大塚久雄の「近代」観に関する試論

 今回は大塚久雄の読解から、言説としての「近代」に対する見方について理解を深めていきたい。これまで行っていた進歩的文化人の議論においても谷沢永一(1996)をもってそのルーツであるとされ、中野敏男(1999)をもって市民社会論者の理論的系譜の祖とみなされることからも、大塚久雄進歩的文化人の系譜に与えた影響力は大きいといわざるをえないだろう。大塚はマックス・ヴェーバーの議論をもとに「近代」を語っていたと一般的にみなされていることからも、それがいかに語られていたのかはしっかり押さえておくべきところである。

 この「近代」というテクストは非常に厄介であり、丁寧に考察が必要であるように思う。そこでできるだけその分析の枠組みを提示しながら、それとの比較というのを積極的に行っていく中で、大塚が語る「近代」について検討していきたい。まず、次のような「近代」のテクストの理念型を示しておこう。

 

 一つは「①近代とは単一的発展史観であること(近代①)」と解釈する態度である。この立場の延長に「②近代とは欧米的価値観であること(近代②)」がある。

 もう一つは「③近代とは生産性を重視する歴史観である(近代③)」と解釈する態度がある。この立場の延長に「④近代とは『資本主義の精神』の習得に基づくものであること(近代④)」とする態度がある。

 ここで「近代①・③」は生産性そのものに着眼した場合の見方であり、「近代②・④」は価値観に関係する見方である。

 

 これら4つの態度はどれも本質的には異なる立場であり、その違いを明確に理解し整理する必要がある。近代①~④について大雑把に理解すれば近代③という見方も可能である。そこで、ここで理念型として示している③の考え方は①に収束しないような、「近代とは複数的発展史観がありえる」という態度を内包しており、ここでは①の価値を含まないものとして③を定義したい。

 特に①と②は実態として生産性が高かったと評価される欧米の存在が意識されている。それは現在にまで連続的に欧米史が近代として語られるものである。この両者は同じものに見えるが、実際の議論においては①の観点が無視されたかのように②の議論が語られることがままあるため、これをひとまず分けて考えておく。

 一方、③と④はむしろ大塚久雄がとろうとした態度の延長上にあるものであると考える。大塚はヴェーバーの議論をもとにして、近代の発生時点における「資本主義の精神=禁欲的かつ現世否定的な生産性のエートス」に重きを置く語りを基本的にはしている。この態度に基づけば、近代はそのエートスさえあれば複数の歴史観がありえる。もっとも、後述するが、この態度は大塚の態度とみなすべきだと思う反面、大塚自身は何故かそれを否定している傾向もある。

 

 また、大塚の通史的な「近代」を議論の志向性についても検討が必要であり、次のような仮説を提示しておく。

(1-ア)大塚の議論は「近代=単一的発展史観」志向で一貫している

(1-イ)大塚の議論は「近代=単一的発展史観」に対し否定的な態度で一貫している

(1-ウ)大塚の議論は「近代=単一的発展史観」に対する志向は時期によってバラバラである

 この問いについては、基本的に「近代①」との関連からそれを肯定しているか、否定しているかという議論を検討していく。

 

 

〇先行研究における大塚の「近代」理解の整理

 さて、大塚久雄の議論というのは研究も豊富であるようである。ここではもちろんそのすべてには触れず、かなり恣意的な選択となるが、インターネットからアクセスしやすい論文及び中野敏雄の著書から、最近の大塚久雄の「近代」観にかかわる議論を少し整理してみる。

 

中島健二「大塚久雄の近代社会像の再考」(1996、『金沢大学経済論集 33巻』p33-62)

「さて、このような大塚の関心は、国際的あるいは地域間における生産力の規定や伝搬にともなって、それぞれの地域のエートスが複合的に形成されていくという見方にわたしたちを導いていく。従来の生産力的構造と相互に規定しあっていたエートスは外的な生産力の規定や伝播を受けて、複合的な変化をとげざるをえなくなるのである。そうなると、近代西洋とは歴史的地域的に異なる場所において存在する、あるいは存在すべきエートスは必然的に近代西洋のそれとは歴史的に異なるものとなるであろう。大塚は彼の時代にあっても、このことを否定できなかったはずである。また、エートスの相対的な自立性を強調するヴェーバー=大塚の宗教社会学とこうした見方とは、すくなくとも矛盾しているとはいえない。それにもかかわらず、大塚の近代的・合理的な人間類型の実現の理想は、彼自身の世界史の把握から導き出されてくる、理想に対するこのような対外的・複合的な批判の契機を遮断し、近代西洋の歴史的経験から導きだされた価値合理的な理念型に収斂してしまっている。

対外的・複合的な批判の契機を導入しない大塚の理想は、世界が近代西洋の歴史的経験を後追いするという単線的な発展史観に避けがたく陥っているといわざるをえない。大塚の歴史学は単線的発展史観ではないかということはつとに指摘されてきた。しかし、筆者はこうした指摘にはにわかには賛同できない。なぜなら、上述したような複合的な仮説や構図を大塚はもっていたのであり、さらにつぎの節でみるように、彼は世界市場における各国経済の根づよい相互規定を十分に認識していたからでもある。実際のところ、ここで批判する単線的な発達史観は経済の領域に見いだされたのではない。むしろ近代西洋を時系列的に後追いする単線的な発展の見取り図へと大塚を帰着させていったのは、この節で考察したエートスの領域であり、またつぎの節で考察する国民主義という政治の領域であるといわねばならない。」(中島1996,p4546)

 

 

 中島が指摘するのは、まさに「経済の領域=生産性」の議論と「エートス=価値観」の区分けの必要性である。まず、大塚はえてして「近代①」の態度をとっているように見られがちであったとする。しかしそれは正しくなく、その複数性について許容している。にもかかわらず、単線的な態度をとっているのはそのエートスをめぐる部分であり、それはまさに大塚が「近代④」の立場にあるからだ、という主張として整理できる。また大塚の思想として(1-ア)は支持せずむしろ基本的には(1-イ)であったとみていることになる。

 

深草正博「大塚久雄の理論的変化・再考」(2015,『皇學館大學紀要第53巻』p33-49)

深草は大塚の思想の変化に注目しており、70年代以降、大塚が提示してきていた「近代的人間類型」が相対化されて議論されたとする。

 

「確かに一九七〇年代以前においては、およそここで指摘されている通りであろうと思う。私も先に触れた拙稿のなかで、その時期には大塚に近代西洋中心主義といってよいものがあったと指摘した。まさに近藤氏のいう「近世・近代の西欧の経験を範式とする発想」である。しかし、氏は七〇年代以降の大塚の変化については、全く看過している。すなわち、すでに六〇年代に大塚は、「低開発の開発」とは言わないにしても、「モノカルチャー体制によって代表されるような植民地体制が、低開発諸国の経済に押しつけた歪み」といった表現は使っており、さらにその後先に述べたように、七〇年代以降には、低開発諸国に先進諸国の諸事実に基づいた従来の社会科学をもってしては、低開発諸国の社会・経済現象を十分に捉えることができないのであって、究極にひそむ文化現象の重要性を指摘していたのである。……さらに、近代そのものに対しても、七〇年代以降になると、「合理性概念の再検討」のところでも触れたように、西洋の近代に対しても実に厳しい批判がなされているのであって、近藤氏のいうような「近代そのものを問題視するような省察」がないとは決していえないのである。」(深草2015,p41-42)

 

 

 深草の議論からは「生産性」の議論と「価値観」の議論は必ずしも明確に区分されているように読みとれない。ただ、少なくともそれまで(1-ア)の態度をとっていた大塚が70年代以降に(1-イ)の態度に転換した、というように読み取れるだろう。

 ではなぜそのような変化があったのか。その原因について深草は「南北問題あるいは低開発地域の研究の深まり」と指摘する(深草2015,p45)。この説明はまあそうなのだろうという理解を示すことができるが、一方でこの理由説明だけでそれまでの大塚の「近代」把握の議論がなかったものにできるのか、と疑問を出すと納得がいかないところがある。確かに深草が指摘するように、多くの大塚論者がこの変化を理解できていなかった、という指摘は正しいのかもしれない。だが他方でこのような「誤解」の発生原因は大塚自身ではなく、大塚論者側に帰すべき問題なのか、というのが疑問に思えるのである。このことは後程大塚の言説から検討する。

 
・遠藤興一「丸山眞男マックス・ヴェーバー」(2018『明治学院大学社会学社会福祉学研究150巻』p99-153)

 遠藤は大塚の議論が「ヴェーバー」を正しく参照しているか、という問題を丸山眞男が投げかけていた、という論点を提示する。つまり、大塚のヴェーバー解釈はあくまで解釈にすぎないこと、また近代的精神を考えるにあたり、ヴェーバーをあてはめて議論しようとすることに問題があるのではないか、という議論をおこなったとする。1947年の座談の引用をもってつぎのように指摘する。

 

「大塚が近代精神の核心となるのは宗教的な超越志向であり、そしてそこから導き出される普遍的規範であり、禁欲的エートスによって実現されるものであるとするのに対して、丸山はそもそも人間には生得的に持っている能動的主体性志向があり、それを認識し、発揮することによって、大塚の目指す普遍的規範の実現、具現は可能ではないかとみた。この違いこそが、後になってあのズレやスレ違いを生む遠因になった。」(遠藤2018,p125-126) 

 

 ここでは、近代精神がヴェーバーのいう「資本主義の精神」のみでしか達成されないものなのか、むしろそれはもっと生得的なものによって(少々語弊のある表現だが、要は欧米に存在していたエートスを模倣せずとも、)近代精神の獲得は可能ではないかと問題提起しているといえる。これは丸山に限らない主張であるが(※1)近代④の要件を満たしていなくても、近代③の可能性は開かれているという主張である。

 また、丸山は大塚が近代④の条件に固執しているように見えたのだろう。次のように「信仰」に基づいているのではないのか、という問題提起も行っていたようである。

 

「「事実をして語らしめる」信仰と、理論と歴史との本質的一致の信仰は、表現形態は正反対ですが、方法論上の「呪術からの解放」という観点から見ると、どうも文化的基盤が似ているのではないか。非常に暴言を吐いて恐縮ですけれども、そこには一種のアニミズム的な考え方、つまりわれわれの研究対象そのもののなかに精霊がやどっている、というほとんど古代的な信仰にまでつらなる要素がないだろうか。それが個別的な史料のなかにそれぞれに意味が内包しているという想定に立てば、素朴実証主義、或いは史料的帰納主義としてあらわれるし、他方、歴史のなかになにか生きた力、或いはエネルギーが潜在していて、それが生成発展して自己を展開し、自己を顕現してゆくという想定にたてば、一種の発展法則史観としてそれがあらわれる。…研究対象(世界)へのもたれかかりを徹底して排除したヴェーバーの考察が、わが国で「演繹的」だとか、「非歴史的」だとか言われがちなことの背景には、こうしたアニミズム的伝統とつながる要素がないだろうか。」(遠藤2018,p132-133,元引用は「丸山眞男座談 第5巻」p329)

 

 近代の達成において「脱魔術化」が必要であり、「資本主義の精神」が存在しなかった社会というのは、得てして伝統的な信仰といったものが近代精神的な生産性を阻害しているとするのが大塚の基本的な発想であった。しかし、大塚の「脱魔術化」の原則に反するかのように「資本主義の精神=禁欲的かつ現世否定的な生産性のエートス」の中には一つのアニミズム思考が含まれていうのはおかしいのではないかという言明と考えてよいだろう。大塚の歴史観は確かにこの点に限れば極めて「単一的」な近代観を持っていたのであり、丸山の批判も大いに納得できるところである。

 

・中野敏男「大塚久雄丸山真男」(1999、引用ページ数は2014年の新装版による)

 最後に中野敏男である。中野は通史的な大塚読解を試みその連続性を強調する。その中で初期の大塚はむしろ「近代」に対して批判的であったという見方を行っている。

 

「このような無教会派キリスト教徒たちを生み出す思想状況が、言い換えると、「自己」のために「惜しみなく奪い取る」ところの近代人を最も忌み嫌う思想が生まれ出てくる思想状況が、二〇年代から三〇年代に向かって進展してゆく日本社会の変容を背景に形成されていたことは間違いない。すなわち、急激に進展する産業化と都市化という社会変容の中で、大量生産と大量消費という産業と生活の構造が現出し、それに伴って生活様式の規格化・画一化が進行して、その中からいわゆる「大衆社会」状況が噴出してくるという時代の推移が、この同時代人たちに思想の「危機」として受けとめられているのである。」(中野1999=2014、p39)

 

 

 ところが、戦中の大塚は「近代」を条件付きで認めるようになったという。それが「生産性」に寄与する「資本主義の精神」(つまり、近代③、もしくは近代①)の観点であった。

 「このことは、資本主義の精神についての理解にも大きな変化をもたらしている。すなわち資本主義の精神は、一途な信仰の立場からは「富中心」への堕落として評価するしかなかったのだが、無自覚的であるとはいえそれが「国民的生産力」に寄与している点を考慮すれば、「国中心」の立場から一定のポジティヴな評価を与えることが可能になるのである。すなわちここで大塚は、「営利」に導かれた資本主義の精神も、それが「国」という「全体」に奉仕するかぎりで評価できると考えるようになったのである。」(中野1999=2014、p55)

 

 このような考え方の方向性の変化は確かにあったが、中野はその連続性として、大塚の議論の「啓蒙性」を強調し、なおかつ大塚の態度を(1-ア)、ないし「近代①」としてみることは「一面的」であると指摘する。

 

「「人間類型」という概念が戦中の「生産力」の思想を引き継ぐ道具立てだとすれば、新しい人間類型を「創出」するという要請は、戦後復興への貢献の倫理とそれを担う主体の創出を意味することは間違いない。それゆえ戦中の大塚の言説が「戦時動員」の思想になっているとすれば、戦後のこの大塚の言説は、いわば〈戦後動員〉の思想であると見なす他はあるまい。この全体(=国家)中心の動員という思想において、大塚の戦中と戦後とははっきりと連続している。大塚=ヴェーバーの倫理的な言説は、この意味で一貫している。

 このように見てくると、大塚における戦中から戦後における移行の実相が、ようやくはっきりと理解できるようになるだろう。それを一口で言えば、戦後においては、「近代化の遅れた日本」という内閉した視界の中で、動員の思想が語られるようになっているということである。戦中においては、「新しい経済倫理」の確立は、「資本主義の精神」の価値倒錯を超えて直接に「最高度自発性」を促すものとして、それゆえ、西欧の資本主義近代を「超克」する「わが国」の世界史的使命として語られた。それは、帝国主義の覇権争奪に視界が「開かれて」いて、その同時代の意識から課題が捉えられているからである。これに対して戦後においては、視界ははじめから「近代化の遅れた日本」に限定されている。だからここでは、近代の精神を語り、近代的人間類型の禁欲的性格を説くことが、日本の戦後復興に目標を示して人々を動員する、まさしく啓蒙的な言説として機能するのである。……

 とすれば、この大塚を「近代主義」とか「西欧中心主義」と規定して済ませるようなありきたりの大塚批判は、少なくとも事柄の一面しか捉えていないということになるだろう。本章の考察の主軸となっている三〇年代からの軌跡という観点から見るならば、大塚の戦中と戦後における以上のような動員の思想は、自己中心的近代人への批判というもう一つ背後にある思想的モチーフの一貫生のなかに包摂される。この背後にある思想的モチーフが、戦争とそれに続く敗戦という日本の国難に際会して、国中心の貢献という思想にまで積極化し、大塚をして人々に動員を呼びかける啓蒙家たらしめたということなのである。だから、大塚自身の主観においては、そもそも「近代主義」などという批判は全くお門違いだと思われただろうし、この全体に奉仕する主体という思想そのものについては、決して反省すべきところはないと信じられていたと思う。」(中野1999=2014, P78-79)

 

 そして中野も遠藤論文で批判の対象とされていた大塚のヴェーバー読解の問題に触れる。これは「プロテスタンティズムと資本主義の精神」の邦訳の問題にまで触れながら議論されているが、その問題点をまとめて次のように語っている。

 

「大塚=ヴェーバーの思想は、プロテスタンティズムの禁欲と「職業人」理想に力を借りつつ成立してきた近代資本主義の圧倒的な生産性(=国民的生産力)を高く評価しながら、その下で、やがて人々が「富の『誘惑』」という試練に負けて「貧慾の蝕み」を受け、富中心の生活へと堕落してゆくということを批判するものである。言い換えるとこれは、近代的生産力の観点から、職業人たらんと欲する「主体」をもたらしたプロテスタンティズムの倫理の意義を高く見て、そこからの倫理の堕落を憂い、人々に「本来」の意味の自覚、あるいは意味への覚醒を求めるという構成をとっている。このような近代人批判は、それゆえ諸個人の意識のあり方にあくまで定位するもので、もともと啓蒙主義的あるいは説教家的であって、それゆえ、無教会派クリスチャンとして出発した三〇年代の大塚が意識した自己中心的近代人への批判がその延長線上に辿り着いた形であると見てよい。

 これに対してヴェーバー自身が示している結論は、「職業人」を理想とするプロテスタンティズムの禁欲が直接に人々を規律して、忠実な職業労働という規範に組織し、これが近代的経済秩序という「強力なコスモス」を作り上げるのに大きな力を与えたということである。そして近代においては、この「コスモス」が一切の諸個人の生活スタイルを否応なく決定し支配するようになる、と見るのである。ここで批判の視線は、意識の堕落というよりはむしろ、職業人を理想とする人間の規律化とそれにともなって進行する社会的秩序の物象化的な自立そのものに向けられている。」(中野1999=2014, P86-87) 

 

 以上中野の議論をまとめると、基本的に大塚は「近代」を支持しておらず、それをヴェーバーの翻訳の誤りとも関連付けて語っている。ある意味で「資本主義の精神」について、あらかじめ「堕落する」方向に向かうことを強調しているかのような態度をとっていると基本的に考えている。このような態度に対して、どのような近代観に立っているとみなすべきかはなかなか難しい。中野の議論からはむしろ「近代批判」という言葉に代表されるように、むしろ近代に対して批判的であったとする大塚像が強く描かれている。大塚の「近代」の認識自体は「近代①」や「近代②」だとしつつも、その近代自体を批判している(ないし否定的にみている)と中野は指摘するのである。

 中野のこのような解釈は結果としては正しいように私も思う。しかし、後述するように大塚理解としては少し雑な所(説明不足な所)があるように思う。というのも大塚自身「資本主義の精神」と俗に言われる「資本主義の帰結としての堕落」を同一視していると考えていない。しかし、このような「理論的位置付け」について行うように大塚を整理しようとすると、大塚自身がそのような整理のされ方を放棄しているとしか読めず、整理のしようがないのである。

 

〇大塚の考える「近代」について

 さて、大塚のテクスト読解に移りたい。ここでは再びいくつかの問いと仮説をたてつつ、大塚の考え方に迫るアプローチを行ってみたい。

 

(2-1)人間類型論は実在する人間とどう関連しているとみなすか

 大塚は特に「資本主義の精神」をもった人間類型は過去のある時期においてイギリスやアメリカにおける実在の人間と結びつけ、「大勢」であったものとして位置付けている。

(2-2)人間類型と「生産性」についてどう関連するとみなしているか

 大塚は基本的には理想的な近代的人間類型は生産性に寄与するものと考える。これが戦中の大塚言説においては特に重きを置かれていた感があり、「より生産的である」ことを志向するため、ヴェーバーを取り上げてきた感がある。大塚の言説内ではこれを「決定的」とみなさざるをえなかった、なぜなら別の可能性について大塚はすべて否定をし、プロテスタンティズムが真としてしか読めない歴史観を展開してきたのであるから。

(2-3)「資本主義の精神」という人間類型は「今の」欧米人を指すものとみなされているか

 今はヴェーバーが想定したとおりの時代となっており、今の欧米人を指す言葉ではない。むしろ基本的には今の欧米人は堕落した存在と位置付けられており、「資本主義の精神」をもった人間類型として位置付けられているとは言い難い。

 

(2-4)近代的人間類型を「模倣」すべきとみているか(単一的な価値観の強要)

 時期によって態度が違う。近代的人間志向をすべきとする時期と肯定していない時期がある。ただ、単一的な価値観を強要しておいて別の価値観がありえるという状態は虫がよすぎるのではないのか?という批判もありえる。

 模倣すべきものとして強調されているのは、「資本主義の精神」における禁欲性であり、近代④の考え方に基づいている。

 

 

 まず、大塚の人間類型の議論で大きなポイントとなるのは「近代の人間的基礎」(1948)の位置づけ方であろう。というのは本書において大塚は明らかに日本人について「近代人となれ」(模倣しろ!)と主張しているのである。その近代人とはまさに「近代④」に基づく人間類型そのものであった。引用しよう。

 

「わが国経済の再建が民主的方向においてなされなければならないということは、いうまでもなく、今や一つののっぴきならぬ至上命令となっている。……

 ところで、ここで私が強調したいのは、こうした経済民主化の方向を推進するところの政治的主体が十全に形づくられうるためには、人間的主体の民衆的基盤が広汎にどうしても成立していなければならないということである。いいかえれば、民衆が――この民衆がという点がなによりも重要である――広く近代的・民主的な人間類型に打ち出されていなければならないということである。」(大塚「大塚久雄著作集第八巻」1969,p169)

 

「わが国の民衆が一般に示しつつあるところの人間類型、あるいは彼らの醸し出しつつあるエートスが、現在なおおよそ近代的・民主的なものでないことは社会学的観点から見てとうてい否み難いところである。このことを明らさまに指摘することは国民的感情として忍び難い感が無きにしも非ずであるが、現下におけるわが国経済社会の近代的・民主的な再建の問題を真剣に考えるならば、このことはどうしてもはっきりと指摘されねばならない。

 わが国民衆の示しつつある人間類型は、簡単に封建的といい切ることはできないいっそう複雑な、いわばアジア的なものであると思うが、今われわれはこの点に深く論及する余裕をもたないので、その詳細な社会学的分析は今は割愛せねばならない。が、少なくとも近代「以前」的なものであるということは殆んど説明を要しないことであろう。」(同上、p170-171)

 

 ここで強調されていることは「広く近代的・民主的な人間類型に打ち出されていなければならない」こと、そして日本にはそれがなく、「少なくとも近代「以前」的なものである」ことが自明のこととされていることである。

 さて、それでは近代的・民主的な人間類型とは何だろうか。

 

「もはや何の説明も要しないであろうと思う。民主主義的社会秩序を作り上げかつそれを支えてゆく人間的主体になる近代的民衆は、なによりもこうした個人の内面的価値を深くも自覚するところの、人間を人間として尊重するようなエートスをもたねばならない。こうしたエートスの創造こそが現下の基本問題の一つではないかと思う。」(同上、p175)

  

 「個人の内面的価値を深くも自覚するところの、人間を人間として尊重するようなエートスをもつ」ことがその回答である。そして、このようなエートスは何を指しているのだろうか。引用するまでもないが、大塚の場合、それはヴェーバーのいう「資本主義の精神」である。

 

「かつてマックス・ヴェーバーは、さきにもふれたベンジャミン・フランクリンが書き記した数々のものについて、そこでは「古典的といいうるまでに純粋に」近代的人間類型の姿が描き出されているという意味のことを述べているが、この点では筆者も全く同意見であって、近代的人間類型の理想的映像を描きだそうとするばあい、彼の書き記した数多くのもの、なかんずく『自伝』は格好な手がかりとなるであろう。」(同上、p182)

「近代的人間類型のつくり出す精神的雰囲気のなかでは、一見外形的な自然法的な枠は取り去られるけれども、そうした外面的な枠よりは遥かに強力な社会的連帯の内面的意識が、かえって全体への顧慮をつくり出してくることを忘れてはならない。」(同上、p184)

 

 ここまで同一の著書ではっきりと因果関係を説明している以上、この著書における大塚にとっては、「近代」への模倣を日本人が行うことが至上命題となっていたのは明らかであると認めなければならない。つまり、(2-4)の問いについては、「近代の人間的基礎」の時期において紛れもなく肯定しているのでなる。

 ただ、その性質の理解のため「資本主義の精神」についてはもう少し丁寧にみてみよう。次の一節は一見すると奇妙と思われるかもしれない。

 

「筆者は、近代的人間類型の創出のためにはあらゆる場面で周到に「教育」が推し進められなければならないと言った。ところで、このばあい、「教育」を最広義に解するとしても、「教育」だけでは決して十分ではないのである。すなわち「教育」を効果あらしめるためには、それを必要な客観的諸条件、なかんずく物質的諸条件によって裏づけてゆかねばならない。それは、フランクリンの教説を紹介したところですでにある程度までふれたところであるが、民衆の決定的部分が近代的人間類型まで「教育」されてゆくためには、まず彼らの労働の生産性が高まり、富裕が増大せねばならない。すなわち、最も順調な民主化のためには、主観的条件と客観的条件が互いに相援護しつつ同時に進行することが必要である。」(同上、p185)

 

 この主張のどこが奇妙なのか。それは「教育」がなされる前に「『まず』彼らの労働の生産性が高まり、富裕が増大せねばならない」としている点である。一見すると、「資本主義の精神」よりも「富の増大」が優先して語られていること自体が、「生産性」の議論を行っている上で矛盾していないか、と思えてしまうのである。そもそも、「生産性」は「資本主義の精神」なくとも可能なのではないのか、という主張がありえてしまうからである。

 しかし、大塚はこの主張を行った背景にあるのは、「資本主義の精神」がそもそも商人層に対する営利活動に対して「否定」の態度をとっていたことを挙げることができる。別の著書からの引用となるが、大塚は次のような説明を行っている。

 

「そうだとすると、皆さんの脳裡にはこういう疑問が浮かんでいくでしょう。何故に、そんな反営利的な思想が資本主義の勃興期に産業経営者のいわば幼虫たちに結びつき、彼らを内面から推進するような「資本主義の精神」を生み出すことになったのか、と。これに対していちおうは、それは古い商人や高利貸しへの激しい批判を意味していたのだ、と答えることで済みそうにも思われます。が、しかし、初期の産業資本家たちと反営利的なプロテスタンティズムとの結びつきは、やはり、もう少し立ち入った説明を必要としそうです。実は、ヴェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」という問題の立て方の根底にあったものは、まさにこの、初期の産業経営者たちは何故にあの反営利性の強い禁欲的プロテスタンティズムに結びつくことになったのか、ということだったのです。」(大塚「社会科学における人間」1977、p141-142)

 

 さて、ここでいう「古い商人や高利貸しへの激しい批判」とは何か。これまた別の論では次のように説明していた。

 

「古い型の商人は、近代の資本家と異なって、「利潤追求」に対してほぼこのような意識をもっていた、とヴェーバーはいうのである。つまり、彼らは利潤を追求しはするが、たとい無意識にもせよ、心の底では、それを罪だと考えていたというのである。

 では、この心の底に秘められていたという彼ら古い型の商人・高利貸の経済倫理とは、いったいどのようなものであったのか。それは、ヴェーバーの用語をかりれば、経済的「伝統主義」にほかならなかった。この「伝統主義」とは、「人がその身分相応の生活に必要なるだけ外的富財を一定の度合において有せんと努むるかぎり、善なり」というトマス・アクィーナスの有名な語のうちに古典的に表現されているところの、封建的な身分秩序の維持を志向する経済倫理である。」(大塚1969,p365)

 

 大塚はまさにここが古い型の商人・高利貸について「高い生産性」がなされなかった理由であるとみる。他方で彼らは紛うことなく「営利性」の追求者であったのであり、これに対する「否定」を「カルヴィニズム、ないしプロテスタンティズム」が持ち合わせていたということなのである。大塚は明らかにこのような「否定」の過程を経なければ「資本主義の精神」が養われることはないことを確信していたからこそ、それを否定する条件にあたる「まず彼らの労働の生産性が高まり、富裕が増大せねばならない」としたのである。

 以上の議論で(2-2)の問いには回答できるだろう。つまり、「資本主義の精神」は高い生産性に寄与するエートスである。しかし、先行研究で述べられているように、このような大塚の議論は他の生産性のエートスが存在する可能性が否定されていたのである。

 

 さて、次に(2-4)の問いについてもう少し時代の変化による整理をしてみたい。ここで押さえておきたいのは、「戦中期」の言説と、「近代の人間的基礎」以後の2種類の言説である。この「以後」をいつにすべきかは今回の分析は判然としなかった。極端な話をすれば「近代の人間的基礎」だけの整理となるかもしれないし、深草が指摘したように70年代以降の変化としてみるべきかもしれない。

 ここで言説として注目するのは「ヴェーバーを超える」言説についてである。大塚にとってヴェーバーの読解は近代精神の読解としてある意味一貫したものであったと言ってよいだろう。しかし、上記2種類の言説は文字通り「近代の模倣=ヴェーバー的精神の必要性」に限定的ないし否定的であり、それを超える必要性について主張しているのである。

 

 まず、戦中の言説についてみていこう。

「もとより、われわれがヴェーバーの見解を無批判に受領して、そこに停止するようなことは、世界史の現実がとうていゆるさないであろう。たとえば、世界史の現段階が「近代的営利」を超克しつつあるといわれるとき、われわれはもとより「資本主義の精神」のもつ歴史的限界(営利性)を批判し、ヴェーバーを超えてしかも歴史的事実の上にしかと足場をふまえつつ、より高邁なエートスを構想しなければなるまい。しかし、世界史の現段階が近代西欧的なものを批判しうち超えつつあるといっても、その遺産の総てを捨て去ることではなく、その「営利」的性格を徹底的に抹殺しつつ、しかもその「生産力」――近代工業力は何といっても世界史上近代西欧において最初に形成されたものである――をより高邁なる歴史的現実のうちに発展的に摂取することが問題であるならば、さらにまた、そうであるが故に、それを「営利」から切り離し、「資本主義の精神」についてもまたそのうちに含まれる「営利心」(いわゆる個人主義)を破砕しつつ、しかもその生産力的エートスを一概に捨て去ることなく、より高邁な精神史のうちに批判的に摂取し高めることが、われわれの一つの重要な問題とならねばならぬであろう。そしてわが国が今や世界史的使命を達成するために、近代的生産力(工業力)の拡充がどうしても必要だというのであるならば、このことはまさに真剣に考えねばならぬ問題であることも明瞭であろう。」(大塚1969、p351-352)

 

 ここでは「営利(そしておそらくはそれに後続する『堕落』)」と「生産力(そしてそれに後続する『禁欲』)」の切り離しを強調しているといえる。ここでは「個人主義」さえも切り離されていることが重要である。では、「資本主義の精神」のどこに具体的問題があるとみていたのか。大塚はそれを「責任の欠如」と結びつけて次のように語る。

 

「「資本主義の精神」のうちにも「責任」という要因が見出されないのではない。それどころか、極めて広義に解するならば、生産責任さえもそのうちに含まれているということができよう。しかし、それは「資本主義の精神」のうちにあっては、個人的な営利(利潤の追求)によって媒介されている。一層正確に表現すれば、生産責任は、個人的営利の遂行を媒介しつつ、みずからも営利に媒介されながら現実化しているのである。」(同上、p340)

 

 やはり、ここでは個人主義的な営利が否定の対象とされている。それを生産力から切り離し、責任ある生産力を確保することが大塚の命題である。このような議論の解決策は、おなじみの全体主義的思想である。

 

「ところが、いまや、世界史の現実はこのすぐれて歴史的な「資本主義の精神」を批判し、その限界をうちこえて、新たな「経済倫理」がしだいに姿をあらわしはじめているのである。そのばあい、「資本主義の精神」に固有な価値の倒錯が現実の破局に直面して、覆うべくもなくなったという消極的な事実ももとより看過すべきではない。しかし、一層積極的に、いまや新たに姿を現わしつつある「経済倫理」が「資本主義の精神」と異なって、「全体」(国家)からの生産力拡充の要請に対する個人の「生産責任」を、「営利」による媒介などを揚棄して、直接にかつ明確に意識するものであるという事実を、何にもまして、はっきりと識別しなければならないであろう。」(同上、p341)

 

 しかし、戦中におけるこのような思想は、最大限擁護したとしても、精神論の一環として、「禁欲」の思想を容易に「滅私奉公」の思想と同一視させることに寄与したことは想像に難くない。これこそまさに安易な「個」の否定の帰結である。同時期の大塚はやはり「止揚」に対する大きな評価を与えていた。

 

「この否定を通じて高められた、つまり止揚された本能はまことに美しい。それはともかく、この否定の否定、そうした真のひていをとおしてはじめて真実の人間解放は達成されるばかりでなく、そこに真実の「人間」が啓示される。これこそが、単なる動物的な「感性的欲求の束」としての人間とはおよそ対蹠的に、「人格」として捉えられた人間なのであるまいか。」(同上、p167)

 

 私にはこのような態度はもはや「否定への逃避」にしか見えてこない。そしてこのような「否定への逃避」は別の意図しない思想との差異の説明まで行うことを放棄してしまっているのである。「否定への逃避」は何ら肯定的な価値を与えず、その限りにおいて、その価値に対する批判から免れることが許される(と、そのような発想になる論者は考えてしまう)のである。だからこそ、私はこれまで一貫して「止揚」に対してはその枠組自体が有害であると考えているのである。

 

 それでは、戦後の言説の方はどうか。ここでは「「甘え」と社会科学」(川島武宜土居健郎との共著、1976)に着目してみたい。本書が注目されるべきなのは、土居の「甘え」の理論を大塚がどう解釈し、何を主張したのか、という点である。「甘え」の理論は土居が主張するように「日本人論=特殊日本的」な態度が内在されており、それまでの大塚の「近代論」ともどのように関連付くのか、一見するとよくわからないという点で、検討すべき著書といえる。本書が成立した経緯として土居の著書に大塚が注目したことが挙げられており(大塚他1976,piv)、両者の議論が接近したのは間違いないのである。

 しかし、実際の論調として、土居のような日本人論を展開することはない。何より「甘え」をヴェーバーが語る「ピエテート」と同一視し、検討を加えている時点で、すでに「甘え」が日本独自の概念とする土居の主張とも相違しているように思える。もっとも、大塚は「特殊=日本的なものを社会科学的にとらえる方法的枠組をつくり出そうと努力してみたんです。しかし、自分の専門は当面西洋経済史でしょう。そこで逆に、日本人の目で西洋、とくに英米の事象を見ていくとどうなるか。そういう形で問題を考え詰めていったんです。」と述べている(大塚他1976,p23)。ある意味で日本人としてどのように普遍的な現象を解釈できるのか、日本人だからこそできるアプローチがあるのではないのか、という目線から「甘え」の問題をとらえたようである。

 では、大塚は具体的に土居のどの部分について共感をもったのだろうか。直接的な言及こそないものの、それが土居が「門外漢」であるにも関わらず強調していた、かの西洋思想が「甘え」を克服できなかったという一節に対してだったようであるという推測は可能である。そして、この議論の中で大塚は「資本主義の精神」を相対化して語っている。大塚はいつものごとくヴェーバーを参照しながら「資本主義の精神」によりピエテートは「抑圧しきった」ものとし、そのことこそが「近代の合法性意識の支配に道をひらいた」と述べる(大塚他1976,p220)。しかしながら、土居と同様、結局は「第二次大戦後抑圧の力が弱まって、その結果「甘え」が再び意識の前面に現われ始めた。」とみる(同上、p218)。

 また、大塚が「甘え=ピエテート」の概念を用いて何を説明したのか。これは次のような形で語られる。

 

「大塚 少々話は飛びますが、これからの世界、そのあるべき文化についてですがね、私はどうしてもこういうことを考えざるをえないのです。近代ヨーロッパ文化の中では抑圧されてしまっている「甘え」の構造――それはアジアでは現在でも古い姿のままで残っているのですが――そういう「甘え」の構造が、もちろんはるかに昇華された形ですが、もう一度現われてくるべきだし、また現われてこざるを得なくなるんじゃないでしょうか。そしてそこに世界史の救いが見出されるのではないか。そういう考えを押えきれないのです。」(大塚他1976,p240)

 

 さて、少々突拍子もないが「甘え」に「世界史の救い」を求めているようである。当然ここには「近代」の枠組みでは解決不能な問いに対して「ピエテート」が鍵になると大塚は考えているのである。これは明らかにヴェーバーを超えた問いの立て方を行っていると言えるだろう。これは戦中の大塚のヴェーバー読解に近似する発想である。

 では、何故ピエテートが「世界史の救い」となると考えられるのか。これに関連し大塚は次のように主張する。

 

「大塚 つまり、禁欲的プロテスタンティズムには、この場合ヴェーバー的意味での家族的「ピエテート」とは言いがたいでしょうが、まだまだキリスト教的「ピエテート」、つまり強い価値へのつながり、ヴェーバー風にいうと実質的なものが含まれておりました。が、「資本主義の精神」になると、それがいまや失われて、さきに申しましたような合法性のぐるぐる回りが現われてくるわけなんです。そして神とマモンの地位の逆転が起こる。ヴェーバーはそういう逆転はすでに、カトリック修道院内部でもくりかえし起こりえたことだ、といっております。だからこそ、くりかえし修道院の改革が行なわれなければならなかったというわけです。ところがプロテスタンティズムの場合には、それが世俗生活を基盤として全社会的な規模で生起したために、その改革がおそろしく困難なものとなってしまった。ヴェーバーはそう言います。」(同上1976、p221)

 

 ここでのポイントは「改革」という言葉である。つまり、「資本主義の精神」へ依存してしまうと、固定された社会観となってしまい、「改革」が行われなってしまう。だから問題であると言いたいようである。

 しかし、ここまできてこのような態度を「近代の人間的基礎」で語られていた「近代」観と比べると、暴論を行っているように思えてくる。そもそもここでいう「「資本主義の精神」が変革をもたらさない」という価値判断が正しいようにとても思えないのである。むしろそのような「改革」の核になるものこそ「資本主義の精神」ではなかったのか?しかし大塚はそれでもなお「ヴェーバーは、近代ヨーロッパの資本主義文化、つまり厳密な意味での近代社会をそういうものとして捉えていた」としているのである(大塚他1976,p221)。

 

 大塚のこのような主張はあまり耳を傾ける価値がない。押さえるべきはむしろこの時期の大塚が「資本主義の精神」と「現在の欧米」との区別をほとんどできていないという点にある。先述したように、「近代の人間的基礎」における大塚は基本的に「近代④」の立場にあったと述べた。ところが本書における大塚の立場は「近代②」にあると解釈する他ないのである。

 拡大解釈するとこのような態度になってしまったことにも、戦中との比較であれば容易に理由が認められる。特に戦中のヴェーバー読解というのは、それ自体現在の欧米とは一定の距離を置かなければ言論そのものとして成立ができないものであった。つまり「現在の欧米は問題があるが、過去の欧米には学ぶべきものがある」という論法において、「資本主義の精神」が見出され、近代④の立場から「近代の人間的基礎」ではそのエートスの模倣を強要したのであった。しかしこの70年代における大塚はすでにそのような区別を行う必要がある立場にはなかったのだろう。だからこそ容易に両者(過去の欧米と現在の欧米)は一体のものとして語れるのである。もちろん、ここには深草が言うような事情もあるのかもしれないが、それ以上に意図的な、そして理論的には致命的な態度変更を大塚は行ったというように見えてならないのである。

 少なくともこの段階では(2-4)の問いについては「模倣すべき」というより逆にもはや拒否されるべき対象とさえなっているように見えてくる。また、(2-3)の問いに対しても、過去においてはむしろ区別されることが極端に言えば「時代の(戦時中としての)」要請だった訳だが、70年代においてはすでに「今」の欧米人を指す言葉として「資本主義の精神」を語っていると言えるのである。

 

〇大塚は自らの主張をいかに擁護したのか?

 このような「自らの語っていること」と「自らの(他人からの)解釈」のズレについては、大塚も自覚があり、しばしばそのことについて言及している。例えば、「ピエテート」の議論についても、「大塚はイギリスをモデルにして日本を割り切ろうとしているという、全然逆の理解されて今にいたっている」とする(p23)。この部分に限れば大塚自身が「近代①」や「近代②」を主張していると言われるが、自分はむしろ近代的思考に与していない、という主張を行っていることになる。

 

 ただこの大塚の弁解は自分のどの主張に関する議論かが不明瞭であることもあり、奇妙なものも存在する。例えば、次の主張は1963年にされたものである。

 

「ただ、この点について、さきにもちょっとふれたが、いまだに奇妙な誤解があるように思われるので、ここで一言つけ加えておきたい。私がしばしば禁欲的プロテスタンティズムの史実を範例にとってきたのは、もちろん、近代初期のヨーロッパの事情を現代日本の模範にしようとしたり、それとの距離で現代日本の歴史的位置を計ろうとしているのは、さらさらないのである(ついでながら、私の表現の不備な点についてはお許しを願うとともに、今後この種の誤解はぜひやめにしていただきたいと思う)。そうではなくて、私が意図してきたところは、むしろ、そうした史実の分析を通じて、禁欲の社会的堀進作用、文化形成作用の重要さを知り、かつ、そこから、禁欲に関する一般的な経験法則とでもいうべきものを導き出そうとしたにすぎない。なぜなら、日本を含めて、あらゆる国々において、一定の歴史的条件が存在するばあい、禁欲は現在でも同様な強烈な作用をおよぼす可能性を以前もっていると十分に想定されるかぎり、その現象の分析基準として、そうした禁欲思想とその行動の一般的な経験法則をあらかじめ知っておくことが、どうしても大切だと考えられたからである。」(大塚1969、P575-576)

 

 正直なところ、この弁解には無理がある。先述の「近代の人間的基礎」で行った主張について「史実の分析を通じて、禁欲の社会的堀進作用、文化形成作用の重要さを知り、かつ、そこから、禁欲に関する一般的な経験法則とでもいうべきものを導き出そうとした」という次元には到底留まっていない。大塚の弁解は何やら「科学的法則」の探究に向けられているかに見えるが、「近代の人間的基礎」においては、その域を超えてしまっているのである。

 しかも、大塚は上記弁解の直後に次のような主張を行っているのである。

 

「ところで、戦後はどうか。いわゆる百八十度の転換によって俄かに神聖視されはじめた「自由」の思想は、伝統主義的な旧体制の束縛から民衆を解放したという一面の正しさにもかかわらず、このばあい、あたかもルネサンス思想と同じように、伝統主義的束縛とともに禁欲一般を断罪し、湯水とともに赤子を流しきった嫌いがないではない。私は終戦直後このことを強く感じていたのだが、その感じはいまでは強まるばかりである。そこへいわゆる経済の高度成長とともに、レジャーとか、バカンスとかのよび声に支えられて、シニカルで反禁欲的な享楽的消費の高揚が出現した。ただ、保守の側では伝統主義への郷愁に支えられてある種の禁欲を復興しようとする動きがみられなくはないし、また新興宗教のなかにも別種の、これはかなり強烈な禁欲運動の前進がみられるほかは、保守の側でも、革新の側でも、右でも、左でも、いまや禁欲はいたるところ、いちじるしく姿をひそめるにいたったという感じが強い。こうした現状は、おそらく大衆社会現象とひろくよばれているものなのであろう。

 さて、私はおそれるのだが、こうした人間的状況のもとで、もしある種の反時代的な非合理的な社会的内実を目ざす禁欲運動――日本では宗教的外装を伴ってくる可能性がある――が出現したとするならば、ばあいによっては、それは、無人の野をゆく勢で伸びひろがる可能性もあることは明らかだ、といわねばならない。そこで、こうした動きに対して対応する態度をとろうとするのならば、そしてまた、現在のこうした人間的状況が自由を禁欲一般と抽象的に対立させた思想動向の帰結だとするならば、いまや自由をふたたび禁欲にむすびつけるような思想的立場こそ、今日もっとも緊要なものといえるのではあるまいか。」(大塚1969、P577)

 

 「今日もっとも緊要」な「禁欲」とは、言わずもがなヴェーバー的な「エートス」であり、「近代初期のヨーロッパの事情を現代日本の模範にしようとした」ものであることは明らかである。とするならば、この主張はやはり「近代を模倣しろ」という態度そのものなのではなかろうか?このような弁解を行う大塚に対して、すでに理論がデタラメなのではなかろうかと思う論者が出てきてもおかしくないし、谷沢永一のように「大塚は本音をなかなか語ろうとしない」と考えられても不思議はない。大塚はこのような弁解において自分の説明が悪いかもしれないことも認めているものの、上記のような議論の仕方はもはやその領域を超え、明らかな自己矛盾の語りを行っているとしか読めない。

 もっとも、上記の主張だけを見れば、まだヴェーバーに立ち返り「資本主義の精神」とはあくまでも「理念型」であり、「理念型」である以上、実態とは関連性を持たないという弁解をすることも(ヴェーバーの論理から言えば)不可能ではない。しかし、大塚のヴェーバー理解において、このような議論の可能性は存在しない。大塚は明らかに「資本主義の精神」をイギリス・アメリカの一時代において存在しているものであったと断じているのである。

 この態度が露骨になったのが「社会科学における人間」(1977)において、「人間類型」の定義を明確にした点にあった。

 

「さて、このようにある時代のある国民が全体として特徴的に示す思考と行動の様式、そのタイプをこれからは人間類型とよぶことにしたいと思います。ただ、それには少しばかりこういう注釈をつけておかねばなりません。ある時代のある国民と言いましても、どの人もこの人もみなそういうタイプに打ち出されているというわけではありません。それはもうピンからキリまでいろいろな人がいるに違いないのです。……つまり、例外的な人間はいくらでもいるんですが、全体として見たとき、ある特徴的な思考と行動の様式を共通にしている人々はそのなかの決定的な部分を占めている、そういうことなんです。」(大塚1977、p14)

 

 管見の限り、大塚自身、戦中からずっと「人間類型」という言葉を用いていたが、それが「人々の共通要素」と明確にみなされたことはなかったように思う。思うにこの「人間類型」の語りは当時の「日本人論」の影響も強く受け、悪い方向に「洗練」されてしまった成果であるように思うが、このような語りを晩年まで何も疑問も持たずに行ってきた中で、このような主張がなされるのは、大塚にとって「資本主義の精神」の存在は紛れもない「歴史的事実」だ、という確信があったからに他ならない。直接的には「ロビンソン的人間類型というのは、十七、八世紀のイギリスや、北アメリカのニューイングランドあたり、それから西ヨーロッパの国々のある部分という、ある時期のある国々にだけ現実に存在したものですね。」(大塚1977、p67)とも語っておりその時代・その地域における社会の「典型的なもの」とみなされていたのである。(2-1)の問いにはこれで答えていることになる。

 

 さて、以上のように大塚の議論について検討してきた。最初の問いに戻るならば、少なくとも(1-ア)の態度を大塚がとっていたという見方は総じて言えば誤りであろうが、「近代の人間的基礎」においては、そのように読まれる余地も大いにあったともいえる。「近代の人間的基礎」は確かに1948年の著書であるもの、1968年に復刻しており、それは決して終戦直後にだけ限られた大塚読解とみなされていなかったこと、もっと言えばこのような極端な内容である著書を大塚自身が何の疑問もなく再生産し続けたこと自体もやはり問題であるように思える。

 そこで、読めば読むほど(1-ウ)が支持される要素が多いことがわかる。仮にそれを回避する良心的な大塚読解をするなら(1-イ)として読まれるほかないのだろうと思う。もっとも、この意味するところは大塚自身が「近代④」の立場にあったとして読まれるべきか、大塚が「近代②」の批判を行っていたとみなされるべきかも議論が分かれてしまうところである(※2)。もしかしたら今後松下圭一のような精読を行うこともあるかもしれないが、徒労に終わってしまうように今の私には思えてならない。

 

 

※1 例えば、伊豆公夫は戦後直後にすでに同旨を批判を行っている(伊豆公夫「社会発展の理論」1948,p278)。

 

(2021年2月2日追記)

※2 先行研究においても論者ごとに大塚の態度の評価がズレている傾向が認められるが、これは単に大塚久雄の議論を通史的に捉えようとすることを論者が怠ったというだけではなく、大塚自身の態度にも大きな問題があり、その議論の焦点を合わせることができなかったということである。特に「近代」観に関して言えば、明らかに戦後途中までの大塚のスタンスは「近代④」にあったはずだが、70年代のテキストにおいてその「近代」を相対化する試みの中で「近代④」のエッセンスを捨ててしまい、その「近代」を基本的に「欧米の歴史観」として語ってしまっていることに、そもそも「近代④」のスタンスをとっていた時代においても、その焦点化が十分ではなかったのか、という批判が成立してしまいそうだし、何より大塚が繰り返し弁解していたはずの「大塚は近代①ないし近代②の論者である」という否定についてまで、無効化してしまっている気がしてならない。ある意味で「大塚読解」というのは厳密な意味で成立不能であるという結論も出せる。

 

 しかしそれでもなお、敢えて「大塚読解」を行い、その意図をくみ取ろうとするのであれば、近代④のスタンスを大塚がとっていたと解するべきだろう。大塚の弁解として、1969年頃に書いたものであろう、全集のあとがきには、次のようなものもある。

 

「つまり、資本主義以前の社会的諸形態のどれか一つから、資本主義だけでなく、社会主義への移行をも含めるようなものだったのである。ところが、この点が、私の説明不足もあって、多くの誤解を惹き起こす一因となったことは周知のとおりである。が、さらに運わるくいま一つの混乱が追加された。それはその後、主として低開発国問題への関心からアメリカの社会科学者たちによって提起された、〝modernization〟論のばあいの〝modernization〟が「近代化」と邦訳されて、わが国でも私の用語法など以上に広く流通しはじめ、その結果、そうした「近代化」の用語法としばしば混同されてしまうようになったことであった。」(大塚久雄大塚久雄著作集 第八巻」1969、p616-617) 

 

 ここでは資本主義社会だけではない社会の可能性についても大塚が語る「近代」は意味していたということが強調されている。なおかつ、単一的発展観ないし「アメリカへの模倣」を意味するものでさえなかったという。このような主張が成立する要件は、私には「近代④」のように現在の資本主義社会とは切り離した上のそのエッセンス(エートス)としての「資本主義の精神(これは「資本主義そのもの」ではない、ということさえ含意する)」を掬いだした上で、その重要性を議論していたのが大塚であったという整理をしないと、説明がつかないと考えるのである。当然、このように捉える大塚は「単一的歴史観」から距離を置いている意味で「1―イ」の立場にあると考えるべきとなる。