田中一彦「忘れられた人類学者」(2017)

 本書は、1937年に日本の農村を中心にしたフィールドワークをもとに著した『須恵村』で知られるジョン・エンブリーと『女たち』の著書で知られるエラ・エンブリー夫妻がみた須恵村などについて記した本である。

 

 本書の考察をする前に、まず本書を読む前の段階における私のエンブリーに対する理解について述べておきたい。

 エンブリーの著書について、私が読んでいるのは『須恵村』だけである。この『須恵村』を読んだ感想として、まずもってこの本が「日本人論」について何も語っていないものであり、単純に「近代化論」の議論の一環として、日本のムラが選ばれているにすぎない、という印象を強く持った。これは田中のp218にあるような解釈と全く同じであった。

 ここでいう「日本人論」というのは、まさに特殊な日本人を規定するための議論であるのに対して、「近代化論」というのは、文化などが後進的であるために、先進国と現状は異なるが、かつては先進国も同じような道を歩んできたのであり、将来的には後進性は解消されていくものと想定する類の議論である。この点がまず、エンブリーが一般に「日本人論者」と称されていることに対する違和感としてあった。

 しかし、どうも他の論者の日本人論について読み進めていくと、どうしてもエンブリーは日本人論者であり、『須恵村』を出版したあと1940年代に入ってから転向したのではないかとさえ思えるような語られ方もされる印象があった。結論からいうとこの見方は正しかったことが今回のレビューの考察を通じてわかったのだが、『須恵村』を読んだ印象からはどうしてもそれが結びつかなかったのであった。田中も指摘するように、できるだけ日本について偏見を与えないよう、価値判断については意図的に避けられていたような印象さえあったからだ。

 

 

ゴーラーやベネディクトは「自民族中心主義者」なのか?

 

 本書ではジェフリー・ゴーラールース・ベネディクトを「自民族中心主義者」と位置付け批判を展開している。正確にいえば、エンブリー自身が「何人かの人類学者」(p262)に対して「自民族中心主義者」と位置付け、批判じみたことを述べていることについて、田中自身がこれをゴーラーやベネディクトを想定して書いた内容であると『解釈』している訳である。

 私自身も確かに杉本・マオアのレビューの際に述べたように、日本人論と「オリエンタリズム」の発想との関連性は大いにあり、特殊日本的な状況についてとらえることそのものが歪んだ解釈や欧米そのものを参照とすることを回避してしまうことになりうるのは確かである。

 

 

 では、本書では何を根拠にそう断じているか。考えられるものとして3つピックアップしてみる。

(1)人種的な偏見・差別を論に持ち込むかどうか(p254)

(2)西洋の検証を経ないまま日本を語ること(p262)

(3)現れた現象と『国民性』の因果関係を曲解すること(p263)

 

 まず、(2)についてだが、これこそ「オリエンタリズム」的視点を与える大きな条件であることは確かである。しかしこれを根拠にエンブリーを擁護するのは論外である。なぜならエンブリーもまたまともに西洋を考察し、比較をした形で議論していた形跡がないことは本書を読んでも明らかだからである。

 また、(1)についても、ここでいう「偏見」を人種差別的な観点に限定した場合(いわゆる「色メガネ」は(3)の論点と重複するので、そちらで議論する)、私自身はゴーラーについても、ベネディクトについても特段の偏見を行っているようにはとても思えない。

 

 ゴーラーの著書からこれを考察してみよう。この考察にあたり、ゴーラーが「人種偏見とプロパガンダ」(訳書2011、1942年から43年の論文を収録)で日本人論を語るのは何故かについて考えるのが有益である。私が見る限り、ゴーラーはそれまでの日本の「対外的な動き(マスメディアを通じて語られていた日本の外交や、直近のアジア進出の動き)」に着目し、その因果関係を探るために日本人論を捉えているように思える。そしてそれはある意味で私がキンモンスのレビューでみたような「何故日本は『近代化』への衝動に強くかられていたように見えたのか」という理由を探る試みによく似ていると言ってよい。田中(エンブリー)が言うようにp264のような「近代化論」的アプローチで日本人論を捉えるようなことをゴーラーは行っていない。しかし、ゴーラー発達心理学的アプローチを中心にとらえようとする日本人論に「偏見」があるなどと言うことはかなり難しい程、「素朴」な分析をゴーラー自身行っていると言えるのである。

 もっとも厄介なのは、ゴーラーの問いが直接的には「何故日本人は残虐に見えるのか」といった点にあることである(cf.ゴーラー訳書2011:p67)。この問いはそれ自体で日本人が野蛮であることに加担するかのような記述であると読まれる可能性は否定できない。しかし他方で、これはマスメディアが与えたイメージの一端についての説明を与えるためとも読めるのであり、必ずしもゴーラーのみの責に帰されるものではないし、表面上は「野蛮であることを」擁護するかのような考察をゴーラーが行っているのも事実であり、その点を軽視するべきではない。

 

 ではゴーラーは「何故日本人が残虐に見えるのか」をどう説明したのか。それは、「日本」という環境が極めて抑圧的であり、その不満が「外に吐き出される」形で現れるからである、というものであった。

 

「清潔さのトレーニングに基づく倫理上の立場から派生していえることはさらにある。これは、今の状況下で、早急に考慮しなければならない重要なことである。与えられた状況において適切な行動をすることに力点があまりにも強く置かれており、平均的な日本人の経験においては、新しい状況に順応しないことに対する罰は、非常に恐ろしいということである。そのため日本人は新しい状況に適合しようとする衝動が非常に強い。結局、日本人は自己の環境のなかで、保守的な儀式偏重によって縛られてはいるが、いかなる異質の状況においてもでき得る限り適応しようとするはずである。戦争での軍事的な敗北のリスクに加えて、順応できないことに対する罰に対する無意識的な恐れは、非常に重要な役割を果たすであろう。清潔さのトレーニングに基づく倫理的な立場から派生することとしていえる二つ目のこととして、日本の土地で正しい行為に対する是認、そして正しい行動の基準というのは、異なった土地や異なった状況のもとにおいては、もはや機能しない。そして結局、日本の状況では不適切なあらゆる攻撃性やサディズムの排出が許されているということである。」 (ゴーラー訳書2011:p26-27)

 

「強迫的神経症患者の儀式の背景には、攻撃的になる、無意識の極端に強い願望が深く隠されている。儀式は、この危険な欲望を実行することに対する心理的な保護の役割をもつ。日本の社会は、他のほとんどの社会よりも社会で是認されている攻撃性を解き放つための機会が少ない。そして理屈からいえば、適当な状況があれば、攻撃性が発散されることになる。このことは、ほとんどすべての訪問者を魅了する日本中に浸透しているその生活の穏やかさをと、ほとんどすべての偵察員や新聞記者を怖がらせた戦争中の日本人の閉口させるほどの残忍性とサディズムとの際立った差異に対して、もっともうまく説明している。」 (同上、p30)

 

 このような抑圧的な状況の形成についてゴーラーは論文の多くを割いて説明している。その中で本書でも出てきたトイレット・トレーニングも説明に加えられる。ゴーラーの場合は、本書での指摘の通り、トイレット・トレーニングを「厳しいしつけ」の一環として捉え、早期から罰が与えられることがフラストレーションにつながること(ゴーラー訳書2011:p18-19)、そしてこれが潔癖な性格を形成するもとともなり(ゴーラー訳書2011:p20-21)、(土居健郎でさえ言及しなかったが)日本人は大部分が「強迫的神経症」と呼べる状況であると指摘する(ゴーラー訳書2011:p28-29)。故に日本は対外的な場においては攻撃的になるとゴーラーは捉えるのである。繰り返すがここで捉えるべきはゴーラーが事実を曲解している点ではない。あくまでそれが「差別意識」に根ざしているのかどうかという点である。そして私はこのような分析は極めてシンプルな日本人という「他者」を理解しようとする試みであると思えるのである。この時期に非難されるべきであった「人種差別」というのは、ジョン・ダワーのレビューでみたような「ゴリラだから野蛮」「子供だから未熟」といったレベルでの解釈であるが、ゴーラーはこのような態度の取り方は全く行っていないのである。

 

○エンブリーはゴーラーのような「曲解」をしていないと言えるのか?

 

 そこで、最後に残るのが(3)の論点である。確かにこれについてはゴーラー及びそれを引用するベネディクトも「曲解」をしていることについては、本書が指摘するとおりであろう。しかし、ほんとうにエンブリーが同じ誤りをしていないと言えるのであろうか?

 まず、エラについては、p247-248に見られるような「現在」の日本とかつての日本の比較について、あまりにも過度な一般化を行っているのは明らかではなかろうか。少なくともエラは日本の団地について須恵村と比べれば数十分の一程度しか調査していないであろう。そして基本的には「社会問題に毒された」言説をそのまま鵜呑みにしているように思えてならない。日本の女性の生きづらさについて経年比較できるものとして統計数理研究所の「日本の国民性調査」は優れた量的調査といえるだろうが、「女性が女性として生まれ変わりたい」という回答傾向の変化は著しく、60年代前半までは過半数が否定的であったが、この傾向は改善傾向にある。(https://www.ism.ac.jp/kokuminsei/table/index.htm 、#6.2 男・女の生まれかわり参照。)この質問項目の優れているところは、単に「現状が幸せかどうか」という、主観的判断に極めて依拠する質問とは異なり、今の自分の性と異なる選択の可能性があった場合の判断となっており、一歩現状を客観的に(特に性意識の面で)判断できる項目になっている点で注目すべき内容である。エラの見解によれば、過去の方がむしろよかったのではという判断を下しており、この調査とは真逆の見解をとっていることになるのである。

 

 そして、ジョン・エンブリーについても、遅くとも『日本人(The Japanese,1943、なお全文が次のURLから参照できる。http://www.ibiblio.org/hyperwar/ref/SI/Japanese/index.html))』を著した段階では『須恵村』における記述とは異なり「日本人論」を明確に位置付けているが故に、(杉本・マオアが批判したような)一元的な日本人を語ることに終始しており、ゴーラーと大きな違いを見出すことはできない状況にあるといえる。エンブリーは例えば、『日本人』の中で「一般的な日本人は今日でさえ、著しく政府からの情報に疑いを持たない」(Embree1943:p9)といった一般化を「歴史的な」背景から正当化している。

 このような態度は本書で語られるエンブリー像からずれている印象がある。本書で田中はp188のように須恵村が「ムラ」としては一般的だったという見解を紹介するが、日本の人々の生活の普遍的なものが須恵村にあったとまでは言っていない。むしろ、多様性についてもかなり触れている。村外の人(特に都会)と比べると、須恵村の人々はかなり異質な世界に生きていたかのようにも読めるし(cf.p107,p108-109)、性的なものに対する開放性などは部落や世代によっても異なっていたように語られている(p117-118)。

 このような多様性についてなぜ『日本人』において否定され、一面的なパーソナリティが正当化されるのだろうか?たとえ細部が異なっても日本人としての「おおまかな部分」については共通であったという前提があるとしても、エンブリーが議論した攻撃性などに関することが本当に「大まかな部分」に当てはまるものといえるのだろうか?どうも私にはそうは思えない。

 

 更に、トイレット・トレーニングに対する解釈は、幼少期に身につけた態度が大人にも大きな影響を与え、それがparanoic(被害妄想狂)な日本人を生むとしている点はゴーラーとよく似た見解であると言える。少し長文だが引用したい。

 

“This early period in a Japanese child's life is important in an understanding of his adult personality. The motherly affection coupled with the severe toilet training and culminating in the sudden loss of attention when the next child is born creates an early sense of insecurity which is turn produces an adult who is never absolutely sure of himself and who through compensation may become almost paranoic. There are a number of social usages in Japan that fit into this interpretation of the adult personality pattern. ……The adult manifestation of the temper tantrum resulting from lack of attention or fancied slight is assassination, and the deep shame felt from real or threatened loss of face is manifested by suicide. On a national scale, the fierce pride in race and culture may be in part associated with this characteristic Japanese adult personality and in part with the cultural revivalism referred to in a previous chapter.”(Embree1943:p23)

 

私の解釈では、次のように書いているように思える。

 

「日本の子どもが小さい頃の生活は、大人になった際の性格を理解するのに重要である。母親のトイレット・トレーニングと下の子が生まれてから突然気にかけられなくなることの影響で不安定さを生み、大人になってから決して自信がなく、その代償としてほとんど被害妄想狂になりかねないものだ。日本にはこの大人の性格類型の解釈に結びつける数多くの社会的慣習がある。……

 大人が不注意さややや空想的である結果癇癪持ちであることの現われとして暗殺があり、そして現実や面子がつぶれることへの恐れで感じる深い恥は自殺に現われている。国家的規模でいえば、人種と文化への断固とした誇りはこの特徴的な日本人の大人の性格と、前の章で言及した文化的な復古主義に部分的に結びついているといい得る。」

 

 実際の所、『日本人』でエンブリーがトイレット・トレーニングに言及するのはごくごくわずかであり、あまりにもわずかであるがゆえに解釈の仕方に困るくらいである。確かによく読めば、ここでのトイレット・トレーニングは「母親にかまってもらう」ことの例示程度であるように読むべきであると思えるが、ゴーラー的な厳しいしつけを行っていたという見解を否定している訳でもなく、ゴーラー的な解釈を行っても矛盾せずに読めてしまうように思える。また、エンブリーもまた日本人の攻撃性について説明するために性格形成や日本の慣習を語っている点もゴーラーと全く変わらない。このような態度の共通性がゆえに、ゴーラーを合わせて読んでいたアメリカ等の読者は、ゴーラーの文脈でエンブリーを読んでいた可能性も十分に考えられる。

 

 更に言えばエンブリーは「日本人がユニークである」という言説を紹介するものの(Embree1943:p35)、特段これについて批判を加えていないし、むしろこれを追随し独自の文化を形成したものと捉えているといってよいだろう。批判的なのは、あくまで当時アメリカでもタテマエ上御法度になることが確立しつつあった「人種差別」に繋がるような偏見に対してだけである(cf,Embree1943:p36)。

 

 以上の考察から、エンブリーとゴーラーは少なくとも田中の言うように善悪を別にして評価することが不可能といってよい状況であることはほぼ間違いないと言えるだろう。確かに『須恵村』での考察にそのような視点がなかったという点も強調しなければならない点であり、誤解すべき点でもない。しかし、エンブリーも一種の転換を行い、太平洋戦争時にはゴーラーと同じような「日本人論」を展開し、それがそのままベネディクトにも影響を与えていることも無視できないように思えてならないのである。

 

<読書ノート>

※エンブリーの須恵村滞在期間は1935年から一年。 

P64「「協同活動は人々のグループの自発的な行為なのであって、協同を強制せしめるようなボスがいて行われるのではない」という言葉が、ムラの「協同」とは何か、その本質を突いている。すぐ後に「地方の社会形態にボスとか親分とかがいないのは注意される」などと、部落を運営する組や「ぬしどり」という住民組織について、「ボスがいない」「頭はいない」との表現が何度も繰り返されている。部落の「自治」を強調するエンブリーの意図が見える。 

 そこにはムラの、いかにも平等な自治が想像されるが、実際にどこまでそうだったのか。 

 むろん須惠村にも村長や校長、地主階級の指導者は当然存在した。あるいは村の世話役としての「ぬしどり」や長老が「ボス」的な存在だったことも考えられる。エラのノートには、「多かれ少なかれ、自分をボスだと思っている夫人」がいたという記述もある。しかし、エンブリーは「ボスはいない」と感じた。 

 それは、ムラが身分が家父長制を軸とした縦社会である一方、横のつながり(協同)が縦の関係を維持するためにも不可欠だとエンブリーが気付いていたからに他ならない、と私は思う。一部の識者のように、日本を縦社会の文化と決め付けることは一面的すぎるだろう。」 

※しかしこれをゴーラーのように解釈されても困る。そして、中根のタテ社会の話も曲解しているように見える。 

P83「もちろん、負債が支払えないことは不名誉なこととされていた。「苦境にたった一人の男は首吊り自殺をし、他の男は二人の娘を淫売婦に売った」。エラは後者を「父親の利己心」と糾弾している。エンブリーは触れていないが、農村不況のため、講の高利な掛け金が重荷になっていた村民がいたはずだ。…… 

 このうち今でも残っている講は、同年講、観音講、伊勢講。同年講は同窓会として最もよく開かれている講の一つで、二カ月に一回という忙しい講から、ほとんど開かれていない講までさまざまだ。」 

※逆に見れば、1年間の須恵村の滞在だけでもこれだけの「負の事例」が確認できたということ。 

 

P106須恵村の女には、当然だが「美徳と欠点」、つまり二面性がある。欠点としては、「ほとんどの女性は極めて狭い経験しかしていない」ため、「国際的次元のことはほとんど知らず、自分の国が国際的出来事にまきこまれていることについては、まったく知らなかった」。一方で、若い娘は「村を逃げだすことを夢みて、都市で働き口を見つけようとしていた」という。また、自立した女性の中には「因習をあざけり……女性にふさわしくないとほとんど普遍的に非難されている行動をとっていた」人もいた。」 

P107「では、教師の妻や女性教師、村役人の妻ら須恵村に住んでいる「よそ者」は、須恵農民をどう見ていたか。「不信と恩着せがましさが入り混じった目で見ていた。その人たちの多くは、ムラの女たちが大酒飲みだときびしく批判し、農民を明らかに遅れていて未開な人とみなしていた」。序論でも明確に、「教師にとってはとくに、東京は啓蒙と文明の中心であった。それとは反対に、須恵村は、彼らにとって極端に遅れたところみえた」と解説している。」 

P107-108「一方の農家の女たちは「自分たちとよそ者のあいだに明確な区別をつける」傾向があった。このため、「この二つの女たちの集団は、公の場所を別にして、けっして交じりあわなかった」という。特に食事の仕方や味付け、経済状態といった暮らしの根本の違いでは、互いに辛らつだった。」 

P108-109中央政府によって徹底的に推し進められている天皇崇拝について女たちは「あやふやな理解」しかしていなかった。…… 

 国や世界の出来事に少しでも関心を持つ女性は少なかった。ラジオは役場、小学校を含め五台しかなく、戦争にも、ちょうど一九三六年夏に行われていた「前畑がんばれ」のベルリン・オリンピックにも、興味を持つということはなかった。「外部の世界とのもっちにぞくぞくする接触は、映画によって実現した」。映画は時々、学校や戸外の空き地で上映されるか、免田の映画館で鑑賞された。」 

P110「当時の日本の軍国主義は、エンブリー夫妻の心にものしかかっていた。小学校で行われた軍の観兵式に来た陸軍士官はエラに故意の嫌がらせをし、自分の演説の間、行動から離れるよう要求した。……五十歳以上の女たちは読み書きができず、国や世界の出来事に対しては無関心だった。それでも、夫妻にとって須恵村の人々は「この世でもっとも平和的な人たち」と感じられた。」 

 

P117-118「ただ、そんな(※性的な)踊りを村のみんなが支持しているわけではなかった。「おばあさんたちのやる、いやらしい踊りは好かん」という声も聞かれたし、エンブリーの日録の踊りについては、「これは須恵村の他の部落ではほとんど見られないものだった。他の部落では、若い人びとは、おこなわれていることにしばしば、明らかに困惑して、ただ座って眺めているだけであった」という。須恵村の中でも、部落によって踊りの内容に差があったのだろう。 

 しかし、続くエンブリーの日録に描かれた「他の部落」の婚礼後の非公式の宴会も、負けず劣らず楽しい。…… 

 宴会は場所を選ばない。「寺の中央の部屋の仏像のまんまえで、彼女たちは酒を飲み、エロティックな踊りをし、どんちゃん騒ぎをした。その同じ場所で、その日のもっと早い時刻には、僧侶が、仏の慈悲を信じない人びとの運命についての悲しい話をして、女たちは涙をながし、そこで賽銭を投げ、祈りを捧げたのだった」。」 

P124「「娘を芸者や売春婦に売るのは、父親の権利」でさえあった。しかし、糾弾するような筆致ではなく、論評は抑制ぎみだ。むしろ、「家族と世帯」という章題に、「家父長的な家」というより、ムラ社会の協同のありように着目したエンブリーの姿勢が表れているように思える。」 

 

P137「「小さな子供にたいする気ままな甘やかし」や、子どもたちが「無秩序の状態」のまま放置されていることは珍しいことではなく、「いつも驚きの源泉」だった。」 

P139「一方でエラは、寛容と甘やかしが行きすぎと感じることもしばしばだったようだ。 

「赤ん坊が泣くとすぐに、そのときまで、なにか他の活動に夢中になっていた子守りや他のものが、赤ん坊を抱き上げる。このことが、なぜ一番下の赤ん坊がそんなにたびたび泣くのか、また、あらゆる注意から見放されたその次の子が、なぜかんしゃくを起こしやすいかの理由である」と思えた。」 

P142-143「次のくだりは、現代から見てどう評価するか、須恵が特別なのか、とても興味深い。 

「田舎の学校は落第というものがない。子供の心理的影響や家族の恥辱は、精出して二度習ってみても決して償われるものではないと教師は感知している。運動競技でも一、二、三等はなく全員が賞を貰う。皆に賞を出すと誰も不当にあつかわれたとは思わない。ときには優等とか一等賞とかもあるけれども、それより協同行動の団体賞が多い」。 

 思い込みが入り混じっている印象もあるが、こんな箇所ではアメリカ人としての評価を書いていないのが残念だ。スポーツに競争は付きものだが、エンブリー夫妻には、競争を避ける気風は付和雷同に思えたか、それとも争いを嫌う穏やかな作法と映っただろうか。」 

 

P151「その前に、男女とも六十一歳の誕生日になると、還暦の祝宴がある。「この時期に第二の子ども時代に帰入するのであり、子どもの時のように気まま勝手に言うたり為したり、また欲しい物も手に得られる」。六十一歳でほぼリタイアし、その後は「お寺まいりに一日一日を生きるようになる」。」 

P156「「赤ちゃんがどこから生まれるかについて」も、「後に友達から教えられるが、『決して親からじゃなか』」。女学校には婦人衛生についての教科があったが、赤ん坊は母親の「おなかから」生まれると教えられるだけで、「学校での性教育はおこなわれていな」状態だった。」 

p158-159「「用便のしつけ」という一節がある。「トイレット・トレーニング」のことである。戦前にはイギリス人社会人類学者ジェフリー・ゴーラーが、排泄訓練による厳しい子育てが放縦と服従という日本の成人男性の矛盾した性格を形作ると主張したこともある。しかしエラは少し違って、こう分析している。 

「用便のしつけはきわめて厳格だといえないが、それは確かに非常に早い時期に始められていた」。須恵村では、二カ月たった位の早い時期に、おしっこのしつけをさせられる。現在は二、三歳ぐらいかららしいので、当時はずっと早くからおしめを取るしつけが行われていたようだ。 

 だが実際は、「赤ん坊はしょっちゅうおしめを濡らしている」。しかも「赤ん坊は、歩き始めるまでは、実際にはしつけられない。一歳から二歳になったときさえ、彼らを見守るものがいなければ。おもらしをする」。ということは、当時の須恵村の現実も今とあまり変わらないということになる。母親の対応は厳格というよりむしろ寛容に見える。」 

 

P162「「多勢の大人たちは、不義の性行為をするものは、奉公人に限られると断言していた。……彼は嘘をついていた。相手は娘さんで、奉公人ではなかった。他のものは、農家の娘はそのようなことはしないという、彼の主張を否定した。……人目を忍んだ逢引や性的な関係は、事実、須恵村の家族のなかの奉公人に限られるものでないことは、すでに明らかになった。」 

P163「『須恵村』にも「女たち」にも、いわゆる「若者宿」の存在の記述はない。同級会やお堂がその役割を担っていたのだろう。」 

P166-167「そして、あき(※エンブリー夫妻のお手伝い)の次の解説は的確だ。 

「……若いときには楽しいことばかりだ、だからみんな恋愛をする。しかし、結婚するときになったら、そんなことは忘れて、すべての手紙を捨て、両親の望みに従う。それは恋愛とはまったく別の事柄である。手紙をやりとりした男との結婚を期待してはならないのだ。」」 

P168-169「恋愛が引き起こす問題も多かった。避け難いのが未婚の妊娠だ。 

「いまでは私生児の数はずっと少なくなった」とはいえ、「恋愛沙汰の結果妊娠する可能性について、未婚の女子の両親が心配するのには、正当な理由がある」という実情があった。一般には未婚の妊娠は「望ましい状況ではない」し「すべての人を非常に不幸にする」と考えられていた。しかし、「多くの事件が起きる」ことも事実だった。 

「私は日本の家では秘密の逢引をするのはほとんど不可能だといったが、彼は、女中と奉公人とは、いつも母屋から離れた別々の部屋にいるから、彼らが会うのは簡単だといった」。こうした話をエンブリー夫妻は「女中と奉公人」に対する「社会差別」と受け取るが、この問題は奉公人に限らなかった。 

 夫妻は「ここでは十九歳以上で処女のものはいないだろう」と思っていた。四十代のある女性によれば、かつて「結婚のときに処女であることはそんなに望ましいことではなかったし、女の子はすべて十八歳ぐらいになると処女を失った」と言う。「処女ば失うとが遅ければ遅かほど、事態は悪うなる」からだ。その女性はそうした「不幸な事故」が起きたのは時々でしかなかったと付け加えたが、エラは「この地域の私生児の数を数えると、私はこの情報がどれだけ正しいのか疑問」に思わざるを得なかった。」 

 

P171須恵村には娘を芸者に売った男は八人いた。エンブリーは『須恵村』で、「娘を売った人達はいつも貧困である。彼らは村の土着の者ではなく、旧家でもない。自分の娘を売っても、軽蔑されはしない。まず高い社会の地位にない者だけが売るのであり、仮りに貧しくとも、農業で確固たる社会的、経済的基盤の上に家庭をうち建てようとすれば、こんなことは決してしない」と分析している。」 

須恵村の当時の戸数は285戸だという(p9) 

P174「そして、私が最も驚かされた記述の一つが、再婚回数の記録を持っている「反野のおばあさん」の例だ。 

「彼女は少なくとも十人の男と結婚し、結局、反野で終りになった。みんなは、反野は非常に静かな人なので、彼女はいっしょに暮せるのだといっている」。」 

P174-175「それでも、エンブリー夫妻が滞在した一九三〇年代には、「離婚はそれ以前よりも、ずっと一般的でなくなったというのが、女性も男性も同じように持っている一般的な意見だった」というのだから驚く。理由の一つは、以前は花嫁と花婿は婚礼まで会わなかったが、今日では会って話す機会がいつでもある、ということ。また、以前の婚礼は五円で済ませることができ、きわめて簡単だったので「それほど考えもせず、結婚を破棄した」。しかし、現在では多額の資金が必要になった。 

 さらに、昔は姑の問題があり、同時に花嫁がしばしば十四、五歳という非常に若い年齢だったことも離婚が多い原因だった。一般的には、「女たちは、夫婦に子どもがいれば、妻は多くのことを耐え忍ぶと考えていた」。」 

P176「エンブリー夫妻は、須恵村の男らと一緒に、免田の芸者を連れて遠出をした。後でそれを知った女たちは、「自分たちはそんな楽しい旅行をしたことがない」と言った。「彼女たちは、町で宴会がおこなわれるたびに、男が芸者と寝ることを知っていた。……それについては、どうすることもできないといった。……しかし、ときには家庭のなかで口論がみられる。……『その旅行はあんたのとってよかことばい。ばってんうちをごらんなさい。十円、十五円を養蚕で稼ぐのに一生懸命働き、その金さえも主人に持っていかるっとだけん』。小さな遠出でも七十円はかかり、須恵村の多くの家族はひと月にそれ以下で生活していた」。 

 夫妻は男たちの集まりで、妻を愛しているかどうか聞いた。男たちは、「外人は恋愛が最初でそれから結婚する。ばってん、日本人は最初に結婚して、それから愛が始まる」などと口々に話した。」 

 

P178「さらには、「妻を肉体的に虐待することで知られている男たちがいた」。今でいうドメスティック・バイオレンスだ。ある家の娘は、「両親はいつも喧嘩をし、父親はときどき母親を殴るが、母親は子供たちのために家を出ていくことはない、と私に語った。彼女はときどき、家庭のこのような状態のために泣いていた」。 

 妻たちのこうした境遇を見知ったエラは、とんでもないことだ、と思っていたはずだ。しかし、自分の意見を極力抑えて、多分に女たちに同情しながら、村民がどう考えているかを忠実に記している。ただし、「私たちの女中は、この地方の従順さを否定していた」と、ひと言添えることも忘れなかった。」 

P180「経済的自立は同時に、女性たちの協同を促した。エラは、こう確信する。大部分が結婚によって村の部落に移ってきたよそ者である女たちが、「かなりの程度、経済的な結びつきを形成し、労働をともにし、まったく女たちだけの友情のきずなを固めてきたことを無視するのは誤りだ」と。そうした女性の協同のネットワークが「非公式に組織された集団」が経済活動にも生かされていた。女性たちの経済的自立性は、収入額では測れない女性の強さの源だったと私には思われる。」 

※「しかし、ムラの夫婦関係の基本は、まず夫の優越だった。」(p181) 

P188「当時の須恵村が特殊だったかどうかは分からない。しかし、こうしたムラの実態は、日本の「どこでもほとんど同じだった」という。そう思える証拠として『女たち』の原注では、大正時代に熊本の五家荘を含む五村を調査したアメリカの社会学者トーマス・ジョンズの『日本の山の人びと』(一九二六年)を引用し、ジョンズが「不道徳」と呼んだ「婚前の性交渉」「私生児」「堕胎」「間引き」がどこでも行われていたとする。 

 エンブリーも足を運んだ五家荘でジョンズは、村長夫人が「すべての娘が結婚前に性的関係を持っている」と語ったとし、「五家荘では男性の九パーセント、女性の八パーセントは、手続き上の私生児だった」と言う。」 

 

P194「日本人の円環的な四季や時間の感じ方を見抜いているのが驚きだ。須恵で今も行事が残る小正月は、暦が普及する以前に一月十五日の十五夜満月を正月としていた名残。エンブリーはその重要性を理解していた。」 

P218「ただ、(※エンブリーの)「遅れている」という表現が、進歩に関わる言葉なのかどうか、優劣の価値が込められているかどうかは別だ。単に文化や政治経済などの情報が遅れて入ってくる、という程度の意味だったのではないか、とも思える。」 

p220-221「文中に「古風」「停滞性」「生気のない」といったマイナスイメージの表現が使われているのに違和感を覚え、原文を当たってみた。すると、「古風」が「old」なのはいいとして、「停滞性」は「stability」、「生気のない」は「dead-end」の訳だった。ということは、それぞれ「安定性」「行き止まりの」と訳す方が正しい。「行き止まり」は単に地理的表現にすぎない。特に「停滞」と「安定」では、この文章全体の印象と価値観がまったく逆転し、古風だが「変化のある歴史を経過した安定性」というプラスイメージに転換する。つまり、エンブリーが避けたかった偏見、須恵村が停滞したムラだという思い込みを、翻訳者が抱いていたのではないか、と思えるのだ。」 

※「この文章」とは、「このような古くからの停滞性に関しての一つの理由は、きっと球磨地方が山また山に囲まれた生気のない谷間であり、常に主要な交通路から取り残されてきたことである」(p220)。原典にあたる重要性。 

 

P222「『女たち』に、「逃亡・村外で働く」という一節がある。ここには、ムラの「強靭な社会的紐帯」、つまり協同の裏側にある拘束性に対する反発や、若い女性たちの「自立の精神的気質」が感じとれる。 

「多少とも教育のあるもののほとんどすべてが、村を離れる方法を探していた」し、「結婚していない須恵村若い女たちの多くにとって、目標は、村を逃げだし、町や都市で仕事を見つけることだった」。」 

※「農民層の閉鎖性や拘束性」により「農民とそうでない階層の村民との間」には「社会的差別」があるといえる状況にあった(cf.p221) 

P222若い女性が村を離れたがる理由はこうだ。「たしかに仕事は、彼女の嫌いな農業よりも軽いものとみなされている。彼女は、工場では午前五時に仕事を始め、立ったまま午後の二時まで働いたといった。その後、彼女は裁縫も稽古にいき、夜は遊びにいったという」。賃金もまずまず。募集員は、最初は1カ月四円五十銭だが、平均では十円払うと勧誘した。過酷なイメージがある「女工哀史」とは異なり、女性たちが「工場を好きになっても、不思議ではない」現実があった。」 

須恵村の女性の重労働さは「女たち」にも描写があるという(cf.p161) 

P228「彼ら(障がい者)は「不適合」に挙げられてはいるが、まったく排除されていたわけではない。むしろ、「強固な協同生活に対してきわめて不適合なのは、むしろ利己主義者」だった。「不適合」は「協同」の反対語に近いニュアンスで使われている。 

 不適合者として、他に「大学教育を受けた人」「協同労働をしない女」「性生活に起因するヒステリーの女」が挙げられている。「大学教育を受けた人」は七人いたが、村に戻ったのはエンブリー夫妻と親しかった愛甲慶寿家一人だけ。村の変革を訴えるような高等教育を受けた人は、ムラの暮らしには不向きと思われたようだ。」 

P229-230「このように、障害者や不適合者に対する須恵村の女性たちの態度と行動は、エラにとっては「思慮に欠けるものがあった」。そのため、エラは「一般的な観察」として、「私は、家事が嫌いな女の子や創造的な精神の持ち主である女の子は、このような社会で生活するのは困難だと思う」という結論に至る。なぜなら、「ここの社会は、女性をよい母親に育てようとしている」からだ。『女たち』で「家事の嫌いな女の子や創造的な精神の持ち主である女の子」と不適合者が同列に置かれている状況は、『須恵村』で、大学を卒業して「須恵村の風俗習慣を変えようとしている」愛甲慶寿家が不適合者とされているのと同じだ。」

 

P230-231「なぜ須恵村に不適合者が少ないのか。「これらの人は、つねに外にだされるか、乞食になるのである」という実状は、協同の裏面としての排除の構造をあぶりだしていると言える。」 

P231「「すべての子供を軍国主義者にすべく訓練し、平和主義への余地をまったく残さない教育制度、自由な思想のあらゆる表現を抑圧し、科学と歴史のもっとも初歩的な教育によってさえ、神の子孫であることが疑われる天皇についての盲目的な崇拝を期待している政府、女子のための教育水準が上昇し、少なくとも都市において若い男女の交際が増大するなかでの、見合結婚という時代遅れの制度の維持などを考えるならば、不適応者たちが救済されるのか、それとも創り出されるのかについて、ここでなにかいうことは困難である」。」 

P232「ただ、夫妻が村の閉鎖性を非難し糾弾するまでには至らなかったのは、閉鎖性の半面に、むしろそれを上回るような村民の開放性や自由を感じたからだろう。……ムラには、村外や気心の知れないよそ者に対する閉鎖性の一方で、一度気を許した相手に対する開放性という二重の基準があった。部落は、内と外、自と他の境界を明確にすることで成り立っているかもしれないが、内外、自他の交通が意外に頻繁に行われていたことは、『須恵村』でも明らかだ。閉鎖的であったかもしれないが、抑制されたエネルギーとしての開放への志向性は思いほか強かったのではないだろうか。」 

※排他性をいかにとらえるのかが難しい。しかし、ここでいう「開かれている」「閉じている」とは具体的には「自由」との兼ね合いを指しているのであろうが、「開放への志向性」と言われると、いまいちピンとこない。 

 

P247-248「では、一九三五年の須恵村の女性と一九八〇年代の都会の女性のどちらが恵まれているのだろうか。「今日の都市の団地の若い母親は毎日、一日中、小さな子供に縛りつけられ、昼間のテレビのメロドラマに夢中になり、いかなる種類のどぎつい人間的接触からも、いろいろなかたちで隔離されていて、かつての須恵村の女たちの生活の仕方を、即座に拒否できるという、そんなうらやましい地位にいるのだろうか」。 

 否定的な疑問のまま、『女たち』では最終的な結論は導かれていないが、「日本の女性にとって、古い苦痛は新しいものに取り替えられたのであり、また自立と依存の程度から見て、現代の日本の女たちが、自分たちは、激しい労働と激しい遊びをした須恵村の女たちよりましだ、と想像できるだけ進歩したとみなすのは困難である」と、あくまで懐疑的だ。」 

※引用は『女たち』によるようであうる。しかし、「女性として生まれ変わりたいか」という質問は、この議論の本質を突いているように思えるし、その割合は戦後着実に上がったのはまぎれもない事実。 

P254「エンブリーの署名がある少なくとも七件の報告書には、エンブリーの日本に対する胸の内が随所に表れている。「日系アメリカ人との関係」と題された報告では、日系人理解の基本を説く中で、「日系人の気質については、決定要因が人種というより文化である」として、収容所での待遇に「敵国日本」に対する人種的な偏見や差別を持ち込まないように釘を刺している。」 

※「日本人論」自体には加担していたようにも見える。 

P256「しかし『日本人』は、アメリカの自民族中心主義に対する批判の萌芽とも言える内容を備えていた。いきなり「日本人のついては、神秘的なオリエンタル(東洋的)なものは何もない」という結論から書き起こされているのが象徴的だ。続けて「日本人の思考と行動は、他の人々と同じように早い時期の訓練と文化的環境によって決定される。そのことがより理解されればされるほど、日本人の振る舞いはより理解できるし予測できるだろう」と、日本を異端視することに異議を唱えている。」 

※『日本人』とは、1943年にエンブリーが著した小冊子。 

 

P262「これに対してエンブリーは反論する。 

「何人かの人類学者は、日本の特異な文化が、日本人を個人としては好戦的で攻撃的であり、国家としては拡張主義者にしたことを論証しようとした。それは、排泄訓練に関する巧妙な理論、天皇崇拝、そして食の習慣によって成された。……(一方で)西洋社会の攻撃的な行動の原因は、完全に無視された」。」 

P263「『菊と刀』は、戦時情報局で軍が収集した日本関係の情報分析に携わっていたベネディクトによってインタビューや文献を基に作成され、一九四六年に刊行された。実際にフィールドワークを行った文献としてのエンブリーの『須恵村』『日本人』からの引用も多く、明確にエンブリーを参照したと分かる箇所だけで十数カ所に及ぶ。例えば、共同労働、葬式やその贈答、小学校の児童たちの競争の回避、直接的な取引を避けるための仲介者の制度、客を持たせて衣服を着替える礼装、相手に拒絶されても恥をかかないで済むように頰かむりして忍び込む夜這い、などだ。だが『菊と刀』ではエンブリーがそれらを協同の慣習として描いたことの意味は一顧だにされておらず、正しく理解されているとは言い難い。 

 ベネディクトは、エンブリーが描いたこれらの事例を、ことごとく「義理」「恥」に結び付けて解釈し、逆に戦争を引き起こす日本人の国民性として分類する。義理や恥が脅かされた場合、日本人は復讐に駆られたり、攻撃を自殺という形で自分に向けたりする傾向があるという。しかし、一九三〇年代に「彼らは国家主義的目標を抱き、攻撃を自分自身の胸から転じて再び外へ向けた」というのだ。」 

※たとえ「協同」と結びつけることが正当だとしても、それがそのまま「日本人論」として正当化されるわけではない。 

P264「また、反自民族中心主義の立場を共有するジャーナリスト、ヘレン・ミアーズの『アメリカの鏡・日本』の書評でエンブリーは、戦争の原因を日本人の攻撃的な国民性に求める議論を退けた上で、「本当に重要なことは、アジアの一国日本がヨーロッパの国と政治的に対等に振る舞おうとしていたということである。しばしば見落とされるこの事実は、おそらく日本と西洋の多くの対立、さらには他のアジア諸国と西欧の紛争を最もよく説明する」と述べ、日本の覇権主義はむしろ西欧の自民族中心主義に基づく植民地主義の後追いなのだと主張した。」 

P274-275「鈴木榮太郎は、『須恵村』について、「エンブリー氏の観察は相当に精緻で洞察力にも敬服するものがある」としながらも、「しかし折角得られたそれ等の資料が充分に科学的に処理されていない」と批判している。その指摘が当たっているかどうかはともかく、私には、科学的処理や分析、抽象よりも、エンブリーの偏らない「精緻な観察」が十分に面白い。ベネディクトが及びもつかない眼差しが読み取れるのだ。」 

※この指摘を含め、エンブリーの議論を一般化し価値判断をしようとする田中の議論には違和感がある。