マイケル・ブレーカー、池井優訳「根まわし かきまわし あとまわし」(1976)

 本書は日本の外交交渉(バーゲニング)の分析を通じて日本人論を展開する本である。ただし、p227やp228に見られるように、既存の日本人論に対して一定の批判的な視点があること、そして本書を通して語られる日本人論は、かなり複雑な印象がある。

 

 少なくとも単なる日本の特性を捉えることだけに集中していないのは確かである。p31やp165、p229といった部分においてだけ見れば、日本の地理・歴史に裏付けられた文化的特性の語りをしているように見えるし、それは「サムライ外交官」(p4)や、「『和』の思想」(p11-12)といった議論にも現われている。しかし、これらの言説とは反対の主張についても日本のものとして語られている印象も強い。例えば、権威への服従(p10-11)については、p214-215のような権威に反発を行うような行動があるような語りがなされたり、日本人は断定的なやり方を好むといいながら(p12)、それに対する内省が見られることも指摘されている(p13-14)。また、通常の日本人論のイメージと異なるかのような用法で使われる言葉もある(※1)。「和」については協調性を示すものではなく、p65-66のような対立ばかりである状況を何とか取り繕うための態度として示されており、また「滅私奉公」という言葉(p32)も、自己犠牲的であるものの、「公=オカミ」にあたる存在が何になるのかについてはさっぱりわからないほど、一見権力者である「オカミ」に反する行動をとっているかのような行動をとるという議論がなされている。

 

 このようなブレーカーの態度の取り方に対し、彼が「日本人論」をどう捉えていたのかについてはいくつか解釈の仕方があるように思える。ただ、私自身は(特に「和」に対する考え方がそうであるが)、「規範意識」のような形で存在している日本人の(過去から積み重ねられた)文化的特性は確かに存在するものの、他方で実際の外交の現場で繰り広げられていた日本人の振舞いというのは、それ以外の多くの制約も受けながらなされたものとして捉えていたのではないかとみる。それは、以前レビューしたダニエル・フットが指摘したような制度論的なものであるし(p65-66で語られるような政治主体の分裂の議論がこれにあたる)、「規範意識」そのものについても統一性がないもの、良く言えば複数性があるものとして捉えている傾向があるのではないかと思う(※2)。

 

 

パリ講和会議における日本の外交評価について――「サイレント・パートナー」とは何だったのか? 

 本書では中心的な実証材料として、パリ講和条約における日本の外交交渉プロセスをとりあげている。第一次世界大戦の処理を取り決めたパリ講和条約において、本書では一見かなり、というかひいきに近いレベルで日本の擁護をしているように見えるのが目立つ内容となっている。

 P123-124にあるように、日本はそもそも講和会議において、主体的に関わることができず、最高会議には早い段階で退出させられた面を強調している。つまり主体としての日本は当時どのような対応をしていても、権力者であった米英仏に排除されていたがゆえに、どうにもならなかったことが述べられているのである。日本と欧米列強は『非対称な関係』にあったということである。

 もちろんここにはp123-124引用の前段のような準備不足や一種の未熟さがあったのも事実である。しかし、他の著書においてパリ講和会議のエピソードにおける日本の役割が語られる際には、「非対称」な関係についての指摘がなされない場合が多いことは指摘せねばならない。いくつか引用してみる。

 

「しかし(※パリ講和)会議が始まると日本代表はあまり積極的に発言しない。いかにも目立たない存在として行動することになる。そのために、日本の代表団に対してはこれを「サイレント・パートナー」と呼ぶ外国の新聞記者も出てくるありさまであった。というのも、一つには、日本の代表団はこういう大きな国際会議慣れをしていない。このような国際会議への出席は日本の政府にとっても初めての経験であろうし、会議外交に習熟していない点もあったと思う。また一つには、日本政府の代表団への訓令自体が「あまり発言しなくてもいい」という趣旨のものであった。」(細谷千博「日本外交の軌跡」1993:p51-52)

 

「第二は、パリ平和会議を通じて、日本の全権団を中心に、従来の日本外交官に対する根本的な反省が生れたことであった。日本は、国際会議に対する研究、調査が十分でなく、日本が直接関連する問題をのぞいては「沈黙という日本的美徳を守るよりしかたがなく」列国からも「沈黙のパートナー」と称せられるありさまだった。こうした経験は、外務省内部において、革新運動として発展していった。そして、外務省内に「革新同志会」が結成され、目標を人材の登用において門戸開放、省員養成、機構の拡充強化を中心とする改革を要請する声が叫ばれ始めたのであった。」(池井優「三訂 日本外交史概説」1992:p136)

 

 両著書においては、列強に数えられ「対称」的な関係性を持っていたはずの日本が「準備不足」のために交渉をうまく行なえなかったという点が強調されているのである。ここでいう「準備不足」についても、単純に読んでしまうと、よくある日本人論の改善言説と同じような「文化的」なものについての改善を要求していることを想定したような語り方になっているといえる。

 しかし、このような解釈の取り方はやはり半分程度しか正しくないのである。この「準備不足」の文脈も単純な文化的なものの相違として語られるべきではない性質の方がむしろ強い。これは、当時の会議の日本と他列強との比較についての記述を見ればわかる。

 

「牧野男一行巴里到着ノ上執務スルニ至リテ実際ト予想トノ差異ノ甚大ナルニ驚ケリ例ヘハ英国ノ如キハ全権ノ宿舎ノ外ニ三大ホテルヲ徴発借受ケ数百人ヲ以テ組織シ各問題ニ付夫レ夫レ専門家ヲ網羅セルノミナラス問題タルヘキ各地ニ厖大ナル情報機関ヲ有シ常ニ情報ヲ事務所ニ集中シ印刷所ヲモ有シタリ従テ問題起レハ既ニ準備セル詳細ナル報告ト提案ヲ速ニ作成シ問題毎ニ詳密ナル調査ト意見ヲ提出シ得ル様組織モ材料モ整ヘ居タリ米国亦之ト同様ナリ之ニ反シテ我事務所ハ僅ニ数名ノ実業家及財務官ヲ専門家トシテ有スルニ止マリ殊ニ経済交通ノ如キ問題ニ就テハ何等ノ予想モ準備モナク将又事務ニ当レル書記官以下ノ如キハ外委員会五国会議首相会議ニ僅ニ手別シテ出席シ報告ニ忙シキノミナラス内事務所ニ於ケル調査研究立案ニモ従事シ多クハ数問題ニ付兼担スル有様ニシテ人手ノ不足準備ノ不完組織ノ狭小到底他ノ四大強国ノ如ク事務意ニ任セ従テ複雑ナル各種議題及広汎ナル大部ノ案ニ付急ニ詳細ナル調査モ立案モ出来ズ僅ニ此ノ少数ノ職員ヲ以テ問題ノ討議進行ニ追随スルニ必死ノ努力ヲ為シタリ、此故ニ微細ノ点ニ至テハ殊ニ条約各条項ニ就テハ不満足ナル点多カリシモ全ク不得己ノ事情ナリシナリ」(外務省百年史編纂委員会編「外務省の百年 上巻」1969:p740)

 

 組織の不足もそうであるが、端的に圧倒的な人員不足があり、兼務しながら調査立案を余技なくされていた状況であったものについてまで、単純に「能力不足」であるとして批判するのが不適切であるのはこの記述からも明確だろう。

 

 

 ところで、細谷や池井がとりあげた「サイレントパートナー」と、ブレーカーが述べる「平和への沈黙のパートナー」(p124)は随分と語られ方が異なっている。まずもって、この「サイレント・パートナー」という言葉の出典がよくわからない。細谷は「外国の新聞記者」発(おそらく講和会議当時の言説としてあったものと想定される)とし、池井も「列国」の言葉として紹介し、やはりパリ講和会議当時の言葉であるように読める。しかし、本書では、出典を歴史学者であるトーマス・ベイリー(Thomas A. Bailey)であるとしているのである。ベイリーの発言となると1902年生まれという事実からパリ講和会議当時の言葉ではありえなくなるだろう。また、トマス・バークマンの論文(「「サイレント・パートナー」発言す」『国際政治』56号1977:p113 URL: https://www.jstage.jst.go.jp/article/kokusaiseiji1957/1977/56/1977_56_102/_article)における参照元も、トーマス・ベイリーの“Woodrow Willson and the lost peace”(1944)である。正直な所、この出典がどこにあるのかというのは、「当時の言説として存在していたのか」という点の検証として、極めて重要な論点である。後発的に評価された場合、当時の文脈を適切に捉えられているのかという疑問が出てきてしまう。

 

 また、合わせてこの「サイレント・パートナー」という言葉は、もともといかなるニュアンスで用いられた言葉なのか全くわからない。インターネット上でもこの言葉を用いている論述は複数見受けられるのだが、正直な所文脈はバラバラであり、単なる「精神論的な意味で日本が『未熟』であることの教訓」を見出すために用いているものもあれば、「日本の準備の悪さ」を指摘するために用いられたり、更には「欧米列強からの圧力」の存在まで認め黙らざるを得なかったことを了解し述べられているものもある。もはや原典が参照されない弊害で、言葉だけが一人歩きしている状況であると言ってよい。

 

 これらの検討をするためには、ベイリーの著書から検討しなければはじまらないだろう。ベイリーの「サイレントパートナー」への言及は次の部分、一箇所のみで行われている。

 

The attitude of the Japanese delegates at Paris was something of a mystery. They were primarily concerned with the Far East; and the Conference was essentially a European affair. They did not claim membership on the Council of Four, but they faithfully attended the various other councils, commissions, and committees on which they were assigned seats. They always seemed interested and awake, which could not be said of their Occidental associates; but what they were thinking lay behind an impenetrable Oriental mask. They intently examined the various charts and maps which were presented, but weather they studied them right side up or bottom side up one could not always tell. They were the “silent partners of the peace”. (Thomas A. Bailey“Woodrow Willson and the Lost Peace”1944:p271)

 

 私訳であるが、概ね次のような文脈で、ベイリーの著書では「サイレントパートナー」が語られているといえる。

 

「パリでの日本全権団の姿勢は何かしら奇妙であった。彼らは第一に極東について関心があったが、会議は基本的にヨーロッパの出来事であった。また、彼らは四頭会議の一員であると主張しなかったが、割り当てられたいくつかの会議や委員会には忠実に参加した。彼らは、西洋の仲間からはそう評されなかったが、常に関心をもち、自覚をもっていたようだ。西洋の仲間は不可解な東洋の仮面を伏在させていると考えていた。日本の全権団は提出された何種類もの図表を熱心に調べあげたが、その検討が正しかろうが、深く行ったものかはともかく常に語ることはしなかった。彼らは「平和へのサイレントパートナー」であった。」

 

 また、合わせてベイリーはパリ講和会議における「人種平等」の議論について触れ、他の論者がこれを「交渉材料の一つ」にしかしていないという見方をしていることに対して反論し、日本はまじめに人種平等を国際化するために行動したことを議論している(cf.Bailey1944:p272)。ここでまず確認しなければならないのは、ベイリーの議論においては、総じて「日本が未熟である」という前提が含まれていないことである。合わせて、「列強の数えられ方」についても、他の英米仏伊の四カ国とは別のカテゴリーであり、これらの国との関係性が「非対称」であることについても了解しているものと考えられる。以上のことをふまえおおざっぱに言ってしまえば、ベイリーの「サイレントパートナー」言説は、「一見周囲にはその熱意は伝わらない」というニュアンスも含めた形で「語らない」ことが述べられていることがわかる。

 

 さて、ここで細谷や池井、そしてバークマンが一般的なものとして語るような「サイレントパートナー」言説がここで解釈された見方と全く異なるものであることがわかる(※3)。そして、パリ講和会議当時からこの言説があったかどうかは極めて怪しいものとなってくる。これはバークマン論文において、当時の言説で類似の描写があるという見方をしていることからも(つまり直接的に当時この言説そのものが存在していたことを立証していないことからも)間接的に言える話である(cf.バークマン1977:p102)。また、仮にサイレントパートナーがベイリーのオリジナル言説ではなく、パリ講和会議当時の言説を借りたものだったとしても、ベイリーがあえて文脈を変えて「サイレントパートナー」言説を用いることは、歴史研究者の態度としては極めて不適切であり、ベイリー自身に良心があることを前提とすれば、細谷や池井の「サイレントパートナー」の捉え方は、事実誤認であるということになる。ただし、バークマンが指摘するように、ベイリーのオリジナルの言説とは別に、この言葉が恣意的に解釈され、ベイリーとは異なった文脈で用いられていたことはほぼ間違いないだろう。

 

 

 また、仮に当時の日本が悪い意味での「サイレントパートナー」であったことが真であるにせよ、これを「特殊日本的」なものとして捉えるべきかどうかという議論はまた別の議論であるはずである。ここで少し気になるのは、同じ列国として数えられていたイタリアの立ち位置についてである。パリ講和会議において日本は1919年3月後半の段階で最高会議の席から外され、それ以降はアメリカのウィルソン、イギリスのロイド・ジョージ、フランスのクレマンソー、そしてイタリアのオルランドの4人によりできる限り他の外交官を交えない形での会議により主要事項の検討が行われた。このあたりの事情はマーガレット・マクミランの「ピースメイカーズ」(2001=2007)を根拠に述べていくが、まず、この4人会議の体制に入る前の会議においては、ウィルソン、ロイド・ジョージ、クレマンソーいずれもが会議で達成できたことはほとんどなかったとの認識だったらしい(マクミラン「ピースメイカーズ下」訳書2007:p6-7)。この状況だけを見れば、日本は交渉をする前から、その非対称性ゆえに「不利」な状況にあったといえるし、その点ではブレーカーの主張も正しいと言えるかもしれない。いずれにせよこのような事情から「ピースメイカーズ」の著書の中で日本は「客体的」な立場からの記述がされているといえる。ではイタリアはどうかというと、イタリアもまた日本と同じように「客体的」に語られている傾向が強い。

 

「講和会議が開会した当初から、イタリアがユーゴスラヴィアや他国の妥協する気はないということははっきりしていた。イタリアに関係のある国境問題は専門委員会に任せるのを拒否した。最高会議とその後の四巨頭会議で、イタリア代表団は自国の利益に関すること以外、発言しなかった。クレマンソーは三月の会議の後、「今日の午後、オルランドはイタリアの要求をあげつらい、必要且つ正しいと考えている国境はどこかを示す講釈を長々とした」と不平を言った。そして、「ソンニーノからも、劣らないくらいの退屈な講釈を聞く羽目になったのだ」。」(「ピースメイカーズ下」訳書2007:p33)

 

オルランドは、イタリアが内戦になる可能性があると警告した。「わが国では何が起こるだろう」とソンニーノが尋ねた。「ロシアのボルシェヴィキではなく、無政府状態になるかもしれない」との答えであった。イタリアから入ってくる報告を見ると、無意味な脅しとばかり言えなかった。ストライキ、デモ行進、暴動、建物の略奪、デモ隊員の殺害、左翼と右翼の暴力的衝突などの報告が入っていた。しかもパリからの噂は事態を煽る結果となった。つまりオルランドは譲歩してしまい、連合国はユーゴスラヴィアを反ポルシェヴィキ勢力の国家にしようと決めた。ウィルソンはダルマチアをイタリアに与えないと決心したし、フィウメは自由港になるなどという噂だった。イタリアからは、代表団に当初の方針を貫くようにと勧告してきた。

 この時点では、確固たる姿勢を保つことが、オルランドとソンニーノにできる精一杯であった。妥協が大きな譲歩とみなされるような状況にあったのである。」(同上、p40-41)

 

 ここで押さえておきたいのはイタリアの姿勢である。まずイタリアは「自国の利益以外の発言をしなかった」とされる。これは事情は若干異なれど日本も同じ立場であった。更に、妥協をしない「確固たる姿勢」についても、ブレイカーが指摘していた日本の特徴とされた部分であったが、これはイタリアも同じであったように「ピースメイカーズ」では語られている。もっと言えば、イタリアは4月末からフィウメ港の領土の取り扱い等についての会議に意向に「ボイコット」する形で2週間程度ではあるが会議の参加を行わないという行動に出たのである。これも見方によっては「日本よりも頑固な態度」であるように見えるのである。日本はある意味「人種平等」に関することでは結果的に折れているが、イタリアの領土問題についてはそのような妥協がなかったと考えられるのである。

 この点はブレーカーが本書の分析にあたりどれだけ「他国」を比較対象したのか、という点が問題となってくる。これについては、本書ではそれとなく他国のバーゲニング態度について考察済みであることが仄めかされるものの、具体的にはよくわからない。このような点は本書p223にあるように、むしろあまり明確でない状態のものであるとさえ言えるのかもしれない。

 

※1 これについては、(特に滅私奉公についてはそのような気がするが)、邦訳した際に意味合いが誤った内容として訳された可能性も否定できないことも念のため付け加えておく。

 

※2 もっとも、このような両義的な態度こそ、日本人的な特性であると見ているのは、ルース・ベネディクトやジェフリー・ゴーラーなどが主張していた点であった。しかし、ブレーカーはこの点について明確に特徴付けることはなく、そのような態度について説明を加えることはない、という意味で「日本人論」として捉えているようにあまり見えないというのが私の見解である。

 

※3 しかし、ベイリーの言説をこのように評価した場合、少し疑問なのはバークマン論文においてベイリーの言説について全く触れていない点である。確かにバークマン論文はベイリーを直接的に批判(=ベイリー自身の言説である「サイレント・パートナー」が誤解を招くものである、と)している訳ではないが、逆にバークマンの主張もベイリーとさほど違いないと私は解釈している以上、バークマンがそのことに言及し擁護する姿勢を見せないのは逆に不自然にも見える。考えられるのは「バークマンがベイリーの著書をしっかり読んでおらず、ベイリー以後の「サイレントパートナー」言説のみしか捉えていなかった」か「私の解釈の方が間違っている」かの少なくともどちらかが真になりそう、ということである。

 

<読書ノート>

※原題はJapan’s International Negotiating Behavior 。

P4「本書でいいたいのは、ひとたび政府からバーゲニングについて訓令を受けると、日本外交官はねばりにねばり、交渉をなんとか妥結に導こうと異常な熱意を傾ける。まさに「サムライ外交官」と称するにふさわしい。こうしたねばり強さは、日本の交渉ぶりの一つの特徴となっているばかりでなく、時としてその努力がなければ交渉に失敗していたということすらいえるのである。」

P10-11「日本の社会行動の基準は、伝統的に日本の社会行動の規範の中心をなしていた儒教精神の具体化であり、上下の別をわきまえることであった。

このように厳密に規定された秩序のもとでは、身分の下の者は、既成の権威に従うのは当然であり、自分の定められた社会的地位を受け入れ、上からの命令にはいかなるものでも喜んで従うのが当然とされた。部下の献身的な忠誠、服従、奉仕に対し、上に立つ者は、下の者の必要に進んで応じることになっている。その際、慈悲と父親のような指導、忍耐強い理解といったものを示すのが常にある。いったん上の者が決定を下すと、それはもともと正しいものとされ、下の者は受け入れなければならなかった。

こうした理想的な組織の下にあって、問題解決のために採られる手段は、「一致協力」か「一致団結」であった。」

俗流の日本人論はこの解釈をするが…

 

P11-12「和の理想と並んで重要なのは、反対する人びと――それが確立された体制に挑む場合ですら――にこちら側の理由を納得させる場合、いかに辛抱強くやるかという目的思考型の独特な倫理である。」

P12「真の武士は、危険を避けるより進んで冒険を犯し、ためらったり、遠慮したり、追従するより、率直で、断定的なやり方を好み、現状に忠実であるより、自分が正しいと思うものを選び、必要とあらば力に訴えてでも、がまんできない状態を変革するために命を捧げるのである。

日本の社会が、「調和」をとれることがきわめて少ないという事実は、基本的な日本的価値を損うものではない。同様に、武士が時として不誠実であったり、怠惰をむさぼったり、無気力であったり、目標が感心しないものであっても、忠誠という倫理的力を必ずしも弱めるものではない。また熱心さのあまりとか、狭量とか、悪企みとかによって武士の規範が弱まることもない。」

※その割にはリスク回避の行動に出るともされる。

P13-14「最後に重要なのは、日本の指導者が、自分たちには選択の余裕などないと考えた点である。外国の脅威は目前にあり、欧米列強に正面から反発するのは自殺行為に等しく、鎖国政策に立ち戻るのも愚の骨頂であった。これに対し、アメリカは対外問題に介入するか非介入かを問題として論じていたが、日本にはそんな贅沢は許されなかった。日本の指導者は、一九世紀中葉の状況を見るにつけ、外国の出した条件で交渉し、その言い分をほとんどそのまま受け入れなければならなかった。

こうした潜在的には、諸国皆敵ともいえる環境のもとで、乱暴な〝武士〟的外交のやり方とか、国際的なはねっ返りに対して無頓着であることは通用せず、その後の歴代日本政府にそんなやり方はむこうみずで無益なものだとの教訓を与えることになった。そのかわり、政府の指導者は、じっくり時間をかけて日本の権益を増大し、拡張することを考えた。最小限の譲歩を行ないながら、その間に国力の充実に努めるという慎重な政策が国家生存の要と見なされるにいたったのである。」

 

P15「さらにはっきりしているのは、日本人の交渉の論理に〝大きな拘束〟の力が消しがたいほどに刻印されているということである。国際的に孤立化してしまうのではないかとの恐れ、国内の変動、外国の干渉、日本の海外における評価が下がることへの配慮……といった失うものをおそれる気持ちから、日本人は自分の国は弱体で、もろく、島国的で、劣っているのだと思いこむことになった。弱いことをいやというほど知らされていることが、日本の倫理観に大きな影響を与え、外交行動について二つの基本線を作らせることになった。一つは自立と行動の自由を絶えず望むことであり、いま一つは危険をなんとか避けようとすることであった。」

P16「しかし、不平等条約が廃棄され、独立が達成された暁でも、同じような満たされない感情は持続した。日本の相次ぐ対外進出は、実現不可能と思われた自立への道であり、「自主外交」の夢を達成するステップと見なされた。

一九三一年から四一年にかけて絶望的な道をたどっていた間でも、日本は、完全な自由、独立、自給自足を得るため、外からのあらゆる制約をとりはらうという哲学を激しい形で吐露したのであった。」

※強度の理想主義的思想を読み取るべきか。しかし、これはある程度状況に定義づけられたものとみるべきでもある。

 

P25「日本のバーゲニングの目標は、ケースによって変化するが、それを表わす言い方は驚くほど似ている。日本のバーゲニングの目的は、いつも「真意」を体現し、「誠意」を反映した「正義で」「妥当で」「公正な」ものとして描かれる。」

P26「政策決定者と、それよりランクは下になるが交渉の任に当たる者も、相手側は最後には屈服し、日本はさしたる譲歩なしに勝てると考える。交渉の際「和」を求めるがゆえに、日本の要求は「円満に」あるいは「円滑に」問題なく、大きな抵抗なしに受け入れられると信じ込んでいるのである。

この態度は戦略、戦術の選択に際して顕著に現われる。第3部で述べるように、日本の交渉における「正しさ」は、さしたる努力もしないでも相手側に通じるだろうというなかば信じられないような思い込みによって、日本は相手を説得するより、自己の立場をはっきりさせるバーゲニングのやり方をとることになる。」

※「信じ込む」の原著表現が気になる。また、非対称性如何によってはこのような態度の取られ方も当然ありえる。丁寧に例も示されているものの、如何なる「思い込み」があったことを示す例なのかが読み取れない。

P31「日本人が失敗を恐れることは、これまでの日本が選択したバーゲニングの戦術の中から、格好の例が多く抽出されてくる。日本の指導者は、日本の島国性、もろさ、弱さのゆえに、逆に自信とはっきりした目的意識に裏付けられた大胆なイニシアチブと劇的な政策をとりたいと長年にわたって望んできた。たえず受け身の立場に置かれた日本は、国際情勢によって振りまわされるより、支配してみたいという希望をかき立ててきた。

日本の政策決定過程が緩慢であるため、逆に迅速で、明快で、柔軟性のある外交行動の必要性が叫ばれてきた日本人のストイックな無神経さと自身のなさは、かえってあけっ広げで、率直で、個人対個人の話し合いをしたいという方向に日本人を駆り立てる。外国語の習得が旨くないという点を考慮して、日本人は、交渉の際に必要な他のもっと重要な資質より、語学に堪能なことを優先して考える。また、自分たちが消極的であることをはっきり意識しているため、直接的な、自信に満ちた、自主的な外交行動に憧れることである。」

P32「日本のサムライ外交官は、仕事に不屈の努力を傾け、名誉を重んじ、犠牲を嫌わず、忠実であることに情熱を燃やした。何にも増して「滅私奉公」こそ、日本の交渉スタイルの精神の最大のものである。」

 

P39-40「第3部で分析するように、日本の妥協は、相手側に半分合わせたり、共通の場を見つけようとしたり、公正と平等の原則に従って相手側の譲歩に見合うようにするというものではなく、もし日本が譲歩しなかったなら何が起こるかもしれないという恐怖からなされる。譲歩は堪えがたい苦痛であり、運命のいたずらによる不幸な避けられないもので、日本のコントロールの及ばないバーゲニングの「状況」の変化によるもので、適切な政策を誤った誰かの責任であると考える。日本は「堪えがたき」を最大限に堪え、お上がはじめに「公正」「妥当」と認めたものを放棄する度合を最小限にするため譲歩するのである。

事実、日本の指導者や、交渉者は、自分たちの要求ばかり頭にあって、相手側の関心とか目的に対する理解がほとんど欠けている。立場を調整することは、相手が要求するもの以上を与えたことでなく、むしろ元来日本が要求したものより取れるものが少ないことを意味するにすぎない。こうした二つの動機は、人為的なものではなく、日本人の妥協に対する考え方を理解するのに不可欠である。」

※しかし、ここでいう「お上」とは何を指すというのか??また、ここでの態度は「和」の精神との対比でも一見矛盾するような頑固さを認める。

P43「日本の交渉者の第二の特性は、柔軟性、「現実主義」「合理主義」、すなわちある程度日本側が譲歩するという犠牲を払っても、客観的に現実的に、また柔軟に対処しようとする点である。したがって、理想的な交渉者は、単なる口先だけの主唱者であると同時に、政治家であるといえる。」

※これは先述の頑固な態度と矛盾するのでは??訳語の問題であろうか??

 

P62「天皇は、公的には組織の頂点に位置しているが、日々の政策決定に関しては、決定されたものの批准、裁可を行なうだけで、それ以上積極的に行動することはない。明治憲法は、あらゆる国家行為は天皇大権の下にあると規定しているが、実際の政策は、組織内部の個々の人びとによるばらばらな動きの結果にしかすぎない。……トルーマンの「自分が責任を持つ」といった言に相当するものは、日本における外交政策形成には、見出せない。日本には、最高権威を作り出していくような明確な制度的、憲法的パターンがほとんど見られないからである。」

P63「学者たちの努力の跡を見ると、日本の政策を基本的に動かすものは誰かを解明することはいかに難しいかがよくわかる。同時にこうしたばらばらの研究の結果、政策の責任を明確な形でとる政治組織が日本には存在しないということを皮肉にもうまく描き出されることになった。」

P65-66「戦前、日本の政治組織の下では、すべての国家目標について意見を幅広く集めたように装った。多くの者が参加し、乱暴にいえば政策形成に平等な影響を及ぼし、個人とかグループが全員に納得のいくような調和と同意を得るために、他人の見解に譲歩をしたように見せかけ、最悪の場合でも黙認、最善の場合にはある決定が行なわれた場合に熱心な支持を与えるというグループの「コンセンサス」があるようにしたのである。

しかし実際のところ、本質的に「コンセンサス」といえるものは、日本の場合にはほとんどないように思われる。外観はどうであれ、組織の内部では激しい不一致があり、喜んで同意したという状況ではないのである。きわめて広範な性質の問題(たとえば大陸進出、資源確保のための前進基地の建設、軍事力の増大)について「コンセンサス」らしきものがあったとしても、もう少し具体的なレベル(たとえば進出の方法、資源獲得のやり方、軍事力増強の方法)では政策の不一致は根深く、かつ長期にわたって続くのである。

さらに政治主体が分裂しておりその中である者の意見が重みを持っているため、「平等」という状態からはほど遠い。明治憲法下では、軍部は軍事作戦と用兵に関して「統帥権」によって特権的な地位を占めていた。軍部は「国務」の範囲外である外交にすら権限を持った。明治憲法五五条は「凡テ法律勅令其ノ他国務ニ関スル詔勅国務大臣ノ副署ヲ要ス」となっているが、軍は権利の乱用を行なったのである。」

※「和」とは。

P67「誇張していうと、組織が分裂しているために、指導者はグループの間の越えがたい溝よりも、むしろコミュニティの間の共通の感情という面を強調したり、あるいは不統一をなんとかやわらげようとしたり、定期的に挙国一致を叫んだりしたのである。政治家はこの「挙国一致」ということばを、安定、調和、統一された行動への希望を表わすものとして用い、異なった外交政策綱領を持つ反対派を統制し、より一般的な目標を設定しようとするのである。」

 

P108ヴェルサイユ条約のバーゲニングにおける訓令…「人種的差別撤廃ノ事ハ国際連盟ヲ議スル場合ニ於テ我帝国ノ主張トシテハ至重至大ノ問題ニ属ス。仮令講和ノ予備会議ニ於テ一旦否決ノ悲境ニ陥リタルモ我帝国前途ノ利害ニ顧ミ之ヲ放擲スルコト能ハス、随テ今後我帝国ノ主張ヲ徹底スルノ手段ニ付憂慮ニ堪エサル事」

P123-124「最後に、牧野その他の全権がベルサイユで十分な活動を行なう際に多くの圧力が加わったことが指摘できる。ベルサイユ会議は日本が参加する最初の大きな国際会議であり、日本国内の世論、議会の意見、外交調査会の有力メンバー共に、人種平等問題で日本が妥協することには強く反対していた。第二の圧力は、国際会議において日本が比較的経験を持たなかったことである。日本の全権たちは一般的にいってすばやい会話のやりとりに必要な語学力その他の能力に欠けていた。日本の代表団は、不適当なスタッフと不十分な準備にも悩まなければならなかった。実際、牧野は会議がどういう方向に行くのか、出発前にははっきりと知らなかったほどである。

最初の日本側の期待とベルサイユの現地での状況の進展との間には、大きな差があった。さらに、日本ははじめは名誉ある五大国の一つに数えられていたが、会議が開会されると間もなく、選ばれたグループからは簡単に削られてしまったのである。それからのち、特別な利益がからんでくる問題の関するトップ・レベルの会議には、招待という形でのみ参加することになった。したがって日本は、著明な外交史家トーマス・ベイリーが指摘するように、会議の運営に小さな役割しか果たさず、ごく些細な影響しか与えない「平和への沈黙のパートナー」となり下がったのである。」

 

P136「日本は、戦術的な動きとして意図的に交渉を引き伸ばしたのではない。あの気の毒な野村大使には、ワシントンに反応を行なう際強い圧力がかかっており、最後には次のように言いわけをしていた。「日本政府が重要な事項について決定に達するのは、アメリカ政府よりも時間がかかるものなのだ」」

※タウンゼンド・ハリスの言葉として、「外国奉行は、これを附言して重要な用務をアメリカ人のように迅速に処理することなく、大勢の人びとに相談しなければならぬことになっているから、これらの目的のために十分時間を与えてもらわねばならぬと述べて、これは万事延引をこととする日本人のやり方を私に了承させんがためであった」を紹介している(p151)。

P137-138「日本側の不統一と不決断は、相手側の疑惑や不信を招く。日本では権威が分散されているため、偶然であろうと故意であろうと、相手側が日本の多岐にわたる政策について、その計画を知らされる結果を招く。もちろん、戦術的に相手側はこうした政策の分裂を、事故に有利なように利用しようとする(たとえば、リーダーシップの交代とか、よい条件を待つといったことである)。

さらに広くいえば、不統一のために、誰が日本政府を代弁するかたえず不明となる。何回にもわたって、相手側は日本政府の代表が行なった宣言とか確約を信頼することができないということが起こる。」

P139「日本の組織はイニシアチブをとりにくくしているので、バーゲニングを行なう人びとは政府の訓令にきつく縛りつけられているという単純な理由のために、斬新なあるいは創造的な解決を示したがらなくなってしまう。また、政府指導者は誰も新しい政策をとるための責任を背負いたくないため、あるいは改めた政策自身、誰かが過去にやった政策が間違いであったことを示すがゆえに、政策を広い視野から検討したり、あるいは新しい解決の道を探るということが阻害されることが非常に多い。」

※「各交渉ごとに大規模な国内的な問題が発生し、交渉者は辞職をほのめかしたり、天皇に訴えたり、あるいは政府の腐敗に乗じたりということが起こりがちなのである。」(p139)

 

P161「日本のバーゲニングのための基本的な訓令はすべて、全体として変更しようのないような堅い要求ばかりである。したがって相手側は、日本側が寛大さを示すことを期待できない。これらの要求の中には、ほんとうにバーゲニングをやるためのものはほとんど含まれていない。日本によってはすべてがこれ以上変更できない当然の要求なのである。

日本の最小限の立場としてこれ以上譲れないとはっきりしている問題についての提案は、それに代わる条項がないかぎり、変えられたり統合されたりすることはほとんどない。事実、日本はこうした固い路線が成功するのはあたりまえだと考えているので、臨時にプランをたてることはありえない。したがって、交渉者自身がこうした問題について戦術をたてて実行する場合、個人的な自由裁量はほとんど許されていない。彼らに期待されるのは東京で決めた立場を頑固に主張することであり、もし相手の断固たる抵抗に遭遇する場合、ただちに本国政府に連絡をし、訓令を待つということになる。」

P165「なぜ日本は交渉にあたっていつも守勢的なのであろうか。もちろん、準備段階における日本の動き自身守勢的な含みを強調しているのは、否定できない。そうしたものを超えて、この初期段階の活動を重視するという日本のいき方は、いくつかの文化的要素が混合されたためといえる。するわち、舞台裏で工作を行なう、こまごまとした計画を立てる、まえもって日本側から約束することを極度に嫌うといった点である。……

こうした守勢的な行動をとる文化的な背景に加えて、強力な国々によって外交をかき回されるのではないかと恐れが、日本をして守りの戦術をとらせることになる。日本が目的とするものを得るために計画するバーゲニングの目標とか動きは、このように深く根ざした恐怖によって左右されている。守りを計算すること――外国の世論あるいは外国政府の意見に敵対したり、直接力によって対立することへの恐れから生じている――は、日本がだす要求をある程度軟らかいものにしたり、出発点を真に欲する最小限度に近いものにしたりするのに役立っている。」

 

P212「第二に、日本は自分たちのバーゲニングの目的は正しいという変わらぬ信念を持ち続ける。自分たちの目標は絶対に正しく公正で妥当だとみるのである。こうした考えを持っているため、日本の交渉者は譲歩を拒否するのみならず、戦略戦術を練り上げる必要をも忘れてしまう。「公正」な政策は結局「公正」であるがゆえに勝利する、と考えるのである。」

※どのようなものを想定しているのかわからない。

P213「こうした態度とは別に、戦前の日本の交渉態度は国内政治の諸要素、とくに政策決定における政府と交渉者のコミュニケーションによって左右された。

明治憲法の下、日本の指導者は外務省と軍部の拡争の中で交渉を進めねばならず、政策の決定の道は汚されたり重複したり不明瞭であったりする場合が多かった。こうした憲法体制の下で発展した政策決定過程は、一語でいえば「不一致」という言葉で表現されよう。すなわち多元的な対立、官僚的な煩雑さ、政策について責任体系のなさといったものである。」

P214-215「個人のレベルでいうと、日本の交渉者はバーゲニングの成功はお国のためだという気持が強い点が異彩を放っている。個人的な献身の度合いとか使節としての責任感が強いことが、日本の交渉のやり方の特徴となって出てくる。国家目的を追求しようとする決意はけっして悪いことではない。対照的に、あることに固執することはあ、もし日本の交渉者が決意を固めているのならば、高く評価されるべき特質であり、たとえ失敗する場合でもその失敗は少なくとも言い訳のきくものとなる。

しかし問題は、日本のサムライ外交官が個人的な決意を深く固めるため、日本政府の政策の立案者にとって悪夢としか思われないような違った方向に時として引っ張ることである。それは、日本の指導者が選んだものとは違う方向である。日本政府が、政府の公式の政策とバーゲニングの交渉者の意向がまったくいっちしたと喜べるのは、きわめてまれである。それは次のような理由による。(1)日本の外交官は交渉の結果について個人としての責任を感じすぎる。(2)交渉者は、本国政府が認めているよりもさらに譲歩する傾向があり、そのため政策の方向を決めてしまう。」

※通常の滅私奉公のニュアンスとは違うように思える。

 

P222「日本の交渉者がつかまえどころのない間接的なまたあいまいな声明を出すのも、国内の不一致から不可避的に生ずる副産物であり、交渉者は無条件で権限が与えられているかどうかその限界があいまいであり、はっきり統一されたバーゲニングの政策を欠いているためであり、さらに状況に応じて出す案が乏しいという理由による。意図的にぼやかすことは、日本のバーゲニングのやり方ではあまりないことである。

個人あるいは非公式のコミュニケーション・チャンネルに頼るのは、どうにもならない行きづまりを避け、腹立たしいような政策決定組織の遅れを避けるために、日本がよく用いるやり方である。」

☆P223「本書で検討されたいくつかのケースから、試験的に引き出されてきた次のような命題は、完全なデータに基づく結論的な判断というよりはむしろ仮説だという点に留意していただきたい。こうした考え方はまさに仮のものであって、さらに分析が必要であり、はたしてそれが正当であるか否か適当な評価を行なうには、日本以外の行動と比較する必要もある。」

P224「強力な国の支援がなく軍事的に日本よりも弱い国を相手にバーゲニングを行なう場合、日本は脅迫といった強硬手段を好んで用い、「抑制の外交」を捨てる傾向にある。しかしながら、強国とくに強力な欧米諸国と交渉する場合、日本は、きわめて慎重になる。相手側との力関係がどうあろうと、日本の指導者や外交官はコミットメントと説得の手段として同じような言い方、同じような基準を用いる。

日本は欧米諸国の出方と世界世論にきわめて神経質である。外国の意見に神経質であるため、日本の交渉相手とその同盟国はそうした世論を動員して有利な状況を潜在的なバーゲニングの武器を持とうとする。」

 

P227「たとえば、日本の外交官はだますというような目的は持っていないにもかかわらず、二心を持っているとか二重取り引きをやるとかいった悪評をかち得ている。本書で使われた。材料から判断すると、日本の交渉者のイメージは邪悪で不正だという見方はでてこない。こうした一般的なステレオタイプは是認もされないし、不当でもある。

しかし、その行動はしばしば誤解されることが多い。日本外交官悪玉論への反論として、とくに次の三点をあげておきたい。(1)日本における政策決定の会合の際に、出される日本のいい分は、バーゲニングの間に公開で、相手側に対してなされるものときわめて類似している。この事実は、外からの観察者には信じがたいことであっても、日本人の信じているものがいかに根深いかを示している。(2)日本の交渉者はかなりはっきりと自ら望むところを述べ、相手を操作しようとするような戦術は用いない。(3)日本の指導者は彼らなりの国際イメージという先入観にとらわれているので、その用いる交渉戦術のいくつかは相手側をだますのではなく、海外における日本の悪い印象を避けたり訂正したりしたいという願いを反映するものである。」

P228「しかしこうした幻想を別にして、あいまいさ、秘密、遅延、長期にわたる国内的不一致の直接的に影響するところは、「不誠実な日本」のイメージを外国に広めることであり、日本の指導者はずる賢く不正なやり方をし、いかに非難されようとも目的達成のためにはどんな手段でもとるとみなされるのである。」

P229「事実、島国、孤独、内向的伝統といった背景にもかかわらず、日本の外交行動は目ざましく異常な勇気と動機を秘めていたことがわかる。」