E.H.キンモンス、広田照幸ら訳「立身出世の社会史」(1981=1995)

 今回も「日本人論」として「社会問題」を扱った著書のレビューを行いたい。

 

 本書は、明治から昭和初期にかけてのエリート層の青年(高等学校進学者)向けの雑誌の言説分析を中心にして、「立身出世」の意味合いの変化について捉える中で、現在の「日本人論」に対する批判を行っている。

 その中で中心的なテーマの一つといえるのが「個人主義」的な思想の受容と形成である。その足掛かりとしてまずスマイルズやマーデンのような「国や集団の利益のため」といった動機付けではなく、個人の「立身出世」を説いた本が広く読まれていた事実に着目する(p12)。ただ、キンモンスはこの段階においては個人主義的なものを認めている訳ではない。明治初期のエリートにとっては一旦試験制度を乗り越えてしまえば若くしてリーダーになることを自動的に約束されていたため、個人主義的発想というのは意識化する必要のないものであった。

 

 しかし、主に2つの事情が明治後期になって日本的な個人主義的な思想を生みだす要因であったとキンモンスはみている。一つは「国や天皇への献身」の思想である。このことは明治初期にはほとんど議論の遡上に挙がらなかったが(p74)、それが強化されるのと並行しそれらが「古い社会とのつながりを断つことを正当化する」ものとなった(p298)。

 もう一つの理由として、明治後期に入り、そのエリートとされる者の対象が拡大したことを挙げている。この段階に入ると、より上の学校、そしてエリートとしての就職先で受け入れられるパイの数とのミスマッチが生じてくることになり、脱落者が可視化されてくる。このことへの重圧(実際に脱落することと、脱落するかもしれないという可能性の両方を意味していると思われるが)というものにぶつかった煩悶青年に、キンモンスは「個人主義」を見出している(p302)。これは、これまでのレビューで扱ってきた「個人主義=『世間』からの解放過程」という見方とマッチしたものでもある。

 

 だが、このような個人主義の思想は、日本には浸透しなかった。その原因としてキンモンスは早熟な日本の官僚制的資本主義を挙げる(p304)。ある意味でエリートが自由にその「立身出世」を行うことができていた時期は日本の場合、かなり限られた時期にしかなく、早い段階で「敷かれたレール」に沿った「立身」がなされるようになったことで、個人主義的な傾向の強かったスマイルズ風の品行主義が、他人のご機嫌をとる作法を身につけるのに専心する人柄主義にとって代わったのであった(p25,p294-295)。

 

 

○キンモンスの「日本人論批判」の評価について

 

 これまでのレビューとの関連で言えば、江藤淳も指摘していたような、日本でもありえた個人主義の系譜を捉えようとした所は本書の大きな価値であるといえる。また、丸山真男の日本のエリート層の戦争受容の指摘についても、実際はかなり功利的な受容をしており「受動的な抵抗」があったとは言い難いことや(p4,p310)、江戸時代からの封建主義が明治以降のエリート層に与えた直接的影響の否定(p294-295)といった日本人論批判は、ダニエル・フットが述べていたような文化的影響だけに着目した日本人論への批判とも関連しているといえる。

 

 ただ、他方で、本書が批判する日本人論はかなり部分的であり、ほとんど「日本人論」そのものを否定しているとは言い難い。一見、「近代化」論的に議論するキンモンスだが、それはあくまで伝統的な日本文化との関連性からしか結びついておらず、通常の近代化論者が否定するような「特殊日本的な事情」と呼べるレベルの日本人論はあまり否定できていない(cf.p304)。

 また、これに関連して「参照点」として、本書で見た官僚制的資本主義の議論を変える余地のあるものとしてとらえている節もあるが(p305)、これはある意味で不平等の強要でしかなく、民族性等における問題を相対的に抱えてはいなかったと思われる日本社会において、「エリート対象者の拡大」という現象を政策的な意味で防止できたものであったものとみなすことにはかなり疑問もある(少なくとも、別の検討が必要な問題である)。

 更に、これまでのレビューとの関係でいえば、本書における「社会問題」の把握の仕方にも注目しなければならないだろう。言説分析固有の問題とも言えるだろうが、「対象としたものに言説が存在しない=実態が存在しない」ことを真とみることには注意を払うべきである。本書では試験への重圧の議論(p131,p197-198)で、少々過大評価をしているような印象を受けてしまう。また、藤村操の自殺について(p190)は極めて社会問題的な観点をもっており、合わせて新聞をはじめとしたジャーナルの分野の発展といった観点も含めながらその位置づけを行っていく必要があるだろう。

 

 本書については「日本人論」の話もそうだが、因果関係についての捉え方が複雑となっており、一貫した内容の説明にあたり矛盾しているように見える部分もある。特にナショナリズムに対する物事の捉え方がすっきりしているとはいえず、それは「家族主義」を「共同体意識」とは別物として捉えること(p74,p75)や、タテマエ的に「国家主義」が語られること(p74,p128)は、本書で強調されるように明確なものなのか疑問に思われる所であった。70年代の「穎才雑誌」の分析結果はp79に示されており、量的傾向もここから確認されるが、「家に対する暗黙の関心があった」ことはとても読み取れないし、逆に単純に多数の者が「国家との利益」について関連づけて語っていないことが直ちに国家主義との関連の否定になるのかも読み取れないのである。本書は確かにかなり細かな実証研究として位置づけることができるだろうが、それでもなお「解釈」に依拠している部分がある印象も見受けられるのである。

 

 

<読書ノート>

 

P4「日本の中国侵略によってもたらされた好景気に対する学生たちの反応を伝える史料は、エリート知識人層は軍国主義ファシズムに「受動的に抵抗」した、と主張する丸山真男たちの見方とは異なる実相を示している。当時の就職に関するさまざまな記録を通覧していくとわかるのは、侵略に関与したり、侵略から利益を享受していた組織や企業への就職を、大学卒業生がいやがったという証拠がどこにもないということである。むしろ全く逆である。日本のアジア侵略に深く関与していた満鉄や、さまざまなシンクタンクは、当時のエリート学生にとって最も人気の高い就職先であった。

さらにもっと驚くべきことは、日本の軍国主義ファシズムの社会的基盤であると一般にいわれてきた旧中産階級が、概して日本の侵略行動から利益を得ていなかったということである。「満州国」における受益者は、もっぱら日産のような高度な技術水準をもった企業体に限られていた。」

P4-5「それゆえ、軍国主義が生み出したのは、小ブルジョアの歓迎する状況ではなく、大学教育を受けたテクノクラートに権力を与える状況であった。一般にこの時代を語る時には、「八紘一宇」や類似のスローガンが持ち出されやすいけれども、実際には、「統制」や「計画」といった語のほうが、キー・ワードとして、もっと流布していた。

さらにいえるのは、この時代の政策や制度は、ある意味では社会主義的な色彩のものであったということである。日本の研究者は往々にして、日本の軍事体制のこの社会主義的性格を無視してきた。私の研究から言えることは、社会主義ファシズムとを対置させる分類法は、特に日本の場合、あまり有効な枠組みではないということである。もっと有効な枠組みは、テクノクラートが権力を握って、国家目標のために規則や命令を出して市場経済を否定する体制と、資産家が主導して、自分も利益に向けて市場原則を利用しようとする体制との区分である。」

※これをどう見るか。

 

P6「もし日本の軍国主義ファシズムの興隆を「封建遺制」が日本よりももっと根強く残った英国社会が、なぜ軍国主義ファシズム国家にならなかったのかという問題に突き当たることになる。おそらくこの答えは、二〇世紀の日本には重大な意味を持つ「封建遺制」は存在しておらず、そうしたものは軍国主義ファシズムとは関係が無かったというのが正しいように私には思われる。

日本の「封建遺制」を他国と比較するという試みがうまくいかないのは、日本の学問が持つ欠陥に由来している。それは、イデオロギー的関心から構築した一面的な「日本」像を、理想化・偶像化した「欧米」像と対置するというやりかたで、日本の歴史や社会を批判するという方法がもつ欠陥である。」

※少なくとも、日本だけの責任とは言えない。

P12「問題があると思えたのは、たとえば、明治期の企業家は、個人の利益よりも集団にとっての利益よりも集団にとっての利益の方に動機づけられていた、という説明である。それは、次のような、ステレオタイプ化した考えと密接に関わっている。西洋では、あるいは少なくとも英米では、個々人の競争を中心とし、自分の利益の最大化だけに関心を払った出世や業績、という考えや著作の伝統があり、対照的に、日本では、調和や集団的努力や、集団に利益が強調される伝統があった、と。

しかしながら、もし、スマイルズの『セルフ・ヘルプ』や、マーデンの『プッシング・トゥー・ザ・フロント』のような、立身出世を論じた英米の古典的著作が、どちらも近代日本で大人気を得たことを考えるならば、英米と日本の相違点は、少なくとも強調されすぎてきたことがわかる。もし言われるとおりの相違があったならば、これらの本は当時の日本人に理解されなかったか、あるいは非常な怒りを呼び起こしたはずだからである。」

 

P69「スマイルズは、ワット、ニュートン、スティーヴンソン等を忍耐の例として用いたことは確かであるが、彼は、単にこつこつと勉強することの利点を強調するのではなく、技術上の発見や革新には時間がかかるというこちを言いたかったのである。

ところが、明治の青年にとって、少なくとも『穎才新誌』に作文を投稿する者にとって、重要なことは発見でも科学的方法でもなかった。そうではなく、ゆきつくところは、富貴、賢人と愚者といった決まり文句であった。」

P70「こうしてみると「勉強」という語の普及の原因は、おそらく『西国立志編』にあるのだろう。なぜなら、その語は、明治初期もしくは江戸時代の書物のどれよりも多く、『西国立志編』に登場するからである。とはいうものの、学生の作文における「勉強」の解釈は、『西国立志編』に登場するからである。」

P74「明治初期には、「まず個人が立身出世をとげ、つぎに家族の地位を高め、ひいては国家の向上に及ぼしていくべきである」と「よくいわれていた」と考えられているけれども、『穎才新誌』の作文に登場する一九七〇年代の青年の大多数は、実際にはそのような議論はしていなかった。なぜなら、彼らは国家利益を論じることはなく、また、「共同体志向」もなかった。とくに、青年たちは、地域社会に役立つことには、全く関心がなかった。」

※ここで穎才新誌の読者層の半数が士族層だったとされることも合わせて注目すべき点(p64)。だが、「個人の行為を国家利益に結びつけようとする作文は、二〇%にすぎない。」としており(p74)、これをもって「国家利益を論じることはない」といえるかは疑問である。

P74-75「『穎才新誌』の作文のうち、個人が成功したことの恩恵をうけたものとして家に言及しているものは、一〇%程度に過ぎなかったけれども、日本において家の果たした役割について考えれば、他の多くのテーマも、暗黙のうちに家に関連していたとみるのが合理的である。立身し、家を興すことで「先祖になる」という観念のために、青年は大いに自身の出世を追求しようとした。青年の作文には、学問をしない者は富貴を得られないばかりか、家に恥をぬり厄介をかけることになるという警告が頻繁に出てくるが、その背後に、家に対する暗黙の関心があったことがわかる。」

※これは共同体志向と異なるのか??

 

P113「合衆国においては、青少年たちを都市生活や近代社会の要求にこたえるべく社会化するため、小説が重要な役割を果たした。例えばホレイショー・アルジャーの一連の作品は、その筋書きの魅力を別にしても、有用な情報が満載された都市生活ガイドであったといえる。これに対して日本では、東京においていかにして成功するかという問題を扱った教訓書・指南書には、小説の形式をとったものはほとんどない。このような両国の差異の理由は、日本の有識層に根強く存在した小説に対する偏見に求めることができる。アルジャーはハーバード大学神学部学士であり、逍遥は、帝国大学学士であった。両者ともに、小説の執筆に手をそめた。このことにより、逍遥は、学士の堕落として、多くの同時代の非難を浴びた。しかし、アルジャーの仕事は、そのような批判は受けていないのである。」

P127「学生の作文においても、国家間の競争よりもむしろ個人間の競争を説明するために用いられており、学生の作文でもそれが踏襲されていた。そして、いかにして立身出世するかというポジティブな主題よりも、いかにして失敗を回避するかというネガティブな問題に対して、より多くの関心が払われていた。」

※「これは、一八七〇年代の『穎才新誌』に見出された、富貴のための忍耐という主題の変形であるといえる。」(p128)

 

P128「また、学生たちの最終目標が富貴である、という点は前の時期とは変わらなかったものの、それが「国家のため」なのだ、という考え方が以前より強調されるようになった。しかしながらこの変化を、国家に対する学生たちの関心の増大の結果であるとみなすことはできないだろう。なぜなら、「国家のため」という観念は、多くの場合作文の序文部分に短く述べられているだけであり、作文の全体的な内容は一八七〇年とはあまり変化していないからである。日本を一等国に、という彼らの願いはむしろ、自らの名望への野心と深く結び付いていたように見える。」

※1890年頃の話。

P131「さらに、試験制度が若者の精神を破壊するものであったとしても、当事者たちのほとんどはそういうふうに感じてはいなかった二葉亭の見解も時を経た後の回想を記したものなのである。多くの人間は時代の変化を歓迎し、試験制度に完全に満足していた。明治の一八八〇年代末から九〇年代初頭にかけての安定した社会秩序の時代においては、野心的な若者は皆単調で退屈な努力に耐えなければならなかった。しかし次の作文に見るように、立身出世を熱望する若者自身にとってはこの努力は決して無味乾燥なものではなかった。」

※社会問題への認知問題もあるため、なんともいえない。キンモンスも「苦学」をテーマにしたものがなかったわけではないが、主流ではなかったという解釈で語っている(p338)。同じく、「苦学という考え方が一九〇一―〇二年頃になって広まったのは、家庭が豊かでもなく、コネや旧藩からの援助も得られない層にまで、立身の夢が広まっていったからであった。」と述べている(p166)。

 

P182「すでにみたように、初期の『成功』におけるスマイルズ主義者の視野には、もともと国家主義的側面と社会改良的側面の両方が入っていた。しかしながら、日露戦争を転機としてそれ以後は、社会改良と独立国家建設に果たす自助の役割については触れなくなっていった。代わって、同じ自助という美徳が日本の拡大にいかに重要かが強調されるようになっていった。……

だが、日露戦争をめぐる見解の違いで重要なのは、自助精神を社会改良にどう適用するかをめぐっての相違だった。社会・労働運動家たちはもともと自助精神には価値を置いていたのだが、明治後期になると彼らの考え方はより精緻になり、単に道徳性の問題よりむしろ社会構造の観点から社会批判をするようになった。この批判は自助精神にたいする嫌悪につながっていった。たとえば、堺利彦は最初は青年に対して百万長者になることを志せと呼びかけていたが、後には成功ものを風刺批判するようになった。」

※『成功』は熱烈な戦争支持をしていた雑誌だった(p182)。

P183「『成功』がここで突然、人間は物質的報酬のみを動機にもつ存在だと主張したことは、読者の目には奇異に映ったに違いない。常連読者は富についての記事をいやというほど読まされてきたが、たとえそれが実業家を扱ったものでも、金儲けの動機をもった人物として描かれることはまずなかった。当然のことだが、社会主義からの批判を浴びるまでは、成功した人間の利益追求志向が取りだたされることはなかった。社会主義者との対立が鮮明になった時、『成功』は、金儲けの動機がないと社会が動かないと言うようになったのである。実は、サミュエル・スマイルズが描いた理想も利益追求以外の動機に動かされる人間だったが、彼は社会主義者に攻撃された時はじめて、利益による動機づけの価値を発見した。スマイルズ自身も、社会主義者にとっての嘲笑と皮肉の対象になっていたのである。」

 

P183-184「スマイルズ主義者が、社会改良に乗り出し、社会主義への対応を始めたのに対して、『成功』はもっと保守的な態度をとっていたといえるだろう。労働者や職人たちに対して自助精神をもって自らを向上させよと説くスマイルズの思想が説得力を持ったのは、個人の出世可能性と個人を抑圧する社会構造との関係が比較的希薄だったからである。一方、中等・高等教育を志望する青年に対して『成功』のような雑誌が説得力を持ったのは、逆に個人と社会構造との関連が明瞭だったからである。」

※ただ、ここでの意味合いは「人はその生まれに応じた地位で満足すべきであるという、スマイルズの時代に根強く存在した思想が、もし日本でも強かったとしたら、「苦学によって貧乏から金持ちに」というテーマは、進歩的な役割を担う主張になっていたであろう。だが、そうした強固な属性主義的思想は日本には存在しなかった。」としており(p184)、必ずしも「個人主義的思想」そのものの構造に帰する、という説明もあまり説得力がないように思える。

P190「普段なら、名も知れぬ青年の自殺などは近親と親友の悲しみを誘うだけで、おそらく新聞のいわゆる三面記事に小見出しで載るくらいのものだろう。しかし、藤村の場合はそうではなかった。彼の死は新聞の一面を飾り、当時のある識者によれば、それは満洲におけるロシアの動静に次ぐ扱いであった。まもなく、この事件は、詩歌、小説の題材として扱われるようになる。」

※煩悶青年という言葉が流行するきっかけとなった1903年の藤村操の自殺についての内容。

 

P193「煩悶青年の出現のついて、踏み込んだ説明を試みている歴史研究者は、家族の伝統的道徳観の崩壊、日露戦争以後の目標喪失状態、そして近代化の代償としての必然的な反動といった要因を挙げている。しかし、これらの仮説は原因と結果としての現象を混同している。煩悶青年の出現の原因はむしろ、高学歴青年の就職市場の変化によって説明されるだろう。この変化が立身出世をロマンチックな自己実現追求へと変えていったのである。」

P197-198「二〇世紀に入る頃になると、試験の重圧は二つの領域に限られていた。すなわち、旧制中学の定期試験と旧制高校への入学試験であった。しかしながら、ここでもまた問題が姉崎が指摘したよりはるかに複雑であった。どちらの試験も今に始まったものではなく、機械的な記憶を試すものでもなかった。……むしろ、どちらかといえば日清戦争以前のほうが、その直後に比べると受験戦争は激しかったのである。にもかかわらず、日清戦争以前には後のような青年の煩悶はみられなかったのである。問題は試験そのものや不合格率ではなく、試験そのものがどのような意味をもつようになったのかという点である。明治後期になると、将来の地位についての可能性が試験によって左右される傾向が、以前に比べてはるかに強くなってきたのである。かつての試験は、高等教育を受ける能力をもった、極めて限られた志願者から選抜していた。したがって、たとえ合格できなかったとしても、彼らはちょっとしたエリートの一員になれたのである。

二〇世紀はいると、高等学校志願者が急増したにもかかわらず高等教育の収容力が機械的に制限されていたことから、入学試験ではあふれた志願者を切り捨てるため、三日間にわたる選抜が行われるようになった。……いってみれば、試験そのものが苛酷だったのではなく、失敗とその結果押される二流の学歴という烙印、そして立身の可能性が少なくなることが重圧となっていたのだ。」

※煩悶がなかったは言い過ぎな気がするが。あくまでの「社会問題としての」煩悶である。何より過去の青年が「ちょっとしたエリートになれた」ことを示すエビデンスが示されていない。

 

P198「これらの試験に失敗した者にはいくつかの選択が残されていたが、それらはどれも心理的に重圧を伴うものだった。単純に立身をあきらめ故郷に帰ることもできたが、もし彼が地方の小さな村の出身だったとすると、それはかなり辛いことであったろう。彼らのような青年は村では少数であり、鳴物入りで故郷を出てきたから、村中に知れ渡っていたものである。……

もう一つの道は、面目無く故郷に帰るのではなく、富貴のための学問を捨て実業界に入っていくことであった。」

※この事情こそ、明治初期でも変わらなかったはずである。とすると、やはりキンモンスは「脱落した青年はいなかった」という見解を示していることになる。

P214「樗牛は社会や社会の諸慣習を拒否するまで極端に個人の欲望を肯定した。したがって、個人は自らの社会的地位を変えることができるという意味でのみセルフ・メイド・マンになるだけでなく、社会との関係を自分で定めるまでになった。彼が明治青年に示した徹底的な個人主義は、快楽主義や奇行までも含んでいた。樗牛が定義する個人主義は、かつて徳富蘇峰や明治初期の作家たちが考えていた、国家や社会の目的に奉仕するだけの個人とは違っていた。彼は明らかに違う世代の人間だった。……

ところが、樗牛は、立身の追求に重きをおく当時の社会的価値をきっぱりと拒否していたにもかかわらず、やはり彼自身は明治後期の社会が生んだ人間だった。つまり、彼の思想は自分自身の立身に対する欲求不満によって形成されたものであった。それが当時のインテリ青年たちの立身に対する不平にある解答を与えてくれたので、一般に広まっていったのだった。」

 

P228-229「出世に関する教訓が最も露骨に操作された事例は、豊臣秀吉に関する記述に見られる。第一期(※1904年)の修身教科書では秀吉は「立身」の手本として扱われ、「身を立てよ」の教訓を示すものだった。そこで彼は、有名になり何事かを成し遂げようとする願望を幼い時から抱く貧しい少年として描かれ、その目標を実現するために絶え間なく活動した人物として描かれていた。けれども、第二期(※1907年)の教科書で秀吉が言及されたのは、「志を立てよ」という教訓にかかわってであり、そこでは地位や名声ではなく、皇室の繁栄に貢献したという――いささか疑わしい――側面が強調されていたのである。このように第一期版では、彼の出世は能動的な活動を伴ったものであり、彼は「立身して」、「身を立つる」者であった。しかし第二期版では、彼の出世を表現する言葉は受動的なものとなり、彼は「引立てられ」ることになる。こうして、秀吉は、封建的権力と地位の頂点を戦い取った者でなく、あたかも忠誠の代償としてついに副支配人となる勤勉な商店員のような人物として描かれた。彼は、太閤秀吉ではなく、むしろ草履取の藤吉郎だったのである。……しかし、そこで指摘されていたのは、勤勉さ以上に、上役に媚びることが出世の手段だということだったのである。」

二宮金次郎も例に出される(もっとも、第1期と第2期の違いはないが)。

P230「日露戦争後の『成功』も、「出世」なしの「立身」という考え方を取り入れ、地方生活の喜びを賛える多くの記事を掲載している。当時のその典型的な論者は、安田財閥の創設者で、倹約家で知られる安田善次郎である。……けれどもこうした主張が、かつて海外への膨張主義喝采を浴びた時のような熱狂を引き起こすことはなく、読者からの投書の圧倒的多数は、非エリート的な中・高等教育を受け、ささやかな都市的「立身」を手に入れることを依然として望んだのだった。こうしたなかで『成功』の編集者は、「立身出世」のうちの「出世」を否定することが、この雑誌の主要な売り物――すなわち地方の青年に都会での成功の情報を与えることーーを否定することであると、はっきりと気づくことになる。したがって、一九一―年以降、この雑誌は地方での「立身」にはほとんど関心を示さなくなっていくのである。」

 

P251「このような他人志向的な道徳観のうちの一部は、おそらく日本固有の伝統に由来するものであったのだろう。しかし、こうした出版物の出現の原因を、日本的伝統のせいにし過ぎることに反論する二つの事実がある。そのひとつは、実業之日本社の出版物のいくつかがアメリカ人の著作の翻訳であったことである。アメリカでそうした出版物が生み出されていた背景には、官僚制的資本主義の勃興があった。けれども、それら日米の著作の相違点として指摘しておくべきことは、アメリカの場合に比べて、日本のものが他人志向的で人柄重視的な道徳観への移行をより早い時期におこなっていたことであった。上述の芦川が著書の前書きのなかで述べていたように、当時の多くのアメリカ人が人柄の重要性を指摘していたけれども、この問題について独立した著書をもつ者はいまだ現れていなかったのであり、芦川はこの問題に関する著作を、翻訳ではなく執筆しなければならなかった。事実、アメリカでこの方面の古典となる、デール・カーネギーも『実業における話術と影響力』が出版されるのは一九二六年である。すなわち芦川は、後にアメリカの出版物の主要テーマとなる「相手に自分を気に入らせる術」の問題をすでに一五年前に先取りしていたのである。日本の伝統に「堅固な個人主義」が欠けていたということはしばしば指摘されるが、そのことは雇用市場で人柄主義が求められるようになった際に、従来の品行主義に執着する者がアメリカほど多くなかったということを、せいぜい意味しただけなのかもしれない。」

P262「文部省の『年報』によれば、一九二二―二六年に、就職していない東京帝大卒業者の割合は四〇%に達し、法学部のみでは、その割合は八四%、特に一九二六年には一〇〇%になった。」

 

P267-268「そうした全体的な傾向の背後に、高等教育機関ごとのあるいは専門分野ごとの多様性が存在したことはいうまでもない。最も就職率が低かったのは、文学部であり、また当時「腰弁学問」と呼ばれた法律、経済学の領域であった。それらの分野の卒業生の就職率は、一九二三年の七二%から、二九年の三八%まで低下していた。他方で理工科系の卒業生は、同じ時期に就職率が八八%から七六%に低下したが、彼らは恐慌期においてさえも、文化系の就職率の最良の時期よりも恵まれた立場にあったのである。……

問題は、第一次世界大戦後の学生の大部分が、自らの選択の結果であれ、ないしは施設の不足の結果であれ、いずれにせよ就職の見通しの悪い領域に通学していたことである。」

P268-269「したがって、高学歴青年たちの状況を描写した当時の流行語、すなわち「大学は出たけれど」という言い方には、修正と限定が必要である。恐慌が最も深刻であったときでさえも、大学卒業者の全員が困難に直面していたわけではなかった。経済的な生産性の高かった専門分野の者は、恐慌の影響をほとんど受けなかった。この言い方が当てはまったのは、雇用市場の変化と産業化する経済にもかかわらず、あいもかわらず官僚機構での栄達を求めて、文科系の領域に進んだ者だったのである。さらには大学の学生だけをみたときに感じるほど、当時の高学歴青年たちが全体として危機的な状態にあったわけでもない。確かに恐慌の影響があったにせよ、中等教育ないしは中等後教育レベルの教育しか受けず、したがって、せいぜい下級または中級の管理職、ないしは狭い範囲の技術職としてに地位しか望めない人々は、エリート候補者に比べて、比較的に恐慌の影響を受けることが少なかった。」

高等遊民の正しい理解かどうかは計りかねる。

 

P294-295「しかしながら、立身出世を目指す武士とサラリーマンとの倫理上の類似性にもかかわらず、前者と後者の直接のつながりはない。ごくまれな例外――最も有名なのは福沢諭吉の著作だがーーを除けば、明治維新から日露戦争頃までの時期には、人柄や人間関係を立身出世の手段とみなすような文献はほとんど存在しない。二〇世紀初頃でも、人柄主義は何か疑わしいもので、それが持ち出された時には弁解が必要なほどだった。

このことは次のように説明されるかもしれない。かつての教育ある青年は、最初から人柄や礼儀についてのエートスをすでに教え込まれたような、狭い社会層からリクルートされていたため、それの重要性が強調される必要がなかった。それに対し、後の時期の高学歴青年は出自も広い層になったため、そういう教訓を必要とするようになった、と。確かにこの種の要因は、態度の変化に何らかの役割を果たしただろう。しかし次に述べる別の要因の方が、もっと重要だったように思われる。

国というものがそれを構成する個々人の反映であると一般に信じられていた間は、人柄主義を高唱することは知性的ではなかったし、ほとんど反逆的ですらあった。知識人やジャーナリストは、実業家よりも強くスマイルズの枠組み――品行主義――を固守した。」

※いかにもありそうな説明に対する批判。ここで品行主義とは「異形や立身出世は、何よりも個々人の品行にかかわる美質――努力、勤勉、節倹、忍耐、注意深さ、……――の産物であるとされ」、「品行主義は個人の外になにものもあてにしなかった」「品行主義は対人関係を無視する」ものであった。(以上p25)。

P295「そうはいっても、知識人でかつてはスマイルズ風の品行主義を称揚した人物たちも、人柄主義を唱えるようになったのを見ると、単に書かれたものの上で変化にとどまらない、大きな変化があって、それが価値や倫理の変化を起こしたのだということがわかる。

すなわち、業績から人柄への変化の最も重要な要因は、教育を受けた青年の就職市場の変化であった。明治の初めの青年は若いうちにリーダーになることが期待でき、彼ら向けの読み物はそれを反映していた。ところが明治末の青年になると、リーダーの地位に就くためには、雇われた先の要求に合わせていって何年間もうまくやっていくことが必要になっていた。」

 

P298「明治維新以前には、自我を否定する儒学の傾向に異を唱える余地はほとんどなかった。日本はルネサンス宗教改革も経験していなかった。変化しつつある当時の社会的慣習に合理的根拠を与えるような、唯一神と一人の人間とが固有の関係を取り結ぶという考え方は、存在していなかった。ところが、国や天皇への貢献が、古い社会とのつながりを断つことの正当化する、という考えが発展してくると、それは個人主義のある要素が強調され、受容される土壌となっていった。

P299-300「蘇峰によれば、明治後期の青年がそれ以前と異なるのはこの覚醒の点である。明治維新を担った人たちは自分を、独立した個人だとではなく国家の財産だと考えていた。利己的に行動した者もいたが、その場合でも、国家の利益には注意が払われていた。自由民権運動に身を投じた人たちも同様だった。個人は強調されたがそれは国のためであった。それは尊王攘夷運動の延長でしかなかった。対照的に、明治末の青年は自分のことのみ、自分の私的利益のみを考えるようになった。

立身出世についての読み物は、明治期の青年をこのように分割する線を支持している。とはいえ、何人かの日本人の学者がしてきたように、それには限定をつけておくことが必要である。富への関心という点では明治初期の青年も明治末の青年も違いはなかった。日清戦争以前の生徒の作文で最も頻繁に登場してきた要素は、富であった。その場合、富は、いつももいうわけではないが通常は名誉と関連づけられていた。しかし、ともかくも成功に関する読み物が現れるずっと前から、青年たちは富に憧れ続けていたのである。国家に関心を向けないというのみ実は新しいことではなかった。……

だからといって、個人の野心と国家利益を関連づけることに失敗したのではなかったようである。むしろ、この関連は繰り返しが不要なほどに自明のことだったのである。」

 

P302「とはいえ、明治末に見られる個人主義は単なる目の錯覚ではない。煩悶青年は本当の意味の個人主義を発見した。彼らは個人主義的な行動を提唱したし、ある程度は実践もした。はっきりと個人や自己決定、自己実現の至上性を表明した。……煩悶青年を苦しめた「存在の意味」といったものは、幕末や明治初期の人々には意識の片隅にもおよばなかった。彼らは自分の基本的な信条を疑いもしなかったから、それは当然であった。

しかしながら、煩悶青年たちの個人主義は、あまりにエリート主義的であったため、社会全体には広がってはいなかった。そればかりか、そのエリート主義的性質のゆえに、転向するものも多かった。エリートを自認しながら華厳の滝阿蘇山に身を投じなかった者は、次第に体制に飲み込まれていった。普通の煩悶青年は、大正・昭和期には官界や学界、実業界の組織の一員になっていってしまったのである。」

P302-303「実際のところ、明治末の個人主義は十分議論されなかったし、まともに弁護もされなかった。ニーチェの思想に依拠した高山樗牛の主張以外には、それを支持する議論は存在しなかった。個人主義を社会的効用と結びつけようとする主張はなかったし、そもそも出てくるはずがなかった。というのも、すでに伝統的な立身の議論の中でそういう論理は一般的になっていたので、あらためて問題を提起する余地はなかったからである。日本の宗教的伝統では個人主義をうまく正当化できなかったし、キリスト教では外来のものでありすぎた。

日本における個人主義の最大の限界は、資本主義とそれとの関係であった。日本の資本主義は、個人主義を実業活動と適合的なものとみなさず、渋沢栄一のような実業界の人物は個人主義を否定していた。大規模な官僚組織が発展してきた、まさにちょうどそういう時期に自我が発見されたのが、大きな不幸であった。……官僚制資本主義は、個人主義の論理では正当化されえないし、おそらく個人主義的な被雇用者も必要としていないのである。」

 

P304「明治国家が保守的でエリート主義的だったからではなく、むしろ、より進歩的で平等な改革を行ったがゆえに、日本では集団への同調圧力が他の近代諸国よりも大きくなった、と。たしかに、日本の伝統は個人主義に対して寛容ではなかった。しかし青年たちが直面したのは、何よりも、官僚制的な状況や労働市場の状況に関連した圧力であった。日本が後進国だったので、企業家資本主義よりも官僚制的資本主義の方が比重が大きくなった。そのため当時の先進国よりも同調への圧力が強くなったのである。」

※これについても、「伝統的に」「もともと同質的だったがゆえにこのような政策が選択された」ものと解釈すれば、伝統に還元可能といえるが、その可能性については本書から特に反論が出せないだろう。結局このような日本人論は近代化論的一元論として扱えるため、その一元性そのものを実証せねばならない(そのためには、日本以外の後進国との比較が必要である)。実際、「日本社会では、英米社会ほど志願者の配分に属性的な基準を用いられなかったために、一層多くの人々が機会を求めて殺到した。」(p304)というのは、極めて「日本的」な事情の産物であるように思える。

P307「リーダーの地位に到達するまでに、彼らは競争で生き残ること、自分のポストを守り、他の競争相手を追い払うことに、何よりも心を砕くようになった。ダイナミックなリーダーシップのとり方や、大義を貫くためには自分の経歴を賭すことを学ぶ機会はなかった。もし彼らがーー丸山が呼んだようにーー矮小であるとすると、それは、エリートをめざす競争を抑止するもののない社会での、生き残りの圧力によって生じたものであった。日本社会の最も魅力的な側面である、属性的要因による差別がないことや、普遍近代的とか合理的といわれるたぐいのエリート選抜のシステムが、皮肉なことに、矮小なエリートを生み出したのである。日本人の使う用語でいえば、戦時期のリーダーシップの矮小性は、日本社会の封建的側面に由来するのではなく、近代的側面から生じたのである。」

 

P308「真に民主的な革命の代わりに、エリートの地位への志願者の出身基盤がもっとずっと狭い仕組みがもし作られていたならば、皮肉なことに、日本の近代はもっとよいものになっていただろう。その場合、エリートは必ずしも常にもっとよい決定を下したとは限らない。しかし、個人の責任や意思決定や、たぶん反対表明にさえも、もっと大きな意味が与えられて、重要な決定の際に責任ある議論が多少とも多くなされることになったのではないだろうか。」

※このことが参考になるのかがわからない。多分に「ないものねだり」であるようにも思える。これについては「封建的」であった方が改善の余地があるように思える。

P310「両国の文化や道徳の微妙な点の差よりも、むしろこの損得の収支の差こそが、なぜ米国のインテリ層が戦争に反対し、日本ではそうでなかったのかを基本的に説明するのではないだろうか。反対者を処遇する法的規定や、警察による弾圧の差は、説明要因になりうるかもしれない。しかし、日本での反対者を弾圧する法の制定やその法に基づく逮捕が行われた時期を調べてみると、大部分はもっぱら具体化していない反対を警告的に扱ったものにすぎなかった。さらには、もしかりに日本では抑圧が苛酷であったことを認めたとしても、消極的な抵抗さえもみられなかったことが説明されずに残っている。……しかし、そうした若者がある程度まとまって存在していたならば、どこかで記述が残っているはずなのに、それが見当たらないことを考えると、一九三〇年代の高学歴青年は、戦争から生じた利得を何も拒絶していなかったように思われる。」

※この主張は少しこじれた論点を含む。日本の方が無責任という「事実」をキンモンスは認めているが、本当にそうだといえるのだろうか?

 

P311「もし学歴が、エリートやサブエリートを目指す志願者を振り分けるために使われるならば、学校制度を拡大する要求は絶えず続き、内容面でも資格面でもインフレ現象が生じてくる。すると結局、学歴資格以外の方法で志願者を振り分けねばならなくなる。もし、そういう中で試験を選抜手段としたならば、それは単なる生き残り競争になってしまい、将来就くであろう役割に応じた、実質をもったテストではなくなってしまうだろう。」

※この議論は、人柄主義の流行とも親和性があると言えるか。