贈与論序説—高橋由典「行為論的思考」再訪

 今回から何回か「贈与」をテーマにしたレビューを行いたいと思います。これまでも「模倣」と「贈与」の関係性については検討してきましたが、少し詰めた議論をしてみたいと思います。

 まず、これまで私自身の用語としてまとめた「純粋模倣」について復習すると、作田啓一のいう「溶解体験」が主体に与える影響を説明する言葉として、高橋由典のレビューの際に用いた。この純粋模倣は厳密には善悪の判断から離れた所にあるものとして、しばしば「贈与」という言葉で説明される概念にあえて別の言葉を充てるために用いた。これは高橋のいうように「返礼とセットとなった限りでの贈与」(高橋2007、p139)において見られる人類学、ないし社会学で用いられる「交換」の性質を持ち合わせた贈与の「結果」、起こるものである。

 ところで、読書ノートを読み直すと、高橋(2007、p222−223)が指摘する贈与行為はある種独特さがある。これは、基本的に「贈与」が先手を取っていることを前提に通常用いられがちだが、そうではなく、むしろ別の「贈与」行為に対する応答としての「贈与」として位置付いているようにも思える。
 そこで、今回はまず高橋の文献をもう一度読み返してみたい。

○改めて高橋の本を読む—「贈与」と「放棄」について
 高橋(2007)の第7章は贈与論を行為論的に拡張しつつ、交換に還元されない贈与について検討を加えた内容となっているが、足がかりとしては十分な簡潔明瞭な議論を行っている。

 贈与論を行為論へ拡張していく場合、3つの行為形式が想定される(p147)。①「交換」と比べて時間差があり、かつ非対称的な交換価値として現われてくる、制度論(人類学的な研究に見られたような仕組みが確認できる)の枠組みで捉えられる「贈与制度内贈与」、②行為により「与える」行為が一方向的なものとして(返礼のないものとして)とらえられる「贈与」、③「与える」行為がありかつ返礼のないものとみなされるが、行為の対象が特定されておらず、方向性が定まっていない「放棄」、である。
 もちろん、②や③というのが特殊な条件であることは高橋は十分に配慮している。制度の枠組みから外れたり、そこに私自身の合目的な意図が含まれること(贈与をすれば見返りがもらえるんじゃないか、という期待。この期待を持つことですでに贈与制度内的贈与へと転じることとなる)を排するような可能性について検討を行っているのである。

 そこで例として挙げられるのが「ベタニアの塗油」の事例である。捕縛される直前のイエスに破格の香油を頭に注いだというエピソードである。頭から香油を注ぐという習慣は当時あったそうだが、それがあまりにも多く、数百万円相当の香油を一気にかけたという「贈与」のエピソードである。
 ここでのポイントはその行為が既存の規範に基づかないような行為であったことにある。互酬性の規範(贈与の対しては返礼を行う、という規範)に準拠しうるベタニアの塗油の解釈を棄却し(p154)、なおかつもう一つ「アンティゴネ」の事例を挙げ、「神の規範」といった根拠ももたない、かつそれはジジェクが言うような「自己への法」でもないものであるとする(p157,259)。女の持っている「防衛体制解除」がキリストからの純粋模倣を可能とし、それが既存の規範に基づかないような「贈与」を可能としたとみているのである(p165)。

○高橋の贈与論への批判ーー主観論への還元の問題
 しかし、この主張には問題がある。そもそも規範というのはいわば主観と主観の間の領域において成立し、しばしばそれが客観的に存在するかのうようにみなされるものである。このため、厳密に言えば,主観のみの議論によっては規範から外れる行為ができるかどうかは判断できないのである。高橋はこの論点について「合目的な解釈論(後述する救済財の話に基づく解釈)」に陥るのは問題だとしているが、たとえそれが問題であるとしても、そのことによって主観論を擁護できる訳ではないのである。
 高橋の議論の面白さは最初に述べたように贈与制度内贈与に回収されない贈与は、それに先立つ贈与によってなされるという点であった。ここでは贈与の「送り手」と「受け手」が奇妙に絡み合っている。しかし、高橋の贈与論は、結局「送り手」の議論に終始している。
 例えば、高橋が「ベタニアの塗油」の事例で棄却した「救済財を受けてしまったために塗油の行為をした」という解釈によりなされたのは贈与制度内贈与であるともいえる(p154-155)。この解釈は女が作中では直接的に言及されていないが、何かしらのキリストからの救済を受けたものを前提にした上で、その返礼として行う行為としてと塗油行為をとらえる見方である。しかし、この解釈の棄却からも高橋は「送り手」の問題しか論点にあげようせず、「受け手」の議論を棚上げしているといえる。それは、キリストが救済材を与えたという行為が返礼を求めない贈与行為であることが自明のこととされているということである。女が「防衛体制を解除」したことも、別にキリストの贈与が返礼を求めないことと関係しない。確かにキリストに限ればそのように考えるべきではないが、この贈与の議論を一般化して考えるのであれば、この論点も考えなければならないはずである。
 受け手の論点が重要な理由は簡単である。ジジェクがサラマゴの「見ること」の例で示したように、支配者/従属者という軸で見た場合の軸のずらしは、従属者の行為によって、「支配者」が動揺した場合に意義を見出せると指摘した。このような指摘をしたのは、何より「軸がずれるかどうか」というのが、送り手のレベルが完結してはいけないことを念頭においた主張だったからである。つまり、贈与を行う者自身がいくら「内奥性」(バタイユが指摘する供儀の儀式の際に見出される、生贄とその奉納者の区別がなく、かつ現在が未来に従属しない状態のこと。P220)を見出そうが、贈与を受ける者に対して影響力を持たないのであれば、それは制度的に意味をなさず、むしろその行為が贈与者の自覚なしに制度に見事に回収されてしまう可能性があることを意味しているのである。これは、私のレビューの中では中野敏男が言っていた「ボランティアの水路づけ(による搾取)」にあたる。贈与の送り手は全く制度に組み込まれる可能性など考えずとも、制度にやはり組み込まれる可能性は受け手という論点を無視しては議論できないのである。「ベタニアの塗油」のケースにおいては、女の贈与の対象がキリストにあり、キリスト自身がそのような悪意を持っていなかったからこそ、問題として取りあげる必要性がなかったのである。残念ながら、高橋の議論はこの領域への配慮がないため、制度を変えられる可能性について建設的な議論ができていると言い難い。これは、主観論に徹してしまったことへの代償といえるだろう。

○贈与と放棄の違い、そして「アンティゴネの事例」をどう読むか
 ところで、高橋は何故「交換」という関係性から離れた贈与・放棄に着眼したのだろう?それは何より「交換」という枠組みが制度的なものとして位置付けられ、そこから外れる可能性について検討するためであった。交換の一環としての贈与を所与としてしまうと、「現実の枠内の出来事としてしか考えられなくなってしまう」(p141)ということに注目している。では、そのような現実の枠内から外れることにどのような可能性があるのだろう?少なくとも制度の枠に収まらないものの条件、について高橋は検討しているといえるだろう。

 では、高橋が取りあげた「アンティゴネ」の事例をどう読めばよいのか。簡単に説明すれば、アンティゴネは兄の埋葬が禁じられていたのに対して勝手に埋葬を行い、アンティゴネは捕えられ、自害するという話であるという(p156)。そして、アンティゴネの行為原理となっていたのが「神々の掟」であったという。表面的にはこの掟に対し「ベタニアの塗油」が自己準拠的な行為であったということを強調するために用いた訳であるが、では「アンティゴネ」の行為が果たして「贈与制度内贈与」と位置付けるべきなのか。まず高橋は両者の共通点として「過剰な贈与」であるとした(p156)。ただ、過剰な贈与性は厳密には重要ではない。むしろ「将来の状態への期待を一切欠いてまったく無目的になされる贈与や放棄のみが贈与制度内行為と質的に対立する」(p150)点が最も重要なポイントとなる。
 この観点に基づけば、「アンティゴネ」の事例は目的はあるものと位置付いていた。であれば「贈与制度内贈与」である。制度的にも過剰な搾取が成立するという意味でもこの発想は妥当性がある。
 しかし、「アンティゴネ」の事例は高橋と同じ読みをしてしまってよいものなのか。問題は「神の規範」をどう位置付けるか、である。少なくともアンティゴネの周辺においては、この「神の規範」に従うものがいない。その意味では「神の規範」に基づく贈与は制度に組み込まれているとは言えない。しかしながら、それは絶対的な審級にアンティゴネはすがっているとも読める。問題はその神の審級を「他者に従わせようとしたか」、つまりアンティゴネが行った行為(国法に背いた兄の埋葬の実施)を認めさせようとしたのかという点にある。もっとも、この埋葬行為自体は他人の承認なしに成立させることが可能であり、行為により期待される「見返り」自体存在し得ないのではないか(なぜならすでに行為は目的を達成してしまっている)。確かにここには「国法」に背いたアンティゴネが許されるという返礼の可能性はありえ、そこに期待するという可能性はありえる。ただ、素直の読めばそのようなことはないだろうと思われる。であるなら「贈与制度内贈与」とは言えない。命の「放棄」とは言えるだろう。
 しかし、はっきりしないのは、高橋が「アンティゴネ」の例を「放棄」の例とし、「ベタニアの塗油」を「贈与」の例としてとりあげた、という意図が十分ではないようにも見える点である。もっといえば、ここでいう「贈与」と「放棄」の評価のつけかたも曖昧であり、しばしば併記された形で論述される(p149,p168など)。そうすると、そもそも「ベタニアの塗油」に優位性を与えた理由がよくわからなくなってくるのである。

 私自身は、両者の優劣を付ける必要はそもそもなかったように思う。つまり、ある意味でなんらかの規範に従っていることが必ずしも「贈与制度内贈与」とはならないのであるから、別に規範に従わない態度など必要ないということである(これは矢野智司のレビューで取りあげた論点と似ている)。
 ただ、別の論点として、この両者を検討する必要はある。それが先程高橋の批判として提出した「送り手」の議論を踏まえた贈与の議論を考える上で必要であると思う。そこで、それを「同一化」という観点を鍵にして考えてみたい。

○「同一化」として贈与をみる可能性について
 「同一化」、つまり「対象を私と同一視する(=私と同じように扱う)」ことによってなされる贈与を考えると、それが見返りを求めない性質であることがよくわかるように思う(※1)。贈与がなされる時、同一化していることからそれは私が私に対して贈与していることとなる。これはまずもって外見には他者に対して与える行為でありながら、私に与えていると思い込むことでなされるものである。そして、私に対して何かを与えることは、見返りが発生しないのである。それが私の「内部」で完結している以上、『交換』はありえないのである。そもそも見返りを求めるという状況自体が起こりえない。私に与えたものはそれがどれだけ与えられようとも、無尽蔵に私の中に入り込んでいく。高橋はバタイユの内奥性を「有用性原理に基づく関係から解放する」ものだとする(p220)。私の中へ入り込んでいく贈与を内奥性と呼ぶのもある意味では矛盾していない。
 さて、ではこのような「贈与」観に立った場合、「放棄」の方はどうとらえられるか。高橋は「対象の定まらない非贈与制度内贈与」と位置付けるが、これを①「同一化に伴う贈与をその同一化する外部から見た場合、外に何か与えているように見える行為」と定義できないだろうか?もしくは、②「贈与」が不可能であるような場合において、「放棄」が選択されざるを得ない、という内容となっていないだろうか(客観的な影響が主観に影響を与えざるを得ないケース)?今回は十分な検討までできないが(※6)、この「放棄」の性質について少し検討してみる。

 ①について。これはそもそも「贈与」というのがその「送り手」の意図とは関係なく起きる可能性についてまで考慮したものであり、高橋の議論の枠外に現われるものであるといえる。高橋は「ベタニアの塗油」の事例においてキリストは女になんらかの恩恵の名の下で贈与を受けたものと前提に議論している。ここでは、直接的なキリストの女の対峙をもって贈与がなされたことが前提となる。しかし、実際の所、キリストに何らかの起因をもった女の行動はそのような直接的な「贈与」がなくても、模倣論的には可能である。まさに行為者の意図とは関係なく、受け手は「贈与」を受ける可能性もあるのである。「ベタニアの塗油」の事例でいえば、キリストの理不尽な境遇に対して女が同一化した可能性もありえるのではないか。
 これは「アンティゴネ」の事例がわかりやすく、アンティゴネの行為もまた、死んだ兄への「贈与」と見ることは十分可能であり、それはまさにアンティゴネが兄に同一化したことによってなされた、と見る方がむしろ正しいように思える(※2)。高橋はアンティゴネの行為が「全体として「放棄」と規定することは許されるだろう。」(p156)と述べているが、それは何より「生命」の放棄である。しかし、アンティゴネの贈与は実際のところ、兄を埋葬した時点ですでに完遂しているのではないか。
 ここで私自身も今まで見落としていた論点が見えてくる。そもそも、高橋のいう贈与行為は基本的に一回性のものである、という点である。レッシグの議論を思い出したい。レッシグの議論においては、「法」や「規範」と呼ばれるものは、客観的に見れば事後制約性を与えるものだった。にもかかわらず「法」や「規範」が主観的な意味で事前制約を与えうるのは、まさに法や規範が「罰せられるかもしれない」というものとして私に命令を与えるからである。ただ、ここで一回性の贈与を考えた際、「もしその贈与の完遂が究極の目的であるのであれば」、別に事後に制裁を受けることは何ら不都合がないことがわかる。このため、目的を完遂せんとする主体による贈与/同一化の行為は「法」のことを無視してなされる。しかし、見方を変えてそれを「法」に服従する他者の目線からその行為を見た場合に、これが「無意味」なものとして映る可能性があるのである。
 ①の議論というのは、このように、前提として高橋とは別の可能性としてありえる「贈与を勝手に受ける可能性」、及び贈与をめぐる主体と他者の主観の違いによって説明できる「放棄」とみることはできないだろうか、ということである。

 ②の議論について。これは①のように一回性の議論によっても、贈与しようとする主体が「法」や「規範」に服することによってありえる選択肢であり、さらに(a)この贈与行為が複数回なされる場合も同様の状況になりうる。また(b)私自身が「〜であり続ける」ことを望んだ場合にありえるように思う。これはすなわち贈与を行おうとする主体の究極的な目的がそのように設定された場合にあるということである。
 まず、(a)(b)どちらについても言えるのは、目的の完遂という概念自体が非常に曖昧になっている点である。贈与の繰り返しや「〜であり続ける」とはいつ終わるものなのか、少なくとも主体が設定しているとは言い難い状況である。にも関わらず、それは主体にとっての行為の目的であり、そのための行為をやめることを基本的には否定できないはずの性質をもつものである。

 (a)の場合について。これは自らの贈与行為の代償を常に受けうる可能性がある場合である。①の議論の場合は一度贈与を完遂すれば、その後の「法」や「規範」による制裁など言ってしまえばどうでもいいことだ。しかし、これを反復しなければならないとなると、その「法」や「規範」の制裁の後にも贈与を繰り返す必要が出てきてしまうことになる。①の場合同様「法」を無視するという立場をとることももちろんできるが、そうすると、今度は贈与を繰り返すという目的が達成できなくなる可能性が出てくる。であれば、「贈与をする」という行為をすべきかどうか困難な選択が求められることになる。
 これはクラやポトラッチといった、人類学的な贈与の議論を考える上でも問題となってくる。高橋もこれを「贈与制度内贈与」の典型的な例として取りあげる訳だが、このような「贈与制度内贈与」の枠を外れるような「贈与」や「放棄」を考えるにあたり、その贈与の反復性を無視していることがわかるのである。人類学的な贈与の議論は反復性を前提にした議論であると考えられる。それは、彼らの生活を根底から支えるような慣行の中にクラやポトラッチといった独特の交換の習慣が存在するからである。
 言いかえるとこの反復性の問題は次のような問題を提出することになる。つまり、贈与行為をめぐる議論を制約するような「法」や「規範」が存在し、かつ贈与行為を反復しなければならないとき、そのような「法」や「規範」の内容の変更を求めるような必要性が出てくるのではないのか、ということである。

 この問題意識は(b)の場合にも見出すことができよう。(b)の場合は、まさにフーコーなどが問題意識としてもっていた主体のあり方とも関連する論点だろう。例えば、LGBTといった性的なマイノリティ(※3)はまさに自身が「LGBTである」という自己認識からはじまり、自らでそうであり続けるために社会的な承認を求めるために、時に運動を起こすものである。ただ、この(b)の場合、私が「〜である」ことは行為を介して実現するものであるととらえられるかどうかが疑問点であり、その意味で今回議論している行為論的な「贈与」の議論になじむものかどうか少し疑問もある。そもそも自分が何かであることにわざわざ承認が必要なのか、という論点である。ただ、これも「〜である」ことのために「法」や「規範」が制約要因となってくる場合は、「〜である」ことを諦めないといけないことに繋がるのであり、そのためにやはり行為せねばならないのではないか、という見方も可能といえる。その限りにおいて、(b)の場合も行為論的贈与の議論たりえる。

 さて、長くなってしまったが、「放棄」が想定される②のケースというのは、このようにして特に反復、や自己の状態の維持のために「法」や「規範」と対立しうる場合に出てくる。これらの場合も基本的に目的が設定されており、純粋な意味での無目的な「放棄」とはいえない。しかし、その目的遂行が「法」などの影響で不可能となった時、そのことへの無意味さに対する現われとして「放棄」が現われる可能性はあるのではないか。

 ①の議論においても、②の議論においても、もともとの目的が存在しているが、「放棄」がなされる時点だけの状況を取り出せば、確かにそれは「無目的」なものとして「放棄」していると見ることも不可能ではない。しかし、そのことをもって高橋のように贈与や放棄に目的がないなどと考えることはかなりナンセンスであるように思えるのである。

○では、「法」に抗うためにどうすればよいか?
 さて、このように取り出された贈与をめぐる問題点に対してどう考えればよいのか?
 まず、前提とせねばならないのは、贈与自体が禁止される状況というのは現在の日本では想定しづらいのではないか、という点である。確かに禁止される贈与もある。例えば、学校教育というのが教えること・人に制限をかけていることや、ヘイトスピーチの禁止(※4)などもそれにあたるだろう。しかし、それはあくまで直接的なアプローチが禁止されているだけであって、間接的なアプローチをとる可能性まで否定されてはいないのである。であれば、先述の②の(a)の場合のような贈与の反復による法との対立の可能性は、何とか回避していく可能性がありそうである。そこで②の(b)のような、「〜である」ための行為を念頭に考察していきたい。

 「贈与」の行為を「贈与制度内行為」と区別するものは、返礼の期待がないことにあった。この「贈与」の性質を維持したまま「法」に抗する可能性を考えること、それが必要となる。それは、「法」への抵抗をダイレクトに表明するのであれば、それはすでに「法の変更への期待」をしている行為とみなされ、それは「贈与制度内行為」に組み込まれることになる。これは基本的にジジェクの言う過剰な愛着の問題と一致する(※5)。そのように考えた場合、「贈与制度内贈与」から外れる贈与行為としてありえるのは、以下の3通りであるように思う。

①「同一化」を媒介した形での贈与(返礼を求めない贈与)
②対象を特定できない、そもそも贈与が完遂できるかどうかがわからない贈与(返礼が来るかわからない贈与)
③そもそも「主体」と「客体」という概念に乏しい状況下における贈与(返礼という概念がそもそもない贈与)

 先に③から説明する。③については「交換行為」がそもそも複数の主体が独立することによって成り立っている、という前提を崩すことで成り立つ。要は個々人に「財の所有」が認められているようなケースである。しかし、そのような前提が解除されると、そもそも交換自体が成り立たなくなるのではないか、という見方である。ただ、ここでは「法」や「規範」が禁止を与えているような場合を想定している(=個々人を前提に働きかけている)ため、場合分けから外してよいだろう。

 さて、①については、すでに説明したように、対象を私と同一視することを念頭にしており、そのため、私から受け取るという可能性を基本的に否定することが可能となっている。
 また、②については、私が矢野智司のレビューの際にニーチェを経由して行った贈与の議論である。ここでは、贈与そのものが成立するかどうか(贈与されたものが受け取られるのかどうか)が不確定であることを前提に行うような贈与行為が該当する。この場合、贈与の成立が不確定であるために、その返礼を求められるかどうかも不確定なものとなり、「贈与制度内贈与」が厳密には成立しない。①と比較すれば、②は同一視することから距離を置こうとするし、①では、私と平等な扱いを他者にも行うことが前提となるが、②ではそうなるとは限らない(むしろ相手が贈与を受け取れば、不平等な扱いとなることもありえる)。

 前回、ジジェクのレビューでもみたように、このような実践は私から「法」や「規範」を変更する態度はとらないことを意味するものの、結局他者からの承認なしには成立しないものである。だが、贈与する主体の態度が徹底して①や②のような形の贈与を行っている限り、他者の態度変更は結果論にしかならず、「法」や「規範」はその限りにおいて、意図せずとも変更可能なものとして取扱われることになるだろう。
 
 今回はかなり考察ベースに進めましたが、次回以降、この議論をもとに何冊か贈与をめぐる本をレビューしながら、議論を更に進めていきたいと思います。

※1 もっとも、この「同一性」という言葉はバタイユの「内奥性」と同じ意味であるようにも思える。ただ、高橋があくまでこの議論を「主体」と「他者」という二項対立的なものをベースにしながらその「内奥性」なるものに接近したものに対して、ここでいう「同一性」原理はむしろ必ずしも主体と客体が明確に設定されない所にポイントがまずある。また、この「内奥性」という言葉自身がその外部の存在をあたかも放棄しているように思われる用語である印象が強く、その印象がそのまま外部の想像を欠いてしまうように思う。高橋もバタイユの議論を経由してそのような「罠」にはまってしまっているように思えなくもない。だからこそ、贈与の片側からの議論に終始してしまうのではないか。この点を回避するためにも、「同一性」という言葉をここでは設定している。
 もっとも、高橋がバタイユをこのような主体と客体を前提に議論すること自体が誤りである可能性はある。バタイユは私も読んだが、この点は忘れてしまったので留保してもよいのではないかと思う。

※2 これは高橋がジュディス・バトラーアンティゴネ解釈として取りあげた論点と基本的には類似する(p157)。バトラーはこれを「近親相姦的欲望」の現われとしてみているようだが、これも基本的には「同一化」によるものという解釈の仕方である。ただし、そこに性的なものを想定するかどうか、が差し当たり私の解釈と異なる部分である。

※3 ここでのマイノリティとは、さしあたり人数的なマイノリティを指している訳ではなく、十分な社会的な承認を受けていないという意味でマイノリティという言葉を用いている。

※4 ヘイトスピーチについては、究極的には身体的な危害が賭金となっており、通常はそれがすでに危害を及ぼすものであることが前提に禁止されるものであるが、ヘイトスピーチという発言自体はそれに留まる限り贈与的要素を多分にもっているともいえる。

※5 もしここで異なる部分があるとすれば、法による制約が、「〜である」ことの排除だけでなく、「〜である」ことを承認してもらうための贈与行為そのものまでも禁止するような場合である。

※6 この2つ以外の放棄の可能性については今回は深く考察しないということ。ただ、放棄の事例としてこれ以外のケースを私自身思いつかないのも事実である。もともと高橋の「放棄」概念は理論として提出したものであるものの、実態を踏まえた議論でないため、高橋もまともな議論をしているといえない。