アブラハム.H.マズロー、上田吉一訳「完全なる人間」(1962=1964)

 今回から検討したいのは、「人間性(ヒューマニティ)」についてである。これまでも関連的な分野をレビューしてきたように思うが、だいぶ考えもまとまってきたので、考察の対象として加えていきたい。ちなみに訳書は1979年の新装版を読んでいます。

(読書ノート)
p21 「この立場は決して普通のフロイト観を否定するものではない。ただ、それを補足するだけである。いささか単純化するならば、フロイトは心理学の病的な一面を示してくれたが、われわれはいま、健康な半面を充たさなければならないといってよい。おそらく健康心理学は、われわれの生活を統制し、改善し、よい人間にする大きな希望を与えてくれるだろう。たぶん、「病気にならない方法」を問うこと以上に効果的なことであると思う。
P29 「そればかりか、人間性のこの二重構造、すなわち、高次と低次、神性と動物性を統一する問題と技術もまた生ずる。およそ、大多数の哲学や宗教は、洋の東西を問わず、人間を分極化し、「高次」になろうとする道は、「低次」を放棄し、克服すべきことを教えている。ところが、実存主義者にいわせると、両者がともに人間性の特徴を規定していることを教える。いずれを否定することもできない。それらは統合することができるだけである。」

P38 「わたくしの最初に出した質問は、精神的な病源に関するものであった。「神経症を生むものはなんであろうか」と。わたくしの解答は、要するにその根本において、また発端としては、欠乏症状であろうということであった。それはある満足が阻まれていることから出ずるもので、この状態をわたくしは欲求と呼んだ。すなわち、水、アミノ酸、カルシウムが欲求せられ、とりもなおさず、その欠如が病気をひきおこすということと同じ意味で、そういったのである。大部分の神経症は、他の複雑な決定要因とともに、安全、所属、同一化、親密な愛情関係、尊敬と名誉に対するみたされない願望から生ずるのである。」
※ この欲求を満たせると考えること自体がおかしいことをフロイトの議論からしてきたのである…そして主因は非可視的なものによる神経症発症の蔓延にあった。

P66 「たとえば、ボールバイ、スポッツ、レヴィによって普通に研究されている愛情の欲求は、欠乏の欲求である。みたされるべき穴であり、愛情がそそがれるべき空白である。もしこの心を癒す力をもった必要物が与えられないと、激しい病気が生ずる。もし適時に、適量を、適切な方法で与えられるならば、そのときには病気は避けられる。……
 健康な人はこの欠乏がないので、絶えずわずかに維持する量しか愛情を必要としない。かれは一定期間であれば、これすら必要としないであろう。」
ジジェクの議論には少し似た所があるが、ジジェクの場合は、健康だとか病気だとかいう論点はなかった。
P71 「まったくの自発的に、内部から外へ歩みが進められ、選択がおこなわれる。健康な幼児や児童は、まさに生命そのものであり、その生命の役割として、手あたり次第に、またみずからすすんで、穿鑿ずきで、探求的で、ものごとに驚異の眼を見張り、興味をもつ存在である。たとえ、かれが意図せず、あけひろげであり、表現豊かで、自然で、普通の意味の欠乏に動機づけられていないとしても、かれは自己の力をためし、世界に手を伸ばし、熱中し、魅せられ、関心をもち、もてあそび、驚異を感じ、操作しようとする。探索、操作、経験、関心、選択、歓喜、享受のすべては、純粋な生命の特質とみることができるが、しかもなお、運命的であるが偶然に、期せず策せずして、生成へと導かれているのである。自発的な創造体験は、期待や計画、見通し、目的、目標をもたないでおこり得る。」

P100 「われわれがよく理解しようとすれば、知識への欲求は、知ることのおそれ、不安、安全や否定を求める欲求と統合せられるべきことは、まったく自明であるように思われる。われわれは、おそれと勇気との同時的な対立という弁証法的なゆきつもどりつの関係で締めくくるものである。おそれを強める心理学的、社会学的要因は、すべてわれわれの知ろうとする衝動を断ち切ろうとするだろう。これに反し、勇気と自由と大胆とを認めるすべての要因は、これまたわれわれの知識への欲求を解き放つであろう。」
P102 「完全な徴候群を報告した被験者は(※270名ほどの至高体験の面接・アンケートにおいて)なかった。わたくしは、部分的な反応をすべて合計して、「完全な」合成徴候群を作りあげたのである。」
P116 「結論を先にいえば、至高経験は善であり、望ましいばかりで、決して悪だとか、望ましくないものとしては経験せられないのである。経験は本質的に正当なものである。経験は完全で完成したものであり、それ以外のものをなんら必要としない。経験はそれ自体充分のものである。本質的に、必然的で不可避なものである。それはまさにあるべき姿である。」
※ここでは良い模倣のいう良いと善を別のものとしてとらえることが前提となっているといってもよい。

P140 「人を愛していると、幻想を生じ、またありもしない特性や可能性を認知していることがあまりにも多い。これはしたがって本当に見ているのではなくて、観察者の心のうちに作りあげているのである。が、それは欲求や抑圧、否認、投影、合理化の体系にもとづいている。たとえ愛情が非情よりもよく認知できるとしても、それはまた一そう盲目であることもあり得るのである。そして、どの場合にどちらであるのか、現実世界の認知が一層明確である例をどうしてわれわれは選ぶことができるのか、についての研究問題がわれわれを悩まし続けるのである。わたくしはすでに人格的水準において、この問題に対する一つの解答は、愛情関係にあるかないかはともかく、認知者の心理学的健康の状態如何にあるということを報告してきた。すべて他の事柄が同一であれば、健康ですぐれているほど、世界の認知はそれだけ明敏で透徹しているといわなければならない。」
※この基準に意味はないのではないか。なぜならそのような健康な人間を想定すること自体が誤りなのだから。
P153 「至高経験においては、個人は最もいまここの存在であり、いろいろの意味からして、過去や未来から最も自由であり、経験に対して最も「開かれている」」。

P197 「それは結局、創造性の理論では統合(あるいは自己一貫性、統一性、全体性)の役割が次第に強調せられるということである。対立概念を一段と高い包括的な統一体へと解決することは、とりもなおさず、人の分裂を癒し、かれを一層統一的なものにすることである。わたくしの述べてきた分裂は人の内部のものであるから、それらは一種の内戦であり、人の一部分が他の部分に対抗しているのと同じである。」

P296−297(訳者あとがき) 「ところで、このような科学的価値を荷った規範乃至手本は、決して「何々すべし」というかたちで人びとにその行為を強制するものではない。健康人であればかくかくの行為をするという、物事の「理」を示しているに過ぎない。その行為の取捨選択は人びとの自由に委ねられている。ただ誤った選択が誤った結果をもたらすという冷厳な事実に直面するのみといえるのである。かくてわれわれは、人間の規範が人間の外から、「当為」のかたちで課せられるものではなく、人間そのもののうちに含まれた本質的法則にしたがうものであり、健康で歪められない人間の本質的構造を科学的に究明することによって、人間のふむべき価値について明確な理論が得られると考えるのである。その意味で、マズローが、欠乏から完成への過程をとらえている人格の「生成」論に対し、完成した理想的人間、人間の本質を示すものとしての「生命」論をとりあげたことは、今日の教育問題の核心に触れているといえよう。」

(考察)
・欲求と欲望の議論に関連して
 これまでの議論の流れと関連して、奇妙に思えるのは、まずマズローの欲求に関するものである。マズローは「人間的欲求」として定めた5つの要素について、それが充足されれば、満足してそれ以上欲求することはなくなる、と明言する(cf.p66)。
 他方で、結構前に黒石晋のレビューをした際、欲求と欲望の議論を行った。黒石の議論はその定義の不徹底さや、個人モデルの想定が不能になるような捉え方を行っている部分については批判をした訳だが、基本的なイメージの部分についてはさほど異論はなかった。つまり、欲求は充足可能なものであり、欲望は充足されることがない、という部分である。そして、黒石は前者の欲求を動物的なもの、後者の欲望を人間的なものと捉えていた。このことから、黒石的な意味での欲望の話も、全てではないがマズローの人間的欲求には部分的に含まれていることがわかるだろう。特に自己実現欲求という、高次欲求に位置づけているものについては強く言える。
 さて、そうすると、このズレが発生している部分について、充足可能ととらえるべきか、そうとは言い難いかという問題が発生する。私の立場は割とはっきりとマズローを批判する立場である。それは、黒石のいうように、彼の指す欲望/欲求というのが、その人にとって未知のものか/既知のものかという部分が特に説得力のあるように思う(黒石2009、p59−60)。そう、マズローのいう承認だとか、自己実現というものに既知のもの、わかりやすく言えば定型的なものを設定することは不能なのではないだろうか?欲望が満たされることがない、とされたのは、それが非定型なものであり、簡単に移ろうような性質を持ち合わせているからであった。マズローの高次欲求についても、そのような性質をもった「欲求」なのではないか、という点について否定するのは難しいだろう。

人間性は定義可能か?ジジェク的な主体が関与する余地はあるのか?
 ここで問題にしたいのは、マズローが「人間の条件」としてこの人間的欲求という概念を掲げているという点にある。私の主張は、「人間性を定義することは不可能である」ということに尽きる。人間性を仮に定義しようにも、そこから外れる剰余について人間性を否定ことはできない、それが「人間性」と呼ばれるべきものではないからか、というのが理由である。ちなみに黒石的な定義であれば、この問題について循環論を用いてクリアすることができる訳だが、黒石の場合は、貨幣論とこの欲望を結びつけて個の観点を封じたり、衝動買いという充足的なものを欲望として語ったりしている点で不徹底であった、と言い換えることができる。今後の議論で、私自身がアンチ・ヒューマニスト的な語りをするように見える場合があるかもしれないが、この問題があるために、人間性を定義付けようとする試みに対してアンチ・テーゼを提出する、という意味でのアンチ・ヒューマニストであるにすぎない、と言えるだろう。

 私自身がマズローの議論で特に危惧するのは、ジジェク的な主体、「幻想を走査しながら生きる主体」のあり方を封じる可能性である。ジジェク的主体はマズローの言うような人間的欲求を満たした主体であるとは言えず、むしろそれが欠如していることを前提にするにも関わらず生きる主体であるといえる。このような主体のあり方についてマズローはどのように応答するだろうか?
 この点について、マズローの本書と「人間性の心理学」を2度ずつほど読んだ限りでは直接言及されている記述はみつけられなかった。おそらく、このような議論は黙視しているのではないだろうか、と正直な所思う。しかし、このような人間的欲求の欠乏と病理だとか、倫理的な悪との相関関係が示される点は無視できない(cf.p38)。「人間性の心理学」ではこのような記述もある。

「すなわち、不安定で、安全、愛、所属、自尊心などの欲求が基本的に妨げられているかまたは脅かされている子どもは、より多く、利己主義、敵意、攻撃性、破壊性などを示すであろう。その反対に、両親から基本的に愛され、尊重されている子どもでは、破壊性はあまり見られないであろう。また見たところ、実際に破壊性が見られないことを示す証拠もあるのである。このことから、敵意というものが本能的なものではなく、何かに対する反応として道具的または防衛的な意味をもつものであると解釈できる。」(「改訂新版 人間性の心理学」1970=1987、p180)

 このような可能性の示唆に意味を与えるのだとすれば、やはりそれは「人間的欲求」を満たすべきである、という主張につながりはしないだろうか?確かに、マズローがそのようなことを言っていないと主張することは可能であるが、本書から何らかの意味を見出そうとするのであれば、この部分は認めざるを得ないように思うのである。
 そして、そのような「人間的欲求」を満たすべき立場にいる場合、ジジェク的主体は批判の対象となるのである。何故か?たとえジジェク的主体として生きていたとしても、欲求の欠乏は持続しているため、いつそのような主体のあり方が崩れて、問題が起きる可能性が出てくるかわからないからである。マズローの議論を認めた場合、ジジェク的主体は黙視以外には、批判の対象にしかできない。

 なお、このような態度をとらざるを得ないのは、マズローが至高経験について議論する際にも見られると言ってよい。マズローは「人間的欲求を満たした完全なる人間は、至高経験をしている」という命題を掲げようとしているのである。これまでの議論と関連させれば、この至高経験をめぐる議論の奇妙さは、至高経験を善と直接結び付けている点にある。
 高橋の議論の際に定義した「良い模倣」と「悪い模倣」というのは、支配的な権力にとって良いものか、悪いものかというように扱っていたため、倫理的な善悪とは別の層でとらえていた。確かに両者は異なるものであると言ってよいが、この善悪の扱いについては、判断を保留したかった、というのが一番の理由だった。確かに現在の支配的な権力の立場で良し悪しが判断されることに対して批判的な立場をとり、倫理的な善悪を持ち出すというのは、割とよくあるパターンなのだが、このような態度が基本的に倫理的善の立場により過ぎており、なおかつ支配的な権力の良い方向に再定義されやすいものなのではないのか、という疑念があった。マズローの議論においても、その疑念は抜けていると言えないのである。

 最後にもう一点、フロイトの議論に関連させれば、人間的欲求モデルが、一度満たされればそれで解決する、という立場をとることにも違和感がある。危険の到来は可視化されないものがあたかも現実的にあるかのようにとらえられるようになってきている、という議論である。これは特に安全欲求などにかかってくる部分であるが、このような欲求も充足されることを前提にするのは適切とは言えないように思う(これを欲望と呼ぶべきかどうかはまた迷う所だが)。

 次回はこの人間性の議論をもう少し具体的に考えてみたい。扱う題材は昔ステファヌ・ナドーのレビューで言及していた「シルバー事件」というゲームにしたいと思います。

理解度:★★★★
私の好み:★★☆
おすすめ度:★★☆