デイヴィッド・リースマン、加藤秀悛訳「孤独な群衆」(1950=2013)

 今回はウェーバーの理念型の考察の前にリースマンの理念型論について検討しておきたい。リースマンも基本的にウェーバーと同じような文脈で理念型について語っているように思います。
 参照した訳書は最近みすず書房より出たものになります。

<読書ノート、上巻>
p11 「この本は全体的にいえば、伝統指向から内部指向を経て、他人指向型にいたる歴史的変化を論じた書物である。」
p13-14 「われわれがこの本で提出しているのは、アメリカ人の性格についての仮定的な考え方である。そして、われわれはわれわれじしん、これらの考えについて不確かであるし、またわれわれの考え方もつねにゆれ動いている。ところが、読者はこれを確定的なものとしてうけとり、また知的にはずいぶんせっかちにうけとってしまったのであった。」
p14 「じっさい、実証的かつ理論的な社会科学の業績をふまえた上で、いま『孤独な群衆』を読みなおしてみると、わたしはこの本の多くの部分で一般化しすぎていることに気がつく。現在のわたしとしては、さらにはっきりした証拠を提供するなり、さがし出すなり、あるいは待つなりしたい気持ちだ。」
※まえがき部分(p6-69)は原書が最初に出た1950年から10年経った1960年に書かれたもの。

P59 「そして、われわれが知るかぎりでは、すでに述べたように「孤独な群衆」の読者の大部分は内部志向型と自律性をおなじものだとかんがえた。メイヤーとバーン・フィールドは、他人指向型の人間のもつ感受性を積極的にとりあげてくれたが、大部分の読者はそれをむしろ、一種の恐怖感をもって読んでいたのである。」
※自律性は一種のユートピアであるという見方があり、それに著書を書いたときは失敗してしまったとリースマンはみている(p60)。リースマンの中で自律性という言葉はそれ自体肯定的な価値が付与されているものとみなしているようである。

P93-94 「しかしながら、社会と性格についてこれら三つの「理想型」の説明にはいるまえに、ひとこといっておきたいことがある。それは、人口成長の局面と性格の類型とのあいだにむすび目がある、ということを証明するためには、精密な分析が必要なのであろうが、その分析はさしあたりわたしの関心事ではない、ということだ。むしろ、人口曲線の理論は、「産業主義」「民俗社会」「独占資本主義」「都市化」「合理化」等々といったことばで——ふつう、より白熱的に——説かれる無数の制度的な要素を簡単に指すための便宜的手段であるにすぎぬ。だから、わたしが、人口の過渡的成長だの、初期的減退だのを性格と同調性の変化と関連させて説くからといって、これらの局面を魔術的に、あるいは納得のゆく説明としてうけとってもらってはこまる。」
P94 「もちろん、その人口学的特徴からみても経済からみても、特定のひとつの国が完全に、いずれかの類型にすっぽりはまるということはありえない。おなじ国のなかでも、そのなかでのさまざまな集団や地域は、発展のさまざまな段階と反映し、また、こうした相違が社会的性格に反映することはいうまでもないことである。」

P123 「さらにまたわれわれは、社会過程における性格の役割を過大評価してはならない。たとえばドイツの軍隊の結束力がかたいのは「ドイツ人」が権威主義的傾向をもっているからだというようないい方をする人があるが、それはじゅうぶんな説明とはいいがたい。なぜなら、あるあたえられた戦場と物資供給の条件のもとではずいぶんちがった性格類型の軍隊が、実際上は強い結束力をしめすからである。」
P124−125 「最後にもうひとつ社会的性格類型というものは、ひとつの抽象物であるということを指摘しておく必要があろう。もちろん社会的性格類型は生きている現実の具体的人間と関係するが、社会的性格類型にたどりつくための手つづきとしては、この章のはじめにのべたようにまず第一番目には現実の個人からかれの「パーソナリティ」を抽象し、次いでそこからかれの「性格」を抽象し、さらに「社会的性格」をかたちづくる共通の要素を抽象するという操作が必要なのである。
 じっさい注意深い読者ならこの事情をすでにじゅうぶんわきまえておられることとおもう。このようなことを念頭においてみるならば、完全に伝統指向型、内部指向型、他人指向型に依存する社会ないしは個人というものは実在しないのである。これら三つの同調性の様式は普遍的なものであり、問題はつねに程度の問題である。」
※ 何故そう断言できるのだろうか?特に個人という枠組みにおいて。

P126 「これらいくつかのタイプのかさなり合いを強調しておくことは重要なことである。なぜなら読者はおそらくそれぞれのタイプを、それぞれにひきはなして価値判断しがちだからである。」
p127 「もう一度くりかえそう。この本であるかわれる性格と社会は「類型」なのである。それらは実在するものではない。それらはある種の歴史的研究のためにえらばれた一つの構築物なのである。」
※では、その類型を語るとは、どういうことを意味する?
p128 「この他人指向型という最後のそしてもっともあたらしいタイプは内部指向型が支配的であるような地域にじょじょに進出しつつあるようにおもわれる。このような考え方はアメリカ人の性格構造を理解する上で役に立つかもしれない。」

☆p174−175 「教師の仕事というのはこどもに学科をきちんと教えることだけであった。こどもたちがそれをよろこんでいるかどうかとか、友だち仲間とうまくやってゆけるかとかいったようなことは教師の役割の範囲内のことではなかったのである。……しかしながら教師と生徒とのあいだに社会的な距離が存在していたとはいえ、かつての学校では知的な能力ということを無条件に重要視した。そのことは内部指向的な性格の形成にとってきわめて重要である。そこでは、こどもにとって重要なのはそのこどもがどれだけのことを完成させることができるかということである。かれが、かわいらしいとか、人づきあいがいいといったようなことは、なんら問題ではない。もちろん、こうした技能や能力というものを判定する規準の客観性についてこんにち、多くの疑問が出されている。たとえば、知能テストだの、答案だのに階層的な偏差がある、といったような問題。だが、内部指向時代の学校というのは、そのような偏差などにはいっこうおかまいなしであった。そして、その規準というのはまったく無条件で、しかも変えることのできないものとかんがえられていたのである。そして、まさにこの理由から、これらの規準はこどもの成功、失敗にかかわらずこどものなかに内面化されることができた。」
p176 「以上にのべたように内部指向段階の学校では多くのこどもたちの才能がおしつぶされ、こどもたちの意志の力がおさえつけられた。それは自他とも安定して健康だと思われるこどもについてもあてはまることであった。そこで、こどもたちをこのような状態から解放しようとして進歩主義的教育というのがはじまったのである。その目標、そしてそれが成し遂げたこれまでの実績はこどもの個性をのばすということであった。……しかしながら、こんにちでは進歩主義教育はもはや進歩的ではなくなってきた傾向がある。ひとびとが他人指向型になってくるにつれて、かつては解放的だった教育方法がいまや、こどもの個性をのばし、それを守るというよりはむしろ、こどもの個性を妨げるようにさえなってきたのである。」

p178 「こうしたことは進歩的なことであるようにみえる。それは創造性と個性とを祝福するかのごとくにもみえる。しかしそこには一つのパラドックスがある。というのはこういうわけだ。なるほど学校はこどもの成績とか通信簿とかを強調することをやめた。しかし壁にかけられたこどもたちの作品は、こどもたちにむかってこう問いかけているようにみえるからである。「鏡さん、壁にかかっている鏡さん、わたしたちのなかでいちばん立派なのはだれ?」
p179 「このような変化のおかげで教師と生徒とのあいだにあった壁はとりのぞかれた。そしてそれは、生徒どうしのあいだによこたわる壁をもとりのぞかれた。そしてこうした壁がくずれることによって、さまざまな趣味が急速にひとびとのあいだに交換されるようにある。それはまさしく他人指向的な社会への前奏曲とでも名づけてよかろう。」
p180−181 「とりわけ、重要な事実がひとつある。協力とリーダーシップということを教師はこどもに教え、そしてそれをこどもに期待するのだが、こうしたことばはしばしば、内容的にからっぽであるということだ。幼稚園でこどもが、トラックで遊ぼうと砂場で遊ぼうと、それはたいして重要なことではない。しかし、どのような遊び道具をつかう場合であれ、それによって、かれが別なこどもとかかわりをもつようになるかどうかが重要なことだとされるのである。」
※リースマンによれば、結局この価値観の転換は、このような関係性が重要な社会になっていることの反映としての教育の変化だ、ということになる。

p209−210 「他人指向型な人間のおびただしいエネルギーは、無限にひろがりつつある消費のフロンティアに流れこんでゆく。内部指向型の人間のエネルギーがとめどもなく生産の領域に流れこんでいったのとそれは対照的だ。内部指向的な生活様式のなかでは、消費ということはおとなにとってもこどもにとっても、むしろ否定的にあつかわれる性質のものであった。しかしながら、時としては、そしてとりわけピュリタン的な禁欲主義にあまり影響をうけていない社会の上層部にあっては、内部指向型の人間といえども、かれ、ないしかれの使用人が生産するのとおなじくらいの熱心さで消費していたのである。上層階級の誇示的消費の場合には古い伝統指向型の拘束が解けたので、物を所有することと、それを見せびらかすことに、とりわけ熱心であった。」
※伝統指向から内部指向、内部指向から他人指向、このプロセスに内在したものをリースマンは注目している。

p315 「現代においては、人生というのは不確かなものである。そしてそのゆえに現在の若者たちはじぶんたちみずからを長期的な目標に没入することをしないのだ。戦争だの、不況だの、兵役義務だのがあるものだから、こんにちではじぶんの生涯を計画することは第一次世界大戦以前の時代にくらべて、はるかにむずかしくなってきている。」

p352 「われわれにとって他人指向的な人間をフェアーにながめることは、たいへんむずかしい。だいたい他人指向的ということばじしんが、内部志向的ということばにくらべて底の浅い表面的な感じをあたえる。だが、いずれのタイプをとってみても、人生の方向づけは外側からあたえられるものなのだ。内部指向型の場合には、その方向づけが幼児期におこなわれ、それが内面化されてしまうというだけのちがいなのである。」
p353 「とりわけ内部指向型のもっている限界に気にしないひとびとは、どうしても内部指向的な生き方の味方をしたくなるのである。そして、そのようなひとびとにとっては、内部志向的な時代というのを一種のノスタルジアをもってながめるというのは当然のことなのだ。」
p353−354 「事態はむしろ逆であって他人指向的な人間というのは、じぶんじしんについて、さまざまな意味できびしい人間たちであり、またかれらは消費者訓練をうけるこどもとして、両親として、労働者として、また、レジャーを楽しむ人間として、ひじょうに大きな不安を背負っているのである。われわれはこの本で、そういう事実を書きたかったのだ。かれは一方では集団にうまく適応してゆく方法を身につけさえすれば人生というのは安楽なものだろう、という幻想をもちながらも、他方ではじぶんにとってそれは決してやさしいことではないのだぞ、という実感をもっている。そういう分裂をかれは背負っているのだ。」


<読書ノート、下巻>
p17 「ところが、あたらしいスタイルの無関心派のひとびとはじぶんたちのプライバシーに執着をもたない。もし、プライバシーに執着をもてば、そこでは政治というのはおしつけがましいものとしてうけとられるのだろうが、そのような執着はかれらにはない。かれらは階級的な利害にも執着をもたない。もしも階級的な利害に執着をもてば、そこでは政治というものは一種の限界をもったものとして映るのだろうが、そのような執着をもかれらはもたないのである。このあたらしいスタイルの無関心派というのは、すでにみたバーモントの青年たちのように、要するに社会化され、受動的で、そして協力的な人間たちなのだ。」
p21-22 「十九世紀にあっては道徳化の傾向と個人的利害というのは、両立しうるものであった。なぜなら、こんにちとくらべて十九世紀においては、内部指向的な人間のもっているはっきりした感情とはっきりした利害とのあいだには、ほとんど矛盾がなかったからである。……あきらかに有権者数がふえるにしたがって、政治家たちは建国当時の政治家たちのように、物事にたいして素直であることがむずかしくなってきた。……そしてその結果として、利害関係を道徳の問題から切りはなす傾向がうまれてきた。ないしは、利害関係と道徳とをあいまいなデマゴギーイデオロギーのなかでかろうじて混ぜあわす傾向がうまれてきたのである。」

p24 「おそらく、これらの問題解決が可能であったのは、改革者たちの目標としたところのものが、比較的小さいものであったからかもしれぬ。
じっさい、道徳屋の特徴、そしておそらく、内部指向的人間一般の特徴というのは、かれらがじぶんたちと政治的領域とのむすびつきがきわめてせまく極限されたものである、ということに気がついていなかったということである。十九世紀の改革運動は、ことごとく敵、味方ともに、おどろくべきエネルギーを注入することによっておこなわれた。しかし、それはかならずしも敵、味方それぞれのグループにより広い、より納得のゆく、そしてより現実的な政治意識を育てるものではなかったのだ。」
p25 「すなわち、立身出世をめざして熱心いはたらき、また人柄さえよければ、かならず成功できるものだというふうに、かれらはかんがえていたのである。」

p27 「つまり、個人の才能によって動く原理が消滅しようとしているのである。したがって、じぶんじしんの仕事や才能を事業として、政治家や政府の指導者たちの仕事や才能を確信をもって判断をする能力をもはやひとびとはもてないようになってきているのだ。」
p29 「十九世紀における都市の有力者だの、弁護士だのはその性格からいえば、農村や小都市の人間たちとおなじく、あきらかに内部指向的だったのである。都会的な人間たちと農村的な人間たちのあいだでのコミュニケーションやまた、さまざまな地域や階級間のコミュニケーションはほとんどつねに閉ざされていたのであった。」

p49 「この章の一番はじめに引用した文章からもあきらかなように、他人志向的な人間は、自分の好きなものに心を奪われてしまって、じぶんがほんとうに何を求めているのかを知る能力をもっていない。そして、このような傾向は他の生活の領域におけるとおなじく、政治の領域にもあてはまる。」

p109 「これに反して、他人志向型の人間が政治的である場合は、かれは政治の領域に拒否権行使集団の一員としてかかわりをもつ。かれはじぶんのぞくする集団に肩がわりしてもらって、必要に応じて投票したり、なんらかの圧力をかけることに参加したりする。このような圧力戦術によって、かれの意見は政治のレベルできわめてはっきりしているようにみえる。しかし、じっさいにはかれはじぶんの意見とじぶんじしんのあいだに距離を置いていることができるのだ。……かれはじぶんとちがう意見にたいして寛容である。だが、かれがかんようなのはかれが性格的に寛容であるばかりでなく、意見が「たんなる」意見にすぎないからである。」
p110 「しかし、現在のような社会的習慣の力が強いことをかんがえあわせれば、内部指向的な人間にとってはごく自然と思われた熱心さと道徳的憤慨は徹底的に抑圧され、その結果おそらく他人指向型の人間はほとんど永久的に熱心さだの、憤慨だのという反応の能力をもつことができなくなるのではないか。」

p128-129 「かれは物心ついて以来、集団に同調することを学びつづけてきているから、思春期になって、じぶんの家庭の世界とじぶんの同時代人の世界とのどちらを選ぶべきかというような問題状況には直面しないし、またじぶんの夢と現実世界とのどちらも選ぶべきかというような問題にも直面しないものなのだ。」
p138 「「自律型」というのは全体的にみて、その社会の行動面での規範に同調する能力をもちながら、それに同調するかしないかに関しては行動の自由をもっている人間のことだ。」
p140 「ここにあげた三つの普遍的な類型、すなわち適応型、アノミー型、自律型というのはすでにわれわれがつかってきた三つの歴史的類型すなわち、伝統指向型、内部指向型、および他人指向型とおなじように、マックス・ウェーバーのいう意味での「理想型」である。」

p210 「これらの人種的グループのなかでの社交性はアメリカ社会の多数派である白人からの圧力と、それぞれの人種集団内部における文化的な監視によって、一定の限界をもつようになっているのだ。要するに、アメリカ社会のなかでじぶんが置かれている条件にしたがって。ひとびとは遊びと社交性を罪の意識、ないし不安におののきながら消費するのである。そして、それぞれの人間の置かれた条件というのは、いわば迷信のごときものでもあるけれども、個人はそれを全面的にうけいれることもできないし、また全面的にそれを拒否することもできない性質のものなのだ。」

p244 「だが、富めるものもまた、この本で紹介したようにきちんとした社会をつくろうという欲望を抑圧しているのだ。いわば、富める者も貧しき者も、仲間集団のなかに安住してしまって個人的であれ社会的であれ、目標というものをもたないようになってきているのである。」
※同調過剰であるとも言う(p244)。ただ、このような現場改変の訴えは楽観視的見方をしているように思う。
P244 「アメリカ人は現在、経済的にひじょうにめぐまれている。だが、このアメリカ人たちはじぶんたちが同調過剰であるという事実にはたして目ざめるであろうか。……性格構造というのは社会構造よりもはるかに頑強なものであるから、アメリカ人がこのように目ざめるということはほとんどありそうにもない。」
※ 結局自覚の問題なのか??
P247 「すなわち、自然の恵みと人間の能力には無限の可能性があり、人間の能力はそれぞれの人間の経験をじぶんじしんの力によって評価できるだけのものをもっているということである。したがって、人間はかならずしも適応型にならないでもすむし、また適応に失敗しないでもすむし、アノミー型にならないでもすむのである。人間は生まれながらにして自由で平等である、という考え方はある意味では正しいが、ある意味では誤解をまねくいい方だ。じっさいのところ、人間はそれぞれちがったようにつくられているのである。それなのに、おたがいおなじようになろうとして社会的な自由と個人的な自律性をうしなってしまっているのだ。」
※読み方によっては極めて楽観的であるとも言えるし、精神論的な雰囲気もある。


<考察>
 リースマン自身、ウェーバーのいう理念型(本書では理想型)という言葉を用いて「伝統指向」「内部指向」「他人指向」について説明している(上p93)。他方でこのような類型の実在性は否定され、一つの構築物にすぎないという態度表明がなされている(上p127)。それにも関わらず,本書を通して読んでみて、少なくとも過去の事実についてあたかも「内部指向」から「他人指向」への移行が進んできたこと(上p11)、そしてその背景にある要因について検討を加えていることについても否定できないと思う。

 では、実際の所この実在性の否定というのは、どのような意味を持っていると解釈すればよいのだろうか?考えられる可能性としては、

(1)諸類型の優劣について、どれがよいか価値判断を行うことの否定
(2)「一般性」としてその状況について当てはまることについての否定
(3) 文字通り「現在」の説明においてその類型が「ある」と言及することの否定

の3通りが考えられるだろう。

(1)については極めて消極的な解釈である。確かにリースマンは本書において内部指向と他人指向のどちらが優れた類型であるかについて判断を行っていない。しかし、この価値判断をしていないことと、実在性の否定というのは厳密には関連しないだろう。「ある」という実在性と価値判断は異なるということである。たとえその実在を認めようとも、優劣判断を保留することは可能であると思われる。

(2)については「一般性」の説明が難しい。これを例えば地域性によって違いがあるものと考えるか、それともその地域の中の集団内でも個別に見れば差異があり、全てのケースが当てはまる訳ではないからその実在性を認めてはならないという言い方をする可能性である。ただし、これについては一定程度の妥当性があるものとして位置付けることを認めるのであれば(歴史的な変遷として、「傾向」の変化を語るリースマンはこれにあてはまるように思うが)、階層論的なアプローチからすれば「一般的」であろうが「傾向」であろうが変わらないだろう。階層論的アプローチもまたある意味プラグマティックな態度をとるため、別に一般則として類型を位置付けずとも、そのような傾向があることを根拠にそれを改善しようとすることが正当化される。これを批判するには、(1)ないし(3)の観点が必要となってくる。また、リースマンは個人に対してもこの類型があてはまらないと述べていることから(上p125)、厳密な意味で一般性の問題を行っているという考え方も否定される。

(3)については、過去における実在性について認めるにせよ認めないにせよ、それを現在の状況を説明する場合に実在性のあるものと捉えてはならないという意味(過去にいかなる傾向があろうと、それが現在を説明するわけではないという意味)である。だが、この解釈をした場合、過去の現象の説明についてはその実在性を自明視しているようにも思える場合が多く(リースマンの議論はこれに該当するようだが)、そことの整合性を取ることを何故あえて否定しなければならないのか、という問題に答える必要が出てくるように思う。この整合性を否定するのは、過去の議論が仮説生成的な議論を行っているといったことから導出できようが、それがもし過去の議論等を十分に行い、その関連性を十分に解明できた場合にまで、「現在」の傾向を判断してはいけないという理由に乏しいのではないのか、という批判もありえるように思える。

 リースマンの実在性の否定というのは、基本的に(3)の意味で解するほかないだろう。ウェーバーについても、リースマンほどむらはないが、(3)の立場をとっているといってよい(※2)。
 これは「理念型」を決して現前しえるものとして定義付けることによって、逆に現前しているものについて「理念型」では全面的に説明できないと述べたがっていると言ってよい。「理念型」による現前事象の説明が不十分に終わることは確かにそうだろう。ここには一種の残余が「理念型」による説明に常につきまとっているということである。
 しかし、ここでむしろ私が問いたいのは、そのような論理的な帰結が「理念型」による価値判断を否定するという根拠に厳密な意味でなりえるのか、という点である。

 リースマンは理念型に基づいて現在の状況をそのまま実在化することをまず否定してみせる訳だが、そうすると、「理念型」の有効性はそのような実在性によっては説明できないことになる。どのように説明されているのだろうか?
 まず、リースマンは特にアメリカの歴史の中で人格の類型が変化していることを指摘する。そしてそれは厳密な分析、つまり「実体」について詳細な検討を加えたものであるとはいえない(上p93)。実際のところ、それは理念型が変遷する時代的な「背景」に、その影響力に重きが置かれている。

 「理念型」の議論をまとめると、このような内容で理解するのがもっともしっくりくると思う。

(A)「理念型」とは物事の性質について説明するための類型概念であり、これは厳密には「相対的」な指標でしかない。実際にあるものについてそれに適合させても、より「理念型」に適合するものがあり、かつより「理念型」に適合しないものを想定することが可能である。
(B)「理念型」は独立した形では価値を持っておらず、何らかの価値に結びつけずして価値として表現されない。

 まず、(A)について。「理念型」とは、さしあたり例えば「足が速い」「賢い」「結びつきが強い」といった形容によって説明されるものと考えるべきであると思われる。具体的に設定した指標、例えば「足が速い」といっても、具体的な指標を用いて「100mを10秒以内に走れる」かどうかを設定したとして、一般人からみれば確かに速いだろうが、ウサイン・ボルトからすれば遅いかもしれない。つまり、具体的指標を用いてしまうと、素朴には妥当するとしても厳密な一般則として正しいとまでは言えなくなる。そのため、相対的な指標として一般的に用いられる「足が速い」という表現は誰にとっても速いものであると定義されるのである。
 (B)について。これは要するに「足が速い」ことがいかなる善悪の考え方に結びつくのかということである。素朴に「すごい」と考えることも可能だが、おそらくその素朴さにもなんらかの価値観(それは単純に「足が速い」とは異なる何か)に基づき判断されるだろう(※1)。より具体的には「名声が得られる」「お金がもらえる」とった指標が結びつきうるだろう。

 このように整理した場合に問題とされる態度の取り方は二重にある。
(1)(A)と(B)を結びつける類型、価値は一通りではないこと、言い換えれば(A)と(B)を同一視することには問題があること
(2)価値による善悪判断は限定された価値のみで判断できないことが多いこと

 (1)についてはリースマンも指摘しているが(上p123)、類型Aが価値Xを説明する唯一の類型ではなく、類型Bも価値Xを説明しうるということである。また同時に、類型Aが価値Xとは異なる価値Yを説明することもありえ、価値Xと価値Yの関係もまた考察が必要となるかもしれない。ウェーバーのレビューで再度取りあげたいと思うが、ウェーバーのいうよい理念型というのは、この両者の結びつきがより適合的であるものについて指しているように思う。
 (2)についてはリースマンの認識が弱いと思われる部分である。つまり、価値Xの重要性を指摘する場合にそれが個々人の「善/悪」判断になるかどうかはわからず、それはその人の価値観が価値Xだけでなく、価値Yや価値Zにより定義されている可能性があり、かつ価値Yや価値Zの方がより善であると見なせる可能性さえあるという点である。これは先程の「足の速さ」の例で言えば、「名声が得られる」ことと「お金がもらえる」という価値観、どちらに重きが置かれるべきかが問われるようになった際に議論の遡上にあがってくるものである。リースマンにおいては「自律性」があることはほとんど絶対的な善としてみなしている訳だが(下p138)、彼の考えるような「規範同調能力があること」や「選択が多い」という言葉で説明される「自律性」は果たして絶対善なのかと問えば、極めて微妙である。そもそも「自律性」はリースマンによれば「理念型」として位置付けているはずなのに(下p140)、なぜ価値判断と直結してしまっているのかも説明できていない。このあたりはリースマンの主張の矛盾として位置付けてよいように思う。

 リースマン自身はこの「孤独な群衆」を解釈した者に対して批判を多く加えている。確かに本書の意図自体が、ウェーバー同様にそのような類型解釈と価値判断の結びつきの否定にあった以上、当然の結果といえるし、アメリカだけでなく、日本においてもリースマンの議論はそのように解釈されてきた傾向が非常に強かったと思う。日本でも現在までに16万冊の発行部数を誇っているというが(下P299)、合わせて社会学絡みの本でもリースマンはよく引用される。例えばこのような内容。

 「その後の(※リースマンが指摘した50年代後の)アメリカ社会は大きく転換をとげ、六0年代の終りから七0年代にかけては特に青年層の間にいわゆる「緑色革命」といわれる反戦・反体制の傾向がますます強まり、内部指向型タイプの若者たちが急増している感があるが、さきにあげた分類は日本人を考える場合、特に便利だと思われる。日本の場合にはなんといっても他人指向型が多いと考えられるからだ。」(飽戸弘ら編「変動期の日本社会」1972、p184)

 ここでは、「現在の日本人には他人指向型が多い」という指摘のされ方がされる。それは一見すると「傾向」を説明し、一般化していないようにも読める。しかし、ここでもむしろ問題といえるのは、「理念型」と「価値」が直結していることにあるといえる。
 だが、リースマン自身も同じような形で理念型と価値を結びつけているとしか読めない語りをしている以上、このようなミスリードは起こるべくして起きたのではないか、としか読めないのである。これについてはウェーバーについても検討が必要な論点になるだろうが、何故このような「理念型」解釈による矛盾が簡単に出てきてしまうのかについては、ウェーバーのレビューの際に改めて考えてみたい。


※1 唯一の例外となりうるのは、模倣の対象としてその人物なりを見る場合だろうが、ジラール的な欲望の三角形の議論に忠実になれば、私とその模倣したい媒体とは別の第三項に何らかの対象(目的)が設定されていると考えられるだろう。

(12月20日追記)
※2 これについては「「理念型」の考察 その2」で、少し訂正を行った。