板倉章「黄禍論と日本人」(2013)

 今回は、西尾のレビューで取り上げた「黄禍論」についての本である。

 本書は19世紀から20世紀にかけて、中国人・日本人の海外への進出について、特に「人の多さ」をもって支配されるのではないのか、という議論にはじまる「黄禍論」について、諷刺画を中心にしてその受容のされ方を考察したものである。

 まず、新書であるにも関わらず、この諷刺画の紹介があまりにも豊富なことに驚いた。特に黄禍論はドイツの皇帝であったヴィルヘルム二世による絵画というのが一つ重要性を持っているが、この絵画のパロディとしての諷刺画があまりにも多く描かれていたことがわかる。本書の副題は「欧米は何を嘲笑し、恐れたのか」であるが、基本的に本書がとらえる黄禍論というのは、「まともに取り合う必要のないもの」として嘲笑の対象とされている傾向の強いものであったといえる(これは諷刺画そのものの性質であるから、ともいえようが)。

 

○「ドイツ人は内省的である」は正しいのか?

 

 西尾は特にドイツ人について、他国のことを気にしながら恐怖感を自覚するようなことはなく、あくまで自らの文明のなかにそれを見出すことができるものだと断言していた(西尾2012,p140)。しかし、本書でも中心的な位置にいるヴィルヘルム二世の思想は極めて典型的な「他者との比較」をしたがる思想であることははっきりしている。結局ヴィルヘルム二世は中国・日本を脅威として捉え、ヨーロッパが連帯する必要性をしつこく述べ続け、それがしばしば西欧至上主義的・差別主義的な観点から語られ続けたこと、そしてそれがほとんど被害妄想としてしか語られていない傾向があったことがあったがゆえに「嘲笑」の対象にもなったといえる。

 確かに被害妄想の激しいヴィルヘルム二世は一般的なドイツ人とみなすにはあまりにも例外的である(※1)から、西尾の議論の批判にならない、という言い方は正しい点がある。しかし、特に目を向けなければならないのは、一つにヴィルヘルム二世が「ドイツ人を代表する」立場にいた人間であって、その影響力を考慮するのであれば、簡単に例外として取り扱われるべきではないということ、そしてもう一つは、西尾の議論の根幹にある「文明の変わらなさ」こそが、このような奇怪な思考の持ち主を「皇帝」としたという見方も成り立つのであり、ドイツ文明(文化)の産物として無視する訳にはいかないだろうという点である。特に「社会問題」という枠組みで考えるならば、「一般大衆」であることと「例外的」であることは別物であり、「例外的」であるものこそ「社会問題」の対象とされ、しばしばそれがあたかも国民性の本質であるかのように語られる言説があることは私のレビューの中で繰り返し述べてきた訳だが、そのような観点からしても、安易に例外処理として排除する訳にもいかないように思えるのである(結局、西尾も基本的にはこの間違いがちな「社会問題」のフレームで日本人全般のことを語っているように見える)。

 もちろん、例外をヴィルヘルム二世だけに見いだせる訳ではない。黄禍論に関する著書としては古典となるハインツ・ゴルヴィツァー「黄禍論とは何か」では、ドイツ人の歴史家アルプレヒト・ヴィルトの発言として、次のようなものを紹介している。

 

「ドイツ人というのは、いつまでたってもすぐに感動する民族である。ちょっと強い印象を受けただけでもう仰天してしまう。そしてわれに返ったときには、祖国ばかりかヨーロッパ中があやうくなってしまっているのだ。はじめはユダヤ人が世界を飲みこんでしまうのを見た。それから次はアングロサクソンが世界を征服した。するとその合間をぬって黄色人種の脅威が出現し、ヨーロッパ中が苦力と仏教徒で埋もれてしまうなどと予言するものさえいた。つまりわれわれは、おびただしい数の中国人におびえたり、日本人がつくったマッチ棒の経済効果にまゆをひそめたりしたものだ。」(ハインツ・ゴルヴィツァー「黄禍論とは何か」(1962=1999),p194)

 

 もちろん、このような言説自体に意味があるとは私は思っていない。問題なのは、この主張がいかなる根拠に基づいて語られているのかの一点に尽きる。ここでの「民族性」は他の民族と比較してそう述べているものなのか、という点も含めて、何も参照点のない文字通りの「主観論」でしかないままに、このような国民性の主張がなされてしまっていることが問題なのである。そして、西尾の議論というのも、この域からほどんど抜け出せていないのに等しいのである。

 

○「日本人は他者の眼を気にする」は正しいのか?

 一方で、黄禍論周辺において日本が取り上げられる際にしばしば述べられているのは、日本の指導者層が他国の黄禍論の動向に対して極めて敏感であり、その影響を強く受けていたという点である。これは欧米の指導者層の立場とは対照的に語られもする。本書ではp72,p99-100,p189にあるような記述である。

 何故このような態度の違いが認められるのか。この説明の際にはp72のような議論のされ方がなされる。一方で西洋に追いつくために必死であったという見方と、他方で「差別」されることに対する忌避観のようなものという見方も垣間見れるような言い方である。別の著書においては、第二次世界大戦における日米の態度の違いおいて、次のようにも指摘される。

 

アジア主義が日本の戦争政策決定において大きな力を持つことになったのに対し、黄禍論的思考がアメリカの戦争政策決定においてそうではなかった理由は様々に考えられるが、一つの要因としては、そもそも日米関係、アジア主義と黄禍論の関係が、差別される側と差別する側という非対称的なものであったことが挙げられよう。差別される側が、優位の力に抵抗するために提示したのがアジア主義である。そういった意味ではアジア主義は、対抗的な地域主義といえるかもしれない。」(廣部泉「人種戦争という寓話」2017,p233)

 

 何故欧米に追いつくことがそこまで至上命題になっていたのかという疑問はまだ残るものの、当時の日本においてそのような態度があったことを否定するには実証的な議論も多く見受けられるように思える。その意味に限れば、「日本が他者の眼を気にする」という性質は、確かに正しいといえるだろう。

 もちろん、ここから直ちに「日本人全般」の議論に拡張できるわけではないし、欧米人がそうでないという結論は見いだせない。また、程度問題として(他者の眼を気にするのは日本に限らないが、日本の方がその傾向が強い、という議論の可能性はあるという見方で)いかに議論するかという課題も残る所である。

 

※1 もっとも、本書においては、p87-88のように、ヴィルヘルム二世の言説が与えた影響として排他的態度を広めたことを認めているが、この因果関係については、明確な説明が必要な所である。態度の取り方は同じであったとしても、影響力を与えたかどうかというのは、別の問題であるからである。本書からはその点に対する根拠がどれ程のものかは全く見いだせない。

 

<読書ノート>

P10「本書で取り上げる西洋の諷刺画は、大まかに言えば、人種主義を所与のものとして内部に組み込みながら発展してきたとも言える。従って諷刺画には「人種主義」を前提としてそれに基づいて笑いを構成しているものもあれば、逆にそれを笑いの対象として批判しているものもある。さらに、作者さえ意識していたかも定かではない形で、諷刺画の細部に人種主義的な表現が巧妙にまぎれこんでいることもある。」

P43-44「黄禍に関する言説は政治思想の性格を強く持っているが、実際にはその範疇におさまりきらない多義的な概念であり、イメージとして一人歩きしやすかった。黄禍は、国際政治の論題として語られたこともあれば、B級映画のトピックにもなったのだ。『ザ・タイムズ』などの高級紙や欧米の一流評論誌で論じられたこともあれば、大衆小説や煽情的な大衆紙の題材としても大いに活用された。黄禍という表現は、あまりにも誇大妄想的で、それが説かれた当時でも一笑に付されることも多かった一方、ヴィルヘルム二世がしたように、国際政治の舞台でプロパガンダの道具として活用されたこともあった。この時期に流布した黄禍の脅威が、後の太平洋戦争において人種主義的対立を煽る役割を果たしたこともある程度言えよう。」

 

P52-53「この寓意画(※ヴィルヘルム二世の寓意画)を媒介として、黄禍の脅威が流布したという事実は、黄禍とその脅威を説く言説が、ある意味で感覚的で映像的なイメージに依拠していたことを示している。黄禍は実際、このような漫画的な方法で訴えるのにふさわしい題材であった。その科学的な根拠は曖昧であったが、白人種の人々の意識、固定観念のなかに根を下ろした人種的優越感と、その優位が脅かされる危機感に直接訴えかけるには、幾十もの論説よりも一幅の寓意画のほうが有効な場合もあろう。」

※本書では、この寓意画のパロディである諷刺画が山ほど紹介される。

P69「カイザーの寓意画はこのようにさまざまなパロディを生んだが、カイザーが意図した、東アジアの黄色人種が喚起する脅威を題材にした諷刺画はすぐには生まれなかった。むしろ、東アジアを応援するかのような諷刺画が登場している。」

日露戦争中まではその傾向は強かったということか。

P72「細かい経緯はともかく、明治天皇にカイザーの寓意画を上奏したというこのエピソードは、当時の元老たちが、いかにこの寓意画を重要視していたかを物語っている。明治期の実質的政策決定者であった元老たちがそのときどう思ったかはわからない。文明化、すなわち西洋流の近代化を理想とし、それをある程度果たしながらも、当時の国家のヒエラルキーにおいて、非西洋人の国家であるがゆえにいつまでも文明国の地位を認められないのではないか。そう懸念したかもしれない。ただ、元老たちはたとえそのような意識を持っていたとしても、当時、排外的な行動に走ろうとはしなかった。この点は留意しておく必要があるだろう。」

※それだけ「文明国」へのこだわりが強かったということ。

 

P87-88「カイザーのこれらの演説は、人種差別を超え、人種戦争を煽るものだった。当時の西洋の新聞・雑誌においても非難されている。たとえば、カイザーはこう叫んだ。「汝らが敵に遭遇すれば、奴らは打ち負かされよう! 赦しなど与えられない! 捕虜とする必要などない!」と。ドイツ公使の殺害で興奮していたとはいえ、捕虜を取ることも否定する非人道的な内容である。……

このようなカイザーの発言は、黄色人種に対する憎悪を国内・国外でかき立てた。そして、清国に着いてから遠征軍によって行われた暴虐・略奪につながっていった。」

P96-97「イギリスの移住植民地として発展したオーストラリアは、この頃、アジア人をはじめとする有色人種を排斥する白豪主義を推進していた。白豪主義は、一九世紀半ばのゴールドラッシュによって人口が急増したあげく、労働力が過剰となったため、低賃金労働も厭わない中国人労働者がまず排斥されたことに由来する。やがてあらゆる有色人種の締め出しへと進み、入国・移住が禁止されるに至った。かくも有色人種に対する人種差別意識の強いオーストラリアの諷刺画だけに、この日中の扱いの差は印象的である。また、イギリスと日本の立ち位置も示唆的である。小さな日本がイギリスに寄り添っているようにも見えるのである。

純化も手伝って、日本が文明や進歩の側、さらにはキリスト教国の一員と同等とまでみなされたことは、西洋の日本認識の変遷を考察するうえでも興味深い。

一方、日本と対照的な扱いを受けたのは清国である。義和団という「暴民」の蜂起、その鎮圧をためらうばかりか、挙句の果てはそれを利用して列強諸国を追い出そうとした清国。欧米の宣教師や中国人キリスト教徒を虐殺し、教会を焼き払った義和団の行為は、否が応でも宗教戦争というイメージを惹起し、そのなかで日本は清国との違いを際立たせたのである。同人種の中国との対比を通して日本が文明国として認知され始めたというのは、皮肉といえば皮肉と言えよう。」

 

P99-100「欧米列強とともに(※義和団事変で)出兵する際、桂太郎陸軍大臣はすみやかに撤退することを考えていた。これは、黄禍論と三国干渉の再現を懸念してのことであった。つまり、日本が撤退せずに居残れば、中国を指導し支配しようとしていると疑われ、また何らかの干渉がもたらされることを憂慮したのである。……

ドイツ皇帝ヴィルヘルム二世の黄禍論は西洋諸国ではもの笑いのタネでもあったが、日本の政策決定者にとっては違っていた。黄禍を裏づけるような行動は、現時点では潜在化している白人西洋諸国の連合を生む主因となるおそれがあると考えられていたのである。」

P109「イギリスがライオンで表象されることは、すでに諷刺画の世界では確立された慣行であった。一方、日本はそれまでキツネとして表されたことはなかった。キツネは西洋文化では狡猾さのシンボルである。さらに、イソップの寓話の一つ、「キツネとライオンとシカ」が文化的背景にあると思われる。」

※その意味するところは「忠実な部下」(p109)。

P124-125「先の三点は日本の脅威を示しているが、この頃(※日露戦争期)の黄禍論の中心主題は、黄色人種の国のなかでも膨大な人口と豊富な資源を有する「眠れる大国」中国の覚醒(近代化)であったことは、先に述べたとおりである。その意味では、黄禍論は中国脅威論である。当時の風刺画家の多くはそのことを理解しており、中国もしくは中国人でもって黄禍を表現していた。」

 

P136「「この頃の日本が目標とした「文明」は、一方では排他的な原理であり、帝国主義による侵略や支配をイデオロギー的に正当化する役割を果たしていた。植民地化や保護国化といった手段による帝国主義的進出は、非文明地域に文明を及ぼすために白人の責務であるといった「文明の使命」、という考えによって正当化された。国際関係においては、文明国の基準に達しない国は、半文明国か未開国として、さまざまな制約を受け、多くの国が西洋列強の支配下に置かれたのである。

もちろん当時から、文明という一種のイデオロギーが持つ偽善性や欺瞞性、排他性を指摘する声はあった。文明の進歩により物質的にも人間社会が豊かになる反面、文明国として認められるためには自国を防衛できる軍事力を持つ必要が実際にはある。文明化は軍事化によって達成されるものでもあったのだ。」

P149-150「一九〇六年四月のサンフランシスコ地震は、三〇〇〇から六〇〇〇人の死者を出し、三〇万人の住民が住む場所を一時的に失った。実はこの地震が、学童隔離問題を引き起こす原因の一つとなった。というのも、地震でチャイナタウンが被害を受け、中国系住民が犠牲になったり別の土地へと移ったため、先に述べた中国人学童向けの学校に大幅な欠員が生じた。これに目をつけたのが、かねてから日本人・韓国人排斥連盟から圧力を受けていた市学務局である。地震の被害を受けた中国人初等学校が一〇月に再開するのを機会に、日本人学童と数名の韓国人学童をそこに移して隔離する政策を、教育委員会を動かして実現しようとしたのだ。中国人初等学校は、東洋人公立学校と改称された。市当局から見れば、排斥連盟の圧力を緩和し、非効率な中国人初等学校の運営も改善するという一石二鳥の政策であった。」

P161「しかし、この(※サンフランシスコの)措置がいかに人種差別的であるかを否応なく世界に知らしめたのは、おそらく日本の新聞である。日露戦争中にはきわめて抑制的であった日本国内の新聞の多くが、この問題ではかなり激昂している。高級紙は自制を促していたが、日本国内での報道はそのままアメリカをはじめとした世界各国で紹介され、日本人がアメリカでの人種差別に憤っていることを伝えた。

諷刺画の世界では、これまで見てきたように、この問題においてアメリカ人の加害者意識を示しているものは見当たらない。問題の発端に人種差別的な措置があったことは忘れられ、むしろ日本との対立やローズヴェルトの介入に焦点が当てられた画ばかりだ。二コマ漫画「ちいさなジャップに起こること」は、アメリカ人のそのような意識を示唆しているようにも見える。」

 

P169-170「日米移民問題は、日本人労働者が北米における具体的な脅威として広く認識されるきっかけとなった。一連の諷刺画を見ていると、そもそもは日本人学童に対するサンフランシスコ市の差別的な措置から始まったにもかかわらず、結果としては以後、黄禍は「日本禍」として受け止められるようになった。

また、日米の問題を扱いながらも、各国の諷刺画に人種主義的な表現や価値観が垣間見えるのは、これらが描かれた国の人々の人種主義的価値観がいみじくもそこに反映しているからだち言えるのではなかろうか。」

※子ども、アリ、そして猿という表現を例に挙げる。そしてオーストラリアのような排他的政策をとっていた国にその傾向が強かったことも示唆している(p166-169)。ただ、発端を排他政策にみるのは少し難がある。すでに19世紀末からあった中国人と日本人の移民問題との連続性も考えなければならない。もちろん、人種差別問題について軽視していたという見方は正しいように見えるが。

P189「しかし、当時の人々の歴史的記憶に寄り添うと、事態は違って見えてくる。(※第一次大戦への)参戦は三国干渉のトラウマを呼び覚まし、それを癒す(そして恨みを晴らす)機会と映ったはずである。事実、参戦の過程で、大隈重信首相はドイツを中国から追い出すことを「三国干渉の復讐」と考えていた。」