牧久「昭和解体」(2017)

国鉄の分割・民営化は、二五兆円を超える累積債務(これに鉄建公団の債務、年金負担の積立金不足などを加えると三七兆円)を処理し、人員を整理して経営改善を図ることがオモテ向きの目的であったが、そのウラでは、戦後GHQ民主化政策のもとで生まれた労働組合、なかでも最大の「国鉄労働組合」(国労)と、同労組が中核をなす全国組織「日本労働組合総評議会」(総評)、そしてその総評を支持母体とする左派政党・社会党の解体を企図した、戦後最大級の政治経済事件でもあった。

 国鉄の経営が単年度赤字に陥ったのは、東海道新幹線が開業した昭和三十九年。それから二十年余。公共企業体国鉄」は、労使の対立と同時に、労働組合同士のいがみ合い、国鉄当局内の派閥抗争、政府、自民党内の運輸族や、組合の支持を受けた社会党の圧力などが複雑に絡み合い、赤字の解消や経営の合理化などの改革案は常に先送りされ続けた。その結果、莫大な累積債務を抱え、ついに「分割・民営化」という〝解体〟に追い込まれ、七万人余の職員がその職場を失うことになったのである。

 国鉄当局も組合も、いずれ政府が尻拭いするだろうという甘い「親方日の丸意識」に安住し続けた。これを打破し鉄道再生を図ろうと、井手正敬松田昌士葛西敬之の、「三人組」と呼ばれる若手キャリアを中心にした改革派が立ち上がり、「国鉄解体」に向けて走り出す。その奔流は、国鉄問題を政策の目玉に据えた「時の政権」中曽根康弘内閣と、「財界総理」土光敏夫率いる第二臨調の行財政改革という太い地下水脈と合流し、日本の戦後政治・経済体制を一変させる大河となった。」(p16-17) 

 本書は国鉄が解体に至る経緯を描いたものである。上記引用が丁度端的にまとめた要約になるだろう。

 国鉄解体をテーマにした著書は思っている以上に多いようであるが、第三者からの目線からできるだけ網羅的に描いたという意味では、良い内容の本であるように思う(十分に比較できていないが)。

 以前新堀通也のレビューで「親方日の丸」言説について取り上げた。この「親方日の丸」は、国鉄がその代表格とされていたと言ってよいだろうが、「社会問題の言説としての『親方日の丸』とは何だったのか」という問いのもと本書も読んだ。p206で交通評論家の角本良平国鉄の状況を「一億総タカリ」と表現したことが言及されているが、まさにそのように捉えられるべき側面があるものと感じたし、「『親方日の丸』がいかなる意味を持ったのか」についても深く考えさせられた内容であった。平成10年に「日本国有鉄道清算事業団の債務等の処理に関する法律」が成立し、国鉄が残した20兆円を超える債務は国の予算から60年間で返済されることとされ、更にはP481にもあるように、国鉄からJR移行時に国鉄勤務職員を転職斡旋した際に認められた不当労働行為を原因にして、訴訟の和解金(1世帯あたり2200万円、単純計算で約220億)の支払いも平成22年に決まっている。「親方日の丸」なるものが本当に問題であるとするならば、その原因はどこにあり、いかに改めうるのかという検討は非常に重要であるように思う。少なくとも、この「親方日の丸」としての国鉄自体も改められるべきものとして、日本における新自由主義的政策の目玉の一つとして、その政策実行の初期になされたものであるという意味合いにおいても、それを批判することの検討においても国鉄の事例は多くの論点を持っているように思える。今後も検討していく予定であるが、今回は基本的な論点をまとめてみたい。

 

 「親方日の丸」としての国鉄を考える際にまず前提としなければならないのは、鉄道が我々の生活に与える影響の変化だろう。鉄道は自動車社会を迎える前の段階において人の輸送・物の輸送において中心的な役割を担っていた。

 

「即ち大都市圏や幹線系の鉄道では、鉄道と住民生活の距離は引続き近いまま推移しました。反面地方ローカル鉄道では住民生活と鉄道との距離が再び開きはじめ、むしろ住民は日常生活で鉄道の存在をほとんど意識しないような状態にさえなっていったといえましょう。ローカル民鉄の廃線が進み、国鉄でも経営再建の一環として特定地方交通線の廃止が勧告され、約2000kmが廃線、バスへ転換する等営業キロの推移にもローカル線を中心に、地方では大きい変化が出るようになりました。鉄道の輸送分担率は国鉄昭和35年の51%から昭和60年の23%に、民鉄は輸送量こそ増えたもの同じく25%から13%へと大きく減少したのもこのような、とくに地方での住民生活と鉄道との再乖離を物語るものといえましょう。」(須田寛須田寛の鉄道ばなし」2012,p18)

 

 したがって、基本的に国鉄は戦後このような変動に対応する必要性がもともとあったと考えておくべきである。端的に言えば、鉄道における「合理化」ということについて考慮し対応をしていくという責務があったということであり、かつそれは実際にそうしなければ運営に支障をきたすことが明確であったという意味で必然的に求められていたということである。

 

 この前提の上で、更に国鉄の運営に負の影響を与えたものとしてよく議論されるのは、以下の三つの点である。

 

(1)営業区域縮小に対する阻害と、更なる開発

 

 前提の影響を受けた採算のとれない線路の廃止というのは、国鉄にとっての大きな課題であったといってよいだろう。実際、黒字収支が出ている路線から赤字収支の路線を賄う、ということが常態化し半ばそれが当たり前であるという見方もあった。例えば、「三人組」の一人であった葛西敬之の指摘によれば、東海道新幹線のみで運営収支を考えた場合、運賃は半分以下でも済んだと言い方をしている(葛西敬之「未完の「国鉄改革」」2001,p153-154)。

 しかし、この赤字路線廃止の議論は政治の影響も大きく受けながら、それが抑制され、更にはその拡大まで図られる傾向があった。

 

 「池田内閣で大蔵大臣に就任した田中角栄は、鉄道による国土開発を主張し、「日本鉄道建設公団」の設立に奔走する。昭和三十九年三月に発足した同公団は国鉄に代わって新線建設を行い、完成した鉄道は、大きな赤字が見込まれても国鉄が引き受けて運営しなければならなかった。赤字を承知の上で作られた地方ローカル線は国鉄のお荷物となっていく。

 田中は『日本列島改造論』で国鉄についてこう説いた。

国鉄の累積赤字は四十七年三月末で八千百億円に達し、採算悪化の一因である地方の赤字線を撤去せよという議論がますます強まっている。……国鉄が赤字であったとしても国鉄は採算と別に大きな使命をもっている。明治四年にわずか九万人にすぎなかった北海道の人口が現在、五百二十万人と六十倍近くにふえたのは、鉄道のおかげである。すべての鉄道が完全にもうかるならば、民間企業にまかせればよい。私企業と同じ物差しで国鉄の赤字を論じ、再建を語るべきではない」」(p124-125)

 

田中首相日本列島改造論は、地方住民を活気付かせたが、地元住民にののしられながら、赤字線の廃止に努力していた国鉄職員の衝撃は大きかった。彼らの努力は否定されたのだ。」(p125)

 

日本列島改造論」という政策提言を引っさげて田中内閣が出現した結果として、国鉄はそれに歩調を合わせることを余儀なくされた。本社の新幹線総合計画部を中心に、列島改造論を踏まえた「日本列島の流れを変える」という投資計画構想が立案された。

 第二次の改定計画では、工事費が一〇年間で総額一〇・五兆円と拡大した。廃案となった計画案が七兆円規模で、第一次再建計画が四兆円程度だったが、本来抑制を図るべきものが大幅に膨らむというプロセスをたどった。この事例は、国鉄の再建計画がいかに政治の流れに左右されざるをえなかったかを如実に表している。」(葛西2001,p44)

 

 田中角栄の「日本列島改造論」(1972)が上記の議論を行う背景として都市化や公害、過疎化といった当時の社会問題があった。そしてその解決として「工業の再配置化」を謳い、それにこたえるだけの鉄道も含めた物流のためのインフラを整備する必要性があるとなされたのであった。確かにこの議論はまず縮小路線に対する阻害になったのは間違いない。

 

 

(2)収入確保=運賃改正に対する阻害

 

 また、高度経済成長に伴う物価の上昇に伴い、運賃の改正というのも必須であった訳だが、国鉄運賃が法により定められていたため、改正に時間を要することも問題となっていた。

 

「しかし、国鉄料金はいつも私鉄より高かったわけではない。昭和五五年度までは、平均して国鉄のほうが私鉄より安かった。国鉄料金の改訂は国会の承認を必要とした。国鉄料金は一般の家計に占める公共料金の支出部門で最も高い。だから、政治家は与野党とも国鉄の値上げに積極的でなかった。ロッキード事件など何か大事件が起こったりすると、せっかく値上げ案が出されても先送りされた。そんなこんなで、国鉄がまだ競争力を持っていた時代は思うように値上げできなかったのである。

 だから国鉄は、運賃が不当に抑えられているという不満をずっと持っていた。このため赤字が膨大になると、その切り札として料金値上げをもっと円滑にできないかと考えるようになった。その結果、国鉄は昭和五〇年六月、全国紙の一面を買い切って三日にわたって意見広告「私は訴える」を連載した。そこでは国鉄財政の苦境を訴え、打開策の一環として「運賃二倍論」を打ち出した。

 この意見広告には莫大なカネがかかったろうが、国鉄にとってはそれに見合う効果があった。まず、国民は「国鉄がこんなにひどい状態だとは知らなかった」と驚いた。さらに「政治家があまり国鉄をいじめるのは考えものだ」と思うようになった。これ以降、国鉄の運賃値上げはスムーズに認められるようになり、その第一弾は昭和五一年一一月の旅客五〇%、貨物五四%の大幅値上げであった。」(大谷健「国鉄民営化は成功したのか」1997,p31-32)

 

「その時(※昭和五〇年)の考え方は、五一、五二年の二年間で運賃を二倍に上げ、それをてことしてこれまでの閉塞状態を大幅に打開しようという短期決戦型のものだった。

 当時経営計画室・経理局を中心に、「国鉄運賃は抑えられすぎている。運賃が抑制された結果、国鉄という国民にとっての重要な資産が食い潰されていっていずれ十分な機能を果たせなくなる」ということを、新聞紙上で意見広告として出そうと計画が持ち上がり、そして実際に、昭和五〇年六月中旬、三日間にわたり「国鉄は話したい」「あなたの負託に応えるために」「健全な国鉄を目指して」というタイトルで、新聞各紙に全面広告を出した。昭和五一年に運賃を五割値上げし、翌五二年にも再度五割値上げして、運賃を倍に上げることにより、国鉄経営を一気に健全軌道に乗せようという目論見を世論に訴え支持を取り付けようとするものだった。

 国鉄内部・政府・与党のなかでは、「運賃の大幅値上げやむなし」という空気がだんだんと出てきた。野党も建前はともかく本音の部分では、国鉄の現状をこのまま放置していてはいけないという考え方が強くなっていった。運賃値上げを対決法案としてさんざん遅らせてきた結果、国鉄の経営が壊滅的な状況になったということは、おそらく野党の目にも明らかだったのだろう。運賃をてこにして国鉄を抑え込んできたということが、政治の場から見た時に自分達の功績になるよりも責任としてかぶさってくると認識されるほど、国鉄の経営実態は落ちてきていたのである。」(葛西2001,p60)

 

 国鉄運賃の上昇については、初乗り運賃に関する変遷はネット上に情報があったため、私自身も消費者物価の変遷との関係性については検証してみたが、戦後の運賃改定の際の上昇というのは、概ね物価上昇と比例関係にあり、その点に限ればバランスがとれていたともいえる。したがって、この運賃が改定できなかったことによる影響というのは、物価上昇と運賃改定のタイミングにあった「ラグ」の影響が大きかったと想定される。特に1970年代はこの影響を受けやすい時期であったことは間違いなく、実際に1976年の運賃改定時には初乗り運賃が30円から60円と倍になった。

 

(3)職員数の削減

 

国鉄は昭和二二年の六一万人を最高に、常時四〇万を超える人員を抱え、しかも国労動労という先鋭的な労働組合がほぼ毎年ストを打っていた。さすがに分割の前には新規採用を抑えて職員を二七万七〇二〇人にまで減らしたが、私鉄並みの労働生産性で計算すると、旅客鉄道六社で一六万八〇〇〇人で足りると言われていた。しかし、「そこまで一気に減らすのは難しい」と判断され、当初、二〇万六五〇人で出発することにした。」(大谷1997,p12-14)

 

 上記の指摘のように、国鉄の職員数は常に「多すぎる」と言われ続けていたが、その削減については国労をはじめとした国鉄の組合に反対を受け、なかなか減らすことができていなかったことが多くの著書で語られている。そしてこの職員数の議論を考える上では、国労をはじめとする国鉄内の組合との対立関係の動向についても押さえておかなければならないだろう。

 国鉄が60年代に入り赤字経営をはじめた頃から、内部でその改善を図る動きというのは存在していた。典型的なのは「マル生運動」と呼ばれる運動であった。これについては国鉄当局側から積極的に職員に働きかけ、合理化の意識付けを強く行うものであった。当時の運動の一環として行っていた研修の講師の発言として次のようなものがある。

 

「国民の多くが『国鉄は何とか労使関係を正常化できないのか』と異口同音に言っています。年中、ストライキで対立抗争しており、安保闘争でもスト権のない国労動労が先頭に立っている。こういう労使関係は改善していかなければならないのではないか。国鉄の再建というのは、労使関係が世間並みに協力体制があって初めて可能となるのです」(p87)

「当局側にも大きな問題がある。それは官僚主義です。官僚主義とは、学歴偏重に見られる人事制度、それに無責任主義、権力主義、通達主義です。この間も『生産性運動の実施通達はいつ出るのか』という質問があった。事故防止運動とかサービス向上運動と混同しているのです。生産性運動というのは一つの理念であり、ものの基本的な考え方だ。通達が出るような問題ではなく、その通達主義をぶち破っていこうという運動なのです」(p87)

 

 マル生運動自体はタテマエとしてはこのような「健全な労使関係」も含めた「健全な組織」を目指すものであったが、実態としては少し異なる点もあったようである。特に国鉄はあまりにも組織としては大きく、マル生運動への取り組み自体にも温度差があった可能性が高いが、それが国労をはじめとした組合の脱退を強要するような運動も中には見られたのであった。

 

「だが、国鉄の現場は一般の工場労働者と違って、「生産性向上」の実績を数字で表せない業務が多い。必然的にその〝矛先〟は、仕事の足を引っ張る組合活動家に向けられ、国労動労の組合員を減らすことが目標になっていく。それが各地の現場で「不当労働行為」を引き起こし、磯崎体制の崩壊につながるとは、磯崎自身、思ってもみなかったことだろう。

 現場管理者から執拗な「国労脱退工作」に晒され、または上司に部下の「脱退工作」を命じられて、悩み抜いた職員の間から自殺者も出始める。」(P90)

 

 この不当労働行為の実態について、国労はマスコミへの情報リークを積極的に行うキャンペーンを展開し、当局側は運動自体の終了と、その後の「落とし前」として「勤務評定への介入(p116)」や「ストに対する組合員への処分の軽減化(p122-123)」をはじめとして、当局側の管理権限を無力化することに成功してしまった。このマル生運動に対する組合側の勝利がその後の驕りに繋がり、それ以降、一方的な国民批判の対象となっていくことになる。

 

 

 本書もそうであるが、国鉄の解体をめぐる議論において、この労使関係の議論は無視することができず、特にこの人員削減をめぐる議論というのが、国鉄運営の「合理化」の阻害要因として語られる傾向が、少なくとも物量的には明らかに大きい。そしてこのことを前提にした場合、「親方日の丸」における「一番の悪者」とはこの組合という結論になると言ってしまうこともできなくはない。

 しかし、実際上記の(1)~(3)の阻害要因に対して、どれがどの程度その阻害の影響があったのか、という議論(つまり、その阻害要因によってどれだけ赤字が増大してしまったのか、という要因分析)は私が読んできた本のなかではまだあまりはっきり見受けられない。当然ここには与野党双方の政治家の影響もあるし、世論が与えた影響ということも検討の余地が与えられている。

 また、少し気がかりであるのは、仮に(3)の人員削減が最大の原因であるとすれば、逆に60年代に黒字収支で運営ができていたのは、本当に前提である「輸送手段の構造的変化」のみで説明できるのか、という点である。私自身現在「革新自治体」に関わる著書も読んでいるが、どうにも国鉄の赤字収支の議論は70年代に美濃部都政に起きた赤字財政の状況とも関連付けることができるのではないのか、という風にも感じたからである。特に収支の面からこの議論の整理を今後行ってみたいと思う。

 

 

国労の「怠慢」と『大衆』について

 

「当局は酷いことをする。我々は本来ならば走行中のブルトレの故障を修理するために乗務し、乗務手当をもらっていた。ところが毎日乗務するほどの故障はないという当局の一方的判断で、ブルトレから降ろされ合理化が強行された。その際、組合の努力によって、乗務はしなくても、既得権として乗務手当はもらっていた。手当を支給しておいて、さらに合理化を強行するというのはどういうことか」(p222-223)

 

 これは国労の組合員が記者に対して行った発言で、この発言も含め作業員の「カラ出張」が大きな問題とされた際の典型的な発言といえるものである。この発言自体が国労の「怠慢」を典型的に表していたとみなされていること自体が非常に興味深いように思える。

 この発言をした組合員は間違いなく、「ブルトレを動かさない日は乗務手当が出ない」ことに対して「不当な扱い」であると考えていた。それは一つにそれまでは当たり前のようにその手当を受け取っていたからであり、更にそれが失われるということは『生活上の脅威』に当たり、だからこそ国労としてそれを既得権益として獲得し、それが正当なものであることが明白であったからだったといえるだろう。

 しかし、『大衆』はそのように見なかった。現に勤務しないで手当をもらうことは「カラ出張」としかみなさなかったからである。

 

 私がこれを検討すべき点だと考えたのは、このような勤労倫理というのはどこまで「当たり前」のことなのかという部分である。少なくともここには「仕事もしないで対価をもらおうとすることは『不当』である」という価値観が色濃く反映されている。この価値観が具体的に、どのように自明視されていたのか、そしてその自明視は諸外国と比較した場合には差異があるのかどうか、という点を問う必要があるのではないか。下手をするとこの価値観が日本の労働運動に対して与えている影響も少なくないのではないのかという印象を受けたのである。

 

 また「親方日の丸」との関係性で議論するならば、一般的な『大衆』と「親方日の丸」との関係は、この観点から見れば限りなく赤の他人に近いといえる。しかし、このケースとは別の国鉄の問題から見た場合、例えばそれが「政治」の問題の部分に関連付けられる場合や、更には日常生活を行う上で『大衆』が受益者となり運賃上昇により不利益を被るような立場に立つ場合には、同胞関係にあるようにも見える。

 国鉄から見える「親方日の丸」はかようにしてその対象が曖昧であるし、『大衆』もまた曖昧な関わりをしているといえるのである。その曖昧さについて整理する作業というのは、恐らく『大衆』の性質の理解にも一役買うのではないかと思える。