斎藤喜博「第二期斎藤喜博全集 第1巻」(1983)

 今回は以前レビューしていた斎藤喜博を再度取り上げる。本書でメインになっているのは「授業論」であり、斎藤自身これまでそのような「授業論」が存在しなかったことを憂い、そのような「教授」に関する議論がもっと教師に読まれる必要性を感じて書いた内容の著書がメインとなっている。平たく読んでしまえばあたりまえのことを書いているようにも思えるが、確かに一見すると授業を行うために必要な観点について適切に捉えているように思える。「教師として志す者にとっての初歩が記載されている」程度のものとして考えるのであれば、必読と評してもよいように思える。

 

○教師に必要な素質とは?

 

 もっとも、本書を深読みしていった場合には色々と問題点が出てくる。

 本書でまず注目したいのは、専門職である教師が授業を行うために必要とされる素質についてである。言うまでもなく斎藤は単に知識を教える作業を教育と捉えるのではなく、「子どもに思考させる」ことが授業として必要であると考えている。本書を通じて斎藤の授業観には現象学的な着眼点が強く見受けられ、教室に在る教師と児童の相互行為として、またその場に身を賭ける主体があって初めて授業が成り立つものであると考えている(cf.p8-9)。ただ、これだけでは説明が足りない。教師と児童の関係はあくまでも非対称な存在でなければならないものであると斎藤は強調する。つまり、教師は教材に対して文字通り「精通」し、教材によりどのような議論が成り立ちうるかを十分に想定しつつ、その要となるものついて自らの考えとしてしっかりと押さえ、それを中心にして授業の中で議論を展開していく必要があると考えるのである。

 

 しかし、これらの要素で十分かと言われればそうであるとも斎藤は考えていない節がある。例えばp23-24のような言い方は「教師万能論」とでもいえるような言い方であるように見える。少なくとも「感性」のようなものを教師は十分に備える必要があるということだろう。P193-194にあるようにこれを端的に「人間の力」という表現もしている。そしてp221にあるように、常に真理や美に近づこうとする存在であることが求められる。

 そのためにp254-255のような、より直接的にはp317やp442のように「より広い世界の」「総合的」な力が求められることになるのである。いわば教師は狭い世界のみで物事を解釈するのではなく、より広い世界というものをよく理解し、それを形にして児童に教えていくことが求められているのである。

 

○斎藤の教師論は「何か」を教えることができるのか?

 ここではひとまず、この目標とされているものが無際限に要求されるような性質になってしまっていることは置いておこう。他にも問うべきことがいくつかあるからだ。

 まず、何より重要なのは、教師のこのような「教育」が、何のためになされているのか、という極めて初歩的な問いである。斎藤にとってこの答は簡単に出せる。P302にあるように、子どもの無限の可能性を「引き出す」ためにあるものである。しかし、これは実際のところ答えになっていない。斎藤の教育思想からは具体的な目的を示すことができないし、むしろそれでよいと考えている点をまず押さえねばならない。

 このことから直ちに出てくるのは具体的な「何か」を求めることそれ自体への否定である。以前レビューした70年代の無着成恭明星学園中の保護者の対峙が典型的な例であるが、何ら具体性を求めないことを善とみなす場合、当然具体的なものは悪であり、排除の対象となる。確かに斎藤はこのことを直接言及していないものの、p254やp403-404のように一方的に画一性を批判し、それを官僚的なものとして還元して語る態度には、この見方が反映されているし、波多野完治がp473で批判している点にも同じ傾向を見出すことができるように思える。科学を一面的な態度で批判し、そこに創造性が介する可能性を一切みず、それを「機械的」なものしてしか捉えないということは、言い換えれば「機械的にやるべきものは教育として必要がない」と言っているのと同じである。要するに(教師から見て)外的に求められるような教育内容(そしてそれが児童にとって「必ず獲得されなければならないもの」)というのは、簡単に排除可能な論理を斎藤も持ち合わせているのである。

 

 合わせて、間接的ではあるが全生研的な集団主義教育の議論を全否定している点も無視できない。これはこれまでのレビューで言えば矢野智司が典型であったが、善を強要する教育の立場は、模倣論として有効たりうる「悪」への目線さえも否定してしまうのである。全生研の前提はすでにレビューしたように、「理不尽な現実=悪」に対峙する主体形成を行うため、擬制的・意図的に「悪」の環境を教室(学校)内に作りだし、そのことを自覚し、立ち向かう力をつけていくことが目標とされていた。しかし、斎藤の議論からは、このような「現実」を見る態度はそもそもない。その「善」は、「善」の世界でのみ無敵であるが、その世界から外れること、外れてしまった存在に対する責任は一切取ろうとしないのである。これは矢野智司が教師と生徒の関係が「すでに存在している」ことを自明視し、その関係性が形成されない状態を全く考えようとしていなかったことと同じである。

 このような斎藤の「善」の議論においても、当然実践の場においては妥協が求められることになる。その妥協によって結果的に斎藤の「善」の理論は機能したことになるかもしれない。しかし、その妥協に対してどう捉え・実践すべきかは何も述べられていないため、その妥協が可能となるかどうかは偶然の産物(ないし教育実践者である教師の裁量)にしかならないのである。

 

○「教材」を教師は何故選べないのか?

 斎藤が「現実」を見る態度がないことは別の問題を生むことにもなる。それが「教材」に対する議論の中に見いだせる。本書では「教材」というのは教師が熟知している必要のあるものとされている。そうであるならば、直ちに問われるべきは、教師がその「教材」を自主的に選択することが何より大事なのではないのか、という点だろう。これは文科省(文部省)検定の教科書問題をめぐる議論ではあたりまえのように出てくる論点である。教員の自主的研究のためにも、国がそれを強要することは断じて行われるべきではない、とされるものである。斎藤の主張は一見このような検定教科書批判を全面的に支持するかのようにも思える。しかし、斎藤は(少なくとも本書では)全くこの論点に触れない。本当に教材の理解が重要であるなら、他者から強要される教材を用いるのが不都合であることは自明であるにも関わらず、である。

 何故斎藤はこれを問わないのか、類推は可能である。以前斎藤のレビューをした際に述べたが、斎藤は教員の学習態度を強調しようとするスタンスが根底にあると言える。そのような教員の態度を強調していることが阻害要因となっている可能性が考えられるのである。つまり、斎藤は他者がどうこうすることよりも、教師自身の問題に焦点化して論を進めるために、「教材」をめぐる問題を適切に捉えられていないと読めるということである。

 

 教師倫理の問題だけを強調してしまうとかえって実際的な問題解決を困難にしてしまう場合はありえる。特にp13-14の議論を適切に捉えないと教師責任論だけで全てを解決しようとする態度にもなりかねないように思える。この部分では、学校で与えることができる「教材」には限界があることが述べられる。良質の教材で教えることが良いに決まっているが、学校における「環境的」な要因によって、常に良い教材が使えるとは限らないため、教師は所与の教材を用いなければならないとされる。

 確かにここで主眼におかれている「環境的」とは、いわゆる教育の「内的事項・外的事項論」における「外的事項」を指しているもの、つまり教育環境のハード面の話(物的な教材)と推測はできる。しかし、斎藤はこの主張を普遍的なものとして捉えている傾向もあり、「内的事項」である教育内容についても教師は所与のものを引き受けるべきであると解釈しても、反論可能な主張を本書から見出すことはできないのである。先述した「何を教えるべきか」を具体化できない斎藤の議論からは、この教材についても具体的に議論を行わないことは当然の結果であるように思える。

 しかし、このことを更に飛躍させると、教師は他人によってあらかじめ決められた教材を一から学び、それを教えなければならない、という問題を抱えることになる。斎藤が教師の責務を強調するがゆえに、教師は無条件で(全力で)努力し、教材を体得していかなければならないのである。そしてそのような努力を怠るような教師は「形式的・官僚的」な教師というレッテルを貼り、批判を行うのである。見る人がみれば、極めてタチの悪い体制側の人間として斎藤の教育論は写ることになるし、それを斎藤が反論する材料を(少なくとも本書では)持ち合わせていない状態が問題なのである。斎藤の盲信的な「教師万能論」はかようにして曲解されうるのである。

 

○「無限の可能性」言説についてのメモ

 

 最後に新堀のレビューで考察した「無限の可能性」言説に対する議論について少し触れておきたい。本書ではいくつかの箇所で「無限の可能性」についての言及がある。新堀は「子ども性善説」を強調するための俗論として「無限の可能性」が語られると捉えていたが、実際の言説は「実態の批判」も多分に含んだ中でそれが語られていると私は指摘した。つまり、「純粋無垢な『無限の可能性』を子どもが持ち合わせている」という主張はタテマエであり、むしろその可能性を阻害しようとする実態に対し批判し、その対抗言説として「無限の可能性」が語られている、という見方が可能であるということである。

 これは本書における斎藤の言説においても似た傾向を見ることが可能である。確かに一見すると、斎藤の「無限の可能性」論は「善」性に支えられた素朴な楽観論であるようにも思える。P444のような部分を拾えば、そう読めるのである。

 しかし、p302の方はどうだろうか。これは、p292やp296の議論とも関連するため、こちら側の引用を持って解釈したほうがよりわかりやすい。斎藤は子どもの可能性が引き出せないことを、社会の責任とすることに対して否定的である。そして、子どもの可能性を引き出すことは、あくまでも教師の授業実践によって追求されるべき問題とみなされているのである。ここでもやはり「教師万能論」との関連で「無限の可能性」が語られ、現状の教師の批判をその言説に含んでいると読めるのである。形式的な授業を行う教師は子どもの可能性を引き出せない。だから創造的な授業を展開しなければならない。この論理の中に「無限の可能性」が組み込まれるのである。

 

 

<読書ノート>

※開かれているようで、閉じた世界における教育は、やはりそれだけで実際の社会を形作るものを無視してしまう。そうするとやはり「社会に役立つ人間づくり」に寄与するどころか、それを無視して、結果的にそこから排除されてしまう可能性さえ引き受けてしまう主体形成を行いかねない、という問題は常にあり得る。

 過去の全生研のような運動的側面をもつ教育はこれをいくらか緩和していただろう。しかしそれが剥がされたまま斎藤の教育論をそのままで受容することはそれだけで「危険」と見ることもできる。

P8「この学生も云っているように、授業は、教師の持っている概念的な既成の月並みな知識を、単に子どもに機械的・形式的にわからせるだけのものではない。そうではなく、対象である教材の中にある具体的で複雑な事実をもとにし、教師と子どもがいっしょになって追求し、発見したり、獲得したり、自分を変えていったりする作業である。そういう作業を通して、実感として主体的に学びとっていく作業である。

 したがってそういう授業においては、教師は、自分の持っている観念的な知識とか、自分の狭い過去の経験とかだけにたより、それを正しいものとして、教材とか子どもの事実とかに対してはならない。自分の観念的な知識とか経験とかを、そのまま教材や子どもの中に狭く持ち込み、あてはめていくようなことがあってはならない。」

※引用されている学生の話はここまで言っていないのだが。

P8-9「授業はそういうものではない。教師が自分の持っている固定的なものとか、概念的な知識とかを一方的に教えるのではなく、教師も子どもも、教材に対して自分の持っているものを、自分の主体をかけたものとして相互に出し合い、おたがいに吟味しあっていくものである。そういう作業の中で、おたがいにそれまでの自分の持っていたまちがった知識とか、狭く低い認識とかを変え、自分自身をそれまでとちがうものに変えていく仕事である。そういうことこそほんとうの学習であり、「わかった」ということである。

 授業がそういうものになったとき、子どもたちは、追求し学習していくことが、面白く楽しく豊かなのだということを実感として学ぶようになる。」

※これだけでは説明が足りない。それでもなお、教師が教材をもって真理に向かう取り組みがなければ成立しないし、教師の主観に対して何かを議論する必要はない。ここでいう双方向性はどこまでも部分的でなければならない。しかし、ここでの言い分は教師を卑下しすぎである。斎藤的なべき論ベースで考えた場合、教師が自信を持って選ぶ教材において「まちがった知識」「低く狭い認識」はないとは言わないまでも限りなくなきに近い。この言い分が正しいとすれば、教師が子どもにそのように引き出す際において、そしてその側面を特に強調する意味においてである。もっとも、斎藤はそれを自覚しているが。

 

P9「そういう授業では、特に教師の役割が大きなものになる。それは、学習の主体者は子どもであるけれども、子どもを学習の主体者として生き生きと活動させるためには、教師が積極的に授業の中心となり、授業の組織者・演出者となっていかなければならないからである。」

P11「創造的で追求的な授業は、教室全体が集中と緊張を持っているが、それは決して古めかしく堅苦しいものではなく、明るくリラックスしたものを持っている。教室全体が生き生きと流動しており、どこからでもよいものは受け入れるという開いた楽しい姿を持っている。これは、教室全体が真理を追求しているからであり、よいものはどこからでもとり入れて、自分を太らせ自分を変えていこうとする開いた姿勢を教師も子どもも持っているからである。」

P12「教師は自分の形式的で一方的な授業を守るために閉鎖的になっており、子どもは、形式的に教師に動かされているだけであり、少しも学習に興味を持っておらず、主体的に学習にとりくまされていないからである。

 そういう授業で、子どもが、子どもの中にひそんでいる。さまざまの豊かな可能性を表に引き出され、それをさらに拡大したり変えていったりすることなど不可能なことである。」

P13-14「したがって、それほどでもない教材でも授業をしなければならないことも多いのだが、そういう場合でも、対象である教材に対して教師が自分の問題を持ち、追求する課題を持ち、追求する意欲を自分自身の問題として持っていないかぎり授業はできない。

 教師が教材に対して自分の問題を持ち、疑問を持ち、もしくは教材の表面に表現されている以上に深く読みとったものを持っており、それらを持って子どもたちにぶつかっていったとき、授業はようやく開始されるのである。教師が、自分の持った問題とか疑問とか、自分の読みとりとかを、自分を掛けたものとして子どもの前に出したとき、それが引金となって、学級全体の子どものなかに波瀾を起し、一人一人の子どものなかに新しい考えをつくり出し、教師と子ども、子どもと子どもとの間に、対立や葛藤を起していくようになるからである。

 授業は、そのようになったとき成立したということができる。それは、教師の自分を賭けての問題提出を契機として、子どもたちにそれまで気づかなかったものを気づかせたり、それまで子どもが持っていたものをゆさぶったりし、子どもたちの主体をかけた考えを引き出し、それらを吟味にかけることができるからである。そうすることによって、子どもたちの考えを多様にしたり、いままでわからなかったことを「わかった」と思うようにしたり、難しいものを子どもたちのなかにつくり出したりすることができるからである。」

 

P15「そういう意味で授業は、教師の教材解釈の高さとか深さとか、立ち向かい方とかによってほとんどきまってしまうものである。教師が教材に対して自分の解釈を深く持ち、切実に自分の追求したい問題を持っているかどうかによって、ほとんど決定的に授業の質とか方向とかはきまってしまうものである。」

P23-24「それはまた逆に云えば、教師としての洞察力とか構成力とかを持っていれば、他の人間とか社会とか自然とか芸術作品とかにふれた場合も、その底にあるものを深く洞察し正しく把握していくことができるようになるわけである。普通では見えないようなものをみたり、普通より深くとらえたりしていくことができるようになるものである。」

P46-47「やはり教師は、授業をする前に、教材に対してさまざまの解釈をし、さまざまの疑問を持つようにしておかなければならない。子どもがどう読みとり、どういう疑問を持つかという予想も十分にしておかなければならない。……

 そういう手の込んだ仕事をしておいてはじめて、文章の具体につきながら発問したり、子どもに考えさせたり、子どもを追い込んだりしていくことはできるわけである。子どもと教材と、教師としての自分の考えとを結びながら、子どもといっしょに考えるような授業をしていくことができるわけである。」

 

P117「授業がこうなってしまったのは、一つは授業の核がないからである。この時間の授業の核になるところを、教材の具体に即して教師がはっきりと持っていなかったからである。またそのことにもつながるのだが、教師の教材の読みとりの弱さ不完全さからである。さらに教師の発問の悪さがあり、子どもの発言を整理していく力の弱さがある。

 発問と子どもの発言の整理についてだけ云っても、「そうしたふしぎなものに見とれていた」のところを、「ここ大事なとこだね、何に見とれていた」というあいまいな発問をしてしまっている。だから子どもからは「いろいろな形をした虫」「あひる」「自然にひかれる気持」などと根拠のない思いつきの発言が出てしまうことになる。

 また、そういう発言が出た場合は、「あひる」という発言を反ばくし発言の根拠をきいたり、「自然にひかれる気持」を、さらに突っ込んでみたりしなければならないはずだが、それもしていない。「虫はめずらしいから見とれるが、あひるはかってるものだからみとれない」は、大事な発言なのだが、これをとり上げるどころか、教師は否定してしまっている。

 これらはみな教師の教材研究の不足に原因があり、そこから出る子どもの発言の整理の仕方の不足に原因がある。授業がごたごたしたものになり混乱し、子どもが「わからん」というようになってしまうのも、みなそれらに原因がある。」

※よく考えると、これが「教材研究の不足」と断言してよいのか、という趣もある。それは問いの立て方(問いを深めようとする姿勢)の問題なだけではないのか。

 

P184-185「文学作品をそう考えた場合、この俳句も、「農苦」とか、「世代のちがう父子の断絶」と考えてもよいし、また、小学校のように「あたたかい雪」と考えてもよいことである。また降る雪を自分の思いをこめて父子がみていると考えてもよいことである。授業は、そういう生徒のさまざまな解釈とかイメージとかをもとにし、教師の解釈やイメージを加えながら、子どもたちの解釈とかイメージとかを、自由に高めひろげていくことができればよいからである。

 ただしその場合、教師がはっきりと自分の解釈やイメージを持っていることが必要になる。教師が自分の解釈やイメージをはっきりと、しかも多様にもっていることによって、子どもたちに豊かに問いかけ、子どもたちの多様な考えを引き出したり、子どもたちの考えを拡大したりすることができるからである。また、子どもたちの考えを反ばくすることによって、子どもたちの考えをさらに高めたり変えたりしていくことができるからである。」

☆P193「それはこの教頭の先生は、音楽の教師ではないから、合唱の指導の方法や技術は持っていなかった。しかしこの先生は、子どもたちが歌っている楽曲に対する解釈とかイメージとかは十分に持っていたのだった。そのため、子どもたちの表現の弱さがよくわかり、「まだだめ、まだだめ」と云っていたのだった。子どもたちもまた、さまざまに歌いなおし、その結果、自分たちの合唱をつくり変えていったのだった。教師の教材解釈とか教材に対して持っているイメージとかは、授業においてはこのように重要なものであり、授業を支配し授業の方向とか質とかを決定していくものである。

 しかし授業はそれだけでできるものではない。教師が教材に対しての解釈を持ち、イメージを持っていれば、それだけで授業がつくり出され、子どもの持っている可能性が引き出されていくなどというものではない。もしそうなら教師という専門家など必要でなくなってしまう。教材に対する深い解釈とかイメージとかを持っている人なら、だれでも授業という仕事が簡単にできることになってしまう。

 授業はそういうものではない。やはり授業は一つの専門的な仕事であり、専門の教師の力によってつくり出されていくものである。専門の力量を持った教師が、学校という力をつかい、授業という仕事の持っている本質的な力をつかっていったとき、はじめて、すべての子どもたちは、自分の力を引き出したり、そのときどきに自分を新しくつくり変えたりするようになっていくのである。」

※この主張はこの前段の教授論とどう関連しているのかは重要な問題となる。一応単行本というくくりで連続性が認められるが、他方で雑誌掲載部分と書き下ろし部分という違いがある。ここでいう「解釈」とは、本当にp46-47やp184-185でいう「解釈」の話と同じことを言っているのか??

 

P193-194「そう考えたときまず第一に必要なことは、教師の人間の力である。教師の力量とか人間性とかが豊かであればあるほど、授業は豊かになり子どもたちも豊かになっていくからである。人間的に貧しい教師からは、貧しい授業や子どもしか生まれないのであり、豊かな授業とか豊かな子どもとかは、必ず豊かな教師から生まれてくるからである。

 それは、人間的に豊かで力量のある教師は、教室に立っているだけでも子どもたちに豊かなものを与えていくからである。また教材に対する解釈とかイメージとかも、豊かなものを持っており、しかも、子どもたちの事実に即応し対応しながら、自分のそれまでに持っていた解釈とかイメージとかを、さらにふくらませたり変更していったりする力を持っているからである。また、子どもたちの事実を、一方的に固定的にみて限定してしまうのではなく、子どもたちの出す事実を拡大したり、子どもたちの表現の底にあるより深い真実を見ぬいて表面に引き出す力を持っていたりするからである。」

P195「教師が教材を解釈し教材へのイメージを持つということは、決して単なる一般教養としての解釈とかイメージとかではない。単に楽譜が一般的に読め、国語教材の語句の意味がわかり、数学の教材の答えが出せるということではない。それは一般教養としてとうぜんわかっていなければならないことであり、そういうものが常識としてわかっている上に、それぞれの教材に表現されているものはもちろん、その底にあるものまでも読みとり、自分なりの解釈なりイメージなり課題なりを持つということである。」

P195「授業は教師がそういうものを持ち、自分の持った解釈なりイメージなり課題なりを、子どもたちの前に投げ出し、子どもたちといっしょに考え追求していったとき成立するものである。したがって、教師でなくとも誰でも、一般的な教養としてとうぜん持っていなければならないももだけを持って授業にのぞんだのでは、授業は常識的なものになり、子どもも常識的で通俗的な考えしか出さなくなるのはとうぜんのことである。まして一般的な解釈さえできないとすれば、授業が雑なものになり形式的なものになってしまうのはとうぜんのことである。

 教師の人間の力とか、力量とかは、一人の人間としての力であり力量であるとともに、このような教材への深い解釈とかイメージとか、追求力とかのふくまれているものである。そういうものをもった教師が、教室にのぞみ授業にのぞんだとき、授業は豊かなものになり、生き動いたものになり、子どもたちもそういう授業のなかで、心を開いて自分を出し、自分をつくり変えたり自分を豊かにしていったりするのである。」

※この部分を読む限り、教頭の事例における「解釈」はその前で議論していた「解釈」とは違うものである。

 

P197「そういう意味(※技術、技能は人間性によるものという意味)では、教育の場での技術とか技能とかは、まったく個性的なものであり、その人間なりその人間のやる授業なりから切り離して考えることはできないということも云える。技能はともかくとして、技術は、そのなかに一般化せる原則なり法則なりをふくんでいるものであるが、教育の仕事の場合は、そのようにわりきってしまうことのできないところもある。技能はもちろん、技術もまた、授業が質の高いところへ行けば行くほど、その人間にくっているものになり、その人間の内容とか力とかによって、生きたものになったり死んだものになったりするということも云えることである。」

※技術、技能が何を指しているかわからないが、例として「合唱の指導」における「右手を前に出す」ことが挙げられる(p197)。これは「子どもたちにイメージを伝えたり、身体の使い方を伝えたりしてく」手段の一つとして用いているという。

P199「それは教師の使う技術とか技能とかは、あるきまったものを、そのまま教えるためのものではなく、子どもが本来もっている力を引き出し別のものにしていくためのものだからである。したがって一つのものだけを示すのでなく、教師が自分の内面にあるものを、身体や言葉のすべてを使ってさまざまに表現すればするほど、子どもたちはそれをみて、自分の内部にあるそれぞれのものを豊かに引き出し拡大していくのである。

 そう考えたとき、教師のつかう技術とか技能とかは、どんな場合でも一方的にあるのでなく、相手の事実にしたがって、つくり出されたり使われたりしなければならないということになる。」

P200-201「技術とか技能とかを使う場合、教師の感覚ということも非常に重要なことになる。技術とか技能とかは、もともと実戦での事実経験と、事実のなかにある論理的なものとが綜合され結晶されてつくり出されたものである。したがってそうおう技術とか技能とかを使う場合は、教師の感覚とか直感とかが非常に大切なものとなってくる。」

P204「四番目に授業として気をつけなければならないことは、選択し省略していくということである。授業全体をとおして教材の内容を選択し単純化し授業を明確なものにしていかなければならないのだが、そのためにはまず子どもの発言を選択し省略していくことが必要になる。

 子どもたちは、教師の触発とか他の子どもの発言とかを契機にして、自分のなかにあるさまざまなものを出してくるのだが、それらのすべてを取り上げ問題にしていったのでは授業はごたごたしたものになり、平板でとりとめのないものになってしまう。したがって教師は、子どもたちのさまざまな発言のなかから、授業で発展していくための重要なものを選び出し、幾つかの問題にしぼって追求させていくということが必要になる。」

※以上「授業と教材解釈」(1975)

 

P221「教師の創造力は、教師が絶えず知的発見の喜びにひたり、自分を成長させていっているかどうかによってきまってしまうものである。教師が一人の人間として、より高い真理とか美とかに対してあこがれを持ち、より深く高く近づこうとして、具体的に追求していっているかどうかによってきまってしまうものである。」

P222-223「そう考えると、授業においては、はじめから客観的なものとか一般的なものなどないのである。教師と子どものそれまで蓄積した知識や経験や創造力を、エンジン全開に活動させ、そのときどきの対象である事実を打ち破り、事実を新しくつくり出していくことがあるだけである。しかもその場合、教師の知識とか経験とかから出た創造力が豊かであるかどうかが、授業を創造的なものにするかどうかのわかれ目となる。」

P226-227「教師が子どもの事実をよく見ることによって、適切な方法とか技術とかはつくり出され、ほとんどの子どもが自分を引き出す障害となっているものを除去し、気持よく自分を表現し、自分を新しくつくり出していくことができるようになるものである。

 そういう意味では、へんに規範を示したり、一般的な説明などすることをやめて、子どもの事実を観察し、そのなかからよいものや悪いものを発見し、全体のなかに問題を提示し、新しい事実をつくり出していくようにすべきである。そういうことこそ授業での創造ということであり、そういうことこそ、子どもが自分をつくり出すことを補助する教師の仕事である。子どもの持っているものを引き出し、子どもが自ら自分をつくり出していく作業を補助し育てるという教育の仕事である。

 そのためにまず教師は、一度、いっさいの説明とか規範を示すこととかをやめてみるとよい。いっさいの説明とか規範を示すこととかをやめ、子どもに発言させ行動させるための工夫をし、そこに表現されている事実をみつめ、事実にしたがって方法を考えるという努力をしてみるとよい。

 そういう努力をすることによって、一つでも子どもの事実がわかったら、教師はまたそこから学び、つぎの方法を考えていけばよいわけである。それこそ事実にしたがっての創造的な仕事なのであり、そういう努力を積み上げていったとき、教師も子どもも、事実は無限に豊かなものを持っており、無限に発展していくものであることを知るようになる。創造的な授業は、一回限りの完結のないものだということも知るようになる。」

 

P235「そう考えないで、学級集団とか学習集団とかを絶対的なものとし、学級集団とか学習集団とかをつくることを目的とするようなことがもしあるとすれば、それは本末顛倒であり、おそろしいことである。目的とした学級集団とか学習集団とかが、もしまちがっていた場合は大へんなことになるからである。また、固定的な学級集団とか学習集団とかを目的として、そこへ全員を向かわせるというやり方では、創造は生れないどころか、「ボロ班」などという蔑視と制裁が生れるだけだからである。」

※全生研の議論は曲解することしかできない言い方。「ボロ班」という言い方そのものを認めていない。

P237「授業を構成し、授業を創造的なものにしていく起爆剤となるものは、教師の技術であり、とくに教師の発問とか説明とかである。教師のすぐれた発問とか説明とかが、子どもの思考や発言をうながし、表現させ、それらを関係させ合わせることによって、一人一人の子どもや学級全体のなかに、活潑に新しい課題をつくり出し、全員をその課題に向って追求させていくようになるからである。」

※ここでは技術を「ツール」のようなものではなく、抽象的な発問の仕方に求める。

 

☆p253「そういう意味で教育の仕事、授業をつくり出す仕事は極めて創造的なものだということができる。教育の仕事、授業の仕事は、日常生活そのままではなく、日常生活を否定していくところに意味があるからである。それまでの固定的・概念的な知識を一方的に教え込もうとするのではなく、子どもの持っている固定的・概念的なにせの知識を打ち破ったり、いままで意識しなかったものを発見させたり、新しい疑問や課題をつくり出させたりしていくものだからである。」

※このような態度は「何が必要か?」を問えるのかどうか。

P254「こうなっている原因の一つは、一般的にいままでの多くの教師が、形式的な仕事をしたり、またさせられたりしてきたことにある。教育の仕事、授業の仕事を、創造的なものとし、つくり出す仕事としないで、一方的に教え込み、その結果を子どもの責任として評価するだけの事務的官僚的な仕事をしてきたことにある。」

P254-255「もちろんそればかりではないにちがいない。教師が教育の仕事しか知らない。しかしそれもほんとうには知らないとか、自分の専門を持っていないとか、他の芸術文化に深くかかわっていないとか、交友の範囲が狭いとか、さまざまの原因が他にもあるかも知れない。しかし直接に何よりも大きな原因は、事実にしたがって自分の独創的な仕事をつくり出し、実践によって自分を高め自分をつくり出していないところにある。」

☆P256「数年前のことであったが、全国教育研究所連盟の調査で、授業についていける子どもは五十パーセントしかいないということが質問を受けた教師の大半から出たと報告され、新聞などでも騒がれたことがあった。しかし私にはそうは考えられない。固定した知識だけを一方的に教え込み、その結果だけで人間を差別し選別しているような授業をしていればそういうこともあるかもしれないが、まっとうな授業をしていればそんなことはない。」

※「そもそも目標設定が違うだろう」という批判で終わりかねない。

 

P264「したがって授業は、子どもの可能性を引き出しつくり出すような創造的なものになっていかなければならない。そういう本質的な授業をつくり出さないで、形式的な授業によって、子どもの卑俗な名誉心や競争心や、子どもの恐怖心をつかって勉強させるようなことがあるとすれば、それは授業とは云えないものであり、そういう授業によっては、子どもの可能性を引き出すどころか、子どもを一つの型にはめ、子どもの可能性を押しつぶし、子どもに差別感や劣等感や反抗心を持たせてしまうだけである。」

※やはり全生研的な価値観は全否定にしかならない。

 

P292「そう考えると、とうぜんのことだが、政治の問題も社会の問題も、すべての教育が引き受け教育が責任を持つなどということはできない。それと同時に、社会や政治が悪いから教育の仕事によって子どもの可能性を引き出すことは不可能だなどと考えることもできない。

 いまの社会に生きている教師は、そう考えて、教師の仕事を狭く限定し、質をとり出していったとき、教師としての責任をはたすことができるわけである。教育という仕事によって、いままでの概念とはちがう、豊かに開かれた子どもたちは生み出され、いまの社会情勢のなかでも、子どもたちはこんなにもすぐれたものをもっているのだという事実を示すことができるのである。そのことによって世のなかの考え方を変えていく力とすることもできるのである。」

P294-295「教育の仕事は、教師や教育研究者が、精神の飢えを感じることによってつくり出されていくものである。絶えず自分自身や対象である子どもたちの現実に対して飢えを感じ、そこから抜け出そうとして、何かを求めつづけることによって、はじめて創造は生まれるからである。飢えを感じないということは、現状に満足し停滞し固着していることであり、自分や対象の現実に鈍感になっていることである。これでは創造的な教育の仕事などおよそ関係のないところにいるわけであり、子どもを固着させ停滞させてしまうだけである。」

※どうしても斎藤の議論はこのような精神論を無視できない。しかしこの主張は誇張である。

P296「終末的状況にある日本の現実のなかで、教師としてできることがあるとすれば、すべての子どもの持っている可能性を引き出すような質の授業をつくり出す以外にない。また教育研究者も、他のすべてを捨ててでも、授業という現実のなかに深くはいり込み、質の高い授業をつくり出す支えとなる。実践的な教授学をつくり出す以外に道はない。

 子どもたちはどれだけのものを持っているのか、子どもたちの可能性はどれだけ開花していくのか、私の見た経験においては、まったく無限である。それは学校なり教師なりの力が高まれば高まるほど子どもたちは不思議なほどにすばらしい力を出してくるからである。学校教育においては、すべてが学校や教師の力量にかかり授業の質にかかっていることである。」

 

P302「どの子どももが「無限の可能性」を持っているということは、信念とか希望とかいうことではなく、動かすことのできない事実である。すでに多くの研究者も実践者も、各地のすぐれた実践のなかで、目を見はらされるような事実を数多く見せつけられ ていることである。

 しかし子どもたちの持っている無限の可能性は、表面に現れているものではないし、また固定しているものではない。子どもたちの心の奥深くにひそんでいるものである。したがって学校教育においては、子どもたちの心の奥深くにひそんでいる可能性を、教師の授業という作業によって触発し引き出していかなければならないものである。

 そういう作業は、多くの場合、子どもたちが社会の影響を受けて持っている。通俗的なものとか形式的なものとか常識的なものとかを否定し、深部にあるよいものを見つけ出すことによって可能になる。教師が、教材の本質とか、教師として持っているものとか、子どもの発言や行動をもとにしながら、子どもたちの表面にある通俗的なものとかを否定し、別のものを引き出していったとき、子どもたちは、それまで持っていた通俗的なものとか形式的なものとかを自ら否定し、自分のなかにある本質的なものを生き生きと表に出してくるからである。

 子どもたちは、どの子どもでも、深部に必ずよいものを持っている。そういう子どもたちの持っているものを触発して表に出させ、それを見つけ、どんな小さなものでもとらえ、細い糸をたぐるようにして引き出していくのが教師の仕事であり、子どもたちの可能性を引き出す授業の中核となるものである。そういう仕事が授業のなかで意識的に集中的に行われないとしたら、それは授業とは云えないものである。」

 

P305「子どもたちは、直接的に本能的に、よいものと悪いものを感じとる力を持っているし、また、よりよい方向に自分を前進させていきたいというねがいを持っている。それはどの子の場合も、どんな姿になっておる子どもの場合も同じである。」

☆P306「そういう意味で授業は、どこまでも教師が中心になり、教師が子どもを触発したり子どもの事実に向って具体的に手入れをしたりしていくのである。そのための教師の力とか技術とかを必要とするものである。そういう教師の作業をぬきにして、一方的に一般的な知識だけを羅列的・網羅的に教え込んだり、自主学習などと云って、低い次元での学習を子どもたちにさせているのは、子どもの可能性を引き出しつくり出す授業とは本質的にちがうものであり、授業とは云えないものだと考えてもよいことである。

 授業とはどこまでも教師の具体的な作業であり、対象である子どもたちの事実を動かし事実を変えていかなければならないものである。事実を動かすことによって一人一人の子どもにも、学級全体の子どもにも、また学校全体の子どもにも、事実はわかるものであり、一人一人の可能性も無限であり無限に引き出され変っていくものだということを学ばせていかなければならないものである。」

※この前提は、斎藤の著書全体でぶれていない。

 

P312「したがって授業においては、子どもたちが心をひらいて、さまざまの自分の考えを言葉なり行動なりで表現するようにさせるこが基礎になるが、それらをすべてとり上げていくことはできない。子どもたちの発言をすべてとり上げることが平等であり民主主義であり子どもを大切にするなどというものではない。子どもたちが自分の主体をかけて出すさまざまの表現のなかから、必要なものの幾つかを選び出し、学級のなかに新しいものがつくり出され、その結果として他の全体も生きるように組織し構成していくことである。」

※この主張は、直ちに「それが可能なのか?」という問いを想起せざるを得ない。

☆P317「ついで問題となることは、教師の持っている綜合的な力の不足である。授業をつくり出していく仕事、授業を構成していく仕事は、極めて創造的なものであり、創造的な仕事は、事実を対象にし、事実を媒介にしながら、その人間の持っている綜合的な力をつかっていったとき、はじめて可能になることなのだが、教師が一般的に綜合的な力においてやせているということである。

 教師の綜合的な力とは、物を見る目であり、人間を理解する力であり、教材を深く解釈し、そのなかから新しいものを発見する力であり、事物や人間の相互の関係のなかから新しいものを見出し創造していく力であり、また他の事物や人間とやわらかく対応できる力である。さらに云えば、単に教師という狭い世界だけでなく、学問とか芸術とか人間とかの、より広い世界に教師が住んでいるということである。

 授業を組織する仕事は、単なる技術的なものではないから、そうおう綜合的な力を教師が持っていたとき、はじめて授業は豊かに組織され構成されていくようになるのである。」

※結局こういう主張が出てくるし、こういう結論でないと斎藤の議論は擁護できない。しかしこれは極端に「なんでも教育する」態度と結びついてしまっている。

 

P371「そういう体育の授業を考える場合、見落としてはならないことは、教師の美意識とか美観とかの問題である。教師の仕事はどの教科の場合でも、教師の美意識に支えられ、教師の人間観とか倫理観とかに支えられて成り立つものだが、体育の授業においてはとくに教師の持っている美意識が重要な問題となる。……

 子どもたちの行動をみる場合、旧軍隊のドイツ式の歩き方とか、ヒットラーの親衛隊の歩き方をも美しいとする教師があるとすれば、その教師の指導する行進はそうなってしまうにちがいない。しかしそれらは美しいどころか、みにくいものであり滑稽なものであり、没個性的なものである。

 そういうものは否定されなければならないものである。そうでなくても子どもたち一人一人が、自分の持っている内容を、また行進のなかで新しくつくり出された内容を、一人一人が個性的に表現し、しかも全体が一つの統一を持ち個性を持ち豊かな表現を持っているものをこそ美しいとしなければならないことである。」

※美的感覚に善悪を結びつける発想はそもそもがおかしい。

P384「しかしこの場合の技術は、単に教師が一つの知識を一方的に子どもに教え込むための型にはまった技術ではない。どのようにして子どもが本来持っている力を引き出し拡大し別のものにしているかを目的にしているものである。

 したがって授業での教師の指導の技術は、絶えず教師の人間とか、具体的な子どもへのねがいとか、教材とか、子どもの現実とかにしたがってあるものであり、つくり出されたり使われたりしていくものである。決して子どもを一つの型に入れるためにあるものではなく、教材とか子どもの事実とかにしたがって、そのときどきに流動し、生きて働くものとなっていなければならないものである。」

P385「教師の指導技術には、そういう芸術的とも云えるものが非常に多い。もちろんそうではない職人的技術、一般的技術とも云えるものも多いがそれだけではない。また職人的な技術であり、誰にでもできるような一般的技術の場合でも、それだけが独立してあるのではなく、教師の人間の力とか、洞察力とか、芸術的な感覚とかが、大なり小なりくっついており、それなくしては生きた働きをしないのが教師の技術である。」

☆p386「こう考えてくると、教師の技術は大へん人間的なものであり、教師の人間にくっつき、教師の人間から生れてくるももだということができる。しかも授業という事実のなかで、そのときどきのクラス全体なり、一人一人の子どもの事実なりにつきながら、新しくつくり出されてくるものだということになる。

 ところが教育の世界では、そういう人間的であり芸術的とも云える教師の技術にほとんど関心がなかった。それはいままで、教育実践においても教育研究においても、そういう技術を必要とするような実践が考えられなかったからであり、一般的な形式的な授業が授業だと思われ、それでよいとしていたことが多かったからである。

 しかしどの子どももが、どんなにすばらしいものを持っており、どんなに成長したいとねがっているかを知れば知るほど、教師は、どんなにでもして子どもをよくすることを考えなければならないことである。とくに、そのために役立つ生きた技術を学び、つくり出し、自分のものとして持ち、それを専門家としての力量としていかなければならないことである。そういう力を持っていないかぎり、専門家とは云えないのであり授業は成立しないのだと考えなければならないことである。」

※この主張の是非は大いに議論されねばならない。

 

P394「しかしそのような力を持つためには教師は、単に教材とか授業とかにおいても追求創造の体験をするだけでなく、他の学問とか芸術とかの世界での追求創造の体験を持っていることが必要になる。そういうものを持っていたとき、教材の本質を教材全体から直観的にとらえたり、教材に表現されている部分から、その底にあるものを深くさぐっていったりすることができるのである。」

P403-404「教師の仕事は、医師の仕事に非常に似ている。複数にいる子どもの状況を、その深部にあるものまで確実に把握し、それに働きかけ手入れをすることによって、一人一人の持っている可能性を引き出し、子どもの成長を十全に助けていかなければならないものである。

 そういう力を持っているとき、教師ははじめて専門家と言える。しかし現在の日本の教師は、そういう力を持つような訓練を受けていないし、訓練を受ける場も持っていない。そうなっているのは、日本の教師や教育研究者にもちろん責任があるが、それ以上に、教育界とか教育行政とかに大きな責任があると言ってもよい。

 日本の今までの教育界や教育行政は、教師の専門的な力量によって、子どもの可能性を画然と引き出し花咲かせるような仕事よりも、画一的で形式的な仕事をのみ要請しつづけて来たからである。創造的な教育の仕事をすることによって、どの子どもをも生かし成長させるなどということよりも、ただひたすら、画一的で無難な仕事をのぞんで来たからである。

 そういう世界では、専門家としての力量を持った教師など必要はない。専門家としての教師を育てなかったのも、また育たなかったのもとうぜんのことである。」

 

P442「またそれは、とうぜんのことであるが、豊かな創造的な授業をつくり出すためには、どうしても、教師が豊かな人間になっていなくてはならない。さらに、みがかれた感覚を持っていることが必要になるし、教師としての、生きて働く技術とか技能とかを持っていることも必要である。そういうものがあったとき、いっそう創造的で楽しい、深い授業も生れてくるのである。

 もちろんそういうものは、授業という実践をしていくうちにもつくられていくものだが、それだけでは狭いものになる。やはり他の広い分野の、すぐれたものから基礎的なものを学んだり、自己訓練をしていったりすることが、どうしても必要になる。」

※当然の要求をここでしてしまってよいものか?

P444「無限の可能性を内に秘めている子どもたちのなかから、新しい形を生み出し、つくり出すということは、一つの冒険であり、創造である。ときには何の新しい形もつくり出し生み出すことができないということも覚悟しなくてはならない。……

 もともと無限の可能性とは、現実の事実として表に出てみないかぎり、どういう可能性があるかは、だれにもわからないものである。これは個人においても、クラスとか学校全体とかの集団の場合も同じである。」

※そういえば、「いかに可能性が引き出せたか」という実例の提示は一切ない。観念論でしかない。

P462「子どもたちは、自分を未熟な教師だと感じ、子どもたちに申しわけないと思っている教師に、人間的に引きつけられるのである。またなんとか力のある教師になろうとして、必死になってさまざまの勉強をし、子どもたちからも真剣に学びとろうとしている教師に、学ぶ人間としての共感を持つのである。そしてそういう教師に親しみを感じ、その教師を応援しようとさえするのである。」

※なぜこのような子どもの心理を先回りして理解できるのか??問われるべきはここに「無関心である」という可能性が配慮されないのはなぜか、という点である。すでに教師と児童の関係性が確定してしまっているのはなぜか、という点である。やはり、このような観点は中学校以降には基本的に想定し難いように思える。

 

P473以下、波多野完治の解説…「しかし、斎藤の教授学には反面、欠点もある。この欠点は、斎藤の授業実践にはないもので、つまり斎藤の「理論」の欠点であり、理論と実践とのワレ目に生じたものであるから、生前斎藤がこれを知ったならば、かえってよろこんだのではないか、とおもわれる。

 それは、斎藤が「科学」という概念で、機械的な、反復可能なものだけを考えていたらしい、ということである。」

☆p474「わたしは、斎藤がまちがった、というのはここである。斎藤は、教育科学とは一般化をするのが目的だ、とおもっている。

 教育科学の中には、もちろん、そういう作業目的もある。しかし、それは、教育科学の中の、いわば副次目的である。これをかりに「実験的目的」とよぶならば、そういう目的は、十九世紀科学目的である。授業の科学は、そういうやり方だけでは可能でない。

 実験的目的の外に、「歴史科学的目的」というものがあり、授業に際しては、この方が大切なのだ。斎藤が「授業入門」の中で、「授業は一つ一つみなちがった創造的ないとなみだ」といった、そちらの方の「科学」である。斎藤は、これを「科学」とは考えなかったらしい。」

※ある意味でこの批判は斎藤の理論の根本的な批判点であり、至極正しい。ただ、より正確には、「一般的」であることを不用意に批判しかできないのが斎藤の理論の根本欠陥なのである。この事実を斎藤が知ったとしても、修正できたかは極めて疑わしい。