「進歩的文化人」とは何なのか―竹内洋「革新幻想の戦後史」再訪

 前回のレビューで苅谷の指摘した「進歩的知識人」というのは一体どのようなものを想定しているのか、竹内洋が「革新幻想の戦後史」などで述べていた「進歩的文化人」とは違うのではないのか、と指摘した。今回はこの「進歩的文化人」を「革新幻想の戦後史」の再読などを通して、その性質を考察したい。

 結論としてはやはり苅谷のこの進歩的知識人なる表現は、竹内のいう進歩的文化人とは異なる意味合い、かつ歴史的には誤った意味合いで語られていると考えるべきだと思われる。竹内洋のいう「進歩的文化人」は福田恆存の議論にもかなり影響を受けているようなのでそちらも参照すべきかと思うが、まだそちらは十分に検討できていない。ただ、私が竹内の議論を読み取った内容からは、これまでの「進歩的文化人」という議論は次のような3つの関連した要素を含んだものであったように思える。

 

(1)脱政治的であること

 

 まず押さえるべきことして、進歩的文化人という言葉自体が、タテマエとしては特定の政党(思想)に与せずにいる立場にいる者であることを意味していた点がある。

 

「「知識人」という用語も「文化人」と同じく、「知識階級」という言葉の左翼臭を脱臭した中立語として使用されるようになったのだろうと考えられる。「知識人」のほうは、「文化人」とちがって、インテリゲンチャの訳語である知識階級に近いから、文化人と知識階級の間をとった用語である。左翼臭がもっとも強いのが「知識階級」、もっとも弱いのが「文化人」、中間が「知識人」だったことになる。」(竹内洋「革新幻想の戦後史」2011,p263-264)

「丸山は反体制気分に傾きやすい青年や知識人に、共産党共産主義に代わるもう一つの「進歩」と社会変革の可能性を鮮やかに示した。丸山晩年の言葉を借りれば、「本当の社会主義」を含んだ民主主義である。多くの読者は、共産主義を信奉したり、共産党員にならなくとも、政治的に進歩的であり、良心的たりうる保証を、西欧的な学識と教養にあふれた東大教授と岩波書店から受け取ることができた。あるいは、共産主義共産党以上に、真に進歩的であり、良心的であるという自信と誇りを手にすることも可能だった。」(同上、p319、水谷三公丸山真男――ある時代の肖像」からの引用)

 

 一方で、福田恆存の定義には、これがあくまでタテマエに過ぎず、「日本が共産主義体制になる事を好まない人でも、結果としてはさうなる事に、少なくともさうなる可能性を助長する様な事に手を貸してゐる」人であるという位置づけがなされていた(竹内2011,p492)。これは、私が以前「『親方日の丸』の研究」の記事で、(竹内も含め、一般的に「進歩的文化人」と認められている)矢川徳光を取りあげた際に、自らの主張する「総合技術教育」と共産主義教育が実質的に同じものであることを認めていることにも同じ事情を認めることができる(cf.技術教育研究会「総合技術教育と現代日本の民主教育」1974,p120)。

 これと同様に、谷沢永一などは、進歩的文化人的言説のルーツを大塚久雄に求め、彼の言説が「本音」を述べようとしないことについて、次のように指摘している。

 

大塚久雄における言論活動を瞭然と特徴づける第一の志向はこうです。

 つまり、どんなことがあってもけっして本音を吐かないほのめかしを主とする朧ろ語法の活用です。自分の心底おくふかくにしまいこんである正味の考えを、あからさまな定言命題のはっきりした用語をもって表現する直面の言立てを慎重に避けます。社会主義者であり共産主義者である内実は、仲間同士の頷きあいと目配せによる交流の場合にのみ、気は許して多少は露呈しますが、そういう正直な無礼講の機会はあまり多くなかったようです。

 一般世間に顔出しするときには紳士的な居住いを正し、社会主義者であり共産主義者である厳ついご面相を露呈しないために、近代主義者の仮面をかぶり、自由主義者の衣裳をこれ見よがしにまといます。日本を社会主義化しようなんて無作法な直接話法をもって突出したりせず、社会構造の発展段階について考えてみよう、という風な思い入れの姿勢をとります。」(谷沢永一「悪魔の思想」1996、p292)

 

 このこと自体も、日教組などの組織の状況などを考えると部分的に当てはまるかのような印象も感じられる、という意味では苅谷の想定していることも、この側面からは間違っていないように思える。他方で、このようなタテマエにホンネがあるかについて、全ての進歩的文化人と呼ばれた者達に対して妥当するかどうかは微妙である。例えば、松下圭一を仮に「進歩的文化人」であると認めるのであれば、彼は明らかにこのようなタテマエとホンネの論理を持ち合わせてはいない。彼の場合はむしろ「否定的な価値=封建的(権威的)な日本の否定」ありきになり、それ以外の肯定的価値観について無頓着でいるという表現の方が正しいように思える。だからこそいともたやすく新自由主義的価値観との共犯関係を持つことになったのである。

 

(2)価値のある「進歩的なるもの」を提示すること

 

「実際、一九四九年に書かれた「岩波新書の再出発に際して」には、「封建的文化のくびきを投げすてるとともに、日本の進歩的文化遺産を蘇らせて国民的誇りを取りもどすこと」とある。左派知識人やシンパによって「進歩的文化」は目指すべき文化だった。」(竹内2011、p266)

 

 先述のように、進歩的文化人が批判を行っていたのは封建的なものであった訳であり、その意味で一見「新しい」ものを提示しそれを目指すための立場に立つのが進歩的文化人であった。しかし、ここでいう「進歩的」であることは、少なくとも苅谷が述べたような「西欧的な価値観」と同義であったかと問えば、ほぼ間違いであると言う他ない。

 俗流の日本人論に立てば、松下がそうであったように、「封建的な日本」について批判をし、近代的価値観としての自治(主体性)を求めることが革新的であったかのように思える。しかし、進歩的文化人と呼ばれている論者が参照していたのは、ソ連や中国であった場合も多く、「共産主義社会主義」が近代的であったのかという疑問が出てくる。少なくともこれまで私のレビューで繰り返してきた日本人論的な「近代=欧米的価値観」とは異なるものを志向していたものであったといえるだろう。

 最近読んだもので言えば、例えば教育史の分野で知られる中野光のこの語り口は、進歩的文化人が取った「近代」への懐疑について、適切に言い当てているのではないかと思える。

 

「歴史における「近代」は果たして人間を幸福にしたのだろうか。公教育制度というものが成立し、すべての子どもが学校教育をうけるという事実がつくり出されたのはたしかに「近代」においてであった。それは封建社会における身分的差別や抑圧から人間を解放し、新しい資本主義的社会に生きるにふさわしい能力をつける「自由」を与えた。そして、万人が科学的知識や技術を身につけたとき、人間の社会はかぎりなく進歩・発展していくことができるにちがいない、との希望さえいだかせた。……人間の無限の発達可能性にも信頼をよせたのだった。しかし、現実はどうだったのか。

十九世紀の後半、近代化の波がせきをきって押しよせた日本は、形のうえでは近代的公教育制度をつくりあげていったが、そこでの教育は、コメニウスやコンドルセが期待したものとは全くちがったものであった。公教育はひとりひとりの人間の発達可能性を追求したのではなく、天皇を主権者とする軍事強国の「臣民」形成に奉仕させられた。そのような政策に抗し、臣民形成の基本路線に修正を加えようとする運動や実践が展開されはしたものの、結果的にはファッシズム的権力によって弾圧され、侵略戦争はすべての国民を動員していったのであった。だから、「近代」への懐疑は、まずそれが人類を破滅に導きかねない戦争を否定する思想、価値観、そして行動を発展させないかぎり、ぬぐい去るわけにはいかない。」(中野光編「講座日本の学力1 教育の現代史」1979、p428)

「戦後の日本国憲法教育基本法は教育を通して実現する価値を「平和」に求めたかぎり「近代」概念を改めてかがやかしいものにした、といってよかった。戦後教育改革は、しばしば教育における「封建的なもの」の払拭=近代化ととらえられたことは戦後史を自覚的に生きてきた人々の知るところである。しかし、そのような立場に立つだけでは歴史的真実の全体は見えなかった。だいいち「近代」は多くのヨーロッパ諸国民やアメリカ人にとっては歴史の夜明けだったかもしれないが、植民地住民および本国の労農階級にとってはぎゃくに新しい闇の時代到来だったのだ。戦後の日本人の多くは「近代」の表面のかがやかしさに眼をうばわれて、いわばその裏側をみることができなかった。たとえば、朝鮮認識のたちおくれなどはその具体的な証拠である。アメリカ軍政下にある沖縄への関心が深まったのもやっと戦後数十年たった一九六〇年代であったことなどは、近代化=進歩ととらえる人間がいかにめしいたものであるかを物語る、といえよう。」(同上、p429)

「いったい「近代」教育はいつ、どのようにして、荒廃ないし危機をうみ出してしまったのだろうか。今日、私たちは、そのような根源的な問いを発しなければなるまい。だから、私たちは明治以降の教育のあしどりを決して「近代化」の一直線としてたどるわけにはいかなかったのだ。本巻をあえて「教育の現代史」としたのも教育史における「近代」をいま改めて疑い、そこにおける継承・発展すべき遺産を見定めると同時に、否定・克服の対象とすべき課題をあきらかにしたかったからである。だから、ここで「近代」と区別された「現代」という概念には、「近代」がうみ出した矛盾を止揚し、新しい歴史の時代を創り出さねばならない主体的な願いがこめられていたわけだった。教育における「現代」を日本の子どもと青年にとって真に生きがいのあるものにしていくためには、そのような立場からの研究を、現実的課題とかかわらせながら推しすすめていかねばならない。」(同上、p430)

 

 まず、この引用で確認できるのは、西欧的な意味での「近代」観というのが批判の対象となっていること、またその「近代」観というのが、戦前、明治以降の日本の歴史からみた場合の「近代」化について言っていることである。またここで厄介なのは、「進歩的」であること自体もまた批判の対象にされているということである。この場合、中野が「進歩的文化人」の立場からこの批判を行っているのかと問えば、NOと答えるほかないだろう。

 他方で中野は「現代」という名をもって「近代」を超克しようとする試みの重要性についても言及する(※1)。この態度について、欧米的ではない別の「近代」を目指す試みであると評するのは容易であろう。そもそもこのような「現代」への止揚が不可能であれば、「近代」が存在し続けるだけであり、ある「近代」が別の「近代」にとって代わるだけの話だからである。合わせて、このような漠然とした「現代」への言及というのは単に具体的な志向がないという評価ができるようにも思える。竹内は進歩的文化人が自身の批判に対して自覚的になれないことを指摘していたが(竹内2011,p317-318)、これも本質的にはここで「近代の超克」の態度をとっていることに起因していると言うべきだろう。「進歩的」という意味合いは、進歩的文化人が超克を目指すにあたり批判を行うことで、その意味をくみかえてしまうのだが、その事実を認めない、もしくは「何も志向していない」が故に、「何らかの志向をしている」という批判が無視されるということが原因なのではないのか、と思われるのである。

 

 更に、この「進歩的なるもの」を考える上で無視できないのは、「進歩的」であることそのもののイメージであった点である。

 

「「革新」はイデオロギー以前に進歩的だとかハイカラだとかスマートであるというイメージの魅力により支持されることが多かった。いまでは考えにくいことだが、一九六〇年代前半までの革新支持の空気はそのようなものだった。この大衆モダニズムと革新支持の親和関係は、若い世代や高学歴インテリにとくに見られたもので、年長世代や自営業などの伝統的職業従事者には、モダニズムと逆の伝統主義が根強かったことについても前節でふれてきた。根強い伝統主義を背景にして、大衆モダニズムは新鮮な対抗思想たりえたとも言える。」(竹内2011, P493)

 

 このような「大衆モダニズム」について、安易に日本人論的な「近代」と同一視されるべきではないし、これを同一視してしまうこと自体が、「進歩的文化人」の性質そのものの見落としになりかねない。例えば谷沢永一も終始進歩的文化人をほぼ「反日的日本人」という言葉と同義で議論している(cf.谷沢1996,p17)。これは当然進歩的文化人がえてして「止揚」の発想に立っていたから、現状を基本的に批判するという意味では正しい。しかし、それが全てであったかどうかは別途実証的に議論すべきである。むしろ竹内の引用のとおり「日本の進歩的文化遺産を蘇らせて国民的誇りを取りもどすこと」といった表現によっても「進歩的であること」が解されていたのであれば、それはむしろ真の意味で「日本的」でさえありえるかもしれない。ここでもやはり安直な日本人論に還元して「進歩的文化人」の議論を行うことはその性質の捉え損ねになるように思える。

 

(3)「大衆」理論の先導役であったこと

 

 竹内は、福田の引用も行いつつ、「大衆に応える」発言を行うような存在について進歩的文化人を捉える。

 

「帰り道、そんなことを思い浮かべながら、いま進歩的文化人はどこにいるのか、と考えてみた。そう、進歩的文化人の後裔はキャスターやワイドショーのコメンテーターではないか……。福田恆存は「平和論の進め方についての疑問」のなかで「文化人」をこう定義していた。「意見をきかれる資格ありと見なされてゐる人種であり、また当の本人もいつのまにか何事につけてもつねに意見を用意してゐて、問はれるままに、ときには問はれぬうちに、うかうかといい気になつてそれを口にする人種」。」(竹内2011、p305)

「いや内容の質の悪さよりももっとたちが悪いところがある。そもそもなにを言うかの定見をもって臨んでいるようには思われない。こう言えば、視聴者という下流大衆が納得するだろうとか、受けるだろうとか、空気を読んでコメントを言うことにある。こうしたコードこそコメンテーター文化人の最大の問題であろう。ところがそうしたコードにもとづくコメントが逆流して下流大衆の世論=空気にお墨付きを与え、あるいは、範型となって下流大衆世論が再生産されるのである。」(同上、p306)

 

 これもある意味で納得いく点である。「進歩的文化人―学者先生戦前戦後言質集」という著書があるように、進歩的文化人と呼ばれた者の多くは、戦中では熱心に日本の戦争を肯定し、翼賛体制の支持者でもあった。このことについて長浜功は全くそのような真逆の思想の転向について「反省」などしないまま、更にはそれを隠蔽し行われたことについて非難したのであった(「教育の戦争責任」1979)。

 このような「大衆受け」のよい理論を展開することは、「体制批判」という批判的言説とも相性がよい。結局自らの肯定的価値観について特に言及せずとも、そのような「大衆受け」の理論は展開可能だからである。もっとも、その理論が理論として成立しているのかは議論せねばならない所であるが。

 ただ、他方で竹内はこのような「大衆受け」について、文字通り「大衆=一般的な者」と捉えてしまったことで、大衆を捉え損ねていると、過去の竹内のレビューで私は批判したのも事実である。つまり、私自身はここでいう「大衆=一般的な者」という図式はあまり正しいとは考えていない。但し、それは一定の勢力、一種の「権力」を行使することが可能な程度には「大衆」を表現できるレベルのものではあるとはいえるだろう。まさにこのような「大衆」観と関連していたのがしばしば過度に一般化されてしまう「社会問題」、特に教育について言えば「教育病理」という枠組みでもあった。

 

 さて、以上のような「進歩的文化人」の性質を押さえた上で苅谷の指摘した議論を考えると、「進歩的文化人」が提示しているように見える「個性」というのはある意味で歪んだものであり、むしろ、「進歩」という言葉に示されていたのは、「民主主義」という言葉で説明されるべきものであったように思う。そして、そのような「民主主義」観について考えた場合、松下圭一については、典型的な「進歩的文化人」の位置付けであったといえるのではないのか、という見方が更に強まる。松下が革新勢力から手を引いたのは、特に政治的な意味においてであり、それは同時に「文化人」としての位置付けを強めるものでさえあったといえる。そして「民主主義」に与えていた意味合いというのは、極めて歪んだ形で示されたいたがゆえに、晩年の言説においてその矛盾を「民衆」や「理論家」に責任転嫁するかのように展開していったのではないのか、という見方ができる。もっとも、このような松下を進歩的文化人の系譜に位置付けたとして、それが連続的な思想のもとにあったのかはやはり疑問が残り、今後の検討課題として残る。

 

 一方でこのような進歩的文化人の系譜が苅谷の議論における「個性」重視の教育改革の動きと無関係であったとも言い難い。ではこれはどのように結びついていると考えるべきなのか。これも松下の議論に関連させてしまえば、過去の松下の「理論」の達成のために棚上げにされた形で示されることとなる民衆の「成熟」をもって、積極的に個々人に働きかける(教育する)ことが回避されたような形での個の尊重はありえたかもしれない。しかし、これが「個性」重視とは程遠く、また子どもに対しては松下もやはり歪んだ形で「教育」されるべきものとして位置付いていた。言い換えれば消極的には「個性」に関連したが、積極的には「個性」に加担していなかったのである。

 とすれば、次に考えられるのは、むしろ体制側が進歩的文化人的な意味での消極的な「個性」を拾い上げる形で、更にはそのレトリックを活用する形で、結果的に革新勢力の批判を封じ込める形で「個性」について強調した可能性である。もっともこの見方は擬制的である可能性は高く、実際の教育改革は、「個性」を否定しようとした日本的な「教育病理問題」に対する処方箋を唱えていたのであり、むしろこの「教育病理問題」における体制と革新側の認識の一致が大きな意味を持っていたように思える。この「教育病理」の言説がいかに語られていたのかというのは、今後もう少し丁寧に考察してみたいと思う。

 

(2020年8月29日追記)

※1 このような「現代」と「近代」の対比は中野光だけでなく、持田栄一も行っているのがわかったので紹介しておく。

 「近代」における「家庭教育中心主義」の底流には、すでにのべたように人間存在と教育を本来、私的個人的なものとしてとらえる思想とともに、「家庭」をもって、社会の矛盾から隔離された「自由の砦」だとする考え方がみられる。しかし、そのような「近代」における家庭観は全くのフィクションであり、「家庭」は「自由の砦」どころか、現実には、労働力の再生産を担う社会機構の一環として現存している。……

 「現代」における教育改革とかかわって家庭教育のあり方を問いかえそうとするとき、われわれは、現在、家庭教育が以上のような現実から出発し、そこにおける疎外を恢復することに焦点をおかなければならない。このような観点に立って、「現代」における家庭教育のあり方を眺めた場合、それを「共同化」し「集団化」していくことが必須の課題となる。「家庭教育」が重要であることは、今日においても異なるところはないが、それを親個人が私的にかかえこんでいたのではことはすすまない。子どもが、もともと社会的存在であってみれば、かれ等の家庭における教育のあり方も、共通の「ひろば」――社会共同の場においてたかめられるべきであろう。(持田栄一編「教育変革への視座」1973、p80‐81)

 ここで近代についての評価が土居健郎と一致していることにも注目すべきだろう。ただ土居の場合はその解決策について何ら提示がなかった訳だが、持田の場合は、やはり「共同化」「集団化」という形で個である状態を止揚しようとしているのである。いくら少なく見積もっても70年代においては、進歩的文化人と呼びうる論者の議論というのが明らかに「個の思想」を追求していたとは言い難く、むしろその否定にはじまっているのである。