萩野富士夫「戦前文部省の治安機能」(2007)

 今回は「国体の本義」をめぐる議論の補論として、荻野の著書を取り上げる。本書の主題は戦時期を中心にした文部省の「教学錬成」、「臣民」としての国民育成の機能についての議論を中心としているが、その中で「国体の本義」や「臣民の道」についても触れられており、特にとの編纂過程などについて細かく分析がなされている。

 

 ただ、本書で指摘されている「国体の本義」と「臣民の道」の比較による違い(p255)については疑義を出さざるをえない。本書では両者の違いとして①欧米への排除の傾向②忠孝の優先度の違いがあるとしているが、両方ともスタンスは変わらないというのが私の見方である。②は読書ノートの内容からほぼ自明であると思うが、①については少し詳しく触れる必要があるだろう。

 確かに私も「臣民の道」については欧米諸国に対する対立構造が強いものであることを認めており、①のような指摘がなされることも理解できるが、これは一方的な欧米思想の排除として捉えてしまうと日本の態度として自己矛盾が生じてしまうため、解釈として適当と言い難いと考えられる。ここで押さえなければならないのが、「欧米思想に学ぶことができる」ことを日本の強みとしていた「国体の本義」における基本的スタンスとの関係性である。結局この謙虚に学ぶ姿勢というのは、欧米思想の排除からは生まれることがなくなってしまい、その基本姿勢そのものの否定にもつながりかねない問題を孕んでしまうのである。「臣民の道」においても、日本が「西洋文物の摂取」を行ってきた事実に触れられ、そのこと自体に対して否定的見解が示されていない以上、これを全面的に否定してしまうことは日本そのものの否定につながってしまうため許されないのである。その意味で、「国体の本義」と「臣民の道」は見方は違えど、基本的な「近代観(欧米観)」については連続性の存在を強調すべきであると思う。

 ではこれはどのようにすれば許されるものとなるのか。答えはこれら2書と、1942年に文部省教学局から出版された「大東亜戦争とわれら」(cf.p352-353)の比較によって明確に見えてくる。一言でいえば、「日本が西洋文物を摂取してきた」事実自体を無視するというのがその答えである。「大東亜戦争とわれら」では「臣民の道」からさらに進んだ形で米英を「悪」と断じ、「八紘一宇」を正義の原理として戦争に打ち勝つ精神を鼓舞するという、見慣れた二項図式論に基づく、細かな・厄介な問題の忌避(無視)という議論に行きついていることが確認できる。合わせて注目すべきは、このような観点からは「近代の超克」という議論はすでに存立しえないことである。欧米由来の「近代」はすでに克服される対象ではなく、排除し打倒する対象とみなされているため、「近代」という地盤そのものが不要のものとみなしえるからである。そしてそれに代わり立ち上がるのがそれとは全く異なる原理により現れる「東亜新秩序」なのであった。このような「善悪」ベースの二項図式論の弊害については教訓とされねばならない論点が含まれているだろう。結局当時の日本人も多くの恩恵を受けていたはずのものであり、5年前までは同じ立場にいるはずの者(文部省自身)がその価値を強調してきた「近代」なるものの継承は、その事実を無視する形で、見方によっては事実を歪める形で否定されることとなったのである。

 

 また、本書で指摘されている内容として注目すべきは、「国体の本義」における草案と刊行版との相違点であろう。特に注目すべきは「国体の本義」の草案における、「我が国体に関する一の説き方に止るものであつて、これ以外の研究を拘束するものではなく」といった記述である(p195)。これは本書における欧米思想に関する記述が難航していたこと(p192,p194)とも大いに関連していたものと思われる。「国体の本義」においては、刊行本では矛盾した態度も現われるものの、比較的まじめに「近代の超克」についての議論がなされていたのであり、まさに現在進行形として近代をいかに受容し、醇化していくのかか課題であったがゆえに、有力な一解釈を超えるものでありえるはずがなかったのである。にも関わらず、「国体の本義」は刊行に向けて調整が進むにつれ、「聖典」としての位置付けを強めていったのである。

 更に文部省が行ってきた「教学錬成」については、本書でしばしば批判の対象として捉えられていたことが指摘される。これはまず文部省(教学局)と「国民精神文化研究所」という、研究機関(あくまで学術的に「国体解明」を目指そうとした機関)のスタンスの違いや「国民精神文化研究所内」内にも存在していた「思いつきや神がかりの国体論」への批判(p141)にも表れている。前述した「国体の本義」の性格についても、この書物がもともと「国民精神文化研究所研究部ヲシテ日本精神ノ聖書経典トモ称スベキ簡明平易ナル国民読本ヲ編纂シ之ヲ広ク普及セシムルコト」を意図していた(p188)ことを踏まえると腑に落ちる所だろう。「国体の本義」が当初他の国体研究と排他的でない態度であったというのは、この国民精神文化研究所のスタンスとも無関係であるとはいえないだろう(なお、「臣民の道」は文部省教学局が主体となって作成を進めたものであった)。また、「教学錬成」そのものが主体に有効なものなのかといった批判をはじめ、文部省の政策批判も多くあったという実態というのは、この時期の思想政策が必ずしも「官」主導で行われている訳ではなかった、または「官」主導で行われることが好まれていなかったこと(これは『近代の超克』座談会における「官」批判がある意味常識的なものであったこと)を示唆する内容であり、当時の「臣民」育成においても複雑な議論が存在していたことを読み取ることができ興味深かった。

 

<読書ノート>

P10-11「明治維新以降の国家による教育体制の構築が大日本帝国憲法下の「臣民」育成を目標にしたことは、これまでの分厚い蓄積を持つ教育史研究によって明らかにされてきたことではあるが、一九三〇年代後半からの「臣民」はそれ以前と質を異にするものであった。マルクス主義は強権的に弾劾されるのと軌を一にして、個人主義自由主義・民主主義なども欧米からの輸入物として一斉に排撃され、その対極に絶対的に拠るべきものとして「国体明徴」・日本精神があらゆる領域を覆いつくした。その結果、「臣民」は「皇国民」として「教学錬成」に駆り立てられていったのである。」

 

P93「ことに「忠誠奉公ノ精神」を第一に掲げたことは、(※国民精神文化)研究所の実質的中心人物である伊東学生部長の意向を強く反映していると思われる。伊東は「我国体は永久不変であり、永遠に栄え、皇位は真に万世一系である。此の真我を把握し、此の国体を体認する。そこより我国の学問が発展し、我国の教育が建設せられる」という認識に立ち、欧米流の分析的方法・実証的手段・抽象的理論を排し、「全的綜合、内面的把握、人格的証悟、実体的把握」によって「初めて真の知識、学問が成立つ」という論理を展開する。創設当初、「所長事務取扱」となっていた文部次官栗屋謙は「東西二大文化の精粋を尽し、この基礎上に世界的新文化を建設する」ことを「現代日本国民の歴史的使命」としていた。まだ東西文明融合に傾斜する栗屋に比べて、伊東の欧米的価値観の排斥は際立っている。」

 

P128「ところで、思想局創設に対する世評は批判的なものが多かった。最もきびしいものの一つは留岡清男の論で、「一体思想対策などといふ問題が、文政上の国策として成立つだらうか。思想問題が起らねばならなかつた源を遡及するならば、学生部それ自身の創設が問題とならねばならぬ。之を思想局に昇格するなんていふに至つては、最早お話にならない」という。」

※有光次郎は思想局のすることは実際の行政にちっとも反映されず、遠吠えみたいなものとする(p129)。

P136山本勝市の指摘から…「また今日の学生は個人主義的な考方で教育され、唯物的機械的な考方にならされて居るが為めに、実に容易く左翼思想に侵される様に出来て居る」

P139-140「「日本精神の真義」の徹底は、すべての教育領域にわたるが、大学・高校などにおいてこの時期に新たに試みられたのが「日本文化講義」の実施である。……

 これらに対する学生の反応はどうだろうか。露骨に「国民的性格ノ涵養及ビ日本精神ノ発揚」を唱道する講義は不評だったと思われる。」

 

P141「斎藤首相兼文相の「(※国民精神文化研究所開所式)祝辞」には……研究所の第一義的使命である「新日本文化ノ創造、建設」という研究部での成果についての言及がなかった。いみじくもここに示されるように、研究面における達成・成果の乏しさや、そもそも文部省の機関で「新日本文化ノ創造、建設」なるものが可能かどうかという点からも、研究所の存在に疑問が投げかけられていた。

 それは研究所の当事者にも認識されていた。三四年九月に研究部長に就任する吉田熊次は、「自分の国民精神の学説は、思いつきや神がかりの国体論ではないのだとして、薄弱な国民精神論者を厳しく批判した」という。部長就任にあたり、「我が国の思想界・学界はあらゆる主義・主張を包容するが故に、是等を融合して整理して、我が国民精神を培養することが特に本研究部の任務でなければならぬ」と述べるのは、おそらく紀平正美らに代表される「思いつきや神がかりの国体論」への牽制だったと思われる。

 しかし、その後、吉田が満足するような研究部の運営ができなかったことは、教学刷新評議会特別委員会の場での発言から推し量れる。」

 

P188「さらにさかのぼれば、前章で指摘したように、一九三三年の思想対策協議委員の幹事会で「思想善導案」が検討される最初の段階では、「国民精神文化研究所研究部ヲシテ日本精神ノ聖書経典トモ称スベキ簡明平易ナル国民読本ヲ編纂シ之ヲ広ク普及セシムルコト」が入っていた。そのことからは、文部省にとって「日本精神ノ聖書経典」たる「国民読本」の編纂は宿願であったことがうかがえる。」

P192「先に伊東談話と重ねてみると、「国体の本義といふと兎角古い歴史的な事」については、第一段階から第四段階まで、「大日本国体」と「国史における国体の顕現」の二章を配置することで一貫している。それに比べて、伊東が「社会的にも十分検討して時代認識に立つて国体の本義を明かにする」と意気込みを語った部分は、まだ構成段階とはいえ難航している。なかでも「現代思想」のうち「欧米思想」の扱いをどうするかで試行錯誤が繰りかえされたことがわかる。第三段階の「要綱」までは一章を費やして欧米思想の批判克服を意図したが、第四段階で扱いを縮小することに転換した。」

 

P194「草案第一稿では、「外来思想」の流入がかなり詳しく紹介され、北村透谷や幸徳秋水の名前さえ登場する。また、「自然主義的傾向の余りに現実の魂のみを見るに対して、理想を一面に尊重する所から新理想主義が起り、トルストイズムが謳歌され、ここに人間性にもとづいた思想が謳歌されるに至つた」という一文まである。こうした叙述は、次第に「消化せられない西洋思想」の弊害という観点から整理され、「西洋個人本位の思想は、更に新しい旗幟の下に実証主義及び自然主義として入り来り、それと前後して理想主義的思想・学説も迎えられ、又続いて民主主義・社会主義無政府主義共産主義の侵入になり、最近に至つてはファッシズム等の輸入を見、遂に今日我等の当面する如き思想上・社会上の混乱を惹起し、国体に関する根本的自覚を喚起するに至つた」という刊本の叙述に行き着く。

 刊本ではこれにつづいて、「今日我が国民の思想の相剋、生活の動揺、文化の混乱」は、「真に我が国体の本義を体得することによつてのみ解決せらる」と断じる。そして、これは日本のためだけでなく、「今や個人主義の行詰りに於てその打開に苦しむ世界人類のためでなければならぬ。ここに我等の重大なる世界史的使命がある」と展開する。いわば「八紘一宇」的発想にすぐ手が届く地点にまで進んだことになるが、これは草案第一稿には見えず、三六年六月の「要項」から「要綱草案」作成段階でもおしらく発想されていない。改稿過程で「今や我等は重大なる世界史的使命を担ふものとして、先ず国体の本義を開明し、大いにその体現に努めなければならない」という発想が生まれ、「世界人類のため」という名分に結びつけられたのである。」

※見方によっては国体志向が改稿に影響を与えたともいえるのではないか。

P195「注目すべきは、後半の、特に「我が国体に関する一の説き方に止るものであつて、これ以外の研究を拘束するものではなく」という部分である。これは修正版でもまだ「素より本書は完全なるものでなく、又これ以外の研究と叙述とを拘束するものではない」と残されているが、刊行本では前述のように「本書の叙述はよくその真義を尽くし得ないことを懼れる」という箇所に多少の痕跡をとどめるだけで、削除されてしまう。文部省編纂の権威ある刊行物たるためには、「我が国体に関する一の説き方に止るもの」という消極的抑制的な表現は不適と判断されたのだろう。」

※端的に草案段階では「理性的に客観的な視点」がわずかながらあったものとする(p195)。

 

P196「『国体の本義』は刊行とともに普及徹底が図られた。文部省から三〇万部が中等学校、小学校、青年学校教員全員のほか地方教育関係者にも広く配布された。市販された内閣印刷局版は約一年後には二〇万部を突破し、一九四三年三月現在で一九〇万部に及んだ。さらに文部省では約九万部の複製や全文転載も認めた。」

P251「一九四一年七月、教学局から『臣民の道』が刊行された。『臣民の道』については、「『国体の本義』の「実践的奉体」を意図した『国体の本義』の姉妹編」という評価が通説的なものだろう。これは実質的な受容のされ方としては妥当だが、その当初の編纂の意図からすると、やや異なったところから出発している。」

※むしろ「指導書」として編纂の出発点では意識されていたという(p251)。

 

☆P255「『臣民の道』が『国体の本義』の注解篇ないし姉妹篇という性格づけなされたものの、その四年間という刊行の時差は、内容において大きな相違をもたらした。まず、思想の帰一化の進展である。『国体の本義』においては、「我が国民の使命は、国体を基として西洋文化を摂取醇化し、以て新しき日本文化を創造し、進んで世界文化の進展に貢献する」とし、「西洋文化の摂取醇化と国体の明徴とは相離るべからざる関係」と捉えていた。ところが、『臣民の道』においては、「我が国民生活の各般に於いて根強く浸潤せる欧米思想の弊を芟除」することを必須とし、それらを「自我功利の思想」と一括して全面否定するのである。刊行本においては消えるが、「動もすれば複雑多岐に分れ勝ちなる考へ方や見方を統一」することを目的の一つとすることからいえば、この思想の帰一化は当然であった。

これと関連して、忠と考の関係にも差異が生じる。」

※欧米思想そのものの排除を指摘しているわけではなく、前段の評価は言い過ぎ感がある。「西洋文物の摂取」を行ってきた日本に対して、その態度を全面的な否定を行なっているわけではないからである。また後段の忠孝の関係性についても、忠孝一本の姿勢から忠の価値が優先されたのが『臣民の道』のスタンスと指摘するが、「国体の本義」でも「忠の道を行ずることが我等国民の唯一の生きる道であり、あらゆる力の源泉である」「孝は、直接には親に対するものであるが、更に天皇に対し奉る関係に於て、忠のなかに成り立つ」としており、何ら関係性に違いはない。

 

P339「この6の総括(※佐賀県における中等学校の思想調査の傾向から)は、自由主義個人主義的傾向の排除に文部省・教学局が躍起となっているだけに、地方の実情からの批判として興味深い。」

※そもそもそのような傾向の生徒がいないことに対して、重点課題のようにとらえることをナンセンスに見ている。「その一方で、大人の世代の時局認識の不徹底や精神的弛緩が問題視されていく」とする(p340)。

P352-353「大東亜戦争とわれら」、学校に約三万部を配布し、内閣印刷局からも四〇万部が市販された

P357-358「安岡(※正篤)は「今日の世上に行はれてゐる錬成といふものは多分に又あるべき道から外れてゐますね。何かかうむやみに従来のものから離れた真新しい或る特定の行をやることがそれが錬成だという風になつてゐますね。非常に癖のある、一般人に喜ばれない、何か不自然を感ぜしめるやうな錬成が行はれ過ぎて居るのではないかと思ふ」と述べ、末広や安倍の賛同を誘う。末広(※厳太郎)も「人生観或ひは世界観の押売りといふやうなことが可成り行はれて居りはしないか、それはそれで目的があつて結構ですけれども、私はその結果個性を必要以上に殺して、そのために学問の発達に害が有る方面もありはしないか」という。」