遠山啓「数学と社会の教育」(1971)

 今回は再度遠山啓の文献をレビューしつつ、前回の遠山の議論の補足を行っていきたい。本書もまたバラバラの論文集という形態をとっており、前回の「遠山啓エッセンス」と重複しているものもある。また、論文の初出はほとんどが1968年以後の内容となっており(引用部分は全て1968年以降のものだった)、丁度遠山の議論の転換期に位置付く時期の論文が集められたものであったというのが、今回本書を取り上げた理由である。
 
 特に本書で気になったのは、子どもが「なぜ勉強するのか」という問いを持つようになったということ、そのこと自体は子どもにとって一つの進化であること、そして前回も少し出てきていた「数学論」の発想というのがこれに対応するためには必要であり、これまでそのような視点を欠いていた大人(遠山も含めた)に対する強い内省を求めるような内容についてである。
 前回、私は遠山が1968年以後に考え方の転換を行い、「術・学・観」という発想に至ったこと、「術」の領域はそれまでの遠山の議論に見いだせていないこと(※1)、この転換の理由を、学生紛争に見出し、特にそれは学生との「真理の共有」の不可能性を見出したことにある、という少々悲観的な仮説を提起した。これについて詳しく解説すると、まず、大学紛争において、学生の実質的な改革要求は1つも出ていないことに見出した(「遠山啓エッセンス第7巻」2009、p52-53)。このような建設的な改革要求が出されなかったのは何故なのか。それは、大学生が高校時代までの勉強そのものへの苦痛から、また大学での授業の詰め込み過ぎから、学問を探究する大学における建設的な議論をすることができないような環境にあるからであった(同上、p51-52)。
 では、そのような環境から離れれば、学生たちは建設的な議論をするのか。これに対し私はNOと遠山は答えるであろうと考えた。これは、現在の学生の全てがこのような勉強の悪影響を受けた学生であるという語り方をしておらず(「150万人の大学生がすべて好学の青年であるかどうか疑問である」というくだりが根拠。同上、p46)、言い換えれば、すでに現状でもまともな大学生が大学紛争に関わっていることが想定されているにも関わらず、やはり建設的な「改革要求は1つも出ていない」ことが述べられているからであった。遠山が全て正しい発言をしていると考えてこのことを述べていれば、私の仮説も否定する理由がないように見える。

 しかし、今回の著書からは、それとは別の観点で、つまり学生側の問題からではなく、大人の態度の方から遠山が自らの態度を変えるようになった理由が大きく捉えられているとみなせるのである。「なぜ勉強をしなければならないのか」と問う子どもに対して、教える側はそれを説明しなければならない。それを遠山は「数学論」として位置付けたが、そのような「数学論」というのは、これまで十分に考え抜かれていなかったものとみなされている。そのため、子どもの「なぜ」の問いに答えられなかったと考えている。それは「遠山」自身の態度としても不十分だったと述べているのである(P130)。そしてこの問題は広く「日本人」に反省を求めているのである(p139)。
 これもまた、数学教育といった「科学教育」が一つの体系の「真理」として捉えていた遠山の発想を転換する(少なくとも、疑念を与える)理由の一つになったのではないだろうか。真理の体系の単一性を放棄したまでとはいい難い。それはやはり困難でも「数学論」を確立しなければならないとする遠山の主張に現れているように思える。それにも関わらず、そのような「数学論」は大学で教えることが不可能であることが明言されているあたりに、この問題の捉え方が現われているように思うのである(※2)。
 どちらの考えが有力なのかは議論の余地があるものの、やはり学生紛争における「何故への問い」によって、遠山の考えの転換が求められるようになった、という見方には誤りが認められないだろう。

※1 これについては、むしろ反復練習のような取組に対して否定的であったという見方の方が正しいように思える。例えば、「教師のための数学入門 数量編」(もとの出版は1960年)では、日本のそれまでの教育は「鍛錬主義」的であり、暗算を強調したり、「つめこみ」「たたきこみ」「強硬手段」といった方法がそれまでの日本の算数・数学に重きが置かれていたことを批判し、むしろヨーロッパがとった「精神や肉体の鍛錬に興味を持つ代りに道具の発明や改良に努力」するような「道具改良主義」こそ、「今日のような科学技術文明をきずいた」ものであるとして支持しているのである(cf,「教師のための数学入門」1980、p116-118)。

※2 ここでなぜ「数学論」を教えるのが不可能なのかの説明について、残念ながら遠山自身の直接的な言明はない。しかし想定される仮説としては、〔1〕特に大学生は自律的に学問を学んでいく必要があるため、そもそも「数学論」を教えるという発想自体がナンセンスであるという見方と、〔2〕そのような「数学論」を教えるだけの人材が不足しているという見方、さらには〔3〕大学では教えることが多すぎるために、「数学論」に割く時間などがないという見方、の三つが考えられるだろう。このうち、〔1〕については、「数学論」を作らなければならないとする見方に反しているように思うし、〔3〕は遠山自身大学での授業時間を減らすべきであるという提案も別途行っており、その削った時間に「数学論」を行うことを主張できるはずなのに、そうはしていないことから、これも理由としては根拠に乏しいと思う。そうすると消去法的には〔2〕が有力な理由だろう。しかし、これを支持すると、「真理」の単一的な体系を崩される第一の理由は、子ども側ではなく、それを教えるべき大人に問題がある、という見方の方がもっともらしくなってくるように思える。


(読書ノート)
p33-34「ではなぜ入学試験の総点によってふるいわけるのか、それにも十分の説得力はない。抽せんによって選んでもいいはずである。そのような疑問はまだ誰も出していないようである。……また入学試験の妨害についても、「受験生の全員入学」を主張しなかったのは理解できない。この点ではラディカリストを自任する者すら徹底的にラディカルにはなれないほど、「大学病」は広く行きわたっているのである。」
※誰も出していないという言い方は問題がある。1969。

P63「ところが結論的にいうと、数学者はもう少しアマチュアにかえる必要があるのではないかと思います。大学に先生であるのもけっこうですが、アマチュアがもっとたくさん出てきてもいいのではないでしょうか。」
※1970。
P73「「社会的要求」とは何か、ということが、だんだんはっきりしなくなることと、数学という学問の相対的独立性がしだいに前面にでてくる、ということだろう。」
※1970。

P88-89「昔は過小評価、今は過大評価されているのであるが、そのような極端な評価の変化が起こったのは、もとをただせば、数学が人間まっとうな思考法の産物であることが理解されていないからである。したがって数学にたずさわる者はそのような方向に社会の人々に理解してもらうようにしなければならない。」
P89-90「ではそのような数学論を正式の講義に入れてもらえるだろうか。答えは否だろう。ではどうするか。
私は、数学論は各人が自分で苦労して創り出していくほかはないと思う。」
※この議論は、「何のために数学をやっているのか」という疑問に端を発している。そして数学論を、「数学はどのような学問か、他の学問とどのような関連をもっているか、また、数学は社会に対してどのような意味をもっていくか、また、それはどのような方向に発展していくだろうか。あるいは数学にたずさわる者はどのような心がけをもつべきか」と定義する(p89)。

p98「またそのような数学者の数も増大して、おそらく十数万に達するようになるだろう。それは一つの大きな社会的集団であり、その集団のあり方は社会に大きな影響を与えずにはおかない。そうなると、社会的にどのような責任をとるべきか、についての議論は当然起こってくるだろうし、また起こらせねばならない。」
p99「またすべての人々が合意に達するように整然たる形にできあがるものと思えない。しかし多数の数学論が並立して競い合うという形になってもよいし、むしろそのほうが望ましいであろう。あるいは一人一人が独自の数学論をもつ、という形になるかも知れないが、それでもよい。
最近、学校のなかで、学生が生徒たちが、自分たちは何のために学ぶのか、ということを問いはじめた。これは大きな進歩である。これに対して、「お前はとにかく学校にはいったのだから、先生のいう通り勉強すればいいのだ」では答えにならない。これは確かに答えにくい質問であるが、教師はこれは真正面から答えるべく努力しなければならない。そのとき、数学論がものをいうだろう。」
※以上1970。

P129-130「われわれはなぜ算数・数学を教えているのか、また生徒たちは、なぜこういうものを勉強しなければならないのか、という問題については、もちろんみなさんはよくお考えになっておられるだろうし、それぞれのはっきりしたお考えをお持ちのことと思います。ただそういう問題を私がとくにとりあげたのは、近ごろ教わる生徒たちが、自分たちが学校に入って勉強するのはなぜかということに疑問を持ちはじめ、それを先生に質問するというようなことが方々で起こっているらしいからです。これまではこういう問題はわかりきったこととして、あまり深く考えなかった。君たちは義務教育だから学校に入ってきた、入ってきた以上は勉強しなければならないのは当然ではないかと答えれば、生徒も一応それで納得したのではないかと思います。
ところで最近ではそれでは納得しなくなった。義務教育制度をつくったのは別に子どもではない、おとながつくったのだ、なぜおれたちは勉強しなければならないのか。こういう疑問がいちばん初めに出てきたのは大学生で、それが高校生からだんだん中学、小学校までこういう疑問を持つ子どもがひろがってきた。」
p130「これに対して、もちろんわれわれは教えるという自分の職業に対しての考え方を銘々持っています。しかし、自分で納得する理由は考えていても、生徒にわかってもらえるほど説得力のある理由まで考え抜いていたかというと、私も含めて必ずしもそうではなかった。すなわち、なぜわれわれは子どもに教え、子どもはなぜ勉強しなくてはならないか、特にその中で算数・数学といったものをなぜ勉強しなければならないかということについて、われわれはもっと説得力のある一つの考え方、あるいはこれを、数学教育観とでもいうべきものをつくりあげていく必要があるのではないか。こういう問題をこういう大会で十分討議して、自分の考えとを照らし合わせて、さらによいものをつくりあげていくことが必要になってきたのではなかろうか。」
※さて、討議した成果を少しでも示してくれればためになるのが、その言及はまるでされていないように見えるのは何故か。

P132「アニマルと人間はどこが違うかというと、「なぜ」という問題を持たないのがアニマルで、人間は「なぜ」ということを必ず自分自身に問いかける知能を持っている。つまりなぜこういうことを考えられるのかが人間の人間たるところである。つまり教育の中でなぜという問題が起こってきたということが教育が一歩高まるきっかけになっていると思う。」
☆P139「私はここ数年続いている大学紛争あるいは高校紛争の全部とはいいませんが、かなり多くの部分が、この日本の学校制度の整然としていることを、まるで自動車工場みたいになっていることに対する不満がもとになっているのではないか。その不満をいちばん持っているのは中に入れられている学生・生徒である。これをいちばん痛く感じるのは、そういう教育を受ける側であることは当然だと思う。これについてはあまり日本人の中に反省がないのではないか。」

p143「人間が本来持っている次の世代を教育しようという強い願望をすべての親は持っている。特に母親は子どもを育てることに非常な情熱をもっている。つまり教育ママである。私は教育ママというのはたいへんけっこうなことであるし、人類の母親が教育ママでなかったら人類はここまで進歩しなかったと思う。教育ママであったからこそ人類はここまで進んだ。しかし日本でいわれている教育ママというのはそういう日本の教育が歪んでいるためにやはり歪んでしまっている。日本の教育ママは適当な名前ではなくて、「学校ママ」だと思う。……よく先生の中に教育ママがたいへんわざわいするようなことをいう人があるが、これは間違いだと思う。教師は教育に対する親の情熱を教育の専門家として正しい方向へ向けてやるだけの力量が必要だと思う。いろんなことを文句をいいに来たときに、それが教育ママが何をいうかとしりぞけないで、それをいい方向に向けてやるだけの教育観を持っている必要があるのではないか。もしどうしても直らないおかあさんがいたら、それは学校ママといったほうがよい。」
※ここでも親の話を聞けという形での教員批判を結局は行う。
☆P143-144「子どもたちに、なぜ数学を自分たちが勉強するかをよくわからせるためには、修身教育ではだめである。すなわち教育という学問の正しい姿を伝える、彼らを理解させることが第一条件になると思うのです。そのためにわれわれはいままで一貫カリキュラムという数学全体の統一的な姿をつくり出そうとしてきたわけです。そういう運動をますますこれから続けていくばかりではたりなくなった。それを子どもだけではなくて父母あるいはもっと広い国民の中に理解してもらう努力が必要だと思うのです。これも学校の枠内だけでとどまっていたのでは、われわれの民間教育運動はそれほど発展しないと思う。国民全体を相手にした運動でなければいけないと思う。」
※これが相対主義的言明にすぎないか、あるいは本当に遠山が内省を訴えているのかは微妙なところもないわけでない。「算数・数学をなぜ教えるのか」p129-145、1970。

p184-185「私はむしろそういう子どもたちに何を教えるかという内容は、先生だけが勝手にきめるのではなくて、やはり国民全体の希望を聞いて、教育の専門家である先生がこれをつくり出していくべきである。国民の願いを聞くという意味では、自主編成というよりは民主的編成といったほうがより適切ではないかと思うのです。」
※1968年。

P225「ところが、日本の場合は、権力の手で上から啓蒙がおこなわれた。ヨーロッパの学問は、洋学という形で上から国民のなかに注ぎこまれた。したがって民間側に、権力に反対すると同時に、権力が手にしていた外来の科学にも反対するという姿勢が生まれてくるのは、当然だった。つまり科学を権力支配の道具としかみないような傾向が、日本の大衆のなかに根強くひろがっていた、と考えていいのではないか。そのために、大衆の非常に苦しい生活は科学とはまったく異質のものである、あるいは科学というものはわれわれの生活には関係ない、あるいは、あれは偉い人たちのものだ、とかいった考え方が当然出てくる。」
P227「これがまた復活してきた。教育愛という実際は空虚なことばが教育界の一部に復活してきているということは、たいへん悪い傾向である。教育界の現状が、それだけ暗くなっているという証拠ではないか。終戦までの哲学的な教育学は、ドイツ観念論流れを汲んだもの思われる。ドイツ観念論は、やはりそういう役割をしていた。ヨーロッパでもっともおくれていた封建的なドイツで観念論が生れたというのは、やはり、そういうみじめな状態を忘れさせるアルコールの役割を果たすものであった。それと哲学的な教育学とは、非常によく似ている。」
※これに対して、戦後の教育学は「文学的」であるという(p227)。しかし、「まだ科学的になっていない」とし、「科学はやっぱりのけもの」だとする(p228)。

P241「今のようにまったくの独占の支配下にあっては、子どもといえども全部、資本家の意のままになる、という考え方の人もあるだろう。しかし私は、そんなにはなっていないと思う。子どもはやっぱり自由意志をもって、つぎの社会をになうわけである。……子どもが資本家の所有物で、資本家は子どもを働かせて儲けることはできるけれども、鉄材を売りさばくほど自由にはできない。」
※このような批判の仕方は至極もっともであり、いかに世間で「資本論」的な議論の曲解した解釈がなされているかを示す事例である。しかしその曲解の根は深く、すでにソ連におけるマルクス主義受容の時点からおかしいようにも見える。
P243「じつはこの違いのなかに、教師の強さと弱さとがある。弱さというのは結局、五時になったらさっさと帰るということをやるとサラリーマン教師といわれ、親たちからも喜ばれない点である。あるいは非常にまずいときに授業ストをやると、親たちからも喜ばれない点である。」
※サラリーマン教師が喜ばれない風潮自体がそもそもおかしい。

P247「これに対して、私たち民間側の考え方はどうか。私たちはそういう矛盾をもっていない。……ところが体制側は、これはできない。一方は伸ばし、一方は抑えようという内部矛盾をもっている。私たちは、内部矛盾をもっていない。そこは非常に大きな違いだと思う。これは、私たちにとって、非常に有利な点である。」
※これも非常に相対主義的な物言い。民間側に矛盾がないというのは相当な欺瞞である。
P248「これに対抗するのには、さきほどいったコメニウスの「あらゆる人にあらゆる事柄を教える」という、この原則でいくべきである。そして「あらゆる事柄」というその事柄が、バラバラの事柄ではなくて、十分統一したものでなくてはならない。すなわち、社会科と数学、国語といったものが単にバラバラに教えられるのではなくて、この間に密接な関連を、おった、組織された物理的な力をもっていない。しかし原則は非常にすぐれている。つまり統一できるという点で、有利である。」
※これを遠山は「世界観の土台」と呼び、「世界観は一人の人間が自分の力で、苦労していろいろな紆余曲折を経て、その人間が自らつくりあげたものでないと、ほんものではない。」と述べる(p234)。ここでは、学と観のみが語られ、術への言及がない。以上、1968年のもの。

P280「教育権が時の政府にはなく、国民の側にある、つまり教育権在民の原則が確立されたとしたら、それを具体的に行使するのは現場の教師でなければならない。しかしこの権利は好きなことをやる権利ではなくて、国民の教育に対する期待や要望を教室の中で実現する、という条件つきの権利であり、それはある意味でたいへんな重たい荷物であるともいえる。
そういう意味ではこの権利は教師の側にそれに足る力量を持つことを要求しているのである。」
※教育権の行使=教員の最終権限、は、遠山にとっては自明であったようである。
P282「このように急所に当たる教材を集中的に研究することからはじめるとよい。しかも自分一人ではなく、校内の同僚と共同で行なうとさらによい。あるいはそれを拡げて地域でサークルをはじめるとよい。もし、そのような研究の結果、現在の教科書もっとよい方法がわかったら、その部分だけガリ版にして子どもに渡して、それにもとづいて授業をするとよい。
このような改正の個所をしだいに多くしていけば、それは教育内容の創造につながっていくわけである。教育内容の創造、などというとたいへんおおげさなことのようにきこえるが、実は毎日の授業のなかで少しずつなしくずしに実行できることである。」
※遠山は「急所」を数学の理解の重要なポイントと定義している(cf.p281)。逆に言ってしまえば急所を押さえた指導ができていないと、生徒の理解は著しく阻害されてしまうが故に、急所の指導の研究は重要であるとみているのである。1970年。