「シルバー事件」にみるミメーシス

 さて、今回かなり前に(ミメーシスの議論を始めた頃)に話題に挙げていたシルバー事件について取りあげたいと思います。
 もともとは、「過去を殺す」というキーワードとナドーのメランコリーの議論を関連づけながら、もっと面白い視点を提供してくれる作品であるかと思った訳ですが、よくよく考察してみると、この部分についての期待には答えているとも言い難かった。しかし、別の観点から興味が持てそうだったので、その部分については言及してみたいと思う。

 先にネタバレに関することについて述べておくと、今回の議論はネタバレ抜きには議論を展開できないので、本線の議論にもネタバレを含んでいる。ただし、話の詳細部分について、脚注で対応可能なものについては極力最後の脚注で説明をするようにし、できるだけ本線の議論ではネタバレ回避は試みている。


シルバー事件の概要
 シルバー事件とは、1999年にプレイステーションで発売されたゲームで、デジタルコミック的な要素を強く持った作品である。いわゆるノベルゲー的な印象もあるが、音楽や映像表現についてもかなりのこだわりがあり、表現手法も多彩である。舞台は架空の国家「カントウ」の独立した行政機構を持った人口10万人の自治体「24区」において犯罪を捜査している「凶悪犯罪課」が中心的にあり、主に20年前に起こった当時の24区行政上層部の大量暗殺事件、通称「シルバー事件」とそれに関わる事件を追って行く。
 この凶悪犯罪課のメンバーとなった主人公「アキラ」の目線から事件が語られる「トランスミッター編」と一フリーライターとしてこの事件に関わることとなった「トキオ」の目線から語られる「プラシーボ編」の2つのシナリオを交互に進めていく。それぞれ基本的に5話ずつシナリオがある。
 この「シルバー事件」とは何だったのかという問いと、この事件の犯人とされる「カムイ」という人物とは何者なのかという問い、この2つを解明していくのがこの作品の目的といっていいだろう。
 そして、ミメーシスをめぐる議論との関連で言えば、この凶悪犯罪課が、伝染性凶悪犯罪と呼ばれる、メディアなどを媒介にした犯罪の連鎖をくい止めるための陰の組織となっており、その伝染性を遮断するため、社会の表面に出ないような形で犯人を処分する方法をとること、この伝染性に「残留思念」とも呼ばれる悪意の塊となっている幽霊の関与もあることなどが挙げられる。これは基本的にジラールの「悪い模倣」の形態をとっていると考えてよい。


○模倣をめぐる議論の振り返りと「時間」概念(?)の導入
 内容の検討の前に、これまでジラールを中心に行ってきた模倣をめぐる議論のまとめと、今回の議論に関連して、模倣理論における「時間」概念の導入をしてみたい。
 ジラールのいう模倣はそれが欲望を生み出すことが前提になっていたはずだ。この欲望の導入により、主体と「媒体」(ライバル)は主客未分の状態となり、あたかも両者が同じものであるかのように模倣することになる。ジラールが「悪い模倣」と呼ぶとき、この両者は相互的にこのような模倣をしあう関係性となる。
 また、ジラールの模倣の議論は所有をめぐる議論であったともいえる。所有欲が最初からあったものかどうか、いった点についてあまり語られることはないが、これを強化する者として媒体が用意されることとなる。

 ここで新しく導入したいのは模倣理論の「時間」に対する考えである。これは、前回マズローの議論で少しした模倣理論における倫理的なものの介入とも関連する。ここでは倫理的な善い模倣と悪い模倣の判断材料としてその模倣が「未来志向」か、「過去志向か」という基準で考えてみたい。

 ジラールの言う悪い模倣はそれが羨望、妬みに留まる限り、過去志向的である。一方で、それが既存の秩序に抗する動力となっているという意味では、「未来志向」的になる。いや、正確には「反過去志向」という言い方が正しいかもしれない。この「未来志向」と「反過去志向」の違いは純粋模倣の有無の問題を意識している。純粋模倣、つまり<出来事>の脱文脈化の影響を受けた模倣と、その文脈依存性の可能性を回避しながら行おうとする模倣というのは、性質が異なるものとしてとりあえず扱った方がよさそうである。
 一方、ドゥルーズは模倣論を批判する際に、このような形で模倣をとらえている。

 「《同じ》ものの再生は、所作の原動力ではない。周知のように、もっとも単純な模倣でさえ内と外との差異を含んでいる。そのうえ、模倣は、ひとつの行動の組み立てにおいて、二次的な調整的役割しかもたないのであって、模倣はなされつつある運動の修正を可能にしこそすれ、運動を創始を可能にはしないのである。学習は、表象=再現前化と行動との関係において(《同じ》ものの再生として)行なわれるのではなく、しるしと応答との関係において(《他の》ものとの出会いとして)行われる。」(ドゥルーズ「差異と反復」訳書1992、p49)
 「わたしたちは、「わたしと同じようにやれ」と言う者からは、何も学ぶことはない。わたしたちにとっての唯一の教師は、わたしたちに対して「私と共にやりなさい」と言う者であり、この教師は、わたしたちに、再生すべき所作を提示するかわりに、異質なもののなかで展開するべきいくつかのしるしを発することのできる者なのである。言い換えるなら、観念−運動性は存在せず、感覚−運動性が存在するということだ。身体が、おのれのもろもろの特別な点〔特異点〕を波のもろもろの特別な点に共投的に関係づけるとき、もはや《同じ》ものの反復ではなく、かえって《他の》ものを含む反復の、しかも、そのように〔特別な点によって〕構成された反復空間のなかにその差異を運搬する反復の原理を、身体が打ち立てるのである。」(同上)

 ドゥルーズが模倣について言及するとき前提とされているのは、そこに確固たる主体があり、分化可能な個人の成立がある。しかし、ジラールの場合はむしろこれを前提としない、未分化なものについて指す。これは「良い模倣」の代表である身代わりの山羊の儀式についてもいえる。ドゥルーズの模倣批判は、ジラールの議論の対象とはずれている。ドゥルーズのいう模倣はジラールのいう模倣ではない。これは、「時間」の観点から言えば、ドゥルーズの模倣というのは、過去志向的なものとしてしか説明ができないとも言える。
 そして、この「良い模倣」と「悪い模倣」の区別というのは、位階の有無、ないし上下関係の尊重の有無にあった。この区別は主体である者、媒体となっている者の関係性によって成り立ち、主体単独でどうこうできるものと言う訳でもない。主体が「悪い模倣」を志向していようとも、それが媒体に何も影響を与えない行動に留まる限りで、「悪い模倣」とは呼べない。これは支配的な立場から見ればむしろ「良い模倣」となっているかもしれない。「悪い模倣」が作動できるのは、それが媒体の位階を崩すことに繋がったり、逆に媒体となっていた者が主体をライバルとしてとらえるようになってから生じるものといえる。この相互関係性は模倣理論を考える上で重要な観点であると思う。倫理的な善悪、時間を軸にした模倣のあり方についても、この相互関係性の領域にまで影響を与えない限りは効力を充分に発揮したとはいえないだろう。


○「過去を殺す」とはどういうことか?
 シルバー事件の内容考察にあたって先に一点だけ言っておきたいのは、この作品自体が解釈困難な部分が多いということだ。一本の筋の通った解釈が可能なのかどうか、私自身もよくわかっていない。シルバー事件の考察をしているサイトやブログはいくつかあるものの、それぞれが基本的に異なる解釈を行っている。これはシナリオ解釈の上で、その解釈が矛盾を抱える可能性が非常に高いということである。私自身はとりあえず一つ筋の通った解釈を行ったつもりで検討を進めるが、十分な自信がある訳でもなければ、この作品自体がそのような解釈を望んでいるのかもわからない。このことを前提に議論を進めたい。

 さて、この作品を考察しようとしたきっかけは、ナドーの言う積極的忘却について考えるためであった。この作品で出てくる「過去を殺す」というフレーズがそれを連想させる、というものであった。
 この「過去を殺す」というフレーズが多く出て来るのは、トランスミッター編シナリオの3番目の話にあたる「Parade」においてである。この話において、凶悪犯罪課で師弟関係にあるクサビとスミオの関係性がフォーカスされる。ここでの「過去を殺す」行為は、過去の出来事の清算だった。
 この過去を殺す行為は、主人公であるアキラにおいても5話で見られる。どちらにおいても、その清算は復讐という形態を取っている。それは確かに暴力性を兼ね備えていることに間違いないが、ここに積極的な意志を含んでいることをまず押さえておきたい。
 
 そしてもう一点、この積極的な意志の問題を扱う場合に、それが復讐と必ずしも結びつくとは限らないことが示されていることにも注目したい。これはプラシーボ編におけるトキオの選択に関わるものである。トキオもアキラと似たような境遇をもっているが、彼の選択はアキラとはむしろ逆のものであった。彼は過去を殺すという選択をとらずに、逃走するという選択をとった。つまり、アキラの選択においては「過去を殺して生きるか、過去にしがみついたまま死ぬか」という言い方をされるが、トキオの場合は「過去を殺して楽になるか、逃げれば恐らく地獄のような生き方をするか」という選択なのである。

 両者の行為に共通して見られるのは、実際の過去の記憶の消去というよりも、過去にあった事実を過去のものにしようとする意志の問題、つまり模倣性の過去志向からの脱却をはかる行為であるといえる。復讐の形をとるか、逃走か、どちらが正しいかどうかはここでは判断不能である。ただ、過去志向でないという点については共通している。そこで出てくるのが、それが未来志向と呼べるものなのか、非過去志向にとどまるのかという問題だ。


○二義的な解釈としてのシルバー事件…未来志向と非過去志向の問題に関連して
 トキオの場合、悪い模倣として同一化を企む亡霊たちに支配されそうになり、彼らにとりつかれながら逃走しようとする。彼には未来志向という選択肢はありえない。彼は今を生きようと必死ではあるが、常に過去志向的に巻き戻そうとする亡霊たちと向き合わなければならないからだ(注1)。
 一方で、アキラやスミオといったトランスミッター編で活躍するキャラクターたちは復讐行為によって未来志向的な意思を持って生きていく描写がされることになる。彼らは過去を清算させ、未来への希望を持ちながら生きていこうとするのである。

 確かに表向きにはアキラとトキオの結末は非常に好対照な形で描かれていると言ってよいだろう。しかし、シナリオを丁寧に読んでいけば、決して単純な二項図式を作ることができる訳ではない。
 スミオの話を例にしよう。スミオはクサビに諭されるような形でこの未来への歩みを志すことになる(これはアキラについても基本的に同じだが)。しかし、ここで過去の記憶についての話が改めて出てくる。これはスミオ自身が自分の全てと話した過去とは別の過去の話として導入される。それはクサビとスミオの出会いであり、師弟関係として一緒に仕事をしてきた記憶のことである。ここには意識化されていた記憶の消去がされる一方で、別の強く意識していなかった(?)記憶を糧にもしてほしいというクサビの意図が込められている。つまり、完全な未来志向を行っているわけではないのである。
 また、この記憶自体にクサビ自身が縛られるという描写も4話において見られる。ここではこれまで諭す立場にあったクサビが逆に諭される立場に変わっている。彼にとってトキオは自分の意思をついで欲しい後継者なのである。5話に進むと何事もなかったかのようにクサビは復活しているが(その理由には特に触れられていない)、これも未来志向に否定的な根拠とみること可能だ。
 他方、トキオの場合についても、逃走という選択がいつまでも続くことは望んでいるといえないし、むしろ彼が抱える亡霊たちと和解できはしないかと考えるような描写も見られる。ある意味戦略的な逃走なのである。そしてプラシーボ編の最終話は「hikari」というタイトルになっているが、これも現在はいくら暗い世界にいようとも、将来的な希望に満ちた光に向えるかもしれないという期待が含まれているといえる。
 本作品においては、この両者の関係性の問題に決着をつけることなく、並行線をたどったまま、終わっている点も注目してよいだろう。


○<出来事>としてのシルバー事件・カムイ
 最後にこの「シルバー事件」と犯人「カムイ」の<出来事>性について注目したい。この作品では、それぞれの登場人物が同じ場にいながら、異なる次元の中で日々生きていることがわかる。シルバー事件をどう解釈するか、カムイをどう解釈するかで立場が異なり、そのために意思の齟齬が生じているのである。この齟齬は意図的に導入していながら、その齟齬自体をそのまま描くために、読み手である我々も理解が追いつかなくなる。もっともわかりやすいのは、クサビが5話で語るシルバー事件についての語りと、後日談的な話になる「喫茶店タムラ」におけるシルバー事件についての語りがまるで違うことがあげられるだろう。
 このシルバー事件において、現場に居合わせた人物はほとんどが死んでおり、クサビなど一部のカムイの現行犯逮捕に関わった者のみが真実を知っているという設定になっている。作中で語られるカムイ像というのは、実は4つあると私はみている(注2)。
 1つは世間人から見たカムイである。マスメディアで殺人鬼として語られるカムイ像に対して感じるものは人それぞれである。これは5話でその状況が詳述されている。
 2つ目は24区における3つの派閥に属している者たちによるカムイ像である。ここでのカムイは派閥の構成を崩すための駒となっている形でとらえられ、彼の扱われ方には極度の緊張感が漂っている。このバランスが崩れた際に、これらの派閥は対立関係を深めることになったのである。
 3つ目は24区の区長であるハチスカやネヅといった「支配者」の層にとってのカムイである。彼は殺人鬼となる駒であると同時に「銀の目」という特殊な目を持つ人物でもあったことをよく知っている者である。この事実自体は2層目の者も一部知っているが、彼ら自身が巧みに統治されていることについては気づくことができていない。
 4つ目はクサビなどのシルバー事件を生で目撃した者の立場である。ここで語られるカムイというのは、殺人鬼というレッテルは貼られていない。彼が殺人鬼であることはあくまで伝聞の形で知っているにすぎず、あくまで脅威であるに留まる(注3)。
 なぜ彼ら(特に2〜4番目)がこれほどまでに認識のズレを持っているのか?2つ目から3つ目への飛躍は支配する者とされる者との間にできた非対称的な情報によってなされており、3つ目から4つ目への飛躍は<出来事>としての「シルバー事件」に直接触れたかどうかの違いである。<出来事>は権力によって簡単に曲げられることが可能なものであることが示されているし、同時にその場に居合わせていない者がその<出来事>を語ること自体の難しさも示されているように思えるのである。

 今回はこんなところで終えたいと思います。あまりまとまりのない回になってしまいましたが、これまでの議論・今後の議論で役立ちそうなこともおおいにあったように思います。



(注1)ここでの話は、前回マズローを介して議論した「人間性」と関連させることはできる。トキオの生き方というのは、不完全な者の生き方であることが作中で強く描かれている。彼は完全ではなく、そのことで非難を受けることにもなっている。彼はそれでも強く生きようとする。そしてそこに人間性を見出しているのである。以下、引用部分。

後はこのまま生きていくと決めた。
できそこないにも一分の魂はあるからだ。
いいか、それが人間の生き方だ。
俺がこっち側の日常に暮らしていて、
ようやく何とか学んだことだ。
絶望していようが、恐怖していようが、
ずるずるとしたものを引きずっていても、
生きてはいける。
不完全だからこそ、
生きることに意味がある。
そうは思わないか?
そうは思わないか?

(注2、以下ネタバレにつき反転表示)ここでの問いは「シルバー事件がいかに起きたのか」である。私が考えた登場人物の視点のズレはこのように考えている。また、適宜私の拡大解釈も多く含んでいます。
 まず、シルバー事件において、カムイがTRO/CCO連合上層部の老人たちの集まりの場に出向くことはすでにどこかにリークされていたことが作中からわかる。カムイ自体は続編にあたる「花と太陽と雨と」にて、FSOトップのサンダンスとの関わりが強いことがわかるが、情報のリークもまた意図的に行ったものと思われる。そしてその内容は「不老不死となれる銀の目を持った殺人鬼が会合に現れる」というものだった。
 このことはハチスカの耳にも届いており、クサビなどの実動部隊に事件の処理を任せることになったと思うが、ここで指令を受けたときには「銀の目を持った者を処分しろ」というものだったのではないだろうか。最初は確かにカムイが銀の目の持ち主だったが、その後老人がこれを手に入れたため、クサビはこの老人を処分することができた。
 そして、シルバー事件が報告として挙がるときには、カムイが殺人鬼として点を報告しなかったのだろう(これはクサビが一度シルバー事件の真実について嘘をついた理由である)。この理由はうまく解釈できない。銀の目をとられた個人的な怨念なのか、なんなのか。

(注3)ここでの問題は、「実際、カムイは殺人鬼だったかどうか」という点にある。私はそうではなかった、と考える。これは、私の模倣理論とも関連するが、彼が純粋な媒体であり、ただありのままを模倣する存在であるにすぎない、と考えている。これは個人的解釈というよりかは、むしろ正式な設定の範疇にあるものだと思う。
 白銀化現象とこの純粋な模倣存在の関係性は、作中では因果関係が認められていたが、ここでの考察においてはそれぞれを別物と考えてよい。ただ、カムイ・マスプロなどの実験においては、この純度の高さが結局要求されたため、マスターの駒となり、殺人鬼にもなりえるカムイたちが作られた訳だが,別にここでの実験に参加したものがカムイになるとは限らない、ことを実は作中で説明しているのである。これは2話「spectrum」におけるコウイチ君がカムイになった存在として説明できる、ということである。
 トキオの説明によれば、彼には人を殺さない能力が不足していた。この能力の欠如がコウイチ君の殺人行為に結びついている訳であり、ここには、カムイ像として語られる要素の一つである「殺傷能力」など存在しない。しかし、コウイチ君の親友であるヒカル君が殺された時に現れていた一種の怨念(これはひとまずヒカル君を殺し、コウイチ君に殺された犯人のものだったといってよい)が彼に感染し、その行為を模倣させたのだといえよう。彼の純粋さは、凶悪犯罪課のメンバーたちの共通見解でもあり、このコウイチ君への解釈がカムイの解釈と大きく結びつくように思うのである。
 この作品のメッセージとして強く感じるのは、「カムイを殺人鬼であると確定させてはいけない」というものだ。これは最終的にアキラがカムイであることが確定しなかったことにも関係するように思うのだ。カムイは悪の権化ではなく、むしろ善の対象となりうるということは、続編の「花と太陽と雨と」に繋がる要素なのではないだろうか。
 なお、ハチスカやネヅがカムイの殺人鬼としての要素をサンダンスの情報リークから聞いたかどうかは別の解釈の余地もある。彼らが行ったカムイ・マスプロ等の実験の中でそのような要素が発見されただけかもしれない。