佐藤忠男「草の根の軍国主義」(2007)

 今回は日本人論の議論の一環で佐藤忠男を取り上げたい。

 本書の中心的な議論は日本人の心性における「忠臣蔵」の影響力についてである。これは「忠臣蔵-意地の系譜」(1976)という著書でも基本的に同じ議論をしているので、適宜そちらも取り上げながら佐藤の日本人論を検討してみるが、本書でも「日本人にとっての聖書」とさえ述べる位重要性をもったものと認識している(p224)。

 1930年生まれの佐藤の問いというのは、あれほど戦時期に「鬼畜米英」などという言葉で対抗的であったアメリカに対し、何故敗戦するとまるで何もなかったかのように振舞えたのかというものであった(cf.p164-165)。これは、戦時期に学校教育を受け、優等生的な軍国少年であろうとした佐藤自身の実感としてもあったものであり、自身に対する問いでもある。

 この問いに対して、佐藤は映画における欧米との比較を起点に議論する。その特徴の一つはp152にあるように、日本の戦時中の映画が「反戦映画」にさえ見えるほど、戦意昂揚映画には見えないことである。この視点はピーター・ハーイのレビューでも見たように、「他者認識」に関する議論とリンクしてくる内容であるが、別の著書では次のような指摘もされ、日本では「人を殺していいのか」といった視点から描かれた映画が終戦直後までは皆無だったとする。

 

「戦争とは、まず、人を殺すことである。敵はむざむざ殺されはせず、逆にこちらを殺そうとするから、結果としてこちらが死ぬ可能性も大きいわけだが、戦争をする目的は人を殺すことであって、自分が死ぬことではない。ところが日本の戦争映画では、戦争中の戦意昂揚映画はもちろん、戦後につくられた反戦的な作品でさえも、自分がいかにして死ぬ覚悟を得られるか、また自分を死地に追いやる者をいかに憎むかということしか問題にしていない。人を殺していいのか、自分には人を殺すことができるのか、ということがテーマになることはかつてないのである。」(佐藤「日本映画と日本文化」1987,p111)

 

 そしてもう一つが、「忠臣蔵」的心性とも総称される、一種の「意地」によるものである。「忠臣蔵」的心性は古くから日本で支持され続けた考え方であり、その発想は部分的には他国から「奇妙」に映る部分であるとされる。

 さて、この「忠臣蔵」的心性とはいったい何を指しているのか。これは必ずしも佐藤の中で明確に定義づけられているものと言い難いが、概ね互いに関連付けられた3つの視点から述べられていると捉えることができる。

 

①(自)死の美化

 「忠臣蔵」では討入りしたことに伴う切腹処分というシナリオが赤穂浪士の「義」を示すものとして美化され、「死」の正当性を「忠臣蔵」と同じように正当化することと結びつけられたことを佐藤は指摘する。P252-253では集団自決を美化する日本人の特殊性を指摘するが、「忠臣蔵」以降の物語群の中で繰り返し同様の美学が語られ、それは佐藤が中心的に映画評論に関わった戦中期にまで及んでいた。

 

「維新の戦争にも、太平洋戦争にも、ただみじめなだけの死に方をした戦死者のほうが圧倒的に多いわけであるが、白虎隊や特攻隊の死に方が死者の代表として語り継がれ、他は我々に忘れられてゆく。白虎隊だって、特攻隊だって、よくよく考えればみじめなものだと思うのだが、なにしろわれわれは、「忠臣蔵」いらい、儀式化された切腹をショーとして美化してきたので、集団的な自殺というものを崇高な情感のあふるるものとしてイメージする、そのイメージの仕方を心得きっているのである。」(佐藤1976,p206-207)

 

二・二六事件の起った一九三〇年代の日本は、満州事変とそれに次ぐ国際社会での孤立化のなかで、帝国主義的列強諸国から包囲されて国際的な意地悪を受けているという意識を強く抱いていた。国民のなかの国家主義的な感情としては、この意地悪に対して意地を張ることを軍に期待していた。……浅野が切腹して一年九カ月後に四十七士が吉良邸に討入ったように、二・二六事件が起ってから一年五カ月後に日本軍は中国軍と本格的な戦争状態に入る。皇道派青年将校たちは、処刑されたときには統制派の上官たちをこそ憎んでいた。しかし国家主義的な国民感情としては、青年将校たちは中国との戦いでこそ死にたかったはずだ、と察し、日本軍が中国を攻撃したことで、死んだ彼らの靈もなぐさめられているはずだ、というふうに感じていたはずである。この点も「忠臣蔵」的である。」(佐藤1976,p170-171)

 

②「意地」の正当化

 佐藤が最も「忠臣蔵」的心性の議論で重きを置くのがこの「意地」についてである。この意地については決して「日本人論的」に語られるべきではないという留保を佐藤自身つけている(佐藤1976,P227)。これに関連して、佐藤が小中学生などを対象に書いたと思われる「戦争はなぜ起こるか」(2001)では、特殊日本的な語りはほぼ皆無であり、一般的な視点から、不当な支配を受けている他国の「解放」や、将軍の「意地」により戦争が継続してしまうことといったことから戦争が起こる理由と継続する理由を説明している。

 

「日本が中国を侵略しているとき、日本人自身はそれを侵略だと思わず、アジアを解放しているのだと思った、と前に書いた。そういう勝手な思い込みは、日本人に限らずしばしば起こることである。」(佐藤2001,p64)

「これで分かるように、外国にたくさんの軍隊を送ってしまった国が、それをひきあげるのは、たいへんむずかしいことである。しかし、将軍たちは軍人としての名誉が丸つぶれになるからひきあげたがらなくても、政治家がはっきりと命令を下してひきあげさせれば、まったくできないということではないはずである。」(佐藤2001,p76)

 

 本書ではp164-165でこの意地に触れられているが、この意地を正当化することを「忠臣蔵」の物語群は支持し、それが日本人の心性にも生きていることを佐藤は指摘するのである。

 

「突飛な連想のようだが、太平洋戦争の開戦も、日本人の心理のなかでは「忠臣蔵」ふうの過程をたどった。われわれは、われわれのほうで中国に対して徹底的な意地悪をしていることなど念頭になく、ただただ、アメリカ、イギリス、オランダなどから、意地悪のかぎりをつくされていると感じていた。浅野内匠頭や早野勘平に相当するのは、日清、日露、そして日中戦争ですでに死んでいる何十万という英霊たちであり、その英霊たちをなぐさめるためには、国民は要するに、堀部安兵衛武林唯七のように勇気をふるいおこせばいいのだ、と思っていた。……真珠湾攻撃はまさに討入りであった。」(佐藤1976,p94)

 

③「大衆」による美化の再生産

 佐藤の議論で注目したい点の一つは、この「忠臣蔵」的心性の形成における「大衆」の役割である。ここでいう「大衆」というのは正確な定義が難しい所だが、簡単に言えば、「メディア」と同義でもよいかもしれない。事件以降の芝居や読物、そして戦時期には映画にもその議論を正当化するものとして語られた。

 これは単なる物語の作り手側の問題ではなく、受け手側の「大衆」側の問題としても強いと佐藤はみている。本書で言えば、「爆弾三勇士」の美化も権力側ではなく、むしろ大衆側からさかんに賛美の対象とされたことを指摘しているが(p102)、これもまた「忠臣蔵」と同じように、大衆側からこの事件が解釈・単純化され、それを模範的なものとして再生産していった事実を佐藤は強調したいのである。

 

「彼ら(※当事者)に代って、これが敵討ちであると主張したのは世論である。そしてさらに、浅野の死に吉良が責任があるという話をたくさんつくり出して、その世論が論理的に一貫しているものであるかのように体裁をととのえたのは、まさに後世の歌舞伎作者たちであり講釈師たちであり小説家たちである。敵討ちとしての大義名分が成り立つかどうか疑わしいケースを、世論が強引に敵討ちにしてしまったのである。」(佐藤1976,p10-11)

 

○「意地」と日本の「近代観」について…「他者理解」との関連可能性について

 さて、この「忠臣蔵」的心性との関連で議論したいのが、日本的な「近代観」である。というのも、侵略戦争の正当化ということ自体が「近代の超克」といった言葉などによって欧米を乗り越えるための「意地」の産物であるように読み取れるからである。

 この議論を展開するのに先立ち、佐藤の2つの指摘から考えてみたい。一つは、p152で語られるような他者認識の欠落の議論についてで、もう一つはp143で語られている「敵国の捕虜となった場合、自分の家族が迫害される」という状況の背景をどう考えるかという点である。

 

 まず前者についてであるが、これは日本が『屈折した近代観』を持っていた事実と関連付けると腑に落ちる部分も多いことがわかる。佐藤はこれについてヨーロッパ人などは親類同士という意識があることとの関連性も指摘する(佐藤1987,p113)。これは島国日本が「外国人」と接する機会が少ないから他者感覚に乏しい、という議論にも似た所があり、部分的には間違えていないようにも思える。しかし、日本人の閉鎖性などの議論により他者認識が欠落したという見方で日本の戦争映画における特異な状況を説明し尽してよいかと言われると、私には疑問な点もある。

 そこで考えられるのが日本における『屈折した近代観』である。そもそも日本は欧米に対する対抗心を対外的戦争における正義として位置付けた。これは欧米的帝国主義(侵略的な立場)や個人主義的心性に対する対抗心として現れたものであった。ということは、そもそも日本においては「侵略」は表面上はタブー視されたのは当然であろう。キャプラなどが日本の映画を「反戦映画」としてみたのは、文字通り日本において「反侵略映画」が描かれることを求められていたからではないのか?

 そして、侵略を前提としない、戦意を高める映画として、侵略される「他者」に注目した内容ではなく、「自己」の心理に徹底的に注目した形で戦争を描く、という選択肢しか、日本には形式的にはなかったのではなかろうか?但し、これを考えるにあたっては、「鬼畜米英」や「暴支膺懲」といった言葉をどう考えるべきかという議論が重要になってくる。これらは明らかに(具体的でないかもしれないが)「他者」に対する言葉であり、「自己」に向かう映画の議論と噛み合わないようにも見えるからである。佐藤的な回答としてはこれもまた「意地」の産物ということになるのであろうか?まさに『屈折した近代観』に反する米英や中国は懲らしめられる対象でなければならない、という意識の強さ(=意地)が排他的言説を生んだが、これを戦後は驚くほど対抗的でなくなったという事実からすれば、非難の対象は具体的他者なのではなく、何か抽象的な、そして漠然としたものであったのかもしれない(※1)。

 

 さて、もう一つの論点である「捕虜の家族迫害」の関連性について考察してみたい。これも閉鎖的なコミュニティと「草の根の軍国主義」が生んだ排他的行動の現れとして見れば理解可能なようにも思える。少なくとも、このような排他的態度を行う者の側は、敵国の捕虜になってしまうことを大変惨めなこと、ないし「反忠臣蔵」的な態度として捉え、それを何故か家族にまで責任転嫁してしまう、という愚行を行うことをどう考えるべきか。本書からはとっかかりがないものの、別著で次のような指摘を佐藤が行っていることから考えてみたい。佐藤は「判官びいき」について次のような指摘を行っている。

 

判官びいきという心理が日本人にあるのは事実だが、それは敗者一般や弱者一般に同情するというヒューマニズムの一種なのでは必ずしもないように思われる。……しかし、判官びいきというのは、それよりももっと、御霊信仰的な性格に近いものなのではないか。つまり、たんなる敗者なら軽蔑するだけだが、死んで悲憤の荒魂と化したと想像されれば尊重するのである。

 こういう心理は、敗者に味方するヒューマニズムというより、むしろ、権威崇拝の行きすぎにある程度ブレーキをかける一種の自動制御装置というべきものであるように思われる。勝者は尊敬されるべきであり、人民は勝者に服従すべきである。敗者は軽蔑されて仕方がない。が、しかし、勝者といえども敗者に対して勝手ほうだいになにをやってもいいというわけではない。殴ったり犯したり、ツバを吐きかけたり、人格的な侮辱ぐらいはどうやらかまわないらしい。しかし、虐殺だけはいけないのである。不当に抹殺されると、それは荒魂となって害をなすおそれが生じるのである。かつて日本人は、勝者に追従しながら、しかし、勝手に追従しすぎて彼らに無限の力を与えることの危険を制御するために、そういう信仰の歯止めをかけようとしたのではなかろうか。勝者はおおいに威張るがよい。が、しかし、威張りすぎて自分に歯向う者を虐殺するようなことがあると、そのときは人民の同上は虐殺された者に集り、為政者といえども不信の眼で見守られることになるぞ、と。」(佐藤1976,p120-121)

 

 この判官びいきの心理について、村八分の制度にも類似のことが言えるとしている(佐藤1976,p122)が、捕虜の家族の迫害は、基本的に村八分的なものに近しいように思える。これは結局、①「忠臣蔵」的心性を持つことが当時の大衆にとって遵守されねばならないことであったこと②捕虜となる行為自体が「忠臣蔵」的心性に真っ向から対立すること③規範に反した者の家族は捕虜同様の「違反者」であり、排他的態度が正当化されること、という順での解釈を行う他はないだろう。少なくとも、佐藤はこのようなメカニズムの発生を明確にではないが抱いていたのではなかろうかと思う。

 そして、このような制度にはヒューマニズムが介している訳ではなく、権威の発動をよりソフトなものにするための原理として用いられているという点も無視できない。結局この議論も「他者理解」をもとにしている訳であると言えない、ということでもある。

 さて、このような理解だと「捕虜の家族迫害」は『屈折した近代』観とはあまり関係がなく、むしろ近代以前の日本の慣習との関連性の方が強いように思えてくる。この事実がある可能性は否定しないが、映画でこのような「捕虜の家族迫害」が語られた理由として、当時の実態が反映されたからではなく、(実態を伴わない)言説が流布していた可能性は別に存在する。ジョン・ダワーは捕虜の家族迫害に関連して、捕虜に関する議論について次のように指摘する。

 

「かなりの人数の日本兵が捕虜になった場合もあるにはあったが、たしかにジャングルや太平洋諸島での戦いにおいては、日本兵の大部分は、殺されるまで戦うか、あるいは自ら命を絶った。それには多くの理由があった。その大きなものは、天皇および国のために自らを犠牲にせよという教えと、降伏はするなという上官の命令であった。日本人は、この戦いは鬼のような敵に対する聖戦であると教えられ、そして実際多くの者が崇高な目的のために命を捧げると信じて死んでいった。そうした姿は、敵側から見れば「狂犬」であったが、彼ら自身からすれば神聖なる献身であり、また日本国民の目からすれば英雄であった。集団心理や集団逆上は、たしかにこうした死を煽り、バンザイ突撃に一種の陶酔感さえ与える一因であったが、同様に、使命、栄誉、従順という日本の風土に深く根ざした要素も、その一翼をになった。すなわち、日本兵は、ただ国や支配者がそうしろというから命を捨てたのである。またある者は、自分が降伏すれば家族が村八分になると信じて、最後まで戦った。

 しかし見過ごされやすいのは、他の方法がなくて見絶えた日本兵が数えきれないほど多い、という事実である。一九四五年六月付の報告書の中で、戦時情報局は、尋問を受けた日本兵捕虜の八四パーセントが、捕虜になったら殺されるか拷問にかけられると思っていたと述べた、と記録している。情報局の分析家たちはこれを典型的なものと称し、「武士道」よりも降参したあとに起こることへの恐れこそが、戦場で追いつめられた日本兵たちが死を選ぶ大きな動機であるとしている。そしてそれは、他の二つの大きな要因に匹敵するもの、あるいはたぶんそれらを超える要素であろうとしている。その他の二つとは、家名を傷つけることへの恐れと、「国、祖先、神である天皇のために死にたいという積極的な願望」である。一方、たとえ投降の意思があったとしても、それは容易なことではなかった。たとえば、終戦直後に戦時情報局用に作成された概要報告書を見ると、日本人捕虜に関する書類には、降伏を試みて、しかも撃ち殺されないためにはどうしたらいいかに関して、捕虜たちが知恵をしぼった話がたくさん記載されている。すなわち、これは連合軍側が「捕虜をとることに難色を示したために、降伏が実際に難しい状況にあった」ことを示すものである。

 アメリカの分析家たち自身認めたように、こうした日本側の恐れは決して不合理なものではなかった。戦場では、連合軍兵士も司令官も多数の捕虜を望まない場合が多かった。これは決して公式の政策ではなく、場所によっては例外もあったが、アジアの戦場においてはほとんど常態であった。」(ジョン・W・ダワー「人種偏見」1986=1987、p86)

 

 ジョン・ダワーの場合、降参の拒否というのは、「意地」に代表される忠臣蔵的日本人論的解釈というよりも、「降参したあとの恐れ」がそれを上回るものだったという見方をしている。これは、「忠臣蔵」的なイメージは確かに存在し、戦場で戦う日本人の制約となっていたのも確かであるものの、それ以上に「自死」が迫られる状況にあったことが重要な要因だったということである。また、このダワーの指摘からは「捕虜の家族迫害」は一つの有力な言説として成立していたことも注目すべき所だろう。

 類似の指摘がヘレン・ミアーズによってもなされている。むしろダワーの議論は、ヘレン・ミアーズの指摘に基づく部分も大きいものと想定される。

 

「それに、日本兵の多くは農村出身者だった。神道には多くの農耕儀礼が含まれている。彼らの心に深く根を下ろす郷土愛が、彼らの愛国心をより強いものにしていた。日本兵はよく訓練され、質素でスパルタ的生活に耐えるよう鍛えられていた。彼らは任務を果たした。しかし、戦場からの報道を読んでも、日本兵が「戦うのが好きだから」、あるいは「戦死は崇高な運命」と思っているから、あるいは「天皇のために死にたいというファナティックな願望」から、あるいは勝利を確信して、圧倒的に優勢な敵に立ち向かったことを裏づけるものは何も見出せないだろう。

 もちろん、ファナティックな蛮勇の表われと思われるような「撃ちてしやまん」型の戦闘はあった。しかし、それはほとんどの場合、カミカゼ特攻隊員、人間魚雷で単独で乗りこむ乗員、選り抜きの攻撃隊員だった。カミカゼパイロットはほとんどが大学生だった。彼らは熱烈な愛国主義者であり西洋嫌いであった。なぜなら、昔から白人はアジア人を劣等人種と考え、人が見ていないところでは、実際に劣等人種として扱っていると彼らは思っていたからだ。

 自ら溺死したり、圧倒的に優勢な敵に無益な攻撃をかけるという集団自決行為は、明らかにヒステリーと絶望の結果である。こうした集団自決の動機は、多くの場合、降伏したらどのような扱いを受けるかわからないという恐怖だった、と信じるに足る明白な証拠がある。日本のプロパガンダは、私たちと同じように敵である私たちの野蛮さと残虐さを強調していた。アメリカ人を野蛮で残虐な人種として描くプロパガンダに対して、私たちが一人でも多くの日本人を殺すことで応えたことは、きわめて重要だ。一方、日本人は自分たちを殺すことで応えたのだった。

 戦争の初期の段階では、捕虜の数はきわめて少なかった。これは一面では、拷問と虐待を恐れる日本兵がかなりの数にのぼり、捕虜になるより自殺を選んだためであり、また一面では、全体として、捕虜にしないという私たちの方針によるものだ。こういう方針がなぜ許されたかというと、日本人捕虜は危険であることがわかっていたからだという。日本人捕虜が自分を人間爆弾にして、捕らえたものを巻き添えに自爆することが何回かあったというのだ。」(ヘレン・ミアーズ「アメリカの鏡・日本」1948=1995、p124-125)

 

 ミアーズの議論で注目すべきは、日本人が影響を受けていたプロパガンダである「残虐さ」である。私などは、この「残虐さ」の認識に『屈折した近代』の見方が関連しているように見えてならない。結局、自らの「近代の超克」を実現するにあたり帝国主義的近代観を単純化してしまう中でこのような「残虐性」といったプロパガンダも「近代」の象徴として強調されやすくなり、その悪影響を受けてしまっていたという言い方もできるのではないかと思う。

 この見方は佐藤の「草の根の軍国主義」的発想とは対立する議論であろう。佐藤は実際にそのような迫害があった根拠として「捕虜の家族迫害」を論じたが、私がここで指摘するのはむしろ言説化した「捕虜の家族迫害」であり、そのような言説が映画に影響を与えた可能性と、戦場で「自死」した者の動機が「捕虜の家族迫害」という言説にも回収される可能性であり、その言説はそもそも『屈折した近代』を経由している可能性があるということである。

 

 以上のような議論を前提とした場合、本書を読む上で特に注意すべきは、p47-48で語られるような「アジアの侵略」に関する内容である。正直な所、佐藤が引用した映画の内容からは「侵略を積極的に推進する」だけの文言に出くわすことはない。にも関わらずそのように見えてしまうのも、『屈折した近代』観によりアジアが自らの領土であることを「前提」にしてしまった映画の内容となってしまっているからである。ここで重要なのは当時の日本が「侵略」を意識していたどうかという議論ではない。むしろ重要なのは、そのような積極的な「意思」がなくても、「侵略」に代表されるような他者への侵害行為を行うことが可能であるという事実である。そして、その要因となっているのが「意地」であるという点である。合わせて、『屈折した近代』が「日本人論」を増幅させるような議論が、戦時中において多分に存在していたということも確認できるだろう。本書を評価すべき点はここにあると考える。

 

※1 もっともこれは「意地」といった系譜を引き継いでいない、単なるプロパガンダ以上の意味はなかったという見方も行えるだろう。安岡章太郎の回想として次のような話があるようである。

「戦時体制下であっても、国民を戸惑わせたのは「鬼畜米英」の政治プロパガンダである。昭和戦前期をとおして形成された親米感情は、途絶えることなく、日本社会の底流として存在しつづけた。

 以下は作家の安岡章太郎の回想である。「『鬼畜米英』という言葉は、軍事や右翼イデオローグたちの造語にすぎないだろう。戦時中、どこかの奥さんが、捕虜になった米兵を見て『お可哀いそうに』と言ったので軍人たちが憤慨したというエピソードがあるくらいで、一般の日本人には、アメリカ人を鬼畜として憎む気持ちはなかったのではないか。/戦前から私たちは、むしろアメリカ文化に対する羨望の気持の方が強かった」。」(井上寿一「戦前昭和の社会」2014,p227)

 もっとも、本書で自身の幼少時代を懐古し、丁寧に如何なる「軍国少年」であったかを語る佐藤から見れば、明らかに「意地」が自身の実感としてあったため、このような単なる言説上の問題ではありえなかったのだろう。

 

 

<読書ノート>

P47-48「この映画は一方で西洋列強の侵略からアジアを解放することは「日本の使命」だと恰好よく謳いあげながら、他方、じつは日本自体も貧乏でニッチもサッチもゆかないのだからアジアの侵略だってやるという本音も、けっこうあからさまに表に出しています。そこが迫力のあるところです。」

※1934年頃製作されたとされる「一九三六年」の説明。全編の引用があるものの(p35-45)、この言い方は適切に見えない。P37で南洋および満州が「日本の生命線」とされ、p44と農村疲弊と都市の頽落が語られる。直接な侵略の正当性は語られることなく、欧米に奪われる可能性についてそれを断固拒否すべきという論法を展開している。

 

P59「明治十五年の「幼学綱要」から明治二十三年の教育勅語までの間に、忠と孝の徳目の位階序列に逆転が生じています。」

P59-60「江戸時代の庶民教育の権威である石川謙によれば、江戸時代の寺子屋で用いられた教材の中に忠という観念が現れてくるのは江戸時代も半ばを過ぎてからだそうです。明治以前あるいは江戸時代以前の古い時代というと、われわれは殆んど小説や映画やテレビドラマなどの物語を情報源として知っているわけですが、人気のある物語類の大部分は侍を主人公にしたものです。そして侍にとってはいちばん大事な徳目は忠義なので、つい、忠こそは昔の日本人の最高の徳目、と思い込みがちなのですが、じつは江戸時代まで、一般庶民にとってはそうではなかった。農民や漁民にとっては、せいぜい寺子屋でこの字を習うことがある程度だったようで、あまり実感のともなうものではなかったようです。

 なぜなら、農民は領主に年貢を納めるだけで、直接には領主の臣下ではなかったからです。地主や村役人に対しても、その家に奉公するのでないかぎり、その家来だったわけではありません。」

P60「いっぽう、孝のほうは、観念としては中国の儒教から来ているものですが、寺子屋儒教道徳の一部として教わるまでもなく、家庭生活の自然のあり方に根ざした観念として古くから農民は身につけていたはずです。」

P61「ごく大雑把に言って、忠は侍のモラルの基本、孝は農民のモラルの基本、両者のモラルははっきりしていてアイマイなところはありません。」

※「農民のモラルこそが社会の基盤」であったといえるし(p62)、これが、明治新政府の課題ともなったとする。

 

P102「その慎重さからすると、やはり、前述したような逃げ遅れやミスや事故ではなかったかという疑問点とそれに関連する噂は相当な障害だったようです。教科書に載せろ、という運動がいくつかあったにもかかわらず、それが実現したのは太平洋戦争になってから、戦争の話をとくにたくさん載せるように改訂したときです。陸軍のほうも、日露戦争のヒーローである海軍の広瀬中佐や陸軍の橘大隊長のことは軍神と呼んだのに、爆弾三勇士はあくまで勇士であって軍神の呼称はついに用いませんでした。将校のエリートなら軍神と呼んでもいいが、下層の兵卒にはいかがなものか、という差別的なためらいがあったようです。

 これらを考え合わせますと、軍も政府も三勇士を愛国心教育の絶好の材料として利用したことは確かですが、熱意の点では新聞と国民大衆のほうが先行して燃えていたと思います。」

※少々教科書の話は無理矢理な感がある。この話に関係なく、そもそも国定教科書の改訂はそう簡単にできなかっただろう。

P103「三勇士の記事が出たのは二月二十四日ですが、翌三月にはじつに七本もの「爆弾三勇士」ものの映画が作られて公開されました。いくら当時、即席で作られる映画が多かったにしてもこれは異常です。じじつ外国映画の戦闘場面などをつなぎ合わせた中に若干の三勇士の場面を演出して入れ込んだというような粗末なものが多かったのですが、それがみんな大入りになって社会現象化しました。」

P104「私はものごころついた頃にはすでにそのブームは過ぎていたわけですが、それも折にふれ、絵として歌として語られていましたし、特別な精神教育など受けていない名もなき庶民でもこんな崇高な行動ができる、それが日本人の、日本人ならではの凄いところだというふうに雑誌や本で述べられていました。」

 

P140-141「一般的に言って日本兵は確かに勇敢に戦った。捕虜になることより戦死するほうを選んだ。「戦陣訓」発布以前からそうだった。そのことを日本兵たちの国家や天皇への忠誠心の高さのためだったと考えてもいいし、民族主義がとくに強かったからだと言ってもいい。しかしそんな颯爽として勇ましくさえある動機には要約しきれない心情もそこにあったと思います。むしろ捕虜になどなったら郷里の家族が迫害を受ける、という暗黙の認識がそうさせたのだと考えるほうが私には分りやすい。」

P143「映画「足摺岬」で見た、兄が捕虜になったために故郷の村で居たたまれないような迫害を受けて東京に出てきているという、あまりくわしく描かれているわけでもない薄幸の姉弟の小さなエピソードひとつを根拠にして、旧大日本帝国軍隊の士気を論じるというのはかなり無茶なことかもしれません。

 私はあの映画の姉弟に涙しましたが、それが日本の社会には一般的に言えることだと主張できるだけのなにか客観的な数字などのデータを持っているわけではありません。しかし私は、この議論の進め方をさらに拡大して、近隣の人々が捕虜の家族を迫害するような心性を、かつて日本の社会には確実に根を張っていた〈草の根の軍国主義〉であると言いたい気持を抑えきれません。」

 

P147-148「太平洋戦争の最中に、アメリカでは学者や映画人たちを動員して日本映画の研究をやっていました。日本人というやつは自分たちの常識からかけ離れた連中であって、どう扱ったらいいのか分らない。日本人の取り扱い方を知るためにも日本人の国民性について知らなければならない。それには日本映画を見て分析研究するのがいいかもしれない。アメリカにはハワイやロスアンゼルスのように日本人がたくさん住んでいる地域があり、そこには日本映画専門の映画館もあって、映画も手に入るから、ということで、文化人類学者のルース・ベネディクトや、ハリウッドの有名な監督で政府の要請を受けて戦争遂行のための宣伝映画を作る任務についていたフランク・キャプラなどがそれに参加していました。」

P152「というのは、ルース・ベネディクトは「菊と刀」で、前述した日本映画の研究会で見た日本の戦争プロパガンダ映画について、大要つぎのような見解を述べていたからです。

それらの日本の戦争映画は日本軍の強さとか正義といったものをあまり強調していない。敵を憎まなければならない理由もあまり描かない。ただただ描かれているのは、あまり強そうでもない見るからに善良そうな兵士たちが、苦しい戦場にひたすら黙々と耐えている姿ばかりである。フランク・キャプラに言わせれば、これらは戦意昂揚映画であるどころか反戦映画だという。」

 

P164-165「私にはやはり、敗戦の前の日本についにひとつも戦争反対の暴動が起らなかったこととおなじくらい、敗戦直後のアメリカ軍の占領下におかれた時代に、どうやらひとつも反米テロが生じなかったことが、いまだに不思議に感じられます。繰り返し言うが、いったいわれわれ日本人は本当にアメリカを憎んでいたのか。じつは憎んでなどはいなかった。中国人も憎んではいなかった。ただ、中国人や朝鮮人に対してはひどい差別意識を持っていた。戦争というのはいつも中国大陸でするものだと思っていましたし、そこは日本軍が自由に動きまわってかまわない場だと思っていて、抵抗する奴はこらしめてやればいうのだと思っていた。それをアメリカに止められたとき、われわれは逆上しました。アメリカに戦争をいどんだのは、中国人や朝鮮人を軽蔑することでやっと手に入れた世界の一等国民という自惚れをとりあげられようとしたことへの愚かな意地だった。」

※後半の主張は正しいのか??

P170-171「検閲が厳しくて戦争に批判的な記事は載せることができなかったと戦後になると言われて、事実そうだったことは間違いないんだけど、しかしそれにしては、じつにもう、とても冷静な頭で書いたとは思えない記事ばかりでした。熱狂的な軍国主義者でないと書けないような記事で紙面が埋めつくされているのが当時の新聞だったことは強調してもし足りないと思います。たぶんそういう酔っぱらったような記事でいっぱいの新聞がよく読まれて、冷静な新聞はあったとしても売れなかったのではないか。読者がそうだから新聞のほうもそうなった、と言って言えないこともない。」

 

P209「こうして冷笑をあびながらも東京裁判での東条は持ち前の敢闘精神を発揮してよく検事と渡り合っています。日本の侵略戦争をすべて正当化するその論理は間違っていますが、責任はすべて自分にあるとして他の被告をかばい、とくに天皇をかばいぬきました。最初から死刑は覚悟のうえであり、ドイツのゲーリングニュールンベルグ裁判で死刑の判決を受けたうえで自殺したことを知って、自分はそんな卑怯なことはしないと言っています。」

P224「「忠臣蔵」が巨大な物語群となって日本人に浸透すると、日本人はどうも、この物語の信仰の型というのが身についてしまって、その型に合わせて現実を解釈することがクセになってしまったようです。西洋人は聖書の物語の型に合わせて現実の歴史を解釈することがあるでしょう。「忠臣蔵」が日本人にとっての聖書か、というと、違うような気もしますが、当っているところもあるのではないでしょうか。」

 

P245暴支膺懲…「なんでも中国は日本をあなどって手向ばかりするからこらしめてやらなければならない、という意味」で新聞やラジオがしきりに言っていた言葉

P252-253「日本人としてこの映画(※中国映画の「晩鐘」)見ていると、日本人は集団自殺したがる不思議な民族だ、というこの映画の大前提をのみ込んでいないから、はじめはちょっととまどいます。私たちは確かに、四十六人の侍が同じ日に腹を切って果てる「忠臣蔵」のラストにある種の崇高美を感じたり、可憐な少年たちが何十人も炎上する城を遠くに望みながら自決してゆく白虎隊の物語を、明治維新の国内戦の敵味方の争いを昇華するイメージとして大事にしている。だから集団自決を美化する独特の美意識があると言えるのですが、敗戦のときにはそれがさまざまな悲惨な出来事を生みました。中国でもそういうことがあったのでしょう。そしてそれは中国人の目には、奇異で憐れな習性に見えたに違いない。

 日本人が当然のこととして崇高美を感じるところに、中国人は奇異で憐れなものを感じる。この食い違いを知ることこそが私には外国映画を見るいちばんの興味です。」

P254「日本では輝ける知的エリート集団として伝説的に語り伝えられている旧制の第一高等学校の寮の伝統に〈鉄拳制裁〉なるものがあったそうで、学校の名誉を汚した者の頭を殴ることが〈愛の鞭〉であると知的エリートも思い、民衆もこれに毒されていた。それが日本兵対アジアの民衆というレベルでは耐え難い人格的侮辱と受け止められ、日本人のレベルの低さを示すものと見られていた。アジアの映画を見るとそんなことも分かります。」