西尾幹二「西尾幹二全集 第一巻 ヨーロッパの個人主義」(2012)

 今回も日本人論を取り上げる。

 西尾については最初に「教育と自由 中教審報告から大学改革へ」(1992)を読み、レビューする予定だったが、背景として西尾の考える日本人論について押さえておく必要があると感じたため、本書を読んだ。

 

 その考え方についてはこれまでのレビューでいえば千石保に最も近いだろう。千石はポストモダン期における日本人に対して、もともと主体性が欠けていたために、極めて流動的な思想に陥っており、それを規範の欠落と結びつけて議論していた。西尾もこの流動性を日本人の特徴として位置付けている。

 例えば、p35のように「自己主張が強く、首尾一貫している」西洋人と、「和をたっとぶ素朴な日本人」といった表現から、p96のような「自然と文化の分断」をした西洋人と「『自然』と『文化』の二元論的な対立をせず、適合させる」日本人といった語りを通じ、直接的にはp119-120のような形で日本の流動性を問題視する。

 

 ただ、西尾の日本人論として最も特徴的な視点かつ最も重要である点というのは、「理想と現実についての不一致について自覚的でない」という点に尽きる。永らく近代の歴史の中でその文化を展開してきたヨーロッパ諸国(特に本書でドイツが中心に語られる)では、特に平等に寄与する「権利」をめぐる議論を実態と結びつけながら展開させることができた(と西尾は考えている)が、日本においてはいわば「頭でっかち」になっており、うまく現実と適合できないまま、理想が追求され、原理主義的に「近代」が展開されてしまっているとみている。

 

 また、この観点は宗教信仰も踏まえてなされている点も興味深い。結局宗教信仰は一種の幻想を信仰する訳だが、そのような信仰の実践があるからこそ、西洋人は「理想」と「現実」を区別する視点を獲得できているとみなす(cf.p42-43やp187など)。しかし、日本人にはそのような区別を可能にする視点がなくあたかも思想を万能なものと捉えそれを繰り返すがために「思想は道具でしかないという自覚が欠けている」のではないかとみる(p184-185)。

 

○本書における「止揚」の用法について

 

 また、もう一点の本書の特徴といいうるのは、「止揚」という言葉の用法に対する態度である。ノートに記載したのは4ヶ所であったが、基本的にこの「止揚」というのは、あくまで実態としての状況のぶつかり合いとして描いているように思える(cf.p118-119,p319,327)。しかし、他方でp320-321で用いられる「止揚」というのは、ヨーロッパの共同体が「近代国家の概念の止揚としてではない」とされる。ここで西尾はヨーロッパの文化を形成した際の「止揚」と、近代国家という枠組みにおける「止揚」というのは、その考え方が異なると捉えている。

 この2つの「止揚」の用法というのは、私が過去に読んできた本における「止揚」の用法と比較しても、確かに正しいように思える。特にこれまで展開してきた教育における「集団主義」をめぐる議論においては、特に後者の用法、「近代国家の概念の止揚」としてのものが多かったように思える。

 

集団主義的人間は野村(※芳兵衛)のように市民的人間の否定としてではなく、反対に市民的人間の発展的止揚として成立してくるものである。それは、個別的な人間が個別的な人間のまま自分の力を社会的な力として認識し、それを政治的な力として認識し、それを自覚的に行使できるようになったとき、はじめて現われてくる人間のことである。個別的人間はこの全過程をとおして自分の力の利己的、反社会的行使と闘争していくことによって集団主義的人間になるのであって、自分の力の利己的行使を道徳的、観念的に断罪することによってそうなるのではない。そうした断罪は個別的人間から彼自身の力いっさいを奪うことになってしまうからである。

そうだとすれば、野村の協働自治人は集団主義的人間だといえない。集団主義的人間像は野村にあっては道徳的、観念的ベールのうちに閉ざされ、現実性、歴史性をまだ与えられていない。」(竹内常一「生活指導の理論」1969,p261)

 

レーニンによって確立された総合技術教育の理論を分析すると、つぎの三つになります。(一)共産主義教育の位置構成部分であり、共産主義教育を確立する能力のある世代を教育するものである。そして、この教育を実施し、全面的に発達した人間をつくりだすためには、新しい生産関係を獲得することが前提され、したがって世界観の教育や政治教育と結合されなければならない。()全面的に発達した人間の教育であり、知能労働と筋肉労働との対立を止揚させる教育である。(三)総合技術教育は、総合技術的労働教育と科学の基本との統合である。すなわち、「科学の基本」を与え、「理論と実際とにおいて生産のあらゆる主要部門」を知らせ、「教授と生産労働とを密接に連けい」させるものであり、この統合は、生徒のすべての社会的・生産的労働が学校の教育目的に従属させられるような基礎において実施されなければならない、ということです。」(技術教育研究会「総合技術教育と現代日本の民主教育」1974,p30-31)

 

「教育への政治優先的態度を取る限り、つまり、どのような政治体制においても不断にそれに挑戦する自由で創造的な人間が存在しない限り、それは政治的体制の自己発展の死を意味するからである。体制の内部矛盾を見極めそれを克服するについての、いわば止揚能力としての個性豊かな創造的、逸脱的人間が、常にどんな場合にも必要である。それは、一つの型を要求する「集団主義的」政治運動の枠外にある、「個人主義的」な人間実存の有無の問題である。政治体制の両極化がすすむ現代であればあるだけ、この政治を超えた人間づくりによる政治への逆説的な貢献が、いっそう望まれることになりはしないか。」(

片岡徳雄編「教育名著選集1 集団主義教育の批判」1975=1998,p108)

 

 これらの議論において共通しているのは、全てそれが「人間性」に関わるものであり、「止揚」という用法がいまだに達成されていないものに対して語られるものとして捉えられている点である。その当為論的な性質から、私自身はこれまでその「止揚」が現実的なものなのか(実現可能なものなのか、更には不可能なものを実態化させるためのレトリックにすぎず、非現実的な議論にしかならないのではないのか)という切り口で疑問に感じる部分も多かった。このような止揚の用法のされ方というのは、恐らく本書でいう「近代国家の概念の止揚」とも関連するものであるように思える。

 

 他方で、これとは異なる文脈で「止揚」を用いる論者もいる。

 

ヘーゲルの発見で極めて積極的なものは、人間とは、現実関係において自ら疎外した「外在態」をつねに意識し自覚しつつ「自己のうちに取戻す対象的な運動としての止揚」という契機をもつ存在である、ということにほかならない。否定の否定」とは、人間が関係において生み出したものを、ひとつの「仮象」としてつかみ直すということ、その了解と自覚においてこの「仮象」を止揚し、現実を確証しなおすということである。たとえば、ヘーゲルが見出した偉大な原理は、「労働」を人間の自己産出の過程ととらえたこと、つまり自ら作り出した対象が自己と対立するが、この外在性をふたたび自己へと取り戻す止揚にいたる過程ととらえたことにあった。」(松下圭一「シビル・ミニマムの思想」1971, P263)

 

「まして、このような文脈において考えるならば、あの「実存的嫌悪」もとづく否定のエネルギーによって社会の変革を追求するというのは、近代の歴史的かつ論理的な教訓をあまりにも無視した話であると言わなければならない。そして、そこに展望される「近代」の否定は、何か実存的(したがって主観的)な近代批判としては成立するかもしれないが、けっして弁証法的な否定として本質的な近代批判として「近代」そのものの危機を止揚するものではありえないであろう。」(田中義久「私生活主義批判」1974,p219)

 

 これらの引用では理念そのものが「止揚」する訳ではなく、むしろその理念をもとに獲得する実態についての積み上げについて止揚という言葉を用いている節がある。特に田中義久の議論は西尾の議論に通じるものがあり、田中も次のように「日本的」なものを批判的に捉えている。

 

「日常的には無原理の否定の連続としてあらわれ、しかも幻想に支えられた運動体の中でみずからの運動の対立物をことごとく否定しようとするところに発酵する心情主義——それは、形態的には、ニヒリズム、ロマンティシズムそしてアナーキズムのシンクレティカルな流動体である――は、非常に「閉じた」エピステーメと結合する。それは、きわめて特殊主義的であり、日本的ロマンティシズムの伝統的構造と重なり合う位相をもっている。このような心情主義において「自己否定」が語られる時、それは、実は、はてしなき「自己肯定」にほかならない。そして、「自己否定」即「自己肯定」という何やら骨格のない論理をもっとも自足させるかたちで包摂しうるもの、それがあの日本的ロマンティジスムである。」(田中1974, P221)

 

 恐らくここでいう「自己肯定」の議論は西尾がp215-216で述べているのと同じものなのだと思われる。否定の原理についても、それ自体が「閉じた」ものであること、何かしらの実態と結びついていないと、それはほとんど意味のない否定でしかなく(これが「主観的である」ということだろう)、同時にそれは意味のないという点で「自己肯定」していることと同じであること、それが情緒的な日本人につきまとっている考え方であるということという点を西尾と田中は共有しているように見える。

 

 ここで両者の止揚の用法との違いももう少し考えてみる。どちらも一定の「否定」を含みつつ議論を行うわけであるが、前者の「止揚」という言葉は、その契機を外的なものに見いだしているものと言えるかもしれない。ほとんど「体制批判」というものを契機にして自己が身につける主体性の次元において止揚を試みようとする議論がそこでなされている。

 一方後者が批判するのはむしろ「大衆」という主体全般(=日本人)である。もちろん、体制批判という文脈がない訳ではないものの、それよりもまず内なる主体の方に対し、批判的な視座を与え、真の意味で止揚する必要性について議論している傾向がある。

 確かに、ヘーゲルが言うような「止揚」について正しく理解するならば、「理念」が理念として止揚するような考え方はその本来的な用法として正しいとは言い難いだろう(※1)。次のような止揚の用法を見れば、それは明らかであるように思える。

 

「啓示宗教の精神は、内容としてはすでに絶対精神だったが、まだ、意識そのもの(→自分と対象とを異なったものとして区別する、という意識の特性)を克服していない。精神全般もそれの諸契機も「表象」に属しており、「対象性」という形式にとどまっている。そこで、残っている課題は、この対象性という単なる形式を止揚するということだけである(→主観的確信と客観的真理との区別を最終的に止揚して、自己と対象との同一性を打ち立てることこそがここでの課題であり、これによって絶対知は成立するのである)。」(竹田青嗣西研「完全解読ヘーゲル精神現象学』」2007,p298)

 

「しかるに精神の歩みがわれわれに示したのは、「自己意識として純粋な内面のうちにしりぞくこと」(フィヒテ)だけでも、「自己意識をただ実体のうちへと沈めこむこと」(シェリング)だけでもなかった。自己は自分自身を外化して実態のうちへ沈めるが、主体として実体から出て自己内に還帰してもおり、実体を対象とし内容とすると同時に、対象性と内容とが自己に対してもつ区別を止揚する。精神はこういう運動としてあるのである。」(同上、p309)

 

 このような議論をもとにすれば、西尾のいう「近代国家の概念の止揚」の問題点というのは適切な止揚ではないことを理由に批判が成り立つこともわかってくる。更に言えば、このような形で行われるべき「止揚」について、日本人は適切に理解していないという文脈もそこに含まれているといえるだろう。

 

 

○再び、日本人論の「一般性」を語ることの問題

 ただ、西尾の場合、このような議論に関連して、「ヨーロッパ人は『理念』を原理主義的に捉えることはしない」ことを一般的なものとして捉えている。この主張は二重の意味を含んでいる。一つは文字通りのヨーロッパ人に対する指摘を指し、もう一つはその裏返しとして、日本人は理念を原理主義的に捉えているという主張である。前者に関していえば、本書でそれほどまともな立証をしているように思えないが、検討課題とする価値はある議論である。しかし、後者についてはほとんど妥当性を持っているように(少なくとも私は)思えない。

 西尾の議論はいわゆる進歩的文化人学生運動家の行動と一般的な「日本人」を同一視した上でその批判を行っているのがほとんど明白に見えるからである。学生運動等の関与者というのは学生一般からいってマジョリティではあかったし、そのマイノリティの中でも、それらの者が「原理主義的」に振る舞っていたかという論点さえ、議論の余地が大いにある(※2)。これまでの日本人論のレビューでも繰り返し議論してきたように、西尾の場合も「社会問題」として取り扱われるものについて無根拠な一般化を図り、その際を実証的な理由なしに強調するのである。

 

 

○日欧比較の程度問題とアメリカの取り扱いについて

 

 本書は「ヨーロッパ像の転換」(1969)と「ヨーロッパの個人主義」(1969)という2冊の著書が中心となっている(著されたのは恐らくこの順番である)が、両者における違いとして、日欧の比較の程度が異なる点を挙げることができる。前者はかなり絶対的なものとして両者が比較されるのに対し、後者では相対的な違いとして語られ「程度問題」として日本人論が語られているといえるのである。

 これに関連してアメリカの取扱いについても違いが認められる。通常日本人論がアメリカとの対比で語られる傾向が強いのは確かであり、西尾がみるヨーロッパとの対比というのは、日本人論の相対化に寄与しうる観点であり、それなりに重要な論点であるといえる。

 「ヨーロッパ像の転換」においてははっきりと「日米と西欧」の図式を打ち出し、西欧に着目する意義が明確である反面、「ヨーロッパの個人主義」ではその言及が皆無であり、軌道修正したかのような印象も受けるため、後者におけるアメリカへの評価が前者と同じとみなしてよいのかはかりかねる所もある。特に日本の教育システムを明治時代からアメリカの単線型の制度の輸入であったとみなす事実誤認(cf.p126-128)はその典型であり、「日本人は比較したがる」(p143)といった「心性」の問題についても、アメリカと日本を同一カテゴリーとして議論していいのか、かなり微妙な点を含んでいるため、実質的に西尾はアメリカとの対比を放棄してしまったのではないかと思える。

 

 合わせて、後者の著書では相対的な語りをする性質から、ヨーロッパはヨーロッパで問題があることも比較的言及されている。前者ではせいぜいp133のような語り方で「近代化の問題は西洋にも影響を与えはじめている」とする程度で、ヨーロッパ的思考そのものがぶれているような議論の可能性はまずなかった。しかし後者においては、p244やp249で見られるように程度問題として、又は一部のヨーロッパ人には日本と同じ状況が見られることに言及されているのである。

 

 

○「エゴイズム」と「規範的であること」との関係性について

 

 本書において評価したい点の一つに「エゴイズム」の捉え方がある。特にドイツの大学での体験において西尾はドイツの大学生の「エゴイズム」について触れる。西尾自身その自己主張ついては決して合理的なものであるという風には思っていないものの、それなりに首尾一貫しているところもみられるとし(p35)、そのような議論から西欧的な個人主義自由主義といった理念の真の意味を西尾は捉えようとする。端的にそのような態度は「社会」の存在があるからこそなされるものであるし(cf.p19,p29)、それを相互不信を前提にしたものととらえ(cf.p27,p46-47)、そのような状況をもとにした不安の現われとさえ見ている(p27)。対して、日本人は絶対的に対比する形で社会の不在や、相互信頼を前提にした議論、そしてエゴイズムの欠落(p29)が語られるのである。

 

 この欠落という観点については、それ自体で重要な論点でありうるかもしれない。少なくとも「日本人に父性が欠落している」といったにわか精神分析の言説などよりはよほど誠実な主張であるように思える。私自身は「父性」などは「権力を持つものの『エゴイズム』を強調しろ」以上の意味を持ち合わせていないと考えているので、結局エゴイズムなるものをいかに擁護するのかという点に集約されるように思える。

 ただ、本書において奇妙なのは、松下圭一が述べたような形(松下「市民文化は可能か」1985,p204)で、「エゴイズムが強い(<私>傾向が強い)=日本人の性質」が成立していない点である。いや、正確には松下もかつてはエゴイズムを多少なりとも評価する立場にあったといえるため、正確ではない。松下の場合、エゴイズムの批判はそれが「必要以上のもの」である状況を認識した80年代以降顕著になってとみなしえた。ここで「必要」とはかのシビルミニマムナショナルミニマム)の量充足との関係からの議論である。

 このような観点からすれば、西尾は何故エゴイズムの必要性を述べるのかわからなくなるが、その議論を忌避すること自体が「徹底した孤独の確認をおこた」ることになるからであり(p29)、なおかつ個々人のエゴイズムの遂行というのが「実際はエゴイズムの完遂に決してなりえない」からであると捉えるからである(これはすでに述べた宗教倫理の議論と同じである)。

 実際、この両者の見方の違いは致命的な認識の違いに基づいている。価値判断のありようについても認識が当然違うが、事実認定のレベルでも大きくかけ離れているように思える。この違いはそれ自体で興味深い点であるといえる。

 

 ただ通常は、松下が見るように「エゴイズム」と「規範」は相反するものとして議論される傾向が強い。エゴイズムとはまさに「自己」のことを考えるものであり、当然「社会(規範)」との関係で言えば、対立するものだと考えられがちである。しかし、西尾はこのような二分論をそもそも西欧人はとらないものと考える。それは「西欧文化」に起因するものと考えている。どちらかと言えば、この「社会(規範)」が強力に作用するものであるからこそ、「自己」はそのことに影響を受け、一種の妥協を余儀なくされている。結果的にエゴイズムがあったとしても、規範が機能する。論理構成はこのようであると言ってよいだろう。

 

 しかし、このように考えていくと、前回レビューしたキンモンスの議論でも出てきた「他にありえた選択肢」について、本当に選択可能だったのかという論点が問われるべきではないだろうか?キンモンスの議論においては、日本の明治以降の平等主義的な政策についてあたかも他の選択肢がありえたかのように議論していたが、日本の民族構成等で「強力に制約された要因」がむしろ選択肢を強制し、平等主義的な選択肢しかありえなかったのではないかという問いかたをした。

 実際西尾が指摘する日本の状況というのは、問題があるものとして捉えていたが、他の選択がありえたかと言えば極めて微妙であり、「何故日本人が非難されなければならないのか(回避できなかったものについて何故非難されなければならないのか)」と思える部分が散見される。特に欧化政策については、選択しないという可能性があったのかまず多分に疑問である。そして、この「欧化」を行ったことで日本人が「不安定」な主体になったことについて批判することにどれほどの意味があるのかはもちろんだが、論理的に単一性を確保することが不可能であるものを不必要に攻撃しているように見えなくもない。

 その傾向は「日本人は比較したがる」といった議論(p143)においては極めて顕著であるように思える。この「比較」の議論についてはすでに杉本・マオアのレビューで見たように、「日本人論」は存在しても「アメリカ人論」「ドイツ人論」というのはそれとは非対称な形で現われうること、その原因が多分に「支配する者・される者」という関係性の中に埋め込まれているものである。西尾の議論は悪く言えば、このような反論できない構造を逆手にとり、あまり根拠のない日本と西欧の差異化を図っているように見えてしまう。これは特に先述した日本とアメリカの教育制度の同一視という勘違いに顕著に現われているように思えてならないし、「比較したがる」傾向について日本が顕著であるというのが日本に限らないのではというのは、杉本・マオアのレビューの際にも指摘したが、「黄禍論」といったかつての日本人・中国人蔑視をめぐる言説をみても、欧米人についても日本と同じように「比較したがる」性質をもっているようにしか見えないのである(「黄禍論」に関しては後日レビューする)。P256のような指摘はさしあたり的外れであると言うしかない。西尾の議論は結論ありきであるからこそ、このような勘違いを簡単にしてしまうのではないのだろうか。

 

 更に無視できないのは、p196-197で指摘されている「幻想としての西洋」という言説である。ここで西尾が真に意図するところが何なのかはわかりかねる所があるが、この部分に限らず、似たような主張がされている部分は他にもあった。恐らくは、「日本人は比較をしたがる」傾向をするものの、その比較を行う際に参照される「欧米人」というのが、我々が都合よく解釈する幻想でしかないという点を意味するか、もしくはp143で述べられるように、単純に「比較」の作業自体をしてもその「西欧」を文化として取り入れることは不可能であるため意味がないということを言いたいのだろうと思う。

 しかし、前者のような「幻想としての西欧」への指摘というのは、そのまま西尾が指摘してきた西欧の議論にも跳ね返ってきてしまい、自殺論法になりかねない。少なくとも、私には西尾の言説が「幻想」の域を出ているようには思えず、むしろ西尾の議論にもそのまま跳ね返ってきているように見える。このような論の展開からみても、西尾の日本批判の仕方には難があるように見えてしまうのである。

 

○西尾の教育システムへの言及について

 

 この点はすでに日本における単線型と複線型の議論の系譜を西尾が誤っていること、それが日本とアメリカとの同一性を語るために用いるために述べている嫌いがあることは述べたが、もう一点教育の関連では「大学進学率」への言及も無視できない(p125-126,p128)。キンモンスの議論とも関連するが、日本は平等主義であるから、不必要な大学生を入学させるような愚を犯しているとここでは述べたいようである。

 このような入学率の認識は確かに当時としては正しいものだったように思える。マーチン・トロウの「エリート型」「マス型」「ユニバーサル型」の大学制度の指摘は、本書よりもあとの時代のものだが、トロウも概してヨーロッパは「エリート型」の極めて限られた層しか大学を利用しておらず、マス型である日本や、ユニバーサル型であるアメリカと比較した場合には、確かに広く門戸が開かれている大学制度であると言うことができる。

 しかし、ここ十年ほどでその認識を改めるべき言説が出てきている。文部科学省などがOECDのデータに依拠しつつ、「日本の大学進学率は国際的に見て低い」という見解を示している点である(参考URL: http://www.mext.go.jp/component/b_menu/shingi/giji/__icsFiles/afieldfile/2013/04/17/1333454_11.pdf)。集計方法の違いや高等教育の捉え方、そして入学する年齢層の違いなど各国での違いがあり、別途精査が必要である内容のようにも思えるが、少なくともこれまで自明のこととして捉えられていた入学率の傾向の違いについて現在では日本と西欧ではっきりと示すのが難しくなっているデータであるように思える。

 そしてこの事実自体は西尾の論にとって非常に都合が悪い。西欧の文化には西尾は平等意識が強く反映されないような文化の強さがあることを強調していたのだが、そのような文化がすでに消失してしまったことになってしまうからである(西尾的な言い方をすれば、「近代悪」の影響が決定的に西欧にまで影響を与えるようになった、ともいえるかもしれない)。結果的に西尾が西欧を支持する基盤であった「ぶれない西欧」という前提が崩れているということである。このような点からも西尾的な日本と西欧の違いの主張には、反論されうる要素があるといえるだろう。

 

 

※1 「本来的な用法」という表現が適切かどうかも図りかねるが、少なくともあるべき「止揚」というのは、西尾のいうように「理念」と「実態」とのせめぎあいの中で存在すべきものであるという言い方はほとんど正しい。ただし、この「止揚」自体は決して完遂するものであるという捉え方もされるべきではない。絶対知のようなものは現実には存在しえないものであるからである。そしてこのような存在しえないものであるという点を前提にした場合、西尾が区別したように2つの止揚という用法がいずれも表現として間違いとは言い切れなくなる。ここで一つしか止揚のあり方を認めないのは、絶対知が存在するものと想定しないといけなくなるからである。現実においては、理念を理念として止揚するような議論も適切でありえるのであり、そのことを全面的に否定する態度こそ、非難されるべき前提をもったものと言わなければならない、と私は考える。

 

※2例えば、全共闘白書編集委員会編「全共闘白書」(1994)において、94年に実施した、全共闘世代に対するアンケート調査結果を見る限り、それが過去の回顧という体裁をとっているというバイアスの可能性はありえるとしても、学生運動参加者でさえ革命ないし大きな社会変革がおこると信用していたのはむしろ少数派であった(信じていたは36%、信じていなかったは41%)。このような点から言っても、「理念」に縛られてばかりで、「実態」との整合性について考えようとしないとする西尾の日本人像は曲解であるように読める。

 

 

 

<読書ノート>

P13「私たちは何国人は日本びいきだとか、どこの、誰は人種的偏見がないとか、ほかの外国人の悪口を言うときに、まるでパターンがきまったように、日本という「類」概念で判断を下すことが多かったのである。……つまり、われわれは依然として「個人」としてこの地に来てはいなかったのである。それはまた、追い越すとか、追い越さないとか、そういうことをたえず気にしているわれわれの心理とも不可分なものであろう。」

P18「仮面をかぶったような表情のない日本人と、デモや酒宴に痴れる日本人とは、結局は同じ性格の二面にすぎないのではなかろうか? 小さな集団のなかで陶酔し、仲間うちで情緒的に結ばれているものは、広い世界に出たときには、「個人」として立つことが出来ないからである。」

P19「われわれは「仲間」というものは持っているが、「社会」というものはもっていないのかもしれない。ひとりびとりがある制約のなかで、互いに距離をもって接し、自他のけじめをつけて、それぞれが自分の役割に徹し、他を侵犯しないで生きていけるようなルールや様式のないところでは「個人」の自覚も生れることはないだろう。」

 

P20「そういう非難のもとに、日本人の前近代的性格を批判し、ヨーロッパのうちに近代社会の理想をもとめるというのが、これまでのお定まりの方程式であった。だがわれわれの個性の喪失、社会性の喪失は、ほかでもない、われわれの「西洋化」そのものに原因があるのではないか。より正確に言えば、歴史も伝統もちがうわれわれが西洋化されるはずもないのに、西洋化されたこと、そして結局は、まったく西洋化されなかったこと、それでいてもはや西洋化以前にさかのぼることが出来なくなっている状況にあるのではないか。

じっさい私はペシミストであるほかなかった。そしてそのペシミズムを外国人にいくら説明しても通じないし、また通じさせる必要もない自己反省の問題でしかないという予感があった。」

※「じっさい日本に関する初歩的な誤解がいまだに少なくないヨーロッパでは、日本の西洋化がもたらした自己分裂については、言ってきかせても甲斐ないことだった。」(p20)

P24「後に知ったが、この「危険に対しては自分で責任を負って」は、いたるところに張り出されてある標識上のきまり文句であって、「危険」ということばを用いてはあるが、そのおおよその意味は、「万一」の損害に対しては自分で責任を負うことにして」というほどの意味である。だから、工事現場や、あるいは市当局が損害賠償をもとめられるような可能性のあるところには、この種の標識はたいがい張り出されてあった。だが、私がはじめて目にしたこの標識が子供用の鞦韆(※ブランコ)に張ってあったということが、なんとしても私には異様な印象を与えたのだった。」

※事情は日本も変わらない。しかし、「ドイツ人のあの独特な、我の強さと、この標識のあり方とがどこかで関わり合いをもっていることは確かだろう。」(p24)「とりわけ、公的な義務や責任問題などがからんでくると、ドイツ人は自己を護ろうとして、他を攻撃することに躊躇がなかった。」(p25)

 

P26「だが、内心は反対しながら、表面はにこやかに応対するといった交際術を都会風だとか、大人の付き合い方だとか言いたがる日本人は、じつははじめから言葉や論理にそれほど重きを置いていないというに過ぎない。つまり言葉や論理で自分をどこまでも追い込んで、相手に自分をぶつけて行かない限り、自分が相手から抹殺されてしまうというような不安が日本人の社会にはもともとないのであろう。」

P27「そういうわけだから、私が属していた大学のゼミナールもやはりはげしい議論の応酬になり勝ちだったことが思い出される。……だが、ここでも、冷静に論理がはこんでいるというより、自分の論理をまず打ち出して、それを他人に押しつけていくという衝動の方がつねに優勢であるようにみえた。彼らは討議をするよりも、自分の不安を言葉でうめて、まず自分を救おうとする性急さが先にあるように見えた。」

※「しかし、いずれにしても、ここにみられるのもやはり言葉や論理に対する過剰な信頼である。」(p27)

P27「ここにはなにかルールが、形式かがあるのだろうか?

人間同士はたがいにどうせ理解し合えないものだという冷たい前提を、たがいに理解し合っているともいえるのかもしれない。」

P28「日本では公的な場でだれかを批判すれば、いくら論理が整然としていても、あとあとまでしこりが残る、公的な場では単なるたてまえや、心にもないことばかり話し合う人が多く、実際の決定は、肚の通じ合う少数の代表が、その場の空気を機敏にかんじとりつつ、あとから上手に取りまとめていくという例が日本人社会には多い。」

※ドイツ人の主張が本当に「心にあること」だと何故言えるのか??そう見えるだけでは??自己保身的であることは西尾も認めているではないか。問題はそのような対立構図の中で責任ある結論を出さねばならない時にどう調停されるのかである。

P28「第一に、われわれは、自己主張が弱い。相手の気持を忖度しすぎる。それだけ自我拡張欲に乏しいのである。」

 

P29「われわれが「仲間」というものは持っていても、「社会」というものを持っていないかもしれないと私がさきに述べたのも、自己主張を忌み嫌う日本人社会が人間相互のエゴイズムの是認、徹底した孤独の確認をおこたっているために、自律した個性を喪失していく一方ではないかと思ったからにほかならない。」

※しかし、西尾のいうドイツの実態を見ると、「個人主義=利己主義」も正しいように思える。

P30-31「ヨーロッパで私が出会った数多くの日本人のなかにただひとりも本格的なコスモポリタンと呼べそうな人はいなかった。

日本人は日本の家族と仲間のなかにしっかりと根をはやしていなければ生きていけない唯一の国民かもしれない、と私は思った。それに、私はべつに自分がそうだったから言っているわけではないが、あらゆる民族のなかで日本人の男ほど西洋女との交際に慎重な人種はいないのではないかと思った。」

P32「ほかのアジア人はしきりにドイツ人の部屋を真似していたが、私ばかりではない、どういうわけか日本人の部屋は申し合わせたように乱雑になり勝ちで、それでもわれわれはいっこう困らないといった顔をしていたので、掃除女は、部屋をみれば日本人だとすぐ分ると言ったほどだ。

個人の自己主張がはげしければはげしいほどそれだけ秩序への欲求もはげしくならざるを得ないのかもしれない。手ばなしでいればどこまでも底しれぬ破壊衝動へつっ走っていくのが人間の自我拡張欲というものだ。」

 

P34「(※大学の寮)入寮に際しじっさい合法的な契約書を交わしているのだから、例えば管理権を大学や教団が握っているとしても、彼らが学生である以上それは当然のことであって、寮の管理権にまで立ち入ろうとする日本の学生の考え方などは、いくら説明してもここでは通じるはずはないことであった。……

この問題は、後の章でももう一度ふれるが、いまや世界中のどこの国にも反乱や暴動や不満の爆発はあるにしても、日本の場合には動機にとくにいちじるしく論理性を欠いていること、始めも終りもなく無限にだらしなくつづく社会不安の曖昧な無形式とを特徴としている。なにも学生運動にかぎらない。たいていの社会不安のもとになるこの没論理は、これまで述べてきた日本人の人と人との関わり方の曖昧さにすでにその原因があるのではないだろうか。」

※実によくわからない。どの秩序が承服され、どの秩序に対し反乱していると言うのか。

P35「日本人には積極的な罪悪感がないから、人間同士の和をみだすことが消極的な罪悪となるのかもしれない。ということは、それほど日本人は和をたっとび、調和を愛し、人間相互の理解を素朴に信じたがるお人好しの国民だといいかえてもいいだろう。」

P35「自己主張のつよい西洋人は彼らなりに首尾一貫しているところがみうけられるし、また、和をたっとぶ素朴な日本の民衆もまた彼らなりに一貫した秩序感覚をたもちつづけているといえよう。ただ、「西洋化」された日本人の意識だけが、日本的美点を「封建的」とか「前近代的」とかきめつけて「西洋的」に行動しているつもりで、はなはだしく「日本的」な結果に終るという愚をくりかえしているのである。」

※日本人固有の長所とは何なのか??

 

P42「個人主義自由主義はそのかぎりでは抵抗すべき権威がなければ成り立たぬという自己矛盾をはらんでいるはずなのに、近代日本の浪漫主義は、束縛を破る行為のみを自由であるとし、束縛を超える自由についてはいささかも知らずに来たのだ。権威らしい権威といえばすべて流し去ることにこうして精力を傾けてきた結果、今日では、われわれはなんの拘束もない完全な自由の荒野に抛り出されて、かえって途方に暮れているようにさえみえる。自由だけでは人間は自由になれないからである。」

P42-43「いったい西洋的な個人主義とは何なのだろうか? それはヨーロッパのじっさいの生活風俗の場からきりはなすことができるものだろうか? 個人主義自由主義は、個人を超えたなにものかが厳として生きている場においてのみ成り立つものではないか? もしくは、たとえ昔年の権威を喪ったとはいえ、個人を超えた絶対的なものとのかかわり合いにおいて人間関係を調節してきたヨーロッパでは、今なおわれわれのあずかり知らぬ倫理観がはたらいているのではなかろうか?」

個人主義を生活風俗と離せない、という主張自体がすでに矛盾している。何故なら、個人主義とは、そのような生活風俗を引き離す試みでもあるからである。

 

P46-47「ヨーロッパの個人主義が、人間と自然とはもとより、人間と人間との関係をも、徹底した不連続としてとらえた上で、ばらばらの個体をつなぐ必要から、絶対者という統一原理を設定しているといえるのではないだろうか。ヨーロッパ社会の人間関係がお互いにさっぱりした、割り切った、乾いた関係であることをわれわれは良い意味で個人主義的とよんできたが、それは同時に、相互の人間不信の上に成り立つものであり、その不信感を調停する機能としての統一原理がいまなお目にみえぬ形で作用していることによって、ヨーロッパ社会の人間関係があのさっぱりした、調和のある秩序をもつことができるのではないだろうか。

個人主義とは、近代日本にみられたような達成すべき美しい理想なのではなく、すでに現実なのである。しかも、それはやりきれない現実なのであり、したがって、ヨーロッパの個人主義とは、個人性を滅却し、なにものかに奉仕することによって、はじめて個人性を獲得するというパラドックスをうちにはらんでいるのではないだろうか。

もともと破壊への情熱を秘めているヨーロッパ人にとって、束縛を破壊し、おのれを解放することがただちに自由を意味せず、むしろ高次の束縛をつくり上げて、それを頭上に設定することにより、相互の破壊衝動を、いっきょに、絶対的に、裁くことのできる「自由」を確保しようとしているのではないだろうか。」

※不信感と言えば聞こえは良いが、正しい表現と言えるのか?

 

P58「私の眼にうつったあの生活風俗の多様性は、いわば文化意識の根底をなす多様性につながるものであって、それは多様でありながら、同時に調和した統一性をも志向してきたものなのである。統一性は、画一性ということとは異なる。というより、文化はある統一性をたもっていなければ、ゆたかな多様性を発揮することもできないであろう。これは逆に言っても同じことで、ヨーロッパ文化は多様であることによってはじめて、統一体としての活力をかんたんに死滅させずに自己展開しつづけることができたのだともいえよう。」

P59「「個」に徹することが同時に「全体」に参与することになるというあの逆説的なヨーロッパ文明の抽象精神が、どうして容易にわれわれのものとなり得るだろうか?それはヨーロッパ・キリスト教文明がいく千年にもわたって培ってきたエゴイズムの相互調節と、現実処理の智慧であった。そういう前提を抜きにしておこなわれた日本の「西洋化」が、多様性と多層性を誇るこの文明に対し単一化した反応しかできなかったとしてもむしろ当然であったろう。」

※簡単に伝統的精神を語るべきではない。むしろ制度にも目を向けるべき。

P59「なるほどわれわれは、世界には無数の文明があり、ヨーロッパ文明だけでも相当に複雑多岐であることは誰しも頭では理解している。しかし文明と文明との接触と、その後に起る歴史の展開は、すでに個々の人間の個人的知性を超えた出来事なのである。

問題は、そのことをわれわれがどこまで自覚しているかにかかっていよう。」

※極めて精神的なものとして問題としているのは明らか。

 

P61「今あなたは日本の男は自信がないと言ったけれど、服装ばかりではないでしょう。自分の国から生れたものでない限り自信のもちようがない。規範がないのです。……さっき言った東京の新しさというのは、まさしくこの文化の抽象性にあるので、実体のない新しさです。規範のない新しさです。過去の規範がなければ、どうして新しい姿というものが生れて来ましょう。……空虚主義の新しさですよ。それでいて、日本の各地方都市は、いずれも小型東京であることを競い合っている。恐るべき画一主義です。」

※これは西尾が外国人に対して話した言葉として取り扱われている。「自信」をこのような形で定義するのは筋違いである。「思い込み」の域を出ない。

P80「それでもおそらく廃藩置県までは、鹿児島には鹿児島らしい個性的な建物が、新潟には新潟にふさわしい特色ある建物が、街の様式を決定していたのであろうが、今ではどこへ行っても、活動的な地方都市であればすべて「小型東京」であることを競い合っている。その画一的な性格喪失は真に悲惨といってよい。」

※何を根拠に言っているのか考えた場合、「西欧化」の話と単純にセットになっているとしか思えない。「特色ある建物」とは一体何なのか?何を根拠に「特色ある」といっているのか??

P80「それでももしも日本人が、都市単位の共同体意識にささえられてきた国民なら、今日みられるように、垣根に囲まれた不揃いの民家を雑然とならべたり、高低さまざまの近代ビルをそのなかに乱立させるような不統一を犯すことはなかったろう。」

※京都や札幌、名古屋に喧嘩を売っているのか。

P80「ヨーロッパの都市では街道に面して長く連結した家屋は大抵一階が商店、二階以上は日本で言うアパート生活に類する仕方で多数の家族が住みこみ、また独立した一戸建ての家屋でも数家族共棲するのが常識となっている。」

P81「ヨーロッパの都市の民家は垣根のないのが圧倒的に多いし、教会、市庁舎、ときには大学でさえ塀を設けない。例えばドイツでは古い大学の建物は一般家屋の間に垣根なしで市中あちこちばらばらに立っているから、所謂キャンパスというものを知らないのである。

個人意識の発達したヨーロッパで、日本に比べ「家」への意識が相対的に微弱で、肌暖め合うべたべたした馴れ合いの家族感情を跳び超えて、個人の自我に徹することが、同時に、逆説的に、個人を超えたある抽象体へ、都市へ、国家へ開かれていく乾いた全体意識に発展するのは、こうした一般市民の生活様式と深くかかわりのある問題だろう。」

※この点はアメリカの議論を持ってきて否定できるのでは?

 

☆P94「これ(※日本の模倣的特性)を日本人の長所とみるか短所とみるかで、むろんわれわれの未来への態度は変ってくる。「対決」を欠いたことによって、「近代化」はなるほどスムーズに成功したが、またそのために、成功は「近代化」以上のものに及んでいなかったからである。……かくてそのために、われわれがわれわれ自身の「文化」をもしだいに変質させ、壊滅させていく危険に直面していることも確かであろう。しかし、それでいて、いっこうに動じない日本人の度胸の良さ、逆に言えば、自己偏執のうすいお人好しの無関心こそ、日本人の伝統的な生の形式なのかもしれない。なにも明治の「西洋化」以来のことなのではなく、これが日本人の歴史のパターンなのかもしれない。」

P95「「自然」と「文化」との二元論的な対立を知らないわれわれは、自然と格闘するよりも、自然に敗れればそれに同化し、適合し、むしろそれと親しむことによって自分を自然に近づけ、慣らして行こうとする傾向がつよいのである。それに対しヨーロッパ人は、始めから「自然」に垣根を設けた「文化」の砦の中で自己収斂と自己拡大とを繰り返すことにより、それが彼らのエゴイズムでもあり、弱さでもある事実の方は好都合にも忘れてしまう技術をさえ習得しているかにみえる。」

 

P118「さらにヨーロッパ人の過去の「文化」への執着心にくらべれば、「自然」に開かれたわれわれ日本人の無定形な、開放的な生き方にはある救いがあり、自然に対し自己を閉ざした主我的な西洋風の生き方とは別の可能性にわれわれは恵まれているかもしれないということを、暗示的ではあるが、述べて置いたつもりである。

しかしいま、あらためて問わなければならないことは、日本人に有利なこの種の可能性は、庭園や建築や古美術をたよりに原理的には引き出すことが出来るとしても、じっさいの現代の創造と活動の場では、かかる原理はつねに有効性を発揮するとは限らないのではないかという疑問である。ことにヨーロッパの価値観や美意識の延長線上に成立している日本の近代文化は、自分を測る基準を他文明に求めてしまった以上、自分の過去が自分自身の基準にならないという情けない状況におかれていることは誰にでも見易い事実だろう。

日本人はもともと過去の基準をあくまでまもろうとするかたくなさや粘り強さを持たない国民であろう。すべては自然のままに流されていく日本人の情緒的な生き方が、場合によっては外来文明との闘争を避けて通る有利な条件をも育ててきたのではないか、と私は前にも書いた。しかしまた、その一種の無定形、無原則のだらしなさが、過去を否定し、革新するという近代ヨーロッパの進歩の原理と結合したとき、日本文化の弱点をいっそう拡大するような方向に拍車をかけるのではないかと危惧されるのである。」

※あまり日本の思想に期待しているように思えないが。

☆P118-119「なぜなら、ヨーロッパでは、進歩という近代的な価値は、いつも表面を動かしてはいるが、その底には動かぬ保守性が行きすぎをはばみ、拘束している。そして、文化の創造の瞬間は、保守でも、進歩でもない、その二つの力学を止揚した地点にしか成立しないものなのである。だが、日本の過去が、有効に日本の近代にはたらきかけてくる流動性を失っているわれわれの場合には、日本的な非論理性、けじめのなさ、情緒性がそれに加わって、ややもすると、保守と革新という政治の原理のみが文化の原理をおおいつくしてしまう傾向をそなえているように思えるのである。」

※おなじみの止揚

 

P119-120「西洋化」とはこの場合、いまだ存在しないものへの崇拝の感情に発しているから、あらゆる既成価値に敵意をいだき、生れぬ先の未成価値を先取りして考えるところまではいいが、未来はいつまでたっても未来であるから、結果的にその意識は、自分たちがもっともモダンでいるという自負心に加えて、いっそうモダンであるべく過去を否定する空しい残り火を苛立たしげにかき立てていかなければならなくなるのである。……

いったん保守と革新という対立図式が発生し、その枠形式にとらわれて、保守の側にあらゆる悪の属性を塗りこんでしまえば、文化は解体への道をまっしぐらに進んでいくか、さもなければしまいには政治価値による救済以外には手がなくなってしまうものである。」

松下圭一的な議論の問題の本質を語っているように思うが、二項図式の問題なのかは松下の問いの立て方から見てもわからない。

P121「私は日本が置かれている問題の二重性を指摘したいのである。「西洋化」から起る宿命的な災厄と、西洋近代そのものがすでに孕んでいるニヒリズムと、この二つがたえずわれわれの文化創造の場から生命力を奪うようにはたらきつづけている。」

※後者は日本に限らないと述べる。

 

P123-124「学者として著名な日本の某女史がこんな事を書いていた。日本ではカントやヘーゲルマルクスなどは難しくて大学生でもよく解らない顔をしているが、ヨーロッパでは、若い女性でもまるで普通の本を読むのと同じような気軽さで読んでいる、と。とんでもない大嘘である。一般論としてそんなことは決して言えないし、第一、日本の民衆に無用の劣等感を与えることを以て己れを高しとする知識人のこの種の言動ほど大なる罪悪はないだろう。

私は在独二年間、この問題だけはずいぶん気をつけて観察してきたつもりだが、ドイツの民衆は一般の日本人よりもかなり教育程度が低く、知識欲も乏しいように思えた。……だが、これはなにもドイツにだけ限ったことではないのではないか。北欧の方がもっとひどいという話もきいた。アメリカ人や日本人に比べて、ヨーロッパ人が一般に知的向上心に乏しいという話は屢々耳にしたが、これはたしかに事実であるように思えたのである。」

※水掛け論にしかならないが。

P124「余計な机上の学問より、職業に必要な技術を錬磨し、その道にかけての熟練者となることの方がよほど重要で、価値があるということをドイツの民衆のひとりびとりが知っているのではないか、そうとしか考えられない事例に私はいくたびも出会ったからである。……教養という名のアクセサリーを求める急な日本人とくらべ、無知無学に甘んじながらなお己の職業に誇りを喪わないドイツの民衆の力強さ、素朴さ、着実さを私はむしろ讃嘆の眼をもって眺めたものだった。」

P125-126「すべての人間が高等教育を受ける必要などもともとない筈である。人間にはもって生れた能力の差がある。資質の違いがある。社会にはそれぞれの役割が必要である。もし不平等を前提として認めた安定社会であれば、日本のように平等意識だけが異常に、病的に発達することはないだろう。」

P126-127「ドイツの教育システムがいかに実社会の必要に応じて形成され、現実の条件変化に伴って段階的に訂正を加えられてきたものかが判るし、明治の開国期に、出来合いの方程式を上からかぶせて作り上げた単線型の、縦割り一本形式の教育制度との相違が明らかになろう。」

※この認識は誤り。戦前は明確な複線型であるし、それは実態に見合った形で形成された側面がある。平等意識の議論は、少なくとも戦前・戦後の二段階で考える必要がある。

 

P128「彼女らは余計な教養をつむ必要などなく、組織の歯車に徹すればよいという考え方は非人間的であるかもしれない。ナチズムを醸成した地盤はここにあると非難する人もいるかもしれない。しかし、労働力の不足を少人数でまかなっているドイツ産業の能率の良さもここにあるし、なににもましてその根柢にある考え方、エリートと大衆とを区別する複線型のヨーロッパの教育制度は、国民の最高の頭脳を可能なかぎり高度に成長させ、そこで得られた理論の結晶に大衆が従順に従う以外に、競争に打ち勝つ道はないというヨーロッパの長い歴史が教えた本能に根差すものと見るべきだろう。

明治の初期と戦後に、二度にわたって日本に輸入された教育制度の主なる手本は、大衆にひろく門戸を開く単線型のアメリカの教育制度であった。従って教育の「近代化」とは、つねに全国民に同質教育をひろげていく教育の「平均化」を急速に助長し、戦後の改革は一層それを拡大した感がある。戦前も戦後も、それが日本の富国政策に合致したため根本的に疑う人はいないらしいが、同時にそれが、一国の文化の多様性を磨滅し、文化の画一化・平均化という近代悪にわが国がヨーロッパよりもはるかに深刻に見舞われている要因となっていることからも目をそむけている。」

※上に同じく誤り。明治期の教育制度は初めフランス、次いでプロイセンの潮流にあるものであるという確たる定説がある。

 

P133「文化の多様性の喪失と均一化、自己充足する幸福を失った欲求不満の不合理と爆発、物質的欲望と精神的安定の不調和――そうした近代悪はむしろヨーロッパをも蝕みはじめてはいるが、教育制度ひとつを例にしても容易に過去を改変しない拘束力がその毒を中和し、治癒しているのに反し、日本やアメリカでは、近代の毒は露き出しの膿のように吹き出している。

戦後の日本で大学という名称がふえたと同時に、抑圧されていた大衆の復讐心が名を求めて堰を切ったように溢れ出したのも、「大衆の叛逆」にふさわしい近代悪の一例であろう。」

※ここに「なぜアメリカが比較対象でないのか」の明確な答えがあるし、戦前に対する偏見の理由の一端も見いだせる。ただ、日米を統一した所で、「個人主義」に対する見方が説明できるようにも思えない。

P133-134「日本人にとって「平等」という近代理念は借り物であっただけに、すべて政治的に崇拝され、他方に不平等という現実があるだけに、裏返された権力欲は歪んだ欲情をもって自分より下位のものを見下し、同時に上位のものには不必要に卑屈になり、上位の権威をいっそう病的に高めていく。」

※これは人種差別問題を考えれば欧米も何一つ変わらない。

P134「なるほど科学技術に関してはもうヨーロッパから学ぶことはないかもしれない。しかし、自己をもってしか自己を測らぬというその自己中心的な態度の徹底こそ、われわれが学ばなければならぬヨーロッパの精神の型なのである。」

 

P139「成程、日本もまた、他文明を意識することから出発し、そのとき、自己完結的な調和文化を放棄したのだった。」

P140「ヨーロッパでは、はじめ単なる恐怖感や競争意識から危機が自覚されたのではない。最初は他文明との比較なしに、自己の内部に、鋭敏な知性によって意識化された危機が、時代とともに表面化したに過ぎない。内的な自発性がある以上、ある程度の準備がそのつど危機をやわらげ、急激な自己変革は避けられ、改革の分量も少なくてすむ。生活様式や社会制度にみられるヨーロッパ文化の保守と革新の調和はそうした背景の上に成り立ってきた。」

P142-143「「西洋」はすでにわれわれの内部に存在するから(※ヨーロッパ・コンプレックスからの解放を誇らしげに語る人は誤り)である。「西洋化」はわれわれの精神の深部をすでに侵蝕し、変質させている。日本語が変質している。もはや純粋に日本的なものなどはどこにもないのである。われわれは自己を西洋と同一視することも、日本と同一視することも出来ないような位置にある。時間的にも、空間的にも、日本および日本人が「西洋化」される筈もないのに、それは明らかに進行であり、過程であり、事実である。」

※で、どうするのか?

P143「われわれの「内なる西洋」を、われわれは客観化できず、従って外なる西洋をも、厳密に対象化することは出来ない。言いかえれば、ヨーロッパとの優劣を比較し、どちらが先を歩いているかというような進歩の尺度で西洋と日本をひとしく目の前に並べて判定を下そうという姿勢そのものが、すでに西洋的な認識形式なのであり、われわれが「西洋化」されなければ起り得なかったことなのである。しかもその「西洋化」はなお進行であり、過程であって、完成ではないとすれば、比較そのものがおよそ意味をなさないと言うべきだろう。」

※ここで西尾の語るヨーロッパは蚊帳の外のものとされる。

P143-144「昭和三十八年にライシャワー前駐日アメリカ大使が「西洋化」と「近代化」とは別であるというテーゼを打ち出し、広範囲の波紋をよんだ事件は、この意味で、私には非常に興味深いものがある。

なぜなら高度に「近代化」したアメリカもまた、日本とは違った意味ではあるが、「西洋化」なし得なかった国だからである。あるいは、もはや、「西洋化」は必ずしも必要ではない、という自信が自分の側にあり、その上、すでに「近代化」した日本人を勇気づけ、日本両国の反ヨーロッパ共同作戦の継続をうながしているのかもしれない、と私は読んだからである。」

 

P180「従来、日本人がヨーロッパの一面しか見ていなかったとわたしは言いたいだけではない。長い歴史を背景にもつ西洋の背理世界に目を向けず、「近代」という表裏だけを西洋のすべてだと誤認して、その結果、東京にはネオンの彩光が氾濫し、蝋燭のほの暗さを楽しんでいるのは今ではヨーロッパ人の方であるという妙な具合になってしまったのである。」

P183-184「日本人特有の自然主義的な生き方唯美主義やけがれを嫌う潔癖感は、もともと閉鎖的な、自己完結的な価値観でしかない以上、明治以来怒涛のように流れこんできた異質の文明にふところを開いてからというもの、しだいにそれに押し切られ、片隅に押しやられ、そこに日本人一流の無常観がはたらけば、亡びゆくものを死守しようとする頑なさもなく、われわれは今や近代的なものも日本的なものも入り混ったきわめてだらしない形式の混在に耐えて、生活様式の調和と安定と統一とを奪われたままに、その日その日をやり過ごしているのである。」

P184-185「それというのも、思想は、それを操るものの主観的な欲望を満たすための道具と化し、論争といえば、思想と思想との対立ではなく、思想の化粧をほどこした二つの現実の頑な対立に終るしかなかったからである。こうして現実の困難は、なにひとつ解決されず、客観的正義の名の下に、主観的欲望が主張されるというような酷悪なことが行われ勝ちであった。

思想がかように集団的欲望の道具と化するのは、逆説的に聞こえるかもしれないが、思想は道具でしかないという自覚が欠けているからではないか。たいがいの論争や批評が思想の名に価しないのは、フィクションとして思想を語ることによってしか、思想は現実を動かし得ないという逆説に突き当っていないからではないか。思想や観念にはもともとなんの実体もないのである。それは現実の前でたえず試され、裏切られ、復讐を受けているなにものかでなければならぬ。

ヨーロッパの思想家はつねに思想と現実とのこの二重性に耐えることを強いられてきたとも言えるだろう。」

※これも一つのエゴイズムなのでは?これはヨーロッパの人びとの態度として西尾が見ていたものとどう違うのか??また、これは「知識人」の比較をしているのか、「一般人」の比較をしているのか?差し当たりここでは限定しているものの、p187で一般化している。

 

P187「自分の頭上に絶対者を据えて、その上で相対世界を実利的に生きるというヨーロッパ人の二元論的生き方は、理想と現実との使い分けを可能にしてきた。キリスト教の神が死んだと言われ、民衆の信仰が稀薄になったとしても、生き方としての西洋人の伝統はそう早急に消え去るものではないだろう。彼らがわれわれ日本人より遥かに実行力に富み、現実主義的で、打算にさとく、国際政治の駆引きなどで実用に耐えぬ空論を嫌う反面、宗教上の観念や政治イデオロギーや民族神話に踊らされて血で血を洗う途方もない妄想にとり憑かれたりするのも、彼らの生き方の内側からみれば首尾一貫しているといえよう。

※このような話は西尾の訪欧エピソードからは語られていないのでは。そしてこの主張は「タテマエとホンネ」に代表する日本人論を明確に否定しているように思える。また、「アイロニカルな没入」に関しても、むしろ欧米人にふさわしいものとなる。

P187「日本人は明日にも利益を生むものにしか金を出さぬというが、それひど実利的であるかと思うと、それほど実利的であるかと思うと、大量の学生大衆に職業訓練もほどこかずに、経済効率の低い教育に平気で耐えている。つまり日本人には桁外れの夢をはらんだ理想もなければ、計算ずくの現実感覚もない。すべてがだらしなく、相対的で、理想と現実との振幅を大きく使い分ける欧米人特有のダイナミズムに欠けているのである。」

※なお、「いっさいの二元論的対立をはらんでいない日本人の思惟形式」と言うように(p188)、この欧米人の見方は二元論的な結果と見ている節がある。

 

P190「考えてみれば、西洋近代はそれ自体が一個の仮説であり、フィクションであったかもしれない。理性への信念、個性の尊重、進歩への信仰、人間にある程度の自由を任せて置けば、世界は自動的に進歩し、発展していくに違いないというあの自然調和への楽天的信仰。だが、そんなものが一体何であったか? それらの確信は一体どこへ行ってしまったのか? 理性の独立を過信することは、むしろ弱さの表明であり、「価値」のすりかえではなかったか?

言うまでもなく、人間は「自己」を超えたなにものかに統制されないかぎり、自らの力だけでは、「自己」をよりよく統制することさえも出来ないからである。」

※「自由主義個人主義も科学もマルキシズムも近代ヒューマニズムも、すべてこの暗黒と恐怖を蔽いつつむ欺瞞のヴェールである。」(p190)

P190「だが、日本が接したヨーロッパ近代は、すでに絶対的な「価値」が崩壊し、相対概念が「価値」にすりかえられている時代ではなかったか。」

※土居の前提に近い。

 

P196「それは端的に、ヨーロッパを克服していない証拠なのである。なぜならヨーロッパ人はなによりもまず自己を以てしか他を測らぬという頑迷な態度において徹底しているからである。われわれは技術文明を輸入したが、ヨーロッパからこうした自己中心的な沈着な精神態度はいささかも輸入していないらしい。」

※これが人種問題由来のものだとすれば、その輸入にも限界があることが明らか。

P196-197「というより、極論すれば、われわれにとっては「西洋」というようなものさえ存在しなかったと言ってもいいのだ。西洋のために西洋を理解するのではなく、ただわれわれのために、われわれの文化のために、西洋を理解しようとする目的意識から解放されたことがあっただろうか?……

ヨーロッパ人にとっては、今も昔も「日本」などはあってもなくても良い存在でしかない以上、両者の関係は徹底した無関係である。この根本の原理にくりかえし立ち帰ることがわれわれの孤独の確認のために必要なのである。

が、それでいて同時に、無関係であるにも拘らず、「西洋」はすでにわれわれの現実を動かし、われわれ日本人の内部に宿っている。自分の内部にあり、自分を変質させてしまったものがどうして単純に無関係であり得よう。

動揺し易い日本人にいま必要なことは救いを拒絶して立ち止ることである。」

※日本である必要はないにせよ、東洋という参照点は西洋にとって求められていたものであり、事情は同じであるがそう解釈していない。

P203「かかる相対的なものをとかく普遍化して考えたがるのはもともと西洋的な認識形式なのである。その普遍化・法制化への意思が近代のテクノロジーの文明を生んだ西洋的合理主義と基盤を一つにしているものであることはとくに強調されねばならない。」

 

☆P208「ヨーロッパの文明論がなぜ翻訳されて、日本人にも読むに耐え得るのか、そこには自己への懐疑、批判、苦悩があるからであり、文明論をかくそもそもの動機が自己讃美のためではなく、困難を克服するために必要に発しているからである。」

※西洋を賛美する態度、だけで理由としては足りるのでは?この説明は無理がある。

P209「ヨーロッパが進歩の理念を信じなくなったのは一九一八年以降である。それ以来ヨーロッパは黙然と孤独に耐えているのだともいえるかもしれない。」

P210「日本人の長所も(※海外滞在により)解ってくる。日本人は気は弱いが、礼儀正しい国民である。思いやりや心づかいは日本人特有の美点をなしている。ただ、その礼儀の在り方が違うだけで、生活上の様式や意識が異なっているために、簡単に「進歩」の基準で比較することなど出来ないものが沢山あることが解ってくる。」

P211「もともと西欧世界に恐怖をかんじて鎖国を解き、国を開いた日本人が、百年やそこいらで自立心をもてないのも当然かもしれない。しかしせめて、少なくとも、そういう自分のこころの動揺だけは自覚していなければなるまい。」

※このことの有無は何をもって判断するのか。この部分周辺では梅棹が参照されているが。

☆P211「「無関係」であることを強調するだけでは、それもまた一種の絶対主義に陥ることになろう。ヨーロッパ的なものを拒絶して、純粋に日本的なものを守ろうとする立場は、やはり一種の抽象論である。……

これもひとつの危険である。なぜなら、日本的なもの、アジア的なものをことさら意識することは、「西洋化」の結果なのであり、したがって事実として存在する「西洋化」を意識的に排除しても排除しきれるものではないし、むしろ西洋は裏口からしのびこんで、復讐を企てるようなことになる。」

※だからこそ西洋は「耐える」態度を取るものとし、それを評価するわけだが…西尾の態度に対する評価の方(西洋人はさておき、西尾自身の日本人論批判も西洋化された結果なのではないのか、という問い)はきわめて曖昧になってくる。

 

P215-216「文化の異質性の強調は必ず文化の等価値の立場を強めることになる。すると、文化に関する価値観がしだいに稀薄になってくる。価値観が相対化されれば、現在の日本文化の現状肯定というところへあと一歩しかない。だから、近頃、文化人類学者が座談会などで、しきりに日本文化を見直す式の発言をしているのが目立つ。……だが、これでは困るのである。われわれは価値観なしで生きることはできない。だが、価値観は現状肯定的なものであってはならないのである。」

※何故困るのか。そして、このような態度をとることこそ、自己否定の論理に直結しかねない。

P218「現在において純粋とは一片のエゴイズムでしかない。善かれ悪しかれ、われわれは自己を制御するなにものかを信じない限り、「自己」そのものを成り立たせることさえも出来ないであろう。われわれは「個人」という概念を過信してはならない。「個人」などというものはなんの力もない。無言のうちに、「個人」の背後から支えているなにものかを信じない限り、われわれは西洋に接しても、西洋を生産的に獲得することは出来ないであろう。」

※これはある意味で正しい。

P218-219「私は本書を通じ、なにひとつ解答を与えることは出来なかった。ただ問題の所在がどこにあり、われわれがそれにどう対すべきかという姿勢を意識してきたにすぎない。」

※これ以上議論を進めようがあるのかどうか?以上、「ヨーロッパ像の転換」1969年から。

 

P236「だが、いまの日本では、不自由と不平等が人間を抑圧しているという事実よりも、そう思いこんでいる心理から起こる障害のほうがはるかに大きいのである。

地球上のどこを捜しても、いまの日本人ほど個人の権利のみが多く主張され、義務や責任が要求されることの少ない国民はそうあるものではない。この解放状態は空前のものである。……相対的な「善」に満足することができず、つねに絶対的な「善」を求める。そういう心理的傾向がしだいに激しさの度を加えているように思える。」

※これは前著によってはほとんど立証された議論ではないし、アメリカと比べてもそうであるとはとても思えない。また、ここでいう「相対的な善」とは誰にとっての議論かを問うた場合、「(社会の)一般人」という漠然とした前提であることも問題。

P240「だが、じっさいの子供の世界は、現実世界の縮図である。スポーツやけんかの能力が子供の世界に序列をつけている掟である。これはいまも昔も変わらない。大人の世界よりもっと原始的な弱肉強食の法則が支配している。こういう子供の世界に対して、生まれつきの頭脳の差、体力の差、才能の差をことごこく抹殺したきれいごとじょことばを並べたところで何の意味があるのだろう。賢い子供ならそういう大人の甘やかしに虚偽を感じるだろう。だが、それほど賢くない子供は、学校社会という温室がそのまま現実の社会だと思いこんで、いかなる保護の手も差しのべられない現実社会に出たとき、困難を独りで切り抜けていく忍耐力をもうもってはいないのである。そういう教育は洋裁店をやめてくにへ帰ってしまうような子供をふやすだけである。

運動会に商品を出さないとか、優等制度をやめるとか、先生と生徒とは人格的に対等であるから友達のように接するべきだとか、受験競争は子供の精神を歪める社会悪であるとか、こうした一連の戦後教育家の、子供に被害妄想を与えまいと、まるではれものにさわるような気の遣い方は、それ自体、教師の被害妄想のあらわれでしかない。その結果、先生は自信を失い、子供は気力を失う。なんの得るところもない。」

※学校で「上から与えられた抽象的な徳目」(p240)の弊害とみている。

 

P242「多数の日本人の頭脳に宿っているような抽象民主主義などは世界中のどこにもないのである。日本人は自分の生活様式に合わせて、民主主義らしきものを創っていけばそれでよいのであって、海のかなたに「完成品」を求めて、徒らに日本社会の封建制、前近代性を非難しつづけてきた結果、いま気がついてみると、われわれは途方もない抽象文化のただなかに置かれているように思える。」

※とても多数の日本人に妥当する議論とは思えない。

P244「だが、なぜ人々が、空想的なユートピア思想に魅了されるのか、これは世界的現象ではあるが、むろんヨーロッパより日本のほうがそのていどはひどい。いうまでもなく、ヨーロッパでは歴史の拘束力がまだ生きていて、実体のない、空想的な「善」を求める進歩への信仰を受けつげないなにものかが市民生活のなにかにまだ残っているからである。」

※この残存について、どう考えればよいのかこそ、最大の問題である。これはいかに対処すべき問題なのか?そして、ここで西尾は明らかにこれを制度の問題ではなく、観念の問題と断じているが、本当に正しいと言えるのか?国民性の議論を相対的な議論として語るのはここが初。

P244「戦前までは日本でも職人気質というものが尊重されてきた。しかし戦後、畳屋や植木屋になればサラリーマンより一歩下がったというような被害者じみた暗さが発生し、しだいに職人のなり手が少なくなってきているといわれる。そういう傾向が戦後いっそう助長されたのは、民主主義観念の普及のせいだということに案外人々は気がついていない。

おそらく最大の原因は、「平等」という思想が西洋からの借り物であるだけに、背景の実社会と釣り合いがとれず、国民の頭脳のなかでまるで信仰のように絶対化し、純粋培養されているせいだろう。人間はけっして平等になれない存在なのである。西洋ではそれは常識である。」

※前著ではなかった戦前・戦後の区分。

 

P245「教官と学生という職能上の区別さえ意識されなくなる日本のこの粗暴事には、じつにさまざまな原因が考えられるだろうが、いわゆる民主主義という名のもとに、先生と生徒との対等ということばかりが強調され、すでに小学校のとき以来、先生が権威を失い、生徒に「教える」のではなく、生徒と「共に学ぶ」のが正しい教育方針だと考えるような、生徒を甘やかす一方の誤った平等教育の行なわれてきた一つの結果であるといえるかもしれない。

少なくとも、年長者に対することばづかいの混乱は近頃の特徴であり、それは社会の秩序のある崩壊を予感させるものがある。」

学生運動に対するこのような見方は西尾の価値判断にも影響があると思える。むしろ西尾が批判する理念だけの議論での批判が学生運動にあったとみられているはずだが。また、教育のあり方についても、遠山についていえば、「共に学ぶ」思想は学生運動以後の主流議論である。全生研についても同じ。

 

P249「「平等」の観念や「民主主義」が空想のなかで神格化される傾向なども、日本ほどひどくはないが、ドイツの知識階級のなかにもたしかに認められる。つまり、日本やドイツでは、革新や改良が安易に正義になりやすい心理的地盤をそなえているといえるかもしれない。……

ただ、ドイツでは日本と違って、民衆の「知識人化」という現象はまだ起こっていない。日本において、いちばん奇怪で深刻なのは、こういう現象が津々浦々にひろがりはじめていることである。洋裁店の縫い子見習いがたった一人でストライキを起こすというようなこと、あるいはごく普通の職業人や主婦が「平和」とか「ピューリタリズム」ということばを聞くや、あるパターンの決まった反応を示し、目を据えて熱っぽく既成語をしゃべりはじめるというような例は、いずれはヨーロッパにも起こるかもしれないが、私の滞独中に、まだ、そういう心理状態を目にし、耳にしたことはないのである。」

※このドイツの傾向は「ほかの欧米諸国に比べ、いちじるしく機能主義、便利主義が進んでいる」と示される。後半の話は私も日本で出くわしたことがないが…

 

P256「が、ヨーロッパで暮らしていてはっきりわかることは、ヨーロッパ人はただの一度も日本に対する恐怖や競争意識にさし迫られたことはないのであって、日本の「西洋化」という歴然たる事実はあっても、西洋の「日本化」という事態はいっこうに起こらない以上、日本人が劣等感を感じようが、優越感を感じようが、それはすべて日本人の独り相撲でしかないことである。」

※劣等であるとみなしているものに影響を受ける発想が基本的にない、と言っているのと同じ。問題は、これを日本自らの影響のみの結果とみるかどうかである。「だが、しきりに自分で自分をほめたくて、日本人みずから日本の文明をたえずどこかと比較して、どこを追い抜き、いまはどの辺にあり、したがってどこと対等になったとかならぬとか、そういうことをくりかえすこと自体がつまらぬ劣等感情の表現でしかないことに気がつかないことのほうがよほどどうかしている。」(p256)そして、「ヨーロッパ人は、なによりもまず自分の価値観をもってしてほかを測らぬという自信に満ちた態度において徹底しているから」とする(p257)

P257「外国との比較をもってしか自国を測れないのは、ある意味では、近代日本の歴史の宿命ではあるが、だからといってそれがいいということではけっしてない。むしろそれはやむをえぬ必要悪であることをいつもはっきり自覚していなくてはならないのである。」

※「基準が必要なら自分自身の過去と比べる以外にない」ともいう(p257)。この態度は西尾の態度の取り方からすれば、観測不可能なものなのでは?

 

P277「二年間の私の滞欧経験だけでは、どうもはっきりしたことはわからないが、以上の例からもわかるとおり、ヨーロッパ人の生活は「社会」というものを前提において、家族生活も外向きに仕組まれているように私には思われるのである。「社会」というものが人間の生き方につねにある様式を強いているのである。したがって、誰しもその様式に則って生きる必要から、「個人」の自覚も芽生えてくるのであろう。家族という保護組織はそれだけ相対的に微弱なのである。

日本では内密な、私的な、微温的な家族関係がもっとも実質のあるものとされ、むしろその湿った、ある意味では動物的な人間感情が臆面もなく社会生活に拡大されるところに、近代的な生活様式の上で混乱が発生することは確かである。こういうことは多くの識者に、これまでもくりかえし指摘されてきたことだが、どうしてもわれわれがその混乱から脱却できないのは、家族同士のように、いつも人間関係が暖かく包まれていたいと欲するのが、日本人本来の「長所」でもあるからに違いない。」

※「親が必要以上に神経を使いすぎ、また子供はそれに慣れて、すっかり甘えているという状況からくる、あの一種独特な、日本的家族にのみ特有の、互いに寄り添った、悪く言えば、やりきれない雰囲気が感じられたのである。」(p275-276)といった発言に関連していると思われる。

 

P280「なるほど、対人関係において、こころの深いところで、相手が自分に背くかもしれぬという観念を深めていない日本の社会では、およそ人間関係を「契約」としてとらえるという思想もけっして徹底しない。相手が自分に背くという可能性への警戒は、自分がまた相手に背くかもしれぬという自分の悪の自覚を前提とする。だからヨーロッパでは、人間は「神」とさえ契約を結ぶのである。そういう意識の訓練のないところでは、「西洋化」は必ずしも合理的には作用しない。

しかし、それにもかかわらず、こんにちの複雑な機構を調節するためには、西洋から輸入した社会調節のためのさまざまな方程式をいきなりかなぐり捨ててしまうことはいまさらできないのである。われわれが途方もない混乱のなかに立たされていることは、だから明瞭である。」

アノミー論的理解もある。

P285-286「ヨーロッパでは、十年前の書物はたいていいまでも版元に在庫しているのに、日本では、一昨年出版された本が今年はすでに絶版であったり、ある人が一年前にした政治発言がたちまち現実性を失っても誰もその論理的矛盾を難じたり、責任を問うたりせずに、その同じ人が、しゃあしゃあと新しい現実に合わせた新しい別の発言をしている。ことごとく、話題が本質に先行する。情緒が論理に先行する。つまり変化の激しさそのものが日本的条件を暴露しているのである。」

※何一つ基準がない。これではミイラ取りがミイラになるのも不可避。

 

P288「われわれはだから、最大限の想像力を発揮して、あるときは日本人以外のものの目で日本を見、また別のときに純粋に日本人として日本を見ることが必要となろう。そしてそういうくりかえしの操作自体がきわめて観念的だということを、いつも、はっきり自覚していることがもっと必要なことだろう。」

※このような主張をするのは一向にかまわないが、批判自体に根拠がない以上、この主張が「どうすれば実現するのか」についても明言不可能となり、主張そのものが意味を持っていないことになる。何故なら、その基準が「主観」の域を出ることが全くできていないからである。なにもかも主観の恣意的判断で、事実を悉く捻じ曲げることも可能であり、「そうでない」というための根拠に欠けるのである。

P294「いったい人間と人間との関わり方が、ここでは本質的に、ある冷たい相互不信を前提として成り立っているのではないだろうか? だからまた一方では、エゴイズムを相互に調節するために、一定の様式や秩序感覚が、日本などよりはるかに厳しく要請されているともいえるだろう。そういう関係はべつに意識的なものなのではなく、長い歴史が培った一種の慣習と化し、個々人の行動を規制するあるパターンをなしているのではないだろうか?」

 

P301「紛争がどのような種類のものであれ、日本におけるさまざまな社会事件がきまってこのようなだらしないパターンをくりかえす例は十数年間見つづけている。私はなにも最近の大学紛争のことだけを念頭に置いていっているのではない。大学紛争の場合には、学生・教官いずれも問わず、当事者が大学の外にある一般社会に対して想像力や責任感をまったく欠いていると同様に、日本の国論を二分するような外交上の論争から発した国内暴動の場合には、当事者である日本国民全部が国際社会に対する影響への見通しや日本の将来への想像力を完全に見失ってしまうのである。」

※何故か明言しないが、安保闘争の話も指しているのだろう。他に例として小さな紛争の際にはその味方に立つが、それが暴動の色彩を帯びると慌てて紛争を鎮めようとする新聞ジャーナリズムを挙げる(p300)。少なくとも西尾は日本的節操のなさを、この議論にはっきり結び付けている。

P301「彼ら(※欧米人)の場合には破壊にもルールがあり、計算があり、戦争をさえ一種の取引の材料に使う実利的感覚を身につけている。欧米人は革命の理論をあみ出した人種である。それを実行し、弾圧され、ふたたび反乱を企て、等々、そういうことをくりかえしたきた人種である。彼らの秩序感覚は、したがって彼らなりの論理で首尾一貫しているものがあるといえよう。

日本人はこれに反し、秩序を守ることにも不熱心で、曖昧な民族だとすれば、秩序を破ることにも甘い、不徹底な性格をそなえているといえるだろう。」

※石原的な見方。

 

P302「前にも述べたとおり、ヨーロッパの家庭では、子供はつねに外の社会へひらかれた教育をしつけられているのは、社会の秩序がそれを要求しているからであるともいえよう。つまり外側からの強圧的な要求がないということが、日本人にこの一種のだらしなさと、主情的仲間意識ですべてを片づける悪循環を生んだのかもしれない。」

P303読売新聞、手塚富雄のコラムからの引用…「何か建設的なことが議題にのぼっている集団的討論の場で、少数の者が意欲的に反対を連呼すると、たいがいはそれがリードしてくる。建設的なことが成立しないのである。もっともこれは実質的な討論が可能であるような少人数の話し合いの場合はダメで、理性的な立場が出ても、それがみなの耳にはいらないように、会場をガヤガヤとさせてしまうことができるほどの集合の形をとっていることが必要なのである。つまり多数という民主的名目をもつ場が、もっとも少数の意欲者にとって都合のいい土俵なのである。大学生が声高に団交を要求するときこのねらいをもつ者がかならずまじっている。学者たちのある非公開の討論の場所でも、これに似た例のあることはわたしは知っている。」

※68年8月7日のもの。ただ、これは前述の合理的感覚にあたるのではという疑問もある。

 

P304「保守党の代議士にも、左翼の学生運動家にも、そしてまた学術会議会員にも、およそ共通点がないように見えるこうした三つのグループに、しかも日本人全体のなかでもっとも「近代的」と自他ともに任じているはずのこれら指導階級に、まるで近代的な訓練ができていないという指摘は鋭く、的確に矛盾を突いた現代日本の頽廃に縮図である。」

P304「だが、わずかでも妥協することは、たとえば政府に、もしくは権力側に利用されるという宣伝がたちまちのうちにひろがるや、先の先まで邪推し、恐怖して、結果的には、殻に閉じこもって一歩の進歩もありえない守旧的態度に終始するというのが、いつも変わらぬ日本的進歩の奇怪な姿である。」

※ここでは妥協しない日本を問題とするが、これも先述の新聞ジャーナリズムとはずれた見方である。「一口でいえば、それぞれのグループが社会内存在であるという自覚をまったく欠いていることに問題があるのである。」(p304)

P304「そして、こういう場合に、必ず見られる現象は、グループが自分の自主性を貫くためにはどうすれば効果的であるかという計算ではなく、周囲の別のグループと比較してみて、自分たちのグループだけが、いかに外見上、自主的に振舞っているように見えるかという見栄なのである。」

※見栄の問題も海外比較せねばならないのでは。

 

P305「日本人を支えているのは、和辻哲郎氏が述べたようないわゆる「間柄の倫理」である。人と人との情的な関係によって成立する道徳観は、見栄や、照れや、恥じらいというエモーショナルな消極的倫理をしか育てえなかった。」

P307「日本に「市民意識」が育たないのは、日本人にはそういう外枠への想像力や構想力が弱く、ために、自分が属している小集団の価値観を絶対化し、それを外の世界へ主観的に押しひろげていこうとするわがままや無理強いが幅をきかすことになるためだろう。」

P314「ヨーロッパにおいては、世俗道徳はつねに絶対化を免れている。ヨーロッパ人の日常生活に健全な「社会性」があるのは、なにもキリスト教の信仰そのものによるのではない。キリスト教教会と、一般の世俗社会との間の、この並行的な力関係に負っているところが大きいのである。だから信仰が稀薄になっても、世俗道徳はおとろえない。いたるところ相対的な近代理念がはびこっても、それが単純に絶対化されたりはしない。世俗社会の一元化は免れる。単なる仲間意識が道徳になることもない。」

P318「ヨーロッパにおいて、「解放」という概念は、一つの共同体から解放され、他の共同体のなかへ拘束されていくという以上の意味をもってはいなかった。ヘーゲルが法の哲学において、「家族」という共同体は「市民社会」において、さらに「市民社会」において、それぞれ弁証法的に止揚されると述べたとおり、ヨーロッパ人の共同体意識は個人、家族、都市、国家、そして現代では西ヨーロッパ共同体へと次々と段階をふんで開放的に拡大してきたのに反し、日本人の場合は、よくよく「家」単位、「会社」単位、「仲間」単位の目にみえる小範囲の人間関係にしか他者への意識は及ばないのではないかというのが、私が前の章までに述べてきた疑問なのである。それだからまた、単なる個人的なエゴイズムが、中間のいっさいの枠をとびこえて、世界国家とか人類福祉とかいう、自己とは真剣に関わりようのない抽象的題目と容易に結びついて、恥じることがないのである。」

止揚の思想を都合よく解釈しすぎでは。それとも、止揚の考え方が日本と欧米で本当に違うものと解釈されていると言えるのか?

 

P320「共同体意識は共同体への愛ではない。むしろ危機感に発する個人の自己保存本能である。国家意識は国家愛である必要はない。世界が国家単位で運営されている事実への個人の合理的な適応能力である。」

☆P320-321「ヨーロッパ共同体は、必ずしも、近代国家の概念の止揚でも、廃止でもない。必要やむをえぬ協力体制でしかない。それどころか、ヨーロッパがある強力な統一体として均質化し、画一化しないことがむしろヨーロッパ文化の多様性をささえる刺激剤をなし、対立抗争は場合によっては健全の証しであるとさえいえるかもしれない。

以上述べているようなことは平明な常識にすぎない。国際政治学上の理屈など知らない私はただ常識で考えるが、日本では、こんな当たり前のことがどうしても通じないのである。」

※これをどこまで常識と呼ぶのが真理なのかに、ほとんど西尾の評価が集中される。

P321-322「そしてそれこそ目を外へひらいて、国家的エゴイズムが現にせめぎあう世界の修羅場を正視することが必要だろう。

じつはそうすることによってしか、「国家」という偏狭な枠を超えて、広い世界の場へ出て、国際的な思考に耐えることも可能にはならないにである。できるかぎり国家間の憎悪をとりのぞき、緊張をやわらげ、国際社会の協力体制へ開かれた役割を演ずるというわれわれの目的は、現にみられる国家同士の休みない打算と悪意の正確な認識を前提とする。

だが、そういうあり方を、理想を失った現実主義としてさげすむ勢力が日本になお根づよいのは、いまだに日本の知識人の意識が前近代的で、西洋的な意味での個人主義が身についていない証拠である。」

前近代的という意味がわからないが。単に近代を身につけていない途上にあるだけでは?

 

P323「だから個人であることは、いかなる全体への顧慮ももたずにすむ状態だと、われわれは信じがちである。一方、全体であることは、個人が完全に全体に吸収されてしまうことだと、われわれは考えがちである。一方、全体であることは、個人が完全に全体に吸収されてしまうことだと、われわれは考えがちである。そのどちらかにしか意識が働かないのである。

ヨーロッパにみられる個人と全体との契約的な関係が成立するためには、国内に多民族が混在し、絶えず内側からゆさぶりをかけているとともに、国外にも異集団が境を接していて、やはり外側から安全をおびやしてくるという条件が必要なのであるかもしれない。ヨーロッパ全土が容易に単一化せず、いくつもの契約国家を必要とした。「個人」という意識がおのずと発生する所以である。」

※この環境要因は日本に無理に求められるものなのか?

P327「そして、この場合、ヨーロッパ人が理念として求めるこの国家概念の止揚は、けっして単純に未来主義的なものではないことが、特に強調されなければならない。」

P335「個人の行動様式がつねに「社会」という場に開かれているヨーロッパ人の生き方については、すでに前の章でも詳説したが、都市の作り方一つを例にみるだけでもそれは明瞭にわかるのである。」

※これは社会構造の話であり、個人の心性を説明するものではない。

 

P340-341「そう考えると、日本の孤独はほとんど確定的である。

われわれは何百年にもわたる外国との交渉や闘争のプロセスのなかで、ナショナルな感情を育ててきたわけではない。ナショナリズムなど日本にありえようはずもない。だからまた、合理的なインターナショナリズムへの参加にもたえず抵抗が起こり、不合理な反発がみられ、外界への適応不全がいちじるしい障害をなしているのである。

われわれはほんとうに連帯してよい外国などはもっていないからである。日本はさまざまな外国から影響を受け、どの外国にも影響を与えたことはない。日本人ほど、世界中のあらゆることがらをよく理解しながら、世界から理解されていない国民も珍しいのである。ということは、われわれの理解は、われわれの主観的解釈にすぎず、ほんとうの外国は、みえていないということになるのかもしれない。」

※人種差別の産物なだけでは。そして最後の一文は西尾には適応外なのかどうか。

P343「第一に、都市の没個性である。近代化以来、地方文化は急速に衰退し、どの町も個性を失っていく一方である。多少とも活動的な地方都市であれば、街並みはたいてい東京の小型模型である。日本風の家屋のあいだに、不揃いな小型ビルを林立させる不統一は、都市単位の社会性を発揮したことのない日本人の共同体意識のあり方に関わりがあろう。」

P348「日本において、論争や批評が、多くの場合において思想になりえないのは、思想を操る主体の側に、馴れ合い、妥協、自己回避、あるいは仲間うちへのウインク、ことば以前の集団思考スクラムを組んだ論理以前の態度がみられるからである。だから、論争といえば、思想と思想との対立ではなく、思想の衣裳を纏った二つの現実の頑なな対立に終わるしかなかった。

日本の近代思想には、ことばの真の意味での論争性に欠けているからである。ために一つの思想の正しさが他の思想の過ちをただちに証明するような単一性をその性格にひそめている。」

※これは日本でいう止揚が真の意味で止揚ではない、という発想。ただ、ここでいう「現実」をどう解するかは難しい。以上、「ヨーロッパの個人主義」1969年。

 

P353「私はヨーロッパの「個人」というもののバックグラウンドを描くことでヨーロッパを相対化したつもりでいたが、いま読みかえしてみると、それでは不十分であった。日本には日本特有の「個人」のあり方があるはずで、それを追求し提示しなくては、ヨーロッパと日本の両方を公平に並列して位置づけたことにはならないであろう。」

※正しい。

P361「じっさいの生活では、日本人はバラバラの個のなかで、微妙な個人主義のもとに生きている。それだけに義理や人情といった一見群れたがるような集団主義的なことが、文化現象として強調される。」

P363「外国人が感じるこのような日本のよさは、もちろん技術力の高さも関係してくるだろうが、同時に日本人の審美感が強く影響しているのではないか。日本人の道徳は美意識である。いわゆる精神的道徳にはとどまらない。逆に、教訓や精神や原理からくる戒律が強い文明というのは、それだけ乱れている証拠なのである。」

P364「美徳ということばがあるが、やはり日本人にとって美意識がすなわち道徳なのではないだろうか。それが日本人の強さでもあるが、美政治的な批判力にはなりにくい。美を基本とする道徳は、どうしても戒律や原理を基本とする道徳よりは弱いのである。」

P366「理を尽くして説かないことに特徴があるこの国の美徳は、必然的にある種の弱さをもっているので、どうしても外に向かって自分を主張しなければならない。主張するべきではないことを主張するということは矛盾だが、それこそが宣長が模範を示したところのものである。」

※このような見方はそれだけで精神論的な改善要求を正当化する。以上、「個人主義とは何か」2007年。

 

P418-419「親が子供を教育するときに日本人との違いは歴然と現れている。日本人のように親は子供をそもそも大事にしない。親の子供に対する躾け方は厳しいし、子供の生き甲斐にして生きるというような教育ママ的母親は存在しない。いや大事にしないというのではなく、扱い方が違うと言った方がいい。つまり親は子供をある意味で冷淡に一個の社会人として突き放して育てていくので、やがて子が自分から離れていくことは当然の前提と考えられているのである。」

※1972-74頃の文章。

P566「そういえば日本の産業力の増大と貿易の勢いを恐れた八〇年代のアメリカが「日本封じ込め論」を展開したときに、集団主義的経営をアンフェアと非難したことはたしかに忘れもしない事実だった。だがあのときはドイツでも、というよりヨーロッパ全体で、日本は個人主義を欠いた異質な文化風土のゆえに不公正な競争をし、ひとり勝ちしていると非難されたものだった。アメリカもヨーロッパも対日批判では一致していた。」

※2010年の文章。

P588-589「それで西洋には宗教があるとかないとかよくいうけれども、日本は『菊と刀』にあるようなみえだとかそういうことで、日本人の精神は成り立っているんだといいますが、しかし私は西洋人でりっぱな人に会ったこともありますけれども、普通の平均の西洋人で日本人以上にみえを気にしない人を見たことがない。

西洋人のほうがある意味では虚栄心がもっと強い。日本人が特に『菊と刀』に書いてあるようなものじゃ決してないと思いますがね。」

竹山道雄の発言。1970年の対談から。