牧野篤「認められたい欲望と過剰な自分語り」(2011)

<考察>
 今回はフーコーを批判するジジェクを読む前にジジェクラカン解釈を改めて確認する意味で、牧野文献を読みます。読書ノートの注(※)で一通り違いを指摘していますが、こちらでは、要点をまとめていきたいと思います。本書を取り上げたのは、ある意味でこれまで私が行ってきた精神分析批判をまとめるためであり、ある意味で私が批判を加えてきた精神分析の議論を牧野がとっているからです。
 牧野のラカン解釈はジジェクラカン解釈とは異なりますが、ある意味で通説的な見方なのではないか、とも思えます。ただ、ジジェク自身はおそらくこのようなラカン解釈を批判するでしょう(もっとも、真のラカン解釈の検討は、私自身が熱心なラカンの読者でないため、判断できませんが。ただ、私自身の理解では、ジジェクの議論の方が筋は通っていると考えています。P37の※参照)。

 特に押さえておきたいのは、「象徴界」「現実界」「想像界」の解釈と、それの現代的(とりわけ、ポストモダンと呼ばれる時代における)意味についての解釈の牧野とジジェクの違いについてです。
 牧野の言明は二義的であることを読書ノートでは指摘しました。一方で「大きな物語の終焉」的な形でシンプルに<象徴界>が消滅し、<現実界>と<創造界>が直結していくことの問題を指摘する一方で(p32-33、p37)、消費社会論的観点からはむしろ他者のいいなりになる形で「私」を立ち上げていることの問題を取り出す(p62、p66-67)。この言い分の違いは、もともと本書が牧野論文集という位置づけであり、別の論文の出典だから多少のズレは当然、ということも出来なくはないが、あまり両者の議論が関連付いて議論されている訳でもなく、これから述べるジジェクの主張にはやはり反するような議論をしているように思える。
 牧野の議論で鋭い点は過剰な「私」——これはジジェクのいう「過剰な愛着」と同義だが——の条件が「(関係の)事後性」と「過剰性」の2つにあるとした点である(p8-9)。しかし、※で繰り返したように、牧野はここで指摘した過剰な「私」を解消する気はないのではないか。牧野がむしろ重要視したのは、「『関係性』の非対称性が固定化している」点に対してであったといえるだろう。しかし、それは過剰性の要件であった関係性自体を否定することはなく、そのために「事後性」は常につきまとう。
このことの必然性はラカン解釈に基づいているといって間違いない。「欲望とは他者の欲望である」というラカンのテーゼに素直に従えば、必然的に「他者との関係なしに私は生きていけない」のである(p66-67)。ジジェクも確かにこのテーゼに忠実であるものの、その解釈は明確に異なっているのである。

ジジェクラカン解釈について
 「厄介なる主体」では確かに牧野と同じようなラカン解釈を行っているように見える部分もあります。つまり「象徴的<禁止>を欠いているが故に、言うなれば想像的な<理想>が無媒介に「超自我化」する事態を内包してしまう」(ジジェク1999=2007、p253)といった主張や、身体的な切除行為に対する意味合いが伝統的な「<現実なるもの>から<象徴なるもの>へ向かう移行をはたしていたが、ポストモダン的な切除行為の方は<象徴なるもの>から<現実なるもの>へと逆方向に移行している」(同書、p259)といった言い方から、確かに象徴界に依拠しないようになっているとジジェクも考えているようです。更には、彼の「幻想を走査する」という主張も、「あるひとつの<現実>を強く掲げ、その想像的な相対物もろとも悪循環のなかへ囚われてしまう代わりに、<想像なるもの>を粉砕しうる不可能性の次元を(再)導入することである。」(同書、p263)ということの中から行うものであるとし、それは牧野の言うように<現実界>と<想像界>が直結した結果の問題であるようにも思える。

 しかし、ジジェクはまずもって象徴界に立ち返ろうとはせず、『悪い』か『より悪い』の二択にこだわっていた。これはなぜだろう?それこそ、本書で指摘されていた「過剰性」を回避するための議論であると言える。ここで押さえておきたいのが、「超自我」の位置づけである。
 ジジェクは先程の引用でも、象徴界が消失した結果「超自我」が立ち上がるとした。この超自我というのは、「象徴界」「想像界」「現実界」どれに分類されるのだろうか??一見、p253の引用から想像界的な捉え方をしているように思える(牧野にも同じ節がある)。また、グーグル先生にこのことを聞いてみると、一番多くの意見が「象徴界」に属しているという指摘が出てくる(これは、象徴界/想像界/現実界超自我/自我/イドととらえる考え方である)。しかし、ジジェクの回答はどちらでもなく、これを「現実界」に属するものであることを、「ラカンはこう読め!」で明言している(ジジェク2006=2008、p139)。私自身の意見も、どれか一つ選べと言われれば、確かに「現実界」に位置付けるのがベストであると思う。これはどういうことか。
 そもそも、ラカンの三界はそれぞれが密接な関係性を持っているため、どれに超自我に結び付けてもある意味正しさは見出せるだろう。しかし、私自身の理解では、現実界はその剰余的性質から、「まぶしさ」であると理解している。超自我の理解も恐らく、この「まぶしさ」の比喩で説明できるだろうと思う。つまり、超自我の働きとは、この「まぶしさ」から振り向いて目を逸らそうとする態度、そのものなのではないかと思うのである。象徴界なるものが消滅し、超自我への依拠を行うと(少なくとも)ジジェクが言う時、それは半ば反射的な現実界からの振り向きとして超自我が語られる。では、この「振り向き」は何を意味するのか?それは反射的に行っているという例えから一見、私自身の身体的機能により振り向いているように思えもするのだが、ジジェクはこれをあくまで他者が「振り向け!」と指示しているからだ、と解しているのである。このため、ラカンが持ち出すのは「欲望の法」という概念であると述べている。


アメリカの一部の精神分析家が提案してきたように、「悪い」超自我に対抗して、「良い」超自我を立ち上げ、患者に「悪い」超自我を追い払わせ、「良い」超自我に従わせるべきなのか。ラカンはこの安易な方法を却下する。ラカンにとって、唯一の正しい審級は、(※理想自我・自我理想・超自我という)三つからなるフロイトのリストにはない第四の審級、すなわちラカンが時おり「欲望の法」と呼ぶ、欲望に従って行動せよとあなたに命令する審級である。ここで重要なのは、「欲望の法」と自我理想(主体が教育を通じて内在化する社会的・象徴的規範と理想のネットワーク)との差異である。ラカンにとって、道徳的成長と成熟へと導く、自我理想という一見善意に満ちた審級は、現存する社会的・象徴的秩序の「理に叶った」要求を採用することによって、「欲望の法」を裏切るように強いる。過剰な罪悪感をともなう超自我はたんに自我理想の必然的な裏返しであり、われわれに「欲望の法」を裏切らせるために、絶えがたい圧力をかけるのだ。超自我の圧力の下でわれわれが経験する罪悪感は幻想的なものではなく実際の罪悪感である。」(ジジェク2006=2008、p140-141)


 ここでは「超自我」が「自我理想(ラカンはこれを『象徴界』に位置付けているとジジェクは言う)」の裏返しである、と主張している点が重要である。超自我が他者の命令である以上、象徴界の影響を無視することはできない。私が伝統的な規範に対して従わないようになったといえども、超自我に基づき行為する私はたとえいくら弱くなろうとも「象徴界」の影響を避けられないのである。これは要するにいくら象徴界が消失したといえども、それが「ない」状態になった訳ではないし、その弱さとそれが与える影響力が比例する訳でもない、ということである。また、牧野的に「象徴界」を再興しようとする動きについても、帰結は基本的に同じように「欲望の法」の否定にしかならず、そのような「良い」という選択肢もジジェクはとらないのである。

 また、読書ノートの※では少し述べたが、ラカンが述べている「欲望の法」は、「象徴界」的な性質を強く持つものの、それはあくまで現勢することのないものとしてジジェクはとらえているようである。次回のジジェクのレビューではこの点にも言及したい。


<読書ノート>
p7-8 「しかし、ここにこの顛倒がもたらす新たな顛倒の可能性が孕まれる。つまり、社会教育は国民国家のフィクションをより強化するために個人の自由と差異を国民の平等性へと回収する装置として構築してきたがために、その装置そのものが学校教育中心のフィクショナルな国家秩序からはずれつつ、自由と差異を実現するために国民国家のフィクションを利用する視座をもたらす可能性を持っているのである。
※名をつける地点で国家との差異が認められているからこそ、このような議論が成り立ちうる。ネグリあたりはこの議論をあえてそのまま継承するように思うが、そこから外れるなら、名をつけること、「法」そのものへの懐疑が必要だろう。

p8-9 「そして、この事後性と過剰性こそが、自分を〈わたし〉としてこの社会の中で立たせながら、〈他者〉との関係を生み出し続ける、つまり社会を組み換え続け、その過程で自らを生成し続けなければならない存在としての〈わたし〉の性格を示している。〈わたし〉は常に社会からズレながら(差異を生み出しながら)、〈他者〉との関係を組み換え続け、その組み換えられた関係からさらにズレていく自分をつくりだすことしかできない。」
※事後性は「〈わたし〉と〈他者〉との関係」を前提(当然視)することで、また過剰性はその関係の組み替えとそれに起因する新たな感情を介して生まれると解せる。どちらにせよ、関係性がなくなるかもしれない、という視点がないからこそ(関係性の前提があるからこそ)過剰であると言える。関係性の前提は、ある意味で相互関係性のうちにあるのではないか。いや、むしろ権力が行使される側(応答する側)の心性の問題であるように思える。過剰性は関係性がなくなる可能性の存在を意識すれば、生じない。一方で関係性が固定化していることはほぼ無条件で過剰性を生み出すといって良い。過剰性を回避するためには、過剰性そのものの否定ではなく、むしろ関係性の前提に対して攻撃せねばならないだろう。もちろん、「法」はこの関係性を無条件で固定するものである。
 関係性がなくなる可能性に対して向き合うこと、これが過剰性を超えるための条件ではないか。ジジェクが見誤るのは、過剰性への走査という中で、この観点に乏しいからではないか。ジジェクが言う賭けは新しい関係を築けないかもしれない賭けであり、これもまた否定の否定の為せる業である。しかし、これだけでは条件不足である。
 では、フーコーはどうだったか、牧野はどうか。

p11 「求められるのは、他者との間に生成し続ける感情と情念をともに感受しつつ、相互に関係をつくりかえ続ける寛容を導き出すことである。」
※ここでは、エゴイズム的な主体を想定しつつ、寛容な主体になれ、という。しかしこれは、ジジェク言っていることがあまり変わらない。過剰性を抑え込み、力関係の対称性が強調されている点で、過剰の抑制しか議論されない。これは詰めて考えれば、過剰性を変えられる発想ではない。
p15 「これに対し、所与の前提をおくのではない、むしろこの前提を導くための存在を認めること、つまり自由と平等とを生み出す活動の存在としての自分を措定することが、いまや求められている。それは、理性を前提とする天賦の人権以前に存在する自己を認め合う、ある種の身体性にもとづく感情を認め合うことにある。つまり、主意主義的な存在としての自分をとらえることが求められているのだといえる。」
※ここで否定されるのは関係性の固定化のみ。一見望ましいようだが、過剰性自体は否定できないし、そうすると、過剰性という切り口からの否定に意味はない。非対称性の解消にむしろこだわるべき。

p29-30 「つまりそれ(※象徴界)は、自分の存在を他者が価値あるものと認めてくれていると、自分が他者の中にある自己を確信し、鏡像との間に構造化することで、他者が自分を認める存在へと立ち上げられ、他者の言葉によって自己が確立され、安定する〈場〉である。自分に言語を付与し、鏡へと移行させてくれる〈場〉なのである。だからこそ、私たちは「他者の欲望」を欲望せざるを得ないのである。」
想像界は見かけ上の世界、とでも定義できる。象徴界はそれを規定する固定観念(イデオロギー)、現実界はそれの破壊者。ジジェクは常に象徴界を破壊し続けなければならない、と見るが…

p32-33 「このように〈現実界〉が〈象徴界〉を経ずして〈想像界〉へと直結されるとき、自己は自己の固有性を担保することなく、普遍と手をつないでしまう。自分そのものは、いわば社会化されず、社会的な自己同定を行うこともなく、まさに母親と密着関係にある幼児よろしく全能感を保全することになるのである。」
象徴界への考え方としてはだからこそジジェク象徴界に対して否定の否定をもって引き受ける主体を想定した、と言っていいかも。もっとも、牧野が言うような主体はジジェクにはありえないが。ジジェク的な言い方では多分この説明は別の語られ方になると思われる。つまり、普遍性と結びつくのはまさに〈象徴界〉がその地位(領域)を不動のものにしたからである、と。さらに、それはラカンの読みとしてミスリードだ、と言うに違いない(合わせて、ラカンのミスリードでよくあるパターンだ、と言うのではないか)。これは象徴界の性質を語る上で重要な論点である。つまり象徴界=法が善性を持っていること、また固定したものであることを前提にされうるということだ。実際のところ、これは両義的なものだし、両義性を押さえたジジェク的解釈は正当性を持っているともいえよう。

p37 「このような他者を必要としない個人の人格のあり方は、主権論としては、〈外部〉の終焉としてとらえられる。これは、〈現実界〉と〈想像界〉とが直結してしまい、自己の〈このもの性〉が担保されない状態、つまり、自己そのものが完全に記述される全体として立ち上がっている状態である。そして、この〈外部〉を欠いた主権はまた、上記の多重な人格のあり方と同様に、自らを一つの言説として語り尽くすが故に、それ一つが一つの全体として自らを構成することになる。」
※ここでの他者は異質な他者を指している。これに対して同質的な他者はむしろ求められる可能性をもつ。この同質的な他者とは、非対称的な関係を持つ他者であるといえる。ただし、〈現実界〉と〈想像界〉の直結はやはりミスリード。おそらくこの直結は、ジジェク的に解し、ドゥルーズの言葉を借りれば、キャロル的な混沌の世界に身を置いていることと同義である。そもそも自己の存立地点が存在していないことを、〈象徴界〉がないことと解しているのである。
 根本的に異なるのは、〈象徴界〉に付される「他者への欲望」の意味合いである。牧野的にはこれが他者への世界への開け、他者理解に繋がるものととらえられていることになる。一方でジジェク的に見れば、欲望そのものを包括的に〈象徴界〉の中で捉える。私の理解では他者の出現は例えば母子関係の先にある第三項、二者の関係性の奥にある意味の余剰である。それは私を私として見ていないというズレとして現れる。最初乳児は母親と固定化(モノとして固定した存在と)して見ることができない。その中でただただ自分の欲求を満たそうとする。ここには〈象徴界〉はなく、〈想像界〉を〈現実界〉と直結させようとするやり方があるのみである。しかし、母親を自分の意図により反応するものと認知するようになってからは、相互行為の中で時に固定化した母を求めることになる。しかし、それは現実の母親とは異なるというべきだ。母はそれに応ずるためのみの主体ではない。このズレ自体が〈象徴界〉を作る。とすれば、他人を私の都合のいいように位置付けていることは、すでに〈象徴界〉の中にある考え方である。とすると、私のラカン理解もジジェクと一致している。(ジジェクが言う)ラカンのミスリードとして出てくるのは、第三項を具体的な父親の出現と見る考え方だ。しかしこれは現実的ではないのではないか。両者の違いはこのような見方の違いによると言っていいだろう。むしろ、ジジェク的な解釈をすれば、母親は子どもの意図とは異なる対応をすることを通して、〈現実界〉を機能させ、子どもの〈象徴界〉に働きかけるのである。これは子どもの欲望を満たすための母親が、同時に父親の所有物として機能し、子どもが不自由するような状況のとき、フロイトのいうエディプス•コンプレックスに繋がりうる。

p44 「このような、〈象徴界〉=〈外部〉をもたない、しかも相互に孤立し、多様な個我として存在する人々を支配する新しい秩序が、ネグリ=ハートのいう〈帝国〉である。」
※ここで個人と社会が関連づいた形でこの〈象徴界〉の欠落が説明される。また、このような外部を想定すると、その解決策が外部においてしか見出すことのできないものであるかのように思えるが、実際はそうなことはない。「法」へ準拠していること自体が問題点であることを、このようなラカン解釈は見逃すことになる。そして「法」を意識できないことは関係性の固定に気付くことができないことと直結するのではないのか?過剰な愛着を回避することの解決策として「新しい関係性」を持ち出すのはいいが、やはり過剰な愛着に関する問題については何も解決しない見方である。ジジェクも場合、その問題点を指摘した上で、あえて「法」に従おうとすることから始めようとする。

p49-50 「つまり、〈象徴界〉を失うことで、〈現実界〉における自らの〈このもの性〉を失い、〈現実界〉と〈想像界〉とが直結することで、言語化され、普遍へと解消されてしまったかのように見える私たちは、その実、自分の身体性そのものの中で他者をはぐくむことで、それを〈外部〉化し、自らの内部において、その〈外部〉によっては認識され得ない自分の残余=他者性を感じ取りながら、自らをひとつの全体へと構成しようとしているのであり、そうすることで、私たちは、自分の身体に息づく〈外部〉である他者と再度、交渉をもち得るのである。いわば、共身体性を獲得した自我が立ち上がるのである。」
※ここでの説明は、いわば純粋模倣的なアプローチで新しい他者を獲得しよう、ということである。ジジェクは純粋模倣を明確に否定しており、このような考え方で議論しないだろう。問題があるとすれば、このような説明からでは、いままでの私とこれからの私の同一性がなく、飛躍していることをどう見るかという点である。見方によっては、この純粋模倣の発想はすでに何らかの前提を隠蔽した上での模倣であり、その純粋性は見かけのものにすぎない、ということである。多分ジジェクもそのような前提に立つだろう。
 ただ、逆に言えば、ジジェクの議論は個人と社会と完全に切り離して考える立場であり、社会を変えることに対する一種の非力さを感じないわけではない。もちろん、ジジェクはそのような社会に対しても批判を加える主体であることの必要性に対してもぬかりはないが、社会を変えられるかどうかについては問うことはしない。悲観的といえばそうかもしれないが、しかしそれが現実であるという考え方もできる。もちろん、ジジェク的な考え方に立つことで、個人の問題であるとことさら強調することで、社会の層に何ら働きかけることがなくなる、という立場をとることもありえるのである。牧野的には少なからず個人と社会は直結しており、社会との関係性、その変化への期待と意味ではある意味楽観的ともいえるだろう。それが真かどうかは置いておいて。ただ、それでもやはり過剰性から見るとどうみても過剰性回避をするような見方ではない。

p50 必要とするのは私たちの存在の内部から新たな他者性を獲得し、〈象徴界〉に返すことだとする。
※それほど矛盾した議論をしているわけでもない。
p62 「この市場で、商品として振る舞うためには、確固たる自我をもった自律した「私」として存在しては、危険である。常に外から、キャラ化され、あんたはこういう人間だよ、と名指しされるがままに、自分を消費してもらわないと、誰かとはつながっていられない。その時々の人々のきまぐれにつきあうスタイルとしての自分、これこそが、大衆消費社会の生き方なのである。」
※何故これが回避できないことなのか?
p62 「私たちは、はじめから流通することを強いられた存在つまり商品である。だからこそ、私たちには、常に誰かからその価値を確認され続けることしか自分を保つ手立てがない。」
※このような見方自体がそもそも法を了解している!これが不可避なのは当然視されている。確かにこのような議論は、私が他者に依存しなければ生きていけない存在であるという意味で正しい。しかし、他方で、依存するにあたり必ずしも「このような生き方をせよ」と指示されるような性質を持つかといわれるとまた疑問である。何を食べるかを問われたとき、確かに我々は流通している食べ物しか食べられない。私が食べたいXが流通していなければそれが不自由だと言うこともできるかもしれない。しかし、その流通に反してXが実在する限り、自力でそれを手に入れる方法もまたあるのではないだろうか?
 この議論の最大の問題は、やはり関係性はないと我々が生きられないことが自明である点にあるのかもしれない。確かに乳児は一人では生きられない。しかし、人間は関係性を変える方法を持つと同時に、自力で関係性から外れた形で真理に到達する可能性を無視すべきではないのではなかろうか?別にこれは真理に到達する必要もない生き方は可能ではないか、という言い方もできるかもしれない。真理の判断は常に事後的であり、行為をする地点でそれを判断する必要がない。我々が生きていることをそのまま根拠にしてその判断を同期される必要はない。

☆p66-67 「私たちは本来的に、他者を通すことで自分を認識することができ、そうしてはじめて自分をさらに他者との間で実現していこうとする欲望をもつことができる。それが、私たちをさらに他者の欲望を欲望するように駆動することになる。これが、社会に生きているということであり、自分が自分を認識するということである。つまり、想像力を駆使して、自己を他者にあずけながら、その他者のまなざしから自分が自分を見返すこと、そうすることで、私たちは、社会の中で生きている自分を、他者を介して自分自身のまなざしによってとらえることができるということである。
しかし、自己消費のスパイラルは、私たちに他者の欲望を欲望することで、他者の想像力を媒介として、私自身へのまなざしをもつことを許さない。私たちは自分をそのスパイラルの中で消費することで、自分を実現していると思い込まされることになっている。そこでは、自分は、自分を見つめるものではなく、他者が指定するもの、他者が直接に欲望するものとしてしか、自分を確かめるすべを失ってしまう。私たちは社会に生きることなく、孤立化し、さらに他者から求められることを求めて、自己の商品化を進めてしまう。そこには、自分を見つめる、他者を介した自分は、存在していない。自分は自分によって消費されてしまい、自己へは還ってこないのである。」
※奇妙なことにここでは象徴界の固定化が他者に起因するものとして語られる。そして、「思い込まされている」という言い方は、象徴界の固定化で説明しているといえないか?先ほどの象徴界の消失の話とは違うことを言っているのか??
 これは象徴界を介した良い欲望と悪い欲望の区別を意味する。

p68 「私たちには、自己消費のスパイラルにおける過剰な達成を、その過剰な消費と一時的な満足との間に、〈贈与〉を組み込むことで、他者とともにある自分を事後的に発見し、認識することで、常に新たになっていく自分と対話することのできるプロセスへと組み換えていく、意識的な営みが必要となっているのだといえる。
その意識的な営みとは、教育においてはないであろう。私たちは、商品としてフローである自分のその性質を利用しつつ、教育の場で、教え教えられ、学びあう他者との関係の中で、他者を通して自分を見つめる、つまり自分への自分のまなざしを獲得した他者との関係によって規定される自分として、自己を立ち上げることができる。」
※ここでの贈与においては関係性のズレしか望めないが、この批判は常に法への依拠を根拠になされる。アプローチはD/Gと同じである。ジジェクの態度は法を自覚しないことへの批判といえる。しかし、見かけ上は割とよく似ている。ただ、〈法〉自体は必ずしも他者との関係性を前提にしているとは限らないのではないか。ここで押さえるべきはラカンが〈法〉とは〈他者〉の欲望である、と定義している点である。この定義はすでに〈法〉自体に〈他者〉を書き込んでいる点に変わらない。このため、ジジェク的な主張をすることが〈他者〉の関係性を含んでおり、ジジェクの言明が批判の対象とする者と何ら変わらないのではないか、という主張は可能である。しかし、ジジェクはもう一捻り、〈法〉自体の現勢について否定的である。それは常に到達できないものとして定義付けている。このことで〈他者〉との結びつき自体にもカッコ付けを行う余地が与えられている。このことが重要であるとジジェクは考えているといってよい。
 牧野的なラカン解釈では結局外を求める点においては変わらないだろう。実際のところ、この外は〈法〉をすでに現勢化させてしまっていると解釈してよいのではないか。つまり、ここでの外部の意識とは、ズレの意識であり、なおかつその外部が「確定した」ものと解される。むしろジジェク的にはこれが「外部であるかもしれない」でとどまらなければならない。外部であるかもしれないという配慮はあるが、そうであると断じることはないだろう。内外の意識化はその限りで、フーコー的な権力論における閉塞感の問題を回避することはまずできない。これはフーコーが内外の区別に対して注意をしていたこととも合致するのである。この閉塞感こそ、そもそも〈法〉に準拠すること、そのもの対する懐疑を前提としているという点ではないか?
 そもそも、外がなくなったとかいう物語を取り出すこと自体が問題である可能性がある。逆説的だが、外部がなくなったことと我々が共通した基盤でコミュニケーションをとるようになったことは同値関係にある。では、この共通基盤はいかに、何故構築されていったのだろうか。

p79 「贈与ー答礼の循環は、自己認識を求めようとする私たちの自我が他者を求めざるを得ず、他者への自己を差し出さなければ自分をとらえることができないという自我のありように定礎されているのである。私たちは、他者を認識することなくして、自分を認識することはできない。」
※この定義付けがまさに〈法〉を現勢しているのである。この〈法〉の現勢はダブル・バインドを不可避なものとする。つまり、〈法〉の準拠をするのに、〈法〉に反する議論も真とみようとするからである。俗流弁証法はこのダブル・バインドから両者が矛盾しない新しい軸を設けようとする。対してジジェクは、そもそもこのダブル・バインドが見かけのものであるにすぎないとし、なおかつ両者の矛盾解決としてではなく、そもそもの〈法〉の準拠に懐疑をかけながら別の軸を生成しようとする。そして、その軸の生成もまた完全な形はとらない。そして、現勢した〈法〉に準拠し続ける議論に対して、過剰な愛着が回避出来る筈がない、とするのである。