松下圭一の市民論再考(2/2)

○松下にとっての「教育」とは何だったのか?

 

 さて、2つ目の問いである。この「市民」に対する意味合いについても過去の言説から分析してみたい。ただ、これに答えるためにはまず、松下における「教育する主体」についての議論をしなければならないだろう。

 すでに「社会教育の終焉」のレビューで松下が大人への教育について批判していたのをみてきたが、まず押さえなければならないのは、「社会教育の終焉」以降はこのような形での「教育」という言葉は全く語られていないものの、80年前後までの松下の言説には「教育」という言葉が成人に向けられたものとして語られていた点である。引用しよう。

 

「都市改造には、現代都市問題への社会科学理論的展望をもった土木・建築家の育成ないし社会科学者との協業が必要とされる。しかし従来の大学工学部教育においては、これまで都市計画についての理論蓄積も少ない。……さしあたっては既成の土木・建築家の再教育が大学ないし関係職員団体によって行われなければならない。

いうまでもなく都市改革の前提は新しい都市ビジョンの構成である。新しい都市ビジョン構成にあたっては専門家もまず市民として発想し、都市改革の主体たる広範な市民とそれを共有しなければならない。そこではまず第一に市民参加の新しい組織論が構想されなければならない。ついで第二にそれにともなう都市改革を課題とした政策科学としての都市科学の形成、したがってその政策技術の展開とその専門家の養成が必要である。第三には都市専門家の自主管理の倫理と機構が提起されなければならない。」(1971a:p211)

 

したがってまたシビル・ミニマムの提起の市民教育的効果をも考えてよいであろう。それは地域における公害規制の基準、市民施設の基準などをめぐっての討論の問題提起であり、また汲取清掃車の増加か下水道の建設かの選択をせまることになる。日本では、シビル・ミニマムの提起がはじめて都市生活基準をめぐる意識の開発となるという意味で、それは市民教育的啓蒙性をもちうるのである。

これまでの日本の社会科学はこの問題領域に充分とりくんでいなかったように思われる。政治の科学化のためには、またこの意味で、社会科学自体も体質転換しなければならない。」(1971a:p294)

 

「この市民的自発性の大量成熟には、まず〈工業〉の拡大が重要である。それは生活の飢餓水準からの脱却、ついで生活様式からの意識形態の変化ことに教養と余暇の増大をもたらす。これは私生活埋没への条件でもあるが、同時に市民的自発性を育てていく条件でもある。民主主義は貧困と無知の上には永続しない。この条件は、日本でようやく形成されはじめてきた。

この市民的自発性成熟条件としては、ついで〈民主主義〉の制度自体がある。それは制度の教育効果として、国民の政治参加・訓練の機会を増大していく。自治体から国にいたるまでのあらゆる政治決定への参加の制度的保障、それにともなう市民内部における統治経験の蓄積がまた、結果として市民的自発性を培養し、したがって政治的成熟をうながしていく。」(1971b:p66-67)

 

ゴミの処理システムなどへの市民参加は、市民教育そのものである。それは、行政としての社会教育講座よりも教育的である。東京の官庁や企業本社が排出するゴミの分別を幹部たちの市民教育として、率先しておこなわせる時点にきているのではないか。」(1980b:p170)

 

 この4つの引用で語られる「教育」の意味合いについて確認しておこう。

 まず、最初の引用では既存の専門家の能力が不足していることから、大学での再教育が必要であると述べられる。この専門家は市民としては限定的な存在であり、他の3つと比べると、特殊な市民についての議論であるといえる。また、教育のイメージも通常の大学での教育と同じ知識等を身に着ける教育であるといえる。

 

 2つ目以降の引用は多少通常の「教育」とは異なる用法であるといえる。それは一つには、2つ目の引用に見られるような「啓蒙性」ありきで議論しているということである。「問題提起」を生みだすものに対して教育という用法を用いているといえる。

 また、この啓蒙性とも関連して、「市民参加による経験の蓄積」についても教育という言葉を用いている。特に最後の引用は社会教育との対比をしている点で注目すべき点である。「社会教育よりも教育的である」というのは、「ためになる」程度の意味で当時用いていたのかもしれない。しかし、このような態度の取り方は80年代中頃には変化が出てくることになる。

 

 さて、この2つ目以降の引用における「教育」というのは、その後も「教育」という言葉が用いられないまま、松下の言説で繰り返し用いられていることをまず指摘せねばならない。

 

「市民参加・職員参加の手続にもとづく、シビル・ミニマム設定ついで自治体計画策定をめざした政策情報の整理・公開こそが、市民、職員、首長、議員が政策立案能力をもつ「市民」へと成熟していく基本条件になる。そこで、はじめて、自治体改革、つまり行政スタイルの転換が可能になる。」(1994:P223-224)

 

「以上の結果、政策・制度づくりは、政治家・官僚の身分特権ではなくなる。今後、情報公開・市民参加の手続開発がさらにすすめば、政策・制度の立案・決定・執行への市民参加は加速され、市民の政治成熟をうながす。そのうえ、政治家・官僚も、文化水準・政治習熟の変化した市民のなかから、特定の選出・任命の手続をへて、「職業」として選択されるにすぎない。」(1991:p93)

 

「さらには、職員がカリキュラムをつくって公民館で市民を教育するという「社会教育」行政もとっくに終焉しているとみるべきでしょう。「生涯学習課」と名を変えていてもおなじです。社会教育は自治体職員がエライという前提をもつ後進国行政です。このため、市民みずからの自治訓練・自治学習の機会の拡大という、市民活動ないし市民参加方式からの出発が、今後の自治体のあり方の基本となります。」 (2010:p155)

 

 これらの引用はかつての松下の言説でいう「教育」の用法と同一ないし酷似した部分であるといえるだろう。ここでは「成熟」「訓練」「学習」といった言葉が「教育」の言い換えとして述べられているといえる。

 もっとも、85年頃から松下が『教育』批判で用いていた『教育』の用法は、80年前後まで松下用いていた「教育」の用法(特に、先ほどの四つの引用のうち、二つ目以降のものの用法)と関係なく、「教育」という言葉を用いていたのも用法的に誤りであったため、以後「教育」という言葉は用いなくなった、という開き直りのされ方はありえるだろう。これを検証するためには、松下自身が『教育』批判をする際に、どのような『教育』の用法を用いているのか論じなければならない。

 

○松下の定義する『教育』と「文化」とは何か?

 

 松下が用いている『教育』について検討するための前提として、松下は義務教育段階での教育については容認していることを踏まえると、基本的には「子どもが受ける教育とは何か?」をまず検討する必要がある。「社会教育の終焉」において、松下は教育とは「文化の同化」であると明言する。

 

「教育とは教え育てる、つまり未成年への文化同化としての基礎教育を意味するとみなければならない。今日の日本ではこれは高等学校水準であろう。」(1986:p3)

「たしかに、成人も、学校型のチャンスで学ぶこともありうる。それにこの学校型受講を愛好する層もある。だが、これは、未成年の教育ないし学校の意義とは質的に異っている。それらは、社会の文化水準への同化という義務教育を終えたのちの、成人市民の自由な選択たる文化活動だからである。基礎教育ことに義務教育には、学校という制度強制がつきまとうのは、この社会の文化水準への同化という課題があるからにほかならない。これを終えれば、成人は自由な市民ではないか。」(1986:p85-86)

「教育すべき「真理」があると考えうるのは、先進国状況をモデルとした後進国状況の思考形態である。先進国状況にはいればモデルを喪失してオサキマックラとなる。このような先進国状況では、文化同化という未成年への基礎教育はありえても、オサキマックラというモデル喪失がすすむため、成人にたいする教育はありえない。教育とは、既成の文化構造ないし期待されるべき文化構造という規範モデルを教育規範とした文化同化である。先進国状況になればなるほど、成人市民にたいする教育は不可能となる。」(1986:p89)

 

 ここで、特に注目すべきは「教育とは、既成の文化構造ないし期待されるべき文化構造という規範モデルを教育規範とした文化同化である」と述べている点である。この中の「既成の文化構造」についてはわかりやすい。例えば、「ここで、教養とは、義務教育の普及による「読み書きソロバン」を下限とする」(1985:p76)といった言い方における文化構造は間違いなくこれにあたる。しかし、「期待されるべき文化構造」とは何なのか?これを検討するには、今度は松下の「文化」の定義も含め捉えなければならない。

 例えば、「文化」とは何かについて、松下は次のように述べている。

 

「文化は、文学・美術だけではない。地域環境そのものがまた文化でなければならない。歴史景観をふくめた地域のあり方、さらにはこの地域づくりの運動こそが市民文化そのものといってよい。日本での文化イメージは地域とむすびつかなかったがゆえに、明治以降、市民文化がなりたちにくかったのではないか。」(1980b:P192)

 

ここでいう「文化」というのは何か具体的なものについて指しているのではなく、文化を作ろうとする「運動」に対してそう呼んでいるといえるだろう。

 このような文化観は「文化行政」や「行政の文化化」という言葉を語るときに顕著となる。

 

「この文化行政の提起の今日的意義は、行政の文化化つまり行政とくに職員の文化水準の向上という、自治体レベルでの行政の意識革命をめざす独自運動という点にもとめられる。」(1980b:P217)

 

「文化行政とは何か、と問われるならば、それは、市民の文化活動、それにともなって市民文化が成熟するための条件整備をめざす、自治体行政内部からの新しい行政課題の設定ということになろう。あるいは、市民が、自由に、地域特性をいかし、自治手続をきづきながら、市民文化をうみだしていく地域づくりに対応できるような、自治体行政の自己革新の追求といってよいであろう。

 とすれば、文化行政とは、行政そのものを明治一〇〇年におよび国家中心の官治・集権型から、市民を土台とし地域特性を伸ばす自治・分権型への体質転換をよびおこす自治体行政内部からの新しい課題設定といわなければならない。」(1981: PⅠ)

 

「もちろん「行政の文化化」という語法については好悪がある。しかし、問題は、この語法で何がそこで意図されているかである。今後、適当な用語があれば、それに変っていくであろう。ここで意図されているのは、行政の体質革新としての行政水準の上昇という、文化行政そのものの課題である。

 このようにみれば、文化行政は、市民文化の成熟、さらには行政の文化水準の上昇に応じて不要になっていくことも理解されよう。市民文化の成熟は、自治体レベルから行政自体の文化水準をあげ、官治・集権型から自治・分権型へと行政体質を転換させていく。文化行政は、いわば過渡期の産物なのである。この過渡性のゆえに、現在、文化行政は自治体の戦略的急務となっている。」(1981:p11)

 

 私の言い方であれば、ここでいう「文化」とは既存の体質(文化)に対する「改善要求」に応えるものとして語られているのである。いわば「意識の問題」として「文化」が語られ、「意識の向上」に対して「文化化」という言葉を用いているのである。

 このように「文化」を捉えた場合、義務教育で教えられる「文化の同化」というのはどのように捉えればよいのか?本来であれば、具体的な「期待されるべき文化構造」に対してそれを身につけることを指すともいえるだろうが、松下はその具体性については全く述べていないし(述べる気がそもそもないとも言える)、むしろこれについては「行政の文化化」と同じような意味合いで「文化水準の向上」のための「意識の向上」のための手法を身につけることを指していると解釈する方が自然であるように思えるのである。これは学校教育の議論で揶揄されていたような「化石化した知識」を教えることではなく、「学習姿勢」を身につけることが重要である、という言い方と同じものを想定しているのではないか、ということである。次のような指摘からも、重要な点は「変容」にあり、「新しい文化」そのものではないように見えてしまう。

 

「くりかえすが、市民文化という文化自体は存在しえない。今日の日本において存在するのは、たえず変りつつある現代日本文化があるだけである。この現代日本文化の担い手である個々の人々の政治イメージのあり方として市民文化が問われ、さらに市民型への日本文化の変容がめざされているのである。」(1985:p31)

 

 もしこの仮説が正しいのであれば、70年代に松下が議論していたシビル・ミニマムの概念の普及や市民参加の与えていた「教育」の言葉の意味も、85年頃からの『教育』批判の議論から飛躍している訳ではなく、基本的には同じ意味合いで用いているということになるだろう。

 そうであるならば、前述した開き直りの態度は誤りであると言うべきである。結局松下は80年代以降の議論において「教育」という言葉を使っていないだけで、大人に対しても「教育」をする態度で臨んでいたことになる。つまり、市民は「教育される主体」であり続けているということである。

 

地方自治における「決定」は市民によりなされると松下は考えていたのか?

 しかし、もう一つ注目しなければならないのは、松下の言説における「市民」の対象の変化である。特に90年代に入ってから松下はいわゆる一般的な市民を対象にした議論ではなく、行政職員を「市民」として捉え、「文化の行政化」をはじめとした議論をもって「意識の向上=教育」を図ろうとしてきたのである。

 これは、松下自身も「教育」という言葉を使わないだけでなく、結果として「放任」する形にしなければ、「市民」を教育する立場になってしまうことを自覚していたからであると思われる。また、松下の理論としては「市民」はすでに成熟しているため、「教育」される必要がないから、議論をしないという「理論の力」も借りながら、このような転換を図ったといえる(※2)。

 もちろん、これも矛盾を抱える。「市民」は成熟しているのに、「市民」として扱うべき「行政職員」の方は何故か未成熟であり、教育の対象とされるのである。

 

「そのうえ、各政策課題はひろく量充足から質整備に移り、そこに政策水準の上昇という行政の文化化がめざされます。このため、職員のいわゆる研修も問いなおされてきます。」(1996:p212)

 

「この(2)について(※行政機構の政策水準の向上)は、職員の採用・研修・昇任制度との関連で、長の人事についての見識のほか、行政職員の二つの可能性を注目しておく必要がある。

1.プランナー型 行政職員自体が「政策知識人」となるために、プロジェクト・チームの編成などによって、書記型から「企画型」へと変る。

2.プロデューサー型 行政職員が外部の「政策知識人」を結集して、市民委員会ないし審議委員会・行政委員会をプロデュースする「演出型」へと変る。」(1991:p192)

 

自治体の政策・計画は、たとえ水準が低くてもその自治体で市民参加・職員参加でつくっていくかぎり、漸次、策定の経験・手法がその自治体内に蓄積されて、水準もたかくなっていきます。独自に自立して策定するといっても、もちろん、専門家の意見あるいは幅広い情報の集約は必要でしょう。しかし、これらの意見・情報は、その自治体にとっては参考にすぎないわけです。」(1996:p88)

 

 また、このことに合わせて改めて問わねばならないのは、「地方自治」における決定者は誰か、という問いである。松下の場合、これは言うまでもなく、「市民」によりなされるべきものであったはずである。

 

「したがって、民主的住民組織の形成ないし既成住民組織の民主化をとおした都民の民主的エネルギーの結集が考えられねばならない。このヨコのひろがりの民主的地域組織の形成・結集は、また既存のタテ割りすなわち企業別労働組合にのみ依存しては不可能なのであって、新しい運動形態が必要なことをここで指摘しておく必要があろう。この地域における直接民主主義こそが、なによりも都政改革、そして日本の民主主義の原型である。

 しかも、この地域の直接民主主義は、主体的参加をふまえた管理能力をも蓄積しなければならない。水飢饉の場合も、金持ちは井戸を掘って個人的に解決する、貧乏人は雨が降らないかと天をあおいでいる、といった状況のもとでは、公共的解決すなわち民主的参加による解決は不可能なのである。地域民主主義にもとづくこのような公共的解決能力そして公共的統治能力の訓練、すなわち市民的訓練こそが、今日、工業社会における市民にとって、従来の農業社会以上に必要とされている。」(1965:p152)

 

「このような激動の都市革命、ことに現代都市問題の激発の過程において、都市政策を構想し実現していく主体的可能性はどこにあるのだろうか。

 その可能性は私たち自らが追求しなければならない課題である。しかもその可能性は私たち内部にひそんでいる。それは、私たち自身が、政治的自発性ある自由な<市民>となることによってである。」(1971b:p56)

 

「(b)政治機能の拡大の結果、国・自治体レベルでの政策決定は、市民生活に広汎な影響をもつとともに、そのためかえって政策決定への参加をめぐって市民運動が噴出しはじめ、自治体・国レベルの多元的重層的な政策主体間の調整が要請されるにいたった。

 歴史的にみて、政策形成ないしそれにともなう政策選択は、かつては帝王の秘術であり、大衆民主主義が成熟しないかぎり、一九世紀ヨーロッパ、戦前の日本にみられるように議員・官僚の身分的特権性をともなった統治技術にとどまっていた。しかし今日では、政策主体は、市民レベルから、大衆団体、企業、支配層組織、ついで政党あるいは自治体、議会・政府さらに国際機構をふくめて多元的重層的に拡散してきた。もちろん、国民経済を基盤とする国民国家の地域的統一性・権力的独占性を前提として国レベルの中央政府が最強の政策主体としてあらわれる。だがこのことは中央政府の政策が焦点となっていることを意味するにとどまり、政策形成の主体が多様に拡散していることこそ注目すべきである。したがって市民による政策形成・選択のチャンスが拡大してきたのである。」(1971b:p77)

 

 しかし、91年の著書では、このような市民による自治観について明確に疑義がでるような主張をいくつか行っている。特に「決定主体」についての次の主張が松下の議論全体に与える意味合いはあまりにも大きい。

 

「決定主体はかならず個人である。政治には〈公共責任〉をともなうが、そこでの決断は、組織・政府の内外を問わず、つねに個人による決断である。長ともなれば、ひろく市民、さらに組織・政府にたいする〈個人責任〉をともなうため、辞任・交替も問われる。」(1991:p162)

 

 ここで問い直す必要があるのは、「市民」はここでいう地方自治に関する決定主体たりうるか、という点である。まず、この主張には合議体的なものに対する決定主体についての議論が欠落している。それよりも「市長」や「行政職員(の代表)」がこの決定主体であり、「市民」というのは、その決定者の周囲にいる「周辺者」以外の何者でもないのではないか、と思えてしまう。このような考え方はそのままこの91年の著書で提起される「プロデューサー型」の行政職員像にもあてはまる(1991:p192、前掲引用)。結局、ここでの決定主体はプロデュースされる「政策知識人(専門的知識を持った市民)」ではなく、プロデュースする側である行政職員である。これは松下も「政策知識人は、決断の責任を直接もたない。いわば、「浮動」する位置にある」(1991:p190)とみなしていることから松下の議論として正しい認識だろう。

 つまり、政策主体とされてきた「市民」というのは「決定主体」ではなく、せいぜい行政等から出された提案に対する批判者としてふるまうか、アイデアを出したにせよ、「決定主体」として振舞うことは決してできない存在でしかない、ということである。

 確かに松下にとって市民とは常にエゴイズムの権化であり、利害関係については自らでは判断できる主体として設定されていない。

 

「それゆえ市民運動は、伝統規制によるムラ状況が崩壊して、市民内部に多様な階層、職業、価値の分化が政策対立へと進行するマス状況から出発する。したがってまず、市民内部における地域対立、党派対立の確認が必要である。その政治参加もマス状況も反映して浮動的構造をもっている。こうして市民運動は、さしあたり、エゴイズムの氾濫という批判をうける性格をその特質としてもっているとみてよい。(1971b:p175)

 

 このような状況において、何をもってエゴイズムに留まらない公共的決定がなされうるのか。松下は確かに「シビル・ミニマム」という水準設定の作業がその担い手になりうることについて述べている。

 

「それゆえ市民運動は、シビル・ミニマムをめぐる討論をつねに組織することによって、エゴイズムのぶつかりあいを自治体による都市政策の策定・選択にまでたかめ、市民の政策構想をゆたかにしていかなければならないだろう。そこから市民、自治体さらに国というタテの循環構造を知的に誘導しうる条件を市民みずからがつくりあげることができる。これが市民自治なのである。」(1971b:p147-148)

 

「シビル・ミニマム手法の導入。……これがなければ、市民のいわゆるエゴイズム、職員の部課割拠主義、首長・議会の集票活動の力関係によって施策がきまり、施策の計画性を保障できなくなる。とくに他の自治体との比較、国のナショナル・ミニマムとの対置によって、各自治体はその施策の位相を客観化できる。」(1987:p215)

 

 しかし、一見客観的な指標にみえるシビル・ミニマムについても、政治的判断の産物であると松下は述べている。

 

「ただ、私は、シビル・ミニマムつまり個々の施策基準設定は、科学的決定ではなく、政治的決定だということをくりかえしのべています。老齢年金は円表示、建築の高度規則はm表示、特定物質の環境基準はppm表示などというかたちで、どうしても指数表示は必要となります。そのとき、科学は検証可能な実証研究によって、xからyの間がその時代の科学水準からみて「許容量」という《情報公開》はできます。けれども、ミニマムの最低基準をきびしくするか、甘くするかは、市民参加手続による合意をふまえた《政治決断》によると、たえずのべてきました。いわゆるテクノクラットないし官僚の無謬神話にかたむきがちの科学決定主義には、私は反対でした。」(2005b:p122)

 

 ここで、「シビル・ミニマム」が他の松下が設定する規範概念と同様、循環論法に陥っていることがわかる。闘争を解決する手段が闘争を生んでいるのである。とすると、やはり、この解決は「シビル・ミニマム」によっては解決しない。ではどう調停されるのか。それこそ、「決定主体」である「行政職員」による「調整」にかかっているのである。そして、松下はそれを実現する能力を行政職員に要求するのである。

 

自治体における従来の専務作業はコンピュータに入り、技術作業は外部化していくため、職員の課題は分権段階の今日ではプランナー型ないしプロデューサー型に変わります。ここから、職員には政策・制度の開発・実現能力が不可欠として問われていきますから、職員すべてに指数の作成・読解が要請されます。従来の自治体統計課は国のいわゆる官庁統計の消化であるため、この自治体の政策数務とは異次元と位置づけ、今後双方をどのように関連づけていくかを各自治体それぞれに工夫するとともに、この自治体政務をふまえて国の官庁統計の再編をきびしく考えていきたいと思います。」(2003:p14)

 

○「市民行政」という言説の欺瞞について

 

 もっとも、これにも別の側面からの批判が考えられる。「市民行政」という考え方がそれである。先述のボランティアの議論でも少し触れられているが、既存の行政職員が行っていることを市民に委譲し、「大きな政府」を「小さな政府」にしていく必要性について松下は強く主張している。

 

「市民のボランティア活動ないしコミュニティ活動という「市民行政」が「市民立案」とともに《市民自治》の出発点であり、この市民活動としての「市民行政」が日常直接に狙いにくい行政領域を基礎自治体広域自治体、国の職員行政へと順次「代行」させていくという発想が基本となる。市民行政こそがまた職員行政の「土台」とみなされなければならない。

 それゆえ、市民活動が活発になればなるほど、「市民立案」による職員への批判もきびしくなるだけでなく、「市民行政」による職員行政の減少という事態もでてくるのである。職員行政ないし自治体、国の政府こそが、原基形態としての市民活動の「補助」「下請」――派生形態にすぎない。」(1987:P175-176)

 

「市民活動が活発となり、団体・企業ともに市民自らが公共政策の立案・実現、つまり「市民行政」にとりくむならば、従来型の行政の減量ないし職員の削減もできることになります。逆に市民がナマケモノならば、人件費をふくめて行政費が拡大します。

 市民がゴミポストにゴミを運ばず、各家の前やアパート、マンションの各階・各室前までゴミを集めにいけば、清掃行政担当者は今の数倍になるでしょう。公民館は職員をおかず市民管理・市民運営であれば、市民文化活動のセンターとしてかえって活力をもつではありませんか。」(1999:p42-43)

 

自治体によるシビル・ミニマムの公共整備の政策イニシアティヴも、市民、ついで団体・企業の文化水準、政策水準がたかくなり、行政の劣化が露呈した一九九〇年代以降は、漸次、市民あるいは団体・企業にうつり、図3-4にみたように、市民、団体・企業との政策ネットワークの形成が不可欠です。この市民、団体・企業を主体とするネット・ワークをふまえて、自治体、国をとわず職員機構の縮少もはじまります。」(2005:p233)

 

 このようなトレード・オフの関係性を松下は強調しており、ここに一見「決定主体」として行政が行っていたものも、分野によっては「市民」の手に移ってきている、というような見方ができそうであるように思える。しかし、この「市民行政」という言葉も残念なことに規範概念として松下は語っている。実際に具体的な議論としてこの「市民行政」の内容に言及している例をみると、「コミュニティセンターの運営」「老人介護」の話程度にしか展開されていない。「ゴミ収集」の話なども言及はあるがいかにも無理やりな感がある。これらは本当に「行政への関与」と呼べるような分野といえるのであろうか?少なく見積もっても、この「市民行政」の分野においては、何らかの行政的な「決定」に市民が関与するような場所はどこにもないだろう。何故なら、市民行政の分野が、松下の言う「自由の王国」にしか存在できず、そのために「エゴイズム」とも無縁の世界であるはずだからである。言い換えれば、「エゴイズム」が存在しないのは、そこに何らかの公共的な「決定」を伴う事項が含まれていない、ということである。そのような「決定」はあくまで自治体の領分として残り続けるのである。

 

○職員による「調整」は統治論ではないのか?――ネオリベラリズムと松下の関連性について

 

 そしてこのような解釈をした場合に直ちに出てくるのは、このような「行政職員」と「市民」の関係は、松下がコテンパンに批判していた傲慢な行政職員そのものとならないのか?という点である。

 

自治体職員は、国の職員とおなじ今日も身分としての「役人」意識どまりになり、市民とヨコに共感する市民意識を自立させていない。国だけでなく自治体の職員も、現在なお市民を「育成・指導」するという官治型の考えにとらわれている。」(1987:p171)

 

「市民活動も、今日では、シビル・ミニマムの「量充足」から「質整備」の段階へのあらたな飛躍をめざして、ナイナイづくしのときには不可避だったモノトリ型を終え、環境の質を問うとともに、地球規模のひろがりをもって、たえず動いています。

 自治体職員のなかには、市民参加をスローガンとしてうたいながら、最近では「支援」という名でいわゆるNPOをふくめて市民活動を行政にいかに取りこむかという考え方をとっている方もおります。これは不可能なことをお考えになっているといえます。市民活動では、市民の文化水準がたかまり、余暇と情報がふえた今日、誰もが、いつでも、どこでも、動いていきます。そこでは、行政職員が予測しない、かつ行政職員の既成水準をこえた問題提起がつねにおこなわれてきます。」(1999:p47)

 

 この議論はかつて松下自身が「教育」という言葉を用いており、ここでいう「行政職員」と同じことをしていたと考えると自己批判をしているようにも見えてしまうが、それは置いておくとしても、「決定主体」であることについてはどうあがいても行政職員と市民は「非対称」であり続けてしまうのである。

 だからこそ、行政職員に対する「市民理解」について徹底させ、「対称化」することが図られるのである。しかし、松下が「対称性」をタテマエとした上でホンネでは「非対称」であると認めているとしても、その「非対称性」について明確に位置づけていないことについてはやはり問題ではないのかと思うのである。次のような主張においてそれは顕著に現われる。

 

「個々の行政職員と個々の市民の関係は、すでにオカミ対庶民という身分上下ではありえない。相互に「市民」ついで「勤労者」として、まず、平等である。それに、「職務」についても、市民、行政職員それぞれに職務の専門家だから、ここでは対等である。

 ただ、行政職員においては、その職務が「公務」であるかぎり、くりかえすが、つぎの論点をもつ。

1.行政機構は、市民の代行機構であり、職員の給与・職務は市民の税金でまかなわれる。

2.行政職員の制度的雇用権者は長だが、政治的雇用権者は市民である。3.行政職員も、行政機構をはなれれば、本来的に市民である。

 以上の三点から、オカミ、エリートあるいは専門家という、行政職員の特権性はうしなわれてしまう。むしろ、市民にたいする職務の責任が加重されているといってよい。それゆえ、まず、市民と行政職員との、「市民」としての同質性、いわゆる市民連帯から出発したい。そのときはじめて、行政機構の対市民規律が、出発点をもちうることになる。」(1991:p265)

 

 ここで致命的に重要な「決定主体」の違いに言及しないで、「非対称性」について無自覚にさせようとすることは、「決定主体」について「市民」側に移行することこそ「対称性」に寄与しうるという可能性の検討を放棄することに繋がっているのであり、言い換えれば市民側の十分なエンパワメントについても否定してしまわないか、と考えてしまいたくなる。

 ここまできて過去のレビューでも見てきた松下の議論と「新自由主義ネオリベラリズム」の思想との類似性を改めて議論せねばならないだろう。結局このような考察により、ほとんど松下は「ネオリベラリズム」の議論との差異について語ることが実質的にできていないことが明確になってくるのである。

 確かに先行研究においても、松下の議論とネオリベとの関連性については複数指摘されてきた点であった。例えば、諸橋卓は次のように指摘する。

 

「こうした論理を反映して、松下は、1970年代後半の経済低成長の原因について、大企業中心の経済成長に「革新自治体なり市民運動がブレーキをきかせたからこそ低成長になった」とさえ述べている。また、中央政府の政治権力のイメージを極小化し、たとえば行政による社会教育を批判したことなどは、むしろ1980年代以降の「小さな政府」・新自由主義路線と親和的に見える。最近でも松下は、財政再建に消極的な自治体が財政再建団体に転落した場合は自治体の責任だけでなく市民 の責任でもあるとさえ述べており、国家権力の責任という観点を捨象してしまっている。この点も近年しばしば「地方切り捨て」と批判される新自由主義路線と類似している。このように、松下の「分節」レベルにおける「自治」(=自己権力=自己責任)イメージは、同家権力をもってなされた現実政治の展開、とくに現在まで続く新自由主義路線に対する批判を鈍らせたと言えるだろう。(諸橋卓「60年安保以後における「戦後民主主義」思想の展開」2009, 「北大法政ジャーナル」16号、p103  URL: https://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/handle/2115/42581

 

 また、趙星銀は、藤田省三と比較しながら、松下の市民運動論に対して、「NPOを中心とする「市民社会」が、政府の補完機構、とりわけ新自由主義的な路線に立脚した小さな政府の補完機構として機能する側面を露呈したのである」と評しており(趙「「大衆」と「市民」の戦後思想」2017,p329)松下的な市民運動論の理解が新自由主義的な勢力に抗する力がないのではないのかと示唆している。

 

 更に功刀俊洋が他の論者に対して評したこのような議論もそのまま90年代以降の松下の「革新自治体」に対する解釈にあてはまることがわかる。

 

「本論の目的からはずれるが、土山(※希美枝,2007)の革新自治体理解は狭すぎるように思う。土山は、戦後期の革新自治体の最大目標が地方自治自治体改革にあったというが、それに限定し過ぎて9条平和、社会福祉、さらには革新政権の実現という目標(期待)があったことを軽視してはいないか。その限定の結果、「革新」という学術用語が戦後史の時空から超越して、つまり歴史的内容を喪失して、「開拓」「改革」「先駆」と同義になっている。それでは、住民の社会権的人権より自治体経営の効率を優先しがちな新保守・新自由主義の「改革」と1960~70年代の革新自治体とを区別できなくなってしまう。地方自治体が都市政策の主体へと自立していくうえで、革新自治体が大きな役割を果たしたのは土山の主張のとおりだが、その役割は「保守・革新の対立とかかわりない自治体改革」だったのか。革新自治体が戦後革新の理念から自立・超越したから革新らしい都市政策が展開できたのか。そうではなく、革新首長は「反自民」「反独占」「反安保」という戦後革新の立場に同調したから、保守中央政府が大企業本位の経済成長政治に固執していたことに対抗して、それでは解決困難な公害・福祉政策に着手できたのではないか。また、革新市長が地域開発に民間開発企業の協力を求め得たのは、「企業に従属しない=住民本位」の立場で、民間企業の活動を規制できる「革新自治体の時代」を国民の世論と運動がもたらしたからだろう。」(功刀「革新市政発展前史 : 1950~60年代の社会党市長(1)」2008,p131-132,『行政社会論集』第20巻第2号)

 

 松下の議論においては確かに「オカミ批判」という形で常にネオリベ的態度に対する批判的態度が存在するはずであった。しかし、松下の『教育』に与えた批判が歪んでいるがゆえ、松下自身がやはり「教育」に加担し続ける立場であることに無自覚であり続けたことで、ネオリベ的勢力と「共犯関係」にあることを否定することは不可能であったといってよいように思う。

 実際、諸橋卓の論文は松下圭一から直接資料提供を受けていたらしく、松下自身も「新自由主義との親和性がある」という批判の存在について認識していたはずである。にも関わらず、最晩年の2012年の著書においても、このことに対する応答は存在しなかった。このような疑義が与えられてしまうことは、松下の理論を根底から覆しかねないにも関わらず、何故松下はこのことについて弁解することがなかったのだろうか??

 

 ここからは多分に推論であるが、この理由についてヒントになりうるのはその2012年の著書で語られている松下の「ポスト・モダニスト」に対する理解であるように思える。

 

「ところで、イズム関連でワカラナイのは、思想・理論をめぐるポスト・モダニズムという言葉である。一時、流行したのだが、私にはわからなかった。ヨーロッパ系言語では「モダン」は一語しかないが、日本では「近世」「近代」「現代」という、よくできた三語である。そのとき、「モダン」の元祖とみなされていたデカルトは、私からいえば、「近代」以前の「近世」バロック段階である。ヨーロッパの「近代」思想・理論はロックにはじまる<啓蒙哲学>からである。ルソーやカントなどはその系譜にあたる。《現代》の思想・理論は二〇世紀以降、近代の「主観・客観」の認識二元論の崩壊にともなう相対・機能理論、ついで近代の「国家対個人」という社会二元論の崩壊にともなう多元・重層理論の登場にあると、私は位置づけている。

 とすれば、ポスト・モダニズムという考え方が自壊するのは当然であった。いわゆる<近代>の位置づけについての再検討が、日本の理論家たちでいまだまとまっていないのである。」(2012:p19-20)

 

 ここで松下がはっきり宣言しているのは、ポスト・モダニズムが二項図式に執着する勢力であるが、むしろ時代はその二項図式から離れていっているのであって、そのような思想に対してほとんど無意味である、という見解である。

 このようなポスト・モダニズムの見方自体は竹田青嗣のレビューでもみたように、あながち間違いともいえない。しかし、このようにポスト・モダニスムを安易に一蹴してしまうのはポスト・モダニズムに対する無理解から来る見解ではないのかと思う。フーコーなどを読んでいてもそう思うが、ポスト・モダニズムの勢力もまた二項図式とは違った志向を目指していたとも言えるのでないのかと思う。しかし、その努力にも関わらず、得てして二項図式の構図にすべり落ちてしまうように見えているからこそ、このようなポスト・モダニズムの総括がなされてしまうのではなかろうか(少なくとも竹田の総括の仕方はそう感じた)。さて、松下はここで自分は二項図式から外れた思考ができるものと確信している節があるが(※3)、本当にそう言えるのだろうか?

 実際の所、「多元・重層」的であることを志向するだけでは二項図式から外れたことにならない。まずもって、「イズム」との関連でいえば、これは「プルーラリズム多元主義)」との違いを説明しなければならない所だろう。

 

 また、私が見る限り、松下はかなり重度のポスト・モダニスト的観点を持っているように思えるのである。これは、「規範概念」なる、存在不可能なものと定義したものを繰り返し用いている点において、相対主義の極に存在すると言ってよいからである。更に言えば、通常のポスト・モダニストと比べた場合(私はデリダとの対比を想定しているが)、松下はその「規範概念」を実態と混同し「段階論」として形づくっているという意味で、虚構をそこに上乗せしている分「悪意」があるものとみなすことができるだろう。

 このようなポスト・モダニズムに対する無理解的態度がそのまま「ネオリベラリズム」という言葉の理解にもあったのではないのか、というのが、松下がネオリベ加担であるという指摘に応答できなかった最大の理由なのではないのかと思うのである。自分自身がそのような立場に加担するような前提に立っていないことを確信していた、ということである。何故なら、松下の主張の根底では、ネオリベ言説と逆のことを言っているからである。しかし、松下の議論はポスト・モダニズムの議論と同様に「すべり落ちる」形でネオリベ言説と合流してしまっているのである。

 

○何故松下は存在しない「市民」に囚われたのか?

 

 この3つ目の問いについては、松下自身の信念として、次のような主張をしていることが重要になってくるだろう。「規範概念」に対する考え方として、松下は次のように述べている。

 

「だが、この「市民」は永遠に現実とならないため、つねに未完にとどまる規範概念です。都市型社会における「市民」の位置づけがここで私なりの決着をみました。つまり、かつての「財産と教養」をもつ名望家ないしブルジョアという歴史階層としての市民とは区別して、マス・デモクラシーの論理をふまえた「普遍市民政治原理」をたえず想起しうる現代市民を設定したのです。

 この「市民」という規範人間型を前提としないかぎり、「愚民」が前提では民主政治という考え方自体がなりたたないではありませんか。だが、市民は、夢のような「理想概念」ではなく、考え方の枠組としての「規範概念」です。しかも、政治のマス化つまり大衆政治がはじめて、この現代型の市民をうみだします。」(2006:p54)

 

「私があたらしく定式化する「都市型社会」、あるいは「市民」「自治体」という言葉も、当時はいまだ未開拓の理論フロンティアというべき実状でした。政治についても、今日もつづくのですが、憲法学のように戦前型の「国家統治」とみなし、その対極である「市民自治」からの出発はいまだ考えられてもいなかったのです。 

  このため、当時、私は新しい思考範疇として、一九六〇年前後から「地域民主主義」「自治体改革」、一九七〇年代には「都市型社会」「市民自治」「シビル・ミニマム」などといった言葉を造語していくとともに、市民、市民活動、市民参加、市民文化、ついで自治体といった言葉についても、都市型社会という新文脈で理論化していくことになります。新しい文化には新しい言葉が必要となるからです。日本にとって、「市民」という問題設定がいかに画期性をもったかが、御理解いただけるでしょう。」 (2010:p212) 

 

 このような言明を見る限り、松下にとって「新しい考えは新しい言葉」に生まれ、その言葉をもとにそれが波及していくことこそが文化を作っているものだと本気で考えていたのだといえるだろう。いくらそれが虚偽になる可能性が孕んでいても、それを語り続けなければ現実にならない、だからそれをそのまま語り続けることこそが正しいことだと考えていたし、逆も真で、そうでなければ、その新しい文化の成立はありえないとさえ考えていたのである。松下が奇妙な言説を繰り返した理由はこれで十分説明がつくだろう。

 しかし、このようなことが本当に真であるのか、ということは議論されるべきである。松下はこの議論を正当化するために、あらゆる「理論」を否定してきた。むしろそれは「すべての理論」に対してとさえいえる。これは「学者」の批判に典型的であったし(※5)、それが転じて「官僚・行政職員」といった「オカミ」批判、さらには「教育」に対しても批判的な態度をとる原因となった。それは、理論というのが常に「硬直化」しうるものとみなされていたからである。

 

「この意味で、代替理論・政策・要因ついで政府をたえず用意するのが、歴史に学ぶ市民の政治智慧である。のみならず、政策が構造改革・計画というかたちで「予測と調整」となるかぎり、未来を複数化して、長期の展望をゆたかにするためにも、社会科学ないし政治構想の複数性は不可欠である。とくに御用理論・流行理論はたえず画一化するので、一時の画一をこえ、長期の批判にたえうる代替理論が、複数で準備されることが必要である。」(1991:p279-280)

 

 そして、松下が理想とする「市民文化」なるものはもはや理論化が不可能なものとして位置づけられていた。この議論は初期には「子ども論」とも関連させつつその自由さが議論されていたことにも注目すべきだろう。

 

「都市・農村をとわず、市民活動は無限の可能性さらに想像をこえる多様性をもつため、単純に、あるいはキメツケで、行政が理論化、法制化を考えることはできません。《市民活動》はたえず創造性がわきでる、しかも地域個性をいかしながら、市民相互の自由な自治ネットワークを、多元・重層型にかたちづくります。 

  この市民活動ないしミニ自治の領域は、法律はもちろん条例をふくめて「法制化」になじまない、それぞれ地域個性をもつ市民の自由な〈自治空間〉です。官僚や学者が一義的に、中世モデルのコミュニティ、あるいは近代モデルのアソシエイションといったかたちで、それもカタカナで概念化することに私は反対です。」 (2010:p12) 

 

「テレビだけでなく、学校でのツメコミ教育をふくめて情報過多だが、体験の宝庫である地域社会は崩壊しつつある。そのため、知力と体験との分離がすすむ。この点、大村虔一「都市と遊び場」の発言が示唆的である。都市の子供は遊ぶところもなくテレビにかじりつくが、ある先生の話では農村の子供も遊ばない。子どもが裏山などで遊ばないのは、昔のようにたき木をつくる必要がないため大人もはいらず、山はたんなる景観になってしまったからであろう。「大人や遊び仲間の行動を見ながら〔子供は〕その感覚をみがいていくものらしい。子ども社会を形成していた遊び仲間がなくなり、そんな場で身近な仕事をする姿を見なくなって、子どもは草花や虫や魚が自分とどんなかかわりを持ってるのかがわからなくなってしまっているのだろうか」。大村自身も、七五年以来世田谷区での冒険遊び場づくりを試行する。

 私たちはここで新しい文化の形成の原点をみつけることができる。つまり各世代間の個人としての自由な交流による、まず地域での市民文化の形成という視点である。それは、当然、行政依存ではなく、市民自治を土台とする自治体レベルからの政治の再編につながる。

 夏には、観光地に若ものたち、それに子ども、大人もあふれる。だが目にケバケバしい、耳にガンガンなる観光地のあり方が、市民文化を形成しえない日本の文化荒廃そのものの象徴であることを、私たちは認識したい。」(1980b:p206-207)

 

 このような観点から言っても、市民をめぐる議論というのは、松下にとって理論化できないという意味で「回避されるべきもの」として位置付いていたにちがいない。80年代以降の松下の市民自治の議論というのは、段階論的な「自由の王国」の獲得と共に、その具体的議論を行うことが、あらかじめ否定されることとなったのである。70年代に「シビル・ミニマムの量充足」の議論で失敗したことと同じように、80年代以降「住民自治」の議論に対して更に不可解なものとしてしまった、と言ってしまってもよいかもしれない。

 

 以上の松下の問題点を簡潔にまとめるならば、結局ヴェーバーが「理念型」を用いるように、理想概念を議論することは問題ないし、それを否定する必要はない。しかし、この「理念型」を盾にして既存の議論の否定を始めてしまった時にそれが矛盾した態度として現れてしまうのである。「新しい概念は既存の概念に取って変わるべきである」と考えるとき、松下は既存の概念をほとんど無根拠に批判することによってしかそれを行うことしかできなかったのである。そこが松下の最大の問題であったといえる。

 

 

 

※2 しかし、このような態度を取り続けることについて、特に00年代に入ると松下自身が耐えられなかったらしく、結局「市民」自体がナマケモノであることについて明言するようになっている。

 

「そのうえ、ナマケモノの市民が多いところでは、(1)と(3)の意義が忘れられ、(2)のシビル・ミニマムの量肥大となり、そのコストについての市民負担も加重することになります。市民参加と行政肥大とは反比例の関係です。「市民行政」の強化こそが「職員行政」の縮小となります。」(2005b:136)

 

「市民はその〈必要〉によって政府を「組織」し、この政府はまた市民によってたえず「制御」されます。そのうえ、市民活動が活性化すればするほど行政は縮小するというかたちで、市民と行政の関係は〈協働〉どころか、〈対立〉の緊張にあります。市民がナマケモノなら職員は増え、逆に、市民行政の独自展開は職員行政を縮小させます。」(2006:p166)

 

 このような後進的な自治体の責任論というのは、90年代までは、「居眠り自治体」と「先駆自治体」の対比から議論されていたのである。ここでいう「居眠り自治体」を問題とする訳だが、その問題の責任主体については明確に「市民」にとは語っておらず、むしろ「市民ではないもの」として語られていたのである。

 

「私は、この自治体間の〈不均等発展〉をむしろ拡大すべきだと考えている。この不均等発展が拡大し、「自治体間比較指標」の作製によってこの格差が指数としてもはっきりすれば、そのとき居眠り自治体は市民から批判を受けるからである。

 この不均等発展が広がれば、居眠り自治体も先駆自治体とおなじく、国の省庁ないし国会議員への依存体質から脱却せざるをえなくなる。国の省庁ないし国会議員からの特別支援はいわゆる政治腐敗につながり、その自治体の政策水準をますます低下させるという実態がはっきりしているからである。」(1994:p424)

 

「この意味で、自治体計画をつみあげ、職員による政策・制度の開発に習熟して、行政水準のたかくなったパイオニア型の自治体を「先駆自治体」と位置づけ、在来型の「居眠り自治体」と対比する段階となっているのではないでしょうか。いわば、この先駆自治体は市民参加・職員参加による自治体計画を基本に自治・分権政治をきりひらいていく自治体です。居眠り自治体は明治以来の官治・集権政治にみずからをとじこめて国の施策基準どおりにおこない、市民にたいする責任をとらない自治体を意味します。」(1996:p82)

 

※3 次のような主張をしていることから、彼自身は「イズム」の思想から無縁であることが可能だと考えていたとみてとれるだろう。

「二〇〇〇年代、自由・平等、自治・共和という、《世界共通文化》としての普遍市民価値原理が地球規模でひろく定着する今日、かつてはイズムにたてこもって相互に対立してきた党派主張をたえず相対化して、「共通用語」による普遍市民価値原理ないし普遍規範性を共通理解におき、主義、主義というこれまでの時代を終えさせていきたいと、私は考えている。」(2012:p18-19)

 

(2019年2月9日追記)

※5 松下の学者批判は文字通り「全方位的」である。そしてその批判の妥当性については、「社会教育の終焉」のレビューの際に、『教育』について曲解していたのに象徴されるように、妥当性のある批判を行っているという保障は全くない。悪く言えば、その学者の「理論」について、「権威的」であるという点だけを強調し、生産的な議論を行おうという勢力の主張については、「言葉遊びに過ぎず、その権威性を押しつけるための言い訳」であると一蹴するような態度を取り続けている、と言えるかもしれない。

 

「現行制度は、その理論化としての既成憲法学・行政法学とともに、本来的にまだ明治憲法型のままにある。この明治憲法型の制度運用それに職員意識が今日も根づよくのこり、戦後の保守・革新もこの考え方にもとづいてきたのである。保守・革新を問わず、既成憲法学・行政法学は、《国家統治》を中核として構成され、国家主権観念に閉じこめられていたのである。」(1987:p171) 

 

「二〇〇〇年分権改革の今日でも、政治学者、行政学者、あるいは憲法学者行政学者も自治体が独自の法務政策をもつとは想定していないと行ってよいでしょう。とりわけ、官僚法学ないし演壇法学の発想もつよい法学者は、自治体の職員のなかに法務要員が輩出するとは考えず、「わからなかったら聞きにこい、教えてやる」とおう態度を、つい最近までとりつづけていたといっても過言ではありません。それどころか、日本の法学者は、政治学者も同じでしたが、自治体レベルの政治・行政の現場経験もほぼ皆無でした。」(2005b:p217) 

 

「さらに、政治評論家、ジャーナリスト、あるいは政治学者、行政学者、また憲法学者行政法学者、ついで財政学者、会計学者も、この日本の崩壊状況への理論対決がいまだにできない。今日あるように明日もあると考えているのだろう。これを《市民》としての怠惰、ついで無責任という。」(2012:p235) 

 

「このような問題状況にもかかわらず、二〇〇〇年代の今日、日本の理論家とくに政治学者がこの構造変動ないし日本再構築をめざした政策・制度改革の的確な構想を提起できなくなっています。いわば、日本の理論家ないし政治学者は政策・制度型思考に今日も習熟しえないという欠陥をさらしているというべきです。」(2006:p90)