ピーター・B・ハーイ「帝国の銀幕」(1995)

 今回も「近代の超克」の議論に関連したレビューを行う。

 本書は戦時中の映画についての分析を行ったものであるが、特にその映画の「大衆性」に注目し、そのことと戦時の統制的なイデオロギーとのズレについての描写を中心的に行っていることが特徴的である。統制的イデオロギーに対する「抵抗」もそうだが、そのようなイデオロギーに対する冷ややかな大衆の態度についても重点的に語られている点で、当時の多層的な議論の存在が非常に興味深い。

 例えば、大衆の新体制に対する無関心さ(p259)や、非常事態の「消費」について(p34)、戦争への楽観主義(p266)がそれである。これは映画という市場に極めて近い所にある媒体の分析を行った結果というバイアスの存在も否定できないが、それでも特に都市部における戦争受容の一端を垣間見ることができる内容である。また、映画製作者と統制する側との緊張関係についての描写も非常に多い。統制的であることと、(映画製作における)創造的であることとは根本的には矛盾したものであり、製作者側はそこに独自の工夫を加えながら、適合ないし抵抗しようとする。抵抗に近い例として示すのは木下恵介「陸軍」をはじめとする作品で(cf.p367-368)、検閲が厳しい脚本のレベルでは適合的でも映像表現でそれを逃れようとする戦略など、製作者側の苦悩の一端も細かく記述している。

 

○統制的イデオロギー=「近代の超克」の矛盾の露呈について

 映画という媒体自体、極めて実践的なレベルでその表現が求められ、「理念」とは対極的な側面を持ちうる分野であることを著者自身は強く自覚しており、統制的イデオロギーの理念が実態としての映画でいかに矛盾したものとなっているのかについて、本書では詳しく記述がなされることになる。

 

・生得的な「日本人であること」と「日本人となること」の矛盾について

「国体の本義」(1937)においては半ば議論を誤魔化すかのように、実態における「西欧の影響に伴う悪影響」と理想としての「真の国体」は矛盾を内包し語られていた。しかし、映画という媒体ではそのような誤魔化しは露骨に表面化せざるを得ず、それ自体がナンセンスに見えてくることもしばしばあることを本書では示唆している。P194にあるように映画の世界でも繰り返しこの矛盾は現れているといえる。結局今も昔も「日本人であること」とは、何らかの(架空か実態かを問わず)参照軸を以て描かれるものであり、それ自体は理念型と同様、実態である必要性はない。そして、それが「日本人となること」を要求する場合、当然矛盾として現れることになる。これが最も致命的な矛盾として現れるのが、「日本人であること」を生得的なものとして定義する場合においてである。これは客観的に見れば滑稽でしかないが、「日本人であること」は決して疑問に付されることが許されていない以上、矛盾を矛盾として受け入れなければならない。もし、この矛盾を避けるのであれば、登場人物自体が「日本人であること」と同義となってしまうが、それは飛躍でしかないため、p220で言われるように「正常な、理解可能な」人物像として読み取ることができないか、具体的にはp374に見られるように「超人的」であることが要求される。これではとてもじゃないが「国民生活に根ざした」映画にはつながらない(p301)。

 当然このことに苦労したのが映画製作人側であったことは言うまでもない。国体の理想と実態の乖離はそのまま官僚と一般映画人が「同じ言語を話していない」ことと同義であり(p301)、常にその映画が検閲される立場にあった映画製作者側は、理想的な要求に沿った映画を作らなければならなかったが故に、「困惑を生み、困惑が不安を生む。そしてその不安が、さらにいっそうはっきりした統制を懇願させる」という悪循環も生むことになった(p302)。

 

・統制的イデオロギーとの根本的な矛盾について――「(文化的)包摂」をめぐる論点について

 一方でこの理念と実態の一致をそもそも志向しない分野もまた存在した。これは「日本人が描く外国人」という場面において露骨であったと本書は見ている。この一因として日本人の文化的貧困さに見出しているが(cf.p394)、それと同程度に観衆側の無関心さの影響の大きさも本書は一因と見ている(cf.p337)。

 「国体の本義」では日本(人)の優れた点として欧米の「対立的」構造ではなく、「包摂的」な性質があったと指摘された。文化受容についても日本は積極的に欧米文化を模倣し、近代化を行っていったこともその評価の根拠として語られていた。結論から言えば、「対立的」構造に乏しいという点では確かに正しい指摘である。しかし、これはどちらかと言えば、そのような差異に対して無頓着(更に悪く言えば、無知)であることを根源としているかのように本書では語られる。まさに日本人は「他者」を語ることについての方法論を欠落させていた。したがって、これがそのまま「包摂的」になることから離れた原因にもなったのである。

 これは結局日本映画においても、「包摂的」要素を欠落させる形で、例えば「勤労精神」と言ったものですべてを解決し、他国にもそれを波及させることこそ至上命題であるという見方を正当化した(p400)。すでにこのことは理念自体が崩壊したものとして把握すべき内容であろう。

 

 そして、この論点はそのまま「帝国主義」の正当化と何ら変わらない結果を生むことを意味していた。一つには被植民国に対するステレオタイプとして(p326-327)、又もう一つは日本文化の絶対的信仰とその波及として(p400)。このような議論について「国体の本義」では欧米的な二項図式論(そして、それは「個」の問題に還元して語られていた)として揶揄されていたものであったはずだが、結局映画という「現場」においてさえもこの考え方は理解されることなく、帝国主義的発想が支配することになるのであった。

 

 私自身はこのような議論とわか・こうじが語ったという事例(p439-440)との類似性を意識せずにはいられない。結局この上官もまた、「国体」を都合よく解釈することによって、「不可能を可能にすることが重要だ」という価値観に支配されていた。この「不可能を可能にすること」自体は極めてシンプルな「超克」の発想に基づくものであり、それは「国体の本義」とも部分的には合致していた。しかしこれは「国体の本義」そのものの表現では決してないのである。結局の所、「国体の本義」が抱えていた矛盾というのが、この上官には都合のいい部分だけを解釈・受容し、自らの権力行使にあたり断片的なものをわか・こうじに与えたという構図が出来上がっている。結局のところ、「国体の本義」のような聖典も現場の人間に都合よく解釈され、その権力行使の場で運用されていたという所が実態であったのではなかろうか。ここで重要なのは、いくら「理念」を語ったとしても、それが「実態」を意味する訳ではなく、かつ常にそれが「理念」とのズレを生じさせる可能性があるという問題である。「近代の超克」をめぐる議論で私が最も気に食わないのは、この議論が結局「超克」という「理念」に回収される言説であり、その過程で「実態」が不問に付せられることと、その状況が戦後の教育界における言説と極めて似た性質をもったものだと感じる点にある。「近代の超克が有効である」という主張に常に問わなければならないのは、このようなズレについてどのように問題に取り組むのかという観点ではないだろうか。

 

○敗戦に対し無反省であったのは何故か?——「日本人論」に対する反省の必要性について

本書ではこの無反省さについての問いについて、意味のある回答を与えている(p469)。このような連帯責任感が戦争責任について不問としたということは、かなりの部分真実であるように思える。これは、戦争責任論自体が極めて単純化された議論(例えば、統制に対する従属的態度そのものへの批判)と、それへの反発(愛国的であることの正当化)といった次元をなかなか出てこないことと無関係であるとも言えないだろう。本書が与える視点というのは、このような図式からは外れたものであり、極めて現実を直視することから問題点を抽出しようという観点は今後も行っていなかければならないだろうと思う。

 また戦争責任を不問にするという論理は、「戦争を体験していない」世代に対して何ら正当性がなく、むしろその世代に対して弊害となっていることに本書も目を向けている(cf.p472)。戦時中までの議論の回避と戦後の議論をあたかも別物として語ろうとする態度が無関係とは思えないし、むしろその連続性について注視すべきであると本書では強調されているが、これについては強く支持したい。

 私自身特に注視すべきと考えるのは「日本人論」における戦中戦後の連続性である。現在の日本人論は、あまりにも当時の言説と連続性があるにも関わらず、そこへの「創作性」について、つまり「ユニークであることを強調していること」について無頓着であり続けているように思える。これは欧米の研究者にとっては、あたりまえのように連続的な見方を行っているが(逆に過去の言説に引きずられ過ぎている可能性も否定できないが)、日本における日本人論はこの継承をほとんど行っていない(これは、日本人論を総括する立場で著されているはずの杉本・マオア「日本人は『日本的』か」(1982)や青木保「「日本文化論」の変容」(1990)などが戦後からの議論に留まっていることからも言えるだろう)。また、このような議論は80-90年代にかけて教育をめぐる議論にも大きな影響を与え、現在に至っていることも含め、「日本人論」の系譜について、それがいかに語られ、それがいかに国民性を語る上で正しい(実態のある)言説だったのかという問いは問われ続けなければならないものだろう。

 

<読書ノート>

P28「事件の首謀者であり、実際に犬養首相を撃った古賀中尉はその裁判で、五・一五事件の陰謀者たちは「破壊を第一に考え、決して建設という使命を実行しようなどと思っていなかった」と認めている。彼らは、陸軍大将荒木貞夫の助言に基づき、国民精神を見失わせる西洋化の「歪み」という分厚いベールを、「大和魂」によって払いのけなければならないと決意したのだった。すでに陸軍大臣であった荒木は、「これらの純粋で素朴な若者たち」の行動を褒めたたえ、「押さえきれない涙とともに」拍手喝采した。新聞やラジオで裁判の行方を見守った人々の多くもまた同様であった。

 荒木がまもなく「非常時日本」と呼ぶことになる新時代においては、直接的な行動が言論よりも勇ましいとされ、「誠実な信念」が若い熱狂的軍人たちの排他的特性となった。」

P29「明治時代以来の国民心理の構造に内在してきたものは、国家への奉仕に関しては「なぜと問うようなものではない」という確信である。徳川専制政治を倒し、平等社会の実現を夢見た坂本龍馬でさえ、疑いの余地なくこれを支持している。……文部省が「臣民の道」についての手引きを配布する一九四一年までに、個を滅して国家に仕えることが、日本国民の定義そのものとなっていた。……もちろん、どの「召集令もの」においても、召集される者の問題は、当局の何らかの代表者によって解決される。これは、国家がその国民を、慈悲深く親のような愛情で見守るというイメージを強調する。しかし同時に、実際には内在するジレンマを解決することがないので、国家への忠誠という、奥底にあるテーマまでぼんやりしたものになってしまう。そこに残されるのは、個人にとっての利益と国の規定する「臣民の道」との間の本質的矛盾である。」

 

P31「以上に述べたような映画は、超国家主義的で精神主義的なメッセージを表現していたが、それでは極右組織は、どれほどの影響力を直接的に映画産業に及ぼしていたのだろうか。五十年以上たった今でも、その答えは謎に包まれている。映画業界には、右翼にしても左翼にしても、有力なイデオローグはほとんど含まれていなかったので、業界内部からの、映画製作に対する純粋なイデオロギー的な直接の影響はおそらく無視してよいであろう。」

P34「「非常時」というキャッチ・フレーズは、時代の陳腐な決まり文句のひとつとして定着した。しかし、それはしばしばその本来の意図に反して使われた。「今、何時?」「非常時!」というだじゃれは、喫茶店などで広まったが、新時代に対する消極的な抵抗がうかがわせる。

 「非常時」は、すぐに商業主義によって横領され、内容のないものになってしまった。「非常時日本」を利用して、国内の物質的状況を改善しようというキャンペーンの一環として、滋養強壮飲料の広告が出回った。」

P35「牛島(※一水)は、ジャーナリスト、政治家、文芸運動家、右翼思想家を、何か得体の知れない大きな動物の正体をつかもうと一生懸命に手探りする盲人たちとして描いている。その巨大な羊のような動物には、「ファッショ」とラベルが貼られている。しかし、日本をむさぼり食おうとしている怪獣は、もちろん、ヨーロッパ的な意味でのファシズムではなく、日本的な意味での、軍国主義的官僚制だったのである。」

 

P43「とにかく、ナチス・モデルがいくら魅力的であっても、そのイデオロギーはほとんど日本の官僚の目的には役立たなかった。日本土着の思想は、しばしばまとめて「日本主義」と呼ばれ、個人と国家との間の家族的に密接な絆を強調し、必要とされるあらゆる道徳基準を提供していた。

 例えば、一九三四年のくだらない「ママーパパ」論争は、ナチスの人種・文化純化政策とは、ほとんど無関係であろう。同年八月二九日、文部大臣松田源治は、当時「ママーパパ」と言うようになった子供たちの新習慣を激しく非難した。」

P50「なぜ革新官僚は、批評の禁止というナチスの先例に従わなかったのか。その理由はおそらく、協力を確保するのに、はるかに確実な手段があったということであろう。その手段とはもちろん、不敗の「懇談会」戦法である。この手法は、他の分野の作家や芸術家には非常に有効だと、すでに判明していた。中心的批評家に対する御機嫌とりは、特高警察の手荒な戦術よりも、はるかに多くを成し遂げていたのである。批評家らは、内務省の丸テーブル、あるいは「料亭」に招かれ、たやすく協力的雰囲気に包まれていった。実際、誰がこのような「求愛」のもてなしに抗することができたであろう。

 太平洋戦争終結まで、映画雑誌は頻繁に、数人の批評家と政府、軍の官僚が出席する「座談会」を大きく取り上げた。そこで討議されたのは、批評家(ないし映画製作者)はいかにして国策への最良の貢献をなし得るか、についてであった。田中三郎や津村秀夫のような批評家は、政府に仕える公職の地位を与えると誘われさえしていた。」

P60-61「映画改革者帰山教正は、一九二九年の「映画の性的魅力」と題されたエッセイの中で、どういう基準で映画俳優が美しいと判定されるかについて書いている。その基準はすべて、伝統的な日本人の顔よりはむしろ、西洋人の顔に基づいている。……

 また映画法の時期は特に、学童が日本民族の神話的起源について『国体の本義』に基づいて教えられている時でもあったので、この「白人コンプレックス」は屈辱的遺産と考えられるようになっていた。一九四〇年ごろ、文部省映画改善委員斎藤昌は、もし日本人が映画に見る西洋人の肉体的特性を崇拝し続けるならば、「我々は永久に彼等の精神的植民地に終わるより他はない」と警告している。

 しかし、外国映画、とくにアメリカ映画を徹底して非難するための論理を構築することは、極端に根拠の弱い仕事である。まず第一に、日本映画界が西洋からこうむった歴史的な恩恵はいかに説明すればよいであろうか。」

 

P67「映画に関連する革新官僚の中で、最も多く筆により主張したのは不破祐俊である。……

 不破は、次のように述べている。「文化という言葉は、改良或は改善の能力をその中に含んでいるものを培い育て上げてその能力を完成させて行く、と言う意味をもっている。文化は絶えず進歩発展する。その進み行くときに我々は生き甲斐を感ずる。」

 ここで思い浮かべられる官僚像は「保守主義者」でもなく「国体の本義」の誠実な信奉者でもない。むしろ、社会を人間(特定すれば官僚自身)によって完成させることができると考える、楽観的な十八世紀合理主義者の像である。」

P67-68「後の章でも見るように、革新官僚の「健全なる娯楽」に対する要請は、映画監督、脚本家、撮影所長らをノイローゼ寸前まで追い込んだ。その原因は明らかである。映画製作者は気づて(※ママ)なかったが、官僚たちはこの「健全」を、一般に「娯楽」として受け取られているものとはほとんど正反対の概念として使っていたのである。」

P68-69「不破が次の一節で明らかにしているように、革新官僚の活動を決定する中心的概念は、十九世紀の保守主義者の「社会有機体説」ではなく、十八世紀の「機械論」を露骨に体現したものであった。「文化政策は国民文化の生まれる所のそれぞれの文化機構の整備が刻下の急務である。文化機構が整備されればボタン一つ押せばその機構が総動員してたちどころに文化動員の態勢となり、国家の意図する啓発宣伝政策が軌道に乗り得るわけである。」

 おそらく、この子供じみた単純な発想が、日本文化のファシズム化の二本柱である「精神総動員」と、情報局による「文化団体の再編成」の概念的な枠組みを用意したのであろう。」

 

P194「「ヒューマニズム」戦争映画は、兵士たちに備った「人間らしさ」を強調した上で自然に湧き上がる仲間同士の共感というかたちで彼らの「日本人らしさ」をも描き出していた。そこには、その「日本人らしさ」をめぐって何らかの緊張が感じられたり、それが要求する基準を満たすために何らかの内面的葛藤が見られることは決してなかった。それとは対照的に、精神主義映画は例外なく精神的葛藤のドラマであり、「日本人らしさ」が深刻に問題化されている。主人公は、「日本人らしさ」を生まれながらに備えているにもかかわらず、それを自分の生き方に具現するために、精神的葛藤に満ちた遍歴を経験しなければならないというパラドックスと格闘することになるのである。」

※例えば、大塚恭一は「我々は祖先の血を受け継いだ日本人である以上、そのために自分の中の日本的なものが亡びてしまったとは思えない。かえって日本的なものに対する愛着は色々な形となって自分の身内に湧き起こって来るのを感ずる。」と話したとし(p194)、長谷川如是閑は「西洋人が自分の歴史について語るとき、一定の客観的立場を取りながら、外国勢力の侵入、そしてその結果として民族の血の混合について触れる。それに対して日本人は、自国に歴史に対するときでも、自分の家系の先祖をたどるのと同じような、より主観的な態度でのぞむ。……したがって日本映画は、いかにその媒体が「近代化」されようとも、日本の「心」刻みつけられたメッセージを見失ってはならないし、この「心」は、母国語に宿る精神をも含んでいる。」という(p194-195)。

☆P220「あらゆる精神主義映画に共通する一つの欠点は、主人公を表面的な「立派さ」においてのみとらえることに終始しがちなことである。このことが、心理的内面へのすべてに入り口を遮断し、正常な、理解可能な動機に基づいてドラマを構成することを不可能にしてしまうのである。」

※実際に表現する立場にある映画界固有の問題点であるともいえる。

 

P259「秋の到来とともに、新体制の姿が浮き彫りになり始めた。その中心的なものが「大政翼賛会」で、これは、一〇月一二日に発足し、さまざまな奉仕団体の活動を通して、政府を支持するために国民の団結を促す公事結社であった。……国民は、このようなやり方はすでにあきあきしており、新体制に興味を示す者はほとんどいなかった。『文芸春秋』による一九四一年一一月の世論調査では、六百八十人のうち六百人までが、なんのことか事態を把握できていないという結果が出た。」

※この出典は文芸春秋そのものではなく、他著者の論文に拠っている。表現が漠然としているのはそのせいか。

P262懇談会(1938年7月30日)において映画脚本家に対しまとめた指針の一つに「家族体系や国家に対する自己犠牲に見られる「日本的精神」を讃えること」が挙げられる

P266「しかし、これらの新たな外国勢力の脅威や日常生活の一層の困窮化にもかかわらず、一般市民はあいかわらず、戦争はこれ以上拡大せず、最後の最後には何らかの妥協がはかられるだろうと信じていた。新聞でアメリカ映画がいかに批判されようとも、映画雑誌は依然としてハリウッドのゴシップを載せていたし、目に見えて減少してはいたものの、アメリカ映画はやはり上映され続けていた。」

※1941年の話をしている。

 

P301「「これからの映画」は、一九四一年五月に「国民映画」という公式名を与えられる。情報局によるこの新映画の定義は、混乱と不安を生じさせることを意図しているかのようである。「国民生活に根ざし、高邁なる国民的理想を顕現すると共に、深い芸術味を有し、ひいては国策遂行上、啓発宣伝に資する。」いったいどうやればこのような定義にのっとった映画をつくることができようか。恐ろしいほどの矛盾である。もし「国民生活に根ざし」た映画をつくるとすれば、政府規制により公然と攻撃されている松竹お得意の「小市民劇」とどこが違うのか。それに、「深い芸術味」とは何を意味するのだろうか。これも否定されてきたのではないのか?」

※「国民生活に根ざす」ことが期待されるのは、「高邁なる理想」を所与のものとして捉える態度は同じだろう。それこそが矛盾だといえる。

P301「官僚と一般映画人が同じ言語を話していないということはすぐさま明らかになったが、説明を求めるたびに返って来るのは、漠然とした崇高な激励の言葉だけであった。「我々は、国民全体に愛され、理解され、国民の気持ちを高揚し、国民にあらゆる障害や敵を克服する勇気を与え、希望ある健康生活を送らせ、健全なる思想という原動力を国民に吹き込む映画を期待しているのです。」」

P302「統制が困惑を生み、困惑が不安を生む。そしてその不安が、さらにいっそうはっきりした統制を懇願させる。これこそが、映画人を征服した心理的悪循環の正体だったのである。」

 

P326-327「他方、この映画(※「続・南の風」、1942)で戯画化されている東南アジア人が、西洋がさまざまな民族集団を描くために用いて来た、滑稽か、さもなくば邪悪というステレオタイプといかに類似しているかは、まさに驚きである。例えば斎藤達雄(シェン)(※シンガポール人)の出っ歯と卑屈さは、ハリウッド映画に出てくる「悪辣なジャップ」のイメージとほとんど同じである。……

 これらの(※シェンの)「子供っぽい」とか「嘘つき」という形容は、有名な人類学者マーガレット・ミードが、一九四四年一二月にニューヨークで行われた会議の報告で、日本文化をさして用いることになる言葉そのものであった。太平洋戦争中のアメリカでは、敵国人である日本人の性格を明らかにするために、擬似精神分析を用いるのがはやっていた。日本人の行動を、パラノイア、犯罪性向、尊大などと分析する者もいた。PsychoanalyticalReviewのある記事では、日本人男子の「現実を無視した幼児性」に注意が向けられた。言うまでもなく、これらの戦時中の「科学的発見」は、それまで長らく流布してきたステレオタイプ的な見方を、さらにいっそう固めるのに役立ったにすぎない。「子供っぽい」という表現は、十七世紀以来、インディアンや黒人に対して用いられた言葉であったが、ハリウッド映画の初期から、東洋人を形容する際には、それに「邪悪で不可解」という表現がつけ加えられた。

 したがって『南の風』は、西洋人は日本人を描くときの民族蔑視的な表現を、新たに占領した領土の人々に適用したものであった。」

※ジェフリー・ゴーラーなども擬似精神分析の典型論者。このような国民性論が、特に対外的なものとして語られる場合に、実体を伴わない「偏見のステレオタイプ」を表現したものに過ぎない、という典型例でもある。

P327「その後の太平洋戦争中の映画は、特に「ドキュメンタリー」的なアプローチを取ろうとするものは、占領地の民族と日本民族の間の「勤勉さ」の違いを基準にする傾向があった。例えば『ビルマ戦記』のナレーターは、こう語る。「暮らしが楽であった住民は、素直で、気楽な性質をもっているかわりに、一般に怠け者であり、ひたすらに来世の生活を信じて楽天的である。」しかし一方、「桃太郎・海の神兵」という漫画映画では、さまざまな種類の動物として描かれた島民が、日本軍の飛行場建設を手伝う際に大変な勤勉さを示し、面目を躍如としている。

 先駆者のヨーロッパ人たちと同じく、日本の植民地政策は、世界を文化の優劣という観点でとらえていた。」

※言うまでもなく桃太郎では、被植民地国の従順さに重きが置かれているということ。

 

P335「おそらく(※マレー戦記における)ドイツ映画にはけっして見られないシーンは、シンガポールの通りを進む戦車の凱旋パレードであろう。シンガポールの通りを進む戦車の凱旋パレードであろう。通り過ぎる各戦車のハッチから半身を出している乗員は首から白い布で包んだ箱を掛けている、彼らは、この戦闘で死んだ戦友の骨箱を下げているのである。「欧米人には恐らく奇異の感を誘う」という津村の言葉は正しい。」

P337「日本の観客が、政府の「大東亜共栄圏」政策の「民衆解放」を謳うレトリックには全く感動しなかったこともあって、映画は失敗作となった。観客の関心は、日本軍の行動と、西洋勢力に対する日本軍の優秀性の誇示に集中していた。超国家主義と人種的ナルシシズムの時代に、外国国民の政治的独立の成否など一般の観客にはまったくどうでもよかったのであろう。」

※大衆的にどうでもよくても、プロパガンダ映画としては必要な要素だったともいえる。なお、本映画(ビルマ戦記)の不人気さの指摘は1942年に作られた45本の映画で36位だったという事実に基づく(p336)。対してマレー戦記は一位だった。

P360「英米の映画もたいてい、勇気をもって耐えることと、ささやかではあっても自分の責任を果たすことをテーマとしている。しかし、強力なボランティア精神の存在にもかかわらず、戦争遂行のための市民の団結は、あくまでもゲゼルシャフトの次元に留まっている。他方、銃後の増産努力を描く日本の精神主義映画に支配的なコンテクストは、一種のゲマインシャフトである。個人と国家、市民と兵士、平和と戦争、そして、まさに生と死さえ切れ目のないものとして繋がっているのである。

 精神主義の戦争映画では、戦争活劇映画とは違って、敵は、それがいかに卑劣な存在として描かれていようとも、中心主題には関係がない。戦争とは精神を鍛える場所であって、敵とは、己の内に住む猜疑心や快楽を求める心などの、戦意を弱める気持ちである。外敵に重点を置くことは精神的な集中を乱すことに他ならない。したがって、被害妄想的なスパイなどの形を取って、敵が重要人物として登場する敵愾心映画は、数段低いジャンルに属するとみなされた。」

 

P370「他方、上述の将校の言葉にある新しい没個人的な戦争においては、武士道的な英雄主義は格下げされて、新型の集団的英雄主義が前面に押し出された。これは教科書政策上の編集方針の変化を反映している。一九三四年に行われた国語教科書の改訂により、「勇気」にかわって「忠義」が兵士や市民の最高の美徳の座についたのである。教科書は、国民の「共通の知識」の中で、国家が直接に操作できる部分であった。実際に国家は、教科書を改訂することによって国民の「共通の知識」を書き換えてきた。一九〇四年から四三年の間に、五回の改訂が行われた。一九三二年までは軍国主義教育の教材は、もっぱら際立った個人とその偉業の話であった。しかしその後は、偉業が語られることはあっても、行為者の名は「ある兵士」として伏せられることが多くなった。手柄は個人から、顔のない集団全体のものに変わって行ったのである。偉大な行為は集団の結束した努力によってこそ可能になると強調された。一九四三年の第五期の教師用指導参考書は、この点に関して詳しく記述している。すなわち、真珠湾攻撃の際に戦死して国民的英雄となった九人の潜水艦乗組員についての話を新しく挿入する意義を説明し、その目的は、九人の軍神を取り上げられながらも、個人的な勇気ではなく協力の本質を教えることであるとしている。」

P374「この教義では、兵士にとっての人間の真髄とは、日本人であれば生まれつき持っている「大和魂」である。各人の私的存在は、迷い以外の何ものでもない。『海軍』では、予科練の士官の一人が、自分の訓練生に向かって言う。「お前たちには、手も足もない。困難と苦労は、自分を自分とみなす心の所産に過ぎない。」軍神としての「不死」とは、実際には、あらゆる個性の消滅であり、非個人的抽象との完全な同一化のことなのである。死ぬことによってしか、人はその抽象を現実に転換することはできない。」

P376「実際の製作用として最終的に選ばれた脚本の多くには、急激に上げられてゆくノルマを不服とする労働者たちが扱われていた。決まって主人公は、自己犠牲的英雄行為か超人的努力によってこの抵抗を克服し、肉体的疲労や過剰使用の機械類の故障といった日常的な問題が精神力によって解決できることを労働者たちに証明して見せる。ここには、全国の工場で労働意欲がたえず減退しつつあり、この危機的状況が生産性を鈍らせ、戦略的に重要な兵器の品質にも影響していたことが反映されている。」

 

P387「不破祐俊と他の革新官僚らは、三〇年代の末から、時代劇を史実に基づいた「歴史映画」に変身させることを要求していた。映画業界は、これに真剣に取り組み、この理想に沿って多くの作品を生み出した。……しかしながら、これらの作品はすべて、日本史上の出来事しか扱っていなかった。しかし太平洋戦争の中期になると、日本の外で起きた歴史的進展を描くことが、映画製作者の責任として要求されるようになった。この結果、敵愾心喚起のための宣伝材料を西洋諸国のアジア侵略の歴史に求めた映画が、多数制作された。

 荒井良平のスペクタクル『海の豪族』(日活、一九四二年一〇月)は、この種の最初のものであった。……興行的にはかなりの成功を収めたが、ほとんどの批評家はあざ笑うか、まったく無視するかであった。飯島正の映画評は一行足らずだった。「ただただ滑稽である。」

P394「杉浦のコメントは、無意識のうちに敵愾歴史映画の最大の弱点をさらけだしてしまっている。つまり、これらの映画は時代劇メンタリティーの所産だということである。歴史映画に託された二つの宣伝機能は、(1)一般大衆に、日本と西洋列強との間の「多次元的」(政治的、文化的、思想的、軍事的)な摩擦の歴史的文脈を示すこと、(2)うまくいけば、いっそうの戦争協力につながり得る敵愾心を民心に起こさせること、であった。

 制作された歴史映画は両方の点においてーー少なくとも部分的にはーー失敗したが、その原因の大部分は、この使命を任された脚本家と監督がB級時代劇映画の単純な物語展開という因習から自らを解放することができなかったことにある。時代劇は、個人的復讐の物語として本質的に非歴史的であり、異なる思想体系ないし政治制度の間の弁証法的な対決という概念をまったく持っていないのである。

 行動規範の間の衝突もまた存在しない。明確に存在するのは唯一、武士という行動規範のみであり、この規範を維持しようとする者と、それを無視するか意識的に壊そうとする者との間にある衝突のみである。」

 

P400「南方の未開の地域に対する日本政府の政策は、できるかぎり日本的精神をたたき込むというものであり、それは、日本的で「勤労精神」のよってのみ彼らにも進歩が可能になるという仮説に基づいていた。フィリピン、インドネシア、その他の東南アジア諸国でも、この政策は真剣に推し進められた。日本語を普及させようという一斉努力は、日本文化の導入をより容易にするためでもあり、最終的には日本文化、つまり、日本民族のみが盟主であるという価値観を植えつけることを目指していたのである。同様に、立花夫妻の文化的ナルシシズムも、当時の「インテリ」向けの雑誌ならどこにでも載っていたような、定説を反映したものに過ぎない。極端ではあるが、十分に定型的な例が、志村陸城の論文の「大東亜秩序の原則」という一節に見られる。「世界の全ての業績――人類営々の努力の帰向点はわが日本の国体を中核とする真底の文化にあること、世界文化史の終局的な満足点はこの日本にこそあること、それを極め尽くしたる自信がなくして対外政策は考えることが出来ぬのである。」」

如実に出てくる帝国主義的思想。「解放」映画というジャンルの話だが、「「解放」映画の驚くべき特徴のひとつは、「解放」される地域の土着文化に関心がほとんど払われていないことである。」(p397)とも言われる。

P417「対照的に、太平洋戦争期の日本では、陸上の実践における自国の歩兵たちの試練や奮闘を扱った映画はごく少数だった。……その上、ストーリーラインも古い話の繰り返しであり、強調されるメッセージは単調な決まりきったものであった。すなわち、(1)日本の兵士は戦闘において勇敢であり、効果的な働きをする。(2)敵兵は、戦うよりも敗走する腰抜けの臆病者である。」

※娯楽としての消費以上のものでなかった、という見方もできる。

 

P430-431「一九四四年の半ばまでには、映画批評そのものも息を秘め、各映画の粗筋の紹介に、国策目的のごく簡略な説明を加えただけのものになっていた。また、一九四四年の春以後、映画雑誌は、映画とはまったく無関係の記事も掲載せねばならず、国家防衛の仕組みや軍需物資生産における生産力増強について紙面を割かざるを得なくなった。」

P439-440「この時代の精神的異常さを物語る例として、名古屋在住の現役の弁士わか・こうじ氏は、次のような実話を語ってくれた。

一九四五年一月に、わか・こうじは九州中部の都城陸軍特攻隊基地に技術部門一等兵として現役招集された。ある日、南方の基地から未現像のままのニュースフィルムが届いた。上官は彼に、「すぐ現像せよ」と命令した。「しかし、この基地には現像する設備は何もないからできません」と答えると、上官は、「わが帝国の航空隊は天皇陛下のものであって、不可能はないはずだ。何とかしろ」と再度命令した。わかは考えた末に、たくあんをつくるための樽を使って現像した。質のよい現像ができなかったことは言うまでもない。何百フィートもの現像されたフィルムを兵舎でのばして、扇いで乾かした。腕は、付着した酸であちこちがかゆくなり、掻くと血がにじみ出た。次に出された命令は、「試写しろ」であった。「ネガを試写したら、キズがついておしまいですよ」と反対すると、上官は激怒し、「お前は、態度が大きい。不可能はない」と言って、靴で顔面をなぐられ、一時間くらい気絶していた。そのときの傷は今も残っているという。意識が戻ると、上官は、「どうしても試写しろ」と再度命令した。上映会が行われたが、現像状態が悪かったので、映像全体が茶色っぽく見えた。それでも上官は、現像と試写に成功したことを喜んだ。上官は「できない、できないと言ったのに、できたじゃないか」と格別に満足した様子であった。この作業に成功したことで、わかは賞金三十円と一週間の休暇を褒美として与えられた。

 上官がこれほど満足したというのも、やはり、精神主義が本当に効力を発揮することを証明できた、という点にあったのである。」

※「超克」の意味を考えさせられる。

 

P456「政府も、それなりの対策を用意していた。「憤慨」「決心」「忍耐」などの用語を連発しつつも、数年前からの厳しい緊縮規制のいくつかを和らげることに着手したのである。映画業界は、この政策転換の恩恵を被った主要な領域のひとつであった。一月二三日、急速に悪化する戦況のもとで劇映画の生産継続に対する政府援助に関する議題が阿子島議員によって予算会議にかけられた。」

P458「一九四五年には、三本ものあたらしい喜劇映画が作られた。三本とも東京空襲も開始以前に制作に入っていたが、これらが次々と封切りされたことからも、政府が捜し求めていた「精神対策」に、恰好の手段であったことがうかがえる。」

P465「天皇の演説の直後、内務省は全国の映画館に一週間、閉館するよう命じた。東京の街路では、至るところに混乱が見られた。皇居の前では自殺が相次ぎ、絶対不服従を主張する青年将校たちは上官を殺害した。厚木航空隊の飛行機が空から町中にビラを巻いて、戦争継続を訴えた。降伏反対派によって捏造されたと思われるうわさが広まったが、それは、日本人男子はすべて去勢され、女子は売春を強要されるというものであった。五歳以下の子供は、アメリカ人が軍用犬のえさにするから、絶対に見つからないよう隠しておかなければならないというものもあった。」

 

P469「戦後の世代は、十五年戦争期の映画業界における個人の責任が一度も徹底的に追求されたことがないのはなぜだろうかと、しばしば不思議に思う。答えの一端は、きっと、全日本映画従業員同盟が、一九四五年一二月に東宝で催した会議の席上、この問題が初めて(かつ、最後に)公に提起されたときにもち上がった、論理的ジレンマの中に見出されるだろう。……そのとき、一九四四年に文化映画『大いなる翼』を監督した関川秀雄が、「戦争中みんな何等かの形で、大なり小なり戦争に加担したんだ」ということと、宮島自身、阿部豊の『あの旗を撃て』カメラマンであったことを指摘して、これに反論した。……だれもが幾分かは「罪」を共有している以上、他者を糾弾する権利はだれにもなかった。……

 業界内の者たちがこの問題の口火を切ることはできないとしたら、映画評論家はどうだろう。……しかしここでも、同じ論理的ジレンマが沈黙を強いていた。津村秀夫は、これまでに見てきたように、軍国主義国家の映画政策の形成に深く関与し、戦争の終盤には、敵愾心昂揚映画の熱烈な提唱者に転じていた。飯島正は、大日本映画協会に公的な関係にあり、『君と僕』の脚本に協力し、さらにもう一つ、戦争宣伝映画用に脚本を書いた。……これらの活動の多くは、戦時下の必要に迫られた自然な反応と説明することも出来ただろう。しかし、批評家たちは、自分たちも「お前だって……」という追及から逃れることはできないと感じた。」

※しかし、これはどこまでも同年代の者同士の議論の中でしか成立しない議論であり、自己内省に乏しかった点についての弁解にはならないだろう。

P472「長州藩士も映画人も、大きな歴史的断絶の時代に生きた。あまりに大変動のために、その前と後とでは連続性が見出しにくいほどである。実際、過去はあらゆる価値を失い、ただひとつ残ったのは、墨で黒く塗りつぶされた教科書のように、否定されなければならない負の教訓のみであった。そして新時代は、過去を「うそ」としてあまりにも完全に拒絶してしまったために、その誕生の時点から深奥に疵を持つことになったのである。この事実の認識こそが、伊丹万作をして、次のように言わせたに違いない。「『だまだれていた』といって平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。いや、現在もすでに別のうそによってだまされ始めているに違いないのである。」

 この本を書き進めていくうちに次第に明らかになって来たことは、伊丹のこの指摘の正しさである。その「うそ」中でも一番大きいものは、戦前、戦後という言葉が歴史上に実在する断絶を表しているという考えである。それは錯覚にすぎない。実際には断絶したものより、持続して来たものの方がはるかに多い。その代表的なものの一つとして、「官僚」がある。自分たちを、国民と国民によって選ばれた政治家を超越する存在と考えている官僚たちによって、支配され操られ続けている日本の現状は、戦前となんら変わるところがない。」

※これは、あらゆる日本人論に対しても、ほとんど真理でありうる。つまり、それは戦争を介して捏造された国民性論が残存し続けたものであるという可能性が常にあるということである。

本人は『日本的』か」(1982)や青木保「「日本文化論」の変容」(1990)などが戦後からの議論に留まっていることからも言えるだろう)。また、このような議論は80-90年代にかけて教育をめぐる議論にも大きな影響を与え、現在に至っていることも含め、「日本人論」の系譜について、それがいかに語られ、それがいかに国民性を語る上で正し言説なのかという問いは問われ続けなければならないものだろう。

 

<読書ノート>