなかったが、2つ理由が想定される。一つは贈与としての手紙が届く状況というのを回避する必要があるとみなされている点、もう一つは、ヘーゲルソクラテスハイデガー等を例にしながら、偉大な哲学者が「郵便の巨匠」(「絵葉書1」p280)だとか「多くの幽霊が出没する館」(「他者の言語」p276)といった比喩で呼ばれるのに関連して、贈与を行った対象以外の者の手によってもそれが受け取られ、彼らについて語られる可能性があるということ、-これは、手紙という内容を書くこと、エクリチュールとしての性質を前提にして語っていると思われる。
 
 前者について。贈与するものが何らかの「メッセージ」であると想定しよう。デリダにとっては、そのような「メッセージ」が贈与者から受贈者に届いた、そのメッセージを認識した時点で贈与的な性格そのものが消失し、「象徴的、犠牲的、ないしはエコノミックな構造のなかにかかわり込んでしまう」ものとなってしまう(p79)。このために「メッセージ」自体の対象性があいまいとなりうる、いやむしろそうでなければ贈与は成り立たなくなる、という見方である。

 後者について。ここでいうエクリチュールはしばしばパロールと対比され、「書き言葉/話し言葉」の違いとしても解釈されるが、書き手の書いた文字自体が多様に解釈されうる、という意味合いにおいて成立する。厳密な区別をすれば疑問も出てくるが、書いたもの自体が私から離れたテクストとして流通することで私が解した解釈があってもそれと異なる読まれ方がされることとなる、ということを主張している。また、長いスパンで考えると、哲学者の議論などもまさに多様に読まれる可能性があり、その様な解釈が多様な他者によってなされている。その意味において、「郵便の巨匠」という言い方がされているといえるだろう。
 しかし、これだけでは手紙が届かずに終わるとは言えず、その手紙がそのような意味で盗まれようとも、まだ私自身に届く可能性はあるだろう。これは、手紙の送り手から直接その手紙の内容を受け取るという場合と、他者からいわば「伝聞」という形でそれを受け取る可能性、簡単にいえば、哲学者の著書そのものから受け取る可能性と、他者がそれを解説・解釈した内容から理解するという意味で受け取る可能性の二つが「まず」考えられる。

 もう一つここでは切り口が考えられる。それは認識をめぐる切り口である。簡単に言えばメッセージの認識をしたか、していないかという分け方になるが、この認識の有無とは何かを指しているかがむしろ問題となります。これは一つ目の切り口とも密接に関連する観点である。
 例えば、贈与は「知覚」してはいけないものとされる(p76-77)。ここで想定されているのは、ダブル・バインドの状況についてだが、ここでいうダブル・バインドは私がこれまでのレビューで議論してきたような広い意味ではなく、むしろ病的な状態として定義されるダブル・バインドであり、デリダの場合これは文字通り相矛盾したメッセージをどちらも「真」として受け取る以外の方法は「ない」ことを前提に議論するものである。

ダブル・バインドを引き受けなくてはならないというのではない。ダブル・バインドというものは定義上引き受けられるものではなく、受難=情念において耐え忍ぶことしかできないものだ。他方、ダブル・バインドというものは、けっして、完全に分析されることはない。その結び目の一つを解こうとすれば他の結び目を引っ張ることになり、私が緊張=構造と呼んだ運動において、それをいっそうきつく締めることになるからだ。」(「精神分析の抵抗」p68-69)

これを前提として贈与のダブル・バインド性を考えると、
1.私には「何か」が贈与されたという認識は存在するとみてよいのだろうか?それとも、
2.「何か」が贈与されたかどうか未確定である状況こそが贈与の成立要件なのか?

○「幽霊」という言葉への2つの解釈
 この成立要件の2つの可能性は、「幽霊」という比喩の考え方においても同じように問われてくる。かつてレビューしたシルバー事件における「幽霊」というのは、2.だけでなく、1.の状況を前提にしていた。つまり、「幽霊」自体が私自身に取り憑いていることに対する自覚がある状態である。しかし、2.においては、「幽霊」は少なくとも取り憑かれたかどうかも受け手自身がわかっていない状態であるといえる。
 どちらにしても贈与する主体がいることは大前提であるといってよい。ただ受け手側の認識が贈与を認知しているかどうか、そしてそれは「幽霊」の比喩に対してはその存在を意識しているかどうかという問題として語られることになるだろう。
 デリダにおいては、2.の場合のみに限定して「幽霊」について語っていると言ってよいだろう。

「あらゆる決断は、すなわちあらゆる決断という出来事は、自らのうちに、決断不可能なものを少なくとも幽霊として、しかしながら自らの本質をなす幽霊として受け入れ、住まわせつづける。決断不可能なものの幽霊的性質は、現にそこにあることを保障するものをことごとく、内部に巣くって脱構築する。」(「法の力」、p61-62)
 ここでいう決断とは、一つの意志の現れであり、その決断を一つの意識化の下になされたものと解釈するのは自然だろう。デリダはここで決断をしたにもかかわらず幽霊はその意識とは別の所で介在し続けているものととらえる。つまり、意識は幽霊を捉えていないのである。

 このような主体が認識できない「幽霊」についても、
2-a 客観的な立場から「幽霊」はすでに取り憑いているものの「私」がそれに気付かない場合
2-b 「幽霊」が「私」にまだ取り憑いていない場合
の2つが考えられるだろう。「法の力」のこの引用においては前者に限定している節もあるが、「絵葉書1」では両方、そしてどちらからという後者に近いものとして位置付けている。それは端的に「贈与」が到着してはならない、という考えに基づく。

「このチャンスの不運は、到着しないことができる〔可能である〕ためには、それは自己のうちにある種の力とある種の構造を、宛先からの離脱〔漂流〕を、包含していなければならず、その結果、それは、どのみち、どのような仕方であれ、到着してはならない、ということだ。たとえ到着するとしても、手紙は到着そのものから=到着時において姿を隠してしまう。手紙は別の場所に、常に複数回、到着する。君は手紙をもう捉えることはできない。」(「絵葉書1」、p183)

 いずれにせよ、デリダは先述した1.のような状況に対しては贈与が成立しないと考えているとみてよいだろう。これはp77に見られるような「反対贈与」の再構築が「避けられない」状況となるからだ、と断言に近い形で述べられていることからも支持される。贈与が成立するためにはその贈与としてのメッセージが常に他のものを指し示していなければならず、痕跡であり続けなければならないのである(p110,112)。

デリダにおける「複数性」へのこだわりとその矛盾
 このような見方をデリダがとるのは彼の「複数性」という言葉の解釈がポイントの一つになってくるだろう。一方でデリダはこれを複数の人による受け取りを想定して複数性を語るが、もう一つ、それは贈与に込められた「メッセージ」とは別の「メッセージ」を指し示すものとしての複数性もまた語っている。

 これはエクリチュールというデリダの関心に付き合わせると奇妙な形を帯びるように思う。エクリチュールはその起源を反復することができないという(「散種」p229-230)。これを手紙の比喩で言い換えるなら、手紙の送り手が誰なのかわからない、ということを意味することになる。そうすると、受け取り人が複数いることとメッセージが複数ありえるという、2つの複数性はここで合流することになるように思う。手紙の送り手はそれが「贈与」であるために受け手に直接それを送ることを禁じられ(「禁止」という表現は少々強い表現だが…)、それは他の者にも受け取られる。そしておそらくその後には、その手紙が受け取った者から再び新しい手紙として送付されることになるのではないか。デリダは「絵葉書」にて手紙が複数の者に送られることは明記しているが、複数の手紙が同じ人物へ届く、とまでは言っている訳ではない。しかし、エクリチュールの議論と合わせて議論するなら、そして実際に「哲学の巨匠」が自身で送った手紙だけでなく、それを受けとったものから再度送られた手紙によって理解されるという事実が存在することを踏まえても、複数の同じ手紙が私の手に届く可能性についても当然ありえるとするのが自然だろう。

 すでに述べたように、デリダは贈与されたものを受け手側が認識した時点で贈与が完了し、贈与性が消失することになると考えている。この贈与の完了は今回のテーマである「現前性」に関連付ければ、贈与の完了、贈与の対象を認識することによってそれが現前するという解釈が可能になる。しかし、このデリダの見方に対しては3点ほど疑問が出てくる。

1.一度認知されれば以後もずっとそれが現前化されるものとみなせるか?
 あるメッセージを受け取り、それを「意識化」したとして、これを現前化したあとにその成立後にはそのメッセージ現前したままであり続けるのか?ここでの「意識化」にはダブル・バインドに陥っていないという意味で言えばメッセージの一意的な解釈が可能となっていることが結びついているように思う。しかし、この一意的な解釈を揺るがすような「贈与」があった場合、この現前化は再度二重の真理のもとに置かれることとなり、現前化は解除されてしまうようにも思える。

2.複数の幽霊が存在する状況の下で「贈与」がまだ完了していないとはどういう状況なのか?
 この点にデリダが具体例を示している部分は拾えなかった。実際にメッセージとして受け取るもの自体はある種の一性を持ち合わせている。もちろんそれをどう解するかと考えた場合には複数の解釈がありえるが、それらの解釈自体は私の思考するものである限り、私の領域を出ることはない。これは言いかえると、「幽霊」自体が私自身の中にあるものととらえることに支障を与えないものとみなせる。
 だが、他方でそのメッセージが到達していない状況である場合には、主体とは関係のない形で「幽霊」が介在することになる。この場合は常に私の外部に幽霊が介在していることになる。
 前者の主張が先述した「幽霊」の理解における2-a、後者の主張が2-bにそれぞれ当てはまるが、デリダは「他者の言語」では2-aの議論を、「絵葉書1」では2-bを重視して議論している。しかし、そもそも2-bの議論系の中では、「ダブル・バインド」による贈与の説明が不可能であるように思う。2-bの論点からは贈与の誤配、送ろうとしたメッセージが送ろうとした者とは別の者に送られるという議論として成立しするからである。

 但し、2-bの議論においても「贈与はなされた/なされていない」という区分のしかたでダブル・バインドは成立するのではないかという見方はありえるかもしれないし、デリダがそのような意識を持っている可能性もあるかもしれない。しかし、これはまずもって主体が受けたかどうかわからないということの表現としてみなせますが、具体的にどういう状況を想定すればよいのか?そうすれば恐らく「メッセージが送られたかもしれないが、それがどんなメッセージなのかわからない」という感覚が近いと思われる。ただこれはダブル・バインドの議論について言えば「真である」ものが二重にあるのではなく、「真であるかもしれない」という状況の下にあるという意味で強い意味でのダブル・バインドとはいえない。それはメッセージの多重性も持ちつつも、その矛盾を放棄する可能性も持ち合わせている考え方である。
 しかしデリダにおいては、ダブル・バインドをそのように捉えているとも言い難いのである。というのも前述の「精神分析の抵抗」の引用にあるように、ダブル・バインドを解決しようとすることに対して否定的(解決不能)であるととらえているのは明白であり、それは「メッセージが送られたかもしれないが、それがどんなメッセージなのかわからない」というような状況においては、「メッセージが送られてきたことが気のせいである」という可能性を排除してしまう。つまり、弱いダブル・バインドが想定される「メッセージが送られたかもしれない」状態ではなく、強いダブル・バインドである「メッセージが送られていることは自明」としかならないということである。しかし、そうすると「贈与はなされた/なされていない」というレベルでのダブル・バインドデリダの議論から想定不能となってしまう。

 以上の議論から、2-bの議論からダブル・バインドの議論が現われないということは、デリダの贈与の議論の一般則としてダブル・バインドを語るのはできないことになる。しかし、デリダダブル・バインドを贈与一般の議論として取りあげているといえる。この点が贈与の議論を行う上で不適当であると考えられるのである。

3.本当に認知をもって現前化とみなしてよいか?
 シルバー事件で取りあげた「幽霊」という言葉には、むしろ「幽霊」に取り付かれたこと自体には深い認識があり、その「幽霊」の命令に従わないような選択をしようとしている状態は、すでに贈与を完遂してしまっている状況であるとみなされていることになる。そしてデリダによれば、その状態においてはもはや「贈与制度内贈与」として機能することが避けられないのである。
 しかし、私はこのような「幽霊」観においても、それが「贈与制度内贈与」として位置付くかどうかは確定している訳ではないように思えてならない。この認識のズレの所在はどこにあるのかわからない。ただ、私が感じる類似の認識のズレからそれを解釈することはできうる。このもう一つのズレとは、端的にいえば「死んだ者の言葉は解釈できない」とでもいわんばかりのエクリチュールに対する解釈そのものにある。そもそもこれもまた、あくまで可能性の問題であって、解釈できないなどというような見方はできないと思われるにもかかわらず、デリダはそのように考えていないように思える。

 前掲した「法の力」p61-62の引用においても、脱構築に関する考えかたは極めて逆説的である。結局デリダにとっては、認識を介したものはすべて「贈与制度内贈与」であるのと同時に、「贈与」としても成立するといっているようにも思えてしまうのである。ここでも主観的な考え方はどうでもよい、という発想に立つしかないように思える。
 しかし、そのような主観の放棄にも関わらずデリダは何故時折この「贈与」が成り立たず「贈与制度内贈与」しかないような状況が発生することを言明する必要が出てくるのだろうか?「法の力」の引用をそのまま考えれば、主体はいかなる態度でいようと、贈与は常に成り立つようにさえ見える。p79で見られるような「エコノミックな構造が贈与を円環の中に組み入れてしまう」とはいかなる意味を持つのか?この主張もよくよくみれば奇妙である。これはまず何より主体の認識の問題として現れているようでいて、「エコノミックな」という言い方はそれら主体とは関係がないかのような文字どおりの「構造」を指しているようにさえ思える。これはp111の説明に従えば、贈与が一つの「掟」を伴うことによってエコノミー的円環に組み込まれるという。やはりこれは一度組み込まれたらその円環から逃れることはないかのような語られ方がされているように思える。しかし、それ一つの命令としての贈与が命令として認識されてしまえば、直ちにそれへの応答しか存在しえないと考えるのは無理があるように思える。これを無理なく解釈するためには、「法の力」の引用のような立場をとるしかないように思う。
 
 「主体の判断が、彼が現前している状況を前提にしていても、そのテクストが真に現前しているかどうかは関係ない」という命題は、デリダを最も矛盾なく読む解釈の仕方として、概ね正しいだろう、というのが私の結論である。
 だが、それは同時に「エクリチュールは一人歩きするしか可能性がない」と言っているのと同じでもある。にもかかわらず、デリダにとって、主体の判断は無意味なのかといわれると、そうではないようである。しかし、やはり客観的にみれば(そしてデリダによれば)、エクリチュールにおいて現前がありえないことが確定している。この「ありえない」とはいかなる意味をもつのか?このありえなさというのは、ジジェクが言ったような主体と主体がもつ他者の欲望の不可避性の問題意識と非常に近いように思える。しかし、デリダによれば、やはり他者の欲望は他者の欲望でしかないとし、ある意味で牧野篤のような解釈と同じ結論がラカンの議論として現れるともいえるのである。
 しかし、ジジェクにおいては、この不可能さは理論としては出てこない。実際の態度の問題はあるものの、理論上は、デリダのような先取りを行わないのである。現前性の問題や、贈与の不可能性に対しても、未確定である。
 もちろん、態度の取り方、特に「主体がいかに振舞うべきなのか」という議論を強調するとすればデリダの態度も擁護する余地があるようにも思える。贈与は不可能、そのような捉え方をすること自体は悪くもないと思う。「抵抗」という言葉で支持されるデリダ論者の議論も確かにそのような性質も見受けられる。しかし、それがデリダ自身からしっかり拾えなかったことというのが、なかなかに心残りを感じるのである。

 最後にもう一つ、気がかりな点がある。デリダは「贈与」について、常に「ある」、「存在する」かどうか不明なものとしてそれを語り続けていた。ある意味でこの態度を取ることで「贈与」を選ぶことによるパラドックスを回避しうる道として残された見方ともいえるが、「贈与」が存在しないと仮定したなら、デリダはどう結論付けるのだろうか?エコノミー的な円環しかそこに存在しない状況になることが真になるのだろうか?これが真であるなら、それはそれで「贈与制度内贈与」の世界しかありえず、「贈与」を考えること自体不毛であるという結論となってしまう。つまり、デリダの読み方によっては「贈与」を想定すれば「贈与」しかありえず、「贈与」を想定しなければ「贈与」は存在しないというつまらない結論が導かれる可能性もあるだろう。
 デリダはこの点についての検討はしていないようである。ただ、主観論的立場に立てば矛盾をきたすということを回避するために行ったデリダの解釈をそのまま通すのであれば、私が前提として「贈与」があるのか、ないのかを思考すること自体を無意味なものと帰し、「私の判断」に着眼を設けることにも否定してみせるように思える。
 デリダにとっての「現前性」とは、結局何の意味もないものとしか定義できなかった。何故なら「それ」は常に現前するし、つきつめれば現前しないのであるから。

○「贈与論」におけるデリダの議論からの教訓とは?
 結論としてはデリダの贈与論の本筋からは有意義な結論は出せなかったが、その議論の過程でいくつか論点として拾えるものについて、最後にまとめておきたい。

1.「贈与」という言葉の定義づけについて
 贈与という言葉を最狭義に解釈すれば、確かにメッセージが届いた時点で贈与が終わるという見方はある意味正しいだろう。ただし、デリダはその贈与の完了から直ちに反対贈与が現われるかのように語るが、実際はメッセージが受け手に留まる状態が現われる。この「幽霊」が主体に留まっているとみられる状態について、これまで私は「贈与」という言葉で説明していたが、必ずしも妥当な表現といえない、という批判が成り立つだろう。
 かといって、「贈与」と「反対贈与」の間の領域を「幽霊」だとか「純粋模倣」だとか呼ぶことにも違和感がある。前者については「贈与」が完了せずかつ「幽霊」が主体に届いていない状況もあるため、「幽霊」という言葉を中間領域に設定することが正しいとは言えない。また私の造語である「純粋模倣」も確かに贈与のあとにくるもの、かつ通常の模倣性(概ね良い模倣か、悪い模倣かという判断を伴う状態)を否定したものとして位置づいているとしても、あくまでそれが価値中立的な立場であるに留まり、「反対贈与」がされていない状態であることまで説明しきれる考え方ではない。この中間領域の説明にはもう少し整理が必要と思われる。

2.「贈与」の非対称性について
 これはすでに議論していた点だが、合わせてデリダは直接言及していないものの、贈与が単独の主体から与えられるという読み方をしない可能性もあるだろう。
 この解釈もデリダによればある意味で妥当するだろう。読書ノートでは拾っていない「他者の言語」の中でデリダは翻訳の行為についても、原著の著作者と翻訳家によって書かれた訳書は別物であるという想定に立っていることを踏まえれば、原著と訳書を合わせて読むことで、ここでいう複数の主体からメッセージを受け取る状態が成り立ちうる。
 また、これは広い意味でいう「フーコー論」「ジジェク論」などを受け取る際にも、著者自身はもちろん、それを読解する者の著作によってそれが理解されている点も、この複数の者からの贈与がされている状況と言える。

3.「現前化」は一つの判断であるという見方の可能性
 これまでの「現前化」に関連する議論においては、それが一つの価値判断を伴うもの、より厳密にいえば一つのパースペクティブ(あるモノを〜であるものだとみなすこと)を了解することを前提にする語りが「現前化」であると想定している嫌いがあったと思う。しかし、デリダにおいてはメッセージを受けとったという認知を持ってすでに現前化したものを想定していた。この立場は今回のレビューで批判したものの、今後の議論において押さえておいてもよい論点であるように思う。