大澤真幸「不可能性の時代」(2008)

今回は大澤真幸です。3年前に一度読んで、最近読み返したのですが、思う所が多かったのでレビューしてみます。

(読書ノート)
p29 「理想」としてのアメリ
p77 「要するに、村上の『羊をめぐる冒険』は、三島から直接にバトンを受け取るように小説を書き、三島の作品の内に孕まれていた可能性を徹底させることで、理想から虚構への移行を果たしているのだ。」
p87−88 「オタクを専門家や一般の趣味人から区別する特徴は、意味の重さと情報の密度の間の極端な不均衡である。一般には、意味の重さと情報の密度との間には、比例的な関係がある。要するに、有意味なことだから情報が蓄積されるのである。だが、オタクに関しては、こうした法則が成り立たない。情報は、有意味性への参照を欠いたまま、つまり意味へとつながる臍の緒をもたないまま、それ自体として追求され、集められていくのである。ある事柄の「意味」は、常に、より包括的なコンテクスト、外側のコンテクストへの参照を前提にしている。それに対して、「情報」は、そうした外側のコンテクストへの参照を欠いている。オタクは、自らが関心を向ける情報的な差異に関して、それをより包括的なコンテクストに位置づけて、その重要度を説明することができないのである。」
※一見もっともらしい説明ではあるものの、我々が専門性として評価しているものが、有意味性をもっているかどうかはすこぶる疑問が残る。外部のコンテクストの存在は純粋な信仰に近い形で存在する(もしくは存在しているとみなされている)ようなものである可能性を考えてもよいのではないか。

P101 「情報的な濃密性と意味的な希薄さとの間の、オタク固有の不均衡が生ずる理由は、ここにある。オタクたちが最も苦手としていることは、自分たちがやっていることを、より包括的なコンテクストの中に位置づけることである。有意味性は、常に、「それ以上のコンテクスト」を背景にすることで、弁証される。だが、オタクたちが関心を示している、アニメならアニメ、ゲームならゲームといった特定の領域が、すでに普遍的な世界、ひとつの宇宙であるとすれば、彼らにとっては、より包括的なコンテクストはあってはならないし、またあるはずもない。つまりは、外へと通ずる窓はないのだ。こうして、外部の包括的なコンテクストへの一切の参照を欠いたまま、内部の情報を徹底して精査しようとする慾望だけが、無限に展開することになる。」
※このような議論を前提にドゥルーズの消費観を考えると、納得のいく部分もある(消費を消費と思った時点で終了!それは生産である!!)オタクの非政治性も説明できるだろう。

P143 第三者の審級の撤退とインフォームド・コンセントの関係
P189 「われわれは、一般には、むしろ、他者とは間接的にしか出会うことはない。すなわち、他者は、規範化された意味の秩序の中で、常に何者かとして同定されている限りで、すなわち象徴秩序の中で割り振られた特定の規定性を帯びた者としてのみ、私と——その私もまた同じ秩序の中で同定されているのだが——対峙し、私と関係することができる。逆に、他者との直接的な関係、身体的な接触を極限にもつような直接的な関係とは、他者たる限りでの他者との関係、それ自体としての他者との関係、他者の他者性との関係でなくてはならない。他者としての他者とは、純粋な差異、私に帰属する宇宙の総体に対する差異、上位の同一性の中で決して相対化されることのない絶対的な差異のことである。
 ここで、他者としての他者、他者がその他者性において現れているような状態を、<他者>と表記しておこう。とすれば、われわれの現在は、<他者>への慾望によって規定されていると、とりあえずは言っておくことができる。<他者>を前にして、家族との関係すらも偶有的なものとして現れることになるのだ、と。とはいえしかし、<他者>との関係ということそのものに、根本的な逆説が宿っているのだ。」

p233 「アイロニカルな没入は、本気で信じている他者の存在を、外部に前提にしているときに帰結する。「信仰」が、その他者に転移されるのだ。原理主義についてもまた、われわれは、「アイロニカルな没入」をコンテクストにして考えるべきではないか。つまり、こういうことである。もし、信仰を転移すべき他者が、もはや、さらなる外部に想定できない状態に至ったとしたらどうなるだろうか。つまり、「ばば抜き」の「ばば(ジョーカー)」を、誰にも渡すことができない状態に達したらどうなるだろうか。直接の信仰が回帰することになるだろう。原理主義とは、このような状態、つまり「信じているふりをしている自己」と「信仰をその上に転移される他者」とが合致してしまっている状態ではないだろうか。」
p237 「「アイロニカルな没入」のメカニズムが機能するためには、一つの条件が成り立っていなくてはならない。誰かが、超越的な威厳をもって信仰を保持していなくてはならない。つまり、状況に動ずることがなく、確固たる信仰を保持する「一者」が存在していなくてはならない。人は、その一者への転移を通じて、間接的に信仰を保持することができるのだから。」
p238 資本主義は一者を無化する
※これを位階論的に読むとどうなるか。位階はすでに与えられている価値である。この位階を欺瞞として変更を唱えることは、価値の否定を伴う。これは「一者」の無化も含んでいる。位階の否定により新しいを位階を作るという可能性もあるが、もしこれが否定されるのならば(平等万歳!)、外的な価値は消失し、原理主義化することとなる。ここに、位階の存在自体を否定することの問題をみてとることができる。資本主義批判自体が位階の批判となっていた訳だが、資本主義批判に内在する問題であると見ることができる。
 位階の否定がオタク性を生む。これは外的な価値志向を否定し、内的なものに留まる主体を形成する。何が問題かといえば、このような主体が外部をもたないために、その外部との「調整」を不可能にするということだ。この調整不可能な状態が暴力を生む。言論界に身をおくはずの左翼思想はここにきて暴力性を発揮することとなる。「上」からの権力を問題視していたはずの立場の者が自ら暴力を発動させるのである。
 また、ここにオタクをめぐる議論が学生運動的左翼思想の成れの果てである、という主張を正当化させるものがある。

P273 「つまり、神的暴力という概念の政治的な含意は、何であろうか。それは、活動的で徹底した民主主義以外のなにものでもあるまい。統治される人民の意志のほかに、あるいはその外に、神の意志を想定することはできない、ということになるからだ。統治者と被治者の厳密な同一性によって定義できるような、活動的な民主主義こそ、神的暴力の理念の直接の具体化である。」
第三者の審級の確保は「我々」によってなされるべき、とされることとなる。この可能性については、スコッチボルの議論と、「六次の隔たり」の議論を援用しながら説明をしているが、この六次はあくまで「人の認識」レベルの話である。


(考察)
・オタクの没入的趣向に対する懐疑
 今回は大澤が扱っているオタク論について考えてみたい。
 大澤の議論自体は大きくおかしいと思える所はなく、むしろ賛同すべき議論が多い。しかし、一点大きく納得のいかないのは、大澤の議論において、オタクの価値へのコミットというのを、かなり必然的に語っている部分である。

 オタクは価値へのコミットなしにその志向性を獲得できないというのだろうか。私はそうは思わない。むしろ多くのオタクと呼ばれている者は閉じた窓を持っているとはいい難い。オタクを3つの層に分けて考えてみよう。私自身がオタク論に疎いのが問題だが、この層化にはさほどの反論がないように思う。
 まず、第一の層において、その趣味趣向性に対して一種の割り切りを行っている層がある。この層においては、オタク的な趣味とは別の本業なり、自身の活動の確固たる場がある。もっといえば、オタク的な価値に対して誇りを持ってさえいる(その価値志向性の不在にこそ意味を見出し、自らのもつメインにフィールドに対して別の価値を持つ意味で没頭する)場合もある。
 2つ目、大澤の議論に近いレベルにおける、窓のない家で生活をしているようなオタク層である。大澤が指摘しているように、彼等には外には窓が確かにないわけだが、その窓はネットの世界として開いている。もちろん、その捕捉する領域は狭く、しかしここには「関係性」という視点が担保されているようにも思う。ありきたりな言葉で語るなら、我々は世の中のものにあまりにも多く曝されるような時代になった。そのような広い世界から関係性を見出していくことはある種の苦行である。このため、我々はオタク的趣向を持つことで気の合う仲間を見つけることができる。このような関係性はそれ自体として確固たる閉鎖性を持っている訳ではない。そして、このような層の存在は「窓のないオタク」とも矛盾することはない(この論点は大澤もp110で似たものを議論しているが、ここでのオタクはその同質性を前提にし、その<他者>性の不在が強調されている。だが、この主張には上記のような可能性も考慮されるべきではないだろうか、とも思う)。
 ただし、2つ目のオタク層においてはその関係性の中に脆弱性があるということはできるかもしれない。オウムの事件の分析というのについてはこれまで私は考えたことがないくらい疎いが、指導者の存在によってそのような脆弱な層を取り込むことが可能となるかもしれない。

 3つ目のオタク層というのが、価値の没入をしたオタク層である。彼らは外的なものとの調和を知らないがために、彼らだけの真理に基づき、原理主義的に振舞うこととなる。3番目の層において問題となってくるのは、その外部志向性が欠如しているゆえに、他の価値との調整が不可能となる部分においてである。Mや酒鬼薔薇の事例においては、これが「身体の直接性への回帰」となって現れているという。これは「身体からの逃避」という前提を含み、これは自らの身体及び他者の身体の拒否をする反面、身体への過剰な欲望へと転化する可能性も含むという両義的なものである。この志向性を留める原理は私(オタク)の中にはなく、これがまた暴力的な領域への回帰となっていくのである。
 日常的に用いられているオタクというのは、多層的であると言ってよいのではないかと思う。しかし、大澤の議論においては一意的な解釈が強いように思う。確かに社会問題としてのオタクというのは、大澤の言うような問題を内包していただろうが、これはあくまでラベリングされたオタク像であり、基本的にはマイナスイメージしか存立しえず、なおかつそのイメージの拡張がオタクの過小評価に繋がるだろう(大澤は世間的な変人的オタク像に対しては批判的であるものの、包括的価値を想像できないという別のオタク像を立ち上げることで、別のマイナスイメージを付与するのに寄与しているのではなかろうか)。

・「価値」と「情報」の違いはどこに?
 しかしながら、大澤の言うオタクは包括的な価値を見出すことが苦手である、という主張には賛同している。私自身はオタク論においてはむしろこの部分について問題視したいと考えている。私はオタクを「政治性の欠如した存在」として定義したいのである。
 政治性の欠如とは、すなわち「合意調達すべきとされた場における闘争(シンプルに言えば『合意形成の場』だが)」が欠けているということである。これは大澤の定義するオタクとも矛盾はしない。彼らはこのような場を介することなしに真理に到達したがる。政治の場においては大きさはともかく<他者>の存在が前提とされており、その<他者>との折り合いによって真理は形成されるものだ。
 そして、このオタクの非政治性というのが、価値創出から離れる可能性となっていないだろうか?価値の創出は確かに外的な包括性によって成し遂げられるものであるといってよいだろう。しかし、この「外的なもの」とはいったい何なのだろうか?もしくは、この外性というのは何によって与えられるのだろうか?大澤的に言えばそれが「第三者の審級」によってなされるに他ならない。しかし、それは結局「真理」の所在をめぐるゲーム(闘争)でしかないのではないだろうか?そう考えるのであれば、この価値創出というのも、結局観念論的に「外にあると思い込む」ことによって達成される性質があることに留意すべきではないだろうか?

 これは例えば学校教育においては大きな論点となっていると言えるかもしれない。「学力」の価値とは何なのだろうか?これは「結果的」に「ある」ものであり、そこに価値が付与されているのではないだろうか?そしてその「学力」というのは誰が決めているのか?「学力」の外部にあるものは何か、を問うた場合、そこには何も存在しない、と考えることも不可能ではないのではいか?大澤の議論においては、この部分を割り切って議論しすぎているように思うのである。そして、私はこの政治性についての論点を強調したいのである。
 もちろんここにおける政治性は国家にかかる政治性とは言えない。これは社会に向けて、とでもいうべき政治性と言えるだろう。このような政治性においては法とは異なるある価値を導出する。この価値は必ずしも国家の成員全体に影響を与える訳ではないのだ。しかしながら、確実に「大きな」影響を与えうるファクターとして作用すると言えるものだろう。
 オタク的心性においては、常にこの政治性から一歩身を引く形で、自らの欲望を遂行しようとする。<他者>の存在する共通の場からは身を引き、内部の完結した体系の中で振舞おうとする。大澤はまさにこの点を問題視する訳である。

・補論:ICOMAG2013における「批評」をめぐる問題とオタク性について
 話題を本書から少し離して、今年の2月に行われた「第三回世界メディア芸術コンベンション(ICOMAG2013)」での議論を参考にここでの議論を膨らませたい。(議事録が公開されているので、詳しくはそちらを参照。http://www.icomag.com/)私自身も2日目の議論は生で見てきたのですが、本書におけるオタク論とはまた別の視点もまた出てきていた、という印象があった。
 というのも先程論点として挙げた「専門性」と「オタク的趣向」という区別の曖昧さというのを「批評」というフィールドにおいて展開させていたのである。「批評」空間の問題意識というのは、近年に始まったものとは言えないですが、ICOMAGでは「メディア芸術」と呼ばれるジャンル界隈においてはその批評性がことさら脆弱なのではないか、という問題関心から、その背景と展望について議論を行っている。
 そもそも「批評」とは何のためにあるのか、をまず確定させる必要があるでしょう。ICOMAGでは「異種混交性」の担保というのが一つのキーワードでした。これはオタク性と対義的にとらえることが可能でしょう。批評においては、まさに包括的な論点に拡張しつつ、<他者>との対話を可能にするような異種混交性が必要になってくるという訳です。

 このような批評性は資本主義的な価値観の浸透によって危機にさらされていると指摘されている。つまり、資本主義の浸透によって、それとは異なった「価値」の導出自体が困難になっている可能性がある、ということである。資本主義的が価値の担い手であるということは、そこから外れるようなものは「価値」として認められることなく、ただの「情報」に成り下がるのである。このような価値導出の困難は「批評界」全体にいえることなのではないだろうか?これは批評の生産性ともリンクしているように思う。批評自体、親となる作品なり著書なりが前提に成り立つ性質のものである。この批評はフータモ氏が指摘するように、作品それ自体とそれを見る人々を繋ぐ可能性もまた持っている訳だが、このような役割はサイバースペースにおける大量の批評に凌駕されつつある。独立の地位があったかのように思われた批評界とでも言うべき世界は相対化されることでその価値が低下しているといえるのだろう。
 では、このような状況において、批評はどのように生き残るのか。ICOMAGではいくつかの可能性の言及があった。一つは批評自体が作品と同列のレベルで表現される可能性である。これは作品の「編集」という形態を取りうるし、音楽でいうリミックスのような形を取りうる。この方策は資本主義的な価値観にコミットしながらも、その批評可能性を維持していこうとする勢力である。もう一つはその批評性の質をしっかり担保していけるような場の導出である。ICOMAGという場もまた、このような場として開かれているのではないか、という議論もなされていた。これは資本主義とは別の路線にも開かれた可能性として提示されることになる。

 結局ここで指摘しておきたいのは以下のようなことである。オタク論において指摘されるのは、確かに彼ら「個人の特性」としての包括的な枠組みに関連させることの欠如であったのだが、ここでの議論を踏まえるのならば、これは「個人の特性」に還元されるべき問題なのか、疑問も残るのである。先程はこれを「あまりにも多くのモノに曝されるようになった時代」と表現したが、ICOMAGの議論を踏まえれば、「資本主義」の影響と言うこともできるのだろう。
 この資本主義の価値観の下において、我々はむしろ包括的な視点からの語りを要求されているのではないか、という点を提起したいのである。先述したサイバースペースにおける批評という観点から考えてみよう。私のブログももちろんこのような批評の一つである訳だが、素人目線から言えば、かつてはこのような批評の場に素人は開かれているとはいえなかった。まさにサイバースペースという空間がこの批評の可能性を開いたのである。これに限らず、多くの価値に接触する可能性というのは、資本主義の世界の下で飛躍的に広がったといえる。おそらく条件が揃っていなければ、私はこのような形の「批評」をすることはなかっただろう。もっと別のことをやっていたはずだ。だが、それは<他者>との関係においてはどのようなことをしていたのだろうか?少なくとも私の場合はここでいう<他者>に接することはなかったに違いない。これは、サイバースペースが包括的な視点からの語りに開かれた場所といえるかもしれないが、見方を変えれば選択肢が与えられたことで、逆にそのような視点を要求されているのかもしれない、と考えることはできないだろうか?これは何故要求へと変化するのか?それは、与えられた選択肢において、包括的な視点が与えられる可能性を持っているからに他ならない。<他者>を求めること自体が要求へと転じさせているといえるのである。
 しかし、このサイバースペースは異質性な価値と同時に同質的な価値にも接する可能性に開かれることとなったともいえるのである。多様な価値観にさらされ続けてそれを回避したいという気持ちが働いているとすれば、このような同質性に向かう可能性もあるのではないか。それをオタクと呼ぶことはできないか。私の提起したい点はここにある。

 また、少なくともICOMAG2013では今の批評界の質の低さを嘆く場面はあったが、これまでの「批評」はどうであったのかという評価はなされていない。これまでの(批評に価値があった頃の)批評というものの「価値」に関する言及はないのである。これは結局大澤の著書でも問題の脇に置かれた「情報」と「価値」の恣意性と政治性への問いを正面から問うている訳ではなかった、ということになるかもしれない。
 

・民主主義への展望について
 大澤はこの<第三者の審級>を欠いた世界においてどうすべきかと言う問いに対して、シンプルな回答を与える。「民主主義的な合意を調達しろ」というのである。
 これはこれまで私がブログで取り上げてきた左翼的な回答とは異なる。原理主義的な立場を回避しようとする左翼の主張は、このような合意を介することなく、第三者の審級と折り合いをつけようとする立場なのではないか、と思うのである。原理主義的な立場というのはつまり、位階の消失を本気で志向している、という立場である。これに対して、これを回避しながらもなお位階の問題を提起する左翼というのは、この位階の存在を自明視するにも関わらず、その位階を突き崩すべきであると主張するのである。ドゥルーズガタリがこの立場にあることはすでに繰り返し指摘してきたところではあるが、アントニオ・ネグリについても同じなのではないかと思う(マルチチュードは結局資本主義に寄与することしかできない)。このダブル・バインドの創出により、位階の存在を了解しつつ、それを忘却することにより、実際に存在するものとしては不在のものとして扱うという矛盾した立場を遂行することを可能にするのである。
 大澤はこのシンプルな回答のシンプルさを自覚しながらなおこの可能性を指摘する根拠として、スコッチボルの研究と「六次の隔たり」についての研究を挙げる。前者については著書を読んでから判断したい。後者は確かに我々は近いところでつながりを持つ契機があると言えるが、実際にそれが「民主主義的合意調達」のレベルに行くまでには大きな隔たりがある。ソーシャルキャピタル論の「弱い紐帯」と「強い紐帯」の区別などはほっほり出して議論されているからだ。この「ほぼ物理的な顔見知り」から「意見合意に結びつくくらいの心的結合」への跳躍には普通の方法では不可能だろう。東浩紀の言う「民主主義2.0」的なオルタナティヴな民主主義の方法でも考えない限り(注1)。ただ、そのような方法を考えるという意味では開かれた議論だといえるだろう。

理解度:★★★★☆
私の好み:★★★★
おすすめ度:★★★★☆


(追記:10月20日
注1:大澤が後に出版した「夢よりも深い覚醒へ」(2012)で、ラカンの議論の応用として一つの案を提出している(p254ー261)。委員会、一般人、媒介者という3者を通じた意思決定の方法である。委員会は、偶然性(くじ引きなどの方法)で決定した成員による決定機関である。一般人Aは直接的な参加成員ではないものの、媒介者M(この媒介者は「中立」な立場が要求される)を介して議論を持ちこむことが可能である。Mはソクラテスのような立場(フーコーのレビューで今後詳しく説明できると思いますが)でAの主張を洗練し(この洗練はあくまでAとの対話を通して形成される)、委員会に報告できる。媒介者MはAにとっても、委員会にとっても第三者の審級として、決定をめぐる手続きなどに亀裂を入れる役割を担うのである。東の議論とは意味合いは異なっていますが、この話も、機会があれば後日詳しく考察したいと思います。