日高六郎編「現代日本思想大系34 近代主義」(1964)

 今回は、日高六郎の近代化論の指摘をもとに、これまでの大塚久雄を中心とした近代化論の議論を少し整理してみたい。というのも、本書における日高の指摘については、他の論ではなかなか見られないものがあり、かつそれが適切な指摘であるように思えるからである。私自身も大塚読解において日高の視点を捉えられていた訳ではなかったため、大塚を再読した結果について整理してみたい。

 まず押さえておきたいのは、この「近代主義」という言葉自体が、「近代の批判」を行う論者によって語られるものであり、「近代の肯定」を行う論者は近代について明言していないという特徴についてである(p10)。これはある意味で「近代を肯定」を行う論者自身が、(自身がその立場にない、という議論も含め)「近代主義」について明確に定義・整理していないということを意味する。例えば、丸山真男などは一つの典型であろう。彼に至っては、私自身も未だに「近代主義者」としての位置付けを理解できていないが、そもそも「肯定的」な意味で「近代主義」を議論しておらず、専ら過去の日本の「封建制」について批判を行うことに終始する場合についても、「近代主義者」というレッテルが貼られているのである(※1)。

 

○「近代主義=欧化主義」をどう見るか?「産業化的近代化論」と「民主化的近代化論」について

 また、大塚久雄に関して言えば、はっきりと「近代主義者」である筈なのだが、大塚自身は「近代主義」のレッテルを貼られることについて、ひどく毛嫌いしていた。これについては、すでに指摘したように、「近代主義=欧化主義」という図式で語られがちであったことについて大塚は否定的であったと言える。私自身もこの議論について「単一的近代」「複数の近代」という軸から大塚について考察を行い、その態度が70年代以降矛盾していくことについて指摘した。

 一方、日高は「産業化的近代化論」と「民主的近代化論」という2つの近代化論の存在を指摘している(p22)。「産業化的近代化論」は後発的な議論であり(p25)、かつ保守的支配層はこの議論を民主的近代化論から転換できると見てとったとき「近代化」を説きはじめることになったという(p22)。

 大塚の議論から近代化を考えてしまうと、この両者の区別はあまり明確になってこない。というのも大塚自身がヴェーバーエートス論を経由してこれを基本的に同一のものとして扱っていたからである。しかし、この態度は一貫していない。すでに考察したが、まとめると次のようになる。

 

・戦中の大塚の言説は、「産業化的近代化論」にも強く根ざした形で、「最高度の生産性」のため「最高度の倫理」を目指したものであったこと

・戦後直後の大塚の言説は、欧米の近代化エートスに学ぶ形で、「民主的な心性」をまず重視するため近代化論が語られたこと

・特に70年代以降の大塚の言説は欧米的な近代の帰結である官僚化と頽廃について強調され(これは「民主的近代化論」の帰結として語られる)、これを日本の状況と同一視したこと

 

 上記のように語られていた大塚の議論は、日高がp39で指摘するように、産業化的近代化論の視点で見た場合同一視されがちである「風俗的次元でのアメリカ化現象」と同じように見るのは誤りであるのは間違いない。しかし、ここで改めて注目しなければならないのは、70年代以降の大塚の態度変更である。この時期の大塚は、すでに日本と欧米の状況を同一化し、近代化論そのものの批判に目が向いていたが、このことを「民主的近代化論」の議論として見た場合、どのような状況で問題を捉えていたと言えるだろうか?実際の所、戦時中から一貫して大塚は「欧米と同一視される近代化」については否定的態度があり、これはヴェーバーアメリカ観に代表される、近代化の一種の帰結としての頽廃に対する見方を共有したものであった。にも関わらず、終戦直後の大塚は、それと同じ「近代化」を強調することを行っていたのである。これはある意味で「将来的に頽廃することがわかっていたにもかかわらず、近代化を強調した」という批判が成り立つものであるはずである。しかし、少なくとも終戦直後の大塚はそのようには全く考えなかったと言えるだろう。何故別物として考えられたのだろうか?

 これを戦時中の強烈な「止揚」の発想の下に語られていた「最高度の自発性」の議論に引きずられていたから、とか文字通り戦後日本はゼロからスタートしたものであるから、といった説明は非常に簡単である。むしろそのような説明の方が妥当なのかもしれない。そして戦後日本は経済復興していく中で、ヴェーバーの予言通り、つまり欧米と同じ道を辿ってしまったからこそ、見切りをつけてしまったというのが素朴な説明として一番しっくりくる。

 しかし、それでも私がなお腑に落ちないのは、70年代の大塚自身が日本の状況について「(産業的近代化論的に)近代が(欧米と同レベルのものとして)完了してしまった」という前提のもと欧米の状況と同一視していることが明確であることである。このことについて、大塚がまだ日本の(民主的近代化論的に)近代が未熟であるという認識に立つことは可能であったように思う。特に80年代以降の「改善言説」を求めるようになった日本人論全般についても、基本的に「産業的民主化論」としては完成した日本に対し、(生産性に従属した議論に限った)「民主的近代化論」については未熟な状況を指し改善を図るものである、という見方が可能である。もちろん、生産性如何に関わらず、日本が民主的でないという日本人論は山のように存在し続けた中で、大塚はそのような視点から議論を行うのをやめてしまっているのである。

 このように考えてしまうと、「産業的近代化論」と「民主的近代化論」を大塚が一体的に扱ってきたといえども、70年代以降の大塚もまた「産業的近代化論」の影響を強く受け、「民主的近代化論」の議論の必要性については著しく軽視するようになったという結論を出さざるを得ないように思われる。

 ただ、これに合わせてもう一点問わなければならないのは、そもそも大塚的な理解により「民主的近代化論」というのを「産業的近代化論」と一体として語ろうとする論法自体が適切であったのかという点である。これ自体はヴェーバー由来(ただし、これは大塚の独自理解としてのヴェーバー理解)の議論であり、本書で言えば丸山真男川島武宜などは実際にヴェーバーの影響を受け「民主的近代化論」について語っていた論者であったのは確かである。しかし、例えば教育界における「民主的な教育」の議論においては、かなり早い段階(遅くとも50年代半ば以降)で「産業的近代化論」とは「決別」し、これを否定した「民主的近代化論」を展開していったと見ることは概ね正しい理解であるように思える(そしてその系譜は一応現在にまで続いている)。また、大塚のヴェーバー理解によれば、確かに過去のイギリスやアメリカではこのような倫理が存在し、それが生産性の高い産業発展につながったものと見るが、それはすでに現在においては存在していないものである。その意味で、本当にそのようなものが「存在」していたのかという疑問も当然ありえるように思える。また、私が提出した論点として、この「産業的近代化論」と「民主的近代化論」の結びつきとしての議論はそれ自体「止揚」の発想に基づくものであり、大塚が「止揚」の発想を捨てたからこそ、70年代以降簡単に態度を変えられたとみる仮説の立場から言えば、そもそもこの二つの近代化論を結びつけようとする試み自体が「無理筋」であった可能性も否定できない。確かに見方によっては現状の近代化論は「産業的近代化論」に支配され「民主的近代化論」の議論が消えてしまった、という見方をするのは簡単だが、この忘却というのは、むしろ「無理筋」だったものに対する消極的な反省と言えるのかもしれないのである。その意味では本書で指摘されるp40やp47のような「民主的近代化論」の無理解による欧米との同定化志向というのも、むしろ必然的なものであるのかもしれない。この議論は今後実際の言説をもとに考察していきたいところである。

 

※1 例えば伊東祐吏「丸山眞男の敗北」(2016)では「丸山の論考が常に傾向や風潮に逆らって否定的なかたちでしか提出されず、積極的な処方箋としてはありえない」ものだったとしている(伊藤2016,p24)。

 

<読書ノート>

☆p7「近代主義は、「近代主義」的傾向なるものを批判しようとする人々によって外部からつけられた他称である。」

※この主張自体が興味深いとも言える。これが一般則として成立するのであればなおさら。

P8「近代主義とはなにか、近代主義者とはだれか、ということについて、みずから名のりでるものがないとすれば、その定義および支持者の範囲は、近代主義批判者に聞くほかないともいえる。」

P8「近代主義者たちに共通のものは、日本の近代化とその性格そのものにたいする強い関心である。同時に制度的変革としての近代化だけではなく、その変革をになう主体としての、いわゆる近代的人間確立の問題にたいする強い関心である。……外部からの大塚批判があたっていたかどうかは別として、敗戦直後に大塚の発想に近い、あるいはそれを支持する一群の人々が存在していたことは否定できない。」

P9「いちおう日本共産党の政治路線に沿うマルクス・レーニン主義者を正統派マルクス主義者と名づけるならば、それらの人々は自分を近代主義者とはっきり区別している。彼らは、第一には、近代化は要するに資本主義化にほかならないと考える点で近代化の概念そのものを不正確と考えていたし、第二には近代的人間確立が個人主義的方向で理解されやすいことを懸念していた。しかし彼らの批判についてはあとでさらにくわしく取上げよう。他方欧米学者が日本の近代化の問題を考えるとき、その接近の仕方は日本の学者のそれとはかなりちがっていた。簡単にいえば、欧米の学者が近代化という言葉を使うとき、それは自国の問題としてではなく、後進国、特にアジア、アフリカ、ラテン・アメリカなどの低開発国の問題――主としてその産業化の問題――として考えている。しかし日本の学者のばあいにはそれはつねに自国の問題として、したがって主体それ自体の問題として、考えないわけにはいかないということがある。「近代化」という概念自体は欧米産でありながら、この概念を使う当事者としての私たち、あるいは後進諸地域の人々にとっては、それはまったく自分自身の問題にほかならない。そういう逆説が、近代化の問題にはある。近代主義者が、主体あるいは主体性の問題に強い関心を持ったのもひとつにはこうした事情が背景にあるのである。」

 

☆p10「ところで近代主義という言葉が卑俗にマイナス・シムボルとして使用されるとき、それは欧化主義と等置されやすいが、しかしこの巻で登場する人々はけっして単純な意味での欧化主義者ではない。しかし同時に、それらの人々は、とくに西欧の思想学芸にたいして窓をひらくことにたいしてつねに積極的な人々であったということは否定できない。その教養も広く深く西欧的である。そのことはそれらの人々の仕事の利点でさえあった。しかもなお大塚がなげくように、大塚のいわゆる「近代的人間類型の創出」などという発想にたいして、「たとえば過去のイギリスを現代日本の理想像として設定し、それとの距離で現在の日本の歴史的位置を計ろうとしているといった類の奇妙な曲解が生じ」たということが起った。大塚の意図は、もちろん「近代初期のヨーロッパの事情を現代日本の模範としようとしたり、それとの距離で現代日本の歴史的位置を計ろうとしているのでは、さらさらな」かったのである。しかしこうしたことが起るのは、日本の近代化と西欧化との関連について、また今後の見通しについて、さまざまの見解が思想学芸の世界で渦をまいており、だれもこの渦の外に立つことはできないという単純な事実のためであったろう。」

※お茶を濁した総括といってしまえばそれまでだが、これはこれとして一つの総括である。

P19「蔵原(※惟人)は(※前衛1948年8月号にて)近代主義を次のように説明した。「近代精神と近代主義とは区別されなければならない。近代はその勃興と発展と没落の歴史をもっている。近代主義は近代資本主義の末期、特にその帝国主義の時代にブルジョア文化のうちに現われた一つの頽廃的な潮流である。」」

☆p22「こうした文脈(※政府やアメリカにおける)での近代化論は、反共を軸としながらの産業化的近代化論と言える。これに対して、敗戦直後の近代化論の発想は質的にちがっていた。すなわち、そこでは前近代的社会(とくに封建社会)や前近代的人間関係(とくに封建的人間関係)の克服が第一に問題となった。近代化にはもちろん荒廃した生産力の回復ということもふくまれていたが、そのためにもまずなによりも諸制度、社会のなかの人間関係、個人の思考・行動様式のすべてにわたっての民主化が必要だと考えられた。それは民主化的近代化論であった。そのときいわゆる「民主主義の行きすぎ」を危惧する支配層はけっして「近代化」を口にしなかった。近代化論を民主主義的近代化論ではなく産業化的近代化論に切りかえることができると見てとったとき、はじめて保守的支配層は「近代化」を説きはじめる。」

※この区分について大塚は極めて曖昧だったと言わねばならない。

 

P25「さて以上は、近代化を理解するばあいの最も典型的な四つの接近方法である。ところで敗戦直後に近代化あるいは近代的人間の問題が議論されたときには、いまあげた四つの接近方法のうち、第一と第四とがもっとも重要だったと考える。第二の産業化的近代化論が問題となるのは、ずっとあとである。また第三の複数指標説は敗戦直後の知的雰囲気からは遠かった。敗戦直後の時期には、価値転換は全面的でなければならないという気分が圧倒的だった。そうした時期には複数指標説は人々を十分にはひきつけない。議論の大半は、現象的にはすべて第一の枠組みのなかで展開され、そしてその内部でいくつかの分岐が生れた。そしてその分岐の一部が(少数者をのぞけば、そのことは十分に意識されなかったが、)第四の発想に近づいていた。」

※第一の発想は封建社会から資本主義社会への転換を意味するもの、第四は超歴史的に「近代化は近代史の過程のなかでどの程度にか現実化するかもわからないし、あるいはしないかもわからない」ものとする立場(p23)。

☆p37「国体原理による西欧化の取捨の誤りも指摘された。そこで西欧文明を、その精神をふくめて全面的に学ぶ必要が強調される。むしろ西欧文明をささえる人間類型あるいは精神そのものに注意がむけられたむけられたといってよい。ところで注意がその側面にむけられると、西欧に存在するものーー民主主義の原理とか、個人の自由と独立とか、ナショナリズム個人主義の結合とか、普遍宗教あるいは超越的原理の自覚とかーーが日本にまったく存在しない、あるいはほとんど存在しないという、いわゆる「欠如理論」となりやすい。」

☆P39「ところでそうした全面的西欧化の姿勢そのものは、ほとんど物理的といえるだけに、その反動もやがて物理的に起ってくることは歴史的必然である。しかしもし欠如理論を批判する立場がこうした物理的反動を利用しているとすれば、そのことはけっして欠如理論そのものの批判とはならないし、ましてそれをのりこえていく力には到底なりにくい。たとえば荒正人が原始キリスト教や近代個人主義を考えたということと、風俗的次元でのアメリカ化現象とを同一の次元で考え、後者にたいする批判のほこ先を前者にまでもむけていくとすれば、それは一八〇度見当はずれだったというほかない。前者は社会の全面的民主化の主体性の原理としてーーそれは当然西欧文化にたいする自主的選択を予想するーーいわゆる近代個人主義を求めていたからである。同様に大塚久雄が「プロテスタンティズムの倫理」を考えたときも、それは象徴的原理的に考えられていたのであって、その歴史的時代を日本のなかで再現することとか、その倫理をジャズと一緒に輸入することとかが考えられていたわけではない。」

※これとは別に西欧化を具体的にアメリカ化とみなすかどうかという論点もある。ここでいう「物理的」とは、物的文化を指すのではなく、具体的な指示対象となる思想も含んでいるはずのものであり、日高もそれを前提にし荒正人を引用している。ただ、日高がここで述べているのは文字通り「物的文化」をタテに全体的な思想も「物的文化」と同様の発想がなされることを意味しているわけではないように見える。また、結局「象徴的原理的」レベルのものは「自主的選択」によるもので、それはおのずと「形そのままの模倣」でないことや、「とりいれるものととりいれないもの」の選択でもあることを暗示する。さらに、ここで「それをのりこえる」こととの兼ね合いから批判の意味を捉えることも重要に思える。

 

P40「しかし他面、敗戦後の日本の知的思想的支柱として西欧文化のエッセンスを学ぼうというとき、それが物理的とでもいってよい欧化現象が社会の全領域で進行中であるという雰囲気のなかで主張されることで、かえってその本来の意味がおそろしくゆがめられていったという現実も忘れてはならない。「国体原理」による取捨を批判し、西欧をトータルに学ぼうと言ったとき、そのトータルが、アメリカ独立宣言からコカ・コーラまでの量的全体として受けとられる状況のなかでは、その質的全体そのものの皮相化という現象がおこっている。現に敗戦直後そのことがおこったのである。たとえば、教育理論のなかに、にわかにアメリカ教育学用語がはんらんし、現場の教師がすべてカリキュラムだのシークエンスだのという言葉を口にする時期があったことは、量的全体を導入しようとする衝動のあらわれであった。そうした導入は欠如理論の信用をますますなくすことに役立った。」

※理念と実態の相違をどう考えればよいのか。そしてここで「教育」が取り上げられているのも注目すべきか。

P41「もともとマルクス主義には理論的には、かなり簡単に欠如理論と結びつく性格がある。すなわち、日本の資本主義の発展そのものが、ブルジョア民主主義革命をきわめて不完全な形でしか通過しなかったということを強調したのは、マルクス主義それ自体だった。マルクス主義の世界史の発展段階法則が普遍性を持つとすれば、後進国にとっては欠如理論はある意味では不可能である。」

 

P46「竹内の議論の中心は、「独立」の強調と、「民族」要素の強調とにあることは、すでに述べた。この「独立」の強調で、彼は正統派マルクス主義以外の近代主義者にある面では接近するように思われる。竹内の独立は個人の独立と切りはなせないからである。」

☆p47「そして最後に、第三の(※近代主義にからまる)問題として、近代主義が、歴史的「近代」を固定化したいと考えている人々、それをさらに乗りこえようとする政治的あるいは思想的傾向にたいしてかならずしも積極的ではないような人々によって支持されやすいということがある。じつは近代主義の論理は、本質的には、自分自身が民主主義者であり、自分の属する社会が民主主義社会であることに自足するのではなく、たえず民主主義者となり、民主主義社会となることをめざす、いわば永久革命的志向持っている。しかし現実には、近代主義は「近代」主義となって、「近代」同定の論理におちこむ危険をはらんである。(なぜそうした危険がおこるのかは、ひとつの重要な問題点である。)

 ただしここで指摘しておかなければならないことは、こうした問題点は、他称近代主義者のなかでの最もすぐれた思想家の「思想」それ自体が引きうけなければならない直接的責任ではないということである。むしろそのなかには、ここであげた問題点のまさに正反対のことを主張しつづけた人たちが存在している。ただ思想の内実とその社会的機能とのあいだに、思いがけないズレが生れ、そのズレそのものが自動的に運動していくという現象が起ることも否定できない。近代主義もまたこうしたズレと無関係ではなかったのである。」

※以上日高六郎の解説。

 

P73「いま一度いうならば、それは社会関係の固定性がますます破れ、人間の交渉様式がますます多様になり、状況の変化がますます速かになり、それと同時に価値基準の固定性が失われてパースペクティヴがますます多元的となり、したがってそれら多元的価値の間に善悪軽重の判断を下すことがますます困難となり、知性の試行錯誤による活動がますます積極的に要求され、社会的価値の、権力による独占がますます分散して行く過程にほかならぬ。この大いなる無限の過程こそ文明であり、この過程を進歩として信ずること、それが福沢の先に述べたような神出鬼没ともいうべき多様な批判を根底において統一している価値意識であった。」

丸山真男。「社会関係の固定しているところに権力が集中」する社会と「人間相互の関係が一刻も固定していずに普段に流動」する社会(p72)を「理念型」とする(p73)ことを前提にする主張。なお、日高の解釈では「「近代」の理念のイメージを福沢に託して語るもの」とされる(p55)。

 

P93「わが国経済の再建が民主的方向においてなされなければならないということは、いうまでもなく、いまや一つののっぴきならぬ至上命令となっている。」

※民主的方向に向かう経済の再建とは具体的にどのような状況を言うのか。

P93「ところで、ここで私が強調したいのは、こうした経済民主化の方向を推進するところの政治的主体が十全に形づくられ得るためには人間的主体の民主的基盤が広汎にどうしても成立していなければならないということである。」

P94「もし民衆が示す人間類型が封建的、さらにいわゆるアジア的であったとして、しかも外側から強力によって民主化が強制された場合には、そこに結果として生ずるものはいわば魂の抜けた形骸に過ぎぬであろう。」

※ここで大塚は明らかに「民衆の間に近代的・民主的人間類型の形成をあまり見ることな」いこと、「外側からアンシャン・レヂームの解体と経済の近代的・民主的再建を強制されること」を問題視する(p94)。

P98「民主主義的社会秩序を作り上げかつこれを支えて行く人間的主体たる近代的民衆は、何よりもこうした個人の内面的価値を深くも自覚するところの、人間を人間として尊重するごときエートスに支えられねばならない。」

※大塚はこの議論をするにあたり「儒教道教」の議論を引っ張り、アジア的なエートスは「体面を保つ」ことに重きが置かれていることを批判している(cf.p97)。以上大塚「近代的人間類型の創出」1946。

 

P105-106「が、しかし、それはロビンソン的人間類型の単なる排斥や拒否を意味すべきではあるまい。むしろ、その生ける方面はより高い人間類型のうちに止揚されて、より高められつつ保存されねばならないとわたくしは考える。何故なら、それこそが、真の否定であり、揚棄であるからだ。だからこそ、わが国のように近代的人間類型の確定をほとんど見ない場合での経済(生産力)の正しい建設のためには、やはり、あの勤労、節約、周到、それを貫く自発的合理的な生活の組織化、また「強く」逞しい積極的な建設力、そうした内面的エートスの民衆的確立が特殊的に重要視されねばならないのではないかと思う。」

ロビンソン・クルーソー止揚的な人間像を見出す論考。大塚「ロビンソン・クルーソウの人間類型」(1947)

 

☆P114「そうではなくて、私の意図してきたところは、むしろ、そうした史実の分析を通じて、禁欲の社会的堀進作用、文化形成作用の重要さを知り、かつ、そこから、禁欲に関する一般的な経験法則とでもいうべきものを導き出そうとするにすぎない。なぜなら、日本を含めて、あらゆる国々において、一定の歴史的条件が存するばあい、禁欲は現在でも同様な強烈な作用をおよぼす可能性を依然もっていると十分に想定されるかぎり、その現象の分析基準として、そうした禁欲思想とその行動の一般的な経験法則をあらかじめ知っておくことが、どうしても大切だと考えられるからである。」

※さて、禁欲性と民主性はどう関連するのか。

P115「ところで、戦後はどうか。いわゆる百八十度の転換によって俄かに神聖視されはじめた「自由」の思想は、伝統主義的な旧体制の束縛から民衆を解放したという一面の正しさにもかかわらず、このばあい、あたかもルネサンス思想と同じように、伝統主義的束縛とともに禁欲一般を断罪し、湯水とともに赤子を流しさった嫌いがないではない。私は終戦直後このことを強く感じたのだが、その感じはいまでも強まるばかりである。そこへいわゆる経済の高度成長とともに、レジャーとか、バカンスとかのよび声に支えられて、シニカルで反禁欲的な享楽的消費の高揚が出現した。」

※ここでは戦中までは禁欲性を認めることを前提にしているが、残念ながら、これはどう見ても問題のすり替えである。保守回帰による禁欲性は免罪符になるはずがそうともとらえてないようにさえ見える。ここで非難されるのは退廃的人間と、他律的禁欲志向の人間であるが、「近代的人間類型の創出」ではただただ封建的な人間を否定していたではないか。大塚「現代日本の社会における人間的状況」(1963)

 

P210-211「後進国が、文化を異にする先進国によって征服ないし植民地化されることによって、異質の先進文化を強制された例は史上に少なくはない。しかし、明治維新後の日本のように、当時明らかに後進国ではあったが、すでに独特の、かなり高度の文化をもち、しかもそれが一般国民の中にかなり浸透していたところの民族が、独立を保ちつつ自発的に、異質の文化を摂取し、それによって自国の近代化改革をはかって、これに成功し、急速に後進性を脱却した例は、世界史上にかつて前例がないのである。ここに日本における問題の特殊性がある。」

P231「こういうのが日本における(※「伝統」の)典型的な用例であって、そこでは伝えられたものの内容はさして重要でなく、ただ「長くつづいたもの」にたいする愛着に力点がかかる。もちろん、それを簡単にセンチメンタリズムとして排斥すべきではないが、ただ何でも古いものは残しておきたいという感情をそのまま肯定し、あるいはその上に乗って利用しているだけでは、改良ないし改革ということは出てこないのである。」

桑原武夫「伝統と近代化」(1957)

 

P239「このような社会関係は、民主的=近代的な社会関係とはその原理をことにする。元来、民主的な社会関係の特質は、人がみずからの行動について自主的に判断し決定することと、その必然的な他の一面としての人間失格の相互的な尊重と、であるが、ここにはこのような原理は存在しない。いうまでもなく「権威」というものは、人間精神とその行動との自主性とはまさに反対のものである。なるほど人は、戸主や父や夫の権力や権威にみずからすすんで服従する。しかし、民主的な自主的服従というものは。抗しがたい権威に対する卑屈な服従ではない。」

P240「だからこそ、儒教的家族制度は、政治的権力による命令とくに法律によって強行されることと結びつき、かつそのことを矛盾と感じないのである。すなわち、そこでは、孝や貞は決して人間の内心の問題であるのではなく、法律によって強制されるのであり、道徳はそのまま法律である。近代的モラルによれば、親子や夫婦の関係はなによりも自発的内面的な人間精神の問題であるのだが、武士のつくったわが民法は、家族制度的な権力や権威を規定し、それを法で強制しようとしているのであるし、しかも、大正昭和になっても多くの人々はそれでもあきたらずに、もっと権威的にしようとさえ主張したのであった。」

P240「ここでは、親子や夫婦の関係は、一方的な支配と一方的な服従な関係、一方が権力のみを有し他方は義務のみを負う関係であり、両者が互いに「権利」をもち「義務」を負うという関係ではない。」

※近代的な関係性においては、「互いに平等な主体者の間の関係」とする(p240)。

 

P242-243民衆の家族生活についての説明…「家族秩序は、人の自主的精神によって媒介されるのではなく、直接に「外から」人を拘束するのである。……しかし、ここで注意されねばならぬのは、権威はここでははなはだ人情的情緒的性質をおび、だから権力が権力としてあらわれないということである。権威は一つのあたたかな人情的情緒的雰囲気のなかにあり、だから、それは同時に共同体的意識をともなっている。個々の人間の「権威」はしばしば稀薄となり、家族の全体的「秩序」のみが全体に対し「権威」をもっているにすぎぬものとなる。ここでは、かの儒教的家族におけるような、形式主義的なうやうやしい畏敬は支配しないで、くつろいだ・なれなれしい・遠慮のない雰囲気が支配し、そのなかを、そうしてそのような雰囲気に媒介されて、客観的な秩序が貫徹しているのである。……すなわち、儒教的家族制度は、外的力そのものの強制によってーーだから政治権力や法律による強制によってーー維持されうるしまた維持される必然性をもつが、ここではそのような外的力によっては秩序は維持されないし、またそのようなものによって維持される必然性もない。ここでは人情・情緒が決定的である。しかし、この家族が、同様に法律や政治権力によって強制されるのでないところの近代家族と同一の原理・同一の精神的基礎の上に立っているわけでは全くない。両者の間には決定的な差異がある。なぜかといえば、ここで家族的人情や情緒を決定するものは、人間の合理的自主的反省をゆるさぬところの盲目的な慣習や習俗であるが、近代家族においては、合理的自主的反省、「外から」規定されることなくみずからの「内から」の自律によって媒介されるところの「道徳」が支配するからである。だからここでは何びとも個人として行動することはできないし、独立な個人としての自分を意識することはできない。何びともつねに、協同体的な雰囲気につつまれ、そこに支配する客体として、みずからを意識しなければならない。」

河合隼雄の「権威がない」欧米人像は明らかにこの主張に紐付く。「すべては雰囲気のなかでなんとなくわかっており、またわかっているように思いこませるのである。」

 

P244「家族制度の生活原理は、家族の内部においてだけでなく、その外部においても、みずからを反射する。そうしてこのことによって、家族生活の非近代的=非民主的社会関係を必然ならしめる。

 このような家族生活のなかに生きている人々にとっては、家族外の社会は、「秩序」のない人間関係、本来何の必然的つながりのない関係、としてあらわれる。……そこには、近代的な、契約の自発的履行の義務意識、他人の所有権の自発的な尊重の意識はなく、ただ担保や手付けが交付されることにより義務が外国化された場合にのみ、義務履行の意識を生じ、また所有者が現実に占有している限りにおいてのみ、人はそれを尊重せざるをえぬ外部的必然性に基づき尊重する。」

※ここで指している型がどちらのものかわからない。両方を指しているつもりか。

P248「「長をとり短をすてる」ことによって家族制度の民主化がなされうると考えるのは「甘い」考えであり、ほかならぬ温存主義であり、これこそは、民主主義革命がわれわれの「内から」自主的に出てきたのでなく「外から」――悲しいかな非民主主義的にーー強力的に課せられたというわれわれの歴史的運命の所産である。」

※以上、川島武宜「日本社会の家族的構成」(1946)

 

P266「戦後の民主化の過程から生じた精神上の変化には、その後もとへひきもどそうとする力が加わったにもかかわらず、容易にもとへもどらぬものがある。もとへもどらぬものは日本人としての自覚であって、枝葉の接木としての西洋文化の輸入というようなことではない。」

加藤周一「日本文化の雑種性」(1955)。模倣的西洋感は否定されているといえる。

P358「終戦後に「科学への期待」が叫ばれたことの背後には、私はさらに第三の面があったと思う。それは、科学的精神が不十分であったために無用の戦争を始めることになってしまった、という反省である。」

※科学がなかった(軍閥が尊重しなかった)、今後の日本は科学なしにはやっていけない、というのが他の側面とみる。都留重人「科学と政治」(1952)

佐藤忠男「草の根の軍国主義」(2007)

 今回は日本人論の議論の一環で佐藤忠男を取り上げたい。

 本書の中心的な議論は日本人の心性における「忠臣蔵」の影響力についてである。これは「忠臣蔵-意地の系譜」(1976)という著書でも基本的に同じ議論をしているので、適宜そちらも取り上げながら佐藤の日本人論を検討してみるが、本書でも「日本人にとっての聖書」とさえ述べる位重要性をもったものと認識している(p224)。

 1930年生まれの佐藤の問いというのは、あれほど戦時期に「鬼畜米英」などという言葉で対抗的であったアメリカに対し、何故敗戦するとまるで何もなかったかのように振舞えたのかというものであった(cf.p164-165)。これは、戦時期に学校教育を受け、優等生的な軍国少年であろうとした佐藤自身の実感としてもあったものであり、自身に対する問いでもある。

 この問いに対して、佐藤は映画における欧米との比較を起点に議論する。その特徴の一つはp152にあるように、日本の戦時中の映画が「反戦映画」にさえ見えるほど、戦意昂揚映画には見えないことである。この視点はピーター・ハーイのレビューでも見たように、「他者認識」に関する議論とリンクしてくる内容であるが、別の著書では次のような指摘もされ、日本では「人を殺していいのか」といった視点から描かれた映画が終戦直後までは皆無だったとする。

 

「戦争とは、まず、人を殺すことである。敵はむざむざ殺されはせず、逆にこちらを殺そうとするから、結果としてこちらが死ぬ可能性も大きいわけだが、戦争をする目的は人を殺すことであって、自分が死ぬことではない。ところが日本の戦争映画では、戦争中の戦意昂揚映画はもちろん、戦後につくられた反戦的な作品でさえも、自分がいかにして死ぬ覚悟を得られるか、また自分を死地に追いやる者をいかに憎むかということしか問題にしていない。人を殺していいのか、自分には人を殺すことができるのか、ということがテーマになることはかつてないのである。」(佐藤「日本映画と日本文化」1987,p111)

 

 そしてもう一つが、「忠臣蔵」的心性とも総称される、一種の「意地」によるものである。「忠臣蔵」的心性は古くから日本で支持され続けた考え方であり、その発想は部分的には他国から「奇妙」に映る部分であるとされる。

 さて、この「忠臣蔵」的心性とはいったい何を指しているのか。これは必ずしも佐藤の中で明確に定義づけられているものと言い難いが、概ね互いに関連付けられた3つの視点から述べられていると捉えることができる。

 

①(自)死の美化

 「忠臣蔵」では討入りしたことに伴う切腹処分というシナリオが赤穂浪士の「義」を示すものとして美化され、「死」の正当性を「忠臣蔵」と同じように正当化することと結びつけられたことを佐藤は指摘する。P252-253では集団自決を美化する日本人の特殊性を指摘するが、「忠臣蔵」以降の物語群の中で繰り返し同様の美学が語られ、それは佐藤が中心的に映画評論に関わった戦中期にまで及んでいた。

 

「維新の戦争にも、太平洋戦争にも、ただみじめなだけの死に方をした戦死者のほうが圧倒的に多いわけであるが、白虎隊や特攻隊の死に方が死者の代表として語り継がれ、他は我々に忘れられてゆく。白虎隊だって、特攻隊だって、よくよく考えればみじめなものだと思うのだが、なにしろわれわれは、「忠臣蔵」いらい、儀式化された切腹をショーとして美化してきたので、集団的な自殺というものを崇高な情感のあふるるものとしてイメージする、そのイメージの仕方を心得きっているのである。」(佐藤1976,p206-207)

 

二・二六事件の起った一九三〇年代の日本は、満州事変とそれに次ぐ国際社会での孤立化のなかで、帝国主義的列強諸国から包囲されて国際的な意地悪を受けているという意識を強く抱いていた。国民のなかの国家主義的な感情としては、この意地悪に対して意地を張ることを軍に期待していた。……浅野が切腹して一年九カ月後に四十七士が吉良邸に討入ったように、二・二六事件が起ってから一年五カ月後に日本軍は中国軍と本格的な戦争状態に入る。皇道派青年将校たちは、処刑されたときには統制派の上官たちをこそ憎んでいた。しかし国家主義的な国民感情としては、青年将校たちは中国との戦いでこそ死にたかったはずだ、と察し、日本軍が中国を攻撃したことで、死んだ彼らの靈もなぐさめられているはずだ、というふうに感じていたはずである。この点も「忠臣蔵」的である。」(佐藤1976,p170-171)

 

②「意地」の正当化

 佐藤が最も「忠臣蔵」的心性の議論で重きを置くのがこの「意地」についてである。この意地については決して「日本人論的」に語られるべきではないという留保を佐藤自身つけている(佐藤1976,P227)。これに関連して、佐藤が小中学生などを対象に書いたと思われる「戦争はなぜ起こるか」(2001)では、特殊日本的な語りはほぼ皆無であり、一般的な視点から、不当な支配を受けている他国の「解放」や、将軍の「意地」により戦争が継続してしまうことといったことから戦争が起こる理由と継続する理由を説明している。

 

「日本が中国を侵略しているとき、日本人自身はそれを侵略だと思わず、アジアを解放しているのだと思った、と前に書いた。そういう勝手な思い込みは、日本人に限らずしばしば起こることである。」(佐藤2001,p64)

「これで分かるように、外国にたくさんの軍隊を送ってしまった国が、それをひきあげるのは、たいへんむずかしいことである。しかし、将軍たちは軍人としての名誉が丸つぶれになるからひきあげたがらなくても、政治家がはっきりと命令を下してひきあげさせれば、まったくできないということではないはずである。」(佐藤2001,p76)

 

 本書ではp164-165でこの意地に触れられているが、この意地を正当化することを「忠臣蔵」の物語群は支持し、それが日本人の心性にも生きていることを佐藤は指摘するのである。

 

「突飛な連想のようだが、太平洋戦争の開戦も、日本人の心理のなかでは「忠臣蔵」ふうの過程をたどった。われわれは、われわれのほうで中国に対して徹底的な意地悪をしていることなど念頭になく、ただただ、アメリカ、イギリス、オランダなどから、意地悪のかぎりをつくされていると感じていた。浅野内匠頭や早野勘平に相当するのは、日清、日露、そして日中戦争ですでに死んでいる何十万という英霊たちであり、その英霊たちをなぐさめるためには、国民は要するに、堀部安兵衛武林唯七のように勇気をふるいおこせばいいのだ、と思っていた。……真珠湾攻撃はまさに討入りであった。」(佐藤1976,p94)

 

③「大衆」による美化の再生産

 佐藤の議論で注目したい点の一つは、この「忠臣蔵」的心性の形成における「大衆」の役割である。ここでいう「大衆」というのは正確な定義が難しい所だが、簡単に言えば、「メディア」と同義でもよいかもしれない。事件以降の芝居や読物、そして戦時期には映画にもその議論を正当化するものとして語られた。

 これは単なる物語の作り手側の問題ではなく、受け手側の「大衆」側の問題としても強いと佐藤はみている。本書で言えば、「爆弾三勇士」の美化も権力側ではなく、むしろ大衆側からさかんに賛美の対象とされたことを指摘しているが(p102)、これもまた「忠臣蔵」と同じように、大衆側からこの事件が解釈・単純化され、それを模範的なものとして再生産していった事実を佐藤は強調したいのである。

 

「彼ら(※当事者)に代って、これが敵討ちであると主張したのは世論である。そしてさらに、浅野の死に吉良が責任があるという話をたくさんつくり出して、その世論が論理的に一貫しているものであるかのように体裁をととのえたのは、まさに後世の歌舞伎作者たちであり講釈師たちであり小説家たちである。敵討ちとしての大義名分が成り立つかどうか疑わしいケースを、世論が強引に敵討ちにしてしまったのである。」(佐藤1976,p10-11)

 

○「意地」と日本の「近代観」について…「他者理解」との関連可能性について

 さて、この「忠臣蔵」的心性との関連で議論したいのが、日本的な「近代観」である。というのも、侵略戦争の正当化ということ自体が「近代の超克」といった言葉などによって欧米を乗り越えるための「意地」の産物であるように読み取れるからである。

 この議論を展開するのに先立ち、佐藤の2つの指摘から考えてみたい。一つは、p152で語られるような他者認識の欠落の議論についてで、もう一つはp143で語られている「敵国の捕虜となった場合、自分の家族が迫害される」という状況の背景をどう考えるかという点である。

 

 まず前者についてであるが、これは日本が『屈折した近代観』を持っていた事実と関連付けると腑に落ちる部分も多いことがわかる。佐藤はこれについてヨーロッパ人などは親類同士という意識があることとの関連性も指摘する(佐藤1987,p113)。これは島国日本が「外国人」と接する機会が少ないから他者感覚に乏しい、という議論にも似た所があり、部分的には間違えていないようにも思える。しかし、日本人の閉鎖性などの議論により他者認識が欠落したという見方で日本の戦争映画における特異な状況を説明し尽してよいかと言われると、私には疑問な点もある。

 そこで考えられるのが日本における『屈折した近代観』である。そもそも日本は欧米に対する対抗心を対外的戦争における正義として位置付けた。これは欧米的帝国主義(侵略的な立場)や個人主義的心性に対する対抗心として現れたものであった。ということは、そもそも日本においては「侵略」は表面上はタブー視されたのは当然であろう。キャプラなどが日本の映画を「反戦映画」としてみたのは、文字通り日本において「反侵略映画」が描かれることを求められていたからではないのか?

 そして、侵略を前提としない、戦意を高める映画として、侵略される「他者」に注目した内容ではなく、「自己」の心理に徹底的に注目した形で戦争を描く、という選択肢しか、日本には形式的にはなかったのではなかろうか?但し、これを考えるにあたっては、「鬼畜米英」や「暴支膺懲」といった言葉をどう考えるべきかという議論が重要になってくる。これらは明らかに(具体的でないかもしれないが)「他者」に対する言葉であり、「自己」に向かう映画の議論と噛み合わないようにも見えるからである。佐藤的な回答としてはこれもまた「意地」の産物ということになるのであろうか?まさに『屈折した近代観』に反する米英や中国は懲らしめられる対象でなければならない、という意識の強さ(=意地)が排他的言説を生んだが、これを戦後は驚くほど対抗的でなくなったという事実からすれば、非難の対象は具体的他者なのではなく、何か抽象的な、そして漠然としたものであったのかもしれない(※1)。

 

 さて、もう一つの論点である「捕虜の家族迫害」の関連性について考察してみたい。これも閉鎖的なコミュニティと「草の根の軍国主義」が生んだ排他的行動の現れとして見れば理解可能なようにも思える。少なくとも、このような排他的態度を行う者の側は、敵国の捕虜になってしまうことを大変惨めなこと、ないし「反忠臣蔵」的な態度として捉え、それを何故か家族にまで責任転嫁してしまう、という愚行を行うことをどう考えるべきか。本書からはとっかかりがないものの、別著で次のような指摘を佐藤が行っていることから考えてみたい。佐藤は「判官びいき」について次のような指摘を行っている。

 

判官びいきという心理が日本人にあるのは事実だが、それは敗者一般や弱者一般に同情するというヒューマニズムの一種なのでは必ずしもないように思われる。……しかし、判官びいきというのは、それよりももっと、御霊信仰的な性格に近いものなのではないか。つまり、たんなる敗者なら軽蔑するだけだが、死んで悲憤の荒魂と化したと想像されれば尊重するのである。

 こういう心理は、敗者に味方するヒューマニズムというより、むしろ、権威崇拝の行きすぎにある程度ブレーキをかける一種の自動制御装置というべきものであるように思われる。勝者は尊敬されるべきであり、人民は勝者に服従すべきである。敗者は軽蔑されて仕方がない。が、しかし、勝者といえども敗者に対して勝手ほうだいになにをやってもいいというわけではない。殴ったり犯したり、ツバを吐きかけたり、人格的な侮辱ぐらいはどうやらかまわないらしい。しかし、虐殺だけはいけないのである。不当に抹殺されると、それは荒魂となって害をなすおそれが生じるのである。かつて日本人は、勝者に追従しながら、しかし、勝手に追従しすぎて彼らに無限の力を与えることの危険を制御するために、そういう信仰の歯止めをかけようとしたのではなかろうか。勝者はおおいに威張るがよい。が、しかし、威張りすぎて自分に歯向う者を虐殺するようなことがあると、そのときは人民の同上は虐殺された者に集り、為政者といえども不信の眼で見守られることになるぞ、と。」(佐藤1976,p120-121)

 

 この判官びいきの心理について、村八分の制度にも類似のことが言えるとしている(佐藤1976,p122)が、捕虜の家族の迫害は、基本的に村八分的なものに近しいように思える。これは結局、①「忠臣蔵」的心性を持つことが当時の大衆にとって遵守されねばならないことであったこと②捕虜となる行為自体が「忠臣蔵」的心性に真っ向から対立すること③規範に反した者の家族は捕虜同様の「違反者」であり、排他的態度が正当化されること、という順での解釈を行う他はないだろう。少なくとも、佐藤はこのようなメカニズムの発生を明確にではないが抱いていたのではなかろうかと思う。

 そして、このような制度にはヒューマニズムが介している訳ではなく、権威の発動をよりソフトなものにするための原理として用いられているという点も無視できない。結局この議論も「他者理解」をもとにしている訳であると言えない、ということでもある。

 さて、このような理解だと「捕虜の家族迫害」は『屈折した近代』観とはあまり関係がなく、むしろ近代以前の日本の慣習との関連性の方が強いように思えてくる。この事実がある可能性は否定しないが、映画でこのような「捕虜の家族迫害」が語られた理由として、当時の実態が反映されたからではなく、(実態を伴わない)言説が流布していた可能性は別に存在する。ジョン・ダワーは捕虜の家族迫害に関連して、捕虜に関する議論について次のように指摘する。

 

「かなりの人数の日本兵が捕虜になった場合もあるにはあったが、たしかにジャングルや太平洋諸島での戦いにおいては、日本兵の大部分は、殺されるまで戦うか、あるいは自ら命を絶った。それには多くの理由があった。その大きなものは、天皇および国のために自らを犠牲にせよという教えと、降伏はするなという上官の命令であった。日本人は、この戦いは鬼のような敵に対する聖戦であると教えられ、そして実際多くの者が崇高な目的のために命を捧げると信じて死んでいった。そうした姿は、敵側から見れば「狂犬」であったが、彼ら自身からすれば神聖なる献身であり、また日本国民の目からすれば英雄であった。集団心理や集団逆上は、たしかにこうした死を煽り、バンザイ突撃に一種の陶酔感さえ与える一因であったが、同様に、使命、栄誉、従順という日本の風土に深く根ざした要素も、その一翼をになった。すなわち、日本兵は、ただ国や支配者がそうしろというから命を捨てたのである。またある者は、自分が降伏すれば家族が村八分になると信じて、最後まで戦った。

 しかし見過ごされやすいのは、他の方法がなくて見絶えた日本兵が数えきれないほど多い、という事実である。一九四五年六月付の報告書の中で、戦時情報局は、尋問を受けた日本兵捕虜の八四パーセントが、捕虜になったら殺されるか拷問にかけられると思っていたと述べた、と記録している。情報局の分析家たちはこれを典型的なものと称し、「武士道」よりも降参したあとに起こることへの恐れこそが、戦場で追いつめられた日本兵たちが死を選ぶ大きな動機であるとしている。そしてそれは、他の二つの大きな要因に匹敵するもの、あるいはたぶんそれらを超える要素であろうとしている。その他の二つとは、家名を傷つけることへの恐れと、「国、祖先、神である天皇のために死にたいという積極的な願望」である。一方、たとえ投降の意思があったとしても、それは容易なことではなかった。たとえば、終戦直後に戦時情報局用に作成された概要報告書を見ると、日本人捕虜に関する書類には、降伏を試みて、しかも撃ち殺されないためにはどうしたらいいかに関して、捕虜たちが知恵をしぼった話がたくさん記載されている。すなわち、これは連合軍側が「捕虜をとることに難色を示したために、降伏が実際に難しい状況にあった」ことを示すものである。

 アメリカの分析家たち自身認めたように、こうした日本側の恐れは決して不合理なものではなかった。戦場では、連合軍兵士も司令官も多数の捕虜を望まない場合が多かった。これは決して公式の政策ではなく、場所によっては例外もあったが、アジアの戦場においてはほとんど常態であった。」(ジョン・W・ダワー「人種偏見」1986=1987、p86)

 

 ジョン・ダワーの場合、降参の拒否というのは、「意地」に代表される忠臣蔵的日本人論的解釈というよりも、「降参したあとの恐れ」がそれを上回るものだったという見方をしている。これは、「忠臣蔵」的なイメージは確かに存在し、戦場で戦う日本人の制約となっていたのも確かであるものの、それ以上に「自死」が迫られる状況にあったことが重要な要因だったということである。また、このダワーの指摘からは「捕虜の家族迫害」は一つの有力な言説として成立していたことも注目すべき所だろう。

 類似の指摘がヘレン・ミアーズによってもなされている。むしろダワーの議論は、ヘレン・ミアーズの指摘に基づく部分も大きいものと想定される。

 

「それに、日本兵の多くは農村出身者だった。神道には多くの農耕儀礼が含まれている。彼らの心に深く根を下ろす郷土愛が、彼らの愛国心をより強いものにしていた。日本兵はよく訓練され、質素でスパルタ的生活に耐えるよう鍛えられていた。彼らは任務を果たした。しかし、戦場からの報道を読んでも、日本兵が「戦うのが好きだから」、あるいは「戦死は崇高な運命」と思っているから、あるいは「天皇のために死にたいというファナティックな願望」から、あるいは勝利を確信して、圧倒的に優勢な敵に立ち向かったことを裏づけるものは何も見出せないだろう。

 もちろん、ファナティックな蛮勇の表われと思われるような「撃ちてしやまん」型の戦闘はあった。しかし、それはほとんどの場合、カミカゼ特攻隊員、人間魚雷で単独で乗りこむ乗員、選り抜きの攻撃隊員だった。カミカゼパイロットはほとんどが大学生だった。彼らは熱烈な愛国主義者であり西洋嫌いであった。なぜなら、昔から白人はアジア人を劣等人種と考え、人が見ていないところでは、実際に劣等人種として扱っていると彼らは思っていたからだ。

 自ら溺死したり、圧倒的に優勢な敵に無益な攻撃をかけるという集団自決行為は、明らかにヒステリーと絶望の結果である。こうした集団自決の動機は、多くの場合、降伏したらどのような扱いを受けるかわからないという恐怖だった、と信じるに足る明白な証拠がある。日本のプロパガンダは、私たちと同じように敵である私たちの野蛮さと残虐さを強調していた。アメリカ人を野蛮で残虐な人種として描くプロパガンダに対して、私たちが一人でも多くの日本人を殺すことで応えたことは、きわめて重要だ。一方、日本人は自分たちを殺すことで応えたのだった。

 戦争の初期の段階では、捕虜の数はきわめて少なかった。これは一面では、拷問と虐待を恐れる日本兵がかなりの数にのぼり、捕虜になるより自殺を選んだためであり、また一面では、全体として、捕虜にしないという私たちの方針によるものだ。こういう方針がなぜ許されたかというと、日本人捕虜は危険であることがわかっていたからだという。日本人捕虜が自分を人間爆弾にして、捕らえたものを巻き添えに自爆することが何回かあったというのだ。」(ヘレン・ミアーズ「アメリカの鏡・日本」1948=1995、p124-125)

 

 ミアーズの議論で注目すべきは、日本人が影響を受けていたプロパガンダである「残虐さ」である。私などは、この「残虐さ」の認識に『屈折した近代』の見方が関連しているように見えてならない。結局、自らの「近代の超克」を実現するにあたり帝国主義的近代観を単純化してしまう中でこのような「残虐性」といったプロパガンダも「近代」の象徴として強調されやすくなり、その悪影響を受けてしまっていたという言い方もできるのではないかと思う。

 この見方は佐藤の「草の根の軍国主義」的発想とは対立する議論であろう。佐藤は実際にそのような迫害があった根拠として「捕虜の家族迫害」を論じたが、私がここで指摘するのはむしろ言説化した「捕虜の家族迫害」であり、そのような言説が映画に影響を与えた可能性と、戦場で「自死」した者の動機が「捕虜の家族迫害」という言説にも回収される可能性であり、その言説はそもそも『屈折した近代』を経由している可能性があるということである。

 

 以上のような議論を前提とした場合、本書を読む上で特に注意すべきは、p47-48で語られるような「アジアの侵略」に関する内容である。正直な所、佐藤が引用した映画の内容からは「侵略を積極的に推進する」だけの文言に出くわすことはない。にも関わらずそのように見えてしまうのも、『屈折した近代』観によりアジアが自らの領土であることを「前提」にしてしまった映画の内容となってしまっているからである。ここで重要なのは当時の日本が「侵略」を意識していたどうかという議論ではない。むしろ重要なのは、そのような積極的な「意思」がなくても、「侵略」に代表されるような他者への侵害行為を行うことが可能であるという事実である。そして、その要因となっているのが「意地」であるという点である。合わせて、『屈折した近代』が「日本人論」を増幅させるような議論が、戦時中において多分に存在していたということも確認できるだろう。本書を評価すべき点はここにあると考える。

 

※1 もっともこれは「意地」といった系譜を引き継いでいない、単なるプロパガンダ以上の意味はなかったという見方も行えるだろう。安岡章太郎の回想として次のような話があるようである。

「戦時体制下であっても、国民を戸惑わせたのは「鬼畜米英」の政治プロパガンダである。昭和戦前期をとおして形成された親米感情は、途絶えることなく、日本社会の底流として存在しつづけた。

 以下は作家の安岡章太郎の回想である。「『鬼畜米英』という言葉は、軍事や右翼イデオローグたちの造語にすぎないだろう。戦時中、どこかの奥さんが、捕虜になった米兵を見て『お可哀いそうに』と言ったので軍人たちが憤慨したというエピソードがあるくらいで、一般の日本人には、アメリカ人を鬼畜として憎む気持ちはなかったのではないか。/戦前から私たちは、むしろアメリカ文化に対する羨望の気持の方が強かった」。」(井上寿一「戦前昭和の社会」2014,p227)

 もっとも、本書で自身の幼少時代を懐古し、丁寧に如何なる「軍国少年」であったかを語る佐藤から見れば、明らかに「意地」が自身の実感としてあったため、このような単なる言説上の問題ではありえなかったのだろう。

 

 

<読書ノート>

P47-48「この映画は一方で西洋列強の侵略からアジアを解放することは「日本の使命」だと恰好よく謳いあげながら、他方、じつは日本自体も貧乏でニッチもサッチもゆかないのだからアジアの侵略だってやるという本音も、けっこうあからさまに表に出しています。そこが迫力のあるところです。」

※1934年頃製作されたとされる「一九三六年」の説明。全編の引用があるものの(p35-45)、この言い方は適切に見えない。P37で南洋および満州が「日本の生命線」とされ、p44と農村疲弊と都市の頽落が語られる。直接な侵略の正当性は語られることなく、欧米に奪われる可能性についてそれを断固拒否すべきという論法を展開している。

 

P59「明治十五年の「幼学綱要」から明治二十三年の教育勅語までの間に、忠と孝の徳目の位階序列に逆転が生じています。」

P59-60「江戸時代の庶民教育の権威である石川謙によれば、江戸時代の寺子屋で用いられた教材の中に忠という観念が現れてくるのは江戸時代も半ばを過ぎてからだそうです。明治以前あるいは江戸時代以前の古い時代というと、われわれは殆んど小説や映画やテレビドラマなどの物語を情報源として知っているわけですが、人気のある物語類の大部分は侍を主人公にしたものです。そして侍にとってはいちばん大事な徳目は忠義なので、つい、忠こそは昔の日本人の最高の徳目、と思い込みがちなのですが、じつは江戸時代まで、一般庶民にとってはそうではなかった。農民や漁民にとっては、せいぜい寺子屋でこの字を習うことがある程度だったようで、あまり実感のともなうものではなかったようです。

 なぜなら、農民は領主に年貢を納めるだけで、直接には領主の臣下ではなかったからです。地主や村役人に対しても、その家に奉公するのでないかぎり、その家来だったわけではありません。」

P60「いっぽう、孝のほうは、観念としては中国の儒教から来ているものですが、寺子屋儒教道徳の一部として教わるまでもなく、家庭生活の自然のあり方に根ざした観念として古くから農民は身につけていたはずです。」

P61「ごく大雑把に言って、忠は侍のモラルの基本、孝は農民のモラルの基本、両者のモラルははっきりしていてアイマイなところはありません。」

※「農民のモラルこそが社会の基盤」であったといえるし(p62)、これが、明治新政府の課題ともなったとする。

 

P102「その慎重さからすると、やはり、前述したような逃げ遅れやミスや事故ではなかったかという疑問点とそれに関連する噂は相当な障害だったようです。教科書に載せろ、という運動がいくつかあったにもかかわらず、それが実現したのは太平洋戦争になってから、戦争の話をとくにたくさん載せるように改訂したときです。陸軍のほうも、日露戦争のヒーローである海軍の広瀬中佐や陸軍の橘大隊長のことは軍神と呼んだのに、爆弾三勇士はあくまで勇士であって軍神の呼称はついに用いませんでした。将校のエリートなら軍神と呼んでもいいが、下層の兵卒にはいかがなものか、という差別的なためらいがあったようです。

 これらを考え合わせますと、軍も政府も三勇士を愛国心教育の絶好の材料として利用したことは確かですが、熱意の点では新聞と国民大衆のほうが先行して燃えていたと思います。」

※少々教科書の話は無理矢理な感がある。この話に関係なく、そもそも国定教科書の改訂はそう簡単にできなかっただろう。

P103「三勇士の記事が出たのは二月二十四日ですが、翌三月にはじつに七本もの「爆弾三勇士」ものの映画が作られて公開されました。いくら当時、即席で作られる映画が多かったにしてもこれは異常です。じじつ外国映画の戦闘場面などをつなぎ合わせた中に若干の三勇士の場面を演出して入れ込んだというような粗末なものが多かったのですが、それがみんな大入りになって社会現象化しました。」

P104「私はものごころついた頃にはすでにそのブームは過ぎていたわけですが、それも折にふれ、絵として歌として語られていましたし、特別な精神教育など受けていない名もなき庶民でもこんな崇高な行動ができる、それが日本人の、日本人ならではの凄いところだというふうに雑誌や本で述べられていました。」

 

P140-141「一般的に言って日本兵は確かに勇敢に戦った。捕虜になることより戦死するほうを選んだ。「戦陣訓」発布以前からそうだった。そのことを日本兵たちの国家や天皇への忠誠心の高さのためだったと考えてもいいし、民族主義がとくに強かったからだと言ってもいい。しかしそんな颯爽として勇ましくさえある動機には要約しきれない心情もそこにあったと思います。むしろ捕虜になどなったら郷里の家族が迫害を受ける、という暗黙の認識がそうさせたのだと考えるほうが私には分りやすい。」

P143「映画「足摺岬」で見た、兄が捕虜になったために故郷の村で居たたまれないような迫害を受けて東京に出てきているという、あまりくわしく描かれているわけでもない薄幸の姉弟の小さなエピソードひとつを根拠にして、旧大日本帝国軍隊の士気を論じるというのはかなり無茶なことかもしれません。

 私はあの映画の姉弟に涙しましたが、それが日本の社会には一般的に言えることだと主張できるだけのなにか客観的な数字などのデータを持っているわけではありません。しかし私は、この議論の進め方をさらに拡大して、近隣の人々が捕虜の家族を迫害するような心性を、かつて日本の社会には確実に根を張っていた〈草の根の軍国主義〉であると言いたい気持を抑えきれません。」

 

P147-148「太平洋戦争の最中に、アメリカでは学者や映画人たちを動員して日本映画の研究をやっていました。日本人というやつは自分たちの常識からかけ離れた連中であって、どう扱ったらいいのか分らない。日本人の取り扱い方を知るためにも日本人の国民性について知らなければならない。それには日本映画を見て分析研究するのがいいかもしれない。アメリカにはハワイやロスアンゼルスのように日本人がたくさん住んでいる地域があり、そこには日本映画専門の映画館もあって、映画も手に入るから、ということで、文化人類学者のルース・ベネディクトや、ハリウッドの有名な監督で政府の要請を受けて戦争遂行のための宣伝映画を作る任務についていたフランク・キャプラなどがそれに参加していました。」

P152「というのは、ルース・ベネディクトは「菊と刀」で、前述した日本映画の研究会で見た日本の戦争プロパガンダ映画について、大要つぎのような見解を述べていたからです。

それらの日本の戦争映画は日本軍の強さとか正義といったものをあまり強調していない。敵を憎まなければならない理由もあまり描かない。ただただ描かれているのは、あまり強そうでもない見るからに善良そうな兵士たちが、苦しい戦場にひたすら黙々と耐えている姿ばかりである。フランク・キャプラに言わせれば、これらは戦意昂揚映画であるどころか反戦映画だという。」

 

P164-165「私にはやはり、敗戦の前の日本についにひとつも戦争反対の暴動が起らなかったこととおなじくらい、敗戦直後のアメリカ軍の占領下におかれた時代に、どうやらひとつも反米テロが生じなかったことが、いまだに不思議に感じられます。繰り返し言うが、いったいわれわれ日本人は本当にアメリカを憎んでいたのか。じつは憎んでなどはいなかった。中国人も憎んではいなかった。ただ、中国人や朝鮮人に対してはひどい差別意識を持っていた。戦争というのはいつも中国大陸でするものだと思っていましたし、そこは日本軍が自由に動きまわってかまわない場だと思っていて、抵抗する奴はこらしめてやればいうのだと思っていた。それをアメリカに止められたとき、われわれは逆上しました。アメリカに戦争をいどんだのは、中国人や朝鮮人を軽蔑することでやっと手に入れた世界の一等国民という自惚れをとりあげられようとしたことへの愚かな意地だった。」

※後半の主張は正しいのか??

P170-171「検閲が厳しくて戦争に批判的な記事は載せることができなかったと戦後になると言われて、事実そうだったことは間違いないんだけど、しかしそれにしては、じつにもう、とても冷静な頭で書いたとは思えない記事ばかりでした。熱狂的な軍国主義者でないと書けないような記事で紙面が埋めつくされているのが当時の新聞だったことは強調してもし足りないと思います。たぶんそういう酔っぱらったような記事でいっぱいの新聞がよく読まれて、冷静な新聞はあったとしても売れなかったのではないか。読者がそうだから新聞のほうもそうなった、と言って言えないこともない。」

 

P209「こうして冷笑をあびながらも東京裁判での東条は持ち前の敢闘精神を発揮してよく検事と渡り合っています。日本の侵略戦争をすべて正当化するその論理は間違っていますが、責任はすべて自分にあるとして他の被告をかばい、とくに天皇をかばいぬきました。最初から死刑は覚悟のうえであり、ドイツのゲーリングニュールンベルグ裁判で死刑の判決を受けたうえで自殺したことを知って、自分はそんな卑怯なことはしないと言っています。」

P224「「忠臣蔵」が巨大な物語群となって日本人に浸透すると、日本人はどうも、この物語の信仰の型というのが身についてしまって、その型に合わせて現実を解釈することがクセになってしまったようです。西洋人は聖書の物語の型に合わせて現実の歴史を解釈することがあるでしょう。「忠臣蔵」が日本人にとっての聖書か、というと、違うような気もしますが、当っているところもあるのではないでしょうか。」

 

P245暴支膺懲…「なんでも中国は日本をあなどって手向ばかりするからこらしめてやらなければならない、という意味」で新聞やラジオがしきりに言っていた言葉

P252-253「日本人としてこの映画(※中国映画の「晩鐘」)見ていると、日本人は集団自殺したがる不思議な民族だ、というこの映画の大前提をのみ込んでいないから、はじめはちょっととまどいます。私たちは確かに、四十六人の侍が同じ日に腹を切って果てる「忠臣蔵」のラストにある種の崇高美を感じたり、可憐な少年たちが何十人も炎上する城を遠くに望みながら自決してゆく白虎隊の物語を、明治維新の国内戦の敵味方の争いを昇華するイメージとして大事にしている。だから集団自決を美化する独特の美意識があると言えるのですが、敗戦のときにはそれがさまざまな悲惨な出来事を生みました。中国でもそういうことがあったのでしょう。そしてそれは中国人の目には、奇異で憐れな習性に見えたに違いない。

 日本人が当然のこととして崇高美を感じるところに、中国人は奇異で憐れなものを感じる。この食い違いを知ることこそが私には外国映画を見るいちばんの興味です。」

P254「日本では輝ける知的エリート集団として伝説的に語り伝えられている旧制の第一高等学校の寮の伝統に〈鉄拳制裁〉なるものがあったそうで、学校の名誉を汚した者の頭を殴ることが〈愛の鞭〉であると知的エリートも思い、民衆もこれに毒されていた。それが日本兵対アジアの民衆というレベルでは耐え難い人格的侮辱と受け止められ、日本人のレベルの低さを示すものと見られていた。アジアの映画を見るとそんなことも分かります。」

藤田英典「市民社会と教育」(2000)

 以前黒崎勲のレビューで藤田英典の議論に触れたが、今回はその続きである。本書と黒崎「学校選択と学校参加」(1994)を中心に検討していくが、この両書を読んでみていわゆる学校選択制をめぐる「藤田-黒崎論争」の見方も少し変わった所があった点があったため、そこにも触れてみたい。本書に着目したのは、黒崎が藤田の議論に対し「改善策がない」ことを批判した(黒崎2000,p147)のに対し、本書が比較的具体的な議論に踏み込んだものであったからであった。

 

 黒崎のレビューでは80年代以降の日本人論の「改善要求」言説について検討するため、「1実態をどう捉えているか」「2その実態の何が問題か」「3その問題を改善するためにどのような方法により解決するのか」の問いのセットである『改善言説の枠組み』をもとに検討を行おうとした。まず黒崎は実態として官僚制が幅をきかせている状況自体が問題であると捉え、学校選択制のような「親の選択の自由が、学校を解放し、専門家教職員の責任を直接に問いかけるインパクトをもつことになるのは明らか」とする(黒崎「教育の政治経済学」2000,p137)。黒崎(1994)ではもう少し具体的に議論を行う。特に注目すべきは、この官僚制を「民主主義的制度の帰結」と捉えている点である(cf,黒崎1994,p46など)。一見民主主義的制度はそれ自体民意が反映されるのだから何ら問題ないと考えられるが通常であった(そして、藤田も支持する「国民の教育権論」も当然これを前提としていた)が、黒崎はアメリカの学校選択制論者であるチャプとモーの実証研究を引用しながら、民主主義的な制度は「公的、行政的に要請される詳細な規定があらゆる方面から課せられるようになり、実際に学校が自由に活動しうる余地というものはきわめて狭いものとなっている」と述べる(黒崎1994,p46)。結局黒崎は明確な民主的決定を行う場合、この決定手続きを整備する必要があり、その手続き自体が運用の中で精密化されることが求められるのが避けられないため、学校選択制のようなこの原理とは異なる観点からの制度を導入することにより「自由」を確保する必要性を主張しているのである。

 

 一方で、藤田は黒崎のような問題の立て方をしていない。まずもって藤田は「何が問題か」という内容について具体的に①いわゆる教育病理の問題②有能な人材を育むための「教育」の質の問題③教師の自律性・専門性の確保の問題といった問題系を分けて考えている。これは、黒崎の問題の発端が「(保護者の)公教育の不信」であるため、具体的な問題系に触れずに議論を行っていることと対照的である。そして、藤田はそれぞれの問題について、個別の解決策を見出そうとする。特に①の問題については、諸外国と比べ日本は大した問題を抱えていないこと、黒崎のいう「公教育の不信」についても大きな問題とみておらず、むしろ事実に背いた「ウワサ」以上のものではないとして軽視しているのは明らかである。②については、特に一般教養の重要性について強調しており、個性を生かした教育については、義務教育段階や高校よりも大学で行われるべきだとし、大学教育の改善をむしろ強調する。そして③については、教師の自律性を強調し、統制的な教育委員会制度に対しても改善を求めている。これら3つの視点は両者で大きく異なっているため、具体的に触れていこう。

 

①教育病理の議論について

 この教育病理の議論については、どうしても「日本人論」との関連性に触れないわけにはいかない。これは前回も指摘したように、「改善要求的」なものとなった日本人論は一連の教育改革と連動しており、その背景として持ち出されたのが「教育病理」であったからである。70年代までの教育病理問題は、むしろマルクス主義的な教育論者によって教育病理を資本主義固有の問題として強調し非難した所であったが、その枠組みを80年代の新自由主義的教育政策は引継ぎ、日本人論の改善要求言説として語られることとなった経過はすでに過去のレビューで検討を行ってきた所でもある。

 そして一つはっきり言えるのは、藤田の日本人論は相当に歪んでいるという点である。藤田の議論は確かに改善要求ありきのネオリベ言説から距離を取ろうとするものの、「社会問題に毒されている」がゆえに、事実を歪め、日本人論を根拠なく擁護することとなってしまっている。二つ例を挙げよう。
 一つは、「学校での少年事件」の日米比較においてみられる視点である。ここで取り上げられているのは、黒磯で起きた中学生の教師へのナイフ刺殺事件(1998年1月28日)と、デンバーの高校で起こった銃乱射事件である(日本時間1999年4月21日、p28)。藤田はこれに対し日本のマスコミや政策担当者はアメリカを色眼鏡で見てしまっており、かつ日本の教育に対しても色眼鏡で見てしまっていることを非難している。しかし、この主張自体は正しいものなのだろうか?結論からいえば、藤田のこの主張は、根拠のない思い込みでしかない。これは当時の実際の新聞記事を読めば明らかである。

 まず、日本のマスコミで黒磯のナイフ殺人について、「学校教育の問題」としたとする点が誤りである。読売、毎日、朝日の主要3紙で総じて主張されているのは、「大人対子ども」という対立軸において、これを「大人の問題」ないしは「親の問題」であるとし、決して学校教育の問題ありきで語ったわけではなかった。

 

「背景には、自己抑制力や忍耐力の不足がある。……これらは、幼児期からの生身の人間のやり取りや、家事の手伝いなどを含む生活体験の中で培われていくものだ。第一義的には、ルールや秩序感覚などの面で、親が子供のモデルにならなければならない。……子供は地域の中で育つものである。……この、平凡だが基本的な原則に立ち返って、家庭の内外で、さらに行政による支援システムを含めて、子育ての環境を再構築したい。」(1998年1月30日、読売社説)

 

「子どもたちが何にむかついているのか。教師でも親でもいい。大人がひとりの人間としてきちんと向き合わなければ、見えないものがあるにちがいない。

 自分を十分実現できることばを、まだ持ち合わせていない年ごろだ。その心を理解する責務は、大人の側にある。」(1998年1月30日、朝日社説)

 

 読売新聞はどちらかと言えば親の責任論を強調しており、2月4日には「家庭の子育てを問い直そう」という社説を掲載している。また、朝日に至っては具体的な責任論、対応策について言及しておらず、そのような原因等についての言及自体を回避し事実のみの報道に留める傾向があるかのようにも読めた。その態度の表れか2月5日に子ども向けの社説記事を掲載し、「イライラがあれば信頼できる友だち、親、教師、電話相談などでも言ってみよう」と呼びかけている。

 一方、若干学校の責任について強調する傾向があったのが毎日新聞である。社説記事では確かに「教育、学校の意義が改めて問われている。……状況は難しくなっているが、学校でできることはある。教育委員会や地域社会がそれを支え、バックアップしていくことが必要だ。」(1998年1月29日)と学校にのみ目を向けた責任論を展開する記事を掲載している。しかし、同日の別記事で河上亮一のコメントとして「こうした子育てがよかったのか、大人一人一人がそれぞれの立場で考え、子供とのつきあい方を改めるしかない。」と掲載されており、ここでもやはり「大人/子ども」を基軸にした議論を行っている。更には2月26日の社説記事では黒磯事件に触れつつ、次のように家庭・大人の問題としての議論も展開している。

 

「座長骨子案は、従来になく家庭のしつけにまで踏み込み、もう一度家庭を見直そう、地域社会の力を生かそう、心を育てる場として学校を見直そう――などと提言した。いずれも、もっともなことだが、より注目されるのは、なぜこうしたことが現実のものとなっていないのか、についての認識だ。……

 社会全体がカネや地位の欲望のとりこになり、短絡的な快楽志向に走っているときに、子供たちに思いやりや規範意識を求めても説得力はない。特効薬はないと考えた方がよく、迂遠のようでも、大人が、それぞれの場で、自分の生き方、価値観を問い直すことから始めなければならないだろう。」(1998年2月26日毎日社説)

 

 以上のように黒磯の事件でマスコミは藤田の言うような「学校責任論」を展開することはなく、これを広く大人の問題と捉えていたのであり、色眼鏡で見ているのはむしろ藤田の方であることが明らかになった。どうして藤田はこのような勘違いをしてしまったのかは容易に想像がつく。当時の記事を確認せず、印象でしか語っていなかったからであるが、それは結局藤田自身が「教育畑」の人間であったことに起因するものと考えてよいだろう。丁度この時期中央教育審議会による教育改革の議論がなされていた中で黒磯の事件が起きた。当然学校関係者はこの事件について真面目に考えなければならない。となれば「教育畑」の中の人間は当然最初に学校教育の改善を目指そうとするのだ(中教審委員としての西尾乾二のように「教育畑」にいるべき人間が企業をなんとかしようとする、という例外もありはするが…)。当時の中央教育審議会会長だった有馬朗人会長はこの事件について「心の教育」の重要性について言及しているが(1998年1月31日読売朝刊)、これは「教育畑」から見れば当然の態度である。藤田の問題は、このような「教育畑」と「社会」との区分けができていない点なのである。

 

 そしてこれはデンバーの銃乱射事件についての当時の新聞記事を見るとより一層明確になる。藤田はデンバーの事件はアメリカに対する固定観念があることが日本の事件との違いを生んだと強調していたが、まず、この事件自体がアメリカの銃社会等の問題であることはほとんど自明であり「固定観念」の問題とはとても言えないことを強調しておきたい。

 

「未成年でも銃を入手しやすい銃社会アメリカの抱える病理を改めて示した。……今回の事件は、人種対立を抱え、人種的憎悪を背景とするヘイトスクラムなどが絶えない米社会の不気味な負の部分を浮き彫りにしている。」

「容疑者たちがネオナチ的なグループに所属し、銃乱射の際、主に黒人が中南米系などの少数派人種を標的にしていた、といった情報が事実とすれば、他人種への憎悪が背景にあった可能性が強い。」(以上1999年4月21日読売夕刊)

 

 この事件自体、犯人となった高校生が人種差別を自明のものとするグループに属し、人種的対立に起因するものであることは明らかであったし、教師生徒計13人が死亡したこと、かつ殺傷能力の高い銃を用いた犯行であったという事実はいずれも「固定観念」の問題で片付けてよい問題ではなく、紛れもなく日本との「差異」として語られるべき問題であった。日本では銃の所有の問題として語られていたことは藤田の趣旨とも一致するものの、もう一点押さえなければならないのは、「アメリカにおけるこの事件の受け止め方が日本でどう語られたか」という点である。興味深いことに時のクリントン政権は教育政策にも熱心に取り組んでいることもあって、この事件もまた教育の問題として捉える傾向が強いことが紹介されている。

 

「事件に関連し、クリントン大統領は「米国の教育はまったく進歩していない」との声明を発表し、「これは単にリトルトンの問題ではない、全国民の問題として真剣に考えてほしい」と訴えた。……

米国では、今回の事件の背後にある銃社会を問題にするより、教育や暴力映像などメディアの問題としてとらえようとする傾向が強い。

 だが、より本質的な問題は、銃の所持を厳しく規制しないことである。」(1999年4月22日毎日社説)

 

 ここで押さえておくべきは藤田のような二項図式的な「教育の問題ではなく、(銃)社会の問題である」という認識にマスコミはなっておらず、むしろ「教育の問題よりも、(銃)社会の問題である」という論理で語られている点である。この点も藤田はあからさまに見誤っている。他の記事からも決してデンバーの事例に教育の問題が関係していないなどと読めるものはないといってよい。

 

「米国の学校は自由放任で、日本の学校詰め込み教育という違いはあるが、自己のアイデンティティーの確立に心を悩ます思春期において、生きることの意味を教える教育が欠落していることは共通している。例えばボランティア活動や野外活動などを通して自分とは何かについて目覚めるきっかけを与えてあげることが大切だ。向上心は強い子どもたちだったのだから、変な方向の信念や哲学に走らせ、一線を越えさせてしまったのが残念でしかたない。」(1999年4月25日読売朝刊)

「一連の事件の背景には、だれでも簡単に銃を手に入れることのできる米国社会の仕組みがある。教育の荒廃などがあるにしても、そこに大きな問題があることを改めて指摘しないわけにはいかない。」(1999年4月22日朝日社説)

 

 ここまで見てしまうと、やはり藤田の「日本人論」自体が歪んでいることを起因にして勘違いがなされているようにしか思えない。つまり、日本人はアメリカ人を色眼鏡でしか見ることができず、全く異なる見方で教育について問題を捉えようとしているという見方を藤田は確信しているからこそ、ここまで事実と異なることを堂々と言ってしまうのではないだろうか。

 

 これに関連して言及しなければならないのが、藤田が指摘する「三重の<甘やかし社会>」なる日本人論である(p125-131)。三重の甘やかしとは構造的甘やかし(大学まで卒業まで就業なしで生活可能な状況となっていることによる甘やかし)、実践的あまやかし(親からの独立が遅い)、規範的甘やかし(迷惑をかけなければ何をやってよいという規範)を指し、藤田は著書でエビデンスを提示しながら、このことを強調している。しかし、ここでいう「規範的甘やかし」に関する議論は千石保と同じ日本青少年研究所の断片的な(いや、正しくは「規範を守らない日本人像」を取り出すのに都合のいい調査結果だけ)からの主張であり、これはすでに千石のレビューで事実に反することを指摘した通りである。他の論点も「甘え」の条件となりえたとしても、その事実を実証するものとしては極めて不十分なものであり、藤田の主張の正しさが示されているとは思えない。また、この「三重の<甘やかし社会>」は日本の教育施策等における(政策立案者の)「思い違い」の結果助長されたものであるとするが、すでに述べたように藤田は「社会問題に毒されている」論者の一人であり、適切にこの問題を捉えられているとはとても思えない。「教育畑」の中の議論としてなら(特に教育の)政策立案者の問題は確かにありえるかもしれないが、少なくともそれがマスコミ等を含めた全体的な議論として捉えようとする藤田の姿勢には明確に批判せねばならないだろう。

 合わせて藤田はこの教育病理を他国と比較し大きな問題として捉える視点を持っていなかったのは確かであるが、繰り返すように黒崎は問題の起点を「公教育の不信」に置き、藤田はその不信感は「ウワサにすぎない」とすることであたかも社会全体が事実を勘違いしているかのように捉えていること(cf.p65)、マスコミ等はそれを助長していることを批判することで反論する訳だが、結局それが「ウワサ」にすぎないことを立証するために藤田自身が「ウワサ」止まりの議論に留まってしまうことが問題といえるだろう。

 

②教育の「質」の問題について

 この教育の「質」の問題は、特に藤田独自の主張により所謂ネオリベ的教育政策で語られる教育論に対する批判を行うという論理になってしまっており、結局の所「藤田独自の主張」がどこまで正しいかによってくる。

 目を向けなければならないのは、大学教育の質の問題の重要性を主張している点であろう(cf.p352)。つまり「個性を伸ばす」といったことで競争力を高めるための人材の問題は初等中等教育の問題でなく、むしろ大学教育の問題であると強調しているのである。これはこれで考察の(つまり諸外国と比較した場合の人材育成上の問題を大学教育から見出すという考察)の必要があるように思うが、本書はこれを実証的に示している訳ではないため、検証できない。それよりも気になるのは、藤田の定義する「創造性」についてである。

 藤田は義務教育段階の教育について「個性を尊重した教育」よりも「その基礎ともなる共通の基本的な能力や性向の構えの育成」こそ重要であると説く(p333-334)、これは「トータルなもの」こそ創造性に寄与するという藤田の理念に基づく主張である(p339)。ただ、創造性についてどうみるかという問いは夏堀のレビューの際に取り上げたように多くの見方がありえる(※1)。藤田の定義は川喜田二郎の考える創造性に近いが教養主義的なものに創造性を見出す藤田と異なり、川喜田は個人と組織の壁を溶解させるような「ひと仕事した」体験にこそ価値を見出す点で視点は異なる。また市場主義的な見方がなされる創造性とは、夏堀睦が述べたような「一般人が考える創造性」に従い定義されるものであったし、チクセントミハイの考える創造性は、専門家との接触を如何に行うかという視点が重要であった点で、どちらも藤田の議論と異なる。結局藤田のいう「創造性」が正しいかどうかは、過去の日本の教育が寄与した「創造性」をどう評価するかによるとしか言えないように思える。藤田はこれまでの集団主義的な教育について否定を行っておらず、むしろこれを基本的に崩さないことこそ今後の日本の教育にとって必要であると強調する。そして新自由主義的な教育政策における「個性」はこの教育の良さを軽視しているとして批判するのである。私は藤田のこの見方には否定的であるが、藤田の議論の正しさはこの主張をどう考えるかに大きく左右されると言えるだろう。

 

③教員の自律性の問題について

 これは「専門性」をめぐる議論とも関連するものであるが、黒崎の議論と何故か嚙み合わない論点でもある。というのも、教員の自律性及び専門性の確保については、黒崎藤田両者とも極めて重要な視点であるという点で一致している。にも関わらず、学校選択制をめぐる議論においても両者の方向性は異なるし、「自律性」に対する意味合いについても恐らく両者は異なっているように見える。

 この理由の一つはすでに述べた「民主主義的制度を運用することの意味」が両者で異なっていることに見出すことができる。合わせて問題となるのが、「教育を行うのは誰か」という問いをめぐる両者の複雑な見方の相違によるものであると考える。

 シンプルな回答を与えるのはやはり藤田の方である。藤田は原則として「教職員集団が自由であること」こそが最も重要なよい教育の実践(=専門性の確保)につながるものであることを確信している。本書においても外圧的な制度変更が教師の自律性を妨げることを指摘するが、藤田の著した「教育改革」(1997)でもあくまで教育は教師(と生徒)を中心に行うべきで、親や教育委員会は観客、裏方、劇場主であるとする(藤田1997、p244-245)。このような教師の自発性にあくまで期待する態度は国民の教育権論の系譜とも同じである。

 しかし、黒崎の場合は、教職員集団のみの自律性が確保できる可能性については懐疑的である。何より独断的な取り組みがなされた時に学校選択という手段がなければこの独断から逃げることができず、従うしかなくなる(黒崎2000,p112)。また黒崎(1994)を読んでいると、日本の教職員組合や、アメリカの教育委員会の選挙を否定的に見ているかのような記述も見受けられる。学校選択制の成功事例として、アメリカのイーストハーレムの学校選択制について黒崎は取り上げるが、なぜか教育委員会の選挙によりこの制度枠組みが阻害される可能性について繰り返し否定的な発言を行う。端的に「すぐれた教育改革の実践が政治的に攻撃されるという危険は防ぎえない」と述べる際(黒崎1994,p121-122)の黒崎の態度は、藤田の目線からすれば「あくまで学校選択を嫌った民意の反映であって、これを『教育改革の阻害』などというのはナンセンスである」と映るに違いない。

 中心的な争点は「自由な「専門性」をいかに確保するのか」であり、この関心は藤田黒崎両者とも一致している。より正確に言えば、この主体はあくまで教職員であり、このことに対するチェック体制もまた必要であるということについても争いはない。問題はチェック体制の方法である。あくまで民主的手法にこだわるのが藤田であり、「学校選択」という方法がその枠組みから外れたものであるからこそ有効であると主張するのが黒崎である。

 ただ、問題なのは、藤田がいう「民主的手法」とは、必ずしも「直接選挙で選ばれた市民による意思決定」とは同じではないということである。藤田は教育行政におけるオンブズマン的制度、ないしは信任制が必要であるという(p271,p272)。現行の教育改革は教育行政の核である教育委員会制度についての改善には具体的提言が乏しいことを藤田は批判しているが、このような批判から見ても、結局藤田は「国民の教育権論」と同じような民主主義的プロセスの確立こそ必要であり、それを経ていない教育改革などは、当時の政策担当者(しかもこれが選挙等で選ばれていない者)の独断で行われる恐れがあり、それに対抗する原理を準備できていない状況においては、教育の政治的決定を促進し、これに対する(教員の)専門性・自律性が著しく損なわれる恐れも危惧しているものとみられる。ただ奇妙に思えるのは、オンブズマン制度について、それが最高裁の国民審査のような手続きによって行われるのでもよいと言っている点である(p274)。私は流石に最高裁の国民審査のような話では完全に形骸化しており、これは無意味に信任を与え、黒崎が言う民主的手続が「官僚化」を促進する要素に絡めとられるのは目に見えているように思う。

 また、このレベルの「民主的手続」で許されるのであれば、他にも対応できる「民主的手続」がいくつか考えられるのではなかろうか。一つは、議会や首長による教育へのコントロールである。これはそもそもの教育委員会の趣旨に反し教育が政治に使われるといった批判が「国民の教育権」論者からの痛烈な批判があったものであるが、例えば、以前考察した中津川市の偏向教育の事例などについても、結局その抑止力となりえたのは議会でしかなかった。このような批判等が広く市民にも可視化された形で行われているのであれば、それはそれで一種の抑止力ともなり、かつ促進要因にもなりえるように思える。

 合わせて、個別の教育政策の在り方について、広く市民に意見を募り、それを反映させていくことでも十分「民主的手続」を確保したことになるであろう。最も単純なのは、特定の教育政策について市民にその是非を問うという形でアンケートを行うような方法でも、十分に民意が反映できているのではないのか。民主的手続を重視する立場から言えば、たとえ専門家でも「外野」がどうこう言うまでもなく、その土地の市民が学校選択制に対し賛成ならば、それで事足れりとなるはずである(※3)。黒崎もこの論点(民主的手続の必要性)に対しては、鼻から否定的であるかのような見方をしている傾向もあるため、藤田-黒崎論争の中ではこの論点はあまり明確に議論されることもなかったが、重要性を否定することはできないだろう。

 

 また他方で、民主的手法をとることが教員の専門性・自律性に繋がるという論点自体に矛盾がある可能性にも目を向けなければならない。藤田はそもそも日本の教育改革自体が専門性・自律性を軽視し、それを損ねる方向に進んでいることを確信している(cf.p336-337)ため、日本の教育改革を批判する訳だが、それに対する具体的対案としてどのようなことを想定するか。基本線となるのは学校単位での予算上の裁量権・弾力化の強化になっているものの(p276-277等)、基本的に「国民の教育権論」側が主張する程度の並な主張しかなされていない。「非常勤職員の採用」についても、例えば、専門性豊かな退職教員や校長の有効活用といった視点からの語りを明言している訳でもないため、この非常勤職員の議論が市場主義的な労働者の勤務形態の弾力化の議論の域を出ておらず、逆に教員の職の不安定さしか生まないのではないのか、といった批判を許すような漠然とした主張しか確認できない。

 もちろん、このような藤田の議論に批判的な黒崎の議論が「専門性・自律性」の強化に繋がるかは疑問もある。しかし、黒崎の関心は何よりも「公教育不信」への応答であって、そのような不信感に応えるための教育改革と、その一環として市民のチェック体制の一つとして学校選択制が必要であり、その中で教育改善を行うべきであるという見方にあった。過去の黒崎のレビューでも指摘したように、「民主的手続」が官僚制を回避できず、又は「民主的手続」という名の政治的暴走を防ぐ方法として「退出」の可能性を保証することこそ最も重要であるという見方は教育権の担保のためにも重要であり、これを頭から否定してしまう論法の方がよほど「非民主的」とみることも可能なのである。藤田にとっては教育とは教員集団による自律性にこそその専門性の根拠を見出し、そこから外れるような状況においては専門性は養われない、という確信があるため(cf.藤田1997,p244-245)、そもそも黒崎の提案は受け入れられないのである。黒崎の提案は結局教職員集団の目線から見れば「外圧的」なものでしかなくなるからである。もっとも、このような立論を藤田が続ける以上、「国民の教育権論」と藤田の立場の違いに相違がなくなることになり、この専門性論と「民主的手続」の関連性が不透明になるのである。黒崎が次のように佐貫浩の批判をする際、この関係性の不明確さが問題とされるのである。結局このような議論においては、教職員集団が暴走する可能性を著しく軽視することにしかなく、藤田が強調していたはずの「チェック機能」も機能する余地がないのである(※4)。

 

「しかし、せっかくそうした課題をたてながら、佐貫氏の議論には、父母参加による学校づくりの運動の経験の列挙以上の、理論的な提起と呼べるものをほとんど見出すことができない。たとえば、そこでは、「指導の過程や結果に対して異議申し立てをする権限を、親や子どもが留保していることを含んだ制度的仕組み」が提案されているが、それが何を指すのか、教師の専門的自由の保障といかなる関係を保つのかについては、何も検討されていないのである。

わが国における学校参加のもっとも有力な理論的根拠は、いわゆる「国民の教育権論」によって示されてきた。佐貫氏の議論もこの理論的影響の下にある。しかし、教育の内的事項外的事項区分論を中核とするこの理論においては、親の教育権は教師の教育権を根拠づけるために名目的に扱われる傾向をもち、十分に、学校参加の要求を意義づけるものとはなっていない。さらに、教育行政参加と学校参加とを区別しようとする最近の理論的傾向も、親の参加への要求の意味を正当に受けとめるものとはいえない。それは、あくまでも学校運営の専門職主義を堅持するためのものであり、専門的自治と民衆統制の統合という教育行政理論のもっとも基本的課題を回避するものと評価せざるをえない。」(黒崎1994,p18-19)

 

○学校選択は「利己主義」なのか?——転居をどう考えるか?

 本書で特徴的な点の一つとして、藤田が学校選択について、一般的に言われる「私事化」という言葉ではなく、「利己主義」として糾弾する点が挙げられる(p175,p236)。これについては、すでに黒崎のレビューで私立学校が選択できることについて触れ、これに対して何故改善を促さないのか、という批判を行った。実際、黒崎からも同じ批判がされていた。つまり「学校選択の理念の提唱は、すでに富裕な階級が持っている学校選択の自由を貧困な階層に保障しようとするものであると意義づけられ」るものということである(黒崎1994,p63)。

 そして、この学校選択に対し強調されたのが「共生」の発想であった。この発想は、すでに藤田が主張する「創造性」や義務教育段階で必要な「努力」(p345-346、これは「忍耐」という解釈でもそこまで外れていないように思える)の一環としても、避けるべきではないことを強調された。

 

「この「共生」という価値は、〝選ぶ〟という行為によってではなくて、〝受け入れる〟という行為、〝関わる〟という行為によって実現されるものである。」(藤田1997,pviii)

 

「しかし、こんにち主張されている〈学校選択の自由化〉は、そうした性質のものではない。それは、日常的・自生的な居住・生活圏に関わりなく、文化的嗜好・選考によって学校を選べるようにしようとするものである。それは、居住・生活圏としてのコミュニティを無意味なものとして否定・解体する志向、その衰弱を是認する志向を宿している。しかし、近代的な理念としての〈市民社会〉が〈自律的で平等な個人の共生〉と〈その共生空間への開かれた参加〉を基本とするものであるなら、その〈市民社会〉もそこでのハーバーマス的な〈市民的コミュニケーション〉も、その区画化がたとえ行政的に行われたものであろうとも、現にそこにある居住・生活圏において成立・展開しうるはずのものである。言い換えれば、そのような〈市民社会〉を理念として掲げ志向することに価値があると考えるなら、その前提ないし要件として、現にそこにある居住・生活圏において、〈市民的共生〉〈市民的コミュニケーション〉の十全な展開を志向し追求することが課題となるはずである。なぜなら、それは〈公開性=非差別性・非排他性〉を基本的な特質としているはずだからである。」(藤田英典ほか編「教育学年報7 ジェンダーと教育」1999,p385)

 

 このような主張に対し、私から擁護しうると思われるのは、「子どもが成長する上で積極的な意味(教育的効果の期待)でも消極的な意味(犯罪防止や精神面の安定など、安全面を確保すること)でも地域の安定した基盤の教育を行うことは、子どもにとってプラスになる」という命題が成立する可能性においてである。藤田の議論は「共生」をやはり「理解不能な他者との対話可能性の模索」として用いている傾向が強いわけだが、これを強調するのであれば、私立学校への選択自体も制限しなければ意味がないのではと黒崎のレビューの際に指摘した。

 しかし、社会学的にはもう一点押さえておかねばならない観点があった。それが「人口移動」である(※6)。この観点からアメリカの学校選択を擁護する論理は十分にありえるように思える。つまり、アメリカ人は実態として生涯10回を超える転居を行っており、日本においてはそれが少ないとされる(荒井良雄等編「日本の人口移動」2002、p93-94)中では、既存の地域性を生かす教育よりも学校選択を容易にし、転居可能な者と同じ権利を転居困難な者にも与えようとする発想である。もっとも、これもあくまで相対的な議論を行っているにすぎず、「転居回数が多ければ学校選択がされるべき」なのか、「(1回でも)転居する層がいるから学校選択がされるべき」かは当然議論が必要である。「1回でも転居をする」という意味では、日本においても基本的に子どもを持つ家庭は転居を行う傾向があり、どちらにせよ「地域性」というのは当事者にとっては基本的に生得的にあるものではなく、選択の結果であると考えるべき状況にあるからである(※5)。

 結局、藤田の学校選択制の否定についても、根においては「望ましい教育観」が付随していることが明らかなのであり、この教育観の妥当性や、学校選択における子どもの教育的な影響を丁寧に考察することを無視して、制度の議論を行うこと自体が不毛であるのではないのか、というのが正直な所である。今後そのような教育的効果についての研究の蓄積にも期待したい所である。

                                                                                       

 

※1 夏堀のレビューでは取り上げなかったが、もう一点押さえておきたい「創造性」の議論として、市川亀久彌の「等価変換理論」を挙げることができる。簡単に言えば、あるモノに対してその機能を適切に抽象化し、別のモノを作り出す際に応用していく技術のことを指す。「創造性の科学」(1970)を読んでも、等価変換理論に基づく創造性の発揮は一定のトレーニング(あらゆるモノの共通性に注目して、その機能を抽象化し思考するトレーニング)が行われることを期待された理論と考えられ、市川のいう創造性も漠然とした藤田のような教養性を身につけるという議論とは隔たりがあるものといえる。

 

※2 この論理は一理あるように思えるが、管見の限り藤田はアメリカとの対比において「アメリカでは直接選挙による教育委員会で行われる教育改革であるから擁護できうる」という視点で教育改革の議論を行っているのを見かけていない。

 

※3 もっとも、藤田はこのことについても、例えば学校選択制に関しては「ウワサ」が悪影響を与えるなどして、民意が適切に反映されるということ自体に半信半疑となっているよう(市民は適切な判断に欠ける傾向にあることを認め、それを信用しないよう)に見える点があるため、全面的に賛同する姿勢ではないように思える。

 

※4 結局このような議論に落ち着いてしまう理由は、(教育の自由/不自由)という二項図式を掲げ、「不自由となるものはすべて除去されるべきである」という国民の教育権論に典型的に批判の論法そのものにあると言わなければならないだろう。この議論に必要なのは、あくまで「現状がどうであるか」という分析のもとにたって専門性をめぐる議論を行うことであるが、国民の教育権論が教育法学を根拠に、「日本国憲法」や「教育基本法」を持ち出した法解釈・権利の問題として片付けようとする姿勢を崩さない時点で、すでに議論として成立のしようがないのである。確かに現状分析の議論は黒崎も精度が高いかは疑問だが、藤田の場合は、すでに「社会問題に毒された」ものとなっており、まともに現状分析ができていないのは明らかである。

 

※5 子どもがいる家庭(DEWKS)と子どもがいない家庭(DINKS)の比較として、北村安樹子「家族形成と居住選択」(2010)では結婚後の転居経験・回数がDEWKS世帯の方が多く、特に子どもの誕生や成長に合わせ住居購入を行うケースがあるのではないかと指摘する(北村2010,p23)。

 

(2024年1月3日追記)

※6 この着眼点は学区制度に着目すればむしろ出てきて然るべき観点といえた。千葉正士「学区制度の研究」(1962)では、学区概念の変遷について分析しているが、日本の近代学校教育制度が成立した当初地域住民の寄付等により設立された学校は、都市部において人口移動により新たな学区が形成され新たに設置された学校と、早くから学区をなしていた学校と比較すれば、その財産には大きな差がつくことが想定される(cf.千葉1962.p266)。地域住民による学校を標準化するのであれば、学区の捉え方は変更されざるをえなかったといえるし、その動因としての人口移動の問題は無視できないものである。

<読書ノート>

P5「というのも、学校五日制、公立中高一貫校の導入、学校選択自由化への動向、さらには、学校五日制の完全実施に伴う学習指導要領の改訂など、どれをとっても、合理性・適切性に欠けるからであり、教育政策が準拠すべき倫理を歪めるものだからであり、さらには、その結果として、子どもの生活と社会のありようを差別的に再編し、学校教育の難しさを増幅し、日本の将来を危うくしかねないからである。」

※学校五日制反対の議論において、「公務員としての教員」という議論はあったのだろうか?本書ではそれがいかに語られるか?それは文字通り教員への「過度な期待」ではないのか?

P7「また、欧米諸国では、情報知識社会の進展と国際競争の新たな展開を背景にして、学力・基礎学力の向上、就学率の向上、学校出席率の向上などが主要な改革目標になっているのに、日本の改革はそれを軽視しているように見えるからである。さらには、欧米諸国がその階級的遺制のゆえに未だ十分に達成しえていない教育機会の制度的平等を、日本の教育システムは達成しているのに、それを後退させるような改革が進められているからである。」

 

P12「学校五日制と教職員の週休二日制の問題をはっきり区別し、たとえば土曜日は自由登校日にして、補習授業や発展学習や自由な特別活動を行うとか、一律に土曜日を休みにするのではなく、サラリーマンの有給休暇のように、体験休暇・リフレッシュ休暇をとれるようにするという方法を検討してもよかったはずである。いずれにしても、学校過剰論や学校縮小論・教育自由化論は、すでに述べた教育のエリート主義的再編という問題に加えて、さらに次の二点で重大な問題を孕んでいる。」

※これは明らかに公機能の縮小であった。しかし、いわゆる「福祉バラマキ批判」による公機能と別の次元の次元であったため、「福祉バラマキ論」と比べれば具体性があったにもかかわらず、驚くほど関心が低い分野であった。

P13「しかし、いじめ、不登校、校内暴力、学級崩壊、非行・逸脱などの諸問題は、そうした〈心の専門家〉を増やせば解決できるというものではない。それは、心理学的な心の問題というよりも、その結果に対処しようとするものでしかない。」

P15「この〈面〉としての生活圏が重要なのは、それこそがリアルな日常生活の基盤だからである。親子であれ、仲間であれ、顔見知りの人であれ、あるいは見知らぬ人であれ、多様な他者と出会い、さまざまの関係を築き上げ、その関係のなかで喜んだり悲しんだり、思い悩んだり葛藤したり、反目・対立したり、協力し合ったりしながら生きていく、その基盤である。好きか嫌いか、好みに合うかどうかに関わりなく、対面的で包括的・多面的な関係に組み込まれていく、その基盤である。人間の生活も社会もそういうものである。……

 ところが、学校縮小論や学校選択自由化論は、この〈面〉としての生活圏を〈点や線〉の集合に解体・再編しようとしている。」

P20「教育をよくするには、何を措いても、その営みを担う教職員の質の向上とその活動条件の改善を図ることが肝要である。そのために何ができるか、何をしようとするのかを、いま一度考え直す必要がある。」

 

P26-27「それに対して日本では、ほとんど例外なく、そうした問題は教育病理・学校病理として捉えられ、学校教育のせいにされてきた。ナイフ事件だけではない。酒鬼薔薇事件もそうであったし、校内暴力、いじめ、不登校、学校崩壊などもそうである。すべて原因は学校にある、受験体制・学歴社会にある、教育過剰・管理過剰な日本の教育の在り方に問題がある、だから学校を変えなければならない、と議論されてきた。」

☆P28「以上のように、デンバー事件も黒磯ナイフ事件も在学中の生徒が学校内で起こした事件であり、どちらも、どの学校で起こっても不思議ではないとコメントされたにも関わらず、その原因ないし背景については、まったく異なった解釈が何の疑問もなく平然と繰り返され受け入れられてきた。日本のマスコミや識者も、政策担当者も、そうしたまったく対照的な解釈を特に疑問を抱くこともなく受け入れてきた。

 それはおそらく、日本のマスコミや識者や政策担当者の間には、自明視されているステレオタイプな認識枠組みがあるからだろう。アメリカの青少年問題・教育問題の多くはアメリカ社会の矛盾や歪みに根ざす問題であるのに対して、日本の青少年問題・教育問題の多くは日本の学校教育の歪みに根ざす問題である、だから根本的な教育改革が必要であるという認識がそれである。」

※このような認識自体は正しいといえるのか、言説分析すべきでは。「黒磯ナイフ事件でも酒鬼薔薇事件でも、日本のマスコミや識者は、歪んだ学校教育の在り方や「学校性ストレス」が背景になっていると論じていた。」(p25)という論点が一つ。しかし藤田は、p26-27のような飛躍も同じ論理であるかのように語る。そしてそれを「教育問題・青少年問題に対する日本のマスコミ・識者や政策担当者のまなざしがいかに歪んでいるか、その歪みがどれほど独善的・非合理的で問題の多いものかということを見てきた。」(p33)と断じ、合わせて「一九八〇年代半ば以降の改革論議と改革動向には、類似の歪んだまなざしと非合理的で独善的・欺瞞的な議論や政策があまりに多い」とまで言う(p33-34)。そしてその矛先を週休5日制と中高一貫校議論に向ける(p34)。

 

P40「エリート校をつくるのではないとか、教育の多様化・複線化が時代の要請だといった欺瞞的な議論で事を選ぶのではなくて、はっきりとエリート校をつくりたいと明言して、その是非を問うべきである。」

※これは一理ある。

P44「しかし、それ(※学校選択制中高一貫校の導入)は「特色ある学校」と「多様な選択肢」ということを前面に出し、序列化や受験競争の低年齢化が起こる可能性はないという建前論に留まっているからである。」

※何故タテマエであることが確定しているのか。少なくとも、藤田にはタテマエにしかみえないのだろう。同時にこれは規制緩和という大前提に対しても否定しか生まない。

P57通学区域の弾力的運用や再編成には否定的でない

P65「しかも、ここで注意しなければならないのは、実際に荒れているかどうかということでなく、荒れているらしいという〈噂〉によっても左右される傾向があるということである。……つまり、さまざまの社会的差別が学校選択を規定するようになり、子どもたちと学校を差別化し分断することになりかねないということである。さらには、そのようにして学校に持ち込まれた差別と分断が、社会生活における差別と分断を触発・助長することにもなりかねない。」

※よく考えるとこの理由はどこまで成立しているのかよくわからない。差別される側が選択しないことが自明視されているからである。結局、これはこのような人々の「選択する能力のなさ」を自明視しているのと同義だが、これも結局そのような人々に「合わせる」ことを公立学校は強制するのか、という議論に直結しかねない。この議論はしまいには「居住を変えられるか、変えられないか」の議論が存在する可能性をまるで考えない。

 

P88「黒崎氏は、市場原理的な学校選択制とは異なる「学校選択制の理念」が構想可能であると主張している。それは現在の画一化し閉塞した公教育・公立学校を再建していくための触媒となるような学校選択制だという。各学校の自主的・自律的な学校づくりを喚起し保障するには、多様な特色ある学校の存在が許容・歓迎されることとそれらの〈特色ある学校〉を選べるということが前提となるから、適切な学校選択制の導入が必要であり正当化されるというのである。黒崎氏は、この学校選択制の理念は、市場原理的な学校選択制とは異なり、各学校の自主性・自律性を重視するものだからといって、市場的競争のメカニズムの作動を抑止することになるという保証はどこにもない。それどころか、たとえその理念を掲げて学校選択制にしても、結果的に市場原理的な選択制になる可能性はきわめて高い。」

※黒崎1994が出典。

P89「つまり、(※「選択・責任・連帯の教育改革」でいわれるような)現代の公立学校の荒廃の原因は「連帯の欠如」「信頼の欠如」にあるから、その「連帯」「信頼」を回復するためにも、学校選択の自由化が必要だと主張し、もう一方で、選択制によって各学校は競争し切磋琢磨することになるから学校は総じて良くなるというのである。保護者や子どもが学校を選ぶようになれば、その選んだ学校にポジティブに関わるようになり、もう一方で、市場的競争のメカニズムが作動して各学校は学校改善に真剣に取り組むようになるから、学校は良くなるというのである。」

 

P108「とはいえ、すでに繰り返し述べたように、学校選択制を採用するかどうかは、子どもの教育・学習・生活・自己形成の機会をどのようにして豊かで開かれたものにしていくのか、その方法についての考え方の問題であり、社会的な選択の問題である。そして、筆者は、その点で現行の通学区制の下で、各学校内での学習・生活・自己形成の機会を豊かにしていくことが望ましいと考えているわけだが、そのためには、各学校のさらなる改善の努力と、それを可能にする制度改革・条件整備を進めていく必要がある。そして、その際、たんに既存の枠組みのなかで改善の努力を進めるというだけでなく、教育行財政面でも、さらには、カリキュラムや教育実践の面でも、基本的な発想の転換や考え方の再検討が必要である。そうした課題に政策担当者も校長や教師もそれぞれに専門家として誠実に取り組む必要がある。」

※このような主張をするなら、適切な論点整理は必須であるように思うが、藤田の議論はとてもそうなっているとは言えない。結局「変化」について日本の教育風土には適していない、という主張一点張りにしかなっていない。

P131-132「図2と表1の調査結果は、こうした三重の〈甘やかし社会〉の一つの表れと見ることができる。図2は、日本青少年研究所が、一九九六年に、日本、アメリカ、中国の高校生を対象に行った調査の結果で、表示された諸項目について、「本人の自由でよい」と回答した者の割合を示したものである。

 それにしても、なぜ日本の高校生の規範意識はこれほどまでに低いのか。その原因を特定することは容易なことではないが、右に述べたような〈甘やかし社会〉がその一因だと見て間違いないであろう。」

千石保のレビューにて、この日本青少年研究所の調査の問題は指摘済み。表1は藤田1991でも参照した総理府の調査結果の引用で、「両親のいいつけに従わない」「先生のいうことに従わない」ことについて「絶対にしてはいけない」割合の低さを指摘している。三重の甘やかしとは構造的甘やかし(子どものモラトリアム期間に関する甘やかし)、実践的あまやかし(親からの独立が遅い)、規範的甘やかし(迷惑をかけなければ何をやってよいという規範)三つを指摘する。実践的甘やかしについては1998年の世界青年意識調査結果をもとにしている(p127)。

 

P143「他方、異なる点は、欧米諸国では教育水準・学力水準の向上が改革の主要な目標として掲げられてきたのに対して、日本では、その点がむしろ批判の対象とされてきたことである。受験体制・偏差値教育なるものが校内暴力やいじめや不登校などの元凶として批判され、進歩主義的な教育思潮と新自由主義的な政治社会風潮の奇妙な連携の下に、教育の多様化・個別化・自由化が推し進められてきた。」

※少々不正確だが、日本の教育が学力を放棄するかの言説があったのも事実ではある。学力水準の否定がされたという見方は藤田にとっては正しかったのかもしれない。

P151「世界各国がそのような関心の下に改革を進めている時代に、日本の大学改革は国家公務員の定数削減といったまったく非常識な関心の下に進められようとしている。」

※いかに非常識なのか説明すべきでは?

P161「評論家やマスコミは、しばしば、受験学力ではなくて、〈自ら学ぶ力〉や思考力・表現力・企画力やバイタリティやチャレンジ精神などの重要性を説くが、高校・大学の入試においても雇用市場においても一貫して優先されてきたのは、受験学力の高い学生であり、入試偏差値の高い高校・大学の卒業生である。大学入試の多様化が進んできたが、受験学力の低い者を優先的に入学させようとしているわけではない。」

竹内洋の主張と対立する。企業が既存学力を求める根拠として成立していない。藤田の擁護したい点は明らかであるが「受験学力は、たんに入試によって評価・測定された〈達成された学力〉に過ぎないのではなくて、その達成を可能にした努力や学習可能性(潜在的能力)をも示しているのである。」(p162)と述べるが、このことが既存の「受験学力」を正当化する根拠に何一つならない。もっと言えば、藤田自身も受験偏重・詰め込み教育がよいと認めていない(p159、p163)。

 

P175「また、学校選択制は、欧米諸国でも一九八〇年代以降実質的に広まってきたが、それは教育に対する利己主義的な消費者的関心が高まってきたからであり、そうした関心を正当化する新自由主義的なイデオロギーが優勢になってきたからである。それは、時代の趨勢であるとか、好ましい変化だと見るようなものではなくて、教育の公共性を重視し、それを人びとが協力して維持していこうとする立場が優勢になってきたことの表れでしかない。」

※このようなイデオロギーの議論で片付けてしまってよい議論か?「問題は、それが当の子どもにとって本当に好ましいかどうか、教育的に好ましいかどうかである。」(p176)は当たり前であり、それに疑義があるからこその教育改革の議論だったのでは??

 

P224「しかし、子どもの学力・興味・関心や学習への構え・意欲の多様化が進むなかで、大規模の学級を基本としてすべての学習を組織することはさまざまの困難が伴う傾向が強まってきたことも確かである。それゆえ、そうした条件の変化に対応し、学習の効率化・適正化を図るためにも、学級を学校における学習・生活の基本単位としながらも、学習集団については適切な範囲で弾力的に編成できるようのする必要性が高まっていると言える。」

※多様化が問題なのか疑問だが…これまで学習が剥奪されていただけでは?また習熟度学級編成については「私立の一部」なら問題化しないが、「一般の公立学校」では好ましい結果になると限らないとする(p224)。

P224-225「他方、学級を基盤にした固定的な習熟度別学級編成や落第制度や飛び級制を小中学校段階で導入することには、筆者は基本的に反対である。その理由は、三章飛び級制に言及した際に述べた通りだが、その要点は次の三点である。一つは、それは劣等感・優越感や差別意識を育み、もう一方で、社会性や仲間意識の形成基盤をますます脆弱なものにし、結果的に公教育の意義を貶めることになるからである。二つ目は、そうした方向で学習集団の多様化・弾力化を進めるなら、そのときはこれまで繰り返し批判の対象とされ改革の必要性の根拠とされてきた受験競争・進学競争の低年齢化が進行し、そのプレッシャーが小中学生の生活と意識を覆うようになる可能性が大きいからである。というのも、日本社会は、欧米諸国に比べて、文化社会的な階級遺制や貧富の差が少なく、平等で社会的な移動機会の開かれた社会であると言えるが、そのためもあって、学校教育に対する競争的な関心が強い社会であり、そのことが受験競争・進学競争の背景となってきたからである。三つ目は、二つ目の点が現実のものとなればなるほど、そうした方向での学習集団の編成は、教育機会の制度的差別化を促進することになるからである。」

※これはすでに程度の問題ではなく、だからこそ、全面的に批判的な態度を藤田はとる。ところが、これらの三つの論点はすべて私立学校という外枠を設けていることですべて私立学校との差別問題として問題視されるべき問題点とならないのか?また、この主張は「階級制の否定」をそもそも論として語る一方、みずからもそれに加担する主張を行うという愚策を行なっている。ここでいう「文化的」なるものは自らが無責任に拡張していることに自覚的である必要があるのではなかろうか?藤田はこの配慮を明らかに欠いている。

 

P225-226「第二に、学習集団の適切な範囲での弾力化を図るとしても、これまでと同様、集団を単位にした一斉指導を基本的に重視することが望ましい。というのも、集団を単位にした一斉指導(グループ学習や個別学習の併用を含む)は、学習のリズムと密度を効率的なものとして維持するうえでも、子どもたちの協調性やアイデンティティ形成のうえでも、さらには、教師の授業の力量を高め維持するうえでも重要だからである。」

P226「この力量(※集団を相手にする授業する力量)が問われないとき、教師は往々にして授業改善の工夫を怠ることになりがちである。実際、興味深いことに、小中学校の数学と理科の国際比較学力調査で平均学力の高かったシンガポール、韓国、日本、香港、ハンガリーなどはいずれも、主要教科では伝統的な一斉指導方式が基本になっている国である。」

※教員の質の議論と、集団授業の効果、官僚制を混同しているようにも見えるが…

P226-227「各学校が、学級や一斉学習の基本的な重要性を確認したうえで、学習集団の編成や学習指導の方法について、学校・生徒集団の特徴を考慮して最適な方法を工夫することができるように、教員配置の充実をはじめとした条件の整備を進めることが重要である。とくに教職員の配置については、①現行制度のように、学級数を基礎にした教員定数の算出・配置ではなくて、生徒総数を基礎にした算出・配置とする、②近年の改革動向のように、たとえばティーム・ティーチングを採用するなら教員を加配するといった目的別加配方式によって教員数を増やすというのでなく、学級規模の標準を現行の40人から、たとえば25人ないし30人に縮小し、各学校での学級編成・学習集団の編成については、各学校が弾力的に工夫することができるようにする、③国の定める学級規模の標準に基づく国庫補助・県費負担教職員の枠内で、非常勤講師や正規雇用のパートタイム教師を採用できるようにする、などの制度改革・条件整備を進めることが重要である。」

※苅谷の議論ともずれている。実質的に総額裁量制を認める発想で、これでは「面の平等」が失われてしまう。

 

P227「これまで繰り返し指摘したように、臨教審以降、個性・創造性や自ら学び考える力の育成が強調され、学校像の転換、新しい学校像の創出の必要性が言われ、個別学習の拡大や学校選択制の導入が推奨されるようになった。そして、その背後で、一斉指導や習得学習の重要性が軽視され、その補完を塾・予備校や家庭学習に期待する傾向が強まってきた。しかし、学校で過ごす時間が子どもの生活時間・学習時間の中核を占めていることを考えるなら、こうした傾向が進めば、学校教育の機能低下はますます深刻化するであろう。」

※この問題の見方がそもそも誤りであったのでは。

P236「それに対して日本では、こうした理念的対立は曖昧にされ、進歩主義的関心と利己主義的関心が新自由主義的風潮の下に連携し、結果的に市場的競争を容認する方向に向かっている。言い換えれば、一連の改革及びその推進論は重大な矛盾を孕んでいるにもかかわらず、改革すること自体が道義的に正当化され至上目的化しているために、その矛盾が隠蔽されている。」

※藤田は学校選択制の議論を「利己主義」の問題と捉えている。また「矛盾」を問題視することこそが、素朴、無意識的な「不変」の正当化に繋がっているのではなかろうか。

P243「その際、政策的にも各大学の方針という点でも重要になってくるのは、大学間の移動がどの程度開かれたものになっていくかということである。具体的に言えば、四年制の大学への転・編入学がどの程度広く認められるようになるか、大学院がどの程度拡大するか、大学院への進学要件がどの程度緩和されるか、ということである。」

 

P250-251「大学入学者の学力水準の維持・向上という点、あるいは、高校教育の充実という点で、大学入試のありようが重要であるとしても、この点での社会的責任を根拠にして私立大学の入試方法に制約を加えることは妥当なことではない。そこで、国・公立大学にこの責任を担ってもらうのが適当であろう。」

※なぜ私立擁護??

P251「むろん、国・公立大学の存在意義はそれだけ(※授業料)ではない。高等教育機会の平等な保障、学問研究の維持・発展、地域(県レベル)の人材育成や文化・経済・社会の活力の維持・促進などの点でも重要であることは言うまでもない。しかし、受益者負担論が優勢になりつつあるこんにちの状況では、これらの側面は必ずしも国・公立大学の安い授業料を正当化する根拠として十分なものと見なされていない。」

※藤田は国公立では一割程度しか大学生の機会を保障できない事実にはどう考えているのか。

P264「とはいえ、一般論として言えることは、とくに東京をはじめ私立・国立の割合が多く、公立と私立・国立との激しい地域では、公立と私立・国立との入試制度上の差別を取り払うことが考えられる。具体的には、現在は公立の試験日と私立・国立との試験日が分かれているが、これをすべて一緒にして、公立・私立・国立を問わず、数日間にわたって複数受験できるようにするという方法である。その際、おそらく公立の学区の拡大(大学区化)も合わせて行う方がよいであろう。」

P255「以上のほかに、入試制度について、もう一つの根本的な改革案が考えられる。それは、大学の入学者選抜に高校別の割当制を導入することである。国・公・私立を問わず、各大学は、学生規模に応じて、一つの高校から一定数以上の入学を認めないようにするという改革である。たとえば国立大学は一つの高校から一定数以上の入学を認めないようにするという改革である。たとえば国立大学は、一つの高校から五〇人以上は入学させないとか、各高校の上位二〇%以内を入学者選抜の主要な基準の一つにするという方式が、それである。そうすれば、大学入試のありようは大きく変わることになるだけでなく、大学の序列も影響を受けることになるだろう。」

※序列化回避の観点からいえばこの方法は最適であるように思える。

 

P261「また、学校評議員制度の導入が提案されているが、この制度も、教育委員会と学校との一元的で官僚制的な統制・指導関係を変えるものとして構想されていない。言い換えれば、必ずしも学校の自律性・独立性や教職員の自主性・専門性を高めるものとして構想されていない。」

※この意図は教育改革が官僚制を強化することによる教師の自律性・専門性の疎外の可能性の指摘である(p262)。黒崎は民主主義が官僚制に寄与するとしたが、藤田はそれ以外の要因でも官僚制化する可能性に言及する。日本の議論では通常中央集権化こそ官僚制の条件である(cf.p265)。「教員の専門性・自律性や教職員のモラール・協同性の重要性について、近年の改革動向はこれを軽視しすぎているように見受けられる。」(p264-265)

P268「進行中の改革では、教育人事や予算配分や学校運営・教育実践面の日常的な指導・監督などの点で、教育委員会事務局(教育長・部長・専門的職員=指導主事)の権限がこれまで以上に増大すると予想されるが、それをチェックする権能が必ずしも担保されていない。」

P269「しかし、こんにち問われるべき問題は、むしろ行政府内部の恣意性・世論迎合性や党派性が教育行政の中立性・継続性を脅かす傾向が強まっているという事態をどう考えるかという問題であろう。」

P270「確かに教育委員会制度は、戦後日本の教育行政と教育水準の維持・向上に重要な役割を果たしてきた。この点は高く評価してよい。しかし、もう一方で、それは学校現場の官僚制的統制の基盤となり、しばしば学校改革の新しい取り組みや教職員の自主性・創意工夫を抑制する働きをしてきたことも否定できない。」

※この評価はあまりにも唐突な感がある。

P271「その意味で、教育に限らず、これからの社会制度で重要となるのは、市民的なチェック機能(オンブズマン的機能)を組み込んだシステムづくりをしていくことだと考えられる。」

P272改革案の一つとして想定されるオンブズマン機能を拡充するにも「教育委員ないし教育行政オンブズマンの選任方法として公選制ないし準公選制の採用を再度検討する必要があると考えられる。」

※これは最高裁の信任投票のような方法でもよいだろうとする(p274)

P276-277自律性を高めるための職員加配や、学校への一定程度の非常勤職員のための予算配置をすべき

 

P305「というのも、(※アメリカでは、)生徒指導上の問題が多い学校では、一般の教師とディシプリンティーチャーや心理臨床カウンセラーとの連携・協力がうまくいっていないとこぼす校長・教師や、問題行動を繰り返す生徒や生活上のトラブルを抱える生徒の問題はディシプリンティーチャーやカウンセラーの責任だとして関与しようとしない教師が少なくないからである。日本の学校では、教師と養護教諭がそれらの仕事を連携・協力して担っているわけだが、その方が理にかなっていると考えられるからである。」

※分業体制が問題という指摘。

☆P333-334「以上のように、能力的個性・趣味的個性のどの側面でも、小・中学校段階の教育が担うべき中心的な役割は、個々人によって多様な差異的個性の育成ではなくて、その基礎ともなる共通の基本的な能力や性向の構えの育成である。むろん、三章でも述べたように、それでも子どもたちはそれぞれに自分なりの個性を育む。その多様な個性は、それぞれに尊重されるべきものである。しかし、それは、日常の教育活動において尊重されるべきものであって、教育の目的としてその実現を制度的に保障しようとするものではない。」

※この主張は根本的な前提の議論にかかわる。

☆P336-337「この点で、一九八〇年代以降の日本社会は重大な考え違いをしてきたように見受けられる。学校がそれをどのように引き受けるか、家庭や社会がその責任をどのように果たすか、そのありようは多様でありうることを前提に、その適切な在り方を考え責任を持って実践していくことが本当は問われていたのに、それを怠り、日本の学校はあれこれ引き受けすぎているとか、過剰な干渉をしすぎているとして、その役割の縮小を主張し、学校・教師の努力に敬意を払うどころか、それを〈余計なお世話・不当な干渉〉だとして否定し、もう一方で、家庭・保護者や社会の責任が重要だと言いながら、その責任が適切に果たされていない状況を放置し、事態の悪化に加担してきた。三章でも述べたように、日本の社会は〈三重の甘やかし社会〉という傾向を強めてきた。臨教審以降の改革動向は、その傾向に拍車をかけてきた。」

※これを「怠った」と価値判断するには、それなりの実証が欲しいところだが、おそらく藤田にはその実証が絶望的なまでに欠落している。藤田の批判も見方によれば「社会問題に毒された言説」が考え違いを起こしたと読めるものの、それは藤田自身にもあてはまってしまう。特にここでは甘やかし社会構造の助長が問題視されているが、甘やかしの事実自体は藤田のエビデンスからは何も見えてきていない。「してはいけない」の規範性についても、「学校をさぼることはいけない」という規範が日本はそこまで低いという事実自体に藤田は言及していない。気になるのは「親との同居が多い」ことを根拠にする「実践的甘やかし」であるが、これもいくらでも他の説明がつくのではなかろうか?もっと言えば、ここでの主張はナイフ事件言説の議論における教育の議論と矛盾している。

 

P337「しかし、勘違いすべきでない。学校があれこれやりすぎているのではなくて、家庭や社会でやるべきことをしなくなったのであり、できなくなったのである。それどころか、自分たちができないことを棚に上げて、ときには、学校がやりすぎていると言い、ときには、学校でやるべきことをやっていないと言って批判し、その活動の基盤を掘り崩してきた。その〈やりすぎていること〉と〈やるべきこと〉とがほとんど重なり合っているという矛盾にまったく無頓着に、学校批判を繰り返し、学校・教師の活動基盤も脆弱化に加担してきた。」

※この勘違いは藤田にもそのまま当てはまるのでは?「社会問題に毒される」ことこそ、学校の信頼基盤を崩すことにそのまま寄与する。なお、ここでの主語は「改革動向」である。

P339「同様のことは、創意工夫の習慣についても言える。これには知的好奇心やチャレンジ精神なども含まれるが、この創意工夫の習慣は、学校教育はもちろん、家庭や地域や職場でのさまざまな経験のなかで育まれるものである。……筆者の考えでは、それは、特定の時間を設けたり、特定のプログラムを設定したりすれば育まれるというよりも、もっとトータルなものであり、創意工夫を必要としている活動の場や創意工夫の余地のある活動の場のカルチャーによって育まれるものである。」

※藤田のいう創造性は「一般教養を身につけていることが創造性を高める」という主張とマッチする。「また、学校生活もさることながら、それ以上に、家庭生活や学校外でのさまざまのボランティア活動などは、そうした創意工夫や自発性を生かす余地が大きいと言える。」(p339-340)個性尊重の議論と対立するのも、この創造性観の影響がかなり大きいと考えられる。

 

P342「生活者能力としての創造性はどうであろうか。この点でも、その基本は、生産者能力としての創造性の場合と同じである。とくに、積極的な構えと創意工夫の習慣については、重要なことはまったく同じと言ってよい。」

※ただし、「豊かな経験」を積むことが「生きた知識・学力」につながるという意味で生活者能力としての創造性には別途必要とみる(p342)。

P345-346「ところが、臨教審以降の改革は、努力することの重要性を軽視し、能力の基本を歪曲してきた。努力も苦労もせずに、能力や〈生きる力〉が身に付くかのように論じ、学習の内容と時間を削減し、自由な時間を拡大し、生徒中心の教育を奨励するという改革を進めてきた。……学校は楽しいものでなければならないが、同時に、努力し苦労する場でもなければならない。」

※具体的に何が言いたいのか。この辺は西尾に似ているのか。いや、西尾は個人主義だが藤田は極めて集団主義的発想に親和的である。

P351「〈教育については誰もが一家言持っている、誰でも経験や信念に基づいて発言できる〉という、一見もっともらしい通念を根拠にして、そうした〈有識者〉の思い込みと偏見に基づく改革が正当化され具体化されてきた。しかも、一連の改革や施策の妥当性や有効性が検証されることは一度もなかった。〈有識者〉は、自分たちの主張や提案の妥当性や責任を問われることはなかった。具体的な改革もさることながら、こうした無責任体制を改めることこそ、いま必要とされているかもしれない。」

※これはそっくりそのまま藤田に返すべき主張である。藤田もまた改革の検証などにはタッチしているといえないし、偏見が含まれるのは既述の通りである。そして、何よりそのような地盤を整備してこなかったのは戦後日本の教育学界だったのでは、という批判さえ成り立つのでは。

 

P352「この無責任体制は、エリート的人材の育成・輩出の第三の要因である〈人材を生かす研究・仕事の場〉の重要性を軽視ないし見落としていることにも表れている。こんにち、日本社会がエリート的人材の輩出という点で問題があるとするなら、その主要な原因は、高校までの教育にあるというよりも、むしろ、大学以上の教育の不適切さと〈人材を生かす研究・仕事の場〉が十分に整備されていないことにある。」

※確かに大学教育の議論のすり替えとして義務教育の個性が叫ばれているなら問題だが、これも議論のすりかえでは。

P371「とはいえ、筆者はけして伝統的な共同体への回帰を主張しているのではない。抑圧的な困習(※ママ)と監視のまなざしが充満していた伝統的な共同体への回帰ではなくて、自由で自律的な市民から成る新しい共生社会、多様性を許容しつつ協同の責任を担い合う新しい共生社会の構築が課題となっている、というのが筆者の基本的な考えである。」

市民派の謳い文句。

萩野富士夫「戦前文部省の治安機能」(2007)

 今回は「国体の本義」をめぐる議論の補論として、荻野の著書を取り上げる。本書の主題は戦時期を中心にした文部省の「教学錬成」、「臣民」としての国民育成の機能についての議論を中心としているが、その中で「国体の本義」や「臣民の道」についても触れられており、特にとの編纂過程などについて細かく分析がなされている。

 

 ただ、本書で指摘されている「国体の本義」と「臣民の道」の比較による違い(p255)については疑義を出さざるをえない。本書では両者の違いとして①欧米への排除の傾向②忠孝の優先度の違いがあるとしているが、両方ともスタンスは変わらないというのが私の見方である。②は読書ノートの内容からほぼ自明であると思うが、①については少し詳しく触れる必要があるだろう。

 確かに私も「臣民の道」については欧米諸国に対する対立構造が強いものであることを認めており、①のような指摘がなされることも理解できるが、これは一方的な欧米思想の排除として捉えてしまうと日本の態度として自己矛盾が生じてしまうため、解釈として適当と言い難いと考えられる。ここで押さえなければならないのが、「欧米思想に学ぶことができる」ことを日本の強みとしていた「国体の本義」における基本的スタンスとの関係性である。結局この謙虚に学ぶ姿勢というのは、欧米思想の排除からは生まれることがなくなってしまい、その基本姿勢そのものの否定にもつながりかねない問題を孕んでしまうのである。「臣民の道」においても、日本が「西洋文物の摂取」を行ってきた事実に触れられ、そのこと自体に対して否定的見解が示されていない以上、これを全面的に否定してしまうことは日本そのものの否定につながってしまうため許されないのである。その意味で、「国体の本義」と「臣民の道」は見方は違えど、基本的な「近代観(欧米観)」については連続性の存在を強調すべきであると思う。

 ではこれはどのようにすれば許されるものとなるのか。答えはこれら2書と、1942年に文部省教学局から出版された「大東亜戦争とわれら」(cf.p352-353)の比較によって明確に見えてくる。一言でいえば、「日本が西洋文物を摂取してきた」事実自体を無視するというのがその答えである。「大東亜戦争とわれら」では「臣民の道」からさらに進んだ形で米英を「悪」と断じ、「八紘一宇」を正義の原理として戦争に打ち勝つ精神を鼓舞するという、見慣れた二項図式論に基づく、細かな・厄介な問題の忌避(無視)という議論に行きついていることが確認できる。合わせて注目すべきは、このような観点からは「近代の超克」という議論はすでに存立しえないことである。欧米由来の「近代」はすでに克服される対象ではなく、排除し打倒する対象とみなされているため、「近代」という地盤そのものが不要のものとみなしえるからである。そしてそれに代わり立ち上がるのがそれとは全く異なる原理により現れる「東亜新秩序」なのであった。このような「善悪」ベースの二項図式論の弊害については教訓とされねばならない論点が含まれているだろう。結局当時の日本人も多くの恩恵を受けていたはずのものであり、5年前までは同じ立場にいるはずの者(文部省自身)がその価値を強調してきた「近代」なるものの継承は、その事実を無視する形で、見方によっては事実を歪める形で否定されることとなったのである。

 

 また、本書で指摘されている内容として注目すべきは、「国体の本義」における草案と刊行版との相違点であろう。特に注目すべきは「国体の本義」の草案における、「我が国体に関する一の説き方に止るものであつて、これ以外の研究を拘束するものではなく」といった記述である(p195)。これは本書における欧米思想に関する記述が難航していたこと(p192,p194)とも大いに関連していたものと思われる。「国体の本義」においては、刊行本では矛盾した態度も現われるものの、比較的まじめに「近代の超克」についての議論がなされていたのであり、まさに現在進行形として近代をいかに受容し、醇化していくのかか課題であったがゆえに、有力な一解釈を超えるものでありえるはずがなかったのである。にも関わらず、「国体の本義」は刊行に向けて調整が進むにつれ、「聖典」としての位置付けを強めていったのである。

 更に文部省が行ってきた「教学錬成」については、本書でしばしば批判の対象として捉えられていたことが指摘される。これはまず文部省(教学局)と「国民精神文化研究所」という、研究機関(あくまで学術的に「国体解明」を目指そうとした機関)のスタンスの違いや「国民精神文化研究所内」内にも存在していた「思いつきや神がかりの国体論」への批判(p141)にも表れている。前述した「国体の本義」の性格についても、この書物がもともと「国民精神文化研究所研究部ヲシテ日本精神ノ聖書経典トモ称スベキ簡明平易ナル国民読本ヲ編纂シ之ヲ広ク普及セシムルコト」を意図していた(p188)ことを踏まえると腑に落ちる所だろう。「国体の本義」が当初他の国体研究と排他的でない態度であったというのは、この国民精神文化研究所のスタンスとも無関係であるとはいえないだろう(なお、「臣民の道」は文部省教学局が主体となって作成を進めたものであった)。また、「教学錬成」そのものが主体に有効なものなのかといった批判をはじめ、文部省の政策批判も多くあったという実態というのは、この時期の思想政策が必ずしも「官」主導で行われている訳ではなかった、または「官」主導で行われることが好まれていなかったこと(これは『近代の超克』座談会における「官」批判がある意味常識的なものであったこと)を示唆する内容であり、当時の「臣民」育成においても複雑な議論が存在していたことを読み取ることができ興味深かった。

 

<読書ノート>

P10-11「明治維新以降の国家による教育体制の構築が大日本帝国憲法下の「臣民」育成を目標にしたことは、これまでの分厚い蓄積を持つ教育史研究によって明らかにされてきたことではあるが、一九三〇年代後半からの「臣民」はそれ以前と質を異にするものであった。マルクス主義は強権的に弾劾されるのと軌を一にして、個人主義自由主義・民主主義なども欧米からの輸入物として一斉に排撃され、その対極に絶対的に拠るべきものとして「国体明徴」・日本精神があらゆる領域を覆いつくした。その結果、「臣民」は「皇国民」として「教学錬成」に駆り立てられていったのである。」

 

P93「ことに「忠誠奉公ノ精神」を第一に掲げたことは、(※国民精神文化)研究所の実質的中心人物である伊東学生部長の意向を強く反映していると思われる。伊東は「我国体は永久不変であり、永遠に栄え、皇位は真に万世一系である。此の真我を把握し、此の国体を体認する。そこより我国の学問が発展し、我国の教育が建設せられる」という認識に立ち、欧米流の分析的方法・実証的手段・抽象的理論を排し、「全的綜合、内面的把握、人格的証悟、実体的把握」によって「初めて真の知識、学問が成立つ」という論理を展開する。創設当初、「所長事務取扱」となっていた文部次官栗屋謙は「東西二大文化の精粋を尽し、この基礎上に世界的新文化を建設する」ことを「現代日本国民の歴史的使命」としていた。まだ東西文明融合に傾斜する栗屋に比べて、伊東の欧米的価値観の排斥は際立っている。」

 

P128「ところで、思想局創設に対する世評は批判的なものが多かった。最もきびしいものの一つは留岡清男の論で、「一体思想対策などといふ問題が、文政上の国策として成立つだらうか。思想問題が起らねばならなかつた源を遡及するならば、学生部それ自身の創設が問題とならねばならぬ。之を思想局に昇格するなんていふに至つては、最早お話にならない」という。」

※有光次郎は思想局のすることは実際の行政にちっとも反映されず、遠吠えみたいなものとする(p129)。

P136山本勝市の指摘から…「また今日の学生は個人主義的な考方で教育され、唯物的機械的な考方にならされて居るが為めに、実に容易く左翼思想に侵される様に出来て居る」

P139-140「「日本精神の真義」の徹底は、すべての教育領域にわたるが、大学・高校などにおいてこの時期に新たに試みられたのが「日本文化講義」の実施である。……

 これらに対する学生の反応はどうだろうか。露骨に「国民的性格ノ涵養及ビ日本精神ノ発揚」を唱道する講義は不評だったと思われる。」

 

P141「斎藤首相兼文相の「(※国民精神文化研究所開所式)祝辞」には……研究所の第一義的使命である「新日本文化ノ創造、建設」という研究部での成果についての言及がなかった。いみじくもここに示されるように、研究面における達成・成果の乏しさや、そもそも文部省の機関で「新日本文化ノ創造、建設」なるものが可能かどうかという点からも、研究所の存在に疑問が投げかけられていた。

 それは研究所の当事者にも認識されていた。三四年九月に研究部長に就任する吉田熊次は、「自分の国民精神の学説は、思いつきや神がかりの国体論ではないのだとして、薄弱な国民精神論者を厳しく批判した」という。部長就任にあたり、「我が国の思想界・学界はあらゆる主義・主張を包容するが故に、是等を融合して整理して、我が国民精神を培養することが特に本研究部の任務でなければならぬ」と述べるのは、おそらく紀平正美らに代表される「思いつきや神がかりの国体論」への牽制だったと思われる。

 しかし、その後、吉田が満足するような研究部の運営ができなかったことは、教学刷新評議会特別委員会の場での発言から推し量れる。」

 

P188「さらにさかのぼれば、前章で指摘したように、一九三三年の思想対策協議委員の幹事会で「思想善導案」が検討される最初の段階では、「国民精神文化研究所研究部ヲシテ日本精神ノ聖書経典トモ称スベキ簡明平易ナル国民読本ヲ編纂シ之ヲ広ク普及セシムルコト」が入っていた。そのことからは、文部省にとって「日本精神ノ聖書経典」たる「国民読本」の編纂は宿願であったことがうかがえる。」

P192「先に伊東談話と重ねてみると、「国体の本義といふと兎角古い歴史的な事」については、第一段階から第四段階まで、「大日本国体」と「国史における国体の顕現」の二章を配置することで一貫している。それに比べて、伊東が「社会的にも十分検討して時代認識に立つて国体の本義を明かにする」と意気込みを語った部分は、まだ構成段階とはいえ難航している。なかでも「現代思想」のうち「欧米思想」の扱いをどうするかで試行錯誤が繰りかえされたことがわかる。第三段階の「要綱」までは一章を費やして欧米思想の批判克服を意図したが、第四段階で扱いを縮小することに転換した。」

 

P194「草案第一稿では、「外来思想」の流入がかなり詳しく紹介され、北村透谷や幸徳秋水の名前さえ登場する。また、「自然主義的傾向の余りに現実の魂のみを見るに対して、理想を一面に尊重する所から新理想主義が起り、トルストイズムが謳歌され、ここに人間性にもとづいた思想が謳歌されるに至つた」という一文まである。こうした叙述は、次第に「消化せられない西洋思想」の弊害という観点から整理され、「西洋個人本位の思想は、更に新しい旗幟の下に実証主義及び自然主義として入り来り、それと前後して理想主義的思想・学説も迎えられ、又続いて民主主義・社会主義無政府主義共産主義の侵入になり、最近に至つてはファッシズム等の輸入を見、遂に今日我等の当面する如き思想上・社会上の混乱を惹起し、国体に関する根本的自覚を喚起するに至つた」という刊本の叙述に行き着く。

 刊本ではこれにつづいて、「今日我が国民の思想の相剋、生活の動揺、文化の混乱」は、「真に我が国体の本義を体得することによつてのみ解決せらる」と断じる。そして、これは日本のためだけでなく、「今や個人主義の行詰りに於てその打開に苦しむ世界人類のためでなければならぬ。ここに我等の重大なる世界史的使命がある」と展開する。いわば「八紘一宇」的発想にすぐ手が届く地点にまで進んだことになるが、これは草案第一稿には見えず、三六年六月の「要項」から「要綱草案」作成段階でもおしらく発想されていない。改稿過程で「今や我等は重大なる世界史的使命を担ふものとして、先ず国体の本義を開明し、大いにその体現に努めなければならない」という発想が生まれ、「世界人類のため」という名分に結びつけられたのである。」

※見方によっては国体志向が改稿に影響を与えたともいえるのではないか。

P195「注目すべきは、後半の、特に「我が国体に関する一の説き方に止るものであつて、これ以外の研究を拘束するものではなく」という部分である。これは修正版でもまだ「素より本書は完全なるものでなく、又これ以外の研究と叙述とを拘束するものではない」と残されているが、刊行本では前述のように「本書の叙述はよくその真義を尽くし得ないことを懼れる」という箇所に多少の痕跡をとどめるだけで、削除されてしまう。文部省編纂の権威ある刊行物たるためには、「我が国体に関する一の説き方に止るもの」という消極的抑制的な表現は不適と判断されたのだろう。」

※端的に草案段階では「理性的に客観的な視点」がわずかながらあったものとする(p195)。

 

P196「『国体の本義』は刊行とともに普及徹底が図られた。文部省から三〇万部が中等学校、小学校、青年学校教員全員のほか地方教育関係者にも広く配布された。市販された内閣印刷局版は約一年後には二〇万部を突破し、一九四三年三月現在で一九〇万部に及んだ。さらに文部省では約九万部の複製や全文転載も認めた。」

P251「一九四一年七月、教学局から『臣民の道』が刊行された。『臣民の道』については、「『国体の本義』の「実践的奉体」を意図した『国体の本義』の姉妹編」という評価が通説的なものだろう。これは実質的な受容のされ方としては妥当だが、その当初の編纂の意図からすると、やや異なったところから出発している。」

※むしろ「指導書」として編纂の出発点では意識されていたという(p251)。

 

☆P255「『臣民の道』が『国体の本義』の注解篇ないし姉妹篇という性格づけなされたものの、その四年間という刊行の時差は、内容において大きな相違をもたらした。まず、思想の帰一化の進展である。『国体の本義』においては、「我が国民の使命は、国体を基として西洋文化を摂取醇化し、以て新しき日本文化を創造し、進んで世界文化の進展に貢献する」とし、「西洋文化の摂取醇化と国体の明徴とは相離るべからざる関係」と捉えていた。ところが、『臣民の道』においては、「我が国民生活の各般に於いて根強く浸潤せる欧米思想の弊を芟除」することを必須とし、それらを「自我功利の思想」と一括して全面否定するのである。刊行本においては消えるが、「動もすれば複雑多岐に分れ勝ちなる考へ方や見方を統一」することを目的の一つとすることからいえば、この思想の帰一化は当然であった。

これと関連して、忠と考の関係にも差異が生じる。」

※欧米思想そのものの排除を指摘しているわけではなく、前段の評価は言い過ぎ感がある。「西洋文物の摂取」を行ってきた日本に対して、その態度を全面的な否定を行なっているわけではないからである。また後段の忠孝の関係性についても、忠孝一本の姿勢から忠の価値が優先されたのが『臣民の道』のスタンスと指摘するが、「国体の本義」でも「忠の道を行ずることが我等国民の唯一の生きる道であり、あらゆる力の源泉である」「孝は、直接には親に対するものであるが、更に天皇に対し奉る関係に於て、忠のなかに成り立つ」としており、何ら関係性に違いはない。

 

P339「この6の総括(※佐賀県における中等学校の思想調査の傾向から)は、自由主義個人主義的傾向の排除に文部省・教学局が躍起となっているだけに、地方の実情からの批判として興味深い。」

※そもそもそのような傾向の生徒がいないことに対して、重点課題のようにとらえることをナンセンスに見ている。「その一方で、大人の世代の時局認識の不徹底や精神的弛緩が問題視されていく」とする(p340)。

P352-353「大東亜戦争とわれら」、学校に約三万部を配布し、内閣印刷局からも四〇万部が市販された

P357-358「安岡(※正篤)は「今日の世上に行はれてゐる錬成といふものは多分に又あるべき道から外れてゐますね。何かかうむやみに従来のものから離れた真新しい或る特定の行をやることがそれが錬成だという風になつてゐますね。非常に癖のある、一般人に喜ばれない、何か不自然を感ぜしめるやうな錬成が行はれ過ぎて居るのではないかと思ふ」と述べ、末広や安倍の賛同を誘う。末広(※厳太郎)も「人生観或ひは世界観の押売りといふやうなことが可成り行はれて居りはしないか、それはそれで目的があつて結構ですけれども、私はその結果個性を必要以上に殺して、そのために学問の発達に害が有る方面もありはしないか」という。」

ピーター・B・ハーイ「帝国の銀幕」(1995)

 今回も「近代の超克」の議論に関連したレビューを行う。

 本書は戦時中の映画についての分析を行ったものであるが、特にその映画の「大衆性」に注目し、そのことと戦時の統制的なイデオロギーとのズレについての描写を中心的に行っていることが特徴的である。統制的イデオロギーに対する「抵抗」もそうだが、そのようなイデオロギーに対する冷ややかな大衆の態度についても重点的に語られている点で、当時の多層的な議論の存在が非常に興味深い。

 例えば、大衆の新体制に対する無関心さ(p259)や、非常事態の「消費」について(p34)、戦争への楽観主義(p266)がそれである。これは映画という市場に極めて近い所にある媒体の分析を行った結果というバイアスの存在も否定できないが、それでも特に都市部における戦争受容の一端を垣間見ることができる内容である。また、映画製作者と統制する側との緊張関係についての描写も非常に多い。統制的であることと、(映画製作における)創造的であることとは根本的には矛盾したものであり、製作者側はそこに独自の工夫を加えながら、適合ないし抵抗しようとする。抵抗に近い例として示すのは木下恵介「陸軍」をはじめとする作品で(cf.p367-368)、検閲が厳しい脚本のレベルでは適合的でも映像表現でそれを逃れようとする戦略など、製作者側の苦悩の一端も細かく記述している。

 

○統制的イデオロギー=「近代の超克」の矛盾の露呈について

 映画という媒体自体、極めて実践的なレベルでその表現が求められ、「理念」とは対極的な側面を持ちうる分野であることを著者自身は強く自覚しており、統制的イデオロギーの理念が実態としての映画でいかに矛盾したものとなっているのかについて、本書では詳しく記述がなされることになる。

 

・生得的な「日本人であること」と「日本人となること」の矛盾について

「国体の本義」(1937)においては半ば議論を誤魔化すかのように、実態における「西欧の影響に伴う悪影響」と理想としての「真の国体」は矛盾を内包し語られていた。しかし、映画という媒体ではそのような誤魔化しは露骨に表面化せざるを得ず、それ自体がナンセンスに見えてくることもしばしばあることを本書では示唆している。P194にあるように映画の世界でも繰り返しこの矛盾は現れているといえる。結局今も昔も「日本人であること」とは、何らかの(架空か実態かを問わず)参照軸を以て描かれるものであり、それ自体は理念型と同様、実態である必要性はない。そして、それが「日本人となること」を要求する場合、当然矛盾として現れることになる。これが最も致命的な矛盾として現れるのが、「日本人であること」を生得的なものとして定義する場合においてである。これは客観的に見れば滑稽でしかないが、「日本人であること」は決して疑問に付されることが許されていない以上、矛盾を矛盾として受け入れなければならない。もし、この矛盾を避けるのであれば、登場人物自体が「日本人であること」と同義となってしまうが、それは飛躍でしかないため、p220で言われるように「正常な、理解可能な」人物像として読み取ることができないか、具体的にはp374に見られるように「超人的」であることが要求される。これではとてもじゃないが「国民生活に根ざした」映画にはつながらない(p301)。

 当然このことに苦労したのが映画製作人側であったことは言うまでもない。国体の理想と実態の乖離はそのまま官僚と一般映画人が「同じ言語を話していない」ことと同義であり(p301)、常にその映画が検閲される立場にあった映画製作者側は、理想的な要求に沿った映画を作らなければならなかったが故に、「困惑を生み、困惑が不安を生む。そしてその不安が、さらにいっそうはっきりした統制を懇願させる」という悪循環も生むことになった(p302)。

 

・統制的イデオロギーとの根本的な矛盾について――「(文化的)包摂」をめぐる論点について

 一方でこの理念と実態の一致をそもそも志向しない分野もまた存在した。これは「日本人が描く外国人」という場面において露骨であったと本書は見ている。この一因として日本人の文化的貧困さに見出しているが(cf.p394)、それと同程度に観衆側の無関心さの影響の大きさも本書は一因と見ている(cf.p337)。

 「国体の本義」では日本(人)の優れた点として欧米の「対立的」構造ではなく、「包摂的」な性質があったと指摘された。文化受容についても日本は積極的に欧米文化を模倣し、近代化を行っていったこともその評価の根拠として語られていた。結論から言えば、「対立的」構造に乏しいという点では確かに正しい指摘である。しかし、これはどちらかと言えば、そのような差異に対して無頓着(更に悪く言えば、無知)であることを根源としているかのように本書では語られる。まさに日本人は「他者」を語ることについての方法論を欠落させていた。したがって、これがそのまま「包摂的」になることから離れた原因にもなったのである。

 これは結局日本映画においても、「包摂的」要素を欠落させる形で、例えば「勤労精神」と言ったものですべてを解決し、他国にもそれを波及させることこそ至上命題であるという見方を正当化した(p400)。すでにこのことは理念自体が崩壊したものとして把握すべき内容であろう。

 

 そして、この論点はそのまま「帝国主義」の正当化と何ら変わらない結果を生むことを意味していた。一つには被植民国に対するステレオタイプとして(p326-327)、又もう一つは日本文化の絶対的信仰とその波及として(p400)。このような議論について「国体の本義」では欧米的な二項図式論(そして、それは「個」の問題に還元して語られていた)として揶揄されていたものであったはずだが、結局映画という「現場」においてさえもこの考え方は理解されることなく、帝国主義的発想が支配することになるのであった。

 

 私自身はこのような議論とわか・こうじが語ったという事例(p439-440)との類似性を意識せずにはいられない。結局この上官もまた、「国体」を都合よく解釈することによって、「不可能を可能にすることが重要だ」という価値観に支配されていた。この「不可能を可能にすること」自体は極めてシンプルな「超克」の発想に基づくものであり、それは「国体の本義」とも部分的には合致していた。しかしこれは「国体の本義」そのものの表現では決してないのである。結局の所、「国体の本義」が抱えていた矛盾というのが、この上官には都合のいい部分だけを解釈・受容し、自らの権力行使にあたり断片的なものをわか・こうじに与えたという構図が出来上がっている。結局のところ、「国体の本義」のような聖典も現場の人間に都合よく解釈され、その権力行使の場で運用されていたという所が実態であったのではなかろうか。ここで重要なのは、いくら「理念」を語ったとしても、それが「実態」を意味する訳ではなく、かつ常にそれが「理念」とのズレを生じさせる可能性があるという問題である。「近代の超克」をめぐる議論で私が最も気に食わないのは、この議論が結局「超克」という「理念」に回収される言説であり、その過程で「実態」が不問に付せられることと、その状況が戦後の教育界における言説と極めて似た性質をもったものだと感じる点にある。「近代の超克が有効である」という主張に常に問わなければならないのは、このようなズレについてどのように問題に取り組むのかという観点ではないだろうか。

 

○敗戦に対し無反省であったのは何故か?——「日本人論」に対する反省の必要性について

本書ではこの無反省さについての問いについて、意味のある回答を与えている(p469)。このような連帯責任感が戦争責任について不問としたということは、かなりの部分真実であるように思える。これは、戦争責任論自体が極めて単純化された議論(例えば、統制に対する従属的態度そのものへの批判)と、それへの反発(愛国的であることの正当化)といった次元をなかなか出てこないことと無関係であるとも言えないだろう。本書が与える視点というのは、このような図式からは外れたものであり、極めて現実を直視することから問題点を抽出しようという観点は今後も行っていなかければならないだろうと思う。

 また戦争責任を不問にするという論理は、「戦争を体験していない」世代に対して何ら正当性がなく、むしろその世代に対して弊害となっていることに本書も目を向けている(cf.p472)。戦時中までの議論の回避と戦後の議論をあたかも別物として語ろうとする態度が無関係とは思えないし、むしろその連続性について注視すべきであると本書では強調されているが、これについては強く支持したい。

 私自身特に注視すべきと考えるのは「日本人論」における戦中戦後の連続性である。現在の日本人論は、あまりにも当時の言説と連続性があるにも関わらず、そこへの「創作性」について、つまり「ユニークであることを強調していること」について無頓着であり続けているように思える。これは欧米の研究者にとっては、あたりまえのように連続的な見方を行っているが(逆に過去の言説に引きずられ過ぎている可能性も否定できないが)、日本における日本人論はこの継承をほとんど行っていない(これは、日本人論を総括する立場で著されているはずの杉本・マオア「日本人は『日本的』か」(1982)や青木保「「日本文化論」の変容」(1990)などが戦後からの議論に留まっていることからも言えるだろう)。また、このような議論は80-90年代にかけて教育をめぐる議論にも大きな影響を与え、現在に至っていることも含め、「日本人論」の系譜について、それがいかに語られ、それがいかに国民性を語る上で正しい(実態のある)言説だったのかという問いは問われ続けなければならないものだろう。

 

<読書ノート>

P28「事件の首謀者であり、実際に犬養首相を撃った古賀中尉はその裁判で、五・一五事件の陰謀者たちは「破壊を第一に考え、決して建設という使命を実行しようなどと思っていなかった」と認めている。彼らは、陸軍大将荒木貞夫の助言に基づき、国民精神を見失わせる西洋化の「歪み」という分厚いベールを、「大和魂」によって払いのけなければならないと決意したのだった。すでに陸軍大臣であった荒木は、「これらの純粋で素朴な若者たち」の行動を褒めたたえ、「押さえきれない涙とともに」拍手喝采した。新聞やラジオで裁判の行方を見守った人々の多くもまた同様であった。

 荒木がまもなく「非常時日本」と呼ぶことになる新時代においては、直接的な行動が言論よりも勇ましいとされ、「誠実な信念」が若い熱狂的軍人たちの排他的特性となった。」

P29「明治時代以来の国民心理の構造に内在してきたものは、国家への奉仕に関しては「なぜと問うようなものではない」という確信である。徳川専制政治を倒し、平等社会の実現を夢見た坂本龍馬でさえ、疑いの余地なくこれを支持している。……文部省が「臣民の道」についての手引きを配布する一九四一年までに、個を滅して国家に仕えることが、日本国民の定義そのものとなっていた。……もちろん、どの「召集令もの」においても、召集される者の問題は、当局の何らかの代表者によって解決される。これは、国家がその国民を、慈悲深く親のような愛情で見守るというイメージを強調する。しかし同時に、実際には内在するジレンマを解決することがないので、国家への忠誠という、奥底にあるテーマまでぼんやりしたものになってしまう。そこに残されるのは、個人にとっての利益と国の規定する「臣民の道」との間の本質的矛盾である。」

 

P31「以上に述べたような映画は、超国家主義的で精神主義的なメッセージを表現していたが、それでは極右組織は、どれほどの影響力を直接的に映画産業に及ぼしていたのだろうか。五十年以上たった今でも、その答えは謎に包まれている。映画業界には、右翼にしても左翼にしても、有力なイデオローグはほとんど含まれていなかったので、業界内部からの、映画製作に対する純粋なイデオロギー的な直接の影響はおそらく無視してよいであろう。」

P34「「非常時」というキャッチ・フレーズは、時代の陳腐な決まり文句のひとつとして定着した。しかし、それはしばしばその本来の意図に反して使われた。「今、何時?」「非常時!」というだじゃれは、喫茶店などで広まったが、新時代に対する消極的な抵抗がうかがわせる。

 「非常時」は、すぐに商業主義によって横領され、内容のないものになってしまった。「非常時日本」を利用して、国内の物質的状況を改善しようというキャンペーンの一環として、滋養強壮飲料の広告が出回った。」

P35「牛島(※一水)は、ジャーナリスト、政治家、文芸運動家、右翼思想家を、何か得体の知れない大きな動物の正体をつかもうと一生懸命に手探りする盲人たちとして描いている。その巨大な羊のような動物には、「ファッショ」とラベルが貼られている。しかし、日本をむさぼり食おうとしている怪獣は、もちろん、ヨーロッパ的な意味でのファシズムではなく、日本的な意味での、軍国主義的官僚制だったのである。」

 

P43「とにかく、ナチス・モデルがいくら魅力的であっても、そのイデオロギーはほとんど日本の官僚の目的には役立たなかった。日本土着の思想は、しばしばまとめて「日本主義」と呼ばれ、個人と国家との間の家族的に密接な絆を強調し、必要とされるあらゆる道徳基準を提供していた。

 例えば、一九三四年のくだらない「ママーパパ」論争は、ナチスの人種・文化純化政策とは、ほとんど無関係であろう。同年八月二九日、文部大臣松田源治は、当時「ママーパパ」と言うようになった子供たちの新習慣を激しく非難した。」

P50「なぜ革新官僚は、批評の禁止というナチスの先例に従わなかったのか。その理由はおそらく、協力を確保するのに、はるかに確実な手段があったということであろう。その手段とはもちろん、不敗の「懇談会」戦法である。この手法は、他の分野の作家や芸術家には非常に有効だと、すでに判明していた。中心的批評家に対する御機嫌とりは、特高警察の手荒な戦術よりも、はるかに多くを成し遂げていたのである。批評家らは、内務省の丸テーブル、あるいは「料亭」に招かれ、たやすく協力的雰囲気に包まれていった。実際、誰がこのような「求愛」のもてなしに抗することができたであろう。

 太平洋戦争終結まで、映画雑誌は頻繁に、数人の批評家と政府、軍の官僚が出席する「座談会」を大きく取り上げた。そこで討議されたのは、批評家(ないし映画製作者)はいかにして国策への最良の貢献をなし得るか、についてであった。田中三郎や津村秀夫のような批評家は、政府に仕える公職の地位を与えると誘われさえしていた。」

P60-61「映画改革者帰山教正は、一九二九年の「映画の性的魅力」と題されたエッセイの中で、どういう基準で映画俳優が美しいと判定されるかについて書いている。その基準はすべて、伝統的な日本人の顔よりはむしろ、西洋人の顔に基づいている。……

 また映画法の時期は特に、学童が日本民族の神話的起源について『国体の本義』に基づいて教えられている時でもあったので、この「白人コンプレックス」は屈辱的遺産と考えられるようになっていた。一九四〇年ごろ、文部省映画改善委員斎藤昌は、もし日本人が映画に見る西洋人の肉体的特性を崇拝し続けるならば、「我々は永久に彼等の精神的植民地に終わるより他はない」と警告している。

 しかし、外国映画、とくにアメリカ映画を徹底して非難するための論理を構築することは、極端に根拠の弱い仕事である。まず第一に、日本映画界が西洋からこうむった歴史的な恩恵はいかに説明すればよいであろうか。」

 

P67「映画に関連する革新官僚の中で、最も多く筆により主張したのは不破祐俊である。……

 不破は、次のように述べている。「文化という言葉は、改良或は改善の能力をその中に含んでいるものを培い育て上げてその能力を完成させて行く、と言う意味をもっている。文化は絶えず進歩発展する。その進み行くときに我々は生き甲斐を感ずる。」

 ここで思い浮かべられる官僚像は「保守主義者」でもなく「国体の本義」の誠実な信奉者でもない。むしろ、社会を人間(特定すれば官僚自身)によって完成させることができると考える、楽観的な十八世紀合理主義者の像である。」

P67-68「後の章でも見るように、革新官僚の「健全なる娯楽」に対する要請は、映画監督、脚本家、撮影所長らをノイローゼ寸前まで追い込んだ。その原因は明らかである。映画製作者は気づて(※ママ)なかったが、官僚たちはこの「健全」を、一般に「娯楽」として受け取られているものとはほとんど正反対の概念として使っていたのである。」

P68-69「不破が次の一節で明らかにしているように、革新官僚の活動を決定する中心的概念は、十九世紀の保守主義者の「社会有機体説」ではなく、十八世紀の「機械論」を露骨に体現したものであった。「文化政策は国民文化の生まれる所のそれぞれの文化機構の整備が刻下の急務である。文化機構が整備されればボタン一つ押せばその機構が総動員してたちどころに文化動員の態勢となり、国家の意図する啓発宣伝政策が軌道に乗り得るわけである。」

 おそらく、この子供じみた単純な発想が、日本文化のファシズム化の二本柱である「精神総動員」と、情報局による「文化団体の再編成」の概念的な枠組みを用意したのであろう。」

 

P194「「ヒューマニズム」戦争映画は、兵士たちに備った「人間らしさ」を強調した上で自然に湧き上がる仲間同士の共感というかたちで彼らの「日本人らしさ」をも描き出していた。そこには、その「日本人らしさ」をめぐって何らかの緊張が感じられたり、それが要求する基準を満たすために何らかの内面的葛藤が見られることは決してなかった。それとは対照的に、精神主義映画は例外なく精神的葛藤のドラマであり、「日本人らしさ」が深刻に問題化されている。主人公は、「日本人らしさ」を生まれながらに備えているにもかかわらず、それを自分の生き方に具現するために、精神的葛藤に満ちた遍歴を経験しなければならないというパラドックスと格闘することになるのである。」

※例えば、大塚恭一は「我々は祖先の血を受け継いだ日本人である以上、そのために自分の中の日本的なものが亡びてしまったとは思えない。かえって日本的なものに対する愛着は色々な形となって自分の身内に湧き起こって来るのを感ずる。」と話したとし(p194)、長谷川如是閑は「西洋人が自分の歴史について語るとき、一定の客観的立場を取りながら、外国勢力の侵入、そしてその結果として民族の血の混合について触れる。それに対して日本人は、自国に歴史に対するときでも、自分の家系の先祖をたどるのと同じような、より主観的な態度でのぞむ。……したがって日本映画は、いかにその媒体が「近代化」されようとも、日本の「心」刻みつけられたメッセージを見失ってはならないし、この「心」は、母国語に宿る精神をも含んでいる。」という(p194-195)。

☆P220「あらゆる精神主義映画に共通する一つの欠点は、主人公を表面的な「立派さ」においてのみとらえることに終始しがちなことである。このことが、心理的内面へのすべてに入り口を遮断し、正常な、理解可能な動機に基づいてドラマを構成することを不可能にしてしまうのである。」

※実際に表現する立場にある映画界固有の問題点であるともいえる。

 

P259「秋の到来とともに、新体制の姿が浮き彫りになり始めた。その中心的なものが「大政翼賛会」で、これは、一〇月一二日に発足し、さまざまな奉仕団体の活動を通して、政府を支持するために国民の団結を促す公事結社であった。……国民は、このようなやり方はすでにあきあきしており、新体制に興味を示す者はほとんどいなかった。『文芸春秋』による一九四一年一一月の世論調査では、六百八十人のうち六百人までが、なんのことか事態を把握できていないという結果が出た。」

※この出典は文芸春秋そのものではなく、他著者の論文に拠っている。表現が漠然としているのはそのせいか。

P262懇談会(1938年7月30日)において映画脚本家に対しまとめた指針の一つに「家族体系や国家に対する自己犠牲に見られる「日本的精神」を讃えること」が挙げられる

P266「しかし、これらの新たな外国勢力の脅威や日常生活の一層の困窮化にもかかわらず、一般市民はあいかわらず、戦争はこれ以上拡大せず、最後の最後には何らかの妥協がはかられるだろうと信じていた。新聞でアメリカ映画がいかに批判されようとも、映画雑誌は依然としてハリウッドのゴシップを載せていたし、目に見えて減少してはいたものの、アメリカ映画はやはり上映され続けていた。」

※1941年の話をしている。

 

P301「「これからの映画」は、一九四一年五月に「国民映画」という公式名を与えられる。情報局によるこの新映画の定義は、混乱と不安を生じさせることを意図しているかのようである。「国民生活に根ざし、高邁なる国民的理想を顕現すると共に、深い芸術味を有し、ひいては国策遂行上、啓発宣伝に資する。」いったいどうやればこのような定義にのっとった映画をつくることができようか。恐ろしいほどの矛盾である。もし「国民生活に根ざし」た映画をつくるとすれば、政府規制により公然と攻撃されている松竹お得意の「小市民劇」とどこが違うのか。それに、「深い芸術味」とは何を意味するのだろうか。これも否定されてきたのではないのか?」

※「国民生活に根ざす」ことが期待されるのは、「高邁なる理想」を所与のものとして捉える態度は同じだろう。それこそが矛盾だといえる。

P301「官僚と一般映画人が同じ言語を話していないということはすぐさま明らかになったが、説明を求めるたびに返って来るのは、漠然とした崇高な激励の言葉だけであった。「我々は、国民全体に愛され、理解され、国民の気持ちを高揚し、国民にあらゆる障害や敵を克服する勇気を与え、希望ある健康生活を送らせ、健全なる思想という原動力を国民に吹き込む映画を期待しているのです。」」

P302「統制が困惑を生み、困惑が不安を生む。そしてその不安が、さらにいっそうはっきりした統制を懇願させる。これこそが、映画人を征服した心理的悪循環の正体だったのである。」

 

P326-327「他方、この映画(※「続・南の風」、1942)で戯画化されている東南アジア人が、西洋がさまざまな民族集団を描くために用いて来た、滑稽か、さもなくば邪悪というステレオタイプといかに類似しているかは、まさに驚きである。例えば斎藤達雄(シェン)(※シンガポール人)の出っ歯と卑屈さは、ハリウッド映画に出てくる「悪辣なジャップ」のイメージとほとんど同じである。……

 これらの(※シェンの)「子供っぽい」とか「嘘つき」という形容は、有名な人類学者マーガレット・ミードが、一九四四年一二月にニューヨークで行われた会議の報告で、日本文化をさして用いることになる言葉そのものであった。太平洋戦争中のアメリカでは、敵国人である日本人の性格を明らかにするために、擬似精神分析を用いるのがはやっていた。日本人の行動を、パラノイア、犯罪性向、尊大などと分析する者もいた。PsychoanalyticalReviewのある記事では、日本人男子の「現実を無視した幼児性」に注意が向けられた。言うまでもなく、これらの戦時中の「科学的発見」は、それまで長らく流布してきたステレオタイプ的な見方を、さらにいっそう固めるのに役立ったにすぎない。「子供っぽい」という表現は、十七世紀以来、インディアンや黒人に対して用いられた言葉であったが、ハリウッド映画の初期から、東洋人を形容する際には、それに「邪悪で不可解」という表現がつけ加えられた。

 したがって『南の風』は、西洋人は日本人を描くときの民族蔑視的な表現を、新たに占領した領土の人々に適用したものであった。」

※ジェフリー・ゴーラーなども擬似精神分析の典型論者。このような国民性論が、特に対外的なものとして語られる場合に、実体を伴わない「偏見のステレオタイプ」を表現したものに過ぎない、という典型例でもある。

P327「その後の太平洋戦争中の映画は、特に「ドキュメンタリー」的なアプローチを取ろうとするものは、占領地の民族と日本民族の間の「勤勉さ」の違いを基準にする傾向があった。例えば『ビルマ戦記』のナレーターは、こう語る。「暮らしが楽であった住民は、素直で、気楽な性質をもっているかわりに、一般に怠け者であり、ひたすらに来世の生活を信じて楽天的である。」しかし一方、「桃太郎・海の神兵」という漫画映画では、さまざまな種類の動物として描かれた島民が、日本軍の飛行場建設を手伝う際に大変な勤勉さを示し、面目を躍如としている。

 先駆者のヨーロッパ人たちと同じく、日本の植民地政策は、世界を文化の優劣という観点でとらえていた。」

※言うまでもなく桃太郎では、被植民地国の従順さに重きが置かれているということ。

 

P335「おそらく(※マレー戦記における)ドイツ映画にはけっして見られないシーンは、シンガポールの通りを進む戦車の凱旋パレードであろう。シンガポールの通りを進む戦車の凱旋パレードであろう。通り過ぎる各戦車のハッチから半身を出している乗員は首から白い布で包んだ箱を掛けている、彼らは、この戦闘で死んだ戦友の骨箱を下げているのである。「欧米人には恐らく奇異の感を誘う」という津村の言葉は正しい。」

P337「日本の観客が、政府の「大東亜共栄圏」政策の「民衆解放」を謳うレトリックには全く感動しなかったこともあって、映画は失敗作となった。観客の関心は、日本軍の行動と、西洋勢力に対する日本軍の優秀性の誇示に集中していた。超国家主義と人種的ナルシシズムの時代に、外国国民の政治的独立の成否など一般の観客にはまったくどうでもよかったのであろう。」

※大衆的にどうでもよくても、プロパガンダ映画としては必要な要素だったともいえる。なお、本映画(ビルマ戦記)の不人気さの指摘は1942年に作られた45本の映画で36位だったという事実に基づく(p336)。対してマレー戦記は一位だった。

P360「英米の映画もたいてい、勇気をもって耐えることと、ささやかではあっても自分の責任を果たすことをテーマとしている。しかし、強力なボランティア精神の存在にもかかわらず、戦争遂行のための市民の団結は、あくまでもゲゼルシャフトの次元に留まっている。他方、銃後の増産努力を描く日本の精神主義映画に支配的なコンテクストは、一種のゲマインシャフトである。個人と国家、市民と兵士、平和と戦争、そして、まさに生と死さえ切れ目のないものとして繋がっているのである。

 精神主義の戦争映画では、戦争活劇映画とは違って、敵は、それがいかに卑劣な存在として描かれていようとも、中心主題には関係がない。戦争とは精神を鍛える場所であって、敵とは、己の内に住む猜疑心や快楽を求める心などの、戦意を弱める気持ちである。外敵に重点を置くことは精神的な集中を乱すことに他ならない。したがって、被害妄想的なスパイなどの形を取って、敵が重要人物として登場する敵愾心映画は、数段低いジャンルに属するとみなされた。」

 

P370「他方、上述の将校の言葉にある新しい没個人的な戦争においては、武士道的な英雄主義は格下げされて、新型の集団的英雄主義が前面に押し出された。これは教科書政策上の編集方針の変化を反映している。一九三四年に行われた国語教科書の改訂により、「勇気」にかわって「忠義」が兵士や市民の最高の美徳の座についたのである。教科書は、国民の「共通の知識」の中で、国家が直接に操作できる部分であった。実際に国家は、教科書を改訂することによって国民の「共通の知識」を書き換えてきた。一九〇四年から四三年の間に、五回の改訂が行われた。一九三二年までは軍国主義教育の教材は、もっぱら際立った個人とその偉業の話であった。しかしその後は、偉業が語られることはあっても、行為者の名は「ある兵士」として伏せられることが多くなった。手柄は個人から、顔のない集団全体のものに変わって行ったのである。偉大な行為は集団の結束した努力によってこそ可能になると強調された。一九四三年の第五期の教師用指導参考書は、この点に関して詳しく記述している。すなわち、真珠湾攻撃の際に戦死して国民的英雄となった九人の潜水艦乗組員についての話を新しく挿入する意義を説明し、その目的は、九人の軍神を取り上げられながらも、個人的な勇気ではなく協力の本質を教えることであるとしている。」

P374「この教義では、兵士にとっての人間の真髄とは、日本人であれば生まれつき持っている「大和魂」である。各人の私的存在は、迷い以外の何ものでもない。『海軍』では、予科練の士官の一人が、自分の訓練生に向かって言う。「お前たちには、手も足もない。困難と苦労は、自分を自分とみなす心の所産に過ぎない。」軍神としての「不死」とは、実際には、あらゆる個性の消滅であり、非個人的抽象との完全な同一化のことなのである。死ぬことによってしか、人はその抽象を現実に転換することはできない。」

P376「実際の製作用として最終的に選ばれた脚本の多くには、急激に上げられてゆくノルマを不服とする労働者たちが扱われていた。決まって主人公は、自己犠牲的英雄行為か超人的努力によってこの抵抗を克服し、肉体的疲労や過剰使用の機械類の故障といった日常的な問題が精神力によって解決できることを労働者たちに証明して見せる。ここには、全国の工場で労働意欲がたえず減退しつつあり、この危機的状況が生産性を鈍らせ、戦略的に重要な兵器の品質にも影響していたことが反映されている。」

 

P387「不破祐俊と他の革新官僚らは、三〇年代の末から、時代劇を史実に基づいた「歴史映画」に変身させることを要求していた。映画業界は、これに真剣に取り組み、この理想に沿って多くの作品を生み出した。……しかしながら、これらの作品はすべて、日本史上の出来事しか扱っていなかった。しかし太平洋戦争の中期になると、日本の外で起きた歴史的進展を描くことが、映画製作者の責任として要求されるようになった。この結果、敵愾心喚起のための宣伝材料を西洋諸国のアジア侵略の歴史に求めた映画が、多数制作された。

 荒井良平のスペクタクル『海の豪族』(日活、一九四二年一〇月)は、この種の最初のものであった。……興行的にはかなりの成功を収めたが、ほとんどの批評家はあざ笑うか、まったく無視するかであった。飯島正の映画評は一行足らずだった。「ただただ滑稽である。」

P394「杉浦のコメントは、無意識のうちに敵愾歴史映画の最大の弱点をさらけだしてしまっている。つまり、これらの映画は時代劇メンタリティーの所産だということである。歴史映画に託された二つの宣伝機能は、(1)一般大衆に、日本と西洋列強との間の「多次元的」(政治的、文化的、思想的、軍事的)な摩擦の歴史的文脈を示すこと、(2)うまくいけば、いっそうの戦争協力につながり得る敵愾心を民心に起こさせること、であった。

 制作された歴史映画は両方の点においてーー少なくとも部分的にはーー失敗したが、その原因の大部分は、この使命を任された脚本家と監督がB級時代劇映画の単純な物語展開という因習から自らを解放することができなかったことにある。時代劇は、個人的復讐の物語として本質的に非歴史的であり、異なる思想体系ないし政治制度の間の弁証法的な対決という概念をまったく持っていないのである。

 行動規範の間の衝突もまた存在しない。明確に存在するのは唯一、武士という行動規範のみであり、この規範を維持しようとする者と、それを無視するか意識的に壊そうとする者との間にある衝突のみである。」

 

P400「南方の未開の地域に対する日本政府の政策は、できるかぎり日本的精神をたたき込むというものであり、それは、日本的で「勤労精神」のよってのみ彼らにも進歩が可能になるという仮説に基づいていた。フィリピン、インドネシア、その他の東南アジア諸国でも、この政策は真剣に推し進められた。日本語を普及させようという一斉努力は、日本文化の導入をより容易にするためでもあり、最終的には日本文化、つまり、日本民族のみが盟主であるという価値観を植えつけることを目指していたのである。同様に、立花夫妻の文化的ナルシシズムも、当時の「インテリ」向けの雑誌ならどこにでも載っていたような、定説を反映したものに過ぎない。極端ではあるが、十分に定型的な例が、志村陸城の論文の「大東亜秩序の原則」という一節に見られる。「世界の全ての業績――人類営々の努力の帰向点はわが日本の国体を中核とする真底の文化にあること、世界文化史の終局的な満足点はこの日本にこそあること、それを極め尽くしたる自信がなくして対外政策は考えることが出来ぬのである。」」

如実に出てくる帝国主義的思想。「解放」映画というジャンルの話だが、「「解放」映画の驚くべき特徴のひとつは、「解放」される地域の土着文化に関心がほとんど払われていないことである。」(p397)とも言われる。

P417「対照的に、太平洋戦争期の日本では、陸上の実践における自国の歩兵たちの試練や奮闘を扱った映画はごく少数だった。……その上、ストーリーラインも古い話の繰り返しであり、強調されるメッセージは単調な決まりきったものであった。すなわち、(1)日本の兵士は戦闘において勇敢であり、効果的な働きをする。(2)敵兵は、戦うよりも敗走する腰抜けの臆病者である。」

※娯楽としての消費以上のものでなかった、という見方もできる。

 

P430-431「一九四四年の半ばまでには、映画批評そのものも息を秘め、各映画の粗筋の紹介に、国策目的のごく簡略な説明を加えただけのものになっていた。また、一九四四年の春以後、映画雑誌は、映画とはまったく無関係の記事も掲載せねばならず、国家防衛の仕組みや軍需物資生産における生産力増強について紙面を割かざるを得なくなった。」

P439-440「この時代の精神的異常さを物語る例として、名古屋在住の現役の弁士わか・こうじ氏は、次のような実話を語ってくれた。

一九四五年一月に、わか・こうじは九州中部の都城陸軍特攻隊基地に技術部門一等兵として現役招集された。ある日、南方の基地から未現像のままのニュースフィルムが届いた。上官は彼に、「すぐ現像せよ」と命令した。「しかし、この基地には現像する設備は何もないからできません」と答えると、上官は、「わが帝国の航空隊は天皇陛下のものであって、不可能はないはずだ。何とかしろ」と再度命令した。わかは考えた末に、たくあんをつくるための樽を使って現像した。質のよい現像ができなかったことは言うまでもない。何百フィートもの現像されたフィルムを兵舎でのばして、扇いで乾かした。腕は、付着した酸であちこちがかゆくなり、掻くと血がにじみ出た。次に出された命令は、「試写しろ」であった。「ネガを試写したら、キズがついておしまいですよ」と反対すると、上官は激怒し、「お前は、態度が大きい。不可能はない」と言って、靴で顔面をなぐられ、一時間くらい気絶していた。そのときの傷は今も残っているという。意識が戻ると、上官は、「どうしても試写しろ」と再度命令した。上映会が行われたが、現像状態が悪かったので、映像全体が茶色っぽく見えた。それでも上官は、現像と試写に成功したことを喜んだ。上官は「できない、できないと言ったのに、できたじゃないか」と格別に満足した様子であった。この作業に成功したことで、わかは賞金三十円と一週間の休暇を褒美として与えられた。

 上官がこれほど満足したというのも、やはり、精神主義が本当に効力を発揮することを証明できた、という点にあったのである。」

※「超克」の意味を考えさせられる。

 

P456「政府も、それなりの対策を用意していた。「憤慨」「決心」「忍耐」などの用語を連発しつつも、数年前からの厳しい緊縮規制のいくつかを和らげることに着手したのである。映画業界は、この政策転換の恩恵を被った主要な領域のひとつであった。一月二三日、急速に悪化する戦況のもとで劇映画の生産継続に対する政府援助に関する議題が阿子島議員によって予算会議にかけられた。」

P458「一九四五年には、三本ものあたらしい喜劇映画が作られた。三本とも東京空襲も開始以前に制作に入っていたが、これらが次々と封切りされたことからも、政府が捜し求めていた「精神対策」に、恰好の手段であったことがうかがえる。」

P465「天皇の演説の直後、内務省は全国の映画館に一週間、閉館するよう命じた。東京の街路では、至るところに混乱が見られた。皇居の前では自殺が相次ぎ、絶対不服従を主張する青年将校たちは上官を殺害した。厚木航空隊の飛行機が空から町中にビラを巻いて、戦争継続を訴えた。降伏反対派によって捏造されたと思われるうわさが広まったが、それは、日本人男子はすべて去勢され、女子は売春を強要されるというものであった。五歳以下の子供は、アメリカ人が軍用犬のえさにするから、絶対に見つからないよう隠しておかなければならないというものもあった。」

 

P469「戦後の世代は、十五年戦争期の映画業界における個人の責任が一度も徹底的に追求されたことがないのはなぜだろうかと、しばしば不思議に思う。答えの一端は、きっと、全日本映画従業員同盟が、一九四五年一二月に東宝で催した会議の席上、この問題が初めて(かつ、最後に)公に提起されたときにもち上がった、論理的ジレンマの中に見出されるだろう。……そのとき、一九四四年に文化映画『大いなる翼』を監督した関川秀雄が、「戦争中みんな何等かの形で、大なり小なり戦争に加担したんだ」ということと、宮島自身、阿部豊の『あの旗を撃て』カメラマンであったことを指摘して、これに反論した。……だれもが幾分かは「罪」を共有している以上、他者を糾弾する権利はだれにもなかった。……

 業界内の者たちがこの問題の口火を切ることはできないとしたら、映画評論家はどうだろう。……しかしここでも、同じ論理的ジレンマが沈黙を強いていた。津村秀夫は、これまでに見てきたように、軍国主義国家の映画政策の形成に深く関与し、戦争の終盤には、敵愾心昂揚映画の熱烈な提唱者に転じていた。飯島正は、大日本映画協会に公的な関係にあり、『君と僕』の脚本に協力し、さらにもう一つ、戦争宣伝映画用に脚本を書いた。……これらの活動の多くは、戦時下の必要に迫られた自然な反応と説明することも出来ただろう。しかし、批評家たちは、自分たちも「お前だって……」という追及から逃れることはできないと感じた。」

※しかし、これはどこまでも同年代の者同士の議論の中でしか成立しない議論であり、自己内省に乏しかった点についての弁解にはならないだろう。

P472「長州藩士も映画人も、大きな歴史的断絶の時代に生きた。あまりに大変動のために、その前と後とでは連続性が見出しにくいほどである。実際、過去はあらゆる価値を失い、ただひとつ残ったのは、墨で黒く塗りつぶされた教科書のように、否定されなければならない負の教訓のみであった。そして新時代は、過去を「うそ」としてあまりにも完全に拒絶してしまったために、その誕生の時点から深奥に疵を持つことになったのである。この事実の認識こそが、伊丹万作をして、次のように言わせたに違いない。「『だまだれていた』といって平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。いや、現在もすでに別のうそによってだまされ始めているに違いないのである。」

 この本を書き進めていくうちに次第に明らかになって来たことは、伊丹のこの指摘の正しさである。その「うそ」中でも一番大きいものは、戦前、戦後という言葉が歴史上に実在する断絶を表しているという考えである。それは錯覚にすぎない。実際には断絶したものより、持続して来たものの方がはるかに多い。その代表的なものの一つとして、「官僚」がある。自分たちを、国民と国民によって選ばれた政治家を超越する存在と考えている官僚たちによって、支配され操られ続けている日本の現状は、戦前となんら変わるところがない。」

※これは、あらゆる日本人論に対しても、ほとんど真理でありうる。つまり、それは戦争を介して捏造された国民性論が残存し続けたものであるという可能性が常にあるということである。

本人は『日本的』か」(1982)や青木保「「日本文化論」の変容」(1990)などが戦後からの議論に留まっていることからも言えるだろう)。また、このような議論は80-90年代にかけて教育をめぐる議論にも大きな影響を与え、現在に至っていることも含め、「日本人論」の系譜について、それがいかに語られ、それがいかに国民性を語る上で正し言説なのかという問いは問われ続けなければならないものだろう。

 

<読書ノート>

 

文部省教学局「国体の本義・臣民の道」(2018)

 今回は近代の超克の議論との関連で、呉PASS出版から発行された著書を手に取った。

 前回までこの近代の超克の議論を考察してきたものの、「結局この近代の超克をめぐる当時の議論はどのようなものが優勢だったのか」については、これらを検討した著書から見出すことができず(それは結局文学界の『近代の超克』座談会の周辺の議論以上の何ものにもならない)、「近代」をめぐる問いについての受容がいかになされていたのかを検討してみたいと思った。そこで文部省から発行された、ある意味で「公式」の近代理解について如何なるものだったのかを読み解いてみた。

 このことに関する結論の一つ、は読書ノートを見てもらってもわかると思うが、「国体の本義」についてはこれに関連する引用が多く見出せるのに対して、「臣民の道」についてはほとんど見るべきものがなかった。先に主観的な印象を述べれば、「国体の本義」については、それなりに(思っていた以上に)近代について、それを日本的なものや、欧米との対比の中で細かく語っているのに対し、「臣民の道」はそのような視点が弱く、啓蒙主義的に反個人主義全体主義的は主体を鼓舞することに重点を置いているように見える。

 

○「国体の本義」(1937)と「臣民の道」(1941)の比較について

 さて、この主観的見解について、どのような具体的説明が可能か。

 まず、一つ指標となりそうなのが、両書における「引用」である。両書においては「古事記」や「日本書紀」以降の引用を通じて、過去の天皇や偉人がいかに語ったかについての引用を行いつつ、いかに日本が優れた国家なのかについて語る。両著書における引用数について調べた結果、「国体の本義」は全141ページ中81の引用(計205行)があり、「臣民の道」は全70ページ中50の引用(計111行)があった。「臣民の道」の著書としての分量はほぼ「国体の本義」の半分であるが、引用数はやはり比較的多い印象がある。正直な所、このような引用は「近代」観について直接語るような性質のものではなく、日本的であることを性質づけるための根拠として用いられるものでしかないため、それは近代に対する考察を深める手段にはならないのである。

 また、「臣民の道」は「国体の本義」と比べ、欧米諸国に対する対立構造をかなり明確に打ち出していることも特徴である。日独伊三国同盟は1940年に結ばれているが、同盟国と非同盟国の区別がこの前後で明確になったことの現れとみるのが自然だろう。合わせて、「国体の本義」では個人主義を中心に自由主義に対する批判を行っていたものの、「臣民の道」では、これに加え、功利主義・唯物主義も近代的なものに対する批判のキーワードとなっている。唯物主義批判の経緯をどう考えるのかはわからないが、功利主義批判については、やはり倹約に対する強化と無関係ということが難しいだろう。

 

○近代の超克論として読む「国体の本義」

 P132-133の引用で一箇所「超克」という言葉が用いられているが、やはり本書は「近代の超克」論の重要な系譜の一つに位置付けることができるだろう。その際に否定の対象とされたのは、p139-140にあるように、それを「個人主義」に帰着させ、個人主義的発想に立っている西洋文明であり、それに対峙できる日本の文明・ないし文化を色濃く描写しようとするのが本書の特徴である。

 とりわけ日本的な宗教観は対立的に描かれる西洋宗教とは異なり和が見られること(p49-50)、そして個人主義的な西洋思想は結局主従関係に議論が帰着せざるをえず、『適切な意味での没我』が達成できない、という指摘は興味深い(p90-91)。これは階級闘争的な関係性で社会批判を行ったマルクス主義への批判をも意味しているが、結局マルクス主義的な見方においても個人主義が支配的であるから、対立構造からしか社会を捉えることができないこと、そのこと自体に批判の目が向けられているのである。これに対して日本はこのような態度を超克するだけの「国体」があるとし、これこそ国際平和に寄与する思想であることを強調するのである。この「国体」が優れている根拠の一つとして、対外的な文化を積極的に取り入れ、それを醇化してきた事実が挙げられ、そのような多様な背景の文化を日本は包摂することができていること自体が西洋より優れた根拠として本書で主張されるのである。このようなレトリックが「国体の本義」で用いられていること自体にまず注目すべきである。

 

 しかし、本書において一点奇妙に感じるのが、「資本主義」に対する評価を全く与えていないことである。共産主義に対して否定的な見方を行っているにも関わらず、近代的なるものと密接に関わっているように思える「資本主義」という言葉自体が本書で一言も触れられていないという事実自体が奇妙であると考えるべきではないか。当時の文脈も踏まえつつ、何故「国体の本義」では資本主義について何も語られなかったのかを考察することはそれなりに有意義な議論になるように思う。これは同時に「個人主義」と「資本主義」をいかなる関係で考えるべきなのか、又はどのように考えられていたのかという点と、「資本主義」的であることについてどのような評価が与えられていたのかを問うということを意味する。意図的に「資本主義」について語ろうとしなかった(資本主義について語ることで不都合な問題が出てくる)結果なのか、それとも「資本主義」という枠組みで近代を考える思考が当時乏しかったからなのか…。

 

 また、本書を近代の超克論として考える場合、超克をめぐる主張(国体論)と実態とのズレについてどう考えるのかは、精査されねばならない点である。具体的・端的に言うならば、「武」に関する考え方(p48)は日本の西洋との違いとして実態を伴っていたのか、という問いである。これは特に本書が当為論的な議論を行っている性質を持っていることを踏まえると問題は深い。日本における西洋的な悪影響というのを現状除去できているという認識に少なくとも「国体の本義」では立てていないことを認めなければならない(p5)。このような状況下においては、仮に日本的な「武」が西洋的な「武」と異なっていることが真であったとしても、西洋的な悪影響を受けている実態があるために、日本的な「武」が遂行できている保証は何一つないのである。言い換えれば、いくら「近代の超克」について本書で日本の国体の正当性が語られていたとしても、そのことは実態がどうなっているかとは無関係というしかないのである。

 これを回避するためには、理想と実態とのズレは存在しないことを強調するほかないのである。そして、本書においても、上記のような致命的な矛盾を回避するため、本質的な「国体」をめぐる議論をやたらと強調し、実態を隠蔽し、あたかも現状においても理想とのズレがないかのように語ろうとする論調が併存することになる。「臣民の道」に関しては、よりこの矛盾を回避するために、西洋諸国との対立図式の方をことさら強調しているとさえ言えるのではなかろうか。実に典型的な「真の問題」を隠蔽するため別の「二項図式」を導入するというレトリックがここでは用いられているといえる。本書を読む価値があるのは、このような矛盾が露骨にそのまま表現されている所にあるといえるだろう。

 

○「日本人論」として読む「国体の本義」――「ユニークな日本人論」の聖典としての位置付けについて

 日本人論の議論の一つとして、「日本人は日本をユニークなものとして描こうとする」という言説が存在する。すでにレビューを行った杉本良夫とロス・マオア(1981)の際にもこの点を考察したが、改めて触れておきたい。少なくとも、この「ユニークな日本人論」は海外の日本の研究者にとってほとんど通説的な見解となっていると言えるだろう。いくつか引用しよう。

 

「すべての国はユニークだ。すべての個人がユニークなのと同じく、生まれたときは瓜二つの一卵性双生児でさえ、ちがう人生を歩み、それぞれがユニークな人間になる。

しかし、日本がユニークだという日本人自身の信念は、それ以上のことを主張する。国々の互いのちがい以上に日本はほかの国とちがっているーーつまり、ユニークさにかけてもまた一段とユニークだと言うのである。日本はみずからをアウトサイダーだと信じている。日本は、先ほど論じた大いなる国民の調和といったような、ほかのいかなる国にもない天恵を受けていると思っている。」(カレル・ヴァン・ウォルフェン「人間を幸福にしない日本というシステム」1994、p262)

 

 

「日本人が自らその社会をどう認識しているかを考える際、日本人には社会と自分たち自身をユニークだととらえる傾向が強いことに触れなければ、考察は不完全なものに終わる。最近数年間、いわゆる日本人論を扱った本や評論の出版は、家内工業が繁盛しているかのようである。次から次と出版されるものの多くは決して質の高いものではない。そのうち最も優れたものも、比較に関心を向ける者をいらだたせたり、激怒させたりするように仕掛けられている。日本的な「考え方」が特殊だとか、他の国民と程度を異にするというのではなく、むしろ、他の国民と全然異なっているということが論じられているからである。この視点が持つ性格を最も明確に要約するのは、日本人の合理性もしくは合理性の欠如に関する議論である。」(ロバート・スミス「日本社会」1983=1995、p158) 

 

「日本人は自分たちがユニークな国民であることを強調している。ときには「類のないほどユニーク」とさえ表現している。日本がユニークであるという発想には、長い歴史がある。アメリカ人と同じように、日本人も他の国の人々とはかけ離れた存在である。本書の巻末資料にも明らかなように、価値観と行動に関する調査結果では、日米は両極端にある。日本が最も集団志向型の社会であるとすると、アメリカは最も個人主義的な国である。」(シーモア・M・リプセット「アメリカ例外論」1996=1999、p32)

 

 私自身、杉本・マオアのレビューの際には、この通説に対し、否定的な見解を述べた。これは、戦後の日本人が語る「日本人論」においては、とてもそのような語りを行っているようには見えなかったからだ。だが、「国体の本義」を読んだあとだと、この通説を支持しなければならないという見方をせざるをえないと感じた。私がこれまで読んできた「日本人論」の中で、ここまで日本をユニークに語ろうとしていた著作には出会ったことはなかった。他方で、海外の日本人論研究というのが、このような戦中期における言説の延長線上で語られているという可能性にも目を向けることができるだろう。戦後の「日本人論」は、それ以前の「日本人論」にも影響を受けながら、そこに「海外の目線」が含まれることで複雑に関連していく。「国体の本義」はまさに没落的な西洋文明に対する解決策としての「日本」を描写する装置として機能している。それは西洋から見れば、どう考えても「ユニーク」なものの産物であり、そのような社会を目指そうとした日本人は、総じて「ユニークさを語る主体」としての地位を獲得するのである。これには本書が国民にとっての「聖典」としての位置付けが期待されているものと呼んで差支えない以上、反論の余地がないのである。

 

 また、この議論とは別に、「国体の本義」で描かれる現状の日本とあるべき日本論との距離感についても注目すべきだろう。このズレについて語るとき、現状に対する改善要求としてそれを語らなければならないが、それは当然のごとく実現するものであることが同時に語られなければならない所に、当時の国体論の特徴がある。通常の日本人論はここに差異を設けていないが、「国体の本義」ではこれを認めるところからはじめなければならないのである。この改善点を西洋的な「異分子=個人主義」に見出し、この除去を目指すことが強調される形で先述した実態の隠蔽がなされているという見方も可能であろう。

 

(2021年8月8日追記)

○「国体の本義」と座談会『近代の超克』との「近代観」に関する異同について

 さて、主題となるべき論点について触れるのを忘れていたため、追記しておく。前回まで検討を行ってきた座談会『近代の超克』と「国体の本義」における「近代の超克」観の違いについてである。

 まず、同じ問題意識として指摘できるのは、現状の日本に中途半端な西洋文明の弊害が存在しているという指摘である。しかし、問題なのは、この問題意識の程度である。座談会『近代の超克』においては、この影響力を相当強いものと捉えているが故に、「国体の本義」とのスタンスが致命的に異なることになっているのである。

 これは「京都学派」「文学界」のどちらの立場から見ても明らかである。まず、「京都学派」的な「近代の超克」とは、それ自体西欧的な近代の超克の問題とほとんど同じものであった。これは「国体の本義」で扱っていたような、「国体」自体から問題を捉えるという視点がそもそも有効でないという前提に立たないと適用される立場ではない。日本の問題が西洋の問題と同一視されるのは、結局、その西洋の問題こそが大きな問題なのであり、その解決を図ることこそが日本における「近代の超克」でもある、というのが基本的な論理となる。

 そして、「文学界」側からも、林房雄三好達治によって、具体名こそ挙げられていないものの、明らかに「国体の本義」等の官の立場から出された「近代の超克」論に対する批判がなされている。引用しよう。

 

「林 記紀、万葉その他の古文献の文部省的釈義によつて、日本人が出来るなどと思つてそんなことをやつてゐる連中に、お前らは苦労したかといいたい。万葉、記紀その他の古文献以外に、一体お前らは何を識つてゐるか、真剣に近代といふものを通つて来たかとさへ反問したいね。四十になつて初めて記紀、万葉その他の古文献が解る連中が沢山出来て来たといふそのことは、大きな将来に対する力だと思ふんです。

三好 それァ僕も希望的に考へるのだ、だから現在、その指導的枢要の位置にある当路の役所などから出てゐる出版物が、牽強付会だつたり独創力に欠けてゐたりするのは迷惑だと思ふのです。あれを一つ問題にしたいね。ああいふ書物は非常に科学的に詳しく論じてあるやうに見えて、実はちつとも科学的ではない。彼らが口癖のように雄大とか荘厳とかいつてゐることは、もつと違つた風に、僕らには美しくも又微妙にも考へられるのだが。僕らにはただ読者の側からしていふのだが、少くともあの人達が簡単に解釈してゐる程度では、とても納得が出来ないね。……

林 その古典が直ぐ諸学生に解るものでなくてもいい。又四十になつて古典を始める、さういふ国柄が本当の国家だと思ふ。日本はさういふ国柄だと思ふのです。

三好 僕はさういふ国柄でちつとも差支へないと思ふ。ただ現今の考へ方は、さういふ古典の中から日本精神を探し出して、さしづめこの時局に応用しようとする、さういう目の先の意図が非常に浅薄に見え透いてゐて、その爲に古典の読み方、解釈の仕方が甚だ軽率で、不十分で、また時には非合理的なんだ。さういふ点をやはり我々は指摘しなければならないと思ふのだ。

諸井 非常に賛成だな。」(河上徹太郎編「近代の超克-知的協力会議」1943,p293-295)

 

 ここで林は官僚批判の一種として官が出版する古典解釈についての批判を行っている。また、林は「日本には外国の影響を断固として受けない部分がある」ことこそ支持する態度を示すが(河上編1943,p292)、これもまた「国体の本義」に反する態度である。この座談会自体はすでに「臣民の道」発行後の議論であることも踏まえると、私としても「近代について真面目に考えようとしていない」という批判には賛同せざるをえないが、言い換えれば、『近代の超克』座談会と、官の側から示された「近代の超克」の態度が対話不可能なレベルで乖離していたことも意味するのである。

 ここまで乖離が大きいと最初の関心であった「公の立場からの出版物=一般的な解釈」という前提にも疑義を与えなければならないだろうか。

 

<読書ノート>

P2「即ち國體の本義は、動もすれば透徹せず、學問・教育・政治・經濟その他國民生活の各方面に幾多の抉陥を有し、伸びんとする力と混亂の因とは錯綜表裏し、燦然たる文化は内に薫蕕を併せつつみ、ここに種々の困難な問題を生じている。今や我が國は、一大躍進をなさんとするに際して、生彩と陰影相共に現れた感がある。併しながら、これ飽くまで發展の機であり、進歩の時である。我等は、よく現下内外の眞相を把握し、據つて進むべき道を明らかにすると共に、奮起して難局の打開に任じ、

現今我が國の思想上・社會上に諸弊は、明治以降に餘りにも急激に多種多様な歐米の文物・制度・學術を輸入したために、動もすれば、本を忘れて末に趨き、嚴正な批判を缺き、徹底した醇化をなし得なかつた結果である。」

P2-3「抑々我が國に輸入せられた西洋思想は、主として十八世紀以来の啓蒙思想であり、或はその延長としての思想である。これらの思想の根柢をなす世界観・人生観は、歴史的考察を缼いた合理主義であり、實證主義であり、一面に於て個人に至高の価値を認め、個人の自由と平等とを主張すると共に、他面に於て國家や民族を超越した抽象的な世界性を尊重するものである。從つてそこには歴史的全體より孤立して、抽象化せられた個々獨立の人間とその集合とが重視せられる。かかる世界觀・人生觀を基とする政治學説・社會學説・道徳學説・教育學説等が、一方に於て我が國の諸種の改革に貢獻すると共に、他方に於て深く廣くその影響を我が國本来の思想・文化に與えた。」

 

P3-4「かくて歐化主義と國粹保存主義との對立を來し、思想は混迷に陥り、國民は、内、傳統に從ふべきか、外、新思想に就くべきかに悩んだ。然るに明治二十三年「教育に關スル勅語」の渙發せられるに至つて、國民は皇祖皇宗の肇國樹徳の聖業とその履踐すべき大道とを覺り、ここに進むべき確たる方向を見出した。然るに歐米文化輸入のいきほひの依然として盛んなために、この國體に基づく大道の明示せられたにも拘らず、未だ消化せられない西洋思想は、その後も依然として流行を極めた。」

※この流行が「國體に關する根本的自覺を喚起するに至つた」とする(p4)。

P4-5「抑々社会主義無政府主義共産主義等の詭激なる思想は、究極に於てはすべて西洋近代思想の根柢をなす個人主義に基づくものであつて、その發現の種々相たるに過ぎない。個人主義を本とする歐米に於ても、共産主義に對しては、さすがにこれを容れ得ずして、今やその本来の個人主義を棄てんとして、全體主義・國民主義の勃興を見、ファッショ・ナチスの擡頭ともなつた。即ち個人主義の行詰りは、歐米に於ても我が國に於ても、等しく思想上・社會上の混亂と轉換との時期を將來してゐるといふことは出來る。久しく個人主義の下にその社會・國家に關する限り、眞に我が國獨自に立場に還り、萬古不易の國體を闡明し、一切の追随を排して、よく本來の姿を現前せしめ、而も固陋を棄てて益々歐米文化の攝取醇化に努め、本を立てて末を生かし、聰明にして宏量なる新日本を建設すべきである。」

P5「即ち今日我が國民の思想の相剋、生活の動揺、文化の混亂は、我等國民がよく西洋思想の本質を徹見すると共に、眞に我が國體の本義を體得することによつてのみ解決せられる。而してこのことは、獨り我が國のためのみならず、今や個人主義の行詰りに於てその打開に苦しむ世界人類のためでなければならぬ。ここに我等の重大なる世界史的使命がある。乃ち「國體の本義」を編纂して、肇國の由來を詳かにし、その大精神を闡明すると共に、國體の國史に顯現する姿を明示し、進んでこれを今の世に説き及ぼし、以て國民の自覺と努力とを促す所以である。」

 

※以下旧字体をそのまま表記することを改めているのをご容赦願いたい。

P33-34「天皇と臣民の關係を、單に支配服従・權利義務の如き相對的關係と解する思想は、個人主義的思考に立脚して、すべてのものを對等な人格關係と見る合理主義的考へ方である。個人は、その發生の根本たる國家・歴史に連なる存在であつて、本來それと一體をなしてゐる。然るにこの一體より個人のみを抽象し、この抽象せられた個人を基本として、逆に國家へ考へ又道徳を立てても、それは所詮本源を失つた抽象論に終るの外はない。

 我が國になつては、伊奘諾ノ尊・伊奘冉ノ尊二尊は自然と神々との祖神であり、天皇は二尊より生まれました皇祖の神裔であらせられる。皇祖と天皇とは御親子の関係であらせられ、天皇と臣民との関係は、義は君臣にして情は父子である。この関係は、合理的義務関係よりも更に根本的な本質関係であつて、ここに忠の道の生ずる根拠がある。個人主義的人格関係からいへば、我が国の君臣の関係は、没人格的な関係と見えるであらう。併しそれは個人を至上とし、個人の思考を中心とした孝、個人的抽象意識より生ずる誤に外ならぬ。我が君臣の関係は、決して君主と人民と相対立する如き浅き平面的関係ではなく、この対立を絶した根本より発し、その根本を失はないところの没我帰一に関係である。それは、個人主義的な考へ方を以てしては決して理解することの出来ないものである。」

P34-35「かくて敬神祟祖と忠の道とは全くその本を一にし、本来相離れぬ道である。かかる一致は独り我が国に於てのみ見られるのであつて、ここにも我が国体の尊き所以がある。」

 

P44-45「支那の如きも孝道を重んじて、孝は百行の本といひ、又引度に於ても父母の思を説いてゐるが、その孝道は、国に連なり、国を基とするものではない。孝は東洋道徳の特色であるが、それが更に忠と一つとなるところに、我が国の道徳の特色があり、世界にその類例を見ないものとなつてゐる。従つてその根本の要点を失つたものは、我が国の孝道ではあり得ない。」

※孝は次のように定義付けられる。「我が国に於ては、孝は極めて大切な道である。孝は家を地盤として発生するが、これを大にしては国を以てその根底とする。孝は、直接には親に対するものであるが、更に天皇に対し奉る関係において、忠のなかに成り立つ。」(p40)「我が国の孝は、人倫自然の関係を更に高めて、よく国体に合致するところに真の特色が存する。我が国は一大家族国家であつて、皇室は臣民の宗家にましまし、国家生活の中心であらせられる。」(p43)

P31「我等臣民は、西洋諸国に於ける所謂人民と全くその本性を異にしてゐる。君民の関係は、主と対立する人民とか、人民先づあつて、その人民の発展のため幸福のために、君主を定めるといふが如き関係ではない。」

※ユニークな日本人論の一つの完成形ともいえる。

 

P47「個人主義に於いては、この矛盾対立を調整緩和するための協同・妥協・犠牲等はあり得ても、結局真の和は存在しない。即ち個人主義の社会は万人の万人に対する闘争であり、歴史はすべて階級闘争の歴史ともならう。かかる社会における社会形態・政治組織及びその理論的表現たる社会学説・政治学説・国家学説等は、和を以て根本の道とする我が国のそれとは本質的に相違する。我が国の思想・学問が西洋諸国のそれと根本的に異なる所以は、実にここに存する。」

マルクス主義の影響が強い。

P48「又これ(※和)によつて、個性は称々伸長せられ、特質は美しきを致し、而も同時に全体の発展高昌を斉すのである。実に我が国の和は、無為姑息の和ではなく、溌刺としてものの発展に即して現れる具体的な大和である。」

P48「我が国は尚武の国であつて、神社には荒魂を祀る神殿のあるのもある。……併し、この武は決して武そのもののためではなく、和のための武であつて、所謂神武である。我が武の精神は、殺人を目的とせずして活人を眼目としている。」

P49-50「更に我が国に於ては、神と人との和が見られる。これを西洋諸国の神人関係と比較する時は、そこに大なる差異を見出す。西洋の神話に現れた、神による追放、神による処罰、厳酷なる制裁の如きは、我が国の語事とは大いに相違するのであつて、ここに我が国の神と人との関係を、西洋諸国のそれとの間に大なる差異のあることを知る。」

※「我が国に於ては、神は恐ろしきものではなく、常に冥助を垂れ給ひ、敬愛感謝せられる神であつて、神と人との間は極めて親密である。」(p50)

P57「まことには、我があつてはならない。一切の私を捨てて言ひ、又行ふところにこそ、まことがあり、まことが輝く。」

 

P89-90「人が自己を中心とする場合には、没我献身の心は失われる。個人本位の世界に於ては、自然に我を主として他を従とし、利を先にして奉仕を後とする心が生ずる。西洋諸国の国民性・国家生活を形造る根本思想たる個人主義自由主義等と、我が国のそれとの相違は正にここに存する。」

※これは、資本主義に従属であると「化石化」するというレトリックと同一のもの。

P90「この異質の文化を輸入しながら、よく我が国独特のものを生むに至つたことは、全く我が国特殊の偉大なる力である。このことは、現代の西洋文化の摂取についても深く鑑みなければならぬ。

仰々没我に精神は、単なる自己の否定ではなく、小なる自己を否定することによつて、大なる真の自己に生きることである。元来個人は国家より独立したものではなく、国家の分として各々分担するところをもつ個人である。分なるが故に常に国家と帰一するをその本質とし、ここに没我の心を生ずる。」

 

P90-91「而してこれと同時に、分なるが故にその特性を重んじ、特性を通じて国家に奉仕する。この特質が没我の精神と合して他を同化する力を生ずる。没我・献身といふも、外国に於けるが如き、国家と個人とを相対的に見て、国家に対して個人を否定することではない。又包容・同化は他の特質を奪ひ、その個性を失はしむることではなく、よくその短を棄てて長を生かし、特性を特性として、採つて以て我を豊富ならしめることである。ここに我が国の大いなる力と、我が思想・文化の深さと広さとを見出すことか出来る。」

※存在しない文化と、それを語ることによる存在をめぐる議論。

P91「我が国に於ては、敬語は特に古くより組織的に発達して、よく恭敬の精神を表してゐるのであつて、敬語の発達につれて、主語を表さないことも多くなつて来た。」

 

P100「西洋の神話・伝説にも多くの神々が語られてゐるが、それは肇国の初よりつながる国家的な神ではなく、又国民・国土の生みの親、育ての親としての神ではない。我が国の神に対する祟敬は、肇国の精神に基づく国民的信仰であつて、天や天国や彼岸や理念の世界に於ける超越的な神の信仰ではなく、歴史的国民生活から流露する奉仕の心である。」

P107「我が国の文化は、肇国以来の大精神の顕現である。これを豊富にし発展せしめるために外来文化を摂取酵化して来た。……

 凡そまことの文化は国家・民族を離れた個人の抽象的理念の所産であるべきではない。我が国における一切の文化は国体の具現である。文化を抽象的理念の展開として考へる時、それは常に具体的な歴史から遊離し、国境を超越する抽象的・普遍的なものとならざるを得ない。然るに我が国の文化には、常に肇国の精神が厳存してをり、それが国史と一体をなしている。」

P112「我が国の教育は、明治天皇が「教育ニ関スル勅語」に訓へ給ふた如く、一に我が国体に則とり、肇国の御精神を奉体して、皇運を扶翼するをその精神とする。従つて個人主義教育学の唱へる自我の実現、人格の完成といふが如き、単なる個人の発展完成のみを目的とするものとは、全くその本質を異にする。即ち国家を離れた単なる個人的心意・性能の開発ではなく、我が国の道を具現するところの国民の育成である。個人の創造性の涵養、個性の開発等を事とする教育は、動もすれば個人に偏し個人の恣意に流れ、延いては自由放任の教育に陥り、我が国教育の本質に適はざるものとなり易い。」

 

P131「我が国に輸入せられた各種の外来思想は、支那・印度・欧米の民族性や歴史性に由来する点に於て、それらの国々に於ては当然のものであつたにしても、特殊な国体をもつ我が国に於ては、それが我が国体に適するか否かが先ず厳正に批判検討せられねばならぬ。即ちこの自覚とそれに伴ふ酵化によつて、始めて我が国として特色ある新文化の創造が期し得られる。」

P132-133「然るに、個人主義的な人間解釈は、個人たる一面のみを抽象して、その国民性と歴史性とを無視する。従つて全体性・具体性を失ひ、人間存立の真実を逸脱し、その理論は現実より遊離して、種々の誤つた傾向に趨る。ここに個人主義的・自由主義乃至その発展たる種々の思想の根本的なる過誤がある。今や西洋諸国に於ては、この誤謬を自覚し、而してこれを超克するために種々の思想や運動が起つた。併しながら、これらも畢竟個人の単なる集合を以て団体或は階級とするか、乃至は抽象的な国家の観念するに終るのであつて、かくの如きは誤謬を以てするに止まり、決して真実の打開解決ではない。」

 

P135「明治維新以来、西洋文化は滔々として流入し、著しく我が国運の隆昌に貢献するところがあつたが、その個人主義的性格は、我が国民生活の各方面に亙つて種々の弊害を醸し、思想の動揺を生ずるに至つた。併しながら、今やこの西洋思想を我が国体に基づいて醇化し、以て宏大なる新日本文化を建設し、これを契機として国家的大発展をなすべき時に際会してゐる。

 西洋文化の摂取醇化に当つては、先ず西洋の文物・思想の本質を究明することを必要とする。これなくしては、国体の明徴は現実を離れた抽象的なものとなるであらう。西洋近代文化の顕著なる特色は、実証性を基とする自然科学及びその結果たる物質文化の華かな発達にある。……我が国は益々これらの諸学を輸入して、文化の向上、国家の発展を期さねばならぬ。」

P135-136「併しながらこれらの学的体系・方法及び技術は、西洋に於ける民族・歴史・風土の特性より来る西洋独自の人生観・世界観によつて裏付けられてゐる。それ故に、我が国にこれを輸入するに際しては、十分この点に留意し、深くその本質を徹見し、透徹した見識の下によくその長所を採用し短所を捨てなければならぬ。」

 

P137「西洋近代文化の根本性格は、個人を以て絶対独立自存の存在とし、一切の文化はこの個人の充実に存し、個人が一切価値の創造者・決定者であるとするところにある。従つて個人の主観的思考を重んじ、個人の脳裡に描くところの観念によつてのみ国家を考へ、諸般の制度を企画し、理論を構成せんとする。」

P138「西洋に発達した近代の産業組織が我が国に輸入せられた場合も、国利民福といふ精神が強く人心を支配してゐた間は、個人の溌刺たる自由活動は著しく国富に増進に寄与し得たのであるけれども、その後、個人主義自由主義思想の普及と共に、漸く経済運営に於て利己主義が公然正当化せられるが如き傾向を馴致するに至つた。この傾向は貧富の懸隔の問題を発生せしめ、遂に階級的対立闘争の思想を生ぜしめる原因となつたが、更に共産主義の侵入するや、経済を以て政治・道徳その他百般の文化の根本と見ると共に、階級闘争を通じてのみ理想的社会を実現し得ると考ふるが如き妄想を生ぜしめた。利己主義や階級闘争が我が国体に反することは説くまでもない。皇運扶翼の精神の下に、国民各々が進んで生業に競い励み、各人の活動が統一せられ、秩序づけられるところに於てこそ、国利と民福とは一如となつて、健全なる国民経済が進展し得るのである。」

P139-140「かくの如く、教育・学問・政治・経済等の処分やに亙つて浸潤してゐる西洋近代思想の帰するところは、結局個人主義である。而して個人主義文化が個人の価値を自覚せしめ、個人能力の発揚を促したことは、その功績といはねばならぬ。併しながら西洋の現実が示す如く、個人主義は、畢竟個人と個人、乃至は階級間の対立を惹起せしめ、国家生活・社会生活の中に幾多の問題と動揺とを醸成せしめる。」

P141「世界文化に対する過去の日本人の態度は、自主的にして而も包容的であつた。我等が世界に貢献することは、ただ日本人たるの道を弥々発揮することによつてのみなされる。」

※以上、「国体の本義」(1937)

 

P152「この独伊に於ける新しい民族主義全体主義の原理は、個人主義自由主義等の弊を打開し匡救せんとしたものである。而して共に東洋文化・東洋精神に対して多大の関心を示してゐることは、西洋文明の将来、ひいては新文化創造の動向を示唆するものとして注目すべきことである。」

P154「我が国は明治維新以来、開国進取の国是の下に鋭意西洋文物の摂取に努めその間多少の波瀾があつたとはいへ、よくこれ等の長を採つて国運進展の根基に培い、営々として国力充実に満進して来たのである。……

 かかる我が国運の隆々たる発展伸長は、東亜の天地を併呑せんとする欧米諸国をして深く嫉視せしめ、その対策として彼等は、我が国に対して或ひは経済的圧迫を加へ、或ひは思想的撹乱を企て、或ひは外国的孤立を策し、以つて我が国力の伸長を挫かんとした。」

 

P198「近時物質文明が進歩し、著しく生活を向上せしめたが、これに伴なひ低俗安易ぞ欲望を唆る各種の施設も増加して、享楽的生活を求める風が漸く強く、ややもすれば制欲克己等は軽んぜられ、意志の鍛練を阻害することが甚だしくなつたことは、国民として大いに反省するところがなければならぬ。殊に体力の向上は我が国の当面せる重要ごとの一つである。」

P202「近時欧米の個人主義思想の影響を受け、家を尊重するの念が稀薄となり、殊に誤れる合理主義や唯物主義に禍せられて、国民精神の涵養上最も緊要る敬神祟祖の行事が軽視せられる風を生じ来たつたが、かかる傾向はよろしく刷新せらるべきである。」

P210「併しながら欧米文化の流入に伴なひ、個人主義自由主義功利主義・唯物主義等の影響を受け、職業は個人の利欲を満たし個人の物質的繁栄を招来するための手段であるかの如くに考へる傾向を生じ、ややもすれば我が国職業の根本義が忘却せられるに至つた。」

※以上、「臣民の道」(1941)。

孫歌「竹内好という問い」(2005)

 今回は竹内の著書を直接レビューするか、孫歌のレビューのどちらを行うか迷った所があるが、「近代の超克」及び人物「竹内好」解釈をめぐる議論について相対的な見方を重視するため、孫歌の方をレビューすることにした。

 

 まず、私の竹内に対する評価を示しておこう。私が最大限譲歩し竹内好に何らかの意義があるものを評価しうるものを見いだせというのであれば、それは丁度ヴェーバーの理念型の議論で検討した羽入辰郎のそれと全く同じ性質のものだと答えたい。羽入は私が指摘した理念型α(類的理念型)と理念型β(歴史的構成体としての理念型)の違いについて理解できておらず、「知的誠実性」をめぐる議論も曲解する原因を生んだものであった。しかし羽入は折原浩等を想定したヴェーバー研究者という「別の問題のある他者」が登場して初めて真価を発揮した。その他者への批判のポイントは部分的に適切なものであったと認められるものであった。しかし、これが真に生産的な立場と言われれば全くそんなことはないし、羽入の議論について真の意味で参考にすべき議論であるようにも思えない、というのが私の指摘であった。

 竹内好も議論もまさにこれと同じように「近代の超克」を下らない「ナショナリズム」と同一視しようとするような勢力に対する批判としてみるのであれば評価の余地があるように思えるが、これは生産的な議論を生むものであると言えない。結論から言えば、本書はこの非生産性について軽視し竹内を過大評価しているようにどうしても見えてしまう点が問題であると考える。

 また、更に言えば、竹内的な視点を基準点にすることを強調してしまうと、その議論は本書で示される竹内的な視点を超えることはありえない。そしてその視点は絶望的に無意味であると考える。これは詰まる所松下圭一的な無意味な「批判的態度」にしか行きつかないのではないのか、という懸念が強いことが理由であることをあらかじめ強調しておきたい。

 

 

○「実体としてのアジア」とは何か?——「理念型」との関連性から

 本書の初発的な関心として、竹内の志向論理の全体像を捉えようとすることが挙げられる(pix)。この試みから出てくる解釈の一つがp31のような魯迅的な「無」の思想を竹内の思想そのものとして位置付けるような議論である。

 この認識自体は誤りであると言い難い。次の主張は戦時中の竹内の言説となるが、この「無」と呼ばれるような性質は、竹内において強烈な自己否定を伴いながら語られる(又は語られるべき)ものとして捉えられているといえるだろう。

 

「私は、大東亜の文化は、自己保全文化の超克の上にのみ築かれると信じている。わが日本は、既に大東亜諸地域の近代的植民地支配を観念として否定しているのではないか。私はそれを限りなく正しいと思う。植民地支配の否定とは、自己保存慾の抛棄ということである。個が他の個の収奪によって自らを支えるのではなく、個が自らを否定することによって他の個を包摂する立場を自らの内に生み出してゆくことである。……この大東亜理念の限りない正しさは、私たちの日常生活の末にまで滲透し、それを根底から揺り動かし、そこから新しい文化を自己形成してゆかねばならぬ。行為を通じてのみ、自己否定の行為によってのみ、創造はなされるのであろう。」(竹内好「近代の超克」1983,p238) 

 

大東亜戦争は世界史の書き換えであると云われている。私は深くそれを信ずる。それは近代を否定し、近代文化を否定し、その否定の底から新しい世界と世界文化を自己形成してゆく歴史の創造の活動である。この創造の自覚に立ったとき、私たちははじめて自己の過去を見、その全部を理解することが出来た。……中国文学研究会は否定されねばならぬ。つまり現代文化は否定されねばならぬ。現代文化とは、現代においてあるヨーロッパ近代文化の私たち自身への投影である。私たちは、そのようにある自己自身を否定しなければならぬ。」(同上、p241)

 

 しかし、本書のp65-66のような言説が竹内に当てはまっているという指摘には強い疑義がある。ここで孫は竹内の自己内省的な批判スタイルを基本的に認める。孫のこの一節は明らかに竹内の論文『方法としてのアジア』における「西洋をもう一度東洋によって包み直す、逆に西洋自身をこちらから変革する、この文化的な巻返し、あるいは価値の上の巻返しによって普遍性をつくり出す」という言葉の言い換えを試みた部分であると言える。

 ここでは「抵抗」の一般的意味に対する妥当性の議論は置いておくとして、孫が竹内好の議論を評価しているポイントとして考えられるのは、①自己内省的であること②二項図式でないこと、の2つが考えられる。ただ、①については②と比べればそこまで重きが置かれていないように思われる。というのも①に議論に留まると孫がp65-66で言うような否定のプロセスとしての二面性を十分に説明できないからである。よって「方法としてのアジア」とは一義的には二項図式的な実体化を回避しながらも具体的な行為として効力をもちうる批判概念として意味があること、そしてそれを竹内が実践したことについて孫が評価していることがわかる。P57の指摘も端的にそのことを表しているといえる。

 しかし、私には竹内の言説が東洋と西洋の対立という二項図式的な視点から竹内が離れていたなどとはとても言えないと考える。もっと言えば、竹内は孫が期待するような二項図式を回避しようと意図をもって議論を行っていたかも怪しいように思える。というのも、竹内は基本的に西欧の近代的価値についてはその影響力があまりにも大きいとみており、その価値をむしろ前提とした上で「アジア的であること」を探求しようとし、その中で「近代なるもの」の批判を徹底しようとするからである。

 

 ここで最大の賭け金となるのは、「方法としてのアジア」の対義として想定される「実体としてのアジア」とは何なのか、という問いである。竹内は魯迅ゴダール孫文といった人物や中国の市民運動を引き合いに出しながら、その中に孫のいう「猙扎」という名の抵抗を見出している。そして、よくよく読むと、この竹内の発見は、次のような主張に見られるように実際の中国の主流派とさえ無縁であるかのような語り方がされることもある。このような実際の中国との距離の取り方は孫の主張を支持するかのようにも見える。

 

魯迅のような人間は、日本の社会からはうまれない。たとえうまれても、成長しない。それは受けつがれるべきものとしての伝統にならない。もちろん、魯迅は中国文学のなかで孤立している。しかし、孤立している形が見える。そしてそれは受けつがれている。」(竹内1983、p35)

 

 ここで竹内は魯迅的主体について中国(文学)の中でも独特であるかのように語っている点は注目されるべきである。しかしながらそれは「アジア的な個性」として継承可能な型としてある種確立されたものも持っていることも認める。

 また、次の主張も端的にアジアやヨーロッパが実体としては存在しないことを前提とする主張として非常にわかりやすいものである。

 「このような現象は、かなりの程度まで、東洋諸国に共通のように思う。また、ヨオロッパのおくれた国にもある。純粋のヨオロッパというものはないし、純粋の東洋というものもないから、それは程度の差といってもいい。」(竹内1983,p18)

 しかし、これは竹内を断片的に取り上げた態度として捉えるほかないように私には思える。端的に言えば、孫が解釈するような「方法としてのアジア」を探求する竹内像に反する主張というのは、いくらでも提出できるように思える程存在している。そしてそれは竹内が日本を批判する際にその「方法」性を放棄しているのである。例えば、次のような竹内の主張はどのように解釈すればよいであろうか。

 

「私は、日本文化は転向文化であり、中国文化は回心文化であるように思う。日本文化は革命という歴史の断絶を経過しなかった。過去を断ち切ることによって新しくうまれ出る、古いものが甦る、という動きがなかった。つまり歴史が書きかえられなかった。だから新しい人間がいない。日本文化のなかでは、新しいものはかならず古くなる。日本文化は構造的に生産的でない。」(竹内1983,p37)

 

 竹内の前提によれば、このような主張はあくまでも「程度」の問題に過ぎないという主張を継承しているはずである。「程度」問題においては、それはあくまで「傾向」であるに過ぎず、絶対ではないはずである。ところが竹内はここで「新しい人間がいない」とその「不在」を断言する。これは明らかに程度問題としての議論を逸脱している。このような断言は「魯迅のような人間は日本では存在しえない」とする上述の主張とも共通している。結局、この断言というのは、そのまま「実体としてのアジア」を表象しているのと同義ではないのか、というのが私の批判のポイントである。「実体としての日本」を定義しているにも関わらず、「実体としてのアジア」が表象されていないという保証は、竹内の議論から見出すことができず、むしろ魯迅孫文ゴダールといった実名を挙げることこそが「実体としてのアジア」としての見方を明らかに促進しているようにしか見えないのである。結局竹内のレトリックは「実在している主体がいるからそのような主体化を日本でも行うべきである」という形で日本人の主体化を鼓舞するものであるが、その実在的主体が「アジア」をどうしても実体化しているようにしか見えないのである。私はこれは結局、「アジア」という言葉を竹内が用いた時点で失敗であるという意味を与えるしかないことだと思う。この言葉はたとえいくら竹内が「地理的なもの」を排除すると定義しようとも、そもそも地理的な概念を包含した言葉であるがゆえに、容易に誤読を招く。その土地に実在する人物の議論がたとえ一事例であるに過ぎなくとも、それが容易に結び付けられるような条件を整えてしまっている態度こそ問題とされるべき部分ではないだろうか。竹内がいくら「実体視」していなかったとしても、それを「実体視」する他者と同じような語り方を行ってしまっていれば、そこに差異を見出すことはできないし、最大限竹内を擁護したとしても、やはりそのような「実体視」を避けるための語りを竹内が行っているという評価はとてもできないのである。これはちょうど一部の精神分析論が「父」という言葉を用いる際に陥っている問題と同じ構造を持っているといっていいだろう。

 

 この「実体視」に拍車をかけているのは、日本の今後の価値観として「アジア的価値観」が絶対に必要であり、「西欧的価値観」を持ち続けるという選択肢を竹内が全く持っていなかったとしか思えなかった、という点からも言えるだろう。

 

「中国の革命は、挫折と成功、破壊と建設の全過程をふくめて、ヨーロッパ文明への挑戦とみることができる。あらゆる近代化論は、日本の近代化は説明できても、この中国の近代化は説明できない。挑戦や抵抗は、侵略の側からは、無益な、計算外の要素となるからだ。日本の近代史が抵抗ぬきの脱アジアとすれば、中国の近代史は抵抗によるアジア化である。」(竹内「竹内好全集 第五巻」1981,p179)

 

 「日本には、型といえるようなものがない。つまり抵抗がない。強いていえば型のないのが日本型である。個性のないのが日本の個性だ。私は、日本がヨオロッパに抵抗を示さなかったのは、日本文化の構造的な性質からくるのではないかと思う。日本文化は、外へ向っていつも新しいものを持っている。文化はいつも西からくる。儒教も仏教もそうだ。だから待っている。」(竹内1983,p41-42)

 

 現在の日本を「個性のない」ものと定義し、それに対し中国型の個性ある、かつヨーロッパに対抗する主体が必要であると主張するのが竹内のアジア論であったといってよい。孫は竹内が「アジア」を始めとした一連の概念を出発点でもなく到達点でもないと捉えているが(pxix)、このような解釈は竹内の評価としては適切であるとは思えない。竹内のアジア観を到達点でないと解釈するのは、それが「理念型」同様、極概念が実体として通常ありえないと考える限りにおいて妥当しうる論点ではあるが、そのような中途半端な「点」の提示をしているという割には竹内の議論は極めて具体的に現在の日本を批判しすぎている。その批判はまさにある「点」をもとにした評価をした結果行うことができるものに他ならないが、その「点」が絶対ではないのなら、なぜここまで現在の日本を確信をもって批判できるのか、全くわからなくなるからである。孫の議論を前提にした場合、この矛盾について何も説明ができない。

 

 

○「方法としてのアジア」とは何か?――他の論者の竹内評と孫歌の竹内評との比較から 

「現代のアジア人が考えていることはそうではなくて、西欧的な優れた文化価値を、より大規模に実現するために、西洋をもう一度東洋によって包み直す、逆に西洋自身をこちらから変革する、この文化的な巻返し、あるいは価値の上の巻返しによって普遍性をつくり出す。東洋の力が西洋の生み出した普遍的な価値により高めるために西洋を変革する。これが東対西の今の問題点となっている。これは政治上の問題であると同時に文化上の問題である。日本人はそういう構想をもたなければならない。

 その巻き返す時に、自分の中に独自のものがなければならない。それは何かというと、おそらくそういうものが実体としてあるとは思わない。しかし方法としては、つまり主体形成の過程としては、ありうるのではないかと思ったので、「方法としてのアジア」という題をつけたわけですが、それを明確に規定することは私にもできないのです。」(竹内1983,p137-138)

 

 上記引用が論文『方法としてのアジア』の最後の部分にあたり、問題の焦点となっている「方法」について言及されている部分である。孫はこの「方法」についての解釈として「実体的な概念ではない」と述べているが(p60-61)、ここでは孫自身が「実体的」という言葉にどのような意味を与えているのか検討してみよう。

 今回の読書ノート中で、孫がこの「実体的」という言葉を実に多用していることがわかるが、まず押さえたいのはp57やp63における「実体」である。ここでは「固定的」という言葉とセットとなる形で「実体的でない」であることが語られていることがわかる。一方p89やp108では、「流動的」「機能的」という言葉が用いられ、「「正しい」観念的抽象化を放棄し、リアルで複雑な現実に直正面から向き合うこと」を求めるために「実体的」であることが否定されることになる。

 ここまで見てくると、すぐにヴェーバー的な「理念型」をこの「実体的」の対義語として想定していることがみてとれるように思える。この例外と言えるのは、p31のような説明の中にある。

 

「そして竹内が、魯迅の伝記や思想、作品と人生の分析を通じて導き出した一連の結論も、彼自身「着物を脱ぎすてるように棄て」たものに過ぎない。真に竹内の生涯につきまとったのは、『魯迅』のなかで「暗黒」ないし「無」として表現された、究極における文学的正覚であり、あたかもブラックホールのようにあらゆる光と影を呑み尽くす、実体化しえぬ、髑髏のような存在であった。その実体化の不可能性は、それを取り巻く光について説明することでしかその存在を暗示することができないという点にあらわれている。」(孫2005,p31) 

 

 竹内の思想は極めて自己否定的な原理に支えられており、魯迅の思想もまたそれに類するものであったのだろう。「理念型」が「実体的であること」と混同されていけないのは、あくまでそれが分析的概念として用いられるからである。しかし、理念型そのものが実在しないということも自明ではなく、これもまた何らかの検証を経てこそそれが明らかになるような性質のものである。しかし、竹内的な「実体的でないこと」とは、このような同一化の可能性をあらかじめ否定しているのである。簡単にいってしまえば、「実体化している」とは「所与のものとして前提としている」と同じ意味であると言ってよいだろう。

 

 この見方をよりラディカルに述べているのが子安宣邦の解釈である。ただ、下記の引用は孫との解釈のズレも合わせて確認できる点で注目すべきである。

 

「ヨーロッパ的原理は近代日本の国家形成の基底にはっきりと文明的実体をもって存在してきた。だがアジア的原理は、ヨーロッパ的原理が日本の国家形成過程に存在してきたように、存在してきたわけではない。それはヨーロッパ的原理への対抗と抵抗とが要請する非実体的な負の原理である。ヨーロッパに対するアジアの概念自体がすでにそうであった。「文明の否定を通しての文明の再建である。これがアジアの原理であり、この原理を把握したものがアジアである」竹内はいっている。文明一元論的に世界を支配し、世界に浸透するヨーロッパ的文明に否定的に抵抗し、その否定として文明を再建しようとする原理がアジア的原理であり、その原理を把握するものがアジアであると竹内はいうのである。これは竹内によるアジア概念のすぐれた非実体的構成である。さらばこそアジア的原理とは、日本近代史の非正統的少数者にになわれた抵抗的原理であったのである。とすればアジア的原理とは、近代日本の国家的戦略の基底にヨーロッパ的原理と矛盾しながら二重性をなして存在するような原理ではないはずである。ところが竹内の「近代の超克」再論は、「大東亜戦争」の二重性によって、近代日本国家の戦争伝統における矛盾する二つの原理の緊張的な持続をいい、それが「永久戦争」の運命を大平洋戦争に与えたというのである。これは一体何なのか。竹内は自らに反してアジア的原理を歴史的に対抗原理として実体化しているのではないか。」(子安宣邦「「近代の超克」とは何か」2008,p202-203)

 

 子安のこの指摘は基本的に正しいと私は考える。竹内の「方法としてのアジア」の議論は少なくとも、彼自身の議論の中で一貫としたものとして認めることができない。竹内の「方法(非実体的であること)」を「理念型」として捉えた場合、明らかにこれを逸脱した(実体化させた議論)というのが随所に出てくるし、この動きに対して抵抗するだけの理論を十分に竹内は持ち合わせていない。このことを孫は(無視しているとも言い難いが)軽視しているようにどうしても見えるのである。

 結局は子安はこのような中途半端な竹内の議論の継承は容易にアジアを実体化することに繋がることを危惧しており、だからこそ「方法としてのアジア」としての論法をあくまで「実在性の否定」にこだわることによって、竹内の議論を再解釈し、この点についてのみ擁護するのである。

 

「いま日本から提示される「東アジア共同体」とは、このアジアの悲惨を隠すだけではない。この悲惨を増幅させている己自身をも欺く希望の提示である。竹内ならこの偽りの希望の提示に否ということにこそアジアはあるというだろう。二一世紀の現代における「方法としてのアジア」とは、人間の生存条件を全球的に破壊しながら、己の文明への一元的同化と開発と戦争とによって進めていく現代世界の覇権的文明とそのシステムに、アジアから否と持続的に突きつけ、その革新への意思をもち続けることである。」(子安2008,p252)

 

 この論点をもう少し深めるため、酒井直樹の議論にも触れておこう。酒井の議論は孫の議論の前提とかけ離れている点に注目すべき点がある。酒井は「再帰性」という言葉とキーとして、竹内に議論から抜け落ちている論点を指摘する。

 

再帰性は自己画定には必ず同伴する事態であって、問題はこの再帰性を「敗北」に見立ててしまう、西洋の自律性という思い込みの方にある。西洋の自律性という虚構が解体されないかぎり、アジアの近代は「敗北」であり続けるだろう。アジアが負けたのは相手が偶々勝ったからではなく、この敗北はアジアにとって本質的である。経済成長率で勝ち、外貨準備高が増加し、軍事予算が急激に増えたからといって、アジアの敗北は拭い去ることができるようなものではない。彼の議論の弱さはここにある。

 別のところで説明したように、竹内は西洋とアジアの関係を外部にあるものと内部にあるものの対決として表象してしまっている。……彼は、西洋とアジアの関係を一つの国民国家と別の国民国家のあいだの相互的な外部性の関係にすることがアジアの独立であり、自立であると考えてしまったのである。ということは、竹内にとって、アジアは領域性をもった国民国家と対比されるべき政体のごときものであり、植民地権力は能動・受動の回路を通じて働くことが当然視されてしまっている。そして、西洋への抵抗は国民や民族といった集団の団結によってしかなしえないのだから、「抵抗」は国民の主体化なしには達成できなくなってしまう。「抵抗」は内人を作るための準備に過ぎなくなってしまう。」(酒井直樹・磯前順一編「「近代の超克」と京都学派」2010、p133)

 

「ここには、自己指示が再帰性を含まざるをえないと言った配慮は存在していない。「私」が想定されるためには「汝」が予定され、「汝」が「もう一つの我」として想定されるためには「私」が「汝の汝」として併存しているのでなければならないが、そのような私と汝が再帰性においてある、といった考察は存在していない。「私」と「汝」が物象化されているとき、「私」が「汝」に働きかけるか、「私」が「汝」に働きかけられるかのいずれかに選択肢は限られてしまう。そこでは、「私」と「汝」が実体ではなく、社会関係において成立する対象項である事が看過されてしまっているのであり、両者がお互いに外部にあることになる。……竹内好について、彼にはアジアを関係性において認識することができなかった、といったのは、彼のもつ民族主義的な性向を指している。ただし、同じ問題が「西洋」を自律性としてみる西洋中心主義にもある点は忘れてはならない。」(同上、p138)

 

 このような酒井の議論は半分は正しいが、問題点もある。端的に言えば、子安が指摘したような竹内自身の議論の矛盾について、適切に捉えられているとは言い難いという点が問題である。酒井は関係性をめぐる議論を竹内は無視しているという。酒井の議論の正しさは、以下のような竹内のいうドレイ論が賭け金となっているように思う。

 

「このような人間観は、自由競争を前提とした、個人主義的人間観とは対立する。個の独立は、排他的に行われるのではなくて、他との協調関係の中で打ち立てられると考える。現に中国に実現しつつある新しい人間像は、そのようなものである。たとえば、中国革命のエネルギイの源泉である土地改革に際しては、封建的な土地所有関係を打破するだけでなく、それを通じて人間の意識内容が変革されることが要求されている。しかも農民からドレイ根性をなくすというだけでなしに、地主から、ドレイ根性の裏がえしである支配者根性をなくすことが同時に強調されているのである。」(竹内1981,p8) 

 

 この部分における竹内のドレイ論とは、ほとんどフーコー的な権力論と同様に、自らの行使する/自らに行使される権力への欲望への抵抗そのものである。他者を従わせないこと/他者に従わないことに対するこのような自覚性は、明らかに再帰性を伴う主体化においても随伴するものであり、酒井の批判はこのような竹内の議論を無視しているように見えるのである。従って孫的な視点からはこのような批判は文字通り竹内好を適切に評価していないというように見えるだろう。

 しかし、酒井は竹内のこのような議論が無視されうるだけの「物象化」の方を問題視していることも無視できない。これは子安が指摘した「実体化」の要因となる議論そのものであり、竹内がこのような「物象化」が自己矛盾となる可能性について自覚していなかったことも事実である。この「物象化」の議論で最たる問題点を具体化するならば、「方法としてのアジア」と「方法としての中国」の違いについて、竹内の議論からは何も説明できないこと、という点にあるだろう。竹内はこの「方法」の提示のために決まって魯迅やダゴール、孫文といった人物を取り上げるか、中国における市民運動の興隆を例示し語っている。問題はこの「例示」と「方法」との関連性である。竹内はどう見てもこれらを関連性をもったものとして語っているようにしか見えないし、それが関連性を持っているからこそ、「方法としてのアジア」という問題提起が成立することになる。しかし他方で、明らかに竹内は「アジア」や「中国」に含まれる具体的内容については「どうでもいい」と思っている(※1)。この「どうでもいい」というのは、「西洋に抵抗していればそれでいい」という意味でどうでもいい、ということであり、孫的に(肯定的に)言えば「「暗黒」ないし「無」」(p31)という意味となる。竹内の議論はそれがいくら具体性を欠く(実体的でない)としても、「無」という形でそれを「物象化」せざるを得ないし、その過程で「無」に含まれないもの(西洋的価値)を例証していくのである。子安はこの論法に対してわずかな可能性を見出しているものの、酒井においてはこの論法自体がすでに破綻しているとみなしているのである。その破綻が自明であるからこそ、竹内の細かな議論については触れようとしない、という解釈が正しいだろう。私自身も基本的な立場としては酒井の議論を支持したいと思うが、酒井の立論は少々飛躍している部分があるといえるのである。

 

○文学的であることとは?

 この「実体性」をめぐる議論というのは、そのまま前回のレビューでも捉えた「文学」の価値に関する議論ともリンクしてくるだろう。孫は比較的この論点を重要視しながら竹内の読解を行っていた節がある。私の読んだレベルでは竹内の「文学」に対する価値は十分読み込めていないため、孫の議論を前提にした上での竹内評となってしまうが、宿題としていたため一応触れておきたい。

 孫の指摘する竹内が希求した「文学」的価値観というのは、「実体化」の回避のための手法の一つであったと言えるだろう。P89で指摘されるようにこれは竹内に限らず、丸山真男もそうであったという。竹内がここで想定していたのは、自律的領域としての「文学」という領域と、文壇ギルドの閉鎖性の批判に伴う、その領域の開放性の強調であったという。しかし、この自律的領域としての「文学」について批判を行ったのが野間宏であったと孫は言う。この批判に対し竹内自身が次のように指摘しているのは重要である。

 

「私が文学の自律性をいうとき、政治と文学を実体的に区別したような印象を野間氏に与えたとすれば、それは私の説明が足りなかったからであって、私はそう考えているわけではない。私は、政治と文学とは機能的に区別しなければならないことを主張しただけである。」(孫2005,p101、元引用は『竹内好全集』第7巻、p63-64) 

 

 この議論が重要であるのは、先述した「実体的であること」の定義をめぐる議論の捻れが端的に表現されているからであり、かつ孫のこの捻れに対する評価もまた、他の論者の竹内評との違いをそのまま説明するからである。私の理解であれば、竹内自身はここではヴェーバー的な「理念型」的な分析概念として、それを「機能的」と表現することで、「実体的」であることと区別すべきであると考えている。ところが、この竹内の指摘は、竹内自身の主張が「実体的」な語りであるかどうかを全く説明していない。そして、私は竹内の主張はどう見ても「実体的」であると評価している。ところが、孫は竹内と同様、この両者の違いの議論について棚上げしたままとし、p103のように竹内と野間の議論のズレを指摘するに留まり、それ以上問題に言及しないのである。これはある意味で孫が適切に竹内の議論に従っているともいえるだろう。しかし、「文学的であること」の価値について議論するのであれば、このズレに対する議論は決して無視することができないはずである。これは前回レビューした「多様な価値観があるから『近代の超克』論は有効である」という素朴な議論への批判と直結することになる。このような素朴な議論は、竹内もそうであったように暗に固定的な価値観(=実体的であること)を批判することに終始し、その批判を介して多様な価値観を擁護しているように見える。結論として、孫的な議論では、竹内の価値を擁護しようとしても、その価値が「有意義か」を判断できない。私が孫の議論で最も問題があると思うのはこの点である(※2)。

 ただここで想定しておかねばならないのは、このような価値観は竹内に限らず、本書で丸山とも「驚くべき一致」があったと言われるように(孫2005,p88-89)、比較的戦中・戦後の知識人層には広く「文学」的価値観として浸透していた可能性である。「文学」というものが多様な価値観の源泉となることは、特に本書においては重要視されているように見える。孫はp89で見られるように、文学が「つねに流動状態になければならず、自己更新され得るもので、凝固不変のものではない」ことを強調している。

 これはこれで注目せねばならない論点であるのは確かであるが、他方で竹内は文学の価値を国民統合の一手段として重要視していたのも明らかである(cf.竹内「竹内好全集第六巻」1980,p15)。ここでは「文学」は多様な価値観を包摂するというよりも、未だ実現(顕現)していない価値に対して、その顕現を強く推進するエネルギーとなることをむしろ重要視していることも明らかである。ここで、竹内は孫が強調するような文学的価値観よりも、こちらの顕現をめぐる議論の方に注視していたのではないのか、という疑問が出てくるのである。竹内が「実体化」を避けていたのは明らかであるが、その目指すところは、「流動状態」にあるのではなく、あくまで民族性の確立であったのではないのか、と。

 

 この論点は、結局先述した「方法的」と「理念型」のズレをめぐる議論と同じものであるように思える。理念型においては価値中立的であることが要求されることとなり、「方法的」であることに内包されるべき「顕現」に関する議論についてはいったん放棄されることになる。しかし、竹内の議論においてこの「顕現」をめぐる議論を放棄することは許されるべきではないだろう。孫は竹内の「理念型」的な側面を強調している嫌いがあるが、他の論者的にみれば、竹内はあまりこの枠内で語ることに意義があるように見えてこないのである。特に孫の論点からは「近代の超克の再考」というのがそのまま「文学的価値の再考」をも意味することになるが、このような形で復刻される価値観が、前回取り上げた加藤尚武的な議論を捉えることが全くできないように思える点で、その有効性は極めて疑問である。

                                                                                                

加藤尚武的な議論ができないのは何故なのか?——「近代の超克」論の限界とは何か?

 上記の議論についてもう少し考えてみると、次のような構造を「文学的価値の再考」としての「近代の超克」の議論は抱えていることになるのではないか。価値中立性をタテにして議論にとりかかることにより、既存の価値観(「近代」とされるもの)と新しい価値観(「近代の超克」とされるもの)た並列的に語ることが許される。このような議論が正しい意味で「理念型」的なものであるならば、つまり分析的概念をもって、その議論を徹底するということであれば問題はない。しかし、そのような前提に立ってしまうと、そもそも「近代の超克」と呼んでしまっている価値は「超克」を意味しなくなってしまう。逆に言ってしまえば、「超克」という言葉を使ってしまっている時点で、すでに価値判断に加担しているのである。とてもわかりやすいダブル・バインドの状態となってしまうのである。この矛盾の解消のためには、ハナから「超克」について語らず、「分析的であること」に徹底すべきとするか(私はこの立場を支持する)、価値中立的であるというタテマエを捨て、積極的に「超克」の価値にコミットしていくこと(子安が最終的にこの立場にあったように思える)のどちらかの態度をとらねばならないだろう。竹内の魯迅的態度はこのダブル・バインドに積極的に加担するような立場であるものの、結局は「超克」の価値へコミットすることを避けることはできず、どこまでも中途半端に終わってしまうようにしか見えない。この点は竹内好の議論を行う上で軽視されるべきではない。この点、子安は自己否定の価値観を強調することで竹内の議論をわずかに擁護するが、竹内が抱えたダブル・バインドの問題にまでは具体的に議論を進めているわけではないという意味で、このような立場をとることが可能かどうかについてはっきりしているとはいえない。

 

 さて、竹内的な「近代の超克」の議論を擁護することができるのは「自己否定」であるとした場合、何故加藤的な議論を行うことができなくなるのか。これは必然という訳ではないように思うが、結局如何なる「自己否定」を行うのか、ということと関連しているという他ない。ここで『近代の超克』座談会における科学をめぐる議論を手掛かりに、当時の自己否定性の文脈を捉えてみたい。

 座談会における科学の取り扱いについては、複数の著書において基本的な論点となりえなかったとみている。座談会中ではわずかに下村寅太郎がその重要性を指摘するのにとどまり、他の論者はこのこと触れないか、批判的であったとされる。

 

「座談会「近代の超克」の参加者にとって、問題はあくまでも日本「精神」の危機であり、下村を除けば、みずからを脱中心化する動きをしめす科学技術がとわれることはなかった。そして、没落していくヨーロッパの普遍性とは異なって、太平洋戦争の開戦とともに、日本精神は大東亜共栄圏を覆い尽くし、同時にヨーロッパ精神にとって代わるものになることが高らかに謳われた。」(酒井・磯前編2010、p63)

 

 

下村寅太郎は、近代の超克という場合必ず科学の問題を何とか解決しなければならない、とした。それに対して林房雄は「僕は科学者が神の下僕になれば宜いのだと思つてゐる」とし、亀井は、「僕の希求するのは近代をのりこえる力ありとすれば、神への信だといふ他にない」とした。林や亀井において、近代をのりこえる力は神への信、ということになる。」(石塚正英・工藤豊編「近代の超克」2009、p94-95)

 

 上記のように、科学に対する関心自体がなく、むしろ「精神」こそが座談会においては重要であるとみなされた(cf.石塚・工藤編2009,p118)。しかし留意しなければならないのは、下村も実際は「精神」を中心にした近代の超克に帰着している点である。

 以下は座談会2日目終盤の場面での対話である。長い引用となるが極めて重要な論点なので容赦願いたい。

 

「津村 だからアメリカの理想は物質的に庶民の生活水準を高めることでせう。

鈴木 その平均が高いのが餘程問題ですね。アメリカの本體はさういふ所にあるのぢやないか。機械文明をどういふやうに克服するか、差當つて機械文明といふものは否定出来ない。

津村 機械文明は絶對に避けることは出来ないが、逆手と取つて、それをこつちから使ひこなさければならん。

河上 然し僕にいはせれば、機械文明といふのは超克の對象になり得ない。精神が超克する對象には機械文明はない。精神にとつては機械は眼中にないですね。

小林 それは賛成だ。魂は機械が嫌ひだから。嫌ひだからそれを相手に戰ひといふことはない。

河上 相手に取つて不足なんだよ。

林 機械といふのは家来だと思ふ。家来以上にしてはいかんと考へる。

下村 それで濟まないと思ふ。機械も精神が作つたものである。機械を造つた精神を問題にせねばならぬ。

小林 機械は精神が造つたけれども、精神は精神だ。

下村 機械を作つた精神、その精神を問題にせねばならぬといふのです。

小林 機械的精神といふものはないですね。精神は機械を造つたかも知れんが、機械を造つた精神は精神ですよ。それは藝術を作つた精神とが同じものである。

下村 機械を造つた精神そのものの性格が問題ですよ。これは新しい精神の性格である。この精神に近代の吾々の中に實際に事實として生きて居るから、それを單に嫌ひだと言ふだけでは問題を避けて居るにすぎない。これは單に魂だとか、覺悟だけでは濟まないと思ふ。そういふ魂は謂はゞ古風な精神で、勿論そのやうな精神は我々の底に必要であるが、しかし近代の超克といふ問題には機械を作つた精神と同様にこのやうな單に古風な精神の超克も問題になると思ふ。前に「理性」も近代の理性は言葉を自己の表現とするやうなロゴス的な理性でなく、近代的な性格をもつと言ひましたが、これはもつと一般的に言へば今の問題になるのですが、つまり「精神」や「魂」も近代的な變革を遂げていることです。今まで魂は肉體に對する靈魂だつたが近代に於ては身體の性格が變つて来た。つまり肉體的な身體でなく、謂はば機械を自己のオルガン(器官)とするようなオルガニズムが近代の身體です。古風な靈魂ではもはやこの新しい身體を支配することが出来ない。新しい魂の性格が形成されねばならぬと思ふ。近代の悲劇は古風な魂が身體に――機械に追随し得ない所にある。ここで後へ退くか前へ進むかが問題で、勿論後へ退くことは出来ない。機械を造つた精神は決して唯物論ではない。それは先に言つたやうな意味で近代科學の精神と同じイデアリズムスだと思ふ。近代のモラリストや宗教家は謂はば古風な魂の概念に拘泥してゐるのではないか。この問題の打開は寧ろ魂の概念そのものの轉換にあるのではないか。心身の關係に對する新しき形而上學が必要だと思ふ。これは巨大なスケールの問題で、從來のやうな個人的主觀的な方法では不可能で、社會的政治的方法を必要とするもので、それには更に新らしい叡智或は神學が必要だと思ふ。これが今後の科學論が當面する問題で、近代の超克をいかにして果すかと言ふ實際の問題を考へる時にはこれを拔にしては不可能だと思ひます。

吉滿 ベルグソンが機械と神秘主義といふことを論じて居るが、機械文明にも何か神秘主義の代用品とならうとしてゐる面もある。近代の技術的科學主義といふやうなものにも、妙にマジックな興味に通ずるものがある。神話と機械とが結びついて、精神の形而上學の代用をつとめようとする傾向もあるものだ。……それだから機械の極限にはミスティクが要求されてゐるので、機械文明の極限で魂の空虚が現實に意識されてくれば、機械は自ら魂に国を譲るが、その魂の代りに機械がなつてやらうとする。ここでも眞の「靈性のロゴス的秩序」が眞の近代の超克として考へられねばならない。

河上 ヴァレリイのあらゆる文明論の結論も、結局機械のミスチツクに外ならないんですが、その貼が僕にとつてヴァレリイが結局つまらないと思ふ所なんだ。だから僕にいはせれば「幾何學の精神」は一つの「精神」です。これは何も精神の闘ふ相手ぢやなく、又近代機械文明の聚積と直接關係ありません。要するに機械が何故精神にとつてつまらないか? それは機械の齎すエトリス・ノイエスが常に量の問題を出ないからなんです。……機械と戰ふものはチヤツプリンとドンキホーテがあれば澤山だ。

吉滿 それを克服する爲に魂を持つて來る。魂の空虚を感ずるといふ所から「近代の超克」が始まるんぢやないですか。その時に魂は文明と機械に統御されず、霊性が一切を第一義性生の立場で統御して行く。つまり僕は「近代の超克」は「魂の改悔」の問題であると思ふ。東洋と西洋とを相通じて、神と魂とが再発見されねばならない。そしてそこから初めて祖國の深い宗教的傳統にもつながつて行けるのだと信ずるのです。」(河上徹太郎等編「近代の超克-知的協力会議」1943,p288-292)

 

 ここで下村寅太郎と吉満義彦は基本的に同じ見解をとり、津村秀夫も同じ路線の立つ一方で、下村の発想を河上徹太郎小林秀雄林房雄(彼は座談会では合いの手を入れるばかりで立場が不透明なところもあるが)は理解していないという構図が出来上がっている。押さえておくべきはこの座談会の司会は河上が行っており、この前段では津村と下村、そして鈴木成高アメリカ映画から機械文明の超克をめぐる議論を熱心に行っていたところで、河上がそれを遮るかのように批判、小林も追随したが、下村が再反論する場面であるということである。これに対する応答はなく、基本的に議論が仲違いに終わっている場面ともいえる。

 ただ、ここで押さえるべきは下村の論理である。下村はここで人類と機械文明の折り合いがつかない理由(近代の悲劇)を「古風な魂」の問題として捉えている。改めるべきは機械文明に適切に対応する「魂(精神)の転換」の問題であり、それこそが近代の超克の中でも極めて重要問題であるとみていると言える。加藤尚武が問うような次元の議論をここではしていない。ここでは機械文明そのものをいかに改善するかという議論ではなく、ある意味で自動的に生成される機械文明に人類がいかに適応していくのか、という形で議論が行われているといえる。機械と人類とはいかなる主従関係を結ぶのかという論点が林からも出ているが、科学も含めた当時の「近代観」がここに大きな影響を与えていることが確認できるだろう。そして「超克」という言葉というのも、まさに機械文明をコントロールするという意味合いで用いられていたということも確認できる。つまり科学は個別具体的に「何を生かし、何を捨てるか」という議論ではなく、全体として「それをいかに生かすか」という議論を行うべきものであるという見方がなされていたということである。このパースペクティブの変化というものそれ自体に考察が深められなければならないように思える。そしてそれは下村的な論理を下支えしていた当時の「近代観」に対しても、検討が必要であるということを意味する。このような着眼点がいかに存立しえたのかという問いは今後も検討していく必要があるように思う。

 

※1これは竹内自身の魯迅に対する評価への言及からもそう言える。結局竹内は「方法としてのアジア」の典型として魯迅を挙げるものの、魯迅の文学自体は「中国文学のなかで孤立している」とする(竹内1983、p35引用前掲)。ただ一方で魯迅の精神は形あるものとして「継承可能」であるとする点を竹内は評価し、それを「方法としてのアジア」と結びつけるのである。このような議論からも魯迅の議論はアジア(中国)の現状を「実体化」したものでは決してないことが言える。しかしそれは「実体化」されることを強く望まれた議論であることが強調される。

                                                                    

魯迅のような人間がうまれてくるのは、激しい抵抗を条件にしなければ考えられない。ヨオロッパの歴史家がアジア的停滞とよび、日本の進歩的な歴史家がアジア的停滞(!)とよんだような、おくれた社会のなかからでなければ出てこない型である。……魯迅のような人間は、進歩の限界をもたぬヨオロッパの社会のなかからは出てこぬだろう。」(竹内1983,p34)

 

 もっともこの主張だけでは別に日本がこのような魯迅的な主体を希求すべきであるという主張をしているとは認められないという逃げ口上も成立する。しかし、竹内は日本を西洋近代を形だけきれに模倣した「優等生文化」と皮肉交じりに述べる一方で、それが極めてもろいものであることを強調することで、魯迅的主体を強く求めるのである。

「そうだ。教育は成功するだろう。敗戦の教訓に目ざめた劣等生は、優等生に見ならって賢くなるだろう。優等生文化は栄えるだろう。日本イデオロギイに敗北はない。それは敗北さえも勝利に転化させるほど優秀な精神力のかたまりだから。見よ、日本文化の優秀さを。日本文化万歳。」(竹内1983,p27)

 

「見かけは進んでいるが日本はもろい。いつ崩れるかわからない。中国の近代化は非常に内発的に、つまり自分自身の要求として出て来たものであるから強固なものであるということを当時言った。」(竹内1981,p100)

 

 もっと言ってしまえば、「日本はもろい」と言った主張をする段では、日本と中国(アジア)は極めて一般化された形で語ってしまっており、当初の魯迅や中国の民衆運動の議論からは飛躍した議論を行ってしまっているのも、俗流な日本人論同様の問題として抱えていることも念のため指摘しておく。このような飛躍は孫が軽視した部分であり、子安の言う自己矛盾の本質部分であり、酒井はこの片側だけを要約して竹内を批判するのである。

 

※2 もっとも、孫の読解の上で注意せねばならないのは、孫も竹内の議論についてさほど好意的に捉えていない点があるということである。端的に言えば、p191の指摘がそれを示している。しかし、竹内の議論の問題について、子安ほど適切に指摘できていないという点では、(本書の目的が「竹内の包括的な理解」に向けられていたことも踏まえれば少々酷かもしれないが)やはり大きな問題であるように思える。

 

<読書ノート>

Pxvi「ここでは、竹内の複雑な立場が見えてくる。ガンジー孫文を生み出した「アジア」の歴史は、決してヨーロッパ式の進歩主義に嵌め込めることはできない。しかし、そのいっぽうで、アジアの人々にとって、土着の保守的流儀に対抗するためには、ヨーロッパの思潮を生かさなければならない。ただし、そのような思想闘争においては、ヨーロッパの思想の役割はせいぜい「生かす」程度までのことであることが忘れられがちであり、アジアの人々はヨーロッパの思想ないし思潮を絶対化し、そのようなドグマ主義の態度を「進歩」として理解する傾向さえ生じる。まさにそのような「進歩主義」に対して、竹内はアジアの本源的なものからは、「進歩が可能か」という疑問も発生しうると注意を促した。」

Pxvⅱ「『魯迅』において発展段階論を拒否した竹内好だが、歴史に「進歩」があるという主張は拒否していなかった。竹内はまた「進歩」とは人間の幸福であるという説明も加えていた。しかし彼の認めた「進歩」と「反動」は、絶対的な価値判断ではなく、時として反対の極に転移もできるような歴史的動きでしかない。竹内にとって、「進歩」という啓蒙主義の普遍的価値は、アジアの歴史を解明する場合の媒介に過ぎず、前提ではない。」

 

P31「そして竹内が、魯迅の伝記や思想、作品と人生の分析を通じて導き出した一連の結論も、彼自身「着物を脱ぎすてるように棄て」たものに過ぎない。真に竹内の生涯につきまとったのは、『魯迅』のなかで「暗黒」ないし「無」として表現された、究極における文学的正覚であり、あたかもブラックホールのようにあらゆる光と影を呑み尽くす、実体化しえぬ、髑髏のような存在であった。その実体化の不可能性は、それを取り巻く光について説明することでしかその存在を暗示することができないという点にあらわれている。」

※「ただ、この直接的には語り得ず、しかし避けて通ることも許されぬブラックホールに、竹内好が思考した文学というものの位置が示唆されているのだ。」(p31)

P34「竹内好は『魯迅』の中でひとつの基本原則を提起した。それは内部から発した否定のみが真の否定であるという命題である。言い換えれば、自己否定のみが否定の価値をもつということであり、自己否定を経ない思想や知識、外からやって来た既成のものは、いかなるものであれ生命力をもたず、死んだ知識であるということだ。」

※このような基本発想からは日本の状況を全否定する選択肢しか存在しないのは明らか。

 

P55竹内の引用。「近代とは、ヨオロッパが封建的なものから事故を解放する過程に、その封建的なものから区別された自己を自己として、歴史において眺めた自己認識であるから、そもそもヨオロッパが可能になるのがそのような歴史においてであるともいえるし、歴史そのものが可能になるのがそのようなヨオロッパであるともいえるのではないかと思う。」

P57「言い換えれば、竹内は決してこの世界の東洋/西洋の対立問題と歴史的形成の図式に対して哲学的に一つの「答え」を出そうとしていたわけではなかった。竹内が直面していたのはすぐれて現実的な対立の局面であり、その歴史哲学は、彼が不満を抱いていた、知識というもののおかれた位置の問題にぴたりと照準を合わせていたのである。竹内が私たちに伝えようとしていたのは、歴史がいままさに実体化され、知識を用いれば絶えず接近可能な客観的実在物として固定化されようとしているということ。そして、そうした凝り固まった思考様式のもとで、東洋と西洋との対立の問題あるいは歴史認識の相対化といった、人々が論争に明け暮れている類の問題は偽物の命題に過ぎないということであった。」

※合理主義なるものの批判も行なっている(p57)。

 

P59-60「竹内が第一の問題、すなわち西洋と東洋との関連性の問題を検討した際に依拠したのは、既成のモデルすなわち西洋と東洋とを対立概念と見なす見方であった。しかし彼は、このような対立はヨーロッパと東洋の間に存在するのではなく、ヨーロッパ内部にしか存在していないと明確に指摘した。」

P60-61「竹内における西洋と東洋は、決して真の実体的な概念ではないことは、すでに多くの日本の論者によって指摘されており、その指摘は基本的に正しい。同時に、ヨーロッパと東洋という概念は竹内のコンテクストにおいてプラス評価とマイナス評価、両方の価値判断を同時に含むものであり、肯定の対象である時もあれば、否定の対象である時もあり、いかにも混乱の様相を呈していることも指摘しておかなければならないだろう。」

※実体の地域概念の導入も見られなくはないが、それは竹内の議論全体では重要性をもつものでないと評する(p289)。

P63「物質的運動の近代化は彼の考察対象ではなく、彼が関心を抱いたのはわずかに「精神的運動」のみであった。竹内は、東洋にはヨーロッパ的な精神の自己運動がなく、そのため、東洋が西洋の近代化運動――それはさまざまなレベルでの拡張として体現されたがーーに直面したとき、西洋の運動を〝固定化〟し、〝実体化〟する傾向が容易に生まれたと考える。具体的に言えば、前進と後退を孤立した実体的なものとして固定化し、両者の間の相互依存と相互媒介の関係を捨象してしまうものであり、そうなれば、残されるのはただ単純な価値判断のみになってしまうに違いない。」

 

P65-66「通常の意味にしたがえば、抵抗という言葉は方向性が外向きであり、それが主体内部の自己変革ないし自己否定を引き起こすことはまずあり得ない。そのため他者を排斥するという意味を含みがちである。これに対し、竹内においては、抵抗の方向性は内向きなのであって、あたかも「猙扎」という語が象徴しているように、それは自己に対する一種の否定性の固守と再構築なのである。『魯迅』のなかの政治と文学に関する章の論述とリンクさせれば、いわゆる「猙扎」とは、主体が他者のなかで行う自己選択にほかならないことがはっきり見えてくるであろう。「猙扎」のプロセスとは、他者に内在しながら他者を否定するプロセスであり、それは同時に自己のなかに他者が入ることによって自己を否定するプロセスでもあるのだ。竹内にとって、この両者はすべからく同時進行で進むべきものなのである。そして否定とは、観念的なカテゴリーではなく、既成の秩序を破壊する具体的な行為である。」

P71竹内の引用…「かれは自己であることを拒否し、同時に自己以外のものであることを拒否する。それが魯迅においてである、そして魯迅そのものを成立せしめる、絶望の意味である。絶望は、道のない道を行く抵抗においてあらわれ、抵抗は絶望の行動化としてあらわれる。それは状態としてみれば絶望であり、運動としてみれば抵抗である。そこにはヒュウマニズムのはいりこむ余地はない。」

P73「日本のヒューマニスト作家と魯迅との間に横たわっている根本的な違いは、前者が「解放」を与えられるものとして求め、自らがドレイの境遇にあることを認めることを拒み、眼前の絶望的状況を正面から直視することで絶望に対して絶望し、そうした極限状態の猙扎のなかで抵抗を生み出していくという点にあるのだ。」

 

P89「彼ら二人が文学の本源性の問題について論じる場合、たとえ文学がどのような位置にあるにせよ、その位置はまず何よりも機能的なものでなければならず、実体的なものではない。それはつまり、文学はつねに流動状態になければならず、自己更新され得るもので、凝固不変のものではないということだ。これこそ竹内が『魯迅』の中で繰り返し強調した文学は行為であるということの真意である。丸山真男について言えば、彼が文学の機能を参照しながら議論したのは、日本政治思想史研究はいかにして実体的思惟を突破するか、ないしは日本社会の政治的メカニズムはいかにして肉体性から解放されて真に近代的なフィクション精神を獲得できるかといった問題であり、丸山がここから導き出した思考の方向性は近代的政治の「フィクション性」であった。一方、竹内好について言えば、こうした議論で打破せねばならないのは日本文壇の狭隘なる閉鎖性であり、竹内はそれを文壇ギルドと呼んだ。この小さな集団の中では私小説式の思惟方式が不断に再生産され、そうして文学の問題も狭い範囲内に閉じこめられてしまうのである。」

 

P101竹内の野間宏への主張の引用…「私が文学の自律性をいうとき、政治と文学を実体的に区別したような印象を野間氏に与えたとすれば、それは私の説明が足りなかったからであって、私はそう考えているわけではない。私は、政治と文学とは機能的に区別しなければならないことを主張しただけである。文学は政治を代行すえず、政治は文学を代行しえない。目的は全人間の解放であり、その目的にたいして政治と文学は、それぞれの側面から責任を持たねばならぬのである。小説を書くことも、一方では政治行為であり、綱領の文書表現は文学的行為である。それぞれの機能を責任をもって果すことによって目的のために有機的に結ばれたものが、真の自律性である」

有機的に結ばれることを想定している点が奇妙である。

P102「国民文学論争の中で、文学を政治と対立させ、文学の自立性とは政治の介入を排除することだとする考え方は、典型的な実体的発想法である。なぜならば、そこでは、政治は単なる政治権力の暴力あるいは体制の抑圧に限定され、モラルの位相でそれを抽象的に「悪」とすることによって、政治過程の中でのさまざまな可能性や諸々の複雑な矛盾などが安易に抹殺されてしまったからである。一方、野間宏が各領域の連合を強調し、民族の独立のためにこの一連の領域がそれぞれに自己の責任を負うべきと唱えたとき、実は文学を抽象化し政治・経済などと並置された「物」にしていたわけで、それはせいぜい文学の排他的「自律」に対するアンチテーゼとしての意味をもつに過ぎず、文学のあり方の問題はおよそ深められることはなかったのである。竹内が機能としての文学と政治を区別すべきだと主張したとき、彼が注目していたのは、文学が一種の特殊な「文化政治」の過程となって、単純に政治的結論を導き出してしまうような悪循環からいかに解放されうるか、という問題であった。あたかも丸山真男政治学の領域において現代政治の「フィクション性」を強調することで政治判断を打ちたてようとしたのと同じように、竹内好は文学領域においても機能性を強調することで文学を直感性から解放し、精神の営みとしての自律的性格を確立しようとしたのだ。明らかに、野間の誤読は、竹内のこのような実体的思惟と対決した、政治性を備えた文学の自律性を理解できなかったところにある。しかし、野間宏のこのような誤読は、果たして竹内の「説明が足りなかった」せいだっただろうか。実際に、竹内は同時代のほぼすべての重大な問題に関わるとき、いつもこのような「機能的な」反応をするのだが、しかしそれはたびたび、まわりの「実体的な」思考様式によって誤読されている。」

※論法云々で性格が変わるものでないように思うが。

 

P108「それなら、なぜ野間と竹内の間に、政治と文学の関係について真の対話が成立しえなかったのか。

 おそらくそれは、この日本の文学者の視野のなかに、ある基本的な参照軸が欠けていたからではなかろうか。それは、魯迅を代表とする中国現代文学、そして竹内好が中国現代文学を読むときの読みの視座にほかならない。もし『魯迅』を竹内の思想的な原点と見なさなければ、彼の日本文学や日本思想に対する全発言は理解することができないであろう。まさにこの「魯迅」こそ、竹内の言うように、機能的なものであって実体的なものではなかった。……魯迅は竹内を野間と異なる政治理解へと導いたのである。それはいわば、「正しい」観念的抽象化を放棄し、リアルで複雑な現実に直正面から向き合うことである。なるほど、野間宏の時局に対する分析は確かに正しいだろう。しかしこの正しい「あるべき姿勢」が、微妙に戦後日本の大衆社会の基本課題から遊離したのであって、日本文学もこの種の「イデオロギー的責任」を果たすことができなかったのである。」

P127「いかに善意をもって見ようとも、竹内好のこのことばは弁護しがたい。それは、日本の侵略戦争を合理化した態度のためではない。国家と距離を保ってきた自らの立場に背いて、「日本国と同体である」と宣言したことにこそ問題がある。しかしここで私が興味を持つのは、竹内が晩年にいたるまでこの文章を懺悔したり隠蔽したりせず、それどころか、一九七三年出版の評論集『日本と中国のあいだ』に収録されることを黙認したのはなぜなのかという問題である。」

※ただ自覚が足りなかった可能性は…「大東亜戦争と吾等の決意」への言及。

 

P160「中国人民の日本に対する抵抗意識は、まさにこうした野蛮で無恥な行為への道徳的な義憤を出発点として奮いおこされた。……竹内好はこうした「野蛮人本能」への本質的な省察を基盤として、一九四五年八月十五日以来、日本の思想伝統の形成に向けた一貫した努力をスタートさせたのである。」

※明らかにこの野蛮さは日本人の野蛮さとして描かれることになり、西洋人はその視野から外される。

P161「今日に至るまで、進歩的知識人を含む一部の日本人は、それぞれの理由から、日本の侵略戦争を「通例化」しよう、すなわち他の戦争と同列に論じようとしてきた。そのことの看過できない問題点は、「野蛮性」の問題を見逃すことにある。」

※この認識が正しいかはよくわからない。竹内自身が野蛮性に与えた意味如何による。進歩的知識人も全体的な意味で野蛮性を強調する一派がある。松下圭一もその系譜である。

P164-165「つまり、二元対立の思考形式ではこの出来事の核心にふれることはできない。東京裁判への賛成もしくは反対といった漠然とした政治的立場によっては、この複雑な出来事に対して政治的判断力を生かすことはできない。」

 

P174「五〇年代末トインビーが日本を訪問したとき、反共親米知識人を中心として「日本優越論」がとなえられた。アジアは「文明序列の劣位」に位置づけられ、「日本」は、福沢が初期に持っていた緊張感を持たないまま、再び脱亜した。こうした脱亜のコンテクストで東京裁判の問題が再審されたが、日本は西洋と質の近代文明国家であると見なされたため、東京裁判の合法性を問い質すものはいなかった。」

P190「清水幾太郎は、自分が運動の中で原理を追っていると信じていた。またアカデミズムのエリートは、自分たちのやり方で原理を現実運動に結実させようと努力していた。したがって彼らはともに、自分たちが原理と現実の関係を扱っていると考えていた。しかし彼らは追いかけている問題の方向性が異なっていたため、両者のあいだに、相互に排斥しあうような関係性の場が形成された。この関係性の場そのものこそが、理論と現実のパラドキシカルな関係を示している。いかなる指導的な原理であれ、原理のレベルにおいて、複雑な現実を変えることはできない。また現実の実践目標は、具体性・直接性を備えているため、具体的な目標を転移させる可能性をもつ原理的な思考を排斥しがちである。理論と現実のあいだの真の関係は、理論もしくは実践のどちらかにおいて単独で示されることはありえない。したがって、不断に議論され続けてはいるものの、討論が理論もしくは実践どちらかで行われている限りは、真の解決を得ることは困難である。」

※「排斥しがち」かもしれないが、理論的帰結ではない。また後段ももっともらしいことを言うが、これが正しいことを何ら積極的に定義しない。孫歌「それは、竹内好が他の知識人よりも優れていたという意味ではない。ほかの知識人との関連付けという構造のなかで考察されてはじめて、竹内好の批判的知識人としての貢献を認識することが可能となるという意味である。」(p191)という主張が文字通り全てであり、これは言い換えれば「50歩100歩」でしかない。竹内の議論により何らかの可能性が存在するという評価に意味はない。

 

P203「丸山において、問題は二元対立として処理された。しかし竹内好は一貫してそうした対立の外で活動した。丸山真男は日本の肉体的思惟を批判したとき、問題を理性的なフィクションの精神へと向けた。」

P230「以上の小見出しから見て取れるのは、この座談会が、西洋モダニティの限界を討論することを通じてそれを「超克」することを目標としていたこと、そして近代の超克という意味において日本文化の優位性を強調していたことである。」

小見出しから座談会の内容を読み取ることに収穫はないというが、同時に日本優位論を語っているのかどうか、小見出しからはとても読み取れない。

P231「十年隔てて行われた二回の座談会にある種の関連を見出すならば、そこではっきりするのは、「近代の超克」とはもともと文学者たちが発起し彼らによって継承された討論だったということである。「近代の超克」に参加した学者たちの戦後の活動がそれをさらに証明する。その二年後、別の座談会で「現代とは何か」という問題が討論された。司会を務めたのはかつて「近代の超克」に参加した鈴木成高であった。この座談会は「世界史的立場と日本」で議論された世界史の哲学の問題をある屈折した形で継承したものであり、「近代の超克」の内在的な方向性とはまったく接点を持たなかった。」

※これは、廣松などが注目した京都学派とは別の派閥による意図が強かったことを示す。「現代日本の知的運命」という座談会が1952年1月に開かれており、これが「近代の超克」の後継とする。

 

P236「京都学派の学者たちは、自分たちの対話空間では「近代の超克」座談会で感じたような困難を感じていない。『文学界』同人は純学術的な議論を好まず、学者たちに一つの「見解」を求めていた。言い換えるならば彼らは、十分な学術的訓練をつんだ学者から有用な結論を引き出そうと望んでいた。」

P237「二つの座談会はともに第二次大戦が白熱化した時期における世界の中の日本の地位を問題化し、日本の優越性とヘゲモニーを鼓吹しようとしていた。しかし議論参加者のポジションが異なっていたため、両座談会のテーマには根本的な差異が生じた。「近代の超克」が定めたテーマは参加者の主体的な自己の問題であった。それに対して「世界史的立場と日本」は参加者の前に存在する学術的な対象をテーマと定めていた。」

P238「しかしながら小林の出発点は「反近代」であり、近代の歴史発展論への対抗という意味において歴史の中に変わらないものについての語りを紡ぎ出したのに対して、西谷、鈴木の意図は、現代人と過去の人間との精神のつながりをめぐるパラドキシカルな性質を強調することにあった。」

 

P240「文学者たちにとって「反近代」とは「清潔な吾々の伝統」に対する肯定にほかならず、学者たちにとって日本の優越性の強調は世界史の語りの一部分にすぎなかった。」

P241「京都学派の雄大なる世界史の語りにおいて、「日本」は、近代西洋に代わるべき重要なポジションを与えられてはいたが、論述の目的地とされることは決してなかった。「近代の超克」と「世界史的立場と日本」という題名の差異は、日本的「肉感」を強調する前者の「西洋への対抗」的立場と、日本的肉感を意識する「暇がない」後者の「世界史」的立場とのあいだの微妙な差異を象徴的に示している。」

※「そして座談会についての回想は完全に文学者たちのものになった。」(p245)

P243「彼らが「近代の超克」で示した対立とは、近代の語りにおいて「日本」と「西洋」をいかに叙述するかという一点をめぐって構成されていた。」

P244「日本人は、ナショナリズムの問題を避けて新しいアイデンティティを見出すことができるかという厳しい試練に直面した。……

 戦後の一億総懺悔のあと、「近代の超克」はひとつの「トラウマ」として京都学派に関係のあった学者たちの戦後の語りから消失した。それに対して「世界史の立場」は、「日本文化フォーラム」という反共親米の色彩を持つ保守派の民間団体によって継承された。京都学派の四人の学者はほとんど皆このフォーラムに姿を現したが、『文学界』の文学者たちはそれとは関係を持たなかった。」

 

P247「明らかに、(※竹内の主張は)正しいイデオロギー的結論ばかりを目指すのとはまったく異なる立場である。竹内好のいう「思想」とは、正しい思想のみならず、さまざまな錯誤さらには有害な思想を含むものであった。しかしながら思想である以上は、政治体制から相対的に独立した影響力を持っており、それこそが思想が社会に影響を及ぼす根拠であった。「近代の超克」と「世界史的立場と日本」はまさにそうした意味での「思想」を持っていた。」

P252「五〇年代日本知識界の数々の座談会を見ると、論争の陣営は進歩的知識人と保守的知識人といった基準で厳格に区分されていたわけではなく、むしろ多くの場合、西洋モダニティ理論を利用する方式と習熟の程度によって分かれていたことがすぐに見て取れる。」

P253「竹内好は鋭く見抜いていた。新しい東西二元対立モデルによって日本はいかなる道を歩むべきかという問題を解決することはできないのだ、と。というのは、五〇年代末期に日本優越論が再燃し、「日本文化フォーラム」のような文化人の言説においては日本は東アジアの指導的国家として描き出された。「近代の超克」が失敗した地点で戦後の日本主義者たちは同じ轍を踏んだのだが、それに対して進歩的知識人は西洋の思想遺産によってこの状況に対処する有効な方法を見出せなかったからである。危機意識をもった竹内洋は「近代の超克」の封印を解き、イデオロギー批評によって単純化されていたこの思想史上の出来事から新たな可能性をひろいだそうとした。」

 

P255「荒正人日本共産党への入党経験を持ち、のちに意見の食い違いから離党した進歩的知識人」

P256「たとえば竹内は「近代の超克」と「世界史的立場と日本」の差異を完全に無視し、後者を前者の中に組み込んでいる。その結果彼は知らず知らずのうちに、特定の時代の思想形成に関わる多重的な可能性を思考することを妨げられた。」

※一方で「彼が論じたのは特定の時代および歴史的文脈の中における座談会の位置づけの問題にほかならなかった」とする(p256)。ここでいう歴史的文脈の議論をどう評価しているのか、読み取り難い。

P257「同時に竹内好は、東京裁判をきっかけにして、日本とアメリカは東アジアの植民地争奪戦争をしただけで、文明対野蛮、正義対侵略の戦争ではなく帝国主義帝国主義の戦争であったという観点を固めた。それに対して荒正人は、第二次大戦を考える視覚として一貫してソ連を重視しており、アメリカに対しても、ソ連および中国の同盟国として、歴史の行為としては民族統一戦線を授けて日本ファシズムに対抗したという命題を導き出した。」

※見方によっては、竹内の方がはるかに「二項図式」的に見えてしまう。

 

☆P259「とはいえこの議論はその後にわたる日本の進歩的知識人内部の基本的な分岐を象徴的に示している。四〇年が過ぎた現在、日本の知識人はほとんど実質的に進歩のないままヒロシマ問題において荒正人竹内好の問題意識を反復しているように見える。これはいったいどうしてなのだろうか。

 基本的な思考の手がかりは、やはり竹内好の「近代の超克」の中にある。皮肉なことに、あまたある「近代の超克論」の中には、政治的に竹内好よりも正しくまた読解として竹内より精緻なテクストがいくつもあるが、竹内好のこのテクストほど時空を超えてたびたび言及されるテクストはほかになく、民族主義ないし大東亜主義の「嫌疑」濃厚な竹内のテクストばかりが日本思想史上の名著となっている。」

※このような評の正当性がいかにあり得るのかが最も気になる。

P259-260「竹内好は二元対立に替わる理論モデルを見出すことはなかったが、戦争経験者の感情記憶を揺り動かし、感情記憶の中に生きている原理を発掘しようと試みた。竹内好の見るところ、戦後行われた戦争に対する省察はむしろ生きている原理を覆い隠すものだった。なぜならば、日本のモダニティの問題は第二次大戦を頂点としながら、様々な形での対外拡張として戦後も基本的に生き延びていたからである。」

P263「まず第一点目について廣松は次のように批判した。京都学派は開戦の詔勅を完璧に説明してみせる教義学を持っていただけにすぎなかったとしても、それだけで充分に戦争とファシズムイデオロギーとして認定されるべきである。」

※もう一点廣松は近代の超克論はそのアポリアを「解決ないし止揚統一を志向していた」と断じ(p264)仲違いの可能性を否定した。

 

P266-267「しかしながら、三木清が『文学界』および同人を代表できるかという問題はさておくとしても、より大きな問題として、この置き換え作業が一つの理論的なすり替えであることが指摘できる。すなわち、歴史上の明確に限られた範囲を持つシンボルであった「近代の超克」が無限に拡大され、昭和思想史全体の基本的構造とされたということである。その基本構造とは、廣松渉が関心を寄せていた、天皇制を頂点とする国家独占資本主義の社会構造およびそのイデオロギーである。……彼が竹内好の「方法論的手続き」が狭隘にすぎると批判したのは、竹内が文明論と文化論の視野でしか問題を扱わず、社会史的角度から廣松渉と同様の課題を扱わなかったためにほかならない。」

※「廣松渉雄大な社会史と観念史の語りにおいて、竹内好を批判することによって、竹内好によって提起された荒正人等によって明確化された重要な思考を見逃した。」(p267)とするが、これこそ50歩100歩の議論であり、どちらの議論もその正当性についてろくな言及が存在しないように見える。

P270「廣松渉雄大な枠組みの中に、正しい批判的立場や観念分析・社会史分析は充分にあるが、思想伝統を建設しようとする努力は不足している。」

※孫の議論を読んでいると、「生活体験」と「多様性」が同一のものに見えてくる。