孫歌「竹内好という問い」(2005)

 今回は竹内の著書を直接レビューするか、孫歌のレビューのどちらを行うか迷った所があるが、「近代の超克」及び人物「竹内好」解釈をめぐる議論について相対的な見方を重視するため、孫歌の方をレビューすることにした。

 

 まず、私の竹内に対する評価を示しておこう。私に最大限譲歩し竹内好に何らかの意義があるものを評価しうるものを見いだせというのであれば、それは丁度ヴェーバーの理念型の議論で検討した羽生辰郎のそれと全く同じ性質のものだと答えたい。羽生は私が指摘した理念型α(類的理念型)と理念型β(歴史的構成体と理念型)の違いについて理解できておらず、「知的誠実性」をめぐる議論も曲解する原因を生んだものであった。しかし羽生は折原浩等を想定したヴェーバー研究者という「別の問題のある他者」が登場して初めて真価を発揮した。その他者への批判のポイントは部分的に適切なものであったと認められるものであった。しかし、これが真に生産的な立場と言われれば全くそんなことはないし、羽生の議論について真の意味で参考にすべき議論であるようにも思えない、というのが私の指摘であった。

 竹内好も議論もまさにこれと同じように「近代の超克」を下らない「ナショナリズム」と同一視しようとするような勢力に対する批判としてみるのであれば評価の余地があるように思えるが、これは生産的な議論を生むものであると言えない。結論から言えば、本書はこの非生産性について軽視し竹内を過大評価しているようにどうしても見えてしまう点が問題であると考える。

 また、更に言えば、竹内的な視点を基準点にすることを強調してしまうと、その議論は本書で示される竹内的な視点を超えることはありえない。そしてその視点は絶望的に無意味であると考える。これは詰まる所松下圭一的な無意味な「批判的態度」にしか行きつかないのではないのか、という懸念が強いことが理由であることをあらかじめ強調しておきたい。

 

 

○「実体としてのアジア」とは何か?——「理念型」との関連性から

 本書の初発的な関心として、竹内の志向論理の全体像を捉えようとすることが挙げられる(pix)。この試みから出てくる解釈の一つがp31のような魯迅的な「無」の思想を竹内の思想そのものとして位置付けるような議論である。

 この認識自体は誤りであると言い難い。次の主張は戦時中の竹内の言説となるが、この「無」と呼ばれるような性質は、竹内において強烈な自己否定を伴いながら語られる(又は語られるべき)ものとして捉えられているといえるだろう。

 

「私は、大東亜の文化は、自己保全文化の超克の上にのみ築かれると信じている。わが日本は、既に大東亜諸地域の近代的植民地支配を観念として否定しているのではないか。私はそれを限りなく正しいと思う。植民地支配の否定とは、自己保存慾の抛棄ということである。個が他の個の収奪によって自らを支えるのではなく、個が自らを否定することによって他の個を包摂する立場を自らの内に生み出してゆくことである。……この大東亜理念の限りない正しさは、私たちの日常生活の末にまで滲透し、それを根底から揺り動かし、そこから新しい文化を自己形成してゆかねばならぬ。行為を通じてのみ、自己否定の行為によってのみ、創造はなされるのであろう。」(竹内好「近代の超克」1983,p238) 

 

大東亜戦争は世界史の書き換えであると云われている。私は深くそれを信ずる。それは近代を否定し、近代文化を否定し、その否定の底から新しい世界と世界文化を自己形成してゆく歴史の創造の活動である。この創造の自覚に立ったとき、私たちははじめて自己の過去を見、その全部を理解することが出来た。……中国文学研究会は否定されねばならぬ。つまり現代文化は否定されねばならぬ。現代文化とは、現代においてあるヨーロッパ近代文化の私たち自身への投影である。私たちは、そのようにある自己自身を否定しなければならぬ。」(同上、p241)

 

 しかし、本書のp65-66のような言説が竹内に当てはまっているという指摘には強い疑義がある。ここで孫は竹内の自己内省的な批判スタイルを基本的に認める。孫のこの一節は明らかに竹内の論文『方法としてのアジア』における「西洋をもう一度東洋によって包み直す、逆に西洋自身をこちらから変革する、この文化的な巻返し、あるいは価値の上の巻返しによって普遍性をつくり出す」という言葉の言い換えを試みた部分であると言える。

 ここでは「抵抗」の一般的意味に対する妥当性の議論は置いておくとして、孫が竹内好の議論を評価しているポイントとして考えられるのは、①自己内省的であること②二項図式でないこと、の2つが考えられる。ただ、①については②と比べればそこまで重きが置かれていないように思われる。というのも①に議論に留まると孫がp65-66で言うような否定のプロセスとしての二面性を十分に説明できないからである。よって「方法としてのアジア」とは一義的には二項図式的な実体化を回避しながらも具体的な行為として効力をもちうる批判概念として意味があること、そしてそれを竹内が実践したことについて孫が評価していることがわかる。P57の指摘も端的にそのことを表しているといえる。

 しかし、私には竹内の言説が東洋と西洋の対立という二項図式的な視点から竹内が離れていたなどとはとても言えないと考える。もっと言えば、竹内は孫が期待するような二項図式を回避しようと意図をもって議論を行っていたかも怪しいように思える。というのも、竹内は基本的に西欧の近代的価値についてはその影響力があまりにも大きいとみており、その価値をむしろ前提とした上で「アジア的であること」を探求しようとし、その中で「近代なるもの」の批判を徹底しようとするからである。

 

 ここで最大の賭け金となるのは、「方法としてのアジア」の対義として想定される「実体としてのアジア」とは何なのか、という問いである。竹内は魯迅ゴダール孫文といった人物や中国の市民運動を引き合いに出しながら、その中に孫のいう「猙扎」という名の抵抗を見出している。そして、よくよく読むと、この竹内の発見は、次のような主張に見られるように実際の中国の主流派とさえ無縁であるかのような語り方がされることもある。このような実際の中国との距離の取り方は孫の主張を支持するかのようにも見える。

 

魯迅のような人間は、日本の社会からはうまれない。たとえうまれても、成長しない。それは受けつがれるべきものとしての伝統にならない。もちろん、魯迅は中国文学のなかで孤立している。しかし、孤立している形が見える。そしてそれは受けつがれている。」(竹内1983、p35)

 

 ここで竹内は魯迅的主体について中国(文学)の中でも独特であるかのように語っている点は注目されるべきである。しかしながらそれは「アジア的な個性」として継承可能な型としてある種確立されたものも持っていることも認める。

 また、次の主張も端的にアジアやヨーロッパが実体としては存在しないことを前提とする主張として非常にわかりやすいものである。

 「このような現象は、かなりの程度まで、東洋諸国に共通のように思う。また、ヨオロッパのおくれた国にもある。純粋のヨオロッパというものはないし、純粋の東洋というものもないから、それは程度の差といってもいい。」(竹内1983,p18)

 しかし、これは竹内を断片的に取り上げた態度として捉えるほかないように私には思える。端的に言えば、孫が解釈するような「方法としてのアジア」を探求する竹内像に反する主張というのは、いくらでも提出できるように思える程存在している。そしてそれは竹内が日本を批判する際にその「方法」性を放棄しているのである。例えば、次のような竹内の主張はどのように解釈すればよいであろうか。

 

「私は、日本文化は転向文化であり、中国文化は回心文化であるように思う。日本文化は革命という歴史の断絶を経過しなかった。過去を断ち切ることによって新しくうまれ出る、古いものが甦る、という動きがなかった。つまり歴史が書きかえられなかった。だから新しい人間がいない。日本文化のなかでは、新しいものはかならず古くなる。日本文化は構造的に生産的でない。」(竹内1983,p37)

 

 竹内の前提によれば、このような主張はあくまでも「程度」の問題に過ぎないという主張を継承しているはずである。「程度」問題においては、それはあくまで「傾向」であるに過ぎず、絶対ではないはずである。ところが竹内はここで「新しい人間がいない」とその「不在」を断言する。これは明らかに程度問題としての議論を逸脱している。このような断言は「魯迅のような人間は日本では存在しえない」とする上述の主張とも共通している。結局、この断言というのは、そのまま「実体としてのアジア」を表象しているのと同義ではないのか、というのが私の批判のポイントである。「実体としての日本」を定義しているにも関わらず、「実体としてのアジア」が表象されていないという保証は、竹内の議論から見出すことができず、むしろ魯迅孫文ゴダールといった実名を挙げることこそが「実体としてのアジア」としての見方を明らかに促進しているようにしか見えないのである。結局竹内のレトリックは「実在している主体がいるからそのような主体化を日本でも行うべきである」という形で日本人の主体化を鼓舞するものであるが、その実在的主体が「アジア」をどうしても実体化しているようにしか見えないのである。私はこれは結局、「アジア」という言葉を竹内が用いた時点で失敗であるという意味を与えるしかないことだと思う。この言葉はたとえいくら竹内が「地理的なもの」を排除すると定義しようとも、そもそも地理的な概念を包含した言葉であるがゆえに、容易に誤読を招く。その土地に実在する人物の議論がたとえ一事例であるに過ぎなくとも、それが容易に結び付けられるような条件を整えてしまっている態度こそ問題とされるべき部分ではないだろうか。竹内がいくら「実体視」していなかったとしても、それを「実体視」する他者と同じような語り方を行ってしまっていれば、そこに差異を見出すことはできないし、最大限竹内を擁護したとしても、やはりそのような「実体視」を避けるための語りを竹内が行っているという評価はとてもできないのである。これはちょうど一部の精神分析論が「父」という言葉を用いる際に陥っている問題と同じ構造を持っているといっていいだろう。

 

 この「実体視」に拍車をかけているのは、日本の今後の価値観として「アジア的価値観」が絶対に必要であり、「西欧的価値観」を持ち続けるという選択肢を竹内が全く持っていなかったとしか思えなかった、という点からも言えるだろう。

 

「中国の革命は、挫折と成功、破壊と建設の全過程をふくめて、ヨーロッパ文明への挑戦とみることができる。あらゆる近代化論は、日本の近代化は説明できても、この中国の近代化は説明できない。挑戦や抵抗は、侵略の側からは、無益な、計算外の要素となるからだ。日本の近代史が抵抗ぬきの脱アジアとすれば、中国の近代史は抵抗によるアジア化である。」(竹内「竹内好全集 第五巻」1981,p179)

 

 「日本には、型といえるようなものがない。つまり抵抗がない。強いていえば型のないのが日本型である。個性のないのが日本の個性だ。私は、日本がヨオロッパに抵抗を示さなかったのは、日本文化の構造的な性質からくるのではないかと思う。日本文化は、外へ向っていつも新しいものを持っている。文化はいつも西からくる。儒教も仏教もそうだ。だから待っている。」(竹内1983,p41-42)

 

 現在の日本を「個性のない」ものと定義し、それに対し中国型の個性ある、かつヨーロッパに対抗する主体が必要であると主張するのが竹内のアジア論であったといってよい。孫は竹内が「アジア」を始めとした一連の概念を出発点でもなく到達点でもないと捉えているが(pxix)、このような解釈は竹内の評価としては適切であるとは思えない。竹内のアジア観を到達点でないと解釈するのは、それが「理念型」同様、極概念が実体として通常ありえないと考える限りにおいて妥当しうる論点ではあるが、そのような中途半端な「点」の提示をしているという割には竹内の議論は極めて具体的に現在の日本を批判しすぎている。その批判はまさにある「点」をもとにした評価をした結果行うことができるものに他ならないが、その「点」が絶対ではないのなら、なぜここまで現在の日本を確信をもって批判できるのか、全くわからなくなるからである。孫の議論を前提にした場合、この矛盾について何も説明ができない。

 

 

○「方法としてのアジア」とは何か?――他の論者の竹内評と孫歌の竹内評との比較から 

「現代のアジア人が考えていることはそうではなくて、西欧的な優れた文化価値を、より大規模に実現するために、西洋をもう一度東洋によって包み直す、逆に西洋自身をこちらから変革する、この文化的な巻返し、あるいは価値の上の巻返しによって普遍性をつくり出す。東洋の力が西洋の生み出した普遍的な価値により高めるために西洋を変革する。これが東対西の今の問題点となっている。これは政治上の問題であると同時に文化上の問題である。日本人はそういう構想をもたなければならない。

 その巻き返す時に、自分の中に独自のものがなければならない。それは何かというと、おそらくそういうものが実体としてあるとは思わない。しかし方法としては、つまり主体形成の過程としては、ありうるのではないかと思ったので、「方法としてのアジア」という題をつけたわけですが、それを明確に規定することは私にもできないのです。」(竹内1983,p137-138)

 

 上記引用が論文『方法としてのアジア』の最後の部分にあたり、問題の焦点となっている「方法」について言及されている部分である。孫はこの「方法」についての解釈として「実体的な概念ではない」と述べているが(p60-61)、ここでは孫自身が「実体的」という言葉にどのような意味を与えているのか検討してみよう。

 今回の読書ノート中で、孫がこの「実体的」という言葉を実に多用していることがわかるが、まず押さえたいのはp57やp63における「実体」である。ここでは「固定的」という言葉とセットとなる形で「実体的でない」であることが語られていることがわかる。一方p89やp108では、「流動的」「機能的」という言葉が用いられ、「「正しい」観念的抽象化を放棄し、リアルで複雑な現実に直正面から向き合うこと」を求めるために「実体的」であることが否定されることになる。

 ここまで見てくると、すぐにヴェーバー的な「理念型」をこの「実体的」の対義語として想定していることがみてとれるように思える。この例外と言えるのは、p31のような説明の中にある。

 

「そして竹内が、魯迅の伝記や思想、作品と人生の分析を通じて導き出した一連の結論も、彼自身「着物を脱ぎすてるように棄て」たものに過ぎない。真に竹内の生涯につきまとったのは、『魯迅』のなかで「暗黒」ないし「無」として表現された、究極における文学的正覚であり、あたかもブラックホールのようにあらゆる光と影を呑み尽くす、実体化しえぬ、髑髏のような存在であった。その実体化の不可能性は、それを取り巻く光について説明することでしかその存在を暗示することができないという点にあらわれている。」(孫2005,p31) 

 

 竹内の思想は極めて自己否定的な原理に支えられており、魯迅の思想もまたそれに類するものであったのだろう。「理念型」が「実体的であること」と混同されていけないのは、あくまでそれが分析的概念として用いられるからである。しかし、理念型そのものが実在しないということも自明ではなく、これもまた何らかの検証を経てこそそれが明らかになるような性質のものである。しかし、竹内的な「実体的でないこと」とは、このような同一化の可能性をあらかじめ否定しているのである。簡単にいってしまえば、「実体化している」とは「所与のものとして前提としている」と同じ意味であると言ってよいだろう。

 

 この見方をよりラディカルに述べているのが子安宣邦の解釈である。ただ、下記の引用は孫との解釈のズレも合わせて確認できる点で注目すべきである。

 

「ヨーロッパ的原理は近代日本の国家形成の基底にはっきりと文明的実体をもって存在してきた。だがアジア的原理は、ヨーロッパ的原理が日本の国家形成過程に存在してきたように、存在してきたわけではない。それはヨーロッパ的原理への対抗と抵抗とが要請する非実体的な負の原理である。ヨーロッパに対するアジアの概念自体がすでにそうであった。「文明の否定を通しての文明の再建である。これがアジアの原理であり、この原理を把握したものがアジアである」竹内はいっている。文明一元論的に世界を支配し、世界に浸透するヨーロッパ的文明に否定的に抵抗し、その否定として文明を再建しようとする原理がアジア的原理であり、その原理を把握するものがアジアであると竹内はいうのである。これは竹内によるアジア概念のすぐれた非実体的構成である。さらばこそアジア的原理とは、日本近代史の非正統的少数者にになわれた抵抗的原理であったのである。とすればアジア的原理とは、近代日本の国家的戦略の基底にヨーロッパ的原理と矛盾しながら二重性をなして存在するような原理ではないはずである。ところが竹内の「近代の超克」再論は、「大東亜戦争」の二重性によって、近代日本国家の戦争伝統における矛盾する二つの原理の緊張的な持続をいい、それが「永久戦争」の運命を大平洋戦争に与えたというのである。これは一体何なのか。竹内は自らに反してアジア的原理を歴史的に対抗原理として実体化しているのではないか。」(子安宣邦「「近代の超克」とは何か」2008,p202-203)

 

 子安のこの指摘は基本的に正しいと私は考える。竹内の「方法としてのアジア」の議論は少なくとも、彼自身の議論の中で一貫としたものとして認めることができない。竹内の「方法(非実体的であること)」を「理念型」として捉えた場合、明らかにこれを逸脱した(実体化させた議論)というのが随所に出てくるし、この動きに対して抵抗するだけの理論を十分に竹内は持ち合わせていない。このことを孫は(無視しているとも言い難いが)軽視しているようにどうしても見えるのである。

 結局は子安はこのような中途半端な竹内の議論の継承は容易にアジアを実体化することに繋がることを危惧しており、だからこそ「方法としてのアジア」としての論法をあくまで「実在性の否定」にこだわることによって、竹内の議論を再解釈し、この点についてのみ擁護するのである。

 

「いま日本から提示される「東アジア共同体」とは、このアジアの悲惨を隠すだけではない。この悲惨を増幅させている己自身をも欺く希望の提示である。竹内ならこの偽りの希望の提示に否ということにこそアジアはあるというだろう。二一世紀の現代における「方法としてのアジア」とは、人間の生存条件を全球的に破壊しながら、己の文明への一元的同化と開発と戦争とによって進めていく現代世界の覇権的文明とそのシステムに、アジアから否と持続的に突きつけ、その革新への意思をもち続けることである。」(子安2008,p252)

 

 この論点をもう少し深めるため、酒井直樹の議論にも触れておこう。酒井の議論は孫の議論の前提とかけ離れている点に注目すべき点がある。酒井は「再帰性」という言葉とキーとして、竹内に議論から抜け落ちている論点を指摘する。

 

再帰性は自己画定には必ず同伴する事態であって、問題はこの再帰性を「敗北」に見立ててしまう、西洋の自律性という思い込みの方にある。西洋の自律性という虚構が解体されないかぎり、アジアの近代は「敗北」であり続けるだろう。アジアが負けたのは相手が偶々勝ったからではなく、この敗北はアジアにとって本質的である。経済成長率で勝ち、外貨準備高が増加し、軍事予算が急激に増えたからといって、アジアの敗北は拭い去ることができるようなものではない。彼の議論の弱さはここにある。

 別のところで説明したように、竹内は西洋とアジアの関係を外部にあるものと内部にあるものの対決として表象してしまっている。……彼は、西洋とアジアの関係を一つの国民国家と別の国民国家のあいだの相互的な外部性の関係にすることがアジアの独立であり、自立であると考えてしまったのである。ということは、竹内にとって、アジアは領域性をもった国民国家と対比されるべき政体のごときものであり、植民地権力は能動・受動の回路を通じて働くことが当然視されてしまっている。そして、西洋への抵抗は国民や民族といった集団の団結によってしかなしえないのだから、「抵抗」は国民の主体化なしには達成できなくなってしまう。「抵抗」は内人を作るための準備に過ぎなくなってしまう。」(酒井直樹・磯前順一編「「近代の超克」と京都学派」2010、p133)

 

「ここには、自己指示が再帰性を含まざるをえないと言った配慮は存在していない。「私」が想定されるためには「汝」が予定され、「汝」が「もう一つの我」として想定されるためには「私」が「汝の汝」として併存しているのでなければならないが、そのような私と汝が再帰性においてある、といった考察は存在していない。「私」と「汝」が物象化されているとき、「私」が「汝」に働きかけるか、「私」が「汝」に働きかけられるかのいずれかに選択肢は限られてしまう。そこでは、「私」と「汝」が実体ではなく、社会関係において成立する対象項である事が看過されてしまっているのであり、両者がお互いに外部にあることになる。……竹内好について、彼にはアジアを関係性において認識することができなかった、といったのは、彼のもつ民族主義的な性向を指している。ただし、同じ問題が「西洋」を自律性としてみる西洋中心主義にもある点は忘れてはならない。」(同上、p138)

 

 このような酒井の議論は半分は正しいが、問題点もある。端的に言えば、子安が指摘したような竹内自身の議論の矛盾について、適切に捉えられているとは言い難いという点が問題である。酒井は関係性をめぐる議論を竹内は無視しているという。酒井の議論の正しさは、以下のような竹内のいうドレイ論が賭け金となっているように思う。

 

「このような人間観は、自由競争を前提とした、個人主義的人間観とは対立する。個の独立は、排他的に行われるのではなくて、他との協調関係の中で打ち立てられると考える。現に中国に実現しつつある新しい人間像は、そのようなものである。たとえば、中国革命のエネルギイの源泉である土地改革に際しては、封建的な土地所有関係を打破するだけでなく、それを通じて人間の意識内容が変革されることが要求されている。しかも農民からドレイ根性をなくすというだけでなしに、地主から、ドレイ根性の裏がえしである支配者根性をなくすことが同時に強調されているのである。」(竹内1981,p8) 

 

 この部分における竹内のドレイ論とは、ほとんどフーコー的な権力論と同様に、自らの行使する/自らに行使される権力への欲望への抵抗そのものである。他者を従わせないこと/他者に従わないことに対するこのような自覚性は、明らかに再帰性を伴う主体化においても随伴するものであり、酒井の批判はこのような竹内の議論を無視しているように見えるのである。従って孫的な視点からはこのような批判は文字通り竹内好を適切に評価していないというように見えるだろう。

 しかし、酒井は竹内のこのような議論が無視されうるだけの「物象化」の方を問題視していることも無視できない。これは子安が指摘した「実体化」の要因となる議論そのものであり、竹内がこのような「物象化」が自己矛盾となる可能性について自覚していなかったことも事実である。この「物象化」の議論で最たる問題点を具体化するならば、「方法としてのアジア」と「方法としての中国」の違いについて、竹内の議論からは何も説明できないこと、という点にあるだろう。竹内はこの「方法」の提示のために決まって魯迅やダゴール、孫文といった人物を取り上げるか、中国における市民運動の興隆を例示し語っている。問題はこの「例示」と「方法」との関連性である。竹内はどう見てもこれらを関連性をもったものとして語っているようにしか見えないし、それが関連性を持っているからこそ、「方法としてのアジア」という問題提起が成立することになる。しかし他方で、明らかに竹内は「アジア」や「中国」に含まれる具体的内容については「どうでもいい」と思っている(※1)。この「どうでもいい」というのは、「西洋に抵抗していればそれでいい」という意味でどうでもいい、ということであり、孫的に(肯定的に)言えば「「暗黒」ないし「無」」(p31)という意味となる。竹内の議論はそれがいくら具体性を欠く(実体的でない)としても、「無」という形でそれを「物象化」せざるを得ないし、その過程で「無」に含まれないもの(西洋的価値)を例証していくのである。子安はこの論法に対してわずかな可能性を見出しているものの、酒井においてはこの論法自体がすでに破綻しているとみなしているのである。その破綻が自明であるからこそ、竹内の細かな議論については触れようとしない、という解釈が正しいだろう。私自身も基本的な立場としては酒井の議論を支持したいと思うが、酒井の立論は少々飛躍している部分があるといえるのである。

 

○文学的であることとは?

 この「実体性」をめぐる議論というのは、そのまま前回のレビューでも捉えた「文学」の価値に関する議論ともリンクしてくるだろう。孫は比較的この論点を重要視しながら竹内の読解を行っていた節がある。私の読んだレベルでは竹内の「文学」に対する価値は十分読み込めていないため、孫の議論を前提にした上での竹内評となってしまうが、宿題としていたため一応触れておきたい。

 孫の指摘する竹内が希求した「文学」的価値観というのは、「実体化」の回避のための手法の一つであったと言えるだろう。P89で指摘されるようにこれは竹内に限らず、丸山真男もそうであったという。竹内がここで想定していたのは、自律的領域としての「文学」という領域と、文壇ギルドの閉鎖性の批判に伴う、その領域の開放性の強調であったという。しかし、この自律的領域としての「文学」について批判を行ったのが野間宏であったと孫は言う。この批判に対し竹内自身が次のように指摘しているのは重要である。

 

「私が文学の自律性をいうとき、政治と文学を実体的に区別したような印象を野間氏に与えたとすれば、それは私の説明が足りなかったからであって、私はそう考えているわけではない。私は、政治と文学とは機能的に区別しなければならないことを主張しただけである。」(孫2005,p101、元引用は『竹内好全集』第7巻、p63-64) 

 

 この議論が重要であるのは、先述した「実体的であること」の定義をめぐる議論の捻れが端的に表現されているからであり、かつ孫のこの捻れに対する評価もまた、他の論者の竹内評との違いをそのまま説明するからである。私の理解であれば、竹内自身はここではヴェーバー的な「理念型」的な分析概念として、それを「機能的」と表現することで、「実体的」であることと区別すべきであると考えている。ところが、この竹内の指摘は、竹内自身の主張が「実体的」な語りであるかどうかを全く説明していない。そして、私は竹内の主張はどう見ても「実体的」であると評価している。ところが、孫は竹内と同様、この両者の違いの議論について棚上げしたままとし、p103のように竹内と野間の議論のズレを指摘するに留まり、それ以上問題に言及しないのである。これはある意味で孫が適切に竹内の議論に従っているともいえるだろう。しかし、「文学的であること」の価値について議論するのであれば、このズレに対する議論は決して無視することができないはずである。これは前回レビューした「多様な価値観があるから『近代の超克』論は有効である」という素朴な議論への批判と直結することになる。このような素朴な議論は、竹内もそうであったように暗に固定的な価値観(=実体的であること)を批判することに終始し、その批判を介して多様な価値観を擁護しているように見える。結論として、孫的な議論では、竹内の価値を擁護しようとしても、その価値が「有意義か」を判断できない。私が孫の議論で最も問題があると思うのはこの点である(※2)。

 ただここで想定しておかねばならないのは、このような価値観は竹内に限らず、本書で丸山とも「驚くべき一致」があったと言われるように(孫2005,p88-89)、比較的戦中・戦後の知識人層には広く「文学」的価値観として浸透していた可能性である。「文学」というものが多様な価値観の源泉となることは、特に本書においては重要視されているように見える。孫はp89で見られるように、文学が「つねに流動状態になければならず、自己更新され得るもので、凝固不変のものではない」ことを強調している。

 これはこれで注目せねばならない論点であるのは確かであるが、他方で竹内は文学の価値を国民統合の一手段として重要視していたのも明らかである(cf.竹内「竹内好全集第六巻」1980,p15)。ここでは「文学」は多様な価値観を包摂するというよりも、未だ実現(顕現)していない価値に対して、その顕現を強く推進するエネルギーとなることをむしろ重要視していることも明らかである。ここで、竹内は孫が強調するような文学的価値観よりも、こちらの顕現をめぐる議論の方に注視していたのではないのか、という疑問が出てくるのである。竹内が「実体化」を避けていたのは明らかであるが、その目指すところは、「流動状態」にあるのではなく、あくまで民族性の確立であったのではないのか、と。

 

 この論点は、結局先述した「方法的」と「理念型」のズレをめぐる議論と同じものであるように思える。理念型においては価値中立的であることが要求されることとなり、「方法的」であることに内包されるべき「顕現」に関する議論についてはいったん放棄されることになる。しかし、竹内の議論においてこの「顕現」をめぐる議論を放棄することは許されるべきではないだろう。孫は竹内の「理念型」的な側面を強調している嫌いがあるが、他の論者的にみれば、竹内はあまりこの枠内で語ることに意義があるように見えてこないのである。特に孫の論点からは「近代の超克の再考」というのがそのまま「文学的価値の再考」をも意味することになるが、このような形で復刻される価値観が、前回取り上げた加藤尚武的な議論を捉えることが全くできないように思える点で、その有効性は極めて疑問である。

                                                                                                

加藤尚武的な議論ができないのは何故なのか?——「近代の超克」論の限界とは何か?

 上記の議論についてもう少し考えてみると、次のような構造を「文学的価値の再考」としての「近代の超克」の議論は抱えていることになるのではないか。価値中立性をタテにして議論にとりかかることにより、既存の価値観(「近代」とされるもの)と新しい価値観(「近代の超克」とされるもの)た並列的に語ることが許される。このような議論が正しい意味で「理念型」的なものであるならば、つまり分析的概念をもって、その議論を徹底するということであれば問題はない。しかし、そのような前提に立ってしまうと、そもそも「近代の超克」と呼んでしまっている価値は「超克」を意味しなくなってしまう。逆に言ってしまえば、「超克」という言葉を使ってしまっている時点で、すでに価値判断に加担しているのである。とてもわかりやすいダブル・バインドの状態となってしまうのである。この矛盾の解消のためには、ハナから「超克」について語らず、「分析的であること」に徹底すべきとするか(私はこの立場を支持する)、価値中立的であるというタテマエを捨て、積極的に「超克」の価値にコミットしていくこと(子安が最終的にこの立場にあったように思える)のどちらかの態度をとらねばならないだろう。竹内の魯迅的態度はこのダブル・バインドに積極的に加担するような立場であるものの、結局は「超克」の価値へコミットすることを避けることはできず、どこまでも中途半端に終わってしまうようにしか見えない。この点は竹内好の議論を行う上で軽視されるべきではない。この点、子安は自己否定の価値観を強調することで竹内の議論をわずかに擁護するが、竹内が抱えたダブル・バインドの問題にまでは具体的に議論を進めているわけではないという意味で、このような立場をとることが可能かどうかについてはっきりしているとはいえない。

 

 さて、竹内的な「近代の超克」の議論を擁護することができるのは「自己否定」であるとした場合、何故加藤的な議論を行うことができなくなるのか。これは必然という訳ではないように思うが、結局如何なる「自己否定」を行うのか、ということと関連しているという他ない。ここで『近代の超克』座談会における科学をめぐる議論を手掛かりに、当時の自己否定性の文脈を捉えてみたい。

 座談会における科学の取り扱いについては、複数の著書において基本的な論点となりえなかったとみている。座談会中ではわずかに下村寅太郎がその重要性を指摘するのにとどまり、他の論者はこのこと触れないか、批判的であったとされる。

 

「座談会「近代の超克」の参加者にとって、問題はあくまでも日本「精神」の危機であり、下村を除けば、みずからを脱中心化する動きをしめす科学技術がとわれることはなかった。そして、没落していくヨーロッパの普遍性とは異なって、太平洋戦争の開戦とともに、日本精神は大東亜共栄圏を覆い尽くし、同時にヨーロッパ精神にとって代わるものになることが高らかに謳われた。」(酒井・磯前編2010、p63)

 

 

下村寅太郎は、近代の超克という場合必ず科学の問題を何とか解決しなければならない、とした。それに対して林房雄は「僕は科学者が神の下僕になれば宜いのだと思つてゐる」とし、亀井は、「僕の希求するのは近代をのりこえる力ありとすれば、神への信だといふ他にない」とした。林や亀井において、近代をのりこえる力は神への信、ということになる。」(石塚正英・工藤豊編「近代の超克」2009、p94-95)

 

 上記のように、科学に対する関心自体がなく、むしろ「精神」こそが座談会においては重要であるとみなされた(cf.石塚・工藤編2009,p118)。しかし留意しなければならないのは、下村も実際は「精神」を中心にした近代の超克に帰着している点である。

 以下は座談会2日目終盤の場面での対話である。長い引用となるが極めて重要な論点なので容赦願いたい。

 

「津村 だからアメリカの理想は物質的に庶民の生活水準を高めることでせう。

鈴木 その平均が高いのが餘程問題ですね。アメリカの本體はさういふ所にあるのぢやないか。機械文明をどういふやうに克服するか、差當つて機械文明といふものは否定出来ない。

津村 機械文明は絶對に避けることは出来ないが、逆手と取つて、それをこつちから使ひこなさければならん。

河上 然し僕にいはせれば、機械文明といふのは超克の對象になり得ない。精神が超克する對象には機械文明はない。精神にとつては機械は眼中にないですね。

小林 それは賛成だ。魂は機械が嫌ひだから。嫌ひだからそれを相手に戰ひといふことはない。

河上 相手に取つて不足なんだよ。

林 機械といふのは家来だと思ふ。家来以上にしてはいかんと考へる。

下村 それで濟まないと思ふ。機械も精神が作つたものである。機械を造つた精神を問題にせねばならぬ。

小林 機械は精神が造つたけれども、精神は精神だ。

下村 機械を作つた精神、その精神を問題にせねばならぬといふのです。

小林 機械的精神といふものはないですね。精神は機械を造つたかも知れんが、機械を造つた精神は精神ですよ。それは藝術を作つた精神とが同じものである。

下村 機械を造つた精神そのものの性格が問題ですよ。これは新しい精神の性格である。この精神に近代の吾々の中に實際に事實として生きて居るから、それを單に嫌ひだと言ふだけでは問題を避けて居るにすぎない。これは單に魂だとか、覺悟だけでは濟まないと思ふ。そういふ魂は謂はゞ古風な精神で、勿論そのやうな精神は我々の底に必要であるが、しかし近代の超克といふ問題には機械を作つた精神と同様にこのやうな單に古風な精神の超克も問題になると思ふ。前に「理性」も近代の理性は言葉を自己の表現とするやうなロゴス的な理性でなく、近代的な性格をもつと言ひましたが、これはもつと一般的に言へば今の問題になるのですが、つまり「精神」や「魂」も近代的な變革を遂げていることです。今まで魂は肉體に對する靈魂だつたが近代に於ては身體の性格が變つて来た。つまり肉體的な身體でなく、謂はば機械を自己のオルガン(器官)とするようなオルガニズムが近代の身體です。古風な靈魂ではもはやこの新しい身體を支配することが出来ない。新しい魂の性格が形成されねばならぬと思ふ。近代の悲劇は古風な魂が身體に――機械に追随し得ない所にある。ここで後へ退くか前へ進むかが問題で、勿論後へ退くことは出来ない。機械を造つた精神は決して唯物論ではない。それは先に言つたやうな意味で近代科學の精神と同じイデアリズムスだと思ふ。近代のモラリストや宗教家は謂はば古風な魂の概念に拘泥してゐるのではないか。この問題の打開は寧ろ魂の概念そのものの轉換にあるのではないか。心身の關係に對する新しき形而上學が必要だと思ふ。これは巨大なスケールの問題で、從來のやうな個人的主觀的な方法では不可能で、社會的政治的方法を必要とするもので、それには更に新らしい叡智或は神學が必要だと思ふ。これが今後の科學論が當面する問題で、近代の超克をいかにして果すかと言ふ實際の問題を考へる時にはこれを拔にしては不可能だと思ひます。

吉滿 ベルグソンが機械と神秘主義といふことを論じて居るが、機械文明にも何か神秘主義の代用品とならうとしてゐる面もある。近代の技術的科學主義といふやうなものにも、妙にマジックな興味に通ずるものがある。神話と機械とが結びついて、精神の形而上學の代用をつとめようとする傾向もあるものだ。……それだから機械の極限にはミスティクが要求されてゐるので、機械文明の極限で魂の空虚が現實に意識されてくれば、機械は自ら魂に国を譲るが、その魂の代りに機械がなつてやらうとする。ここでも眞の「靈性のロゴス的秩序」が眞の近代の超克として考へられねばならない。

河上 ヴァレリイのあらゆる文明論の結論も、結局機械のミスチツクに外ならないんですが、その貼が僕にとつてヴァレリイが結局つまらないと思ふ所なんだ。だから僕にいはせれば「幾何學の精神」は一つの「精神」です。これは何も精神の闘ふ相手ぢやなく、又近代機械文明の聚積と直接關係ありません。要するに機械が何故精神にとつてつまらないか? それは機械の齎すエトリス・ノイエスが常に量の問題を出ないからなんです。……機械と戰ふものはチヤツプリンとドンキホーテがあれば澤山だ。

吉滿 それを克服する爲に魂を持つて來る。魂の空虚を感ずるといふ所から「近代の超克」が始まるんぢやないですか。その時に魂は文明と機械に統御されず、霊性が一切を第一義性生の立場で統御して行く。つまり僕は「近代の超克」は「魂の改悔」の問題であると思ふ。東洋と西洋とを相通じて、神と魂とが再発見されねばならない。そしてそこから初めて祖國の深い宗教的傳統にもつながつて行けるのだと信ずるのです。」(河上徹太郎等編「近代の超克-知的協力会議」1943,p288-292)

 

 ここで下村寅太郎と吉満義彦は基本的に同じ見解をとり、津村秀夫も同じ路線の立つ一方で、下村の発想を河上徹太郎小林秀雄林房雄(彼は座談会では合いの手を入れるばかりで立場が不透明なところもあるが)は理解していないという構図が出来上がっている。押さえておくべきはこの座談会の司会は河上が行っており、この前段では津村と下村、そして鈴木成高アメリカ映画から機械文明の超克をめぐる議論を熱心に行っていたところで、河上がそれを遮るかのように批判、小林も追随したが、下村が再反論する場面であるということである。これに対する応答はなく、基本的に議論が仲違いに終わっている場面ともいえる。

 ただ、ここで押さえるべきは下村の論理である。下村はここで人類と機械文明の折り合いがつかない理由(近代の悲劇)を「古風な魂」の問題として捉えている。改めるべきは機械文明に適切に対応する「魂(精神)の転換」の問題であり、それこそが近代の超克の中でも極めて重要問題であるとみていると言える。加藤尚武が問うような次元の議論をここではしていない。ここでは機械文明そのものをいかに改善するかという議論ではなく、ある意味で自動的に生成される機械文明に人類がいかに適応していくのか、という形で議論が行われているといえる。機械と人類とはいかなる主従関係を結ぶのかという論点が林からも出ているが、科学も含めた当時の「近代観」がここに大きな影響を与えていることが確認できるだろう。そして「超克」という言葉というのも、まさに機械文明をコントロールするという意味合いで用いられていたということも確認できる。つまり科学は個別具体的に「何を生かし、何を捨てるか」という議論ではなく、全体として「それをいかに生かすか」という議論を行うべきものであるという見方がなされていたということである。このパースペクティブの変化というものそれ自体に考察が深められなければならないように思える。そしてそれは下村的な論理を下支えしていた当時の「近代観」に対しても、検討が必要であるということを意味する。このような着眼点がいかに存立しえたのかという問いは今後も検討していく必要があるように思う。

 

※1これは竹内自身の魯迅に対する評価への言及からもそう言える。結局竹内は「方法としてのアジア」の典型として魯迅を挙げるものの、魯迅の文学自体は「中国文学のなかで孤立している」とする(竹内1983、p35引用前掲)。ただ一方で魯迅の精神は形あるものとして「継承可能」であるとする点を竹内は評価し、それを「方法としてのアジア」と結びつけるのである。このような議論からも魯迅の議論はアジア(中国)の現状を「実体化」したものでは決してないことが言える。しかしそれは「実体化」されることを強く望まれた議論であることが強調される。

                                                                    

魯迅のような人間がうまれてくるのは、激しい抵抗を条件にしなければ考えられない。ヨオロッパの歴史家がアジア的停滞とよび、日本の進歩的な歴史家がアジア的停滞(!)とよんだような、おくれた社会のなかからでなければ出てこない型である。……魯迅のような人間は、進歩の限界をもたぬヨオロッパの社会のなかからは出てこぬだろう。」(竹内1983,p34)

 

 もっともこの主張だけでは別に日本がこのような魯迅的な主体を希求すべきであるという主張をしているとは認められないという逃げ口上も成立する。しかし、竹内は日本を西洋近代を形だけきれに模倣した「優等生文化」と皮肉交じりに述べる一方で、それが極めてもろいものであることを強調することで、魯迅的主体を強く求めるのである。

「そうだ。教育は成功するだろう。敗戦の教訓に目ざめた劣等生は、優等生に見ならって賢くなるだろう。優等生文化は栄えるだろう。日本イデオロギイに敗北はない。それは敗北さえも勝利に転化させるほど優秀な精神力のかたまりだから。見よ、日本文化の優秀さを。日本文化万歳。」(竹内1983,p27)

 

「見かけは進んでいるが日本はもろい。いつ崩れるかわからない。中国の近代化は非常に内発的に、つまり自分自身の要求として出て来たものであるから強固なものであるということを当時言った。」(竹内1981,p100)

 

 もっと言ってしまえば、「日本はもろい」と言った主張をする段では、日本と中国(アジア)は極めて一般化された形で語ってしまっており、当初の魯迅や中国の民衆運動の議論からは飛躍した議論を行ってしまっているのも、俗流な日本人論同様の問題として抱えていることも念のため指摘しておく。このような飛躍は孫が軽視した部分であり、子安の言う自己矛盾の本質部分であり、酒井はこの片側だけを要約して竹内を批判するのである。

 

※2 もっとも、孫の読解の上で注意せねばならないのは、孫も竹内の議論についてさほど好意的に捉えていない点があるということである。端的に言えば、p191の指摘がそれを示している。しかし、竹内の議論の問題について、子安ほど適切に指摘できていないという点では、(本書の目的が「竹内の包括的な理解」に向けられていたことも踏まえれば少々酷かもしれないが)やはり大きな問題であるように思える。

 

<読書ノート>

Pxvi「ここでは、竹内の複雑な立場が見えてくる。ガンジー孫文を生み出した「アジア」の歴史は、決してヨーロッパ式の進歩主義に嵌め込めることはできない。しかし、そのいっぽうで、アジアの人々にとって、土着の保守的流儀に対抗するためには、ヨーロッパの思潮を生かさなければならない。ただし、そのような思想闘争においては、ヨーロッパの思想の役割はせいぜい「生かす」程度までのことであることが忘れられがちであり、アジアの人々はヨーロッパの思想ないし思潮を絶対化し、そのようなドグマ主義の態度を「進歩」として理解する傾向さえ生じる。まさにそのような「進歩主義」に対して、竹内はアジアの本源的なものからは、「進歩が可能か」という疑問も発生しうると注意を促した。」

Pxvⅱ「『魯迅』において発展段階論を拒否した竹内好だが、歴史に「進歩」があるという主張は拒否していなかった。竹内はまた「進歩」とは人間の幸福であるという説明も加えていた。しかし彼の認めた「進歩」と「反動」は、絶対的な価値判断ではなく、時として反対の極に転移もできるような歴史的動きでしかない。竹内にとって、「進歩」という啓蒙主義の普遍的価値は、アジアの歴史を解明する場合の媒介に過ぎず、前提ではない。」

 

P31「そして竹内が、魯迅の伝記や思想、作品と人生の分析を通じて導き出した一連の結論も、彼自身「着物を脱ぎすてるように棄て」たものに過ぎない。真に竹内の生涯につきまとったのは、『魯迅』のなかで「暗黒」ないし「無」として表現された、究極における文学的正覚であり、あたかもブラックホールのようにあらゆる光と影を呑み尽くす、実体化しえぬ、髑髏のような存在であった。その実体化の不可能性は、それを取り巻く光について説明することでしかその存在を暗示することができないという点にあらわれている。」

※「ただ、この直接的には語り得ず、しかし避けて通ることも許されぬブラックホールに、竹内好が思考した文学というものの位置が示唆されているのだ。」(p31)

P34「竹内好は『魯迅』の中でひとつの基本原則を提起した。それは内部から発した否定のみが真の否定であるという命題である。言い換えれば、自己否定のみが否定の価値をもつということであり、自己否定を経ない思想や知識、外からやって来た既成のものは、いかなるものであれ生命力をもたず、死んだ知識であるということだ。」

※このような基本発想からは日本の状況を全否定する選択肢しか存在しないのは明らか。

 

P55竹内の引用。「近代とは、ヨオロッパが封建的なものから事故を解放する過程に、その封建的なものから区別された自己を自己として、歴史において眺めた自己認識であるから、そもそもヨオロッパが可能になるのがそのような歴史においてであるともいえるし、歴史そのものが可能になるのがそのようなヨオロッパであるともいえるのではないかと思う。」

P57「言い換えれば、竹内は決してこの世界の東洋/西洋の対立問題と歴史的形成の図式に対して哲学的に一つの「答え」を出そうとしていたわけではなかった。竹内が直面していたのはすぐれて現実的な対立の局面であり、その歴史哲学は、彼が不満を抱いていた、知識というもののおかれた位置の問題にぴたりと照準を合わせていたのである。竹内が私たちに伝えようとしていたのは、歴史がいままさに実体化され、知識を用いれば絶えず接近可能な客観的実在物として固定化されようとしているということ。そして、そうした凝り固まった思考様式のもとで、東洋と西洋との対立の問題あるいは歴史認識の相対化といった、人々が論争に明け暮れている類の問題は偽物の命題に過ぎないということであった。」

※合理主義なるものの批判も行なっている(p57)。

 

P59-60「竹内が第一の問題、すなわち西洋と東洋との関連性の問題を検討した際に依拠したのは、既成のモデルすなわち西洋と東洋とを対立概念と見なす見方であった。しかし彼は、このような対立はヨーロッパと東洋の間に存在するのではなく、ヨーロッパ内部にしか存在していないと明確に指摘した。」

P60-61「竹内における西洋と東洋は、決して真の実体的な概念ではないことは、すでに多くの日本の論者によって指摘されており、その指摘は基本的に正しい。同時に、ヨーロッパと東洋という概念は竹内のコンテクストにおいてプラス評価とマイナス評価、両方の価値判断を同時に含むものであり、肯定の対象である時もあれば、否定の対象である時もあり、いかにも混乱の様相を呈していることも指摘しておかなければならないだろう。」

※実体の地域概念の導入も見られなくはないが、それは竹内の議論全体では重要性をもつものでないと評する(p289)。

P63「物質的運動の近代化は彼の考察対象ではなく、彼が関心を抱いたのはわずかに「精神的運動」のみであった。竹内は、東洋にはヨーロッパ的な精神の自己運動がなく、そのため、東洋が西洋の近代化運動――それはさまざまなレベルでの拡張として体現されたがーーに直面したとき、西洋の運動を〝固定化〟し、〝実体化〟する傾向が容易に生まれたと考える。具体的に言えば、前進と後退を孤立した実体的なものとして固定化し、両者の間の相互依存と相互媒介の関係を捨象してしまうものであり、そうなれば、残されるのはただ単純な価値判断のみになってしまうに違いない。」

 

P65-66「通常の意味にしたがえば、抵抗という言葉は方向性が外向きであり、それが主体内部の自己変革ないし自己否定を引き起こすことはまずあり得ない。そのため他者を排斥するという意味を含みがちである。これに対し、竹内においては、抵抗の方向性は内向きなのであって、あたかも「猙扎」という語が象徴しているように、それは自己に対する一種の否定性の固守と再構築なのである。『魯迅』のなかの政治と文学に関する章の論述とリンクさせれば、いわゆる「猙扎」とは、主体が他者のなかで行う自己選択にほかならないことがはっきり見えてくるであろう。「猙扎」のプロセスとは、他者に内在しながら他者を否定するプロセスであり、それは同時に自己のなかに他者が入ることによって自己を否定するプロセスでもあるのだ。竹内にとって、この両者はすべからく同時進行で進むべきものなのである。そして否定とは、観念的なカテゴリーではなく、既成の秩序を破壊する具体的な行為である。」

P71竹内の引用…「かれは自己であることを拒否し、同時に自己以外のものであることを拒否する。それが魯迅においてである、そして魯迅そのものを成立せしめる、絶望の意味である。絶望は、道のない道を行く抵抗においてあらわれ、抵抗は絶望の行動化としてあらわれる。それは状態としてみれば絶望であり、運動としてみれば抵抗である。そこにはヒュウマニズムのはいりこむ余地はない。」

P73「日本のヒューマニスト作家と魯迅との間に横たわっている根本的な違いは、前者が「解放」を与えられるものとして求め、自らがドレイの境遇にあることを認めることを拒み、眼前の絶望的状況を正面から直視することで絶望に対して絶望し、そうした極限状態の猙扎のなかで抵抗を生み出していくという点にあるのだ。」

 

P89「彼ら二人が文学の本源性の問題について論じる場合、たとえ文学がどのような位置にあるにせよ、その位置はまず何よりも機能的なものでなければならず、実体的なものではない。それはつまり、文学はつねに流動状態になければならず、自己更新され得るもので、凝固不変のものではないということだ。これこそ竹内が『魯迅』の中で繰り返し強調した文学は行為であるということの真意である。丸山真男について言えば、彼が文学の機能を参照しながら議論したのは、日本政治思想史研究はいかにして実体的思惟を突破するか、ないしは日本社会の政治的メカニズムはいかにして肉体性から解放されて真に近代的なフィクション精神を獲得できるかといった問題であり、丸山がここから導き出した思考の方向性は近代的政治の「フィクション性」であった。一方、竹内好について言えば、こうした議論で打破せねばならないのは日本文壇の狭隘なる閉鎖性であり、竹内はそれを文壇ギルドと呼んだ。この小さな集団の中では私小説式の思惟方式が不断に再生産され、そうして文学の問題も狭い範囲内に閉じこめられてしまうのである。」

 

P101竹内の野間宏への主張の引用…「私が文学の自律性をいうとき、政治と文学を実体的に区別したような印象を野間氏に与えたとすれば、それは私の説明が足りなかったからであって、私はそう考えているわけではない。私は、政治と文学とは機能的に区別しなければならないことを主張しただけである。文学は政治を代行すえず、政治は文学を代行しえない。目的は全人間の解放であり、その目的にたいして政治と文学は、それぞれの側面から責任を持たねばならぬのである。小説を書くことも、一方では政治行為であり、綱領の文書表現は文学的行為である。それぞれの機能を責任をもって果すことによって目的のために有機的に結ばれたものが、真の自律性である」

有機的に結ばれることを想定している点が奇妙である。

P102「国民文学論争の中で、文学を政治と対立させ、文学の自立性とは政治の介入を排除することだとする考え方は、典型的な実体的発想法である。なぜならば、そこでは、政治は単なる政治権力の暴力あるいは体制の抑圧に限定され、モラルの位相でそれを抽象的に「悪」とすることによって、政治過程の中でのさまざまな可能性や諸々の複雑な矛盾などが安易に抹殺されてしまったからである。一方、野間宏が各領域の連合を強調し、民族の独立のためにこの一連の領域がそれぞれに自己の責任を負うべきと唱えたとき、実は文学を抽象化し政治・経済などと並置された「物」にしていたわけで、それはせいぜい文学の排他的「自律」に対するアンチテーゼとしての意味をもつに過ぎず、文学のあり方の問題はおよそ深められることはなかったのである。竹内が機能としての文学と政治を区別すべきだと主張したとき、彼が注目していたのは、文学が一種の特殊な「文化政治」の過程となって、単純に政治的結論を導き出してしまうような悪循環からいかに解放されうるか、という問題であった。あたかも丸山真男政治学の領域において現代政治の「フィクション性」を強調することで政治判断を打ちたてようとしたのと同じように、竹内好は文学領域においても機能性を強調することで文学を直感性から解放し、精神の営みとしての自律的性格を確立しようとしたのだ。明らかに、野間の誤読は、竹内のこのような実体的思惟と対決した、政治性を備えた文学の自律性を理解できなかったところにある。しかし、野間宏のこのような誤読は、果たして竹内の「説明が足りなかった」せいだっただろうか。実際に、竹内は同時代のほぼすべての重大な問題に関わるとき、いつもこのような「機能的な」反応をするのだが、しかしそれはたびたび、まわりの「実体的な」思考様式によって誤読されている。」

※論法云々で性格が変わるものでないように思うが。

 

P108「それなら、なぜ野間と竹内の間に、政治と文学の関係について真の対話が成立しえなかったのか。

 おそらくそれは、この日本の文学者の視野のなかに、ある基本的な参照軸が欠けていたからではなかろうか。それは、魯迅を代表とする中国現代文学、そして竹内好が中国現代文学を読むときの読みの視座にほかならない。もし『魯迅』を竹内の思想的な原点と見なさなければ、彼の日本文学や日本思想に対する全発言は理解することができないであろう。まさにこの「魯迅」こそ、竹内の言うように、機能的なものであって実体的なものではなかった。……魯迅は竹内を野間と異なる政治理解へと導いたのである。それはいわば、「正しい」観念的抽象化を放棄し、リアルで複雑な現実に直正面から向き合うことである。なるほど、野間宏の時局に対する分析は確かに正しいだろう。しかしこの正しい「あるべき姿勢」が、微妙に戦後日本の大衆社会の基本課題から遊離したのであって、日本文学もこの種の「イデオロギー的責任」を果たすことができなかったのである。」

P127「いかに善意をもって見ようとも、竹内好のこのことばは弁護しがたい。それは、日本の侵略戦争を合理化した態度のためではない。国家と距離を保ってきた自らの立場に背いて、「日本国と同体である」と宣言したことにこそ問題がある。しかしここで私が興味を持つのは、竹内が晩年にいたるまでこの文章を懺悔したり隠蔽したりせず、それどころか、一九七三年出版の評論集『日本と中国のあいだ』に収録されることを黙認したのはなぜなのかという問題である。」

※ただ自覚が足りなかった可能性は…「大東亜戦争と吾等の決意」への言及。

 

P160「中国人民の日本に対する抵抗意識は、まさにこうした野蛮で無恥な行為への道徳的な義憤を出発点として奮いおこされた。……竹内好はこうした「野蛮人本能」への本質的な省察を基盤として、一九四五年八月十五日以来、日本の思想伝統の形成に向けた一貫した努力をスタートさせたのである。」

※明らかにこの野蛮さは日本人の野蛮さとして描かれることになり、西洋人はその視野から外される。

P161「今日に至るまで、進歩的知識人を含む一部の日本人は、それぞれの理由から、日本の侵略戦争を「通例化」しよう、すなわち他の戦争と同列に論じようとしてきた。そのことの看過できない問題点は、「野蛮性」の問題を見逃すことにある。」

※この認識が正しいかはよくわからない。竹内自身が野蛮性に与えた意味如何による。進歩的知識人も全体的な意味で野蛮性を強調する一派がある。松下圭一もその系譜である。

P164-165「つまり、二元対立の思考形式ではこの出来事の核心にふれることはできない。東京裁判への賛成もしくは反対といった漠然とした政治的立場によっては、この複雑な出来事に対して政治的判断力を生かすことはできない。」

 

P174「五〇年代末トインビーが日本を訪問したとき、反共親米知識人を中心として「日本優越論」がとなえられた。アジアは「文明序列の劣位」に位置づけられ、「日本」は、福沢が初期に持っていた緊張感を持たないまま、再び脱亜した。こうした脱亜のコンテクストで東京裁判の問題が再審されたが、日本は西洋と質の近代文明国家であると見なされたため、東京裁判の合法性を問い質すものはいなかった。」

P190「清水幾太郎は、自分が運動の中で原理を追っていると信じていた。またアカデミズムのエリートは、自分たちのやり方で原理を現実運動に結実させようと努力していた。したがって彼らはともに、自分たちが原理と現実の関係を扱っていると考えていた。しかし彼らは追いかけている問題の方向性が異なっていたため、両者のあいだに、相互に排斥しあうような関係性の場が形成された。この関係性の場そのものこそが、理論と現実のパラドキシカルな関係を示している。いかなる指導的な原理であれ、原理のレベルにおいて、複雑な現実を変えることはできない。また現実の実践目標は、具体性・直接性を備えているため、具体的な目標を転移させる可能性をもつ原理的な思考を排斥しがちである。理論と現実のあいだの真の関係は、理論もしくは実践のどちらかにおいて単独で示されることはありえない。したがって、不断に議論され続けてはいるものの、討論が理論もしくは実践どちらかで行われている限りは、真の解決を得ることは困難である。」

※「排斥しがち」かもしれないが、理論的帰結ではない。また後段ももっともらしいことを言うが、これが正しいことを何ら積極的に定義しない。孫歌「それは、竹内好が他の知識人よりも優れていたという意味ではない。ほかの知識人との関連付けという構造のなかで考察されてはじめて、竹内好の批判的知識人としての貢献を認識することが可能となるという意味である。」(p191)という主張が文字通り全てであり、これは言い換えれば「50歩100歩」でしかない。竹内の議論により何らかの可能性が存在するという評価に意味はない。

 

P203「丸山において、問題は二元対立として処理された。しかし竹内好は一貫してそうした対立の外で活動した。丸山真男は日本の肉体的思惟を批判したとき、問題を理性的なフィクションの精神へと向けた。」

P230「以上の小見出しから見て取れるのは、この座談会が、西洋モダニティの限界を討論することを通じてそれを「超克」することを目標としていたこと、そして近代の超克という意味において日本文化の優位性を強調していたことである。」

小見出しから座談会の内容を読み取ることに収穫はないというが、同時に日本優位論を語っているのかどうか、小見出しからはとても読み取れない。

P231「十年隔てて行われた二回の座談会にある種の関連を見出すならば、そこではっきりするのは、「近代の超克」とはもともと文学者たちが発起し彼らによって継承された討論だったということである。「近代の超克」に参加した学者たちの戦後の活動がそれをさらに証明する。その二年後、別の座談会で「現代とは何か」という問題が討論された。司会を務めたのはかつて「近代の超克」に参加した鈴木成高であった。この座談会は「世界史的立場と日本」で議論された世界史の哲学の問題をある屈折した形で継承したものであり、「近代の超克」の内在的な方向性とはまったく接点を持たなかった。」

※これは、廣松などが注目した京都学派とは別の派閥による意図が強かったことを示す。「現代日本の知的運命」という座談会が1952年1月に開かれており、これが「近代の超克」の後継とする。

 

P236「京都学派の学者たちは、自分たちの対話空間では「近代の超克」座談会で感じたような困難を感じていない。『文学界』同人は純学術的な議論を好まず、学者たちに一つの「見解」を求めていた。言い換えるならば彼らは、十分な学術的訓練をつんだ学者から有用な結論を引き出そうと望んでいた。」

P237「二つの座談会はともに第二次大戦が白熱化した時期における世界の中の日本の地位を問題化し、日本の優越性とヘゲモニーを鼓吹しようとしていた。しかし議論参加者のポジションが異なっていたため、両座談会のテーマには根本的な差異が生じた。「近代の超克」が定めたテーマは参加者の主体的な自己の問題であった。それに対して「世界史的立場と日本」は参加者の前に存在する学術的な対象をテーマと定めていた。」

P238「しかしながら小林の出発点は「反近代」であり、近代の歴史発展論への対抗という意味において歴史の中に変わらないものについての語りを紡ぎ出したのに対して、西谷、鈴木の意図は、現代人と過去の人間との精神のつながりをめぐるパラドキシカルな性質を強調することにあった。」

 

P240「文学者たちにとって「反近代」とは「清潔な吾々の伝統」に対する肯定にほかならず、学者たちにとって日本の優越性の強調は世界史の語りの一部分にすぎなかった。」

P241「京都学派の雄大なる世界史の語りにおいて、「日本」は、近代西洋に代わるべき重要なポジションを与えられてはいたが、論述の目的地とされることは決してなかった。「近代の超克」と「世界史的立場と日本」という題名の差異は、日本的「肉感」を強調する前者の「西洋への対抗」的立場と、日本的肉感を意識する「暇がない」後者の「世界史」的立場とのあいだの微妙な差異を象徴的に示している。」

※「そして座談会についての回想は完全に文学者たちのものになった。」(p245)

P243「彼らが「近代の超克」で示した対立とは、近代の語りにおいて「日本」と「西洋」をいかに叙述するかという一点をめぐって構成されていた。」

P244「日本人は、ナショナリズムの問題を避けて新しいアイデンティティを見出すことができるかという厳しい試練に直面した。……

 戦後の一億総懺悔のあと、「近代の超克」はひとつの「トラウマ」として京都学派に関係のあった学者たちの戦後の語りから消失した。それに対して「世界史の立場」は、「日本文化フォーラム」という反共親米の色彩を持つ保守派の民間団体によって継承された。京都学派の四人の学者はほとんど皆このフォーラムに姿を現したが、『文学界』の文学者たちはそれとは関係を持たなかった。」

 

P247「明らかに、(※竹内の主張は)正しいイデオロギー的結論ばかりを目指すのとはまったく異なる立場である。竹内好のいう「思想」とは、正しい思想のみならず、さまざまな錯誤さらには有害な思想を含むものであった。しかしながら思想である以上は、政治体制から相対的に独立した影響力を持っており、それこそが思想が社会に影響を及ぼす根拠であった。「近代の超克」と「世界史的立場と日本」はまさにそうした意味での「思想」を持っていた。」

P252「五〇年代日本知識界の数々の座談会を見ると、論争の陣営は進歩的知識人と保守的知識人といった基準で厳格に区分されていたわけではなく、むしろ多くの場合、西洋モダニティ理論を利用する方式と習熟の程度によって分かれていたことがすぐに見て取れる。」

P253「竹内好は鋭く見抜いていた。新しい東西二元対立モデルによって日本はいかなる道を歩むべきかという問題を解決することはできないのだ、と。というのは、五〇年代末期に日本優越論が再燃し、「日本文化フォーラム」のような文化人の言説においては日本は東アジアの指導的国家として描き出された。「近代の超克」が失敗した地点で戦後の日本主義者たちは同じ轍を踏んだのだが、それに対して進歩的知識人は西洋の思想遺産によってこの状況に対処する有効な方法を見出せなかったからである。危機意識をもった竹内洋は「近代の超克」の封印を解き、イデオロギー批評によって単純化されていたこの思想史上の出来事から新たな可能性をひろいだそうとした。」

 

P255「荒正人日本共産党への入党経験を持ち、のちに意見の食い違いから離党した進歩的知識人」

P256「たとえば竹内は「近代の超克」と「世界史的立場と日本」の差異を完全に無視し、後者を前者の中に組み込んでいる。その結果彼は知らず知らずのうちに、特定の時代の思想形成に関わる多重的な可能性を思考することを妨げられた。」

※一方で「彼が論じたのは特定の時代および歴史的文脈の中における座談会の位置づけの問題にほかならなかった」とする(p256)。ここでいう歴史的文脈の議論をどう評価しているのか、読み取り難い。

P257「同時に竹内好は、東京裁判をきっかけにして、日本とアメリカは東アジアの植民地争奪戦争をしただけで、文明対野蛮、正義対侵略の戦争ではなく帝国主義帝国主義の戦争であったという観点を固めた。それに対して荒正人は、第二次大戦を考える視覚として一貫してソ連を重視しており、アメリカに対しても、ソ連および中国の同盟国として、歴史の行為としては民族統一戦線を授けて日本ファシズムに対抗したという命題を導き出した。」

※見方によっては、竹内の方がはるかに「二項図式」的に見えてしまう。

 

☆P259「とはいえこの議論はその後にわたる日本の進歩的知識人内部の基本的な分岐を象徴的に示している。四〇年が過ぎた現在、日本の知識人はほとんど実質的に進歩のないままヒロシマ問題において荒正人竹内好の問題意識を反復しているように見える。これはいったいどうしてなのだろうか。

 基本的な思考の手がかりは、やはり竹内好の「近代の超克」の中にある。皮肉なことに、あまたある「近代の超克論」の中には、政治的に竹内好よりも正しくまた読解として竹内より精緻なテクストがいくつもあるが、竹内好のこのテクストほど時空を超えてたびたび言及されるテクストはほかになく、民族主義ないし大東亜主義の「嫌疑」濃厚な竹内のテクストばかりが日本思想史上の名著となっている。」

※このような評の正当性がいかにあり得るのかが最も気になる。

P259-260「竹内好は二元対立に替わる理論モデルを見出すことはなかったが、戦争経験者の感情記憶を揺り動かし、感情記憶の中に生きている原理を発掘しようと試みた。竹内好の見るところ、戦後行われた戦争に対する省察はむしろ生きている原理を覆い隠すものだった。なぜならば、日本のモダニティの問題は第二次大戦を頂点としながら、様々な形での対外拡張として戦後も基本的に生き延びていたからである。」

P263「まず第一点目について廣松は次のように批判した。京都学派は開戦の詔勅を完璧に説明してみせる教義学を持っていただけにすぎなかったとしても、それだけで充分に戦争とファシズムイデオロギーとして認定されるべきである。」

※もう一点廣松は近代の超克論はそのアポリアを「解決ないし止揚統一を志向していた」と断じ(p264)仲違いの可能性を否定した。

 

P266-267「しかしながら、三木清が『文学界』および同人を代表できるかという問題はさておくとしても、より大きな問題として、この置き換え作業が一つの理論的なすり替えであることが指摘できる。すなわち、歴史上の明確に限られた範囲を持つシンボルであった「近代の超克」が無限に拡大され、昭和思想史全体の基本的構造とされたということである。その基本構造とは、廣松渉が関心を寄せていた、天皇制を頂点とする国家独占資本主義の社会構造およびそのイデオロギーである。……彼が竹内好の「方法論的手続き」が狭隘にすぎると批判したのは、竹内が文明論と文化論の視野でしか問題を扱わず、社会史的角度から廣松渉と同様の課題を扱わなかったためにほかならない。」

※「廣松渉雄大な社会史と観念史の語りにおいて、竹内好を批判することによって、竹内好によって提起された荒正人等によって明確化された重要な思考を見逃した。」(p267)とするが、これこそ50歩100歩の議論であり、どちらの議論もその正当性についてろくな言及が存在しないように見える。

P270「廣松渉雄大な枠組みの中に、正しい批判的立場や観念分析・社会史分析は充分にあるが、思想伝統を建設しようとする努力は不足している。」

※孫の議論を読んでいると、「生活体験」と「多様性」が同一のものに見えてくる。