日高六郎編「現代日本思想大系34 近代主義」(1964)

 今回は、日高六郎の近代化論の指摘をもとに、これまでの大塚久雄を中心とした近代化論の議論を少し整理してみたい。というのも、本書における日高の指摘については、他の論ではなかなか見られないものがあり、かつそれが適切な指摘であるように思えるからである。私自身も大塚読解において日高の視点を捉えられていた訳ではなかったため、大塚を再読した結果について整理してみたい。

 まず押さえておきたいのは、この「近代主義」という言葉自体が、「近代の批判」を行う論者によって語られるものであり、「近代の肯定」を行う論者は近代について明言していないという特徴についてである(p10)。これはある意味で「近代を肯定」を行う論者自身が、(自身がその立場にない、という議論も含め)「近代主義」について明確に定義・整理していないということを意味する。例えば、丸山真男などは一つの典型であろう。彼に至っては、私自身も未だに「近代主義者」としての位置付けを理解できていないが、そもそも「肯定的」な意味で「近代主義」を議論しておらず、専ら過去の日本の「封建制」について批判を行うことに終始する場合についても、「近代主義者」というレッテルが貼られているのである(※1)。

 

○「近代主義=欧化主義」をどう見るか?「産業化的近代化論」と「民主化的近代化論」について

 また、大塚久雄に関して言えば、はっきりと「近代主義者」である筈なのだが、大塚自身は「近代主義」のレッテルを貼られることについて、ひどく毛嫌いしていた。これについては、すでに指摘したように、「近代主義=欧化主義」という図式で語られがちであったことについて大塚は否定的であったと言える。私自身もこの議論について「単一的近代」「複数の近代」という軸から大塚について考察を行い、その態度が70年代以降矛盾していくことについて指摘した。

 一方、日高は「産業化的近代化論」と「民主的近代化論」という2つの近代化論の存在を指摘している(p22)。「産業化的近代化論」は後発的な議論であり(p25)、かつ保守的支配層はこの議論を民主的近代化論から転換できると見てとったとき「近代化」を説きはじめることになったという(p22)。

 大塚の議論から近代化を考えてしまうと、この両者の区別はあまり明確になってこない。というのも大塚自身がヴェーバーエートス論を経由してこれを基本的に同一のものとして扱っていたからである。しかし、この態度は一貫していない。すでに考察したが、まとめると次のようになる。

 

・戦中の大塚の言説は、「産業化的近代化論」にも強く根ざした形で、「最高度の生産性」のため「最高度の倫理」を目指したものであったこと

・戦後直後の大塚の言説は、欧米の近代化エートスに学ぶ形で、「民主的な心性」をまず重視するため近代化論が語られたこと

・特に70年代以降の大塚の言説は欧米的な近代の帰結である官僚化と頽廃について強調され(これは「民主的近代化論」の帰結として語られる)、これを日本の状況と同一視したこと

 

 上記のように語られていた大塚の議論は、日高がp39で指摘するように、産業化的近代化論の視点で見た場合同一視されがちである「風俗的次元でのアメリカ化現象」と同じように見るのは誤りであるのは間違いない。しかし、ここで改めて注目しなければならないのは、70年代以降の大塚の態度変更である。この時期の大塚は、すでに日本と欧米の状況を同一化し、近代化論そのものの批判に目が向いていたが、このことを「民主的近代化論」の議論として見た場合、どのような状況で問題を捉えていたと言えるだろうか?実際の所、戦時中から一貫して大塚は「欧米と同一視される近代化」については否定的態度があり、これはヴェーバーアメリカ観に代表される、近代化の一種の帰結としての頽廃に対する見方を共有したものであった。にも関わらず、終戦直後の大塚は、それと同じ「近代化」を強調することを行っていたのである。これはある意味で「将来的に頽廃することがわかっていたにもかかわらず、近代化を強調した」という批判が成り立つものであるはずである。しかし、少なくとも終戦直後の大塚はそのようには全く考えなかったと言えるだろう。何故別物として考えられたのだろうか?

 これを戦時中の強烈な「止揚」の発想の下に語られていた「最高度の自発性」の議論に引きずられていたから、とか文字通り戦後日本はゼロからスタートしたものであるから、といった説明は非常に簡単である。むしろそのような説明の方が妥当なのかもしれない。そして戦後日本は経済復興していく中で、ヴェーバーの予言通り、つまり欧米と同じ道を辿ってしまったからこそ、見切りをつけてしまったというのが素朴な説明として一番しっくりくる。

 しかし、それでも私がなお腑に落ちないのは、70年代の大塚自身が日本の状況について「(産業的近代化論的に)近代が(欧米と同レベルのものとして)完了してしまった」という前提のもと欧米の状況と同一視していることが明確であることである。このことについて、大塚がまだ日本の(民主的近代化論的に)近代が未熟であるという認識に立つことは可能であったように思う。特に80年代以降の「改善言説」を求めるようになった日本人論全般についても、基本的に「産業的民主化論」としては完成した日本に対し、(生産性に従属した議論に限った)「民主的近代化論」については未熟な状況を指し改善を図るものである、という見方が可能である。もちろん、生産性如何に関わらず、日本が民主的でないという日本人論は山のように存在し続けた中で、大塚はそのような視点から議論を行うのをやめてしまっているのである。

 このように考えてしまうと、「産業的近代化論」と「民主的近代化論」を大塚が一体的に扱ってきたといえども、70年代以降の大塚もまた「産業的近代化論」の影響を強く受け、「民主的近代化論」の議論の必要性については著しく軽視するようになったという結論を出さざるを得ないように思われる。

 ただ、これに合わせてもう一点問わなければならないのは、そもそも大塚的な理解により「民主的近代化論」というのを「産業的近代化論」と一体として語ろうとする論法自体が適切であったのかという点である。これ自体はヴェーバー由来(ただし、これは大塚の独自理解としてのヴェーバー理解)の議論であり、本書で言えば丸山真男川島武宜などは実際にヴェーバーの影響を受け「民主的近代化論」について語っていた論者であったのは確かである。しかし、例えば教育界における「民主的な教育」の議論においては、かなり早い段階(遅くとも50年代半ば以降)で「産業的近代化論」とは「決別」し、これを否定した「民主的近代化論」を展開していったと見ることは概ね正しい理解であるように思える(そしてその系譜は一応現在にまで続いている)。また、大塚のヴェーバー理解によれば、確かに過去のイギリスやアメリカではこのような倫理が存在し、それが生産性の高い産業発展につながったものと見るが、それはすでに現在においては存在していないものである。その意味で、本当にそのようなものが「存在」していたのかという疑問も当然ありえるように思える。また、私が提出した論点として、この「産業的近代化論」と「民主的近代化論」の結びつきとしての議論はそれ自体「止揚」の発想に基づくものであり、大塚が「止揚」の発想を捨てたからこそ、70年代以降簡単に態度を変えられたとみる仮説の立場から言えば、そもそもこの二つの近代化論を結びつけようとする試み自体が「無理筋」であった可能性も否定できない。確かに見方によっては現状の近代化論は「産業的近代化論」に支配され「民主的近代化論」の議論が消えてしまった、という見方をするのは簡単だが、この忘却というのは、むしろ「無理筋」だったものに対する消極的な反省と言えるのかもしれないのである。その意味では本書で指摘されるp40やp47のような「民主的近代化論」の無理解による欧米との同定化志向というのも、むしろ必然的なものであるのかもしれない。この議論は今後実際の言説をもとに考察していきたいところである。

 

※1 例えば伊東祐吏「丸山眞男の敗北」(2016)では「丸山の論考が常に傾向や風潮に逆らって否定的なかたちでしか提出されず、積極的な処方箋としてはありえない」ものだったとしている(伊藤2016,p24)。

 

<読書ノート>

☆p7「近代主義は、「近代主義」的傾向なるものを批判しようとする人々によって外部からつけられた他称である。」

※この主張自体が興味深いとも言える。これが一般則として成立するのであればなおさら。

P8「近代主義とはなにか、近代主義者とはだれか、ということについて、みずから名のりでるものがないとすれば、その定義および支持者の範囲は、近代主義批判者に聞くほかないともいえる。」

P8「近代主義者たちに共通のものは、日本の近代化とその性格そのものにたいする強い関心である。同時に制度的変革としての近代化だけではなく、その変革をになう主体としての、いわゆる近代的人間確立の問題にたいする強い関心である。……外部からの大塚批判があたっていたかどうかは別として、敗戦直後に大塚の発想に近い、あるいはそれを支持する一群の人々が存在していたことは否定できない。」

P9「いちおう日本共産党の政治路線に沿うマルクス・レーニン主義者を正統派マルクス主義者と名づけるならば、それらの人々は自分を近代主義者とはっきり区別している。彼らは、第一には、近代化は要するに資本主義化にほかならないと考える点で近代化の概念そのものを不正確と考えていたし、第二には近代的人間確立が個人主義的方向で理解されやすいことを懸念していた。しかし彼らの批判についてはあとでさらにくわしく取上げよう。他方欧米学者が日本の近代化の問題を考えるとき、その接近の仕方は日本の学者のそれとはかなりちがっていた。簡単にいえば、欧米の学者が近代化という言葉を使うとき、それは自国の問題としてではなく、後進国、特にアジア、アフリカ、ラテン・アメリカなどの低開発国の問題――主としてその産業化の問題――として考えている。しかし日本の学者のばあいにはそれはつねに自国の問題として、したがって主体それ自体の問題として、考えないわけにはいかないということがある。「近代化」という概念自体は欧米産でありながら、この概念を使う当事者としての私たち、あるいは後進諸地域の人々にとっては、それはまったく自分自身の問題にほかならない。そういう逆説が、近代化の問題にはある。近代主義者が、主体あるいは主体性の問題に強い関心を持ったのもひとつにはこうした事情が背景にあるのである。」

 

☆p10「ところで近代主義という言葉が卑俗にマイナス・シムボルとして使用されるとき、それは欧化主義と等置されやすいが、しかしこの巻で登場する人々はけっして単純な意味での欧化主義者ではない。しかし同時に、それらの人々は、とくに西欧の思想学芸にたいして窓をひらくことにたいしてつねに積極的な人々であったということは否定できない。その教養も広く深く西欧的である。そのことはそれらの人々の仕事の利点でさえあった。しかもなお大塚がなげくように、大塚のいわゆる「近代的人間類型の創出」などという発想にたいして、「たとえば過去のイギリスを現代日本の理想像として設定し、それとの距離で現在の日本の歴史的位置を計ろうとしているといった類の奇妙な曲解が生じ」たということが起った。大塚の意図は、もちろん「近代初期のヨーロッパの事情を現代日本の模範としようとしたり、それとの距離で現代日本の歴史的位置を計ろうとしているのでは、さらさらな」かったのである。しかしこうしたことが起るのは、日本の近代化と西欧化との関連について、また今後の見通しについて、さまざまの見解が思想学芸の世界で渦をまいており、だれもこの渦の外に立つことはできないという単純な事実のためであったろう。」

※お茶を濁した総括といってしまえばそれまでだが、これはこれとして一つの総括である。

P19「蔵原(※惟人)は(※前衛1948年8月号にて)近代主義を次のように説明した。「近代精神と近代主義とは区別されなければならない。近代はその勃興と発展と没落の歴史をもっている。近代主義は近代資本主義の末期、特にその帝国主義の時代にブルジョア文化のうちに現われた一つの頽廃的な潮流である。」」

☆p22「こうした文脈(※政府やアメリカにおける)での近代化論は、反共を軸としながらの産業化的近代化論と言える。これに対して、敗戦直後の近代化論の発想は質的にちがっていた。すなわち、そこでは前近代的社会(とくに封建社会)や前近代的人間関係(とくに封建的人間関係)の克服が第一に問題となった。近代化にはもちろん荒廃した生産力の回復ということもふくまれていたが、そのためにもまずなによりも諸制度、社会のなかの人間関係、個人の思考・行動様式のすべてにわたっての民主化が必要だと考えられた。それは民主化的近代化論であった。そのときいわゆる「民主主義の行きすぎ」を危惧する支配層はけっして「近代化」を口にしなかった。近代化論を民主主義的近代化論ではなく産業化的近代化論に切りかえることができると見てとったとき、はじめて保守的支配層は「近代化」を説きはじめる。」

※この区分について大塚は極めて曖昧だったと言わねばならない。

 

P25「さて以上は、近代化を理解するばあいの最も典型的な四つの接近方法である。ところで敗戦直後に近代化あるいは近代的人間の問題が議論されたときには、いまあげた四つの接近方法のうち、第一と第四とがもっとも重要だったと考える。第二の産業化的近代化論が問題となるのは、ずっとあとである。また第三の複数指標説は敗戦直後の知的雰囲気からは遠かった。敗戦直後の時期には、価値転換は全面的でなければならないという気分が圧倒的だった。そうした時期には複数指標説は人々を十分にはひきつけない。議論の大半は、現象的にはすべて第一の枠組みのなかで展開され、そしてその内部でいくつかの分岐が生れた。そしてその分岐の一部が(少数者をのぞけば、そのことは十分に意識されなかったが、)第四の発想に近づいていた。」

※第一の発想は封建社会から資本主義社会への転換を意味するもの、第四は超歴史的に「近代化は近代史の過程のなかでどの程度にか現実化するかもわからないし、あるいはしないかもわからない」ものとする立場(p23)。

☆p37「国体原理による西欧化の取捨の誤りも指摘された。そこで西欧文明を、その精神をふくめて全面的に学ぶ必要が強調される。むしろ西欧文明をささえる人間類型あるいは精神そのものに注意がむけられたむけられたといってよい。ところで注意がその側面にむけられると、西欧に存在するものーー民主主義の原理とか、個人の自由と独立とか、ナショナリズム個人主義の結合とか、普遍宗教あるいは超越的原理の自覚とかーーが日本にまったく存在しない、あるいはほとんど存在しないという、いわゆる「欠如理論」となりやすい。」

☆P39「ところでそうした全面的西欧化の姿勢そのものは、ほとんど物理的といえるだけに、その反動もやがて物理的に起ってくることは歴史的必然である。しかしもし欠如理論を批判する立場がこうした物理的反動を利用しているとすれば、そのことはけっして欠如理論そのものの批判とはならないし、ましてそれをのりこえていく力には到底なりにくい。たとえば荒正人が原始キリスト教や近代個人主義を考えたということと、風俗的次元でのアメリカ化現象とを同一の次元で考え、後者にたいする批判のほこ先を前者にまでもむけていくとすれば、それは一八〇度見当はずれだったというほかない。前者は社会の全面的民主化の主体性の原理としてーーそれは当然西欧文化にたいする自主的選択を予想するーーいわゆる近代個人主義を求めていたからである。同様に大塚久雄が「プロテスタンティズムの倫理」を考えたときも、それは象徴的原理的に考えられていたのであって、その歴史的時代を日本のなかで再現することとか、その倫理をジャズと一緒に輸入することとかが考えられていたわけではない。」

※これとは別に西欧化を具体的にアメリカ化とみなすかどうかという論点もある。ここでいう「物理的」とは、物的文化を指すのではなく、具体的な指示対象となる思想も含んでいるはずのものであり、日高もそれを前提にし荒正人を引用している。ただ、日高がここで述べているのは文字通り「物的文化」をタテに全体的な思想も「物的文化」と同様の発想がなされることを意味しているわけではないように見える。また、結局「象徴的原理的」レベルのものは「自主的選択」によるもので、それはおのずと「形そのままの模倣」でないことや、「とりいれるものととりいれないもの」の選択でもあることを暗示する。さらに、ここで「それをのりこえる」こととの兼ね合いから批判の意味を捉えることも重要に思える。

 

P40「しかし他面、敗戦後の日本の知的思想的支柱として西欧文化のエッセンスを学ぼうというとき、それが物理的とでもいってよい欧化現象が社会の全領域で進行中であるという雰囲気のなかで主張されることで、かえってその本来の意味がおそろしくゆがめられていったという現実も忘れてはならない。「国体原理」による取捨を批判し、西欧をトータルに学ぼうと言ったとき、そのトータルが、アメリカ独立宣言からコカ・コーラまでの量的全体として受けとられる状況のなかでは、その質的全体そのものの皮相化という現象がおこっている。現に敗戦直後そのことがおこったのである。たとえば、教育理論のなかに、にわかにアメリカ教育学用語がはんらんし、現場の教師がすべてカリキュラムだのシークエンスだのという言葉を口にする時期があったことは、量的全体を導入しようとする衝動のあらわれであった。そうした導入は欠如理論の信用をますますなくすことに役立った。」

※理念と実態の相違をどう考えればよいのか。そしてここで「教育」が取り上げられているのも注目すべきか。

P41「もともとマルクス主義には理論的には、かなり簡単に欠如理論と結びつく性格がある。すなわち、日本の資本主義の発展そのものが、ブルジョア民主主義革命をきわめて不完全な形でしか通過しなかったということを強調したのは、マルクス主義それ自体だった。マルクス主義の世界史の発展段階法則が普遍性を持つとすれば、後進国にとっては欠如理論はある意味では不可能である。」

 

P46「竹内の議論の中心は、「独立」の強調と、「民族」要素の強調とにあることは、すでに述べた。この「独立」の強調で、彼は正統派マルクス主義以外の近代主義者にある面では接近するように思われる。竹内の独立は個人の独立と切りはなせないからである。」

☆p47「そして最後に、第三の(※近代主義にからまる)問題として、近代主義が、歴史的「近代」を固定化したいと考えている人々、それをさらに乗りこえようとする政治的あるいは思想的傾向にたいしてかならずしも積極的ではないような人々によって支持されやすいということがある。じつは近代主義の論理は、本質的には、自分自身が民主主義者であり、自分の属する社会が民主主義社会であることに自足するのではなく、たえず民主主義者となり、民主主義社会となることをめざす、いわば永久革命的志向持っている。しかし現実には、近代主義は「近代」主義となって、「近代」同定の論理におちこむ危険をはらんである。(なぜそうした危険がおこるのかは、ひとつの重要な問題点である。)

 ただしここで指摘しておかなければならないことは、こうした問題点は、他称近代主義者のなかでの最もすぐれた思想家の「思想」それ自体が引きうけなければならない直接的責任ではないということである。むしろそのなかには、ここであげた問題点のまさに正反対のことを主張しつづけた人たちが存在している。ただ思想の内実とその社会的機能とのあいだに、思いがけないズレが生れ、そのズレそのものが自動的に運動していくという現象が起ることも否定できない。近代主義もまたこうしたズレと無関係ではなかったのである。」

※以上日高六郎の解説。

 

P73「いま一度いうならば、それは社会関係の固定性がますます破れ、人間の交渉様式がますます多様になり、状況の変化がますます速かになり、それと同時に価値基準の固定性が失われてパースペクティヴがますます多元的となり、したがってそれら多元的価値の間に善悪軽重の判断を下すことがますます困難となり、知性の試行錯誤による活動がますます積極的に要求され、社会的価値の、権力による独占がますます分散して行く過程にほかならぬ。この大いなる無限の過程こそ文明であり、この過程を進歩として信ずること、それが福沢の先に述べたような神出鬼没ともいうべき多様な批判を根底において統一している価値意識であった。」

丸山真男。「社会関係の固定しているところに権力が集中」する社会と「人間相互の関係が一刻も固定していずに普段に流動」する社会(p72)を「理念型」とする(p73)ことを前提にする主張。なお、日高の解釈では「「近代」の理念のイメージを福沢に託して語るもの」とされる(p55)。

 

P93「わが国経済の再建が民主的方向においてなされなければならないということは、いうまでもなく、いまや一つののっぴきならぬ至上命令となっている。」

※民主的方向に向かう経済の再建とは具体的にどのような状況を言うのか。

P93「ところで、ここで私が強調したいのは、こうした経済民主化の方向を推進するところの政治的主体が十全に形づくられ得るためには人間的主体の民主的基盤が広汎にどうしても成立していなければならないということである。」

P94「もし民衆が示す人間類型が封建的、さらにいわゆるアジア的であったとして、しかも外側から強力によって民主化が強制された場合には、そこに結果として生ずるものはいわば魂の抜けた形骸に過ぎぬであろう。」

※ここで大塚は明らかに「民衆の間に近代的・民主的人間類型の形成をあまり見ることな」いこと、「外側からアンシャン・レヂームの解体と経済の近代的・民主的再建を強制されること」を問題視する(p94)。

P98「民主主義的社会秩序を作り上げかつこれを支えて行く人間的主体たる近代的民衆は、何よりもこうした個人の内面的価値を深くも自覚するところの、人間を人間として尊重するごときエートスに支えられねばならない。」

※大塚はこの議論をするにあたり「儒教道教」の議論を引っ張り、アジア的なエートスは「体面を保つ」ことに重きが置かれていることを批判している(cf.p97)。以上大塚「近代的人間類型の創出」1946。

 

P105-106「が、しかし、それはロビンソン的人間類型の単なる排斥や拒否を意味すべきではあるまい。むしろ、その生ける方面はより高い人間類型のうちに止揚されて、より高められつつ保存されねばならないとわたくしは考える。何故なら、それこそが、真の否定であり、揚棄であるからだ。だからこそ、わが国のように近代的人間類型の確定をほとんど見ない場合での経済(生産力)の正しい建設のためには、やはり、あの勤労、節約、周到、それを貫く自発的合理的な生活の組織化、また「強く」逞しい積極的な建設力、そうした内面的エートスの民衆的確立が特殊的に重要視されねばならないのではないかと思う。」

ロビンソン・クルーソー止揚的な人間像を見出す論考。大塚「ロビンソン・クルーソウの人間類型」(1947)

 

☆P114「そうではなくて、私の意図してきたところは、むしろ、そうした史実の分析を通じて、禁欲の社会的堀進作用、文化形成作用の重要さを知り、かつ、そこから、禁欲に関する一般的な経験法則とでもいうべきものを導き出そうとするにすぎない。なぜなら、日本を含めて、あらゆる国々において、一定の歴史的条件が存するばあい、禁欲は現在でも同様な強烈な作用をおよぼす可能性を依然もっていると十分に想定されるかぎり、その現象の分析基準として、そうした禁欲思想とその行動の一般的な経験法則をあらかじめ知っておくことが、どうしても大切だと考えられるからである。」

※さて、禁欲性と民主性はどう関連するのか。

P115「ところで、戦後はどうか。いわゆる百八十度の転換によって俄かに神聖視されはじめた「自由」の思想は、伝統主義的な旧体制の束縛から民衆を解放したという一面の正しさにもかかわらず、このばあい、あたかもルネサンス思想と同じように、伝統主義的束縛とともに禁欲一般を断罪し、湯水とともに赤子を流しさった嫌いがないではない。私は終戦直後このことを強く感じたのだが、その感じはいまでも強まるばかりである。そこへいわゆる経済の高度成長とともに、レジャーとか、バカンスとかのよび声に支えられて、シニカルで反禁欲的な享楽的消費の高揚が出現した。」

※ここでは戦中までは禁欲性を認めることを前提にしているが、残念ながら、これはどう見ても問題のすり替えである。保守回帰による禁欲性は免罪符になるはずがそうともとらえてないようにさえ見える。ここで非難されるのは退廃的人間と、他律的禁欲志向の人間であるが、「近代的人間類型の創出」ではただただ封建的な人間を否定していたではないか。大塚「現代日本の社会における人間的状況」(1963)

 

P210-211「後進国が、文化を異にする先進国によって征服ないし植民地化されることによって、異質の先進文化を強制された例は史上に少なくはない。しかし、明治維新後の日本のように、当時明らかに後進国ではあったが、すでに独特の、かなり高度の文化をもち、しかもそれが一般国民の中にかなり浸透していたところの民族が、独立を保ちつつ自発的に、異質の文化を摂取し、それによって自国の近代化改革をはかって、これに成功し、急速に後進性を脱却した例は、世界史上にかつて前例がないのである。ここに日本における問題の特殊性がある。」

P231「こういうのが日本における(※「伝統」の)典型的な用例であって、そこでは伝えられたものの内容はさして重要でなく、ただ「長くつづいたもの」にたいする愛着に力点がかかる。もちろん、それを簡単にセンチメンタリズムとして排斥すべきではないが、ただ何でも古いものは残しておきたいという感情をそのまま肯定し、あるいはその上に乗って利用しているだけでは、改良ないし改革ということは出てこないのである。」

桑原武夫「伝統と近代化」(1957)

 

P239「このような社会関係は、民主的=近代的な社会関係とはその原理をことにする。元来、民主的な社会関係の特質は、人がみずからの行動について自主的に判断し決定することと、その必然的な他の一面としての人間失格の相互的な尊重と、であるが、ここにはこのような原理は存在しない。いうまでもなく「権威」というものは、人間精神とその行動との自主性とはまさに反対のものである。なるほど人は、戸主や父や夫の権力や権威にみずからすすんで服従する。しかし、民主的な自主的服従というものは。抗しがたい権威に対する卑屈な服従ではない。」

P240「だからこそ、儒教的家族制度は、政治的権力による命令とくに法律によって強行されることと結びつき、かつそのことを矛盾と感じないのである。すなわち、そこでは、孝や貞は決して人間の内心の問題であるのではなく、法律によって強制されるのであり、道徳はそのまま法律である。近代的モラルによれば、親子や夫婦の関係はなによりも自発的内面的な人間精神の問題であるのだが、武士のつくったわが民法は、家族制度的な権力や権威を規定し、それを法で強制しようとしているのであるし、しかも、大正昭和になっても多くの人々はそれでもあきたらずに、もっと権威的にしようとさえ主張したのであった。」

P240「ここでは、親子や夫婦の関係は、一方的な支配と一方的な服従な関係、一方が権力のみを有し他方は義務のみを負う関係であり、両者が互いに「権利」をもち「義務」を負うという関係ではない。」

※近代的な関係性においては、「互いに平等な主体者の間の関係」とする(p240)。

 

P242-243民衆の家族生活についての説明…「家族秩序は、人の自主的精神によって媒介されるのではなく、直接に「外から」人を拘束するのである。……しかし、ここで注意されねばならぬのは、権威はここでははなはだ人情的情緒的性質をおび、だから権力が権力としてあらわれないということである。権威は一つのあたたかな人情的情緒的雰囲気のなかにあり、だから、それは同時に共同体的意識をともなっている。個々の人間の「権威」はしばしば稀薄となり、家族の全体的「秩序」のみが全体に対し「権威」をもっているにすぎぬものとなる。ここでは、かの儒教的家族におけるような、形式主義的なうやうやしい畏敬は支配しないで、くつろいだ・なれなれしい・遠慮のない雰囲気が支配し、そのなかを、そうしてそのような雰囲気に媒介されて、客観的な秩序が貫徹しているのである。……すなわち、儒教的家族制度は、外的力そのものの強制によってーーだから政治権力や法律による強制によってーー維持されうるしまた維持される必然性をもつが、ここではそのような外的力によっては秩序は維持されないし、またそのようなものによって維持される必然性もない。ここでは人情・情緒が決定的である。しかし、この家族が、同様に法律や政治権力によって強制されるのでないところの近代家族と同一の原理・同一の精神的基礎の上に立っているわけでは全くない。両者の間には決定的な差異がある。なぜかといえば、ここで家族的人情や情緒を決定するものは、人間の合理的自主的反省をゆるさぬところの盲目的な慣習や習俗であるが、近代家族においては、合理的自主的反省、「外から」規定されることなくみずからの「内から」の自律によって媒介されるところの「道徳」が支配するからである。だからここでは何びとも個人として行動することはできないし、独立な個人としての自分を意識することはできない。何びともつねに、協同体的な雰囲気につつまれ、そこに支配する客体として、みずからを意識しなければならない。」

河合隼雄の「権威がない」欧米人像は明らかにこの主張に紐付く。「すべては雰囲気のなかでなんとなくわかっており、またわかっているように思いこませるのである。」

 

P244「家族制度の生活原理は、家族の内部においてだけでなく、その外部においても、みずからを反射する。そうしてこのことによって、家族生活の非近代的=非民主的社会関係を必然ならしめる。

 このような家族生活のなかに生きている人々にとっては、家族外の社会は、「秩序」のない人間関係、本来何の必然的つながりのない関係、としてあらわれる。……そこには、近代的な、契約の自発的履行の義務意識、他人の所有権の自発的な尊重の意識はなく、ただ担保や手付けが交付されることにより義務が外国化された場合にのみ、義務履行の意識を生じ、また所有者が現実に占有している限りにおいてのみ、人はそれを尊重せざるをえぬ外部的必然性に基づき尊重する。」

※ここで指している型がどちらのものかわからない。両方を指しているつもりか。

P248「「長をとり短をすてる」ことによって家族制度の民主化がなされうると考えるのは「甘い」考えであり、ほかならぬ温存主義であり、これこそは、民主主義革命がわれわれの「内から」自主的に出てきたのでなく「外から」――悲しいかな非民主主義的にーー強力的に課せられたというわれわれの歴史的運命の所産である。」

※以上、川島武宜「日本社会の家族的構成」(1946)

 

P266「戦後の民主化の過程から生じた精神上の変化には、その後もとへひきもどそうとする力が加わったにもかかわらず、容易にもとへもどらぬものがある。もとへもどらぬものは日本人としての自覚であって、枝葉の接木としての西洋文化の輸入というようなことではない。」

加藤周一「日本文化の雑種性」(1955)。模倣的西洋感は否定されているといえる。

P358「終戦後に「科学への期待」が叫ばれたことの背後には、私はさらに第三の面があったと思う。それは、科学的精神が不十分であったために無用の戦争を始めることになってしまった、という反省である。」

※科学がなかった(軍閥が尊重しなかった)、今後の日本は科学なしにはやっていけない、というのが他の側面とみる。都留重人「科学と政治」(1952)