矢野智司「自己変容という物語」(2000)

なかなかフーコーが読解できずにいたので、どんどん後回しになってしまいそうです…
ニーチェの議論も関連した矢野の著書を今回は読みます。

(読書ノート)
p61 「純粋な贈与としての「教える」という行為は、学ぶ者の側の主体的な参入を必要とする賭けなのである。ツァラトゥストラは、森の聖者の予言どおり、民衆に「教える」ことに失敗する。しかし、この失敗によって、ツァラトゥストラは、純粋贈与者にとって学ぶ者とは何者かについて反省することになる。」
p62 「ツァラトゥストラは、共同体外部の教師ではなく、共同体の外部から来る教師であり、共同体の諸価値の破壊者であると同時に創造者である。したがって、この共同体の外部から来る教師は、既存の内部の教師である「牧人」にとって代わり、新たな牧人として、それまで共同体の成員の心を満たしていた境説の代わりに、別の境説を与えるのではなく、牧人という在り方自体を超えようとする。そのため、この過剰な教師がもとめる学び手も、「畜群や信者」(民衆)ではなく、「道連れ」としての弟子である。」
p63 「しかし、これをもってツァラトゥストラと彼の弟子たちとの関係を、対等なパートナーといった対称的関係とみなすことはできない。ソクラテスがそうであるように、ツァラトゥストラの教える−学ぶ関係は、平等の平面にたち、相手の精神を尊び、相手に友愛を感じるものであるにもかかわらず、非対称な関係である。この非対称性を生み出しているのは、あとで詳しく述べるように、純粋な贈与が引き起こす至高性による。」
P65 「この命令はダブル・バインド状況を生みだす。教師と弟子のあいだに自立をめぐっての葛藤を生みだしかねない命令なのである。しかし、このような逆説性を対話にもちこむゆえに、ツァラトゥストラは、共同体内部の教師ともいうべき牧人であることを超えていくのである。」
※しかし、このダブルバインドの状況に陥るためには、一つの関係性に対しての了解が必要である。それが友愛にあたる。ツァラトゥストラの話においても、弟子たちと一般人の溝は埋まることがなかった。弟子たちはツァラトゥストラの考えを支持(了解)したからこそ、ダブルバインドの状況に埋め込まれることになるのであって、その逆ではない。

P69 最初の教師としてのツァラトゥストラの位置づけ
P78 「あとで述べるように、このダブル・バインド状況が、対話者にはかりしれない苦痛と不安感を引き起こす。そして、その最高の強度において、対話者の世界の区切り方を破壊し、対話者に非—知の体験をもたらすのである。したがって、そのような状況でも、なおかつ対話者が対話をつづけるためには、教師の権能が正当化されなければならない。」

P160 「なぜ動物の存在が、子どもや大人のかけがえのない同伴者となったり、傷ついた心を癒してくれるのか。これは、さきに述べた優美の問題と関連する。言葉を話さない動物は、自然から贈与された自然の生成の力をあらわしている。わたしたちは、動物とかかわることによって、分断されていた意識と無意識とのあいだに、見えない力がはたらき、連続性と全体性とを回復する。芸術がそうであるように、優美である動物は、わたしたちの自己と世界との境界を溶かして、溶解体験を生みだすのである。」
P167 「人間にとっての動物とは、深遠を開き、聖なる感情をいだかせ、芸術の第一歩を歩ませたものなのである。動物性を否定することが人間化の課程なら、ふたたび動物性と出会いその深遠に開かせることは、人間を超える道なのである。」
※このような動物観に懐疑的であるのは、このような動物が「他なるもの」の象徴として、動物性の放棄のための動物性の強調として現われているのではないか、という疑念からである。ジラールフロイトの議論からはむしろ、供犠に動物が選ばれるのは、あくまで人間(もしくは父)の模倣者としての動物である。人間という犠牲を避ける為に選ばれた動物なのである。

P172 「供犠とトーテミズムとの関係をとらえ直すと、トーテミズムが認識の体系として秩序を作りだすのにたいして、供犠は非—知すなわちカオスを引き起こすのである。この関係を、バタイユの区分でとらえなおすなら、トーテミズムは「最初の否定」による秩序化にかかわり、供犠は「否定の否定」にあたるということができる。」
P175 「動物との究極とのかかわりのひとつは、その動物を殺してその肉を食べることである。供犠は、そのような体験であった。」
カニバリズムの話はいかに。これも動物と人間の強調である。

(考察)
「本書はこのような問題意識から、「生成としての教育」という「教育」ならざるものの領域を示し、そこから現在の教育理論と教育実践を支えている「発達としての教育」を、人間変容の全体性においてとらえなおそうと試みた。」(p206)

 学校教育的なものから教育を考えると、硬直的な知の問題に向きやすく、教える/学ぶ関係の本質に近づけない。このため、「教育」に回収されない教える/学ぶの関係性に矢野は着眼を置く。
 矢野の議論というのは、これまで私が参照してきたものとも関連する部分が大きい。基本的に私が「純粋模倣」と呼んだ議論に関係してくる。しかし、いくつかの違いもある。とりわけ、ニーチェバタイユの解釈については、私と異なっている。この点について言及してみたい。(バタイユは次回とりあげます)

ダブル・バインドと「教える/学ぶ」の関係性について
 ダブル・バインドの状況が発生した場合、基本的には二種類の方向性があるといえる。ひとつは人物志向の模倣をとっていたために、それが分裂症などの精神衰弱につながること、もうひとつはその人物の上位に秩序の存在を見出すことである。この位階の上昇につながる動きが溶解体験なのだと矢野はいう。
 ダブル・バインドが成立するためには、一種の信仰が必要になってくる。確かにその人物は実際に接触する機会がある人間である必要性はない。が、メッセージを伝えるものは一つの主体であり、そのメッセージの矛盾を認知することがダブル・バインドの成立要件だ。これが別の主体による相矛盾したメッセージである場合、どちらかを選ぶ行動によって(どちらがより真理か、で)それは解決可能である。
 しかし、溶解体験をダブル・バインドの問題にのみ結びつけることは明らかに矮小された議論である。溶解体験の真髄は私の持つ既存の秩序の崩壊のうちにある。これはダブル・バインドによってのみ引き起こされるものではなく、むしろダブル・バインドによって引き起こされるケースのほうがマイナーではないだろうか。


 ダブル・バインドは基本的にあるメッセージの発信者が2つの相矛盾したメッセージを発することで、受け手側が両方信じざるを得ないときに生じると考えられている。これを処理できないというケースというのは、基本的にそのメッセージの伝達内容がどちらも真理であり、それを離すことができない場合ということであり、これは結局メッセージの伝達者の信頼問題に帰着する。この状態でうまく処理できないからこそ病的な状態が生じうるのである。
 この問題の解決方法はいくつか考えられる。
1.2つのメッセージを矛盾させないような読み方が行なえる場合。
2.2つのメッセージのいずれについても意味がないと判断する場合(どちらも偽であると判断する場合)。
3.2つのメッセージ以外の発話者のメッセージの内容から、どちらかのメッセージが偽であると判断できる場合。

1については、さらに2通りの解釈ができる。
1a.メッセージの発話者への信頼構造には何も影響を与えない場合。
1b.メッセージの発話者への信頼構造に修正を加え、メッセージの体系に対する信頼にシフトする場合。
ちなみに2・3については、信頼構造に修正を加えざるを得ないのではないかと思われる。そもそもダブル・バインドは共に真であると考えざるを得ない言明にぶつかった場合に起こるものであり、そのような解釈の仕方に対して一定の修正が入る(メッセージの発信者が必ずしも真の言明を言う訳ではない)と思われるからだ。

 溶解体験の発生は1から3のいずれにもあり得る。2については溶解体験が発生しない可能性もあり得るが、2つのメッセージが共に偽であると判断することを材料にして、それとは全く異なった真理の可能性を見出す場合などは、溶解体験の発生要件になりうる。


 しかしながら、このダブルバインドの状況に陥ることがなくとも、溶解体験自体は可能であるように思われる。
 以前私はジラールの「地下室の批評家」のレビューにおいて、2つの欲望の三角形モデルを提示した。一つは模倣の「媒体」が人物として固定されており、主体が模倣するのが媒体である人物そのものになるケース、もう一つは模倣の「媒体」がその人物を超えた秩序そのものにあり、人物が介するのは仮の状態にすぎない、というケースであった。基本的にダブル・バインドという現象はここでいう前者のケースでしか当てはまらないのではないだろうか。なぜなら、後者の場合、真理がそれを教えようとする者をすでに超えた部分に想定されており、その教える者の言明そのものが真理判断と必ずしも一致しない可能性が含まれているからだ。後者の場合は、厳密な矛盾として2つのメッセージが受容されることはないだろう。
 もちろんダブル・バインドによる溶解体験によって、前者の欲望の三角形が後者の欲望の三角形のモデルへ転換する可能性はありえるであろう。上記の1aのケースについては三角形構造に変化が与えられない可能性もあるが、それ以外は基本的にありえる話になるだろう。

 ただ、ダブル・バインドについてはある程度強弱のあるものとして想定することも可能ではあるため、この見方には反論の余地がある。矛盾の受容のされ方には差異があり、それはもともとのメッセージの伝達者に対する信頼度によって変化するものである。しかし、矢野はバタイユの至高性の議論などを参照していることからも、ここでのダブル・バインドに対する考え方として、強度のある矛盾に苦しむ状態を想定していることがわかる。このため、この批判は矢野の議論とは結びつけることができない。


 結局私がここで問題視したいのは、ダブル・バインドの状況に教える/学ぶの関係性における溶解体験の「最高形」の位置づけをすることの意義である。確かにこの状態は「最高形」と呼んでもよい気がするが、だからといって「溶解体験」自体はこれ以外の条件下でも問題なく作動するのであり、これをもって教育の「べき論」に対して正当な地位が与えられるかといわれれば、そうではないという点である。

ニーチェの「教える/学ぶ」論再考
 また、これは学校教育における教える/学ぶの関係を考えるのであれば、外すことが出来ない問題であるように思う。これは、学校教育(とりわけ義務教育)においては、教える者と学ぶ者の利害が一致した地点から教育が始まるとはいえないからである。ツァラトゥストラは確かに最初民衆に超人という真理を教えることに失敗し、道づれを作ることにしたわけだが、ここでいう道づれはすでにニーチェの考え方に信頼をおいている者が想定されている。

 しかし、実際の学校教育においては、この初期の信頼構造は想定不可能である。むしろそうではない民衆に対して教育を行うことが求められているのである。
 では溶解体験は民衆に教えられないのかと言われればそうではない。むしろ、教える/学ぶの関係性を信頼構造ありきの議論として読まないような方法で考えるのであれば、これは不可能な話ではないのである。
 ツァラトゥストラの議論を読み返すと、最初にツァラトゥストラが民衆に語りかけたとき、民衆はその話を聞いていたのである。ここは重要である。民衆はツァラトゥストラの話を途中で聞くのをやめてその場を去る訳でもなく、ある程度しっかりとその話を聞いてからツァラトゥストラの話をさえぎる形で反論を加えるわけである。つまり、ツァラトゥストラの話の内容自体は理解をし、その理解の上で「それは真理ではない」として、ツァラトゥストラのことをばかにしだすのである。
 ニーチェ流に考えるのであれば、真理の伝達なきところに、教える/学ぶの関係性は成立しない、ということになるかもしれない。矢野もニーチェの考え方を支持している。しかし、これはおかしいのではないか?例えば、聖書に熟知していることと、そこに書かれたものが真理としてみることは異なる。ひとつの知の体系に対して、理解していることと、その真理性の問題は異なる。というか、真理かどうかの判断は後になって変化する可能性もあるのだ。ニーチェを馬鹿にした大衆も超人が実際に出現すれば、彼の言っていることは真理だったと認識するはずだ。つまり、私はツァラトゥストラと民衆の問答自体には、すでに教える/学ぶの関係性は成り立っているのではないか、と考えるのである。これは普通の学校空間において、メッセージが伝達されていること自体が教育としての成立要件となっているというある意味で常識的な見方にも合致する。
 純粋贈与と呼ばれるものは、むしろそのような真理へと変化する「可能性」の中にあるのではないかと思うのである。矢野の議論の中からでは、純粋贈与というのは、真理の成立なしには存在しないものとしてとらえられている。しかし、私はそう思わない。私が矢野のいう純粋贈与に対して、純粋模倣という造語を使っていることの根拠もそこにある(高橋「行為論的思考」のレビュー参照)。受け手側があるメッセージを真理として受容し、それが(溶解体験を生み出し、)新しい秩序体系を生む時、純粋模倣と呼べるものが発生している。しかし、純粋贈与についてはそれとは異なる次元の中にある。ここでの贈与の概念の中には、送り手の問題のみが考えられており、受け手がそれをどのように受け取るかという考え方は存在しないのである。

理解度:★★★★
私の好み:★★★☆
おすすめ度:★★★