松下圭一の市民論再考(1/2)

 今回、改めて松下圭一を読むことにした。

 前回の「シビル・ミニマムの思想」のレビュー時点では松下の精読について興味深いとしたものの、それ程重要性について感じていなかったため、読むのをやめてしまったのであったが、最近90年代の日本人論、つまり日本的性質に対する批判と改善要求を行う言説を読んでいく中で、1999年の経済戦略会議答申を読む機会があり、そこで述べられていることがかなり松下の議論とかなり重なるものであると感じ、松下自身の言説も思っていたよりも影響力が強い可能性を考えたため、精読することにした。

 松下の言説と経済戦略会議の議論の類似性として気になったのは3点あった。

 

 

1.シビル・ミニマムの用法

 おそらく、経済戦略会議答申中の「シビル・ミニマム」という言葉は松下から直接影響を受けているものと考えられる。答申中では、シビル・ミニマムについて2箇所で用いられている。

 

「ただし、経済戦略会議は、政府が民間に介入し、全面的に生活を保障する「大きな政府」型のセーフティ・ネットではなく、自己責任を前提にしながらも、支援を必要とするすべての人たちに対して、敗者復活への支援をしながらシビルミニマムを保障する「小さな政府」型のセーフティ・ネットが必要だと考える。」(経済戦略会議「日本経済再生への戦略(答申)1999,p20-21」http://www.ipss.go.jp/publication/j/shiryou/no.13/data/shiryou/souron/13.pdf

 

公的年金は、シビル・ミニマムに対応すると考えられる基礎年金部分に限定する。」(同上、p23)

 

 これに対し、松下もしばしば言及するナショナル・ミニマムについても2箇所で言及がされている。

 

「しかし、懸命に努力したけれども不運にも競争に勝ち残れなかった人や事業に失敗した人には、「敗者復活」の道が用意されなければならない。あるいは、ナショナル・ミニマム(健康にして文化的な生活)をすべての人に保障することは、「健全で創造的な競争社会」がうまく機能するための前提条件である。このようなセーフティ・ネットを充実することなくして、競争原理のみを振りかざすことに対しては、決して多くの支持は得られないであろう。」(同上、p14)

 

「少子高齢社会における政府の基本的役割は、全ての国民に対して、健康にして文化的な生活(ナショナル・ミニマム)を必要に応じていつでも保障できるセーフティ・ネットを整備することである。ナショナル・ミニマムの算定は容易ではないが、このレベルを高くしすぎると、モラルハザードが生じるだけでなく、非効率な大きな政府を作り上 げることになる。」(同上、p23)

 

 残念ながら、経済戦略会議の答申においては、「ナショナル・ミニマム」と「シビル・ミニマム」の違いを把握することができない。共に「最低基準」を示している言葉なのだが、それ以上差異化する意味合いが付与されていないのである。通常であれば、両者の違いはその担い手が「国」であるか「自治体」であるかに見出されるべきなのだが、そのように解釈されているとはいえない。言いかえれば本答申を作成した者がシビル・ミニマムという言葉をよく理解せずに用いているともいえるだろう。

 ただ、あえてその違いを述べるとすれば、「ナショナル・ミニマム」は文字通りの「健康にして文化的な生活」を保障するもの国民としての権利としての側面をもつものとして語られ、「シビル・ミニマム」は「セーフティネット」の役割を果たすための「小さな政府(ただしこれも国レベルの議論である)」における最低基準として語られているという解釈はできるだろう。ここには、「シビル・ミニマム」を「大きな政府」との対比とした形での「(ムダのない)最低限の保障」という強調が含まれているということである。

 これは一見松下の用法とはっきり異なるため、松下を参照している訳ではない根拠となるようにも見えるが、後述するように、松下を読み解いたのであれば、むしろこのような解釈は完全な曲解といえない部分があるのである。言いかえれば、このような曲解のされ方は、松下の言説の影響を受けたからこそ出てきたものと解釈する余地があるということである。

 

 

2.公務員の人数に対する考え方

「人口比公務員数などからみて、日本の政府は「小さな政府」に属すると言われてきたが、財政投融資によって支えられてきた特殊法人やその下請け会社、孫会社などの存在を加味すれば、全体としては決して「小さな政府」とは言えない。」(経済戦略会議「日本経済再生への戦略(答申)1999,p17」

 

 この点について松下も00年代に入ってから、外見上の公務員比率については、海外との比較が参考にならないと主張する。

 「しかも、日本の公務員比率は国際比較からみて少ないといわれるが、実質はその倍となる職員が何重にもかさなる特殊法人+子会社などの「行政外郭組織」にかくされて、その職員実情は財務実態とともに政府もつかみきっていないという低劣性、それに無責任が、国、自治体を含めた日本の行政水準である。」(「転換期日本の政治と文化」2005,p151)

 

「また、公務員数の国際比較では少なくみえましたが、国税庁調査によれば、実質は、国、自治体をふくめ、その外郭組織には天下り官僚をはじめとするほぼ同数の職員がおり、国、自治体の権限・財源さらに「財投系資金」に寄生していました。このような事態が、今日では、さらに国家・官僚神話の崩壊を加速しています。」(「現代政治」2006,p87-88)

 

 この言説自体は00年代に入ってから見られるものであるが、これに関連して、松下は次のような自治体に必要な職員数について言及する議論を99年頃からしている。

 

「この政策指数では、公立病院はのぞきますが、職員一人当たり市民は何名かという指数も自治体では問題になってこなかったのです。町村では職員一人当たり市民五〇人前後から一〇〇人以上というひらきがある。私は職員一人当たり市民一〇〇人までもっていかなければ、合併いかんを問わず、いずれの町村も今後は「持続」できないと考えています。市ではあまくみても職員一人当たり一二〇人以上にすべきでしょう。一五〇人以上という市もあるのです。一〇〇人前後の市は、自治体として「持続」不可能となります。」(「自治体再構築」2005,p30)

 

 この必要な職員数に対する検討を行う上で、公務員数の考え方というのも検討していた可能性もあり、90年代末の段階ですでに対外的に「公務員数について海外との比較が参考にならない」ことに言及していた可能性も否定できない。

 

3.自治体会計に対する「公開性」の要求

「公的部門の効率化・スリム化を進めていく上での大前提として、また、政策の事後評価を行う観点から決算はこれまで以上に重視されるべきであり、中央政府特殊法人等を含む)及び地方公共団体(外郭団体を含む)のいずれにおいても以下のような方向を基本に会計制度等の抜本的改革を進め、会計財務情報基盤を整備する必要がある。

○ 国民に対して政府及び地方公共団体の財政・資産状況をわかりやすく開示する観点から、企業会計原則の基本的要素を踏まえつつ財務諸表の導入を行うべきである。

○ 具体的には、複式簿記による貸借対照表を作成し、経常的収支と資本的収支を区分する。

○ 公的部門全体としての財務状況を明らかにするため、一般会計、特別会計特殊法人等を含む外郭団体の会計の連結決算を作成する。」(経済戦略会議1999、p16)

 

 このような議論は当時の地方分権推進の流れを汲み、松下に限らず広く議論されていたかもしれないが、松下自身も同時期には具体的かつ積極的に公会計のあり方について言及している。

 

「そこで、まず提起したいのは、〈時価主義〉による自治体財務型「連結財務諸表」づくりです。「わが」自治体が、外郭組織をふくめ全体として、時価で、どれだけの資産つまり「過去の蓄積」あるいは負債つまり「将来の負担」をもつかを、市民、長・議員、職員の誰にもわかるようなかたちで、財務情報の公開・共有をうながす財務技術ないし会計方式の開発がこれです。」(「自治体は変わるか」1999,p131-132)

 

 これらの例からもわかるように、90年代以降積極的に推進されていったといえる「新自由主義」政策に対し、少なくとも松下は同調していることが確認できるし、また松下自身も新自由主義的な動きに対して影響を与えている可能性も見受けられる。後述するが、正確にいえば松下は、いわゆるネオリベ言説に対して、批判的な態度を取るべき立場にあったはずなのだが、彼の理論からはそれに同調する方法しかとれなかったのではなかろうかと思う。

 

○前回までの結論への反省と今回の問いの設定について

 

 松下の「シビル・ミニマムの思想」におけるレビューで松下の議論に対していくつかの見解を示した訳だが、今回改めて精読した中で1点大きく見方を変えるべきと考えたものがある。

 それは、80年代に入って松下が「シビル・ミニマムの量充足は終わった」という見方をした時に、70年代までの松下のシビル・ミニマム論の自己批判になっているのではないのか、という点、つまり「70年代においてシビル・ミニマムを達成した場合に解決を期待していたものが80年代に入っても何ら解決されたものと取り扱っていない」点について問題視したことである。

 この見方自体はあながち間違えでもないものの、問い返すべきなのは、「そもそも『シビル・ミニマムの量充足』とは何なのか?」という点である。これは一見当たり前の答えがあるようでいて、松下の言説を読み返すと、極めて奇妙な性質を持っていることがわかった。まず最初の問いとして、「松下のいうシビル・ミニマムとは何だったのか?」という問いについて考えたい。

 

 また、同じく前回指摘した70年代には「オカミ意識の改善」に対する「市民」へ期待があったものの、80年代にはそのような期待がなくなり、松下自身がそのような改善を直接主張するようになったと指摘した点についても再検討する。これは同じく指摘していた「市民の成熟性判断」の矛盾ともリンクする。私自身、広田照幸のレビューなどで「教育の担い手」をベースにした議論の必要性を述べたことがあったが、それと同じようにして、「松下は自治体体質の改善の担い手を誰に見出したか」という点を2つ目の問いとして検討したい。また、この問いの中から、松下の「市民概念」が文字通り形骸化していったことも示す。

 

 そして3つ目に、このような形骸化が起こった理由についても検討してみたい。この理由については、いくつか考えられる可能性はあるものの、基本的には松下が提示する理論そのものに起因するものだろうと考える。

 

 以上3つの問いに答えていくことになるが、それに答えるため、松下の議論及び松下について言及した著書・論文にもできる限り触れるようにした(※1)。以前同じような分析を行った遠山啓の際には、まとまった内容を記した単行本がなく、バラバラの論文によって構成された内容に依拠せざるをえなかったが、松下の場合は書き下ろしによる著書に加え、講演記録なども含め文献に富んでおり、より深く分析を行うことが可能になっている。もちろん、参照できていない文献もあるものの、松下の議論にあまりぶれを認めることができないため、松下圭一論として十分な分析となっていると考えている。今回分析対象としたのは60~00年代までの松下の言説であるが、これまでの松下に関連する先行研究をみる限り、50~80年代位までの分析に終始している印象が強く、松下自身の「市民」概念に対する変遷については十分な検討が行われているとは言い難かった。しかし、後期から末期の松下の言説の変遷自体、やはり注目すべき点があるように思える。

 

○松下のいう「シビル・ミニマム」とは何だったのか?――言説の時代変遷からみた特徴

 

 まず、最初の問いであるが、押さえるべきはかの「量から質」への言説の変化である。この変化自体はほとんど1980年を境にしているといってよい。というのも、松下自身が理論ありきの主張を展開することが強く、70年代末にも量的充足を匂わせているものの、はっきりと位置付けを変化させたのは、「80年代」という段階論的な語り方を可能にした1980年を待たねばならなかったからである。

 

 私自身が過去のレビューで松下のいうシビル・ミニマムを捉え損ねていたのは、松下のこの80年代以降の言説に対してそのまま信頼してしまっていた点に原因がある。

 まず、70年代の議論において、シビル・ミニマムはいかに語られていたか。それは一つに「生存権」をベースに量的充足に付随する類の充足を図ることにあった。以前のレビューでも示した都市問題の解決のためにも、その量的充足は必要だったのである。

 しかし、この量的充足の語りにおいて注意すべきは、「ナショナル・ミニマム」との関連性である。松下の70年代の言説において、「シビル・ミニマム」の充足とは「ナショナル・ミニマム」の議論を見かけ上一致する点があった。そのことから、両者を併用して議論する部分が散見される。

 

「たしかにこのシビル・ミニマムの保障は、自治体レベルにせよ、政府レベルにせよ、複雑な行政システムを必要とし、ビッグ・ガバメントを形成する。今日の国家像が行政国家あるいは福祉国家・経済国家といわれるように、作業量を増大させている理由がこれである。しかしこのビッグ・ガバメントないしその巨大な行政システムはあくまでもシビル・ミニマムないしナショナル・ミニマムという「必要の王国」の管理にとどまるべきである。ことに個人の内面性ないし政治活動は「自由の王国」として解放されていなければならないのである。」(1971a:p296-297)

 

市民運動が提起している論点は、たんなる「物取り」あるいは「告発」ではない。それが一見、「物取り」あるいは「告発」にすぎないとみえるとしても、やがてシビル・ミニマムないしナショナル・ミニマムの整備を指向することになろう。」(1987:p137,論考は1972年のもの)

 

「一九八〇年代にはいりますと、シビル・ミニマムないし国基準の量充足が、半永久課題の公害は別として、下水道などをのぞけば、ほぼ終わることになるため、個別施策の量充足をめざした旧来型の自治体計画は目標喪失となります。一九六〇年代以来の量充足型自治体計画の終わりとなったのです。」(1999:p174)

 

 ここでまず押さえておくべきは70年代までの松下の「シビル・ミニマム」言説に含まれていた意味合いである。

  1. ナショナル・ミニマムに働きかけるためのシビル・ミニマム充足
  2. オカミ意識改善のためのシビル・ミニマム充足

 

 これは(1)が80年代以降議論される量充足、(2)が質充足の議論といえるが、70年代においても、シビル・ミニマムは「個性的」であるべきことが主張されていたことに注目したい。当初の論理ではこの個性がナショナル・ミニマムに対する批判的議論を巻き起こし、改善を図るという手法で改善していくものとして位置付けていたのである。

 

「こうして自治体改革による生活条件の自主管理の思想としてシビル・ミニマムの思想を位置づけることができるであろう。シビル・ミニマムの思想は、工業社会の成熟が可能にした個人の市民的自発性の増大と政策科学の必要性の増大とを、自治体レベルで結合し、それを前提とした直接民主主義的自主管理の思想としてまず形成される。しかもこのシビル・ミニマムは、各自治体の個性を反映した独創的性格をもって設定されなければならないのである。」(1971a:p300)

 

 そして80年代に入ると、その量充足は達成されたとされるのである。しかし、よく考えると、何故松下はこの「シビル・ミニマムの量充足」に言及できるのであろうか?シビル・ミニマムとは個性的であることをもともと志向していたのに、何故その「量充足」が松下に判断できるのだろう?

 ここで問われるべきは、「そもそも『シビル・ミニマムの量充足がなされた』という表現は語義矛盾であり、実質的に起こったのは『ナショマル・ミニマムが最低限達成された』ということにすぎないのではないのか?」という問いである。一見、この両者の違いはあまりないように思えて、持っている意味合いは非常に大きく異なる。

 

 まずもって、この「シビル・ミニマムの量充足」というのは、「シビル・ミニマム」という目標に対して、一定程度評価しないと出てこない言葉である。つまり、シビル・ミニマムによって量的目標が達成されたとする根拠が必要なはずである。しかし、これは「理念」と「実態」どちら側から考えても成り立たない。

 

 まず「理念」から指摘すれば、教育業界における「個性」をどう評価するのか、という問いと同じ困難があることがわかる。シビル・ミニマムは各自治体独自の基準設定が予定されているものであるが、これを達成したというためには、それぞれの目標と、その達成に何を見出したのかを検討しないと言えないはずである。当然松下はそんなことはしていない。よって、結果論として「ナショナル・ミニマムが量充足された」という結論からしか「シビル・ミニマムの量充足」が達成されたとはいえない(※4)。しかし、これは本当に「シビル・ミニマムの量充足」がなされたのかを示すものでは決してないのである。

 

 これは、松下の議論の中からも指摘できることである。松下は「シビル・ミニマム」を「社会指標」と比較し、次のように説明している。

 

「この政策基準としてのシビル・ミニマムは規範概念である。実証概念ではない。もちろんシビル・ミニマムは指数化されてはじめて政策基準としての実効性をもつけれども、この指数は実証概念としての「社会指標」とは性格がちがっている。社会指標は、生活なり施策なりの現実の実態を数値によってしめす実証概念である。社会指標は、とくに各国や各自治体の実態比較という分析に有効性をもつとしても、それ自体は政策基準とはなりえない。社会指標は、シビル・ミニマムの策定にあたってはデータという位置をもち、シビル・ミニマムの達成との関係では達成率としてあらわれる。」(1985:p96

 

 松下の議論では「市民」なども「規範概念」とされるが、この規範概念というのは、ある意味で「実在しないもの」のことを指す、文字通りの「理想」として捉えるべきものと位置付けられている(これについては最後の問いの部分で検討する)。確かに「(社会指標は)シビル・ミニマムとの関係では達成率としてあらわれる」ものの、シビル・ミニマムではありえない、とここでは言っている。

 それでは、松下が「シビル・ミニマムの量充足」という場合に、この言葉は何らかの具体的な意味が付与可能なものなのだろうか?私はそれが不可能なものであるとしか言えないと考えるのである。シビル・ミニマムというのは、言葉の定義上、あらかじめ具体化されることを否定しまっているからである。だから、「量充足」などという言葉を使ってみても、何を指すのか定義できないのである。

 

 また、「実態」から捉えても、ひどい結論が出てくる。シビル・ミニマムの実態についての検討は功刀俊洋「革新行政の政策的模索」(2017,URL: http://www.lib.fukushima-u.ac.jp/repo/repository/fukuro/R000005094/?lang=0&cate_schema=100&chk_schema=100)がかなり詳しく行っているが、そもそもシビル・ミニマム自体を設定していた自治体がごくごくわずか(せいぜい10程度)にすぎなかったため、これを一般的な自治体を想定した「シビル・ミニマムの量充足」の検証というのがそもそも不可能であったことが言えるだろう。

 

○ボランティアの「無償性」に対する正当性について

 

 もっとも、(シビル・ミニマムとの関連性はよく考えると不明だが)松下が具体例を挙げるような「補助金」に代表されるムダの排除に関する議論は一見わかりやすい指標であるように思える。ムダであるとは、すでに現状で十分であるからこそ必要のないものとされたものであり、松下もこのような議論は繰り返し述べてきた所である。

 松下の考えるシビル・ミニマムの量充足をした「自由の王国」における市民活動というのは、はっきりと「補助金」とは全く縁がないものとして描かれていた。だからこそ、ボランティアについても、当然自由意志に基づきなされるものであって、補助金行政とは何らかかわりがないものとして位置づけ議論していたのである。そして、ここでいうボランティアは、当然タダで行われるものとして語られている。

 

「もし、職員を六人にして一〇館つくったならば、職員六〇人、この管理のため本庁にも一〇名おくためついに七〇人となり、人件費だけで年三億円余となる。一〇年で三〇億円である。市民管理・市民運営方式ならばゼロ円で別の施策が展開できる。」(1985:p272)

 

「施設さえあれば、それも公共施設でなくとも公共「的」施設でもよいのだが、市民文化活動はできる。講座型の学習活動にしても自由に市民たちがサークルをつくって市民相互に講師になるか、自分の好きな講師を無料あるいは費用をだしあって呼んでくればよい。かつての大学の発祥の栄光をもつボロニア大学型の市民大学を考えればよいのである。それどころか、市民誰でもが講師になり会場費・講師料タダしたがって会費タダという三タダ主義の市民大学もできている。この方式で十分ではないか。」(1985:p317-318)

 

 しかし、このような態度の取り方にも「シビル・ミニマムの量充足」という言説の弊害があるように思えてしまう。松下はボランティアのような市民活動は無償でなければその自律性が官から阻害されることになると考えていた。そして、素朴に過去の自治におけるものが無償で行うことができていたものであるはずと考えられたからである。

 

「従来の官治型理論構成では、ボランティア活動は、職員による行政の「補助」とみなされ、コミュニティ活動は「下請」とみなされてきた。事実、これまではボランティア活動はたえず臨時職員から正職員へというかたちで行政のなかにとりくまれて自立できず、コミュニティ活動も育成・指導の対象になり、さらに下請へと変容してしまうのである。」(1980a:p321)

 

「この農村型社会におけるムラ自治の崩壊は、過渡期にはいわゆる国家を中心に行政機構を自立させ、その専門分化を促進したが、都市型社会の成熟につれてコミュニティ・ボランティア活動というかたちで、あらためて、かつてのムラ自治が市民自治として再生しはじめる。……それゆえ、市民は、市民立案だけでなく、みずからも政策実現をめぐって市民行政を直接、市民活動でおこなっているということが確認されるとき、職員機構による行政の独占という行政概念は崩壊する。」(1987:p200)

 

 ここで対比として取り上げたいのは、仁平典宏が「ボランティアの誕生と終焉」(2009)で捉えているボランティア観である。仁平の著書においては自発的行為とされるボランティアの贈与性(見返りを求めない態度)に対して、常に反対贈与としての意味が付与されうる(自発性の疎外としての「ボランティア動員」の議論や、良心で行っているはずのボランティアが自己欺瞞であると揶揄される)という<贈与のパラドックス>の発生に注目した系譜の分析を行っている。

 

「このように、<贈与>とは、外部観察によって、絶えず反対贈与を「発見・暴露」される位置にある。ここで重要なのは、<贈与>は、被贈与者や社会から何かを奪う形(贈与の一撃!)で反対贈与を獲得していると観察されがちなことである。例えば補論二で見るように、近代的な権力は、善意を装い贈与するふりをして、決定的な負債を与えていく存在として概念化されてきた。<贈与>は、贈与どころか、相手や社会にとってマイナスの帰結を生み出す、つまり反贈与的なものになるというわけだ。この意味論的形式を、本書では<贈与のパラドックス>と呼びたい。」(仁平2009,p13)

 

 松下が市民文化活動において重要視するのは間違いなく、この活動が「自由の王国」に属するものであり、他に干渉されることなく自由に活動を行うことができること、その自由な活動の多様性が豊かな市民文化の醸成と市民活動への貢献に繋がるという期待をもつこと、文字通りその活動が「ボランティア」によりなされるものとみている点で、ボランティア論とも軸を一にする。

 

 仁平は著書の結論で、このような態度の取り方について、その有効性を疑問視している。まずもってこのような態度の取り方は一定程度の普遍性をもった形で(「ボランティア動員論」の批判として)ボランティア言説に付与されていたものであったし、「ボランティア論は、自らの活動がどのような政治的帰結と接続しているかを問う基準を忘却し、脱政治的な基準のみで<贈与のパラドックス>を解決しようとしたときに、国家のネオリベラリズム的動員と適合的となった」(仁平2009,p422)という。確かに松下は常にボランティアの動員に対して批判的視座を与えており、仁平の言うようなことに対しては単に「オカミ意識が抜けていない実態についてそう述べているだけ」という形で反論することだろう。

 しかし、松下が実際にこの<贈与のパラドックス>を回避しているかと言えば、とてもそう言えるとは思えない。逆説的ではあるが、松下の言説はそれがあまりに抽象化されているが故に、容易に他の議論に水路付けられてしまうような曖昧さを持っている。「シビル・ミニマム」の概念はまさにその典型である。松下の場合、この「シビル・ミニマム」の用法は実際的な意味においては、せいぜい「ハード面でのまちづくり」のいくつかの例示を超えて語られてはいないにも関わらず、総論としては「あらゆるものを内包した」概念とみなしてしまっている。その「あらゆるもの」のほとんどは松下の中で思考停止した状態で現れたものにすぎず、松下自身が具体的に語ることが不能なものなのである。その「語ることができない」ものの解釈は無条件に読者に委ねられ、独自に解釈され、恣意的な思考を許してしまうのである。その言説はもはや松下の意図するところとなることは全く保障されない。そして私はこのような「恣意的な解釈を黙認」する態度こそが、<贈与のパラドックス>に直結したものであり、松下がこのパラドックスに加担しているものとする根拠とみるものなのである。実際、経済戦略会議において、シビル・ミニマムとナショナル・ミニマムの違いが曖昧なのは、松下の概念説明が極めて曖昧だったからことに起因するように私には思えたし、功刀が指摘した「シビル・ミニマムが未完成・不明確であり、共通理解がなかった」とした点(功刀 前掲論文2017,p47)についても、同じような松下の抽象的言明に責を与えることについて、私は問題がないものなのではないのかと思ってしまうのである。

 

 また、「ボランティアの無償性」の原則に関しても、それは別に自律性と矛盾するものではなく、特に「市民行政」において無償性を強要することはかえってネオリベラリズム的動員にも加担することに繋がる(仁平2009,p426-427)とする点も松下のケースにもあてはまっているように見える。更に仁平は有用な市民活動に対する「正当な対価」のあり方にもふれ、仮にその活動が有効な活動であるのであれば、それなりの対価なしには、その活動そのものの衰退にも繋がりかねないし、それは障害者運動の事例にも見られるものであったという(仁平2009,p428)。

 松下自身は行政自身が「動員」することに対しては批判的であるにも関わらず、この「市民行政」の促進についての主張に関していえば、あたかも「動員論」そのものを述べているように聞こえてしまうのである。「行政の手の届かない所に無償ボランティアを」という側面からもそうであるし、コスト削減という観点からもそうである。

 

「そのうえ、ナマケモノの市民が多いところでは、(1)と(3)の意義が忘れられ、(2)のシビル・ミニマムの量肥大となり、そのコストについての市民負担も加重することになります。市民参加と行政肥大とは反比例の関係です。「市民行政」の強化こそが「職員行政」の縮小となります。」(2005b: p136)

 

「市民活動が活発となり、団体・企業ともに市民自らが公共政策の立案・実現、つまり「市民行政」にとりくむならば、従来型の行政の減量ないし職員の削減もできることになります。逆に市民がナマケモノならば、人件費をふくめて行政費が拡大します。

 市民がゴミポストにゴミを運ばず、各家の前やアパート、マンションの各階・各室前までゴミを集めにいけば、清掃行政担当者は今の数倍になるでしょう。公民館は職員をおかず市民管理・市民運営であれば、市民文化活動のセンターとしてかえって活力をもつではありませんか。」(1999:p42-43)

 

 しかし、松下のいう市民はいかに「生活」するのだろうか。ここでいう「生活」とは、「文化的な生活」云々というよりも「労働し、金銭をかせぎ、生計をたてる」という観点である。実際松下はこの論点についての言及は皆無である。「市民による自治」に関する議論においては、多様な専門家の関与についての必要性を述べているが、「彼らはいかにしてそこに参加をすることが可能となるのか」という点を全く問うことがない。これについては「自治意識が足りない」の一点張りで批判するだけである。松下の議論が「生活」の観点を欠いているため、現実の市民参加の議論自体に制約がかかっているように見えるのである。

 

○松下の「段階論」の使用の問題について

 以上のように、シビル・ミニマムについても、その改善言説で主流といえた補助金をはじめとしたムダの排除への言及についても問題含みであるといえた。これはひとえにシビル・ミニマムが「規範概念」として実態化不可能なものとして捉えていたにも関わらず、「段階論」としてこれを実態化したものとみなす作業を松下が行ってきたためである。

 これは後述する「市民」に関する議論についてもそうであるが、「革新自治体」に対する語りについても同じであるといえる。松下は、「先駆自治体」であることは全面的に「善」であるとみなしているが、「革新自治体」については、両義的態度を取り続けていた。革新自治体は革新勢力と密接に結びついていたが、革新勢力についても問題含みであることを強く認識していたことも大きな原因であるといえる。

 

「事実、一九八〇年代にはいって、文化行政のつみあげとして、日本の都市や農村が美しくなりつつある。これは文化行政、つまり(1)行政の文化化、(2)文化戦略の構成というかたちで、政策水準をたかめてきた先駆自治体の先導性によるものである。一九六〇、七〇年代以降、市民運動の衝撃のもとに、政策開発・行政革新をつみあげてきた先駆自治体の文化行政の成果がそこにある。」(1991:p66-67)

 

「逆にいえば、首長だけが革新系になったとしても、自治体改革にとりくまないかぎり、それは「丹頂鶴自治体」にすぎないという革新自治体の実態があきらかとなったのである。それどころか、革新自治体は、自治体の既成体質をそのままにして、高成長による自然増財源をもとにバラマキ福祉をおこなっただけではないか、という批判もうけるようになっている。」(1985:p118)

 

「それどころか、革新自治体は、自治体の既成体質をそのままにして、高成長による自然増財源をテコにバラマキ福祉をおこなっただけではないか、という批判もうけるようになっている。これでは、後世、六〇、七〇年代とは、保守はバラマキ土木、革新はバラマキ福祉の時代だったという評価を定着させてしまうことになろう。」(1987:p14)

 

 この傾向は80年代までは明確であったものの、1991年に松下も関わった「資料 革新自治体」が出た頃から変化が見られるようになる。それが「革新自治体の段階論的把握」であった。80年代まで先駆自治体と革新自治体というのは、松下の中で別物として捉えられていた傾向が強かったのだが、90年代以降の言説においては、時代の変化とともに「革新自治体から先駆自治体へ」という変化として語られるようになったのである。

 

「一九六〇、七〇年代の日本で、首長が革新系か否かを中心に論じられていた革新自治体は、この「先駆自治体」のさきがけだったのである。」(1991:p60)

「一九六〇年代、七〇年代の革新自治体・保守自治体の対立も、実はこの先駆自治体・居眠り自治体の対立だったのである。」(1991:p287)

 

「さらに、なぜ一九六三年からほぼ一九八〇年まで、「革新自治体」が群生し、一九八〇年代からは保守系も加わる「先駆自治体」に継承されていったかも、ここで説明できることになります。つまり、都市型社会のシビル・ミニマムの公共整備には、①市民活動の起動力、②政策・制度の地域性をいかす自治体の政府としての自立が不可欠だったためです。つまり、明治国家型の官治・集権から市民政治型の自治・分権への、日本の政治・行政、経済・文化の再編がカギとなっていたのです。」 (2010:p209)

 

 90年代以降、「革新自治体」に対する両義的態度というのは完全になくなった訳ではないが、極端に弱くなった。それは「革新自治体」というものが完全に過去のものとなり、そのような両義的態度をとる必要がなくなった(革新自治体に改善を求める必要性がなくなった)ためであり、だからこそ今も存在する先駆自治体との関係を段階論的に捉えることが可能となったのである。

 このような事例からも「シビル・ミニマムの量から質へ」という段階論と同じような、実態の無視が見受けられるのである。松下はこの事実について認識していない訳ではないのだが、それを「理論」として抑え込み、あたかも理論の方が「実態」であるかのように用いるためのレトリックとして段階論的把握というのが選ばれているのである。これは松下の理論構成全般について言えるだろう。

 最初の問いであった「シビル・ミニマムとは何だったのか?」という問いに対しても、このような虚偽を多分に含んだものと答えなければならないだろう。(続く)

  

※1 今回の分析にあたり参照した文献は以下の通りである。以下の引用においては、出版年(とアルファベット)のみで引用先を示すことにする。

松下圭一1965,「戦後民主主義の展望」

松下圭一1971a,「シビル・ミニマムの思想」

松下圭一1971b,「都市政策を考える」

松下圭一1975,「市民自治憲法理論」

松下圭一1977,「新政治考」

松下圭一編1980a,「職員参加」

松下圭一1980b,「市民政治の政策構想」

松下圭一・森啓編1981,「文化行政」

松下圭一1985,「市民文化は可能か」

松下圭一1986,「社会教育の終焉」

松下圭一1987,「都市型社会の自治

松下圭一1991,「政策型思考と政治」

松下圭一1994,「戦後政治の歴史と思想」

松下圭一1996,「日本の自治・分権」

松下圭一1999,「自治体は変わるか」

松下圭一2003,「シビル・ミニマム再考」

松下圭一2005a, 「転換期日本の政治と文化」

松下圭一2005b, 「自治体再構築」

松下圭一2006, 「現代政治」

松下圭一編2010,「自治体改革」

松下圭一2012, 「成熟と洗練」

 

(2019年2月9日追記)

※4 もちろん、松下は「ナショナル・ミニマム」が充足したことについても、それが総括的な意味において実証的に示したことがないといってよい。

 このような充足の是非について判断を行っていないことは、同時に松下の「ムダの排除」をすべきという言い分自体が、その充足要因以外から来ているのではないのか、つまり70年代に発生した財政問題の影響を直接に受け、80年代以降自治体の財政負担の減のためだけにこの主張を行っているのではないのか、という批判も当然成り立つ。そして、この側面のみを捉えて議論することも、ネオリベラリズム的な主張と合流する要因となっている。

 

「野口(※悠紀雄)は、かつて「財政支出は四兆円削減できる」とのべたが、今回、第二予算たる財投に挑戦した。財政危機がたんなる赤字問題ではなく、制度の時代錯誤性からきていることを、財投をモデルに証明してみせたといえる。」(1980b:p229)

 

「ただし、個人が政治未熟、つまりオカミ・国家崇拝のとき、ムシリ・タカリというかたちで公共領域は拡大する。だが、公共課題はミニマム水準でなければ、日本の二〇〇〇年前後からの財政破綻がしめすように、各レベルの政府ないし政策・制度は「持続可能」となりえない。市民の高負担となるシビル・マキシマムはありえないのである。さらに、またミニマム基準の公共政策は、政府だけでなく、基本としては市民ないし市民社会がになうのだから、公共政策と政府政策とは区別しなければならない。」(2005a:p27)