麻生武「身ぶりからことばへ」(1992)

 今回は発達心理学の本を取りあげたいと思います。本書は著者自身の子どもの誕生後から1年間の観察記録を分析したものになっており、特に他の動物と人間との違いに注目した内容になっています。ノートは少なめ。

(読書ノート)
p10 「つまり、対象を指差したり手差しして、対象がそこに存在しているという認識を他の個体と分かち合うという習慣は、チンパンジーにはまったく存在しない。」
※対象の明確化もできない。
P13 子どもがしゃべれるようになると、とんちんかんなやりとりが多く行われる。※言語の対立構造

P201 「私たち人間が動物と異なっている点の一つは、私たちにおいては自己と「自己の欲望の対象」との関係が、他の動物のように「自然な身体性」によって直接的に結び付けられておらず、「他者との関係」に媒介されている点である。人間以外の動物は、基本的に欲するものをその個体の力で手に入れられるものだけを欲望するようにできている。ところが私たち人間は、対象を手に入れるために媒介者として他者を利用し、そのような「他者との関係」の中で「自己の欲望の対象」を新たに作り出していくのである。かくして、私たちの“欲望”は私たち個体の能力をはるかに越えて広がっていく。それはふだんに自己を越えていくという意味において“超越的”であるとさえ言えるように思われる。私がここで強調しておきたいことは、その最初の一歩が指差しや言語の獲得される1歳前後ではなく、生後5ヶ月前後に踏み出されているという事実である。」
※他者との関係性の欲求(承認欲求)というのは、この現象の普遍化・強制といえるのではないであろうか?
P254 子ども心の発見を子どもに先立ち、大人が見出す(それを強く感じたのは生後7ヶ月)

P262 「また“身ぶり”は、たんなる非実践的な活動ではなく、人に向けられている必要がある。他者に対していかなる作用も及ぼさないような活動のことを私たちは“身ぶり”とは呼ばない。たとえば、靴の中で足の人差し指を動かす活動は、それが非実践的であるとしても、私たちは“身ぶり”とは呼ばない。“身ぶり”は他の人に見られることを前提にしたある種の表出行動である。ある活動が“身ぶり”であるためには、それが他者に“見られている”ことによって、あるいは他者からのフィードバックを受けることによって、何らかの意味で磨き込まれている必要があると言えるだろう。」
P286 ギビングについて…最初は特に目的がないが、自分の欲求を満たすための手段としてものを渡すことをはじめる(ただし渡すものは欲求の対象そのものと同じ、読んでほしい本や空の哺乳びんだったりする)

P344 「人物を“共同化された対象”とすることは、モノを“共同化された対象”にすることよりも、はるかに困難なことであるのかも知れない。人物つまり人は、“対象”であるよりも先に、その“対象”を成立させそれを分かち合う大切な仲間なのである。」
※生後1年目には父や母を“対象”として指し示すような指差しは観察されていないという。
P373 生後10ヶ月で自分の行為に対して自分で拍手するという動作を行う。※自我は成立している??
※ものの対象化についても、親はすでにそれを対象化できており、子どもとモノの共有をしていく中で、子どもにも対象化を促していることがわかる。親は子どもに先行してそれを導くのである。
 しかし、オイディプスの話が成立のためには、母が支配されていることを理解する必要がある。これは、母が「法」に服従していることの理解であり、必然的に非モノの理解を前提にする。モノの理解にのみ留まる乳児にそれができるわけがない。他者理解もまた、「法」レベルでの共有が可能になることを要するといえるだろう。

(考察)
 本書について一つはっきり言えるのは、その観察がきめ細かなものであり、一個人の観察といえどもデータ量としては十分であるといえる点だ。記録していたノートからの引用もかなり多く、育児記録としてどのような成長をしていったのかもよくわかる。質的研究の学術論文として読むなら引用が多すぎるといえそうだが、これくらいの引用量の方が私は好みである。余談ですが、センター試験の国語の問題にも採用されたこともあるようです。


 今回はクラインの議論の続きである。とりわけ注目したいのは、自我の発生に関わる部分である。この自我を「主体」として行動することであることを指すとすれば、麻生は生後7ヶ月にはそのような主体をはっきりと発見したという(p254)。クラインもまた最終的には生後6ヶ月頃に抑うつポジションの発生を設定しており、類似性を確認できるだろう。
 クラインは糞便によって乳児が母とイマージュの中で一体化する契機を見出し、そこから抑うつポジションを説明する。この抑うつの原因である罪悪感はフロイトの「トーテムとタブー」で見られた罪悪感を踏襲している。つまり、クラインのとってこの罪悪感は良い乳房への罪悪感であり、母の所有物を奪おうとすることと、この良い乳房の消失の可能性をセットとすることで説明された。

 この主張の問題は2つあるように思う。一つはすでに指摘している「母の所有物」の中に「父の男根」も含んでしまっていること、もう一つは、この抑うつポジションを罪悪感の発生によって説明していることである。

 まず前者について。麻生の議論する「他者との関係」に媒介される欲望(p201)、振る舞いとしての「身ぶり」(p262)、そして「ギビング」(p286)といったものは、確かに母親の所有する男根=母が従う<法>への接触を連想することが可能な要素であると言ってもよい。しかし麻生は他者(主に母が想定されるだろうが)の考えを理解した上での乳児の行動は観測されなかったことを強調している。<法>への接触は、それが擬似的なものであっても三者関係の形成が不可欠であるが、麻生の議論からは二者関係のモデルしか描けない。
 他方で、麻生は乳児と大人が同じ対象(共同化された対象)を共有することが可能であると指摘する(cf.p344)。この共有化の一つの完成形が乳児の指差しである。ここには「物」を介した三者関係というのが成立しているが、これをどう解釈すればよいか。

 一度ジラールに立ち返りたい。そもそもジラールは<法>に対してどう考えていたのだろうか?「地下室の批評家」のp254、p265−266あたりでは、エディプス・コンプレックスに対する批判がある程度明確に述べられているが、このあたりの記述を見る限り、<法>そのものを自明のものとして定義づけようとする姿勢については批判的な立場を取っているように思える。そもそも「悪い模倣」の考え方もこの<法>とは別の領域で作用するものであるかのように語っているような印象がある。
 つまりどういうことか?時に欲望というのは、人間固有のものであるかのような語り方がされることがあるが、ジラールはそのような欲望観から若干距離を置いているように思える。その欲望は確かに他者の欲望であるようだが、そこに<法>が現れることはなく、むしろそれを突き崩すかのように模倣はなされる。欲望は<法>に準拠する必要性はない、と考えている。これは高橋のレビューで構築した模倣理論のCの観点、「上位のルール(価値)に対して自覚的かどうか」と関連する所でもある。

 しかし、指差しにおける共同化への欲望はどうとらえればよいだろうか?麻生は物の対象把握における大人の位置づけを重要視している。物を対象として明確にすることができることもまた人間特有のものであり、子どもはすでに対象を明確化することのできる大人からその能力を模倣することができている、といえるのではないか。動物においては、点としての物を明確に把握することができない。人間にそれが可能となるのは、確かに言葉を介してそれを固定化することができるという説明もあるのだが、乳児にも対象を明確化できるのは、それが言葉として明確に把握できる以前に対象を明確にできる可能性がある、ということを意味している。この人間特有の、<法>を介しているとは言い難い領域には確かに自我はあるようだ。
 この領域を自発性から考えたらどう解せるか?一見<法>に服していない領域である分、より自発的なものであるかのように見えなくもない。これについてはもう少しこの時期における発達の状態を把握した方がよさそうである。


 さて、この<法>に服していない、という解釈についてはもう少し議論が必要な問題がある。それは、この<法>の捉え方そのものにある。この「<法>に服している」ということは、個人レベルでとらえるべきものなのか、社会レベルで捉えるべき問題なのか、という点である。これまで麻生の議論から確認したのは、個人レベルで<法>に服さない状態があるというものだった。しかし、<法>自体は物とは異なった(非モノとしての)領域の中にあるものである。そして前回確認したが、例えば我々は生まれながらにして、実際の「法律」に服している存在であるとみなされており、これは同時に<法>を生まれながらに服しているものとみなす契機となっている。この見方は<法>を社会的にみた場合にとらえられる視点である。
 同じく前回、ベルシーのジジェク批判を取りあげたが、思うにベルシーとジジェクの考えかたのズレについても、この論点が大きく影響しているのではないか、とも思う。ベルシーの観点はかなり個に立脚した所から象徴的な<法>を捉えており、これに対して、ジジェクはこれを社会の方に結び付けた形で説明をしているのではないか。9・11の解釈のズレのついてはある程度この仮説で説明可能である。9・11の問題については、そもそもアメリカの文化とイスラムの文化という文化の衝突としての観点もあるので難しいが、基本的に個人目線で見てしまえば、9・11は脅威であったと主張することにさほど問題はない。しかし、他方でこれを社会的な観点から捉えた場合、確かにアメリカの映画技術は9・11と同様の演出をすることはでき、そこに(アメリカの文化として)対象aが作用していた、と考えることが困難である事情をみることは可能だろう。この説明で、部分的にではあるがジジェクとベルシーに明確な対立線がなくなることになる。ジジェクの議論が個に立脚しているように強く見えるのは確かだが、明確な立場を取っている訳でもないため、矛盾しているとも言い難い。

 精神分析において、クラインのように個人と社会を無意識を介して同一視するという問題をすでに提起してきたが、それとはまた別に<法>だとか「原父」の話を持ち出したときにも、個人に立脚した話なのか、社会に立脚した話なのかが解釈不能になる場面によく出くわす。もっとも、本来<法>は特定の個人から離れることで成り立つ性質のものであるため、社会の側に設定するのが妥当ではあるかと思うが、これについての態度が曖昧なのである。
 これは欲望というものを転移・循環的にとらえる点からも言えることかと思う。循環モデルには起点の設定が困難であり、精神分析においては多くがこの起点設定を放棄する立場をとる。この解釈の問題については、もう少しフロイトラカンを読んで理解してみたいと思う(注1)。


 さて、話を大きく戻してクラインの主張の問題点の2つ目である。罪悪感がなぜ発生するのか。クラインは乳児による強奪と母の消失の両義性としてこれを説明したが、今読み返すと正確には少し事情が複雑である。確かにクライン全集を読み返すと、4巻のp63−64では良い乳房の消失可能性、と結びついた形で罪悪感を説明している。一方で2巻のp197では異なる罪悪感の説明を行っている。ここではむしろ母親が行うしつけと強く結び付けた形での説明をしている。乳児は母親の内部からその所有物を奪おうとする訳だが、母親は逆に清潔行為のしつけの中でその所有物を奪い返そうとするのだという。ここでは「悪い母親」の恐怖を知る、という意味での説明を行っているのである。そこに良い乳房の話は出てこない。
 これら両者の罪悪感は性質が明らかに異なる。前者は後悔の念を伴う形での罪悪感であり、後者は恐怖の念を伴う形での罪悪感(?)である。フロイトの解釈に沿っているのは前者の方である。
 この考えのシフトを行ったのは何故か。最も単純な解釈はフロイトの解釈に沿っていなかった(クラインの精神分析は基本的にフロイトの議論を継承していることで有名である)という理由であろうか。いずれにせよ、この解釈の変更によって、クラインはことさら母親の愛情という観点を自身の議論に結び付けるようになったのは確かだ。そしてその部分が私が「精神分析的ではない」と考えた核の部分でもある。
 私自身はここでの説明の仕方には懐疑的である。乳児はクラインの呼ぶ所の抑うつポジション以後、母親などの他者をいわば「道具」とする形で自身の欲求を満たそうとするようになるが、この転換が罪悪感を介した結果であるとは認めがたいのである。この2つの事象の因果関係の説明方法は他にもいくつか考えられるからである。

理解度:★★★★☆
私の好み:★★★★☆
おすすめ度:★★★★★

(注1)ちなみに、もし個の立場から<法>を参照しなくても欲望が発生し、模倣を行うことが可能であるという主張を突き詰めると、そもそも<法>なるものを社会的に想定することが妥当なのかという疑問も出てくるだろう。私の目線から見れば<法>などないのに、何故それがあるといえるのか、というズレにぶつかるからである。これは同時に、資本主義批判においては(極端に見てしまえば陰謀論的に)<法>の存在が自明視されていた訳だが、そんなものないではないか、という批判にも繋がる可能性がある。
 これについてはまた議論する機会もあるだろうが、私の立場はそれを一定程度やはり認めるべきだ、という考えである。具体的には私がドゥルーズの「意味の論理学」のレビューで定義した「社会的無意識」で想定していた法律の扱いなどに現れていると思う。たとえどのように法律が作られたか(それを作った者がどのような文脈、いきさつによって作りあげたか)の解釈を法律が成立してから行うことの不可能性(極端に言えば、100年もあとに当時の法律の解釈を再現することはできないだろうということ)と、その真の解釈は不可能なのだから、真の解釈をしようとすることなど無駄だ、という立場のとり方を混同したくはないと思っている。この両者に一定の「間」があると想定することが、私には見出すことができない(かもしれない)社会的な<法>を想定することの根拠にもあるのではないかと思う。