ヴァルター・ベンヤミン「暴力批判論」

前回大澤が引用していたベンヤミンをレビューしておきたいと思います。訳は晶文社の著作集(1969)からのものです。

(読書ノート)
p10 「自然法は、目的の正しさによって手段を「正当化」しようとし、実定法は、手段の適法性によって目的の正しさを「保証」しようとする。もし共通のドグマ的な前提が誤謬であって、一方の適法の手段と他方の正しい目的とがまっこうから相い反するとすれば、解決のできない二律相反が生まれるだろう。しかしこの点を明晰に認識するためには、まず圏外へ出て、正しい目的のためにも適法の手段のためにも、それぞれ独立の批評基準を提起しなくてはなるまい。」
※暴力批判論では手段の正当性が問題の中心である。自然法の諸原理からは底なしのゴタクが出てくるばかりだからとする(p10)。
P15 「したがって法が特定の諸条件のもとで、暴力を行使するストライキ労働者に、暴力をもって対立することは、法的状況に内在する具体的な矛盾のあらわれにほかならず、法の論理はそこでも一貫しているのだ。」

P30—31 「すなわち、法措定における暴力の機能は、つぎの意味で二重なのだ。たしかに法措定は暴力を手段とし、法として設定されるものを目的として追求するのだが、しかしその目標が法として設定された瞬間に暴力を解雇するわけではなく、いまこそ厳密な意味で、しかも直接的に、暴力を——暴力から自由でも独立でもなく、必然的・内面的に暴力と結びついている目的を、権力の名のもとに法として設定することによって——法措定の暴力とする。法の措定は権力の措定であり、そのかぎりで、暴力の直接的宣言の一幕にほかならない。正義が、あらゆる神的な目的設定の原理であり、権力が、あらゆる神話的な法措定の原理である。」
P32 「直接的暴力の神話的宣言は、より純粋な領域をひらくどころか、もっとも深いところでは明らかにすべての法的暴力と同じものであり、法的暴力のもつ漠とした問題性を、その歴史的機能の疑う余地のない腐敗性として、明確にする。したがって、これを滅ぼすことが課題となる。まさにこの課題こそ、究極において、神話的暴力に停止を命じうる純粋な直接的暴力についての問いを、もういちど提起するものだ。いっさいの領域で神話に神が対立するように、神話的な暴力には神的な暴力が対立する。しかもあらゆる点で対立する。神話的暴力が法を措定すれば、神的暴力は法を破壊する。前者が境界を設定すれば、神的暴力は限界を認めない。前者が罪をつくり、あがなわせるなら、後者は罪を取り去る。前者が脅迫的なら、後者は衝撃的で、前者が血の匂いがすれば、後者は血の匂いがなく、しかも致命的である。」
※神的暴力はある意味で先験的なものとして想定されているといえるが、実態はカウンターとしてしか作用しない可能性も。

P33 「神話的暴力はたんなる生命にたいする、暴力それ自体のための、血の匂いのする暴力であり、神的暴力はすべての生命にたいする、生活者のための、純粋な暴力である。前者は犠牲を要求し、後者は犠牲を受けいれる。」

P34 「この戒律は、神が行為の生起「以前にある」ように、行為の以前にある。とはいえそれは、遵守をうながすものが処罰への恐怖であってはならないのとひとしく、実行された行為にたいしては適用できないものにとどまる。それは行為の物差しではない。戒律からは、行為への判決は出てこないのだ。だからもともと、行為への神の判決も、判決理由も、計り知ることはできないのである。したがって、人間による人間の暴力的な殺害の断罪を、戒律から根拠づけるひとびとは、正しくない。戒律は行為する個人や共同体にとっての判決の基準でもなければ、行為の規範でもない。個人や共同体は、それと孤独に対決せねばならず、非常のおりには、それを度外視する責任をも引き受けねばならぬ。」

P35 「人間というものは、人間のたんなる生命とけっして一致するものではないし、人間のなかのたんなる生命のみならず、人間の状態と特性とをもった何か別のものとも、さらには、とりかえのきかない肉体をもった人格とさえも、一致するものではない。人間がじつにとうといものだとしても、それにしても人間の状態は、また人間の肉体的生命、他人のよって傷つけられうる生命は、じつにけちなものである。」
P36 「神話的な法形態にしばられたこの循環を打破するときにこそ、いいかえれば、互いに依拠しあっている法と暴力を、つまり究極的には国家暴力を廃止するときにこそ、新しい歴史的時代が創出されるのだ。神話の支配は、すでに現在、そこここで破れめを見せているのだから。」
※が、生まれてくる人間に対してもそれが妥当するような神話があるとは言い難いのではないか?

P37 「これに仕える法維持の暴力、管理される暴力も、同じく非難されねばならない。これらにたいして神的な暴力は、神聖な執行の印章であって、けっして手段ではないが、摂理の(waltend)暴力といえるかもしれない。」

(考察)
 ここで押さえておきたいのは、「法措定的暴力/法維持的暴力」と「神話的暴力/神的暴力」の2つの議論の軸の捉え方です。私が懐疑するのは、「法措定的暴力/法維持的暴力」をそのまま神話的暴力に還元し、それを神的暴力と一致させる立場です。…というか、この立場はベンヤミンの立場そのものであると言ってよいかもしれません。そういう意味では、ベンヤミンを批判することになるでしょうか。
 つまり、神話的暴力は法措定的暴力と法維持的暴力を合わせたものである、という定義自体に異論はないですが、法措定的暴力と法維持的暴力は神話的暴力でしかない、という部分に批判を加えたいということです。ベンヤミンの引用を総合するに、両者の一致を見ることにより「法には正義がない」という命題が成立することになります。いくら法による正義を主張しようとしても、法の外部からの立場にいるベンヤミンにとっては、それは正義として認められることがないのです。よって正義は法に依拠することが禁じられることとなるだろう。

 では、法に依拠せず、純粋に神的暴力を行使するとはどういうことなのか?p34の戒律に関する議論は「神的暴力」が宗教的なものと関連しているものではないことを示すために用いた例である。これをそのまま「神的暴力」の例ととらえてよいのであれば(もっとも、ベンヤミンがこのことを明言していないようだが)、神的暴力は行為する個人に対する判決の基準にも、行為の規範ともなりえない。とすると、やはり神的暴力が既存の神話的暴力を明確に破壊する根拠はどこにもないことになる。神的暴力は既存の法に対して何らかの外的圧力を与えることはないのである。あくまでこれは倫理的な問題としてしか提起できないことになるだろう。これは前にニーチェをレビューした時に議論した「強者と弱者」の権力問題とも同じものといってよいだろう。

 しかし、そうすると、前回レビューした大澤が解釈したベンヤミンとの整合性も問題化するだろう。P273にあるように神的暴力は徹底した民主主義の上になりたつ、と主張される訳だが、上記の解釈に基づけば、ここで期待される徹底した民主主義には神話的暴力しか付加されていないのではないか、と思われる。この徹底した民主主義という言葉に「合意形成」が前提として付与されているのが何より問題点といえるかもしれない。仮に合意形成がとれるのであればさしあたっては神的暴力の行使として正当性があるといってもよいだろう。しかし、そのような合意から外れる状況に陥るのであれば、それは神的暴力の行使と呼ぶには値しないだろう。また、厳密にいえばベンヤミンの神的暴力の行使においては、「合意形成」過程を説明できるかどうかも疑問が残る。


○「アイロニカルな没入」についての補論(前回の続き)
 「多文化主義は、明示的には、諸文化を貫通する普遍的な軌範を支える超越的な視点は、もはや存在していないということを前提にして主張される——だから各自の「物語る権利」だけが、つまりそれぞれの特殊な「遠近法」だけが残される。だが、われわれがここで論じてきたことは、多文化主義は、こうした明示的な自己理解に反して、なお、無意識の内に——つまり自覚されない暗黙の了解として——超越的な他者の存在を前提にせざるをえない、ということである。その超越的な他者は、破局への想像力を媒介にした逆説的な方法によって確保されるのだ。」(「不可能性の時代」、p238)

 多文化主義は確かに現在目線において共同体同士が断裂しており、それぞれの考え方についての「交流」はないものとみなされている(大澤的にはこの「交流」によって第三者の審級が開かれるとされている)。しかし、ここでの「交流」とは何なのだろう?これは他の共同体が真理と考えているものについて、我々の共同体でも真理と解釈するということである。これは我々の心性に受容されるものとされる。しかし、この受容はこれまでの我々の共同体が志向していた価値群にどのような影響が与えられるのかまでは明確ではない。ただ、大澤の議論をもとにすれば、基本的にこの価値群は新たな真理をつけ加えることで、別の性質をもった価値群となることが想定されている。単純に独立した価値が加わるのではなく、既存の価値に影響を与え、それを変容させることまで含んでいる。この変容が「交流」である。この「交流」は、おそらく2つ(以上)の共同体に相互に影響を与えるものと考えられているだろう。
 この価値の変容は最低でも「私の価値」への固執を否定するものとして現われる。私を構成するために不可欠な価値への干渉は私自身の否定を含むことになる。とすれば、「私の価値」への固執を除去するか、もしくはそもそもそのような状況がない状態でなければ「交流」は生じないことになる。
 多文化主義と「私の価値」とはどのような関係があるのか、ここはもっと考察をすべき部分ではあるだろう。シンプルな回答は「我々の価値」として現われたものが多文化主義を構成する、という考え方だが、少々安易な前提かもしれない。ただ、この前提を認めるなら、多文化主義において、我々の価値は固執されている傾向が強い、という結論となってくる。私を構成するものは身体的なものから精神的なものまで、広いものが想定されようが、多文化主義は、価値体系が異なる<他者>との「交流」を避けるのである。


 このような多文化主義観を支えるのがアイロニカルな没入である。アイロニカルな没入においては、我々は本当の私の価値は棚上げにしておきながら、別の価値にコミットする。しかし、この距離のとり方が実質的に意味をなさない時、「アイロニカルな没入」と呼ばれる現象が起こる。大澤は例えばこれを原発の議論に結びつけ、かつては理想的なものとして原発が機能していたが、理想性が失われてなお原発が支持される形を取っている理由としてこのアイロニカルな没入の概念を使って説明している(大澤真幸「夢よりも深い覚醒へ」、p87−93)。
 ここにおけるアイロニカルな没入は「原発支持」という擬制的価値コミットが「原発反対」という価値を排除している、という形で用いられることがわかる。確かに大澤の前提を支持すれば、この排除は機能しているといってもいいだろう。

 しかし、アイロニカルな没入と同じことがジジェクラカン的な欲望の議論で言えるのではないだろうか?これはある価値へのコミットが他の価値の否定となることは必然的か?という問題と言い換えることができる。大澤的にはこれはNOという回答になるであろう。
 でも、このアイロニカルな没入の対象が「不可能なものである欲望を持ち続けろ」というラカン的テーゼであった場合はどうなるだろうか?私自身はジジェクをもとにして、いかにこのような欲望を志向し続けられるのか考察したが、実際の所、かなわないことがわかっている欲望は消滅の可能性にも開かれているはずではないか、と指摘した。しかし、これが矛盾したまま機能しているということは、まさにアイロニカルな没入が機能しているからにほかならないからではないだろうか。欲望の不可能性は私に一定の距離感を与えるだけの十分な理由があるが、それでも私がその価値(欲望の志向)にコミットするとき、それはアイロニカルな没入である。

 さて、問題はラカン的な議論が何を排除するのか、である。これにはおそらく諸説出てくるのではなかろうかと思われる(レビューできるくらいまとまりそうなら、佐藤慶幸「抵抗と権力」をもとに後日考察してみたい)。ただ、ラカンの欲望というのは、まさに不可能なものであり、そもそも実体的(現勢的、世に形をもって現れている)なものと言うことができないのではないかと思う。そして、実体的ではないものが、排除という価値を持ち合わせることはありえるのだろうか?ここで排除されているなら、先述した「欲望しないこと」が該当するが、「欲望しないこと」が何に開かれているか、と言われるとうまく答えられない。また、この実体性をもたないという性質は、大澤が危惧するような「身体性の回帰」を基本的に不可能なものとしている。

 大澤はアイロニカルな没入に否定的な価値しか与えていなかったし、アイロニカルな没入に支えられる多文化主義にも一貫して否定的であった(注1)。しかし、ラカン的な議論の仕方の可能性があるということは、アイロニカルな没入も絶対悪として位置づけることはできないことにならないだろうか。この点はもう少しラカンにも精通して議論してみたい所である。


(注1)もっとも、大澤が批判を加える多文化主義の用法は、結局「暴力的な行為を行なう文化的価値観」に対して、アイロニカルな没入を行ないつつ、承認してしまっている態度に対して問題視しているということもできるだろう。この批判はもっともだろうが、それが「アイロニカルな没入(はたまた多文化主義も?)」の全面的否定を意味する訳でもないし、神的暴力の行使でそれを阻止する、という言い方にもやはり違和感はあるだろう。

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