ミシェル・フーコー「性の歴史1 知への意志」(1976=1986)

 さて、今回はフーコーを読もうと思います。
 随分と時間がかかってしまったのはフーコーのどの本をベースにするのかを選ぶのに時間がかかったのと、自分自身がフーコーの議論に袋小路にされてしまっていたのが理由です(汗)。まだ十分に議論を掴み切れていないため、かなり他書からの引用部分も増えてしまいましたが、次回また取りあげる時にはもう少しまとめておきたい所です。

(読書ノート)
p14 「この抑圧を肯定するからこそ、我々のうちの多くの者が、滑稽になることの恐れあるいは歴史の終える苦渋のために近づけることができずにいるものを、ひそかに共存させることが可能となるのだ。革命と幸福であり、言いかえれば、革命と、別の身体、より新しく、より美しい身体であり、更に言えば、革命と快楽である。諸権力に逆らって語り、真実を述べ、快楽の享受を約束する。啓蒙と解放と増大する官能的快楽とを互いに結びつける。知の熱情と、掟を変えようとする意志と、期待される逸楽の園とが一つに結ばれるような言説を知る——これらが、おそらく、我々にあって、執拗に性を抑圧の関係において語ろうとする態度を支えるものだ。」
p29 「ここで私が問題にしているのは、伝統的な告解が要求していたような性の掟に対する違反を告白する義務のことではない。そうではなくて、快楽の作用と関係のありそうなすべてのことを言うこと、魂と肉体を介して性と何らかの関係をもつ無数の感覚と想念を言うこと、自分自身に対し、他者に対し、しかもできるだけ頻繁にそれを言うという、ほとんど際限のない務めのことである。

P44 「中世は、肉慾と告解の実践のテーマをめぐって、かなり強固に統一性のある言説を組織していた。最近の数世紀の間に、この相対的な統一性が解体され、分散され、細分化されて、はっきり相異なる言説形態の爆発となり、それが人口統計学、生物学、医学、精神病理学、心理学、道徳、教育学、政治批判において形をとったのである。そればかりではない。肉慾についての道徳的神学と告白の義務とを結びつけていた絆、この絆は、断ち切られたわけではないにせよ、少なくとも弛められ、多様化された。合理的言説による性の客体化と、各人が己の性を語るという務めを果すための作業との間に、十八世紀以来、一連の緊張と、葛藤と、調整の努力と、再登録の企てとが生じた。従って、単に連続的な拡大という形で、この言説の増殖を語るべきではないのだ。むしろそこに見なければならないのは、これらの言説が成立する場の拡散であり、それらの形態の多様化であり、それらを結びつけている網の目に錯綜した展開なのである。」
p58 「しかし事実は、それが、快楽と権力という二重の推力=衝動をもつメカニズムとして機能しているということなのだ。質問し、監視し、様子を窺い、観察し、下までまさぐり、明るみに出す、そういう働きをする一つの権力を行使する快楽である。そして他方には、このような権力をくぐり抜け、その手を逃れ、それをたぶらかし、あるいはそれを変装させなければならないが故に興奮するという快楽がある。自らが追い回している快楽によって侵入されることを諾う権力と、そしてそれに対峙するようにして、自らを誇示し、相手の眉をひそめさせ、あるいは抵抗するという快楽の中に自らを主張する権力がある。籠絡と誘惑であり、対決と相互的補強である。……これらの呼びかけ、これらの逃げ、これらの循環的煽動は、性器と身体のまわりに、越えるべからざる境界をではなく、権力と快楽の無限に繰り返される螺旋を張りめぐらしたのである。」

p60 「この権力は、まさに、法の形も禁忌の作用ももっていない。反対にそれは、異形な性的欲望の細分化によって事を進める。それは性的欲望というものの境界を定めはしない。その多様な形態を延長し、それらを無限に侵入する侵入線に従って追跡するものである。性的欲望を排除するのではなく、個人の特殊化のありようとして、身体の内に包含させるのだ。権力はそれを避けようとはしない。」

p80-81 「ところで、告白とは、語る主体と語られる文の主語とが合致する言説の儀式である。それはまた、権力の関係において展開される儀式でもある。というのも、人は、少なくとも潜在的にそこに相手がいなければ、告白はしないものであり、その相手とは、単に問いかけ聴き取る者であるだけではなく、告白を要請し、強要し、評価すると同時に、裁き、罰し、許し、慰め、和解させるために介入してくる裁決機関なのである。それはまた、真理が、自らを言葉によって表明するために取り除かなければならなかった障害と抵抗とによって、自らを真理として認証する儀式である。そして最後に、そこでは、口に出して言うということだけで、それを言語化した者においては、それが招く外的結果とは関係なく、内在的な変化が生じるような儀式である。口に出して言ってしまうことが、その人間を無実にし、その罪を贖い、彼を純化し、その過ちの重荷をおろし、解放し、救済を約束するのである。」

p81-82 「反対に、支配の機関は、語る者の側にはなく(というのも彼は束縛されているのだから)、聴き、かつ黙っている者の側にある。知っていて答えをする者の側にではなく、問い、しかも知っているとは見做されていない者の側にある。しかも、この真理の効力を発揮するのは、それを受け取る者においてではなく、それが奪い取られる者においてなのだ。」

p86 「性の真実=真理を告白の技術によって強奪しなければならぬのは、単にそれを語るのが難しかったり、それが慎みのタブーによって禁じられているからではない。そうではなくて、性の機能自体がよく分からないからだ。性が本性上、認識の網を逃れ去るものであり、そのエネルギーもその機能上の仕組みも、捉え難いからだ。」
p87 「真理は、語る者においては確かに現前しているが不完全であり、自分自身に対して盲目であって、それが完成し得るのは、ただそれを受け取る者においてのみである。この後者こそ、この不可解な真理のまさに真理を語る者なのだ。つまり、告白によって啓示されたものを、語られた事柄の解読によって裏打ちしてやらなければならない。聴く側は、単に赦しの権限を握る師、断罪し、あるいは無罪とする裁き手ではなくなる。彼は真理を握る主人となるだろう。」

p115-116 「結局のところ、時代と目標が異なっても、権力の表象は相変わらず王政のイメージに取り憑かれたままでいる。政治の思考と分析においては、人は相変わらず王の首を切り落としてはいないのだ。そこから、権力の理論において、相変わらず、法律的権利と、暴力の問題に、法と違法性の、意志と自由の、そしてとりわけ、国家と主権の問題に重要さが与えられるという事態が生じるのである。権力をこれらの問題から考えるというのは、これらの問題を、我々の社会に極めて特殊な歴史的形態すなわち法律的王政から考えるということだ。しかしそれは、極めて特殊であり、結局のところは過渡的な形態にすぎない。」

p117 「人は<法である権力>、<主権である権力>という一つのイメージに相変わらず固執しているのだが、そのようなイメージは、法律的権利の理論家と王政制度が描き出していたものだ。そしてまさに脱却しなければならないのは、このようなイメージからである、つまり法と主権の理論的な特権というものであって、権力の分析をその技法の具体的かつ歴史的な働き=ゲームの中で行おうとするなら、それは是非とも必要である。もはや法律的権利をモデルとも基準とも見なさないような権力の分析学を打ち立てねばならないのだ。」
☆p118 「次のことを肯定しておこうではないか、歴史分析が、性に関する本物の「テクノロジー」の存在という、単なる「禁止」の作用より遥かに複雑で、とりわけ遥かに積極的なものの存在を明らかにしていると。そうだとすれば、この例として働いているように見えたからだが——権力については、法律的権利のシステムにも法の形態にも依存しない分析原理を見つけざるを得ないようにしているのではないのか。従って問題は二重である。権力についての別の理論を手に入れることによって、別の歴史の読解格子を作ると同時に、歴史の材料を、僅かに近付いて見ることによって、除々に、権力の別の捉え方へと進むことである。同時に、法なしで性を、王なしで権力を考えることだ。」
※このような研究の計画というのは、循環的であることをフーコーは了承している(p117)。

☆p131 「言説は、力関係の場における戦術的な要素あるいは塊である。同じ一つの戦略の内部で、相異なる、いや矛盾する言説すらあり得る。反対に、それらの言説は、相対立する戦略の間で姿を変えることなく循環することもあり得る。性についての言説に対しては、何よりもまず、いかなる暗黙の理論からそれは派生するのかとか、あるいはいかなる道徳的分割を更新しているのか、いかなるイデオロギーを——支配的なものであれ支配されたものであれ——それは代弁しているのか、などと問う必要はないのだ。そうではなくて、これらの言説に問いかけねばならぬのは、二つのレベルにおいてであり、それはこれらの言説の戦術的生産性(権力と知とのいかなる相互作用をそれは保証しているのか)と、その戦略的統合(いかなる局面、いかなる力関係が、その時生ずる様々な対決のかくかくの情景においてこれらの言説の使用を必要たらしめているのか)なのである。」

p179-180 「饑餓とペストの跳梁する時代は——いくつかの再発例を除けば——フランス大革命の前に終わっていた。死はすでに、直接生を攻め立てることを止めるようになっている。しかしそれと同時に、一般に生命に関する知識の発達と、農業技術の改良、ならびに、人間の生命とその存続を対象とする観察や方策が、このような緩和の傾向に貢献していた。生命に対する相対的な統御が、死の切迫した脅威のいくつかを遠ざけていたのだ。このようにして手に入った作動の空間で、その空間を組織しつつ、知の権力の手法は、生のプロセスを自分の問題として取り上げ、それを管理し変更することを企てる。」
p185−186 「血は長いこと、権力のメカニズムの内部で、権力の顕現と典礼の内部で、重要な要素であった。婚姻のシステムと、主権者=君主の政治的形態と、位階・階層による差別と、家系の価値とが支配的である社会にとって、飢餓と疾病と暴力とが死を切迫したものにしている社会にとって、血は本質的な価値の一つをなしている。……血は象徴的機能をもつ現実である。」

p198 「「前提となる、本源的な性」というこの想像上の要素を作り出すことで、性的欲望の装置はその最も本質的な内的機能原理の一つを生じさせた。すなわち、性に対する欲望である。性を所有したいという欲望、性に到達したい、性を発見し、解放し、言説に表わし、真理として表明したいという欲望である。それは「性」そのものを欲望可能なものとして作り上げた。そしてまさにこのような性の欲望可能性が、我々の一人一人をして性を知るべしとの命令に、性の掟=法と権力とを明るみに出すべしとの命令に結びつけるのだ。まさにこの欲望可能性が、我々をして、我々はあらゆる権力に逆らって我々の性の権利を主張しているのだと信じさせているものであるが、しかし事実は、我々を性的欲望の装置に結びつけているのであり、この装置=仕組みが、我々の深層から、我々が自分自身の姿をそこに認めると信じている一つの幻影のようにして、性の黒々しい輝きを立ち昇らせてきたのである。」
p198-199 「従って、性という決定機関に性的欲望の歴史を照合してはいけないのだ。そうではなくて、どのようにしてこの「性」が、性的欲望というものに歴史的に従属しているかを明らかにすることだ。性を現実の側に、性的欲望を混沌とした観念や幻想の側に置くのではない。性的欲望は極めて現実的な歴史的形象なのであって、それが、自己の機能に必要な思弁的要素として、性という概念を生み出したのである。性を肯定すれば権力を拒否することになる、などと考えないことだ。そうではなくて反対に、性的欲望という全般的な装置の脈路を追うのである。もし権力による掌握に対して、性的欲望の様々なメカニズムの戦術的逆転によって、身体を、快楽を、知を、それらの多様性と抵抗の可能性において価値たらしめようとするなら、性という決定機関からこそ自由にならなければならない。性的欲望の装置に抵抗する反撃の拠点は、<欲望である性>ではなくて、身体と快楽である。」


(考察)
 フーコーについては昔から権力の議論の関係で読む機会は多く、彼を哲学者とみるのであれば、フーコーの本が今までで一番読んだ哲学者の本です。当初は生政治/生権力、規律訓練型権力環境管理型権力、といった枠組みから、後期〜末期のフーコー読解を中心にしていました。ただ、今回初期フーコーから追って読み返してみると、いままでと随分異なったフーコーの権力観を捉え方をしていました。

 最大のポイントはフーコーの議論の中にニーチェが積極的に取り入れられるようになったことをどう捉えるか、にありました。「狂気の歴史」「臨床医学の誕生」あたりを読むと、これはこれでかなり面白い訳だが、どうしてフーコーは旋回をすることとなったのか。「言葉と物」は読んでいませんが、「エピステーメー」という概念を本書で明確化し、その後の著作はこの概念の批判に応答していく形で形成されている気がするというのが一つの論点でしょう。エピステーメー、その時代に根付いた一つの「まなざし」というのは、例えば「狂気の歴史」における狂人に対する見方の転換の歴史を描く中で、また「臨床医学の誕生」においては生・病・死に対する見方の転換を追うことで見事に描いてきたわけですが、そもそもこの「まなざし」とはどのようなものかを厳密に定義する段になると、それを歴史的にとらえる場合に連続性・非連続性が問題になってくる。
 そしてもう一点考えられてくるのは、言説によってこのまなざしをとらえることの限界性である。これについてはフーコーもこのように述べている。

「私は今年、国家の形成をめぐって講義を行なっており、その講義の中で、西欧の十六世紀から十七世紀にいたる一時期の国家目的の実現手段の基盤といいますか、いわゆる国是というものが、どのようにでき上がってくるかという過程を分析しておりますが、それには、単に経済的な諸関係だの、制度的な諸関係だの、また文化的諸関係といったようなものの、そうしたものの分析だけでは、どうしても考えられないような、ある謎の部分につきあたってしまいました。そこにはぜひとも国家というものに向かわずにはいられぬような巨大な渇望というものが存在していて、まあこれは国家への欲望といいますか、それをいま問題となった言葉を使っていい直しますと、国家への意志と言い替えたほうがいいかもしれませんが、明らかにそういうようなものが問題とされざるをえないのです。
 国家の成立に関しては、それは決して専制君主のような人物や、上位の階級にある人間が、裏からそれをあやつったとかいうことではなく、どうにもわからない大きな愛というか意志みたいなものがあったとしかいいようがないのです。」(「フーコーコレクション5 性・真理」(2006)、p105)

 ここで問われているのは、意志・欲望といったものの問題である。そして、これがニーチェ的な系譜学の観点を取り入れたことと関係している。これらのものは確かに歴史に影響を与えているようであるが、そのようなものはマクロな制度や文化の言説から拾い出すことはできない。では、この論点を「知への意志」においてはどのようにとらえたのだろうか。
 フーコーはまず、性をめぐる言説というのが、近代においては多様な形で広まったと述べている(p44)。それは主題として述べられてきたというよりかは、周辺的な領域に潜りこむような形で語られることになる。そして、それが十八世紀以後にいくつかの「戦略的集合」として表立って登場することになる(p134-135)。
 そしてこの多様な形を可能にしたのは「告白」という形式である。この「告白」の形式については、フロイト精神分析、カウンセリングにおけるカウンセラーと患者の関係を想定するがいいだろう。もともとはキリスト教の懺悔の儀式に組み込まれた様式であったが、この様式が近代において拡散することになる。ここにおいて支配する側が聞く立場となり、支配される側からの告白に耳を傾ける。そして支配される立場の者はその告白において、自らのことに十分配慮を行った上でその告白を行うことになる。私はどのようなことを考えてきたのかがそこで問われ、私という主体が一つの言説を結びつけられる儀式がなされるのである(p80-81)。更にそれは語られることで言説として現われ、増殖されていく(記録などもされていく)。

 フーコーがここで注目するのは、新しい権力観の登場についてである。この新しい権力観については、再三再四「王政的な権力観」、いわば死を与える権力とは区別されなければならないことを強調する。では、この新しい権力間をどうとらえればよいか?
 
 フーコーはこの権力の作用を告白の中に認め、「権力の関係」において展開されるものとみている(p80)。しかし、奇妙なのは、この告白の儀式においては支配する者/支配される者の関係性が変化することは考えづらいことだ。カウンセリングにおいてカウンセリングをする者とカウンセリングされる者の非対称性を否定することはできないことはこれまでも村上靖彦のレビューなどで議論してきた。ここでは既存の位階関係については問題にされていないことに注目したい。そして、そこで現われるのは支配される者による言説である。とりわけフーコーが注目していたのが、この言説が増殖し、多方面に拡散されることであった。このような性質に対して、新しい権力観が与えられるべきだということになる。

 この権力観をよく理解するためには、「力」に対する考え方自体を捉え直さなければならないだろう。そして、この「力」観を考える上で、ドゥルーズを参照するのが妥当だろうと思う。
 
 ここで導入するのは、ドゥルーズが「意味の論理学」で語っていた、クロノスとアイオーンという時間に対する考え方である。結論を先取りするなら、フーコーの言う新しい権力観を、これまでの「クロノス的権力」に代わる「アイオーン的権力」として説明できないか、ということである。ドゥルーズの議論を少し引用したい。


「クロノスは物体の能動と物体の形質の創造を表現したが、アイオーンは、非物体的な出来事の場所であり、形質と区別される属性の場所である。……クロノスは有界で無限であったが、アイオーンは、未来と過去としては限界がなく、瞬間としては有限である。……アイオーンは、常に既に過ぎ去り永遠に未だ来たるべきものであり、時間の永遠真理である。つまり、時間の空虚な純粋形態であって、現在の物体的内容から自己を解放し、そうして円環を繰り広げてから、直線状に伸びるのである。」(ドゥルーズ「意味の論理学 上」訳書2007、p288−289)

「ある場合(※クロノス的な見方)には、現在がすべてであり、過去と未来が指し示すのは、より小さな広がりの現在と、より大きな広がりを縮約する現在という二つの相対的な差異だけである。別の場合(※アイオーン的な見方)には、現在は、何ものでもなく、純粋な数学的瞬間であり、現在を分割する過去と未来を表現する理論上の存在である。要するに、二つの時間のうち、一つは入れ子状の現在だけで合成され、もう一つは、過去と未来に分解されて伸ばされていく。」(ibid.p119−120)


 ドゥルーズの言うクロノスは、運動論として理解すればなおわかりやすい。物体が運動する時、我々は通常、クロノス的時間の理解によってそれを捉える。現在の物体の位置を意図的に定め、そこから過去と未来を直線的に結びつけることによって、物体の運動性が理解される。このような運動においては物同士の作用/反作用などが実際になされているものとして理解されることになる。
 一方で、アイオーン的な時間理解においてはこのような作用性などは意味をなさない。アイオーン的な時間理解によって、「アキレスと亀パラドックス」は説明可能となる。アイオーン的な時間理解を前提にすることが、この命題の前提にあった「アキレスは亀よりも速い(速く運動する)」ことを無効化させるのである。アキレスと亀パラドックスにおいては、過去と未来の操作だけが問題となるのである。フーコーのいう戦略、ゲーム性というのは、このような見方に非常に親和的であるように見える。そしてこのような権力観の導出自体がフーコーのミッションの一つであったといえる。

 では、このような観点から見た場合、「力」観はどう変化するか。アイオーン的な時間においてはすでに物体は物体としての認識を不可能にすることになる。つまり物体の作用などといった概念は成立しないし、「外側」から何かしらの力の働きかけがあるというような形での「力」の理解をすることはできなくなる。では、どう考えるのか。ドゥルーズの「フーコー」という名の著書において、それが語られている。


「しかし、もし闘争者のもつれ合いが、それ自体無形的であるようなある要素から、形態間の還元不可能な分離において実現されることもないだろう。闘争の源泉、あるいは闘争の可能性の条件がここにある。知の地層的な領域とは異なる権力の戦略的な領域がここにあるのだ。認識論から戦略へ。これは無垢な体験など存在しないもう一つの理由なのである。戦いは戦略をともない、どんな経験も権力関係のなかにとらえるからである。これが存在の第二の形、「権力的存在」、つまり<知—存在>とは異なる<権力—存在>である。形成された知の二つの形態の「あいだ」に、様々な関係を確立するのは、力の関係、または無形の権力の関係である。<知—存在>の二つ形態は、外部性の形態である。言表は一つの外部性のなかに、可視性はもう一つの外部性のなかに分散されるからである。しかし<権力—存在>は、私たちを別の要素に導いていく。形成しがたい、そして形成されていない一つの<外>に導くのだ。そこから、力とその変化する組み合せが生じてくる。」(ドゥルーズフーコー」訳書1987、p178)

「内が、外の褶曲によって成立するとすれば、内と外とのあいだには位相的な関係が存在する。自己との関係は、外の関係と相同的である。そして、二つの関係は、相対的に外部的な(それゆえ相対的に内部的な)環境にほかならない様々な地層を媒介にして接触するのである。内のすべてが、様々な地層の限界で能動的に外に向けて出現するのだ。内は過去(長い持続)を、少しも連続的でない様々な様式によって凝縮するが、この過去を外からやってくる未来と衝突させ、過去を交換し、再創造する。思考することは、限界として働く現在の地層のなかに住まっている。私は、今日、何を見ることができ、何を言うことができるだろう。しかしそれは、内で凝縮されたものとしての過去を、自己との関係において考えることである。現在に抗して過去を考えること。回帰するためでなく、「願わくば、来るべき時のために」(ニーチェ)現在に抵抗すること、つまり過去を能動的なものにし、外に出現させながら、ついに何か新しいものが生じ、考えることがたえず思考に到達するように。思考は自分自身の歴史(過去)を考えるのだが、それは思考が考えていること(現在)から自由になり、そしてついには「別の仕方で考えること」(未来)ができるようになるためである。それは、ブランショが「外の情熱」とよんだものであり、外それ自体が「親密さ」「侵入」となったからこそ、外にむかうような一つの力なのである。」(ibid.p191-192)


 ここで語られるのは、外からの働きかけではなく、あくまで内側から現われてくるような権力像である。フーコーの言う告白においては、他者に自己のことを伝えるために自己が精査される訳だが、そこに「真理」を生み出す契機が存在し、それが他者に受け取られることで「真理」として機能することになる。このような「真理」への問いをフーコーが追っていった中で「自己への配慮」の問題が取りあげられるようになったのは一種の必然性がある。
 理念的なレベルで見れば、フーコードゥルーズはかなり同じことを言っているように思えてならない。ドゥルーズの「襞」(訳書1998)がこの「フーコー」という著書と随分似たことを言っているのもその証拠と言えるだろう。「襞」においては、「意味の論理学」で展開したアルトー的深層とキャロル的表面に再び語られるわけだが、その関係性についての語り方はかなり徹底している。


「魂と物質の間、魂と身体の間には、実在的な区別がある。決して一方は他方に作用することがないが、それぞれが、みずからに固有の法則にしたがって機能するのである。一方は自発性または内的作用によって、もう一方は外部からの決定や作用によって、つまり二つの間には、偶発的なものにせよ、影響や作用、あるいは相互作用は存在しない。それでもなお、私が身体に属する何かを、魂において起きること(苦痛)の原因として指定するときのように、あるいは身体に起きること(自発的といわれる運動)の原因を魂の中に指定するときのように、「理念的作用」というものがある。しかしこの理念的作用は、ただ次のことをともなうだけである、つまり魂と身体は、それぞれに自分なりの仕方で、あるいは自分自身の法則にしたがって、ただひとつの同じもの、つまり<世界>を表現するということである。それゆえ世界について、実在的に区別される二つの表現、二つの表現するものが存在するのだ。一方は世界を現働化し、もう一方は世界を実在化するのである。」(ドゥルーズ「襞」訳書1998、p204)

ライプニッツにおいては、二つの階は不可分であり、不可分なままである。つまり下の階において上の階が現前することによって、二つは実在的に区別されるが不可分なのである。一方から他方への作用はないが、しかし所属の関係はあり、それは二重にある。魂はその作用によってではなく、その現前によって生の原理なのだ。力とは現前であって作用ではない。それぞれの魂はそれに所属する身体と不可分であり、投影によって身体に現前する。あらゆる身体はそれに所属し、要請によってそれに現前する魂たちと不可分である。こうした所属関係は作用を生み出すのではなく、身体の魂たちでさえも、それらが所属する身体に作用するわけではない。しかし所属していることは、われわれを奇妙なほど中間的な、あるいはむしろ独自な帯域に導き入れる。そこであらゆる身体は、それが私的な魂に所属するかぎり、所有詞の個体性を獲得し、魂たちは、それらが集合的に身体に所属しているかぎり、公的な規定にたどりつき、すなわち群れや堆積に入るのである。」(ibid.p205−207)


 身体的な力と観念的な力、両者は不可分であるが、一方から他方へ「作用」することはない。それぞれは固有の法則に従って機能しているものといえるが、両者の結びつきというのは、力が「作用」することによってではなく現前するにすぎない。その現前というのは、むしろ内から外に現われてくるようなモデルが想定されているといえるのではないだろうか。

 仮に魂(表面)の領域と、身体(深層)の領域を区別し、独自の領域・形態を認めるのであれば、そこには暴力性のなき権力観を想定することが可能になる。俗にいう権力観はフーコーのいうように、王制制度・法律的制度を前提とし、それは血や死で表現されるような暴力性を含む。これは身体の存在を前提にするなら当然であるといえなくもない。しかし、フーコーの言う新しい権力観に立てば、そこには暴力性が存在しなくなる。フーコーの「生—権力」と述べる権力観はこのような要素を確かに含んでいる。
 しかし、このような純粋なアイオーン的権力観というのは、観念論的であることを否定できない。この権力観は物質を物質として見ることさえ放棄する。物理法則などというもの自体が成立する世界ではない。

 更にいえば、フーコーの主張がこのような2つの領域の独自性を前提にすること自体否定していないか、という議論もまた存在する。

フーコーの方法論的な前提となっているのは、権力—知は、一方に知があり、他方に権力がある、また一方に認識があり、他方に社会がある、という別々のふたつの決定機関の結合として理解されてはならない、というものである。ひとつの知というものは、それ自体ひとつの権力形態であるコミュニケーションの一システムなしに自らをかたち作ることはできない。逆にひとつの権力は、己れのものにひとつの知をつねに留めておき、それを引き出し、配分するのである。」(アンジェル・クレメール=マリエッティ「ミシェル・フーコー 考古学と系譜学」訳書1992、p235)

 ここでは、2つの領域の独自性を否定し、むしろ相互関係の中でしかその領域の動作は機能しないことが指摘されている。アイオーン的な権力は独自に操作しない。もちろんクロノス的権力も独自に作用することもない。2つの権力観は相互に関係性を持ちながら現前する。これは、ドゥルーズの議論とは少々内容が違う。

 では、フーコーは実際どちらの立場を前提にしているといえるのだろうか?これに対して最も明確な言及はp118の内容であるように思う。フーコーにとっては、一方で独自の領域を理論として構築しながら、他方で歴史分析のなかでその布置の変化をとらえる作業を行う、という二重の課題としてみているようだ。これは本書の中でも混在するような形で言及されている二重の視点である。問題はこのような循環的な課題が、それ自体目的といえるのか、それとも理論と歴史分析どちらかが目的となっているものとみるべきか、という部分である。フーコーの厄介な議論を読み解く上で、この前提はかなり重要であるように思う。これについてはもう少しフーコー自身の著書と、ニーチェの仕事を確認してから言及したいと思う。