矢野智司「贈与と交換の教育学」(2008)

 「自己変容による物語」でも矢野の贈与論は批判を行っていましたが、本書はそれよりもひどい方向に洗練された贈与論を展開しています。ひどい贈与論のテクストとしては典型的なものとして有効かと思ったので、今回取りあげました。

(考察)
ジラールに対する誤解
 さて、矢野が議論で用いているルネ・ジラールの議論は、明らかなミスリードをしている。そして、それが本書全体にわたる奇妙な贈与論の根幹をなしている。このことは「位階」をめぐる解釈に典型的に現れている。一言でいえば、矢野の位階の解釈は、あたかもそれが客観的な基準として存在しているかのようにみなす議論である。
 このため、矢野は位階の導入についてもそれこそ恣意的に用いて語ることになる。この恣意性は結局矢野自身によって「よい模倣とは何か」をすでに判断した上で秩序の議論を行うことに繋がることになる。

 ジラールはこのような客観的な議論は「精神分析」の悪い点としてむしろ否定していた。「地下室の批評家」の読書ノートのp79-80でも指摘している点だが、例えば次のような指摘もなされる。

「たとえば、社会学者は、地下室的な偶像崇拝の中に、歴史の歩みから取り残された社会構造に浸透している物神崇拝の一形態をみることだろう。社会学者は、カラマーゾフの一家が、完全に解体した封建社会に属しているという事実によって、この小説のすべての要素を説明しようとするだろう。いっぽう精神分析学者は、この同じ偶像崇拝を《オイディプス的》葛藤によって説明するであろう。社会学者も精神分析学者も間違ってはいないが、彼らはそれぞれ、自分たちの説明の輪をがっちりと閉じてしまっている。彼らは現実から恣意的に切り取ったほんの限られた部分しか見ようとせず、つねに観察された現象と同次元で原因を決定しようとする。」(ルネ・ジラールドストエフスキー」1963=1983,p153)

 一方で、ドストエフスキーは「個人の行動と集団の構造とが永遠に重なり合っていることを示す」(同上、p154)のであり、その点をジラールは評価している。精神医学は「患者を客観性の方向へと導くことによって治そうとする。」(同上p46、「地下室の批評家」p80も同じ内容)点が批判されてもいる。
 ここには確固たる主体が置かれることで客観視が可能となり、精神医学はそのような主体形成に寄与し、その点をジラールは批判していると読める。一方、社会学者は歴史的事実に基づく「社会構造」を根拠にして説明を行う。要するにどちらもある「現象」について、個人の行動か(精神分析)、集団の構造か(社会学)に還元した捉え方を行っているということである。ドストエフスキーはこれらに還元しないのであると述べているとジラールは指摘するのである。このため、矢野がp53-54で議論するような「距離」というのを客観視して学校の先生の話(p55)や「こころ」の事例を用いた贈与論の展開で応用をするのは論外なのである。少なくとも、ジラールの議論とは異なる話なのである。

○矢野の贈与論の問題について(続)
 矢野の贈与論解釈の問題はすでに「自己変容という物語」において指摘した通りだが、ここでは改めてその点を批判しておこう。

 矢野的な贈与の議論にはすでに「関係に入っている」ことが条件となっている。P65-66にような「先生」と「私」の間に矢野のいうような贈与が成立するためには、その前提として「私」が「先生」を切っても切れないような、関係性がなければならない。
 しかし、むしろ問題なのは、矢野の議論がそのような「関係性があるかどうか」という位相に対して必ずしも注目している訳ではなく、自明のものととらえているという点である。これは、p55などで自明のごとく先生と生徒の関係性を語ることからいえる点である。「自己変容による物語」のレビューでも指摘したように、学校という場では、そのような関係性を自明にできないことを起点に贈与を考えなければならないのである。

 また、矢野は前回議論した高橋の議論とは見た目上は逆に贈与の「受け手」の側からしか議論をしようとしない。ただ、正確には高橋の議論と全く同じであるともいえなくもない。「ベタニアの塗油」の事例における贈与者をキリストと設定した場合の、受け手である女の問題を取扱っているのと全く同じだからである。
 いや、正確には確かに本書の最初の方では「先生」の態度の性質を捉えつつ、その贈与性について議論しているように見えるのだが、実質的にはそれが全く意味をなしていないのである。P65-66の部分が全てを物語る。確かに「先生」は「私」に惜しみない贈与をしたらしい。しかし、その贈与を私がどう受け取るのかは本来別問題である。なぜKの死は謎のまま残されたのか。Kの死だって「先生」には返済不能な贈与という形でなされているようにも思えるし、それが「私」にとって贈与とならなかったと言えるのは、Kと私が直接出会ってさえいない、また「関係に入っていない」から、としか言えないのではないのか。ここではKの意図、というのは矢野の議論の中で完全に無視されており、そして「私」という「受け手」の態度しか問うていないことがわかるのである。
 この飛躍は本書の後半でボランティアについて語ったり、人間以外のものからも贈与が成立可能だなどと言い出す点からもはっきりと現われる。P274で言うような人ではないものが何故「贈与」していると言えるのだろう?それらが何らかの意図、及び特定化をした形で贈与行為をすることなどありえないのである。にもかかわらずそこに贈与があるなどと言うのは、もはや「受け手」がどう考えるかという一点だけしか論点にしていないことを意味しているからであるとしか言えないだろう。矢野の議論は、高橋の議論以上に不可解であり、そもそも贈与なるものが成立していない場合にも成立してしまう状況を、その特殊性を意識せずに議論しているのである(※1)。

○「関係に入る」とは、どのような状況を指すと考えるべきか?
 さて、仮に(※2)矢野のいうような贈与が先生と私の間で成立したとして、この状況において贈与成立の条件となっていた「関係に入る」とは、具体的にどういう状況を考えればいいのか、というのは、贈与について考えるにあたり有効だろう。少し考察してみたい。
 「関係に入る」状況とは、要するにダブル・バインドの成立要件であり、平たくいえば「信頼関係」の存在であるが、具体的にどのような説明が可能か。3つの場合を考えてみる。

①その人が私にとって「真」であることが明らかであり、その人の行うこと、語ることが真であるとそのまま理解すること(私にとって神である)
②その人の行為・言明が真であるかどうかは明らかではないが、少なくとも私に対して誠実に接してくれると考えること。その人が配慮してくれる他者であること(私の味方である)
③私を悪くは扱わないとみること。誠実でもないかもしれないが、裏切りはしない安心感があること。(「私の味方である」、と言いきれないかもしれないが少なくとも「私の敵ではない」こと)

 ダブル・バインド自体は「自己変容による物語」でも述べたように、矛盾するメッセージが共に真であるとみなせる際に発生するが、この3つの条件はその基礎となっているものである。厳密には「メッセージの真偽」というのは、「私への評価」と必ずしも関係しないものの、あくまで「関係に入っている」場合のダブル・バインド成立要件についてここではみている。
 さて、「関係に入る」状況というのは、ここでいう③は該当してこないのではないかと思われる。何故なら③の状況はすでに「誠実でない」可能性に開けており、行為、言明が常に偽となる可能性について考えているからである。②については、真かどうかまでは定かではないが、偽である可能性についてはあらかじめ排されているケースである。

○「ダブル・バインド」と「生成」の無限性を前提することへの危惧
 ダブル・バインドの状況においては、常に受ける意味が過剰となり、そこから他者性が立ちあがる、という解釈を矢野はしているが、特にそれが「死」という形態を取るとき、そもそもその贈与のメッセージが何だったのか、という問いは解決不能なものとなる。私がそれを理解しなければならないとなった際には、それが生成変容をもたらすことになる(cf.p92)。
 また、この贈与は決して負債とはならないと矢野は言う。それがダブル・バインドである以上、すでに強力な制約が主体にはあるのであるが、それが「無償の贈与」であり、「環を閉じない贈与」となっている限りにおいて、負債とはなりえない。確かにその通り。しかし、これは高橋の「ベタニアの塗油」の場合と同様、「贈与をする者の悪意」がない限りにおいて不問にできる点である。これは確かにそのような悪意がありえない人以外のモノに対しても贈与があると認める根拠となると言ってしまうのも、わからなくもない話だ。主体が常にダブル・バインドによる制約を受けている以上は、常に「ある解釈」から離れる可能性を持ちあわせ、それが「生成」と呼ばれるものにつながる。問題は結局そのような「ダブル・バインド」の状況を矢野は無限なものとして解釈している点であり、それが有限である可能性についてどう考えるのか、という点にある。これは「ダブル・バインド」自体の無限性はもちろんのこと、「生成」がいかになされるかという無限性についても疑問符をつけるべき部分である。「挨拶を例に取るなら、人は純粋贈与によって、有用性に基づく交換の環から離脱することで、初めて本当に他者に頭を下げおじぎをすることができる。」(p256-257)と矢野は言う。しかし、この交換からの離脱は厳密に言えば、「頭を下げる」意味までも解体しているような「生成」の状態を想定しなければならないのではないのだろうか?なぜ「頭を下げる」という「善」についてはその交換の環から外れることなく、居残り続けるのだろう?これは、まさに矢野がダブル・バインドによる無限の生成を恣意的に有限化し、かつそれをあたかも無限の行為の中でなされているように語るという「悪質な贈与論」の結果であるように思う。
 もっとも、このp256-257の引用を真の他者理解の条件、とみることにさほど異論はない。しかし、一つはダブル・バインドと生成の無限性をもってしても、それが具体的な人としての他者を介さずして機能するかと言われれば何ら根拠がなく(自己の解釈の世界だけで終始しているのだから)、また、人以外にダブル・バインドが成立するためには、前提条件として、「そのようなダブル・バインドの成立を自明なものとせよ」と伝える他者の存在は不可欠であるように思える。それは「全てのものへ愛着をもて」から出発するようなものである。ただこれは、人でないものには無害だが、それが人である場合には、高橋の議論で危惧したような過剰な贈与の搾取といった議論を避けることができないように思う。本書はある意味典型的な贈与の美談を語る内容であるが、このような文脈を無視して議論してはいけないように思うのである。

※1 このような贈与は、前回議論した内容でいう「贈与制度内贈与」ではない贈与成立の条件の②にあたるものである。

※2 ここで「仮に」と私が言うのは、矢野が述べたような「こころ」の解釈をそのまま支持してよいかわからないからである。最近「こころ」をしっかりと読んだ訳ではないので。


(読書ノート)
p38 「ツァラトゥストラという世俗外個人は、超越的存在との交わりという溶解体験をもった個人として共同体へと戻ってくるのではないだろうか。」
ニーチェは共同体の一性を認めていないし、そういう前提をしたからこそ一度失敗をしている。

p53-54 「ところで、媒体と主体との間の距離が大きい間は、両者の間に軋轢はない。このような媒体と主体とが互いに触れないほど十分に離れている場合の媒介関係は、「外的媒介」と呼ばれる。このとき媒体は主体によって理想化され尊敬される。しかし、媒体と主体の間の距離がせばまると、両者の関係は微妙なものとなり、お互いに競い合うライバル関係となる。このように互いに願望可能圏が重なる場合は、「内的媒介」と呼ばれる。恋愛の三角関係のように、欲望の対象の獲得をめぐり、主体にとって媒体はモデルではなく立ちはだかる障害物となり、主体と媒体の間に熾烈なライバル関係が生じる。」
※客観的な距離があるかのような前提で議論している。おそらくジラールのいう良い模倣への検討が十分でないから。
p55 「しかし、この先生と弟子の関係も、やがて羨望と嫉妬の炎に焼かれる三角関係の競争者たちにように、ライバル関係に転化する可能性がある。もちろん、小学校の先生と生徒との間では、両者の力があまりに大きいために、ライバル関係は表面にでることはない。子どもの時期には、ただ自分より偉大な存在と見える先生への子どもの側からの敬意だけがある。」
※このような語りは教師、生徒間の秩序の共有を自明としていないか。力の差とは何を指すのか。それは暴力的なレベルの話か?学級崩壊はなぜ起るのか。ジラールの議論を曲解すると、このような無茶な解釈をするようになる。

p65-66 「しかし、Kの死はそれが謎であるとしても決して贈与ではない。それにたいして「先生」の死は、「私」にたいする惜しみない贈与である。「私は今自分で自分の心臓を破って、其血をあなたの顔に浴びせかけやうとしてゐるのです。私の鼓動が停つた時、あなたの胸にらしい命が宿る事が出来るなら満足です」と「先生」はいう。これは贈与でなくて一体なんだろうか。
 だからこそ「先生」に残された「私」は、なぜ「先生」が死を選んだのかを、人生を賭けて問わざるをえない。そして、「先生」も死の意味を「私」が「生きた教訓」として「真面目」に理解してくれることを期待しているのだ。この贈与によって「私」は跳躍する。」
※いや、Kの死も贈与たりうるのでは?贈与を関係性の中にしか組み込んでおらず、もはや純粋模倣でしかない。
p66 「通常、贈与は人間関係のバランスを揺るがし、贈与者への返礼の義務を生じさせる。しかし、贈与されたものが愛であるとき、贈与を受けた者を負債で苦しめはしない。「先生」が「私」に与えたものとは、自らの罪にたいする懺悔に満ちた遺書という物語だけでなく、その遺書を「私」に託し自ら供犧として自死したという出来事である。」
※苦しむかどうかは主観的な問題だし、贈与の義務性はそれだけで強制と苦痛の可能性になるのでは?何故愛が苦痛にならないのか、意味不明。このような理解の仕方と恣意性の問題が実際結びついているのでは?結局問題は人類学的(マリノフスキー的)な贈与の議論をしていることだろう。

p84 「先にも述べたように、「最初の先生」がもっとも大きな力を発揮するのは、自分の死を見返りを一切求めない純粋贈与とするときである。死に臨んで弟子に語り行うことは、師から弟子の最後の教えであり最高の贈与である。ソクラテスの死が弟子に死の思い出や対話編を描かせるのは、その死が大きな贈り物だったからである。ソクラテスの死は、後のストア主義者の人生に「生きる勇気」を与えたのである。
フーコーの解釈ともまた異なる。

p92 「教育愛がこのように論じられれてきたことは、教育学的思考が交換と贈与とも次元的差異に考慮を払わず、最初の先生の誕生=贈与という出来事を、「交換の物語」あるいは「贈与の物語」に回収することで、結果としての初発の力をいかに縮減してきたかをも示している。このようにして教育愛は、教師の生徒への機能的な役割としての「危険」のない「愛の物語」に書き変えられたのである。
 最初の先生の愛は、交換のなかで返された返礼などではなく、一切の見返りを求めない無償の贈与であるがゆえに、日常の生=交換の環に安住しようとするものにとって危険きわまりないものであり、だからこそ贈与された者に生成変容をもたらす力となる。もともとエロティシズムは、教養者の文化への愛などにとどまることなく、死におけるまで生を称えることなのである。だかいきようとするらこそ愛の贈与者としての最初の先生は、小さな振幅で生成と発達を生きようとする者の経済的な均衡を大胆に破壊し、生成と発達にダイナミックな振幅をもたらし、より高く人間であること(人間化)を生みだすとともに、同時にできるかぎり遠くへ動物であること(脱人間化)をも促すのである。」
※命がけの飛躍、に対する解釈も微妙に違う?ここでいう「危険」については、トーテミズム的信仰も最初は人間同士の殺害にあったとする見方をとるだろう。おそらく、ここでの交換との対義的な見方が、相互性を引き受けた形で贈与を語ることを正当化しているといえるか。しかし、やはり見返りを求めない、というのは応答の可能性までない可能性を考慮に入れるべきでは。
 奇妙なのは、ここでは良い模倣の議論しかしていないのではないか、という点である。これは多分、ジラールの議論を素朴に引き受けてしまっていることの問題であるように思う。言い方を変えれば、悪い模倣によって位階自体が変化し、主体が優位に立つような可能性を考えない。最初の先生は自明のものとして秩序の上位にいる。だからこそ、人間化(上位位階の強化)と脱人間化(下位位階の転換)は同時に表象する。
 もちろん、この見方はすでに関係性に入っている場合の跳躍問題である。そのため、関係性に入るかどうかという跳躍、矢野の議論で言えば教わる立場に立つ者達の「共同体」的状況を、この現代においてどれくらい前提にして良いのかという問題もあるように思う。矢野の前提とする共同体はあまりに素朴である。ここでの共同体のズレというのは、贈与するものの意図が通じるかどうかという問題を内包する。意図の伝達が一意的であれば、矢野の言うような議論は成立しうるが、そのような一意性自体がすでに崩壊しているのが現代なのではないのか。だからこそ、ここにも命がけの跳躍の問題が生じるのではないか。

p93 「先生の死が弟子にただ負債感を残すだけであれば、弟子によって描きだされる先生の姿は、理想化され神話化され「聖人伝」のように生身の人の姿を失ってしまうだろう。弟子のもはや返済不可能であるという悔悟の念が、先生を理想化し、さらには神話化してしまい、贈与の力を個人の像のうちへと実体化してしまうのだ。このように贈与の出来事は実体化されることで、先生の贈与はまとまりのよい美しい「贈与の物語」として定着され、贈与に立ち会った者の息を止めてしまうような圧倒的な衝撃力を失うことになる。しかしそれでもなお、贈与はいかなる物語によっても語り尽くすことができない特質をもっている。それゆえ贈与としての死は、無数の解釈を許容しつつ、いやむしろ予期しない出会いを生みだしてしまうことで、未来にわたり謎として運動し続けることになる。」
※ここでの「負債感」は法の順守とほぼ同義か。

p150 「教育における関係論を、人間間の社会的関係に収斂させてしまい、子どもの社会的関係でもって教育問題を捉え、「我を忘れる」—「我にかえる」という体験の次元を忘却している教育学は、子どもをコントロールしようとする科学的対象化の思考に回収されてしまう危険性をもっている。教育における関係を社会の軸に一次元化する教育の思想は、結局のところ人を対象化し手段化するだけでなく、他者を擬人法をもって包摂してしまう思想であり、意図とは関わりなく差別と排除を自ら作りだすことになる。」
※結局ここでの問題は溶解体験の無視という論点に留まる。ここには、わかりあえない可能性としての贈与の問題はやはり問われることがない。悪く言えば、問いの立て方が古い。もっと言えば、一意性な共同体の想定自体が差別と排除に繋がることについての配慮がない。

p211-212 「認識の上でも価値の上でも人間を世界の中心に考える人間中心主義、知によって世界を正しく理解しコントロールしようとする合理主義、人間一人一人が同等の権利をもつとする民主主義、これらの思想と結びついた戦後教育にとって、「発達」という思想は、戦後教育思想の特徴を端的に示す中核的概念のひとつである。発達の論理は、教育実践において、未来に向けての具体的な指針を与え目標を提供してきた。さらに、発達としての教育は、人間の基本的権利として、政治的な概念としても機能したため、教育運動において大きな力を発揮していた。それにたいして、生成の論理と体験は、教育実践において無視され、また教育学の学問的対象としても取り扱われることはなかった。
 教育学は、生成変容の出来事を発達の論理に従属する挟隘なレベルでしか語ることができなかった。遊びは遊びの外部に目的をもたず、有用なものを生みだすための手段ではなく、遊び自体のうちに自己が溶解する自由で歓喜に満ちた生成の体験である。……しかし、教育の世界では、遊びの本質であるである体験の次元は二次的なものとみなされ、遊びは経験として捉えられ、結果として役割や規則を学ぶことができるようにするとか、人間関係を豊かにするとか、自然や社会についての認識能力を高めるとか言われてきた。どれもまちがっているわけではないが、発達としての教育は、遊びを経験とみなし、遊びが結果としてもたらす教育的効果を強調し、保護者・教師に遊びを教育の手段であることを教えることによって、遊びが本来もっている生成の力を縮減し衰退させてきたのである。」
※何を根拠に言っているのだろうか。これは80年代の動向に対しての指摘?多分、このような批判の仕方こそが、秩序の議論を曖昧にしている。そして、恣意的な秩序を導入させるきっかけとなる。何故なら、矢野の議論もまた、秩序の維持を大前提にした形で生成論、贈与論を展開するからである。ここでいう「純粋な生成」は純粋模倣という体裁を持つ限り、自己否定的にならざるをえないのである。純粋贈与という、わかりあえない可能性を内包しない限り、「遊びがもっている生成の力を縮減し衰弱させ」ることしかできないのに。

p216-217 「しかし、戦後の都市計画によって、森や林を破壊し、川を暗渠に変え、地や海を埋め立てて開発された地域は、だいたいにおいて似た階層の人々によって形成された、均質的で機能的な人工空間である。このような地域においては、住民同士のライフスタイルも共通するため、欲望模倣から生じるライバル関係の昂進をとどめることができない。そのため隣人との差異化が子どもの学校での成績によってなされることになり、学歴獲得競争が住民の関心の中心の一角を占めることになる。この価値の一元化は、親の間だけでなく子どもの間での競争を激化させ、成績の振るわない子どもから、よくできる子どもにいたるまで重い枷となっている。このような場合、互いに似ていれば似ているほど、ますます欲望模倣は昂進し、そのためますますお互いの差異化をめぐって競争は加熱し、悪循環を起こしていく。この事実を、学校内部の世俗化の進行と重ね合わせるとき、子どもを取り巻く環境が、どれほど生成の体験を欠いているかを理解することができよう。」
※矢野の前提からは、このようなつまらない主張は避けられないだろう。模倣の距離感について恣意的な用法を使っているために、受験競争における正当な秩序の作用の可能性について自覚できない。恣意的な用法をつかっているのは、まさにこの良い模倣/悪い模倣の問題が主観的な問題でしかないという部分を認めず、客観性を取り繕っているからである。そもそも、この競争で「似ている」とは何のことを指しているのだろう??同一的な人間を作ろうとする尺度に対しての問題提起だろうか。競争の結果としてはそこに序列がなされ、それが勝者敗者を生む。学校生活はそのような秩序に組み込まれる過程とむしろ考えるべきではないのか。ここでの指摘はむしろそのような議論を無視して、学歴の地位を手に入れようとする闘争があたかも起きているかのような議論である。これは実際どうなっているかどうかとかいうレベルを超えて、それが社会問題としてどう語られているかを捕捉した上での問題提起であるとさえ思える。そのような曲解を生むのも、模倣の主観性の無視によっているといえるのではないか。あまりにもジラールの物語を都合よく解釈しすぎている。

p228 「そして、ボランティア体験学習も同様の問題に直面している。ボランティアではなく「体験」なのである。そして、その「体験」の中心は純粋贈与にある。発達としての教育の一次元的な視点では、ボランティア体験学習を変質させる危険性をもっているのである。」
※このような見方の功罪は、自己矛盾を抱えた批判を展開するだけでなく、批判の対象とされる議論のコンテクストを無視し、結果ベースの議論に終始することによる「べき論対ある論」の不毛さにも見出すことができる。「べき論対べき論」という議論せずに、現状の病理に着眼しある論として語ることは、そもそもその状況に対しても一次元的な解釈を行おうとする不毛さまである。
p236 「ボランティア活動は、授業に導入されることによって、純粋贈与であるはずのボランティア活動が、手段化される可能性をもつことになる。それというのも、現在提案されている中教審の案によると、子どものボランティア活動は、教師による評価を受けることになる。しかも、その評価は、将来の進学や就職の判断材料とすることが求められている。そうすると、授業でのボランティア活動は、活動自体が目的ではなくなり、活動の外部に別の目的をもつことになってしまう。このときボランティア活動が、手段化されるだけでなく、その援助の相手である他者も、また手段化されてしまう。そのことは、他者を人格として扱うことを基本とするボランティアの精神を歪めることになるし、ボランティア活動の純粋贈与という特性を破壊することになる。」
※このような着眼自体がジラールの議論を客観的な見方をしていることの明確な根拠。なぜ制度的設計によって模倣のあり方が確定するのだろうか??そもそも、この場合における手段化されないボランティアとは、学校の体型に組み込まないことにあるとでも言うのだろうか。矢野自身は「教育関係者が「経験」と「体験」との差異を理解して、ボランティア活動の基本的性格が「体験」であることから出発することがとても大切なこととなる」(p238)と述べるに留まる。これは実際主観問題にシフトした主張である。では、上記でなしたような批判は一体何を意味しているのか、説明できるのだろうか。最も、曽野綾子が明確に示しているようにそもそも学校でのボランティア活動というのがありえないから、奉仕活動という従属的な言葉をチョイスしたという経緯自体が取りこぼされている点もどうかと思う。この点は曽野の方が本質をついているように思う。純粋贈与性を重視したいのであれば、学校教育にそもそも導入すべきではないだろう。ボランティア活動を行うことがよいことだと思うからこそ、おそらくその点については否定的な解釈をとらないのだと思われるが、その判断が問題を解決不能にしかねなくする。

p256-257 「マナーの精神をもつ人とは、自制心・克己心・忍耐力をもつだけでは十分ではなく、さらにまた優しさや寛容さや親切心をもつだけでも十分ではない。有用性を基にした目的的な企図を、気前よく破壊する力を発揮できる必要がある。挨拶を例に取るなら、人は純粋贈与によって、有用性に基づく交換の環から離脱することで、初めて本当に他者に頭を下げおじぎをすることができる。」
※しまいには、純粋贈与と礼儀という確固たる秩序にまで言及するに至る。溶解体験と他者を結びつけた結果起こったものであるが、厳密に言えば、溶解体験・純粋模倣においては、利己的な領域を棄却するが、他者性があるのかどうか明確である訳でない。もはや暴論。
p257-258 「このような自己の境界線が溶解する非ー知の体験の次元が感じられない人は、どのような場面においても、畏怖を感じることはない。そのような人は事故を破壊することなく、あくまでも同一的な自己にとどまり、挨拶はたんなる形式的な社会的交換になってしまう。マナーがマニュアル化できる身体技法にすぎないのであれば、時間と熱意さえあれば、学校教育で教えることができるだろう。……しかし、それではマナーは人間関係を円滑にするための贈与交換の身体技法にすぎず、他者や自然や宇宙との生きた全体的な回路を開きはしない。」
※また客観的な話をはじめている。

p274 「しかし、この純粋贈与者による教育の起源論も、さらなる捕捉説明が必要である。それというのも、これまで述べてきたように、人を共同体の外部へと開き「最初の先生」へと転換させるのは、「最初の先生」との出会いばかりとはかぎらないからである。動物や植物にかぎらず、風や虹、雲や水や岩や月や太陽といった人間ではない他者との交わりも、またこのような転回をもたらすのである。」
※受け手である主体の問題でしかないという意味で、ここには純粋模倣の議論しか介する余地がないし、届かない可能性を考えることはない。他者性を捕捉するためには、この目線も必要なのでは?この前提を抜きにした「他者性」は結局理解可能な他者しか対象としていないということにもなり、薄っぺらく見える。本当の意味での他者がいるとするなら、まさにわかりあえない可能性を内包しているからこそ他者なのではないのか??
p274 「このような動物たちは、単純な擬人法の説明にあるように、たんに人間の代わりをしているのではない。動物の供犧が人間のそれと同様に蕩尽であるのは、動物の生命と人間の生命とが互いに通底しているからである。しかし、このように動物は人間と共通しておりながら、動物は明らかに人間と異なる。そのため動物は「他者」のイメージを担わされてきた。動物たちは、死者と同様、私たち人間の世界の外に存在するのだが、私たちの世界とその外との間を横断する存在者たちである。」