西尾幹二「西尾幹二全集 第一巻 ヨーロッパの個人主義」(2012)

 今回も日本人論を取り上げる。

 西尾については最初に「教育と自由 中教審報告から大学改革へ」(1992)を読み、レビューする予定だったが、背景として西尾の考える日本人論について押さえておく必要があると感じたため、本書を読んだ。

 

 その考え方についてはこれまでのレビューでいえば千石保に最も近いだろう。千石はポストモダン期における日本人に対して、もともと主体性が欠けていたために、極めて流動的な思想に陥っており、それを規範の欠落と結びつけて議論していた。西尾もこの流動性を日本人の特徴として位置付けている。

 例えば、p35のように「自己主張が強く、首尾一貫している」西洋人と、「和をたっとぶ素朴な日本人」といった表現から、p96のような「自然と文化の分断」をした西洋人と「『自然』と『文化』の二元論的な対立をせず、適合させる」日本人といった語りを通じ、直接的にはp119-120のような形で日本の流動性を問題視する。

 

 ただ、西尾の日本人論として最も特徴的な視点かつ最も重要である点というのは、「理想と現実についての不一致について自覚的でない」という点に尽きる。永らく近代の歴史の中でその文化を展開してきたヨーロッパ諸国(特に本書でドイツが中心に語られる)では、特に平等に寄与する「権利」をめぐる議論を実態と結びつけながら展開させることができた(と西尾は考えている)が、日本においてはいわば「頭でっかち」になっており、うまく現実と適合できないまま、理想が追求され、原理主義的に「近代」が展開されてしまっているとみている。

 

 また、この観点は宗教信仰も踏まえてなされている点も興味深い。結局宗教信仰は一種の幻想を信仰する訳だが、そのような信仰の実践があるからこそ、西洋人は「理想」と「現実」を区別する視点を獲得できているとみなす(cf.p42-43やp187など)。しかし、日本人にはそのような区別を可能にする視点がなくあたかも思想を万能なものと捉えそれを繰り返すがために「思想は道具でしかないという自覚が欠けている」のではないかとみる(p184-185)。

 

○本書における「止揚」の用法について

 

 また、もう一点の本書の特徴といいうるのは、「止揚」という言葉の用法に対する態度である。ノートに記載したのは4ヶ所であったが、基本的にこの「止揚」というのは、あくまで実態としての状況のぶつかり合いとして描いているように思える(cf.p118-119,p319,327)。しかし、他方でp320-321で用いられる「止揚」というのは、ヨーロッパの共同体が「近代国家の概念の止揚としてではない」とされる。ここで西尾はヨーロッパの文化を形成した際の「止揚」と、近代国家という枠組みにおける「止揚」というのは、その考え方が異なると捉えている。

 この2つの「止揚」の用法というのは、私が過去に読んできた本における「止揚」の用法と比較しても、確かに正しいように思える。特にこれまで展開してきた教育における「集団主義」をめぐる議論においては、特に後者の用法、「近代国家の概念の止揚」としてのものが多かったように思える。

 

集団主義的人間は野村(※芳兵衛)のように市民的人間の否定としてではなく、反対に市民的人間の発展的止揚として成立してくるものである。それは、個別的な人間が個別的な人間のまま自分の力を社会的な力として認識し、それを政治的な力として認識し、それを自覚的に行使できるようになったとき、はじめて現われてくる人間のことである。個別的人間はこの全過程をとおして自分の力の利己的、反社会的行使と闘争していくことによって集団主義的人間になるのであって、自分の力の利己的行使を道徳的、観念的に断罪することによってそうなるのではない。そうした断罪は個別的人間から彼自身の力いっさいを奪うことになってしまうからである。

そうだとすれば、野村の協働自治人は集団主義的人間だといえない。集団主義的人間像は野村にあっては道徳的、観念的ベールのうちに閉ざされ、現実性、歴史性をまだ与えられていない。」(竹内常一「生活指導の理論」1969,p261)

 

レーニンによって確立された総合技術教育の理論を分析すると、つぎの三つになります。(一)共産主義教育の位置構成部分であり、共産主義教育を確立する能力のある世代を教育するものである。そして、この教育を実施し、全面的に発達した人間をつくりだすためには、新しい生産関係を獲得することが前提され、したがって世界観の教育や政治教育と結合されなければならない。()全面的に発達した人間の教育であり、知能労働と筋肉労働との対立を止揚させる教育である。(三)総合技術教育は、総合技術的労働教育と科学の基本との統合である。すなわち、「科学の基本」を与え、「理論と実際とにおいて生産のあらゆる主要部門」を知らせ、「教授と生産労働とを密接に連けい」させるものであり、この統合は、生徒のすべての社会的・生産的労働が学校の教育目的に従属させられるような基礎において実施されなければならない、ということです。」(技術教育研究会「総合技術教育と現代日本の民主教育」1974,p30-31)

 

「教育への政治優先的態度を取る限り、つまり、どのような政治体制においても不断にそれに挑戦する自由で創造的な人間が存在しない限り、それは政治的体制の自己発展の死を意味するからである。体制の内部矛盾を見極めそれを克服するについての、いわば止揚能力としての個性豊かな創造的、逸脱的人間が、常にどんな場合にも必要である。それは、一つの型を要求する「集団主義的」政治運動の枠外にある、「個人主義的」な人間実存の有無の問題である。政治体制の両極化がすすむ現代であればあるだけ、この政治を超えた人間づくりによる政治への逆説的な貢献が、いっそう望まれることになりはしないか。」(

片岡徳雄編「教育名著選集1 集団主義教育の批判」1975=1998,p108)

 

 これらの議論において共通しているのは、全てそれが「人間性」に関わるものであり、「止揚」という用法がいまだに達成されていないものに対して語られるものとして捉えられている点である。その当為論的な性質から、私自身はこれまでその「止揚」が現実的なものなのか(実現可能なものなのか、更には不可能なものを実態化させるためのレトリックにすぎず、非現実的な議論にしかならないのではないのか)という切り口で疑問に感じる部分も多かった。このような止揚の用法のされ方というのは、恐らく本書でいう「近代国家の概念の止揚」とも関連するものであるように思える。

 

 他方で、これとは異なる文脈で「止揚」を用いる論者もいる。

 

ヘーゲルの発見で極めて積極的なものは、人間とは、現実関係において自ら疎外した「外在態」をつねに意識し自覚しつつ「自己のうちに取戻す対象的な運動としての止揚」という契機をもつ存在である、ということにほかならない。否定の否定」とは、人間が関係において生み出したものを、ひとつの「仮象」としてつかみ直すということ、その了解と自覚においてこの「仮象」を止揚し、現実を確証しなおすということである。たとえば、ヘーゲルが見出した偉大な原理は、「労働」を人間の自己産出の過程ととらえたこと、つまり自ら作り出した対象が自己と対立するが、この外在性をふたたび自己へと取り戻す止揚にいたる過程ととらえたことにあった。」(松下圭一「シビル・ミニマムの思想」1971, P263)

 

「まして、このような文脈において考えるならば、あの「実存的嫌悪」もとづく否定のエネルギーによって社会の変革を追求するというのは、近代の歴史的かつ論理的な教訓をあまりにも無視した話であると言わなければならない。そして、そこに展望される「近代」の否定は、何か実存的(したがって主観的)な近代批判としては成立するかもしれないが、けっして弁証法的な否定として本質的な近代批判として「近代」そのものの危機を止揚するものではありえないであろう。」(田中義久「私生活主義批判」1974,p219)

 

 これらの引用では理念そのものが「止揚」する訳ではなく、むしろその理念をもとに獲得する実態についての積み上げについて止揚という言葉を用いている節がある。特に田中義久の議論は西尾の議論に通じるものがあり、田中も次のように「日本的」なものを批判的に捉えている。

 

「日常的には無原理の否定の連続としてあらわれ、しかも幻想に支えられた運動体の中でみずからの運動の対立物をことごとく否定しようとするところに発酵する心情主義——それは、形態的には、ニヒリズム、ロマンティシズムそしてアナーキズムのシンクレティカルな流動体である――は、非常に「閉じた」エピステーメと結合する。それは、きわめて特殊主義的であり、日本的ロマンティシズムの伝統的構造と重なり合う位相をもっている。このような心情主義において「自己否定」が語られる時、それは、実は、はてしなき「自己肯定」にほかならない。そして、「自己否定」即「自己肯定」という何やら骨格のない論理をもっとも自足させるかたちで包摂しうるもの、それがあの日本的ロマンティジスムである。」(田中1974, P221)

 

 恐らくここでいう「自己肯定」の議論は西尾がp215-216で述べているのと同じものなのだと思われる。否定の原理についても、それ自体が「閉じた」ものであること、何かしらの実態と結びついていないと、それはほとんど意味のない否定でしかなく(これが「主観的である」ということだろう)、同時にそれは意味のないという点で「自己肯定」していることと同じであること、それが情緒的な日本人につきまとっている考え方であるということという点を西尾と田中は共有しているように見える。

 

 ここで両者の止揚の用法との違いももう少し考えてみる。どちらも一定の「否定」を含みつつ議論を行うわけであるが、前者の「止揚」という言葉は、その契機を外的なものに見いだしているものと言えるかもしれない。ほとんど「体制批判」というものを契機にして自己が身につける主体性の次元において止揚を試みようとする議論がそこでなされている。

 一方後者が批判するのはむしろ「大衆」という主体全般(=日本人)である。もちろん、体制批判という文脈がない訳ではないものの、それよりもまず内なる主体の方に対し、批判的な視座を与え、真の意味で止揚する必要性について議論している傾向がある。

 確かに、ヘーゲルが言うような「止揚」について正しく理解するならば、「理念」が理念として止揚するような考え方はその本来的な用法として正しいとは言い難いだろう(※1)。次のような止揚の用法を見れば、それは明らかであるように思える。

 

「啓示宗教の精神は、内容としてはすでに絶対精神だったが、まだ、意識そのもの(→自分と対象とを異なったものとして区別する、という意識の特性)を克服していない。精神全般もそれの諸契機も「表象」に属しており、「対象性」という形式にとどまっている。そこで、残っている課題は、この対象性という単なる形式を止揚するということだけである(→主観的確信と客観的真理との区別を最終的に止揚して、自己と対象との同一性を打ち立てることこそがここでの課題であり、これによって絶対知は成立するのである)。」(竹田青嗣西研「完全解読ヘーゲル精神現象学』」2007,p298)

 

「しかるに精神の歩みがわれわれに示したのは、「自己意識として純粋な内面のうちにしりぞくこと」(フィヒテ)だけでも、「自己意識をただ実体のうちへと沈めこむこと」(シェリング)だけでもなかった。自己は自分自身を外化して実態のうちへ沈めるが、主体として実体から出て自己内に還帰してもおり、実体を対象とし内容とすると同時に、対象性と内容とが自己に対してもつ区別を止揚する。精神はこういう運動としてあるのである。」(同上、p309)

 

 このような議論をもとにすれば、西尾のいう「近代国家の概念の止揚」の問題点というのは適切な止揚ではないことを理由に批判が成り立つこともわかってくる。更に言えば、このような形で行われるべき「止揚」について、日本人は適切に理解していないという文脈もそこに含まれているといえるだろう。

 

 

○再び、日本人論の「一般性」を語ることの問題

 ただ、西尾の場合、このような議論に関連して、「ヨーロッパ人は『理念』を原理主義的に捉えることはしない」ことを一般的なものとして捉えている。この主張は二重の意味を含んでいる。一つは文字通りのヨーロッパ人に対する指摘を指し、もう一つはその裏返しとして、日本人は理念を原理主義的に捉えているという主張である。前者に関していえば、本書でそれほどまともな立証をしているように思えないが、検討課題とする価値はある議論である。しかし、後者についてはほとんど妥当性を持っているように(少なくとも私は)思えない。

 西尾の議論はいわゆる進歩的文化人学生運動家の行動と一般的な「日本人」を同一視した上でその批判を行っているのがほとんど明白に見えるからである。学生運動等の関与者というのは学生一般からいってマジョリティではあかったし、そのマイノリティの中でも、それらの者が「原理主義的」に振る舞っていたかという論点さえ、議論の余地が大いにある(※2)。これまでの日本人論のレビューでも繰り返し議論してきたように、西尾の場合も「社会問題」として取り扱われるものについて無根拠な一般化を図り、その際を実証的な理由なしに強調するのである。

 

 

○日欧比較の程度問題とアメリカの取り扱いについて

 

 本書は「ヨーロッパ像の転換」(1969)と「ヨーロッパの個人主義」(1969)という2冊の著書が中心となっている(著されたのは恐らくこの順番である)が、両者における違いとして、日欧の比較の程度が異なる点を挙げることができる。前者はかなり絶対的なものとして両者が比較されるのに対し、後者では相対的な違いとして語られ「程度問題」として日本人論が語られているといえるのである。

 これに関連してアメリカの取扱いについても違いが認められる。通常日本人論がアメリカとの対比で語られる傾向が強いのは確かであり、西尾がみるヨーロッパとの対比というのは、日本人論の相対化に寄与しうる観点であり、それなりに重要な論点であるといえる。

 「ヨーロッパ像の転換」においてははっきりと「日米と西欧」の図式を打ち出し、西欧に着目する意義が明確である反面、「ヨーロッパの個人主義」ではその言及が皆無であり、軌道修正したかのような印象も受けるため、後者におけるアメリカへの評価が前者と同じとみなしてよいのかはかりかねる所もある。特に日本の教育システムを明治時代からアメリカの単線型の制度の輸入であったとみなす事実誤認(cf.p126-128)はその典型であり、「日本人は比較したがる」(p143)といった「心性」の問題についても、アメリカと日本を同一カテゴリーとして議論していいのか、かなり微妙な点を含んでいるため、実質的に西尾はアメリカとの対比を放棄してしまったのではないかと思える。

 

 合わせて、後者の著書では相対的な語りをする性質から、ヨーロッパはヨーロッパで問題があることも比較的言及されている。前者ではせいぜいp133のような語り方で「近代化の問題は西洋にも影響を与えはじめている」とする程度で、ヨーロッパ的思考そのものがぶれているような議論の可能性はまずなかった。しかし後者においては、p244やp249で見られるように程度問題として、又は一部のヨーロッパ人には日本と同じ状況が見られることに言及されているのである。

 

 

○「エゴイズム」と「規範的であること」との関係性について

 

 本書において評価したい点の一つに「エゴイズム」の捉え方がある。特にドイツの大学での体験において西尾はドイツの大学生の「エゴイズム」について触れる。西尾自身その自己主張ついては決して合理的なものであるという風には思っていないものの、それなりに首尾一貫しているところもみられるとし(p35)、そのような議論から西欧的な個人主義自由主義といった理念の真の意味を西尾は捉えようとする。端的にそのような態度は「社会」の存在があるからこそなされるものであるし(cf.p19,p29)、それを相互不信を前提にしたものととらえ(cf.p27,p46-47)、そのような状況をもとにした不安の現われとさえ見ている(p27)。対して、日本人は絶対的に対比する形で社会の不在や、相互信頼を前提にした議論、そしてエゴイズムの欠落(p29)が語られるのである。

 

 この欠落という観点については、それ自体で重要な論点でありうるかもしれない。少なくとも「日本人に父性が欠落している」といったにわか精神分析の言説などよりはよほど誠実な主張であるように思える。私自身は「父性」などは「権力を持つものの『エゴイズム』を強調しろ」以上の意味を持ち合わせていないと考えているので、結局エゴイズムなるものをいかに擁護するのかという点に集約されるように思える。

 ただ、本書において奇妙なのは、松下圭一が述べたような形(松下「市民文化は可能か」1985,p204)で、「エゴイズムが強い(<私>傾向が強い)=日本人の性質」が成立していない点である。いや、正確には松下もかつてはエゴイズムを多少なりとも評価する立場にあったといえるため、正確ではない。松下の場合、エゴイズムの批判はそれが「必要以上のもの」である状況を認識した80年代以降顕著になってとみなしえた。ここで「必要」とはかのシビルミニマムナショナルミニマム)の量充足との関係からの議論である。

 このような観点からすれば、西尾は何故エゴイズムの必要性を述べるのかわからなくなるが、その議論を忌避すること自体が「徹底した孤独の確認をおこた」ることになるからであり(p29)、なおかつ個々人のエゴイズムの遂行というのが「実際はエゴイズムの完遂に決してなりえない」からであると捉えるからである(これはすでに述べた宗教倫理の議論と同じである)。

 実際、この両者の見方の違いは致命的な認識の違いに基づいている。価値判断のありようについても認識が当然違うが、事実認定のレベルでも大きくかけ離れているように思える。この違いはそれ自体で興味深い点であるといえる。

 

 ただ通常は、松下が見るように「エゴイズム」と「規範」は相反するものとして議論される傾向が強い。エゴイズムとはまさに「自己」のことを考えるものであり、当然「社会(規範)」との関係で言えば、対立するものだと考えられがちである。しかし、西尾はこのような二分論をそもそも西欧人はとらないものと考える。それは「西欧文化」に起因するものと考えている。どちらかと言えば、この「社会(規範)」が強力に作用するものであるからこそ、「自己」はそのことに影響を受け、一種の妥協を余儀なくされている。結果的にエゴイズムがあったとしても、規範が機能する。論理構成はこのようであると言ってよいだろう。

 

 しかし、このように考えていくと、前回レビューしたキンモンスの議論でも出てきた「他にありえた選択肢」について、本当に選択可能だったのかという論点が問われるべきではないだろうか?キンモンスの議論においては、日本の明治以降の平等主義的な政策についてあたかも他の選択肢がありえたかのように議論していたが、日本の民族構成等で「強力に制約された要因」がむしろ選択肢を強制し、平等主義的な選択肢しかありえなかったのではないかという問いかたをした。

 実際西尾が指摘する日本の状況というのは、問題があるものとして捉えていたが、他の選択がありえたかと言えば極めて微妙であり、「何故日本人が非難されなければならないのか(回避できなかったものについて何故非難されなければならないのか)」と思える部分が散見される。特に欧化政策については、選択しないという可能性があったのかまず多分に疑問である。そして、この「欧化」を行ったことで日本人が「不安定」な主体になったことについて批判することにどれほどの意味があるのかはもちろんだが、論理的に単一性を確保することが不可能であるものを不必要に攻撃しているように見えなくもない。

 その傾向は「日本人は比較したがる」といった議論(p143)においては極めて顕著であるように思える。この「比較」の議論についてはすでに杉本・マオアのレビューで見たように、「日本人論」は存在しても「アメリカ人論」「ドイツ人論」というのはそれとは非対称な形で現われうること、その原因が多分に「支配する者・される者」という関係性の中に埋め込まれているものである。西尾の議論は悪く言えば、このような反論できない構造を逆手にとり、あまり根拠のない日本と西欧の差異化を図っているように見えてしまう。これは特に先述した日本とアメリカの教育制度の同一視という勘違いに顕著に現われているように思えてならないし、「比較したがる」傾向について日本が顕著であるというのが日本に限らないのではというのは、杉本・マオアのレビューの際にも指摘したが、「黄禍論」といったかつての日本人・中国人蔑視をめぐる言説をみても、欧米人についても日本と同じように「比較したがる」性質をもっているようにしか見えないのである(「黄禍論」に関しては後日レビューする)。P256のような指摘はさしあたり的外れであると言うしかない。西尾の議論は結論ありきであるからこそ、このような勘違いを簡単にしてしまうのではないのだろうか。

 

 更に無視できないのは、p196-197で指摘されている「幻想としての西洋」という言説である。ここで西尾が真に意図するところが何なのかはわかりかねる所があるが、この部分に限らず、似たような主張がされている部分は他にもあった。恐らくは、「日本人は比較をしたがる」傾向をするものの、その比較を行う際に参照される「欧米人」というのが、我々が都合よく解釈する幻想でしかないという点を意味するか、もしくはp143で述べられるように、単純に「比較」の作業自体をしてもその「西欧」を文化として取り入れることは不可能であるため意味がないということを言いたいのだろうと思う。

 しかし、前者のような「幻想としての西欧」への指摘というのは、そのまま西尾が指摘してきた西欧の議論にも跳ね返ってきてしまい、自殺論法になりかねない。少なくとも、私には西尾の言説が「幻想」の域を出ているようには思えず、むしろ西尾の議論にもそのまま跳ね返ってきているように見える。このような論の展開からみても、西尾の日本批判の仕方には難があるように見えてしまうのである。

 

○西尾の教育システムへの言及について

 

 この点はすでに日本における単線型と複線型の議論の系譜を西尾が誤っていること、それが日本とアメリカとの同一性を語るために用いるために述べている嫌いがあることは述べたが、もう一点教育の関連では「大学進学率」への言及も無視できない(p125-126,p128)。キンモンスの議論とも関連するが、日本は平等主義であるから、不必要な大学生を入学させるような愚を犯しているとここでは述べたいようである。

 このような入学率の認識は確かに当時としては正しいものだったように思える。マーチン・トロウの「エリート型」「マス型」「ユニバーサル型」の大学制度の指摘は、本書よりもあとの時代のものだが、トロウも概してヨーロッパは「エリート型」の極めて限られた層しか大学を利用しておらず、マス型である日本や、ユニバーサル型であるアメリカと比較した場合には、確かに広く門戸が開かれている大学制度であると言うことができる。

 しかし、ここ十年ほどでその認識を改めるべき言説が出てきている。文部科学省などがOECDのデータに依拠しつつ、「日本の大学進学率は国際的に見て低い」という見解を示している点である(参考URL: http://www.mext.go.jp/component/b_menu/shingi/giji/__icsFiles/afieldfile/2013/04/17/1333454_11.pdf)。集計方法の違いや高等教育の捉え方、そして入学する年齢層の違いなど各国での違いがあり、別途精査が必要である内容のようにも思えるが、少なくともこれまで自明のこととして捉えられていた入学率の傾向の違いについて現在では日本と西欧ではっきりと示すのが難しくなっているデータであるように思える。

 そしてこの事実自体は西尾の論にとって非常に都合が悪い。西欧の文化には西尾は平等意識が強く反映されないような文化の強さがあることを強調していたのだが、そのような文化がすでに消失してしまったことになってしまうからである(西尾的な言い方をすれば、「近代悪」の影響が決定的に西欧にまで影響を与えるようになった、ともいえるかもしれない)。結果的に西尾が西欧を支持する基盤であった「ぶれない西欧」という前提が崩れているということである。このような点からも西尾的な日本と西欧の違いの主張には、反論されうる要素があるといえるだろう。

 

 

※1 「本来的な用法」という表現が適切かどうかも図りかねるが、少なくともあるべき「止揚」というのは、西尾のいうように「理念」と「実態」とのせめぎあいの中で存在すべきものであるという言い方はほとんど正しい。ただし、この「止揚」自体は決して完遂するものであるという捉え方もされるべきではない。絶対知のようなものは現実には存在しえないものであるからである。そしてこのような存在しえないものであるという点を前提にした場合、西尾が区別したように2つの止揚という用法がいずれも表現として間違いとは言い切れなくなる。ここで一つしか止揚のあり方を認めないのは、絶対知が存在するものと想定しないといけなくなるからである。現実においては、理念を理念として止揚するような議論も適切でありえるのであり、そのことを全面的に否定する態度こそ、非難されるべき前提をもったものと言わなければならない、と私は考える。

 

※2例えば、全共闘白書編集委員会編「全共闘白書」(1994)において、94年に実施した、全共闘世代に対するアンケート調査結果を見る限り、それが過去の回顧という体裁をとっているというバイアスの可能性はありえるとしても、学生運動参加者でさえ革命ないし大きな社会変革がおこると信用していたのはむしろ少数派であった(信じていたは36%、信じていなかったは41%)。このような点から言っても、「理念」に縛られてばかりで、「実態」との整合性について考えようとしないとする西尾の日本人像は曲解であるように読める。

 

 

 

<読書ノート>

P13「私たちは何国人は日本びいきだとか、どこの、誰は人種的偏見がないとか、ほかの外国人の悪口を言うときに、まるでパターンがきまったように、日本という「類」概念で判断を下すことが多かったのである。……つまり、われわれは依然として「個人」としてこの地に来てはいなかったのである。それはまた、追い越すとか、追い越さないとか、そういうことをたえず気にしているわれわれの心理とも不可分なものであろう。」

P18「仮面をかぶったような表情のない日本人と、デモや酒宴に痴れる日本人とは、結局は同じ性格の二面にすぎないのではなかろうか? 小さな集団のなかで陶酔し、仲間うちで情緒的に結ばれているものは、広い世界に出たときには、「個人」として立つことが出来ないからである。」

P19「われわれは「仲間」というものは持っているが、「社会」というものはもっていないのかもしれない。ひとりびとりがある制約のなかで、互いに距離をもって接し、自他のけじめをつけて、それぞれが自分の役割に徹し、他を侵犯しないで生きていけるようなルールや様式のないところでは「個人」の自覚も生れることはないだろう。」

 

P20「そういう非難のもとに、日本人の前近代的性格を批判し、ヨーロッパのうちに近代社会の理想をもとめるというのが、これまでのお定まりの方程式であった。だがわれわれの個性の喪失、社会性の喪失は、ほかでもない、われわれの「西洋化」そのものに原因があるのではないか。より正確に言えば、歴史も伝統もちがうわれわれが西洋化されるはずもないのに、西洋化されたこと、そして結局は、まったく西洋化されなかったこと、それでいてもはや西洋化以前にさかのぼることが出来なくなっている状況にあるのではないか。

じっさい私はペシミストであるほかなかった。そしてそのペシミズムを外国人にいくら説明しても通じないし、また通じさせる必要もない自己反省の問題でしかないという予感があった。」

※「じっさい日本に関する初歩的な誤解がいまだに少なくないヨーロッパでは、日本の西洋化がもたらした自己分裂については、言ってきかせても甲斐ないことだった。」(p20)

P24「後に知ったが、この「危険に対しては自分で責任を負って」は、いたるところに張り出されてある標識上のきまり文句であって、「危険」ということばを用いてはあるが、そのおおよその意味は、「万一」の損害に対しては自分で責任を負うことにして」というほどの意味である。だから、工事現場や、あるいは市当局が損害賠償をもとめられるような可能性のあるところには、この種の標識はたいがい張り出されてあった。だが、私がはじめて目にしたこの標識が子供用の鞦韆(※ブランコ)に張ってあったということが、なんとしても私には異様な印象を与えたのだった。」

※事情は日本も変わらない。しかし、「ドイツ人のあの独特な、我の強さと、この標識のあり方とがどこかで関わり合いをもっていることは確かだろう。」(p24)「とりわけ、公的な義務や責任問題などがからんでくると、ドイツ人は自己を護ろうとして、他を攻撃することに躊躇がなかった。」(p25)

 

P26「だが、内心は反対しながら、表面はにこやかに応対するといった交際術を都会風だとか、大人の付き合い方だとか言いたがる日本人は、じつははじめから言葉や論理にそれほど重きを置いていないというに過ぎない。つまり言葉や論理で自分をどこまでも追い込んで、相手に自分をぶつけて行かない限り、自分が相手から抹殺されてしまうというような不安が日本人の社会にはもともとないのであろう。」

P27「そういうわけだから、私が属していた大学のゼミナールもやはりはげしい議論の応酬になり勝ちだったことが思い出される。……だが、ここでも、冷静に論理がはこんでいるというより、自分の論理をまず打ち出して、それを他人に押しつけていくという衝動の方がつねに優勢であるようにみえた。彼らは討議をするよりも、自分の不安を言葉でうめて、まず自分を救おうとする性急さが先にあるように見えた。」

※「しかし、いずれにしても、ここにみられるのもやはり言葉や論理に対する過剰な信頼である。」(p27)

P27「ここにはなにかルールが、形式かがあるのだろうか?

人間同士はたがいにどうせ理解し合えないものだという冷たい前提を、たがいに理解し合っているともいえるのかもしれない。」

P28「日本では公的な場でだれかを批判すれば、いくら論理が整然としていても、あとあとまでしこりが残る、公的な場では単なるたてまえや、心にもないことばかり話し合う人が多く、実際の決定は、肚の通じ合う少数の代表が、その場の空気を機敏にかんじとりつつ、あとから上手に取りまとめていくという例が日本人社会には多い。」

※ドイツ人の主張が本当に「心にあること」だと何故言えるのか??そう見えるだけでは??自己保身的であることは西尾も認めているではないか。問題はそのような対立構図の中で責任ある結論を出さねばならない時にどう調停されるのかである。

P28「第一に、われわれは、自己主張が弱い。相手の気持を忖度しすぎる。それだけ自我拡張欲に乏しいのである。」

 

P29「われわれが「仲間」というものは持っていても、「社会」というものを持っていないかもしれないと私がさきに述べたのも、自己主張を忌み嫌う日本人社会が人間相互のエゴイズムの是認、徹底した孤独の確認をおこたっているために、自律した個性を喪失していく一方ではないかと思ったからにほかならない。」

※しかし、西尾のいうドイツの実態を見ると、「個人主義=利己主義」も正しいように思える。

P30-31「ヨーロッパで私が出会った数多くの日本人のなかにただひとりも本格的なコスモポリタンと呼べそうな人はいなかった。

日本人は日本の家族と仲間のなかにしっかりと根をはやしていなければ生きていけない唯一の国民かもしれない、と私は思った。それに、私はべつに自分がそうだったから言っているわけではないが、あらゆる民族のなかで日本人の男ほど西洋女との交際に慎重な人種はいないのではないかと思った。」

P32「ほかのアジア人はしきりにドイツ人の部屋を真似していたが、私ばかりではない、どういうわけか日本人の部屋は申し合わせたように乱雑になり勝ちで、それでもわれわれはいっこう困らないといった顔をしていたので、掃除女は、部屋をみれば日本人だとすぐ分ると言ったほどだ。

個人の自己主張がはげしければはげしいほどそれだけ秩序への欲求もはげしくならざるを得ないのかもしれない。手ばなしでいればどこまでも底しれぬ破壊衝動へつっ走っていくのが人間の自我拡張欲というものだ。」

 

P34「(※大学の寮)入寮に際しじっさい合法的な契約書を交わしているのだから、例えば管理権を大学や教団が握っているとしても、彼らが学生である以上それは当然のことであって、寮の管理権にまで立ち入ろうとする日本の学生の考え方などは、いくら説明してもここでは通じるはずはないことであった。……

この問題は、後の章でももう一度ふれるが、いまや世界中のどこの国にも反乱や暴動や不満の爆発はあるにしても、日本の場合には動機にとくにいちじるしく論理性を欠いていること、始めも終りもなく無限にだらしなくつづく社会不安の曖昧な無形式とを特徴としている。なにも学生運動にかぎらない。たいていの社会不安のもとになるこの没論理は、これまで述べてきた日本人の人と人との関わり方の曖昧さにすでにその原因があるのではないだろうか。」

※実によくわからない。どの秩序が承服され、どの秩序に対し反乱していると言うのか。

P35「日本人には積極的な罪悪感がないから、人間同士の和をみだすことが消極的な罪悪となるのかもしれない。ということは、それほど日本人は和をたっとび、調和を愛し、人間相互の理解を素朴に信じたがるお人好しの国民だといいかえてもいいだろう。」

P35「自己主張のつよい西洋人は彼らなりに首尾一貫しているところがみうけられるし、また、和をたっとぶ素朴な日本の民衆もまた彼らなりに一貫した秩序感覚をたもちつづけているといえよう。ただ、「西洋化」された日本人の意識だけが、日本的美点を「封建的」とか「前近代的」とかきめつけて「西洋的」に行動しているつもりで、はなはだしく「日本的」な結果に終るという愚をくりかえしているのである。」

※日本人固有の長所とは何なのか??

 

P42「個人主義自由主義はそのかぎりでは抵抗すべき権威がなければ成り立たぬという自己矛盾をはらんでいるはずなのに、近代日本の浪漫主義は、束縛を破る行為のみを自由であるとし、束縛を超える自由についてはいささかも知らずに来たのだ。権威らしい権威といえばすべて流し去ることにこうして精力を傾けてきた結果、今日では、われわれはなんの拘束もない完全な自由の荒野に抛り出されて、かえって途方に暮れているようにさえみえる。自由だけでは人間は自由になれないからである。」

P42-43「いったい西洋的な個人主義とは何なのだろうか? それはヨーロッパのじっさいの生活風俗の場からきりはなすことができるものだろうか? 個人主義自由主義は、個人を超えたなにものかが厳として生きている場においてのみ成り立つものではないか? もしくは、たとえ昔年の権威を喪ったとはいえ、個人を超えた絶対的なものとのかかわり合いにおいて人間関係を調節してきたヨーロッパでは、今なおわれわれのあずかり知らぬ倫理観がはたらいているのではなかろうか?」

個人主義を生活風俗と離せない、という主張自体がすでに矛盾している。何故なら、個人主義とは、そのような生活風俗を引き離す試みでもあるからである。

 

P46-47「ヨーロッパの個人主義が、人間と自然とはもとより、人間と人間との関係をも、徹底した不連続としてとらえた上で、ばらばらの個体をつなぐ必要から、絶対者という統一原理を設定しているといえるのではないだろうか。ヨーロッパ社会の人間関係がお互いにさっぱりした、割り切った、乾いた関係であることをわれわれは良い意味で個人主義的とよんできたが、それは同時に、相互の人間不信の上に成り立つものであり、その不信感を調停する機能としての統一原理がいまなお目にみえぬ形で作用していることによって、ヨーロッパ社会の人間関係があのさっぱりした、調和のある秩序をもつことができるのではないだろうか。

個人主義とは、近代日本にみられたような達成すべき美しい理想なのではなく、すでに現実なのである。しかも、それはやりきれない現実なのであり、したがって、ヨーロッパの個人主義とは、個人性を滅却し、なにものかに奉仕することによって、はじめて個人性を獲得するというパラドックスをうちにはらんでいるのではないだろうか。

もともと破壊への情熱を秘めているヨーロッパ人にとって、束縛を破壊し、おのれを解放することがただちに自由を意味せず、むしろ高次の束縛をつくり上げて、それを頭上に設定することにより、相互の破壊衝動を、いっきょに、絶対的に、裁くことのできる「自由」を確保しようとしているのではないだろうか。」

※不信感と言えば聞こえは良いが、正しい表現と言えるのか?

 

P58「私の眼にうつったあの生活風俗の多様性は、いわば文化意識の根底をなす多様性につながるものであって、それは多様でありながら、同時に調和した統一性をも志向してきたものなのである。統一性は、画一性ということとは異なる。というより、文化はある統一性をたもっていなければ、ゆたかな多様性を発揮することもできないであろう。これは逆に言っても同じことで、ヨーロッパ文化は多様であることによってはじめて、統一体としての活力をかんたんに死滅させずに自己展開しつづけることができたのだともいえよう。」

P59「「個」に徹することが同時に「全体」に参与することになるというあの逆説的なヨーロッパ文明の抽象精神が、どうして容易にわれわれのものとなり得るだろうか?それはヨーロッパ・キリスト教文明がいく千年にもわたって培ってきたエゴイズムの相互調節と、現実処理の智慧であった。そういう前提を抜きにしておこなわれた日本の「西洋化」が、多様性と多層性を誇るこの文明に対し単一化した反応しかできなかったとしてもむしろ当然であったろう。」

※簡単に伝統的精神を語るべきではない。むしろ制度にも目を向けるべき。

P59「なるほどわれわれは、世界には無数の文明があり、ヨーロッパ文明だけでも相当に複雑多岐であることは誰しも頭では理解している。しかし文明と文明との接触と、その後に起る歴史の展開は、すでに個々の人間の個人的知性を超えた出来事なのである。

問題は、そのことをわれわれがどこまで自覚しているかにかかっていよう。」

※極めて精神的なものとして問題としているのは明らか。

 

P61「今あなたは日本の男は自信がないと言ったけれど、服装ばかりではないでしょう。自分の国から生れたものでない限り自信のもちようがない。規範がないのです。……さっき言った東京の新しさというのは、まさしくこの文化の抽象性にあるので、実体のない新しさです。規範のない新しさです。過去の規範がなければ、どうして新しい姿というものが生れて来ましょう。……空虚主義の新しさですよ。それでいて、日本の各地方都市は、いずれも小型東京であることを競い合っている。恐るべき画一主義です。」

※これは西尾が外国人に対して話した言葉として取り扱われている。「自信」をこのような形で定義するのは筋違いである。「思い込み」の域を出ない。

P80「それでもおそらく廃藩置県までは、鹿児島には鹿児島らしい個性的な建物が、新潟には新潟にふさわしい特色ある建物が、街の様式を決定していたのであろうが、今ではどこへ行っても、活動的な地方都市であればすべて「小型東京」であることを競い合っている。その画一的な性格喪失は真に悲惨といってよい。」

※何を根拠に言っているのか考えた場合、「西欧化」の話と単純にセットになっているとしか思えない。「特色ある建物」とは一体何なのか?何を根拠に「特色ある」といっているのか??

P80「それでももしも日本人が、都市単位の共同体意識にささえられてきた国民なら、今日みられるように、垣根に囲まれた不揃いの民家を雑然とならべたり、高低さまざまの近代ビルをそのなかに乱立させるような不統一を犯すことはなかったろう。」

※京都や札幌、名古屋に喧嘩を売っているのか。

P80「ヨーロッパの都市では街道に面して長く連結した家屋は大抵一階が商店、二階以上は日本で言うアパート生活に類する仕方で多数の家族が住みこみ、また独立した一戸建ての家屋でも数家族共棲するのが常識となっている。」

P81「ヨーロッパの都市の民家は垣根のないのが圧倒的に多いし、教会、市庁舎、ときには大学でさえ塀を設けない。例えばドイツでは古い大学の建物は一般家屋の間に垣根なしで市中あちこちばらばらに立っているから、所謂キャンパスというものを知らないのである。

個人意識の発達したヨーロッパで、日本に比べ「家」への意識が相対的に微弱で、肌暖め合うべたべたした馴れ合いの家族感情を跳び超えて、個人の自我に徹することが、同時に、逆説的に、個人を超えたある抽象体へ、都市へ、国家へ開かれていく乾いた全体意識に発展するのは、こうした一般市民の生活様式と深くかかわりのある問題だろう。」

※この点はアメリカの議論を持ってきて否定できるのでは?

 

☆P94「これ(※日本の模倣的特性)を日本人の長所とみるか短所とみるかで、むろんわれわれの未来への態度は変ってくる。「対決」を欠いたことによって、「近代化」はなるほどスムーズに成功したが、またそのために、成功は「近代化」以上のものに及んでいなかったからである。……かくてそのために、われわれがわれわれ自身の「文化」をもしだいに変質させ、壊滅させていく危険に直面していることも確かであろう。しかし、それでいて、いっこうに動じない日本人の度胸の良さ、逆に言えば、自己偏執のうすいお人好しの無関心こそ、日本人の伝統的な生の形式なのかもしれない。なにも明治の「西洋化」以来のことなのではなく、これが日本人の歴史のパターンなのかもしれない。」

P95「「自然」と「文化」との二元論的な対立を知らないわれわれは、自然と格闘するよりも、自然に敗れればそれに同化し、適合し、むしろそれと親しむことによって自分を自然に近づけ、慣らして行こうとする傾向がつよいのである。それに対しヨーロッパ人は、始めから「自然」に垣根を設けた「文化」の砦の中で自己収斂と自己拡大とを繰り返すことにより、それが彼らのエゴイズムでもあり、弱さでもある事実の方は好都合にも忘れてしまう技術をさえ習得しているかにみえる。」

 

P118「さらにヨーロッパ人の過去の「文化」への執着心にくらべれば、「自然」に開かれたわれわれ日本人の無定形な、開放的な生き方にはある救いがあり、自然に対し自己を閉ざした主我的な西洋風の生き方とは別の可能性にわれわれは恵まれているかもしれないということを、暗示的ではあるが、述べて置いたつもりである。

しかしいま、あらためて問わなければならないことは、日本人に有利なこの種の可能性は、庭園や建築や古美術をたよりに原理的には引き出すことが出来るとしても、じっさいの現代の創造と活動の場では、かかる原理はつねに有効性を発揮するとは限らないのではないかという疑問である。ことにヨーロッパの価値観や美意識の延長線上に成立している日本の近代文化は、自分を測る基準を他文明に求めてしまった以上、自分の過去が自分自身の基準にならないという情けない状況におかれていることは誰にでも見易い事実だろう。

日本人はもともと過去の基準をあくまでまもろうとするかたくなさや粘り強さを持たない国民であろう。すべては自然のままに流されていく日本人の情緒的な生き方が、場合によっては外来文明との闘争を避けて通る有利な条件をも育ててきたのではないか、と私は前にも書いた。しかしまた、その一種の無定形、無原則のだらしなさが、過去を否定し、革新するという近代ヨーロッパの進歩の原理と結合したとき、日本文化の弱点をいっそう拡大するような方向に拍車をかけるのではないかと危惧されるのである。」

※あまり日本の思想に期待しているように思えないが。

☆P118-119「なぜなら、ヨーロッパでは、進歩という近代的な価値は、いつも表面を動かしてはいるが、その底には動かぬ保守性が行きすぎをはばみ、拘束している。そして、文化の創造の瞬間は、保守でも、進歩でもない、その二つの力学を止揚した地点にしか成立しないものなのである。だが、日本の過去が、有効に日本の近代にはたらきかけてくる流動性を失っているわれわれの場合には、日本的な非論理性、けじめのなさ、情緒性がそれに加わって、ややもすると、保守と革新という政治の原理のみが文化の原理をおおいつくしてしまう傾向をそなえているように思えるのである。」

※おなじみの止揚

 

P119-120「西洋化」とはこの場合、いまだ存在しないものへの崇拝の感情に発しているから、あらゆる既成価値に敵意をいだき、生れぬ先の未成価値を先取りして考えるところまではいいが、未来はいつまでたっても未来であるから、結果的にその意識は、自分たちがもっともモダンでいるという自負心に加えて、いっそうモダンであるべく過去を否定する空しい残り火を苛立たしげにかき立てていかなければならなくなるのである。……

いったん保守と革新という対立図式が発生し、その枠形式にとらわれて、保守の側にあらゆる悪の属性を塗りこんでしまえば、文化は解体への道をまっしぐらに進んでいくか、さもなければしまいには政治価値による救済以外には手がなくなってしまうものである。」

松下圭一的な議論の問題の本質を語っているように思うが、二項図式の問題なのかは松下の問いの立て方から見てもわからない。

P121「私は日本が置かれている問題の二重性を指摘したいのである。「西洋化」から起る宿命的な災厄と、西洋近代そのものがすでに孕んでいるニヒリズムと、この二つがたえずわれわれの文化創造の場から生命力を奪うようにはたらきつづけている。」

※後者は日本に限らないと述べる。

 

P123-124「学者として著名な日本の某女史がこんな事を書いていた。日本ではカントやヘーゲルマルクスなどは難しくて大学生でもよく解らない顔をしているが、ヨーロッパでは、若い女性でもまるで普通の本を読むのと同じような気軽さで読んでいる、と。とんでもない大嘘である。一般論としてそんなことは決して言えないし、第一、日本の民衆に無用の劣等感を与えることを以て己れを高しとする知識人のこの種の言動ほど大なる罪悪はないだろう。

私は在独二年間、この問題だけはずいぶん気をつけて観察してきたつもりだが、ドイツの民衆は一般の日本人よりもかなり教育程度が低く、知識欲も乏しいように思えた。……だが、これはなにもドイツにだけ限ったことではないのではないか。北欧の方がもっとひどいという話もきいた。アメリカ人や日本人に比べて、ヨーロッパ人が一般に知的向上心に乏しいという話は屢々耳にしたが、これはたしかに事実であるように思えたのである。」

※水掛け論にしかならないが。

P124「余計な机上の学問より、職業に必要な技術を錬磨し、その道にかけての熟練者となることの方がよほど重要で、価値があるということをドイツの民衆のひとりびとりが知っているのではないか、そうとしか考えられない事例に私はいくたびも出会ったからである。……教養という名のアクセサリーを求める急な日本人とくらべ、無知無学に甘んじながらなお己の職業に誇りを喪わないドイツの民衆の力強さ、素朴さ、着実さを私はむしろ讃嘆の眼をもって眺めたものだった。」

P125-126「すべての人間が高等教育を受ける必要などもともとない筈である。人間にはもって生れた能力の差がある。資質の違いがある。社会にはそれぞれの役割が必要である。もし不平等を前提として認めた安定社会であれば、日本のように平等意識だけが異常に、病的に発達することはないだろう。」

P126-127「ドイツの教育システムがいかに実社会の必要に応じて形成され、現実の条件変化に伴って段階的に訂正を加えられてきたものかが判るし、明治の開国期に、出来合いの方程式を上からかぶせて作り上げた単線型の、縦割り一本形式の教育制度との相違が明らかになろう。」

※この認識は誤り。戦前は明確な複線型であるし、それは実態に見合った形で形成された側面がある。平等意識の議論は、少なくとも戦前・戦後の二段階で考える必要がある。

 

P128「彼女らは余計な教養をつむ必要などなく、組織の歯車に徹すればよいという考え方は非人間的であるかもしれない。ナチズムを醸成した地盤はここにあると非難する人もいるかもしれない。しかし、労働力の不足を少人数でまかなっているドイツ産業の能率の良さもここにあるし、なににもましてその根柢にある考え方、エリートと大衆とを区別する複線型のヨーロッパの教育制度は、国民の最高の頭脳を可能なかぎり高度に成長させ、そこで得られた理論の結晶に大衆が従順に従う以外に、競争に打ち勝つ道はないというヨーロッパの長い歴史が教えた本能に根差すものと見るべきだろう。

明治の初期と戦後に、二度にわたって日本に輸入された教育制度の主なる手本は、大衆にひろく門戸を開く単線型のアメリカの教育制度であった。従って教育の「近代化」とは、つねに全国民に同質教育をひろげていく教育の「平均化」を急速に助長し、戦後の改革は一層それを拡大した感がある。戦前も戦後も、それが日本の富国政策に合致したため根本的に疑う人はいないらしいが、同時にそれが、一国の文化の多様性を磨滅し、文化の画一化・平均化という近代悪にわが国がヨーロッパよりもはるかに深刻に見舞われている要因となっていることからも目をそむけている。」

※上に同じく誤り。明治期の教育制度は初めフランス、次いでプロイセンの潮流にあるものであるという確たる定説がある。

 

P133「文化の多様性の喪失と均一化、自己充足する幸福を失った欲求不満の不合理と爆発、物質的欲望と精神的安定の不調和――そうした近代悪はむしろヨーロッパをも蝕みはじめてはいるが、教育制度ひとつを例にしても容易に過去を改変しない拘束力がその毒を中和し、治癒しているのに反し、日本やアメリカでは、近代の毒は露き出しの膿のように吹き出している。

戦後の日本で大学という名称がふえたと同時に、抑圧されていた大衆の復讐心が名を求めて堰を切ったように溢れ出したのも、「大衆の叛逆」にふさわしい近代悪の一例であろう。」

※ここに「なぜアメリカが比較対象でないのか」の明確な答えがあるし、戦前に対する偏見の理由の一端も見いだせる。ただ、日米を統一した所で、「個人主義」に対する見方が説明できるようにも思えない。

P133-134「日本人にとって「平等」という近代理念は借り物であっただけに、すべて政治的に崇拝され、他方に不平等という現実があるだけに、裏返された権力欲は歪んだ欲情をもって自分より下位のものを見下し、同時に上位のものには不必要に卑屈になり、上位の権威をいっそう病的に高めていく。」

※これは人種差別問題を考えれば欧米も何一つ変わらない。

P134「なるほど科学技術に関してはもうヨーロッパから学ぶことはないかもしれない。しかし、自己をもってしか自己を測らぬというその自己中心的な態度の徹底こそ、われわれが学ばなければならぬヨーロッパの精神の型なのである。」

 

P139「成程、日本もまた、他文明を意識することから出発し、そのとき、自己完結的な調和文化を放棄したのだった。」

P140「ヨーロッパでは、はじめ単なる恐怖感や競争意識から危機が自覚されたのではない。最初は他文明との比較なしに、自己の内部に、鋭敏な知性によって意識化された危機が、時代とともに表面化したに過ぎない。内的な自発性がある以上、ある程度の準備がそのつど危機をやわらげ、急激な自己変革は避けられ、改革の分量も少なくてすむ。生活様式や社会制度にみられるヨーロッパ文化の保守と革新の調和はそうした背景の上に成り立ってきた。」

P142-143「「西洋」はすでにわれわれの内部に存在するから(※ヨーロッパ・コンプレックスからの解放を誇らしげに語る人は誤り)である。「西洋化」はわれわれの精神の深部をすでに侵蝕し、変質させている。日本語が変質している。もはや純粋に日本的なものなどはどこにもないのである。われわれは自己を西洋と同一視することも、日本と同一視することも出来ないような位置にある。時間的にも、空間的にも、日本および日本人が「西洋化」される筈もないのに、それは明らかに進行であり、過程であり、事実である。」

※で、どうするのか?

P143「われわれの「内なる西洋」を、われわれは客観化できず、従って外なる西洋をも、厳密に対象化することは出来ない。言いかえれば、ヨーロッパとの優劣を比較し、どちらが先を歩いているかというような進歩の尺度で西洋と日本をひとしく目の前に並べて判定を下そうという姿勢そのものが、すでに西洋的な認識形式なのであり、われわれが「西洋化」されなければ起り得なかったことなのである。しかもその「西洋化」はなお進行であり、過程であって、完成ではないとすれば、比較そのものがおよそ意味をなさないと言うべきだろう。」

※ここで西尾の語るヨーロッパは蚊帳の外のものとされる。

P143-144「昭和三十八年にライシャワー前駐日アメリカ大使が「西洋化」と「近代化」とは別であるというテーゼを打ち出し、広範囲の波紋をよんだ事件は、この意味で、私には非常に興味深いものがある。

なぜなら高度に「近代化」したアメリカもまた、日本とは違った意味ではあるが、「西洋化」なし得なかった国だからである。あるいは、もはや、「西洋化」は必ずしも必要ではない、という自信が自分の側にあり、その上、すでに「近代化」した日本人を勇気づけ、日本両国の反ヨーロッパ共同作戦の継続をうながしているのかもしれない、と私は読んだからである。」

 

P180「従来、日本人がヨーロッパの一面しか見ていなかったとわたしは言いたいだけではない。長い歴史を背景にもつ西洋の背理世界に目を向けず、「近代」という表裏だけを西洋のすべてだと誤認して、その結果、東京にはネオンの彩光が氾濫し、蝋燭のほの暗さを楽しんでいるのは今ではヨーロッパ人の方であるという妙な具合になってしまったのである。」

P183-184「日本人特有の自然主義的な生き方唯美主義やけがれを嫌う潔癖感は、もともと閉鎖的な、自己完結的な価値観でしかない以上、明治以来怒涛のように流れこんできた異質の文明にふところを開いてからというもの、しだいにそれに押し切られ、片隅に押しやられ、そこに日本人一流の無常観がはたらけば、亡びゆくものを死守しようとする頑なさもなく、われわれは今や近代的なものも日本的なものも入り混ったきわめてだらしない形式の混在に耐えて、生活様式の調和と安定と統一とを奪われたままに、その日その日をやり過ごしているのである。」

P184-185「それというのも、思想は、それを操るものの主観的な欲望を満たすための道具と化し、論争といえば、思想と思想との対立ではなく、思想の化粧をほどこした二つの現実の頑な対立に終るしかなかったからである。こうして現実の困難は、なにひとつ解決されず、客観的正義の名の下に、主観的欲望が主張されるというような酷悪なことが行われ勝ちであった。

思想がかように集団的欲望の道具と化するのは、逆説的に聞こえるかもしれないが、思想は道具でしかないという自覚が欠けているからではないか。たいがいの論争や批評が思想の名に価しないのは、フィクションとして思想を語ることによってしか、思想は現実を動かし得ないという逆説に突き当っていないからではないか。思想や観念にはもともとなんの実体もないのである。それは現実の前でたえず試され、裏切られ、復讐を受けているなにものかでなければならぬ。

ヨーロッパの思想家はつねに思想と現実とのこの二重性に耐えることを強いられてきたとも言えるだろう。」

※これも一つのエゴイズムなのでは?これはヨーロッパの人びとの態度として西尾が見ていたものとどう違うのか??また、これは「知識人」の比較をしているのか、「一般人」の比較をしているのか?差し当たりここでは限定しているものの、p187で一般化している。

 

P187「自分の頭上に絶対者を据えて、その上で相対世界を実利的に生きるというヨーロッパ人の二元論的生き方は、理想と現実との使い分けを可能にしてきた。キリスト教の神が死んだと言われ、民衆の信仰が稀薄になったとしても、生き方としての西洋人の伝統はそう早急に消え去るものではないだろう。彼らがわれわれ日本人より遥かに実行力に富み、現実主義的で、打算にさとく、国際政治の駆引きなどで実用に耐えぬ空論を嫌う反面、宗教上の観念や政治イデオロギーや民族神話に踊らされて血で血を洗う途方もない妄想にとり憑かれたりするのも、彼らの生き方の内側からみれば首尾一貫しているといえよう。

※このような話は西尾の訪欧エピソードからは語られていないのでは。そしてこの主張は「タテマエとホンネ」に代表する日本人論を明確に否定しているように思える。また、「アイロニカルな没入」に関しても、むしろ欧米人にふさわしいものとなる。

P187「日本人は明日にも利益を生むものにしか金を出さぬというが、それひど実利的であるかと思うと、それほど実利的であるかと思うと、大量の学生大衆に職業訓練もほどこかずに、経済効率の低い教育に平気で耐えている。つまり日本人には桁外れの夢をはらんだ理想もなければ、計算ずくの現実感覚もない。すべてがだらしなく、相対的で、理想と現実との振幅を大きく使い分ける欧米人特有のダイナミズムに欠けているのである。」

※なお、「いっさいの二元論的対立をはらんでいない日本人の思惟形式」と言うように(p188)、この欧米人の見方は二元論的な結果と見ている節がある。

 

P190「考えてみれば、西洋近代はそれ自体が一個の仮説であり、フィクションであったかもしれない。理性への信念、個性の尊重、進歩への信仰、人間にある程度の自由を任せて置けば、世界は自動的に進歩し、発展していくに違いないというあの自然調和への楽天的信仰。だが、そんなものが一体何であったか? それらの確信は一体どこへ行ってしまったのか? 理性の独立を過信することは、むしろ弱さの表明であり、「価値」のすりかえではなかったか?

言うまでもなく、人間は「自己」を超えたなにものかに統制されないかぎり、自らの力だけでは、「自己」をよりよく統制することさえも出来ないからである。」

※「自由主義個人主義も科学もマルキシズムも近代ヒューマニズムも、すべてこの暗黒と恐怖を蔽いつつむ欺瞞のヴェールである。」(p190)

P190「だが、日本が接したヨーロッパ近代は、すでに絶対的な「価値」が崩壊し、相対概念が「価値」にすりかえられている時代ではなかったか。」

※土居の前提に近い。

 

P196「それは端的に、ヨーロッパを克服していない証拠なのである。なぜならヨーロッパ人はなによりもまず自己を以てしか他を測らぬという頑迷な態度において徹底しているからである。われわれは技術文明を輸入したが、ヨーロッパからこうした自己中心的な沈着な精神態度はいささかも輸入していないらしい。」

※これが人種問題由来のものだとすれば、その輸入にも限界があることが明らか。

P196-197「というより、極論すれば、われわれにとっては「西洋」というようなものさえ存在しなかったと言ってもいいのだ。西洋のために西洋を理解するのではなく、ただわれわれのために、われわれの文化のために、西洋を理解しようとする目的意識から解放されたことがあっただろうか?……

ヨーロッパ人にとっては、今も昔も「日本」などはあってもなくても良い存在でしかない以上、両者の関係は徹底した無関係である。この根本の原理にくりかえし立ち帰ることがわれわれの孤独の確認のために必要なのである。

が、それでいて同時に、無関係であるにも拘らず、「西洋」はすでにわれわれの現実を動かし、われわれ日本人の内部に宿っている。自分の内部にあり、自分を変質させてしまったものがどうして単純に無関係であり得よう。

動揺し易い日本人にいま必要なことは救いを拒絶して立ち止ることである。」

※日本である必要はないにせよ、東洋という参照点は西洋にとって求められていたものであり、事情は同じであるがそう解釈していない。

P203「かかる相対的なものをとかく普遍化して考えたがるのはもともと西洋的な認識形式なのである。その普遍化・法制化への意思が近代のテクノロジーの文明を生んだ西洋的合理主義と基盤を一つにしているものであることはとくに強調されねばならない。」

 

☆P208「ヨーロッパの文明論がなぜ翻訳されて、日本人にも読むに耐え得るのか、そこには自己への懐疑、批判、苦悩があるからであり、文明論をかくそもそもの動機が自己讃美のためではなく、困難を克服するために必要に発しているからである。」

※西洋を賛美する態度、だけで理由としては足りるのでは?この説明は無理がある。

P209「ヨーロッパが進歩の理念を信じなくなったのは一九一八年以降である。それ以来ヨーロッパは黙然と孤独に耐えているのだともいえるかもしれない。」

P210「日本人の長所も(※海外滞在により)解ってくる。日本人は気は弱いが、礼儀正しい国民である。思いやりや心づかいは日本人特有の美点をなしている。ただ、その礼儀の在り方が違うだけで、生活上の様式や意識が異なっているために、簡単に「進歩」の基準で比較することなど出来ないものが沢山あることが解ってくる。」

P211「もともと西欧世界に恐怖をかんじて鎖国を解き、国を開いた日本人が、百年やそこいらで自立心をもてないのも当然かもしれない。しかしせめて、少なくとも、そういう自分のこころの動揺だけは自覚していなければなるまい。」

※このことの有無は何をもって判断するのか。この部分周辺では梅棹が参照されているが。

☆P211「「無関係」であることを強調するだけでは、それもまた一種の絶対主義に陥ることになろう。ヨーロッパ的なものを拒絶して、純粋に日本的なものを守ろうとする立場は、やはり一種の抽象論である。……

これもひとつの危険である。なぜなら、日本的なもの、アジア的なものをことさら意識することは、「西洋化」の結果なのであり、したがって事実として存在する「西洋化」を意識的に排除しても排除しきれるものではないし、むしろ西洋は裏口からしのびこんで、復讐を企てるようなことになる。」

※だからこそ西洋は「耐える」態度を取るものとし、それを評価するわけだが…西尾の態度に対する評価の方(西洋人はさておき、西尾自身の日本人論批判も西洋化された結果なのではないのか、という問い)はきわめて曖昧になってくる。

 

P215-216「文化の異質性の強調は必ず文化の等価値の立場を強めることになる。すると、文化に関する価値観がしだいに稀薄になってくる。価値観が相対化されれば、現在の日本文化の現状肯定というところへあと一歩しかない。だから、近頃、文化人類学者が座談会などで、しきりに日本文化を見直す式の発言をしているのが目立つ。……だが、これでは困るのである。われわれは価値観なしで生きることはできない。だが、価値観は現状肯定的なものであってはならないのである。」

※何故困るのか。そして、このような態度をとることこそ、自己否定の論理に直結しかねない。

P218「現在において純粋とは一片のエゴイズムでしかない。善かれ悪しかれ、われわれは自己を制御するなにものかを信じない限り、「自己」そのものを成り立たせることさえも出来ないであろう。われわれは「個人」という概念を過信してはならない。「個人」などというものはなんの力もない。無言のうちに、「個人」の背後から支えているなにものかを信じない限り、われわれは西洋に接しても、西洋を生産的に獲得することは出来ないであろう。」

※これはある意味で正しい。

P218-219「私は本書を通じ、なにひとつ解答を与えることは出来なかった。ただ問題の所在がどこにあり、われわれがそれにどう対すべきかという姿勢を意識してきたにすぎない。」

※これ以上議論を進めようがあるのかどうか?以上、「ヨーロッパ像の転換」1969年から。

 

P236「だが、いまの日本では、不自由と不平等が人間を抑圧しているという事実よりも、そう思いこんでいる心理から起こる障害のほうがはるかに大きいのである。

地球上のどこを捜しても、いまの日本人ほど個人の権利のみが多く主張され、義務や責任が要求されることの少ない国民はそうあるものではない。この解放状態は空前のものである。……相対的な「善」に満足することができず、つねに絶対的な「善」を求める。そういう心理的傾向がしだいに激しさの度を加えているように思える。」

※これは前著によってはほとんど立証された議論ではないし、アメリカと比べてもそうであるとはとても思えない。また、ここでいう「相対的な善」とは誰にとっての議論かを問うた場合、「(社会の)一般人」という漠然とした前提であることも問題。

P240「だが、じっさいの子供の世界は、現実世界の縮図である。スポーツやけんかの能力が子供の世界に序列をつけている掟である。これはいまも昔も変わらない。大人の世界よりもっと原始的な弱肉強食の法則が支配している。こういう子供の世界に対して、生まれつきの頭脳の差、体力の差、才能の差をことごこく抹殺したきれいごとじょことばを並べたところで何の意味があるのだろう。賢い子供ならそういう大人の甘やかしに虚偽を感じるだろう。だが、それほど賢くない子供は、学校社会という温室がそのまま現実の社会だと思いこんで、いかなる保護の手も差しのべられない現実社会に出たとき、困難を独りで切り抜けていく忍耐力をもうもってはいないのである。そういう教育は洋裁店をやめてくにへ帰ってしまうような子供をふやすだけである。

運動会に商品を出さないとか、優等制度をやめるとか、先生と生徒とは人格的に対等であるから友達のように接するべきだとか、受験競争は子供の精神を歪める社会悪であるとか、こうした一連の戦後教育家の、子供に被害妄想を与えまいと、まるではれものにさわるような気の遣い方は、それ自体、教師の被害妄想のあらわれでしかない。その結果、先生は自信を失い、子供は気力を失う。なんの得るところもない。」

※学校で「上から与えられた抽象的な徳目」(p240)の弊害とみている。

 

P242「多数の日本人の頭脳に宿っているような抽象民主主義などは世界中のどこにもないのである。日本人は自分の生活様式に合わせて、民主主義らしきものを創っていけばそれでよいのであって、海のかなたに「完成品」を求めて、徒らに日本社会の封建制、前近代性を非難しつづけてきた結果、いま気がついてみると、われわれは途方もない抽象文化のただなかに置かれているように思える。」

※とても多数の日本人に妥当する議論とは思えない。

P244「だが、なぜ人々が、空想的なユートピア思想に魅了されるのか、これは世界的現象ではあるが、むろんヨーロッパより日本のほうがそのていどはひどい。いうまでもなく、ヨーロッパでは歴史の拘束力がまだ生きていて、実体のない、空想的な「善」を求める進歩への信仰を受けつげないなにものかが市民生活のなにかにまだ残っているからである。」

※この残存について、どう考えればよいのかこそ、最大の問題である。これはいかに対処すべき問題なのか?そして、ここで西尾は明らかにこれを制度の問題ではなく、観念の問題と断じているが、本当に正しいと言えるのか?国民性の議論を相対的な議論として語るのはここが初。

P244「戦前までは日本でも職人気質というものが尊重されてきた。しかし戦後、畳屋や植木屋になればサラリーマンより一歩下がったというような被害者じみた暗さが発生し、しだいに職人のなり手が少なくなってきているといわれる。そういう傾向が戦後いっそう助長されたのは、民主主義観念の普及のせいだということに案外人々は気がついていない。

おそらく最大の原因は、「平等」という思想が西洋からの借り物であるだけに、背景の実社会と釣り合いがとれず、国民の頭脳のなかでまるで信仰のように絶対化し、純粋培養されているせいだろう。人間はけっして平等になれない存在なのである。西洋ではそれは常識である。」

※前著ではなかった戦前・戦後の区分。

 

P245「教官と学生という職能上の区別さえ意識されなくなる日本のこの粗暴事には、じつにさまざまな原因が考えられるだろうが、いわゆる民主主義という名のもとに、先生と生徒との対等ということばかりが強調され、すでに小学校のとき以来、先生が権威を失い、生徒に「教える」のではなく、生徒と「共に学ぶ」のが正しい教育方針だと考えるような、生徒を甘やかす一方の誤った平等教育の行なわれてきた一つの結果であるといえるかもしれない。

少なくとも、年長者に対することばづかいの混乱は近頃の特徴であり、それは社会の秩序のある崩壊を予感させるものがある。」

学生運動に対するこのような見方は西尾の価値判断にも影響があると思える。むしろ西尾が批判する理念だけの議論での批判が学生運動にあったとみられているはずだが。また、教育のあり方についても、遠山についていえば、「共に学ぶ」思想は学生運動以後の主流議論である。全生研についても同じ。

 

P249「「平等」の観念や「民主主義」が空想のなかで神格化される傾向なども、日本ほどひどくはないが、ドイツの知識階級のなかにもたしかに認められる。つまり、日本やドイツでは、革新や改良が安易に正義になりやすい心理的地盤をそなえているといえるかもしれない。……

ただ、ドイツでは日本と違って、民衆の「知識人化」という現象はまだ起こっていない。日本において、いちばん奇怪で深刻なのは、こういう現象が津々浦々にひろがりはじめていることである。洋裁店の縫い子見習いがたった一人でストライキを起こすというようなこと、あるいはごく普通の職業人や主婦が「平和」とか「ピューリタリズム」ということばを聞くや、あるパターンの決まった反応を示し、目を据えて熱っぽく既成語をしゃべりはじめるというような例は、いずれはヨーロッパにも起こるかもしれないが、私の滞独中に、まだ、そういう心理状態を目にし、耳にしたことはないのである。」

※このドイツの傾向は「ほかの欧米諸国に比べ、いちじるしく機能主義、便利主義が進んでいる」と示される。後半の話は私も日本で出くわしたことがないが…

 

P256「が、ヨーロッパで暮らしていてはっきりわかることは、ヨーロッパ人はただの一度も日本に対する恐怖や競争意識にさし迫られたことはないのであって、日本の「西洋化」という歴然たる事実はあっても、西洋の「日本化」という事態はいっこうに起こらない以上、日本人が劣等感を感じようが、優越感を感じようが、それはすべて日本人の独り相撲でしかないことである。」

※劣等であるとみなしているものに影響を受ける発想が基本的にない、と言っているのと同じ。問題は、これを日本自らの影響のみの結果とみるかどうかである。「だが、しきりに自分で自分をほめたくて、日本人みずから日本の文明をたえずどこかと比較して、どこを追い抜き、いまはどの辺にあり、したがってどこと対等になったとかならぬとか、そういうことをくりかえすこと自体がつまらぬ劣等感情の表現でしかないことに気がつかないことのほうがよほどどうかしている。」(p256)そして、「ヨーロッパ人は、なによりもまず自分の価値観をもってしてほかを測らぬという自信に満ちた態度において徹底しているから」とする(p257)

P257「外国との比較をもってしか自国を測れないのは、ある意味では、近代日本の歴史の宿命ではあるが、だからといってそれがいいということではけっしてない。むしろそれはやむをえぬ必要悪であることをいつもはっきり自覚していなくてはならないのである。」

※「基準が必要なら自分自身の過去と比べる以外にない」ともいう(p257)。この態度は西尾の態度の取り方からすれば、観測不可能なものなのでは?

 

P277「二年間の私の滞欧経験だけでは、どうもはっきりしたことはわからないが、以上の例からもわかるとおり、ヨーロッパ人の生活は「社会」というものを前提において、家族生活も外向きに仕組まれているように私には思われるのである。「社会」というものが人間の生き方につねにある様式を強いているのである。したがって、誰しもその様式に則って生きる必要から、「個人」の自覚も芽生えてくるのであろう。家族という保護組織はそれだけ相対的に微弱なのである。

日本では内密な、私的な、微温的な家族関係がもっとも実質のあるものとされ、むしろその湿った、ある意味では動物的な人間感情が臆面もなく社会生活に拡大されるところに、近代的な生活様式の上で混乱が発生することは確かである。こういうことは多くの識者に、これまでもくりかえし指摘されてきたことだが、どうしてもわれわれがその混乱から脱却できないのは、家族同士のように、いつも人間関係が暖かく包まれていたいと欲するのが、日本人本来の「長所」でもあるからに違いない。」

※「親が必要以上に神経を使いすぎ、また子供はそれに慣れて、すっかり甘えているという状況からくる、あの一種独特な、日本的家族にのみ特有の、互いに寄り添った、悪く言えば、やりきれない雰囲気が感じられたのである。」(p275-276)といった発言に関連していると思われる。

 

P280「なるほど、対人関係において、こころの深いところで、相手が自分に背くかもしれぬという観念を深めていない日本の社会では、およそ人間関係を「契約」としてとらえるという思想もけっして徹底しない。相手が自分に背くという可能性への警戒は、自分がまた相手に背くかもしれぬという自分の悪の自覚を前提とする。だからヨーロッパでは、人間は「神」とさえ契約を結ぶのである。そういう意識の訓練のないところでは、「西洋化」は必ずしも合理的には作用しない。

しかし、それにもかかわらず、こんにちの複雑な機構を調節するためには、西洋から輸入した社会調節のためのさまざまな方程式をいきなりかなぐり捨ててしまうことはいまさらできないのである。われわれが途方もない混乱のなかに立たされていることは、だから明瞭である。」

アノミー論的理解もある。

P285-286「ヨーロッパでは、十年前の書物はたいていいまでも版元に在庫しているのに、日本では、一昨年出版された本が今年はすでに絶版であったり、ある人が一年前にした政治発言がたちまち現実性を失っても誰もその論理的矛盾を難じたり、責任を問うたりせずに、その同じ人が、しゃあしゃあと新しい現実に合わせた新しい別の発言をしている。ことごとく、話題が本質に先行する。情緒が論理に先行する。つまり変化の激しさそのものが日本的条件を暴露しているのである。」

※何一つ基準がない。これではミイラ取りがミイラになるのも不可避。

 

P288「われわれはだから、最大限の想像力を発揮して、あるときは日本人以外のものの目で日本を見、また別のときに純粋に日本人として日本を見ることが必要となろう。そしてそういうくりかえしの操作自体がきわめて観念的だということを、いつも、はっきり自覚していることがもっと必要なことだろう。」

※このような主張をするのは一向にかまわないが、批判自体に根拠がない以上、この主張が「どうすれば実現するのか」についても明言不可能となり、主張そのものが意味を持っていないことになる。何故なら、その基準が「主観」の域を出ることが全くできていないからである。なにもかも主観の恣意的判断で、事実を悉く捻じ曲げることも可能であり、「そうでない」というための根拠に欠けるのである。

P294「いったい人間と人間との関わり方が、ここでは本質的に、ある冷たい相互不信を前提として成り立っているのではないだろうか? だからまた一方では、エゴイズムを相互に調節するために、一定の様式や秩序感覚が、日本などよりはるかに厳しく要請されているともいえるだろう。そういう関係はべつに意識的なものなのではなく、長い歴史が培った一種の慣習と化し、個々人の行動を規制するあるパターンをなしているのではないだろうか?」

 

P301「紛争がどのような種類のものであれ、日本におけるさまざまな社会事件がきまってこのようなだらしないパターンをくりかえす例は十数年間見つづけている。私はなにも最近の大学紛争のことだけを念頭に置いていっているのではない。大学紛争の場合には、学生・教官いずれも問わず、当事者が大学の外にある一般社会に対して想像力や責任感をまったく欠いていると同様に、日本の国論を二分するような外交上の論争から発した国内暴動の場合には、当事者である日本国民全部が国際社会に対する影響への見通しや日本の将来への想像力を完全に見失ってしまうのである。」

※何故か明言しないが、安保闘争の話も指しているのだろう。他に例として小さな紛争の際にはその味方に立つが、それが暴動の色彩を帯びると慌てて紛争を鎮めようとする新聞ジャーナリズムを挙げる(p300)。少なくとも西尾は日本的節操のなさを、この議論にはっきり結び付けている。

P301「彼ら(※欧米人)の場合には破壊にもルールがあり、計算があり、戦争をさえ一種の取引の材料に使う実利的感覚を身につけている。欧米人は革命の理論をあみ出した人種である。それを実行し、弾圧され、ふたたび反乱を企て、等々、そういうことをくりかえしたきた人種である。彼らの秩序感覚は、したがって彼らなりの論理で首尾一貫しているものがあるといえよう。

日本人はこれに反し、秩序を守ることにも不熱心で、曖昧な民族だとすれば、秩序を破ることにも甘い、不徹底な性格をそなえているといえるだろう。」

※石原的な見方。

 

P302「前にも述べたとおり、ヨーロッパの家庭では、子供はつねに外の社会へひらかれた教育をしつけられているのは、社会の秩序がそれを要求しているからであるともいえよう。つまり外側からの強圧的な要求がないということが、日本人にこの一種のだらしなさと、主情的仲間意識ですべてを片づける悪循環を生んだのかもしれない。」

P303読売新聞、手塚富雄のコラムからの引用…「何か建設的なことが議題にのぼっている集団的討論の場で、少数の者が意欲的に反対を連呼すると、たいがいはそれがリードしてくる。建設的なことが成立しないのである。もっともこれは実質的な討論が可能であるような少人数の話し合いの場合はダメで、理性的な立場が出ても、それがみなの耳にはいらないように、会場をガヤガヤとさせてしまうことができるほどの集合の形をとっていることが必要なのである。つまり多数という民主的名目をもつ場が、もっとも少数の意欲者にとって都合のいい土俵なのである。大学生が声高に団交を要求するときこのねらいをもつ者がかならずまじっている。学者たちのある非公開の討論の場所でも、これに似た例のあることはわたしは知っている。」

※68年8月7日のもの。ただ、これは前述の合理的感覚にあたるのではという疑問もある。

 

P304「保守党の代議士にも、左翼の学生運動家にも、そしてまた学術会議会員にも、およそ共通点がないように見えるこうした三つのグループに、しかも日本人全体のなかでもっとも「近代的」と自他ともに任じているはずのこれら指導階級に、まるで近代的な訓練ができていないという指摘は鋭く、的確に矛盾を突いた現代日本の頽廃に縮図である。」

P304「だが、わずかでも妥協することは、たとえば政府に、もしくは権力側に利用されるという宣伝がたちまちのうちにひろがるや、先の先まで邪推し、恐怖して、結果的には、殻に閉じこもって一歩の進歩もありえない守旧的態度に終始するというのが、いつも変わらぬ日本的進歩の奇怪な姿である。」

※ここでは妥協しない日本を問題とするが、これも先述の新聞ジャーナリズムとはずれた見方である。「一口でいえば、それぞれのグループが社会内存在であるという自覚をまったく欠いていることに問題があるのである。」(p304)

P304「そして、こういう場合に、必ず見られる現象は、グループが自分の自主性を貫くためにはどうすれば効果的であるかという計算ではなく、周囲の別のグループと比較してみて、自分たちのグループだけが、いかに外見上、自主的に振舞っているように見えるかという見栄なのである。」

※見栄の問題も海外比較せねばならないのでは。

 

P305「日本人を支えているのは、和辻哲郎氏が述べたようないわゆる「間柄の倫理」である。人と人との情的な関係によって成立する道徳観は、見栄や、照れや、恥じらいというエモーショナルな消極的倫理をしか育てえなかった。」

P307「日本に「市民意識」が育たないのは、日本人にはそういう外枠への想像力や構想力が弱く、ために、自分が属している小集団の価値観を絶対化し、それを外の世界へ主観的に押しひろげていこうとするわがままや無理強いが幅をきかすことになるためだろう。」

P314「ヨーロッパにおいては、世俗道徳はつねに絶対化を免れている。ヨーロッパ人の日常生活に健全な「社会性」があるのは、なにもキリスト教の信仰そのものによるのではない。キリスト教教会と、一般の世俗社会との間の、この並行的な力関係に負っているところが大きいのである。だから信仰が稀薄になっても、世俗道徳はおとろえない。いたるところ相対的な近代理念がはびこっても、それが単純に絶対化されたりはしない。世俗社会の一元化は免れる。単なる仲間意識が道徳になることもない。」

P318「ヨーロッパにおいて、「解放」という概念は、一つの共同体から解放され、他の共同体のなかへ拘束されていくという以上の意味をもってはいなかった。ヘーゲルが法の哲学において、「家族」という共同体は「市民社会」において、さらに「市民社会」において、それぞれ弁証法的に止揚されると述べたとおり、ヨーロッパ人の共同体意識は個人、家族、都市、国家、そして現代では西ヨーロッパ共同体へと次々と段階をふんで開放的に拡大してきたのに反し、日本人の場合は、よくよく「家」単位、「会社」単位、「仲間」単位の目にみえる小範囲の人間関係にしか他者への意識は及ばないのではないかというのが、私が前の章までに述べてきた疑問なのである。それだからまた、単なる個人的なエゴイズムが、中間のいっさいの枠をとびこえて、世界国家とか人類福祉とかいう、自己とは真剣に関わりようのない抽象的題目と容易に結びついて、恥じることがないのである。」

止揚の思想を都合よく解釈しすぎでは。それとも、止揚の考え方が日本と欧米で本当に違うものと解釈されていると言えるのか?

 

P320「共同体意識は共同体への愛ではない。むしろ危機感に発する個人の自己保存本能である。国家意識は国家愛である必要はない。世界が国家単位で運営されている事実への個人の合理的な適応能力である。」

☆P320-321「ヨーロッパ共同体は、必ずしも、近代国家の概念の止揚でも、廃止でもない。必要やむをえぬ協力体制でしかない。それどころか、ヨーロッパがある強力な統一体として均質化し、画一化しないことがむしろヨーロッパ文化の多様性をささえる刺激剤をなし、対立抗争は場合によっては健全の証しであるとさえいえるかもしれない。

以上述べているようなことは平明な常識にすぎない。国際政治学上の理屈など知らない私はただ常識で考えるが、日本では、こんな当たり前のことがどうしても通じないのである。」

※これをどこまで常識と呼ぶのが真理なのかに、ほとんど西尾の評価が集中される。

P321-322「そしてそれこそ目を外へひらいて、国家的エゴイズムが現にせめぎあう世界の修羅場を正視することが必要だろう。

じつはそうすることによってしか、「国家」という偏狭な枠を超えて、広い世界の場へ出て、国際的な思考に耐えることも可能にはならないにである。できるかぎり国家間の憎悪をとりのぞき、緊張をやわらげ、国際社会の協力体制へ開かれた役割を演ずるというわれわれの目的は、現にみられる国家同士の休みない打算と悪意の正確な認識を前提とする。

だが、そういうあり方を、理想を失った現実主義としてさげすむ勢力が日本になお根づよいのは、いまだに日本の知識人の意識が前近代的で、西洋的な意味での個人主義が身についていない証拠である。」

前近代的という意味がわからないが。単に近代を身につけていない途上にあるだけでは?

 

P323「だから個人であることは、いかなる全体への顧慮ももたずにすむ状態だと、われわれは信じがちである。一方、全体であることは、個人が完全に全体に吸収されてしまうことだと、われわれは考えがちである。一方、全体であることは、個人が完全に全体に吸収されてしまうことだと、われわれは考えがちである。そのどちらかにしか意識が働かないのである。

ヨーロッパにみられる個人と全体との契約的な関係が成立するためには、国内に多民族が混在し、絶えず内側からゆさぶりをかけているとともに、国外にも異集団が境を接していて、やはり外側から安全をおびやしてくるという条件が必要なのであるかもしれない。ヨーロッパ全土が容易に単一化せず、いくつもの契約国家を必要とした。「個人」という意識がおのずと発生する所以である。」

※この環境要因は日本に無理に求められるものなのか?

P327「そして、この場合、ヨーロッパ人が理念として求めるこの国家概念の止揚は、けっして単純に未来主義的なものではないことが、特に強調されなければならない。」

P335「個人の行動様式がつねに「社会」という場に開かれているヨーロッパ人の生き方については、すでに前の章でも詳説したが、都市の作り方一つを例にみるだけでもそれは明瞭にわかるのである。」

※これは社会構造の話であり、個人の心性を説明するものではない。

 

P340-341「そう考えると、日本の孤独はほとんど確定的である。

われわれは何百年にもわたる外国との交渉や闘争のプロセスのなかで、ナショナルな感情を育ててきたわけではない。ナショナリズムなど日本にありえようはずもない。だからまた、合理的なインターナショナリズムへの参加にもたえず抵抗が起こり、不合理な反発がみられ、外界への適応不全がいちじるしい障害をなしているのである。

われわれはほんとうに連帯してよい外国などはもっていないからである。日本はさまざまな外国から影響を受け、どの外国にも影響を与えたことはない。日本人ほど、世界中のあらゆることがらをよく理解しながら、世界から理解されていない国民も珍しいのである。ということは、われわれの理解は、われわれの主観的解釈にすぎず、ほんとうの外国は、みえていないということになるのかもしれない。」

※人種差別の産物なだけでは。そして最後の一文は西尾には適応外なのかどうか。

P343「第一に、都市の没個性である。近代化以来、地方文化は急速に衰退し、どの町も個性を失っていく一方である。多少とも活動的な地方都市であれば、街並みはたいてい東京の小型模型である。日本風の家屋のあいだに、不揃いな小型ビルを林立させる不統一は、都市単位の社会性を発揮したことのない日本人の共同体意識のあり方に関わりがあろう。」

P348「日本において、論争や批評が、多くの場合において思想になりえないのは、思想を操る主体の側に、馴れ合い、妥協、自己回避、あるいは仲間うちへのウインク、ことば以前の集団思考スクラムを組んだ論理以前の態度がみられるからである。だから、論争といえば、思想と思想との対立ではなく、思想の衣裳を纏った二つの現実の頑なな対立に終わるしかなかった。

日本の近代思想には、ことばの真の意味での論争性に欠けているからである。ために一つの思想の正しさが他の思想の過ちをただちに証明するような単一性をその性格にひそめている。」

※これは日本でいう止揚が真の意味で止揚ではない、という発想。ただ、ここでいう「現実」をどう解するかは難しい。以上、「ヨーロッパの個人主義」1969年。

 

P353「私はヨーロッパの「個人」というもののバックグラウンドを描くことでヨーロッパを相対化したつもりでいたが、いま読みかえしてみると、それでは不十分であった。日本には日本特有の「個人」のあり方があるはずで、それを追求し提示しなくては、ヨーロッパと日本の両方を公平に並列して位置づけたことにはならないであろう。」

※正しい。

P361「じっさいの生活では、日本人はバラバラの個のなかで、微妙な個人主義のもとに生きている。それだけに義理や人情といった一見群れたがるような集団主義的なことが、文化現象として強調される。」

P363「外国人が感じるこのような日本のよさは、もちろん技術力の高さも関係してくるだろうが、同時に日本人の審美感が強く影響しているのではないか。日本人の道徳は美意識である。いわゆる精神的道徳にはとどまらない。逆に、教訓や精神や原理からくる戒律が強い文明というのは、それだけ乱れている証拠なのである。」

P364「美徳ということばがあるが、やはり日本人にとって美意識がすなわち道徳なのではないだろうか。それが日本人の強さでもあるが、美政治的な批判力にはなりにくい。美を基本とする道徳は、どうしても戒律や原理を基本とする道徳よりは弱いのである。」

P366「理を尽くして説かないことに特徴があるこの国の美徳は、必然的にある種の弱さをもっているので、どうしても外に向かって自分を主張しなければならない。主張するべきではないことを主張するということは矛盾だが、それこそが宣長が模範を示したところのものである。」

※このような見方はそれだけで精神論的な改善要求を正当化する。以上、「個人主義とは何か」2007年。

 

P418-419「親が子供を教育するときに日本人との違いは歴然と現れている。日本人のように親は子供をそもそも大事にしない。親の子供に対する躾け方は厳しいし、子供の生き甲斐にして生きるというような教育ママ的母親は存在しない。いや大事にしないというのではなく、扱い方が違うと言った方がいい。つまり親は子供をある意味で冷淡に一個の社会人として突き放して育てていくので、やがて子が自分から離れていくことは当然の前提と考えられているのである。」

※1972-74頃の文章。

P566「そういえば日本の産業力の増大と貿易の勢いを恐れた八〇年代のアメリカが「日本封じ込め論」を展開したときに、集団主義的経営をアンフェアと非難したことはたしかに忘れもしない事実だった。だがあのときはドイツでも、というよりヨーロッパ全体で、日本は個人主義を欠いた異質な文化風土のゆえに不公正な競争をし、ひとり勝ちしていると非難されたものだった。アメリカもヨーロッパも対日批判では一致していた。」

※2010年の文章。

P588-589「それで西洋には宗教があるとかないとかよくいうけれども、日本は『菊と刀』にあるようなみえだとかそういうことで、日本人の精神は成り立っているんだといいますが、しかし私は西洋人でりっぱな人に会ったこともありますけれども、普通の平均の西洋人で日本人以上にみえを気にしない人を見たことがない。

西洋人のほうがある意味では虚栄心がもっと強い。日本人が特に『菊と刀』に書いてあるようなものじゃ決してないと思いますがね。」

竹山道雄の発言。1970年の対談から。

E.H.キンモンス、広田照幸ら訳「立身出世の社会史」(1981=1995)

 今回も「日本人論」として「社会問題」を扱った著書のレビューを行いたい。

 

 本書は、明治から昭和初期にかけてのエリート層の青年(高等学校進学者)向けの雑誌の言説分析を中心にして、「立身出世」の意味合いの変化について捉える中で、現在の「日本人論」に対する批判を行っている。

 その中で中心的なテーマの一つといえるのが「個人主義」的な思想の受容と形成である。その足掛かりとしてまずスマイルズやマーデンのような「国や集団の利益のため」といった動機付けではなく、個人の「立身出世」を説いた本が広く読まれていた事実に着目する(p12)。ただ、キンモンスはこの段階においては個人主義的なものを認めている訳ではない。明治初期のエリートにとっては一旦試験制度を乗り越えてしまえば若くしてリーダーになることを自動的に約束されていたため、個人主義的発想というのは意識化する必要のないものであった。

 

 しかし、主に2つの事情が明治後期になって日本的な個人主義的な思想を生みだす要因であったとキンモンスはみている。一つは「国や天皇への献身」の思想である。このことは明治初期にはほとんど議論の遡上に挙がらなかったが(p74)、それが強化されるのと並行しそれらが「古い社会とのつながりを断つことを正当化する」ものとなった(p298)。

 もう一つの理由として、明治後期に入り、そのエリートとされる者の対象が拡大したことを挙げている。この段階に入ると、より上の学校、そしてエリートとしての就職先で受け入れられるパイの数とのミスマッチが生じてくることになり、脱落者が可視化されてくる。このことへの重圧(実際に脱落することと、脱落するかもしれないという可能性の両方を意味していると思われるが)というものにぶつかった煩悶青年に、キンモンスは「個人主義」を見出している(p302)。これは、これまでのレビューで扱ってきた「個人主義=『世間』からの解放過程」という見方とマッチしたものでもある。

 

 だが、このような個人主義の思想は、日本には浸透しなかった。その原因としてキンモンスは早熟な日本の官僚制的資本主義を挙げる(p304)。ある意味でエリートが自由にその「立身出世」を行うことができていた時期は日本の場合、かなり限られた時期にしかなく、早い段階で「敷かれたレール」に沿った「立身」がなされるようになったことで、個人主義的な傾向の強かったスマイルズ風の品行主義が、他人のご機嫌をとる作法を身につけるのに専心する人柄主義にとって代わったのであった(p25,p294-295)。

 

 

○キンモンスの「日本人論批判」の評価について

 

 これまでのレビューとの関連で言えば、江藤淳も指摘していたような、日本でもありえた個人主義の系譜を捉えようとした所は本書の大きな価値であるといえる。また、丸山真男の日本のエリート層の戦争受容の指摘についても、実際はかなり功利的な受容をしており「受動的な抵抗」があったとは言い難いことや(p4,p310)、江戸時代からの封建主義が明治以降のエリート層に与えた直接的影響の否定(p294-295)といった日本人論批判は、ダニエル・フットが述べていたような文化的影響だけに着目した日本人論への批判とも関連しているといえる。

 

 ただ、他方で、本書が批判する日本人論はかなり部分的であり、ほとんど「日本人論」そのものを否定しているとは言い難い。一見、「近代化」論的に議論するキンモンスだが、それはあくまで伝統的な日本文化との関連性からしか結びついておらず、通常の近代化論者が否定するような「特殊日本的な事情」と呼べるレベルの日本人論はあまり否定できていない(cf.p304)。

 また、これに関連して「参照点」として、本書で見た官僚制的資本主義の議論を変える余地のあるものとしてとらえている節もあるが(p305)、これはある意味で不平等の強要でしかなく、民族性等における問題を相対的に抱えてはいなかったと思われる日本社会において、「エリート対象者の拡大」という現象を政策的な意味で防止できたものであったものとみなすことにはかなり疑問もある(少なくとも、別の検討が必要な問題である)。

 更に、これまでのレビューとの関係でいえば、本書における「社会問題」の把握の仕方にも注目しなければならないだろう。言説分析固有の問題とも言えるだろうが、「対象としたものに言説が存在しない=実態が存在しない」ことを真とみることには注意を払うべきである。本書では試験への重圧の議論(p131,p197-198)で、少々過大評価をしているような印象を受けてしまう。また、藤村操の自殺について(p190)は極めて社会問題的な観点をもっており、合わせて新聞をはじめとしたジャーナルの分野の発展といった観点も含めながらその位置づけを行っていく必要があるだろう。

 

 本書については「日本人論」の話もそうだが、因果関係についての捉え方が複雑となっており、一貫した内容の説明にあたり矛盾しているように見える部分もある。特にナショナリズムに対する物事の捉え方がすっきりしているとはいえず、それは「家族主義」を「共同体意識」とは別物として捉えること(p74,p75)や、タテマエ的に「国家主義」が語られること(p74,p128)は、本書で強調されるように明確なものなのか疑問に思われる所であった。70年代の「穎才雑誌」の分析結果はp79に示されており、量的傾向もここから確認されるが、「家に対する暗黙の関心があった」ことはとても読み取れないし、逆に単純に多数の者が「国家との利益」について関連づけて語っていないことが直ちに国家主義との関連の否定になるのかも読み取れないのである。本書は確かにかなり細かな実証研究として位置づけることができるだろうが、それでもなお「解釈」に依拠している部分がある印象も見受けられるのである。

 

 

<読書ノート>

 

P4「日本の中国侵略によってもたらされた好景気に対する学生たちの反応を伝える史料は、エリート知識人層は軍国主義ファシズムに「受動的に抵抗」した、と主張する丸山真男たちの見方とは異なる実相を示している。当時の就職に関するさまざまな記録を通覧していくとわかるのは、侵略に関与したり、侵略から利益を享受していた組織や企業への就職を、大学卒業生がいやがったという証拠がどこにもないということである。むしろ全く逆である。日本のアジア侵略に深く関与していた満鉄や、さまざまなシンクタンクは、当時のエリート学生にとって最も人気の高い就職先であった。

さらにもっと驚くべきことは、日本の軍国主義ファシズムの社会的基盤であると一般にいわれてきた旧中産階級が、概して日本の侵略行動から利益を得ていなかったということである。「満州国」における受益者は、もっぱら日産のような高度な技術水準をもった企業体に限られていた。」

P4-5「それゆえ、軍国主義が生み出したのは、小ブルジョアの歓迎する状況ではなく、大学教育を受けたテクノクラートに権力を与える状況であった。一般にこの時代を語る時には、「八紘一宇」や類似のスローガンが持ち出されやすいけれども、実際には、「統制」や「計画」といった語のほうが、キー・ワードとして、もっと流布していた。

さらにいえるのは、この時代の政策や制度は、ある意味では社会主義的な色彩のものであったということである。日本の研究者は往々にして、日本の軍事体制のこの社会主義的性格を無視してきた。私の研究から言えることは、社会主義ファシズムとを対置させる分類法は、特に日本の場合、あまり有効な枠組みではないということである。もっと有効な枠組みは、テクノクラートが権力を握って、国家目標のために規則や命令を出して市場経済を否定する体制と、資産家が主導して、自分も利益に向けて市場原則を利用しようとする体制との区分である。」

※これをどう見るか。

 

P6「もし日本の軍国主義ファシズムの興隆を「封建遺制」が日本よりももっと根強く残った英国社会が、なぜ軍国主義ファシズム国家にならなかったのかという問題に突き当たることになる。おそらくこの答えは、二〇世紀の日本には重大な意味を持つ「封建遺制」は存在しておらず、そうしたものは軍国主義ファシズムとは関係が無かったというのが正しいように私には思われる。

日本の「封建遺制」を他国と比較するという試みがうまくいかないのは、日本の学問が持つ欠陥に由来している。それは、イデオロギー的関心から構築した一面的な「日本」像を、理想化・偶像化した「欧米」像と対置するというやりかたで、日本の歴史や社会を批判するという方法がもつ欠陥である。」

※少なくとも、日本だけの責任とは言えない。

P12「問題があると思えたのは、たとえば、明治期の企業家は、個人の利益よりも集団にとっての利益よりも集団にとっての利益の方に動機づけられていた、という説明である。それは、次のような、ステレオタイプ化した考えと密接に関わっている。西洋では、あるいは少なくとも英米では、個々人の競争を中心とし、自分の利益の最大化だけに関心を払った出世や業績、という考えや著作の伝統があり、対照的に、日本では、調和や集団的努力や、集団に利益が強調される伝統があった、と。

しかしながら、もし、スマイルズの『セルフ・ヘルプ』や、マーデンの『プッシング・トゥー・ザ・フロント』のような、立身出世を論じた英米の古典的著作が、どちらも近代日本で大人気を得たことを考えるならば、英米と日本の相違点は、少なくとも強調されすぎてきたことがわかる。もし言われるとおりの相違があったならば、これらの本は当時の日本人に理解されなかったか、あるいは非常な怒りを呼び起こしたはずだからである。」

 

P69「スマイルズは、ワット、ニュートン、スティーヴンソン等を忍耐の例として用いたことは確かであるが、彼は、単にこつこつと勉強することの利点を強調するのではなく、技術上の発見や革新には時間がかかるというこちを言いたかったのである。

ところが、明治の青年にとって、少なくとも『穎才新誌』に作文を投稿する者にとって、重要なことは発見でも科学的方法でもなかった。そうではなく、ゆきつくところは、富貴、賢人と愚者といった決まり文句であった。」

P70「こうしてみると「勉強」という語の普及の原因は、おそらく『西国立志編』にあるのだろう。なぜなら、その語は、明治初期もしくは江戸時代の書物のどれよりも多く、『西国立志編』に登場するからである。とはいうものの、学生の作文における「勉強」の解釈は、『西国立志編』に登場するからである。」

P74「明治初期には、「まず個人が立身出世をとげ、つぎに家族の地位を高め、ひいては国家の向上に及ぼしていくべきである」と「よくいわれていた」と考えられているけれども、『穎才新誌』の作文に登場する一九七〇年代の青年の大多数は、実際にはそのような議論はしていなかった。なぜなら、彼らは国家利益を論じることはなく、また、「共同体志向」もなかった。とくに、青年たちは、地域社会に役立つことには、全く関心がなかった。」

※ここで穎才新誌の読者層の半数が士族層だったとされることも合わせて注目すべき点(p64)。だが、「個人の行為を国家利益に結びつけようとする作文は、二〇%にすぎない。」としており(p74)、これをもって「国家利益を論じることはない」といえるかは疑問である。

P74-75「『穎才新誌』の作文のうち、個人が成功したことの恩恵をうけたものとして家に言及しているものは、一〇%程度に過ぎなかったけれども、日本において家の果たした役割について考えれば、他の多くのテーマも、暗黙のうちに家に関連していたとみるのが合理的である。立身し、家を興すことで「先祖になる」という観念のために、青年は大いに自身の出世を追求しようとした。青年の作文には、学問をしない者は富貴を得られないばかりか、家に恥をぬり厄介をかけることになるという警告が頻繁に出てくるが、その背後に、家に対する暗黙の関心があったことがわかる。」

※これは共同体志向と異なるのか??

 

P113「合衆国においては、青少年たちを都市生活や近代社会の要求にこたえるべく社会化するため、小説が重要な役割を果たした。例えばホレイショー・アルジャーの一連の作品は、その筋書きの魅力を別にしても、有用な情報が満載された都市生活ガイドであったといえる。これに対して日本では、東京においていかにして成功するかという問題を扱った教訓書・指南書には、小説の形式をとったものはほとんどない。このような両国の差異の理由は、日本の有識層に根強く存在した小説に対する偏見に求めることができる。アルジャーはハーバード大学神学部学士であり、逍遥は、帝国大学学士であった。両者ともに、小説の執筆に手をそめた。このことにより、逍遥は、学士の堕落として、多くの同時代の非難を浴びた。しかし、アルジャーの仕事は、そのような批判は受けていないのである。」

P127「学生の作文においても、国家間の競争よりもむしろ個人間の競争を説明するために用いられており、学生の作文でもそれが踏襲されていた。そして、いかにして立身出世するかというポジティブな主題よりも、いかにして失敗を回避するかというネガティブな問題に対して、より多くの関心が払われていた。」

※「これは、一八七〇年代の『穎才新誌』に見出された、富貴のための忍耐という主題の変形であるといえる。」(p128)

 

P128「また、学生たちの最終目標が富貴である、という点は前の時期とは変わらなかったものの、それが「国家のため」なのだ、という考え方が以前より強調されるようになった。しかしながらこの変化を、国家に対する学生たちの関心の増大の結果であるとみなすことはできないだろう。なぜなら、「国家のため」という観念は、多くの場合作文の序文部分に短く述べられているだけであり、作文の全体的な内容は一八七〇年とはあまり変化していないからである。日本を一等国に、という彼らの願いはむしろ、自らの名望への野心と深く結び付いていたように見える。」

※1890年頃の話。

P131「さらに、試験制度が若者の精神を破壊するものであったとしても、当事者たちのほとんどはそういうふうに感じてはいなかった二葉亭の見解も時を経た後の回想を記したものなのである。多くの人間は時代の変化を歓迎し、試験制度に完全に満足していた。明治の一八八〇年代末から九〇年代初頭にかけての安定した社会秩序の時代においては、野心的な若者は皆単調で退屈な努力に耐えなければならなかった。しかし次の作文に見るように、立身出世を熱望する若者自身にとってはこの努力は決して無味乾燥なものではなかった。」

※社会問題への認知問題もあるため、なんともいえない。キンモンスも「苦学」をテーマにしたものがなかったわけではないが、主流ではなかったという解釈で語っている(p338)。同じく、「苦学という考え方が一九〇一―〇二年頃になって広まったのは、家庭が豊かでもなく、コネや旧藩からの援助も得られない層にまで、立身の夢が広まっていったからであった。」と述べている(p166)。

 

P182「すでにみたように、初期の『成功』におけるスマイルズ主義者の視野には、もともと国家主義的側面と社会改良的側面の両方が入っていた。しかしながら、日露戦争を転機としてそれ以後は、社会改良と独立国家建設に果たす自助の役割については触れなくなっていった。代わって、同じ自助という美徳が日本の拡大にいかに重要かが強調されるようになっていった。……

だが、日露戦争をめぐる見解の違いで重要なのは、自助精神を社会改良にどう適用するかをめぐっての相違だった。社会・労働運動家たちはもともと自助精神には価値を置いていたのだが、明治後期になると彼らの考え方はより精緻になり、単に道徳性の問題よりむしろ社会構造の観点から社会批判をするようになった。この批判は自助精神にたいする嫌悪につながっていった。たとえば、堺利彦は最初は青年に対して百万長者になることを志せと呼びかけていたが、後には成功ものを風刺批判するようになった。」

※『成功』は熱烈な戦争支持をしていた雑誌だった(p182)。

P183「『成功』がここで突然、人間は物質的報酬のみを動機にもつ存在だと主張したことは、読者の目には奇異に映ったに違いない。常連読者は富についての記事をいやというほど読まされてきたが、たとえそれが実業家を扱ったものでも、金儲けの動機をもった人物として描かれることはまずなかった。当然のことだが、社会主義からの批判を浴びるまでは、成功した人間の利益追求志向が取りだたされることはなかった。社会主義者との対立が鮮明になった時、『成功』は、金儲けの動機がないと社会が動かないと言うようになったのである。実は、サミュエル・スマイルズが描いた理想も利益追求以外の動機に動かされる人間だったが、彼は社会主義者に攻撃された時はじめて、利益による動機づけの価値を発見した。スマイルズ自身も、社会主義者にとっての嘲笑と皮肉の対象になっていたのである。」

 

P183-184「スマイルズ主義者が、社会改良に乗り出し、社会主義への対応を始めたのに対して、『成功』はもっと保守的な態度をとっていたといえるだろう。労働者や職人たちに対して自助精神をもって自らを向上させよと説くスマイルズの思想が説得力を持ったのは、個人の出世可能性と個人を抑圧する社会構造との関係が比較的希薄だったからである。一方、中等・高等教育を志望する青年に対して『成功』のような雑誌が説得力を持ったのは、逆に個人と社会構造との関連が明瞭だったからである。」

※ただ、ここでの意味合いは「人はその生まれに応じた地位で満足すべきであるという、スマイルズの時代に根強く存在した思想が、もし日本でも強かったとしたら、「苦学によって貧乏から金持ちに」というテーマは、進歩的な役割を担う主張になっていたであろう。だが、そうした強固な属性主義的思想は日本には存在しなかった。」としており(p184)、必ずしも「個人主義的思想」そのものの構造に帰する、という説明もあまり説得力がないように思える。

P190「普段なら、名も知れぬ青年の自殺などは近親と親友の悲しみを誘うだけで、おそらく新聞のいわゆる三面記事に小見出しで載るくらいのものだろう。しかし、藤村の場合はそうではなかった。彼の死は新聞の一面を飾り、当時のある識者によれば、それは満洲におけるロシアの動静に次ぐ扱いであった。まもなく、この事件は、詩歌、小説の題材として扱われるようになる。」

※煩悶青年という言葉が流行するきっかけとなった1903年の藤村操の自殺についての内容。

 

P193「煩悶青年の出現のついて、踏み込んだ説明を試みている歴史研究者は、家族の伝統的道徳観の崩壊、日露戦争以後の目標喪失状態、そして近代化の代償としての必然的な反動といった要因を挙げている。しかし、これらの仮説は原因と結果としての現象を混同している。煩悶青年の出現の原因はむしろ、高学歴青年の就職市場の変化によって説明されるだろう。この変化が立身出世をロマンチックな自己実現追求へと変えていったのである。」

P197-198「二〇世紀に入る頃になると、試験の重圧は二つの領域に限られていた。すなわち、旧制中学の定期試験と旧制高校への入学試験であった。しかしながら、ここでもまた問題が姉崎が指摘したよりはるかに複雑であった。どちらの試験も今に始まったものではなく、機械的な記憶を試すものでもなかった。……むしろ、どちらかといえば日清戦争以前のほうが、その直後に比べると受験戦争は激しかったのである。にもかかわらず、日清戦争以前には後のような青年の煩悶はみられなかったのである。問題は試験そのものや不合格率ではなく、試験そのものがどのような意味をもつようになったのかという点である。明治後期になると、将来の地位についての可能性が試験によって左右される傾向が、以前に比べてはるかに強くなってきたのである。かつての試験は、高等教育を受ける能力をもった、極めて限られた志願者から選抜していた。したがって、たとえ合格できなかったとしても、彼らはちょっとしたエリートの一員になれたのである。

二〇世紀はいると、高等学校志願者が急増したにもかかわらず高等教育の収容力が機械的に制限されていたことから、入学試験ではあふれた志願者を切り捨てるため、三日間にわたる選抜が行われるようになった。……いってみれば、試験そのものが苛酷だったのではなく、失敗とその結果押される二流の学歴という烙印、そして立身の可能性が少なくなることが重圧となっていたのだ。」

※煩悶がなかったは言い過ぎな気がするが。あくまでの「社会問題としての」煩悶である。何より過去の青年が「ちょっとしたエリートになれた」ことを示すエビデンスが示されていない。

 

P198「これらの試験に失敗した者にはいくつかの選択が残されていたが、それらはどれも心理的に重圧を伴うものだった。単純に立身をあきらめ故郷に帰ることもできたが、もし彼が地方の小さな村の出身だったとすると、それはかなり辛いことであったろう。彼らのような青年は村では少数であり、鳴物入りで故郷を出てきたから、村中に知れ渡っていたものである。……

もう一つの道は、面目無く故郷に帰るのではなく、富貴のための学問を捨て実業界に入っていくことであった。」

※この事情こそ、明治初期でも変わらなかったはずである。とすると、やはりキンモンスは「脱落した青年はいなかった」という見解を示していることになる。

P214「樗牛は社会や社会の諸慣習を拒否するまで極端に個人の欲望を肯定した。したがって、個人は自らの社会的地位を変えることができるという意味でのみセルフ・メイド・マンになるだけでなく、社会との関係を自分で定めるまでになった。彼が明治青年に示した徹底的な個人主義は、快楽主義や奇行までも含んでいた。樗牛が定義する個人主義は、かつて徳富蘇峰や明治初期の作家たちが考えていた、国家や社会の目的に奉仕するだけの個人とは違っていた。彼は明らかに違う世代の人間だった。……

ところが、樗牛は、立身の追求に重きをおく当時の社会的価値をきっぱりと拒否していたにもかかわらず、やはり彼自身は明治後期の社会が生んだ人間だった。つまり、彼の思想は自分自身の立身に対する欲求不満によって形成されたものであった。それが当時のインテリ青年たちの立身に対する不平にある解答を与えてくれたので、一般に広まっていったのだった。」

 

P228-229「出世に関する教訓が最も露骨に操作された事例は、豊臣秀吉に関する記述に見られる。第一期(※1904年)の修身教科書では秀吉は「立身」の手本として扱われ、「身を立てよ」の教訓を示すものだった。そこで彼は、有名になり何事かを成し遂げようとする願望を幼い時から抱く貧しい少年として描かれ、その目標を実現するために絶え間なく活動した人物として描かれていた。けれども、第二期(※1907年)の教科書で秀吉が言及されたのは、「志を立てよ」という教訓にかかわってであり、そこでは地位や名声ではなく、皇室の繁栄に貢献したという――いささか疑わしい――側面が強調されていたのである。このように第一期版では、彼の出世は能動的な活動を伴ったものであり、彼は「立身して」、「身を立つる」者であった。しかし第二期版では、彼の出世を表現する言葉は受動的なものとなり、彼は「引立てられ」ることになる。こうして、秀吉は、封建的権力と地位の頂点を戦い取った者でなく、あたかも忠誠の代償としてついに副支配人となる勤勉な商店員のような人物として描かれた。彼は、太閤秀吉ではなく、むしろ草履取の藤吉郎だったのである。……しかし、そこで指摘されていたのは、勤勉さ以上に、上役に媚びることが出世の手段だということだったのである。」

二宮金次郎も例に出される(もっとも、第1期と第2期の違いはないが)。

P230「日露戦争後の『成功』も、「出世」なしの「立身」という考え方を取り入れ、地方生活の喜びを賛える多くの記事を掲載している。当時のその典型的な論者は、安田財閥の創設者で、倹約家で知られる安田善次郎である。……けれどもこうした主張が、かつて海外への膨張主義喝采を浴びた時のような熱狂を引き起こすことはなく、読者からの投書の圧倒的多数は、非エリート的な中・高等教育を受け、ささやかな都市的「立身」を手に入れることを依然として望んだのだった。こうしたなかで『成功』の編集者は、「立身出世」のうちの「出世」を否定することが、この雑誌の主要な売り物――すなわち地方の青年に都会での成功の情報を与えることーーを否定することであると、はっきりと気づくことになる。したがって、一九一―年以降、この雑誌は地方での「立身」にはほとんど関心を示さなくなっていくのである。」

 

P251「このような他人志向的な道徳観のうちの一部は、おそらく日本固有の伝統に由来するものであったのだろう。しかし、こうした出版物の出現の原因を、日本的伝統のせいにし過ぎることに反論する二つの事実がある。そのひとつは、実業之日本社の出版物のいくつかがアメリカ人の著作の翻訳であったことである。アメリカでそうした出版物が生み出されていた背景には、官僚制的資本主義の勃興があった。けれども、それら日米の著作の相違点として指摘しておくべきことは、アメリカの場合に比べて、日本のものが他人志向的で人柄重視的な道徳観への移行をより早い時期におこなっていたことであった。上述の芦川が著書の前書きのなかで述べていたように、当時の多くのアメリカ人が人柄の重要性を指摘していたけれども、この問題について独立した著書をもつ者はいまだ現れていなかったのであり、芦川はこの問題に関する著作を、翻訳ではなく執筆しなければならなかった。事実、アメリカでこの方面の古典となる、デール・カーネギーも『実業における話術と影響力』が出版されるのは一九二六年である。すなわち芦川は、後にアメリカの出版物の主要テーマとなる「相手に自分を気に入らせる術」の問題をすでに一五年前に先取りしていたのである。日本の伝統に「堅固な個人主義」が欠けていたということはしばしば指摘されるが、そのことは雇用市場で人柄主義が求められるようになった際に、従来の品行主義に執着する者がアメリカほど多くなかったということを、せいぜい意味しただけなのかもしれない。」

P262「文部省の『年報』によれば、一九二二―二六年に、就職していない東京帝大卒業者の割合は四〇%に達し、法学部のみでは、その割合は八四%、特に一九二六年には一〇〇%になった。」

 

P267-268「そうした全体的な傾向の背後に、高等教育機関ごとのあるいは専門分野ごとの多様性が存在したことはいうまでもない。最も就職率が低かったのは、文学部であり、また当時「腰弁学問」と呼ばれた法律、経済学の領域であった。それらの分野の卒業生の就職率は、一九二三年の七二%から、二九年の三八%まで低下していた。他方で理工科系の卒業生は、同じ時期に就職率が八八%から七六%に低下したが、彼らは恐慌期においてさえも、文化系の就職率の最良の時期よりも恵まれた立場にあったのである。……

問題は、第一次世界大戦後の学生の大部分が、自らの選択の結果であれ、ないしは施設の不足の結果であれ、いずれにせよ就職の見通しの悪い領域に通学していたことである。」

P268-269「したがって、高学歴青年たちの状況を描写した当時の流行語、すなわち「大学は出たけれど」という言い方には、修正と限定が必要である。恐慌が最も深刻であったときでさえも、大学卒業者の全員が困難に直面していたわけではなかった。経済的な生産性の高かった専門分野の者は、恐慌の影響をほとんど受けなかった。この言い方が当てはまったのは、雇用市場の変化と産業化する経済にもかかわらず、あいもかわらず官僚機構での栄達を求めて、文科系の領域に進んだ者だったのである。さらには大学の学生だけをみたときに感じるほど、当時の高学歴青年たちが全体として危機的な状態にあったわけでもない。確かに恐慌の影響があったにせよ、中等教育ないしは中等後教育レベルの教育しか受けず、したがって、せいぜい下級または中級の管理職、ないしは狭い範囲の技術職としてに地位しか望めない人々は、エリート候補者に比べて、比較的に恐慌の影響を受けることが少なかった。」

高等遊民の正しい理解かどうかは計りかねる。

 

P294-295「しかしながら、立身出世を目指す武士とサラリーマンとの倫理上の類似性にもかかわらず、前者と後者の直接のつながりはない。ごくまれな例外――最も有名なのは福沢諭吉の著作だがーーを除けば、明治維新から日露戦争頃までの時期には、人柄や人間関係を立身出世の手段とみなすような文献はほとんど存在しない。二〇世紀初頃でも、人柄主義は何か疑わしいもので、それが持ち出された時には弁解が必要なほどだった。

このことは次のように説明されるかもしれない。かつての教育ある青年は、最初から人柄や礼儀についてのエートスをすでに教え込まれたような、狭い社会層からリクルートされていたため、それの重要性が強調される必要がなかった。それに対し、後の時期の高学歴青年は出自も広い層になったため、そういう教訓を必要とするようになった、と。確かにこの種の要因は、態度の変化に何らかの役割を果たしただろう。しかし次に述べる別の要因の方が、もっと重要だったように思われる。

国というものがそれを構成する個々人の反映であると一般に信じられていた間は、人柄主義を高唱することは知性的ではなかったし、ほとんど反逆的ですらあった。知識人やジャーナリストは、実業家よりも強くスマイルズの枠組み――品行主義――を固守した。」

※いかにもありそうな説明に対する批判。ここで品行主義とは「異形や立身出世は、何よりも個々人の品行にかかわる美質――努力、勤勉、節倹、忍耐、注意深さ、……――の産物であるとされ」、「品行主義は個人の外になにものもあてにしなかった」「品行主義は対人関係を無視する」ものであった。(以上p25)。

P295「そうはいっても、知識人でかつてはスマイルズ風の品行主義を称揚した人物たちも、人柄主義を唱えるようになったのを見ると、単に書かれたものの上で変化にとどまらない、大きな変化があって、それが価値や倫理の変化を起こしたのだということがわかる。

すなわち、業績から人柄への変化の最も重要な要因は、教育を受けた青年の就職市場の変化であった。明治の初めの青年は若いうちにリーダーになることが期待でき、彼ら向けの読み物はそれを反映していた。ところが明治末の青年になると、リーダーの地位に就くためには、雇われた先の要求に合わせていって何年間もうまくやっていくことが必要になっていた。」

 

P298「明治維新以前には、自我を否定する儒学の傾向に異を唱える余地はほとんどなかった。日本はルネサンス宗教改革も経験していなかった。変化しつつある当時の社会的慣習に合理的根拠を与えるような、唯一神と一人の人間とが固有の関係を取り結ぶという考え方は、存在していなかった。ところが、国や天皇への貢献が、古い社会とのつながりを断つことの正当化する、という考えが発展してくると、それは個人主義のある要素が強調され、受容される土壌となっていった。

P299-300「蘇峰によれば、明治後期の青年がそれ以前と異なるのはこの覚醒の点である。明治維新を担った人たちは自分を、独立した個人だとではなく国家の財産だと考えていた。利己的に行動した者もいたが、その場合でも、国家の利益には注意が払われていた。自由民権運動に身を投じた人たちも同様だった。個人は強調されたがそれは国のためであった。それは尊王攘夷運動の延長でしかなかった。対照的に、明治末の青年は自分のことのみ、自分の私的利益のみを考えるようになった。

立身出世についての読み物は、明治期の青年をこのように分割する線を支持している。とはいえ、何人かの日本人の学者がしてきたように、それには限定をつけておくことが必要である。富への関心という点では明治初期の青年も明治末の青年も違いはなかった。日清戦争以前の生徒の作文で最も頻繁に登場してきた要素は、富であった。その場合、富は、いつももいうわけではないが通常は名誉と関連づけられていた。しかし、ともかくも成功に関する読み物が現れるずっと前から、青年たちは富に憧れ続けていたのである。国家に関心を向けないというのみ実は新しいことではなかった。……

だからといって、個人の野心と国家利益を関連づけることに失敗したのではなかったようである。むしろ、この関連は繰り返しが不要なほどに自明のことだったのである。」

 

P302「とはいえ、明治末に見られる個人主義は単なる目の錯覚ではない。煩悶青年は本当の意味の個人主義を発見した。彼らは個人主義的な行動を提唱したし、ある程度は実践もした。はっきりと個人や自己決定、自己実現の至上性を表明した。……煩悶青年を苦しめた「存在の意味」といったものは、幕末や明治初期の人々には意識の片隅にもおよばなかった。彼らは自分の基本的な信条を疑いもしなかったから、それは当然であった。

しかしながら、煩悶青年たちの個人主義は、あまりにエリート主義的であったため、社会全体には広がってはいなかった。そればかりか、そのエリート主義的性質のゆえに、転向するものも多かった。エリートを自認しながら華厳の滝阿蘇山に身を投じなかった者は、次第に体制に飲み込まれていった。普通の煩悶青年は、大正・昭和期には官界や学界、実業界の組織の一員になっていってしまったのである。」

P302-303「実際のところ、明治末の個人主義は十分議論されなかったし、まともに弁護もされなかった。ニーチェの思想に依拠した高山樗牛の主張以外には、それを支持する議論は存在しなかった。個人主義を社会的効用と結びつけようとする主張はなかったし、そもそも出てくるはずがなかった。というのも、すでに伝統的な立身の議論の中でそういう論理は一般的になっていたので、あらためて問題を提起する余地はなかったからである。日本の宗教的伝統では個人主義をうまく正当化できなかったし、キリスト教では外来のものでありすぎた。

日本における個人主義の最大の限界は、資本主義とそれとの関係であった。日本の資本主義は、個人主義を実業活動と適合的なものとみなさず、渋沢栄一のような実業界の人物は個人主義を否定していた。大規模な官僚組織が発展してきた、まさにちょうどそういう時期に自我が発見されたのが、大きな不幸であった。……官僚制資本主義は、個人主義の論理では正当化されえないし、おそらく個人主義的な被雇用者も必要としていないのである。」

 

P304「明治国家が保守的でエリート主義的だったからではなく、むしろ、より進歩的で平等な改革を行ったがゆえに、日本では集団への同調圧力が他の近代諸国よりも大きくなった、と。たしかに、日本の伝統は個人主義に対して寛容ではなかった。しかし青年たちが直面したのは、何よりも、官僚制的な状況や労働市場の状況に関連した圧力であった。日本が後進国だったので、企業家資本主義よりも官僚制的資本主義の方が比重が大きくなった。そのため当時の先進国よりも同調への圧力が強くなったのである。」

※これについても、「伝統的に」「もともと同質的だったがゆえにこのような政策が選択された」ものと解釈すれば、伝統に還元可能といえるが、その可能性については本書から特に反論が出せないだろう。結局このような日本人論は近代化論的一元論として扱えるため、その一元性そのものを実証せねばならない(そのためには、日本以外の後進国との比較が必要である)。実際、「日本社会では、英米社会ほど志願者の配分に属性的な基準を用いられなかったために、一層多くの人々が機会を求めて殺到した。」(p304)というのは、極めて「日本的」な事情の産物であるように思える。

P307「リーダーの地位に到達するまでに、彼らは競争で生き残ること、自分のポストを守り、他の競争相手を追い払うことに、何よりも心を砕くようになった。ダイナミックなリーダーシップのとり方や、大義を貫くためには自分の経歴を賭すことを学ぶ機会はなかった。もし彼らがーー丸山が呼んだようにーー矮小であるとすると、それは、エリートをめざす競争を抑止するもののない社会での、生き残りの圧力によって生じたものであった。日本社会の最も魅力的な側面である、属性的要因による差別がないことや、普遍近代的とか合理的といわれるたぐいのエリート選抜のシステムが、皮肉なことに、矮小なエリートを生み出したのである。日本人の使う用語でいえば、戦時期のリーダーシップの矮小性は、日本社会の封建的側面に由来するのではなく、近代的側面から生じたのである。」

 

P308「真に民主的な革命の代わりに、エリートの地位への志願者の出身基盤がもっとずっと狭い仕組みがもし作られていたならば、皮肉なことに、日本の近代はもっとよいものになっていただろう。その場合、エリートは必ずしも常にもっとよい決定を下したとは限らない。しかし、個人の責任や意思決定や、たぶん反対表明にさえも、もっと大きな意味が与えられて、重要な決定の際に責任ある議論が多少とも多くなされることになったのではないだろうか。」

※このことが参考になるのかがわからない。多分に「ないものねだり」であるようにも思える。これについては「封建的」であった方が改善の余地があるように思える。

P310「両国の文化や道徳の微妙な点の差よりも、むしろこの損得の収支の差こそが、なぜ米国のインテリ層が戦争に反対し、日本ではそうでなかったのかを基本的に説明するのではないだろうか。反対者を処遇する法的規定や、警察による弾圧の差は、説明要因になりうるかもしれない。しかし、日本での反対者を弾圧する法の制定やその法に基づく逮捕が行われた時期を調べてみると、大部分はもっぱら具体化していない反対を警告的に扱ったものにすぎなかった。さらには、もしかりに日本では抑圧が苛酷であったことを認めたとしても、消極的な抵抗さえもみられなかったことが説明されずに残っている。……しかし、そうした若者がある程度まとまって存在していたならば、どこかで記述が残っているはずなのに、それが見当たらないことを考えると、一九三〇年代の高学歴青年は、戦争から生じた利得を何も拒絶していなかったように思われる。」

※この主張は少しこじれた論点を含む。日本の方が無責任という「事実」をキンモンスは認めているが、本当にそうだといえるのだろうか?

 

P311「もし学歴が、エリートやサブエリートを目指す志願者を振り分けるために使われるならば、学校制度を拡大する要求は絶えず続き、内容面でも資格面でもインフレ現象が生じてくる。すると結局、学歴資格以外の方法で志願者を振り分けねばならなくなる。もし、そういう中で試験を選抜手段としたならば、それは単なる生き残り競争になってしまい、将来就くであろう役割に応じた、実質をもったテストではなくなってしまうだろう。」

※この議論は、人柄主義の流行とも親和性があると言えるか。

 

ジョン・W・ダワー「人種偏見」(1986=1987)

 本書は第二次大戦前後の「日本人論」を分析したものである。

 杉本・マオアのレビューの際にも「日本人論」には「日本人から見たもの」と「欧米人から見たもの」の2つがありえることを指摘したが、本書はその両方の議論について当時の言説からその異同について、極めて実証的に語っている。その物量も多く、また当時の雑誌の挿絵等の掲載もしており、非常に当時の状況がわかりやすく描かれているといえるだろう。残念ながら、邦訳にあたり、参考文献のリストについてはカットされてしまったようだが、メインである部分については、それでもなお充分な実証性をもって説明しているといえる内容となっている。

 

○日本人の「ユニークさ」について

 

 特に細かく議論されていた点として日本人の「ユニークさ」が挙げられる。杉本・マオアのレビューではこの「ユニークさ」というのは「日本人側から求められたもの」と明言していたが、本書により日本だけでなく欧米人側からもそのユニークさは必要とされていたことがわかる(p38-39)。まずその奇怪さについては、過去において他の「非白人」言説にも同じように語られていたことを述べる(p12)。死に対する価値観についても連合国側の比較をした場合それが特異かどうかに疑問符をつけている(p15)。

 また、日本が「ユニークさ」を求める理由についても複雑であることがわかる。大枠としては「白人至上主義」のアンチテーゼの強調のために用いていることが、本書を読めば痛い程わかってくる。日本が第二次大戦を「聖戦」とするためのレトリックとして、現在支配的である欧米を批判する必要があり、その結果として非白人的価値観が強調されることになる。これはそれまで西洋化の影響を受けていた日本にとっては「浄化」の実践として現れていたようである(p268-270)。また、この批判に「個人主義=利己主義」が含まれていたことも無視できない。戦後も日本人論の中でこのような価値観の違いが存在するという認識はある意味で素朴に、時には強く内省を求める形で再生産されていった訳だが、そのルーツを遡れば、戦時中においては日本人論をそのように定義すべきものとして、「戦争」を通じて強く政治化した言説として流通していたこと、その影響を現在でも受けうる形で日本人論が語られていることについては強く内省すべき部分であろう。実証性なき日本人論を何となく語ることの問題というのは、本書を読むとよくわかってくることである。

 

○「他者」認識の影響をどう考えるか?

 

 本書において示唆されているのは、偏見等に基づき形成された「日本人論」が当時の戦争での判断に影響を与えていたという点である。これは真珠湾攻撃までの日本の軽視(p137)や、原爆投下の判断(p184-185)といった形でその影響の可能性について言及される。

 また、日本人の他者イメージとしての「猿・ゴリラ」と、欧米人の他者イメージである「鬼」がそれぞれ形成されていたと指摘する一方で、特に「鬼」のイメージの方はその意味が両義的でありえたという指摘も注目に値する(p302)。鬼のイメージに限らず、ダワーは日本の中心イメージのいくつかが多義的でありえた(曖昧であった)と指摘しており(p296-297)、杉本・マオアが指摘していた「欧米人の日本人論が二項図式的であり、日本人の日本人論がその図式が緩和されていた」という見方にもマッチする。この議論の意味についてはより深い検討が必要になってくるだろう。というのも見かけ上確かにこのような違いがありえたかもしれないが、それでもなお日本人・欧米人の「敵視」観というのはその違い程変わらないようにも思えるからである。戦後においてはどちらにおいてもその「敵視」についてのイメージは簡単に抹消されたし、ダワーが言うような「日本人は『鬼』のイメージをアメリカ人に与えなくなった一方、アメリカ人は相変わらず「猿」のイメージのままだった」という議論に対して、「日本人が良心的だった」というような意味を与えることができるのかは微妙であるからである(ダワーがそう指摘している訳ではないが)。

 そもそも、概念の曖昧さというのもまた、それ自体日本人論的には日本の特徴として挙げられるものだが、その実質的意味(つまり、その言説が行動に与える影響力)というのは必ずしもその二項図式と関連するとも限らないからである。また、日本の「鬼」のイメージをそのまま「非人間」としての鬼と同一視してよいかも微妙である(欧米人の「猿」よりは、日本人の「鬼」のイメージは「鬼」そのものではなく、「人」をそのままイメージする傾向も強いのではないかと私などは思う)。

 もちろん、この「言説」と「行動」との関連性も検討の価値があるが、同時に「言説」と「大衆認識」との関連性についてももう少し細かく考察する余地はあるように思う。ダワーはこの点かなり「大衆性」を意識した形で議論をしており、「エリート」向けのものがそのまま解釈される訳ではないことも把握している(cf.p268-270)。ただし、例えば欧米人の日本に対する「猿」という他者イメージも必ずしも普遍的な見方ではなかったとも言いうる。本書でも取り上げられているフランク・キャプラプロパガンダ映画「Know Your Enemy:Japan」はインターネット上でも観ることができたので観てみたが、本映画における「非人間」の描写というのは日本の地形に似た「龍」と、八紘一宇を連想させる「タコ」だけであり、類人猿としての描写は存在しなかったのである。

 ただ、ダワーが言及するそのイメージの変化というのは考察の余地が大いにあるように思えるし、その考察にも大いに意味があるように思えた。私自身も今後この動きを追ってみたいと思う。

 

 

<読書ノート>

Piv「たとえばアメリカ側についていうと、戦争中に日本人を動物化した表現が、最近また「エコノミック・アニマル」として日本人をステレオタイプ化する中に見出される。非白人をいつも子供とか下等な人間として表現する白人至上主義の伝統はいまなお消えずに残っていて、「ちっぽけな」日本人という品位を傷つけるような表現の中にいま見られるのである。しかしながら同時にまた、日本をスーパーパワーとし、日本人を「スーパーマン」としてみる最近の欧米人の傾向は、第二次世界大戦やそれ以前に流行したステレオタイプを再現したものとしてみることができる。」

Pv「一方日本人の側にも、ほぼ同様の傾向がある。たとえばある日本人の社会の中では、アメリカ人のことを、規律を欠いた「雑種」としてひやかすことが流行している。こういう見方がどのようにして生まれてきたかを知ることは、それほど困難ではない。しかし歴史を学ぶ者は、やがて日本に災害をもたらすことになったあの太平洋戦争勃発のときに、同じようなアメリカ人軽視が人種的な宣伝の中心に横たわっていたことに気がつくであろう。

こういう態度のもう一つの側面は――これこそもっと敏感でもっと有害な側面であるが――中曽根首相や他の政府高官たちが民族と文化について日本人の純粋性と単一性にたびたび言及した例にみるように、日本人の自己賛美の風潮が高まっていることである。この本の中で詳しく論じたが、この「純粋性」こそ、第二次世界大戦後のときに日本人のイデオロギーの中心的な民族観だったのである。それがいま、欧米ばかりではなくてアジアの中でも、日本人ではない世界中の人々に対して、新しいスーパーパワー日本という思い上がりとなって再び現われているのである。ここから、日本人の民族思考の中にひそむその他のおもな観念をたくさん引き出すことがでいる。……日本人はユニークであるとか(それは確かに事実であるが、同時に他の民族や文化にとってもまたそういえるのである)、国家や民族間の関係は、個人の場合と同じように階層的なものであるべきで、それぞれ「適所」を受けもたなければならないとか、日本には独特の大和魂があって、これは外国人にはとてもわからないばかりか、他のどの国民やどの文化の民族精神よりもすぐれたものであるとか、日本人はアジアや世界の「指導民族」となる運命をもっているのであるとか――といったことである。」

※雑種言説の所在は定かではない。

 

P11「アジアにおける戦争に伴う人種的表現やイメージは、しばしばあまりにも生々しく軽蔑的なものが多かった。たとえば連合国側は、日本人の「人間以下」の側面を主張した。そのために普通、猿や害虫のイメージがよく使われた。もう少しましなものでは、日本人は遺伝的に劣等の人種であり、原始性、幼児性、集団的な情緒障害という観点から理解されるべきだという言い方がなされた。漫画家、作曲家、映画製作者、戦争特派員、マスメディアは一般にこうしたイメージでとらえた。戦時中日本人の「国民性」を分析しようとした社会科学者やアジア専門家もまた同様であった。

戦いのごく初期に、劣等であったはずの日本人が旋風のようなアジア植民地を進撃し、数十万に及ぶ連合軍兵士を捕虜にすると、また別のステレオタイプが生まれた。すなわち、異常な規律と戦闘技術をもつ超人のイメージである。人間以下、非人間、劣等人間、超人――これらにはすべて、敵の日本人も自分たちと同じ人間であるという観念が欠落している。」

P12「それらは一般的に不平等な人間関係と結びつく原型的なイメージであり、その起源は両陣営ともに何世紀もさかのぼることができる。連合国側についていえば、黄禍感情にはけ口を与えた日本人に対する深い憎悪は、二十世紀以前には主として中国人に向けられていた。戦時中を通した「黄色」人種に対する憎悪の激しさと広がりは、いまとなって考えれば、猿のイメージの広がりと同じくらい大きなショックではあるが、しかし黄禍感情それ自体は何世紀も前から定着していたものであった。日本人の敵である白人たちが、プロパガンダ用にもっぱら用いた戦争と人種に関する言葉――その中核をなしたのは猿、劣等人、原始人、子供、狂人、そして何か特別な力をもった存在というイメージであった――は、アリストテレスにまでさかのぼることが可能であり、そしてヨーロッパ人が最初にアメリカの黒人や西半球のインディアンに遭遇した際に堅調に見られたような、伝統的西洋思想に根をもつものである。第二次世界大戦のレトリックでは非常に「ユニーク」とされた日本人も、実際は欧米人が何世紀にもわたって非白人に適用してきた人種的ステレオタイプを負わされることとなったのである。」

 

P14「相手に「獣性」を見ることは、欧米人のほうが手の込んだ方法をとったものの、いずれか一方のみの属性というわけではない。」

P15「最も基本的な生と死に対する態度でさえ、これは当時の関係者の多くがこの点にこそ日本人の欧米人の間に根本的な違いがあると主張したところであるが、よく調べてみると、それほど大差あるものではなかったことがわかる。多くの日本の戦士たちは降伏よりは死を選んだ。これは単に軍部内からの圧力ばかりではなく、連合国側に捕虜にするという意思がなかったという事情から、他にほとんど選択の余地がなかったためである。連合国側にとっては屈辱的な敗北、大量降伏の第一波を経験してからは、連合軍兵士もまた進んで降伏することはほとんどなくなった。まさに太平洋戦争はやるかやられるかの戦いであったために、どちらの側の戦闘員にとっても、生きるか死ぬかの個人的決断はほとんど無意味となった。確かに日本側の軍事指導者やイデオローグたちは、死を礼賛することにかけてはかなりの成功を見たといっていい。それは戦場でのバンザイ突撃や、戦争末期の神風に代表される特攻隊の創設によって明らかである。しかし欧米人も最後まで苦しい戦いを闘いぬく者をたたえ、場合によっては、ウィンストン・チャーチルダグラス・マッカーサーのような最高指導者たちが、部下の司令官に決して降参するなと命じたこともある。最後の一兵になっても戦う日本人を鼻で笑い、まるで人間ではないかのごとく扱ったアメリカ人でさえ、アラモとかリトル・ビッグホーンとかの敗北の叙事詩は大事にしていたのである。」

 

P26「次に映画は日本人の心についての解説となり、二つのユニークな要素でできているイデオロギーの檻に閉じ込められていると描写した。二つの要素とは、神道と、聖と俗をともにになう神のような天皇に対する信仰であった。この神道天皇の結合から、日本の人種的な優越の礼賛、神聖な使命という観念、さらに日本の屋根の下に世界の隅々まで入れるという目標が生じたのである。」

※映画はフランク・キャプラの「汝の敵を知れ」。

P27「近代化を進める日本は、軍国主義者、産業資本家、政治的エリートによって支配されていた。個人は完全に国家に従属し、全教育システムは、教えられたことをスポンジのように吸収する従順な臣民の大量生産に適応させられていた。学校の無意味な洗脳に少しでも抵抗した異端者や反体制の人々は、警察、憲兵隊、特高、愛国的な結社の自警団員――さらに神道天皇イデオロギーの無数の「亡霊」――によってうちのめされた。」

☆p38-39「敵のステレオタイプと肯定的なセルフ・ステレオタイプの興味をそそる一致は、アジアでの戦争中、文化価値が正反対のものとして理想化されたという点で注目はされるが、こうした理想化が必ずしも現実を反映していたわけではなかった。これに反して『臣民の道』のような古典的イデオロギー宣伝書は、日本の戦時レトリックの階級的な側面をはっきり露呈しているため、特に興味深い。実際には、日本人が均質的で仲がよく、個性に欠け完全に集団に従属していたのではなく、日本の支配グループが絶えず自国民に対して、そうなるよう熱心に説いていたのである。それどころか政府は、この種の厳粛な正統派的信念を精密に立案し普及させる必要があると考えていた。なぜなら支配階級は、大多数の日本人が天皇のもとでの忠誠と孝行という伝統的な美徳を大切にせず、相変わらず民主的な価値や理念にひきつけられていると確信していたからである。『臣民の道』は、このことを率直に述べていた。換言すれば、欧米人の圧倒的多数が抱いていた日本人像と、日本を支配するエリートたちが望んでいた日本人像とは一致していたのである。

このステレオタイプとセルフ・ステレオタイプの一致の最もよく知られた例は、英米と日本の解説者が一様に日本人の「ユニークさ」を執拗に強調したことである。」

※重要な指摘。

 

P41-42「第一の、暴虐のかぎりをつくしたドイツ人以上に日本人が憎悪の対象となったのはなぜかという問いに対する答えが、人種的要因に負うところが多いのは確かであるが、しかしそれは見た目よりはもっと複雑な背景をもっている。ドイツ人の残虐行為は古くから知られ非難されていたが、そうした中でも、良いドイツ人と悪いドイツ人は明確に区別されており、連合国側は残虐行為を「ナチ」犯罪と称し、ドイツ文化や国民性に根ざす行為とは見なさなかった。それ自体は合理的姿勢であったといえるだろうが、首尾一貫していたわけではなかった。というのは、アジアの戦場における敵の残虐行為は常に、単に「日本人」の行為として伝えられたのである。こうした歪んだ見方がきわめて根強かったために、日本軍の行為がドイツ軍に倣ったものだと報道されてもなおそのまま人々の記憶に残った。」

※ドイツではナチと非ナチで責任の区分けを行なっている。

 

P86「かなりの人数の日本兵が捕虜になった場合もあるにはあったが、たしかにジャングルや太平洋諸島での戦いにおいては、日本兵の大部分は、殺されるまで戦うか、あるいは自ら命を絶った。それには多くの理由があった。その大きなものは、天皇および国のために自らを犠牲にせよという教えと、降伏はするなという上官の命令であった。日本人は、この戦いは鬼のような敵に対する聖戦であると教えられ、そして実際多くの者が崇高な目的のために命を捧げると信じて死んでいった。そうした姿は、敵側から見れば「狂犬」であったが、彼ら自身からすてば神聖なる献身であり、また日本国民の目からすれば英雄であった。集団心理や集団逆上は、たしかにこうした死を煽り、バンザイ突撃に一種の陶酔感さえ与える一因であったが、同様に、使命、栄誉、従順という日本の風土に深く根ざした要素も、その一翼をになった。すなわち、日本兵は、ただ国や支配者がそうしろというから命を捨てたのである。またある者は、自分が降伏すれば家族が村八分になると信じて、最後まで戦った。

しかし見過ごされやすいのは、他の方法がなくて見絶えた日本兵が数えきれないほど多い、という事実である。一九四五年六月付の報告書の中で、戦時情報局は、尋問を受けた日本兵捕虜の八四パーセントが、捕虜になったら殺されるか拷問にかけられると思っていたと述べた、と記録している。情報局の分析家たちはこれを典型的なものと称し、「武士道」よりも降参したあとに起こることへの恐れこそが、戦場で追いつめられた日本兵たちが死を選ぶ大きな動機であるとしている。そしてそれは、他の二つの大きな要因に匹敵するもの、あるいはたぶんそれらを超える要素であろうとしている。その他の二つとは、家名を傷つけることへの恐れと、「国、祖先、神である天皇のために死にたいという積極的な願望」である。一方、たとえ投降の意思があったとしても、それは容易なことではなかった。たとえば、終戦直後に戦時情報局用に作成された概要報告書を見ると、日本人捕虜に関する書類には、降伏を試みて、しかも撃ち殺されないためにはどうしたらいいかに関して、捕虜たちが知恵をしぼった話がたくさん記載されている。すなわち、これは連合軍側が「捕虜をとることに難色を示したために、降伏が実際に難しい状況にあった」ことを示すものである。

アメリカの分析家たち自身認めたように、こうした日本側の恐れは決して不合理なものではなかった。戦場では、連合軍兵士も司令官も多数の捕虜を望まない場合が多かった。これは決して公式の政策ではなく、場所によっては例外もあったが、アジアの戦場においてはほとんど常態であった。」

※なぜこのような捕虜感になったのか。本当にアメリカ人だと違う認識になるのか?

 

P99「敵として一方では「ナチス」、他方では「ジャップス」とすることは、重大な意味をもっていた。というのは、「良きドイツ人」を認識する余地は残されていたが、「良き日本人」の余地はほとんどなかったからである。」

※「たとえば一九四三年はじめ、アメリ海兵隊の月刊誌「レザーネック」は、ガタルカナル島の日本人の死体の写真にGOOD JAPSという大文字の見出しをつけ、「良きジャップスは死んだジャップス」を強調するキャプションをつけた。」(p100)

P107-108「しかし、記者、諷刺漫画家を問わず欧米人によって一番よく描かれた日本人の戯画は、なんといっても猿または類人猿だった。……一九四二年一月なかば、イギリスの名高い諷刺雑誌「パンチ」は、「猿の一族」と題する全ページの戯画にまったく同じ紋切り型のイメージを使い、頭にヘルメット、肩にはライフル銃をかけた猿どもが、ジャングルの木々にぶら下がっているさまを描いた。」

P111「戦時中よく知られたアメリカの戯画の一つは、一九四三年四月、ドゥーリットルの飛行士の何人かが処刑されたというニュースが公表されたあと出版された。それは日本人を「アメリカ人飛行士の殺人者」というラベルをつけて涎を流しているゴリラ――「文明」という巨大なピストルがその頭を狙っている――として描いた。それは、動物イメージが日本人の残虐性と密接に関係していたというアメリカ陸軍の説明を、具体的に図解したものと受け取ることができる。とはいえ、この説明は単純すぎる。日本人の残虐性についての報告は、欧米人が日本人を獣として認識する大きな要因となったことは疑いない。が、猿の擬人化は、こうした連想とは関係なく存在していたのである。これは白人至上主義者が、非白人を卑しめるため伝統的に用いたあらゆる隠喩の中で、最も基本的なものであったかも知れない。それは有色人種というものを、野蛮というよりばかげた存在として描く際、しばしば使われた手法だった。それが欧米人にすっかり取り憑いていた人種主義の原型であったことは、戦争の漫画を見わたせばすぐにわかることである。」

 

P124「一九三〇年代の日本の村落について、古典的な研究論文をものにしたアメリカの人類学者ジョン・エンブリーは、「日本と日本人は他の国々と違っている。というより、日本のナショナリストたちが言うように、『世界の人々や文化の中でもユニーク』である」と述べた。」

※エンブリーの著書は日本人論ぽくなかったが…

P132-133「こうした独善的な過信によって事実をおおい隠したことは、注目すべきである。偏見が事実を装ったのである。しれは無数の取るに足りない、多分経験だけに頼る知識に基づいていた。欧米人は、日本人のことを単に軍事的に無能であるとして、考えもせず片づけてしまったわけではなかった。彼らは日本人が重大な脅威ではないことを「知っていた」のである。なぜなら日本人は、射撃も、操船も、操縦もできないと繰り返し報じられていたからである。日本が一九三七年以降、中国を屈服させることができないとわかると、こうした事実が再確認されたと決め込んだのも無理からぬことだった。中国の広漠たる国土における厖大な兵站業務とか、中国人の思いがけない頑強な抵抗というような現地事情については、詮索するに及ばないのである。」

P134日本軍が無能である理由について…「第一の仮説によれば、日本人はたいてい近眼であるのと同じく人種的に内耳管に欠陥がある。これが彼らにバランス感覚を失わせているが、パイロットにとっては許されない欠陥である。

第二の解釈は、武士道および個人の生命を無価値とする日本人の掟に責めを負わせている。飛行機がきりもみ降下したり他の面倒なことに巻き込まれると、日本人は胸元で腕組みをして大日本帝国の栄光のため嬉々として死んでいく傾向がある。一方、個人の存在について一段と鋭い意識をもつ欧米人は、全力をあげて機体の障害を取り除こうと努めるか、土壇場になってパラシュートで脱出する。」

 

P137「日本が攻撃した当夜、シンガポールの空襲警戒本部に誰一人いなかった一つの理由は、あの運命の日の直前にイギリス空軍の将校が空襲監視員たちに、日本人は暗がりでは飛行できないと告げていたためであった。科学的な説明の中で特に巧妙な試みは、日本人が広範囲に及ぶ内耳の損傷に苦しんでいるというものだった。何が原因か。日本人の母性、というのが西洋のある権威の見解で、先天的に欠陥のある「管状器官」のせいだとするプラットの解釈を退けていたのは明らかだった。赤ん坊を母親の背中にくくりつける慣習は、頭を飛び跳ねさせ、バランス感覚を永久に損なうと説明されたのである。」

P138「彼らの精神は「前ギリシャ的、前合理的、前科学的」と評されたーーこれらのレッテルは女性の劣等性に関する話の中でも、よく使われたものだった。時によっては、この同一性がはっきりと示された。「日本人の精神は、女性の精神がそうであると考えれているように、より初歩的な動き方をするーー分析や論理的演繹に従うというより、本能、直感、懸念、感触、感情、連想によって動くのである」とオットー・トリシャスは書いた。

こうした受けとめ方が肯定的な形を変えたものは確かにあった。それは多くの日本人や他のいっそう神秘的な傾向のあるアジア人によって助長され、東洋人の「直観的」または「精神的」な能力を賛美していた。英米中流階級向け雑誌の読者たちは、禅およびその「常識」への挑戦に漠然とながらなじんでおり、西洋への禅の最も能弁かつ多作な解説者、鈴木大拙の著作は、日本人が概念の操作よりむしろ直観に頼ることについて、いつでも引用するのに役立った。鈴木が信奉した禅の教えは、第二次大戦後、西洋の人々にさかんに取り入られたが、彼の主著の大部分は、一九二〇年代と三〇年代にすでに英訳されていた。」

 

P152「戦争は、超人のイメージをつくりだしはしなかったが、それを表面化させた――日本人に関する過去の印象のプールからではなく、むしろ西洋の他者についての伝統的なイメージの大きな貯水池から呼び起こしたのである。というのは、獣のしるしやヒトより下等な存在に与えられた多数の特徴のように、恐怖や危機の際には「超人的」という特質までもが、たいてい見さげたアウトサイダーに帰せられたからである。」

P153「猿とか他の人より下等な動物は、それ自身が脅かす存在ではない。「劣等人」もそうである。こうした軽蔑的なレッテルを貼られたものが、突如として思いもよらない挑戦の態度をとり、実行できるとは考えられなかった行動をやってのけると、人は特殊な能力を捜しはじめる――そして必ず見つけ出すのである。」

 

P172「一九四四年までには、かなりの数の社会科学者と行動科学者が、このように日本を研究していたが、いずれにせよ日本人の行動を理解するうえで「未熟」という概念が核心であることに大方は同意した。」

P173「ニューヨーク会議の参加者たちは、日本人のきめられた行動様式への順応がたいてい私的または個人的な信念を欠いており、この「信念なき順応」が、ある政治学者の言ったように「青年期の完璧な臨床例」であることで意見が一致した。会議に招かれた数人の精神科医の一人は、日本人の行動が「いくつもの違った態度、異なる感情的な諸反応、幻想の使用、個性の分裂といったものの間での優柔不断」のような青年期の未熟さの「臨床例」に一致することを指摘した。彼は、西洋と日本の育児慣習の違いに注意を促す一方、国民性の構造の差異は人類の発展段階の差異を反映し、「日本人の不良性は、少年期の発育段階に特有なものである」という考えも述べた。」

P177「(※ウェストン・)ラベアは、ゴーラーの草分け的な分析を知らずに論文を書いたが、専門諸分野における例の初期の研究の幅広い影響を受けた驚くべき誤りがあった。ゴーラー同様に彼も、日本人の脅迫的性格を発育の肛門期に関係づけ、「そこで子供は最初の満足感を捨てさせられ、文化的に着色された括約筋の調節を身につけさせられる」と述べたのである。」

 

P184-185「日本人の原始性についてえせ歴史的、えせ人類学的な概念が広まった結果、野蛮な敵という認識は戦場以外にもひろがっていった。つまり、その認識を国民、人種、文化の全体に当てはめ、そうすることにより自らの報復および懲罰という野蛮な行為を、合理化、正当化したのであった。たとえば、開戦後間もない一九四二年一月の覚え書の中でレーヒ提督は、「日本の野蛮人と戦う際は、かつて戦争ルールとして認められていたことを、すべて放棄しなければならない」という巷間伝えられていた信念を引用している。戦争が暴力的な結末に近づいた頃、トルーマン大統領はポツダムにおいて原爆実験の成功を知り、それを日本に対して使用することを直ちに決意した。彼は日記に、このことは遺憾ではあるが必要なことなのだ、なぜなら日本人は「野蛮人であり、無慈悲、残酷、狂信的」だからと記していた。」

P190-191「この文章は、実は十六世紀はじめにスペイン人が、新世界のすべてのインディオに対する蹂躪を正当化するため書いたものである。そして最初の引用のカッコに入れた「英米人」は、原文では「スペイン人」となっている。われわれは、歴史上のもの現代のものを問わず、似たような手品をすることができる――「日本人」を、他の人種や国民とだけではなく、非キリスト教徒、女性、下層階級、犯罪的な分子といったものと差し換えることができるのである。これは単なる手品師のトリックではない。むしろ、何世紀にもわたり、男性優先の西洋のエリート連中がになってきた、他の人々を認識し扱うための基本的なカテゴリーを示している。獣のしるしのように原始人、子供、精神的、情緒的に欠陥のある敵というカテゴリー――第二次世界大戦中は、とりわけ日本人に当てはまると思われ、新しい知的な解明も当然、日本人に特有のものと見なされたが――は、つまり西洋の意識に記号化された基本的には決まりきった概念であり、日本人専用のものでは決してなかったのである。」

 

P206「黄禍は、もともと幻想や安直なスリルを混合させたくだらない考えであり、三文小説、漫画、B級映画、それに煽情的ジャーナリズムに似つかわしい話題だった。しかし幻想と煽情主義は、多くの点で世論を形成し、大方の学問よりはるかに大きな影響を及ぼしたことは疑いなかった。また東洋からの真偽の疑わしい脅威を、強い衝撃を与えるように言いたてる人々がたくさんいた。その中にはハースト系の新聞のように、日本に率いられた「黄禍」を早くも一八九〇年代に警告し、その後の半世紀にわたり揺るぎない反東洋論の編集方針を維持したところもあった。空想的な軍事評論家ホーマー・リーのように、日本が突出する運命にあるという予想をしたため、日本人自身がうぬぼれてすぐさま翻訳にかかったという例もあった。」

P230-231「戦時中アメリカ向けの日本のプロパガンダが、人種差別を強調して、非白人の注意をひこうと試みたのは事実であるが、黒人世論に真の衝撃を与えたのは、秘密活動や敵のラジオ放送ではなかった。それは戦争の本質そのものであった。ドイツ人と日本人に対する戦いは、たいてい支配民族説に対する攻撃を伴っており、したがって白人至上主義やアメリカの差別的な法律と慣行の根元に向かって挑戦していた。……

と同時に、日本人の攻撃も黒人にとってはきわだった象徴的な面をもっていた。日本のプロパガンダが白人の人種主義の実践を繰り返し強調してはいたが、多くの非白人の世界観を本当に変えたのは、日本の言葉ではなくて行動であった。日本人は、支配的な白人体制に毅然と立ち向かった。彼らの緒戦の勝利は、欧米に忘れがたい方法で恥辱と与えた。つまり白人の全能という神話、あるいは白人の実力うという神話さえ永久に打ち壊したのである。日本人の勝利は、非白人が現代世界の進んだテクノロジーを発展させ、使いこなす能力のあることを実証した。黒人指導者ロイ・ウィルキンズが言ったように、真珠湾の大惨事は、少なくとも幾分かは、白人がすべての非白人国家を見下す愚かな習慣のせいであった。」

 

P235-236「人種的な意識が、他者に対する地位や権力の表現――階級意識ナショナリズムや大国意識、それに男女の性差による尊大さなどに比較されるが――としても理解されるとき、はじめて真剣な比較研究の対象となることが明確になる。

こうした研究には、西洋が近代の政治経済学を支配してきたという事実に由来する、先天的なアンバランスがつきものである。工業化した世界は、外部から多くを取り入れることをしなかった。日本のような後発の国は多くを取り入れた。日本は西洋に倣ったため日本人の他者に対する態度は、混じり合ったものになっている。たとえば彼らは、欧米人を見下すことが決してできず、「小さな連中」とも呼べなかった。彼らは欧米人を、猿と本心から呼ぶことはできなかった。なぜなら日本人は、西洋のような大航海やのちの進化論の体験を経ていないためである。欧米人は当初、彼らより強く、多くのことを教えたから、欧米人を子供と特徴づけるのは、意味のないことだったろう。欧米人を嫌悪したり侮辱したりするのを妨げるものが何もなかったものは確かだが、慣用句は、強くて威嚇的で、有用で邪悪で、ピッタリあてはまるものでなければならなかった。それは「鬼」に決まったが、人間の顔を持つ鬼であった。」

P241「第二次世界大戦中の日本人と欧米人との間の民族的、人種主義的な考え方の相違を説明するため、どのような理由を挙げようとも、すべてを包含する一つの一般化は難しいように思われる。つまり西洋における人種主義は他の人々を侮辱することにきわだった特徴があったのに対し、日本人はもっぱら自分自身を高めることに心を奪われていたのである。日本人は、他民族をみくびり、軽蔑的ステレオタイプを押しつけることにかけて下手ではなかったが、「日本人」であるということが真に何を意味するのか、いかに「大和民族」が世界の諸民族と諸文化の中でユニークであるか、このユニークさがなぜ彼らを優秀にしたか、といった問題と取り組むことにより多くの時間を費やした。

この激しい自己への没頭は、結局は手の込んだ神話的な歴史の普及となり、日本の皇統という神授の起源と日本国民の異例な人種的、文化的な均質性を強調することになった。近代日本にとって歴史は、人種的な優越性を断定するための手段として、西洋における科学や社会科学に匹敵するような役割を果たしたのである。そして優越性の本質と言われたのは、要するに道徳主義的なものであった。日本人は、肉体的にも知的にも他の人々よりすぐれていないが、本質的に徳があると言明していた。この道徳上の優越性は、神々しく継承されてきた日本の皇統のもとで、忠孝という最高の美徳を称揚する決まり文句の形で頻繁に言い表わされたが、こうした特質それ自体がより崇高な美徳である「清浄さ」を反映していた。日本人は無敵の方法で自分たちのことを他の人々より「純粋」な存在――古代の宗教的な意味と現代の複雑な効果をあわせもつ概念――であることを示した。」

 

P259「清野(※謙次)もまた西洋人の肌の色についての偏見と、彼らが白にどれだけ近いかを評価の基準として用い、黄色人種は比較的色白だという単純な理由で黒人よりも高く評価されていることを、読者に思い起こさせた。もし西洋的な考え方を論理的に推し進めれば、白兎は黒兎より進化しており、鷺が色だけの理由で鳥よりすぐれていると極論することになろうと、清野は皮肉っぽく述べた。これとは反対に、あらゆる人種が長所と短所をもっていることを認識するのは必要なことだった。互いに補足し合って完全になるよう世界の諸人種を結び合わせることは、壮大な試みというべきだった。

こうした理想主義的な考えから、清野は各人種をその能力に応じて「適所」に置き「適当なる職業」につかせる壮大な事業として、大東亜共栄圏を空想的に描くことにとりかかった。彼は「優良民族」に保護を加え、その人口を増やすよう奨励すべきであると強調した。この点に関して彼は日本政府の公式政策と完全に一致しており、要するに最優良民族とは日本人のことであり、その「適所」とは絶対的な指導者の任務であった。」

P260「こうした理論に接してもなお、中島知久平のような教育程度の高い日本人でさえ、世界の「指導民族」としての運命は、遺伝学的に決まっているばかりでなく、神の力によっても定められていると公言してはばからなかった。この点に関する政府の教条的な教えは、漠然としたあいまいきわまりない言葉で言い表わされることが多く、文化的な諸要素に大きな注意を払ってはいたが、正統的な学説が生来の人種的優越という考え方を奨励していたのは間違いなかった。たとえば、日本人であるということが何を意味するかについて公式の考え方を述べた『国体の本義』は、日本人が「西洋諸国に於ける所謂人民と全くその本性を異にしてゐる」と明言し、彼らが他のアジア人よりすぐれている理由についても説明していた。日本人を他の人民と峻別するものは「根源」であり、それは神の子孫である日本の天皇に対する崇拝と不可分に結びついた忠孝の精神から成っていた。さらに清浄さという主要な特性に触れることなく、この根源について述べることは事実上できなかった」

 

P264「アメリカ人は自らのぜいたくを保つため戦っているのに対し、日本人は自衛自存、大東亜解放、世界新秩序建設のため戦っていると(※徳富)蘇峰は明言していた。この三大目的は三つの同心円のようだった。つまり日本は、まず自国、次いでアジア、そして究極的には全世界を英米人の抑圧から救わなければならなかった。」

P268-270「知的に難解であるにもかかわらず『国体の本義』とか『偉大な神道の清めの儀式』といった論文や京都学派の著作、討論は、戦時中の日本で多くの読者をもっていた。『国体の本義』は、二百万部以上が出版され、学校では必修読本となった一方、京都学派のおもな公開討論の場の一つは、大きな発行部数をもつ月刊誌「中央公論」であった。しかし当時、平均的な市民が「浄化」とは何かと尋ねられたら、あまり抽象的ではない言葉で答えたであろうことは間違いない。日常レベルにおける浄化は、(1)外国の影響の抹消、(2)質素な生活、(3)天皇のために戦い必要とあらば死ぬことを、を意味するものと理解されていた。

これらの訓令の第一は最も単純で、商品、ジャズ、ハリウッド映画といった大衆文化的な流行から「危険思想」まで及ぶ「西洋の」諸影響の追放カタログまで含んでいた。西洋思想の中で独特の堕落した特徴の最たるものは、自己つまり個人への没頭で、より大きな集団への帰属とは対照的であるとされた。この自己中心主義および個人主義から近代の不幸の大部分が生じたのである。すなわち功利主義、物質主義、資本主義、自由主義社会主義、そして特に共産主義である。こういうすでに見てきた無数の公的、私的な言明は、堕落や腐敗による諸影響を日本から追放する理論的根拠を説いてはいたが、戦時漫画ほど大衆レベルでのキャンペーンを簡潔に表現しているものはない。」

 

P272「一例を挙げれば著名な評論家である長谷川如是閑の一九四三年の論文は、日本人が生まれつきもっている性格の本質として「痩せ我慢」を挙げていた。如是閑は、これが侍気質の核心であると次のように述べた。それは道徳上の理想であるとともに実際的な力でもある。その独特の象徴的な表現は、精神的、肉体的な浄化の達成を表わす神道の「禊」に見出される。「痩せ我慢」は、インド、中国、ギリシャの宗教や哲学に見られる「精神的な忍耐力という消極的な性質」とは反対の積極的な態度である。戦時中の日本の英語プロパガンダで極めて人気があった慣用句で言えば、それは日本の「雄々しい国民性」の真髄であった――時には「民族的活力」という言い方もなされた。如是閑は同じような調子で日本の読者向けにも書き、その雄々しい資質が社会の全階層に行き渡っているという点でも日本はきわだっていると指摘していた。」

 

P292-293「この記事が現われるまでに「鬼畜米英」とか「米鬼」という慣用句が、日常の戦争用語として定着していた。そして純粋かつ神聖な故国が、獣のような悪鬼のようなヨソ者として危殆に瀕していることが、あわせて明瞭に描かれていた。清浄さ、不浄、けがれ、獣性、悪鬼信仰といった語彙は、すっかり社会に溶け込んでいた。教室には「米鬼を殺せ」と生徒に呼びかけるポスターが貼られ、一九四三年には、学童を巻き込んで敵を儀式的に絶滅するというユニークな機会があった。アメリカの慈善団体から親善の意思表示として一九二七年に日本の学校に寄贈された約一万二千の青い眼の人形が、ほぼ全部破壊されたのである。サイパン陥落後のプロパガンダの高揚した狂信主義には、こうした背景があったのである。そして純粋な自己および鬼のような他者というレトリックは、壊滅が避けがたいというビジョンと不可分のものとなった。」

P296-297「連合軍の進撃が日本の上に影を落とし、通俗的なマスコミでさえ彼らの雄々しき兵士が草や土を食べていると率直に報ずるにいたると、より劇的なイメージを見つけ不撓不屈の抵抗を描くことが必要になった。「日の出」は、こうしたイメージを古い観念の中に見出した。すなわち「護国の鬼」である。このため同誌は、「鬼神」とする日本の物語も載せた。ここには悪鬼のような敵との矛盾の感覚はさらさらなく、目的のためには恐ろしい力が必要とされる時代があり、明らかにいまほど危機的な時代はありえなかった。しかし、この自己にあてはめた鬼神イメージは、当時の中心イメージのいくつかが、いかに意味深長でとらえにくく融通性のあるものであったかを明らかにしている。」

 

P302「というのは、桃太郎にせよ鬼のような他者にせよ、確実不変のシンボルとなっていなかったからである。われわれは敵を鬼と呼ぶことが、西洋での狩りとか害虫駆除という隠喩に匹敵する、絶対主義者のレトリックの出現を許したことを見てきた。しかし桃太郎の教科書版のように、その一九四五年の映画は鬼のような敵に慣れるようにするため、あまり血なまぐさくないモデルを示した。実のところ同映画の注目すべき特徴は、桃太郎と敵対者の白人がともに人間の姿で描かれたことである。白人は、卑屈で浅ましく鬼の角をはやしており、征服した地域の地図を英語の鬼を表わす名称でけがしていたが、この映画で彼らが徹頭徹尾、鬼でないことは歴然としていた。この映画で彼らが徹頭徹尾、鬼でないことは歴然としていた。こうして桃太郎と白人たちは、人間の特質はもちろん超自然的な特質をも共有する人物として対峙した。この点に関して彼らは、一見したところより実際に似ていたのである。」

P302-303「このように最初の桃太郎=鬼という対立の構図が象徴的に崩れたことは、たとえ当時は明快にわからなかったにせよ、日本が敗北を認めるや否や、純粋な自己と度しがたく邪悪な相手という正反対のステレオタイプを放棄する下地づくりに役立った。というのは戦闘が、それまでに事実上、人間対人間の戦いに戻っていたからである。この本質的に対等という暗示は、日本との戦闘についての西洋の説明で潜在的にせよ完全といっていいほど欠けていたことであった。」

P303-304「大方の欧米人の見逃したのが、日本の宣伝係や論客が同等かより大きい精力を注いだ、ダイナミックな「新」日本というイメージの喚起であった。変化の意識、つまり新時代に入ったという認識は、一九二〇年代、三〇年代の日本で人を動かさずにはおかない理念の最たるものの一つであったことは確かで、限りないほど多様な道具立ての中で表現された。日本国民は、国内での新政治体制と新経済体制、それにアジアと世界中の新秩序という壮大なビジョンの集中攻撃にあっただけではなかった。ありふれた日常生活の場でも、「新」とか「新興」という接頭辞のついた文化にひたされたのである――たとえば新俳句、新写真術、新財閥、新官僚、さらに新興男子、新興婦人まであった。これらの影響は左翼を含む多方面に生じ、とりわけ文化的な領域で国の正統派と対立することが多かった。新しい出発という総合的な理念は広く行き渡り、こうした背景のもとで桃太郎型の人物像が、アジアでの戦争に突入していく時代に日本と日本人の大衆的なシンボルとして採用されるようになったのは、少しも不自然なことではなかった。」

※他国比較のない、改善要求的な要素であるため欧米人から見えづらかったとはいえる。

 

P361-362「西洋の大方のメディアと同様に海兵隊の「レザーネック」誌も戦時中、これを日本人に対する軽蔑の念を強めるために用いた。しかし「レザーネック」の日本降伏直後の一九四五年九月号の表紙は、微妙で意義深い変化を伝えていた。それは、帝国陸軍のだぶだぶの制服を着た可愛らしいが不機嫌な顔をした猿を肩に乗せ、ほほえんでいる海兵隊員を、オールカラーで描いていた。デービッド・ロウの描いた白人の背中を突き刺そうとする猿とか、共栄圏のココナッツをひったくろうとする猿、「パンチ」誌の木から木へ飛び移る猿の侵略者、「ニューヨーカー」誌の猿の狙撃兵、日本人=超人が流行っていた頃に現われた巨大なキングコング、ドゥーリットル隊の飛行士を処刑したというニュースに対するアメリカ人の反応を象徴化した血まみれのゴリラ、「ニューヨーク・タイムズ」紙の失われた猿のシンボル――これらすべては、「レザーネック」が直ちに感じ取ったように、賢く模倣的で飼い慣らされたペットに突如として変身した。猿のイメージの戦時中の側面は、獣性と弱肉強食ということだった。他の側面――平和になり急速に出現したもの――は、魅力と物真似であった。たとえば「レザーネック」と同時期に刊行された「ニューズウィーク」誌の日本降伏に関する特別記事は、敗北を喫した敵を「好奇心の強い猿」と評した。」

P363「こうした父親的な温情主義が、マッカーサーの日本人――と一般に東洋人――に対する態度の本質であったことは疑いない。……「ドイツ人の問題は日本人の問題とは完全に違う」とマッカーサー上院議員たちに告げた。「ドイツ人は成熟した民俗であった。もしアングロサクソンが、その発達段階つまり科学、芸術、神学、文化において、四十五歳だとすれば、ドイツ人はまったく同じように円熟していた。しかし日本人は古代からの存在であるにもかかわらず、学齢期にあった。現代文明の標準からすると、彼らはわれわれの四十五歳という発達状態に比べれば十二歳の少年のようなものだろう。学齢期の常として彼らは、新しいモデル、新しい考え方に動かされやすかった。そこには基本的な概念を植え付けさせることができる。彼らは新しい概念をしなやかに受け入れる白紙に近い状態であった……」

松下圭一の日本人論(補論)

 今回は前回の補論も兼ねる形で、松下の「日本人論」を考察してしたい(※1)。思えば、松下の「社会教育の終焉」のレビューにおいて、「日本的」であることの文脈の捉え方に違和感を覚えたことが、その後の私の日本人論の検討にも大きな影響を与えたように思う。実際、松下の市民論と「日本人論」は切っても切れない関係である。松下が「既存の理論」について全否定する態度に富んでいたことはすでに指摘したが、これは「日本人論」に対して「権威性」を見出すことで同じような議論を繰り返しているのである。

 もちろん、あらかじめ断っておくが、松下の日本人論批判についても、その妥当性が十分に検討されているかは言い難い。合わせて、松下の日本人論もかなり歪んだ議論を展開している。

 

 松下の日本人論は、「国際化」の議論を踏まえた「改善要求」の文脈の議論をすでに1977年の時点で展開している。そして、この視点は地方自治体における「分権化」と共に何故か出現した「国際化」の必要性として議論されることとなる。

 

「そのうえ、経済の国際化とともに、日本の文化構造の総体が、エコノミック・アニマル、セックス・アニマルというかたちで、国際試練をうけはじめた。国際社会での個人の行動様式は、彼が育った国の文化構造を延長したものである。まず日本における開かれた市民文化の成熟がないかぎり、批判をうけつづけざるをえない。今日の日本の文化構造と、奈良、平安や江戸の文化遺産とは、別の次元の問題である。」

(「新政治考」1977:p55)

 

「ようやく、この分権化・国際化・文化化には、市民活動を背景に、自治体レベルで先駆自治体がふみだしたにすぎない。政党相乗りで沈静しているようにみえるとしても、先駆自治体が日本の国レベルの政治に対する、実効ある「野党」となっているのである。」(「政策型思考と政治」1991:P74)

 

 

 当然、その批判は「日本的なるもの」に向かう。まず、ある所では「風土的」なものを指摘する。 

「日本の工業化にともなう都市人口の拡大は、こうした風土的背景のもとに進行する。ここでは都市的生活様式の未確立、別の言葉でいえばシビル・ミニマムの欠如となり、農業社会的生活感覚が滞留することになったのである。生産力世界第三位をほこる今日の日本の都市的生活水準の低劣性はたんにアジア的貧困の継続とみなすことはできない。むしろ風土的条件からきた国民自身の生活欲求水準の低さ、すなわち都市的生活様式の未成熟からきているといわなければならない。これを前提としてはじめて、明治以来、中央政府の生産資本優位、社会資本無視の経済成長政策が可能になったのである。政府を批判することはやさしい。しかし国民自身ないし都市人口自体がいまだ農村的生活感覚から脱却しえていないことをより強く問題としなければならないだろう。」(「シビル・ミニマムの思想」1971:p190)

 

「だが日本では都市と農村が連続し、農村からの都市の自立、したがって都市的な生活様式の自立がみられなかったといってよい。日本でも今日、工業の産物としての鉄とセメントによるコンクリート建築が登場しはじめ、ヨーロッパと材質的には異ならないようになってきたが、いまだこの都市の自立性したがって都市的生活様式の自立性という理念は未熟なのである。こうして日本では交通機関ぞいの無限の都市スプロールとなり、逆に農村的生活様式が都市に浸透する。」(「シビル・ミニマムの思想」1971:p189)

 

 ここで指摘されているものの意味は少し解釈が難しいが、どうやら都市と農村の生活様式があまり変わらないことを問題視しているようである。もっとも、ここでの「都市的生活者=市民」は自律したものであるという「規範概念」を持っている松下にとっては、都市として自立した、個性あるものとして存在すべきものであるとされているが、その前提が明確にあるからこそ、このような主張が成立するものと考えられる。

 同じような説明がレジャーの話でも語られる。

「また地域にはいまだ集会施設、スポーツ施設、それに公園、散歩道が公共的に整備されていない。つまり、シビル・ミニマムの未整備である。この結果、レジャー産業への指向が異常拡大するのである。とすれば、レジャー問題は時間の余裕の問題だけでなく、空間の構成の問題と見なすべきである。この意味で、日本におけるレジャー産業の異常肥大は、公共空間構成の貧困にもとづく大衆収奪のチャンスの拡大となっている。しかもそれは同時にGNPを空虚に拡大しているのである。」(「都市型社会の自治」1987:p145,論文は1972年のもの)

 

 「GNPの空虚な拡大」を問題視しているのは、要するに公共性のあるもの=シビル・ミニマムに対する無計画性について指摘しているということであり、この点からも自律的な都市の発想が欠落しているものと認識しているといってよい。

 このことについては、<私文化>の問題としても語られる。

 

「日本では、〈私〉は、共和への連帯をつくりえなかった。どこまでも〈私〉どまりであった。〈公〉はオカミとして〈私〉に対立しただけである。……

 これでは、〈公〉のストックとしての都市づくりができず、そのための思考訓練もつみあげられるはずはない。〈私〉文化構造は、東洋専制における農村型社会でうまれたものであるが、都市型社会の成熟とともに破綻する。これが日本において、かつて福祉・都市・環境問題が激化した理由であり、今日の都市のみずぼらしさの背景である。」(「市民文化は可能か」1985:p204)

 

 また、次のように歴史的な「城下町的都市構造」なるものに触れ、それが中央主権的な日本の構造を生んだという指摘もある。

 

「このように日本の都市はヨーロッパと異なった性格をもっている。したがって日本の都市の主流をなす城下町的都市構造が、中央集権的明治国家へとつらなり、これが東京を中心とする都市の階層制をつくりあげていった。」(「都市政策を考える」1971:p13)

 

「古代以来、日本の都市は、自治武装共同体ないし都市共和制の伝統をきずきえなかった。古代国家の崩壊したのち中世にいって共同体的な惣村、惣町が叢生し、とくに界や平野、博多などでは商業的富の蓄積によって都市共和制の萌芽がみられたにもかかわらず、都市は封建領主によって弾圧ないし再編されて城下町となり、幕藩体制へとつながっていく。明治以降の日本の都市の主流はこの城下町である。それは自治の塁ではなく権力の塁であった。

 ヨーロッパにおいては、都市国家という古典古代の地中海文化の都市イメージが継承され、広場、公会堂、城壁にみられるように都市共和制による自治が開花していった。」(「都市政策を考える」1971:p12-13)

 

 これについてもいまいち違いが説明できていないものの、「自治の塁」か「権力の塁」かでその違いが説明できるらしい。いずれにせよ、海外との比較を行っているにせよ、松下の日本人論は「日本は伝統的に権威的である」ことを主張することに終始しているといってよいだろう。 

「日本の国家観念は、官治・集権的統治による近代化=工業化・民主化をめざし、官僚むけには『帝国憲法』、庶民むけには『教育勅語』を規範に、つくりあげられた人工観念である。……その結果、内面の自由=寛容、ついで言論の自由=討論という市民文化の未熟となる。〈東洋専制〉の基層文化を結集し、軍隊内務班から家元制度、また「会社」主義を典型にもつ、「日本文化」の構造がこれである。そのとき、政治は、国家ないしオカミからに現世利益の配分・受益をめぐる利権競争に堕してしまう。これが、市民自治の対極にある国家統治の現実なのである。」(「政策型思考と政治」1991:p76)

 

「古くから、支配ないし搾取・侵略が聖宇宙の秩序とみなされ、戦争は神の名において、奪権は人民の名において美化されてきた。政治は聖宇宙のなかのドラマだったから、シナリオはかくされたままだったのである。政治の脱魔術化がすすむ今日でも、〈詐術〉としての、この二重思考があらためて進行する。これが、ジョージ・オーエルによる、ヒトラースターリンをふまえての問題提起であった。

この詐術は「全体政治」でなくても、政治ではたえずおきる。この詐術がまかりとおる理由は、目的・手段関係の逆転という文脈である。

  1. 手段の肥大 日本的発想のおける、教師暴力としての「愛の鞭」がこの詐術の典型であるが、ひろく政策目的の空洞化による手段の独走がおこる。
  2. 目的の肥大 日本的発想における、「社会教育」がこの詐術の典型であるが、政策手段によっては不可能なことが、目的の美化によって誇示される。

この詐術は、閉鎖状況でおきるため、これを切開するには、第一に、情報の公開、言論の自由、複数政党による相互批判の多元化、第二に、自治体、国、国際機構における相互抑制の重層化、という、《分節政治》が要請される。政策の発生源・批判策の多元化・重層化である。」(「政策型思考と政治」1991:p168-169)

 

 松下の日本人論は、典型的な「近代化論」に支えられた日本人論であり、その目指すものは単一的なものに置かれており、その進歩の発想も直線的である。丁度杉本・マオアでレビューした際の時代区分でいくと、第5期の言説そのものであるといえる。

このような見方においては、日本は後進的な位置に置かれ、将来的にはそれが解消されるという方向性を持つことになる。松下の「段階論」的言説にも親和的である。

 

「欧米対日本という対比での日本的特性とは、工業化・民主化=近代化がうみだす、都市型社会の「熟度」という時間のズレからくるにすぎない。事実、日本人も、先発国の人々と同じく、近代化ないし都市型社会の成立について、生活様式はもちろん、体型から心性まで、変ってきた。」(「政策型思考と政治」1991:p343)

 

「第二に、日本における今日の文化状況の閉塞は、日本におけるマスコミ論調の画一化ともいうべき、同調性とむすびついていることに注目したい。日本の政治ないし文化には、いまだ国家・官僚崇拝がつづき、政権交替のない「中進国状況」が基本にある。政治・行政の中進国型官治・集権性という問題次元は、個別の先端工業製品や伝統工芸作品における日本のすぐれた水準とは別である。そこでは、情報の多元化・重層化ないし分権化・国際化が、IT技術とあいまって進行するにもかかわらず、政治・文化状況は一国閉鎖型となる。」(「転換期日本の政治と文化」2005:p210-211)

 

 ここまでは通常の近代化論的日本人論にもよくある議論である。しかし、松下はここでは留まらない。やはり議論が歪む。それはすでに論じた通り既存の理論の批判と合わせて出てくるものである。松下は「日本文化」論者に対して批判するのに際し、次のような主張を行っている。

 

「文化についても、評論家たちは合言葉のように「日本文化」、「日本らしさ」、最近の憲法論議では旧「国体」にかわって「国柄」と言ってますが、「日本文化とはなにか」と問われたら誰も答えられません。都市型社会の今日、実質は図1-3のように、日本文化をふくめて国民文化は世界共通文化と地域個性文化に分化しつつあるからです。事実、皆さん方でふんどしをしている男性の方は一人もいない。女性の方で丸まげをしていらっしゃる方もいない。

 

 しかも、今日、日本の文化状況の閉鎖型同調性こそを、あらためて問題とすべきでしょう。」(「自治体再構築」2005:p49-50)

 

「ここから、従来の「日本文化論」の幻想性ないし虚偽性を批判するとともに、私が一九八五年の拙著『市民文化は可能か』以来強調してきたのですが、地域景観というカタチをつくる、市民ついで政治・行政、経済・企業また思想・理論の文化熟度を問題としていく必要があると考えます。」(「自治体再構築」2005:p58)

 

「国民文化は、近代国家ないしその建国に参加した政治家、官僚など、あるいは知識人が意図して「人工」によってつくりだし、やがて順次「国民」をくみこんでいった共同幻想です。明治以降の「和」や「禅」の神秘化などがこれです。共同幻想であるがゆえに、今日、「日本人」あるいは「日本文化」とは何かと問われたとき、まとまった共通理解というかたちでは、誰も答えられないではありませんか。この点は、ひろく各国でもみられます。」(「自治体再構築」2005:p63)

 

「とくに、敗戦後、いわゆる「戦後民主主義」の啓蒙期では、欧米デハ、ソ中デハ、つまりいわゆる「出羽神」の発想がみられた。この問題設定がいかに悲惨だったかを考えてみるべきだろう。日本の理論家たちが戦後、米欧に「近代」、ソ中に「未来」をみていたとき、米欧自体はすでに「現代」にはいり、ソ中は「後進国」だったのである。」(「現代政治」2006:p195)

 

 

 松下の議論の面白い所は最初の引用のような主張を平気でする点である。実際の所、松下が語る日本人論は当時存在していた日本人論を丁寧になぞっており、ある意味で一般に流布しえた日本人論と変わりがないといえるが、それを批判する際に、自分が語ることのできていた日本人論を「語ることができない」と言いだすのである。ここでは、「日本文化」を極度に具体化し、具体化された「日本文化」は現実に存在しないことを根拠に幻想性を強調する。しかし、例えば、松下は日本人の「権威性」や「集団性」について十分語っているのであり、やはり「日本文化」は明確に存在していることを自ら証明しているはずなのである。

この「文化」についての捻れた松下の理解は極めて重要な論点となる。松下の当為論は常に「精神論」であり、実態化する「モノ」としては語られることがない。これこそ立派な「共同幻想」である。これを「語ることができない」ものとして捉える発想自体が、松下の自己批判そのものであるといえるのである。このレベルの議論を始めてしまうと、実証性なき「規範概念」を語る松下の議論は全否定せざるをえなくなる。にも関わらず松下は他の理論家を批判する時は、平気でそのような批判を行ってしまっているのである。「日本人論」に着目すると、その論点が露骨に浮かび上がってくるのである。

 

 しかし議論を続けるべきは、3つ目の引用でも松下が明言するように「共同幻想」はどの国にでも存在することについても松下は自認している点を確認できることである。これは更に話をややこしくする。これは松下が語っていたつもりの「他国の文化」も同時に語ることができないことを意味し、それこそ何故「他国は自律した地方自治を行っている」ことを松下が明言しているのかがわからなくなってくるからである。

 

 「日本人論」の観点で松下の議論から学ぶべき点は、まず松下の用いる「日本」という言葉が「改善要求」と同義で執拗に語られている点であり、それが「海外」との対比を語っているようでいて、多分に理念に基づいた「自己言及的」なものにすぎないことが明確であり、その自己言及性にこだわる態度をとっていることで自己矛盾に陥る、という点である。少なくとも、松下が語る「日本人論」の一切は、松下自身の手によって否定されているのである(※2)。

 

※1 以下、「日本人論」として松下の言説を考察するが、松下の場合はむしろ「日本」について対象にし  ている傾向が強い。ただ本旨はこれまでレビューしてきた日本人論の系譜においても何ら問題はないため、本稿では統一して「日本人論」として考察する。

 

※2 最後に一つだけ補足をするならば、日本人論に限らず自己矛盾を抱えた「ネタばらし」の言説は00年代以降の松下の言説に集中している点も注目しておくべきだろう。これは松下の議論が捻くれているのは晩年だけである、という主張を行いうるということにもなる。しかし、私はやはり90年代までの松下の言説が負っていた「負債=自己矛盾のリスク」に松下自身が耐えられなくなり、それを自ら語るようになったに過ぎないと考える。それこそ松下的な発想での「地方自治」論の一つの限界が00年代の言説を支えていたのではないかと思うのである。

松下圭一の市民論再考(2/2)

○松下にとっての「教育」とは何だったのか?

 

 さて、2つ目の問いである。この「市民」に対する意味合いについても過去の言説から分析してみたい。ただ、これに答えるためにはまず、松下における「教育する主体」についての議論をしなければならないだろう。

 すでに「社会教育の終焉」のレビューで松下が大人への教育について批判していたのをみてきたが、まず押さえなければならないのは、「社会教育の終焉」以降はこのような形での「教育」という言葉は全く語られていないものの、80年前後までの松下の言説には「教育」という言葉が成人に向けられたものとして語られていた点である。引用しよう。

 

「都市改造には、現代都市問題への社会科学理論的展望をもった土木・建築家の育成ないし社会科学者との協業が必要とされる。しかし従来の大学工学部教育においては、これまで都市計画についての理論蓄積も少ない。……さしあたっては既成の土木・建築家の再教育が大学ないし関係職員団体によって行われなければならない。

いうまでもなく都市改革の前提は新しい都市ビジョンの構成である。新しい都市ビジョン構成にあたっては専門家もまず市民として発想し、都市改革の主体たる広範な市民とそれを共有しなければならない。そこではまず第一に市民参加の新しい組織論が構想されなければならない。ついで第二にそれにともなう都市改革を課題とした政策科学としての都市科学の形成、したがってその政策技術の展開とその専門家の養成が必要である。第三には都市専門家の自主管理の倫理と機構が提起されなければならない。」(1971a:p211)

 

したがってまたシビル・ミニマムの提起の市民教育的効果をも考えてよいであろう。それは地域における公害規制の基準、市民施設の基準などをめぐっての討論の問題提起であり、また汲取清掃車の増加か下水道の建設かの選択をせまることになる。日本では、シビル・ミニマムの提起がはじめて都市生活基準をめぐる意識の開発となるという意味で、それは市民教育的啓蒙性をもちうるのである。

これまでの日本の社会科学はこの問題領域に充分とりくんでいなかったように思われる。政治の科学化のためには、またこの意味で、社会科学自体も体質転換しなければならない。」(1971a:p294)

 

「この市民的自発性の大量成熟には、まず〈工業〉の拡大が重要である。それは生活の飢餓水準からの脱却、ついで生活様式からの意識形態の変化ことに教養と余暇の増大をもたらす。これは私生活埋没への条件でもあるが、同時に市民的自発性を育てていく条件でもある。民主主義は貧困と無知の上には永続しない。この条件は、日本でようやく形成されはじめてきた。

この市民的自発性成熟条件としては、ついで〈民主主義〉の制度自体がある。それは制度の教育効果として、国民の政治参加・訓練の機会を増大していく。自治体から国にいたるまでのあらゆる政治決定への参加の制度的保障、それにともなう市民内部における統治経験の蓄積がまた、結果として市民的自発性を培養し、したがって政治的成熟をうながしていく。」(1971b:p66-67)

 

ゴミの処理システムなどへの市民参加は、市民教育そのものである。それは、行政としての社会教育講座よりも教育的である。東京の官庁や企業本社が排出するゴミの分別を幹部たちの市民教育として、率先しておこなわせる時点にきているのではないか。」(1980b:p170)

 

 この4つの引用で語られる「教育」の意味合いについて確認しておこう。

 まず、最初の引用では既存の専門家の能力が不足していることから、大学での再教育が必要であると述べられる。この専門家は市民としては限定的な存在であり、他の3つと比べると、特殊な市民についての議論であるといえる。また、教育のイメージも通常の大学での教育と同じ知識等を身に着ける教育であるといえる。

 

 2つ目以降の引用は多少通常の「教育」とは異なる用法であるといえる。それは一つには、2つ目の引用に見られるような「啓蒙性」ありきで議論しているということである。「問題提起」を生みだすものに対して教育という用法を用いているといえる。

 また、この啓蒙性とも関連して、「市民参加による経験の蓄積」についても教育という言葉を用いている。特に最後の引用は社会教育との対比をしている点で注目すべき点である。「社会教育よりも教育的である」というのは、「ためになる」程度の意味で当時用いていたのかもしれない。しかし、このような態度の取り方は80年代中頃には変化が出てくることになる。

 

 さて、この2つ目以降の引用における「教育」というのは、その後も「教育」という言葉が用いられないまま、松下の言説で繰り返し用いられていることをまず指摘せねばならない。

 

「市民参加・職員参加の手続にもとづく、シビル・ミニマム設定ついで自治体計画策定をめざした政策情報の整理・公開こそが、市民、職員、首長、議員が政策立案能力をもつ「市民」へと成熟していく基本条件になる。そこで、はじめて、自治体改革、つまり行政スタイルの転換が可能になる。」(1994:P223-224)

 

「以上の結果、政策・制度づくりは、政治家・官僚の身分特権ではなくなる。今後、情報公開・市民参加の手続開発がさらにすすめば、政策・制度の立案・決定・執行への市民参加は加速され、市民の政治成熟をうながす。そのうえ、政治家・官僚も、文化水準・政治習熟の変化した市民のなかから、特定の選出・任命の手続をへて、「職業」として選択されるにすぎない。」(1991:p93)

 

「さらには、職員がカリキュラムをつくって公民館で市民を教育するという「社会教育」行政もとっくに終焉しているとみるべきでしょう。「生涯学習課」と名を変えていてもおなじです。社会教育は自治体職員がエライという前提をもつ後進国行政です。このため、市民みずからの自治訓練・自治学習の機会の拡大という、市民活動ないし市民参加方式からの出発が、今後の自治体のあり方の基本となります。」 (2010:p155)

 

 これらの引用はかつての松下の言説でいう「教育」の用法と同一ないし酷似した部分であるといえるだろう。ここでは「成熟」「訓練」「学習」といった言葉が「教育」の言い換えとして述べられているといえる。

 もっとも、85年頃から松下が『教育』批判で用いていた『教育』の用法は、80年前後まで松下用いていた「教育」の用法(特に、先ほどの四つの引用のうち、二つ目以降のものの用法)と関係なく、「教育」という言葉を用いていたのも用法的に誤りであったため、以後「教育」という言葉は用いなくなった、という開き直りのされ方はありえるだろう。これを検証するためには、松下自身が『教育』批判をする際に、どのような『教育』の用法を用いているのか論じなければならない。

 

○松下の定義する『教育』と「文化」とは何か?

 

 松下が用いている『教育』について検討するための前提として、松下は義務教育段階での教育については容認していることを踏まえると、基本的には「子どもが受ける教育とは何か?」をまず検討する必要がある。「社会教育の終焉」において、松下は教育とは「文化の同化」であると明言する。

 

「教育とは教え育てる、つまり未成年への文化同化としての基礎教育を意味するとみなければならない。今日の日本ではこれは高等学校水準であろう。」(1986:p3)

「たしかに、成人も、学校型のチャンスで学ぶこともありうる。それにこの学校型受講を愛好する層もある。だが、これは、未成年の教育ないし学校の意義とは質的に異っている。それらは、社会の文化水準への同化という義務教育を終えたのちの、成人市民の自由な選択たる文化活動だからである。基礎教育ことに義務教育には、学校という制度強制がつきまとうのは、この社会の文化水準への同化という課題があるからにほかならない。これを終えれば、成人は自由な市民ではないか。」(1986:p85-86)

「教育すべき「真理」があると考えうるのは、先進国状況をモデルとした後進国状況の思考形態である。先進国状況にはいればモデルを喪失してオサキマックラとなる。このような先進国状況では、文化同化という未成年への基礎教育はありえても、オサキマックラというモデル喪失がすすむため、成人にたいする教育はありえない。教育とは、既成の文化構造ないし期待されるべき文化構造という規範モデルを教育規範とした文化同化である。先進国状況になればなるほど、成人市民にたいする教育は不可能となる。」(1986:p89)

 

 ここで、特に注目すべきは「教育とは、既成の文化構造ないし期待されるべき文化構造という規範モデルを教育規範とした文化同化である」と述べている点である。この中の「既成の文化構造」についてはわかりやすい。例えば、「ここで、教養とは、義務教育の普及による「読み書きソロバン」を下限とする」(1985:p76)といった言い方における文化構造は間違いなくこれにあたる。しかし、「期待されるべき文化構造」とは何なのか?これを検討するには、今度は松下の「文化」の定義も含め捉えなければならない。

 例えば、「文化」とは何かについて、松下は次のように述べている。

 

「文化は、文学・美術だけではない。地域環境そのものがまた文化でなければならない。歴史景観をふくめた地域のあり方、さらにはこの地域づくりの運動こそが市民文化そのものといってよい。日本での文化イメージは地域とむすびつかなかったがゆえに、明治以降、市民文化がなりたちにくかったのではないか。」(1980b:P192)

 

ここでいう「文化」というのは何か具体的なものについて指しているのではなく、文化を作ろうとする「運動」に対してそう呼んでいるといえるだろう。

 このような文化観は「文化行政」や「行政の文化化」という言葉を語るときに顕著となる。

 

「この文化行政の提起の今日的意義は、行政の文化化つまり行政とくに職員の文化水準の向上という、自治体レベルでの行政の意識革命をめざす独自運動という点にもとめられる。」(1980b:P217)

 

「文化行政とは何か、と問われるならば、それは、市民の文化活動、それにともなって市民文化が成熟するための条件整備をめざす、自治体行政内部からの新しい行政課題の設定ということになろう。あるいは、市民が、自由に、地域特性をいかし、自治手続をきづきながら、市民文化をうみだしていく地域づくりに対応できるような、自治体行政の自己革新の追求といってよいであろう。

 とすれば、文化行政とは、行政そのものを明治一〇〇年におよび国家中心の官治・集権型から、市民を土台とし地域特性を伸ばす自治・分権型への体質転換をよびおこす自治体行政内部からの新しい課題設定といわなければならない。」(1981: PⅠ)

 

「もちろん「行政の文化化」という語法については好悪がある。しかし、問題は、この語法で何がそこで意図されているかである。今後、適当な用語があれば、それに変っていくであろう。ここで意図されているのは、行政の体質革新としての行政水準の上昇という、文化行政そのものの課題である。

 このようにみれば、文化行政は、市民文化の成熟、さらには行政の文化水準の上昇に応じて不要になっていくことも理解されよう。市民文化の成熟は、自治体レベルから行政自体の文化水準をあげ、官治・集権型から自治・分権型へと行政体質を転換させていく。文化行政は、いわば過渡期の産物なのである。この過渡性のゆえに、現在、文化行政は自治体の戦略的急務となっている。」(1981:p11)

 

 私の言い方であれば、ここでいう「文化」とは既存の体質(文化)に対する「改善要求」に応えるものとして語られているのである。いわば「意識の問題」として「文化」が語られ、「意識の向上」に対して「文化化」という言葉を用いているのである。

 このように「文化」を捉えた場合、義務教育で教えられる「文化の同化」というのはどのように捉えればよいのか?本来であれば、具体的な「期待されるべき文化構造」に対してそれを身につけることを指すともいえるだろうが、松下はその具体性については全く述べていないし(述べる気がそもそもないとも言える)、むしろこれについては「行政の文化化」と同じような意味合いで「文化水準の向上」のための「意識の向上」のための手法を身につけることを指していると解釈する方が自然であるように思えるのである。これは学校教育の議論で揶揄されていたような「化石化した知識」を教えることではなく、「学習姿勢」を身につけることが重要である、という言い方と同じものを想定しているのではないか、ということである。次のような指摘からも、重要な点は「変容」にあり、「新しい文化」そのものではないように見えてしまう。

 

「くりかえすが、市民文化という文化自体は存在しえない。今日の日本において存在するのは、たえず変りつつある現代日本文化があるだけである。この現代日本文化の担い手である個々の人々の政治イメージのあり方として市民文化が問われ、さらに市民型への日本文化の変容がめざされているのである。」(1985:p31)

 

 もしこの仮説が正しいのであれば、70年代に松下が議論していたシビル・ミニマムの概念の普及や市民参加の与えていた「教育」の言葉の意味も、85年頃からの『教育』批判の議論から飛躍している訳ではなく、基本的には同じ意味合いで用いているということになるだろう。

 そうであるならば、前述した開き直りの態度は誤りであると言うべきである。結局松下は80年代以降の議論において「教育」という言葉を使っていないだけで、大人に対しても「教育」をする態度で臨んでいたことになる。つまり、市民は「教育される主体」であり続けているということである。

 

地方自治における「決定」は市民によりなされると松下は考えていたのか?

 しかし、もう一つ注目しなければならないのは、松下の言説における「市民」の対象の変化である。特に90年代に入ってから松下はいわゆる一般的な市民を対象にした議論ではなく、行政職員を「市民」として捉え、「文化の行政化」をはじめとした議論をもって「意識の向上=教育」を図ろうとしてきたのである。

 これは、松下自身も「教育」という言葉を使わないだけでなく、結果として「放任」する形にしなければ、「市民」を教育する立場になってしまうことを自覚していたからであると思われる。また、松下の理論としては「市民」はすでに成熟しているため、「教育」される必要がないから、議論をしないという「理論の力」も借りながら、このような転換を図ったといえる(※2)。

 もちろん、これも矛盾を抱える。「市民」は成熟しているのに、「市民」として扱うべき「行政職員」の方は何故か未成熟であり、教育の対象とされるのである。

 

「そのうえ、各政策課題はひろく量充足から質整備に移り、そこに政策水準の上昇という行政の文化化がめざされます。このため、職員のいわゆる研修も問いなおされてきます。」(1996:p212)

 

「この(2)について(※行政機構の政策水準の向上)は、職員の採用・研修・昇任制度との関連で、長の人事についての見識のほか、行政職員の二つの可能性を注目しておく必要がある。

1.プランナー型 行政職員自体が「政策知識人」となるために、プロジェクト・チームの編成などによって、書記型から「企画型」へと変る。

2.プロデューサー型 行政職員が外部の「政策知識人」を結集して、市民委員会ないし審議委員会・行政委員会をプロデュースする「演出型」へと変る。」(1991:p192)

 

自治体の政策・計画は、たとえ水準が低くてもその自治体で市民参加・職員参加でつくっていくかぎり、漸次、策定の経験・手法がその自治体内に蓄積されて、水準もたかくなっていきます。独自に自立して策定するといっても、もちろん、専門家の意見あるいは幅広い情報の集約は必要でしょう。しかし、これらの意見・情報は、その自治体にとっては参考にすぎないわけです。」(1996:p88)

 

 また、このことに合わせて改めて問わねばならないのは、「地方自治」における決定者は誰か、という問いである。松下の場合、これは言うまでもなく、「市民」によりなされるべきものであったはずである。

 

「したがって、民主的住民組織の形成ないし既成住民組織の民主化をとおした都民の民主的エネルギーの結集が考えられねばならない。このヨコのひろがりの民主的地域組織の形成・結集は、また既存のタテ割りすなわち企業別労働組合にのみ依存しては不可能なのであって、新しい運動形態が必要なことをここで指摘しておく必要があろう。この地域における直接民主主義こそが、なによりも都政改革、そして日本の民主主義の原型である。

 しかも、この地域の直接民主主義は、主体的参加をふまえた管理能力をも蓄積しなければならない。水飢饉の場合も、金持ちは井戸を掘って個人的に解決する、貧乏人は雨が降らないかと天をあおいでいる、といった状況のもとでは、公共的解決すなわち民主的参加による解決は不可能なのである。地域民主主義にもとづくこのような公共的解決能力そして公共的統治能力の訓練、すなわち市民的訓練こそが、今日、工業社会における市民にとって、従来の農業社会以上に必要とされている。」(1965:p152)

 

「このような激動の都市革命、ことに現代都市問題の激発の過程において、都市政策を構想し実現していく主体的可能性はどこにあるのだろうか。

 その可能性は私たち自らが追求しなければならない課題である。しかもその可能性は私たち内部にひそんでいる。それは、私たち自身が、政治的自発性ある自由な<市民>となることによってである。」(1971b:p56)

 

「(b)政治機能の拡大の結果、国・自治体レベルでの政策決定は、市民生活に広汎な影響をもつとともに、そのためかえって政策決定への参加をめぐって市民運動が噴出しはじめ、自治体・国レベルの多元的重層的な政策主体間の調整が要請されるにいたった。

 歴史的にみて、政策形成ないしそれにともなう政策選択は、かつては帝王の秘術であり、大衆民主主義が成熟しないかぎり、一九世紀ヨーロッパ、戦前の日本にみられるように議員・官僚の身分的特権性をともなった統治技術にとどまっていた。しかし今日では、政策主体は、市民レベルから、大衆団体、企業、支配層組織、ついで政党あるいは自治体、議会・政府さらに国際機構をふくめて多元的重層的に拡散してきた。もちろん、国民経済を基盤とする国民国家の地域的統一性・権力的独占性を前提として国レベルの中央政府が最強の政策主体としてあらわれる。だがこのことは中央政府の政策が焦点となっていることを意味するにとどまり、政策形成の主体が多様に拡散していることこそ注目すべきである。したがって市民による政策形成・選択のチャンスが拡大してきたのである。」(1971b:p77)

 

 しかし、91年の著書では、このような市民による自治観について明確に疑義がでるような主張をいくつか行っている。特に「決定主体」についての次の主張が松下の議論全体に与える意味合いはあまりにも大きい。

 

「決定主体はかならず個人である。政治には〈公共責任〉をともなうが、そこでの決断は、組織・政府の内外を問わず、つねに個人による決断である。長ともなれば、ひろく市民、さらに組織・政府にたいする〈個人責任〉をともなうため、辞任・交替も問われる。」(1991:p162)

 

 ここで問い直す必要があるのは、「市民」はここでいう地方自治に関する決定主体たりうるか、という点である。まず、この主張には合議体的なものに対する決定主体についての議論が欠落している。それよりも「市長」や「行政職員(の代表)」がこの決定主体であり、「市民」というのは、その決定者の周囲にいる「周辺者」以外の何者でもないのではないか、と思えてしまう。このような考え方はそのままこの91年の著書で提起される「プロデューサー型」の行政職員像にもあてはまる(1991:p192、前掲引用)。結局、ここでの決定主体はプロデュースされる「政策知識人(専門的知識を持った市民)」ではなく、プロデュースする側である行政職員である。これは松下も「政策知識人は、決断の責任を直接もたない。いわば、「浮動」する位置にある」(1991:p190)とみなしていることから松下の議論として正しい認識だろう。

 つまり、政策主体とされてきた「市民」というのは「決定主体」ではなく、せいぜい行政等から出された提案に対する批判者としてふるまうか、アイデアを出したにせよ、「決定主体」として振舞うことは決してできない存在でしかない、ということである。

 確かに松下にとって市民とは常にエゴイズムの権化であり、利害関係については自らでは判断できる主体として設定されていない。

 

「それゆえ市民運動は、伝統規制によるムラ状況が崩壊して、市民内部に多様な階層、職業、価値の分化が政策対立へと進行するマス状況から出発する。したがってまず、市民内部における地域対立、党派対立の確認が必要である。その政治参加もマス状況も反映して浮動的構造をもっている。こうして市民運動は、さしあたり、エゴイズムの氾濫という批判をうける性格をその特質としてもっているとみてよい。(1971b:p175)

 

 このような状況において、何をもってエゴイズムに留まらない公共的決定がなされうるのか。松下は確かに「シビル・ミニマム」という水準設定の作業がその担い手になりうることについて述べている。

 

「それゆえ市民運動は、シビル・ミニマムをめぐる討論をつねに組織することによって、エゴイズムのぶつかりあいを自治体による都市政策の策定・選択にまでたかめ、市民の政策構想をゆたかにしていかなければならないだろう。そこから市民、自治体さらに国というタテの循環構造を知的に誘導しうる条件を市民みずからがつくりあげることができる。これが市民自治なのである。」(1971b:p147-148)

 

「シビル・ミニマム手法の導入。……これがなければ、市民のいわゆるエゴイズム、職員の部課割拠主義、首長・議会の集票活動の力関係によって施策がきまり、施策の計画性を保障できなくなる。とくに他の自治体との比較、国のナショナル・ミニマムとの対置によって、各自治体はその施策の位相を客観化できる。」(1987:p215)

 

 しかし、一見客観的な指標にみえるシビル・ミニマムについても、政治的判断の産物であると松下は述べている。

 

「ただ、私は、シビル・ミニマムつまり個々の施策基準設定は、科学的決定ではなく、政治的決定だということをくりかえしのべています。老齢年金は円表示、建築の高度規則はm表示、特定物質の環境基準はppm表示などというかたちで、どうしても指数表示は必要となります。そのとき、科学は検証可能な実証研究によって、xからyの間がその時代の科学水準からみて「許容量」という《情報公開》はできます。けれども、ミニマムの最低基準をきびしくするか、甘くするかは、市民参加手続による合意をふまえた《政治決断》によると、たえずのべてきました。いわゆるテクノクラットないし官僚の無謬神話にかたむきがちの科学決定主義には、私は反対でした。」(2005b:p122)

 

 ここで、「シビル・ミニマム」が他の松下が設定する規範概念と同様、循環論法に陥っていることがわかる。闘争を解決する手段が闘争を生んでいるのである。とすると、やはり、この解決は「シビル・ミニマム」によっては解決しない。ではどう調停されるのか。それこそ、「決定主体」である「行政職員」による「調整」にかかっているのである。そして、松下はそれを実現する能力を行政職員に要求するのである。

 

自治体における従来の専務作業はコンピュータに入り、技術作業は外部化していくため、職員の課題は分権段階の今日ではプランナー型ないしプロデューサー型に変わります。ここから、職員には政策・制度の開発・実現能力が不可欠として問われていきますから、職員すべてに指数の作成・読解が要請されます。従来の自治体統計課は国のいわゆる官庁統計の消化であるため、この自治体の政策数務とは異次元と位置づけ、今後双方をどのように関連づけていくかを各自治体それぞれに工夫するとともに、この自治体政務をふまえて国の官庁統計の再編をきびしく考えていきたいと思います。」(2003:p14)

 

○「市民行政」という言説の欺瞞について

 

 もっとも、これにも別の側面からの批判が考えられる。「市民行政」という考え方がそれである。先述のボランティアの議論でも少し触れられているが、既存の行政職員が行っていることを市民に委譲し、「大きな政府」を「小さな政府」にしていく必要性について松下は強く主張している。

 

「市民のボランティア活動ないしコミュニティ活動という「市民行政」が「市民立案」とともに《市民自治》の出発点であり、この市民活動としての「市民行政」が日常直接に狙いにくい行政領域を基礎自治体広域自治体、国の職員行政へと順次「代行」させていくという発想が基本となる。市民行政こそがまた職員行政の「土台」とみなされなければならない。

 それゆえ、市民活動が活発になればなるほど、「市民立案」による職員への批判もきびしくなるだけでなく、「市民行政」による職員行政の減少という事態もでてくるのである。職員行政ないし自治体、国の政府こそが、原基形態としての市民活動の「補助」「下請」――派生形態にすぎない。」(1987:P175-176)

 

「市民活動が活発となり、団体・企業ともに市民自らが公共政策の立案・実現、つまり「市民行政」にとりくむならば、従来型の行政の減量ないし職員の削減もできることになります。逆に市民がナマケモノならば、人件費をふくめて行政費が拡大します。

 市民がゴミポストにゴミを運ばず、各家の前やアパート、マンションの各階・各室前までゴミを集めにいけば、清掃行政担当者は今の数倍になるでしょう。公民館は職員をおかず市民管理・市民運営であれば、市民文化活動のセンターとしてかえって活力をもつではありませんか。」(1999:p42-43)

 

自治体によるシビル・ミニマムの公共整備の政策イニシアティヴも、市民、ついで団体・企業の文化水準、政策水準がたかくなり、行政の劣化が露呈した一九九〇年代以降は、漸次、市民あるいは団体・企業にうつり、図3-4にみたように、市民、団体・企業との政策ネットワークの形成が不可欠です。この市民、団体・企業を主体とするネット・ワークをふまえて、自治体、国をとわず職員機構の縮少もはじまります。」(2005:p233)

 

 このようなトレード・オフの関係性を松下は強調しており、ここに一見「決定主体」として行政が行っていたものも、分野によっては「市民」の手に移ってきている、というような見方ができそうであるように思える。しかし、この「市民行政」という言葉も残念なことに規範概念として松下は語っている。実際に具体的な議論としてこの「市民行政」の内容に言及している例をみると、「コミュニティセンターの運営」「老人介護」の話程度にしか展開されていない。「ゴミ収集」の話なども言及はあるがいかにも無理やりな感がある。これらは本当に「行政への関与」と呼べるような分野といえるのであろうか?少なく見積もっても、この「市民行政」の分野においては、何らかの行政的な「決定」に市民が関与するような場所はどこにもないだろう。何故なら、市民行政の分野が、松下の言う「自由の王国」にしか存在できず、そのために「エゴイズム」とも無縁の世界であるはずだからである。言い換えれば、「エゴイズム」が存在しないのは、そこに何らかの公共的な「決定」を伴う事項が含まれていない、ということである。そのような「決定」はあくまで自治体の領分として残り続けるのである。

 

○職員による「調整」は統治論ではないのか?――ネオリベラリズムと松下の関連性について

 

 そしてこのような解釈をした場合に直ちに出てくるのは、このような「行政職員」と「市民」の関係は、松下がコテンパンに批判していた傲慢な行政職員そのものとならないのか?という点である。

 

自治体職員は、国の職員とおなじ今日も身分としての「役人」意識どまりになり、市民とヨコに共感する市民意識を自立させていない。国だけでなく自治体の職員も、現在なお市民を「育成・指導」するという官治型の考えにとらわれている。」(1987:p171)

 

「市民活動も、今日では、シビル・ミニマムの「量充足」から「質整備」の段階へのあらたな飛躍をめざして、ナイナイづくしのときには不可避だったモノトリ型を終え、環境の質を問うとともに、地球規模のひろがりをもって、たえず動いています。

 自治体職員のなかには、市民参加をスローガンとしてうたいながら、最近では「支援」という名でいわゆるNPOをふくめて市民活動を行政にいかに取りこむかという考え方をとっている方もおります。これは不可能なことをお考えになっているといえます。市民活動では、市民の文化水準がたかまり、余暇と情報がふえた今日、誰もが、いつでも、どこでも、動いていきます。そこでは、行政職員が予測しない、かつ行政職員の既成水準をこえた問題提起がつねにおこなわれてきます。」(1999:p47)

 

 この議論はかつて松下自身が「教育」という言葉を用いており、ここでいう「行政職員」と同じことをしていたと考えると自己批判をしているようにも見えてしまうが、それは置いておくとしても、「決定主体」であることについてはどうあがいても行政職員と市民は「非対称」であり続けてしまうのである。

 だからこそ、行政職員に対する「市民理解」について徹底させ、「対称化」することが図られるのである。しかし、松下が「対称性」をタテマエとした上でホンネでは「非対称」であると認めているとしても、その「非対称性」について明確に位置づけていないことについてはやはり問題ではないのかと思うのである。次のような主張においてそれは顕著に現われる。

 

「個々の行政職員と個々の市民の関係は、すでにオカミ対庶民という身分上下ではありえない。相互に「市民」ついで「勤労者」として、まず、平等である。それに、「職務」についても、市民、行政職員それぞれに職務の専門家だから、ここでは対等である。

 ただ、行政職員においては、その職務が「公務」であるかぎり、くりかえすが、つぎの論点をもつ。

1.行政機構は、市民の代行機構であり、職員の給与・職務は市民の税金でまかなわれる。

2.行政職員の制度的雇用権者は長だが、政治的雇用権者は市民である。3.行政職員も、行政機構をはなれれば、本来的に市民である。

 以上の三点から、オカミ、エリートあるいは専門家という、行政職員の特権性はうしなわれてしまう。むしろ、市民にたいする職務の責任が加重されているといってよい。それゆえ、まず、市民と行政職員との、「市民」としての同質性、いわゆる市民連帯から出発したい。そのときはじめて、行政機構の対市民規律が、出発点をもちうることになる。」(1991:p265)

 

 ここで致命的に重要な「決定主体」の違いに言及しないで、「非対称性」について無自覚にさせようとすることは、「決定主体」について「市民」側に移行することこそ「対称性」に寄与しうるという可能性の検討を放棄することに繋がっているのであり、言い換えれば市民側の十分なエンパワメントについても否定してしまわないか、と考えてしまいたくなる。

 ここまできて過去のレビューでも見てきた松下の議論と「新自由主義ネオリベラリズム」の思想との類似性を改めて議論せねばならないだろう。結局このような考察により、ほとんど松下は「ネオリベラリズム」の議論との差異について語ることが実質的にできていないことが明確になってくるのである。

 確かに先行研究においても、松下の議論とネオリベとの関連性については複数指摘されてきた点であった。例えば、諸橋卓は次のように指摘する。

 

「こうした論理を反映して、松下は、1970年代後半の経済低成長の原因について、大企業中心の経済成長に「革新自治体なり市民運動がブレーキをきかせたからこそ低成長になった」とさえ述べている。また、中央政府の政治権力のイメージを極小化し、たとえば行政による社会教育を批判したことなどは、むしろ1980年代以降の「小さな政府」・新自由主義路線と親和的に見える。最近でも松下は、財政再建に消極的な自治体が財政再建団体に転落した場合は自治体の責任だけでなく市民 の責任でもあるとさえ述べており、国家権力の責任という観点を捨象してしまっている。この点も近年しばしば「地方切り捨て」と批判される新自由主義路線と類似している。このように、松下の「分節」レベルにおける「自治」(=自己権力=自己責任)イメージは、同家権力をもってなされた現実政治の展開、とくに現在まで続く新自由主義路線に対する批判を鈍らせたと言えるだろう。(諸橋卓「60年安保以後における「戦後民主主義」思想の展開」2009, 「北大法政ジャーナル」16号、p103  URL: https://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/handle/2115/42581

 

 また、趙星銀は、藤田省三と比較しながら、松下の市民運動論に対して、「NPOを中心とする「市民社会」が、政府の補完機構、とりわけ新自由主義的な路線に立脚した小さな政府の補完機構として機能する側面を露呈したのである」と評しており(趙「「大衆」と「市民」の戦後思想」2017,p329)松下的な市民運動論の理解が新自由主義的な勢力に抗する力がないのではないのかと示唆している。

 

 更に功刀俊洋が他の論者に対して評したこのような議論もそのまま90年代以降の松下の「革新自治体」に対する解釈にあてはまることがわかる。

 

「本論の目的からはずれるが、土山(※希美枝,2007)の革新自治体理解は狭すぎるように思う。土山は、戦後期の革新自治体の最大目標が地方自治自治体改革にあったというが、それに限定し過ぎて9条平和、社会福祉、さらには革新政権の実現という目標(期待)があったことを軽視してはいないか。その限定の結果、「革新」という学術用語が戦後史の時空から超越して、つまり歴史的内容を喪失して、「開拓」「改革」「先駆」と同義になっている。それでは、住民の社会権的人権より自治体経営の効率を優先しがちな新保守・新自由主義の「改革」と1960~70年代の革新自治体とを区別できなくなってしまう。地方自治体が都市政策の主体へと自立していくうえで、革新自治体が大きな役割を果たしたのは土山の主張のとおりだが、その役割は「保守・革新の対立とかかわりない自治体改革」だったのか。革新自治体が戦後革新の理念から自立・超越したから革新らしい都市政策が展開できたのか。そうではなく、革新首長は「反自民」「反独占」「反安保」という戦後革新の立場に同調したから、保守中央政府が大企業本位の経済成長政治に固執していたことに対抗して、それでは解決困難な公害・福祉政策に着手できたのではないか。また、革新市長が地域開発に民間開発企業の協力を求め得たのは、「企業に従属しない=住民本位」の立場で、民間企業の活動を規制できる「革新自治体の時代」を国民の世論と運動がもたらしたからだろう。」(功刀「革新市政発展前史 : 1950~60年代の社会党市長(1)」2008,p131-132,『行政社会論集』第20巻第2号)

 

 松下の議論においては確かに「オカミ批判」という形で常にネオリベ的態度に対する批判的態度が存在するはずであった。しかし、松下の『教育』に与えた批判が歪んでいるがゆえ、松下自身がやはり「教育」に加担し続ける立場であることに無自覚であり続けたことで、ネオリベ的勢力と「共犯関係」にあることを否定することは不可能であったといってよいように思う。

 実際、諸橋卓の論文は松下圭一から直接資料提供を受けていたらしく、松下自身も「新自由主義との親和性がある」という批判の存在について認識していたはずである。にも関わらず、最晩年の2012年の著書においても、このことに対する応答は存在しなかった。このような疑義が与えられてしまうことは、松下の理論を根底から覆しかねないにも関わらず、何故松下はこのことについて弁解することがなかったのだろうか??

 

 ここからは多分に推論であるが、この理由についてヒントになりうるのはその2012年の著書で語られている松下の「ポスト・モダニスト」に対する理解であるように思える。

 

「ところで、イズム関連でワカラナイのは、思想・理論をめぐるポスト・モダニズムという言葉である。一時、流行したのだが、私にはわからなかった。ヨーロッパ系言語では「モダン」は一語しかないが、日本では「近世」「近代」「現代」という、よくできた三語である。そのとき、「モダン」の元祖とみなされていたデカルトは、私からいえば、「近代」以前の「近世」バロック段階である。ヨーロッパの「近代」思想・理論はロックにはじまる<啓蒙哲学>からである。ルソーやカントなどはその系譜にあたる。《現代》の思想・理論は二〇世紀以降、近代の「主観・客観」の認識二元論の崩壊にともなう相対・機能理論、ついで近代の「国家対個人」という社会二元論の崩壊にともなう多元・重層理論の登場にあると、私は位置づけている。

 とすれば、ポスト・モダニズムという考え方が自壊するのは当然であった。いわゆる<近代>の位置づけについての再検討が、日本の理論家たちでいまだまとまっていないのである。」(2012:p19-20)

 

 ここで松下がはっきり宣言しているのは、ポスト・モダニズムが二項図式に執着する勢力であるが、むしろ時代はその二項図式から離れていっているのであって、そのような思想に対してほとんど無意味である、という見解である。

 このようなポスト・モダニズムの見方自体は竹田青嗣のレビューでもみたように、あながち間違いともいえない。しかし、このようにポスト・モダニスムを安易に一蹴してしまうのはポスト・モダニズムに対する無理解から来る見解ではないのかと思う。フーコーなどを読んでいてもそう思うが、ポスト・モダニズムの勢力もまた二項図式とは違った志向を目指していたとも言えるのでないのかと思う。しかし、その努力にも関わらず、得てして二項図式の構図にすべり落ちてしまうように見えているからこそ、このようなポスト・モダニズムの総括がなされてしまうのではなかろうか(少なくとも竹田の総括の仕方はそう感じた)。さて、松下はここで自分は二項図式から外れた思考ができるものと確信している節があるが(※3)、本当にそう言えるのだろうか?

 実際の所、「多元・重層」的であることを志向するだけでは二項図式から外れたことにならない。まずもって、「イズム」との関連でいえば、これは「プルーラリズム多元主義)」との違いを説明しなければならない所だろう。

 

 また、私が見る限り、松下はかなり重度のポスト・モダニスト的観点を持っているように思えるのである。これは、「規範概念」なる、存在不可能なものと定義したものを繰り返し用いている点において、相対主義の極に存在すると言ってよいからである。更に言えば、通常のポスト・モダニストと比べた場合(私はデリダとの対比を想定しているが)、松下はその「規範概念」を実態と混同し「段階論」として形づくっているという意味で、虚構をそこに上乗せしている分「悪意」があるものとみなすことができるだろう。

 このようなポスト・モダニズムに対する無理解的態度がそのまま「ネオリベラリズム」という言葉の理解にもあったのではないのか、というのが、松下がネオリベ加担であるという指摘に応答できなかった最大の理由なのではないのかと思うのである。自分自身がそのような立場に加担するような前提に立っていないことを確信していた、ということである。何故なら、松下の主張の根底では、ネオリベ言説と逆のことを言っているからである。しかし、松下の議論はポスト・モダニズムの議論と同様に「すべり落ちる」形でネオリベ言説と合流してしまっているのである。

 

○何故松下は存在しない「市民」に囚われたのか?

 

 この3つ目の問いについては、松下自身の信念として、次のような主張をしていることが重要になってくるだろう。「規範概念」に対する考え方として、松下は次のように述べている。

 

「だが、この「市民」は永遠に現実とならないため、つねに未完にとどまる規範概念です。都市型社会における「市民」の位置づけがここで私なりの決着をみました。つまり、かつての「財産と教養」をもつ名望家ないしブルジョアという歴史階層としての市民とは区別して、マス・デモクラシーの論理をふまえた「普遍市民政治原理」をたえず想起しうる現代市民を設定したのです。

 この「市民」という規範人間型を前提としないかぎり、「愚民」が前提では民主政治という考え方自体がなりたたないではありませんか。だが、市民は、夢のような「理想概念」ではなく、考え方の枠組としての「規範概念」です。しかも、政治のマス化つまり大衆政治がはじめて、この現代型の市民をうみだします。」(2006:p54)

 

「私があたらしく定式化する「都市型社会」、あるいは「市民」「自治体」という言葉も、当時はいまだ未開拓の理論フロンティアというべき実状でした。政治についても、今日もつづくのですが、憲法学のように戦前型の「国家統治」とみなし、その対極である「市民自治」からの出発はいまだ考えられてもいなかったのです。 

  このため、当時、私は新しい思考範疇として、一九六〇年前後から「地域民主主義」「自治体改革」、一九七〇年代には「都市型社会」「市民自治」「シビル・ミニマム」などといった言葉を造語していくとともに、市民、市民活動、市民参加、市民文化、ついで自治体といった言葉についても、都市型社会という新文脈で理論化していくことになります。新しい文化には新しい言葉が必要となるからです。日本にとって、「市民」という問題設定がいかに画期性をもったかが、御理解いただけるでしょう。」 (2010:p212) 

 

 このような言明を見る限り、松下にとって「新しい考えは新しい言葉」に生まれ、その言葉をもとにそれが波及していくことこそが文化を作っているものだと本気で考えていたのだといえるだろう。いくらそれが虚偽になる可能性が孕んでいても、それを語り続けなければ現実にならない、だからそれをそのまま語り続けることこそが正しいことだと考えていたし、逆も真で、そうでなければ、その新しい文化の成立はありえないとさえ考えていたのである。松下が奇妙な言説を繰り返した理由はこれで十分説明がつくだろう。

 しかし、このようなことが本当に真であるのか、ということは議論されるべきである。松下はこの議論を正当化するために、あらゆる「理論」を否定してきた。むしろそれは「すべての理論」に対してとさえいえる。これは「学者」の批判に典型的であったし(※5)、それが転じて「官僚・行政職員」といった「オカミ」批判、さらには「教育」に対しても批判的な態度をとる原因となった。それは、理論というのが常に「硬直化」しうるものとみなされていたからである。

 

「この意味で、代替理論・政策・要因ついで政府をたえず用意するのが、歴史に学ぶ市民の政治智慧である。のみならず、政策が構造改革・計画というかたちで「予測と調整」となるかぎり、未来を複数化して、長期の展望をゆたかにするためにも、社会科学ないし政治構想の複数性は不可欠である。とくに御用理論・流行理論はたえず画一化するので、一時の画一をこえ、長期の批判にたえうる代替理論が、複数で準備されることが必要である。」(1991:p279-280)

 

 そして、松下が理想とする「市民文化」なるものはもはや理論化が不可能なものとして位置づけられていた。この議論は初期には「子ども論」とも関連させつつその自由さが議論されていたことにも注目すべきだろう。

 

「都市・農村をとわず、市民活動は無限の可能性さらに想像をこえる多様性をもつため、単純に、あるいはキメツケで、行政が理論化、法制化を考えることはできません。《市民活動》はたえず創造性がわきでる、しかも地域個性をいかしながら、市民相互の自由な自治ネットワークを、多元・重層型にかたちづくります。 

  この市民活動ないしミニ自治の領域は、法律はもちろん条例をふくめて「法制化」になじまない、それぞれ地域個性をもつ市民の自由な〈自治空間〉です。官僚や学者が一義的に、中世モデルのコミュニティ、あるいは近代モデルのアソシエイションといったかたちで、それもカタカナで概念化することに私は反対です。」 (2010:p12) 

 

「テレビだけでなく、学校でのツメコミ教育をふくめて情報過多だが、体験の宝庫である地域社会は崩壊しつつある。そのため、知力と体験との分離がすすむ。この点、大村虔一「都市と遊び場」の発言が示唆的である。都市の子供は遊ぶところもなくテレビにかじりつくが、ある先生の話では農村の子供も遊ばない。子どもが裏山などで遊ばないのは、昔のようにたき木をつくる必要がないため大人もはいらず、山はたんなる景観になってしまったからであろう。「大人や遊び仲間の行動を見ながら〔子供は〕その感覚をみがいていくものらしい。子ども社会を形成していた遊び仲間がなくなり、そんな場で身近な仕事をする姿を見なくなって、子どもは草花や虫や魚が自分とどんなかかわりを持ってるのかがわからなくなってしまっているのだろうか」。大村自身も、七五年以来世田谷区での冒険遊び場づくりを試行する。

 私たちはここで新しい文化の形成の原点をみつけることができる。つまり各世代間の個人としての自由な交流による、まず地域での市民文化の形成という視点である。それは、当然、行政依存ではなく、市民自治を土台とする自治体レベルからの政治の再編につながる。

 夏には、観光地に若ものたち、それに子ども、大人もあふれる。だが目にケバケバしい、耳にガンガンなる観光地のあり方が、市民文化を形成しえない日本の文化荒廃そのものの象徴であることを、私たちは認識したい。」(1980b:p206-207)

 

 このような観点から言っても、市民をめぐる議論というのは、松下にとって理論化できないという意味で「回避されるべきもの」として位置付いていたにちがいない。80年代以降の松下の市民自治の議論というのは、段階論的な「自由の王国」の獲得と共に、その具体的議論を行うことが、あらかじめ否定されることとなったのである。70年代に「シビル・ミニマムの量充足」の議論で失敗したことと同じように、80年代以降「住民自治」の議論に対して更に不可解なものとしてしまった、と言ってしまってもよいかもしれない。

 

 以上の松下の問題点を簡潔にまとめるならば、結局ヴェーバーが「理念型」を用いるように、理想概念を議論することは問題ないし、それを否定する必要はない。しかし、この「理念型」を盾にして既存の議論の否定を始めてしまった時にそれが矛盾した態度として現れてしまうのである。「新しい概念は既存の概念に取って変わるべきである」と考えるとき、松下は既存の概念をほとんど無根拠に批判することによってしかそれを行うことができなかったのである。そこが松下の最大の問題であったといえる。

 

 

 

※2 しかし、このような態度を取り続けることについて、特に00年代に入ると松下自身が耐えられなかったらしく、結局「市民」自体がナマケモノであることについて明言するようになっている。

 

「そのうえ、ナマケモノの市民が多いところでは、(1)と(3)の意義が忘れられ、(2)のシビル・ミニマムの量肥大となり、そのコストについての市民負担も加重することになります。市民参加と行政肥大とは反比例の関係です。「市民行政」の強化こそが「職員行政」の縮小となります。」(2005b:136)

 

「市民はその〈必要〉によって政府を「組織」し、この政府はまた市民によってたえず「制御」されます。そのうえ、市民活動が活性化すればするほど行政は縮小するというかたちで、市民と行政の関係は〈協働〉どころか、〈対立〉の緊張にあります。市民がナマケモノなら職員は増え、逆に、市民行政の独自展開は職員行政を縮小させます。」(2006:p166)

 

 このような後進的な自治体の責任論というのは、90年代までは、「居眠り自治体」と「先駆自治体」の対比から議論されていたのである。ここでいう「居眠り自治体」を問題とする訳だが、その問題の責任主体については明確に「市民」にとは語っておらず、むしろ「市民ではないもの」として語られていたのである。

 

「私は、この自治体間の〈不均等発展〉をむしろ拡大すべきだと考えている。この不均等発展が拡大し、「自治体間比較指標」の作製によってこの格差が指数としてもはっきりすれば、そのとき居眠り自治体は市民から批判を受けるからである。

 この不均等発展が広がれば、居眠り自治体も先駆自治体とおなじく、国の省庁ないし国会議員への依存体質から脱却せざるをえなくなる。国の省庁ないし国会議員からの特別支援はいわゆる政治腐敗につながり、その自治体の政策水準をますます低下させるという実態がはっきりしているからである。」(1994:p424)

 

「この意味で、自治体計画をつみあげ、職員による政策・制度の開発に習熟して、行政水準のたかくなったパイオニア型の自治体を「先駆自治体」と位置づけ、在来型の「居眠り自治体」と対比する段階となっているのではないでしょうか。いわば、この先駆自治体は市民参加・職員参加による自治体計画を基本に自治・分権政治をきりひらいていく自治体です。居眠り自治体は明治以来の官治・集権政治にみずからをとじこめて国の施策基準どおりにおこない、市民にたいする責任をとらない自治体を意味します。」(1996:p82)

 

※3 次のような主張をしていることから、彼自身は「イズム」の思想から無縁であることが可能だと考えていたとみてとれるだろう。

「二〇〇〇年代、自由・平等、自治・共和という、《世界共通文化》としての普遍市民価値原理が地球規模でひろく定着する今日、かつてはイズムにたてこもって相互に対立してきた党派主張をたえず相対化して、「共通用語」による普遍市民価値原理ないし普遍規範性を共通理解におき、主義、主義というこれまでの時代を終えさせていきたいと、私は考えている。」(2012:p18-19)

 

(2019年2月9日追記)

※5 松下の学者批判は文字通り「全方位的」である。そしてその批判の妥当性については、「社会教育の終焉」のレビューの際に、『教育』について曲解していたのに象徴されるように、妥当性のある批判を行っているという保障は全くない。悪く言えば、その学者の「理論」について、「権威的」であるという点だけを強調し、生産的な議論を行おうという勢力の主張については、「言葉遊びに過ぎず、その権威性を押しつけるための言い訳」であると一蹴するような態度を取り続けている、と言えるかもしれない。

 

「現行制度は、その理論化としての既成憲法学・行政法学とともに、本来的にまだ明治憲法型のままにある。この明治憲法型の制度運用それに職員意識が今日も根づよくのこり、戦後の保守・革新もこの考え方にもとづいてきたのである。保守・革新を問わず、既成憲法学・行政法学は、《国家統治》を中核として構成され、国家主権観念に閉じこめられていたのである。」(1987:p171) 

 

「二〇〇〇年分権改革の今日でも、政治学者、行政学者、あるいは憲法学者行政学者も自治体が独自の法務政策をもつとは想定していないと行ってよいでしょう。とりわけ、官僚法学ないし演壇法学の発想もつよい法学者は、自治体の職員のなかに法務要員が輩出するとは考えず、「わからなかったら聞きにこい、教えてやる」とおう態度を、つい最近までとりつづけていたといっても過言ではありません。それどころか、日本の法学者は、政治学者も同じでしたが、自治体レベルの政治・行政の現場経験もほぼ皆無でした。」(2005b:p217) 

 

「さらに、政治評論家、ジャーナリスト、あるいは政治学者、行政学者、また憲法学者行政法学者、ついで財政学者、会計学者も、この日本の崩壊状況への理論対決がいまだにできない。今日あるように明日もあると考えているのだろう。これを《市民》としての怠惰、ついで無責任という。」(2012:p235) 

 

「このような問題状況にもかかわらず、二〇〇〇年代の今日、日本の理論家とくに政治学者がこの構造変動ないし日本再構築をめざした政策・制度改革の的確な構想を提起できなくなっています。いわば、日本の理論家ないし政治学者は政策・制度型思考に今日も習熟しえないという欠陥をさらしているというべきです。」(2006:p90) 

 

 

 

 

 

松下圭一の市民論再考(1/2)

 今回、改めて松下圭一を読むことにした。

 前回の「シビル・ミニマムの思想」のレビュー時点では松下の精読について興味深いとしたものの、それ程重要性について感じていなかったため、読むのをやめてしまったのであったが、最近90年代の日本人論、つまり日本的性質に対する批判と改善要求を行う言説を読んでいく中で、1999年の経済戦略会議答申を読む機会があり、そこで述べられていることがかなり松下の議論とかなり重なるものであると感じ、松下自身の言説も思っていたよりも影響力が強い可能性を考えたため、精読することにした。

 松下の言説と経済戦略会議の議論の類似性として気になったのは3点あった。

 

 

1.シビル・ミニマムの用法

 おそらく、経済戦略会議答申中の「シビル・ミニマム」という言葉は松下から直接影響を受けているものと考えられる。答申中では、シビル・ミニマムについて2箇所で用いられている。

 

「ただし、経済戦略会議は、政府が民間に介入し、全面的に生活を保障する「大きな政府」型のセーフティ・ネットではなく、自己責任を前提にしながらも、支援を必要とするすべての人たちに対して、敗者復活への支援をしながらシビルミニマムを保障する「小さな政府」型のセーフティ・ネットが必要だと考える。」(経済戦略会議「日本経済再生への戦略(答申)1999,p20-21」http://www.ipss.go.jp/publication/j/shiryou/no.13/data/shiryou/souron/13.pdf

 

公的年金は、シビル・ミニマムに対応すると考えられる基礎年金部分に限定する。」(同上、p23)

 

 これに対し、松下もしばしば言及するナショナル・ミニマムについても2箇所で言及がされている。

 

「しかし、懸命に努力したけれども不運にも競争に勝ち残れなかった人や事業に失敗した人には、「敗者復活」の道が用意されなければならない。あるいは、ナショナル・ミニマム(健康にして文化的な生活)をすべての人に保障することは、「健全で創造的な競争社会」がうまく機能するための前提条件である。このようなセーフティ・ネットを充実することなくして、競争原理のみを振りかざすことに対しては、決して多くの支持は得られないであろう。」(同上、p14)

 

「少子高齢社会における政府の基本的役割は、全ての国民に対して、健康にして文化的な生活(ナショナル・ミニマム)を必要に応じていつでも保障できるセーフティ・ネットを整備することである。ナショナル・ミニマムの算定は容易ではないが、このレベルを高くしすぎると、モラルハザードが生じるだけでなく、非効率な大きな政府を作り上 げることになる。」(同上、p23)

 

 残念ながら、経済戦略会議の答申においては、「ナショナル・ミニマム」と「シビル・ミニマム」の違いを把握することができない。共に「最低基準」を示している言葉なのだが、それ以上差異化する意味合いが付与されていないのである。通常であれば、両者の違いはその担い手が「国」であるか「自治体」であるかに見出されるべきなのだが、そのように解釈されているとはいえない。言いかえれば本答申を作成した者がシビル・ミニマムという言葉をよく理解せずに用いているともいえるだろう。

 ただ、あえてその違いを述べるとすれば、「ナショナル・ミニマム」は文字通りの「健康にして文化的な生活」を保障するもの国民としての権利としての側面をもつものとして語られ、「シビル・ミニマム」は「セーフティネット」の役割を果たすための「小さな政府(ただしこれも国レベルの議論である)」における最低基準として語られているという解釈はできるだろう。ここには、「シビル・ミニマム」を「大きな政府」との対比とした形での「(ムダのない)最低限の保障」という強調が含まれているということである。

 これは一見松下の用法とはっきり異なるため、松下を参照している訳ではない根拠となるようにも見えるが、後述するように、松下を読み解いたのであれば、むしろこのような解釈は完全な曲解といえない部分があるのである。言いかえれば、このような曲解のされ方は、松下の言説の影響を受けたからこそ出てきたものと解釈する余地があるということである。

 

 

2.公務員の人数に対する考え方

「人口比公務員数などからみて、日本の政府は「小さな政府」に属すると言われてきたが、財政投融資によって支えられてきた特殊法人やその下請け会社、孫会社などの存在を加味すれば、全体としては決して「小さな政府」とは言えない。」(経済戦略会議「日本経済再生への戦略(答申)1999,p17」

 

 この点について松下も00年代に入ってから、外見上の公務員比率については、海外との比較が参考にならないと主張する。

 「しかも、日本の公務員比率は国際比較からみて少ないといわれるが、実質はその倍となる職員が何重にもかさなる特殊法人+子会社などの「行政外郭組織」にかくされて、その職員実情は財務実態とともに政府もつかみきっていないという低劣性、それに無責任が、国、自治体を含めた日本の行政水準である。」(「転換期日本の政治と文化」2005,p151)

 

「また、公務員数の国際比較では少なくみえましたが、国税庁調査によれば、実質は、国、自治体をふくめ、その外郭組織には天下り官僚をはじめとするほぼ同数の職員がおり、国、自治体の権限・財源さらに「財投系資金」に寄生していました。このような事態が、今日では、さらに国家・官僚神話の崩壊を加速しています。」(「現代政治」2006,p87-88)

 

 この言説自体は00年代に入ってから見られるものであるが、これに関連して、松下は次のような自治体に必要な職員数について言及する議論を99年頃からしている。

 

「この政策指数では、公立病院はのぞきますが、職員一人当たり市民は何名かという指数も自治体では問題になってこなかったのです。町村では職員一人当たり市民五〇人前後から一〇〇人以上というひらきがある。私は職員一人当たり市民一〇〇人までもっていかなければ、合併いかんを問わず、いずれの町村も今後は「持続」できないと考えています。市ではあまくみても職員一人当たり一二〇人以上にすべきでしょう。一五〇人以上という市もあるのです。一〇〇人前後の市は、自治体として「持続」不可能となります。」(「自治体再構築」2005,p30)

 

 この必要な職員数に対する検討を行う上で、公務員数の考え方というのも検討していた可能性もあり、90年代末の段階ですでに対外的に「公務員数について海外との比較が参考にならない」ことに言及していた可能性も否定できない。

 

3.自治体会計に対する「公開性」の要求

「公的部門の効率化・スリム化を進めていく上での大前提として、また、政策の事後評価を行う観点から決算はこれまで以上に重視されるべきであり、中央政府特殊法人等を含む)及び地方公共団体(外郭団体を含む)のいずれにおいても以下のような方向を基本に会計制度等の抜本的改革を進め、会計財務情報基盤を整備する必要がある。

○ 国民に対して政府及び地方公共団体の財政・資産状況をわかりやすく開示する観点から、企業会計原則の基本的要素を踏まえつつ財務諸表の導入を行うべきである。

○ 具体的には、複式簿記による貸借対照表を作成し、経常的収支と資本的収支を区分する。

○ 公的部門全体としての財務状況を明らかにするため、一般会計、特別会計特殊法人等を含む外郭団体の会計の連結決算を作成する。」(経済戦略会議1999、p16)

 

 このような議論は当時の地方分権推進の流れを汲み、松下に限らず広く議論されていたかもしれないが、松下自身も同時期には具体的かつ積極的に公会計のあり方について言及している。

 

「そこで、まず提起したいのは、〈時価主義〉による自治体財務型「連結財務諸表」づくりです。「わが」自治体が、外郭組織をふくめ全体として、時価で、どれだけの資産つまり「過去の蓄積」あるいは負債つまり「将来の負担」をもつかを、市民、長・議員、職員の誰にもわかるようなかたちで、財務情報の公開・共有をうながす財務技術ないし会計方式の開発がこれです。」(「自治体は変わるか」1999,p131-132)

 

 これらの例からもわかるように、90年代以降積極的に推進されていったといえる「新自由主義」政策に対し、少なくとも松下は同調していることが確認できるし、また松下自身も新自由主義的な動きに対して影響を与えている可能性も見受けられる。後述するが、正確にいえば松下は、いわゆるネオリベ言説に対して、批判的な態度を取るべき立場にあったはずなのだが、彼の理論からはそれに同調する方法しかとれなかったのではなかろうかと思う。

 

○前回までの結論への反省と今回の問いの設定について

 

 松下の「シビル・ミニマムの思想」におけるレビューで松下の議論に対していくつかの見解を示した訳だが、今回改めて精読した中で1点大きく見方を変えるべきと考えたものがある。

 それは、80年代に入って松下が「シビル・ミニマムの量充足は終わった」という見方をした時に、70年代までの松下のシビル・ミニマム論の自己批判になっているのではないのか、という点、つまり「70年代においてシビル・ミニマムを達成した場合に解決を期待していたものが80年代に入っても何ら解決されたものと取り扱っていない」点について問題視したことである。

 この見方自体はあながち間違えでもないものの、問い返すべきなのは、「そもそも『シビル・ミニマムの量充足』とは何なのか?」という点である。これは一見当たり前の答えがあるようでいて、松下の言説を読み返すと、極めて奇妙な性質を持っていることがわかった。まず最初の問いとして、「松下のいうシビル・ミニマムとは何だったのか?」という問いについて考えたい。

 

 また、同じく前回指摘した70年代には「オカミ意識の改善」に対する「市民」へ期待があったものの、80年代にはそのような期待がなくなり、松下自身がそのような改善を直接主張するようになったと指摘した点についても再検討する。これは同じく指摘していた「市民の成熟性判断」の矛盾ともリンクする。私自身、広田照幸のレビューなどで「教育の担い手」をベースにした議論の必要性を述べたことがあったが、それと同じようにして、「松下は自治体体質の改善の担い手を誰に見出したか」という点を2つ目の問いとして検討したい。また、この問いの中から、松下の「市民概念」が文字通り形骸化していったことも示す。

 

 そして3つ目に、このような形骸化が起こった理由についても検討してみたい。この理由については、いくつか考えられる可能性はあるものの、基本的には松下が提示する理論そのものに起因するものだろうと考える。

 

 以上3つの問いに答えていくことになるが、それに答えるため、松下の議論及び松下について言及した著書・論文にもできる限り触れるようにした(※1)。以前同じような分析を行った遠山啓の際には、まとまった内容を記した単行本がなく、バラバラの論文によって構成された内容に依拠せざるをえなかったが、松下の場合は書き下ろしによる著書に加え、講演記録なども含め文献に富んでおり、より深く分析を行うことが可能になっている。もちろん、参照できていない文献もあるものの、松下の議論にあまりぶれを認めることができないため、松下圭一論として十分な分析となっていると考えている。今回分析対象としたのは60~00年代までの松下の言説であるが、これまでの松下に関連する先行研究をみる限り、50~80年代位までの分析に終始している印象が強く、松下自身の「市民」概念に対する変遷については十分な検討が行われているとは言い難かった。しかし、後期から末期の松下の言説の変遷自体、やはり注目すべき点があるように思える。

 

○松下のいう「シビル・ミニマム」とは何だったのか?――言説の時代変遷からみた特徴

 

 まず、最初の問いであるが、押さえるべきはかの「量から質」への言説の変化である。この変化自体はほとんど1980年を境にしているといってよい。というのも、松下自身が理論ありきの主張を展開することが強く、70年代末にも量的充足を匂わせているものの、はっきりと位置付けを変化させたのは、「80年代」という段階論的な語り方を可能にした1980年を待たねばならなかったからである。

 

 私自身が過去のレビューで松下のいうシビル・ミニマムを捉え損ねていたのは、松下のこの80年代以降の言説に対してそのまま信頼してしまっていた点に原因がある。

 まず、70年代の議論において、シビル・ミニマムはいかに語られていたか。それは一つに「生存権」をベースに量的充足に付随する類の充足を図ることにあった。以前のレビューでも示した都市問題の解決のためにも、その量的充足は必要だったのである。

 しかし、この量的充足の語りにおいて注意すべきは、「ナショナル・ミニマム」との関連性である。松下の70年代の言説において、「シビル・ミニマム」の充足とは「ナショナル・ミニマム」の議論を見かけ上一致する点があった。そのことから、両者を併用して議論する部分が散見される。

 

「たしかにこのシビル・ミニマムの保障は、自治体レベルにせよ、政府レベルにせよ、複雑な行政システムを必要とし、ビッグ・ガバメントを形成する。今日の国家像が行政国家あるいは福祉国家・経済国家といわれるように、作業量を増大させている理由がこれである。しかしこのビッグ・ガバメントないしその巨大な行政システムはあくまでもシビル・ミニマムないしナショナル・ミニマムという「必要の王国」の管理にとどまるべきである。ことに個人の内面性ないし政治活動は「自由の王国」として解放されていなければならないのである。」(1971a:p296-297)

 

市民運動が提起している論点は、たんなる「物取り」あるいは「告発」ではない。それが一見、「物取り」あるいは「告発」にすぎないとみえるとしても、やがてシビル・ミニマムないしナショナル・ミニマムの整備を指向することになろう。」(1987:p137,論考は1972年のもの)

 

「一九八〇年代にはいりますと、シビル・ミニマムないし国基準の量充足が、半永久課題の公害は別として、下水道などをのぞけば、ほぼ終わることになるため、個別施策の量充足をめざした旧来型の自治体計画は目標喪失となります。一九六〇年代以来の量充足型自治体計画の終わりとなったのです。」(1999:p174)

 

 ここでまず押さえておくべきは70年代までの松下の「シビル・ミニマム」言説に含まれていた意味合いである。

  1. ナショナル・ミニマムに働きかけるためのシビル・ミニマム充足
  2. オカミ意識改善のためのシビル・ミニマム充足

 

 これは(1)が80年代以降議論される量充足、(2)が質充足の議論といえるが、70年代においても、シビル・ミニマムは「個性的」であるべきことが主張されていたことに注目したい。当初の論理ではこの個性がナショナル・ミニマムに対する批判的議論を巻き起こし、改善を図るという手法で改善していくものとして位置付けていたのである。

 

「こうして自治体改革による生活条件の自主管理の思想としてシビル・ミニマムの思想を位置づけることができるであろう。シビル・ミニマムの思想は、工業社会の成熟が可能にした個人の市民的自発性の増大と政策科学の必要性の増大とを、自治体レベルで結合し、それを前提とした直接民主主義的自主管理の思想としてまず形成される。しかもこのシビル・ミニマムは、各自治体の個性を反映した独創的性格をもって設定されなければならないのである。」(1971a:p300)

 

 そして80年代に入ると、その量充足は達成されたとされるのである。しかし、よく考えると、何故松下はこの「シビル・ミニマムの量充足」に言及できるのであろうか?シビル・ミニマムとは個性的であることをもともと志向していたのに、何故その「量充足」が松下に判断できるのだろう?

 ここで問われるべきは、「そもそも『シビル・ミニマムの量充足がなされた』という表現は語義矛盾であり、実質的に起こったのは『ナショマル・ミニマムが最低限達成された』ということにすぎないのではないのか?」という問いである。一見、この両者の違いはあまりないように思えて、持っている意味合いは非常に大きく異なる。

 

 まずもって、この「シビル・ミニマムの量充足」というのは、「シビル・ミニマム」という目標に対して、一定程度評価しないと出てこない言葉である。つまり、シビル・ミニマムによって量的目標が達成されたとする根拠が必要なはずである。しかし、これは「理念」と「実態」どちら側から考えても成り立たない。

 

 まず「理念」から指摘すれば、教育業界における「個性」をどう評価するのか、という問いと同じ困難があることがわかる。シビル・ミニマムは各自治体独自の基準設定が予定されているものであるが、これを達成したというためには、それぞれの目標と、その達成に何を見出したのかを検討しないと言えないはずである。当然松下はそんなことはしていない。よって、結果論として「ナショナル・ミニマムが量充足された」という結論からしか「シビル・ミニマムの量充足」が達成されたとはいえない(※4)。しかし、これは本当に「シビル・ミニマムの量充足」がなされたのかを示すものでは決してないのである。

 

 これは、松下の議論の中からも指摘できることである。松下は「シビル・ミニマム」を「社会指標」と比較し、次のように説明している。

 

「この政策基準としてのシビル・ミニマムは規範概念である。実証概念ではない。もちろんシビル・ミニマムは指数化されてはじめて政策基準としての実効性をもつけれども、この指数は実証概念としての「社会指標」とは性格がちがっている。社会指標は、生活なり施策なりの現実の実態を数値によってしめす実証概念である。社会指標は、とくに各国や各自治体の実態比較という分析に有効性をもつとしても、それ自体は政策基準とはなりえない。社会指標は、シビル・ミニマムの策定にあたってはデータという位置をもち、シビル・ミニマムの達成との関係では達成率としてあらわれる。」(1985:p96

 

 松下の議論では「市民」なども「規範概念」とされるが、この規範概念というのは、ある意味で「実在しないもの」のことを指す、文字通りの「理想」として捉えるべきものと位置付けられている(これについては最後の問いの部分で検討する)。確かに「(社会指標は)シビル・ミニマムとの関係では達成率としてあらわれる」ものの、シビル・ミニマムではありえない、とここでは言っている。

 それでは、松下が「シビル・ミニマムの量充足」という場合に、この言葉は何らかの具体的な意味が付与可能なものなのだろうか?私はそれが不可能なものであるとしか言えないと考えるのである。シビル・ミニマムというのは、言葉の定義上、あらかじめ具体化されることを否定しまっているからである。だから、「量充足」などという言葉を使ってみても、何を指すのか定義できないのである。

 

 また、「実態」から捉えても、ひどい結論が出てくる。シビル・ミニマムの実態についての検討は功刀俊洋「革新行政の政策的模索」(2017,URL: http://www.lib.fukushima-u.ac.jp/repo/repository/fukuro/R000005094/?lang=0&cate_schema=100&chk_schema=100)がかなり詳しく行っているが、そもそもシビル・ミニマム自体を設定していた自治体がごくごくわずか(せいぜい10程度)にすぎなかったため、これを一般的な自治体を想定した「シビル・ミニマムの量充足」の検証というのがそもそも不可能であったことが言えるだろう。

 

○ボランティアの「無償性」に対する正当性について

 

 もっとも、(シビル・ミニマムとの関連性はよく考えると不明だが)松下が具体例を挙げるような「補助金」に代表されるムダの排除に関する議論は一見わかりやすい指標であるように思える。ムダであるとは、すでに現状で十分であるからこそ必要のないものとされたものであり、松下もこのような議論は繰り返し述べてきた所である。

 松下の考えるシビル・ミニマムの量充足をした「自由の王国」における市民活動というのは、はっきりと「補助金」とは全く縁がないものとして描かれていた。だからこそ、ボランティアについても、当然自由意志に基づきなされるものであって、補助金行政とは何らかかわりがないものとして位置づけ議論していたのである。そして、ここでいうボランティアは、当然タダで行われるものとして語られている。

 

「もし、職員を六人にして一〇館つくったならば、職員六〇人、この管理のため本庁にも一〇名おくためついに七〇人となり、人件費だけで年三億円余となる。一〇年で三〇億円である。市民管理・市民運営方式ならばゼロ円で別の施策が展開できる。」(1985:p272)

 

「施設さえあれば、それも公共施設でなくとも公共「的」施設でもよいのだが、市民文化活動はできる。講座型の学習活動にしても自由に市民たちがサークルをつくって市民相互に講師になるか、自分の好きな講師を無料あるいは費用をだしあって呼んでくればよい。かつての大学の発祥の栄光をもつボロニア大学型の市民大学を考えればよいのである。それどころか、市民誰でもが講師になり会場費・講師料タダしたがって会費タダという三タダ主義の市民大学もできている。この方式で十分ではないか。」(1985:p317-318)

 

 しかし、このような態度の取り方にも「シビル・ミニマムの量充足」という言説の弊害があるように思えてしまう。松下はボランティアのような市民活動は無償でなければその自律性が官から阻害されることになると考えていた。そして、素朴に過去の自治におけるものが無償で行うことができていたものであるはずと考えられたからである。

 

「従来の官治型理論構成では、ボランティア活動は、職員による行政の「補助」とみなされ、コミュニティ活動は「下請」とみなされてきた。事実、これまではボランティア活動はたえず臨時職員から正職員へというかたちで行政のなかにとりくまれて自立できず、コミュニティ活動も育成・指導の対象になり、さらに下請へと変容してしまうのである。」(1980a:p321)

 

「この農村型社会におけるムラ自治の崩壊は、過渡期にはいわゆる国家を中心に行政機構を自立させ、その専門分化を促進したが、都市型社会の成熟につれてコミュニティ・ボランティア活動というかたちで、あらためて、かつてのムラ自治が市民自治として再生しはじめる。……それゆえ、市民は、市民立案だけでなく、みずからも政策実現をめぐって市民行政を直接、市民活動でおこなっているということが確認されるとき、職員機構による行政の独占という行政概念は崩壊する。」(1987:p200)

 

 ここで対比として取り上げたいのは、仁平典宏が「ボランティアの誕生と終焉」(2009)で捉えているボランティア観である。仁平の著書においては自発的行為とされるボランティアの贈与性(見返りを求めない態度)に対して、常に反対贈与としての意味が付与されうる(自発性の疎外としての「ボランティア動員」の議論や、良心で行っているはずのボランティアが自己欺瞞であると揶揄される)という<贈与のパラドックス>の発生に注目した系譜の分析を行っている。

 

「このように、<贈与>とは、外部観察によって、絶えず反対贈与を「発見・暴露」される位置にある。ここで重要なのは、<贈与>は、被贈与者や社会から何かを奪う形(贈与の一撃!)で反対贈与を獲得していると観察されがちなことである。例えば補論二で見るように、近代的な権力は、善意を装い贈与するふりをして、決定的な負債を与えていく存在として概念化されてきた。<贈与>は、贈与どころか、相手や社会にとってマイナスの帰結を生み出す、つまり反贈与的なものになるというわけだ。この意味論的形式を、本書では<贈与のパラドックス>と呼びたい。」(仁平2009,p13)

 

 松下が市民文化活動において重要視するのは間違いなく、この活動が「自由の王国」に属するものであり、他に干渉されることなく自由に活動を行うことができること、その自由な活動の多様性が豊かな市民文化の醸成と市民活動への貢献に繋がるという期待をもつこと、文字通りその活動が「ボランティア」によりなされるものとみている点で、ボランティア論とも軸を一にする。

 

 仁平は著書の結論で、このような態度の取り方について、その有効性を疑問視している。まずもってこのような態度の取り方は一定程度の普遍性をもった形で(「ボランティア動員論」の批判として)ボランティア言説に付与されていたものであったし、「ボランティア論は、自らの活動がどのような政治的帰結と接続しているかを問う基準を忘却し、脱政治的な基準のみで<贈与のパラドックス>を解決しようとしたときに、国家のネオリベラリズム的動員と適合的となった」(仁平2009,p422)という。確かに松下は常にボランティアの動員に対して批判的視座を与えており、仁平の言うようなことに対しては単に「オカミ意識が抜けていない実態についてそう述べているだけ」という形で反論することだろう。

 しかし、松下が実際にこの<贈与のパラドックス>を回避しているかと言えば、とてもそう言えるとは思えない。逆説的ではあるが、松下の言説はそれがあまりに抽象化されているが故に、容易に他の議論に水路付けられてしまうような曖昧さを持っている。「シビル・ミニマム」の概念はまさにその典型である。松下の場合、この「シビル・ミニマム」の用法は実際的な意味においては、せいぜい「ハード面でのまちづくり」のいくつかの例示を超えて語られてはいないにも関わらず、総論としては「あらゆるものを内包した」概念とみなしてしまっている。その「あらゆるもの」のほとんどは松下の中で思考停止した状態で現れたものにすぎず、松下自身が具体的に語ることが不能なものなのである。その「語ることができない」ものの解釈は無条件に読者に委ねられ、独自に解釈され、恣意的な思考を許してしまうのである。その言説はもはや松下の意図するところとなることは全く保障されない。そして私はこのような「恣意的な解釈を黙認」する態度こそが、<贈与のパラドックス>に直結したものであり、松下がこのパラドックスに加担しているものとする根拠とみるものなのである。実際、経済戦略会議において、シビル・ミニマムとナショナル・ミニマムの違いが曖昧なのは、松下の概念説明が極めて曖昧だったからことに起因するように私には思えたし、功刀が指摘した「シビル・ミニマムが未完成・不明確であり、共通理解がなかった」とした点(功刀 前掲論文2017,p47)についても、同じような松下の抽象的言明に責を与えることについて、私は問題がないものなのではないのかと思ってしまうのである。

 

 また、「ボランティアの無償性」の原則に関しても、それは別に自律性と矛盾するものではなく、特に「市民行政」において無償性を強要することはかえってネオリベラリズム的動員にも加担することに繋がる(仁平2009,p426-427)とする点も松下のケースにもあてはまっているように見える。更に仁平は有用な市民活動に対する「正当な対価」のあり方にもふれ、仮にその活動が有効な活動であるのであれば、それなりの対価なしには、その活動そのものの衰退にも繋がりかねないし、それは障害者運動の事例にも見られるものであったという(仁平2009,p428)。

 松下自身は行政自身が「動員」することに対しては批判的であるにも関わらず、この「市民行政」の促進についての主張に関していえば、あたかも「動員論」そのものを述べているように聞こえてしまうのである。「行政の手の届かない所に無償ボランティアを」という側面からもそうであるし、コスト削減という観点からもそうである。

 

「そのうえ、ナマケモノの市民が多いところでは、(1)と(3)の意義が忘れられ、(2)のシビル・ミニマムの量肥大となり、そのコストについての市民負担も加重することになります。市民参加と行政肥大とは反比例の関係です。「市民行政」の強化こそが「職員行政」の縮小となります。」(2005b: p136)

 

「市民活動が活発となり、団体・企業ともに市民自らが公共政策の立案・実現、つまり「市民行政」にとりくむならば、従来型の行政の減量ないし職員の削減もできることになります。逆に市民がナマケモノならば、人件費をふくめて行政費が拡大します。

 市民がゴミポストにゴミを運ばず、各家の前やアパート、マンションの各階・各室前までゴミを集めにいけば、清掃行政担当者は今の数倍になるでしょう。公民館は職員をおかず市民管理・市民運営であれば、市民文化活動のセンターとしてかえって活力をもつではありませんか。」(1999:p42-43)

 

 しかし、松下のいう市民はいかに「生活」するのだろうか。ここでいう「生活」とは、「文化的な生活」云々というよりも「労働し、金銭をかせぎ、生計をたてる」という観点である。実際松下はこの論点についての言及は皆無である。「市民による自治」に関する議論においては、多様な専門家の関与についての必要性を述べているが、「彼らはいかにしてそこに参加をすることが可能となるのか」という点を全く問うことがない。これについては「自治意識が足りない」の一点張りで批判するだけである。松下の議論が「生活」の観点を欠いているため、現実の市民参加の議論自体に制約がかかっているように見えるのである。

 

○松下の「段階論」の使用の問題について

 以上のように、シビル・ミニマムについても、その改善言説で主流といえた補助金をはじめとしたムダの排除への言及についても問題含みであるといえた。これはひとえにシビル・ミニマムが「規範概念」として実態化不可能なものとして捉えていたにも関わらず、「段階論」としてこれを実態化したものとみなす作業を松下が行ってきたためである。

 これは後述する「市民」に関する議論についてもそうであるが、「革新自治体」に対する語りについても同じであるといえる。松下は、「先駆自治体」であることは全面的に「善」であるとみなしているが、「革新自治体」については、両義的態度を取り続けていた。革新自治体は革新勢力と密接に結びついていたが、革新勢力についても問題含みであることを強く認識していたことも大きな原因であるといえる。

 

「事実、一九八〇年代にはいって、文化行政のつみあげとして、日本の都市や農村が美しくなりつつある。これは文化行政、つまり(1)行政の文化化、(2)文化戦略の構成というかたちで、政策水準をたかめてきた先駆自治体の先導性によるものである。一九六〇、七〇年代以降、市民運動の衝撃のもとに、政策開発・行政革新をつみあげてきた先駆自治体の文化行政の成果がそこにある。」(1991:p66-67)

 

「逆にいえば、首長だけが革新系になったとしても、自治体改革にとりくまないかぎり、それは「丹頂鶴自治体」にすぎないという革新自治体の実態があきらかとなったのである。それどころか、革新自治体は、自治体の既成体質をそのままにして、高成長による自然増財源をもとにバラマキ福祉をおこなっただけではないか、という批判もうけるようになっている。」(1985:p118)

 

「それどころか、革新自治体は、自治体の既成体質をそのままにして、高成長による自然増財源をテコにバラマキ福祉をおこなっただけではないか、という批判もうけるようになっている。これでは、後世、六〇、七〇年代とは、保守はバラマキ土木、革新はバラマキ福祉の時代だったという評価を定着させてしまうことになろう。」(1987:p14)

 

 この傾向は80年代までは明確であったものの、1991年に松下も関わった「資料 革新自治体」が出た頃から変化が見られるようになる。それが「革新自治体の段階論的把握」であった。80年代まで先駆自治体と革新自治体というのは、松下の中で別物として捉えられていた傾向が強かったのだが、90年代以降の言説においては、時代の変化とともに「革新自治体から先駆自治体へ」という変化として語られるようになったのである。

 

「一九六〇、七〇年代の日本で、首長が革新系か否かを中心に論じられていた革新自治体は、この「先駆自治体」のさきがけだったのである。」(1991:p60)

「一九六〇年代、七〇年代の革新自治体・保守自治体の対立も、実はこの先駆自治体・居眠り自治体の対立だったのである。」(1991:p287)

 

「さらに、なぜ一九六三年からほぼ一九八〇年まで、「革新自治体」が群生し、一九八〇年代からは保守系も加わる「先駆自治体」に継承されていったかも、ここで説明できることになります。つまり、都市型社会のシビル・ミニマムの公共整備には、①市民活動の起動力、②政策・制度の地域性をいかす自治体の政府としての自立が不可欠だったためです。つまり、明治国家型の官治・集権から市民政治型の自治・分権への、日本の政治・行政、経済・文化の再編がカギとなっていたのです。」 (2010:p209)

 

 90年代以降、「革新自治体」に対する両義的態度というのは完全になくなった訳ではないが、極端に弱くなった。それは「革新自治体」というものが完全に過去のものとなり、そのような両義的態度をとる必要がなくなった(革新自治体に改善を求める必要性がなくなった)ためであり、だからこそ今も存在する先駆自治体との関係を段階論的に捉えることが可能となったのである。

 このような事例からも「シビル・ミニマムの量から質へ」という段階論と同じような、実態の無視が見受けられるのである。松下はこの事実について認識していない訳ではないのだが、それを「理論」として抑え込み、あたかも理論の方が「実態」であるかのように用いるためのレトリックとして段階論的把握というのが選ばれているのである。これは松下の理論構成全般について言えるだろう。

 最初の問いであった「シビル・ミニマムとは何だったのか?」という問いに対しても、このような虚偽を多分に含んだものと答えなければならないだろう。(続く)

  

※1 今回の分析にあたり参照した文献は以下の通りである。以下の引用においては、出版年(とアルファベット)のみで引用先を示すことにする。

松下圭一1965,「戦後民主主義の展望」

松下圭一1971a,「シビル・ミニマムの思想」

松下圭一1971b,「都市政策を考える」

松下圭一1975,「市民自治憲法理論」

松下圭一1977,「新政治考」

松下圭一編1980a,「職員参加」

松下圭一1980b,「市民政治の政策構想」

松下圭一・森啓編1981,「文化行政」

松下圭一1985,「市民文化は可能か」

松下圭一1986,「社会教育の終焉」

松下圭一1987,「都市型社会の自治

松下圭一1991,「政策型思考と政治」

松下圭一1994,「戦後政治の歴史と思想」

松下圭一1996,「日本の自治・分権」

松下圭一1999,「自治体は変わるか」

松下圭一2003,「シビル・ミニマム再考」

松下圭一2005a, 「転換期日本の政治と文化」

松下圭一2005b, 「自治体再構築」

松下圭一2006, 「現代政治」

松下圭一編2010,「自治体改革」

松下圭一2012, 「成熟と洗練」

 

(2019年2月9日追記)

※4 もちろん、松下は「ナショナル・ミニマム」が充足したことについても、それが総括的な意味において実証的に示したことがないといってよい。

 このような充足の是非について判断を行っていないことは、同時に松下の「ムダの排除」をすべきという言い分自体が、その充足要因以外から来ているのではないのか、つまり70年代に発生した財政問題の影響を直接に受け、80年代以降自治体の財政負担の減のためだけにこの主張を行っているのではないのか、という批判も当然成り立つ。そして、この側面のみを捉えて議論することも、ネオリベラリズム的な主張と合流する要因となっている。

 

「野口(※悠紀雄)は、かつて「財政支出は四兆円削減できる」とのべたが、今回、第二予算たる財投に挑戦した。財政危機がたんなる赤字問題ではなく、制度の時代錯誤性からきていることを、財投をモデルに証明してみせたといえる。」(1980b:p229)

 

「ただし、個人が政治未熟、つまりオカミ・国家崇拝のとき、ムシリ・タカリというかたちで公共領域は拡大する。だが、公共課題はミニマム水準でなければ、日本の二〇〇〇年前後からの財政破綻がしめすように、各レベルの政府ないし政策・制度は「持続可能」となりえない。市民の高負担となるシビル・マキシマムはありえないのである。さらに、またミニマム基準の公共政策は、政府だけでなく、基本としては市民ないし市民社会がになうのだから、公共政策と政府政策とは区別しなければならない。」(2005a:p27)

 

 

E.F.ボーゲル「日本の新中間階級」(1963=1968)

 本書は、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」の著書でも知られるエズラ・ヴォーゲルの60年代の著書で、日本のM町におけるフィールドワークをもとにした研究書である。特に日本の新中間階級の家族の状況に密着した研究として、とても貴重であり、特に家族生活における妻(母)の役割に対する分析というのは、とても細かい。P170-171にあるような男女の権力関係の話は、過去の日本の状況について考える上で非常に重要な話であるように思えるし、1960年前後の日本の町(これを都市と呼ぶべきかどうかは判断が難しいが)における家族の状況について、実証的に示している点で注目すべき内容ではあると思う。

 

 

 ただ、本書の大きな問題点として、ここで提示されている内容というのが、現場での観察によるものなのか、インタビューの結果聞き取った内容なのか、文献(ないし新聞等のメディア)に依るものなのか不明瞭であることが挙げられる。文献の引用・参照等は少なく、大部分は現地調査によるところが大きいのだろうと推測できるものの、その情報が正しく実態を反映したものなのか、また客観的な根拠に基づくものなのか、といった確認をとることができない。

 例えば、p48のような試験制度における「裏口入学」の仕組みについても、内容そのものは興味深い指摘であるが、これが正しい根拠のもと記述されているかどうかは、その記述の不統一さから言っても曖昧な部分を残している。そもそもこの裏口入学の話は、「無試験入学」(p47)の話として、いわば「コネ」の存在、ないし贈与慣行を介した入学許可の仕組みとして語られていたにも関わらず、途中から試験の点数の話を持ち出しており(p48)、具体的に何を指した話なのかがつかめないのである。

 また、p44のような学業に対する母親の関わりについても、私自身戦後の新聞記事で少し調べたことがあり言説としても見かけたことはあるものの、p218-219のような母親の主体的な関わりが語られるのを見たことがない。これも新聞記事で語られていることと、(ヴォーゲルが観察したような)実態が異なるから、と言ってしまえばそれまでであるが、本当に一般性が認められるのかどうかは疑問がある。

 

 この論点については、ヴォーゲル自身もp248で「解釈に飛躍が必要である場合があった」とし、そのような拡大解釈を行った場面があったことを認めている。しかし、それがどこの部分に該当するかはわからないし、p248で取り上げている「帰省時における田舎の親族からの頼みこみ」についても、一事例から一般則として拡大解釈している嫌いがある。私自身これは明らかに事実の捻じ曲げを生みかねないアプローチであると思うし、どこまで正しいことを言っているのかは、別途精査しなければならないだろうと感じた。

 

○「日本人論」に対するヴォーゲルの立ち位置

 上記の飛躍とも関連して私が気になったのは、p122にあるように、M町の人々の話を聞いた時に「一般人」と「私」の態度の違いであった。

 ヴォーゲルが本書で行う重要な指摘の一つに、「日本において体系だった規範がないにもかかわらず、それでも一般的に望ましいことの高度の合意があること」(cf.p122)が挙げられる。これは「日本人には個人主義のような明確な価値観がない」という日本人論的な意見への一種の批判となっている。しかし、その一方で「私」はその価値観に適合しているかと問われると「日本人の実際の見方とはかけ離れた言い方をする」のであるという(p122)。この態度(正確には「語り」方)の意味するところをヴォーゲルがどう解していたのかは明確にははっきりしない。ただ、考えられる見方は2つあるといえるだろう。

 

(1)この「日本人の価値観」はあくまでカッコ付きのものであるにすぎず、実際の個人を制約するようなものではない、という見方。

 これは私が今まで議論してきた「社会問題」のフレームで言えば、「社会問題の議論においては、社会問題に付随し問題とされる個々人の態度は一般論として各個人が持ち合わせているものだというものだとして語られる性質があったが、それが一般論とされるには実態を伴っていない」という見方とマッチするものである。新聞等のメディアを介して流布される人間像はゴシップ以上のものではなく、私の行動原理とは関連性をもたないという、M町の人々の発言を文字通り解釈した場合の見方である。

 

(2)発言としては「別物」という見方をしていても、それはタテマエに過ぎず、実際はその「価値観」に縛られているという見方。

 これは、M町の人々の発言と実態は異なるものだ、という結論となるものの、ヴォーゲルの議論をトータルで捉えれば、むしろこちらこそヴォーゲルの立場ではないか、と言うこともできるだろう。P123のような指摘の仕方はどのように語ろうとも、やはり日本人の価値観に制約を受けていることを前提にしないとできない。

 確かにヴォーゲル自身この「日本人の価値観」を日本の新中間階級が捉える際に、それがそのまま反映されている訳ではないことも強調している。P205にあるように日本の集団主義を規定する母子の依存性の議論について、これが絶対的なものではなく、むしろ変化しつつある、と言及する際には、明らかに一般的とされる価値観と、「私」は別物であることが実態として別のものであると認められている。これはむしろ(1)の考え方も存在していると言ってよいのではないだろうか。しかし、総じていえば、結論部にあたるp230-231にあるように「集団主義」という軸を捨てることは全くしておらず、日本人の価値観も一元的なものとして描かれている傾向が強いのである。読者の判断による部分もあるかもしれないが、私自身はこの一般化はむしろ新中間階級としての価値観を排除しているように感じた。

 

 しかしながら、このような態度が部分的なものであっても存在することで、既存の日本人論にはなかったような議論の厚みを与えていることも確かである。本書の中で興味深いと感じたのも、このような点にあった。

 

 

<読書ノート>

P3「〝サラリーマン″の発端は、古くさかのぼれば徳川時代にまで及ぶ。というのは一六〇〇年に日本が国内の統一をなし遂げて以来、武士の軍事的機能は消滅し、多くの武士は、事実上、政府のために働く行政官となった。明治初期に武士階級の特権を廃止するとともに、武士であった者の多くは政府官庁や政府の助成した産業界で、ホワイトカラー勤務者となった。行政官たる武士と、サラリーマンとが類似しているので、日本人はサラリーマンを現代のサムライといっている。……しかしサラリーマンは、武士とは違った社会的情況の産物である。武士という観念には戦う者という意味合いが含まれている。そして武士たる者の理想は、大胆で、勇気をもち、独立の行動ができるということである。しかしながら、サラリーマンは大官僚的組織の一員であるため、武士以上に複雑な経営的・技術的問題に関心をもち、独立した動きをする余地が少なく、より慎重で影響を受けやすい傾向にある。」

P14「町の人たちは、もし同じ資格をもった二人の青年が就職を希望しており、一人は父親があり、他の一人に父親がなかった場合、父親のある青年に仕事が与えられるであろうといっている。この差別的選抜のしかたは、入社試験をして社員を採用する大会社においてさえ、今日もなお行われている。何はともあれ、父親のない少年はちゃんとした規律や道徳的なしつけをうけてこなかったものと考えられるのである。何はともあれ、父親のない少年はちゃんとした規律や道徳的なしつけをうけてこなかったものと考えられるのである。たとえ、そうした訓練をうけていたとしても、会社は彼を父親のある子供よりも不正直になりがちだと考えるのである。」

※実証性がないが…

 

P19「事業家の妻はしばしば孤独を感じ、夫があまり家にいてくれないと不平をもらしている。……あきらかにそうだとは言わないが、妻はこれらのバーの特定の女性に夫が愛情をよせていることをねたむこともある。ふだん、妻は夫の余暇時間内の行動について詳しいことは少しも知らない。またそれを知ろうとつとめ、夫の女性を知る場合もあるが、夫が家庭のために必要な金や装備を与えてくれるのにことかかないかぎりそれを妨げようとしない。一般に、妻は満足しているのである。というのは、夫が自分や子供に安楽な生活を与えてくれているし、また、自分は地域では名誉と敬意ある扱い方をうけていると感じている。」

P27-28「このような恩恵はいつも普通のサラリーマンに与えられているわけではないが、一流会社は中小企業に比べてより多くの恩典を与えるという事実からも、サラリーマンが自分の会社に対していだく愛着を理解できよう。」

※そもそも本書におけるサラリーマンとは、「サラリーを受け取るすべての者をさすのではなく、企業や官庁の大官僚組織に働く月給とりだけを意味する」とし(p3)、「小企業の従業員」や中小事業主や地主といった「旧中間階級」も含まない(cf.p2-3)。

P33-34「大学の相互の地位だけでなく、その生活様式さえも、長年にわたって安定している。それは同種繁殖という慣行のためである。……会社は大学の名声を基礎に応募者を選ぶことによって、この安定を高める。」

 

P42「少なくとも、別の二つの社会組織、すなわち家族と学校は、この(※試験の)圧力のすべての力を理解するのに重要である。これら二つの組織の重要性は、人生を会社に託すことと同じく、日本の社会構造に浸透している顕著な特性の表現であろう。すなわちそれは与えられた集団内には高度の統合と連帯性があるということである。」

P44「母親と子供とは全く一体感をもっているので、子供の好成績と母親の好成績、さらには子供の勉強と母親の勉強を区別するのが時としてむずかしい場合がある。……先生にほめられるよいプロジェクトは、一部分、または完全に母親がやったものだというのは常識である。」

 

P47「もう一つの道は家族がその学業成績に関係なく、大組織体に直接息子を入れることである。たいていの学校には無試験入学制度が開かれている。そしてこれらの学生の選抜は、一般に学校の有力な地位にある人々からなる委員会でなされる。この委員会は両親が同窓生であるとか、学校に財政的に貢献したとか、学校の事情について有力な人を友人としてもっているとかいう、学校に対する特殊な縁故的つながりのある要求に基づいて少数の学生に入学を許可する。しかし、これらの門戸にもかなりの競争がある。……このようなコネを作る普通の方法は、このような有力者を知っている友人を得て、その人に助けてくれるようにたのみこむことである。ある中学校や高等学校の校長は、入学のあき定員一つに対して二、三回贈り物をもらう。」

※「試験の代わりになる真の道は非常に少ない」と断った上での発言。裏口入学的なものだろうか??

P48「非常に強力に力を発揮する有力な知人をもっている場合でも、試験の重要さから完全にのがれるわけにはゆかない。試験の点数が低ければ低いほど、有力者が自分の推薦する志望者を委員会の自分以外の人々に認めてもらうことは困難となる。また試験の点数ががあまりにも低いと紹介は役に立たない。」

※発言が曖昧である。無試験の話をしていたのではないのか??この事実はゴシップ以上のものから得たものなのか??

 

P51-52「しかし、開放的な競争の危険の一つは、お互いにはりあうことが集団をこわす危険をもつということである。

しかしながら、集団内では競争は注意深く抑制されるので、町の住民が属する集団内ではこの破壊作用は非常に限られている。子供がいったん学校に入学すると、学業成績はあまり重要でなくなる。生徒間の競争を抑止する働きをもつ集団の強い連帯感があるからである。一度会社に入ると、その人の成功は保証される。そして競争的ではない年功序列の優先と会社の成功に共通の関心をもつことによって、対立的競争は一定の限度に抑えられる。学校も会社も成績の低いものでも投げ出さないから、集団に生き残ることができるのは、誰かが集団から抜けてゆくことに基づくといった感じはもっていない。

入試をうける場合でも、彼は友人と競争するのではない。普通、彼は自分の集団の友達が全部合格者のなかにいてほしいと思う。」

P52「こうして、入試制度は友達と他人との区別をする働きをする。……一度入ると、競争は集団のなかでの忠誠と友好の下に統制される。このように入試という現象は、集団の結合をあまり脅かされないようにしながら、公平な普遍的基準を維持する働きをするのである。」

 

P72「多くの人々は、国内の経済的、あるいは政治的危機に面したとき、私利を考えない全国的指導者がより利己的な政治家たちの追従を得ようとして没我的愛国者としての非常な魅力をもって現われ、国を全体主義へ逆行させるのではないかということを、しかも、人々はそうした趨勢に対して無力であることをほんとうに恐れているのである。全体主義制度への逆行や下地を準備するような警察力の補強やその他の手段に対して、彼らをあのように強く反対させる理由のひとつは、この恐怖心なのである。M町に住んでいる一般の人々は、戦争を始めたことに対する共同責任に関して、多くのアメリカ人が原子爆弾を落としたことに対して感じている罪悪感と同じような罪意識はない。

M町の人々は、一方においては日本が戦争への道を強いられたと思いながら、他方においてそのような歩み方を決定したのは軍国主義者であって、彼ら自身が決めたのではないと思っているのである。しかしながら、人々は、日本が到底勝つ見込みのない戦争へ乗り出していったことは無法な誤ちであったち痛切に感じている。そして彼らは広島に対する感情は、アメリカが原子爆弾を使用したことに対して向けられている道徳的批難というより、惨害をこうむったことに対する憤りなのである。」

P74「M町に住む多くの人々は、日本にとって形式は様々なあれ、安全保障条約を受諾することは必要であり、また賢明であるとさえ思っていたのである。……しかし、日本が今なお従属的な役割を果たさなければならないことに対して憤慨するのである。これはアメリカの政策に対する批判といったものではなく、国の誇りが傷つけられたことになるのである。」

 

P80「多くのサラリーマンは若いころはかなり左翼的であったことを認めている。穏健な態度をもつようになったのは、むしろ次のような結果であると思われる。つまりサラリーマンは現在の立場に十分満足しており、これ以上、積極的に政治へ参加することによって得られるであろうことに関しては、全く悲観的であるように思われる。このようにしてサラリーマンは、それぞれ自分の地位を危険にさらすことをきらうのである。」

P88「しかし、妻と夫が一緒に外出するのを好まないのは経済的に云々とか、あるいは単なる慣習とかいうこと以上の強さをもっている。夫は同僚仲間の結束にはいかなる干渉をも許すことをきらい、妻に自分の同僚仲間にあまり接近されることもきらうのである。というのは、もしそうなれば妻は夫の職業上の役割について自由に評価することができるかもしれないし、それによって職場での夫の地位について今までもっていた印象を変えてしまうかもしれないからである。妻は妻でまた、自分の隣近所の仲間のなかで侵入してくるものは、いかなるものでもさけたいと願っている。」

※脚注でドーアの話を挙げている。

 

P105「女中と一家の主婦の関係は、サラリーマンとその上司との関係よりはるかに包括的なものである。けれども漸次労働力の供給が不足し賃金が値上るにつれて、女中の数は非常に少なくなった。そして成功して独立している専門従事者とか実業家と並んで、最も豊かなサラリーマンだけが今なおお手伝いを雇う余裕がある。それにもかかわらずM町では、たいていの家が最近までそのような女中を雇っていたし今なお若干の家では雇っている。最も一般的な女中の出所といえば田舎の女性であって、一六歳頃やってきて、上流家庭で働くことは今でも結婚準備のためによい訓練になると考えられている。」

P111「サラリーマンは、就職のことで頻繁に頼まれる実業家ほどには農村からの頼みごとで悩まされてはいない。それでもなおそれと同じような依頼をうけるサラリーマンもいる。特に、技術的な熟練を必要としない人たちに門戸を開いている会社などに勤めているサラリーマンの場合はそうである。M町の多くの家庭にとって、農村の親戚のものに就職口をみつけることは重大な問題を提出する。……

M町の人々のほとんどが、当然帰らなければならないはずの回数ほど農村に帰っていないといっていた。彼らは少なくとも一年に一度は、亡くなった家族をまつる昔からのお祭に帰らなければならないと思っていても、ほとんどのものが、ここ数年間というもの郷里の家へ帰ったことがないのである。彼らは帰郷しないことによって、親戚のものたちが子供を東京に就職させる時に助力してもらおうと、差し出す贈り物や好意を避けることができるのである。」

 

P121「共産主義諸国の国民は、そのすべての面を熱烈に受け入れるということはないにしても、マルキシズムはその国民の基本的目的観を表現し、その生活に意義を与えるような総合的体系を提供するものである。同じように西欧諸国の国民は、民主主義と個人主義をその生活様式を具現化する原理として示すことができる。M町の住民はその基礎的な信念を具現するような明晰な思想体系をもたない。……多くの日本の学者が気付いているように、ドイツ人は敗戦に際して、真面目に再検討することなく、戦前の価値観を再び主張したが、たいていの日本人の場合、敗戦に際して自分自身の生活観を疑い、苦痛のなかから再評価したが、いまだその苦しみから脱していない。」

P121「明確に体系づけられ、広く一般に受け入れられている価値体系がないので、伝統的な信念のうち最も基本となりうる面を疑ってみたり、疑うことに熱心になったり、また西欧の価値体系のうちのどの要素が採用に価するかを考えるような態度が生まれてきた。以前には疑問の余地なく受け入れていた権威をもっている人々の見解も疑問視されるようになっている。」

 

☆P122「人々は、伝統的価値と地位の関係を象徴するような儀礼とか、形式を重んずることの必要性を疑っているのである。……

これらの問題は、今でも論の的となっているが、戦争直後に比べてみると議論の場が限られてきている。そのおもな理由は、明確に公式化された価値を述べることはないけれども、町の住民の間には何が望ましいかについて高度の合意がある。価値の真髄を求めようという議論の大部分も、何が望ましいかについて共通の前提に立っている。そして価値の真髄を求めようとする努力というのも、これら広く是認されている前提を一層明確にし合理化するような価値体系を見出そうとする努力にすぎないことが多い。このように何が望ましいかについて、現に意見の一致があるために、明確に公式化された価値体系を欠いていることもそう重大な問題とはなっていない。」

P122「たいていの人は自分たちは特定の価値観をもたないし、自分の行動を律するものは確信とか価値ではなく、その場の情況とか慣習であると考える方を好む。慣習がパーソナリティのなかに内面化することがないようなつもりでいるのである。人生観というものは自分の確信とは何の関係ももたないかのように、人々は種々の人生観について議論するのが好きなのである。たとえば、古い日本では信念はこれこれであった、しかし新しい日本では違う――というのをよく耳にするし、アメリカの民主主義をヨーロッパの実存主義とか日本の伝統と比較する。しかし彼らが論ずる場合、それらは日本人の実際の見方とはかけ離れたような言い方をするのである。「日本人の考え方は……」「日本人は、伝統的にこう考えている……」または「新しい日本人はこう考える……」とは言うが「私たち(または私)はこう考えています……」とか、「私たちはこう信じています……」という言いまわしはほとんど聞くことがない。」

※R.P.ドーアが宗教について聞いた時も同じ状況だったという(p136)。

 

P123「親たちの多くは子供たちが道徳原理を教えられていないことを問題にしており、学校で伝統的な道徳教育を再開する運動を公然と支持している人々もいる。保守的でない親たちでさえ、今日の子供たちは自分たちが受けてきたような道徳指導、訓練やしつけを受けないので、子供たちがこれから先の困難に打ち克つことができないのではないかと心配している。多くの親たちは自分たちがこれまで自由を拘束されていながらも自己を維持できたのは厳格な道徳訓練のためであり、苦労をしたという経験は強い道徳的気骨を与えてくれたのだと考えている。しかし子供たちは道徳的基礎がないので、流行や虚構の風に流されてしまうのではないかと懸念しているのである。このような親の考え方のなかに、自分たちが苦しめられたきびしい訓練を合理化する気持が働いているとみる者もあるが、青少年は包括的に信念の体系がないため、その場その場の流行を受け入れやすいという論には多くの根拠があるようである。」

P131「成績はそれ自体として価値あるものとは考えられない。それは、集団のために高く評価される。というのは、個人の成績は当人ばかりではなく、職場の同輩にも影響を与えるからである。グループは緊密に結びついているので、一人のメンバーの成功や満足は、全グループの成功に依存するし、一人のなまけ者がいると、それが全成員の地位をそこなうこともある。仕事を遂行する場合、自分の最善の努力を尽くしただけではほめられない。集団のために、何か成果をあげなければならない。そうでない場合は、結果の責任は自分で負わなければならない。もし在学中の子供があやまちを犯したり法律にふれてつかまったりすると、その非行の子供を正しい方向に導くためにいかに努力したとしても、その担当教師に責任の一端があると考えられる。また修学旅行で子供がけがをすると、その事故の起こった情況が現実にはどうであっても、そのクラスにつきそった母親に責任の一部があると考えられる。個人の責任は、このように包括的であるので、たいていの活動はひとりの個人によってではなく、グループによって決定され遂行される。」

※このことについては「西欧の観察者を驚かす二つの一般的特色」の一つとして挙げられている(p124)。

 

P144「M町の多くの人たちは家に対して積極的な価値をおいていない。しかし先祖や家計に関心をもつことは拒否していない。人々は、家族制度、特に家長による気ままな支配や本家による分家の支配とか、家の伝統の強調を、封建的過去からの遺物であるからできるだけ早く捨て去るべきものと考えている。しかし因襲を忘れたいと望む声は、特に低い身分の出身で、現在では高い地位に立っている家からも出ている。長い歴史をもつ裕福な家は今でも尊敬されているが、親の代あたりから中流階級に入った家では、その卑しい出身を忘れたいと考えるのが普通である。そして尊敬の基礎には家計が重要な位置を占めていることを認めているようで、都市へ来住して経過した期間とか先祖の地位を誇りにすることが珍しくなく、また自分に親類にはこういった金持とか有名人が居るのだということを、他人に話したがっている。低い地位の家では、家系も短く、護持すべき家宝も少ないばかりではなく、誇りをもって示すべき家系などもない。そこでその多くが、先祖に対しては、ほとんど関心を払わないのも当然であろう。」

P144「本家の家長の責任の一つに、その家の構成員全部の福祉をはかるということがある。……

しかし家の力が弱まるにつれて、本家の家長が困っている構成員の資金の割り当てを統制することがむずかしくなってきた。都市へ移った分家が本家より豊かになるということで、特に本家の力が弱まった。田舎にある本家の家長が都会の裕福な分家から助けを求めることはむずかしくなる。と同時に、分家の方でも、困ったときに本家に援助をあおぐことも困難となってきた。」

 

P154「日本の漁村では、乗組員が男性に限られ女性が舟に乗るということは、考えるだけで嫌忌されるべきものとみなされ、この掟を破って罰せられたという話が、多くの神話や迷信に劇的に織り込まれている。多くの伝統的な日本人にとって、男性が家庭の仕事をすることは、考えるだけでも漁船に女性が乗組むのと同じように忌むべきことである。私自身、台所に立入った男性には恐ろしいものが待ちうけているという伝説があることは知らないが、そう年をとっていない人でもその父親が台所に居るのをみた記憶をもっているものは少ない。」

P155「妻が留守のとき、自分の食事の準備もできない夫はまだ多く、妻が出掛けているときに、お茶も飲まないでいるという夫もまだいる。妻は家の修繕さえ行なう。必要なときには石炭や木炭を処理したり庭仕事をやったりする。

たいていの夫婦は両性の平等を強く信じ、若い夫のなかには、結婚のときには妻を手助けしようと決心するものも多いし、また皇太子さえも食器洗いを手伝って範例を示している。また夫はたいてい夕方には家に居ることなどを考えてみると、分業が今でもこのように強く維持されているばかりではなく、主婦の側でも夫が家の中で手助けをすることを望んでいないということは驚くべきことである。」

P160「アメリカ人が、日本婦人の日常生活について、その生活が完全に家庭中 あることを聞き(※ママ)、日本の主婦は、その拘束されている生活に不満をもっていると思いがちである。これは、家庭に閉じこめられているアメリカの中流階級の女性の態度を正しく反映するものであろうが、M町の婦人の気持を反映するものではない。家庭と仕事、または家庭と個人的享楽との間に矛盾を感じている個人は、ほとんどいない。」

 

P160-161「若い男性もその両親も、まさにこの理由で、あまり広い経験をもたない娘を望むのである。共学で最もよい大学に通った、教育程度の高い男性でさえ、同じ大学に通ったり、または外国へ留学したことのある女性とは結婚したくないということが多い。それは、これらの女性は、母や主婦としての生活に不満を感ずるであろうからである。」

P161-162「しかし一般的な質問、たとえば、一世代または二世代前の若い妻の生活について尋ねると、例外なく、〝苦難に満ちた″というような紋切り型の話をしてくれる。たとえば、一家の者がいろりばたに坐わって食事をするときに、若い嫁は、煙の来る方向に座を占めるが、家族の者に給仕をしなければならないので、坐わるいとまさえなかった。若い嫁はひまを見つけて、急いでごはんを食べるとか、他の人たちが終わったあとで食事する。しかも、食事を終えるや否や、また仕事にとりかかる。後片づけをして、次の食事の準備をする。嫁は一番早く起き、寝るのは一番後であり常に家族のための仕事をしていた。嫁は男たちばかりではなく、姑や小姑にも仕えるであった。これをうまくできないことがわかったり、失敗したりした場合にいじめられた若い嫁の話には悲哀がこもっている。他人の家にいる新婚の妻で、長時間の労働に疲れはて、朝早くの朝食を準備する時間になったら起きなければならないと、床の中に横たわっていながらも眠りこまないように努力している姿というものは、今でも町の住人の心情をかき乱すものである。

現在話されている物語をそのまま基礎にして、昔はどれだけひどい状態にあったかを押しはかることはむずかしい、ただ、現に起こったことと、一般にロマンティックにされた紋切り型との間に食い違いがあるということ、少なくとも、紋切型は誇張されているということはいえよう。しかし、その話がほんとうかどうかは別として、町の主婦たちは過ぎし時代の恐怖の姿を、自分たちは幸福であると考える際に、現在の境遇と比較する基礎として思い出しているのである。」

 

P165「理論上も実際上でも、女性は他人の前では、自分の夫に絶対の尊敬をしめしはするが、家のなかでは、必ずしもそうではなかったのである。伝統的な日本の場合でさえも、夫というものは、家事の指図などはまったにしたことはなかったのである。もし妻が、だれかに指図されているとするならば、それは夫よりもむしろ姑によってであった。一世代前でさえ、絶対的な服従の美徳と、実際の行動との間には、相当に大きなひらきがあったわけである。」

P166「農民や小売店主や、あるいは独立した専門職従事者たちの生活のうえでは、家庭のことと仕事のこととは、はっきりと区別されていない。父親は家で商売をする。そして妻はその仕事の手伝いをするということから、妻はたえず夫の権力が集中されていくことに対して、不満が増大しつつある。

しかし、町のサラリーマンの家庭では、家のなかの権限は分割されている。つまり、妻は家庭の内部を受けもち、夫は自分の仕事と家庭のレクリエーションの場面を受けもっている。そして一般的にみて、このように権限を双方に分割するという原則は、夫婦の調和を維持し、両者の欲望をお互いに満足させるということにおおいに役立っている。」

P170「ふつう一般の夫たちは、こと自分の楽しみごととか、子供たちに対する妻の扱い方についてのこととなると、往々自分勝手な権利をふりまわすらしい。……また父親たちは、よく子供たちの躾だとか、友だちづきあいだとか、社会的な役目について、規則をつくる。すると母親は、子供にそれをやらさせなければならない。つまり、こうした問題だとか、またときには、関与しなくてもすむようなこまかい事柄にさえも、夫は、たとえ家の者たちからこぞって横暴だと批難されようとも、そんなことにはおかまいなく、父親としての権利を行使するのである。」

P170「夫の優越した権威というものは、いまや夫自身もそして多くの者たちも、ひとしく支持している民主主義の考え方のなかでは、成り立ちえないものとなっている。しかしそれにもかかわらず、妻たちが自分の夫に、あまりにも多くの威信と特権を与えているということは驚くべきことである。」

 

☆p170-171「だが夫の側に優勢な権利を与えるものは、マルクスエンゲルスによって力説されたように、女性が夫に経済的に依存するということのためだけではない。男性を女性に依存させるよりも、逆に女性を男性に依存させた原因は、女にとっては妻となる以外には社会的に是認されるような選択の道がなかったからなのである。だから、たとえ妻が、虐待とか離婚といった究極的な制裁の可能性を意識的に知らなかったにしても、この制裁は、夫に優越した権威を与えているという慣習を持続させていたのである。」

P172「しかし、M町の妻たちが、夫を喜ばせようとして働くしの働きぶりは、アメリカの秘書たちがそのボスに尽くすものの比ではない。妻たちは、自分の夫を、まるで長男のように扱っている。自分の子供を扱うときと同じように、夫たちもいつも幸福で満足な状態にしておこうと一生懸命につとめるのである。そうすれば、夫は自動的に妻の要望を叶えてくれるようになるのである。」

P175「M町には、姑と嫁とが一緒に住んでいる家はもうほとんどない。しかし、いま一緒に住んでいると仮定してみるなら、その二人の間には、必ずやむずかしい問題がもちあがり、そして家庭の事情がそれによって大きく左右されるようになるということが、明らかである。個人的な会話のなかや新聞のかこみ欄には、この姑と嫁の関係が、現代日本の家族が直面している最も重要な問題であるとして、いつも繰り返し取り上げられている。」

P177「「もし妻と母とが水に溺れているのを発見したら、夫はどちらをまず助けるべきでしょうか?」という、昔ながらの質問を夫になげかけるなら、昔ならたしかにその答えは、「それは母親です」ということであった。というのは、母親は夫にとってはかけがえのない人であるのに対して、妻は新たにもらい直すことができるという理由からであった。しかし、もはや今日では、夫は、妻か母か、どちらかをとってどちらかを捨てるということではなく、両者を同等の立場においているのである。つまり、そこに明瞭な解決がないまま、それで両者の張り合いがいつまでも続いているというのが現状なのである。」

※このような議論にも出典はない。

 

P195「夫たちが自分の勤めている会社へ尽くす忠誠は、自分の家庭へ尽くす忠誠と同程度に重要であると説くことも可能であろう。しかし、一般には、この二つの忠誠が矛盾するということはない。そして、たしかに、家の考に優先して君主の忠をおいた武士道に比べられるような、明確に至高の位置に立つ忠誠の対象が外部にはない。」

※「両親や子供のために犠牲になるということは、相変わらず最上の美徳とされている。」(p180)の脚注。

P186「夫が(※仕事の都合で長期間)家庭にいないということは、まれに家族に不適応の問題をひき起こしはするが、夫に対する情緒的な依存度は、アメリカの家庭の場合ほど強くはないために、そうした別居を可能にし、容易にそのような事態に耐えさせてもいるのである。だから、母と子は家に残り、父親は仕事仲間にすっかり依存したり、紅燈の巷へも出かけていけるのである。」

P187「母と子が結合することのもう一つの結果は、世代間のずれなり違いを、最小限度にくいとめる役割を果たしているという点にある。急激な社会変化を経験している多くの社会では、この世代間の違いなりずれは、とりわけ激しく、親と子の間に鋭い分裂を引き起こす。ちころが、家族の者たちと父親との間の分裂は、たいていの場合、逆に世代間の差をちぢめてゆくように作用するものである。というのは、そのために、子供と古い世代層に属している母親とが親密になり、子供たちは母親の忠告に耳をかたむけるようになるからである。M町の若者たちは、古い世代に不平をもらすようなことはあっても、母親に対してだけは、ほとんどが同情的である。たとえば、アメリカの都市の多くの移民の親子の間にも分裂があり、そこでは、世代間の離反という重大な問題となっているが、日本では、子供が母親と緊密に結びついていることから、このような離反に対して、それは、きわめて効果的な障壁となっている。」

※大学闘争などにも影響していると読める。

 

P190「M町の人たちの結婚生活において、性生活の果たす役割はきわめて小さく、そしてたいていの夫婦は、いったん少し眠ってから、ほんのちょっとの時間で性交渉をすませてしまうという事実は、夫婦間におけるプライバシーや、親密度に欠けるということと明らかに相関している。

おおかたの若い妻たちにとっては、結婚するまで、性的欲望は強く抑えつけられていたため、結婚してもすぐに性行為に満足感を味わうということは、むずかしい。現在の中年婦人の多くは、性については、結婚の当日に母親かあるいは、仲人から簡単に説明され、そしてその際、性行為を描いた二、三枚の絵をみせてくれるまでは、このことについてはなんにも知らなかったと語っている。」

※初潮・月経についてはどう説明していたのか…?性生活については、篠崎信夫「日本人の性生活についての報告」(1957)を参照している。しかし、性交の回数が極端に少ないともいえず、例えば20代前半ならアメリカは週2.5回、日本は2.2回とされる(p196)。また、前戯をアメリカ人の事例では全てが行なっているとするが、日本人は39.9%が行わないとしている(p197)。

P198「第二次世界大戦終結するまで、日本には貝原益軒の古典にみられるように、女性のとるべき正しい振舞についての基準となる手引があって、妻が夫に対して、また子供が両親に対して、守るべき道徳的本分がこと細かに明白に書かれてあった。しかし、その手本の作成を援助した政府の指導者たちや儒学者たちは、親の子供に対する取り扱い方については、何の助言もしていなかった。そのため、孝行についてのきびしい型があるのに対して、理想的な親としての行動を述べる正式の伝統というものはなかったのである。育児に関する教えは、年上の経験を積んだ婦人に委ねられ、それが若い婦人へ口伝えで教えられるものであった。そして、多くの地域社会に共通した育児法があったにもかかわらず、それは、標準化され得なかったし、合理化されるようなこともなかった。」

P200「サラリーマンの家庭は、多くの点で最も伝統からの離脱を示しているにもかかわらず、サラリーマンの妻は、家にいる時間も長く、かつ子供にかかりきりになっているために、他の職業の家庭の場合よりも、母と子の依存性が強くさえあるということが逆説的にいえる。M町のサラリーマンの家庭では、母も子も、母方の親類たちと離れているため、母親たちと子供との関係は、伝統的な農村の家庭の場合よりもきわめて強く、そして、外部から干渉を受けることも非常に少ない。」

※これはあくまで直接的には制度的な話だが、実質的には家父長的な議論に付随する結論となる。

 

P204「アメリカでは、母親が子供の後を追いかけて街を走る情景をよくみかけるのであるが、M町では反対に、子供が母親の後を追いかけてゆくのをよく見かける。母親が子供の少し前を走って、子供が急ぐように元気づけているのである。また、ここでは、子供を罰するために、外出を禁ずるという話は聞いたことがない。ここでよく見かけるのは、反対に、子供が家の外に出されて、自分のやった悪いことに対してあやまるまでは内に入ることが許されず、大声で泣きながら母親をよんでいると、いった情景である。」

P204-205「ほかの地域社会と同じように、M町でも、子供たちはどんどん独立的になってきてはいる。しかし、向上心は、アメリカでは子供自身のなかから生まれてくるのに対して、ここでは、母親から与えられている。M町の母親たちは、一方では、子供は依頼心ばかりで強くていけないといったような不安をもらし、ときにはひとりでやってゆけるようにつき放してやることもぜひ必要なのではないかと思っている。しかし、アメリカではこれとは全く反対で、母親たちは子供があまりに独立的であることに不満を感じながらも、独立をすばらしいことだとたとえ、独立を自然のことと承認しているので、子供は親に反抗し、早く独立しようと思っている。このようにして、無意識的に独立を助長しているのである。」

P205「しかしはっきりとはいえないが、一般的趨勢としては、依存性を少なくしようという新しい動きが芽ばえだしていることも事実である。アメリカの育児法の実際について、他人の話を聞く機会をたくさんもったり、私たちが調査している間に、アメリカの子供たちを観察する機会をなん回かもっている母親たちは、自分の子供たちはたしかに依存的であると感じとってもいた。しかし、私たちが、みんなの前でアメリカの子供の独立心はさらに強いという話を初めてしたときには、少なからず不興をかった。母親たちがそこに不愉快さを感じたということは、母親にとっては喜びであるが、子供にとっては独立を認めてやったほうがいいと心のなかで思っている証拠のようにうけとれた。近頃のマスコミにみられる多くの育児欄も、母親たちの自分本位の考え方から子供をいつまでも依存させておいてはいけないと励ましている。」

 

P218-219「母親たちは、入学試験の準備のために、まさに膨大な勉強を子供たちにさせなければならない。そこで、母親は、子供が小学校の頃は、いろいろと子供の補助教師の役目をしなければならず、夏休みにでもなれば、正規の先生そのものにもなりかわってしまうのである。子供が高校に入って学習内容が高度になると、母親が直接みてやれなくなってしまう。それでも、母親は子供に相当に長い時間、勉強をさせる責任をもちつづけなければならない。たとえ内容はわからなくても、母親は解答集を用意し、子供の勉強について質問したり、練習をさせたりするのである。」

※教育ママ言説においてもこのような語り口はほとんどないように思える。教育ママ言説においては、母親はここまで寄り添う形では熱心に関わらない。

P224「こうしたこれらのすべての変化があったにもかかわらず、M町のこの調査から得られたものは、日本の社会について他の研究から得られるものと同じように、割合に秩序正しく制御された生活の姿であった。……

……たしかにこうした急激な変化は、日本の個々人や各種団体に、かなりの緊張をもたらしたが、社会の分裂には一定の限度があり、近代社会への転換期を通じて、社会秩序が高度に維持されながら現在に至っている。都市的な産業社会へ移ろうとした時期においても、また高度な近代化をすでになし遂げた現在においても、その秩序を維持するに役立った日本の社会構造の特色について考察することは、極めて重要なことである。」

 

P230-231「育児とか人格構造にみられる特色というものに眼を向ければ、こうしたものも、たしかに整然と秩序を保ちながら変化をすすめたということにおおいに役立っている。すなわち、子供のしつけ方は、集団に依存させてゆくというものであった。そして、現代の都市社会においてさえ、家族からその成員を追放する勘当とか、あるいは村からその成員を追い出してしまう村八分という考え方は、なお強く人々の心のなかに残っており、そうしたところから、人々は自分の所属する集団のなかでは、後指をさされないような立場を保とうといつみ考えていたのである。個人はすべて集団依存的であり、集団の要求から離れまいとたえず気をつかっている。だから人々は、新しいほかの集団へ移ってゆくときでさえ、準備がすべて整えられ、そこに招かれて移ってゆくという「御膳立て」のほうを可としたのである。個人の集団への忠誠心を強調するという価値体系は、人々が集団へ基本的に忠誠を尽くすことを全面的に維持し、またそれが変化の過程を統制することについての集団の力を擁護する傾向をもったのである。」

 

P248「若干の問題については、解釈には飛躍が必要である場合があった。たとえば、町の人たちが自分たちの田舎へあまり帰ろうとしないことの最大の理由について、私は、彼らが帰郷したときに起こるもろもろの事柄や、そのときにうける面倒な依頼をどう処理してよいのか戸惑い、かつそのことを恐れたからであると判断した。しかし、M町には、このことをそれの理由としてあげる人は一人もいなかった。みんなは、もっとたびたび帰省すべきなもだがと言っていた。しかし、帰省しないという事実について理由は、別に述べもしなかったし、たとえ言ったにしても、それは仕事の休暇が短いとか、休暇をとれるような休日のときにはたいへんに交通が混雑するからであると説明するだけであった。このようなことはまさしく重要な理由である。しかし、私たちがM町の人たちと一緒に、二度にわたって、その人の田舎の親類のところへ行った体験からすれば、その二度ともたくさんの村びとたちが、上京したいのだがそのときには自分たちの住む家を見つけてくれとか、いろいろ手を貸してくれとかいって、贈り物をもって集まってきたのである。こういった観察によってM町の人たちが田舎の友人や親類筋の者たちから、いろいろと面倒な依頼をうけていることを私たちは初めて知ったのである。多くの人たちは、田舎へ帰らないことを申しわけないと思っておりながら、また同時に、田舎の知人からいろいろと依頼されることを懸念しているので、私たちは、たとえ実際はそうでないのかもしれないが、この私たちの観察した二つの事実を関係づけて理解することは、まちがいではないと考えたのである。」

※しかし、本書ではその飛躍をあえて行うというスタンスをとっている。そして当事者からの発言は結果として無視されている。確かに間違いではないかもしれないが、本書の語りは、やはり普遍化しているようにしか読めないし、それは当然間違いに転じる。