榊達雄編「教育「正常化」政策と教育運動」(1980)

 本書は70年代後半を中心にした、岐阜県における教育正常化運動に対する批判を行っている本である。今回本書を取り上げたのは、過去にレビューした無着成恭が在籍していた明星学園中学の教育論争と同じ基軸で、本書で支持される「恵那の教育」批判を行う動きがあったこと、無着がその動きに対しては公にはほとんど沈黙を保っていた一方で、本書で取り上げられる「恵那の教育」と「教育正常化」の対立は広く市民・世論に問われ、その双方の主張が比較的明らかにされているという点で非常に興味深いと感じたからである。今後もこの「恵那の教育」の議論は深く追ってみたいと思うが、まず、正常化反対側であった本書の立場と想定される問題点を明確にしていきたい。

 

○正常化反対勢力と「保護者」との関係についてどうみるべきか?

 

 本書を評価する観点から極めて重要となってくるのは、「保護者」の位置付けである。本書の立場はp53及びその注として示したp68に明確にうたわれるように、教育労働運動観に支えられている。教育権の保障をするためには、当然保護者の教育権にも応じることが前提になされる必要があり、だからこそ教師と保護者は団結して運動に取り組まなければ、その結果は見込めない性質のものである。一方で、本書で語られる「第二次教育正常化運動」というのは単純な体制の問題でなく、協同されるべき保護者、はたまた一部の教員によってもなされている点に大きな特徴があり、それは正常化反対側にも明確に認識されている。(p30,p86)

 したがって、この正常化への反対というのは、常に本来団結すべき保護者とも対立してしまっているという問題を抱え込んでいるのである。これに対して本書の立場はかなり単純明快な見解を示しているといえる。つまり、大雑把にいえば、「正常化に賛同してしまっている保護者は、体制側の論理に染まりきっている」という見解である。これは確かに直接的に語られている訳ではないが、本書の立場を説明するためには、この結論を導くほかなのではないのかというのが正直な所である。

 

 本書の「正常化に賛同する保護者側」の代表である小木曽尚寿ら「坂本地区教育懇談会」の主張として何よりも押さえなければならないのは、かの明星学園母親グループの述べたのと全く同じ「わが子に将来社会人となったときの必要最小限の基礎学力を身につけさせてやりたい」という点である(p86-87)。ここには「学力一辺倒」の要求とは全く別のささやかな学力要求があると見て取れるのである。しかし、結局この主張は本書をみればわかるように全面的に否定されてしまっている。何故なら、このことを全否定しない限り、「体制順応」してしまうからであり、体制順応を否定した教育の自由こそ、本書が必要とするものだからである(cf.p96,p96-97)。

 

 また、ここでもう一点押さえておきたいのは、これらの主張が「教育法学」という「理念=理論」をタテにして展開している点である。そこにはほとんど実態に対する内省的過程というのは無視されている。少なくとも、本書から「恵那の教育」の実践についていかになされ、それについてどう評価しているのかということ、それが「学力」にどう結びつくかという議論は皆無である。これは竹内洋などのレビューでも議論した「旭丘中学」をめぐる議論において、特に反対勢力に都合のいい実態は語られることがないことと同じである。

 更に、この「正常化批判」側が実態に問題があるという認識が全くないという事実は、転じて本書の言う教育権の保障の議論の正しささえも疑問に付すことにも繋げることができる。つまり、この正常化反対側には内部で十分な批判と、それに伴う「自浄作用」が働く類の「自律性」を持っていないのではないのかという疑問が提起できるということであり、だからこそその改善を行おうとする「正常化」側の主張も正当化され、支持を受けることになったのではないのか、という疑念が晴れないのである。このような疑念を与えないためにも、本書は実態については特に言及せずとも、全面的に「正しい」とするほかなく、それが「正しくない」というような「正常化」に賛同する勢力を全て体制に組み込まれたものと主張するのではないのか。正直な所、このような一方的な態度しか取れない立場の者に、p94で言うような「相互理解」を行う余地があったとは考えにくいように思える。以上のような理由から、本書の立場は社会で生きるために必要と親が考えるささやかな「学力」も、排除されるべきものとして目の敵にするのである。

 

○本書が言うような「教育権」はそもそも必要なものなのか?

 

 また、保護者との関係性を考える上で見落とせないのは、本書のいうような「教育権」をそもそも保護者が望むのかという点である。読書ノートのp53にも書いたような問題を本書のいう「教育権」は抱え込まなくてはならないのである。この「教育権」が抽象的なものの極限にある概念であるがゆえに、何らかの具体的な専門性を求めるような性質を持ち合わせていないこと、そしてそのような専門性を欠いた状態で「保護者が求める教育」に応えること自体に無理があるのではないのだろうか。

 確かに、義務教育段階においてはここで言うような「専門性」は必要ないと考える方がむしろ自然かもしれない。しかしそうするとなおさら保護者は、義務教育に「多くを求める」態度になることなどなく、高尚な「教育権」など必要に感じないのではないだろうか。

 

 本書のような反正常化側は、このような態度を保護者がとること自体を認めることが理論上できない。むしろ保護者には「教育権」を求めるよう欲望してもらわないといけないと考える立場にある。そうでないと「教育権」を手に入れられないからである。ここでも致命的な点で本書の立場と、素朴な保護者の要望は対立要素を持っている。

 そして、言ってみれば「体制批判」という語りはこの潜在的な対立要素をまるで避けるかのように語られている節さえあるように感じる。この体制批判の論点は本来、保護者にとっては第一の争点になりえないが、結果的に「教育権」の争点を避けなければ、「教育権」という論点で保護者との団結というのは不可能という見方さえ可能なのである。

 

 

 今後のレビューの中で、この恵那の教育の議論において「保護者」は本書の立場と正常化の立場、どちらに与していったといえるかは丁寧に検証していこうと思うが、正直な所、ささやかな学力保障も考えようとしていないように見える本書の立場に一般的な保護者が支持していたとは考え難い、というのが私の正直な感想である。確かに本書で取り上げている「正常化決議」というのは政治的であり、思想の強要という側面がない訳ではないが、それ以上に、本書の立場を支持する理由もなかったのではないか、ということである。

 

 

○教師の「専門性」について

 

 最後に一点、本書の中で注目できるものとして、教師の「専門性」について取り上げてみたい。体制側が支持する「専門性」と区別し、本書のいう「専門性」が対比されており、その違いがp205にあるように「専門職の自律性」の有無にあるとする。もっともこの自律性は、あくまで「不当な支配」に服さない、という意味でタテマエ上語られるが、実質的には、「支配」は全て不当であるという前提に立った形で主張される自律性であるといえるだろう。

 さて、他の教育に関わる著書においてこの「専門性」がいかに語られているかを少し整理してみたい。

 

(1)「専門性」を無条件に肯定する形で述べられる場合

 

 基本的な傾向として、この「専門性」は楽観的にかつ素朴に語られ、その実質的な意味について特に定めている訳ではないということが言える。例えば次のような語り方である。 

 

 

「以上三つの方法には見てきた通り大きな問題があり真の解決からはほど遠いが、それではいったい妙手があるのと反問されると返答に窮するにちがいない。しかし私見によれば手の負えぬ子をどう指導するかというテクニックではなく、彼らをどう受けとめるかという哲学や姿勢こそが重要である。いやしくも教師が教育に専門家であり、学校が教育の専門機関である以上、手の負えない子どもこそ、その専門性を実証する最も大事なクライエントである。素人の「手」に負えないからこそ、病人は病院を訪れる。平凡な医師の「手」に負えない病人を治すのが名医たるゆえんである。手の負えない子が出現し増加し、素人が手を焼いている時代こそ、教育の専門家たる教師の力量を発揮する出番だといってよい。その意味から、この子どもたちは恐怖や敬遠や抑圧どころか、感謝のまとにされて然るべきである。」(新堀通也「「見て見ぬふり」の研究」1987=1996、p65)

 

 教師に専門性があるのは「あたりまえ」であるという前提に立っているが、いかなる意味の「専門性」がある(べき)なのかについては語られていないのである。この専門性についてさかんに語られることになった要因の一つとして、ILOユネスコの1966年の「教員の地位に関する勧告」が挙げられる。この勧告においても教職は専門職と認められているが、そこにどのような専門性が含まれるかは明確でない。このため市川昭午などはこの勧告について、「政治的妥協の産物の常として玉虫色の性格を有しており、多様な解釈を許容するものであった。しかし、そうあればこそ、立場や見解を異にする諸団体や諸勢力が、これに同調することができたのである。したがって、教職は専門職である、あるいは専門職たるべきだき主張する点は等しくても、その意味するところは必ずしも同じではなく、少なくとも強調点を異にしている。」(市川昭午「教師=専門職論の再検討」1986、p6)と指摘しているのである。

 

(2)教師集団の強調と「不当な支配」への批判

 

 本書の立場もそうだが、特に教育法学を中心にした「専門性」観というのは、もっぱら研究集団としての教師による専門性の向上を志向するものであった。そしてその中で時に「不当な支配」というものは否定すべきものとして語られている。

 

「このように子どもの発達にかかわる「教育的真理」を見きわめるところの教師の専門的力量(教育的専門性)を保有するには、何といっても広汎な教師・研究者の実践や研究の交換ないし相互批判が不可欠であり、それなしには教育内容や授業過程の創造は確保され得ないであろう。そして教師が、これら教育的専門性を自ら獲得するための実践や研究の過程においては、いかなる恣意的あるいは権力的な干渉も許すことはできない。そうでなければ教師(集団)の実践や研究の過程を通してのみ保障され得る子どもの能力の形成は阻害され、結局において子どもの学習権(発達権)は形骸化してしまうからである。

 そこで以上のような指摘からいえることは、まず教師は自らの研究、実践の過程において、科学的真実と芸術的価値に基礎づけられる教育的認識以外いかなる権力的拘束もうけないという自由、および教師の研究・実践のための教師集団・研究者集団の組織・体制を自ら自主的に組織しうる権利が保障されるべきであろう。」(佐藤司「学校の自治」兼子・永井・平原編『教育行政と教育法の理論』1974、p200)

 

「しかし、さきにも述べたように、教育労働は高度の専門性を有し、自主的な労働である。したがって、教育はまさに専門職である教育労働者が自主性にもとづいて展開さるべきものである。それ故に、教育の方法と内容は専門的知識をもち子どもと直接に接触をもつ教育労働者および教育者集団のみが決定すべき事柄であると考えられる。教育行政はそれに干渉してはならないものと考えられる。さらにそれとかかわりをもつ教育政策の立案、決定、教育行政の実施に対して、その教育労働者および教育者集団=教職員組合が参加することは教育労働者および教育労働者集団の権利であり、義務でもあると考えられる。すなわち、そのことが教育の自主性で守り、子どもの教育権を守り、教育を奉公をあやまらしめないための担保となるはずだからである。」(日本教育法学会編「講座教育法1 教育法学の課題と方法」1980、p201-202)

 

 ただ、このような議論が体制批判を含んでいる以上、持田栄一が言うように、その専門性が「止揚と超克」の対象となることは避けられないように思える。

 

「第三。さらに、もともと、教職の専門性原則は、教育における教職の組織原理であり、教師専門職論が労働の「熟練度分類」、精神労働と身体的労働の分裂といった資本主義社会に特有の労働の奇型化の過程を基礎として成立した「高級」労働力として教職を位置づけようとするものであるから、それは基本的にいって労働者階級、おしなべていって近代教育の全面的変革を志向する者にとっては止揚と超克の対象といわなければならない。最近では、「教師は専門職労働者だ」と理解することが一般化しているが、そこでいう教職「専門職」論は基本的には否定と止揚の対象としてとらえるべきである。

 しかし、そうはいっても、現行教育法制において、教師はわれわれを肯定する、しないにもかかわらず「専門職」として規定されている。したがって、当然、教育労働者運動は実践的であろうとすればするほど、「専門職としての教師」のあり方をとらえかえし、それに新しい意味を与えることから出発しなければならない。とくに、現在「上から」構想されている教師専門職論が、教師聖職論へとつよい傾斜をもったものであってみれば、教育労働者運動が現段階におけるさしづめの要求を教師専門職=労働者という形で提示し、「上から」の教職「専門職」論とは異なった形で「専門職」としての教職のあり方を保障していくことは首肯されるところである。

 このような情況を考えると批判教育計画においても、教職を「専門職」としてのあり方を少しでも「改良」することが当面の課題となる。」(持田栄一「学校の理論」1972、p273) 

 

 このような止揚の発想は基本的に新たな意味を求めると同時に古い意味を否定することになる。しかし、このような議論も「本当に具体的な新しい意味を求めているのか」という疑問を提出した場合には、先述のようにその意味が明確に定義されることなく漠然とした形になる傾向がそもそも強いとも言えるのである。

 

(3-1)「専門性」そのものへの懐疑と否定

 

 しかし、このような専門性の議論は80年代以降、強く批判の対象となっていくことになる。その方向性はいくつかの理論的帰結に対応したものになっている。

 まず一つ目は、専門性そのものを否定する立場である。これは脱学校論的発想にも繋がるものであり、「学校に専門性などいらない」とするか「学校などいらない」という形で、教育の専門性を廃棄しようとするような動きであったといえる。

 

「教師たちは「教育的配慮」とか「教育的専門性」という話を、自らの禁句とすべきなのだ。一人ひとりの子どもたちよりも、学校教育制度のほうが大事にされる体制のなかで、自らの行為を自己チェックできるために、これが必要な最小限のよりどころだろう。そして、教育の専門家支配を崩し、しろうと支配に道を開けることを受け入れるべきではないか。学校の運営はもちろん、教員免許を持たない生活者たちを〈教師〉として一定の比率で迎えに入れるとよい。」(太田垣幾也、長谷川孝「学校から「教育」を追放しよう」1981、P123)

 

 ただし管見の限り、この動きは80年代に少し見られた程度で90年代以降はまじめに議論されていたとは言い難いマイナーな部類にあたると思われる。

 

(3-2)体制側の専門性として再構成をはかる議論

 

 2つ目に(2)の動きを理解しつつ、その批判を行う中で体制側の「専門性」の重要性を説く立場である。

 

「ところが、教員たちが、自分たちは専門職であるとして、それにふさわしく遇されることを求め、彼らにとっては未だ不十分であるにしても、その要求が順次実現されてくるにつれて、従前のような口実は次第に通用しなくなってきた。世間は教員たちの弁明をかつてのように同情的に聞き入れなくなり、処遇に応ずるだけのアカウンタビリティを追求するように変わってきた。権限に見合うだけの責任が、自律性に見合うだけの職業倫理が、そして給与に見合うだけの働きが求められるようになったのである。」(市川昭午編「教師=専門職論の再検討」1986、p17)

 

「すでにこれまでの論述によって明らかだと思うが、今日、教育改革のキーワードとして学校の自律性が強調されるのは、これまでの教育行政批判の理論が主張してきたような専門家教職員の自律性への信頼と尊重を説くためではない。むしろ逆に、それは、専門家教職員の自律性が実際には学校の閉鎖性に帰結していることを批判し、さらに学校をめぐる問題を教職員の専門家としての職務遂行における責任として、これを厳しく問うというものに他ならない。こうしたことは、学校の自律性を強調する教育改革の具体的なプランが、学校管理責任の明確化であり、校長の役割の強調であることに、明瞭に現れている。

 では、学校の自律性は、学校の管理体制を強化するための口実として強調されているに過ぎないのであろうか。そうした見方もまた、一面的であるように思われる。なぜなら、こうした理解は、かつて教育権論の生成において、教育の荒廃が国家権力の政策の結果と把握されたのと同様に、依然として政府による教育政策が教育の全体を支配し、統制しているとの前提に立っており、それは教育の問題を「国家権力の政策の結果」としてみるという思考態度によっているからである。」(黒崎勲「増補版 教育の政治経済学」2000=2006、p207)

 

 黒崎については、「教職員の自由な活動が、無責任な活動として、むしろ教育問題の原因であるとする意識が広がっていると言っても言い過ぎにはならないような状況である。」(同上、p207-208)という風にも述べるが、既存の教師(正しくは教育法学的な意味での専門性を強調する「教師集団」)の主張が不十分であり、そのような立場からは「責任」を引き受けることができないという点から「専門性」の必要性が語られることになるのである。これは80年代以降の「専門性」論の基本線だったのではないかと思われるが、やはり前提にある「専門性」については漠然としていることに変わりはない。

 このため、この曖昧な「専門性」の議論は実態と理念の乖離の問題と混同されやすくなり、常に批判にさらされることにも繋がり、それが転じて体制側云々が関係なく「新たな専門性」を求める動きという主張と共に議論され続けることになることが避けられなくなる。

 

「ここで教師の責任とは何なのかを考えてみる必要がある。教師である以上、学習指導要領で定められ、必要だと思う学習内容を、子どもたちにしっかり身につけさせなければならない。それが自分たちの専門性であって、それを全うするのが自分たちの責任の第一だと考えている教師が多い。だからこそ発達生涯の子どもに対しては「責任がもてません」と言う。しかし学校は子どもたちに将来必要となる力や知識を身につけさせるだけの場ではなく、その力や知識を使って誰もが「ともに生きる場所」だとすれば、学校のはたすべき責任はまったく違ったかたちで意識されてくる。……

 親が自分の子に障害があるとわかったとき、「私は専門じゃないので、この子の子育てには責任がもてません」などとは、もちろん言わない。家庭はそれこそ親と子が生活する場所だからである。病気にかかれば医者に診てもらうように、そこでも「専門」が求められることはある。しかしそれはあくまで、ともに生きていくために利用する「専門」であって、外にお任せして排除する「専門」ではない。」(浜田寿美男「子ども学序説」2009、p161)

 

 

(3-3)学校における専門性を限定化する議論

 

 最後に教師の専門性について限定的に捉えようとする立場である。この立場の批判は(2)の直接的な批判というよりも、無条件に専門性を定義する性質に対する批判として、その弊害を指摘しながら専門性が語られることになる。

 

 

「今まで見てきたところでは、校則や懲戒についての学校・教師の裁量権は極めて広く、ほとんど自由裁量に近い。それは一つには学校・教師の教育専門性を裁判官が信用したからであるといえる。つまり、教師の専門性が高いからという理由で裁判官は生徒の人権制限を承認する。あたかも教師の教育専門性が高ければ生徒の人権制限は問題にならない、といわんばかりである。」(坂本秀夫「校則裁判」1993、p194)

 

「教師の教育専門性といっても教師の教育活動のすべてに高い専門性が発揮されるわけではない。教科教育の専門性と生活指導の専門性は全く異なる。とりわけ、ここで問題になっているのは校則決定、指導の専門性である。本来、校則は生徒を恒常的に規制する生活規則である以上、当然、生徒の人権・権利を守り調整するためにある。そのためには生徒参加が、規則の内容に応じて構想されなければならないし、生徒に助言するために教師の専門的知識、人権・権利意識の高さ、組織指導力がフルに発揮され、教師の専門性は、生徒・親の人権・権利保障に役立つはずである。」(同上、p194-195)

 

 

 この立場に立った場合は、専門分化という形で学校教育を捉えることとなり、教育の役割も学校だけではなく、家庭や地域にも分散する形で議論が展開されることになる。本書の「教育権」に支えられる専門性というのはまさにその無尽蔵さから「教育にかかわるものは全て教師に委ねることが正しい」という選択肢しか結局見いだせないようにさえ見えるものであるが、このような前提そのものは否定されるということである。特に90年代以降においては(2)の枠組みは消失し、(3-2)及び(3-3)の枠組みで教師の専門性について語られている傾向を見て取れるように思う。

 

<読書ノート>

 

P5「いま一つは、岐阜県西濃地域での教職員の実践・運動である。この地域の大部分の教員は岐学組に加入しているが、この岐学組の執行部が展開している運動は言葉の厳密な意味での運動とはいえない。というのは、その運動の目標が「教育『正常化』の完遂」に置かれているからである。それは、「学校運営への父母・住民に対する、ひいては一般の教職員に対する、学校運営の閉鎖主義・秘密主義を一段とつよめようとする行政施策に手をかす「運動」にほかならないからである。そのために。この地域では、県議会によって「正常化」決議があげられたことが、教職員・父母・住民のあいだで話題となることもなかった。」

 

P18「「付知町教育正常化町民会議」が結成されるのは、1974年9月K小学校の理科屋外学習中に、1年生の子どもが水死するという事故を契機としていた。「正常化町民会議」によって、教育に対する攻撃は組織的・計画的に行われるようになった。K小学校の一部の父母によって、水死事故は生活綴り方教育に原因があるとして、学校の教育方針の変更を求める署名活動が行なわれている。そのほか、地域子ども会、町教育研究会に対しても批判が繰り返され、また子どもの手紙という形をとって、県教委に投書が行なわれている。」

※一見関係性がわからないが、これは結局p93にあるような前提があれば納得のいくところである。

P19「そして「地肌の教育」を支える大きな力は、「民主主義を守る会」であった。すなわち、「地肌の教育」は父母・地域住民によって支えられているのである。1960年代の教育政策の矛盾が集積し、1970年代に入り、ますます進行する教育荒廃の状況は、恵那地域にも現われる。」

※「全国的な教育政策・行政の動向がある。1970年以降ますます深刻の度を深めている地方財政の危機は、教育行政の中央集権化を強化し、教育の荒廃をもたらす物的基礎となっている。」(p19)

P19-20「教育については、1960年代に打ち出された人材開発政策の一翼を担ったのが、全国一斉学力テストであり、学力テスト体制であった。それらの理論的根拠として能力主義が主張され、能力主義の制度化として高校多様化政策が進められた。しかもこうした差別・選別体制は、受験戦争と結びついて強力なものとなるのである。他方、学習指導要領の法的拘束力の主張が文部当局によって行なわれ、教科書の検定・広域採択化が強化され、教育の国家統制は実質的に進められた。そして1968年版学習指導要領は、内容の詰め込みすぎ等のため、「落ちこぼれ」の原因の一つになったといわれる。」

 

P21「このように、第1項目から第3項目までは教育内容・方法の問題であり、決議の書き出しが、教基法1条がほぼそのまま書き写されていることと裏腹に、教基法10条の精神からいって県議会がかかる決議をすること自体が不当なのである。決議がそのとおり現実化すれば、知事および教委が抜本的改善策を講ずることになるから、知事および教委が「不当な支配」の主体として立ち現われることになる。また、決議が学校・教師の教育活動を事実上拘束するとすれば、それは「不当な支配」にあたる。」

※このことを極端に言えば、教育内容・方法について「教師の勝手」がまかり通ってもよいという風にも読める。

P30「恵那市教委のこのような態度の変化は、逆に県教委も当初は、「正常化」に必ずしも積極的ではなかったことをうかがわせるものである。いずれにしても、1978年2月には県教委・市町村教委とも、「正常化」政策の積極的推進の主体になっていたのである。県PTAには、県の方から君が代・日の丸推進の要請があったが、県PTAとしてそれに積極的に応える動きはしなかったといわれる。しかし、恵那市では、当時ある小学校PTA会長によれば、市の連合PTAでは君が代は当然であり、そのような方向でやっていこう、と申し合わせをしやとのことであり、またあるPTA役員によれば、そのPTA以外に君が代・日の丸導入の強制に反対したPTAはなかったとのことである。地域組織については、「正常化」決議の背景にあって、その契機の役割を果たしたのが、前章で述べた「坂本地区教育懇談会」であり、その先駆けとして「付知町教育正常化町民会議」があった。このように、住民のなかから「正常化」推進団体が起こっていることは、第二次の場合の特徴である。ただ、それらの組織において、中心的役割を果たしている人たちが、住民のなかのどのような層を代表しているかは問題である。」

※これに対して、60年代前半の正常化運動では、「県教委事務局・地方事務局が中心になり」(p29)、地域によっては「PTA幹部、地域有力者等が加わっている」とされる(p29)。

 

P34-35「業者テストによる教育批判は、それが現に果たしている役割、すなわち受験準備教育を過熱化し、差別と選別の体制を客観的合理的にみせるためには、教育内容の標準化・規格化が不可避となる。その標準化のための基準となるのは、学習指導要領なのである。したがって、業者テストによる教育批判は、それが現に果たしている役割、すなわち受験準備教育を過熱化し、差別と選別の体制を客観的合理的にみせるためには、教育内容の標準化・規格化が不可避となる。その標準化のための基準となるのは、学習指導要領なのである。したがって、業者テストによる教育批判は学習指導要領による教育内容統制、すなわち教育内容の国家統制につながっていくわけである。実際に当該批判者たちは、学習指導要領に基づく教育をするよう主張しているのである。また、以上のことは父母・地域住民の要求に応える地域に根ざした教育、学校そして教師の教育課程の自主編成を否定することになる。教師の教育権を否定し、教職員と父母・地域住民との結びつきを切断するわけである。教職員相互による自主規制は、このことをよりいっそう進めることになる。「正常化」は一部「住民」の要求に応えるかのようにみせながら、実は父母・地域住民の教育権を否定し、教育における住民自治を否認するものである。」

※この自主編成そのものが問題視されているので当然対立する。そして注目すべきは業者テストと学習指導要領がイコールになってしまっている点である。これは学力と呼ばれるものそのものを等しく考え、かつそれを否定しようとする態度と読み取れる。

P37「振り返るに、今回の攻撃がなぜされたかは、それなりの必然性がある。……いま1つは、逆に、東濃の生活綴方教育を軸にした「地域に根ざし生活を変革する教育」が各地に影響力をもちはじめてきており、これが父母・地域住民との連携を深めてきたことに対する、当局側のあせりであり危機感である。つまりは、「教育の住民自治」への恐怖感でもある。」

 

P53「教職員労働者が職場や地域において教育権・職務権限をうち立てていくのは、そうすることなしには、子どもの学習権・発達権を保障していくことも、父母・住民の教育請求権にもとづく教育要求にこたえていくことも、不可能となるからである。とりわけて、第一次的・本源的な教育権者たる父母の教育負託にこたえることが不可能となるからである。そうだとすれば、教育闘争は、教育労働者の独自的闘争としてではなく、教職員労働者団結を核とする住民的団結の闘争として、教職員労働者と父母・住民との共同闘争として、組織され展開されなくてはならないと、こういうことになる。」

※これはいかなる意味で正しいのか?なぜ逆は真ではなくなるのか?これについて次にように説明がなされる。「もともと経済闘争(労働基本権の行使)は賃労働者人間が自己の人権(=生存権)を確保していくための闘争である。それに比して、専門職賃労働者が自分の直接責任で他者の人権(=教育を受ける権利)を保障していかなくてはならないという、その専門職的職責に由来するものである。教育権の確立を専門職賃労働者に要求するものはまず他者である。教育権の確立は専門職賃労働者自身の要求でもある。とすれば、教育闘争には、他者たる依頼人・負託者と専門職賃労働者自身とが共同し団結して取り組んで当然ということになる。」(p68)

言ってしまえば、この教育権論者たちの前提には、このような論理構成によって教育権が「保障」されることが前提になってしまっている点が致命的に誤りである。これはここでいう「専門性」とは何かという問いにも問題が含まれているが、そもそもそのような「教育権の保障」が「全ての教員に等しく存在する」ものと考えるような平等思想こそ問題なのである。そのような包括的な観点を教員に等しく求めようとすること自体が誤りであるということであり、それを求める運動もまた問題である(その運動の存在意義がないという点で問題である)ということである。端的にそれは「不可能」であると呼ぶしかなく、学校教育において親が求めているものもそのような性質のものと考えづらいということである。スポーツのスペシャリストであるコーチのような者に期待するならともかく、どこまでも「一般化」し「具体性のない」教師に何を「他者」は期待するのだろうか。

 

P55「一方で、「教師=専門職」論を採用し展開しながら、他方で、その専門職者教員の労働内容・労働条件・教育条件・研修内容などについて管理経営権者が自由に決定できるといっているからである。いったい、その労働内容・研修内容についてまで「職務上の上司」が自由に決定できる、そのような管理経営体制下に置かれた「専門職」が「聖職」「専門技能職」以外の職業でありうるとでもいうのであるか。どのような「校務」でも「職務」として分掌させることができるし、その「職務」処理の仕方についてもどのような指示をも行うことができる、このような労働管理下でもまお教員は「専門職」であるというなら、専門職はもはや雑役職=単純労働職以外では断じてありえない。」

P59「しかし、そのような行政批判の行動=運動を起こすことは、親たちが「子どもの問題で話し合うことをしなくなった」状況下で、著しく困難となっておる。親たちは、学校に向けて積極的に教育要求をだすことをためらうようになり、むしろ学校側からの要請に従順にしたがい、「わが子の問題はわが家で解決する」ようになっている。親たちの学校観そのものが変質し、「教育を父母・住民の手で」創造する実践・運動からますます疎遠な存在となっている。」

※違うのか??また、時短方針など、責任所在を回避する行動は日教組からも出ていたはずである。最大の問題はこれを体制側の策略として責任転嫁している点。これもまた「自分たちが何をやってきたのか」を顧みようとしない態度の現れ。

P59「というのは、父母・住民の教育人権意識は、一般に、教職員労働者の「助け」をまってはじめて成長するものであり、教職員労働者の権利意識が衰弱していけば、そのような「助け」はできないからである。」

※教師はどこまで偉いのか。

 

P81「「正常化」推進側は、教育内容・方法にかかわることを市議会で問題にし、教育長に質問書を出し、教育行政に自分たちの都合のよい教育内容・方法にするよう要求しているわけである。親たちのほうから、教育行政に教育の内的事項に介入する「不当な支配」の主体として、立ち現われることを要求しているのである。このことは、親の教育権意識によるかのようにみえて、そうではなく、親の教育権の放棄であるといわなければならない。」

※このような主張は親の主体性を決して認めようとしない態度の現れでは、仮に体制側に従わなくとも、p59にあるように教師により親は主体化されるものとされる。そして、教育権とは何かという問いもたてなばならない部分である。

P81-82「中津川市教委・学力充実推進委員会・教育研究所による調査報告の小冊子『中津川市小・中学生の学力実態』(1978年3月)において、全国水準と比較して市の小・中学生の学力が低くないという結果が示されていることに対して、業者テストの内容が、公平であり客観的であるという考えを前提にして、示された結果も業者テストによるものでないから信用できないと批判しているのである。」

※この批判の出典は坂本地区教育懇談会の1978年6月18日のビラによる。

P82-83「こうした考え方の根底には、人間の「人格はまず学力(知識)で推し量られる」という人格観があることがうかがわれる。また「遊び」や「労働」が子どもの成長に必要なことは認めるが、それらは「家庭」の守備範囲であり、それらと教育を結びつける「地域活動」等に力を入れすぎるから、「学力」に不安を抱くことになるという。……そして、こうした非常に一面的な学力観によって人格を見るのである。かかる一面的な学力観に基づく人間観が、いかに多くの子ども・青年の心を傷つけ、あるいは非行、あるいは家庭内暴力、あるいは自殺を生み出してきたかをまったく理解していないといわざるを得ない。」

※小木曽が参照されている。

 

P86「1963年をピークとした「第一次正常化」のときとは異なり、今回の「正常化」は、それを推進することを求める一部の教職員、親の運動を基盤としているところに、特徴がある。たとえば、県議会において「正常化決議」が採択される以前に、すでに1976年12月の中津川市議会においては、「坂本地区教育懇談会」の問題提起に基づいて、いわゆる「恵那の教育」の是非について議論がなされている。「決議」はそうした東濃における教育論争の延長線上にあった。」

P86-87「それによれば、坂本地区の小学校における授業時間の実態を子どもを通して調査した結果、そこでは「地域重点の教育活動」が、時間割りをまったく無視した形で展開され、そのために「学校本来の使命である授業や、学級としてのまとまりが軽視され」ている。教師の努力の大半は、地域重点の教育活動にむけられ、「専門職としてに教科や研究に向けられていない」。また、岐阜県下で実施された高校進学模擬テストの成績をみると、5教科総合で全県平均よりも中津川の平均点は35.8点も低く、それだけに「小学校における基礎学力の重さをひしひしと感じない親はいない」。「今までPTAの懇談会で基礎学力向上を望む多くの父兄の切実な要望が出されて来」たが、「それらはいつも少数意見として無視され親の願いは生かされず、年を重ねる毎に地域重点の教育はますますそのウエイトを増して来」た。そこで、「わが子に将来社会人となったときの必要最小限の基礎学力を身につけさせてやりたい」という親の願いを学校教育に反映させるために、「同じような考えの人たちの参加を得て、その連帯意識のもとに」懇談会を結成することになった、ということである。「懇談会」の具体的な目的は、坂本地区の、ひいては中津川・恵那地域における小学校の教育を、「地域重点」から「基礎学力」重点に「改善」することを、「実際の行動」によって求めていこうとするものであった。」

 

P88「6月には、「みんなで考えよう 中津川市の子ども達の学力は本当に高いのだろうか」という新聞折り込みビラを中津川市全域に配布した。これは、中津川市教育委員会・教育研究所・学力充実推進委員会が発行したパンフレット「全国水準と比較してみた中津川市小・中学生の学力の実態」に中津川市の小・中学生の学力は全国水準と比較した場合、必ずしも低くはないとされているのを批判し、改めて中津川の教育に対する「懇談会」の見解を市全域に紹介し、坂本という一地区の問題としてではなく、全市的なものとしてその活動を広げていこうとするものであった。

このような「懇談会」の活動は、当然マスコミからも注目され、さまざまに取りあげられていった。「懇談会」設立は、11月10日いち早く報道され、「正常化決議」以後、東濃の教育に関する論調が活発になるなかで、従来の教育のあり方に見直しを迫る意見を代表する団体として、盛んにマスコミに登場することになる。ここにその一例をあげれば、1977年8月に8回にわたって連載された「問われる教師像――中津川市からーー」(毎日)、記事「正常化決議に揺れる岐阜県の教育界」(1977.10.14.朝日)、雑誌『教育の森』1977.10,11月号、N・H・K総合テレビ「揺れる恵那の教育」(1977.10.27)、同教育テレビ「まがりかどに立つ人間教育」(1977.12.21)、雑誌「世論時報」1977.10月号、などがある。さらに「懇談会」の代表者である小木曽尚寿氏は、岐阜県における「教育正常化」の推進を基本的運動方針としてかかげている岐阜県学校職員組合の上部組織である日本教職員連盟の機関紙『教育・創造』に、「親から見た恵那の生活綴り方教育」(第3号、1978.12)、「学校教育へ親からの切なる願い」(第4号、1979.6)という文章を寄稿している。」

 

P89「このような一般的な要求は、親だけではなく教師のものでもあり、多くの良心的な教師は、この要求に応えるための実践に日夜取り組んでいる。東濃の教師たちは、そうした教育実践の先頭に立ってきた。」

※教育実践の狙いとして石田和男の説明を引用している。

P93懇談会パンフレット1977.5.20から…「あるクラスにおいては正規の授業以外の特別活動が60%を越え、そのほとんどが生活綴り方や、地域子ども会の関連行事で、いわゆる基礎学力とは直接関係のない時間に費やされている。その結果、当然のことながら小学校において最低限どうしても理解させておかなければならない国語や算数に関する基礎学力は確保されず、それが中学校へ進学した場合の大きなハンディになっているのではないか」

※特にこの指摘に対する否定はない。また、「相互の理解を深めることを避け、自分たちの見解を絶対的なものとしながら、市議会や県議会、教育委員会や校長に働きかけて権力的・政治的にこの問題を処理しようとしたのであった」とするが(p94)、そもそも話を聞く耳がなかった可能性には言及がない。

☆p96「「懇談会」の代表者小木曽氏は、はっきりと次のように述べている。「会社にしても官庁にしても、新しく人を採用するとき人格をこそ大切にする。その人格はまず学力(知識)で推し量られる。このことはもう何十年も続いているしこれからもそうであろう。ということは例外もあったが、そういうことで選んでも大きな間違いがないということを立証している」。

果たしてそうだろうか。人間人格を一片のペーパーテストの結果によって判定することは、確かに戦後日本社会の支配的潮流として存在してきたし、現在も存在している。しかし、これまで続いてきたという理由で、それは是認されなければならないことなのだろうか。」

※この批判は極めて重要な掛け金となる部分。そもそも社会の追随を正常化批判派は認めていないのである。

 

P96-97「結局、「懇談会」の主張は、現実がそのようなものである以上、学校教育が何よりもまず果たさなければならない基本的課題は、そうした受験競争に勝ち抜くだけの「学力」を子どもにつけてやることである。教師はそのための具体的手だてを実践でもって示せ、ということであった。

このような観点に立つ「学力重視」の要求は、中津川の教師たちにとっては受け入れられるものではなかった。彼らが追求してきた「真の学力」のための教育は、まさに、そうした現実の教育体制のひずみから、子どもたちを解放しようとするところから出発しているからである。」

※「学力重視」などというが、実質的には「学力は無視しろ」という結論しか導き出せないのではないのか。懇談会の言う「最低限の学力」さえ認めようとしていると考え難い態度に読める。

P97「今日の子どもたちの、具体的な状況から出発しようとするとき、多くの親や教師は、今日の支配的な教育体制のもとでは、一度失われてしまったらとり返しのつかないような、子どもの成長にとって欠かすことのできない大切なものが失われつつあるのではないか、という危惧を抱いている。すなわち、本来人間として当然養われなくてはならない感覚、感性、創造力や表現力、想像力、論理的思考力や抽象力、自主的判断力、あるいは学習に対する積極的意欲や学習することに伴う喜びの体験などが喪失しているのではないか、という心配である。」

※具体性こそ、否定の対象!

 

P100「結局「懇談会」は、公教育における教育課程の機械的・画一的解釈のために、教育課程編成にかかわる教師集団の、そしてそれを支える父母の積極的役割を、否定することになったということができよう。」

※やはり常に当為論的な議論しかしない。

P111「「学校事務に教育的判断が必要か」という設問をたて、「学校事務の教育性認識」を調査した。その結果は全県で93%が「必要である」と答えた。」

※が、この教育性については何の意味も言及されていない。

P120「恵那の事務職員が地域子ども会・分団会へも参加していることについては、先にふれた。その際には、彼らは、学校からそれぞれの町内ごとの子ども会へ出かけるのである。子どもをとりまくすべての問題状況に対する鋭い洞察力と子どもに対する学校職員としての責任の自覚とが、彼らをして地域子ども会へ向かわせるのである。そこでは、地域での仲間づくりを中心にすえながら、キャンプ、ソフトボール大会等の地域行事に参加する。」

P143「他方、国家独占の教育政策が「高度経済成長」を支える教育投資としての「人的能力開発」政策をすすめ、第三の教育改革と称する中教審路線を設定し、子ども・教師・親をあげて国際経済競争の要因に教化・管理・訓育しはじめるのも、また40年代である。」

P144岐教組の主張…「平和と真理、真実を求める民主教育の実践とそれを地域に根づかせ、父母とともにおし広げていく教育運動は、支配の側にとって大きな恐怖であり、この民主教育をおしつぶし、父母と教師を分離・離反させようというのが、『教育正常化』決議の本質であります」

P145「弱さ・あせりの反映という点では、次の事柄も見逃せない。つまり、学力の低下、非行の多発にせよ、これは、逆に、第一次「正常化」と中教審路線のなせるわざであり、実は、県当局自身に課せられる責任であるということである。だからこそ、その自己責任を他者=教組・教職員に転嫁せざるを得ない矛盾につき当たって、なりふりかわまず攻撃する破目に陥っていることである。」

 

P166「今日の退廃現象をもたらしたものが、戦後の民主教育の理念をことあるごとに否定し、経済優先・大企業の利益優先を基軸にした差別・選別の教育行政にあったことは、いまやあらゆる面から解明されているところである。」

P167「決議は、教育基本法の「つまみぐい」をすることによって、あたかも教育基本法を尊重しているように見せているが、教育基本法の禁止する「不当な支配」を強行することによって「人格の完成」をめざす教育を、ひいては教育基本法そのものを、台無しにしようとするものである。」

※実態の棚上げここに極まれり。

P167-168「生きることと結びついた学習こそ、真の学ぶ意欲を呼びさますものであり、生活の実感に根づくものの見方・考え方が子どもの人間的成長にとって欠かすことのできない条件であることは、幾多の事例をあげていまは説かれるところである。ここにこそ、真の学力とそれに結びつく非行克服の展望が存在するのである。」

※なぜ学力をここまで貶めることができるのか…?

 

P204「日教連の運動方針のなかで直接に「専門職」概念に論及した文章であるが、これと同趣旨の文章が過去3年間の方針のなかにくりかえしでてくる。「専門職」概念と関係して強調されているのは、「給与・勤務条件の改善」と「資質の向上」の2つであり、これだけである。」

※「もっとも、「これだけである」というのは少しばかり語弊があるかもしれない。というのは別の箇所では、「法律が保障する諸権利を十分に行使し、勤務条件を改善して、専門職にふさわしい自主的かつ創造的な活気あふれる教育現場を築く」ということもいわれているからである。教育現場における、あるいは教職員の、自主性・創造性ということも、「専門職」概念とかかわっていわれているからである。しかし、この自主性・創造性ということは、政策=行政との対抗関係のなかで、あるいはその対抗関係を意識しながら、いわれたものでは少しもない。」(p204-205)「教育「正常化」の推進団体が、言葉の本来の意味における「専門職にふさわしい自主的かつ創造的な活気あふれる教育現場を築く」などということが、すでに論理的に矛盾しているからである。」(p205)と茶化すが、「論理的」な次元を問題にし「実態」に何も配慮がない時点で如何なものかと思う。

P205「専門職労働の本質的特徴は、すでにくりかえしのべてきているように、法律的・行政的な「不当な支配」に服することなく、子どもの学習権・発達権の保障に直接に責任を負ってすすめられるというところであり、それゆえに教育専門職者(集団)にとっても対国家的・対行政的な関係において「専門職の自律性」の確立を運動課題として提起することをせず、その反対に、「われわれの運動は、あくまで関係する諸法により、合法的である」「専門職観に立って法を遵守し中正不偏の教育を推進する」とまでいうものであるとすれば、それは、本来的に自主的・創造的であるべき教育労働を、法律的・行政的な支配に服する従属労働に変えてしまおうとする「理論」だといわなくてはならない。反専門職理論であり、まさに教育「正常化」推進に有益なものだといわなくてはならない。それは自主労働者を従属労働者に変えるための「理論」である。

したがって、日教連の「専門職」論は、もはや専門技能職論と、ひいては聖職論と、本質的に同一の内容のものとなる。だから、「資質の向上」といっても、その資質は、専門職的資質とは異質対立的な中身の、専門技能職的資質を、ひいては聖職的資質を、指すことになる。」

※主従理論を二項図式としてしか見れない論者の末路。理論だけだと水掛け論で終わる。では実態はどうか?批判がかけらもないということはよほど自分が支持する理論実践派への支持が厚いのだろう。ではその実践に問題があるとすれば?そこに自浄を行うような土壌がないというほかないのではなかろうか。

P210「論文は、まず、「無定量の勤務」や「労基法の関係条項の適用除外」を無限定に肯認することによって聖職論に傾斜していく。加えて、論文は、「高い倫理性」を云々することによって、教師労働者論と決定的に訣別し、ついに「教師=聖職」論にくみするまでに至っている。」

※聖職論に対する見方がさっぱりわからないが、字義通りに解釈しているとも読めるか。

 

P233「本来、「教育専門職制の確立」が課題となるのは、教育をうけることを通して子ども一人ひとりが人間的に成長し発達していくことを、すべての子どもの基本的人権として認めるからであり、この人権の保障にはそれにふさわしい制度が必要であるのに、その制度がつくりあげられていないからである。その制度は、もちろん、法律的・行政的な支配という形での、国家や地方公共団体による教育統制の制度ではありえない。」

※何かに従属的である時点で、もはやその議論には批判しかしないことだろう。これは、本書で批判する国旗掲揚君が代斉唱強制に対しても、そのような文脈による批判であることを示すものである。

P234「すでに示唆的に述べたように、教育「正常化」政策がめざすものは、人権保障の教育などではなく、「国民」形成の教育である。」

P244「このようにみてくると、恵那の先進性は、その教育原理=集団主義教育、教育方法=生活綴り方教育、手段=労働と生活の教育、父母との集団組織性にある。これらは、たて系としての教員集団の組織性の高さが、そのすべての核となっている。」

※本書の語りからいえば、この集団主義教育には、全生研的なものを全く感じない。ただ、全く実態に触れようとしない結果だからかもしれないが。

マイケル・ブレーカー、池井優訳「根まわし かきまわし あとまわし」(1976)

 本書は日本の外交交渉(バーゲニング)の分析を通じて日本人論を展開する本である。ただし、p227やp228に見られるように、既存の日本人論に対して一定の批判的な視点があること、そして本書を通して語られる日本人論は、かなり複雑な印象がある。

 

 少なくとも単なる日本の特性を捉えることだけに集中していないのは確かである。p31やp165、p229といった部分においてだけ見れば、日本の地理・歴史に裏付けられた文化的特性の語りをしているように見えるし、それは「サムライ外交官」(p4)や、「『和』の思想」(p11-12)といった議論にも現われている。しかし、これらの言説とは反対の主張についても日本のものとして語られている印象も強い。例えば、権威への服従(p10-11)については、p214-215のような権威に反発を行うような行動があるような語りがなされたり、日本人は断定的なやり方を好むといいながら(p12)、それに対する内省が見られることも指摘されている(p13-14)。また、通常の日本人論のイメージと異なるかのような用法で使われる言葉もある(※1)。「和」については協調性を示すものではなく、p65-66のような対立ばかりである状況を何とか取り繕うための態度として示されており、また「滅私奉公」という言葉(p32)も、自己犠牲的であるものの、「公=オカミ」にあたる存在が何になるのかについてはさっぱりわからないほど、一見権力者である「オカミ」に反する行動をとっているかのような行動をとるという議論がなされている。

 

 このようなブレーカーの態度の取り方に対し、彼が「日本人論」をどう捉えていたのかについてはいくつか解釈の仕方があるように思える。ただ、私自身は(特に「和」に対する考え方がそうであるが)、「規範意識」のような形で存在している日本人の(過去から積み重ねられた)文化的特性は確かに存在するものの、他方で実際の外交の現場で繰り広げられていた日本人の振舞いというのは、それ以外の多くの制約も受けながらなされたものとして捉えていたのではないかとみる。それは、以前レビューしたダニエル・フットが指摘したような制度論的なものであるし(p65-66で語られるような政治主体の分裂の議論がこれにあたる)、「規範意識」そのものについても統一性がないもの、良く言えば複数性があるものとして捉えている傾向があるのではないかと思う(※2)。

 

 

パリ講和会議における日本の外交評価について――「サイレント・パートナー」とは何だったのか? 

 本書では中心的な実証材料として、パリ講和条約における日本の外交交渉プロセスをとりあげている。第一次世界大戦の処理を取り決めたパリ講和条約において、本書では一見かなり、というかひいきに近いレベルで日本の擁護をしているように見えるのが目立つ内容となっている。

 P123-124にあるように、日本はそもそも講和会議において、主体的に関わることができず、最高会議には早い段階で退出させられた面を強調している。つまり主体としての日本は当時どのような対応をしていても、権力者であった米英仏に排除されていたがゆえに、どうにもならなかったことが述べられているのである。日本と欧米列強は『非対称な関係』にあったということである。

 もちろんここにはp123-124引用の前段のような準備不足や一種の未熟さがあったのも事実である。しかし、他の著書においてパリ講和会議のエピソードにおける日本の役割が語られる際には、「非対称」な関係についての指摘がなされない場合が多いことは指摘せねばならない。いくつか引用してみる。

 

「しかし(※パリ講和)会議が始まると日本代表はあまり積極的に発言しない。いかにも目立たない存在として行動することになる。そのために、日本の代表団に対してはこれを「サイレント・パートナー」と呼ぶ外国の新聞記者も出てくるありさまであった。というのも、一つには、日本の代表団はこういう大きな国際会議慣れをしていない。このような国際会議への出席は日本の政府にとっても初めての経験であろうし、会議外交に習熟していない点もあったと思う。また一つには、日本政府の代表団への訓令自体が「あまり発言しなくてもいい」という趣旨のものであった。」(細谷千博「日本外交の軌跡」1993:p51-52)

 

「第二は、パリ平和会議を通じて、日本の全権団を中心に、従来の日本外交官に対する根本的な反省が生れたことであった。日本は、国際会議に対する研究、調査が十分でなく、日本が直接関連する問題をのぞいては「沈黙という日本的美徳を守るよりしかたがなく」列国からも「沈黙のパートナー」と称せられるありさまだった。こうした経験は、外務省内部において、革新運動として発展していった。そして、外務省内に「革新同志会」が結成され、目標を人材の登用において門戸開放、省員養成、機構の拡充強化を中心とする改革を要請する声が叫ばれ始めたのであった。」(池井優「三訂 日本外交史概説」1992:p136)

 

 両著書においては、列強に数えられ「対称」的な関係性を持っていたはずの日本が「準備不足」のために交渉をうまく行なえなかったという点が強調されているのである。ここでいう「準備不足」についても、単純に読んでしまうと、よくある日本人論の改善言説と同じような「文化的」なものについての改善を要求していることを想定したような語り方になっているといえる。

 しかし、このような解釈の取り方はやはり半分程度しか正しくないのである。この「準備不足」の文脈も単純な文化的なものの相違として語られるべきではない性質の方がむしろ強い。これは、当時の会議の日本と他列強との比較についての記述を見ればわかる。

 

「牧野男一行巴里到着ノ上執務スルニ至リテ実際ト予想トノ差異ノ甚大ナルニ驚ケリ例ヘハ英国ノ如キハ全権ノ宿舎ノ外ニ三大ホテルヲ徴発借受ケ数百人ヲ以テ組織シ各問題ニ付夫レ夫レ専門家ヲ網羅セルノミナラス問題タルヘキ各地ニ厖大ナル情報機関ヲ有シ常ニ情報ヲ事務所ニ集中シ印刷所ヲモ有シタリ従テ問題起レハ既ニ準備セル詳細ナル報告ト提案ヲ速ニ作成シ問題毎ニ詳密ナル調査ト意見ヲ提出シ得ル様組織モ材料モ整ヘ居タリ米国亦之ト同様ナリ之ニ反シテ我事務所ハ僅ニ数名ノ実業家及財務官ヲ専門家トシテ有スルニ止マリ殊ニ経済交通ノ如キ問題ニ就テハ何等ノ予想モ準備モナク将又事務ニ当レル書記官以下ノ如キハ外委員会五国会議首相会議ニ僅ニ手別シテ出席シ報告ニ忙シキノミナラス内事務所ニ於ケル調査研究立案ニモ従事シ多クハ数問題ニ付兼担スル有様ニシテ人手ノ不足準備ノ不完組織ノ狭小到底他ノ四大強国ノ如ク事務意ニ任セ従テ複雑ナル各種議題及広汎ナル大部ノ案ニ付急ニ詳細ナル調査モ立案モ出来ズ僅ニ此ノ少数ノ職員ヲ以テ問題ノ討議進行ニ追随スルニ必死ノ努力ヲ為シタリ、此故ニ微細ノ点ニ至テハ殊ニ条約各条項ニ就テハ不満足ナル点多カリシモ全ク不得己ノ事情ナリシナリ」(外務省百年史編纂委員会編「外務省の百年 上巻」1969:p740)

 

 組織の不足もそうであるが、端的に圧倒的な人員不足があり、兼務しながら調査立案を余技なくされていた状況であったものについてまで、単純に「能力不足」であるとして批判するのが不適切であるのはこの記述からも明確だろう。

 

 

 ところで、細谷や池井がとりあげた「サイレントパートナー」と、ブレーカーが述べる「平和への沈黙のパートナー」(p124)は随分と語られ方が異なっている。まずもって、この「サイレント・パートナー」という言葉の出典がよくわからない。細谷は「外国の新聞記者」発(おそらく講和会議当時の言説としてあったものと想定される)とし、池井も「列国」の言葉として紹介し、やはりパリ講和会議当時の言葉であるように読める。しかし、本書では、出典を歴史学者であるトーマス・ベイリー(Thomas A. Bailey)であるとしているのである。ベイリーの発言となると1902年生まれという事実からパリ講和会議当時の言葉ではありえなくなるだろう。また、トマス・バークマンの論文(「「サイレント・パートナー」発言す」『国際政治』56号1977:p113 URL: https://www.jstage.jst.go.jp/article/kokusaiseiji1957/1977/56/1977_56_102/_article)における参照元も、トーマス・ベイリーの“Woodrow Willson and the lost peace”(1944)である。正直な所、この出典がどこにあるのかというのは、「当時の言説として存在していたのか」という点の検証として、極めて重要な論点である。後発的に評価された場合、当時の文脈を適切に捉えられているのかという疑問が出てきてしまう。

 

 また、合わせてこの「サイレント・パートナー」という言葉は、もともといかなるニュアンスで用いられた言葉なのか全くわからない。インターネット上でもこの言葉を用いている論述は複数見受けられるのだが、正直な所文脈はバラバラであり、単なる「精神論的な意味で日本が『未熟』であることの教訓」を見出すために用いているものもあれば、「日本の準備の悪さ」を指摘するために用いられたり、更には「欧米列強からの圧力」の存在まで認め黙らざるを得なかったことを了解し述べられているものもある。もはや原典が参照されない弊害で、言葉だけが一人歩きしている状況であると言ってよい。

 

 これらの検討をするためには、ベイリーの著書から検討しなければはじまらないだろう。ベイリーの「サイレントパートナー」への言及は次の部分、一箇所のみで行われている。

 

The attitude of the Japanese delegates at Paris was something of a mystery. They were primarily concerned with the Far East; and the Conference was essentially a European affair. They did not claim membership on the Council of Four, but they faithfully attended the various other councils, commissions, and committees on which they were assigned seats. They always seemed interested and awake, which could not be said of their Occidental associates; but what they were thinking lay behind an impenetrable Oriental mask. They intently examined the various charts and maps which were presented, but weather they studied them right side up or bottom side up one could not always tell. They were the “silent partners of the peace”. (Thomas A. Bailey“Woodrow Willson and the Lost Peace”1944:p271)

 

 私訳であるが、概ね次のような文脈で、ベイリーの著書では「サイレントパートナー」が語られているといえる。

 

「パリでの日本全権団の姿勢は何かしら奇妙であった。彼らは第一に極東について関心があったが、会議は基本的にヨーロッパの出来事であった。また、彼らは四頭会議の一員であると主張しなかったが、割り当てられたいくつかの会議や委員会には忠実に参加した。彼らは、西洋の仲間からはそう評されなかったが、常に関心をもち、自覚をもっていたようだ。西洋の仲間は不可解な東洋の仮面を伏在させていると考えていた。日本の全権団は提出された何種類もの図表を熱心に調べあげたが、その検討が正しかろうが、深く行ったものかはともかく常に語ることはしなかった。彼らは「平和へのサイレントパートナー」であった。」

 

 また、合わせてベイリーはパリ講和会議における「人種平等」の議論について触れ、他の論者がこれを「交渉材料の一つ」にしかしていないという見方をしていることに対して反論し、日本はまじめに人種平等を国際化するために行動したことを議論している(cf.Bailey1944:p272)。ここでまず確認しなければならないのは、ベイリーの議論においては、総じて「日本が未熟である」という前提が含まれていないことである。合わせて、「列強の数えられ方」についても、他の英米仏伊の四カ国とは別のカテゴリーであり、これらの国との関係性が「非対称」であることについても了解しているものと考えられる。以上のことをふまえおおざっぱに言ってしまえば、ベイリーの「サイレントパートナー」言説は、「一見周囲にはその熱意は伝わらない」というニュアンスも含めた形で「語らない」ことが述べられていることがわかる。

 

 さて、ここで細谷や池井、そしてバークマンが一般的なものとして語るような「サイレントパートナー」言説がここで解釈された見方と全く異なるものであることがわかる(※3)。そして、パリ講和会議当時からこの言説があったかどうかは極めて怪しいものとなってくる。これはバークマン論文において、当時の言説で類似の描写があるという見方をしていることからも(つまり直接的に当時この言説そのものが存在していたことを立証していないことからも)間接的に言える話である(cf.バークマン1977:p102)。また、仮にサイレントパートナーがベイリーのオリジナル言説ではなく、パリ講和会議当時の言説を借りたものだったとしても、ベイリーがあえて文脈を変えて「サイレントパートナー」言説を用いることは、歴史研究者の態度としては極めて不適切であり、ベイリー自身に良心があることを前提とすれば、細谷や池井の「サイレントパートナー」の捉え方は、事実誤認であるということになる。ただし、バークマンが指摘するように、ベイリーのオリジナルの言説とは別に、この言葉が恣意的に解釈され、ベイリーとは異なった文脈で用いられていたことはほぼ間違いないだろう。

 

 

 また、仮に当時の日本が悪い意味での「サイレントパートナー」であったことが真であるにせよ、これを「特殊日本的」なものとして捉えるべきかどうかという議論はまた別の議論であるはずである。ここで少し気になるのは、同じ列国として数えられていたイタリアの立ち位置についてである。パリ講和会議において日本は1919年3月後半の段階で最高会議の席から外され、それ以降はアメリカのウィルソン、イギリスのロイド・ジョージ、フランスのクレマンソー、そしてイタリアのオルランドの4人によりできる限り他の外交官を交えない形での会議により主要事項の検討が行われた。このあたりの事情はマーガレット・マクミランの「ピースメイカーズ」(2001=2007)を根拠に述べていくが、まず、この4人会議の体制に入る前の会議においては、ウィルソン、ロイド・ジョージ、クレマンソーいずれもが会議で達成できたことはほとんどなかったとの認識だったらしい(マクミラン「ピースメイカーズ下」訳書2007:p6-7)。この状況だけを見れば、日本は交渉をする前から、その非対称性ゆえに「不利」な状況にあったといえるし、その点ではブレーカーの主張も正しいと言えるかもしれない。いずれにせよこのような事情から「ピースメイカーズ」の著書の中で日本は「客体的」な立場からの記述がされているといえる。ではイタリアはどうかというと、イタリアもまた日本と同じように「客体的」に語られている傾向が強い。

 

「講和会議が開会した当初から、イタリアがユーゴスラヴィアや他国の妥協する気はないということははっきりしていた。イタリアに関係のある国境問題は専門委員会に任せるのを拒否した。最高会議とその後の四巨頭会議で、イタリア代表団は自国の利益に関すること以外、発言しなかった。クレマンソーは三月の会議の後、「今日の午後、オルランドはイタリアの要求をあげつらい、必要且つ正しいと考えている国境はどこかを示す講釈を長々とした」と不平を言った。そして、「ソンニーノからも、劣らないくらいの退屈な講釈を聞く羽目になったのだ」。」(「ピースメイカーズ下」訳書2007:p33)

 

オルランドは、イタリアが内戦になる可能性があると警告した。「わが国では何が起こるだろう」とソンニーノが尋ねた。「ロシアのボルシェヴィキではなく、無政府状態になるかもしれない」との答えであった。イタリアから入ってくる報告を見ると、無意味な脅しとばかり言えなかった。ストライキ、デモ行進、暴動、建物の略奪、デモ隊員の殺害、左翼と右翼の暴力的衝突などの報告が入っていた。しかもパリからの噂は事態を煽る結果となった。つまりオルランドは譲歩してしまい、連合国はユーゴスラヴィアを反ポルシェヴィキ勢力の国家にしようと決めた。ウィルソンはダルマチアをイタリアに与えないと決心したし、フィウメは自由港になるなどという噂だった。イタリアからは、代表団に当初の方針を貫くようにと勧告してきた。

 この時点では、確固たる姿勢を保つことが、オルランドとソンニーノにできる精一杯であった。妥協が大きな譲歩とみなされるような状況にあったのである。」(同上、p40-41)

 

 ここで押さえておきたいのはイタリアの姿勢である。まずイタリアは「自国の利益以外の発言をしなかった」とされる。これは事情は若干異なれど日本も同じ立場であった。更に、妥協をしない「確固たる姿勢」についても、ブレイカーが指摘していた日本の特徴とされた部分であったが、これはイタリアも同じであったように「ピースメイカーズ」では語られている。もっと言えば、イタリアは4月末からフィウメ港の領土の取り扱い等についての会議に意向に「ボイコット」する形で2週間程度ではあるが会議の参加を行わないという行動に出たのである。これも見方によっては「日本よりも頑固な態度」であるように見えるのである。日本はある意味「人種平等」に関することでは結果的に折れているが、イタリアの領土問題についてはそのような妥協がなかったと考えられるのである。

 この点はブレーカーが本書の分析にあたりどれだけ「他国」を比較対象したのか、という点が問題となってくる。これについては、本書ではそれとなく他国のバーゲニング態度について考察済みであることが仄めかされるものの、具体的にはよくわからない。このような点は本書p223にあるように、むしろあまり明確でない状態のものであるとさえ言えるのかもしれない。

 

※1 これについては、(特に滅私奉公についてはそのような気がするが)、邦訳した際に意味合いが誤った内容として訳された可能性も否定できないことも念のため付け加えておく。

 

※2 もっとも、このような両義的な態度こそ、日本人的な特性であると見ているのは、ルース・ベネディクトやジェフリー・ゴーラーなどが主張していた点であった。しかし、ブレーカーはこの点について明確に特徴付けることはなく、そのような態度について説明を加えることはない、という意味で「日本人論」として捉えているようにあまり見えないというのが私の見解である。

 

※3 しかし、ベイリーの言説をこのように評価した場合、少し疑問なのはバークマン論文においてベイリーの言説について全く触れていない点である。確かにバークマン論文はベイリーを直接的に批判(=ベイリー自身の言説である「サイレント・パートナー」が誤解を招くものである、と)している訳ではないが、逆にバークマンの主張もベイリーとさほど違いないと私は解釈している以上、バークマンがそのことに言及し擁護する姿勢を見せないのは逆に不自然にも見える。考えられるのは「バークマンがベイリーの著書をしっかり読んでおらず、ベイリー以後の「サイレントパートナー」言説のみしか捉えていなかった」か「私の解釈の方が間違っている」かの少なくともどちらかが真になりそう、ということである。

 

<読書ノート>

※原題はJapan’s International Negotiating Behavior 。

P4「本書でいいたいのは、ひとたび政府からバーゲニングについて訓令を受けると、日本外交官はねばりにねばり、交渉をなんとか妥結に導こうと異常な熱意を傾ける。まさに「サムライ外交官」と称するにふさわしい。こうしたねばり強さは、日本の交渉ぶりの一つの特徴となっているばかりでなく、時としてその努力がなければ交渉に失敗していたということすらいえるのである。」

P10-11「日本の社会行動の基準は、伝統的に日本の社会行動の規範の中心をなしていた儒教精神の具体化であり、上下の別をわきまえることであった。

このように厳密に規定された秩序のもとでは、身分の下の者は、既成の権威に従うのは当然であり、自分の定められた社会的地位を受け入れ、上からの命令にはいかなるものでも喜んで従うのが当然とされた。部下の献身的な忠誠、服従、奉仕に対し、上に立つ者は、下の者の必要に進んで応じることになっている。その際、慈悲と父親のような指導、忍耐強い理解といったものを示すのが常にある。いったん上の者が決定を下すと、それはもともと正しいものとされ、下の者は受け入れなければならなかった。

こうした理想的な組織の下にあって、問題解決のために採られる手段は、「一致協力」か「一致団結」であった。」

俗流の日本人論はこの解釈をするが…

 

P11-12「和の理想と並んで重要なのは、反対する人びと――それが確立された体制に挑む場合ですら――にこちら側の理由を納得させる場合、いかに辛抱強くやるかという目的思考型の独特な倫理である。」

P12「真の武士は、危険を避けるより進んで冒険を犯し、ためらったり、遠慮したり、追従するより、率直で、断定的なやり方を好み、現状に忠実であるより、自分が正しいと思うものを選び、必要とあらば力に訴えてでも、がまんできない状態を変革するために命を捧げるのである。

日本の社会が、「調和」をとれることがきわめて少ないという事実は、基本的な日本的価値を損うものではない。同様に、武士が時として不誠実であったり、怠惰をむさぼったり、無気力であったり、目標が感心しないものであっても、忠誠という倫理的力を必ずしも弱めるものではない。また熱心さのあまりとか、狭量とか、悪企みとかによって武士の規範が弱まることもない。」

※その割にはリスク回避の行動に出るともされる。

P13-14「最後に重要なのは、日本の指導者が、自分たちには選択の余裕などないと考えた点である。外国の脅威は目前にあり、欧米列強に正面から反発するのは自殺行為に等しく、鎖国政策に立ち戻るのも愚の骨頂であった。これに対し、アメリカは対外問題に介入するか非介入かを問題として論じていたが、日本にはそんな贅沢は許されなかった。日本の指導者は、一九世紀中葉の状況を見るにつけ、外国の出した条件で交渉し、その言い分をほとんどそのまま受け入れなければならなかった。

こうした潜在的には、諸国皆敵ともいえる環境のもとで、乱暴な〝武士〟的外交のやり方とか、国際的なはねっ返りに対して無頓着であることは通用せず、その後の歴代日本政府にそんなやり方はむこうみずで無益なものだとの教訓を与えることになった。そのかわり、政府の指導者は、じっくり時間をかけて日本の権益を増大し、拡張することを考えた。最小限の譲歩を行ないながら、その間に国力の充実に努めるという慎重な政策が国家生存の要と見なされるにいたったのである。」

 

P15「さらにはっきりしているのは、日本人の交渉の論理に〝大きな拘束〟の力が消しがたいほどに刻印されているということである。国際的に孤立化してしまうのではないかとの恐れ、国内の変動、外国の干渉、日本の海外における評価が下がることへの配慮……といった失うものをおそれる気持ちから、日本人は自分の国は弱体で、もろく、島国的で、劣っているのだと思いこむことになった。弱いことをいやというほど知らされていることが、日本の倫理観に大きな影響を与え、外交行動について二つの基本線を作らせることになった。一つは自立と行動の自由を絶えず望むことであり、いま一つは危険をなんとか避けようとすることであった。」

P16「しかし、不平等条約が廃棄され、独立が達成された暁でも、同じような満たされない感情は持続した。日本の相次ぐ対外進出は、実現不可能と思われた自立への道であり、「自主外交」の夢を達成するステップと見なされた。

一九三一年から四一年にかけて絶望的な道をたどっていた間でも、日本は、完全な自由、独立、自給自足を得るため、外からのあらゆる制約をとりはらうという哲学を激しい形で吐露したのであった。」

※強度の理想主義的思想を読み取るべきか。しかし、これはある程度状況に定義づけられたものとみるべきでもある。

 

P25「日本のバーゲニングの目標は、ケースによって変化するが、それを表わす言い方は驚くほど似ている。日本のバーゲニングの目的は、いつも「真意」を体現し、「誠意」を反映した「正義で」「妥当で」「公正な」ものとして描かれる。」

P26「政策決定者と、それよりランクは下になるが交渉の任に当たる者も、相手側は最後には屈服し、日本はさしたる譲歩なしに勝てると考える。交渉の際「和」を求めるがゆえに、日本の要求は「円満に」あるいは「円滑に」問題なく、大きな抵抗なしに受け入れられると信じ込んでいるのである。

この態度は戦略、戦術の選択に際して顕著に現われる。第3部で述べるように、日本の交渉における「正しさ」は、さしたる努力もしないでも相手側に通じるだろうというなかば信じられないような思い込みによって、日本は相手を説得するより、自己の立場をはっきりさせるバーゲニングのやり方をとることになる。」

※「信じ込む」の原著表現が気になる。また、非対称性如何によってはこのような態度の取られ方も当然ありえる。丁寧に例も示されているものの、如何なる「思い込み」があったことを示す例なのかが読み取れない。

P31「日本人が失敗を恐れることは、これまでの日本が選択したバーゲニングの戦術の中から、格好の例が多く抽出されてくる。日本の指導者は、日本の島国性、もろさ、弱さのゆえに、逆に自信とはっきりした目的意識に裏付けられた大胆なイニシアチブと劇的な政策をとりたいと長年にわたって望んできた。たえず受け身の立場に置かれた日本は、国際情勢によって振りまわされるより、支配してみたいという希望をかき立ててきた。

日本の政策決定過程が緩慢であるため、逆に迅速で、明快で、柔軟性のある外交行動の必要性が叫ばれてきた日本人のストイックな無神経さと自身のなさは、かえってあけっ広げで、率直で、個人対個人の話し合いをしたいという方向に日本人を駆り立てる。外国語の習得が旨くないという点を考慮して、日本人は、交渉の際に必要な他のもっと重要な資質より、語学に堪能なことを優先して考える。また、自分たちが消極的であることをはっきり意識しているため、直接的な、自信に満ちた、自主的な外交行動に憧れることである。」

P32「日本のサムライ外交官は、仕事に不屈の努力を傾け、名誉を重んじ、犠牲を嫌わず、忠実であることに情熱を燃やした。何にも増して「滅私奉公」こそ、日本の交渉スタイルの精神の最大のものである。」

 

P39-40「第3部で分析するように、日本の妥協は、相手側に半分合わせたり、共通の場を見つけようとしたり、公正と平等の原則に従って相手側の譲歩に見合うようにするというものではなく、もし日本が譲歩しなかったなら何が起こるかもしれないという恐怖からなされる。譲歩は堪えがたい苦痛であり、運命のいたずらによる不幸な避けられないもので、日本のコントロールの及ばないバーゲニングの「状況」の変化によるもので、適切な政策を誤った誰かの責任であると考える。日本は「堪えがたき」を最大限に堪え、お上がはじめに「公正」「妥当」と認めたものを放棄する度合を最小限にするため譲歩するのである。

事実、日本の指導者や、交渉者は、自分たちの要求ばかり頭にあって、相手側の関心とか目的に対する理解がほとんど欠けている。立場を調整することは、相手が要求するもの以上を与えたことでなく、むしろ元来日本が要求したものより取れるものが少ないことを意味するにすぎない。こうした二つの動機は、人為的なものではなく、日本人の妥協に対する考え方を理解するのに不可欠である。」

※しかし、ここでいう「お上」とは何を指すというのか??また、ここでの態度は「和」の精神との対比でも一見矛盾するような頑固さを認める。

P43「日本の交渉者の第二の特性は、柔軟性、「現実主義」「合理主義」、すなわちある程度日本側が譲歩するという犠牲を払っても、客観的に現実的に、また柔軟に対処しようとする点である。したがって、理想的な交渉者は、単なる口先だけの主唱者であると同時に、政治家であるといえる。」

※これは先述の頑固な態度と矛盾するのでは??訳語の問題であろうか??

 

P62「天皇は、公的には組織の頂点に位置しているが、日々の政策決定に関しては、決定されたものの批准、裁可を行なうだけで、それ以上積極的に行動することはない。明治憲法は、あらゆる国家行為は天皇大権の下にあると規定しているが、実際の政策は、組織内部の個々の人びとによるばらばらな動きの結果にしかすぎない。……トルーマンの「自分が責任を持つ」といった言に相当するものは、日本における外交政策形成には、見出せない。日本には、最高権威を作り出していくような明確な制度的、憲法的パターンがほとんど見られないからである。」

P63「学者たちの努力の跡を見ると、日本の政策を基本的に動かすものは誰かを解明することはいかに難しいかがよくわかる。同時にこうしたばらばらの研究の結果、政策の責任を明確な形でとる政治組織が日本には存在しないということを皮肉にもうまく描き出されることになった。」

P65-66「戦前、日本の政治組織の下では、すべての国家目標について意見を幅広く集めたように装った。多くの者が参加し、乱暴にいえば政策形成に平等な影響を及ぼし、個人とかグループが全員に納得のいくような調和と同意を得るために、他人の見解に譲歩をしたように見せかけ、最悪の場合でも黙認、最善の場合にはある決定が行なわれた場合に熱心な支持を与えるというグループの「コンセンサス」があるようにしたのである。

しかし実際のところ、本質的に「コンセンサス」といえるものは、日本の場合にはほとんどないように思われる。外観はどうであれ、組織の内部では激しい不一致があり、喜んで同意したという状況ではないのである。きわめて広範な性質の問題(たとえば大陸進出、資源確保のための前進基地の建設、軍事力の増大)について「コンセンサス」らしきものがあったとしても、もう少し具体的なレベル(たとえば進出の方法、資源獲得のやり方、軍事力増強の方法)では政策の不一致は根深く、かつ長期にわたって続くのである。

さらに政治主体が分裂しておりその中である者の意見が重みを持っているため、「平等」という状態からはほど遠い。明治憲法下では、軍部は軍事作戦と用兵に関して「統帥権」によって特権的な地位を占めていた。軍部は「国務」の範囲外である外交にすら権限を持った。明治憲法五五条は「凡テ法律勅令其ノ他国務ニ関スル詔勅国務大臣ノ副署ヲ要ス」となっているが、軍は権利の乱用を行なったのである。」

※「和」とは。

P67「誇張していうと、組織が分裂しているために、指導者はグループの間の越えがたい溝よりも、むしろコミュニティの間の共通の感情という面を強調したり、あるいは不統一をなんとかやわらげようとしたり、定期的に挙国一致を叫んだりしたのである。政治家はこの「挙国一致」ということばを、安定、調和、統一された行動への希望を表わすものとして用い、異なった外交政策綱領を持つ反対派を統制し、より一般的な目標を設定しようとするのである。」

 

P108ヴェルサイユ条約のバーゲニングにおける訓令…「人種的差別撤廃ノ事ハ国際連盟ヲ議スル場合ニ於テ我帝国ノ主張トシテハ至重至大ノ問題ニ属ス。仮令講和ノ予備会議ニ於テ一旦否決ノ悲境ニ陥リタルモ我帝国前途ノ利害ニ顧ミ之ヲ放擲スルコト能ハス、随テ今後我帝国ノ主張ヲ徹底スルノ手段ニ付憂慮ニ堪エサル事」

P123-124「最後に、牧野その他の全権がベルサイユで十分な活動を行なう際に多くの圧力が加わったことが指摘できる。ベルサイユ会議は日本が参加する最初の大きな国際会議であり、日本国内の世論、議会の意見、外交調査会の有力メンバー共に、人種平等問題で日本が妥協することには強く反対していた。第二の圧力は、国際会議において日本が比較的経験を持たなかったことである。日本の全権たちは一般的にいってすばやい会話のやりとりに必要な語学力その他の能力に欠けていた。日本の代表団は、不適当なスタッフと不十分な準備にも悩まなければならなかった。実際、牧野は会議がどういう方向に行くのか、出発前にははっきりと知らなかったほどである。

最初の日本側の期待とベルサイユの現地での状況の進展との間には、大きな差があった。さらに、日本ははじめは名誉ある五大国の一つに数えられていたが、会議が開会されると間もなく、選ばれたグループからは簡単に削られてしまったのである。それからのち、特別な利益がからんでくる問題の関するトップ・レベルの会議には、招待という形でのみ参加することになった。したがって日本は、著明な外交史家トーマス・ベイリーが指摘するように、会議の運営に小さな役割しか果たさず、ごく些細な影響しか与えない「平和への沈黙のパートナー」となり下がったのである。」

 

P136「日本は、戦術的な動きとして意図的に交渉を引き伸ばしたのではない。あの気の毒な野村大使には、ワシントンに反応を行なう際強い圧力がかかっており、最後には次のように言いわけをしていた。「日本政府が重要な事項について決定に達するのは、アメリカ政府よりも時間がかかるものなのだ」」

※タウンゼンド・ハリスの言葉として、「外国奉行は、これを附言して重要な用務をアメリカ人のように迅速に処理することなく、大勢の人びとに相談しなければならぬことになっているから、これらの目的のために十分時間を与えてもらわねばならぬと述べて、これは万事延引をこととする日本人のやり方を私に了承させんがためであった」を紹介している(p151)。

P137-138「日本側の不統一と不決断は、相手側の疑惑や不信を招く。日本では権威が分散されているため、偶然であろうと故意であろうと、相手側が日本の多岐にわたる政策について、その計画を知らされる結果を招く。もちろん、戦術的に相手側はこうした政策の分裂を、事故に有利なように利用しようとする(たとえば、リーダーシップの交代とか、よい条件を待つといったことである)。

さらに広くいえば、不統一のために、誰が日本政府を代弁するかたえず不明となる。何回にもわたって、相手側は日本政府の代表が行なった宣言とか確約を信頼することができないということが起こる。」

P139「日本の組織はイニシアチブをとりにくくしているので、バーゲニングを行なう人びとは政府の訓令にきつく縛りつけられているという単純な理由のために、斬新なあるいは創造的な解決を示したがらなくなってしまう。また、政府指導者は誰も新しい政策をとるための責任を背負いたくないため、あるいは改めた政策自身、誰かが過去にやった政策が間違いであったことを示すがゆえに、政策を広い視野から検討したり、あるいは新しい解決の道を探るということが阻害されることが非常に多い。」

※「各交渉ごとに大規模な国内的な問題が発生し、交渉者は辞職をほのめかしたり、天皇に訴えたり、あるいは政府の腐敗に乗じたりということが起こりがちなのである。」(p139)

 

P161「日本のバーゲニングのための基本的な訓令はすべて、全体として変更しようのないような堅い要求ばかりである。したがって相手側は、日本側が寛大さを示すことを期待できない。これらの要求の中には、ほんとうにバーゲニングをやるためのものはほとんど含まれていない。日本によってはすべてがこれ以上変更できない当然の要求なのである。

日本の最小限の立場としてこれ以上譲れないとはっきりしている問題についての提案は、それに代わる条項がないかぎり、変えられたり統合されたりすることはほとんどない。事実、日本はこうした固い路線が成功するのはあたりまえだと考えているので、臨時にプランをたてることはありえない。したがって、交渉者自身がこうした問題について戦術をたてて実行する場合、個人的な自由裁量はほとんど許されていない。彼らに期待されるのは東京で決めた立場を頑固に主張することであり、もし相手の断固たる抵抗に遭遇する場合、ただちに本国政府に連絡をし、訓令を待つということになる。」

P165「なぜ日本は交渉にあたっていつも守勢的なのであろうか。もちろん、準備段階における日本の動き自身守勢的な含みを強調しているのは、否定できない。そうしたものを超えて、この初期段階の活動を重視するという日本のいき方は、いくつかの文化的要素が混合されたためといえる。するわち、舞台裏で工作を行なう、こまごまとした計画を立てる、まえもって日本側から約束することを極度に嫌うといった点である。……

こうした守勢的な行動をとる文化的な背景に加えて、強力な国々によって外交をかき回されるのではないかと恐れが、日本をして守りの戦術をとらせることになる。日本が目的とするものを得るために計画するバーゲニングの目標とか動きは、このように深く根ざした恐怖によって左右されている。守りを計算すること――外国の世論あるいは外国政府の意見に敵対したり、直接力によって対立することへの恐れから生じている――は、日本がだす要求をある程度軟らかいものにしたり、出発点を真に欲する最小限度に近いものにしたりするのに役立っている。」

 

P212「第二に、日本は自分たちのバーゲニングの目的は正しいという変わらぬ信念を持ち続ける。自分たちの目標は絶対に正しく公正で妥当だとみるのである。こうした考えを持っているため、日本の交渉者は譲歩を拒否するのみならず、戦略戦術を練り上げる必要をも忘れてしまう。「公正」な政策は結局「公正」であるがゆえに勝利する、と考えるのである。」

※どのようなものを想定しているのかわからない。

P213「こうした態度とは別に、戦前の日本の交渉態度は国内政治の諸要素、とくに政策決定における政府と交渉者のコミュニケーションによって左右された。

明治憲法の下、日本の指導者は外務省と軍部の拡争の中で交渉を進めねばならず、政策の決定の道は汚されたり重複したり不明瞭であったりする場合が多かった。こうした憲法体制の下で発展した政策決定過程は、一語でいえば「不一致」という言葉で表現されよう。すなわち多元的な対立、官僚的な煩雑さ、政策について責任体系のなさといったものである。」

P214-215「個人のレベルでいうと、日本の交渉者はバーゲニングの成功はお国のためだという気持が強い点が異彩を放っている。個人的な献身の度合いとか使節としての責任感が強いことが、日本の交渉のやり方の特徴となって出てくる。国家目的を追求しようとする決意はけっして悪いことではない。対照的に、あることに固執することはあ、もし日本の交渉者が決意を固めているのならば、高く評価されるべき特質であり、たとえ失敗する場合でもその失敗は少なくとも言い訳のきくものとなる。

しかし問題は、日本のサムライ外交官が個人的な決意を深く固めるため、日本政府の政策の立案者にとって悪夢としか思われないような違った方向に時として引っ張ることである。それは、日本の指導者が選んだものとは違う方向である。日本政府が、政府の公式の政策とバーゲニングの交渉者の意向がまったくいっちしたと喜べるのは、きわめてまれである。それは次のような理由による。(1)日本の外交官は交渉の結果について個人としての責任を感じすぎる。(2)交渉者は、本国政府が認めているよりもさらに譲歩する傾向があり、そのため政策の方向を決めてしまう。」

※通常の滅私奉公のニュアンスとは違うように思える。

 

P222「日本の交渉者がつかまえどころのない間接的なまたあいまいな声明を出すのも、国内の不一致から不可避的に生ずる副産物であり、交渉者は無条件で権限が与えられているかどうかその限界があいまいであり、はっきり統一されたバーゲニングの政策を欠いているためであり、さらに状況に応じて出す案が乏しいという理由による。意図的にぼやかすことは、日本のバーゲニングのやり方ではあまりないことである。

個人あるいは非公式のコミュニケーション・チャンネルに頼るのは、どうにもならない行きづまりを避け、腹立たしいような政策決定組織の遅れを避けるために、日本がよく用いるやり方である。」

☆P223「本書で検討されたいくつかのケースから、試験的に引き出されてきた次のような命題は、完全なデータに基づく結論的な判断というよりはむしろ仮説だという点に留意していただきたい。こうした考え方はまさに仮のものであって、さらに分析が必要であり、はたしてそれが正当であるか否か適当な評価を行なうには、日本以外の行動と比較する必要もある。」

P224「強力な国の支援がなく軍事的に日本よりも弱い国を相手にバーゲニングを行なう場合、日本は脅迫といった強硬手段を好んで用い、「抑制の外交」を捨てる傾向にある。しかしながら、強国とくに強力な欧米諸国と交渉する場合、日本は、きわめて慎重になる。相手側との力関係がどうあろうと、日本の指導者や外交官はコミットメントと説得の手段として同じような言い方、同じような基準を用いる。

日本は欧米諸国の出方と世界世論にきわめて神経質である。外国の意見に神経質であるため、日本の交渉相手とその同盟国はそうした世論を動員して有利な状況を潜在的なバーゲニングの武器を持とうとする。」

 

P227「たとえば、日本の外交官はだますというような目的は持っていないにもかかわらず、二心を持っているとか二重取り引きをやるとかいった悪評をかち得ている。本書で使われた。材料から判断すると、日本の交渉者のイメージは邪悪で不正だという見方はでてこない。こうした一般的なステレオタイプは是認もされないし、不当でもある。

しかし、その行動はしばしば誤解されることが多い。日本外交官悪玉論への反論として、とくに次の三点をあげておきたい。(1)日本における政策決定の会合の際に、出される日本のいい分は、バーゲニングの間に公開で、相手側に対してなされるものときわめて類似している。この事実は、外からの観察者には信じがたいことであっても、日本人の信じているものがいかに根深いかを示している。(2)日本の交渉者はかなりはっきりと自ら望むところを述べ、相手を操作しようとするような戦術は用いない。(3)日本の指導者は彼らなりの国際イメージという先入観にとらわれているので、その用いる交渉戦術のいくつかは相手側をだますのではなく、海外における日本の悪い印象を避けたり訂正したりしたいという願いを反映するものである。」

P228「しかしこうした幻想を別にして、あいまいさ、秘密、遅延、長期にわたる国内的不一致の直接的に影響するところは、「不誠実な日本」のイメージを外国に広めることであり、日本の指導者はずる賢く不正なやり方をし、いかに非難されようとも目的達成のためにはどんな手段でもとるとみなされるのである。」

P229「事実、島国、孤独、内向的伝統といった背景にもかかわらず、日本の外交行動は目ざましく異常な勇気と動機を秘めていたことがわかる。」

 

田中一彦「忘れられた人類学者」(2017)

 本書は、1937年に日本の農村を中心にしたフィールドワークをもとに著した『須恵村』で知られるジョン・エンブリーと『女たち』の著書で知られるエラ・エンブリー夫妻がみた須恵村などについて記した本である。

 

 本書の考察をする前に、まず本書を読む前の段階における私のエンブリーに対する理解について述べておきたい。

 エンブリーの著書について、私が読んでいるのは『須恵村』だけである。この『須恵村』を読んだ感想として、まずもってこの本が「日本人論」について何も語っていないものであり、単純に「近代化論」の議論の一環として、日本のムラが選ばれているにすぎない、という印象を強く持った。これは田中のp218にあるような解釈と全く同じであった。

 ここでいう「日本人論」というのは、まさに特殊な日本人を規定するための議論であるのに対して、「近代化論」というのは、文化などが後進的であるために、先進国と現状は異なるが、かつては先進国も同じような道を歩んできたのであり、将来的には後進性は解消されていくものと想定する類の議論である。この点がまず、エンブリーが一般に「日本人論者」と称されていることに対する違和感としてあった。

 しかし、どうも他の論者の日本人論について読み進めていくと、どうしてもエンブリーは日本人論者であり、『須恵村』を出版したあと1940年代に入ってから転向したのではないかとさえ思えるような語られ方もされる印象があった。結論からいうとこの見方は正しかったことが今回のレビューの考察を通じてわかったのだが、『須恵村』を読んだ印象からはどうしてもそれが結びつかなかったのであった。田中も指摘するように、できるだけ日本について偏見を与えないよう、価値判断については意図的に避けられていたような印象さえあったからだ。

 

 

ゴーラーやベネディクトは「自民族中心主義者」なのか?

 

 本書ではジェフリー・ゴーラールース・ベネディクトを「自民族中心主義者」と位置付け批判を展開している。正確にいえば、エンブリー自身が「何人かの人類学者」(p262)に対して「自民族中心主義者」と位置付け、批判じみたことを述べていることについて、田中自身がこれをゴーラーやベネディクトを想定して書いた内容であると『解釈』している訳である。

 私自身も確かに杉本・マオアのレビューの際に述べたように、日本人論と「オリエンタリズム」の発想との関連性は大いにあり、特殊日本的な状況についてとらえることそのものが歪んだ解釈や欧米そのものを参照とすることを回避してしまうことになりうるのは確かである。

 

 

 では、本書では何を根拠にそう断じているか。考えられるものとして3つピックアップしてみる。

(1)人種的な偏見・差別を論に持ち込むかどうか(p254)

(2)西洋の検証を経ないまま日本を語ること(p262)

(3)現れた現象と『国民性』の因果関係を曲解すること(p263)

 

 まず、(2)についてだが、これこそ「オリエンタリズム」的視点を与える大きな条件であることは確かである。しかしこれを根拠にエンブリーを擁護するのは論外である。なぜならエンブリーもまたまともに西洋を考察し、比較をした形で議論していた形跡がないことは本書を読んでも明らかだからである。

 また、(1)についても、ここでいう「偏見」を人種差別的な観点に限定した場合(いわゆる「色メガネ」は(3)の論点と重複するので、そちらで議論する)、私自身はゴーラーについても、ベネディクトについても特段の偏見を行っているようにはとても思えない。

 

 ゴーラーの著書からこれを考察してみよう。この考察にあたり、ゴーラーが「人種偏見とプロパガンダ」(訳書2011、1942年から43年の論文を収録)で日本人論を語るのは何故かについて考えるのが有益である。私が見る限り、ゴーラーはそれまでの日本の「対外的な動き(マスメディアを通じて語られていた日本の外交や、直近のアジア進出の動き)」に着目し、その因果関係を探るために日本人論を捉えているように思える。そしてそれはある意味で私がキンモンスのレビューでみたような「何故日本は『近代化』への衝動に強くかられていたように見えたのか」という理由を探る試みによく似ていると言ってよい。田中(エンブリー)が言うようにp264のような「近代化論」的アプローチで日本人論を捉えるようなことをゴーラーは行っていない。しかし、ゴーラー発達心理学的アプローチを中心にとらえようとする日本人論に「偏見」があるなどと言うことはかなり難しい程、「素朴」な分析をゴーラー自身行っていると言えるのである。

 もっとも厄介なのは、ゴーラーの問いが直接的には「何故日本人は残虐に見えるのか」といった点にあることである(cf.ゴーラー訳書2011:p67)。この問いはそれ自体で日本人が野蛮であることに加担するかのような記述であると読まれる可能性は否定できない。しかし他方で、これはマスメディアが与えたイメージの一端についての説明を与えるためとも読めるのであり、必ずしもゴーラーのみの責に帰されるものではないし、表面上は「野蛮であることを」擁護するかのような考察をゴーラーが行っているのも事実であり、その点を軽視するべきではない。

 

 ではゴーラーは「何故日本人が残虐に見えるのか」をどう説明したのか。それは、「日本」という環境が極めて抑圧的であり、その不満が「外に吐き出される」形で現れるからである、というものであった。

 

「清潔さのトレーニングに基づく倫理上の立場から派生していえることはさらにある。これは、今の状況下で、早急に考慮しなければならない重要なことである。与えられた状況において適切な行動をすることに力点があまりにも強く置かれており、平均的な日本人の経験においては、新しい状況に順応しないことに対する罰は、非常に恐ろしいということである。そのため日本人は新しい状況に適合しようとする衝動が非常に強い。結局、日本人は自己の環境のなかで、保守的な儀式偏重によって縛られてはいるが、いかなる異質の状況においてもでき得る限り適応しようとするはずである。戦争での軍事的な敗北のリスクに加えて、順応できないことに対する罰に対する無意識的な恐れは、非常に重要な役割を果たすであろう。清潔さのトレーニングに基づく倫理的な立場から派生することとしていえる二つ目のこととして、日本の土地で正しい行為に対する是認、そして正しい行動の基準というのは、異なった土地や異なった状況のもとにおいては、もはや機能しない。そして結局、日本の状況では不適切なあらゆる攻撃性やサディズムの排出が許されているということである。」 (ゴーラー訳書2011:p26-27)

 

「強迫的神経症患者の儀式の背景には、攻撃的になる、無意識の極端に強い願望が深く隠されている。儀式は、この危険な欲望を実行することに対する心理的な保護の役割をもつ。日本の社会は、他のほとんどの社会よりも社会で是認されている攻撃性を解き放つための機会が少ない。そして理屈からいえば、適当な状況があれば、攻撃性が発散されることになる。このことは、ほとんどすべての訪問者を魅了する日本中に浸透しているその生活の穏やかさをと、ほとんどすべての偵察員や新聞記者を怖がらせた戦争中の日本人の閉口させるほどの残忍性とサディズムとの際立った差異に対して、もっともうまく説明している。」 (同上、p30)

 

 このような抑圧的な状況の形成についてゴーラーは論文の多くを割いて説明している。その中で本書でも出てきたトイレット・トレーニングも説明に加えられる。ゴーラーの場合は、本書での指摘の通り、トイレット・トレーニングを「厳しいしつけ」の一環として捉え、早期から罰が与えられることがフラストレーションにつながること(ゴーラー訳書2011:p18-19)、そしてこれが潔癖な性格を形成するもとともなり(ゴーラー訳書2011:p20-21)、(土居健郎でさえ言及しなかったが)日本人は大部分が「強迫的神経症」と呼べる状況であると指摘する(ゴーラー訳書2011:p28-29)。故に日本は対外的な場においては攻撃的になるとゴーラーは捉えるのである。繰り返すがここで捉えるべきはゴーラーが事実を曲解している点ではない。あくまでそれが「差別意識」に根ざしているのかどうかという点である。そして私はこのような分析は極めてシンプルな日本人という「他者」を理解しようとする試みであると思えるのである。この時期に非難されるべきであった「人種差別」というのは、ジョン・ダワーのレビューでみたような「ゴリラだから野蛮」「子供だから未熟」といったレベルでの解釈であるが、ゴーラーはこのような態度の取り方は全く行っていないのである。

 

○エンブリーはゴーラーのような「曲解」をしていないと言えるのか?

 

 そこで、最後に残るのが(3)の論点である。確かにこれについてはゴーラー及びそれを引用するベネディクトも「曲解」をしていることについては、本書が指摘するとおりであろう。しかし、ほんとうにエンブリーが同じ誤りをしていないと言えるのであろうか?

 まず、エラについては、p247-248に見られるような「現在」の日本とかつての日本の比較について、あまりにも過度な一般化を行っているのは明らかではなかろうか。少なくともエラは日本の団地について須恵村と比べれば数十分の一程度しか調査していないであろう。そして基本的には「社会問題に毒された」言説をそのまま鵜呑みにしているように思えてならない。日本の女性の生きづらさについて経年比較できるものとして統計数理研究所の「日本の国民性調査」は優れた量的調査といえるだろうが、「女性が女性として生まれ変わりたい」という回答傾向の変化は著しく、60年代前半までは過半数が否定的であったが、この傾向は改善傾向にある。(https://www.ism.ac.jp/kokuminsei/table/index.htm 、#6.2 男・女の生まれかわり参照。)この質問項目の優れているところは、単に「現状が幸せかどうか」という、主観的判断に極めて依拠する質問とは異なり、今の自分の性と異なる選択の可能性があった場合の判断となっており、一歩現状を客観的に(特に性意識の面で)判断できる項目になっている点で注目すべき内容である。エラの見解によれば、過去の方がむしろよかったのではという判断を下しており、この調査とは真逆の見解をとっていることになるのである。

 

 そして、ジョン・エンブリーについても、遅くとも『日本人(The Japanese,1943、なお全文が次のURLから参照できる。http://www.ibiblio.org/hyperwar/ref/SI/Japanese/index.html))』を著した段階では『須恵村』における記述とは異なり「日本人論」を明確に位置付けているが故に、(杉本・マオアが批判したような)一元的な日本人を語ることに終始しており、ゴーラーと大きな違いを見出すことはできない状況にあるといえる。エンブリーは例えば、『日本人』の中で「一般的な日本人は今日でさえ、著しく政府からの情報に疑いを持たない」(Embree1943:p9)といった一般化を「歴史的な」背景から正当化している。

 このような態度は本書で語られるエンブリー像からずれている印象がある。本書で田中はp188のように須恵村が「ムラ」としては一般的だったという見解を紹介するが、日本の人々の生活の普遍的なものが須恵村にあったとまでは言っていない。むしろ、多様性についてもかなり触れている。村外の人(特に都会)と比べると、須恵村の人々はかなり異質な世界に生きていたかのようにも読めるし(cf.p107,p108-109)、性的なものに対する開放性などは部落や世代によっても異なっていたように語られている(p117-118)。

 このような多様性についてなぜ『日本人』において否定され、一面的なパーソナリティが正当化されるのだろうか?たとえ細部が異なっても日本人としての「おおまかな部分」については共通であったという前提があるとしても、エンブリーが議論した攻撃性などに関することが本当に「大まかな部分」に当てはまるものといえるのだろうか?どうも私にはそうは思えない。

 

 更に、トイレット・トレーニングに対する解釈は、幼少期に身につけた態度が大人にも大きな影響を与え、それがparanoic(被害妄想狂)な日本人を生むとしている点はゴーラーとよく似た見解であると言える。少し長文だが引用したい。

 

“This early period in a Japanese child's life is important in an understanding of his adult personality. The motherly affection coupled with the severe toilet training and culminating in the sudden loss of attention when the next child is born creates an early sense of insecurity which is turn produces an adult who is never absolutely sure of himself and who through compensation may become almost paranoic. There are a number of social usages in Japan that fit into this interpretation of the adult personality pattern. ……The adult manifestation of the temper tantrum resulting from lack of attention or fancied slight is assassination, and the deep shame felt from real or threatened loss of face is manifested by suicide. On a national scale, the fierce pride in race and culture may be in part associated with this characteristic Japanese adult personality and in part with the cultural revivalism referred to in a previous chapter.”(Embree1943:p23)

 

私の解釈では、次のように書いているように思える。

 

「日本の子どもが小さい頃の生活は、大人になった際の性格を理解するのに重要である。母親のトイレット・トレーニングと下の子が生まれてから突然気にかけられなくなることの影響で不安定さを生み、大人になってから決して自信がなく、その代償としてほとんど被害妄想狂になりかねないものだ。日本にはこの大人の性格類型の解釈に結びつける数多くの社会的慣習がある。……

 大人が不注意さややや空想的である結果癇癪持ちであることの現われとして暗殺があり、そして現実や面子がつぶれることへの恐れで感じる深い恥は自殺に現われている。国家的規模でいえば、人種と文化への断固とした誇りはこの特徴的な日本人の大人の性格と、前の章で言及した文化的な復古主義に部分的に結びついているといい得る。」

 

 実際の所、『日本人』でエンブリーがトイレット・トレーニングに言及するのはごくごくわずかであり、あまりにもわずかであるがゆえに解釈の仕方に困るくらいである。確かによく読めば、ここでのトイレット・トレーニングは「母親にかまってもらう」ことの例示程度であるように読むべきであると思えるが、ゴーラー的な厳しいしつけを行っていたという見解を否定している訳でもなく、ゴーラー的な解釈を行っても矛盾せずに読めてしまうように思える。また、エンブリーもまた日本人の攻撃性について説明するために性格形成や日本の慣習を語っている点もゴーラーと全く変わらない。このような態度の共通性がゆえに、ゴーラーを合わせて読んでいたアメリカ等の読者は、ゴーラーの文脈でエンブリーを読んでいた可能性も十分に考えられる。

 

 更に言えばエンブリーは「日本人がユニークである」という言説を紹介するものの(Embree1943:p35)、特段これについて批判を加えていないし、むしろこれを追随し独自の文化を形成したものと捉えているといってよいだろう。批判的なのは、あくまで当時アメリカでもタテマエ上御法度になることが確立しつつあった「人種差別」に繋がるような偏見に対してだけである(cf,Embree1943:p36)。

 

 以上の考察から、エンブリーとゴーラーは少なくとも田中の言うように善悪を別にして評価することが不可能といってよい状況であることはほぼ間違いないと言えるだろう。確かに『須恵村』での考察にそのような視点がなかったという点も強調しなければならない点であり、誤解すべき点でもない。しかし、エンブリーも一種の転換を行い、太平洋戦争時にはゴーラーと同じような「日本人論」を展開し、それがそのままベネディクトにも影響を与えていることも無視できないように思えてならないのである。

 

<読書ノート>

※エンブリーの須恵村滞在期間は1935年から一年。 

P64「「協同活動は人々のグループの自発的な行為なのであって、協同を強制せしめるようなボスがいて行われるのではない」という言葉が、ムラの「協同」とは何か、その本質を突いている。すぐ後に「地方の社会形態にボスとか親分とかがいないのは注意される」などと、部落を運営する組や「ぬしどり」という住民組織について、「ボスがいない」「頭はいない」との表現が何度も繰り返されている。部落の「自治」を強調するエンブリーの意図が見える。 

 そこにはムラの、いかにも平等な自治が想像されるが、実際にどこまでそうだったのか。 

 むろん須惠村にも村長や校長、地主階級の指導者は当然存在した。あるいは村の世話役としての「ぬしどり」や長老が「ボス」的な存在だったことも考えられる。エラのノートには、「多かれ少なかれ、自分をボスだと思っている夫人」がいたという記述もある。しかし、エンブリーは「ボスはいない」と感じた。 

 それは、ムラが身分が家父長制を軸とした縦社会である一方、横のつながり(協同)が縦の関係を維持するためにも不可欠だとエンブリーが気付いていたからに他ならない、と私は思う。一部の識者のように、日本を縦社会の文化と決め付けることは一面的すぎるだろう。」 

※しかしこれをゴーラーのように解釈されても困る。そして、中根のタテ社会の話も曲解しているように見える。 

P83「もちろん、負債が支払えないことは不名誉なこととされていた。「苦境にたった一人の男は首吊り自殺をし、他の男は二人の娘を淫売婦に売った」。エラは後者を「父親の利己心」と糾弾している。エンブリーは触れていないが、農村不況のため、講の高利な掛け金が重荷になっていた村民がいたはずだ。…… 

 このうち今でも残っている講は、同年講、観音講、伊勢講。同年講は同窓会として最もよく開かれている講の一つで、二カ月に一回という忙しい講から、ほとんど開かれていない講までさまざまだ。」 

※逆に見れば、1年間の須恵村の滞在だけでもこれだけの「負の事例」が確認できたということ。 

 

P106須恵村の女には、当然だが「美徳と欠点」、つまり二面性がある。欠点としては、「ほとんどの女性は極めて狭い経験しかしていない」ため、「国際的次元のことはほとんど知らず、自分の国が国際的出来事にまきこまれていることについては、まったく知らなかった」。一方で、若い娘は「村を逃げだすことを夢みて、都市で働き口を見つけようとしていた」という。また、自立した女性の中には「因習をあざけり……女性にふさわしくないとほとんど普遍的に非難されている行動をとっていた」人もいた。」 

P107「では、教師の妻や女性教師、村役人の妻ら須恵村に住んでいる「よそ者」は、須恵農民をどう見ていたか。「不信と恩着せがましさが入り混じった目で見ていた。その人たちの多くは、ムラの女たちが大酒飲みだときびしく批判し、農民を明らかに遅れていて未開な人とみなしていた」。序論でも明確に、「教師にとってはとくに、東京は啓蒙と文明の中心であった。それとは反対に、須恵村は、彼らにとって極端に遅れたところみえた」と解説している。」 

P107-108「一方の農家の女たちは「自分たちとよそ者のあいだに明確な区別をつける」傾向があった。このため、「この二つの女たちの集団は、公の場所を別にして、けっして交じりあわなかった」という。特に食事の仕方や味付け、経済状態といった暮らしの根本の違いでは、互いに辛らつだった。」 

P108-109中央政府によって徹底的に推し進められている天皇崇拝について女たちは「あやふやな理解」しかしていなかった。…… 

 国や世界の出来事に少しでも関心を持つ女性は少なかった。ラジオは役場、小学校を含め五台しかなく、戦争にも、ちょうど一九三六年夏に行われていた「前畑がんばれ」のベルリン・オリンピックにも、興味を持つということはなかった。「外部の世界とのもっちにぞくぞくする接触は、映画によって実現した」。映画は時々、学校や戸外の空き地で上映されるか、免田の映画館で鑑賞された。」 

P110「当時の日本の軍国主義は、エンブリー夫妻の心にものしかかっていた。小学校で行われた軍の観兵式に来た陸軍士官はエラに故意の嫌がらせをし、自分の演説の間、行動から離れるよう要求した。……五十歳以上の女たちは読み書きができず、国や世界の出来事に対しては無関心だった。それでも、夫妻にとって須恵村の人々は「この世でもっとも平和的な人たち」と感じられた。」 

 

P117-118「ただ、そんな(※性的な)踊りを村のみんなが支持しているわけではなかった。「おばあさんたちのやる、いやらしい踊りは好かん」という声も聞かれたし、エンブリーの日録の踊りについては、「これは須恵村の他の部落ではほとんど見られないものだった。他の部落では、若い人びとは、おこなわれていることにしばしば、明らかに困惑して、ただ座って眺めているだけであった」という。須恵村の中でも、部落によって踊りの内容に差があったのだろう。 

 しかし、続くエンブリーの日録に描かれた「他の部落」の婚礼後の非公式の宴会も、負けず劣らず楽しい。…… 

 宴会は場所を選ばない。「寺の中央の部屋の仏像のまんまえで、彼女たちは酒を飲み、エロティックな踊りをし、どんちゃん騒ぎをした。その同じ場所で、その日のもっと早い時刻には、僧侶が、仏の慈悲を信じない人びとの運命についての悲しい話をして、女たちは涙をながし、そこで賽銭を投げ、祈りを捧げたのだった」。」 

P124「「娘を芸者や売春婦に売るのは、父親の権利」でさえあった。しかし、糾弾するような筆致ではなく、論評は抑制ぎみだ。むしろ、「家族と世帯」という章題に、「家父長的な家」というより、ムラ社会の協同のありように着目したエンブリーの姿勢が表れているように思える。」 

 

P137「「小さな子供にたいする気ままな甘やかし」や、子どもたちが「無秩序の状態」のまま放置されていることは珍しいことではなく、「いつも驚きの源泉」だった。」 

P139「一方でエラは、寛容と甘やかしが行きすぎと感じることもしばしばだったようだ。 

「赤ん坊が泣くとすぐに、そのときまで、なにか他の活動に夢中になっていた子守りや他のものが、赤ん坊を抱き上げる。このことが、なぜ一番下の赤ん坊がそんなにたびたび泣くのか、また、あらゆる注意から見放されたその次の子が、なぜかんしゃくを起こしやすいかの理由である」と思えた。」 

P142-143「次のくだりは、現代から見てどう評価するか、須恵が特別なのか、とても興味深い。 

「田舎の学校は落第というものがない。子供の心理的影響や家族の恥辱は、精出して二度習ってみても決して償われるものではないと教師は感知している。運動競技でも一、二、三等はなく全員が賞を貰う。皆に賞を出すと誰も不当にあつかわれたとは思わない。ときには優等とか一等賞とかもあるけれども、それより協同行動の団体賞が多い」。 

 思い込みが入り混じっている印象もあるが、こんな箇所ではアメリカ人としての評価を書いていないのが残念だ。スポーツに競争は付きものだが、エンブリー夫妻には、競争を避ける気風は付和雷同に思えたか、それとも争いを嫌う穏やかな作法と映っただろうか。」 

 

P151「その前に、男女とも六十一歳の誕生日になると、還暦の祝宴がある。「この時期に第二の子ども時代に帰入するのであり、子どもの時のように気まま勝手に言うたり為したり、また欲しい物も手に得られる」。六十一歳でほぼリタイアし、その後は「お寺まいりに一日一日を生きるようになる」。」 

P156「「赤ちゃんがどこから生まれるかについて」も、「後に友達から教えられるが、『決して親からじゃなか』」。女学校には婦人衛生についての教科があったが、赤ん坊は母親の「おなかから」生まれると教えられるだけで、「学校での性教育はおこなわれていな」状態だった。」 

p158-159「「用便のしつけ」という一節がある。「トイレット・トレーニング」のことである。戦前にはイギリス人社会人類学者ジェフリー・ゴーラーが、排泄訓練による厳しい子育てが放縦と服従という日本の成人男性の矛盾した性格を形作ると主張したこともある。しかしエラは少し違って、こう分析している。 

「用便のしつけはきわめて厳格だといえないが、それは確かに非常に早い時期に始められていた」。須恵村では、二カ月たった位の早い時期に、おしっこのしつけをさせられる。現在は二、三歳ぐらいかららしいので、当時はずっと早くからおしめを取るしつけが行われていたようだ。 

 だが実際は、「赤ん坊はしょっちゅうおしめを濡らしている」。しかも「赤ん坊は、歩き始めるまでは、実際にはしつけられない。一歳から二歳になったときさえ、彼らを見守るものがいなければ。おもらしをする」。ということは、当時の須恵村の現実も今とあまり変わらないということになる。母親の対応は厳格というよりむしろ寛容に見える。」 

 

P162「「多勢の大人たちは、不義の性行為をするものは、奉公人に限られると断言していた。……彼は嘘をついていた。相手は娘さんで、奉公人ではなかった。他のものは、農家の娘はそのようなことはしないという、彼の主張を否定した。……人目を忍んだ逢引や性的な関係は、事実、須恵村の家族のなかの奉公人に限られるものでないことは、すでに明らかになった。」 

P163「『須恵村』にも「女たち」にも、いわゆる「若者宿」の存在の記述はない。同級会やお堂がその役割を担っていたのだろう。」 

P166-167「そして、あき(※エンブリー夫妻のお手伝い)の次の解説は的確だ。 

「……若いときには楽しいことばかりだ、だからみんな恋愛をする。しかし、結婚するときになったら、そんなことは忘れて、すべての手紙を捨て、両親の望みに従う。それは恋愛とはまったく別の事柄である。手紙をやりとりした男との結婚を期待してはならないのだ。」」 

P168-169「恋愛が引き起こす問題も多かった。避け難いのが未婚の妊娠だ。 

「いまでは私生児の数はずっと少なくなった」とはいえ、「恋愛沙汰の結果妊娠する可能性について、未婚の女子の両親が心配するのには、正当な理由がある」という実情があった。一般には未婚の妊娠は「望ましい状況ではない」し「すべての人を非常に不幸にする」と考えられていた。しかし、「多くの事件が起きる」ことも事実だった。 

「私は日本の家では秘密の逢引をするのはほとんど不可能だといったが、彼は、女中と奉公人とは、いつも母屋から離れた別々の部屋にいるから、彼らが会うのは簡単だといった」。こうした話をエンブリー夫妻は「女中と奉公人」に対する「社会差別」と受け取るが、この問題は奉公人に限らなかった。 

 夫妻は「ここでは十九歳以上で処女のものはいないだろう」と思っていた。四十代のある女性によれば、かつて「結婚のときに処女であることはそんなに望ましいことではなかったし、女の子はすべて十八歳ぐらいになると処女を失った」と言う。「処女ば失うとが遅ければ遅かほど、事態は悪うなる」からだ。その女性はそうした「不幸な事故」が起きたのは時々でしかなかったと付け加えたが、エラは「この地域の私生児の数を数えると、私はこの情報がどれだけ正しいのか疑問」に思わざるを得なかった。」 

 

P171須恵村には娘を芸者に売った男は八人いた。エンブリーは『須恵村』で、「娘を売った人達はいつも貧困である。彼らは村の土着の者ではなく、旧家でもない。自分の娘を売っても、軽蔑されはしない。まず高い社会の地位にない者だけが売るのであり、仮りに貧しくとも、農業で確固たる社会的、経済的基盤の上に家庭をうち建てようとすれば、こんなことは決してしない」と分析している。」 

須恵村の当時の戸数は285戸だという(p9) 

P174「そして、私が最も驚かされた記述の一つが、再婚回数の記録を持っている「反野のおばあさん」の例だ。 

「彼女は少なくとも十人の男と結婚し、結局、反野で終りになった。みんなは、反野は非常に静かな人なので、彼女はいっしょに暮せるのだといっている」。」 

P174-175「それでも、エンブリー夫妻が滞在した一九三〇年代には、「離婚はそれ以前よりも、ずっと一般的でなくなったというのが、女性も男性も同じように持っている一般的な意見だった」というのだから驚く。理由の一つは、以前は花嫁と花婿は婚礼まで会わなかったが、今日では会って話す機会がいつでもある、ということ。また、以前の婚礼は五円で済ませることができ、きわめて簡単だったので「それほど考えもせず、結婚を破棄した」。しかし、現在では多額の資金が必要になった。 

 さらに、昔は姑の問題があり、同時に花嫁がしばしば十四、五歳という非常に若い年齢だったことも離婚が多い原因だった。一般的には、「女たちは、夫婦に子どもがいれば、妻は多くのことを耐え忍ぶと考えていた」。」 

P176「エンブリー夫妻は、須恵村の男らと一緒に、免田の芸者を連れて遠出をした。後でそれを知った女たちは、「自分たちはそんな楽しい旅行をしたことがない」と言った。「彼女たちは、町で宴会がおこなわれるたびに、男が芸者と寝ることを知っていた。……それについては、どうすることもできないといった。……しかし、ときには家庭のなかで口論がみられる。……『その旅行はあんたのとってよかことばい。ばってんうちをごらんなさい。十円、十五円を養蚕で稼ぐのに一生懸命働き、その金さえも主人に持っていかるっとだけん』。小さな遠出でも七十円はかかり、須恵村の多くの家族はひと月にそれ以下で生活していた」。 

 夫妻は男たちの集まりで、妻を愛しているかどうか聞いた。男たちは、「外人は恋愛が最初でそれから結婚する。ばってん、日本人は最初に結婚して、それから愛が始まる」などと口々に話した。」 

 

P178「さらには、「妻を肉体的に虐待することで知られている男たちがいた」。今でいうドメスティック・バイオレンスだ。ある家の娘は、「両親はいつも喧嘩をし、父親はときどき母親を殴るが、母親は子供たちのために家を出ていくことはない、と私に語った。彼女はときどき、家庭のこのような状態のために泣いていた」。 

 妻たちのこうした境遇を見知ったエラは、とんでもないことだ、と思っていたはずだ。しかし、自分の意見を極力抑えて、多分に女たちに同情しながら、村民がどう考えているかを忠実に記している。ただし、「私たちの女中は、この地方の従順さを否定していた」と、ひと言添えることも忘れなかった。」 

P180「経済的自立は同時に、女性たちの協同を促した。エラは、こう確信する。大部分が結婚によって村の部落に移ってきたよそ者である女たちが、「かなりの程度、経済的な結びつきを形成し、労働をともにし、まったく女たちだけの友情のきずなを固めてきたことを無視するのは誤りだ」と。そうした女性の協同のネットワークが「非公式に組織された集団」が経済活動にも生かされていた。女性たちの経済的自立性は、収入額では測れない女性の強さの源だったと私には思われる。」 

※「しかし、ムラの夫婦関係の基本は、まず夫の優越だった。」(p181) 

P188「当時の須恵村が特殊だったかどうかは分からない。しかし、こうしたムラの実態は、日本の「どこでもほとんど同じだった」という。そう思える証拠として『女たち』の原注では、大正時代に熊本の五家荘を含む五村を調査したアメリカの社会学者トーマス・ジョンズの『日本の山の人びと』(一九二六年)を引用し、ジョンズが「不道徳」と呼んだ「婚前の性交渉」「私生児」「堕胎」「間引き」がどこでも行われていたとする。 

 エンブリーも足を運んだ五家荘でジョンズは、村長夫人が「すべての娘が結婚前に性的関係を持っている」と語ったとし、「五家荘では男性の九パーセント、女性の八パーセントは、手続き上の私生児だった」と言う。」 

 

P194「日本人の円環的な四季や時間の感じ方を見抜いているのが驚きだ。須恵で今も行事が残る小正月は、暦が普及する以前に一月十五日の十五夜満月を正月としていた名残。エンブリーはその重要性を理解していた。」 

P218「ただ、(※エンブリーの)「遅れている」という表現が、進歩に関わる言葉なのかどうか、優劣の価値が込められているかどうかは別だ。単に文化や政治経済などの情報が遅れて入ってくる、という程度の意味だったのではないか、とも思える。」 

p220-221「文中に「古風」「停滞性」「生気のない」といったマイナスイメージの表現が使われているのに違和感を覚え、原文を当たってみた。すると、「古風」が「old」なのはいいとして、「停滞性」は「stability」、「生気のない」は「dead-end」の訳だった。ということは、それぞれ「安定性」「行き止まりの」と訳す方が正しい。「行き止まり」は単に地理的表現にすぎない。特に「停滞」と「安定」では、この文章全体の印象と価値観がまったく逆転し、古風だが「変化のある歴史を経過した安定性」というプラスイメージに転換する。つまり、エンブリーが避けたかった偏見、須恵村が停滞したムラだという思い込みを、翻訳者が抱いていたのではないか、と思えるのだ。」 

※「この文章」とは、「このような古くからの停滞性に関しての一つの理由は、きっと球磨地方が山また山に囲まれた生気のない谷間であり、常に主要な交通路から取り残されてきたことである」(p220)。原典にあたる重要性。 

 

P222「『女たち』に、「逃亡・村外で働く」という一節がある。ここには、ムラの「強靭な社会的紐帯」、つまり協同の裏側にある拘束性に対する反発や、若い女性たちの「自立の精神的気質」が感じとれる。 

「多少とも教育のあるもののほとんどすべてが、村を離れる方法を探していた」し、「結婚していない須恵村若い女たちの多くにとって、目標は、村を逃げだし、町や都市で仕事を見つけることだった」。」 

※「農民層の閉鎖性や拘束性」により「農民とそうでない階層の村民との間」には「社会的差別」があるといえる状況にあった(cf.p221) 

P222若い女性が村を離れたがる理由はこうだ。「たしかに仕事は、彼女の嫌いな農業よりも軽いものとみなされている。彼女は、工場では午前五時に仕事を始め、立ったまま午後の二時まで働いたといった。その後、彼女は裁縫も稽古にいき、夜は遊びにいったという」。賃金もまずまず。募集員は、最初は1カ月四円五十銭だが、平均では十円払うと勧誘した。過酷なイメージがある「女工哀史」とは異なり、女性たちが「工場を好きになっても、不思議ではない」現実があった。」 

須恵村の女性の重労働さは「女たち」にも描写があるという(cf.p161) 

P228「彼ら(障がい者)は「不適合」に挙げられてはいるが、まったく排除されていたわけではない。むしろ、「強固な協同生活に対してきわめて不適合なのは、むしろ利己主義者」だった。「不適合」は「協同」の反対語に近いニュアンスで使われている。 

 不適合者として、他に「大学教育を受けた人」「協同労働をしない女」「性生活に起因するヒステリーの女」が挙げられている。「大学教育を受けた人」は七人いたが、村に戻ったのはエンブリー夫妻と親しかった愛甲慶寿家一人だけ。村の変革を訴えるような高等教育を受けた人は、ムラの暮らしには不向きと思われたようだ。」 

P229-230「このように、障害者や不適合者に対する須恵村の女性たちの態度と行動は、エラにとっては「思慮に欠けるものがあった」。そのため、エラは「一般的な観察」として、「私は、家事が嫌いな女の子や創造的な精神の持ち主である女の子は、このような社会で生活するのは困難だと思う」という結論に至る。なぜなら、「ここの社会は、女性をよい母親に育てようとしている」からだ。『女たち』で「家事の嫌いな女の子や創造的な精神の持ち主である女の子」と不適合者が同列に置かれている状況は、『須恵村』で、大学を卒業して「須恵村の風俗習慣を変えようとしている」愛甲慶寿家が不適合者とされているのと同じだ。」

 

P230-231「なぜ須恵村に不適合者が少ないのか。「これらの人は、つねに外にだされるか、乞食になるのである」という実状は、協同の裏面としての排除の構造をあぶりだしていると言える。」 

P231「「すべての子供を軍国主義者にすべく訓練し、平和主義への余地をまったく残さない教育制度、自由な思想のあらゆる表現を抑圧し、科学と歴史のもっとも初歩的な教育によってさえ、神の子孫であることが疑われる天皇についての盲目的な崇拝を期待している政府、女子のための教育水準が上昇し、少なくとも都市において若い男女の交際が増大するなかでの、見合結婚という時代遅れの制度の維持などを考えるならば、不適応者たちが救済されるのか、それとも創り出されるのかについて、ここでなにかいうことは困難である」。」 

P232「ただ、夫妻が村の閉鎖性を非難し糾弾するまでには至らなかったのは、閉鎖性の半面に、むしろそれを上回るような村民の開放性や自由を感じたからだろう。……ムラには、村外や気心の知れないよそ者に対する閉鎖性の一方で、一度気を許した相手に対する開放性という二重の基準があった。部落は、内と外、自と他の境界を明確にすることで成り立っているかもしれないが、内外、自他の交通が意外に頻繁に行われていたことは、『須恵村』でも明らかだ。閉鎖的であったかもしれないが、抑制されたエネルギーとしての開放への志向性は思いほか強かったのではないだろうか。」 

※排他性をいかにとらえるのかが難しい。しかし、ここでいう「開かれている」「閉じている」とは具体的には「自由」との兼ね合いを指しているのであろうが、「開放への志向性」と言われると、いまいちピンとこない。 

 

P247-248「では、一九三五年の須恵村の女性と一九八〇年代の都会の女性のどちらが恵まれているのだろうか。「今日の都市の団地の若い母親は毎日、一日中、小さな子供に縛りつけられ、昼間のテレビのメロドラマに夢中になり、いかなる種類のどぎつい人間的接触からも、いろいろなかたちで隔離されていて、かつての須恵村の女たちの生活の仕方を、即座に拒否できるという、そんなうらやましい地位にいるのだろうか」。 

 否定的な疑問のまま、『女たち』では最終的な結論は導かれていないが、「日本の女性にとって、古い苦痛は新しいものに取り替えられたのであり、また自立と依存の程度から見て、現代の日本の女たちが、自分たちは、激しい労働と激しい遊びをした須恵村の女たちよりましだ、と想像できるだけ進歩したとみなすのは困難である」と、あくまで懐疑的だ。」 

※引用は『女たち』によるようであうる。しかし、「女性として生まれ変わりたいか」という質問は、この議論の本質を突いているように思えるし、その割合は戦後着実に上がったのはまぎれもない事実。 

P254「エンブリーの署名がある少なくとも七件の報告書には、エンブリーの日本に対する胸の内が随所に表れている。「日系アメリカ人との関係」と題された報告では、日系人理解の基本を説く中で、「日系人の気質については、決定要因が人種というより文化である」として、収容所での待遇に「敵国日本」に対する人種的な偏見や差別を持ち込まないように釘を刺している。」 

※「日本人論」自体には加担していたようにも見える。 

P256「しかし『日本人』は、アメリカの自民族中心主義に対する批判の萌芽とも言える内容を備えていた。いきなり「日本人のついては、神秘的なオリエンタル(東洋的)なものは何もない」という結論から書き起こされているのが象徴的だ。続けて「日本人の思考と行動は、他の人々と同じように早い時期の訓練と文化的環境によって決定される。そのことがより理解されればされるほど、日本人の振る舞いはより理解できるし予測できるだろう」と、日本を異端視することに異議を唱えている。」 

※『日本人』とは、1943年にエンブリーが著した小冊子。 

 

P262「これに対してエンブリーは反論する。 

「何人かの人類学者は、日本の特異な文化が、日本人を個人としては好戦的で攻撃的であり、国家としては拡張主義者にしたことを論証しようとした。それは、排泄訓練に関する巧妙な理論、天皇崇拝、そして食の習慣によって成された。……(一方で)西洋社会の攻撃的な行動の原因は、完全に無視された」。」 

P263「『菊と刀』は、戦時情報局で軍が収集した日本関係の情報分析に携わっていたベネディクトによってインタビューや文献を基に作成され、一九四六年に刊行された。実際にフィールドワークを行った文献としてのエンブリーの『須恵村』『日本人』からの引用も多く、明確にエンブリーを参照したと分かる箇所だけで十数カ所に及ぶ。例えば、共同労働、葬式やその贈答、小学校の児童たちの競争の回避、直接的な取引を避けるための仲介者の制度、客を持たせて衣服を着替える礼装、相手に拒絶されても恥をかかないで済むように頰かむりして忍び込む夜這い、などだ。だが『菊と刀』ではエンブリーがそれらを協同の慣習として描いたことの意味は一顧だにされておらず、正しく理解されているとは言い難い。 

 ベネディクトは、エンブリーが描いたこれらの事例を、ことごとく「義理」「恥」に結び付けて解釈し、逆に戦争を引き起こす日本人の国民性として分類する。義理や恥が脅かされた場合、日本人は復讐に駆られたり、攻撃を自殺という形で自分に向けたりする傾向があるという。しかし、一九三〇年代に「彼らは国家主義的目標を抱き、攻撃を自分自身の胸から転じて再び外へ向けた」というのだ。」 

※たとえ「協同」と結びつけることが正当だとしても、それがそのまま「日本人論」として正当化されるわけではない。 

P264「また、反自民族中心主義の立場を共有するジャーナリスト、ヘレン・ミアーズの『アメリカの鏡・日本』の書評でエンブリーは、戦争の原因を日本人の攻撃的な国民性に求める議論を退けた上で、「本当に重要なことは、アジアの一国日本がヨーロッパの国と政治的に対等に振る舞おうとしていたということである。しばしば見落とされるこの事実は、おそらく日本と西洋の多くの対立、さらには他のアジア諸国と西欧の紛争を最もよく説明する」と述べ、日本の覇権主義はむしろ西欧の自民族中心主義に基づく植民地主義の後追いなのだと主張した。」 

P274-275「鈴木榮太郎は、『須恵村』について、「エンブリー氏の観察は相当に精緻で洞察力にも敬服するものがある」としながらも、「しかし折角得られたそれ等の資料が充分に科学的に処理されていない」と批判している。その指摘が当たっているかどうかはともかく、私には、科学的処理や分析、抽象よりも、エンブリーの偏らない「精緻な観察」が十分に面白い。ベネディクトが及びもつかない眼差しが読み取れるのだ。」 

※この指摘を含め、エンブリーの議論を一般化し価値判断をしようとする田中の議論には違和感がある。 

 

 

斎藤喜博「第二期斎藤喜博全集 第1巻」(1983)

 今回は以前レビューしていた斎藤喜博を再度取り上げる。本書でメインになっているのは「授業論」であり、斎藤自身これまでそのような「授業論」が存在しなかったことを憂い、そのような「教授」に関する議論がもっと教師に読まれる必要性を感じて書いた内容の著書がメインとなっている。平たく読んでしまえばあたりまえのことを書いているようにも思えるが、確かに一見すると授業を行うために必要な観点について適切に捉えているように思える。「教師として志す者にとっての初歩が記載されている」程度のものとして考えるのであれば、必読と評してもよいように思える。

 

○教師に必要な素質とは?

 

 もっとも、本書を深読みしていった場合には色々と問題点が出てくる。

 本書でまず注目したいのは、専門職である教師が授業を行うために必要とされる素質についてである。言うまでもなく斎藤は単に知識を教える作業を教育と捉えるのではなく、「子どもに思考させる」ことが授業として必要であると考えている。本書を通じて斎藤の授業観には現象学的な着眼点が強く見受けられ、教室に在る教師と児童の相互行為として、またその場に身を賭ける主体があって初めて授業が成り立つものであると考えている(cf.p8-9)。ただ、これだけでは説明が足りない。教師と児童の関係はあくまでも非対称な存在でなければならないものであると斎藤は強調する。つまり、教師は教材に対して文字通り「精通」し、教材によりどのような議論が成り立ちうるかを十分に想定しつつ、その要となるものついて自らの考えとしてしっかりと押さえ、それを中心にして授業の中で議論を展開していく必要があると考えるのである。

 

 しかし、これらの要素で十分かと言われればそうであるとも斎藤は考えていない節がある。例えばp23-24のような言い方は「教師万能論」とでもいえるような言い方であるように見える。少なくとも「感性」のようなものを教師は十分に備える必要があるということだろう。P193-194にあるようにこれを端的に「人間の力」という表現もしている。そしてp221にあるように、常に真理や美に近づこうとする存在であることが求められる。

 そのためにp254-255のような、より直接的にはp317やp442のように「より広い世界の」「総合的」な力が求められることになるのである。いわば教師は狭い世界のみで物事を解釈するのではなく、より広い世界というものをよく理解し、それを形にして児童に教えていくことが求められているのである。

 

○斎藤の教師論は「何か」を教えることができるのか?

 ここではひとまず、この目標とされているものが無際限に要求されるような性質になってしまっていることは置いておこう。他にも問うべきことがいくつかあるからだ。

 まず、何より重要なのは、教師のこのような「教育」が、何のためになされているのか、という極めて初歩的な問いである。斎藤にとってこの答は簡単に出せる。P302にあるように、子どもの無限の可能性を「引き出す」ためにあるものである。しかし、これは実際のところ答えになっていない。斎藤の教育思想からは具体的な目的を示すことができないし、むしろそれでよいと考えている点をまず押さえねばならない。

 このことから直ちに出てくるのは具体的な「何か」を求めることそれ自体への否定である。以前レビューした70年代の無着成恭明星学園中の保護者の対峙が典型的な例であるが、何ら具体性を求めないことを善とみなす場合、当然具体的なものは悪であり、排除の対象となる。確かに斎藤はこのことを直接言及していないものの、p254やp403-404のように一方的に画一性を批判し、それを官僚的なものとして還元して語る態度には、この見方が反映されているし、波多野完治がp473で批判している点にも同じ傾向を見出すことができるように思える。科学を一面的な態度で批判し、そこに創造性が介する可能性を一切みず、それを「機械的」なものしてしか捉えないということは、言い換えれば「機械的にやるべきものは教育として必要がない」と言っているのと同じである。要するに(教師から見て)外的に求められるような教育内容(そしてそれが児童にとって「必ず獲得されなければならないもの」)というのは、簡単に排除可能な論理を斎藤も持ち合わせているのである。

 

 合わせて、間接的ではあるが全生研的な集団主義教育の議論を全否定している点も無視できない。これはこれまでのレビューで言えば矢野智司が典型であったが、善を強要する教育の立場は、模倣論として有効たりうる「悪」への目線さえも否定してしまうのである。全生研の前提はすでにレビューしたように、「理不尽な現実=悪」に対峙する主体形成を行うため、擬制的・意図的に「悪」の環境を教室(学校)内に作りだし、そのことを自覚し、立ち向かう力をつけていくことが目標とされていた。しかし、斎藤の議論からは、このような「現実」を見る態度はそもそもない。その「善」は、「善」の世界でのみ無敵であるが、その世界から外れること、外れてしまった存在に対する責任は一切取ろうとしないのである。これは矢野智司が教師と生徒の関係が「すでに存在している」ことを自明視し、その関係性が形成されない状態を全く考えようとしていなかったことと同じである。

 このような斎藤の「善」の議論においても、当然実践の場においては妥協が求められることになる。その妥協によって結果的に斎藤の「善」の理論は機能したことになるかもしれない。しかし、その妥協に対してどう捉え・実践すべきかは何も述べられていないため、その妥協が可能となるかどうかは偶然の産物(ないし教育実践者である教師の裁量)にしかならないのである。

 

○「教材」を教師は何故選べないのか?

 斎藤が「現実」を見る態度がないことは別の問題を生むことにもなる。それが「教材」に対する議論の中に見いだせる。本書では「教材」というのは教師が熟知している必要のあるものとされている。そうであるならば、直ちに問われるべきは、教師がその「教材」を自主的に選択することが何より大事なのではないのか、という点だろう。これは文科省(文部省)検定の教科書問題をめぐる議論ではあたりまえのように出てくる論点である。教員の自主的研究のためにも、国がそれを強要することは断じて行われるべきではない、とされるものである。斎藤の主張は一見このような検定教科書批判を全面的に支持するかのようにも思える。しかし、斎藤は(少なくとも本書では)全くこの論点に触れない。本当に教材の理解が重要であるなら、他者から強要される教材を用いるのが不都合であることは自明であるにも関わらず、である。

 何故斎藤はこれを問わないのか、類推は可能である。以前斎藤のレビューをした際に述べたが、斎藤は教員の学習態度を強調しようとするスタンスが根底にあると言える。そのような教員の態度を強調していることが阻害要因となっている可能性が考えられるのである。つまり、斎藤は他者がどうこうすることよりも、教師自身の問題に焦点化して論を進めるために、「教材」をめぐる問題を適切に捉えられていないと読めるということである。

 

 教師倫理の問題だけを強調してしまうとかえって実際的な問題解決を困難にしてしまう場合はありえる。特にp13-14の議論を適切に捉えないと教師責任論だけで全てを解決しようとする態度にもなりかねないように思える。この部分では、学校で与えることができる「教材」には限界があることが述べられる。良質の教材で教えることが良いに決まっているが、学校における「環境的」な要因によって、常に良い教材が使えるとは限らないため、教師は所与の教材を用いなければならないとされる。

 確かにここで主眼におかれている「環境的」とは、いわゆる教育の「内的事項・外的事項論」における「外的事項」を指しているもの、つまり教育環境のハード面の話(物的な教材)と推測はできる。しかし、斎藤はこの主張を普遍的なものとして捉えている傾向もあり、「内的事項」である教育内容についても教師は所与のものを引き受けるべきであると解釈しても、反論可能な主張を本書から見出すことはできないのである。先述した「何を教えるべきか」を具体化できない斎藤の議論からは、この教材についても具体的に議論を行わないことは当然の結果であるように思える。

 しかし、このことを更に飛躍させると、教師は他人によってあらかじめ決められた教材を一から学び、それを教えなければならない、という問題を抱えることになる。斎藤が教師の責務を強調するがゆえに、教師は無条件で(全力で)努力し、教材を体得していかなければならないのである。そしてそのような努力を怠るような教師は「形式的・官僚的」な教師というレッテルを貼り、批判を行うのである。見る人がみれば、極めてタチの悪い体制側の人間として斎藤の教育論は写ることになるし、それを斎藤が反論する材料を(少なくとも本書では)持ち合わせていない状態が問題なのである。斎藤の盲信的な「教師万能論」はかようにして曲解されうるのである。

 

○「無限の可能性」言説についてのメモ

 

 最後に新堀のレビューで考察した「無限の可能性」言説に対する議論について少し触れておきたい。本書ではいくつかの箇所で「無限の可能性」についての言及がある。新堀は「子ども性善説」を強調するための俗論として「無限の可能性」が語られると捉えていたが、実際の言説は「実態の批判」も多分に含んだ中でそれが語られていると私は指摘した。つまり、「純粋無垢な『無限の可能性』を子どもが持ち合わせている」という主張はタテマエであり、むしろその可能性を阻害しようとする実態に対し批判し、その対抗言説として「無限の可能性」が語られている、という見方が可能であるということである。

 これは本書における斎藤の言説においても似た傾向を見ることが可能である。確かに一見すると、斎藤の「無限の可能性」論は「善」性に支えられた素朴な楽観論であるようにも思える。P444のような部分を拾えば、そう読めるのである。

 しかし、p302の方はどうだろうか。これは、p292やp296の議論とも関連するため、こちら側の引用を持って解釈したほうがよりわかりやすい。斎藤は子どもの可能性が引き出せないことを、社会の責任とすることに対して否定的である。そして、子どもの可能性を引き出すことは、あくまでも教師の授業実践によって追求されるべき問題とみなされているのである。ここでもやはり「教師万能論」との関連で「無限の可能性」が語られ、現状の教師の批判をその言説に含んでいると読めるのである。形式的な授業を行う教師は子どもの可能性を引き出せない。だから創造的な授業を展開しなければならない。この論理の中に「無限の可能性」が組み込まれるのである。

 

 

<読書ノート>

※開かれているようで、閉じた世界における教育は、やはりそれだけで実際の社会を形作るものを無視してしまう。そうするとやはり「社会に役立つ人間づくり」に寄与するどころか、それを無視して、結果的にそこから排除されてしまう可能性さえ引き受けてしまう主体形成を行いかねない、という問題は常にあり得る。

 過去の全生研のような運動的側面をもつ教育はこれをいくらか緩和していただろう。しかしそれが剥がされたまま斎藤の教育論をそのままで受容することはそれだけで「危険」と見ることもできる。

P8「この学生も云っているように、授業は、教師の持っている概念的な既成の月並みな知識を、単に子どもに機械的・形式的にわからせるだけのものではない。そうではなく、対象である教材の中にある具体的で複雑な事実をもとにし、教師と子どもがいっしょになって追求し、発見したり、獲得したり、自分を変えていったりする作業である。そういう作業を通して、実感として主体的に学びとっていく作業である。

 したがってそういう授業においては、教師は、自分の持っている観念的な知識とか、自分の狭い過去の経験とかだけにたより、それを正しいものとして、教材とか子どもの事実とかに対してはならない。自分の観念的な知識とか経験とかを、そのまま教材や子どもの中に狭く持ち込み、あてはめていくようなことがあってはならない。」

※引用されている学生の話はここまで言っていないのだが。

P8-9「授業はそういうものではない。教師が自分の持っている固定的なものとか、概念的な知識とかを一方的に教えるのではなく、教師も子どもも、教材に対して自分の持っているものを、自分の主体をかけたものとして相互に出し合い、おたがいに吟味しあっていくものである。そういう作業の中で、おたがいにそれまでの自分の持っていたまちがった知識とか、狭く低い認識とかを変え、自分自身をそれまでとちがうものに変えていく仕事である。そういうことこそほんとうの学習であり、「わかった」ということである。

 授業がそういうものになったとき、子どもたちは、追求し学習していくことが、面白く楽しく豊かなのだということを実感として学ぶようになる。」

※これだけでは説明が足りない。それでもなお、教師が教材をもって真理に向かう取り組みがなければ成立しないし、教師の主観に対して何かを議論する必要はない。ここでいう双方向性はどこまでも部分的でなければならない。しかし、ここでの言い分は教師を卑下しすぎである。斎藤的なべき論ベースで考えた場合、教師が自信を持って選ぶ教材において「まちがった知識」「低く狭い認識」はないとは言わないまでも限りなくなきに近い。この言い分が正しいとすれば、教師が子どもにそのように引き出す際において、そしてその側面を特に強調する意味においてである。もっとも、斎藤はそれを自覚しているが。

 

P9「そういう授業では、特に教師の役割が大きなものになる。それは、学習の主体者は子どもであるけれども、子どもを学習の主体者として生き生きと活動させるためには、教師が積極的に授業の中心となり、授業の組織者・演出者となっていかなければならないからである。」

P11「創造的で追求的な授業は、教室全体が集中と緊張を持っているが、それは決して古めかしく堅苦しいものではなく、明るくリラックスしたものを持っている。教室全体が生き生きと流動しており、どこからでもよいものは受け入れるという開いた楽しい姿を持っている。これは、教室全体が真理を追求しているからであり、よいものはどこからでもとり入れて、自分を太らせ自分を変えていこうとする開いた姿勢を教師も子どもも持っているからである。」

P12「教師は自分の形式的で一方的な授業を守るために閉鎖的になっており、子どもは、形式的に教師に動かされているだけであり、少しも学習に興味を持っておらず、主体的に学習にとりくまされていないからである。

 そういう授業で、子どもが、子どもの中にひそんでいる。さまざまの豊かな可能性を表に引き出され、それをさらに拡大したり変えていったりすることなど不可能なことである。」

P13-14「したがって、それほどでもない教材でも授業をしなければならないことも多いのだが、そういう場合でも、対象である教材に対して教師が自分の問題を持ち、追求する課題を持ち、追求する意欲を自分自身の問題として持っていないかぎり授業はできない。

 教師が教材に対して自分の問題を持ち、疑問を持ち、もしくは教材の表面に表現されている以上に深く読みとったものを持っており、それらを持って子どもたちにぶつかっていったとき、授業はようやく開始されるのである。教師が、自分の持った問題とか疑問とか、自分の読みとりとかを、自分を掛けたものとして子どもの前に出したとき、それが引金となって、学級全体の子どものなかに波瀾を起し、一人一人の子どものなかに新しい考えをつくり出し、教師と子ども、子どもと子どもとの間に、対立や葛藤を起していくようになるからである。

 授業は、そのようになったとき成立したということができる。それは、教師の自分を賭けての問題提出を契機として、子どもたちにそれまで気づかなかったものを気づかせたり、それまで子どもが持っていたものをゆさぶったりし、子どもたちの主体をかけた考えを引き出し、それらを吟味にかけることができるからである。そうすることによって、子どもたちの考えを多様にしたり、いままでわからなかったことを「わかった」と思うようにしたり、難しいものを子どもたちのなかにつくり出したりすることができるからである。」

 

P15「そういう意味で授業は、教師の教材解釈の高さとか深さとか、立ち向かい方とかによってほとんどきまってしまうものである。教師が教材に対して自分の解釈を深く持ち、切実に自分の追求したい問題を持っているかどうかによって、ほとんど決定的に授業の質とか方向とかはきまってしまうものである。」

P23-24「それはまた逆に云えば、教師としての洞察力とか構成力とかを持っていれば、他の人間とか社会とか自然とか芸術作品とかにふれた場合も、その底にあるものを深く洞察し正しく把握していくことができるようになるわけである。普通では見えないようなものをみたり、普通より深くとらえたりしていくことができるようになるものである。」

P46-47「やはり教師は、授業をする前に、教材に対してさまざまの解釈をし、さまざまの疑問を持つようにしておかなければならない。子どもがどう読みとり、どういう疑問を持つかという予想も十分にしておかなければならない。……

 そういう手の込んだ仕事をしておいてはじめて、文章の具体につきながら発問したり、子どもに考えさせたり、子どもを追い込んだりしていくことはできるわけである。子どもと教材と、教師としての自分の考えとを結びながら、子どもといっしょに考えるような授業をしていくことができるわけである。」

 

P117「授業がこうなってしまったのは、一つは授業の核がないからである。この時間の授業の核になるところを、教材の具体に即して教師がはっきりと持っていなかったからである。またそのことにもつながるのだが、教師の教材の読みとりの弱さ不完全さからである。さらに教師の発問の悪さがあり、子どもの発言を整理していく力の弱さがある。

 発問と子どもの発言の整理についてだけ云っても、「そうしたふしぎなものに見とれていた」のところを、「ここ大事なとこだね、何に見とれていた」というあいまいな発問をしてしまっている。だから子どもからは「いろいろな形をした虫」「あひる」「自然にひかれる気持」などと根拠のない思いつきの発言が出てしまうことになる。

 また、そういう発言が出た場合は、「あひる」という発言を反ばくし発言の根拠をきいたり、「自然にひかれる気持」を、さらに突っ込んでみたりしなければならないはずだが、それもしていない。「虫はめずらしいから見とれるが、あひるはかってるものだからみとれない」は、大事な発言なのだが、これをとり上げるどころか、教師は否定してしまっている。

 これらはみな教師の教材研究の不足に原因があり、そこから出る子どもの発言の整理の仕方の不足に原因がある。授業がごたごたしたものになり混乱し、子どもが「わからん」というようになってしまうのも、みなそれらに原因がある。」

※よく考えると、これが「教材研究の不足」と断言してよいのか、という趣もある。それは問いの立て方(問いを深めようとする姿勢)の問題なだけではないのか。

 

P184-185「文学作品をそう考えた場合、この俳句も、「農苦」とか、「世代のちがう父子の断絶」と考えてもよいし、また、小学校のように「あたたかい雪」と考えてもよいことである。また降る雪を自分の思いをこめて父子がみていると考えてもよいことである。授業は、そういう生徒のさまざまな解釈とかイメージとかをもとにし、教師の解釈やイメージを加えながら、子どもたちの解釈とかイメージとかを、自由に高めひろげていくことができればよいからである。

 ただしその場合、教師がはっきりと自分の解釈やイメージを持っていることが必要になる。教師が自分の解釈やイメージをはっきりと、しかも多様にもっていることによって、子どもたちに豊かに問いかけ、子どもたちの多様な考えを引き出したり、子どもたちの考えを拡大したりすることができるからである。また、子どもたちの考えを反ばくすることによって、子どもたちの考えをさらに高めたり変えたりしていくことができるからである。」

☆P193「それはこの教頭の先生は、音楽の教師ではないから、合唱の指導の方法や技術は持っていなかった。しかしこの先生は、子どもたちが歌っている楽曲に対する解釈とかイメージとかは十分に持っていたのだった。そのため、子どもたちの表現の弱さがよくわかり、「まだだめ、まだだめ」と云っていたのだった。子どもたちもまた、さまざまに歌いなおし、その結果、自分たちの合唱をつくり変えていったのだった。教師の教材解釈とか教材に対して持っているイメージとかは、授業においてはこのように重要なものであり、授業を支配し授業の方向とか質とかを決定していくものである。

 しかし授業はそれだけでできるものではない。教師が教材に対しての解釈を持ち、イメージを持っていれば、それだけで授業がつくり出され、子どもの持っている可能性が引き出されていくなどというものではない。もしそうなら教師という専門家など必要でなくなってしまう。教材に対する深い解釈とかイメージとかを持っている人なら、だれでも授業という仕事が簡単にできることになってしまう。

 授業はそういうものではない。やはり授業は一つの専門的な仕事であり、専門の教師の力によってつくり出されていくものである。専門の力量を持った教師が、学校という力をつかい、授業という仕事の持っている本質的な力をつかっていったとき、はじめて、すべての子どもたちは、自分の力を引き出したり、そのときどきに自分を新しくつくり変えたりするようになっていくのである。」

※この主張はこの前段の教授論とどう関連しているのかは重要な問題となる。一応単行本というくくりで連続性が認められるが、他方で雑誌掲載部分と書き下ろし部分という違いがある。ここでいう「解釈」とは、本当にp46-47やp184-185でいう「解釈」の話と同じことを言っているのか??

 

P193-194「そう考えたときまず第一に必要なことは、教師の人間の力である。教師の力量とか人間性とかが豊かであればあるほど、授業は豊かになり子どもたちも豊かになっていくからである。人間的に貧しい教師からは、貧しい授業や子どもしか生まれないのであり、豊かな授業とか豊かな子どもとかは、必ず豊かな教師から生まれてくるからである。

 それは、人間的に豊かで力量のある教師は、教室に立っているだけでも子どもたちに豊かなものを与えていくからである。また教材に対する解釈とかイメージとかも、豊かなものを持っており、しかも、子どもたちの事実に即応し対応しながら、自分のそれまでに持っていた解釈とかイメージとかを、さらにふくらませたり変更していったりする力を持っているからである。また、子どもたちの事実を、一方的に固定的にみて限定してしまうのではなく、子どもたちの出す事実を拡大したり、子どもたちの表現の底にあるより深い真実を見ぬいて表面に引き出す力を持っていたりするからである。」

P195「教師が教材を解釈し教材へのイメージを持つということは、決して単なる一般教養としての解釈とかイメージとかではない。単に楽譜が一般的に読め、国語教材の語句の意味がわかり、数学の教材の答えが出せるということではない。それは一般教養としてとうぜんわかっていなければならないことであり、そういうものが常識としてわかっている上に、それぞれの教材に表現されているものはもちろん、その底にあるものまでも読みとり、自分なりの解釈なりイメージなり課題なりを持つということである。」

P195「授業は教師がそういうものを持ち、自分の持った解釈なりイメージなり課題なりを、子どもたちの前に投げ出し、子どもたちといっしょに考え追求していったとき成立するものである。したがって、教師でなくとも誰でも、一般的な教養としてとうぜん持っていなければならないももだけを持って授業にのぞんだのでは、授業は常識的なものになり、子どもも常識的で通俗的な考えしか出さなくなるのはとうぜんのことである。まして一般的な解釈さえできないとすれば、授業が雑なものになり形式的なものになってしまうのはとうぜんのことである。

 教師の人間の力とか、力量とかは、一人の人間としての力であり力量であるとともに、このような教材への深い解釈とかイメージとか、追求力とかのふくまれているものである。そういうものをもった教師が、教室にのぞみ授業にのぞんだとき、授業は豊かなものになり、生き動いたものになり、子どもたちもそういう授業のなかで、心を開いて自分を出し、自分をつくり変えたり自分を豊かにしていったりするのである。」

※この部分を読む限り、教頭の事例における「解釈」はその前で議論していた「解釈」とは違うものである。

 

P197「そういう意味(※技術、技能は人間性によるものという意味)では、教育の場での技術とか技能とかは、まったく個性的なものであり、その人間なりその人間のやる授業なりから切り離して考えることはできないということも云える。技能はともかくとして、技術は、そのなかに一般化せる原則なり法則なりをふくんでいるものであるが、教育の仕事の場合は、そのようにわりきってしまうことのできないところもある。技能はもちろん、技術もまた、授業が質の高いところへ行けば行くほど、その人間にくっているものになり、その人間の内容とか力とかによって、生きたものになったり死んだものになったりするということも云えることである。」

※技術、技能が何を指しているかわからないが、例として「合唱の指導」における「右手を前に出す」ことが挙げられる(p197)。これは「子どもたちにイメージを伝えたり、身体の使い方を伝えたりしてく」手段の一つとして用いているという。

P199「それは教師の使う技術とか技能とかは、あるきまったものを、そのまま教えるためのものではなく、子どもが本来もっている力を引き出し別のものにしていくためのものだからである。したがって一つのものだけを示すのでなく、教師が自分の内面にあるものを、身体や言葉のすべてを使ってさまざまに表現すればするほど、子どもたちはそれをみて、自分の内部にあるそれぞれのものを豊かに引き出し拡大していくのである。

 そう考えたとき、教師のつかう技術とか技能とかは、どんな場合でも一方的にあるのでなく、相手の事実にしたがって、つくり出されたり使われたりしなければならないということになる。」

P200-201「技術とか技能とかを使う場合、教師の感覚ということも非常に重要なことになる。技術とか技能とかは、もともと実戦での事実経験と、事実のなかにある論理的なものとが綜合され結晶されてつくり出されたものである。したがってそうおう技術とか技能とかを使う場合は、教師の感覚とか直感とかが非常に大切なものとなってくる。」

P204「四番目に授業として気をつけなければならないことは、選択し省略していくということである。授業全体をとおして教材の内容を選択し単純化し授業を明確なものにしていかなければならないのだが、そのためにはまず子どもの発言を選択し省略していくことが必要になる。

 子どもたちは、教師の触発とか他の子どもの発言とかを契機にして、自分のなかにあるさまざまなものを出してくるのだが、それらのすべてを取り上げ問題にしていったのでは授業はごたごたしたものになり、平板でとりとめのないものになってしまう。したがって教師は、子どもたちのさまざまな発言のなかから、授業で発展していくための重要なものを選び出し、幾つかの問題にしぼって追求させていくということが必要になる。」

※以上「授業と教材解釈」(1975)

 

P221「教師の創造力は、教師が絶えず知的発見の喜びにひたり、自分を成長させていっているかどうかによってきまってしまうものである。教師が一人の人間として、より高い真理とか美とかに対してあこがれを持ち、より深く高く近づこうとして、具体的に追求していっているかどうかによってきまってしまうものである。」

P222-223「そう考えると、授業においては、はじめから客観的なものとか一般的なものなどないのである。教師と子どものそれまで蓄積した知識や経験や創造力を、エンジン全開に活動させ、そのときどきの対象である事実を打ち破り、事実を新しくつくり出していくことがあるだけである。しかもその場合、教師の知識とか経験とかから出た創造力が豊かであるかどうかが、授業を創造的なものにするかどうかのわかれ目となる。」

P226-227「教師が子どもの事実をよく見ることによって、適切な方法とか技術とかはつくり出され、ほとんどの子どもが自分を引き出す障害となっているものを除去し、気持よく自分を表現し、自分を新しくつくり出していくことができるようになるものである。

 そういう意味では、へんに規範を示したり、一般的な説明などすることをやめて、子どもの事実を観察し、そのなかからよいものや悪いものを発見し、全体のなかに問題を提示し、新しい事実をつくり出していくようにすべきである。そういうことこそ授業での創造ということであり、そういうことこそ、子どもが自分をつくり出すことを補助する教師の仕事である。子どもの持っているものを引き出し、子どもが自ら自分をつくり出していく作業を補助し育てるという教育の仕事である。

 そのためにまず教師は、一度、いっさいの説明とか規範を示すこととかをやめてみるとよい。いっさいの説明とか規範を示すこととかをやめ、子どもに発言させ行動させるための工夫をし、そこに表現されている事実をみつめ、事実にしたがって方法を考えるという努力をしてみるとよい。

 そういう努力をすることによって、一つでも子どもの事実がわかったら、教師はまたそこから学び、つぎの方法を考えていけばよいわけである。それこそ事実にしたがっての創造的な仕事なのであり、そういう努力を積み上げていったとき、教師も子どもも、事実は無限に豊かなものを持っており、無限に発展していくものであることを知るようになる。創造的な授業は、一回限りの完結のないものだということも知るようになる。」

 

P235「そう考えないで、学級集団とか学習集団とかを絶対的なものとし、学級集団とか学習集団とかをつくることを目的とするようなことがもしあるとすれば、それは本末顛倒であり、おそろしいことである。目的とした学級集団とか学習集団とかが、もしまちがっていた場合は大へんなことになるからである。また、固定的な学級集団とか学習集団とかを目的として、そこへ全員を向かわせるというやり方では、創造は生れないどころか、「ボロ班」などという蔑視と制裁が生れるだけだからである。」

※全生研の議論は曲解することしかできない言い方。「ボロ班」という言い方そのものを認めていない。

P237「授業を構成し、授業を創造的なものにしていく起爆剤となるものは、教師の技術であり、とくに教師の発問とか説明とかである。教師のすぐれた発問とか説明とかが、子どもの思考や発言をうながし、表現させ、それらを関係させ合わせることによって、一人一人の子どもや学級全体のなかに、活潑に新しい課題をつくり出し、全員をその課題に向って追求させていくようになるからである。」

※ここでは技術を「ツール」のようなものではなく、抽象的な発問の仕方に求める。

 

☆p253「そういう意味で教育の仕事、授業をつくり出す仕事は極めて創造的なものだということができる。教育の仕事、授業の仕事は、日常生活そのままではなく、日常生活を否定していくところに意味があるからである。それまでの固定的・概念的な知識を一方的に教え込もうとするのではなく、子どもの持っている固定的・概念的なにせの知識を打ち破ったり、いままで意識しなかったものを発見させたり、新しい疑問や課題をつくり出させたりしていくものだからである。」

※このような態度は「何が必要か?」を問えるのかどうか。

P254「こうなっている原因の一つは、一般的にいままでの多くの教師が、形式的な仕事をしたり、またさせられたりしてきたことにある。教育の仕事、授業の仕事を、創造的なものとし、つくり出す仕事としないで、一方的に教え込み、その結果を子どもの責任として評価するだけの事務的官僚的な仕事をしてきたことにある。」

P254-255「もちろんそればかりではないにちがいない。教師が教育の仕事しか知らない。しかしそれもほんとうには知らないとか、自分の専門を持っていないとか、他の芸術文化に深くかかわっていないとか、交友の範囲が狭いとか、さまざまの原因が他にもあるかも知れない。しかし直接に何よりも大きな原因は、事実にしたがって自分の独創的な仕事をつくり出し、実践によって自分を高め自分をつくり出していないところにある。」

☆P256「数年前のことであったが、全国教育研究所連盟の調査で、授業についていける子どもは五十パーセントしかいないということが質問を受けた教師の大半から出たと報告され、新聞などでも騒がれたことがあった。しかし私にはそうは考えられない。固定した知識だけを一方的に教え込み、その結果だけで人間を差別し選別しているような授業をしていればそういうこともあるかもしれないが、まっとうな授業をしていればそんなことはない。」

※「そもそも目標設定が違うだろう」という批判で終わりかねない。

 

P264「したがって授業は、子どもの可能性を引き出しつくり出すような創造的なものになっていかなければならない。そういう本質的な授業をつくり出さないで、形式的な授業によって、子どもの卑俗な名誉心や競争心や、子どもの恐怖心をつかって勉強させるようなことがあるとすれば、それは授業とは云えないものであり、そういう授業によっては、子どもの可能性を引き出すどころか、子どもを一つの型にはめ、子どもの可能性を押しつぶし、子どもに差別感や劣等感や反抗心を持たせてしまうだけである。」

※やはり全生研的な価値観は全否定にしかならない。

 

P292「そう考えると、とうぜんのことだが、政治の問題も社会の問題も、すべての教育が引き受け教育が責任を持つなどということはできない。それと同時に、社会や政治が悪いから教育の仕事によって子どもの可能性を引き出すことは不可能だなどと考えることもできない。

 いまの社会に生きている教師は、そう考えて、教師の仕事を狭く限定し、質をとり出していったとき、教師としての責任をはたすことができるわけである。教育という仕事によって、いままでの概念とはちがう、豊かに開かれた子どもたちは生み出され、いまの社会情勢のなかでも、子どもたちはこんなにもすぐれたものをもっているのだという事実を示すことができるのである。そのことによって世のなかの考え方を変えていく力とすることもできるのである。」

P294-295「教育の仕事は、教師や教育研究者が、精神の飢えを感じることによってつくり出されていくものである。絶えず自分自身や対象である子どもたちの現実に対して飢えを感じ、そこから抜け出そうとして、何かを求めつづけることによって、はじめて創造は生まれるからである。飢えを感じないということは、現状に満足し停滞し固着していることであり、自分や対象の現実に鈍感になっていることである。これでは創造的な教育の仕事などおよそ関係のないところにいるわけであり、子どもを固着させ停滞させてしまうだけである。」

※どうしても斎藤の議論はこのような精神論を無視できない。しかしこの主張は誇張である。

P296「終末的状況にある日本の現実のなかで、教師としてできることがあるとすれば、すべての子どもの持っている可能性を引き出すような質の授業をつくり出す以外にない。また教育研究者も、他のすべてを捨ててでも、授業という現実のなかに深くはいり込み、質の高い授業をつくり出す支えとなる。実践的な教授学をつくり出す以外に道はない。

 子どもたちはどれだけのものを持っているのか、子どもたちの可能性はどれだけ開花していくのか、私の見た経験においては、まったく無限である。それは学校なり教師なりの力が高まれば高まるほど子どもたちは不思議なほどにすばらしい力を出してくるからである。学校教育においては、すべてが学校や教師の力量にかかり授業の質にかかっていることである。」

 

P302「どの子どももが「無限の可能性」を持っているということは、信念とか希望とかいうことではなく、動かすことのできない事実である。すでに多くの研究者も実践者も、各地のすぐれた実践のなかで、目を見はらされるような事実を数多く見せつけられ ていることである。

 しかし子どもたちの持っている無限の可能性は、表面に現れているものではないし、また固定しているものではない。子どもたちの心の奥深くにひそんでいるものである。したがって学校教育においては、子どもたちの心の奥深くにひそんでいる可能性を、教師の授業という作業によって触発し引き出していかなければならないものである。

 そういう作業は、多くの場合、子どもたちが社会の影響を受けて持っている。通俗的なものとか形式的なものとか常識的なものとかを否定し、深部にあるよいものを見つけ出すことによって可能になる。教師が、教材の本質とか、教師として持っているものとか、子どもの発言や行動をもとにしながら、子どもたちの表面にある通俗的なものとかを否定し、別のものを引き出していったとき、子どもたちは、それまで持っていた通俗的なものとか形式的なものとかを自ら否定し、自分のなかにある本質的なものを生き生きと表に出してくるからである。

 子どもたちは、どの子どもでも、深部に必ずよいものを持っている。そういう子どもたちの持っているものを触発して表に出させ、それを見つけ、どんな小さなものでもとらえ、細い糸をたぐるようにして引き出していくのが教師の仕事であり、子どもたちの可能性を引き出す授業の中核となるものである。そういう仕事が授業のなかで意識的に集中的に行われないとしたら、それは授業とは云えないものである。」

 

P305「子どもたちは、直接的に本能的に、よいものと悪いものを感じとる力を持っているし、また、よりよい方向に自分を前進させていきたいというねがいを持っている。それはどの子の場合も、どんな姿になっておる子どもの場合も同じである。」

☆P306「そういう意味で授業は、どこまでも教師が中心になり、教師が子どもを触発したり子どもの事実に向って具体的に手入れをしたりしていくのである。そのための教師の力とか技術とかを必要とするものである。そういう教師の作業をぬきにして、一方的に一般的な知識だけを羅列的・網羅的に教え込んだり、自主学習などと云って、低い次元での学習を子どもたちにさせているのは、子どもの可能性を引き出しつくり出す授業とは本質的にちがうものであり、授業とは云えないものだと考えてもよいことである。

 授業とはどこまでも教師の具体的な作業であり、対象である子どもたちの事実を動かし事実を変えていかなければならないものである。事実を動かすことによって一人一人の子どもにも、学級全体の子どもにも、また学校全体の子どもにも、事実はわかるものであり、一人一人の可能性も無限であり無限に引き出され変っていくものだということを学ばせていかなければならないものである。」

※この前提は、斎藤の著書全体でぶれていない。

 

P312「したがって授業においては、子どもたちが心をひらいて、さまざまの自分の考えを言葉なり行動なりで表現するようにさせるこが基礎になるが、それらをすべてとり上げていくことはできない。子どもたちの発言をすべてとり上げることが平等であり民主主義であり子どもを大切にするなどというものではない。子どもたちが自分の主体をかけて出すさまざまの表現のなかから、必要なものの幾つかを選び出し、学級のなかに新しいものがつくり出され、その結果として他の全体も生きるように組織し構成していくことである。」

※この主張は、直ちに「それが可能なのか?」という問いを想起せざるを得ない。

☆P317「ついで問題となることは、教師の持っている綜合的な力の不足である。授業をつくり出していく仕事、授業を構成していく仕事は、極めて創造的なものであり、創造的な仕事は、事実を対象にし、事実を媒介にしながら、その人間の持っている綜合的な力をつかっていったとき、はじめて可能になることなのだが、教師が一般的に綜合的な力においてやせているということである。

 教師の綜合的な力とは、物を見る目であり、人間を理解する力であり、教材を深く解釈し、そのなかから新しいものを発見する力であり、事物や人間の相互の関係のなかから新しいものを見出し創造していく力であり、また他の事物や人間とやわらかく対応できる力である。さらに云えば、単に教師という狭い世界だけでなく、学問とか芸術とか人間とかの、より広い世界に教師が住んでいるということである。

 授業を組織する仕事は、単なる技術的なものではないから、そうおう綜合的な力を教師が持っていたとき、はじめて授業は豊かに組織され構成されていくようになるのである。」

※結局こういう主張が出てくるし、こういう結論でないと斎藤の議論は擁護できない。しかしこれは極端に「なんでも教育する」態度と結びついてしまっている。

 

P371「そういう体育の授業を考える場合、見落としてはならないことは、教師の美意識とか美観とかの問題である。教師の仕事はどの教科の場合でも、教師の美意識に支えられ、教師の人間観とか倫理観とかに支えられて成り立つものだが、体育の授業においてはとくに教師の持っている美意識が重要な問題となる。……

 子どもたちの行動をみる場合、旧軍隊のドイツ式の歩き方とか、ヒットラーの親衛隊の歩き方をも美しいとする教師があるとすれば、その教師の指導する行進はそうなってしまうにちがいない。しかしそれらは美しいどころか、みにくいものであり滑稽なものであり、没個性的なものである。

 そういうものは否定されなければならないものである。そうでなくても子どもたち一人一人が、自分の持っている内容を、また行進のなかで新しくつくり出された内容を、一人一人が個性的に表現し、しかも全体が一つの統一を持ち個性を持ち豊かな表現を持っているものをこそ美しいとしなければならないことである。」

※美的感覚に善悪を結びつける発想はそもそもがおかしい。

P384「しかしこの場合の技術は、単に教師が一つの知識を一方的に子どもに教え込むための型にはまった技術ではない。どのようにして子どもが本来持っている力を引き出し拡大し別のものにしているかを目的にしているものである。

 したがって授業での教師の指導の技術は、絶えず教師の人間とか、具体的な子どもへのねがいとか、教材とか、子どもの現実とかにしたがってあるものであり、つくり出されたり使われたりしていくものである。決して子どもを一つの型に入れるためにあるものではなく、教材とか子どもの事実とかにしたがって、そのときどきに流動し、生きて働くものとなっていなければならないものである。」

P385「教師の指導技術には、そういう芸術的とも云えるものが非常に多い。もちろんそうではない職人的技術、一般的技術とも云えるものも多いがそれだけではない。また職人的な技術であり、誰にでもできるような一般的技術の場合でも、それだけが独立してあるのではなく、教師の人間の力とか、洞察力とか、芸術的な感覚とかが、大なり小なりくっついており、それなくしては生きた働きをしないのが教師の技術である。」

☆p386「こう考えてくると、教師の技術は大へん人間的なものであり、教師の人間にくっつき、教師の人間から生れてくるももだということができる。しかも授業という事実のなかで、そのときどきのクラス全体なり、一人一人の子どもの事実なりにつきながら、新しくつくり出されてくるものだということになる。

 ところが教育の世界では、そういう人間的であり芸術的とも云える教師の技術にほとんど関心がなかった。それはいままで、教育実践においても教育研究においても、そういう技術を必要とするような実践が考えられなかったからであり、一般的な形式的な授業が授業だと思われ、それでよいとしていたことが多かったからである。

 しかしどの子どももが、どんなにすばらしいものを持っており、どんなに成長したいとねがっているかを知れば知るほど、教師は、どんなにでもして子どもをよくすることを考えなければならないことである。とくに、そのために役立つ生きた技術を学び、つくり出し、自分のものとして持ち、それを専門家としての力量としていかなければならないことである。そういう力を持っていないかぎり、専門家とは云えないのであり授業は成立しないのだと考えなければならないことである。」

※この主張の是非は大いに議論されねばならない。

 

P394「しかしそのような力を持つためには教師は、単に教材とか授業とかにおいても追求創造の体験をするだけでなく、他の学問とか芸術とかの世界での追求創造の体験を持っていることが必要になる。そういうものを持っていたとき、教材の本質を教材全体から直観的にとらえたり、教材に表現されている部分から、その底にあるものを深くさぐっていったりすることができるのである。」

P403-404「教師の仕事は、医師の仕事に非常に似ている。複数にいる子どもの状況を、その深部にあるものまで確実に把握し、それに働きかけ手入れをすることによって、一人一人の持っている可能性を引き出し、子どもの成長を十全に助けていかなければならないものである。

 そういう力を持っているとき、教師ははじめて専門家と言える。しかし現在の日本の教師は、そういう力を持つような訓練を受けていないし、訓練を受ける場も持っていない。そうなっているのは、日本の教師や教育研究者にもちろん責任があるが、それ以上に、教育界とか教育行政とかに大きな責任があると言ってもよい。

 日本の今までの教育界や教育行政は、教師の専門的な力量によって、子どもの可能性を画然と引き出し花咲かせるような仕事よりも、画一的で形式的な仕事をのみ要請しつづけて来たからである。創造的な教育の仕事をすることによって、どの子どもをも生かし成長させるなどということよりも、ただひたすら、画一的で無難な仕事をのぞんで来たからである。

 そういう世界では、専門家としての力量を持った教師など必要はない。専門家としての教師を育てなかったのも、また育たなかったのもとうぜんのことである。」

 

P442「またそれは、とうぜんのことであるが、豊かな創造的な授業をつくり出すためには、どうしても、教師が豊かな人間になっていなくてはならない。さらに、みがかれた感覚を持っていることが必要になるし、教師としての、生きて働く技術とか技能とかを持っていることも必要である。そういうものがあったとき、いっそう創造的で楽しい、深い授業も生れてくるのである。

 もちろんそういうものは、授業という実践をしていくうちにもつくられていくものだが、それだけでは狭いものになる。やはり他の広い分野の、すぐれたものから基礎的なものを学んだり、自己訓練をしていったりすることが、どうしても必要になる。」

※当然の要求をここでしてしまってよいものか?

P444「無限の可能性を内に秘めている子どもたちのなかから、新しい形を生み出し、つくり出すということは、一つの冒険であり、創造である。ときには何の新しい形もつくり出し生み出すことができないということも覚悟しなくてはならない。……

 もともと無限の可能性とは、現実の事実として表に出てみないかぎり、どういう可能性があるかは、だれにもわからないものである。これは個人においても、クラスとか学校全体とかの集団の場合も同じである。」

※そういえば、「いかに可能性が引き出せたか」という実例の提示は一切ない。観念論でしかない。

P462「子どもたちは、自分を未熟な教師だと感じ、子どもたちに申しわけないと思っている教師に、人間的に引きつけられるのである。またなんとか力のある教師になろうとして、必死になってさまざまの勉強をし、子どもたちからも真剣に学びとろうとしている教師に、学ぶ人間としての共感を持つのである。そしてそういう教師に親しみを感じ、その教師を応援しようとさえするのである。」

※なぜこのような子どもの心理を先回りして理解できるのか??問われるべきはここに「無関心である」という可能性が配慮されないのはなぜか、という点である。すでに教師と児童の関係性が確定してしまっているのはなぜか、という点である。やはり、このような観点は中学校以降には基本的に想定し難いように思える。

 

P473以下、波多野完治の解説…「しかし、斎藤の教授学には反面、欠点もある。この欠点は、斎藤の授業実践にはないもので、つまり斎藤の「理論」の欠点であり、理論と実践とのワレ目に生じたものであるから、生前斎藤がこれを知ったならば、かえってよろこんだのではないか、とおもわれる。

 それは、斎藤が「科学」という概念で、機械的な、反復可能なものだけを考えていたらしい、ということである。」

☆p474「わたしは、斎藤がまちがった、というのはここである。斎藤は、教育科学とは一般化をするのが目的だ、とおもっている。

 教育科学の中には、もちろん、そういう作業目的もある。しかし、それは、教育科学の中の、いわば副次目的である。これをかりに「実験的目的」とよぶならば、そういう目的は、十九世紀科学目的である。授業の科学は、そういうやり方だけでは可能でない。

 実験的目的の外に、「歴史科学的目的」というものがあり、授業に際しては、この方が大切なのだ。斎藤が「授業入門」の中で、「授業は一つ一つみなちがった創造的ないとなみだ」といった、そちらの方の「科学」である。斎藤は、これを「科学」とは考えなかったらしい。」

※ある意味でこの批判は斎藤の理論の根本的な批判点であり、至極正しい。ただ、より正確には、「一般的」であることを不用意に批判しかできないのが斎藤の理論の根本欠陥なのである。この事実を斎藤が知ったとしても、修正できたかは極めて疑わしい。

板倉章「黄禍論と日本人」(2013)

 今回は、西尾のレビューで取り上げた「黄禍論」についての本である。

 本書は19世紀から20世紀にかけて、中国人・日本人の海外への進出について、特に「人の多さ」をもって支配されるのではないのか、という議論にはじまる「黄禍論」について、諷刺画を中心にしてその受容のされ方を考察したものである。

 まず、新書であるにも関わらず、この諷刺画の紹介があまりにも豊富なことに驚いた。特に黄禍論はドイツの皇帝であったヴィルヘルム二世による絵画というのが一つ重要性を持っているが、この絵画のパロディとしての諷刺画があまりにも多く描かれていたことがわかる。本書の副題は「欧米は何を嘲笑し、恐れたのか」であるが、基本的に本書がとらえる黄禍論というのは、「まともに取り合う必要のないもの」として嘲笑の対象とされている傾向の強いものであったといえる(これは諷刺画そのものの性質であるから、ともいえようが)。

 

○「ドイツ人は内省的である」は正しいのか?

 

 西尾は特にドイツ人について、他国のことを気にしながら恐怖感を自覚するようなことはなく、あくまで自らの文明のなかにそれを見出すことができるものだと断言していた(西尾2012,p140)。しかし、本書でも中心的な位置にいるヴィルヘルム二世の思想は極めて典型的な「他者との比較」をしたがる思想であることははっきりしている。結局ヴィルヘルム二世は中国・日本を脅威として捉え、ヨーロッパが連帯する必要性をしつこく述べ続け、それがしばしば西欧至上主義的・差別主義的な観点から語られ続けたこと、そしてそれがほとんど被害妄想としてしか語られていない傾向があったことがあったがゆえに「嘲笑」の対象にもなったといえる。

 確かに被害妄想の激しいヴィルヘルム二世は一般的なドイツ人とみなすにはあまりにも例外的である(※1)から、西尾の議論の批判にならない、という言い方は正しい点がある。しかし、特に目を向けなければならないのは、一つにヴィルヘルム二世が「ドイツ人を代表する」立場にいた人間であって、その影響力を考慮するのであれば、簡単に例外として取り扱われるべきではないということ、そしてもう一つは、西尾の議論の根幹にある「文明の変わらなさ」こそが、このような奇怪な思考の持ち主を「皇帝」としたという見方も成り立つのであり、ドイツ文明(文化)の産物として無視する訳にはいかないだろうという点である。特に「社会問題」という枠組みで考えるならば、「一般大衆」であることと「例外的」であることは別物であり、「例外的」であるものこそ「社会問題」の対象とされ、しばしばそれがあたかも国民性の本質であるかのように語られる言説があることは私のレビューの中で繰り返し述べてきた訳だが、そのような観点からしても、安易に例外処理として排除する訳にもいかないように思えるのである(結局、西尾も基本的にはこの間違いがちな「社会問題」のフレームで日本人全般のことを語っているように見える)。

 もちろん、例外をヴィルヘルム二世だけに見いだせる訳ではない。黄禍論に関する著書としては古典となるハインツ・ゴルヴィツァー「黄禍論とは何か」では、ドイツ人の歴史家アルプレヒト・ヴィルトの発言として、次のようなものを紹介している。

 

「ドイツ人というのは、いつまでたってもすぐに感動する民族である。ちょっと強い印象を受けただけでもう仰天してしまう。そしてわれに返ったときには、祖国ばかりかヨーロッパ中があやうくなってしまっているのだ。はじめはユダヤ人が世界を飲みこんでしまうのを見た。それから次はアングロサクソンが世界を征服した。するとその合間をぬって黄色人種の脅威が出現し、ヨーロッパ中が苦力と仏教徒で埋もれてしまうなどと予言するものさえいた。つまりわれわれは、おびただしい数の中国人におびえたり、日本人がつくったマッチ棒の経済効果にまゆをひそめたりしたものだ。」(ハインツ・ゴルヴィツァー「黄禍論とは何か」(1962=1999),p194)

 

 もちろん、このような言説自体に意味があるとは私は思っていない。問題なのは、この主張がいかなる根拠に基づいて語られているのかの一点に尽きる。ここでの「民族性」は他の民族と比較してそう述べているものなのか、という点も含めて、何も参照点のない文字通りの「主観論」でしかないままに、このような国民性の主張がなされてしまっていることが問題なのである。そして、西尾の議論というのも、この域からほどんど抜け出せていないのに等しいのである。

 

○「日本人は他者の眼を気にする」は正しいのか?

 一方で、黄禍論周辺において日本が取り上げられる際にしばしば述べられているのは、日本の指導者層が他国の黄禍論の動向に対して極めて敏感であり、その影響を強く受けていたという点である。これは欧米の指導者層の立場とは対照的に語られもする。本書ではp72,p99-100,p189にあるような記述である。

 何故このような態度の違いが認められるのか。この説明の際にはp72のような議論のされ方がなされる。一方で西洋に追いつくために必死であったという見方と、他方で「差別」されることに対する忌避観のようなものという見方も垣間見れるような言い方である。別の著書においては、第二次世界大戦における日米の態度の違いおいて、次のようにも指摘される。

 

アジア主義が日本の戦争政策決定において大きな力を持つことになったのに対し、黄禍論的思考がアメリカの戦争政策決定においてそうではなかった理由は様々に考えられるが、一つの要因としては、そもそも日米関係、アジア主義と黄禍論の関係が、差別される側と差別する側という非対称的なものであったことが挙げられよう。差別される側が、優位の力に抵抗するために提示したのがアジア主義である。そういった意味ではアジア主義は、対抗的な地域主義といえるかもしれない。」(廣部泉「人種戦争という寓話」2017,p233)

 

 何故欧米に追いつくことがそこまで至上命題になっていたのかという疑問はまだ残るものの、当時の日本においてそのような態度があったことを否定するには実証的な議論も多く見受けられるように思える。その意味に限れば、「日本が他者の眼を気にする」という性質は、確かに正しいといえるだろう。

 もちろん、ここから直ちに「日本人全般」の議論に拡張できるわけではないし、欧米人がそうでないという結論は見いだせない。また、程度問題として(他者の眼を気にするのは日本に限らないが、日本の方がその傾向が強い、という議論の可能性はあるという見方で)いかに議論するかという課題も残る所である。

 

※1 もっとも、本書においては、p87-88のように、ヴィルヘルム二世の言説が与えた影響として排他的態度を広めたことを認めているが、この因果関係については、明確な説明が必要な所である。態度の取り方は同じであったとしても、影響力を与えたかどうかというのは、別の問題であるからである。本書からはその点に対する根拠がどれ程のものかは全く見いだせない。

 

<読書ノート>

P10「本書で取り上げる西洋の諷刺画は、大まかに言えば、人種主義を所与のものとして内部に組み込みながら発展してきたとも言える。従って諷刺画には「人種主義」を前提としてそれに基づいて笑いを構成しているものもあれば、逆にそれを笑いの対象として批判しているものもある。さらに、作者さえ意識していたかも定かではない形で、諷刺画の細部に人種主義的な表現が巧妙にまぎれこんでいることもある。」

P43-44「黄禍に関する言説は政治思想の性格を強く持っているが、実際にはその範疇におさまりきらない多義的な概念であり、イメージとして一人歩きしやすかった。黄禍は、国際政治の論題として語られたこともあれば、B級映画のトピックにもなったのだ。『ザ・タイムズ』などの高級紙や欧米の一流評論誌で論じられたこともあれば、大衆小説や煽情的な大衆紙の題材としても大いに活用された。黄禍という表現は、あまりにも誇大妄想的で、それが説かれた当時でも一笑に付されることも多かった一方、ヴィルヘルム二世がしたように、国際政治の舞台でプロパガンダの道具として活用されたこともあった。この時期に流布した黄禍の脅威が、後の太平洋戦争において人種主義的対立を煽る役割を果たしたこともある程度言えよう。」

 

P52-53「この寓意画(※ヴィルヘルム二世の寓意画)を媒介として、黄禍の脅威が流布したという事実は、黄禍とその脅威を説く言説が、ある意味で感覚的で映像的なイメージに依拠していたことを示している。黄禍は実際、このような漫画的な方法で訴えるのにふさわしい題材であった。その科学的な根拠は曖昧であったが、白人種の人々の意識、固定観念のなかに根を下ろした人種的優越感と、その優位が脅かされる危機感に直接訴えかけるには、幾十もの論説よりも一幅の寓意画のほうが有効な場合もあろう。」

※本書では、この寓意画のパロディである諷刺画が山ほど紹介される。

P69「カイザーの寓意画はこのようにさまざまなパロディを生んだが、カイザーが意図した、東アジアの黄色人種が喚起する脅威を題材にした諷刺画はすぐには生まれなかった。むしろ、東アジアを応援するかのような諷刺画が登場している。」

日露戦争中まではその傾向は強かったということか。

P72「細かい経緯はともかく、明治天皇にカイザーの寓意画を上奏したというこのエピソードは、当時の元老たちが、いかにこの寓意画を重要視していたかを物語っている。明治期の実質的政策決定者であった元老たちがそのときどう思ったかはわからない。文明化、すなわち西洋流の近代化を理想とし、それをある程度果たしながらも、当時の国家のヒエラルキーにおいて、非西洋人の国家であるがゆえにいつまでも文明国の地位を認められないのではないか。そう懸念したかもしれない。ただ、元老たちはたとえそのような意識を持っていたとしても、当時、排外的な行動に走ろうとはしなかった。この点は留意しておく必要があるだろう。」

※それだけ「文明国」へのこだわりが強かったということ。

 

P87-88「カイザーのこれらの演説は、人種差別を超え、人種戦争を煽るものだった。当時の西洋の新聞・雑誌においても非難されている。たとえば、カイザーはこう叫んだ。「汝らが敵に遭遇すれば、奴らは打ち負かされよう! 赦しなど与えられない! 捕虜とする必要などない!」と。ドイツ公使の殺害で興奮していたとはいえ、捕虜を取ることも否定する非人道的な内容である。……

このようなカイザーの発言は、黄色人種に対する憎悪を国内・国外でかき立てた。そして、清国に着いてから遠征軍によって行われた暴虐・略奪につながっていった。」

P96-97「イギリスの移住植民地として発展したオーストラリアは、この頃、アジア人をはじめとする有色人種を排斥する白豪主義を推進していた。白豪主義は、一九世紀半ばのゴールドラッシュによって人口が急増したあげく、労働力が過剰となったため、低賃金労働も厭わない中国人労働者がまず排斥されたことに由来する。やがてあらゆる有色人種の締め出しへと進み、入国・移住が禁止されるに至った。かくも有色人種に対する人種差別意識の強いオーストラリアの諷刺画だけに、この日中の扱いの差は印象的である。また、イギリスと日本の立ち位置も示唆的である。小さな日本がイギリスに寄り添っているようにも見えるのである。

純化も手伝って、日本が文明や進歩の側、さらにはキリスト教国の一員と同等とまでみなされたことは、西洋の日本認識の変遷を考察するうえでも興味深い。

一方、日本と対照的な扱いを受けたのは清国である。義和団という「暴民」の蜂起、その鎮圧をためらうばかりか、挙句の果てはそれを利用して列強諸国を追い出そうとした清国。欧米の宣教師や中国人キリスト教徒を虐殺し、教会を焼き払った義和団の行為は、否が応でも宗教戦争というイメージを惹起し、そのなかで日本は清国との違いを際立たせたのである。同人種の中国との対比を通して日本が文明国として認知され始めたというのは、皮肉といえば皮肉と言えよう。」

 

P99-100「欧米列強とともに(※義和団事変で)出兵する際、桂太郎陸軍大臣はすみやかに撤退することを考えていた。これは、黄禍論と三国干渉の再現を懸念してのことであった。つまり、日本が撤退せずに居残れば、中国を指導し支配しようとしていると疑われ、また何らかの干渉がもたらされることを憂慮したのである。……

ドイツ皇帝ヴィルヘルム二世の黄禍論は西洋諸国ではもの笑いのタネでもあったが、日本の政策決定者にとっては違っていた。黄禍を裏づけるような行動は、現時点では潜在化している白人西洋諸国の連合を生む主因となるおそれがあると考えられていたのである。」

P109「イギリスがライオンで表象されることは、すでに諷刺画の世界では確立された慣行であった。一方、日本はそれまでキツネとして表されたことはなかった。キツネは西洋文化では狡猾さのシンボルである。さらに、イソップの寓話の一つ、「キツネとライオンとシカ」が文化的背景にあると思われる。」

※その意味するところは「忠実な部下」(p109)。

P124-125「先の三点は日本の脅威を示しているが、この頃(※日露戦争期)の黄禍論の中心主題は、黄色人種の国のなかでも膨大な人口と豊富な資源を有する「眠れる大国」中国の覚醒(近代化)であったことは、先に述べたとおりである。その意味では、黄禍論は中国脅威論である。当時の風刺画家の多くはそのことを理解しており、中国もしくは中国人でもって黄禍を表現していた。」

 

P136「「この頃の日本が目標とした「文明」は、一方では排他的な原理であり、帝国主義による侵略や支配をイデオロギー的に正当化する役割を果たしていた。植民地化や保護国化といった手段による帝国主義的進出は、非文明地域に文明を及ぼすために白人の責務であるといった「文明の使命」、という考えによって正当化された。国際関係においては、文明国の基準に達しない国は、半文明国か未開国として、さまざまな制約を受け、多くの国が西洋列強の支配下に置かれたのである。

もちろん当時から、文明という一種のイデオロギーが持つ偽善性や欺瞞性、排他性を指摘する声はあった。文明の進歩により物質的にも人間社会が豊かになる反面、文明国として認められるためには自国を防衛できる軍事力を持つ必要が実際にはある。文明化は軍事化によって達成されるものでもあったのだ。」

P149-150「一九〇六年四月のサンフランシスコ地震は、三〇〇〇から六〇〇〇人の死者を出し、三〇万人の住民が住む場所を一時的に失った。実はこの地震が、学童隔離問題を引き起こす原因の一つとなった。というのも、地震でチャイナタウンが被害を受け、中国系住民が犠牲になったり別の土地へと移ったため、先に述べた中国人学童向けの学校に大幅な欠員が生じた。これに目をつけたのが、かねてから日本人・韓国人排斥連盟から圧力を受けていた市学務局である。地震の被害を受けた中国人初等学校が一〇月に再開するのを機会に、日本人学童と数名の韓国人学童をそこに移して隔離する政策を、教育委員会を動かして実現しようとしたのだ。中国人初等学校は、東洋人公立学校と改称された。市当局から見れば、排斥連盟の圧力を緩和し、非効率な中国人初等学校の運営も改善するという一石二鳥の政策であった。」

P161「しかし、この(※サンフランシスコの)措置がいかに人種差別的であるかを否応なく世界に知らしめたのは、おそらく日本の新聞である。日露戦争中にはきわめて抑制的であった日本国内の新聞の多くが、この問題ではかなり激昂している。高級紙は自制を促していたが、日本国内での報道はそのままアメリカをはじめとした世界各国で紹介され、日本人がアメリカでの人種差別に憤っていることを伝えた。

諷刺画の世界では、これまで見てきたように、この問題においてアメリカ人の加害者意識を示しているものは見当たらない。問題の発端に人種差別的な措置があったことは忘れられ、むしろ日本との対立やローズヴェルトの介入に焦点が当てられた画ばかりだ。二コマ漫画「ちいさなジャップに起こること」は、アメリカ人のそのような意識を示唆しているようにも見える。」

 

P169-170「日米移民問題は、日本人労働者が北米における具体的な脅威として広く認識されるきっかけとなった。一連の諷刺画を見ていると、そもそもは日本人学童に対するサンフランシスコ市の差別的な措置から始まったにもかかわらず、結果としては以後、黄禍は「日本禍」として受け止められるようになった。

また、日米の問題を扱いながらも、各国の諷刺画に人種主義的な表現や価値観が垣間見えるのは、これらが描かれた国の人々の人種主義的価値観がいみじくもそこに反映しているからだち言えるのではなかろうか。」

※子ども、アリ、そして猿という表現を例に挙げる。そしてオーストラリアのような排他的政策をとっていた国にその傾向が強かったことも示唆している(p166-169)。ただ、発端を排他政策にみるのは少し難がある。すでに19世紀末からあった中国人と日本人の移民問題との連続性も考えなければならない。もちろん、人種差別問題について軽視していたという見方は正しいように見えるが。

P189「しかし、当時の人々の歴史的記憶に寄り添うと、事態は違って見えてくる。(※第一次大戦への)参戦は三国干渉のトラウマを呼び覚まし、それを癒す(そして恨みを晴らす)機会と映ったはずである。事実、参戦の過程で、大隈重信首相はドイツを中国から追い出すことを「三国干渉の復讐」と考えていた。」

牧久「昭和解体」(2017)

国鉄の分割・民営化は、二五兆円を超える累積債務(これに鉄建公団の債務、年金負担の積立金不足などを加えると三七兆円)を処理し、人員を整理して経営改善を図ることがオモテ向きの目的であったが、そのウラでは、戦後GHQ民主化政策のもとで生まれた労働組合、なかでも最大の「国鉄労働組合」(国労)と、同労組が中核をなす全国組織「日本労働組合総評議会」(総評)、そしてその総評を支持母体とする左派政党・社会党の解体を企図した、戦後最大級の政治経済事件でもあった。

 国鉄の経営が単年度赤字に陥ったのは、東海道新幹線が開業した昭和三十九年。それから二十年余。公共企業体国鉄」は、労使の対立と同時に、労働組合同士のいがみ合い、国鉄当局内の派閥抗争、政府、自民党内の運輸族や、組合の支持を受けた社会党の圧力などが複雑に絡み合い、赤字の解消や経営の合理化などの改革案は常に先送りされ続けた。その結果、莫大な累積債務を抱え、ついに「分割・民営化」という〝解体〟に追い込まれ、七万人余の職員がその職場を失うことになったのである。

 国鉄当局も組合も、いずれ政府が尻拭いするだろうという甘い「親方日の丸意識」に安住し続けた。これを打破し鉄道再生を図ろうと、井手正敬松田昌士葛西敬之の、「三人組」と呼ばれる若手キャリアを中心にした改革派が立ち上がり、「国鉄解体」に向けて走り出す。その奔流は、国鉄問題を政策の目玉に据えた「時の政権」中曽根康弘内閣と、「財界総理」土光敏夫率いる第二臨調の行財政改革という太い地下水脈と合流し、日本の戦後政治・経済体制を一変させる大河となった。」(p16-17) 

 本書は国鉄が解体に至る経緯を描いたものである。上記引用が丁度端的にまとめた要約になるだろう。

 国鉄解体をテーマにした著書は思っている以上に多いようであるが、第三者からの目線からできるだけ網羅的に描いたという意味では、良い内容の本であるように思う(十分に比較できていないが)。

 以前新堀通也のレビューで「親方日の丸」言説について取り上げた。この「親方日の丸」は、国鉄がその代表格とされていたと言ってよいだろうが、「社会問題の言説としての『親方日の丸』とは何だったのか」という問いのもと本書も読んだ。p206で交通評論家の角本良平国鉄の状況を「一億総タカリ」と表現したことが言及されているが、まさにそのように捉えられるべき側面があるものと感じたし、「『親方日の丸』がいかなる意味を持ったのか」についても深く考えさせられた内容であった。平成10年に「日本国有鉄道清算事業団の債務等の処理に関する法律」が成立し、国鉄が残した20兆円を超える債務は国の予算から60年間で返済されることとされ、更にはP481にもあるように、国鉄からJR移行時に国鉄勤務職員を転職斡旋した際に認められた不当労働行為を原因にして、訴訟の和解金(1世帯あたり2200万円、単純計算で約220億)の支払いも平成22年に決まっている。「親方日の丸」なるものが本当に問題であるとするならば、その原因はどこにあり、いかに改めうるのかという検討は非常に重要であるように思う。少なくとも、この「親方日の丸」としての国鉄自体も改められるべきものとして、日本における新自由主義的政策の目玉の一つとして、その政策実行の初期になされたものであるという意味合いにおいても、それを批判することの検討においても国鉄の事例は多くの論点を持っているように思える。今後も検討していく予定であるが、今回は基本的な論点をまとめてみたい。

 

 「親方日の丸」としての国鉄を考える際にまず前提としなければならないのは、鉄道が我々の生活に与える影響の変化だろう。鉄道は自動車社会を迎える前の段階において人の輸送・物の輸送において中心的な役割を担っていた。

 

「即ち大都市圏や幹線系の鉄道では、鉄道と住民生活の距離は引続き近いまま推移しました。反面地方ローカル鉄道では住民生活と鉄道との距離が再び開きはじめ、むしろ住民は日常生活で鉄道の存在をほとんど意識しないような状態にさえなっていったといえましょう。ローカル民鉄の廃線が進み、国鉄でも経営再建の一環として特定地方交通線の廃止が勧告され、約2000kmが廃線、バスへ転換する等営業キロの推移にもローカル線を中心に、地方では大きい変化が出るようになりました。鉄道の輸送分担率は国鉄昭和35年の51%から昭和60年の23%に、民鉄は輸送量こそ増えたもの同じく25%から13%へと大きく減少したのもこのような、とくに地方での住民生活と鉄道との再乖離を物語るものといえましょう。」(須田寛須田寛の鉄道ばなし」2012,p18)

 

 したがって、基本的に国鉄は戦後このような変動に対応する必要性がもともとあったと考えておくべきである。端的に言えば、鉄道における「合理化」ということについて考慮し対応をしていくという責務があったということであり、かつそれは実際にそうしなければ運営に支障をきたすことが明確であったという意味で必然的に求められていたということである。

 

 この前提の上で、更に国鉄の運営に負の影響を与えたものとしてよく議論されるのは、以下の三つの点である。

 

(1)営業区域縮小に対する阻害と、更なる開発

 

 前提の影響を受けた採算のとれない線路の廃止というのは、国鉄にとっての大きな課題であったといってよいだろう。実際、黒字収支が出ている路線から赤字収支の路線を賄う、ということが常態化し半ばそれが当たり前であるという見方もあった。例えば、「三人組」の一人であった葛西敬之の指摘によれば、東海道新幹線のみで運営収支を考えた場合、運賃は半分以下でも済んだと言い方をしている(葛西敬之「未完の「国鉄改革」」2001,p153-154)。

 しかし、この赤字路線廃止の議論は政治の影響も大きく受けながら、それが抑制され、更にはその拡大まで図られる傾向があった。

 

 「池田内閣で大蔵大臣に就任した田中角栄は、鉄道による国土開発を主張し、「日本鉄道建設公団」の設立に奔走する。昭和三十九年三月に発足した同公団は国鉄に代わって新線建設を行い、完成した鉄道は、大きな赤字が見込まれても国鉄が引き受けて運営しなければならなかった。赤字を承知の上で作られた地方ローカル線は国鉄のお荷物となっていく。

 田中は『日本列島改造論』で国鉄についてこう説いた。

国鉄の累積赤字は四十七年三月末で八千百億円に達し、採算悪化の一因である地方の赤字線を撤去せよという議論がますます強まっている。……国鉄が赤字であったとしても国鉄は採算と別に大きな使命をもっている。明治四年にわずか九万人にすぎなかった北海道の人口が現在、五百二十万人と六十倍近くにふえたのは、鉄道のおかげである。すべての鉄道が完全にもうかるならば、民間企業にまかせればよい。私企業と同じ物差しで国鉄の赤字を論じ、再建を語るべきではない」」(p124-125)

 

田中首相日本列島改造論は、地方住民を活気付かせたが、地元住民にののしられながら、赤字線の廃止に努力していた国鉄職員の衝撃は大きかった。彼らの努力は否定されたのだ。」(p125)

 

日本列島改造論」という政策提言を引っさげて田中内閣が出現した結果として、国鉄はそれに歩調を合わせることを余儀なくされた。本社の新幹線総合計画部を中心に、列島改造論を踏まえた「日本列島の流れを変える」という投資計画構想が立案された。

 第二次の改定計画では、工事費が一〇年間で総額一〇・五兆円と拡大した。廃案となった計画案が七兆円規模で、第一次再建計画が四兆円程度だったが、本来抑制を図るべきものが大幅に膨らむというプロセスをたどった。この事例は、国鉄の再建計画がいかに政治の流れに左右されざるをえなかったかを如実に表している。」(葛西2001,p44)

 

 田中角栄の「日本列島改造論」(1972)が上記の議論を行う背景として都市化や公害、過疎化といった当時の社会問題があった。そしてその解決として「工業の再配置化」を謳い、それにこたえるだけの鉄道も含めた物流のためのインフラを整備する必要性があるとなされたのであった。確かにこの議論はまず縮小路線に対する阻害になったのは間違いない。

 

 

(2)収入確保=運賃改正に対する阻害

 

 また、高度経済成長に伴う物価の上昇に伴い、運賃の改正というのも必須であった訳だが、国鉄運賃が法により定められていたため、改正に時間を要することも問題となっていた。

 

「しかし、国鉄料金はいつも私鉄より高かったわけではない。昭和五五年度までは、平均して国鉄のほうが私鉄より安かった。国鉄料金の改訂は国会の承認を必要とした。国鉄料金は一般の家計に占める公共料金の支出部門で最も高い。だから、政治家は与野党とも国鉄の値上げに積極的でなかった。ロッキード事件など何か大事件が起こったりすると、せっかく値上げ案が出されても先送りされた。そんなこんなで、国鉄がまだ競争力を持っていた時代は思うように値上げできなかったのである。

 だから国鉄は、運賃が不当に抑えられているという不満をずっと持っていた。このため赤字が膨大になると、その切り札として料金値上げをもっと円滑にできないかと考えるようになった。その結果、国鉄は昭和五〇年六月、全国紙の一面を買い切って三日にわたって意見広告「私は訴える」を連載した。そこでは国鉄財政の苦境を訴え、打開策の一環として「運賃二倍論」を打ち出した。

 この意見広告には莫大なカネがかかったろうが、国鉄にとってはそれに見合う効果があった。まず、国民は「国鉄がこんなにひどい状態だとは知らなかった」と驚いた。さらに「政治家があまり国鉄をいじめるのは考えものだ」と思うようになった。これ以降、国鉄の運賃値上げはスムーズに認められるようになり、その第一弾は昭和五一年一一月の旅客五〇%、貨物五四%の大幅値上げであった。」(大谷健「国鉄民営化は成功したのか」1997,p31-32)

 

「その時(※昭和五〇年)の考え方は、五一、五二年の二年間で運賃を二倍に上げ、それをてことしてこれまでの閉塞状態を大幅に打開しようという短期決戦型のものだった。

 当時経営計画室・経理局を中心に、「国鉄運賃は抑えられすぎている。運賃が抑制された結果、国鉄という国民にとっての重要な資産が食い潰されていっていずれ十分な機能を果たせなくなる」ということを、新聞紙上で意見広告として出そうと計画が持ち上がり、そして実際に、昭和五〇年六月中旬、三日間にわたり「国鉄は話したい」「あなたの負託に応えるために」「健全な国鉄を目指して」というタイトルで、新聞各紙に全面広告を出した。昭和五一年に運賃を五割値上げし、翌五二年にも再度五割値上げして、運賃を倍に上げることにより、国鉄経営を一気に健全軌道に乗せようという目論見を世論に訴え支持を取り付けようとするものだった。

 国鉄内部・政府・与党のなかでは、「運賃の大幅値上げやむなし」という空気がだんだんと出てきた。野党も建前はともかく本音の部分では、国鉄の現状をこのまま放置していてはいけないという考え方が強くなっていった。運賃値上げを対決法案としてさんざん遅らせてきた結果、国鉄の経営が壊滅的な状況になったということは、おそらく野党の目にも明らかだったのだろう。運賃をてこにして国鉄を抑え込んできたということが、政治の場から見た時に自分達の功績になるよりも責任としてかぶさってくると認識されるほど、国鉄の経営実態は落ちてきていたのである。」(葛西2001,p60)

 

 国鉄運賃の上昇については、初乗り運賃に関する変遷はネット上に情報があったため、私自身も消費者物価の変遷との関係性については検証してみたが、戦後の運賃改定の際の上昇というのは、概ね物価上昇と比例関係にあり、その点に限ればバランスがとれていたともいえる。したがって、この運賃が改定できなかったことによる影響というのは、物価上昇と運賃改定のタイミングにあった「ラグ」の影響が大きかったと想定される。特に1970年代はこの影響を受けやすい時期であったことは間違いなく、実際に1976年の運賃改定時には初乗り運賃が30円から60円と倍になった。

 

(3)職員数の削減

 

国鉄は昭和二二年の六一万人を最高に、常時四〇万を超える人員を抱え、しかも国労動労という先鋭的な労働組合がほぼ毎年ストを打っていた。さすがに分割の前には新規採用を抑えて職員を二七万七〇二〇人にまで減らしたが、私鉄並みの労働生産性で計算すると、旅客鉄道六社で一六万八〇〇〇人で足りると言われていた。しかし、「そこまで一気に減らすのは難しい」と判断され、当初、二〇万六五〇人で出発することにした。」(大谷1997,p12-14)

 

 上記の指摘のように、国鉄の職員数は常に「多すぎる」と言われ続けていたが、その削減については国労をはじめとした国鉄の組合に反対を受け、なかなか減らすことができていなかったことが多くの著書で語られている。そしてこの職員数の議論を考える上では、国労をはじめとする国鉄内の組合との対立関係の動向についても押さえておかなければならないだろう。

 国鉄が60年代に入り赤字経営をはじめた頃から、内部でその改善を図る動きというのは存在していた。典型的なのは「マル生運動」と呼ばれる運動であった。これについては国鉄当局側から積極的に職員に働きかけ、合理化の意識付けを強く行うものであった。当時の運動の一環として行っていた研修の講師の発言として次のようなものがある。

 

「国民の多くが『国鉄は何とか労使関係を正常化できないのか』と異口同音に言っています。年中、ストライキで対立抗争しており、安保闘争でもスト権のない国労動労が先頭に立っている。こういう労使関係は改善していかなければならないのではないか。国鉄の再建というのは、労使関係が世間並みに協力体制があって初めて可能となるのです」(p87)

「当局側にも大きな問題がある。それは官僚主義です。官僚主義とは、学歴偏重に見られる人事制度、それに無責任主義、権力主義、通達主義です。この間も『生産性運動の実施通達はいつ出るのか』という質問があった。事故防止運動とかサービス向上運動と混同しているのです。生産性運動というのは一つの理念であり、ものの基本的な考え方だ。通達が出るような問題ではなく、その通達主義をぶち破っていこうという運動なのです」(p87)

 

 マル生運動自体はタテマエとしてはこのような「健全な労使関係」も含めた「健全な組織」を目指すものであったが、実態としては少し異なる点もあったようである。特に国鉄はあまりにも組織としては大きく、マル生運動への取り組み自体にも温度差があった可能性が高いが、それが国労をはじめとした組合の脱退を強要するような運動も中には見られたのであった。

 

「だが、国鉄の現場は一般の工場労働者と違って、「生産性向上」の実績を数字で表せない業務が多い。必然的にその〝矛先〟は、仕事の足を引っ張る組合活動家に向けられ、国労動労の組合員を減らすことが目標になっていく。それが各地の現場で「不当労働行為」を引き起こし、磯崎体制の崩壊につながるとは、磯崎自身、思ってもみなかったことだろう。

 現場管理者から執拗な「国労脱退工作」に晒され、または上司に部下の「脱退工作」を命じられて、悩み抜いた職員の間から自殺者も出始める。」(P90)

 

 この不当労働行為の実態について、国労はマスコミへの情報リークを積極的に行うキャンペーンを展開し、当局側は運動自体の終了と、その後の「落とし前」として「勤務評定への介入(p116)」や「ストに対する組合員への処分の軽減化(p122-123)」をはじめとして、当局側の管理権限を無力化することに成功してしまった。このマル生運動に対する組合側の勝利がその後の驕りに繋がり、それ以降、一方的な国民批判の対象となっていくことになる。

 

 

 本書もそうであるが、国鉄の解体をめぐる議論において、この労使関係の議論は無視することができず、特にこの人員削減をめぐる議論というのが、国鉄運営の「合理化」の阻害要因として語られる傾向が、少なくとも物量的には明らかに大きい。そしてこのことを前提にした場合、「親方日の丸」における「一番の悪者」とはこの組合という結論になると言ってしまうこともできなくはない。

 しかし、実際上記の(1)~(3)の阻害要因に対して、どれがどの程度その阻害の影響があったのか、という議論(つまり、その阻害要因によってどれだけ赤字が増大してしまったのか、という要因分析)は私が読んできた本のなかではまだあまりはっきり見受けられない。当然ここには与野党双方の政治家の影響もあるし、世論が与えた影響ということも検討の余地が与えられている。

 また、少し気がかりであるのは、仮に(3)の人員削減が最大の原因であるとすれば、逆に60年代に黒字収支で運営ができていたのは、本当に前提である「輸送手段の構造的変化」のみで説明できるのか、という点である。私自身現在「革新自治体」に関わる著書も読んでいるが、どうにも国鉄の赤字収支の議論は70年代に美濃部都政に起きた赤字財政の状況とも関連付けることができるのではないのか、という風にも感じたからである。特に収支の面からこの議論の整理を今後行ってみたいと思う。

 

 

国労の「怠慢」と『大衆』について

 

「当局は酷いことをする。我々は本来ならば走行中のブルトレの故障を修理するために乗務し、乗務手当をもらっていた。ところが毎日乗務するほどの故障はないという当局の一方的判断で、ブルトレから降ろされ合理化が強行された。その際、組合の努力によって、乗務はしなくても、既得権として乗務手当はもらっていた。手当を支給しておいて、さらに合理化を強行するというのはどういうことか」(p222-223)

 

 これは国労の組合員が記者に対して行った発言で、この発言も含め作業員の「カラ出張」が大きな問題とされた際の典型的な発言といえるものである。この発言自体が国労の「怠慢」を典型的に表していたとみなされていること自体が非常に興味深いように思える。

 この発言をした組合員は間違いなく、「ブルトレを動かさない日は乗務手当が出ない」ことに対して「不当な扱い」であると考えていた。それは一つにそれまでは当たり前のようにその手当を受け取っていたからであり、更にそれが失われるということは『生活上の脅威』に当たり、だからこそ国労としてそれを既得権益として獲得し、それが正当なものであることが明白であったからだったといえるだろう。

 しかし、『大衆』はそのように見なかった。現に勤務しないで手当をもらうことは「カラ出張」としかみなさなかったからである。

 

 私がこれを検討すべき点だと考えたのは、このような勤労倫理というのはどこまで「当たり前」のことなのかという部分である。少なくともここには「仕事もしないで対価をもらおうとすることは『不当』である」という価値観が色濃く反映されている。この価値観が具体的に、どのように自明視されていたのか、そしてその自明視は諸外国と比較した場合には差異があるのかどうか、という点を問う必要があるのではないか。下手をするとこの価値観が日本の労働運動に対して与えている影響も少なくないのではないのかという印象を受けたのである。

 

 また「親方日の丸」との関係性で議論するならば、一般的な『大衆』と「親方日の丸」との関係は、この観点から見れば限りなく赤の他人に近いといえる。しかし、このケースとは別の国鉄の問題から見た場合、例えばそれが「政治」の問題の部分に関連付けられる場合や、更には日常生活を行う上で『大衆』が受益者となり運賃上昇により不利益を被るような立場に立つ場合には、同胞関係にあるようにも見える。

 国鉄から見える「親方日の丸」はかようにしてその対象が曖昧であるし、『大衆』もまた曖昧な関わりをしているといえるのである。その曖昧さについて整理する作業というのは、恐らく『大衆』の性質の理解にも一役買うのではないかと思える。

サミュエル・ハンチントン「分断されるアメリカ」(2004=2004)

 本書は「文明の衝突」で知られるサミュエル・ハンチントンの著書である。

 世間的には近年のアメリカの動向を予見していた著書としても評価されているようであるが、私自身の関心から言えば、これまで「日本人論」に対してあまり語られないのではないかと指摘していた「アメリカ人論」と位置付けることができる著書として重要であるように思えた。データによる裏付けも極めて緻密に行っており、近年のアメリカの動向を理解するのに必読の書であるという意見も確かにその通りだと思える。

 

アメリカの「市民宗教」について

 本書の中心的なテーマは「アメリカの市民宗教」である。これはアメリカの入植者の文化の中にも根強かったものであるが(cf.p124)、特に1970年代以降、宗教右派の影響も受けながら、政治における宗教の重要性も高まってきているようである。特にp130-131にあるように、「無神論に対する排他的態度にも如実に現われているといえる(※1)

 この「市民宗教」においては神が存在することになっているが、具体的な名前を挙げることは本来的には避けられているものである。具体的な名を挙げ「特定の宗教」に加担することは、政教分離の原則からも好ましくなく、また語られない他の宗教にも排他的になりうるからである。しかし、ハンチントンはこの原則が現在のアメリカにおいて崩れる可能性について、積極的に検討を行っている。何よりp155-156にあるように、今日のアメリカの市民宗教は「キリスト教なきキリスト教」という状況であることは否定し難い事実とみている。もちろん、実際の国民の宗派も圧倒的多数がキリスト教である(p122-123)。いかにタテマエとして市民宗教が具体的な神を求めず、そこに多様性を求めていようとも、水面下では具体的な宗教と市民宗教を結び付けようとする者が存在している。その上、政治の場において道徳的荒廃を背景に信心深さを求める風潮も強くなっている(p485)。このような背景の中にハンチントンは市民宗教のバランスが崩れる恐れについて、特にキリスト教としての市民宗教を打ち出すことが他の宗派の排除を強めていく恐れについて注意を向けているのである。

 

アファーマティブ・アクションに対する受容と「差別」について

 教育という切り口で言えば、本書は大学入学優遇措置である「アファーマティブ・アクション」の受け入れについてもかなり詳しく論じている。特に1960年代に人種間の不平等の解消策として取り入れられたものであった政策であったものが、本書の記述を読む限り、そもそも60年代当初から本来この政策で利益を得るはずの黒人層からも広く支持されていたかどうか怪しい傾向をみてとることができる(cf.p217-218、少なくとも77年のギャラップ調査からはあまり肯定的な意見は出ていないように見える)。確かに白人と比べれば支持的であるのだが、「黒人一般」として見た場合には支持していないのである。本書では何故マファーマティブ・アクションが黒人に支持されていないのか明確には述べられていない。しかし恐らくは、このような政策を行うことが人種差別を助長するものでしかない、という見方が一般的に支持されているからという傾向が読み取れるように思える。

 教育社会学の分野では、これに関連して、コールマン・レポートやクリストファー・ジェンクス「不平等」(1972=1978)といった著書から、黒人(または有色人種)と白人の人種による学力格差問題が提起され、それが簡単に解消されるようなものでないものとして、アファーマティブ・アクションの政策も支持する根拠を与えていたように思える。これは転じればむしろそのような優遇政策がないとかえって社会的成功のチャンスの機会を確保されていないことになり不自由となるという議論も成り立つように思えてしまう。しかし少なくとも一般大衆はこのことを支持していないことになる。このような実証的議論を踏まえ、なおアファーマティブ・アクションの効果がないとみているのか、それとも相対的な議論として他のデメリットである差別助長という要素が大きくそう判断されているのかといったことは見えてこない。

 またこれに合わせて、アファーマティブ・アクションを支持する「エリート層」とは誰なのかという問題も出てくる。ハンチントンは大衆からは支持されていないこの政策は一部エリートによる強い支持によって堅持されているものと捉えている。本書ではそれが誰なのか明言されていると言い難いが、p239-240等の記述を読む限り、本書全体としては「差別を肯定する者」が、このエリート層であるかのような印象を与える傾向がある。要は差別を維持するためにも差別政策は残って当然であるとエリートは考えているということである。確かにこれも事実であるように思えるが、このような文脈からはアカデミックな分野で実証的に示されてきた不平等の問題についてどのように解消するのか、といった議論を排除してしまうことにもなりかねないように思えるのである(少なくともこの立場からは差別を助長することまで肯定する意図はないはずだからである)。

 

○「(市民宗教による)信仰」と「(意識調査における)自己肯定感」との関係について

 もう一点教育との関連で言えば、本書で示される信心深さの傾向の強化が教育に関連する意識調査に与える影響についても気になった。P503にあるように、少なくとも意識調査のレベルでは信仰の深さは愛国心の強さとも関連性が認められているが、以前千石保のレビューで示しておいた意識調査におけるバイアスの影響も無視できないように思える。つまり、信仰心の強さが意識調査における「ポジティブ」な回答を積極的に選ばせるというバイアスである。

 このことは結果として、日本がネガティブな回答の強いことに対する批判とも直結するし(千石の批判がまさにその典型であったといえる)、アメリカにおける意識調査と実態のズレを大きくすることにも貢献しうることになるだろう。確かにこの点は実証的に示されている訳ではないが、千石のレビューでも指摘した「生徒自身の成績にたいする評価」についての意識が、アメリカの場合極度に肯定的に捉えられているのも、私などは肯定的な宗教的価値観の影響を無視できないレベルで影響を与えているように思えてしまうのである(もちろん、違いの全てを説明できるものとは思っていないが)。

 

※1 他の著書においても、次のように無神論者が他のカテゴリーと比べて否定的に捉えられていることをしている。

「最も信頼できる世論調査によると、アメリカ人が大統領に望むことは、宗教的な感情を言葉に表わし、ある程度の道徳的な権威をもって語りかけ、大統領として果たすべき市民宗教の義務を遂行することである。例えば、一九八七年の「宗教および公的生活に関するウィリアムバーグ憲章調査」によれば、七〇パーセントのアメリカ人は、大統領が強い宗教的信念を持つことは重要だと答え、しかも、六二パーセントは無神論者の大統領候補には票を投じないと答えている。その反面、二一パーセントは、教会の牧師を経験したことのある候補者には投票しないとし、より具体的な項目では、四三パーセントの回答者は、「不倫関係にある」大統領候補には票を入れないと答えたのに対して、同じく四三パーセントは、不倫関係は投票に影響を与えないと答えた。」(リチャード・V・ピラード、ロバート・D・リンダー「アメリカの市民宗教と大統領」19882003p338)

 

<読書ノート>

P18-19「とはいえ、おそらく過去には同時多発テロの直後ほどあちこちに国旗が掲揚されたことはなかった。どこでも国旗が目についた。家庭でも会社でも、車や衣服、家具や窓、店舗の正面、街頭や電柱など、まさにいたるところで。十月の初め、アメリカ人の八〇パーセントは国旗を掲げていると答え、そのうち六三パーセントは家庭で、二九パーセントは衣服に、二八パーセントは車にだった。……国旗の需要は湾岸戦争のときの一〇倍になり、国旗をつくる会社は残業して二倍、三倍、あるいは四倍に生産量を増やしたという。

国旗はアメリカ人にとってナショナル・アイデンティティの顕著性が、その他のアイデンティティとくらべて急激に高まったことをあらわす物理的な証拠だった。」

☆p21「一九九八年二月に開催されたゴールドカップサッカーゲームのメキシコ対アメリカ戦では、九万一二五五人のファンは「赤と白と緑に染め分けられたおびただしい数の旗」で埋めつくされた。観客はアメリカ国家『星条旗』が演奏されると非難のブーイングをした。アメリカの選手に「水かビールあるいは得体の知れぬものが入った紙コップとごみ」を投げつけ、アメリカ国旗を掲げようとした少数のファンを「果物とビールの紙コップ」で攻撃した。この試合の開催地はメキシコシティではなくロサンゼルスだったのだが。」

P24「一九九〇年代には、レイチェル・ニューマンをはじめとする多くのアメリカ人は、「あなたはどういう人ですか?」という質問に、ウォード・コナーリーほど積極的にナショナル・アイデンティティを肯定した答えを返さなかっただろう。多くの人はむしろ『ニューヨーク・タイムズ』の記者が明らかに予想していたように、サブナショナルな人種、民族、あるいはジェンダーアイデンティティを主張していただろう。」

 

P65「入植者と移民は根本的に異なっている。入植者は、一般に集団で既存の社会を離れ、たいていは遠くの新しい土地に、新しい共同体を、「山の上の町」をつくりだす。彼らは集団としての目的意識を吹きこまれているのだ。入植者は、彼らが築く共同体の基礎を、母国にたいする集団としての関係を規定する契約または特許状に事実上もしくは正式に署名する。一方、移民は新しい社会を築くわけではない。彼らは秘湯の社会から別の社会に移動するのだ。移住は一般に個人や家族にかかわる個人的な行為であり、彼らは祖国と新しい国との関係を個人的に定義づけている。」

アメリカ住民は移民によるのではなく、むしろ入植者によるものだとする(p65)。

P66「のちに移民がやってきたのは、入植者が築いた社会に加わりたかったからだ。入植者とは異なり、移民とその子孫は、自分たちがもちこんだ文化とはおおむね相容れない文化を吸収しようと試みるなかで「カルチャー・ショック」を味わった。移民がアメリカにくるためには、その前に入植者たちがアメリカを築いていなければならなかったのである。

一般に、アメリカ人は一七七〇年代から八〇年代に独立を勝ち取り、憲法を制定した人びとを「建国の父」と呼ぶ。だが、建国の父たちが存在する前に、建国の入植者たちが存在したのだ。」

P67「アメリカの中核にある文化はこれまでも、また現在もなお、主としてアメリカの社会を築いた十七世紀および十八世紀の入植者たちの文化である。その文化の中心的な要素はさまざまな方法で定義できるが、そこにはキリスト教の信仰、プロテスタントの価値観と道徳主義、労働倫理、英語、イギリスの法の伝統、司法、政府権力の制限、およびヨーロッパの芸術、文学、哲学と音楽の遺産が含まれる。

この文化をもとに、初期の入植者はアメリカの信条を築きあげ、そこに自由、平等、個人主義、人権、代議政体、そして私有財産の原則を盛り込んだ。その後にやってきた移民は何世代にもわたってこの建国の入植者の文化に同化し、それに貢献し、手を加えていった。だが、その信条を根本的に変えることはなかった。」

※このことからアメリカは植民地社会であるという(p67)。

 

P74「実際には、一八二〇年から二〇〇〇年のあいだに外国生まれの国民がアメリカの人口に占めた割合は、平均で一〇パーセントをやや上回る程度でしかなかった。アメリカを「移民の国」と呼ぶのは、部分的な真実を拡大して誤解を招く誤りに変えることであり、アメリカが入植者の社会として始まったという中心的な事実に目をふさいでいるのである。」

※1990年の人口の49%が1790年当時にいた入植者と黒人の流れをくみ、51%はその後の移民という(p73)。

P76「アメリカを信条のイデオロギーと結びつけたことにより、他国の民族や民族文化的アイデンティティとは対照的に、アメリカ人には「市民的」なナショナル・アイデンティティがあるのだと主張できるようになった。アメリカは種族によって定義された社会よりも自由で、原則にもとづき、文明的なのだと言われる。信条による定義は、アメリカ人が自分たちの国を「例外的」だと考えるのを可能にした。他の国とは異なり、アイデンティティが属性ではなく原則によって定義されているからだ。それは同時に、アメリカの原則がすべての人間社会に適応できるがゆえに、アメリカは「普遍的」なのだという主張にもつながった。信条は「アメリカニズム」を社会主義共産主義に匹敵する政治的なイデオロギーとして、あるいは一連の教義として語れるものにした。同じような意味で、フレンチズムやブリティシズムやジャーマニズムが語られることはないだろう。」

 

P106「アメリカのプロテスタンティズムには一般に、善と悪、正と邪が根本的に対立するという信念がある。カナダ人やヨーロッパ人や日本人とくらべて、アメリカ人は、「どんな状況にも」当てはまる「善と悪に関する絶対的に明らかなガイドラインがある」と信じる人がはるかに多い。そんな指針など存在しないし、善か悪かは状況によるとは考えないのである。そのため、アメリカ人は個人の行動と社会の本質を支配する絶対的な基準と、自分たちおよび社会がそうした基準と合致しない場合の格差を、つねに突きつけられている。」

P112「この労働倫理はもちろん、アメリカの雇用と福祉に関する政策にも大きな影響をおよぼしてきた。「政府の施し」とよく呼ばれるものに頼ることは、他の民主主義工業国とは比較にならない不名誉となる。一九九〇年代末に、イギリスとドイツでは失業手当が五年間支払われ、フランスでは二年間、日本では一年間だったが、アメリカではわずか半年だった。一九九〇年代のアメリカに見られた福祉計画を削減し、できれば中止しようとする動きは、労働の道徳的価値への信念に根ざしたものだった。」

 

P122「忠誠の誓い」にある「神のもとに」という文言が政教分離に反するという判決が出たことに対し、「『ニューズウィーク』誌の世論調査では、一般大衆の八七パーセントがこの文言を含めることに賛成であり、反対は九パーセントだった。八四パーセントの人は、「特定の宗教」を明示しないかぎり、学校と官公庁の建物内を含め、公共の場で神について言及することを認めると回答した。」

P122-123「しかし、『ニューヨーク・タイムズ』によると、今回の裁判で原告のマイケル・ニュードー博士は「日常生活における宗教の悪用をすべて追放する」計画だった。「なぜ私がよそ者みたいに、あんな思いをさせられる必要があるんですか?」と彼は尋ねた。裁判所は「神のもとに」の文言は「無信仰の人に、あなた方はよそ者であり、政治的共同体の正規の会員ではないというメッセージ」を送っていると認定した。

ニュードー博士と多数意見の裁判官の理解は正しかった。無神論者はアメリカの社会では「よそ者」なのだ。無信仰の人間として、彼らは忠誠の誓いを復唱しなくてもよいし、宗教色の強い慣例を認めないのであれば、それにかかわらなくてもよい。しかし、彼らとしても、その無神論をすべてのアメリカ人に押しつける権利はない。これらの人びとが現在および歴史的に抱懐してきた信仰が、アメリカを宗教的な国家として定義づけているのである。

アメリカはキリスト教国でもあるのだろうか?

統計からすればそのとおりだ。通常、アメリカ人の八〇パーセントから八五パーセントは、自分をキリスト教徒だと信じている。」

※例として公共の土地にあった十字架が暗黙のうちに認められていることを挙げる(p123)。

また、「十七世紀の入植者がアメリカに共同体を築いたのは、これまで見てきたように、主に宗教的な理由からだった。」(p124)そして、過去の「憲法の制定者は自分たちがつくろうとしている共和国政府を存続させるには、それが道徳と宗教に深く根ざしたものでなければならないと堅く信じていた」という(p125)。また、「ヨーロッパ人は、アメリカ人の宗教への関心が自国民にくらべて高いことについて、たびたび意見を述べてきた。」(p127)

 

P129「一九九六年には、アメリカ人の三九パーセントが聖書は神の実際の言葉であり、文字どおりに受けとめるべきだと思うと回答した。四六パーセントの人は、聖書は神の言葉だと思うが、すべてのことを書かれているとおりに解釈するべきではないと答えた。神の言葉ではないとしたのは一三パーセントだった。」

☆P130-131「一九九二年には、アメリカ人の六八パーセントは、神への信仰が真のアメリカ人であるためにとても重要またはきわめて重要だと答え、こうした見解は白人よりも黒人やヒスパニックのほうに強く根づいていた。アメリカ人は無神論者を、その他多くのマイノリティ以上に好ましくないと見ている。一九七三年に実施された世論調査でこんな質問がなされた。

「大学で社会主義者無神論者が教鞭をとるとしたら?」

調査の対象になった地域社会の指導者は、どちらが教えてもかまわないと答えた。アメリカの大衆全体としては、社会主義者が教えることには賛成だった(賛成が五二パーセント、反対が三九パーセント)が、無神論者が大学の教員になるという考えには明らかに反対だった(賛成三八パーセント、反対五七パーセント)。一九三〇年代以降、マイノリティから出馬する大統領候補に投票しようとするアメリカ人の数は劇的に増えた。一九九九年に調査の対象となった人びとの九〇パーセント以上は、黒人、ユダヤ教徒、あるいは女性の大統領に投票すると回答し、同性愛者の候補に投票すると答えた人は五九パーセントだった。ところが、無神論者を大統領に選ぶと回答した人は四九パーセントでしかなかった。

二〇〇一年には、アメリカ人の六六パーセントが無神論者を好ましくないと考えていたが、イスラム教徒にたいして同じように感じる人は三五パーセントだった。同様に、アメリカ人全体の六九パーセントは、家族の一員が無神論者と結婚するのは不快である、または受け入れられないと言い、一方、白人のアメリカ人のうち四五パーセントは、家族の誰かが黒人と結婚することに関して同じ意見をもっていた。アメリカ人は、共和国政府には宗教的な基盤が必要だとする建国の父たちの見解に同意しているようだ。だからこそ、神と宗教をあからさまに否定する意見を受け入れるのは難しいと考えるのである。」

※もちろん、意識調査にすぎないというバイアスはありえる。

 

P149「しかし、彼らは本当にキリスト教徒としての信仰をもち、その教えを実践しているのだろうか?かつての信心深さは時代とともに薄れ、消滅さえし、反宗教的とまでは言わずとも、まったく世俗的で非宗教的な文化に取って代わられたのではないか? 世俗的、非宗教的といった言葉は、アメリカの知識人や学識者およびメディアのエリート層には当てはまる。しかし、これまで見てきたように、それらはアメリカの一般大衆をあらわすものではない。アメリカ人の信心深さは絶対的な尺度からすればいまでも高く、似たような社会とくらべても高いだろうが、時代とともに宗教にたいするアメリカ人の関心が衰えていけば、世俗化という論点もまた有効になるだろう。

しかし、歴史的にも、二十世紀末にも、そのような衰退の徴候はほとんど見られない。唯一、生じたと思われる重要な変化は、一九六〇年代と七〇年代にカトリック教徒の宗教への関心が急激に減ったことだった。」

P155-156「アメリカの市民宗教は特定の宗派にはこだわらない国教であり、明確な表現のなかでは、あからさまにキリスト教とはされてはない。しかし、その起源、内容、前提、および気質において、それはまぎれもなくキリスト教なのだ。アメリカ人がその貨幣において信ずるという神は、キリスト教の神を暗示している。ただし、市民宗教の声明や儀式のなかに二つの言葉はでてくることはない。それは、「イエス・キリスト」である。アメリカの信条が神抜きのプロテスタンティズムであるように、アメリカの市民宗教はキリスト抜きのキリスト教なのである。」

 

P198「ナショナル・アイデンティティの重要性の衰えは、一九九〇年代に多くの専門家によって指摘された。一九九四年にアメリカの歴史と政治学を専門とする十九人の学者が、一九三〇年、一九五〇年、一九七〇年および一九九〇年のアメリカ人の統合レベルを評価するよう依頼された。一が最高の統合レベルをあらわすものとして、一から五までの尺度を使ってこれらのパネリストが評価したところ、一九三〇年は一・七一、一九五〇年は一・四六、一九七〇年は二・六五、そして一九九〇年は二・六〇だった。」

 

P217-218「一連の調査では、八一パーセントから八四パーセントの人がテストにもとづいた能力を選び、一〇パーセントから一一パーセントが優遇措置を選んだ。」

※リプセットによる指摘で、一九七七〜八九年までのギャラップ調査の結果から。

P218「「黒人などマイノリティの地位を向上させるために、できるかぎり努力すべきである。それが彼らに優遇措置を与えることを意味したとしても、そうすべきだ」

この二度の調査(※ギャラップの87、90年の調査)では、世論の七一パーセントおよび七二パーセントはこの提案に反対し、二四パーセントが賛成した。黒人では六六パーセントが反対で、三二パーセントが賛成だった。同様に、一九九五年の世論調査で、「雇用と昇進および大学の入学許可は、人種や民族性ではなく、厳密に優秀さと資格にもとづくべきかどうか」と質問すると、白人の八六パーセント、ヒスパニックの七八パーセント、アジア系の七四パーセント、黒人の六八パーセントはそれに賛成した。……ジャック・シトリンは一九九六年に証拠を再吟味して、こう結論した。

「要するに、集団としての平等と個人の能力とのあいだの選択として問題を位置づけると、アファーマティブ・アクションに勝ち目はない。アメリカ人の大多数は、どのグループを援助しようとするものであっても、あからさまな優遇措置は拒否するのである」」

※1980年代末に優遇措置に対する幅広い反対(白人による訴訟を含む)が起こったという(p219)。

 

P221-222「二〇〇三年にブッシュ政権は、ミシガン大学の学部とロースクールへの入学許可から人種という要素を排除すべきだと主張し、人種の多様性という目的は別の手段によって追求すべきだとした。六対三の票差で、最高裁はマイノリティの入学志願者に自動的に二〇点(一五〇点満点で)を加える措置を無効とした。だが、一九七八年のバッキ事件以来、人種と高等教育に関する最も重要な決定に関して、最高裁ロースクールの入学については人種を考慮すべきだと認めた。バッキ判決におけるルイス・F・パウエル・ジュニア判事の論拠を支持した、五対四の票差による判決だった。

オコーナー判事はこう主張した。すなわち、ロースクールに入るための手続きは「狭き門の典型であり」、また「大学が多様な学生で構成されていることは国益として必要不可欠であり、したがって大学の入試に人種を考慮することは正当化しうる」。……

全体として、その判決は、『ニューヨーク・タイムズ』の社説が歓迎したように、「アファーマティブ・アクションの勝利」と見なされた。それは、アメリカの支配者層にとっての勝利でもあった。」

P223「二〇〇一年に、ヒスパニックの八八パーセント、黒人の八六パーセントを含む一般大衆の九二パーセントは、大学の入学者選抜や就職にさいして人種を利用し、マイノリティにより多くの機会を与える要素とすべきではないと述べた。最高裁の判決がでる数ヶ月前に、マイノリティの五六パーセントを含めて一般大衆の六八パーセントが黒人への優遇措置に反対し、その他のマイノリティにたいする措置には、さらに多くの人が反対した。結果として、五人の裁判官が支配者層の側につき、四人はブッシュ政権と大衆の側についた。

ミシガン大学の訴訟がくりひろげられるなかでアメリカ人は、国として人種を差別すべきでないのか、人種を意識すべきか、すべての人の平等な権利を基準に組織すべきか、それとも人種、民族および文化グループごとの特別な権利にもとづくべきかをめぐって、深く対立したままだった。この問題の重要性を評価しすぎることはまずないだろう。」

※なぜエリート層がアファーマティブ・アクションを支持するのか。

 

P239-240「二〇年以上にわたり、英語を支持する、あるいは二言語教育に反対する議案が一般投票で可決されなかった例は、二〇〇二年にコロラド州で二言語教育を停止するイニシアティブが五六パーセント対四四パーセントで却下されたときだけだった。このような結果になったのは、二言語教育支持の資産家が土壇場で多額の資金を注ぎこんだためだった。これらの資金はコロラド有権者の反ヒスパニック感情をあおるために使われ、二言語教育を打ち切れば「教室で大混乱」が起こり、「知識不足の移民の子供たちが大挙して普通学級になだれこめば、悲惨な状況」になると警告したのである。こうした事態を予測してコロラド州有権者は、教育の場でのアパルトヘイトを承認することにしたのである。」

P246「ある総合的な研究で、シャーロット・アイアムズは一九〇〇年から一九七〇年までの読本の内容を分析し、それを「国についての言及なし」から「中間的」、「愛国的」、「ナショナリズム的」、「狂信的な愛国主義的」までの五段階で評価した。一九〇〇年から一九四〇年までは、中学校の読本の内容は愛国的からナショナリスティックなものにまたがっており、一方、小学校の読本には愛国的な内容は皆無に近い状態だった。ところが、「一九五〇年代から六〇年代になると、ほとんどの教科書は小学校、中学校のいずれでも中間的からやや愛国的な内容になった」。この変化は「子供たちに共通の歴史と共通の政治観を与えるために意図された戦争関連の話が徐々に減ってきたこと」かが明らかにわかった。」

 

P258-259「この功績は過去のいかなる社会にも類を見ないようなものだが、その根底には暗黙のうちに交わされた契約があり、ピーター・サランはそれを「アメリカ式の同化」と名づけた。この暗黙の了解によると、移民がアメリカ社会に受け入れられるのは、英語を国語として受容し、アメリカ人としてのアイデンティティに誇りをもち、アメリカの信条の原則を信じ、「プロテスタントの倫理(自力本願で、勤勉、かつ道徳的に正しいこと)にしたがって生きていればこそだった、とサランは主張する。この「契約」の具体的な表現については、人は意見を異にするかもしれないが、その原則は一九六〇年代にいたるまで何百万もの移民をアメリカ化するなかで現実化したものの核心を突いている。

同化の最も重要な第一段階は、移民とその子孫がアメリカ社会の文化と価値観を受け入れることだった。」

P286「アメリカの教育はときとして生徒を無国籍化させる効果もあった。一九九〇年代初めにサンディエゴの高校生を調査したある研究によれば、高校で三年間を過ごしたのち、自分を「アメリカ人」だと考える生徒の割合は五〇パーセント減少し、アメリカに帰化した人間だと考える生徒の割合も三〇パーセント減って、他国の国民性をもつ人間(圧倒的にメキシコが多い)だと考える割合は五二パーセント上昇した。」

※謎のパーセント増での指摘。

 

P381「アメリカ人がもつ国への帰属意識は、二十世紀末にかけて強まったようだ。「何にも増して」帰属している領土的存在は、地元または町、州または地方、国全体、北アメリカ大陸、世界全体のうちのどれかと聞かれ、アメリカ全体を選んだアメリカ人の割合は一九八一年から八二年は一六・四パーセントだったが、一九九〇年から九一年には二九・六パーセントになり、一九九五年から九七年には三九・三パーセントになった。国を一番に選んだアメリカ人の二二・九パーセント増という数字は、世界各国のナショナル・アイデンティティの平均的な増加である五・六パーセントや、先進国の三・四パーセントをはるかに上回っている。アメリカの財界や知識人のエリートのあいだでは、自分が帰属するのは世界全体だと考え、自らを「地球市民」と定義づける人が増えていたものの、アメリカ人全体はますます国にたいして献身的になっていたのである。」

 

P435-436「白人のエリートはアメリカの主だった組織をすべて支配しているが、エリート以外の数百万の白人は、エリートとまったく異なった考えをもっている。彼らには自信も安心感もなく、人種間の競争では、エリートによって優遇され、政府の政策の援助を受けた他のグループに負けはじめていると考えている。そうした損害は現実にこうむっていなくてもかまわない。ただ彼らの心のなかに存在し、新興勢力にたいする恐れと憎しみをかきたててくればいいのだ。

たとえば、一九九七年に白人を対象として行なわれた全国調査では、黒人はアメリカ人の四〇パーセント以上を占めると考えている人が一五パーセントおり、三一パーセントから四〇パーセントのあいだと答えた人は二〇パーセント、二一パーセントから三〇パーセントのあいだと回答した人が二五パーセントいた。つまり、白人の六〇パーセントが、黒人はアメリカ人の二〇パーセント以上だと考えていたのだ。実際には、当時、黒人は一二・八パーセントを占めるだけだったのだが。」

※これは解釈が難しい。実際に五人に一人の黒人と接しているアメリカ人も相当数いることが想定されるから。統計上の割合と住地域における割合も加味すべき議論。

 

P459-460「エリートと大衆の違い、大衆の希望と法律化された政策とのあいだの差異を大きくした。多岐にわたる問題に関して、世論の変化が公共政策における同様の変化となって現われたかどうかを調査したある研究では、一九七〇年代には世論と政府の政策に七五パーセントの一致が見られたが、それ以降着実に低下して一九八四年から八七年には六七パーセントに、一九八九年から九二年には四〇パーセントに、一九九三年から九四年には三七パーセントになった。この調査報告の執筆者はこう結論した。「総合的に見ると、一九八〇年から持続的なパターンが見られることがわかる。世論の反映度は一般に低く、ときとしてそれがさらに低下し、クリントン政権の最初の二年間には特に低かった」。したがって、クリントンをはじめとする政治指導者が「大衆に迎合していた」と考える根拠は何もない、と執筆者は言った。」

※別の類似調査におけるアナリストの見解は、「一般のアメリカ人が、国際問題においてアメリカがはたすべき正当な役割だと考えるものと、外交政策の立案を担当する指導者の見解とのあいだに、懸念すべき差異が広がっている」

P462政治に対する大衆の信頼度はベトナム戦争後顕著に減少している

 

P476-477「一九八七年から九七年のあいだに、アンドリュー・コートらが示したところによると、神が存在するのは間違いないという考えに「強く賛成する」アメリカ人の割合は一〇パーセント以上増えた。さらに、最後の審判の日には必然的に自分の罪を償わなければならず、神は今日の世界に奇蹟を起こしたもうたのであり、祈りは日々の生活の重要な一部であり、善悪を区別する明確な指針はどこでも誰にたいしても当てはまるという考えに、彼らは賛同する。こうした賛同者の増加はすべての主要な宗派において見られた。福音派、主流派、黒人のプロテスタントカトリック、そして非宗教的な人のあいだですら、そのように考える人が増えた。アメリカが攻撃されたあと、二〇〇二年にはアメリカ人の五九パーセントが、黙示録の終末論的な預言は現実に起こると信じていた。」

P478「一九九〇年代には、アメリカ人は宗教がアメリカの社会生活においてより大きな役割をはたすことを圧倒的に支持していた。一九九一年のある調査では、子供が学校内で祈り、任意の聖書の授業にでて、任意のキリスト教徒会の会合を開くのを許可することに、回答者の七八パーセントが賛成だった。六七パーセントほどの人は、公共施設内でキリスト降誕に場面やユダヤ教の大燭台を展示することに賛成だった。七三パーセントはスポーツの試合の前にお祈りの時間を設けることを認めていた。七四パーセントは公職の就任宣誓で神についての言及を禁じることに反対だった。」

P479「一九六〇年代には、アメリカ人の五三パーセントが教会は政治に関与すべきでないと考えており、四〇パーセントがそれを容認していた。一九九〇年代半ばになると、その比率は逆転した。五四パーセントの人が教会は政治および社会問題で自由に発言すべきだと考えており、四三パーセントがそうすべきでないとしていた。」

P481「ジョゼフ・コビルカ研究をもとにした、ケネス・ウォールドの入念な分析によれば、一九四三年から八〇年のあいだに、政教分離問題に関連して最高裁で争われた二三の裁判のうち、一三件は分離を支持する結果となり、八件は政教融和的なものに、そして二件は中間的なものとなった。一九八一年から九五年のあいだには、そのバランスは劇的に変化した。合計で三三回の判決のうち、一二回は分離的、二〇回は融和的、そして中間的な判決が一回となった。」

 

P485「第二に、一九九〇年代末は好景気であり、外国からの深刻な脅威がなかったため、道徳問題が政治的な駆け引きにおいて中心的な役割をはたすことが可能になり、その状態が選挙までつづいた。一九九八年三月の調査で、一般大衆の四九パーセントがアメリカは道徳的な危機に直面していると答え、さらに四一パーセントの人が道徳の荒廃は深刻な問題だと述べた。一九九九年二月に、この国が直面している問題として、道徳問題と経済問題のいずれをより危惧しているかを尋ねたところ、アメリカ人の五八パーセントは道徳問題を選び、経済問題を選択した人は三八パーセントだった。

二〇〇〇年には有権者の一四パーセントは妊娠中絶を最大の問題とし、学校での祈り、信仰にもとづく慈善への政府支援、および同性愛者の権利もやはり重要事項となっていた。ある評者はこう述べた。一九九二年とは異なり、「もう経済ではないんだ、ばか者」。道徳への懸念は宗教に関心を集めた。選挙直後に実施された世論調査で、アメリカ人の六九パーセントは「アメリカ国内で家族の価値と道徳的行動を促進する最善の方法は、宗教をもっと取り入れることだ」と答え、七〇パーセントの人はアメリカ国内で宗教の影響力が高まることを望んでいた。」

P486「要するに、民主党の活動家は一貫して宗教的活動と献身度のレベルが低く、一方、共和党の活動家の宗教とのかかわりは二〇年のあいだにいちじるしく増大した。宗教をめぐる新たな「大きな溝」が出現したのだ。」

P503国への誇りと神の重要性について、国別の相関

※神の重要性が高いほど、国を誇りに思う人も増える相関が見られる。