萩野富士夫「戦前文部省の治安機能」(2007)

 今回は「国体の本義」をめぐる議論の補論として、荻野の著書を取り上げる。本書の主題は戦時期を中心にした文部省の「教学錬成」、「臣民」としての国民育成の機能についての議論を中心としているが、その中で「国体の本義」や「臣民の道」についても触れられており、特にとの編纂過程などについて細かく分析がなされている。

 

 ただ、本書で指摘されている「国体の本義」と「臣民の道」の比較による違い(p255)については疑義を出さざるをえない。本書では両者の違いとして①欧米への排除の傾向②忠孝の優先度の違いがあるとしているが、両方ともスタンスは変わらないというのが私の見方である。②は読書ノートの内容からほぼ自明であると思うが、①については少し詳しく触れる必要があるだろう。

 確かに私も「臣民の道」については欧米諸国に対する対立構造が強いものであることを認めており、①のような指摘がなされることも理解できるが、これは一方的な欧米思想の排除として捉えてしまうと日本の態度として自己矛盾が生じてしまうため、解釈として適当と言い難いと考えられる。ここで押さえなければならないのが、「欧米思想に学ぶことができる」ことを日本の強みとしていた「国体の本義」における基本的スタンスとの関係性である。結局この謙虚に学ぶ姿勢というのは、欧米思想の排除からは生まれることがなくなってしまい、その基本姿勢そのものの否定にもつながりかねない問題を孕んでしまうのである。「臣民の道」においても、日本が「西洋文物の摂取」を行ってきた事実に触れられ、そのこと自体に対して否定的見解が示されていない以上、これを全面的に否定してしまうことは日本そのものの否定につながってしまうため許されないのである。その意味で、「国体の本義」と「臣民の道」は見方は違えど、基本的な「近代観(欧米観)」については連続性の存在を強調すべきであると思う。

 ではこれはどのようにすれば許されるものとなるのか。答えはこれら2書と、1942年に文部省教学局から出版された「大東亜戦争とわれら」(cf.p352-353)の比較によって明確に見えてくる。一言でいえば、「日本が西洋文物を摂取してきた」事実自体を無視するというのがその答えである。「大東亜戦争とわれら」では「臣民の道」からさらに進んだ形で米英を「悪」と断じ、「八紘一宇」を正義の原理として戦争に打ち勝つ精神を鼓舞するという、見慣れた二項図式論に基づく、細かな・厄介な問題の忌避(無視)という議論に行きついていることが確認できる。合わせて注目すべきは、このような観点からは「近代の超克」という議論はすでに存立しえないことである。欧米由来の「近代」はすでに克服される対象ではなく、排除し打倒する対象とみなされているため、「近代」という地盤そのものが不要のものとみなしえるからである。そしてそれに代わり立ち上がるのがそれとは全く異なる原理により現れる「東亜新秩序」なのであった。このような「善悪」ベースの二項図式論の弊害については教訓とされねばならない論点が含まれているだろう。結局当時の日本人も多くの恩恵を受けていたはずのものであり、5年前までは同じ立場にいるはずの者(文部省自身)がその価値を強調してきた「近代」なるものの継承は、その事実を無視する形で、見方によっては事実を歪める形で否定されることとなったのである。

 

 また、本書で指摘されている内容として注目すべきは、「国体の本義」における草案と刊行版との相違点であろう。特に注目すべきは「国体の本義」の草案における、「我が国体に関する一の説き方に止るものであつて、これ以外の研究を拘束するものではなく」といった記述である(p195)。これは本書における欧米思想に関する記述が難航していたこと(p192,p194)とも大いに関連していたものと思われる。「国体の本義」においては、刊行本では矛盾した態度も現われるものの、比較的まじめに「近代の超克」についての議論がなされていたのであり、まさに現在進行形として近代をいかに受容し、醇化していくのかか課題であったがゆえに、有力な一解釈を超えるものでありえるはずがなかったのである。にも関わらず、「国体の本義」は刊行に向けて調整が進むにつれ、「聖典」としての位置付けを強めていったのである。

 更に文部省が行ってきた「教学錬成」については、本書でしばしば批判の対象として捉えられていたことが指摘される。これはまず文部省(教学局)と「国民精神文化研究所」という、研究機関(あくまで学術的に「国体解明」を目指そうとした機関)のスタンスの違いや「国民精神文化研究所内」内にも存在していた「思いつきや神がかりの国体論」への批判(p141)にも表れている。前述した「国体の本義」の性格についても、この書物がもともと「国民精神文化研究所研究部ヲシテ日本精神ノ聖書経典トモ称スベキ簡明平易ナル国民読本ヲ編纂シ之ヲ広ク普及セシムルコト」を意図していた(p188)ことを踏まえると腑に落ちる所だろう。「国体の本義」が当初他の国体研究と排他的でない態度であったというのは、この国民精神文化研究所のスタンスとも無関係であるとはいえないだろう(なお、「臣民の道」は文部省教学局が主体となって作成を進めたものであった)。また、「教学錬成」そのものが主体に有効なものなのかといった批判をはじめ、文部省の政策批判も多くあったという実態というのは、この時期の思想政策が必ずしも「官」主導で行われている訳ではなかった、または「官」主導で行われることが好まれていなかったこと(これは『近代の超克』座談会における「官」批判がある意味常識的なものであったこと)を示唆する内容であり、当時の「臣民」育成においても複雑な議論が存在していたことを読み取ることができ興味深かった。

 

<読書ノート>

P10-11「明治維新以降の国家による教育体制の構築が大日本帝国憲法下の「臣民」育成を目標にしたことは、これまでの分厚い蓄積を持つ教育史研究によって明らかにされてきたことではあるが、一九三〇年代後半からの「臣民」はそれ以前と質を異にするものであった。マルクス主義は強権的に弾劾されるのと軌を一にして、個人主義自由主義・民主主義なども欧米からの輸入物として一斉に排撃され、その対極に絶対的に拠るべきものとして「国体明徴」・日本精神があらゆる領域を覆いつくした。その結果、「臣民」は「皇国民」として「教学錬成」に駆り立てられていったのである。」

 

P93「ことに「忠誠奉公ノ精神」を第一に掲げたことは、(※国民精神文化)研究所の実質的中心人物である伊東学生部長の意向を強く反映していると思われる。伊東は「我国体は永久不変であり、永遠に栄え、皇位は真に万世一系である。此の真我を把握し、此の国体を体認する。そこより我国の学問が発展し、我国の教育が建設せられる」という認識に立ち、欧米流の分析的方法・実証的手段・抽象的理論を排し、「全的綜合、内面的把握、人格的証悟、実体的把握」によって「初めて真の知識、学問が成立つ」という論理を展開する。創設当初、「所長事務取扱」となっていた文部次官栗屋謙は「東西二大文化の精粋を尽し、この基礎上に世界的新文化を建設する」ことを「現代日本国民の歴史的使命」としていた。まだ東西文明融合に傾斜する栗屋に比べて、伊東の欧米的価値観の排斥は際立っている。」

 

P128「ところで、思想局創設に対する世評は批判的なものが多かった。最もきびしいものの一つは留岡清男の論で、「一体思想対策などといふ問題が、文政上の国策として成立つだらうか。思想問題が起らねばならなかつた源を遡及するならば、学生部それ自身の創設が問題とならねばならぬ。之を思想局に昇格するなんていふに至つては、最早お話にならない」という。」

※有光次郎は思想局のすることは実際の行政にちっとも反映されず、遠吠えみたいなものとする(p129)。

P136山本勝市の指摘から…「また今日の学生は個人主義的な考方で教育され、唯物的機械的な考方にならされて居るが為めに、実に容易く左翼思想に侵される様に出来て居る」

P139-140「「日本精神の真義」の徹底は、すべての教育領域にわたるが、大学・高校などにおいてこの時期に新たに試みられたのが「日本文化講義」の実施である。……

 これらに対する学生の反応はどうだろうか。露骨に「国民的性格ノ涵養及ビ日本精神ノ発揚」を唱道する講義は不評だったと思われる。」

 

P141「斎藤首相兼文相の「(※国民精神文化研究所開所式)祝辞」には……研究所の第一義的使命である「新日本文化ノ創造、建設」という研究部での成果についての言及がなかった。いみじくもここに示されるように、研究面における達成・成果の乏しさや、そもそも文部省の機関で「新日本文化ノ創造、建設」なるものが可能かどうかという点からも、研究所の存在に疑問が投げかけられていた。

 それは研究所の当事者にも認識されていた。三四年九月に研究部長に就任する吉田熊次は、「自分の国民精神の学説は、思いつきや神がかりの国体論ではないのだとして、薄弱な国民精神論者を厳しく批判した」という。部長就任にあたり、「我が国の思想界・学界はあらゆる主義・主張を包容するが故に、是等を融合して整理して、我が国民精神を培養することが特に本研究部の任務でなければならぬ」と述べるのは、おそらく紀平正美らに代表される「思いつきや神がかりの国体論」への牽制だったと思われる。

 しかし、その後、吉田が満足するような研究部の運営ができなかったことは、教学刷新評議会特別委員会の場での発言から推し量れる。」

 

P188「さらにさかのぼれば、前章で指摘したように、一九三三年の思想対策協議委員の幹事会で「思想善導案」が検討される最初の段階では、「国民精神文化研究所研究部ヲシテ日本精神ノ聖書経典トモ称スベキ簡明平易ナル国民読本ヲ編纂シ之ヲ広ク普及セシムルコト」が入っていた。そのことからは、文部省にとって「日本精神ノ聖書経典」たる「国民読本」の編纂は宿願であったことがうかがえる。」

P192「先に伊東談話と重ねてみると、「国体の本義といふと兎角古い歴史的な事」については、第一段階から第四段階まで、「大日本国体」と「国史における国体の顕現」の二章を配置することで一貫している。それに比べて、伊東が「社会的にも十分検討して時代認識に立つて国体の本義を明かにする」と意気込みを語った部分は、まだ構成段階とはいえ難航している。なかでも「現代思想」のうち「欧米思想」の扱いをどうするかで試行錯誤が繰りかえされたことがわかる。第三段階の「要綱」までは一章を費やして欧米思想の批判克服を意図したが、第四段階で扱いを縮小することに転換した。」

 

P194「草案第一稿では、「外来思想」の流入がかなり詳しく紹介され、北村透谷や幸徳秋水の名前さえ登場する。また、「自然主義的傾向の余りに現実の魂のみを見るに対して、理想を一面に尊重する所から新理想主義が起り、トルストイズムが謳歌され、ここに人間性にもとづいた思想が謳歌されるに至つた」という一文まである。こうした叙述は、次第に「消化せられない西洋思想」の弊害という観点から整理され、「西洋個人本位の思想は、更に新しい旗幟の下に実証主義及び自然主義として入り来り、それと前後して理想主義的思想・学説も迎えられ、又続いて民主主義・社会主義無政府主義共産主義の侵入になり、最近に至つてはファッシズム等の輸入を見、遂に今日我等の当面する如き思想上・社会上の混乱を惹起し、国体に関する根本的自覚を喚起するに至つた」という刊本の叙述に行き着く。

 刊本ではこれにつづいて、「今日我が国民の思想の相剋、生活の動揺、文化の混乱」は、「真に我が国体の本義を体得することによつてのみ解決せらる」と断じる。そして、これは日本のためだけでなく、「今や個人主義の行詰りに於てその打開に苦しむ世界人類のためでなければならぬ。ここに我等の重大なる世界史的使命がある」と展開する。いわば「八紘一宇」的発想にすぐ手が届く地点にまで進んだことになるが、これは草案第一稿には見えず、三六年六月の「要項」から「要綱草案」作成段階でもおしらく発想されていない。改稿過程で「今や我等は重大なる世界史的使命を担ふものとして、先ず国体の本義を開明し、大いにその体現に努めなければならない」という発想が生まれ、「世界人類のため」という名分に結びつけられたのである。」

※見方によっては国体志向が改稿に影響を与えたともいえるのではないか。

P195「注目すべきは、後半の、特に「我が国体に関する一の説き方に止るものであつて、これ以外の研究を拘束するものではなく」という部分である。これは修正版でもまだ「素より本書は完全なるものでなく、又これ以外の研究と叙述とを拘束するものではない」と残されているが、刊行本では前述のように「本書の叙述はよくその真義を尽くし得ないことを懼れる」という箇所に多少の痕跡をとどめるだけで、削除されてしまう。文部省編纂の権威ある刊行物たるためには、「我が国体に関する一の説き方に止るもの」という消極的抑制的な表現は不適と判断されたのだろう。」

※端的に草案段階では「理性的に客観的な視点」がわずかながらあったものとする(p195)。

 

P196「『国体の本義』は刊行とともに普及徹底が図られた。文部省から三〇万部が中等学校、小学校、青年学校教員全員のほか地方教育関係者にも広く配布された。市販された内閣印刷局版は約一年後には二〇万部を突破し、一九四三年三月現在で一九〇万部に及んだ。さらに文部省では約九万部の複製や全文転載も認めた。」

P251「一九四一年七月、教学局から『臣民の道』が刊行された。『臣民の道』については、「『国体の本義』の「実践的奉体」を意図した『国体の本義』の姉妹編」という評価が通説的なものだろう。これは実質的な受容のされ方としては妥当だが、その当初の編纂の意図からすると、やや異なったところから出発している。」

※むしろ「指導書」として編纂の出発点では意識されていたという(p251)。

 

☆P255「『臣民の道』が『国体の本義』の注解篇ないし姉妹篇という性格づけなされたものの、その四年間という刊行の時差は、内容において大きな相違をもたらした。まず、思想の帰一化の進展である。『国体の本義』においては、「我が国民の使命は、国体を基として西洋文化を摂取醇化し、以て新しき日本文化を創造し、進んで世界文化の進展に貢献する」とし、「西洋文化の摂取醇化と国体の明徴とは相離るべからざる関係」と捉えていた。ところが、『臣民の道』においては、「我が国民生活の各般に於いて根強く浸潤せる欧米思想の弊を芟除」することを必須とし、それらを「自我功利の思想」と一括して全面否定するのである。刊行本においては消えるが、「動もすれば複雑多岐に分れ勝ちなる考へ方や見方を統一」することを目的の一つとすることからいえば、この思想の帰一化は当然であった。

これと関連して、忠と考の関係にも差異が生じる。」

※欧米思想そのものの排除を指摘しているわけではなく、前段の評価は言い過ぎ感がある。「西洋文物の摂取」を行ってきた日本に対して、その態度を全面的な否定を行なっているわけではないからである。また後段の忠孝の関係性についても、忠孝一本の姿勢から忠の価値が優先されたのが『臣民の道』のスタンスと指摘するが、「国体の本義」でも「忠の道を行ずることが我等国民の唯一の生きる道であり、あらゆる力の源泉である」「孝は、直接には親に対するものであるが、更に天皇に対し奉る関係に於て、忠のなかに成り立つ」としており、何ら関係性に違いはない。

 

P339「この6の総括(※佐賀県における中等学校の思想調査の傾向から)は、自由主義個人主義的傾向の排除に文部省・教学局が躍起となっているだけに、地方の実情からの批判として興味深い。」

※そもそもそのような傾向の生徒がいないことに対して、重点課題のようにとらえることをナンセンスに見ている。「その一方で、大人の世代の時局認識の不徹底や精神的弛緩が問題視されていく」とする(p340)。

P352-353「大東亜戦争とわれら」、学校に約三万部を配布し、内閣印刷局からも四〇万部が市販された

P357-358「安岡(※正篤)は「今日の世上に行はれてゐる錬成といふものは多分に又あるべき道から外れてゐますね。何かかうむやみに従来のものから離れた真新しい或る特定の行をやることがそれが錬成だという風になつてゐますね。非常に癖のある、一般人に喜ばれない、何か不自然を感ぜしめるやうな錬成が行はれ過ぎて居るのではないかと思ふ」と述べ、末広や安倍の賛同を誘う。末広(※厳太郎)も「人生観或ひは世界観の押売りといふやうなことが可成り行はれて居りはしないか、それはそれで目的があつて結構ですけれども、私はその結果個性を必要以上に殺して、そのために学問の発達に害が有る方面もありはしないか」という。」

ピーター・B・ハーイ「帝国の銀幕」(1995)

 今回も「近代の超克」の議論に関連したレビューを行う。

 本書は戦時中の映画についての分析を行ったものであるが、特にその映画の「大衆性」に注目し、そのことと戦時の統制的なイデオロギーとのズレについての描写を中心的に行っていることが特徴的である。統制的イデオロギーに対する「抵抗」もそうだが、そのようなイデオロギーに対する冷ややかな大衆の態度についても重点的に語られている点で、当時の多層的な議論の存在が非常に興味深い。

 例えば、大衆の新体制に対する無関心さ(p259)や、非常事態の「消費」について(p34)、戦争への楽観主義(p266)がそれである。これは映画という市場に極めて近い所にある媒体の分析を行った結果というバイアスの存在も否定できないが、それでも特に都市部における戦争受容の一端を垣間見ることができる内容である。また、映画製作者と統制する側との緊張関係についての描写も非常に多い。統制的であることと、(映画製作における)創造的であることとは根本的には矛盾したものであり、製作者側はそこに独自の工夫を加えながら、適合ないし抵抗しようとする。抵抗に近い例として示すのは木下恵介「陸軍」をはじめとする作品で(cf.p367-368)、検閲が厳しい脚本のレベルでは適合的でも映像表現でそれを逃れようとする戦略など、製作者側の苦悩の一端も細かく記述している。

 

○統制的イデオロギー=「近代の超克」の矛盾の露呈について

 映画という媒体自体、極めて実践的なレベルでその表現が求められ、「理念」とは対極的な側面を持ちうる分野であることを著者自身は強く自覚しており、統制的イデオロギーの理念が実態としての映画でいかに矛盾したものとなっているのかについて、本書では詳しく記述がなされることになる。

 

・生得的な「日本人であること」と「日本人となること」の矛盾について

「国体の本義」(1937)においては半ば議論を誤魔化すかのように、実態における「西欧の影響に伴う悪影響」と理想としての「真の国体」は矛盾を内包し語られていた。しかし、映画という媒体ではそのような誤魔化しは露骨に表面化せざるを得ず、それ自体がナンセンスに見えてくることもしばしばあることを本書では示唆している。P194にあるように映画の世界でも繰り返しこの矛盾は現れているといえる。結局今も昔も「日本人であること」とは、何らかの(架空か実態かを問わず)参照軸を以て描かれるものであり、それ自体は理念型と同様、実態である必要性はない。そして、それが「日本人となること」を要求する場合、当然矛盾として現れることになる。これが最も致命的な矛盾として現れるのが、「日本人であること」を生得的なものとして定義する場合においてである。これは客観的に見れば滑稽でしかないが、「日本人であること」は決して疑問に付されることが許されていない以上、矛盾を矛盾として受け入れなければならない。もし、この矛盾を避けるのであれば、登場人物自体が「日本人であること」と同義となってしまうが、それは飛躍でしかないため、p220で言われるように「正常な、理解可能な」人物像として読み取ることができないか、具体的にはp374に見られるように「超人的」であることが要求される。これではとてもじゃないが「国民生活に根ざした」映画にはつながらない(p301)。

 当然このことに苦労したのが映画製作人側であったことは言うまでもない。国体の理想と実態の乖離はそのまま官僚と一般映画人が「同じ言語を話していない」ことと同義であり(p301)、常にその映画が検閲される立場にあった映画製作者側は、理想的な要求に沿った映画を作らなければならなかったが故に、「困惑を生み、困惑が不安を生む。そしてその不安が、さらにいっそうはっきりした統制を懇願させる」という悪循環も生むことになった(p302)。

 

・統制的イデオロギーとの根本的な矛盾について――「(文化的)包摂」をめぐる論点について

 一方でこの理念と実態の一致をそもそも志向しない分野もまた存在した。これは「日本人が描く外国人」という場面において露骨であったと本書は見ている。この一因として日本人の文化的貧困さに見出しているが(cf.p394)、それと同程度に観衆側の無関心さの影響の大きさも本書は一因と見ている(cf.p337)。

 「国体の本義」では日本(人)の優れた点として欧米の「対立的」構造ではなく、「包摂的」な性質があったと指摘された。文化受容についても日本は積極的に欧米文化を模倣し、近代化を行っていったこともその評価の根拠として語られていた。結論から言えば、「対立的」構造に乏しいという点では確かに正しい指摘である。しかし、これはどちらかと言えば、そのような差異に対して無頓着(更に悪く言えば、無知)であることを根源としているかのように本書では語られる。まさに日本人は「他者」を語ることについての方法論を欠落させていた。したがって、これがそのまま「包摂的」になることから離れた原因にもなったのである。

 これは結局日本映画においても、「包摂的」要素を欠落させる形で、例えば「勤労精神」と言ったものですべてを解決し、他国にもそれを波及させることこそ至上命題であるという見方を正当化した(p400)。すでにこのことは理念自体が崩壊したものとして把握すべき内容であろう。

 

 そして、この論点はそのまま「帝国主義」の正当化と何ら変わらない結果を生むことを意味していた。一つには被植民国に対するステレオタイプとして(p326-327)、又もう一つは日本文化の絶対的信仰とその波及として(p400)。このような議論について「国体の本義」では欧米的な二項図式論(そして、それは「個」の問題に還元して語られていた)として揶揄されていたものであったはずだが、結局映画という「現場」においてさえもこの考え方は理解されることなく、帝国主義的発想が支配することになるのであった。

 

 私自身はこのような議論とわか・こうじが語ったという事例(p439-440)との類似性を意識せずにはいられない。結局この上官もまた、「国体」を都合よく解釈することによって、「不可能を可能にすることが重要だ」という価値観に支配されていた。この「不可能を可能にすること」自体は極めてシンプルな「超克」の発想に基づくものであり、それは「国体の本義」とも部分的には合致していた。しかしこれは「国体の本義」そのものの表現では決してないのである。結局の所、「国体の本義」が抱えていた矛盾というのが、この上官には都合のいい部分だけを解釈・受容し、自らの権力行使にあたり断片的なものをわか・こうじに与えたという構図が出来上がっている。結局のところ、「国体の本義」のような聖典も現場の人間に都合よく解釈され、その権力行使の場で運用されていたという所が実態であったのではなかろうか。ここで重要なのは、いくら「理念」を語ったとしても、それが「実態」を意味する訳ではなく、かつ常にそれが「理念」とのズレを生じさせる可能性があるという問題である。「近代の超克」をめぐる議論で私が最も気に食わないのは、この議論が結局「超克」という「理念」に回収される言説であり、その過程で「実態」が不問に付せられることと、その状況が戦後の教育界における言説と極めて似た性質をもったものだと感じる点にある。「近代の超克が有効である」という主張に常に問わなければならないのは、このようなズレについてどのように問題に取り組むのかという観点ではないだろうか。

 

○敗戦に対し無反省であったのは何故か?——「日本人論」に対する反省の必要性について

本書ではこの無反省さについての問いについて、意味のある回答を与えている(p469)。このような連帯責任感が戦争責任について不問としたということは、かなりの部分真実であるように思える。これは、戦争責任論自体が極めて単純化された議論(例えば、統制に対する従属的態度そのものへの批判)と、それへの反発(愛国的であることの正当化)といった次元をなかなか出てこないことと無関係であるとも言えないだろう。本書が与える視点というのは、このような図式からは外れたものであり、極めて現実を直視することから問題点を抽出しようという観点は今後も行っていなかければならないだろうと思う。

 また戦争責任を不問にするという論理は、「戦争を体験していない」世代に対して何ら正当性がなく、むしろその世代に対して弊害となっていることに本書も目を向けている(cf.p472)。戦時中までの議論の回避と戦後の議論をあたかも別物として語ろうとする態度が無関係とは思えないし、むしろその連続性について注視すべきであると本書では強調されているが、これについては強く支持したい。

 私自身特に注視すべきと考えるのは「日本人論」における戦中戦後の連続性である。現在の日本人論は、あまりにも当時の言説と連続性があるにも関わらず、そこへの「創作性」について、つまり「ユニークであることを強調していること」について無頓着であり続けているように思える。これは欧米の研究者にとっては、あたりまえのように連続的な見方を行っているが(逆に過去の言説に引きずられ過ぎている可能性も否定できないが)、日本における日本人論はこの継承をほとんど行っていない(これは、日本人論を総括する立場で著されているはずの杉本・マオア「日本人は『日本的』か」(1982)や青木保「「日本文化論」の変容」(1990)などが戦後からの議論に留まっていることからも言えるだろう)。また、このような議論は80-90年代にかけて教育をめぐる議論にも大きな影響を与え、現在に至っていることも含め、「日本人論」の系譜について、それがいかに語られ、それがいかに国民性を語る上で正しい(実態のある)言説だったのかという問いは問われ続けなければならないものだろう。

 

<読書ノート>

P28「事件の首謀者であり、実際に犬養首相を撃った古賀中尉はその裁判で、五・一五事件の陰謀者たちは「破壊を第一に考え、決して建設という使命を実行しようなどと思っていなかった」と認めている。彼らは、陸軍大将荒木貞夫の助言に基づき、国民精神を見失わせる西洋化の「歪み」という分厚いベールを、「大和魂」によって払いのけなければならないと決意したのだった。すでに陸軍大臣であった荒木は、「これらの純粋で素朴な若者たち」の行動を褒めたたえ、「押さえきれない涙とともに」拍手喝采した。新聞やラジオで裁判の行方を見守った人々の多くもまた同様であった。

 荒木がまもなく「非常時日本」と呼ぶことになる新時代においては、直接的な行動が言論よりも勇ましいとされ、「誠実な信念」が若い熱狂的軍人たちの排他的特性となった。」

P29「明治時代以来の国民心理の構造に内在してきたものは、国家への奉仕に関しては「なぜと問うようなものではない」という確信である。徳川専制政治を倒し、平等社会の実現を夢見た坂本龍馬でさえ、疑いの余地なくこれを支持している。……文部省が「臣民の道」についての手引きを配布する一九四一年までに、個を滅して国家に仕えることが、日本国民の定義そのものとなっていた。……もちろん、どの「召集令もの」においても、召集される者の問題は、当局の何らかの代表者によって解決される。これは、国家がその国民を、慈悲深く親のような愛情で見守るというイメージを強調する。しかし同時に、実際には内在するジレンマを解決することがないので、国家への忠誠という、奥底にあるテーマまでぼんやりしたものになってしまう。そこに残されるのは、個人にとっての利益と国の規定する「臣民の道」との間の本質的矛盾である。」

 

P31「以上に述べたような映画は、超国家主義的で精神主義的なメッセージを表現していたが、それでは極右組織は、どれほどの影響力を直接的に映画産業に及ぼしていたのだろうか。五十年以上たった今でも、その答えは謎に包まれている。映画業界には、右翼にしても左翼にしても、有力なイデオローグはほとんど含まれていなかったので、業界内部からの、映画製作に対する純粋なイデオロギー的な直接の影響はおそらく無視してよいであろう。」

P34「「非常時」というキャッチ・フレーズは、時代の陳腐な決まり文句のひとつとして定着した。しかし、それはしばしばその本来の意図に反して使われた。「今、何時?」「非常時!」というだじゃれは、喫茶店などで広まったが、新時代に対する消極的な抵抗がうかがわせる。

 「非常時」は、すぐに商業主義によって横領され、内容のないものになってしまった。「非常時日本」を利用して、国内の物質的状況を改善しようというキャンペーンの一環として、滋養強壮飲料の広告が出回った。」

P35「牛島(※一水)は、ジャーナリスト、政治家、文芸運動家、右翼思想家を、何か得体の知れない大きな動物の正体をつかもうと一生懸命に手探りする盲人たちとして描いている。その巨大な羊のような動物には、「ファッショ」とラベルが貼られている。しかし、日本をむさぼり食おうとしている怪獣は、もちろん、ヨーロッパ的な意味でのファシズムではなく、日本的な意味での、軍国主義的官僚制だったのである。」

 

P43「とにかく、ナチス・モデルがいくら魅力的であっても、そのイデオロギーはほとんど日本の官僚の目的には役立たなかった。日本土着の思想は、しばしばまとめて「日本主義」と呼ばれ、個人と国家との間の家族的に密接な絆を強調し、必要とされるあらゆる道徳基準を提供していた。

 例えば、一九三四年のくだらない「ママーパパ」論争は、ナチスの人種・文化純化政策とは、ほとんど無関係であろう。同年八月二九日、文部大臣松田源治は、当時「ママーパパ」と言うようになった子供たちの新習慣を激しく非難した。」

P50「なぜ革新官僚は、批評の禁止というナチスの先例に従わなかったのか。その理由はおそらく、協力を確保するのに、はるかに確実な手段があったということであろう。その手段とはもちろん、不敗の「懇談会」戦法である。この手法は、他の分野の作家や芸術家には非常に有効だと、すでに判明していた。中心的批評家に対する御機嫌とりは、特高警察の手荒な戦術よりも、はるかに多くを成し遂げていたのである。批評家らは、内務省の丸テーブル、あるいは「料亭」に招かれ、たやすく協力的雰囲気に包まれていった。実際、誰がこのような「求愛」のもてなしに抗することができたであろう。

 太平洋戦争終結まで、映画雑誌は頻繁に、数人の批評家と政府、軍の官僚が出席する「座談会」を大きく取り上げた。そこで討議されたのは、批評家(ないし映画製作者)はいかにして国策への最良の貢献をなし得るか、についてであった。田中三郎や津村秀夫のような批評家は、政府に仕える公職の地位を与えると誘われさえしていた。」

P60-61「映画改革者帰山教正は、一九二九年の「映画の性的魅力」と題されたエッセイの中で、どういう基準で映画俳優が美しいと判定されるかについて書いている。その基準はすべて、伝統的な日本人の顔よりはむしろ、西洋人の顔に基づいている。……

 また映画法の時期は特に、学童が日本民族の神話的起源について『国体の本義』に基づいて教えられている時でもあったので、この「白人コンプレックス」は屈辱的遺産と考えられるようになっていた。一九四〇年ごろ、文部省映画改善委員斎藤昌は、もし日本人が映画に見る西洋人の肉体的特性を崇拝し続けるならば、「我々は永久に彼等の精神的植民地に終わるより他はない」と警告している。

 しかし、外国映画、とくにアメリカ映画を徹底して非難するための論理を構築することは、極端に根拠の弱い仕事である。まず第一に、日本映画界が西洋からこうむった歴史的な恩恵はいかに説明すればよいであろうか。」

 

P67「映画に関連する革新官僚の中で、最も多く筆により主張したのは不破祐俊である。……

 不破は、次のように述べている。「文化という言葉は、改良或は改善の能力をその中に含んでいるものを培い育て上げてその能力を完成させて行く、と言う意味をもっている。文化は絶えず進歩発展する。その進み行くときに我々は生き甲斐を感ずる。」

 ここで思い浮かべられる官僚像は「保守主義者」でもなく「国体の本義」の誠実な信奉者でもない。むしろ、社会を人間(特定すれば官僚自身)によって完成させることができると考える、楽観的な十八世紀合理主義者の像である。」

P67-68「後の章でも見るように、革新官僚の「健全なる娯楽」に対する要請は、映画監督、脚本家、撮影所長らをノイローゼ寸前まで追い込んだ。その原因は明らかである。映画製作者は気づて(※ママ)なかったが、官僚たちはこの「健全」を、一般に「娯楽」として受け取られているものとはほとんど正反対の概念として使っていたのである。」

P68-69「不破が次の一節で明らかにしているように、革新官僚の活動を決定する中心的概念は、十九世紀の保守主義者の「社会有機体説」ではなく、十八世紀の「機械論」を露骨に体現したものであった。「文化政策は国民文化の生まれる所のそれぞれの文化機構の整備が刻下の急務である。文化機構が整備されればボタン一つ押せばその機構が総動員してたちどころに文化動員の態勢となり、国家の意図する啓発宣伝政策が軌道に乗り得るわけである。」

 おそらく、この子供じみた単純な発想が、日本文化のファシズム化の二本柱である「精神総動員」と、情報局による「文化団体の再編成」の概念的な枠組みを用意したのであろう。」

 

P194「「ヒューマニズム」戦争映画は、兵士たちに備った「人間らしさ」を強調した上で自然に湧き上がる仲間同士の共感というかたちで彼らの「日本人らしさ」をも描き出していた。そこには、その「日本人らしさ」をめぐって何らかの緊張が感じられたり、それが要求する基準を満たすために何らかの内面的葛藤が見られることは決してなかった。それとは対照的に、精神主義映画は例外なく精神的葛藤のドラマであり、「日本人らしさ」が深刻に問題化されている。主人公は、「日本人らしさ」を生まれながらに備えているにもかかわらず、それを自分の生き方に具現するために、精神的葛藤に満ちた遍歴を経験しなければならないというパラドックスと格闘することになるのである。」

※例えば、大塚恭一は「我々は祖先の血を受け継いだ日本人である以上、そのために自分の中の日本的なものが亡びてしまったとは思えない。かえって日本的なものに対する愛着は色々な形となって自分の身内に湧き起こって来るのを感ずる。」と話したとし(p194)、長谷川如是閑は「西洋人が自分の歴史について語るとき、一定の客観的立場を取りながら、外国勢力の侵入、そしてその結果として民族の血の混合について触れる。それに対して日本人は、自国に歴史に対するときでも、自分の家系の先祖をたどるのと同じような、より主観的な態度でのぞむ。……したがって日本映画は、いかにその媒体が「近代化」されようとも、日本の「心」刻みつけられたメッセージを見失ってはならないし、この「心」は、母国語に宿る精神をも含んでいる。」という(p194-195)。

☆P220「あらゆる精神主義映画に共通する一つの欠点は、主人公を表面的な「立派さ」においてのみとらえることに終始しがちなことである。このことが、心理的内面へのすべてに入り口を遮断し、正常な、理解可能な動機に基づいてドラマを構成することを不可能にしてしまうのである。」

※実際に表現する立場にある映画界固有の問題点であるともいえる。

 

P259「秋の到来とともに、新体制の姿が浮き彫りになり始めた。その中心的なものが「大政翼賛会」で、これは、一〇月一二日に発足し、さまざまな奉仕団体の活動を通して、政府を支持するために国民の団結を促す公事結社であった。……国民は、このようなやり方はすでにあきあきしており、新体制に興味を示す者はほとんどいなかった。『文芸春秋』による一九四一年一一月の世論調査では、六百八十人のうち六百人までが、なんのことか事態を把握できていないという結果が出た。」

※この出典は文芸春秋そのものではなく、他著者の論文に拠っている。表現が漠然としているのはそのせいか。

P262懇談会(1938年7月30日)において映画脚本家に対しまとめた指針の一つに「家族体系や国家に対する自己犠牲に見られる「日本的精神」を讃えること」が挙げられる

P266「しかし、これらの新たな外国勢力の脅威や日常生活の一層の困窮化にもかかわらず、一般市民はあいかわらず、戦争はこれ以上拡大せず、最後の最後には何らかの妥協がはかられるだろうと信じていた。新聞でアメリカ映画がいかに批判されようとも、映画雑誌は依然としてハリウッドのゴシップを載せていたし、目に見えて減少してはいたものの、アメリカ映画はやはり上映され続けていた。」

※1941年の話をしている。

 

P301「「これからの映画」は、一九四一年五月に「国民映画」という公式名を与えられる。情報局によるこの新映画の定義は、混乱と不安を生じさせることを意図しているかのようである。「国民生活に根ざし、高邁なる国民的理想を顕現すると共に、深い芸術味を有し、ひいては国策遂行上、啓発宣伝に資する。」いったいどうやればこのような定義にのっとった映画をつくることができようか。恐ろしいほどの矛盾である。もし「国民生活に根ざし」た映画をつくるとすれば、政府規制により公然と攻撃されている松竹お得意の「小市民劇」とどこが違うのか。それに、「深い芸術味」とは何を意味するのだろうか。これも否定されてきたのではないのか?」

※「国民生活に根ざす」ことが期待されるのは、「高邁なる理想」を所与のものとして捉える態度は同じだろう。それこそが矛盾だといえる。

P301「官僚と一般映画人が同じ言語を話していないということはすぐさま明らかになったが、説明を求めるたびに返って来るのは、漠然とした崇高な激励の言葉だけであった。「我々は、国民全体に愛され、理解され、国民の気持ちを高揚し、国民にあらゆる障害や敵を克服する勇気を与え、希望ある健康生活を送らせ、健全なる思想という原動力を国民に吹き込む映画を期待しているのです。」」

P302「統制が困惑を生み、困惑が不安を生む。そしてその不安が、さらにいっそうはっきりした統制を懇願させる。これこそが、映画人を征服した心理的悪循環の正体だったのである。」

 

P326-327「他方、この映画(※「続・南の風」、1942)で戯画化されている東南アジア人が、西洋がさまざまな民族集団を描くために用いて来た、滑稽か、さもなくば邪悪というステレオタイプといかに類似しているかは、まさに驚きである。例えば斎藤達雄(シェン)(※シンガポール人)の出っ歯と卑屈さは、ハリウッド映画に出てくる「悪辣なジャップ」のイメージとほとんど同じである。……

 これらの(※シェンの)「子供っぽい」とか「嘘つき」という形容は、有名な人類学者マーガレット・ミードが、一九四四年一二月にニューヨークで行われた会議の報告で、日本文化をさして用いることになる言葉そのものであった。太平洋戦争中のアメリカでは、敵国人である日本人の性格を明らかにするために、擬似精神分析を用いるのがはやっていた。日本人の行動を、パラノイア、犯罪性向、尊大などと分析する者もいた。PsychoanalyticalReviewのある記事では、日本人男子の「現実を無視した幼児性」に注意が向けられた。言うまでもなく、これらの戦時中の「科学的発見」は、それまで長らく流布してきたステレオタイプ的な見方を、さらにいっそう固めるのに役立ったにすぎない。「子供っぽい」という表現は、十七世紀以来、インディアンや黒人に対して用いられた言葉であったが、ハリウッド映画の初期から、東洋人を形容する際には、それに「邪悪で不可解」という表現がつけ加えられた。

 したがって『南の風』は、西洋人は日本人を描くときの民族蔑視的な表現を、新たに占領した領土の人々に適用したものであった。」

※ジェフリー・ゴーラーなども擬似精神分析の典型論者。このような国民性論が、特に対外的なものとして語られる場合に、実体を伴わない「偏見のステレオタイプ」を表現したものに過ぎない、という典型例でもある。

P327「その後の太平洋戦争中の映画は、特に「ドキュメンタリー」的なアプローチを取ろうとするものは、占領地の民族と日本民族の間の「勤勉さ」の違いを基準にする傾向があった。例えば『ビルマ戦記』のナレーターは、こう語る。「暮らしが楽であった住民は、素直で、気楽な性質をもっているかわりに、一般に怠け者であり、ひたすらに来世の生活を信じて楽天的である。」しかし一方、「桃太郎・海の神兵」という漫画映画では、さまざまな種類の動物として描かれた島民が、日本軍の飛行場建設を手伝う際に大変な勤勉さを示し、面目を躍如としている。

 先駆者のヨーロッパ人たちと同じく、日本の植民地政策は、世界を文化の優劣という観点でとらえていた。」

※言うまでもなく桃太郎では、被植民地国の従順さに重きが置かれているということ。

 

P335「おそらく(※マレー戦記における)ドイツ映画にはけっして見られないシーンは、シンガポールの通りを進む戦車の凱旋パレードであろう。シンガポールの通りを進む戦車の凱旋パレードであろう。通り過ぎる各戦車のハッチから半身を出している乗員は首から白い布で包んだ箱を掛けている、彼らは、この戦闘で死んだ戦友の骨箱を下げているのである。「欧米人には恐らく奇異の感を誘う」という津村の言葉は正しい。」

P337「日本の観客が、政府の「大東亜共栄圏」政策の「民衆解放」を謳うレトリックには全く感動しなかったこともあって、映画は失敗作となった。観客の関心は、日本軍の行動と、西洋勢力に対する日本軍の優秀性の誇示に集中していた。超国家主義と人種的ナルシシズムの時代に、外国国民の政治的独立の成否など一般の観客にはまったくどうでもよかったのであろう。」

※大衆的にどうでもよくても、プロパガンダ映画としては必要な要素だったともいえる。なお、本映画(ビルマ戦記)の不人気さの指摘は1942年に作られた45本の映画で36位だったという事実に基づく(p336)。対してマレー戦記は一位だった。

P360「英米の映画もたいてい、勇気をもって耐えることと、ささやかではあっても自分の責任を果たすことをテーマとしている。しかし、強力なボランティア精神の存在にもかかわらず、戦争遂行のための市民の団結は、あくまでもゲゼルシャフトの次元に留まっている。他方、銃後の増産努力を描く日本の精神主義映画に支配的なコンテクストは、一種のゲマインシャフトである。個人と国家、市民と兵士、平和と戦争、そして、まさに生と死さえ切れ目のないものとして繋がっているのである。

 精神主義の戦争映画では、戦争活劇映画とは違って、敵は、それがいかに卑劣な存在として描かれていようとも、中心主題には関係がない。戦争とは精神を鍛える場所であって、敵とは、己の内に住む猜疑心や快楽を求める心などの、戦意を弱める気持ちである。外敵に重点を置くことは精神的な集中を乱すことに他ならない。したがって、被害妄想的なスパイなどの形を取って、敵が重要人物として登場する敵愾心映画は、数段低いジャンルに属するとみなされた。」

 

P370「他方、上述の将校の言葉にある新しい没個人的な戦争においては、武士道的な英雄主義は格下げされて、新型の集団的英雄主義が前面に押し出された。これは教科書政策上の編集方針の変化を反映している。一九三四年に行われた国語教科書の改訂により、「勇気」にかわって「忠義」が兵士や市民の最高の美徳の座についたのである。教科書は、国民の「共通の知識」の中で、国家が直接に操作できる部分であった。実際に国家は、教科書を改訂することによって国民の「共通の知識」を書き換えてきた。一九〇四年から四三年の間に、五回の改訂が行われた。一九三二年までは軍国主義教育の教材は、もっぱら際立った個人とその偉業の話であった。しかしその後は、偉業が語られることはあっても、行為者の名は「ある兵士」として伏せられることが多くなった。手柄は個人から、顔のない集団全体のものに変わって行ったのである。偉大な行為は集団の結束した努力によってこそ可能になると強調された。一九四三年の第五期の教師用指導参考書は、この点に関して詳しく記述している。すなわち、真珠湾攻撃の際に戦死して国民的英雄となった九人の潜水艦乗組員についての話を新しく挿入する意義を説明し、その目的は、九人の軍神を取り上げられながらも、個人的な勇気ではなく協力の本質を教えることであるとしている。」

P374「この教義では、兵士にとっての人間の真髄とは、日本人であれば生まれつき持っている「大和魂」である。各人の私的存在は、迷い以外の何ものでもない。『海軍』では、予科練の士官の一人が、自分の訓練生に向かって言う。「お前たちには、手も足もない。困難と苦労は、自分を自分とみなす心の所産に過ぎない。」軍神としての「不死」とは、実際には、あらゆる個性の消滅であり、非個人的抽象との完全な同一化のことなのである。死ぬことによってしか、人はその抽象を現実に転換することはできない。」

P376「実際の製作用として最終的に選ばれた脚本の多くには、急激に上げられてゆくノルマを不服とする労働者たちが扱われていた。決まって主人公は、自己犠牲的英雄行為か超人的努力によってこの抵抗を克服し、肉体的疲労や過剰使用の機械類の故障といった日常的な問題が精神力によって解決できることを労働者たちに証明して見せる。ここには、全国の工場で労働意欲がたえず減退しつつあり、この危機的状況が生産性を鈍らせ、戦略的に重要な兵器の品質にも影響していたことが反映されている。」

 

P387「不破祐俊と他の革新官僚らは、三〇年代の末から、時代劇を史実に基づいた「歴史映画」に変身させることを要求していた。映画業界は、これに真剣に取り組み、この理想に沿って多くの作品を生み出した。……しかしながら、これらの作品はすべて、日本史上の出来事しか扱っていなかった。しかし太平洋戦争の中期になると、日本の外で起きた歴史的進展を描くことが、映画製作者の責任として要求されるようになった。この結果、敵愾心喚起のための宣伝材料を西洋諸国のアジア侵略の歴史に求めた映画が、多数制作された。

 荒井良平のスペクタクル『海の豪族』(日活、一九四二年一〇月)は、この種の最初のものであった。……興行的にはかなりの成功を収めたが、ほとんどの批評家はあざ笑うか、まったく無視するかであった。飯島正の映画評は一行足らずだった。「ただただ滑稽である。」

P394「杉浦のコメントは、無意識のうちに敵愾歴史映画の最大の弱点をさらけだしてしまっている。つまり、これらの映画は時代劇メンタリティーの所産だということである。歴史映画に託された二つの宣伝機能は、(1)一般大衆に、日本と西洋列強との間の「多次元的」(政治的、文化的、思想的、軍事的)な摩擦の歴史的文脈を示すこと、(2)うまくいけば、いっそうの戦争協力につながり得る敵愾心を民心に起こさせること、であった。

 制作された歴史映画は両方の点においてーー少なくとも部分的にはーー失敗したが、その原因の大部分は、この使命を任された脚本家と監督がB級時代劇映画の単純な物語展開という因習から自らを解放することができなかったことにある。時代劇は、個人的復讐の物語として本質的に非歴史的であり、異なる思想体系ないし政治制度の間の弁証法的な対決という概念をまったく持っていないのである。

 行動規範の間の衝突もまた存在しない。明確に存在するのは唯一、武士という行動規範のみであり、この規範を維持しようとする者と、それを無視するか意識的に壊そうとする者との間にある衝突のみである。」

 

P400「南方の未開の地域に対する日本政府の政策は、できるかぎり日本的精神をたたき込むというものであり、それは、日本的で「勤労精神」のよってのみ彼らにも進歩が可能になるという仮説に基づいていた。フィリピン、インドネシア、その他の東南アジア諸国でも、この政策は真剣に推し進められた。日本語を普及させようという一斉努力は、日本文化の導入をより容易にするためでもあり、最終的には日本文化、つまり、日本民族のみが盟主であるという価値観を植えつけることを目指していたのである。同様に、立花夫妻の文化的ナルシシズムも、当時の「インテリ」向けの雑誌ならどこにでも載っていたような、定説を反映したものに過ぎない。極端ではあるが、十分に定型的な例が、志村陸城の論文の「大東亜秩序の原則」という一節に見られる。「世界の全ての業績――人類営々の努力の帰向点はわが日本の国体を中核とする真底の文化にあること、世界文化史の終局的な満足点はこの日本にこそあること、それを極め尽くしたる自信がなくして対外政策は考えることが出来ぬのである。」」

如実に出てくる帝国主義的思想。「解放」映画というジャンルの話だが、「「解放」映画の驚くべき特徴のひとつは、「解放」される地域の土着文化に関心がほとんど払われていないことである。」(p397)とも言われる。

P417「対照的に、太平洋戦争期の日本では、陸上の実践における自国の歩兵たちの試練や奮闘を扱った映画はごく少数だった。……その上、ストーリーラインも古い話の繰り返しであり、強調されるメッセージは単調な決まりきったものであった。すなわち、(1)日本の兵士は戦闘において勇敢であり、効果的な働きをする。(2)敵兵は、戦うよりも敗走する腰抜けの臆病者である。」

※娯楽としての消費以上のものでなかった、という見方もできる。

 

P430-431「一九四四年の半ばまでには、映画批評そのものも息を秘め、各映画の粗筋の紹介に、国策目的のごく簡略な説明を加えただけのものになっていた。また、一九四四年の春以後、映画雑誌は、映画とはまったく無関係の記事も掲載せねばならず、国家防衛の仕組みや軍需物資生産における生産力増強について紙面を割かざるを得なくなった。」

P439-440「この時代の精神的異常さを物語る例として、名古屋在住の現役の弁士わか・こうじ氏は、次のような実話を語ってくれた。

一九四五年一月に、わか・こうじは九州中部の都城陸軍特攻隊基地に技術部門一等兵として現役招集された。ある日、南方の基地から未現像のままのニュースフィルムが届いた。上官は彼に、「すぐ現像せよ」と命令した。「しかし、この基地には現像する設備は何もないからできません」と答えると、上官は、「わが帝国の航空隊は天皇陛下のものであって、不可能はないはずだ。何とかしろ」と再度命令した。わかは考えた末に、たくあんをつくるための樽を使って現像した。質のよい現像ができなかったことは言うまでもない。何百フィートもの現像されたフィルムを兵舎でのばして、扇いで乾かした。腕は、付着した酸であちこちがかゆくなり、掻くと血がにじみ出た。次に出された命令は、「試写しろ」であった。「ネガを試写したら、キズがついておしまいですよ」と反対すると、上官は激怒し、「お前は、態度が大きい。不可能はない」と言って、靴で顔面をなぐられ、一時間くらい気絶していた。そのときの傷は今も残っているという。意識が戻ると、上官は、「どうしても試写しろ」と再度命令した。上映会が行われたが、現像状態が悪かったので、映像全体が茶色っぽく見えた。それでも上官は、現像と試写に成功したことを喜んだ。上官は「できない、できないと言ったのに、できたじゃないか」と格別に満足した様子であった。この作業に成功したことで、わかは賞金三十円と一週間の休暇を褒美として与えられた。

 上官がこれほど満足したというのも、やはり、精神主義が本当に効力を発揮することを証明できた、という点にあったのである。」

※「超克」の意味を考えさせられる。

 

P456「政府も、それなりの対策を用意していた。「憤慨」「決心」「忍耐」などの用語を連発しつつも、数年前からの厳しい緊縮規制のいくつかを和らげることに着手したのである。映画業界は、この政策転換の恩恵を被った主要な領域のひとつであった。一月二三日、急速に悪化する戦況のもとで劇映画の生産継続に対する政府援助に関する議題が阿子島議員によって予算会議にかけられた。」

P458「一九四五年には、三本ものあたらしい喜劇映画が作られた。三本とも東京空襲も開始以前に制作に入っていたが、これらが次々と封切りされたことからも、政府が捜し求めていた「精神対策」に、恰好の手段であったことがうかがえる。」

P465「天皇の演説の直後、内務省は全国の映画館に一週間、閉館するよう命じた。東京の街路では、至るところに混乱が見られた。皇居の前では自殺が相次ぎ、絶対不服従を主張する青年将校たちは上官を殺害した。厚木航空隊の飛行機が空から町中にビラを巻いて、戦争継続を訴えた。降伏反対派によって捏造されたと思われるうわさが広まったが、それは、日本人男子はすべて去勢され、女子は売春を強要されるというものであった。五歳以下の子供は、アメリカ人が軍用犬のえさにするから、絶対に見つからないよう隠しておかなければならないというものもあった。」

 

P469「戦後の世代は、十五年戦争期の映画業界における個人の責任が一度も徹底的に追求されたことがないのはなぜだろうかと、しばしば不思議に思う。答えの一端は、きっと、全日本映画従業員同盟が、一九四五年一二月に東宝で催した会議の席上、この問題が初めて(かつ、最後に)公に提起されたときにもち上がった、論理的ジレンマの中に見出されるだろう。……そのとき、一九四四年に文化映画『大いなる翼』を監督した関川秀雄が、「戦争中みんな何等かの形で、大なり小なり戦争に加担したんだ」ということと、宮島自身、阿部豊の『あの旗を撃て』カメラマンであったことを指摘して、これに反論した。……だれもが幾分かは「罪」を共有している以上、他者を糾弾する権利はだれにもなかった。……

 業界内の者たちがこの問題の口火を切ることはできないとしたら、映画評論家はどうだろう。……しかしここでも、同じ論理的ジレンマが沈黙を強いていた。津村秀夫は、これまでに見てきたように、軍国主義国家の映画政策の形成に深く関与し、戦争の終盤には、敵愾心昂揚映画の熱烈な提唱者に転じていた。飯島正は、大日本映画協会に公的な関係にあり、『君と僕』の脚本に協力し、さらにもう一つ、戦争宣伝映画用に脚本を書いた。……これらの活動の多くは、戦時下の必要に迫られた自然な反応と説明することも出来ただろう。しかし、批評家たちは、自分たちも「お前だって……」という追及から逃れることはできないと感じた。」

※しかし、これはどこまでも同年代の者同士の議論の中でしか成立しない議論であり、自己内省に乏しかった点についての弁解にはならないだろう。

P472「長州藩士も映画人も、大きな歴史的断絶の時代に生きた。あまりに大変動のために、その前と後とでは連続性が見出しにくいほどである。実際、過去はあらゆる価値を失い、ただひとつ残ったのは、墨で黒く塗りつぶされた教科書のように、否定されなければならない負の教訓のみであった。そして新時代は、過去を「うそ」としてあまりにも完全に拒絶してしまったために、その誕生の時点から深奥に疵を持つことになったのである。この事実の認識こそが、伊丹万作をして、次のように言わせたに違いない。「『だまだれていた』といって平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。いや、現在もすでに別のうそによってだまされ始めているに違いないのである。」

 この本を書き進めていくうちに次第に明らかになって来たことは、伊丹のこの指摘の正しさである。その「うそ」中でも一番大きいものは、戦前、戦後という言葉が歴史上に実在する断絶を表しているという考えである。それは錯覚にすぎない。実際には断絶したものより、持続して来たものの方がはるかに多い。その代表的なものの一つとして、「官僚」がある。自分たちを、国民と国民によって選ばれた政治家を超越する存在と考えている官僚たちによって、支配され操られ続けている日本の現状は、戦前となんら変わるところがない。」

※これは、あらゆる日本人論に対しても、ほとんど真理でありうる。つまり、それは戦争を介して捏造された国民性論が残存し続けたものであるという可能性が常にあるということである。

本人は『日本的』か」(1982)や青木保「「日本文化論」の変容」(1990)などが戦後からの議論に留まっていることからも言えるだろう)。また、このような議論は80-90年代にかけて教育をめぐる議論にも大きな影響を与え、現在に至っていることも含め、「日本人論」の系譜について、それがいかに語られ、それがいかに国民性を語る上で正し言説なのかという問いは問われ続けなければならないものだろう。

 

<読書ノート>

 

文部省教学局「国体の本義・臣民の道」(2018)

 今回は近代の超克の議論との関連で、呉PASS出版から発行された著書を手に取った。

 前回までこの近代の超克の議論を考察してきたものの、「結局この近代の超克をめぐる当時の議論はどのようなものが優勢だったのか」については、これらを検討した著書から見出すことができず(それは結局文学界の『近代の超克』座談会の周辺の議論以上の何ものにもならない)、「近代」をめぐる問いについての受容がいかになされていたのかを検討してみたいと思った。そこで文部省から発行された、ある意味で「公式」の近代理解について如何なるものだったのかを読み解いてみた。

 このことに関する結論の一つ、は読書ノートを見てもらってもわかると思うが、「国体の本義」についてはこれに関連する引用が多く見出せるのに対して、「臣民の道」についてはほとんど見るべきものがなかった。先に主観的な印象を述べれば、「国体の本義」については、それなりに(思っていた以上に)近代について、それを日本的なものや、欧米との対比の中で細かく語っているのに対し、「臣民の道」はそのような視点が弱く、啓蒙主義的に反個人主義全体主義的は主体を鼓舞することに重点を置いているように見える。

 

○「国体の本義」(1937)と「臣民の道」(1941)の比較について

 さて、この主観的見解について、どのような具体的説明が可能か。

 まず、一つ指標となりそうなのが、両書における「引用」である。両書においては「古事記」や「日本書紀」以降の引用を通じて、過去の天皇や偉人がいかに語ったかについての引用を行いつつ、いかに日本が優れた国家なのかについて語る。両著書における引用数について調べた結果、「国体の本義」は全141ページ中81の引用(計205行)があり、「臣民の道」は全70ページ中50の引用(計111行)があった。「臣民の道」の著書としての分量はほぼ「国体の本義」の半分であるが、引用数はやはり比較的多い印象がある。正直な所、このような引用は「近代」観について直接語るような性質のものではなく、日本的であることを性質づけるための根拠として用いられるものでしかないため、それは近代に対する考察を深める手段にはならないのである。

 また、「臣民の道」は「国体の本義」と比べ、欧米諸国に対する対立構造をかなり明確に打ち出していることも特徴である。日独伊三国同盟は1940年に結ばれているが、同盟国と非同盟国の区別がこの前後で明確になったことの現れとみるのが自然だろう。合わせて、「国体の本義」では個人主義を中心に自由主義に対する批判を行っていたものの、「臣民の道」では、これに加え、功利主義・唯物主義も近代的なものに対する批判のキーワードとなっている。唯物主義批判の経緯をどう考えるのかはわからないが、功利主義批判については、やはり倹約に対する強化と無関係ということが難しいだろう。

 

○近代の超克論として読む「国体の本義」

 P132-133の引用で一箇所「超克」という言葉が用いられているが、やはり本書は「近代の超克」論の重要な系譜の一つに位置付けることができるだろう。その際に否定の対象とされたのは、p139-140にあるように、それを「個人主義」に帰着させ、個人主義的発想に立っている西洋文明であり、それに対峙できる日本の文明・ないし文化を色濃く描写しようとするのが本書の特徴である。

 とりわけ日本的な宗教観は対立的に描かれる西洋宗教とは異なり和が見られること(p49-50)、そして個人主義的な西洋思想は結局主従関係に議論が帰着せざるをえず、『適切な意味での没我』が達成できない、という指摘は興味深い(p90-91)。これは階級闘争的な関係性で社会批判を行ったマルクス主義への批判をも意味しているが、結局マルクス主義的な見方においても個人主義が支配的であるから、対立構造からしか社会を捉えることができないこと、そのこと自体に批判の目が向けられているのである。これに対して日本はこのような態度を超克するだけの「国体」があるとし、これこそ国際平和に寄与する思想であることを強調するのである。この「国体」が優れている根拠の一つとして、対外的な文化を積極的に取り入れ、それを醇化してきた事実が挙げられ、そのような多様な背景の文化を日本は包摂することができていること自体が西洋より優れた根拠として本書で主張されるのである。このようなレトリックが「国体の本義」で用いられていること自体にまず注目すべきである。

 

 しかし、本書において一点奇妙に感じるのが、「資本主義」に対する評価を全く与えていないことである。共産主義に対して否定的な見方を行っているにも関わらず、近代的なるものと密接に関わっているように思える「資本主義」という言葉自体が本書で一言も触れられていないという事実自体が奇妙であると考えるべきではないか。当時の文脈も踏まえつつ、何故「国体の本義」では資本主義について何も語られなかったのかを考察することはそれなりに有意義な議論になるように思う。これは同時に「個人主義」と「資本主義」をいかなる関係で考えるべきなのか、又はどのように考えられていたのかという点と、「資本主義」的であることについてどのような評価が与えられていたのかを問うということを意味する。意図的に「資本主義」について語ろうとしなかった(資本主義について語ることで不都合な問題が出てくる)結果なのか、それとも「資本主義」という枠組みで近代を考える思考が当時乏しかったからなのか…。

 

 また、本書を近代の超克論として考える場合、超克をめぐる主張(国体論)と実態とのズレについてどう考えるのかは、精査されねばならない点である。具体的・端的に言うならば、「武」に関する考え方(p48)は日本の西洋との違いとして実態を伴っていたのか、という問いである。これは特に本書が当為論的な議論を行っている性質を持っていることを踏まえると問題は深い。日本における西洋的な悪影響というのを現状除去できているという認識に少なくとも「国体の本義」では立てていないことを認めなければならない(p5)。このような状況下においては、仮に日本的な「武」が西洋的な「武」と異なっていることが真であったとしても、西洋的な悪影響を受けている実態があるために、日本的な「武」が遂行できている保証は何一つないのである。言い換えれば、いくら「近代の超克」について本書で日本の国体の正当性が語られていたとしても、そのことは実態がどうなっているかとは無関係というしかないのである。

 これを回避するためには、理想と実態とのズレは存在しないことを強調するほかないのである。そして、本書においても、上記のような致命的な矛盾を回避するため、本質的な「国体」をめぐる議論をやたらと強調し、実態を隠蔽し、あたかも現状においても理想とのズレがないかのように語ろうとする論調が併存することになる。「臣民の道」に関しては、よりこの矛盾を回避するために、西洋諸国との対立図式の方をことさら強調しているとさえ言えるのではなかろうか。実に典型的な「真の問題」を隠蔽するため別の「二項図式」を導入するというレトリックがここでは用いられているといえる。本書を読む価値があるのは、このような矛盾が露骨にそのまま表現されている所にあるといえるだろう。

 

○「日本人論」として読む「国体の本義」――「ユニークな日本人論」の聖典としての位置付けについて

 日本人論の議論の一つとして、「日本人は日本をユニークなものとして描こうとする」という言説が存在する。すでにレビューを行った杉本良夫とロス・マオア(1981)の際にもこの点を考察したが、改めて触れておきたい。少なくとも、この「ユニークな日本人論」は海外の日本の研究者にとってほとんど通説的な見解となっていると言えるだろう。いくつか引用しよう。

 

「すべての国はユニークだ。すべての個人がユニークなのと同じく、生まれたときは瓜二つの一卵性双生児でさえ、ちがう人生を歩み、それぞれがユニークな人間になる。

しかし、日本がユニークだという日本人自身の信念は、それ以上のことを主張する。国々の互いのちがい以上に日本はほかの国とちがっているーーつまり、ユニークさにかけてもまた一段とユニークだと言うのである。日本はみずからをアウトサイダーだと信じている。日本は、先ほど論じた大いなる国民の調和といったような、ほかのいかなる国にもない天恵を受けていると思っている。」(カレル・ヴァン・ウォルフェン「人間を幸福にしない日本というシステム」1994、p262)

 

 

「日本人が自らその社会をどう認識しているかを考える際、日本人には社会と自分たち自身をユニークだととらえる傾向が強いことに触れなければ、考察は不完全なものに終わる。最近数年間、いわゆる日本人論を扱った本や評論の出版は、家内工業が繁盛しているかのようである。次から次と出版されるものの多くは決して質の高いものではない。そのうち最も優れたものも、比較に関心を向ける者をいらだたせたり、激怒させたりするように仕掛けられている。日本的な「考え方」が特殊だとか、他の国民と程度を異にするというのではなく、むしろ、他の国民と全然異なっているということが論じられているからである。この視点が持つ性格を最も明確に要約するのは、日本人の合理性もしくは合理性の欠如に関する議論である。」(ロバート・スミス「日本社会」1983=1995、p158) 

 

「日本人は自分たちがユニークな国民であることを強調している。ときには「類のないほどユニーク」とさえ表現している。日本がユニークであるという発想には、長い歴史がある。アメリカ人と同じように、日本人も他の国の人々とはかけ離れた存在である。本書の巻末資料にも明らかなように、価値観と行動に関する調査結果では、日米は両極端にある。日本が最も集団志向型の社会であるとすると、アメリカは最も個人主義的な国である。」(シーモア・M・リプセット「アメリカ例外論」1996=1999、p32)

 

 私自身、杉本・マオアのレビューの際には、この通説に対し、否定的な見解を述べた。これは、戦後の日本人が語る「日本人論」においては、とてもそのような語りを行っているようには見えなかったからだ。だが、「国体の本義」を読んだあとだと、この通説を支持しなければならないという見方をせざるをえないと感じた。私がこれまで読んできた「日本人論」の中で、ここまで日本をユニークに語ろうとしていた著作には出会ったことはなかった。他方で、海外の日本人論研究というのが、このような戦中期における言説の延長線上で語られているという可能性にも目を向けることができるだろう。戦後の「日本人論」は、それ以前の「日本人論」にも影響を受けながら、そこに「海外の目線」が含まれることで複雑に関連していく。「国体の本義」はまさに没落的な西洋文明に対する解決策としての「日本」を描写する装置として機能している。それは西洋から見れば、どう考えても「ユニーク」なものの産物であり、そのような社会を目指そうとした日本人は、総じて「ユニークさを語る主体」としての地位を獲得するのである。これには本書が国民にとっての「聖典」としての位置付けが期待されているものと呼んで差支えない以上、反論の余地がないのである。

 

 また、この議論とは別に、「国体の本義」で描かれる現状の日本とあるべき日本論との距離感についても注目すべきだろう。このズレについて語るとき、現状に対する改善要求としてそれを語らなければならないが、それは当然のごとく実現するものであることが同時に語られなければならない所に、当時の国体論の特徴がある。通常の日本人論はここに差異を設けていないが、「国体の本義」ではこれを認めるところからはじめなければならないのである。この改善点を西洋的な「異分子=個人主義」に見出し、この除去を目指すことが強調される形で先述した実態の隠蔽がなされているという見方も可能であろう。

 

(2021年8月8日追記)

○「国体の本義」と座談会『近代の超克』との「近代観」に関する異同について

 さて、主題となるべき論点について触れるのを忘れていたため、追記しておく。前回まで検討を行ってきた座談会『近代の超克』と「国体の本義」における「近代の超克」観の違いについてである。

 まず、同じ問題意識として指摘できるのは、現状の日本に中途半端な西洋文明の弊害が存在しているという指摘である。しかし、問題なのは、この問題意識の程度である。座談会『近代の超克』においては、この影響力を相当強いものと捉えているが故に、「国体の本義」とのスタンスが致命的に異なることになっているのである。

 これは「京都学派」「文学界」のどちらの立場から見ても明らかである。まず、「京都学派」的な「近代の超克」とは、それ自体西欧的な近代の超克の問題とほとんど同じものであった。これは「国体の本義」で扱っていたような、「国体」自体から問題を捉えるという視点がそもそも有効でないという前提に立たないと適用される立場ではない。日本の問題が西洋の問題と同一視されるのは、結局、その西洋の問題こそが大きな問題なのであり、その解決を図ることこそが日本における「近代の超克」でもある、というのが基本的な論理となる。

 そして、「文学界」側からも、林房雄三好達治によって、具体名こそ挙げられていないものの、明らかに「国体の本義」等の官の立場から出された「近代の超克」論に対する批判がなされている。引用しよう。

 

「林 記紀、万葉その他の古文献の文部省的釈義によつて、日本人が出来るなどと思つてそんなことをやつてゐる連中に、お前らは苦労したかといいたい。万葉、記紀その他の古文献以外に、一体お前らは何を識つてゐるか、真剣に近代といふものを通つて来たかとさへ反問したいね。四十になつて初めて記紀、万葉その他の古文献が解る連中が沢山出来て来たといふそのことは、大きな将来に対する力だと思ふんです。

三好 それァ僕も希望的に考へるのだ、だから現在、その指導的枢要の位置にある当路の役所などから出てゐる出版物が、牽強付会だつたり独創力に欠けてゐたりするのは迷惑だと思ふのです。あれを一つ問題にしたいね。ああいふ書物は非常に科学的に詳しく論じてあるやうに見えて、実はちつとも科学的ではない。彼らが口癖のように雄大とか荘厳とかいつてゐることは、もつと違つた風に、僕らには美しくも又微妙にも考へられるのだが。僕らにはただ読者の側からしていふのだが、少くともあの人達が簡単に解釈してゐる程度では、とても納得が出来ないね。……

林 その古典が直ぐ諸学生に解るものでなくてもいい。又四十になつて古典を始める、さういふ国柄が本当の国家だと思ふ。日本はさういふ国柄だと思ふのです。

三好 僕はさういふ国柄でちつとも差支へないと思ふ。ただ現今の考へ方は、さういふ古典の中から日本精神を探し出して、さしづめこの時局に応用しようとする、さういう目の先の意図が非常に浅薄に見え透いてゐて、その爲に古典の読み方、解釈の仕方が甚だ軽率で、不十分で、また時には非合理的なんだ。さういふ点をやはり我々は指摘しなければならないと思ふのだ。

諸井 非常に賛成だな。」(河上徹太郎編「近代の超克-知的協力会議」1943,p293-295)

 

 ここで林は官僚批判の一種として官が出版する古典解釈についての批判を行っている。また、林は「日本には外国の影響を断固として受けない部分がある」ことこそ支持する態度を示すが(河上編1943,p292)、これもまた「国体の本義」に反する態度である。この座談会自体はすでに「臣民の道」発行後の議論であることも踏まえると、私としても「近代について真面目に考えようとしていない」という批判には賛同せざるをえないが、言い換えれば、『近代の超克』座談会と、官の側から示された「近代の超克」の態度が対話不可能なレベルで乖離していたことも意味するのである。

 ここまで乖離が大きいと最初の関心であった「公の立場からの出版物=一般的な解釈」という前提にも疑義を与えなければならないだろうか。

 

<読書ノート>

P2「即ち國體の本義は、動もすれば透徹せず、學問・教育・政治・經濟その他國民生活の各方面に幾多の抉陥を有し、伸びんとする力と混亂の因とは錯綜表裏し、燦然たる文化は内に薫蕕を併せつつみ、ここに種々の困難な問題を生じている。今や我が國は、一大躍進をなさんとするに際して、生彩と陰影相共に現れた感がある。併しながら、これ飽くまで發展の機であり、進歩の時である。我等は、よく現下内外の眞相を把握し、據つて進むべき道を明らかにすると共に、奮起して難局の打開に任じ、

現今我が國の思想上・社會上に諸弊は、明治以降に餘りにも急激に多種多様な歐米の文物・制度・學術を輸入したために、動もすれば、本を忘れて末に趨き、嚴正な批判を缺き、徹底した醇化をなし得なかつた結果である。」

P2-3「抑々我が國に輸入せられた西洋思想は、主として十八世紀以来の啓蒙思想であり、或はその延長としての思想である。これらの思想の根柢をなす世界観・人生観は、歴史的考察を缼いた合理主義であり、實證主義であり、一面に於て個人に至高の価値を認め、個人の自由と平等とを主張すると共に、他面に於て國家や民族を超越した抽象的な世界性を尊重するものである。從つてそこには歴史的全體より孤立して、抽象化せられた個々獨立の人間とその集合とが重視せられる。かかる世界觀・人生觀を基とする政治學説・社會學説・道徳學説・教育學説等が、一方に於て我が國の諸種の改革に貢獻すると共に、他方に於て深く廣くその影響を我が國本来の思想・文化に與えた。」

 

P3-4「かくて歐化主義と國粹保存主義との對立を來し、思想は混迷に陥り、國民は、内、傳統に從ふべきか、外、新思想に就くべきかに悩んだ。然るに明治二十三年「教育に關スル勅語」の渙發せられるに至つて、國民は皇祖皇宗の肇國樹徳の聖業とその履踐すべき大道とを覺り、ここに進むべき確たる方向を見出した。然るに歐米文化輸入のいきほひの依然として盛んなために、この國體に基づく大道の明示せられたにも拘らず、未だ消化せられない西洋思想は、その後も依然として流行を極めた。」

※この流行が「國體に關する根本的自覺を喚起するに至つた」とする(p4)。

P4-5「抑々社会主義無政府主義共産主義等の詭激なる思想は、究極に於てはすべて西洋近代思想の根柢をなす個人主義に基づくものであつて、その發現の種々相たるに過ぎない。個人主義を本とする歐米に於ても、共産主義に對しては、さすがにこれを容れ得ずして、今やその本来の個人主義を棄てんとして、全體主義・國民主義の勃興を見、ファッショ・ナチスの擡頭ともなつた。即ち個人主義の行詰りは、歐米に於ても我が國に於ても、等しく思想上・社會上の混亂と轉換との時期を將來してゐるといふことは出來る。久しく個人主義の下にその社會・國家に關する限り、眞に我が國獨自に立場に還り、萬古不易の國體を闡明し、一切の追随を排して、よく本來の姿を現前せしめ、而も固陋を棄てて益々歐米文化の攝取醇化に努め、本を立てて末を生かし、聰明にして宏量なる新日本を建設すべきである。」

P5「即ち今日我が國民の思想の相剋、生活の動揺、文化の混亂は、我等國民がよく西洋思想の本質を徹見すると共に、眞に我が國體の本義を體得することによつてのみ解決せられる。而してこのことは、獨り我が國のためのみならず、今や個人主義の行詰りに於てその打開に苦しむ世界人類のためでなければならぬ。ここに我等の重大なる世界史的使命がある。乃ち「國體の本義」を編纂して、肇國の由來を詳かにし、その大精神を闡明すると共に、國體の國史に顯現する姿を明示し、進んでこれを今の世に説き及ぼし、以て國民の自覺と努力とを促す所以である。」

 

※以下旧字体をそのまま表記することを改めているのをご容赦願いたい。

P33-34「天皇と臣民の關係を、單に支配服従・權利義務の如き相對的關係と解する思想は、個人主義的思考に立脚して、すべてのものを對等な人格關係と見る合理主義的考へ方である。個人は、その發生の根本たる國家・歴史に連なる存在であつて、本來それと一體をなしてゐる。然るにこの一體より個人のみを抽象し、この抽象せられた個人を基本として、逆に國家へ考へ又道徳を立てても、それは所詮本源を失つた抽象論に終るの外はない。

 我が國になつては、伊奘諾ノ尊・伊奘冉ノ尊二尊は自然と神々との祖神であり、天皇は二尊より生まれました皇祖の神裔であらせられる。皇祖と天皇とは御親子の関係であらせられ、天皇と臣民との関係は、義は君臣にして情は父子である。この関係は、合理的義務関係よりも更に根本的な本質関係であつて、ここに忠の道の生ずる根拠がある。個人主義的人格関係からいへば、我が国の君臣の関係は、没人格的な関係と見えるであらう。併しそれは個人を至上とし、個人の思考を中心とした孝、個人的抽象意識より生ずる誤に外ならぬ。我が君臣の関係は、決して君主と人民と相対立する如き浅き平面的関係ではなく、この対立を絶した根本より発し、その根本を失はないところの没我帰一に関係である。それは、個人主義的な考へ方を以てしては決して理解することの出来ないものである。」

P34-35「かくて敬神祟祖と忠の道とは全くその本を一にし、本来相離れぬ道である。かかる一致は独り我が国に於てのみ見られるのであつて、ここにも我が国体の尊き所以がある。」

 

P44-45「支那の如きも孝道を重んじて、孝は百行の本といひ、又引度に於ても父母の思を説いてゐるが、その孝道は、国に連なり、国を基とするものではない。孝は東洋道徳の特色であるが、それが更に忠と一つとなるところに、我が国の道徳の特色があり、世界にその類例を見ないものとなつてゐる。従つてその根本の要点を失つたものは、我が国の孝道ではあり得ない。」

※孝は次のように定義付けられる。「我が国に於ては、孝は極めて大切な道である。孝は家を地盤として発生するが、これを大にしては国を以てその根底とする。孝は、直接には親に対するものであるが、更に天皇に対し奉る関係において、忠のなかに成り立つ。」(p40)「我が国の孝は、人倫自然の関係を更に高めて、よく国体に合致するところに真の特色が存する。我が国は一大家族国家であつて、皇室は臣民の宗家にましまし、国家生活の中心であらせられる。」(p43)

P31「我等臣民は、西洋諸国に於ける所謂人民と全くその本性を異にしてゐる。君民の関係は、主と対立する人民とか、人民先づあつて、その人民の発展のため幸福のために、君主を定めるといふが如き関係ではない。」

※ユニークな日本人論の一つの完成形ともいえる。

 

P47「個人主義に於いては、この矛盾対立を調整緩和するための協同・妥協・犠牲等はあり得ても、結局真の和は存在しない。即ち個人主義の社会は万人の万人に対する闘争であり、歴史はすべて階級闘争の歴史ともならう。かかる社会における社会形態・政治組織及びその理論的表現たる社会学説・政治学説・国家学説等は、和を以て根本の道とする我が国のそれとは本質的に相違する。我が国の思想・学問が西洋諸国のそれと根本的に異なる所以は、実にここに存する。」

マルクス主義の影響が強い。

P48「又これ(※和)によつて、個性は称々伸長せられ、特質は美しきを致し、而も同時に全体の発展高昌を斉すのである。実に我が国の和は、無為姑息の和ではなく、溌刺としてものの発展に即して現れる具体的な大和である。」

P48「我が国は尚武の国であつて、神社には荒魂を祀る神殿のあるのもある。……併し、この武は決して武そのもののためではなく、和のための武であつて、所謂神武である。我が武の精神は、殺人を目的とせずして活人を眼目としている。」

P49-50「更に我が国に於ては、神と人との和が見られる。これを西洋諸国の神人関係と比較する時は、そこに大なる差異を見出す。西洋の神話に現れた、神による追放、神による処罰、厳酷なる制裁の如きは、我が国の語事とは大いに相違するのであつて、ここに我が国の神と人との関係を、西洋諸国のそれとの間に大なる差異のあることを知る。」

※「我が国に於ては、神は恐ろしきものではなく、常に冥助を垂れ給ひ、敬愛感謝せられる神であつて、神と人との間は極めて親密である。」(p50)

P57「まことには、我があつてはならない。一切の私を捨てて言ひ、又行ふところにこそ、まことがあり、まことが輝く。」

 

P89-90「人が自己を中心とする場合には、没我献身の心は失われる。個人本位の世界に於ては、自然に我を主として他を従とし、利を先にして奉仕を後とする心が生ずる。西洋諸国の国民性・国家生活を形造る根本思想たる個人主義自由主義等と、我が国のそれとの相違は正にここに存する。」

※これは、資本主義に従属であると「化石化」するというレトリックと同一のもの。

P90「この異質の文化を輸入しながら、よく我が国独特のものを生むに至つたことは、全く我が国特殊の偉大なる力である。このことは、現代の西洋文化の摂取についても深く鑑みなければならぬ。

仰々没我に精神は、単なる自己の否定ではなく、小なる自己を否定することによつて、大なる真の自己に生きることである。元来個人は国家より独立したものではなく、国家の分として各々分担するところをもつ個人である。分なるが故に常に国家と帰一するをその本質とし、ここに没我の心を生ずる。」

 

P90-91「而してこれと同時に、分なるが故にその特性を重んじ、特性を通じて国家に奉仕する。この特質が没我の精神と合して他を同化する力を生ずる。没我・献身といふも、外国に於けるが如き、国家と個人とを相対的に見て、国家に対して個人を否定することではない。又包容・同化は他の特質を奪ひ、その個性を失はしむることではなく、よくその短を棄てて長を生かし、特性を特性として、採つて以て我を豊富ならしめることである。ここに我が国の大いなる力と、我が思想・文化の深さと広さとを見出すことか出来る。」

※存在しない文化と、それを語ることによる存在をめぐる議論。

P91「我が国に於ては、敬語は特に古くより組織的に発達して、よく恭敬の精神を表してゐるのであつて、敬語の発達につれて、主語を表さないことも多くなつて来た。」

 

P100「西洋の神話・伝説にも多くの神々が語られてゐるが、それは肇国の初よりつながる国家的な神ではなく、又国民・国土の生みの親、育ての親としての神ではない。我が国の神に対する祟敬は、肇国の精神に基づく国民的信仰であつて、天や天国や彼岸や理念の世界に於ける超越的な神の信仰ではなく、歴史的国民生活から流露する奉仕の心である。」

P107「我が国の文化は、肇国以来の大精神の顕現である。これを豊富にし発展せしめるために外来文化を摂取酵化して来た。……

 凡そまことの文化は国家・民族を離れた個人の抽象的理念の所産であるべきではない。我が国における一切の文化は国体の具現である。文化を抽象的理念の展開として考へる時、それは常に具体的な歴史から遊離し、国境を超越する抽象的・普遍的なものとならざるを得ない。然るに我が国の文化には、常に肇国の精神が厳存してをり、それが国史と一体をなしている。」

P112「我が国の教育は、明治天皇が「教育ニ関スル勅語」に訓へ給ふた如く、一に我が国体に則とり、肇国の御精神を奉体して、皇運を扶翼するをその精神とする。従つて個人主義教育学の唱へる自我の実現、人格の完成といふが如き、単なる個人の発展完成のみを目的とするものとは、全くその本質を異にする。即ち国家を離れた単なる個人的心意・性能の開発ではなく、我が国の道を具現するところの国民の育成である。個人の創造性の涵養、個性の開発等を事とする教育は、動もすれば個人に偏し個人の恣意に流れ、延いては自由放任の教育に陥り、我が国教育の本質に適はざるものとなり易い。」

 

P131「我が国に輸入せられた各種の外来思想は、支那・印度・欧米の民族性や歴史性に由来する点に於て、それらの国々に於ては当然のものであつたにしても、特殊な国体をもつ我が国に於ては、それが我が国体に適するか否かが先ず厳正に批判検討せられねばならぬ。即ちこの自覚とそれに伴ふ酵化によつて、始めて我が国として特色ある新文化の創造が期し得られる。」

P132-133「然るに、個人主義的な人間解釈は、個人たる一面のみを抽象して、その国民性と歴史性とを無視する。従つて全体性・具体性を失ひ、人間存立の真実を逸脱し、その理論は現実より遊離して、種々の誤つた傾向に趨る。ここに個人主義的・自由主義乃至その発展たる種々の思想の根本的なる過誤がある。今や西洋諸国に於ては、この誤謬を自覚し、而してこれを超克するために種々の思想や運動が起つた。併しながら、これらも畢竟個人の単なる集合を以て団体或は階級とするか、乃至は抽象的な国家の観念するに終るのであつて、かくの如きは誤謬を以てするに止まり、決して真実の打開解決ではない。」

 

P135「明治維新以来、西洋文化は滔々として流入し、著しく我が国運の隆昌に貢献するところがあつたが、その個人主義的性格は、我が国民生活の各方面に亙つて種々の弊害を醸し、思想の動揺を生ずるに至つた。併しながら、今やこの西洋思想を我が国体に基づいて醇化し、以て宏大なる新日本文化を建設し、これを契機として国家的大発展をなすべき時に際会してゐる。

 西洋文化の摂取醇化に当つては、先ず西洋の文物・思想の本質を究明することを必要とする。これなくしては、国体の明徴は現実を離れた抽象的なものとなるであらう。西洋近代文化の顕著なる特色は、実証性を基とする自然科学及びその結果たる物質文化の華かな発達にある。……我が国は益々これらの諸学を輸入して、文化の向上、国家の発展を期さねばならぬ。」

P135-136「併しながらこれらの学的体系・方法及び技術は、西洋に於ける民族・歴史・風土の特性より来る西洋独自の人生観・世界観によつて裏付けられてゐる。それ故に、我が国にこれを輸入するに際しては、十分この点に留意し、深くその本質を徹見し、透徹した見識の下によくその長所を採用し短所を捨てなければならぬ。」

 

P137「西洋近代文化の根本性格は、個人を以て絶対独立自存の存在とし、一切の文化はこの個人の充実に存し、個人が一切価値の創造者・決定者であるとするところにある。従つて個人の主観的思考を重んじ、個人の脳裡に描くところの観念によつてのみ国家を考へ、諸般の制度を企画し、理論を構成せんとする。」

P138「西洋に発達した近代の産業組織が我が国に輸入せられた場合も、国利民福といふ精神が強く人心を支配してゐた間は、個人の溌刺たる自由活動は著しく国富に増進に寄与し得たのであるけれども、その後、個人主義自由主義思想の普及と共に、漸く経済運営に於て利己主義が公然正当化せられるが如き傾向を馴致するに至つた。この傾向は貧富の懸隔の問題を発生せしめ、遂に階級的対立闘争の思想を生ぜしめる原因となつたが、更に共産主義の侵入するや、経済を以て政治・道徳その他百般の文化の根本と見ると共に、階級闘争を通じてのみ理想的社会を実現し得ると考ふるが如き妄想を生ぜしめた。利己主義や階級闘争が我が国体に反することは説くまでもない。皇運扶翼の精神の下に、国民各々が進んで生業に競い励み、各人の活動が統一せられ、秩序づけられるところに於てこそ、国利と民福とは一如となつて、健全なる国民経済が進展し得るのである。」

P139-140「かくの如く、教育・学問・政治・経済等の処分やに亙つて浸潤してゐる西洋近代思想の帰するところは、結局個人主義である。而して個人主義文化が個人の価値を自覚せしめ、個人能力の発揚を促したことは、その功績といはねばならぬ。併しながら西洋の現実が示す如く、個人主義は、畢竟個人と個人、乃至は階級間の対立を惹起せしめ、国家生活・社会生活の中に幾多の問題と動揺とを醸成せしめる。」

P141「世界文化に対する過去の日本人の態度は、自主的にして而も包容的であつた。我等が世界に貢献することは、ただ日本人たるの道を弥々発揮することによつてのみなされる。」

※以上、「国体の本義」(1937)

 

P152「この独伊に於ける新しい民族主義全体主義の原理は、個人主義自由主義等の弊を打開し匡救せんとしたものである。而して共に東洋文化・東洋精神に対して多大の関心を示してゐることは、西洋文明の将来、ひいては新文化創造の動向を示唆するものとして注目すべきことである。」

P154「我が国は明治維新以来、開国進取の国是の下に鋭意西洋文物の摂取に努めその間多少の波瀾があつたとはいへ、よくこれ等の長を採つて国運進展の根基に培い、営々として国力充実に満進して来たのである。……

 かかる我が国運の隆々たる発展伸長は、東亜の天地を併呑せんとする欧米諸国をして深く嫉視せしめ、その対策として彼等は、我が国に対して或ひは経済的圧迫を加へ、或ひは思想的撹乱を企て、或ひは外国的孤立を策し、以つて我が国力の伸長を挫かんとした。」

 

P198「近時物質文明が進歩し、著しく生活を向上せしめたが、これに伴なひ低俗安易ぞ欲望を唆る各種の施設も増加して、享楽的生活を求める風が漸く強く、ややもすれば制欲克己等は軽んぜられ、意志の鍛練を阻害することが甚だしくなつたことは、国民として大いに反省するところがなければならぬ。殊に体力の向上は我が国の当面せる重要ごとの一つである。」

P202「近時欧米の個人主義思想の影響を受け、家を尊重するの念が稀薄となり、殊に誤れる合理主義や唯物主義に禍せられて、国民精神の涵養上最も緊要る敬神祟祖の行事が軽視せられる風を生じ来たつたが、かかる傾向はよろしく刷新せらるべきである。」

P210「併しながら欧米文化の流入に伴なひ、個人主義自由主義功利主義・唯物主義等の影響を受け、職業は個人の利欲を満たし個人の物質的繁栄を招来するための手段であるかの如くに考へる傾向を生じ、ややもすれば我が国職業の根本義が忘却せられるに至つた。」

※以上、「臣民の道」(1941)。

孫歌「竹内好という問い」(2005)

 今回は竹内の著書を直接レビューするか、孫歌のレビューのどちらを行うか迷った所があるが、「近代の超克」及び人物「竹内好」解釈をめぐる議論について相対的な見方を重視するため、孫歌の方をレビューすることにした。

 

 まず、私の竹内に対する評価を示しておこう。私が最大限譲歩し竹内好に何らかの意義があるものを評価しうるものを見いだせというのであれば、それは丁度ヴェーバーの理念型の議論で検討した羽入辰郎のそれと全く同じ性質のものだと答えたい。羽入は私が指摘した理念型α(類的理念型)と理念型β(歴史的構成体としての理念型)の違いについて理解できておらず、「知的誠実性」をめぐる議論も曲解する原因を生んだものであった。しかし羽入は折原浩等を想定したヴェーバー研究者という「別の問題のある他者」が登場して初めて真価を発揮した。その他者への批判のポイントは部分的に適切なものであったと認められるものであった。しかし、これが真に生産的な立場と言われれば全くそんなことはないし、羽入の議論について真の意味で参考にすべき議論であるようにも思えない、というのが私の指摘であった。

 竹内好も議論もまさにこれと同じように「近代の超克」を下らない「ナショナリズム」と同一視しようとするような勢力に対する批判としてみるのであれば評価の余地があるように思えるが、これは生産的な議論を生むものであると言えない。結論から言えば、本書はこの非生産性について軽視し竹内を過大評価しているようにどうしても見えてしまう点が問題であると考える。

 また、更に言えば、竹内的な視点を基準点にすることを強調してしまうと、その議論は本書で示される竹内的な視点を超えることはありえない。そしてその視点は絶望的に無意味であると考える。これは詰まる所松下圭一的な無意味な「批判的態度」にしか行きつかないのではないのか、という懸念が強いことが理由であることをあらかじめ強調しておきたい。

 

 

○「実体としてのアジア」とは何か?——「理念型」との関連性から

 本書の初発的な関心として、竹内の志向論理の全体像を捉えようとすることが挙げられる(pix)。この試みから出てくる解釈の一つがp31のような魯迅的な「無」の思想を竹内の思想そのものとして位置付けるような議論である。

 この認識自体は誤りであると言い難い。次の主張は戦時中の竹内の言説となるが、この「無」と呼ばれるような性質は、竹内において強烈な自己否定を伴いながら語られる(又は語られるべき)ものとして捉えられているといえるだろう。

 

「私は、大東亜の文化は、自己保全文化の超克の上にのみ築かれると信じている。わが日本は、既に大東亜諸地域の近代的植民地支配を観念として否定しているのではないか。私はそれを限りなく正しいと思う。植民地支配の否定とは、自己保存慾の抛棄ということである。個が他の個の収奪によって自らを支えるのではなく、個が自らを否定することによって他の個を包摂する立場を自らの内に生み出してゆくことである。……この大東亜理念の限りない正しさは、私たちの日常生活の末にまで滲透し、それを根底から揺り動かし、そこから新しい文化を自己形成してゆかねばならぬ。行為を通じてのみ、自己否定の行為によってのみ、創造はなされるのであろう。」(竹内好「近代の超克」1983,p238) 

 

大東亜戦争は世界史の書き換えであると云われている。私は深くそれを信ずる。それは近代を否定し、近代文化を否定し、その否定の底から新しい世界と世界文化を自己形成してゆく歴史の創造の活動である。この創造の自覚に立ったとき、私たちははじめて自己の過去を見、その全部を理解することが出来た。……中国文学研究会は否定されねばならぬ。つまり現代文化は否定されねばならぬ。現代文化とは、現代においてあるヨーロッパ近代文化の私たち自身への投影である。私たちは、そのようにある自己自身を否定しなければならぬ。」(同上、p241)

 

 しかし、本書のp65-66のような言説が竹内に当てはまっているという指摘には強い疑義がある。ここで孫は竹内の自己内省的な批判スタイルを基本的に認める。孫のこの一節は明らかに竹内の論文『方法としてのアジア』における「西洋をもう一度東洋によって包み直す、逆に西洋自身をこちらから変革する、この文化的な巻返し、あるいは価値の上の巻返しによって普遍性をつくり出す」という言葉の言い換えを試みた部分であると言える。

 ここでは「抵抗」の一般的意味に対する妥当性の議論は置いておくとして、孫が竹内好の議論を評価しているポイントとして考えられるのは、①自己内省的であること②二項図式でないこと、の2つが考えられる。ただ、①については②と比べればそこまで重きが置かれていないように思われる。というのも①に議論に留まると孫がp65-66で言うような否定のプロセスとしての二面性を十分に説明できないからである。よって「方法としてのアジア」とは一義的には二項図式的な実体化を回避しながらも具体的な行為として効力をもちうる批判概念として意味があること、そしてそれを竹内が実践したことについて孫が評価していることがわかる。P57の指摘も端的にそのことを表しているといえる。

 しかし、私には竹内の言説が東洋と西洋の対立という二項図式的な視点から竹内が離れていたなどとはとても言えないと考える。もっと言えば、竹内は孫が期待するような二項図式を回避しようと意図をもって議論を行っていたかも怪しいように思える。というのも、竹内は基本的に西欧の近代的価値についてはその影響力があまりにも大きいとみており、その価値をむしろ前提とした上で「アジア的であること」を探求しようとし、その中で「近代なるもの」の批判を徹底しようとするからである。

 

 ここで最大の賭け金となるのは、「方法としてのアジア」の対義として想定される「実体としてのアジア」とは何なのか、という問いである。竹内は魯迅ゴダール孫文といった人物や中国の市民運動を引き合いに出しながら、その中に孫のいう「猙扎」という名の抵抗を見出している。そして、よくよく読むと、この竹内の発見は、次のような主張に見られるように実際の中国の主流派とさえ無縁であるかのような語り方がされることもある。このような実際の中国との距離の取り方は孫の主張を支持するかのようにも見える。

 

魯迅のような人間は、日本の社会からはうまれない。たとえうまれても、成長しない。それは受けつがれるべきものとしての伝統にならない。もちろん、魯迅は中国文学のなかで孤立している。しかし、孤立している形が見える。そしてそれは受けつがれている。」(竹内1983、p35)

 

 ここで竹内は魯迅的主体について中国(文学)の中でも独特であるかのように語っている点は注目されるべきである。しかしながらそれは「アジア的な個性」として継承可能な型としてある種確立されたものも持っていることも認める。

 また、次の主張も端的にアジアやヨーロッパが実体としては存在しないことを前提とする主張として非常にわかりやすいものである。

 「このような現象は、かなりの程度まで、東洋諸国に共通のように思う。また、ヨオロッパのおくれた国にもある。純粋のヨオロッパというものはないし、純粋の東洋というものもないから、それは程度の差といってもいい。」(竹内1983,p18)

 しかし、これは竹内を断片的に取り上げた態度として捉えるほかないように私には思える。端的に言えば、孫が解釈するような「方法としてのアジア」を探求する竹内像に反する主張というのは、いくらでも提出できるように思える程存在している。そしてそれは竹内が日本を批判する際にその「方法」性を放棄しているのである。例えば、次のような竹内の主張はどのように解釈すればよいであろうか。

 

「私は、日本文化は転向文化であり、中国文化は回心文化であるように思う。日本文化は革命という歴史の断絶を経過しなかった。過去を断ち切ることによって新しくうまれ出る、古いものが甦る、という動きがなかった。つまり歴史が書きかえられなかった。だから新しい人間がいない。日本文化のなかでは、新しいものはかならず古くなる。日本文化は構造的に生産的でない。」(竹内1983,p37)

 

 竹内の前提によれば、このような主張はあくまでも「程度」の問題に過ぎないという主張を継承しているはずである。「程度」問題においては、それはあくまで「傾向」であるに過ぎず、絶対ではないはずである。ところが竹内はここで「新しい人間がいない」とその「不在」を断言する。これは明らかに程度問題としての議論を逸脱している。このような断言は「魯迅のような人間は日本では存在しえない」とする上述の主張とも共通している。結局、この断言というのは、そのまま「実体としてのアジア」を表象しているのと同義ではないのか、というのが私の批判のポイントである。「実体としての日本」を定義しているにも関わらず、「実体としてのアジア」が表象されていないという保証は、竹内の議論から見出すことができず、むしろ魯迅孫文ゴダールといった実名を挙げることこそが「実体としてのアジア」としての見方を明らかに促進しているようにしか見えないのである。結局竹内のレトリックは「実在している主体がいるからそのような主体化を日本でも行うべきである」という形で日本人の主体化を鼓舞するものであるが、その実在的主体が「アジア」をどうしても実体化しているようにしか見えないのである。私はこれは結局、「アジア」という言葉を竹内が用いた時点で失敗であるという意味を与えるしかないことだと思う。この言葉はたとえいくら竹内が「地理的なもの」を排除すると定義しようとも、そもそも地理的な概念を包含した言葉であるがゆえに、容易に誤読を招く。その土地に実在する人物の議論がたとえ一事例であるに過ぎなくとも、それが容易に結び付けられるような条件を整えてしまっている態度こそ問題とされるべき部分ではないだろうか。竹内がいくら「実体視」していなかったとしても、それを「実体視」する他者と同じような語り方を行ってしまっていれば、そこに差異を見出すことはできないし、最大限竹内を擁護したとしても、やはりそのような「実体視」を避けるための語りを竹内が行っているという評価はとてもできないのである。これはちょうど一部の精神分析論が「父」という言葉を用いる際に陥っている問題と同じ構造を持っているといっていいだろう。

 

 この「実体視」に拍車をかけているのは、日本の今後の価値観として「アジア的価値観」が絶対に必要であり、「西欧的価値観」を持ち続けるという選択肢を竹内が全く持っていなかったとしか思えなかった、という点からも言えるだろう。

 

「中国の革命は、挫折と成功、破壊と建設の全過程をふくめて、ヨーロッパ文明への挑戦とみることができる。あらゆる近代化論は、日本の近代化は説明できても、この中国の近代化は説明できない。挑戦や抵抗は、侵略の側からは、無益な、計算外の要素となるからだ。日本の近代史が抵抗ぬきの脱アジアとすれば、中国の近代史は抵抗によるアジア化である。」(竹内「竹内好全集 第五巻」1981,p179)

 

 「日本には、型といえるようなものがない。つまり抵抗がない。強いていえば型のないのが日本型である。個性のないのが日本の個性だ。私は、日本がヨオロッパに抵抗を示さなかったのは、日本文化の構造的な性質からくるのではないかと思う。日本文化は、外へ向っていつも新しいものを持っている。文化はいつも西からくる。儒教も仏教もそうだ。だから待っている。」(竹内1983,p41-42)

 

 現在の日本を「個性のない」ものと定義し、それに対し中国型の個性ある、かつヨーロッパに対抗する主体が必要であると主張するのが竹内のアジア論であったといってよい。孫は竹内が「アジア」を始めとした一連の概念を出発点でもなく到達点でもないと捉えているが(pxix)、このような解釈は竹内の評価としては適切であるとは思えない。竹内のアジア観を到達点でないと解釈するのは、それが「理念型」同様、極概念が実体として通常ありえないと考える限りにおいて妥当しうる論点ではあるが、そのような中途半端な「点」の提示をしているという割には竹内の議論は極めて具体的に現在の日本を批判しすぎている。その批判はまさにある「点」をもとにした評価をした結果行うことができるものに他ならないが、その「点」が絶対ではないのなら、なぜここまで現在の日本を確信をもって批判できるのか、全くわからなくなるからである。孫の議論を前提にした場合、この矛盾について何も説明ができない。

 

 

○「方法としてのアジア」とは何か?――他の論者の竹内評と孫歌の竹内評との比較から 

「現代のアジア人が考えていることはそうではなくて、西欧的な優れた文化価値を、より大規模に実現するために、西洋をもう一度東洋によって包み直す、逆に西洋自身をこちらから変革する、この文化的な巻返し、あるいは価値の上の巻返しによって普遍性をつくり出す。東洋の力が西洋の生み出した普遍的な価値により高めるために西洋を変革する。これが東対西の今の問題点となっている。これは政治上の問題であると同時に文化上の問題である。日本人はそういう構想をもたなければならない。

 その巻き返す時に、自分の中に独自のものがなければならない。それは何かというと、おそらくそういうものが実体としてあるとは思わない。しかし方法としては、つまり主体形成の過程としては、ありうるのではないかと思ったので、「方法としてのアジア」という題をつけたわけですが、それを明確に規定することは私にもできないのです。」(竹内1983,p137-138)

 

 上記引用が論文『方法としてのアジア』の最後の部分にあたり、問題の焦点となっている「方法」について言及されている部分である。孫はこの「方法」についての解釈として「実体的な概念ではない」と述べているが(p60-61)、ここでは孫自身が「実体的」という言葉にどのような意味を与えているのか検討してみよう。

 今回の読書ノート中で、孫がこの「実体的」という言葉を実に多用していることがわかるが、まず押さえたいのはp57やp63における「実体」である。ここでは「固定的」という言葉とセットとなる形で「実体的でない」であることが語られていることがわかる。一方p89やp108では、「流動的」「機能的」という言葉が用いられ、「「正しい」観念的抽象化を放棄し、リアルで複雑な現実に直正面から向き合うこと」を求めるために「実体的」であることが否定されることになる。

 ここまで見てくると、すぐにヴェーバー的な「理念型」をこの「実体的」の対義語として想定していることがみてとれるように思える。この例外と言えるのは、p31のような説明の中にある。

 

「そして竹内が、魯迅の伝記や思想、作品と人生の分析を通じて導き出した一連の結論も、彼自身「着物を脱ぎすてるように棄て」たものに過ぎない。真に竹内の生涯につきまとったのは、『魯迅』のなかで「暗黒」ないし「無」として表現された、究極における文学的正覚であり、あたかもブラックホールのようにあらゆる光と影を呑み尽くす、実体化しえぬ、髑髏のような存在であった。その実体化の不可能性は、それを取り巻く光について説明することでしかその存在を暗示することができないという点にあらわれている。」(孫2005,p31) 

 

 竹内の思想は極めて自己否定的な原理に支えられており、魯迅の思想もまたそれに類するものであったのだろう。「理念型」が「実体的であること」と混同されていけないのは、あくまでそれが分析的概念として用いられるからである。しかし、理念型そのものが実在しないということも自明ではなく、これもまた何らかの検証を経てこそそれが明らかになるような性質のものである。しかし、竹内的な「実体的でないこと」とは、このような同一化の可能性をあらかじめ否定しているのである。簡単にいってしまえば、「実体化している」とは「所与のものとして前提としている」と同じ意味であると言ってよいだろう。

 

 この見方をよりラディカルに述べているのが子安宣邦の解釈である。ただ、下記の引用は孫との解釈のズレも合わせて確認できる点で注目すべきである。

 

「ヨーロッパ的原理は近代日本の国家形成の基底にはっきりと文明的実体をもって存在してきた。だがアジア的原理は、ヨーロッパ的原理が日本の国家形成過程に存在してきたように、存在してきたわけではない。それはヨーロッパ的原理への対抗と抵抗とが要請する非実体的な負の原理である。ヨーロッパに対するアジアの概念自体がすでにそうであった。「文明の否定を通しての文明の再建である。これがアジアの原理であり、この原理を把握したものがアジアである」竹内はいっている。文明一元論的に世界を支配し、世界に浸透するヨーロッパ的文明に否定的に抵抗し、その否定として文明を再建しようとする原理がアジア的原理であり、その原理を把握するものがアジアであると竹内はいうのである。これは竹内によるアジア概念のすぐれた非実体的構成である。さらばこそアジア的原理とは、日本近代史の非正統的少数者にになわれた抵抗的原理であったのである。とすればアジア的原理とは、近代日本の国家的戦略の基底にヨーロッパ的原理と矛盾しながら二重性をなして存在するような原理ではないはずである。ところが竹内の「近代の超克」再論は、「大東亜戦争」の二重性によって、近代日本国家の戦争伝統における矛盾する二つの原理の緊張的な持続をいい、それが「永久戦争」の運命を大平洋戦争に与えたというのである。これは一体何なのか。竹内は自らに反してアジア的原理を歴史的に対抗原理として実体化しているのではないか。」(子安宣邦「「近代の超克」とは何か」2008,p202-203)

 

 子安のこの指摘は基本的に正しいと私は考える。竹内の「方法としてのアジア」の議論は少なくとも、彼自身の議論の中で一貫としたものとして認めることができない。竹内の「方法(非実体的であること)」を「理念型」として捉えた場合、明らかにこれを逸脱した(実体化させた議論)というのが随所に出てくるし、この動きに対して抵抗するだけの理論を十分に竹内は持ち合わせていない。このことを孫は(無視しているとも言い難いが)軽視しているようにどうしても見えるのである。

 結局は子安はこのような中途半端な竹内の議論の継承は容易にアジアを実体化することに繋がることを危惧しており、だからこそ「方法としてのアジア」としての論法をあくまで「実在性の否定」にこだわることによって、竹内の議論を再解釈し、この点についてのみ擁護するのである。

 

「いま日本から提示される「東アジア共同体」とは、このアジアの悲惨を隠すだけではない。この悲惨を増幅させている己自身をも欺く希望の提示である。竹内ならこの偽りの希望の提示に否ということにこそアジアはあるというだろう。二一世紀の現代における「方法としてのアジア」とは、人間の生存条件を全球的に破壊しながら、己の文明への一元的同化と開発と戦争とによって進めていく現代世界の覇権的文明とそのシステムに、アジアから否と持続的に突きつけ、その革新への意思をもち続けることである。」(子安2008,p252)

 

 この論点をもう少し深めるため、酒井直樹の議論にも触れておこう。酒井の議論は孫の議論の前提とかけ離れている点に注目すべき点がある。酒井は「再帰性」という言葉とキーとして、竹内に議論から抜け落ちている論点を指摘する。

 

再帰性は自己画定には必ず同伴する事態であって、問題はこの再帰性を「敗北」に見立ててしまう、西洋の自律性という思い込みの方にある。西洋の自律性という虚構が解体されないかぎり、アジアの近代は「敗北」であり続けるだろう。アジアが負けたのは相手が偶々勝ったからではなく、この敗北はアジアにとって本質的である。経済成長率で勝ち、外貨準備高が増加し、軍事予算が急激に増えたからといって、アジアの敗北は拭い去ることができるようなものではない。彼の議論の弱さはここにある。

 別のところで説明したように、竹内は西洋とアジアの関係を外部にあるものと内部にあるものの対決として表象してしまっている。……彼は、西洋とアジアの関係を一つの国民国家と別の国民国家のあいだの相互的な外部性の関係にすることがアジアの独立であり、自立であると考えてしまったのである。ということは、竹内にとって、アジアは領域性をもった国民国家と対比されるべき政体のごときものであり、植民地権力は能動・受動の回路を通じて働くことが当然視されてしまっている。そして、西洋への抵抗は国民や民族といった集団の団結によってしかなしえないのだから、「抵抗」は国民の主体化なしには達成できなくなってしまう。「抵抗」は内人を作るための準備に過ぎなくなってしまう。」(酒井直樹・磯前順一編「「近代の超克」と京都学派」2010、p133)

 

「ここには、自己指示が再帰性を含まざるをえないと言った配慮は存在していない。「私」が想定されるためには「汝」が予定され、「汝」が「もう一つの我」として想定されるためには「私」が「汝の汝」として併存しているのでなければならないが、そのような私と汝が再帰性においてある、といった考察は存在していない。「私」と「汝」が物象化されているとき、「私」が「汝」に働きかけるか、「私」が「汝」に働きかけられるかのいずれかに選択肢は限られてしまう。そこでは、「私」と「汝」が実体ではなく、社会関係において成立する対象項である事が看過されてしまっているのであり、両者がお互いに外部にあることになる。……竹内好について、彼にはアジアを関係性において認識することができなかった、といったのは、彼のもつ民族主義的な性向を指している。ただし、同じ問題が「西洋」を自律性としてみる西洋中心主義にもある点は忘れてはならない。」(同上、p138)

 

 このような酒井の議論は半分は正しいが、問題点もある。端的に言えば、子安が指摘したような竹内自身の議論の矛盾について、適切に捉えられているとは言い難いという点が問題である。酒井は関係性をめぐる議論を竹内は無視しているという。酒井の議論の正しさは、以下のような竹内のいうドレイ論が賭け金となっているように思う。

 

「このような人間観は、自由競争を前提とした、個人主義的人間観とは対立する。個の独立は、排他的に行われるのではなくて、他との協調関係の中で打ち立てられると考える。現に中国に実現しつつある新しい人間像は、そのようなものである。たとえば、中国革命のエネルギイの源泉である土地改革に際しては、封建的な土地所有関係を打破するだけでなく、それを通じて人間の意識内容が変革されることが要求されている。しかも農民からドレイ根性をなくすというだけでなしに、地主から、ドレイ根性の裏がえしである支配者根性をなくすことが同時に強調されているのである。」(竹内1981,p8) 

 

 この部分における竹内のドレイ論とは、ほとんどフーコー的な権力論と同様に、自らの行使する/自らに行使される権力への欲望への抵抗そのものである。他者を従わせないこと/他者に従わないことに対するこのような自覚性は、明らかに再帰性を伴う主体化においても随伴するものであり、酒井の批判はこのような竹内の議論を無視しているように見えるのである。従って孫的な視点からはこのような批判は文字通り竹内好を適切に評価していないというように見えるだろう。

 しかし、酒井は竹内のこのような議論が無視されうるだけの「物象化」の方を問題視していることも無視できない。これは子安が指摘した「実体化」の要因となる議論そのものであり、竹内がこのような「物象化」が自己矛盾となる可能性について自覚していなかったことも事実である。この「物象化」の議論で最たる問題点を具体化するならば、「方法としてのアジア」と「方法としての中国」の違いについて、竹内の議論からは何も説明できないこと、という点にあるだろう。竹内はこの「方法」の提示のために決まって魯迅やダゴール、孫文といった人物を取り上げるか、中国における市民運動の興隆を例示し語っている。問題はこの「例示」と「方法」との関連性である。竹内はどう見てもこれらを関連性をもったものとして語っているようにしか見えないし、それが関連性を持っているからこそ、「方法としてのアジア」という問題提起が成立することになる。しかし他方で、明らかに竹内は「アジア」や「中国」に含まれる具体的内容については「どうでもいい」と思っている(※1)。この「どうでもいい」というのは、「西洋に抵抗していればそれでいい」という意味でどうでもいい、ということであり、孫的に(肯定的に)言えば「「暗黒」ないし「無」」(p31)という意味となる。竹内の議論はそれがいくら具体性を欠く(実体的でない)としても、「無」という形でそれを「物象化」せざるを得ないし、その過程で「無」に含まれないもの(西洋的価値)を例証していくのである。子安はこの論法に対してわずかな可能性を見出しているものの、酒井においてはこの論法自体がすでに破綻しているとみなしているのである。その破綻が自明であるからこそ、竹内の細かな議論については触れようとしない、という解釈が正しいだろう。私自身も基本的な立場としては酒井の議論を支持したいと思うが、酒井の立論は少々飛躍している部分があるといえるのである。

 

○文学的であることとは?

 この「実体性」をめぐる議論というのは、そのまま前回のレビューでも捉えた「文学」の価値に関する議論ともリンクしてくるだろう。孫は比較的この論点を重要視しながら竹内の読解を行っていた節がある。私の読んだレベルでは竹内の「文学」に対する価値は十分読み込めていないため、孫の議論を前提にした上での竹内評となってしまうが、宿題としていたため一応触れておきたい。

 孫の指摘する竹内が希求した「文学」的価値観というのは、「実体化」の回避のための手法の一つであったと言えるだろう。P89で指摘されるようにこれは竹内に限らず、丸山真男もそうであったという。竹内がここで想定していたのは、自律的領域としての「文学」という領域と、文壇ギルドの閉鎖性の批判に伴う、その領域の開放性の強調であったという。しかし、この自律的領域としての「文学」について批判を行ったのが野間宏であったと孫は言う。この批判に対し竹内自身が次のように指摘しているのは重要である。

 

「私が文学の自律性をいうとき、政治と文学を実体的に区別したような印象を野間氏に与えたとすれば、それは私の説明が足りなかったからであって、私はそう考えているわけではない。私は、政治と文学とは機能的に区別しなければならないことを主張しただけである。」(孫2005,p101、元引用は『竹内好全集』第7巻、p63-64) 

 

 この議論が重要であるのは、先述した「実体的であること」の定義をめぐる議論の捻れが端的に表現されているからであり、かつ孫のこの捻れに対する評価もまた、他の論者の竹内評との違いをそのまま説明するからである。私の理解であれば、竹内自身はここではヴェーバー的な「理念型」的な分析概念として、それを「機能的」と表現することで、「実体的」であることと区別すべきであると考えている。ところが、この竹内の指摘は、竹内自身の主張が「実体的」な語りであるかどうかを全く説明していない。そして、私は竹内の主張はどう見ても「実体的」であると評価している。ところが、孫は竹内と同様、この両者の違いの議論について棚上げしたままとし、p103のように竹内と野間の議論のズレを指摘するに留まり、それ以上問題に言及しないのである。これはある意味で孫が適切に竹内の議論に従っているともいえるだろう。しかし、「文学的であること」の価値について議論するのであれば、このズレに対する議論は決して無視することができないはずである。これは前回レビューした「多様な価値観があるから『近代の超克』論は有効である」という素朴な議論への批判と直結することになる。このような素朴な議論は、竹内もそうであったように暗に固定的な価値観(=実体的であること)を批判することに終始し、その批判を介して多様な価値観を擁護しているように見える。結論として、孫的な議論では、竹内の価値を擁護しようとしても、その価値が「有意義か」を判断できない。私が孫の議論で最も問題があると思うのはこの点である(※2)。

 ただここで想定しておかねばならないのは、このような価値観は竹内に限らず、本書で丸山とも「驚くべき一致」があったと言われるように(孫2005,p88-89)、比較的戦中・戦後の知識人層には広く「文学」的価値観として浸透していた可能性である。「文学」というものが多様な価値観の源泉となることは、特に本書においては重要視されているように見える。孫はp89で見られるように、文学が「つねに流動状態になければならず、自己更新され得るもので、凝固不変のものではない」ことを強調している。

 これはこれで注目せねばならない論点であるのは確かであるが、他方で竹内は文学の価値を国民統合の一手段として重要視していたのも明らかである(cf.竹内「竹内好全集第六巻」1980,p15)。ここでは「文学」は多様な価値観を包摂するというよりも、未だ実現(顕現)していない価値に対して、その顕現を強く推進するエネルギーとなることをむしろ重要視していることも明らかである。ここで、竹内は孫が強調するような文学的価値観よりも、こちらの顕現をめぐる議論の方に注視していたのではないのか、という疑問が出てくるのである。竹内が「実体化」を避けていたのは明らかであるが、その目指すところは、「流動状態」にあるのではなく、あくまで民族性の確立であったのではないのか、と。

 

 この論点は、結局先述した「方法的」と「理念型」のズレをめぐる議論と同じものであるように思える。理念型においては価値中立的であることが要求されることとなり、「方法的」であることに内包されるべき「顕現」に関する議論についてはいったん放棄されることになる。しかし、竹内の議論においてこの「顕現」をめぐる議論を放棄することは許されるべきではないだろう。孫は竹内の「理念型」的な側面を強調している嫌いがあるが、他の論者的にみれば、竹内はあまりこの枠内で語ることに意義があるように見えてこないのである。特に孫の論点からは「近代の超克の再考」というのがそのまま「文学的価値の再考」をも意味することになるが、このような形で復刻される価値観が、前回取り上げた加藤尚武的な議論を捉えることが全くできないように思える点で、その有効性は極めて疑問である。

                                                                                                

加藤尚武的な議論ができないのは何故なのか?——「近代の超克」論の限界とは何か?

 上記の議論についてもう少し考えてみると、次のような構造を「文学的価値の再考」としての「近代の超克」の議論は抱えていることになるのではないか。価値中立性をタテにして議論にとりかかることにより、既存の価値観(「近代」とされるもの)と新しい価値観(「近代の超克」とされるもの)た並列的に語ることが許される。このような議論が正しい意味で「理念型」的なものであるならば、つまり分析的概念をもって、その議論を徹底するということであれば問題はない。しかし、そのような前提に立ってしまうと、そもそも「近代の超克」と呼んでしまっている価値は「超克」を意味しなくなってしまう。逆に言ってしまえば、「超克」という言葉を使ってしまっている時点で、すでに価値判断に加担しているのである。とてもわかりやすいダブル・バインドの状態となってしまうのである。この矛盾の解消のためには、ハナから「超克」について語らず、「分析的であること」に徹底すべきとするか(私はこの立場を支持する)、価値中立的であるというタテマエを捨て、積極的に「超克」の価値にコミットしていくこと(子安が最終的にこの立場にあったように思える)のどちらかの態度をとらねばならないだろう。竹内の魯迅的態度はこのダブル・バインドに積極的に加担するような立場であるものの、結局は「超克」の価値へコミットすることを避けることはできず、どこまでも中途半端に終わってしまうようにしか見えない。この点は竹内好の議論を行う上で軽視されるべきではない。この点、子安は自己否定の価値観を強調することで竹内の議論をわずかに擁護するが、竹内が抱えたダブル・バインドの問題にまでは具体的に議論を進めているわけではないという意味で、このような立場をとることが可能かどうかについてはっきりしているとはいえない。

 

 さて、竹内的な「近代の超克」の議論を擁護することができるのは「自己否定」であるとした場合、何故加藤的な議論を行うことができなくなるのか。これは必然という訳ではないように思うが、結局如何なる「自己否定」を行うのか、ということと関連しているという他ない。ここで『近代の超克』座談会における科学をめぐる議論を手掛かりに、当時の自己否定性の文脈を捉えてみたい。

 座談会における科学の取り扱いについては、複数の著書において基本的な論点となりえなかったとみている。座談会中ではわずかに下村寅太郎がその重要性を指摘するのにとどまり、他の論者はこのこと触れないか、批判的であったとされる。

 

「座談会「近代の超克」の参加者にとって、問題はあくまでも日本「精神」の危機であり、下村を除けば、みずからを脱中心化する動きをしめす科学技術がとわれることはなかった。そして、没落していくヨーロッパの普遍性とは異なって、太平洋戦争の開戦とともに、日本精神は大東亜共栄圏を覆い尽くし、同時にヨーロッパ精神にとって代わるものになることが高らかに謳われた。」(酒井・磯前編2010、p63)

 

 

下村寅太郎は、近代の超克という場合必ず科学の問題を何とか解決しなければならない、とした。それに対して林房雄は「僕は科学者が神の下僕になれば宜いのだと思つてゐる」とし、亀井は、「僕の希求するのは近代をのりこえる力ありとすれば、神への信だといふ他にない」とした。林や亀井において、近代をのりこえる力は神への信、ということになる。」(石塚正英・工藤豊編「近代の超克」2009、p94-95)

 

 上記のように、科学に対する関心自体がなく、むしろ「精神」こそが座談会においては重要であるとみなされた(cf.石塚・工藤編2009,p118)。しかし留意しなければならないのは、下村も実際は「精神」を中心にした近代の超克に帰着している点である。

 以下は座談会2日目終盤の場面での対話である。長い引用となるが極めて重要な論点なので容赦願いたい。

 

「津村 だからアメリカの理想は物質的に庶民の生活水準を高めることでせう。

鈴木 その平均が高いのが餘程問題ですね。アメリカの本體はさういふ所にあるのぢやないか。機械文明をどういふやうに克服するか、差當つて機械文明といふものは否定出来ない。

津村 機械文明は絶對に避けることは出来ないが、逆手と取つて、それをこつちから使ひこなさければならん。

河上 然し僕にいはせれば、機械文明といふのは超克の對象になり得ない。精神が超克する對象には機械文明はない。精神にとつては機械は眼中にないですね。

小林 それは賛成だ。魂は機械が嫌ひだから。嫌ひだからそれを相手に戰ひといふことはない。

河上 相手に取つて不足なんだよ。

林 機械といふのは家来だと思ふ。家来以上にしてはいかんと考へる。

下村 それで濟まないと思ふ。機械も精神が作つたものである。機械を造つた精神を問題にせねばならぬ。

小林 機械は精神が造つたけれども、精神は精神だ。

下村 機械を作つた精神、その精神を問題にせねばならぬといふのです。

小林 機械的精神といふものはないですね。精神は機械を造つたかも知れんが、機械を造つた精神は精神ですよ。それは藝術を作つた精神とが同じものである。

下村 機械を造つた精神そのものの性格が問題ですよ。これは新しい精神の性格である。この精神に近代の吾々の中に實際に事實として生きて居るから、それを單に嫌ひだと言ふだけでは問題を避けて居るにすぎない。これは單に魂だとか、覺悟だけでは濟まないと思ふ。そういふ魂は謂はゞ古風な精神で、勿論そのやうな精神は我々の底に必要であるが、しかし近代の超克といふ問題には機械を作つた精神と同様にこのやうな單に古風な精神の超克も問題になると思ふ。前に「理性」も近代の理性は言葉を自己の表現とするやうなロゴス的な理性でなく、近代的な性格をもつと言ひましたが、これはもつと一般的に言へば今の問題になるのですが、つまり「精神」や「魂」も近代的な變革を遂げていることです。今まで魂は肉體に對する靈魂だつたが近代に於ては身體の性格が變つて来た。つまり肉體的な身體でなく、謂はば機械を自己のオルガン(器官)とするようなオルガニズムが近代の身體です。古風な靈魂ではもはやこの新しい身體を支配することが出来ない。新しい魂の性格が形成されねばならぬと思ふ。近代の悲劇は古風な魂が身體に――機械に追随し得ない所にある。ここで後へ退くか前へ進むかが問題で、勿論後へ退くことは出来ない。機械を造つた精神は決して唯物論ではない。それは先に言つたやうな意味で近代科學の精神と同じイデアリズムスだと思ふ。近代のモラリストや宗教家は謂はば古風な魂の概念に拘泥してゐるのではないか。この問題の打開は寧ろ魂の概念そのものの轉換にあるのではないか。心身の關係に對する新しき形而上學が必要だと思ふ。これは巨大なスケールの問題で、從來のやうな個人的主觀的な方法では不可能で、社會的政治的方法を必要とするもので、それには更に新らしい叡智或は神學が必要だと思ふ。これが今後の科學論が當面する問題で、近代の超克をいかにして果すかと言ふ實際の問題を考へる時にはこれを拔にしては不可能だと思ひます。

吉滿 ベルグソンが機械と神秘主義といふことを論じて居るが、機械文明にも何か神秘主義の代用品とならうとしてゐる面もある。近代の技術的科學主義といふやうなものにも、妙にマジックな興味に通ずるものがある。神話と機械とが結びついて、精神の形而上學の代用をつとめようとする傾向もあるものだ。……それだから機械の極限にはミスティクが要求されてゐるので、機械文明の極限で魂の空虚が現實に意識されてくれば、機械は自ら魂に国を譲るが、その魂の代りに機械がなつてやらうとする。ここでも眞の「靈性のロゴス的秩序」が眞の近代の超克として考へられねばならない。

河上 ヴァレリイのあらゆる文明論の結論も、結局機械のミスチツクに外ならないんですが、その貼が僕にとつてヴァレリイが結局つまらないと思ふ所なんだ。だから僕にいはせれば「幾何學の精神」は一つの「精神」です。これは何も精神の闘ふ相手ぢやなく、又近代機械文明の聚積と直接關係ありません。要するに機械が何故精神にとつてつまらないか? それは機械の齎すエトリス・ノイエスが常に量の問題を出ないからなんです。……機械と戰ふものはチヤツプリンとドンキホーテがあれば澤山だ。

吉滿 それを克服する爲に魂を持つて來る。魂の空虚を感ずるといふ所から「近代の超克」が始まるんぢやないですか。その時に魂は文明と機械に統御されず、霊性が一切を第一義性生の立場で統御して行く。つまり僕は「近代の超克」は「魂の改悔」の問題であると思ふ。東洋と西洋とを相通じて、神と魂とが再発見されねばならない。そしてそこから初めて祖國の深い宗教的傳統にもつながつて行けるのだと信ずるのです。」(河上徹太郎等編「近代の超克-知的協力会議」1943,p288-292)

 

 ここで下村寅太郎と吉満義彦は基本的に同じ見解をとり、津村秀夫も同じ路線の立つ一方で、下村の発想を河上徹太郎小林秀雄林房雄(彼は座談会では合いの手を入れるばかりで立場が不透明なところもあるが)は理解していないという構図が出来上がっている。押さえておくべきはこの座談会の司会は河上が行っており、この前段では津村と下村、そして鈴木成高アメリカ映画から機械文明の超克をめぐる議論を熱心に行っていたところで、河上がそれを遮るかのように批判、小林も追随したが、下村が再反論する場面であるということである。これに対する応答はなく、基本的に議論が仲違いに終わっている場面ともいえる。

 ただ、ここで押さえるべきは下村の論理である。下村はここで人類と機械文明の折り合いがつかない理由(近代の悲劇)を「古風な魂」の問題として捉えている。改めるべきは機械文明に適切に対応する「魂(精神)の転換」の問題であり、それこそが近代の超克の中でも極めて重要問題であるとみていると言える。加藤尚武が問うような次元の議論をここではしていない。ここでは機械文明そのものをいかに改善するかという議論ではなく、ある意味で自動的に生成される機械文明に人類がいかに適応していくのか、という形で議論が行われているといえる。機械と人類とはいかなる主従関係を結ぶのかという論点が林からも出ているが、科学も含めた当時の「近代観」がここに大きな影響を与えていることが確認できるだろう。そして「超克」という言葉というのも、まさに機械文明をコントロールするという意味合いで用いられていたということも確認できる。つまり科学は個別具体的に「何を生かし、何を捨てるか」という議論ではなく、全体として「それをいかに生かすか」という議論を行うべきものであるという見方がなされていたということである。このパースペクティブの変化というものそれ自体に考察が深められなければならないように思える。そしてそれは下村的な論理を下支えしていた当時の「近代観」に対しても、検討が必要であるということを意味する。このような着眼点がいかに存立しえたのかという問いは今後も検討していく必要があるように思う。

 

※1これは竹内自身の魯迅に対する評価への言及からもそう言える。結局竹内は「方法としてのアジア」の典型として魯迅を挙げるものの、魯迅の文学自体は「中国文学のなかで孤立している」とする(竹内1983、p35引用前掲)。ただ一方で魯迅の精神は形あるものとして「継承可能」であるとする点を竹内は評価し、それを「方法としてのアジア」と結びつけるのである。このような議論からも魯迅の議論はアジア(中国)の現状を「実体化」したものでは決してないことが言える。しかしそれは「実体化」されることを強く望まれた議論であることが強調される。

                                                                    

魯迅のような人間がうまれてくるのは、激しい抵抗を条件にしなければ考えられない。ヨオロッパの歴史家がアジア的停滞とよび、日本の進歩的な歴史家がアジア的停滞(!)とよんだような、おくれた社会のなかからでなければ出てこない型である。……魯迅のような人間は、進歩の限界をもたぬヨオロッパの社会のなかからは出てこぬだろう。」(竹内1983,p34)

 

 もっともこの主張だけでは別に日本がこのような魯迅的な主体を希求すべきであるという主張をしているとは認められないという逃げ口上も成立する。しかし、竹内は日本を西洋近代を形だけきれに模倣した「優等生文化」と皮肉交じりに述べる一方で、それが極めてもろいものであることを強調することで、魯迅的主体を強く求めるのである。

「そうだ。教育は成功するだろう。敗戦の教訓に目ざめた劣等生は、優等生に見ならって賢くなるだろう。優等生文化は栄えるだろう。日本イデオロギイに敗北はない。それは敗北さえも勝利に転化させるほど優秀な精神力のかたまりだから。見よ、日本文化の優秀さを。日本文化万歳。」(竹内1983,p27)

 

「見かけは進んでいるが日本はもろい。いつ崩れるかわからない。中国の近代化は非常に内発的に、つまり自分自身の要求として出て来たものであるから強固なものであるということを当時言った。」(竹内1981,p100)

 

 もっと言ってしまえば、「日本はもろい」と言った主張をする段では、日本と中国(アジア)は極めて一般化された形で語ってしまっており、当初の魯迅や中国の民衆運動の議論からは飛躍した議論を行ってしまっているのも、俗流な日本人論同様の問題として抱えていることも念のため指摘しておく。このような飛躍は孫が軽視した部分であり、子安の言う自己矛盾の本質部分であり、酒井はこの片側だけを要約して竹内を批判するのである。

 

※2 もっとも、孫の読解の上で注意せねばならないのは、孫も竹内の議論についてさほど好意的に捉えていない点があるということである。端的に言えば、p191の指摘がそれを示している。しかし、竹内の議論の問題について、子安ほど適切に指摘できていないという点では、(本書の目的が「竹内の包括的な理解」に向けられていたことも踏まえれば少々酷かもしれないが)やはり大きな問題であるように思える。

 

<読書ノート>

Pxvi「ここでは、竹内の複雑な立場が見えてくる。ガンジー孫文を生み出した「アジア」の歴史は、決してヨーロッパ式の進歩主義に嵌め込めることはできない。しかし、そのいっぽうで、アジアの人々にとって、土着の保守的流儀に対抗するためには、ヨーロッパの思潮を生かさなければならない。ただし、そのような思想闘争においては、ヨーロッパの思想の役割はせいぜい「生かす」程度までのことであることが忘れられがちであり、アジアの人々はヨーロッパの思想ないし思潮を絶対化し、そのようなドグマ主義の態度を「進歩」として理解する傾向さえ生じる。まさにそのような「進歩主義」に対して、竹内はアジアの本源的なものからは、「進歩が可能か」という疑問も発生しうると注意を促した。」

Pxvⅱ「『魯迅』において発展段階論を拒否した竹内好だが、歴史に「進歩」があるという主張は拒否していなかった。竹内はまた「進歩」とは人間の幸福であるという説明も加えていた。しかし彼の認めた「進歩」と「反動」は、絶対的な価値判断ではなく、時として反対の極に転移もできるような歴史的動きでしかない。竹内にとって、「進歩」という啓蒙主義の普遍的価値は、アジアの歴史を解明する場合の媒介に過ぎず、前提ではない。」

 

P31「そして竹内が、魯迅の伝記や思想、作品と人生の分析を通じて導き出した一連の結論も、彼自身「着物を脱ぎすてるように棄て」たものに過ぎない。真に竹内の生涯につきまとったのは、『魯迅』のなかで「暗黒」ないし「無」として表現された、究極における文学的正覚であり、あたかもブラックホールのようにあらゆる光と影を呑み尽くす、実体化しえぬ、髑髏のような存在であった。その実体化の不可能性は、それを取り巻く光について説明することでしかその存在を暗示することができないという点にあらわれている。」

※「ただ、この直接的には語り得ず、しかし避けて通ることも許されぬブラックホールに、竹内好が思考した文学というものの位置が示唆されているのだ。」(p31)

P34「竹内好は『魯迅』の中でひとつの基本原則を提起した。それは内部から発した否定のみが真の否定であるという命題である。言い換えれば、自己否定のみが否定の価値をもつということであり、自己否定を経ない思想や知識、外からやって来た既成のものは、いかなるものであれ生命力をもたず、死んだ知識であるということだ。」

※このような基本発想からは日本の状況を全否定する選択肢しか存在しないのは明らか。

 

P55竹内の引用。「近代とは、ヨオロッパが封建的なものから事故を解放する過程に、その封建的なものから区別された自己を自己として、歴史において眺めた自己認識であるから、そもそもヨオロッパが可能になるのがそのような歴史においてであるともいえるし、歴史そのものが可能になるのがそのようなヨオロッパであるともいえるのではないかと思う。」

P57「言い換えれば、竹内は決してこの世界の東洋/西洋の対立問題と歴史的形成の図式に対して哲学的に一つの「答え」を出そうとしていたわけではなかった。竹内が直面していたのはすぐれて現実的な対立の局面であり、その歴史哲学は、彼が不満を抱いていた、知識というもののおかれた位置の問題にぴたりと照準を合わせていたのである。竹内が私たちに伝えようとしていたのは、歴史がいままさに実体化され、知識を用いれば絶えず接近可能な客観的実在物として固定化されようとしているということ。そして、そうした凝り固まった思考様式のもとで、東洋と西洋との対立の問題あるいは歴史認識の相対化といった、人々が論争に明け暮れている類の問題は偽物の命題に過ぎないということであった。」

※合理主義なるものの批判も行なっている(p57)。

 

P59-60「竹内が第一の問題、すなわち西洋と東洋との関連性の問題を検討した際に依拠したのは、既成のモデルすなわち西洋と東洋とを対立概念と見なす見方であった。しかし彼は、このような対立はヨーロッパと東洋の間に存在するのではなく、ヨーロッパ内部にしか存在していないと明確に指摘した。」

P60-61「竹内における西洋と東洋は、決して真の実体的な概念ではないことは、すでに多くの日本の論者によって指摘されており、その指摘は基本的に正しい。同時に、ヨーロッパと東洋という概念は竹内のコンテクストにおいてプラス評価とマイナス評価、両方の価値判断を同時に含むものであり、肯定の対象である時もあれば、否定の対象である時もあり、いかにも混乱の様相を呈していることも指摘しておかなければならないだろう。」

※実体の地域概念の導入も見られなくはないが、それは竹内の議論全体では重要性をもつものでないと評する(p289)。

P63「物質的運動の近代化は彼の考察対象ではなく、彼が関心を抱いたのはわずかに「精神的運動」のみであった。竹内は、東洋にはヨーロッパ的な精神の自己運動がなく、そのため、東洋が西洋の近代化運動――それはさまざまなレベルでの拡張として体現されたがーーに直面したとき、西洋の運動を〝固定化〟し、〝実体化〟する傾向が容易に生まれたと考える。具体的に言えば、前進と後退を孤立した実体的なものとして固定化し、両者の間の相互依存と相互媒介の関係を捨象してしまうものであり、そうなれば、残されるのはただ単純な価値判断のみになってしまうに違いない。」

 

P65-66「通常の意味にしたがえば、抵抗という言葉は方向性が外向きであり、それが主体内部の自己変革ないし自己否定を引き起こすことはまずあり得ない。そのため他者を排斥するという意味を含みがちである。これに対し、竹内においては、抵抗の方向性は内向きなのであって、あたかも「猙扎」という語が象徴しているように、それは自己に対する一種の否定性の固守と再構築なのである。『魯迅』のなかの政治と文学に関する章の論述とリンクさせれば、いわゆる「猙扎」とは、主体が他者のなかで行う自己選択にほかならないことがはっきり見えてくるであろう。「猙扎」のプロセスとは、他者に内在しながら他者を否定するプロセスであり、それは同時に自己のなかに他者が入ることによって自己を否定するプロセスでもあるのだ。竹内にとって、この両者はすべからく同時進行で進むべきものなのである。そして否定とは、観念的なカテゴリーではなく、既成の秩序を破壊する具体的な行為である。」

P71竹内の引用…「かれは自己であることを拒否し、同時に自己以外のものであることを拒否する。それが魯迅においてである、そして魯迅そのものを成立せしめる、絶望の意味である。絶望は、道のない道を行く抵抗においてあらわれ、抵抗は絶望の行動化としてあらわれる。それは状態としてみれば絶望であり、運動としてみれば抵抗である。そこにはヒュウマニズムのはいりこむ余地はない。」

P73「日本のヒューマニスト作家と魯迅との間に横たわっている根本的な違いは、前者が「解放」を与えられるものとして求め、自らがドレイの境遇にあることを認めることを拒み、眼前の絶望的状況を正面から直視することで絶望に対して絶望し、そうした極限状態の猙扎のなかで抵抗を生み出していくという点にあるのだ。」

 

P89「彼ら二人が文学の本源性の問題について論じる場合、たとえ文学がどのような位置にあるにせよ、その位置はまず何よりも機能的なものでなければならず、実体的なものではない。それはつまり、文学はつねに流動状態になければならず、自己更新され得るもので、凝固不変のものではないということだ。これこそ竹内が『魯迅』の中で繰り返し強調した文学は行為であるということの真意である。丸山真男について言えば、彼が文学の機能を参照しながら議論したのは、日本政治思想史研究はいかにして実体的思惟を突破するか、ないしは日本社会の政治的メカニズムはいかにして肉体性から解放されて真に近代的なフィクション精神を獲得できるかといった問題であり、丸山がここから導き出した思考の方向性は近代的政治の「フィクション性」であった。一方、竹内好について言えば、こうした議論で打破せねばならないのは日本文壇の狭隘なる閉鎖性であり、竹内はそれを文壇ギルドと呼んだ。この小さな集団の中では私小説式の思惟方式が不断に再生産され、そうして文学の問題も狭い範囲内に閉じこめられてしまうのである。」

 

P101竹内の野間宏への主張の引用…「私が文学の自律性をいうとき、政治と文学を実体的に区別したような印象を野間氏に与えたとすれば、それは私の説明が足りなかったからであって、私はそう考えているわけではない。私は、政治と文学とは機能的に区別しなければならないことを主張しただけである。文学は政治を代行すえず、政治は文学を代行しえない。目的は全人間の解放であり、その目的にたいして政治と文学は、それぞれの側面から責任を持たねばならぬのである。小説を書くことも、一方では政治行為であり、綱領の文書表現は文学的行為である。それぞれの機能を責任をもって果すことによって目的のために有機的に結ばれたものが、真の自律性である」

有機的に結ばれることを想定している点が奇妙である。

P102「国民文学論争の中で、文学を政治と対立させ、文学の自立性とは政治の介入を排除することだとする考え方は、典型的な実体的発想法である。なぜならば、そこでは、政治は単なる政治権力の暴力あるいは体制の抑圧に限定され、モラルの位相でそれを抽象的に「悪」とすることによって、政治過程の中でのさまざまな可能性や諸々の複雑な矛盾などが安易に抹殺されてしまったからである。一方、野間宏が各領域の連合を強調し、民族の独立のためにこの一連の領域がそれぞれに自己の責任を負うべきと唱えたとき、実は文学を抽象化し政治・経済などと並置された「物」にしていたわけで、それはせいぜい文学の排他的「自律」に対するアンチテーゼとしての意味をもつに過ぎず、文学のあり方の問題はおよそ深められることはなかったのである。竹内が機能としての文学と政治を区別すべきだと主張したとき、彼が注目していたのは、文学が一種の特殊な「文化政治」の過程となって、単純に政治的結論を導き出してしまうような悪循環からいかに解放されうるか、という問題であった。あたかも丸山真男政治学の領域において現代政治の「フィクション性」を強調することで政治判断を打ちたてようとしたのと同じように、竹内好は文学領域においても機能性を強調することで文学を直感性から解放し、精神の営みとしての自律的性格を確立しようとしたのだ。明らかに、野間の誤読は、竹内のこのような実体的思惟と対決した、政治性を備えた文学の自律性を理解できなかったところにある。しかし、野間宏のこのような誤読は、果たして竹内の「説明が足りなかった」せいだっただろうか。実際に、竹内は同時代のほぼすべての重大な問題に関わるとき、いつもこのような「機能的な」反応をするのだが、しかしそれはたびたび、まわりの「実体的な」思考様式によって誤読されている。」

※論法云々で性格が変わるものでないように思うが。

 

P108「それなら、なぜ野間と竹内の間に、政治と文学の関係について真の対話が成立しえなかったのか。

 おそらくそれは、この日本の文学者の視野のなかに、ある基本的な参照軸が欠けていたからではなかろうか。それは、魯迅を代表とする中国現代文学、そして竹内好が中国現代文学を読むときの読みの視座にほかならない。もし『魯迅』を竹内の思想的な原点と見なさなければ、彼の日本文学や日本思想に対する全発言は理解することができないであろう。まさにこの「魯迅」こそ、竹内の言うように、機能的なものであって実体的なものではなかった。……魯迅は竹内を野間と異なる政治理解へと導いたのである。それはいわば、「正しい」観念的抽象化を放棄し、リアルで複雑な現実に直正面から向き合うことである。なるほど、野間宏の時局に対する分析は確かに正しいだろう。しかしこの正しい「あるべき姿勢」が、微妙に戦後日本の大衆社会の基本課題から遊離したのであって、日本文学もこの種の「イデオロギー的責任」を果たすことができなかったのである。」

P127「いかに善意をもって見ようとも、竹内好のこのことばは弁護しがたい。それは、日本の侵略戦争を合理化した態度のためではない。国家と距離を保ってきた自らの立場に背いて、「日本国と同体である」と宣言したことにこそ問題がある。しかしここで私が興味を持つのは、竹内が晩年にいたるまでこの文章を懺悔したり隠蔽したりせず、それどころか、一九七三年出版の評論集『日本と中国のあいだ』に収録されることを黙認したのはなぜなのかという問題である。」

※ただ自覚が足りなかった可能性は…「大東亜戦争と吾等の決意」への言及。

 

P160「中国人民の日本に対する抵抗意識は、まさにこうした野蛮で無恥な行為への道徳的な義憤を出発点として奮いおこされた。……竹内好はこうした「野蛮人本能」への本質的な省察を基盤として、一九四五年八月十五日以来、日本の思想伝統の形成に向けた一貫した努力をスタートさせたのである。」

※明らかにこの野蛮さは日本人の野蛮さとして描かれることになり、西洋人はその視野から外される。

P161「今日に至るまで、進歩的知識人を含む一部の日本人は、それぞれの理由から、日本の侵略戦争を「通例化」しよう、すなわち他の戦争と同列に論じようとしてきた。そのことの看過できない問題点は、「野蛮性」の問題を見逃すことにある。」

※この認識が正しいかはよくわからない。竹内自身が野蛮性に与えた意味如何による。進歩的知識人も全体的な意味で野蛮性を強調する一派がある。松下圭一もその系譜である。

P164-165「つまり、二元対立の思考形式ではこの出来事の核心にふれることはできない。東京裁判への賛成もしくは反対といった漠然とした政治的立場によっては、この複雑な出来事に対して政治的判断力を生かすことはできない。」

 

P174「五〇年代末トインビーが日本を訪問したとき、反共親米知識人を中心として「日本優越論」がとなえられた。アジアは「文明序列の劣位」に位置づけられ、「日本」は、福沢が初期に持っていた緊張感を持たないまま、再び脱亜した。こうした脱亜のコンテクストで東京裁判の問題が再審されたが、日本は西洋と質の近代文明国家であると見なされたため、東京裁判の合法性を問い質すものはいなかった。」

P190「清水幾太郎は、自分が運動の中で原理を追っていると信じていた。またアカデミズムのエリートは、自分たちのやり方で原理を現実運動に結実させようと努力していた。したがって彼らはともに、自分たちが原理と現実の関係を扱っていると考えていた。しかし彼らは追いかけている問題の方向性が異なっていたため、両者のあいだに、相互に排斥しあうような関係性の場が形成された。この関係性の場そのものこそが、理論と現実のパラドキシカルな関係を示している。いかなる指導的な原理であれ、原理のレベルにおいて、複雑な現実を変えることはできない。また現実の実践目標は、具体性・直接性を備えているため、具体的な目標を転移させる可能性をもつ原理的な思考を排斥しがちである。理論と現実のあいだの真の関係は、理論もしくは実践のどちらかにおいて単独で示されることはありえない。したがって、不断に議論され続けてはいるものの、討論が理論もしくは実践どちらかで行われている限りは、真の解決を得ることは困難である。」

※「排斥しがち」かもしれないが、理論的帰結ではない。また後段ももっともらしいことを言うが、これが正しいことを何ら積極的に定義しない。孫歌「それは、竹内好が他の知識人よりも優れていたという意味ではない。ほかの知識人との関連付けという構造のなかで考察されてはじめて、竹内好の批判的知識人としての貢献を認識することが可能となるという意味である。」(p191)という主張が文字通り全てであり、これは言い換えれば「50歩100歩」でしかない。竹内の議論により何らかの可能性が存在するという評価に意味はない。

 

P203「丸山において、問題は二元対立として処理された。しかし竹内好は一貫してそうした対立の外で活動した。丸山真男は日本の肉体的思惟を批判したとき、問題を理性的なフィクションの精神へと向けた。」

P230「以上の小見出しから見て取れるのは、この座談会が、西洋モダニティの限界を討論することを通じてそれを「超克」することを目標としていたこと、そして近代の超克という意味において日本文化の優位性を強調していたことである。」

小見出しから座談会の内容を読み取ることに収穫はないというが、同時に日本優位論を語っているのかどうか、小見出しからはとても読み取れない。

P231「十年隔てて行われた二回の座談会にある種の関連を見出すならば、そこではっきりするのは、「近代の超克」とはもともと文学者たちが発起し彼らによって継承された討論だったということである。「近代の超克」に参加した学者たちの戦後の活動がそれをさらに証明する。その二年後、別の座談会で「現代とは何か」という問題が討論された。司会を務めたのはかつて「近代の超克」に参加した鈴木成高であった。この座談会は「世界史的立場と日本」で議論された世界史の哲学の問題をある屈折した形で継承したものであり、「近代の超克」の内在的な方向性とはまったく接点を持たなかった。」

※これは、廣松などが注目した京都学派とは別の派閥による意図が強かったことを示す。「現代日本の知的運命」という座談会が1952年1月に開かれており、これが「近代の超克」の後継とする。

 

P236「京都学派の学者たちは、自分たちの対話空間では「近代の超克」座談会で感じたような困難を感じていない。『文学界』同人は純学術的な議論を好まず、学者たちに一つの「見解」を求めていた。言い換えるならば彼らは、十分な学術的訓練をつんだ学者から有用な結論を引き出そうと望んでいた。」

P237「二つの座談会はともに第二次大戦が白熱化した時期における世界の中の日本の地位を問題化し、日本の優越性とヘゲモニーを鼓吹しようとしていた。しかし議論参加者のポジションが異なっていたため、両座談会のテーマには根本的な差異が生じた。「近代の超克」が定めたテーマは参加者の主体的な自己の問題であった。それに対して「世界史的立場と日本」は参加者の前に存在する学術的な対象をテーマと定めていた。」

P238「しかしながら小林の出発点は「反近代」であり、近代の歴史発展論への対抗という意味において歴史の中に変わらないものについての語りを紡ぎ出したのに対して、西谷、鈴木の意図は、現代人と過去の人間との精神のつながりをめぐるパラドキシカルな性質を強調することにあった。」

 

P240「文学者たちにとって「反近代」とは「清潔な吾々の伝統」に対する肯定にほかならず、学者たちにとって日本の優越性の強調は世界史の語りの一部分にすぎなかった。」

P241「京都学派の雄大なる世界史の語りにおいて、「日本」は、近代西洋に代わるべき重要なポジションを与えられてはいたが、論述の目的地とされることは決してなかった。「近代の超克」と「世界史的立場と日本」という題名の差異は、日本的「肉感」を強調する前者の「西洋への対抗」的立場と、日本的肉感を意識する「暇がない」後者の「世界史」的立場とのあいだの微妙な差異を象徴的に示している。」

※「そして座談会についての回想は完全に文学者たちのものになった。」(p245)

P243「彼らが「近代の超克」で示した対立とは、近代の語りにおいて「日本」と「西洋」をいかに叙述するかという一点をめぐって構成されていた。」

P244「日本人は、ナショナリズムの問題を避けて新しいアイデンティティを見出すことができるかという厳しい試練に直面した。……

 戦後の一億総懺悔のあと、「近代の超克」はひとつの「トラウマ」として京都学派に関係のあった学者たちの戦後の語りから消失した。それに対して「世界史の立場」は、「日本文化フォーラム」という反共親米の色彩を持つ保守派の民間団体によって継承された。京都学派の四人の学者はほとんど皆このフォーラムに姿を現したが、『文学界』の文学者たちはそれとは関係を持たなかった。」

 

P247「明らかに、(※竹内の主張は)正しいイデオロギー的結論ばかりを目指すのとはまったく異なる立場である。竹内好のいう「思想」とは、正しい思想のみならず、さまざまな錯誤さらには有害な思想を含むものであった。しかしながら思想である以上は、政治体制から相対的に独立した影響力を持っており、それこそが思想が社会に影響を及ぼす根拠であった。「近代の超克」と「世界史的立場と日本」はまさにそうした意味での「思想」を持っていた。」

P252「五〇年代日本知識界の数々の座談会を見ると、論争の陣営は進歩的知識人と保守的知識人といった基準で厳格に区分されていたわけではなく、むしろ多くの場合、西洋モダニティ理論を利用する方式と習熟の程度によって分かれていたことがすぐに見て取れる。」

P253「竹内好は鋭く見抜いていた。新しい東西二元対立モデルによって日本はいかなる道を歩むべきかという問題を解決することはできないのだ、と。というのは、五〇年代末期に日本優越論が再燃し、「日本文化フォーラム」のような文化人の言説においては日本は東アジアの指導的国家として描き出された。「近代の超克」が失敗した地点で戦後の日本主義者たちは同じ轍を踏んだのだが、それに対して進歩的知識人は西洋の思想遺産によってこの状況に対処する有効な方法を見出せなかったからである。危機意識をもった竹内洋は「近代の超克」の封印を解き、イデオロギー批評によって単純化されていたこの思想史上の出来事から新たな可能性をひろいだそうとした。」

 

P255「荒正人日本共産党への入党経験を持ち、のちに意見の食い違いから離党した進歩的知識人」

P256「たとえば竹内は「近代の超克」と「世界史的立場と日本」の差異を完全に無視し、後者を前者の中に組み込んでいる。その結果彼は知らず知らずのうちに、特定の時代の思想形成に関わる多重的な可能性を思考することを妨げられた。」

※一方で「彼が論じたのは特定の時代および歴史的文脈の中における座談会の位置づけの問題にほかならなかった」とする(p256)。ここでいう歴史的文脈の議論をどう評価しているのか、読み取り難い。

P257「同時に竹内好は、東京裁判をきっかけにして、日本とアメリカは東アジアの植民地争奪戦争をしただけで、文明対野蛮、正義対侵略の戦争ではなく帝国主義帝国主義の戦争であったという観点を固めた。それに対して荒正人は、第二次大戦を考える視覚として一貫してソ連を重視しており、アメリカに対しても、ソ連および中国の同盟国として、歴史の行為としては民族統一戦線を授けて日本ファシズムに対抗したという命題を導き出した。」

※見方によっては、竹内の方がはるかに「二項図式」的に見えてしまう。

 

☆P259「とはいえこの議論はその後にわたる日本の進歩的知識人内部の基本的な分岐を象徴的に示している。四〇年が過ぎた現在、日本の知識人はほとんど実質的に進歩のないままヒロシマ問題において荒正人竹内好の問題意識を反復しているように見える。これはいったいどうしてなのだろうか。

 基本的な思考の手がかりは、やはり竹内好の「近代の超克」の中にある。皮肉なことに、あまたある「近代の超克論」の中には、政治的に竹内好よりも正しくまた読解として竹内より精緻なテクストがいくつもあるが、竹内好のこのテクストほど時空を超えてたびたび言及されるテクストはほかになく、民族主義ないし大東亜主義の「嫌疑」濃厚な竹内のテクストばかりが日本思想史上の名著となっている。」

※このような評の正当性がいかにあり得るのかが最も気になる。

P259-260「竹内好は二元対立に替わる理論モデルを見出すことはなかったが、戦争経験者の感情記憶を揺り動かし、感情記憶の中に生きている原理を発掘しようと試みた。竹内好の見るところ、戦後行われた戦争に対する省察はむしろ生きている原理を覆い隠すものだった。なぜならば、日本のモダニティの問題は第二次大戦を頂点としながら、様々な形での対外拡張として戦後も基本的に生き延びていたからである。」

P263「まず第一点目について廣松は次のように批判した。京都学派は開戦の詔勅を完璧に説明してみせる教義学を持っていただけにすぎなかったとしても、それだけで充分に戦争とファシズムイデオロギーとして認定されるべきである。」

※もう一点廣松は近代の超克論はそのアポリアを「解決ないし止揚統一を志向していた」と断じ(p264)仲違いの可能性を否定した。

 

P266-267「しかしながら、三木清が『文学界』および同人を代表できるかという問題はさておくとしても、より大きな問題として、この置き換え作業が一つの理論的なすり替えであることが指摘できる。すなわち、歴史上の明確に限られた範囲を持つシンボルであった「近代の超克」が無限に拡大され、昭和思想史全体の基本的構造とされたということである。その基本構造とは、廣松渉が関心を寄せていた、天皇制を頂点とする国家独占資本主義の社会構造およびそのイデオロギーである。……彼が竹内好の「方法論的手続き」が狭隘にすぎると批判したのは、竹内が文明論と文化論の視野でしか問題を扱わず、社会史的角度から廣松渉と同様の課題を扱わなかったためにほかならない。」

※「廣松渉雄大な社会史と観念史の語りにおいて、竹内好を批判することによって、竹内好によって提起された荒正人等によって明確化された重要な思考を見逃した。」(p267)とするが、これこそ50歩100歩の議論であり、どちらの議論もその正当性についてろくな言及が存在しないように見える。

P270「廣松渉雄大な枠組みの中に、正しい批判的立場や観念分析・社会史分析は充分にあるが、思想伝統を建設しようとする努力は不足している。」

※孫の議論を読んでいると、「生活体験」と「多様性」が同一のものに見えてくる。

菅原潤「「近代の超克」再考」(2011)

 今回は前回の大塚久雄の議論や、日本人論とも関連してくる「近代の超克」をテーマとした著書を検討していく。

 近代の超克をテーマとした著書は2000年代以降それなりの数のものがあるようである。背景としては、3.11という事件以降改めて近代に対する問いへの関心が高まっていること、また同時期からの保守派ナショナリズムの動向に「近代の超克」をめぐる議論の論点と同質の傾向をみてとり、更には「アジア主義」的な観点についての評価を行う動きの中から、戦中期のこの言説の再考を行う動きがあるようである。

 

 本書を読むうえでまず注意しなければならないのは、本書の対象が1942年の雑誌「文学界」における座談会をめぐる「解釈」に向けられた、ある種徹底した言説分析であるという点である。ここでは当時「近代の超克」という言葉が一般的にどう受容されたかという議論はカッコ付けされる。これは菅原自身のスタンスがもともとそうであるということもできるのかもしれないが、それ以上にこれまでの「近代の超克」をめぐる歴史的な議論に対する一種の批判的態度をそのまま表明しているようにも私には思えた。このことについては、今後も検討していきたいと思うが、この「近代の超克」をめぐる議論というのは、それ自体が本書で指摘されているように「適切な理解」というものを欠くものとみなされがちであった。『近代の超克』座談会内における京都学派(鈴木成高西谷啓治)的な「近代の超克」理解というのは、決して本筋であったと言い難い。しかし、廣松渉が典型であるように、京都学派的な理解こそが真の意味で「近代の超克」を体現するかのような主張がなされることも影響力も強かったことを、本書ではその前提としているように思える(cf.p9-10)(※1)。廣松的な歴史観に基づく「近代の超克」論も、その当時の「大衆」がこの「近代の超克」をいかに捉え、それが当時の社会にどのような影響を与えたのか、といった問いは本書においては意図的に放棄され、座談会前後の「近代の超克」がそれを語った各論者の中でいかなる意味づけをされていたのか、ということをその思想的背景も含めて検討することとなる。

 ただし合わせて留意すべきなのは、竹内好以来、この『近代の超克』座談会においてグループ分けされている「京都学派」側の論理と「文学界」及び「日本浪漫派」の論理の系譜について、その思想的系譜の関連性については本書においてほとんど議論がなされない。「京都学派」の議論は、主に鈴木成高高山岩男の文明史観についての議論を中心とし、「文学界」等の議論は、「超克」の意味合いについて着目しながらその系譜を追う作業を行っている。また『近代の超克』座談会に参加していない三木清保田与重郎も含めた議論の系譜も本書では丁寧に追っているが、これは「文学界」側の論理の議論であり、本書ではこのような周辺部の議論はあまり「京都学派」側からはなされていない。本書の関心の問題から、どちらかといえば「文学界」側の系譜に重点が置かれている。

 

〇「近代の超克」とは結局何だったのか?

 菅原は「近代の超克」の「文学界」側の意味合いをめぐる議論について、まずニーチェ理解という観点から読み進め、その初期における生田長江的な理解(p20)と、その後の「シェストフ」的理解との違いについて言及する(p27-28)。そして、「近代の超克」の言説の中心的な立場はシェストフ的理解に基づくものだとする(p33)。この両者の違いは生田が「近代の徹底」としての批判的態度とみなされたのに対し、シェストフ的理解はそれさえも批判する立場にあるとされる。そして、菅原は生田の議論は資本主義・共産主義両方からとる態度であったが、シェストフ的議論は資本主義のみに向けられていたことを強調する。

 菅原はここからシェストフ的な「近代の超克」論が二項図式的な議論に陥りやすく、結果として共産主義的な議論に似通る可能性を指摘している。それは共産主義者の転向においてシェストフが果たした役割を強調し、そのような「近代の超克」の語りが、一度は否定したはずの共産主義の(無意識的な)肯定に結びついてしまうという思想的変遷における帰結であるとされる。しかし厄介なのは、このことが生田的な超克論が二項図式でないという根拠になっていない点である。これは生田が「近代の超克」の意味合いで用いる「超近代」の定義を見れば明らかで、それは「商業主義よりも重農主義を、都会よりも村落を、文明よりも文化を、西洋よりも東洋を撰び取ろうとする」態度であった(p21)。もっとも、「彼のなかには反近代的な主張と近代に特有な批判精神が混在しており、しかもこの相反する契機が座談会「近代の超克」にも及んでいる」とする(p28)点にも注意する必要がある。ここでの菅原の語りは生田長江の受容のされ方をもって「近代の徹底」とした見方も成立すると述べているが、これがその言説に裏付けられていたものかは、本書の記述からはよくわからない。結局本書から読み取れることは、「近代の超克」の言説はそれ自体「近代の徹底」と「反近代」との間でのせめぎあいそのものを示したものであり、その躓きの連続であるという見方をする一方で、『近代の超克』座談会の話に限れば、「近代の徹底」へ、なおかつそれは近視眼的な内省の態度に収斂していた、という見方が成り立つということだろう(※2)。

 

 またもう一点押さえるべきは、「文学界」の系譜における「超克」という言葉が、半ば無意識的に達成されるべきものであるという性質を持っているという点である。これは「止揚」の発想と対比すると理解しやすい。「止揚」はどちらかといえばそれが意識的な否定のプロセスを経て達成されるものという理解がされやすい。これに対して、「超克」という言葉は、本書でも語られるように(p20,p141)、基本的には「(本人は意識せずに)いつの間にか達成されている」性質のものであるとみなされていた。この意味合いはいくつか考えられるが、本書に照らし合わせれば、それはあくまで一種の「実践」の中から形成されるものであり、意識的にプロセスを経るような「止揚」のような見方は、それ自体が実態をとらえ損ねるイデオロギー的見方を強化するものとして毛嫌いされたものであると、読み取ることもできるだろう。当時のコンテクストから言えば、それは政治から距離をとった「文学」の領域の意義を語る上でも重要な考え方であったと読み取ることができるだろう。このような「文学」的な超克の意義は竹内好などにも強く影響を与えているように思える。

 ただここで少々厄介となるのが、『近代の超克』座談会における京都学派と文学界派の立場の違いをどう理解すべきかという点である。

 京都学派は歴史的普遍性という立場を強調し、「近代の超克」についてもその文脈からなされることを強調していた。それは今の視線からすれば一元的な、欧米の「近代」の影響力を決して無視できない歴史観の上に「超克」をいかに考えるのかという見方を前提としていた。そしてこれは帝国主義的立場、侵略史観に親和的である(p109)。しかしながら、「京都学派」側の近代観についても、安直な「近代の支持」と「帝国主義の肯定・追随」を意味していたわけではない。70年代以降の大塚久雄が強調した態度ともよく似ているが、「新たな中世」思想にもみられるように、文明論的な立場を強調しつつ、そこからの転換の可能性もその論の中から見出そうとする立場が京都学派であったと本書では位置付けている。ただしこの文明論的立場からの問題は、大塚久雄がそうであったと自認するように、「近代なるもの」それ自体は大きな影響力、そして社会の健全な発展に貢献する勢力であることとして(これを終戦前の文脈で言うと、侵略するか・されるかという力関係の議論として)決して無視することはできず、無視すべきではないと考えられていた。本書を読む限り、鈴木成高の基本的態度はまさにここにあったといってよい。ここにおいても「近代志向の揺らぎ」が存在するのである。「文学界」側の「近代志向の揺らぎ」との違いを考えるとすれば、どちらかと言えば「文学界」側はほとんど認識そのもののズレをめぐる争いであった感が強く(このことから各論者が「近代追随」であるか「反近代」であるかは割とどうでもよい感じがする)、「京都学派」側は、物的な状況をめぐるせめぎあいの中でそれが揺らぐものであったという整理はできるだろう。

 

〇何を「進歩」とみなすのか

 本書の主張で押さえておくべきは、この「近代の超克」をめぐる議論のなかで、何をもって「進歩」と考えるべきであるのか、という点について論者によって異なってきていた点である。これをざっくり分ければ2つの見方で整理できる。

 一つは欧米的近代の追随こそ進歩であるとみなす立場である。ただこの見方は基本的には大塚久雄のように近代なるもののエートスの取得こそ重要であるという態度も少なからず含まれていることに注意せねばならない。もう一つは本書でいう林房雄(cf.p165)、竹内好や、これまでレビューしてきた西尾乾二(※3)にもみられる進歩観である。この立場において第一の進歩の立場というのは、安直な欧米の追随であると批判され、(国家・民族などの)「個性」を鍛え上げ、確固たるものとしそれを原動力とすることこそ「進歩」であるとみなされる。ただ、第二の進歩の立場というのは、その「個性」の強調ゆえに、他者との比較について著しい軽視が基本的になされることになる。他者との比較など文字通りどうでもよく(※4)、そんなものはなくとも「進歩」が可能であると信じて疑わないからである。本書ではこの第二の進歩観における右派・左派の奇妙な共通性について強調していることは他書と比べると特徴的でといえると思う(p181)(※5)。

 ただ本書全体の流れの中では、菅原はこのような「個性」の強調がある意味で京都学派の文明史的な読みの可能性を否定するものとなっており、ある意味で極めて近視眼的な近代志向を助長する原因になっているものと考えているように思える。この近視眼的な態度は80年代以降の日本人論として私が指摘してきた改善要求ありきの日本人論の議論と同じ特徴をもっているものであり、そのような態度を「文学界」側が強調してきたという見方も可能である。

 

〇「近代の超克」論と70年代以降の「日本人論」との相違について

 ここで「近代の超克」の議論で語られる日本人論と、これまでのレビューで検討してきた日本人論における議論との異同についても触れておきたい。ここで特に参照点とするのは、土居健郎である。以前私が指摘したように、土居の日本人論が70年代以降の日本人論の一つの典型とみなすとすれば、この「近代の超克」をめぐる議論というのは、それ以前の日本人論として検討することができるだろう。

 まず相違点についてであるが、特に大きな違いは、「近代の超克」論が文明史観について特に強調するのに対して、土居的な日本人論はその文化的側面を強調する。ただ、本書の見解も踏まえれば、「近代の超克」論にもこの両者の強調については幅があり、京都学派は文明史観をより強調するのに対し、文学界側は文化的側面の強調もなされている。しかし、総じて言えば、文明史観が比較的優位な状況にあったことは当時の状況を踏まえれば納得ができる。特に鈴木成高の主張から読み取れるのは(p109,p113)、欧米的な支配する・支配されるという論理があまりにも強力であり、その影響力を無視して歴史を語ることなどとてもできない(支配の論理を無視して歴史を語ることに意味を見出すことができない)という主張そのものは、安易に正当性を否定することはできない論理が含まれている。だからこそ高山岩男の文明論も鈴木に凌駕されてしまったともいえるのである。

 一方で、土居が語る日本人論は、単一的な文明史観をそもそもその前提として受け入れている(それは「社会問題の普遍化」をめぐる主張に集約される)という意味では、この文明史観の延長線上にあるとみなすことが可能である。その単一的なまなざしがそのまま土居の西欧批判、つまり近代批判の起点となっている。しかし、土居の議論は結局文化論的な側面に偏ることとなり、「甘え」の文化の強調へと(少なくとも本人は)結びつけた。土居に見られたダブル・バインドの態度はある意味でこのような「近代」に対する見方の受容が歪んだ形で現れているものと解釈することができる。このような歪んだ態度自体は「近代」をめぐる議論において常にあったものと考えることは可能であり、実際『近代の超克』座談会についてもそのような見方が文学界側からなされたものと読むこともできる。このような近代受容をめぐるジレンマについては、共通・連続したものとして捉えることも可能だろう。但しこれについては土居においては強くみられるものの、その後の日本人論にまで同じようなジレンマがあったかどうかは検討すべき部分である。どちらかといえば、このようなジレンマは精神分析的な側面からの議論(河合隼雄に続く系譜)には(土居と同じ問題を抱えたまま)残存したものの、西尾乾二に影響を与えている類の、70年代後半以降の日本人論には確認ができないだろう。

 結局は、70年代(以降)の日本人論の語りの中においては、すでに「支配するか・支配されるか」という論点は認識されず、「欧米的価値観の確立」という枠組みで理解されるようになったのである。ここにおいて問題は価値観の問題に移行し、そこからの転換の可能性の中で議論を行う余地が大いに出てきたのである。

 

 廣松渉が行ってきた「近代の超克」論が、京都学派の支配史観をあまりにも強調しなされてしまったことはある意味で不幸なことであったのと同時に、近年再評価される「近代の超克」自体がこの反動として、安直に近代の多様性をめぐる議論として語られているように見えるのも果たして妥当なのかという疑問が出てくる。結局このような多様性の強調は、土居的な議論の変奏、しかもそれが特段具体的な議論に向かわないという意味では、逆に劣化したかのような印象も受けるのである。この点はまた別途取り上げたい。

 

〇「近代の超克」のポテンシャルは有効か?

 本書執筆の目的は「近代の超克」の射程とそのポテンシャルを問うものである(p2)が、今後「近代の超克」をめぐる議論を検討する上で確認しておきたい点がある。この「近代の超克」の議論は00年代以後活発になされているようであるが、この議論の可能性について肯定的に捉えることについてどう考えるべきか、という点である。

 ここで参照すべきは加藤尚武の「近代の超克」批判である。加藤は「二一世紀への知的戦略」(1987)にて、「近代の超克」を主張する立場に対し、①それが近代からの断絶にしかならないこと(加藤1987,pi-ii)(※6)、そして②「技術の倫理の対話の場面を切り開」くことこそ重要であると指摘する(同上、piv)。次の主張はこれら2つに応えるものである。

 

「今日の科学が西欧・近代に成立したということは、歴史的事実である。その歴史的事実を科学史という科学が確認している。ところが相対主義者は、こう主張する。「科学はあくまで西欧・近代の科学であって普遍的科学ではない」。それではこの相対主義者は、いかなる科学によって科学史を認識したのか。どのようにして東洋人であるわれわれが西欧の科学を学びえたのか。それに答えることがわれわれの科学論の任務ではないのか。相対主義の観点をとれば「新しい科学」を作り出せると考えるのは、浅はかである。相対主義が正しいとすれば、その「新しい科学」はわれわれの理解の彼方にあるものだからだ。」(同上、p29)

 

 まずここで押さえておくべきは「近代の超克」の言葉の意味についてである。菅原は「近代の超克」の議論においてそれが無意識のうちに克服される性質のものであるという論点を述べた。ただこの「無意識」というのはある意味でご都合主義の言葉であり、①『近代の超克』座談会自体が「近代の超克」を意識的に語るものである以上、無意識的に議論していると呼ぶことが可能なのかという論点と②結局はこれが過去との断絶でしかないのではないのか、という疑問点を残す。加藤の批判はここでいう②について、むしろ論理的に考えて断絶せざるを得ないことを主張するものである。なぜなら、「近代の超克」を主張する論者は近代の産物であった科学について、その性質そのものを語らずそれは「超克後の社会」における科学についても何も語らないものだからである。これは科学に限らず、文化といったものにも同じように述べることができるだろう。結局イデオロギー的なものに還元される「近代の超克」という理念そのものが意味をなさないものであると加藤は強調するのである。

 上記引用においても、加藤は「近代の超克」を強調する相対主義者は「新しい科学」を超克により生みだせるものだと考えていると主張している節がある。もっとも私はこれは言い過ぎであると思う。そもそも「近代の超克」論者は、そのような「科学」を語ることの重要性自体に気付いていないために、このような言説を述べていたと考えられる。もっと言えば、『近代の超克』座談会においては、この「超克」の重要性を述べたのは、文学界からのものであり、それは同時に(「政治」と対峙する)「文学」の可能性についての言及でもあったといえるだろう(※7)。これはそもそも「文学」を語ることが万能であるということに対する問題として議論すべき内容であるのかもしれないが、少なくとも「既存のもの」を如何に変えるべきであるかという議論よりも、「既存のもの」を変えなければならないという意識が先行し、その変えるべき内容については二の次となっていることは「近代の超克」論全般に指摘できるという意味では加藤の指摘は正しいように私には思える。

 

 そして近年の「近代の超克」に対する再評価の動きに関して、この論点は過小評価されているように思えなくもない節がある。この「近代の超克」の議論に限らず、「近代」そのものの問い・批判のなかでしばしば取り上げられるのは、「多様性」についてである。これは近代が単線的な発達史観に基づく、ということも含むが同時に「近代」の機械性が人間性を尊重しないだとか、帝国史観的暴力性が問題であるとか、個の強調がエゴイズムを無視しており問題であるとか、という論点に対抗する原理として「多様性」が用いられる。しかし、「多様性が大事である」で終わる議論は加藤の主張を待たずとも非生産的でありえる。また、本書のように学術的な意味においても「多様性」が尊重されることがあるが、それもまたいかなる意味で有意義であるのかという問いは別に設定されるべきである。このことはまた別の機会に検討を行っていきたい。

 

※1 そもそもの前提として、この「近代の超克」をテーマに何らかの意義を見出す作業をする場合に、当時の状況を捉えるため言説分析の題材として「近代の超克」が選ばれること自体が適切でない可能性もあることも留意すべきであろう。むしろ「東亜新秩序」「大東亜共栄圏」といった言語群の分析をする方が広く一般的な流通をしていたものであるといえるだろうし、そのような言説群と比べれば「近代の超克」という言葉はそれ自体影響力として限定的である。しかし本書はあえてそれらの主流言説から距離を置き「近代の超克」の哲学的・思想的論点の抽出を目指していることに留意せねばならない(p2)。

 

※2 ただし、合わせて問わねばならないのは、本当に「近代の超克」という言葉がそれを語る各論者にとって意識的に(何かしらの概念に収斂する意味をもちえたものとして)語られていたものなのか、という点ではなかろうか。この「近代の超克」という概念自体、一種のダブル・バインドを容易に要求するものであることは明らかであり、その時々で都合のいい方向にその意味を変化させることもまた容易であることを意味する。「近代を超克」をめぐる議論においては、この論点も非常に重要であると思うが、近年の「近代の超克」をめぐる議論の中で、このことがどのように考えられているのかにも今後注目し検討していきたい。

 

※3 西尾が「ヨーロッパ像の転換」(1969)において、日本の戦前の教育制度をアメリカ由来のものであると、事実と相違する主張を行ったことはすでにレビューしたが、西尾が安直に「アメリカ的なもの」が昔から日本にあったと思い込んだこと自体にも注目してよいかもしれない。つまり、西尾には戦前から存在し、『近代の超克』座談会内でも批判の対象となった「アメリカニズム」の系譜を曲解し、日本の教育制度に当てはめた可能性があるということである。このように見た場合、西尾の議論もまた「近代の超克」をめぐる議論の系譜に位置付けることが可能になってくるのである。

 

※4 しかし逆にどうでもよいという態度は、そもそもの第一の進歩観における「追随」の意味についても軽視する結果となっており、実態についても特に吟味しないまま批判を行うというスタンスが基本となってしまっていることも指摘せねばならない。このことは今後も具体的に言及していきたい。

 

※5 このような議論と高山岩男の「モラリッシュ・エネルギー論」(p108-109)との関連も気になるところである。結局この議論も「近代的なるもの」に対抗するための原理の一つとして行われているものと考えることができる。ただ、この両者の議論は本書においては関連性の議論がなされていない。

 

※6 引用すると、次のように主張している。

「未来技術が近代のそれと通約できない断絶を示すとは考えにくい。……また、未来の人間が技術を廃棄して、近代以前の生活様式を営むという見通しも成り立ちにくい。未来の技術は近代技術の継続という本質をもつであろう。……

 これに対して連続の要素を認めず、未来を近代からの断絶とみなして、未来を「近代の超克」という観念だけで考えようとする思想は根強い影響力を持ちつづけている。未来の文化は近代の限界を超え、近代知の構造とは本質的に異なるパラダイムで営まれるのだという。……そこでは知のパラダイムの変換によって技術の倫理的問題に解決が得られるかのような無責任な幻想がふりまかれる。」(加藤1987,pi-ii)

 

※7 このような「文学」の価値は、竹内好も強調していたところである。この点については、また別途検討していく予定である。

 

<読書ノート>

P9「こうした議論の運び方を見れば、鈴木が「近代の超克」に臨む際に念頭に置いていたことは、古代の立派な文明を備えつつ近代を経由した日本にはモラリッシュ・エネルギーがあることを世に知らせること、あとやや些末な問題だが、自分とともに「近代の超克」に参加する西谷との間のルネサンスの評価をめぐる論争に決着をつけることだと予想される。

 けれども「近代の超克」における鈴木の役割は、近代はルネサンスから始まるという議論の大前提が正しいかどうかを、歴史学者の立場から判定してもらうということに限定されてしまう。孫歌の指摘するようにこのように「イデオロギーを表現するときにそれを学術化しようと試みる」のは「京都学派のお家芸」だからなのだが、「近代の超克」で重要なのは「あなたにとって近代とは何か」ということなのであり、学術的な発言は遮られてしまう。その後鈴木は、中世的なルネサンス観と近代的なルネサンス観をうまく折衷させようとする西谷の発言を受け、西谷に対する弁明を何回か試みるが、その後「われわれの近代」が議論の中心になると、目立った発言をしなくなる。」

P9-10「ここに「近代の超克」と「世界史的立場と日本」の間のすれ違いがある。前者に参加した鈴木と西谷以外のメンバーの多くは、「近代の超克」という共通テーマを与えられたときから最初からヨーロッパと日本の関係しか考えなかったのであり、それゆえ議論は次第に「日本人にとって近代とは何か」、「日本人にとっての古典とは何か」に収斂していくのである。そうなると、日・中・欧の関係を考察する西洋史学者の鈴木の出番はない。

 こうした議論の推移を見れば、船曳建夫が日本人としてのアイデンティティの不安の表明として「近代の超克」を捉えるのは正鵠を射ているといえるだろう。「世界史的立場と日本」と比べれば「近代の超克」には、一般に思われているほど侵略戦争を正当化するような勇ましいプロパガンダを見つけることが難しい。それゆえ広松から始まる昨今の「近代の超克」論は、あまりにも京都学派に結びつけた議論をしており、そもそもの「近代の超克」のテーマに沿った解釈をしているといえないのではないか。」

※最後の議論の例として柄谷行人と町口哲生を挙げる(p196)。

 

P20生田長江のいう超克…「近代的な一切の事物に対する堪えがたき嘔吐感から出発しているだけに、超近代主義は一応近代主義の単なる否定の如く、単なる反対物の如く見えるかも知れない。けれども実際は近代主義からあとへ引き返したのではなくして、さきへ通りぬけてしまったのであり、所謂超克したのである。即ち超近代主義は人性主義精神の単なる否定や反対物であるよりも寧ろそれらの超克されたものであり、従って大抵の近代思想の単なる否定や反対物であるよりも寧ろそれらの思想の超克されたものである。」

※「超近代派宣言」からの引用。

P21「商業主義よりも重能主義を、都会よりも村落を、文明よりも文化を、西洋よりも東洋を(単なるセンチメンタリズムからではなく、『近代』生活に対する最も深刻な批判の結果として)選び取ろうとするーーこれは超近代的である。」

※同上。否定ではなく、肯定による定義をしている部分。

 

P27-28「もう一つは「超克」をどう考えるべきかという、本書の本質に関わる問題である。河上がシェストフに認めた批判精神は、考えようによっては先に三木と佐藤によってなされた生田長江人道主義者として位置づける見方と合流するように思われる。つまり河上や長江といった、亀井や唐木からすれば「旧世代」に属する批評家は、ニーチェの思想を近代精神の全否定ではなく、むしろヨーロッパ近代精神の健全な発展だと見ていると考えることができる。そのように考えれば、長江が『超近代派宣言』で表明した激烈な反近代的主張も、実は近代の批判精神の徹底だと捉え直すことができるのではないだろうか。

 ここで注意しなければならないのは、長江にとって超近代は、資本主義と社会主義の彼岸に立たされてあることである。これに対して亀井勝一郎の立場は、超近代を社会主義からの転向として、つまりは社会主義の裏面として位置づけている。こうした超近代の位置づけの違いは微妙な問題を随伴する。つまり長江のような超近代のスタンスであれば、資本主義や社会主義は本当の近代が分かっていない浅薄な思想として近代の批判精神から断罪するということが可能になるが、亀井のような立場だと社会主義を批判しながらその用語法、発想が皮肉にも敵であるはずの社会主義にだんだん似通ってくるという事態を巻き起こしかねないからである。」

※これは論理的必然なのかよくわからない。

p32「その長江がニーチェ全集の本邦の初訳者であること、「超克」の語がニーチェの『ツァラトゥストラはこう言った』の訳書にある語であることに留意すれば、「近代の超克」の思想的起源はニーチェにあると言ってよいかに見える。

 確かにこの推論は大まかに言って間違ってはいないが、長江の受容状況を見るかぎり「近代の超克=生田長江ニーチェ」の図式はいささか単純なように思われる。なぜなら、やはり前章で触れたように、昭和期を代表する三木清が長江を、一般的なニーチェ理解にそぐわないヒューマニストとして規定し、長江の直弟子を称する作家の佐藤春夫も同様の意見を示しているからである。……こうなると、生田長江は「近代の超克」の先駆者とは言いにくくなってしまう。」

 

P33「つまり、「近代の超克」の基本的なトーンを規定しているのは確かにニーチェだが、それは長江によりヒューマニスティックに解釈されたニーチェではなく、「シェストフ=亀井」路線のニヒリスティックなニーチェなのである。

 それでは、同じニーチェを解釈するにしてもどうして二つの立場で大きく見解が異なるかが問題になる。ニヒリスティックなニーチェ解釈からすれば、彼らの言うニヒリズムを語る際にどうしても考えることが避けられない、ある思想的な立場が存在する。その立場こそが共産主義である。「シェストフ=亀井」における「近代の超克」には、共産主義からの転向において成立するという特徴がある。」

P37「なぜなら(※シェストフ・ブームが起こったのは)、『悲劇の哲学』が刊行される前年の一九三三年は、先述した小林多喜二の惨殺を受け、さらに共産党の最高指導者である佐野学・鍋山貞親の声明をきっかけに、多くの共産主義者が転向した年であり、共産主義にシンパシーを抱く多くの知識人の心情を代弁するものとして『悲劇の哲学』が受け止められたからである。このシェストフ・ブームを三木清は「シェストフ的不安」と呼び、当時の文壇において不安が大いに話題にされた。」

亀井勝一郎については、「人間の未来を幸福にすると約束した学説」が共産主義と同義だったとし(p38)、共産主義からの転向を正当化する論理をシェストフのニーチェ論から読み取ったとする(p39)。

 

P89「ここまでの三木の議論を見ると、先ほどの高山の議論と同様に三木が民族の問題に関心を寄せていることが分かる。ただし高山が『哲学的人間学』のなかで生命と労働の問題を論じた後に民族と文化の関連で考察するのに対し、三木の『哲学的人間学』では民族は文化との関連ではなく、身体と密接に関わるパトスとの関係で把握されているという違いがある。言い方を換えれば、高山において民族が人間精神の発展過程に媒介されているのに対し、三木の場合は「血と地の結合」というかたちで直接的に要請されているのである。」

※民族は民族として生得的であると見る点で、原始的な国民性論とも言えるか。

P102-103「それでは、特殊的世界史について鈴木はどう考えるのか。鈴木は「地球上には多くの世界史が並存し、それらがやがて「単」なる世界史に収斂せられきったところに、近代の驚くべき世界史的事件がある」と考えている。高山の考え方は世界史的ではなく、高山の前著を念頭に置いて「甚だ文化類型学的」だと批判する。鈴木は高山の考え方が世界史的ではないとする理由として「本来世界史はいくつかの特殊的世界において見出されるのではなく、一つの普遍的世界において見出されるのであるが、しかしかかる普遍的世界の圏外に立って孤立する民族も明らかに存在」することを挙げる。そうした民族は、高山の言う文化類型学的に見れば「卓れた文化をもち、一貫した歴史をもって」いても、世界史の見地に立てば「その歴史は世界史とは別のものと考えられねば」ならず、したがって「歴史には世界史的なる歴史と然らざる歴史が存立している」のであって、文化類型学的アプローチから世界史を捉えることは強く反対するのである。」

 

P107鈴木成高の発言から…「高山君の日本に近世が二つあるというのは大体に於て賛成だ、大体として。(中略)東洋には古代がある、その古代は非常に立派な古代である。しかし如何に古代が立派であっても、程度の高い古代であっても、それは近代ではないんだ。だから東洋には非常に立派な古代があって、高さにおいてヨーロッパと決して劣らない、寧ろそれ以上のものがあるんだが、しかし東洋は近代というものをもたない。ところが日本は近代をもった、そしてこの日本が近代をもったということが、東亜に新しい時代を喚び起す、それが非常に世界史的なことだ。」

P108高山岩男の発言から…「ドイツが勝ったということは、僕はドイツ民族のもつ道義的エネルギーが勝ったことだと思う……よく世界史は世界審判だ、といわれるが、それは何も世界史の外で神様が見ていてそれを審判する、というようなことではない。国民自体が自己自身を審判するということだと思う。国が亡びるということは、外からの侵略とか何とか外的原因に基くのではない。外患などというものは一つの機会因に過ぎない。国が亡びるのは実は国民の道義的エネルギーが枯渇したということに基くんだ。敵国外患なければ国亡ぶというのも、つまりはこの意味だと思う。国家滅亡の原因は決して外にない、内にある。」

※道徳的であると、強国であることが同義で語られる。「ここにいたって高山は、前述の鈴木とのやりとりで示唆した特殊的世界史から普遍的世界史に転換する際の経済・政治的要因の分析を怠り、世界史の転換をランケ流のモラリッシュ・エネルギーのみに求めるようになる。そしてモラリッシュ・エネルギーの強弱の観点から文化の優位性を論じるという、単純な見方に陥っているように見える。」(p108-109)

 

P109「このように見てゆけば、「世界史的立場と日本」の高山は、「世界史の理念」および「世界史の種々の理念――鈴木成高氏の批評に答ふ――」で提示した歴史的世界の多元性と特殊的世界の視点を放棄し、鈴木張りの西洋史的発想の世界史的構想に屈服し、中国侵略のイデオローグに転落したと結論せざるをえない。」

※このような言説になってしまっている事実自体が重要。

P113「こうした高山の議論の推移を見て考えられるのは、ヨーロッパ中心主義から脱却することの難しさである。たしかに近代とはヨーロッパにとって栄光であってもアジアにとっては悲惨であり、ヨーロッパを相対化することの営為が日本というアジアの国から提起されるのは自然の成り行きである。けれども、そのアジアの悲惨さを論じる場合でも悲惨にしたヨーロッパの枠組で議論を展開しなければならず、ヨーロッパを相対化する当初の目論見は挫折せざるを得ない。」

P118鈴木の「近代の超克」で論ずべきテーマとしたものから…「(六)歴史学としては、特に最も関係の深い問題として「進歩の理念」を超克することが問題となり、また歴史学固有の問題として歴史主義の超克が最も大きな根本問題とならねばならない。歴史主義の超克は即ち歴史学における近代の超克である。」

 

P131「けれどもこうした鈴木の遠大な歴史像は、近代以前の西洋に関心を持たない河上をはじめとする文学界グループによって顧みられず、議論は日本人は本当に西洋の近代を理解したのかという方向に進んで行く。この章の見出しに示した「真剣に近代というものを通って来たか」という捨て台詞を吐いたのも文学界に属する作家の林房雄であり、そこにいたるまでの議論をリードしたのも、文学界の同人である小林秀雄である。」

P141「同時に「伝統のない場所で生き生きと哲学を考えた」シェストフとドストエフスキーを重ね合わせれば、小林が前記の発言で「一流の人物は皆なその時代を超克しようとする」と言うことの真意も見えてくる。つまり小林は、通常言われるように近代の西洋思潮を学びそれを手本にすることで日本を近代化することは考えず、広い意味でヨーロッパと考えられるものの近代化という点では遅れたロシアを、同じく近代化から遅れた日本に似た存在と見、ロシア文学の成果ではなくその担い手の生き方を学ぼうとしている。それゆえ小林はロシアないしドストエフスキーの姿に西洋近代そのものを見届けず、むしろ西洋近代を格闘するうちに格闘の対象を凌駕すると考えたのである。したがってドストエフスキーという「一流の人物」が近代を「超克しようとする」という小林の言い方は適切ではない。近代を克服の対象と意識的に見定めそれを乗り越えたのではなく、格闘するうちに自分では知らないうちに乗り越えて「しまった」と言うべきである。小林自身は意識していないが、この事態はかつて生田長江が「さきへと通りぬけてしまったのであり、所謂超克したのである」と言ったのと同義である。

 したがって座談会の議論はいきおい、西洋近代に取って替わるオールタナティブを提示する方向ではなく、むしろなかなか分からない西洋近代をこれからも学ばなければならないという方向に向かって行く。」

※小林は「文学は社会の表現だとか、時代の表現だとかいう」ことに欠陥があるとし、一流の作家は「一般通念との戦いに勝った人」でありかつ「その勝った処を見ない」(p136)。とする。そしてその後「どういう時代の一流の人物はその時代を超克しようとする処に、生き甲斐を発見している」と述べる(p137)。注意すべきは小林は「どういう社会的な或は歴史的な条件がある文学を成立させたかということ如何に調べても、それは大文学者が勝って捨てた滓、形骸を調べるに過ぎず、勝った精神というものを捉えることはできない。」という(p137)点である。これはやはり大文学者自身が明確に意識していないから、という意味だろうか。菅原は「太平洋戦争を正当化するイデオローグとされる座談会「近代の超克」の事実上の結論は、皮肉にも近代主義的なものである。」とする(p143)。

 

P162「このように自由民権運動の明暗を冷静に把握する林の議論は、プロレタリア大衆芸術を規定する際に拠り所になった「遅れたもの」に進歩性を認める彼の複眼的視座に起因するものといってよい。」

※次の主張は林によるもの。「文学者にしても卑俗をにくみ、文学道のほか、なにものにも忠実でありたくないという信念をもって精進をつづけて行く人は、その作品の中に、一行の社会的政治的文句がなくとも、人の心を正しくひらくという点で、自称プロレタリア作家などに十倍する進歩的な役割を演ずる。」(p158)「遅れたもの」という表現が正しいかはよくわからない。

P165「もう一度復習すれば、幕府の開国政策は一見すると他国との交易を求める点で「進歩的」だが、幕藩体制を維持するための政策という点を強調すれば「保守的」であるのに対し、長州藩の排外主義は外国との交際を求めない点で「保守的」であるものの、既存の幕藩体制を打破するという点で「進歩的」である。……ここで林は、ただ海外の文物を輸入すれば事足れりとする平坂な「進歩主義」から一線を画し、見かけ上は排外的だが実は海外との交流を求めるという「保守主義」に媒介された「進歩主義」を長州藩にみていることが分かる。

※ここで「遅れている」とは、あくまで「近代=欧米的価値観の注入」という観点からの議論とわかる。そしていわゆる進歩的文化人批判のコンテクストと極めて似通る。

 

P167「こうしたいわば逆説的な近代のあり方を意識的に追求したのが、他ならぬ座談会「近代の超克」を復刻した中国文学者竹内好である。」

P171「こうした竹内は、今日の経済発展を知る目からすると、奇異に見えるくらい中国の近代における抵抗のあり方を理想的に規定し、これに比べて抵抗せずに易々と近代化を受け容れる日本文化の「優秀さ」を皮肉混じりに批判する。……取り敢えず林房雄との対比で考えれば、日本文化が「革命という歴史の断絶を経過しなかった」とする竹内の診断は林による明治維新における長州藩の「進歩性」の理解とはすれ違っているかに見える。というよりも、ヨーロッパ文化に対する抵抗からアジアにおける近代を捉え続ける竹内からすれば、そもそも西洋文化を易々と受け入れる日本の知識人は唾棄すべき存在としてしか見られないようにすら思われる。」

P173「これらの加藤の発言を総合すれば、日本の伝統は外国からの直輸入であるから、その延長上でフランス文学を直輸入せよと呼びかけるものだと要約できるだろう。これでは従来通りのヨーロッパ文化の猿まねの主張に他ならず、竹内の持論からすればまさしく日本らしい「優等生文化」にのっとったものだとして一蹴されかねない代物である。けれども竹内の眼からすれば、加藤は中国文化と同様に敗北の事実を直視するものと見、その点を高く評価している。」

※竹内は目標点について「日本文学の国民的解放」という目的は「自明」の一致をしているとみる(p173)。

 

P180加藤の意見から…「明治以後の日本についていえることは、必ずしも徳川時代の日本についてはいえない、と思う。鎖国の日本には、外来の思想を次から次へと受けいれてゆく条件がなかった。明治維新以後の日本に、西洋思想との対決がなかったとしても、明治維新そのものは、西洋との対決を通じて決断を迫られた結果であったろう。そのかぎりで、辛亥革命明治維新との竹内流の対照は、私を充分に納得しない。」

※ここで菅原は林房雄のいう「遅れたもの」に対する進歩性が竹内の議論に接近しているとみる(p180)。

P181「既に竹内が言っているように、「ドレイの主人」は近代的原理を性急に学ぶことで自分がドレイであることを忘れるがゆえに、自分がドレイであることを自覚しているドレイよりも一層ドレイ的である。そういう「ドレイの主人」であるヨーロッパと日本が戦い、また加藤の言うように日本の明治維新に一定の評価が下されるならば、ドレイであることを自覚しつつアジアの解放を謳う日本は、ドレイであることを忘れたヨーロッパよりも「革命的」だということになる。他方で中国に対して侵略的な日本は、中国よりも自分がドレイであることを自覚していない点で、中国に比して「保守的」となるだろう。

 この考え方は前章で取り上げた林房雄の『大東亜戦争肯定論』から換骨奪胎して解釈した日朝関係にも通じるものである。その議論を改めて繰り返せば、日本は朝鮮半島に侵略した点で「保守的」であるものの、朝鮮の抵抗の意識を目覚めさせた点で「進歩的」であり、これに対し日本の侵略に抵抗する朝鮮はナショナリズムを国民に注入する点で「保守的」であるが、抵抗をバネに近代化に向かう点で「進歩的」である。

 なるほど二〇世紀前半に限定すれば日本の大陸侵略の要素が際立ち中国と朝鮮の被害者であることが目立つのだが、二一世紀の世界情勢まで念頭に置けば、このように加藤周一の主張を媒介にして、林房雄竹内好も議論を総合することで得られる世界史の進行の理解は、一方的にどこかの国を「保守」か「進歩」かのレッテル貼りを行わない優れた弁証法的なものであり、また今までの議論の経緯を考慮すれば、座談会「世界史的立場と日本」と「近代の超克」の間に高山岩男鈴木成高で交わされた世界史の構想に取って代わるものとして位置づけられるのではないか。」

大塚久雄の「近代」観に関する試論 その2

 大塚のレビューについては続けないつもりでいたものの、せめて著作集の内容くらいは触れておこうと思い、著作集10巻以降の内容も踏まえ、改めて大塚久雄の「近代」観について考察を行ってみる。

 前回、深草論文において大塚の議論の転換を70年代に見出せるという内容を紹介したが、改めてその転換について着目しながら大塚の思想についてどのように捉えるべきか検討したい。

 

 まず、このような転換についての議論は深草論文に限らないという話からまず森政稔の指摘を引用しよう。この引用では、大塚に限らずヴェーバー論者全体の傾向として転換について次のように指摘している。

 

「それに対して、一九六〇年代から目立ってきた解釈は、ヴェーバーのなかに近代批判のモメントを見出そうとする点で特徴的である。たしかに『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の末尾での「精神なき専門人」となる「最後の人間」のニーチェからの引用はよく知られていた。しかし、従来このようなウェーバーの悲観は、近代市民が堕落した大衆に当てはまるものであり、ウェーバーのメッセージは近代の原点に戻ることにあるというように読まれた。すなわち近代自体の価値を問題化するには及ばなかったのである。

 ニューレフト時代のウェーバー研究が、「近代主義ウェーバー」像に替えたものは、現代の「意味喪失状況」と格闘するウェーバーの姿だった(折原1969)。当時「鉄の檻」などと呼ばれた官僚制の冷たい規律に耐える現代人の運命をもたらしたのは近代の精神であって、近代と現代とが対立しているというよりも、現代を生み出した近代の精神そのもののなかに問題と責任がある。カルヴィニズムは労働の意味を問うことを「禁欲」し、隣人愛を神への忠誠を競う容赦のない競争に変えたのであり、近代主義的解釈が評価するような内面性が尊重されたのではない。このような近代への疑いこそ、ウェーバー自身の研究動機を支える契機だったのだ、とニューレフト時代のウェーバー研究者たちは指摘した。そして、さらにウェーバー近代主義者というよりむしろ、近代の限界を先駆的に捉えた点で、ニーチェにつながる思想家だと解釈替えされることがこの後は多くなった(山之内1997)。」(森政稔「戦後「社会科学」の思想」2020、p198-199)

 

 ここで押さえるべきは転換というのが60年代あったというのと、その転換が「近代志向から近代への懐疑」への転換として語られているという点を押さえておきたい。私自身の見解を述べれば、後者については大塚における転換についても同じであると考える。一方、前者に関しては70年代(※1)に転換があったと考える。ヴェーバー研究者がそうであったように、大塚についても近代の捉え方、そしてヴェーバー解釈が変化したと考えている。

 

〇「精神のない専門人」「化石的機械化」といった言説の転換について

 このことを実証するにあたり、まずヴェーバーの言説の中でもよく語られる「精神のない専門人」「化石的機械化」といった、センセーショナルな言葉を大塚がどう捉えたか比較してみたい。これらの内容について触れた5つの論文の引用し、それらの内容を見比べてみたい。最初の論文ほど古い記述である。

 

 ① 「マックス・ヴェーバーにおける資本主義の「精神」」(1964-65、元論文は1943-46)

「このようにして「資本主義の精神」は、近代に独自な経済体制としての資本主義――産業資本主義――の機構の成立を力づよく促進した。しかし、それは、ヴェーバーによれば、そうした資本主義の機構の確立とともに消失していく。というのは、確立された鉄のごとき機構自体が、みずから、諸個人に禁欲的生活を強制するのであって、その維持のための禁欲的「倫理」の支柱などもはや必要としなくなったからである。そして、「職業義務」の思想は、かつての「資本主義の精神」の単なる残滓として、そうした外枠にはめこまれたわれわれの生活の中を、ただ経廻りあるいている。このように記したのち、ヴェーバーは、本稿でわれわれが問題とした論文を、次のような印象的な言葉でもって結ぶのである。「将来この外枠の中に住むものが誰であるのか、そして、この巨大な発展がおわるとき、まったく新しい預言者たちが現れるのか、あるいはかつての思想や理想の力強い復活がおこるのか、それとも――そのどちらでもないなら――一種異常な尊大さをもって粉飾された機械的化石化がおこるのか、それはまだ誰にもわからない。云々」と。ヴェーバーの叙述のうち、主要な筋はたしかにここで終わってしまう。しかし、ただ一言だけ筆者の感想を追加することを許されるならば、ヴェーバーがすでに六〇年前に予測していた資本主義の機械的化石化の状態を突きぬけて、思想家によって指し示された新しい道が現実の経済的利害状況のうちにみごとに定着するならば、そのばあいには、「資本主義の精神」のうちに含まれていた「生産倫理」がふたたび目を覚まし、新たな装いのもとに、歴史の進歩の方向に沿って、人々の上に強烈な作用をおよぼすことになるのではあるまいか。また、そうあるべきであろう。」(「大塚久雄著作集第八巻」1969,p99-100)

 ② 「フランクリンと「資本主義の精神」」(1956)

「それでは、ヴェーバーは現在における「資本主義の精神」の亜流的末裔たちをいったいどう見ているのか。批判は舌端火を吐くほど痛烈である。彼はいう。預言者がおこって新しい道を指し示すこともなく、しかもそこに一種の病的な自己陶酔をもって粉飾された化石的機械化がおこるとすれば、次の語が真となるだろう。――「精神のない専門人、心情のない享楽人。これら無のものは、かつて達せられたことのない人間性の段階にまですでに登りつめた、と自惚れるのだ」と。読者たちは、こんどは、このフランクリンならぬ、ヴェーバーの論理をどう考えられるだろうか。」(同上、p128) 

 ③ 「忘れえぬ断章」(1962)

「――「精神のない専門人」。それぞれ専門化された特殊な仕事に従事しつつ、しかも自分の仕事が人類にとって、全体の運命にとって、どのような意味をもつかを全く知らず、また知ろうとする内的な要求ももたない人々、また「心情のない享楽人」。感覚的な刺戟を慰安としてやたらに追い求めながら、それが真の楽しさとして彼らの内面に到達することがないような、そうした美しさ、楽しさへの内的な感受性をどこかに置き忘れた人々。こうした「人間」の内面はからっぽであり、端的にいえば「無」である。しかも彼らはみずから、その生活がおそろしく充実しているように錯覚し、人間として歴史上かつてみないほどの高みにまで到達したというような、尊大な自惚れにおちいるのだ、と。

 私はいつもこの一節を読むごとに、その激しさに慄然とし、その鋭さにむしろなにがしかの抵抗をさえ感じる。なぜというに、いまから六〇年もまえに記されたこの一節が、あまりにも如実に第二次世界大戦後の世相を表現しているように思われるのである。精神を失って独走しようとする科学、販売のためにはモラルの頽廃をさえ意に介さぬ経済戦略、消費ブーム、スピード狂、数字のロマンティシズムなど、要するに豊富の中の堕落!

 私は、ヴェーバーのこうした「預言」の中に、事後的にあまりにも多くのものを読みこみすぎているかも知れない。が、それはともかく、このごろ盛んに使われる大衆社会現象という語の意味するところをと、ヴェーバーの述べているところと、どこまで相覆い、またどこで食いちがうのか、その道の専門の方々に、ぜひ御教示を乞いたいと思う。」(同上、p131)

 ④ 「もう一つの貧しさについて」(1978、元講演は1973)

「その「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」の末尾に近いあたりで、ヴェーバーはこういう意味のことを述べております。――この「資本主義の精神」は近代の資本主義文化を作りだした。が、それが到りつくであろう究極のところでは、いったいどういう現象が現われてくることになるだろうか。もしも預言による歴史の大きな方向転換がなく、大規模な復古運動も見られないままで推移していくとしたらーーという留保をつけた上でのことですがーーそこに最後に現われてくるのはこういう人々だろう。すなわち、「精神のない専門人、心情のない享楽人」がそれで、この人々は自分の内面がまったくのNichts、からっぽでありながら、しかも、自分では人間精神の最高段階にまで登りつめたなどと自惚れるようになる……だとすれば、近代の資本主義文化が行きつく果てには、「心の貧しさ」が大量的に作り出され、人々のあいだに広がっていくことになるだろう、そういうふうに、七十年もまえの今世紀の初めに彼はすでに予言していたということになります。」(「大塚久雄著作集第十三巻」1986、p68)

 

「このようにして、ヴェーバーは、近代の資本主義文化の行きつくところ社会全体の経営化、あるいは管理社会化が現われてき、その結果として、民衆のあいだには「精神のない専門人、心情のない享楽人」、そうした内面的窮乏ともいうべき様相が社会的規模において広がってくるにちがいない、と考えた。」(同上、p71)

 

⑤「社会科学における人間」(1977,元講演は1976-1977)

ヴェーバーの言っていること(※精神のない専門人、心情のない享楽人)は、いまになって見れば、まだまだ抽象的であり、やや的外れなところもありそうな気がします。しかし、いくら偉い人でも、神ならぬ身が七〇年も後のことについて具体的な、しかも、正確なイメージを作り上げるというようなことは、もちろん不可能でしょう。だから、抽象的なのは止むを得ませんが、しかし、抽象的であるにせよ、こういう予告をすでに与えていたということはまことに驚くべきことです。というのは、わが国だけについて見てさえも、一九六〇年以後あの高度経済成長期の激しい動きのなかで、社会的規模における精神的貧困の蔓延がついに問題となってきているからです。」(「大塚久雄著作集第十二巻」1986、p130) 

 

 さて、これら引用をあえて分けるのであれば、①、②と③、④と⑤の3種類に分けるべきであると思う(※6)。

 最初の引用は一応60年代のものであるようだが、元論文は40年代のものであり、主張が過激、かつ「近代の人間的基礎」のような強い近代志向が存在していることが明らかである。大塚が敢えて付け加えた「機械的化石化」のあとの話については、当時の大塚にとっては適切な「資本主義の精神」を身につけていれば当然語ることに正統性があるとの確信のもと書かれているに違いない。重要なのは近代原理として析出した「資本主義の精神」というのは、機械的化石化などとは異なるエートスであり、それを克服する原理として提示されている点である。

 次に②と③であるが、若干の含みをもった言い方となっている。ヴェーバーは確かに預言者的に痛烈に現状を批判しているように思える。そして大塚はその判断を各々の読者・専門家に判断を仰ぎたいとする。しかし一方で大塚自身はこの預言に対し「その鋭さにむしろなにがしかの抵抗をさえ感じる」と意見している。これは①のような問題意識を60年代においてはまだ強く意識していたと感じていたと考えるのが自然である。現状批判と理想形としての資本主義の精神は別物だという前提にあるからである。

 最後に④と⑤である。これも一見すると②や③と同じような含みはある。しかしその含みはかつての「ヴェーバーの主張は、事実に反する『可能性』がありえる」というスタンスではなく、むしろそれは正しい預言であるものの、若干の不十分さとして語られているといえる。同時に強調されているのは、その当時の時代状況があまりにもヴェーバーの言っていることと一致していることについてである。これが前回も指摘した「資本主義の精神」と連続した形で現在が語られる、一元的近代観と容易に結びついた大塚の言説につながっているといえる。そして、このヴェーバー言説に対抗することがあたりまえであった40年代の大塚の姿は見当たらないと読める。

 

〇70年代の「禁欲」、ないし「合理主義」の否定について

 もう一点、大塚の言説で注目せねばならないのは「禁欲」及び「合理主義」に対する価値観についての変化である。前回も指摘したように、「資本主義の精神」を大塚が擁護することの本質はその「禁欲」という性質にあり、なおかつそれは否定の否定としてなされる「止揚」によって発揮させられるべきであることを、40年代にはあからさまに強調していた。これも60年代まではやはり同じ認識を持ち、「禁欲」であることについての重要性を説いていた。

 

「ところで、戦後はどうか。いわゆり百八十度の転換によって俄かに神聖視されはじめた「自由」の思想は、伝統主義的な旧体制の束縛から民衆を解放したという一面の正しさにもかかわらず、このばあい、あたかもルネサンス思想と同じように、伝統主義的束縛とともに禁欲一般を断罪し、湯水とともに赤子を流しきった嫌いがないではない。私は終戦直後このことを強く感じていたのだが、その感じはいまでは強まるばかりである。そこへいわゆる経済の高度成長とともに、レジャーとか、バカンスとかのよび声に支えられて、シニカルで反禁欲的な享楽的消費の高揚が出現した。ただ、保守の側では伝統主義への郷愁に支えられてある種の禁欲を復興しようとする動きがみられなくはないし、また新興宗教のなかにも別種の、これはかなり強烈な禁欲運動の前進がみられるほかは、保守の側でも、革新の側でも、右でも、左でも、いまや禁欲はいたるところ、いちじるしく姿をひそめるにいたったという感じが強い。こうした現状は、おそらく大衆社会現象とひろくよばれているものなのであろう。

 さて、私はおそれるのだが、こうした人間的状況のもとで、もしある種の反時代的な非合理的な社会的内実を目ざす禁欲運動――日本では宗教的外装を伴ってくる可能性がある――が出現したとするならば、ばあいによっては、それは、無人の野をゆく勢で伸びひろがる可能性もあることは明らかだ、といわねばならない。そこで、こうした動きに対して対応する態度をとろうとするのならば、そしてまた、現在のこうした人間的状況が自由を禁欲一般と抽象的に対立させた思想動向の帰結だとするならば、いまや自由をふたたび禁欲にむすびつけるような思想的立場こそ、今日もっとも緊要なものといえるのではあるまいか。」(「著作集第八巻」1969、p577、論文は1963年のもの)

 

 70年代に入っても「資本主義の精神」の重要性については、伝統主義との対比において、その「合理性」を評価し続けている。

 

「ところで、このような伝統主義とちがって、イギリスやアメリカ合衆国で労働者たちの行動様式を内面から支え、歴史上合理的経営の一般的成立を促すという作用方向をもったエートスを、ヴェーバーはひとまず「合理主義」とよびます。合理主義のばあいには、顔を将来に向けて行動の基準を探し求める。顔は伝統主義のように過去の方を向いてはいない。いつでも将来になんらかの理想をもち、その理想に照らして行動の目標を設定する。そして、それを達成するためには何をなすべきか、というふうに考える。そのために良ければ伝統的なものでも採用するでしょうし、そのために良くなければそうした伝統的なものはどしどし捨てさるでしょう。こういうのが、簡単にいってしまえば、合理的なエートスで、ヴェーバーの表現をかりると、思考の集中能力と冷静な克己心、労働を義務とするひたむきな態度、しかもしばしばそれと結びついて、賃金の額を勘定する経済的合理主義という姿をとって現われている、ということになるわけです。」(「著作集第十一巻」p299、論文は1972年のもの)

 

 また、同時に「低開発国」に限った話をしているものの、現在においても「資本主義の精神」の重要性があることについて、1972年の段階ではまだ強調されていた。

 

「が、とにかく、低開発国問題を考える場合にヴェーバーのこの論文が重要な示唆をあたえるという考え方に私が大賛成であり、またアイゼンシュタット教授の見解を高く評価する、そうしたことの意味もお分かりいただけたかと思います。同時にまた、ヴェーバー論文をいっそう正確に理解するための努力はまだまだ続けられねばならぬ、と私が考えることの意味もお分かりいただけたかと思います。「資本主義の精神」の持主は企業家ないし資本家だけだとか、「資本主義の精神」は営利慾ないしは「最大限の利潤を追求しようとする志向」だとか、ヴェーバーがそんなふうに考えていたというような誤解をきっぱり捨ててしまわないかぎり、低開発国問題にとってヴェーバー論文は真に有用なものとはなりえないのではないか。」(「著作集十二巻」p205、論文は1972年のもの)

 

 しかし、このような態度は70年代に入り大塚の主張には積極的に見いだせなくなってくる。次の論文は1972年に国際基督教大学のチァペルアワーにおける講演をもとにしたもので、「科学」という言葉の説明に注目する。「科学」という言葉自体がかつての大塚の言説とはあまり関連性を見いだせない言葉であることにも注目したいが、やはり重要なのは「科学」の語られ方である。

 

「それでは、科学はどうして最近にいたってそうしたマイナスの面をつぎつぎに露呈することになってきたのでしょうか。考えてみると、その由って来るところはやはり科学の営み自体の根本的な性質のなかにひそんでいるように思われます。」(「著作集第十三巻」1986、p52、元論文は1979年で1972年の講演を書き改めたもの)

 

 さて、ここでいう科学の営みの根本的な性質とは何か。これを大塚はやはりヴェーバーの「資本主義の精神」とほとんど同じ論法で語る。

 

「それでは、歴史上こうした「世界の呪術からの解放」の過程を推しすすめていった原動力は、いったい、どこから来たのでしょうか。科学そのものの中から来たのでしょうか。もう少し言いかえてみますと、科学者を内面から支えているそうした根本的な態度(エートス)は、そもそもはじめから科学の営みそのものの中にはらまれていたものなのでしょうか。もし、そのように楽観的に考えることができるとしますと、この幾年かこのかた喧しく論じられてきている「科学の倫理」――その中にはもちろん社会科学のばあいも含めるべきだと私は思いますーーといったことは何の意味をもち、また、何の必要があってそうしたことを改めて論じなければならないのでしょうか。」(同上、p49-50)

 

 確かに、ここではそのエートスの問題を「資本主義の精神」という言葉を用いて大塚は語っていない。しかし、「近代の人間的基礎」においては「世界の呪術からの解放」が強調された形で民主主義的原理として「資本主義の精神」と同じエートスを取り出し、生産性の議論とも重ねながら議論していたことを考えると、この「科学」の言説も全く同じように語られているようにしか私には思えないのである。

 そして、更に注目したのは、先述した合理主義の議論に関連して、「形式合理性」の議論を強調して語っている点である。

 

「ところで、そういう文化状況(※精神的に一面の沙漠と化してしまった、バベルの塔の混乱のような文化状況)から科学は人々を救い出すことができるでしょうか。もう諸君もある程度気づいてきているように、まあ不可能というほかはないと思います。その理由としては、さしあたって、こういうことがあります。科学――もちろん社会科学を含めて――は、正確には、経験科学と言われるように、その関心の対象を現世内のことがらだけに限ります。宗教が関心を示す彼岸のことがらなどには目もくれないでしょう。そのうえ、すでに話したように、こういう根本的な性質があります。科学は形式合理的な思考によって対象をつかもうとする。つまり、対象の帯びているさまざまな価値や意味にはまったく興味を示さず、むしろそれを惜しげもなく切り捨て、あるいは括弧に入れた上で、そうしたいわばまる裸かにされた対象を数理的にとらえようとします。」(同上、p54-55)

 

 ここでは、「形式合理的」という言葉を用いて、現状の問題を語っているが、そこで語られる近代観は極めて一元的である。先述した1972年の論文(「著作集第十一巻」p299の引用)では、未だ「合理主義」というざっくりした分類の中にとどまっていた表現であったものと考えられる。言い換えれば、「合理主義」という言葉については、かつては大塚にとって肯定的価値観の典型であったものであった訳だが、これを「形式合理性」の議論として整理し直し、否定的価値観の強い論調で批判を加えているのである(※2)。これは控えめに言っても「後だしジャンケン」の状況であり、なぜそれまで大塚がこの議論を展開しなかったのか、ということは強く問われなければならないだろう。

 また、合わせて注目すべきは、この時期の大塚の言説で時折みかけるこの「バベルの塔」という言葉で、この言葉は「「甘え」と社会科学」(1976)でも登場した「合法性のぐるぐる回り」という表現と同じ意味であると考えて問題ないだろう。大塚にとってそれは「不可能なもの」である以上に、「不毛なもの」のメタファーという意味合いが強い。繰り返すが、かつての大塚はこのようなものを決して「不毛なもの」と考えてはいなかった。「資本主義の精神」というのは、そのような「不毛なもの」さえも転換させうるようなエートスであり、その意義を強調していたのであった。

 

〇なぜ大塚は「資本主義の精神」を捨てたのか?

 さて、この大塚の議論の転換の理由についてはやはり検討しなければならないだろう。いくつか仮説を挙げてみたい。

 

仮説1:「禁欲」の言説が支配の原理に絡めとられてしまうから

 特に大塚が強調していた「禁欲」原理については、すでに戦中の事例で明らかなように、容易に支配の原理に(為政者にとって都合のいい内容として)絡めとられかねないものである。大塚がこのことを強く自覚し、自らの主張をひっこめた可能性はありえるが、これは少なくとも主たる理由とは言えない。大塚の議論の転換は70年代に入ってからのものだが、このような意識は以前から大塚が持っていたものと考えられるからである。先に引用した1963年の論考では、「保守の側では伝統主義への郷愁に支えられてある種の禁欲を復興しようとする動きがみられなくはないし、また新興宗教のなかにも別種の、これはかなり強烈な禁欲運動の前進がみられる」と語っていたように(「著作集第八巻」p577)、恣意的にこの「禁欲」原理が語られることに対してはかつてから問題視していたのである。

 

仮説2:「生産性の向上」という原理そのものへの疑問

 大塚における「資本主義の精神」において顕著であったのは「生産性」との結びつきであった。つまり、それが営利慾に留まらず合理的な生産性の向上に寄与するエートスであったことが欧米の資本主義発展にとって決定的であったという歴史観を大塚は持っており、その高い生産性の達成のため、このエートスの獲得を日本人にも要求したのであった。

 しかし、70年代になって近代固有の問題としてさかんに語られるようになった環境問題、南北問題といったものはこの「生産性」原理に真っ向から対立するのではないのか、という議論が、少なくとも俗流の近代批判にはあったと言ってよい。大塚もそのような態度をとっていたとしても不思議ではない、という見方をした場合に出てくる仮説である。

 ただ、この批判自体が「形式合理的」になった近代の帰結であって、それは近代の必然的帰結ではなく、「資本主義の精神」に立ち返るという選択肢も決してない訳ではないように思える。特にこの「資本主義の精神」は隣人愛(もっとも、これは戦中の滅私的な思想の延長上にあるものにすぎないという風にも読むことができるのだが)に根ざしたものであることを70年代後半の大塚は強調しており、そのような態度から、平等な生産性の向上、富の分配といったものも「合理的選択」として提示できたのではないのかと思う。特に大塚の場合、環境問題に対する言及をほとんど見かけず、南北問題への言及が中心であるため、なおのことその可能性には開かれているのではないかとも思う(※7)。

 しかし、実際の大塚の選択肢は「合理性の徹底」ではなく、「宗教への回帰」であった。これはすでに「「甘え」と社会科学」でも漠然とした内容で語られていたが、別の論考では次のように宗教性の必要について強調される。

「しかし、こうした非合理主義は、さきに言ったレジャーのばあいと同じように、一時の麻酔的な気ばらしのほかは、結局無効果に終わるのではないかと思います。いや、それどころか、長い歴史的道程のなかで科学が確実なものにしてきた「世界の呪術からの解放」の巨大な成果を、逆に掘り崩していくということになるでしょう。現代文化のバベル的混乱を救うといった仕事は、われわれはどうしても、それを宗教らしい宗教に期待するより他はない。私はそう考えます。ただしそれは、そうした宗教が自己のいままでの足跡を十分に反省する、といったことを前提しておりますけれども。」(「著作集第十三巻」、p57)

「究極の価値から切りはなされ、意味を喪失してしまったこの世界の諸現象に再び豊かな意味をあて、現代文化のバベルの塔のような混乱から人々を救いだす、そうした大事業のために、キリスト教はいま、近代科学の力の限界をのりこえて、乗り出すべき時が来ているのではないでしょうか。キリスト教はその実績からみて、十分にその底力をもっていると信じるからです。ただ、キリスト教以外の諸宗教についてはいまはその点に関して何事も申さないことにしておきます。というのは、そういう諸宗教の信仰に主体的に参入するような体験を私はまったくもっていないからです。が、しかし、お互いに敬意をもって同じ目的のために協力すべきであろうと思っております。」(同上、p57) 

 

仮説3:「止揚」の存在そのものの否定

 もっとも上記の議論に合わせて押さえておかねばならないのは、大塚が期待する「宗教性」においても、ほとんどそれが極めて困難、ないし先述の引用の通り「不可能」なこととして捉えられていることである。このような態度も大塚自身の考え方の中では重大な変更であるといえる。かつての大塚は戦中に顕著であったように、「止揚」にこそ価値を見出していた。それは「資本主義の精神」を支える「禁欲」というエートスの中に当然のごとく含まれていないといけない価値観であった。しかし、このような止揚の発想というもの自体が「不可能」なものであることと同義であると70年代に入り大塚が「正しく(私にとっては、という留保を一応つけておくが)」認識した可能性は大いにありえると思う。思うに止揚の発想はマルクス主義的な論者においても基本的態度の一つとして共通した認識があったわけであるが、70年代はこの「止揚」の発想を解体させるような認識が一般的な意味でなされていった時期であると思う。大塚もこの例外に漏れずその認識を行い、「止揚」の発想に支えられていた「資本主義の精神」の重要性を語らなくなったという可能性が極めて高いと私には思えるのである。

 

〇大塚の近代観は本当に「一元的」なのか?

 この試論の最後に、この問いにはある程度答えておかねばならないだろう。70年代後半の大塚の近代観は極めて一元的であり、「資本主義の精神」のエートスに支えられた多様な近代の発展の可能性すら否定してしまうものであったということをこれまで確認してきた。ただし、大塚自身が決して一元的であることを認めていたわけではなく、大塚の言説自体がそのようにしか読めなくなった、という意味合いにおいてそのように私がみなしてきたものであった。

 このような「一元化」の理由は、明らかに多元性を確保する理由付けとなっていたはずの「資本主義の精神」の重要性を大塚自身が捨ててしまったことに起因することが大きいのは確かであるが、だからといって「一元化」の可能性に閉ざされる筋合いは私はないと考える。そもそも大塚の議論においてこれが一元化してしまったのは、近代の帰結というのが一元的にしか、つまり「精神のない専門人」の世界、ないし「世界の意味喪失」(著作集第十三巻、p26)が不可避的であるとしか強調しなかったことに由来するが、そもそも「当時の先進国社会が文化的に(無という意味で)同一的であったのか」という問いを改めて考えれば、NOと呼びうるエビデンスは山のようにある。その典型は私が過去に検討した70年代後半の日本における「競争と選抜」の言説において、その日本的経営論の中であまりにも豊富に語られていた「日本的文化」に根ざした議論の中に見出すことができる。結局大塚は私の言い方であれば「社会問題に毒された」論者の一人に過ぎず、実態を冷静に捉えることに欠けていた、という批判は十分に成立するように思う。特に、彼の主張が「文化の『無』」にあったこと、そして合理性の徹底化を非難する態度にあった点に対しては、そもそも当時の諸先進国で本当にそこまで徹底していた、という疑問として提起できるだろう(※3)。結局、大塚はヴェーバーの議論を借り、イギリスやアメリカにおける「資本主義の精神」に支えられた議論を逆さにして、当然のごとくその発想(エートスそのものではなく、合理的な態度)がヨーロッパ先進国、ないし日本にも波及したものと考えたが、その波及の度合いというのは、全く大塚の中で検討されているものではなく、むしろ教条主義的な立場からこれを示しているにすぎないのである(※4)。

 

 確かに大塚は表向きには多元的な発展の可能性は当然ありうるものと考えていたはずである。しかし、そのような近代の可能性についての議論については棚に上げてしまい、ある意味でヴェーバー研究者としての態度に固執してしまったことで、ヴェーバーからしか「近代」をみることができなかったから、多元的な近代の実態を擁護する立場、ないしは語れる立場になかった、というのは、最上級の大塚の擁護理由となるだろう。しかし、そのような立場にしかいられないのであれば、研究者として立場を弁える態度をもってよかったのではなかろうか。大塚自身の影響力を考えれば、そう言わざるを得ないように思う。例えば、「著作集十三巻」で「形式合理性の強調」「宗教への期待」という語りがなされたのは、チャペルアワーでの講演という、半ば宗教的な意味でも私的領域と呼びうる場における大塚の語りをその場のもので終わらせるのであればまだよかったのかもしれない。しかし大塚は自らの著作集の中に堂々とそれを提示し後世に問う態度を表明した時点で、これについても擁護できない。そのような態度はこれに限らず、40年代言説の反復を60年代にも繰り返すことによる大塚の議論の全体的な混乱(「人間の近代的基礎」であった「近代の啓蒙」と、60年代の「近代の啓蒙」の否定という自己矛盾)にも言えるものである(※5)。

 

 

※1 もし厳密な意味での区別を行うのであれば、管見の限りでは1972年において転換していたと考えられる。今回引用した文献において、1972年については、転換前後の言説が混在しているが、それ以前、以後についてはそのような混在が確認できなかった。

 

※2 別の論文では、次のように形式合理性の批判を行っている。もっともここで語られる解決策についても、かつての「資本主義の精神」との議論とは結びつけて議論している訳ではない。

「近代合理主義を批判する人々が問題としているのは、実は、この独走する、「鉄の檻」と化した形式合理性の文化、そうした姿における合理主義に他ならない。さきにも言ったことだが、それに対して抽象的に非合理主義一般を対立させ、ただ拒否的な態度に終始するだけではとうてい根本的な批判とはなりえないだろう。そうではなくて、新しい、別種の実質合理性の原理――それは形式合理性の立場からすれば非合理性の原理と見えるだろうーーを対立させ、それによって、形式合理性文化の根底的な非合理性を白日の下に曝すことこそが必要なのではなかろうか。」(「著作集第十二巻」p414、論文は1976年のもの)

 

※3 ただし、このような視点が70年代に蔓延していた点について軽視されるべき論点ではない。日本人論的なコンテクストで言えば、70年代という時期に限れば、普遍的な文化の否定性と特殊日本的な状況が並行的に語られる時代であったし、土居健郎のような態度はそれらを矛盾しながらもミックスしたものであったからである。このような並行的議論の意味合いについては更に深く考察されねばならないだろうし、今後もレビューとして進めていきたい。

                            

※4 もっとも、大塚自身はほぼ間違いなく「私は資本主義の精神の重要性を捨てた訳ではない。それはやはり歴史的な意味で重要なものであったし、今なおその重要性は消えない」と反論したことだろう。ヴェーバーが語った「資本主義の精神」の重要性は、それが正しいものと証明したい一心からそのような態度をとる、という訳ではないだろうが、ある意味で70年代における大塚の言説は決して一元的価値観によるものとは言い難い。それは「宗教による救い」に求める態度においてもそれが「キリスト教」以外によってなされることを否定するものではないことなどからそう言えるだろう。

 しかし、問題なのは大塚このような用語をする際に想定される「絶対性」(「資本主義の精神」は重要であるという問題)の議論ではなく、「相対性」(「資本主義の精神」は現在においてどのような影響を与えているか)の観点からの議論なのである。大塚は「資本主義の精神」の価値の擁護をする以上に、確固とした歴史観をもって現在の社会(先進国全般)に批判を加える中で、多元的発展観の関する可能性を一元的なものとして還元(=相対的なものとして無意味化)してしまっていることが問題なのである。

 

※5 だめ押しでもう一点この大塚がとった相対的な「単一的発展観」に関する問題を挙げておこう。前回も大塚は所々で自身の主張を擁護し、自らの主張は欧米に見られる「単一的発展観」の押し付けではないことを強調してきた。しかしこの70年代に入ってからの態度変更というのは、この「単一的発展観」の押し付けを行っているという批判をかえって強化する結果になってしまったと見るべきである。引用についても反復の意味も込めて取り上げておこう。

 

「ところが、それを批判するさいの価値基準を多くの人々は、われわれが近代のヨーロッパ、たとえばイギリス、フランス、そしてアメリカ合衆国なんかの近代社会の状態を典型と考え、そして日本の中にあるそういうものと違った点を洗いざらしにし、それを取り出してきて断罪した、ヨーロッパ文化を典型と考えて日本文化を批判した、というふうに取ったわけです。そんなことを言っているのではなかったのですが、そう取られました。もう少し具体的に申しますと、そうした批判はマルクス主義の歴史家、あるいは思想家の側からでてきたのでした。……それに対して、私なんかはこう考えていたのです。たしかに資本主義経済は発達しており、ある意味で近代と言わねばならない面も含んでいる。そういう面が確かに明治以後の日本文化の中にあるにしても、日本文化全体をとってみると、はたして第二次大戦終了直後のまだ農地改革の行なわれていないころ、それはまるごと近代化していたと言えるかどうか。あるいは、資本主義経済は発達していても、近代社会といいますか、このごろよく使われる語ですと、市民社会という面からみますと、私にはどうしても日本文化、日本の社会は、ヨーロッパのような意味での資本主義文化、あるいは市民社会になっていたとはとうてい考えられなかった。……ともかく、われわれにはこれからなすべき事柄がまだ多く残っている。それをわれわれは課題としての近代化と考えたわけです。」(「著作集第十一巻」1986、p111、論文は1968年のもの)

 ここで大塚批判の論者はヨーロッパ(正しくはイギリス・アメリカ)の近代が理想と考え、日本文化を批判したと考えたとある。これ自体は「近代の人間的基礎」を見れば明らかに正しいものであることを前回確認した。もっとも、これに若干の擁護を行いうるのが、「資本主義の精神」というエートスの必要性を強調をあくまで大塚は行ったのであって、欧米文化そのものを模倣せよとした訳ではないから、そこから発生する近代化の型というのは多様でありうることを許容していたということこそ本旨だ、という主張もまた正しい。結局ここで論点がズレる可能性は2つある。一つは①日本文化の批判を行ったかどうか、もう一つは②欧米化を大塚は強要したかどうか、である。①については大塚が「近代の人間的基礎」において批判を行っていたと解釈するしかない。しかし、②については、その強要の性質については争う余地があるということであった。

 ところが、70年代の大塚の主張は②の主張さえその争いを無に帰してしまうのである。「資本主義の精神」を捨てた大塚は単一的発展観を前提にして現状を批判してしまった。本来であればこの批判にこそ多様性を与えなければならなかったにも関わらず、大塚はそれを資本主義社会における先進国の共通の問題の帰結とみなしてしまったのである。ここに更に大塚の議論を混乱させる要素が生まれてしまったのであった。

 

(2021年3月10日追記)

※6 もう一箇所、「精神のない専門人」に関する引用を行った論文が著作集にあったので紹介したい。「大塚久雄著作集 第九巻」(1969)所収の「現代における社会科学の展望」(1967)の内容である。プロ倫の該当部分を引用の上、次のように続ける。

 

「いうまでもなく、これは一九〇四、五年頃、つまり資本主義の精神の生き生きとした息吹の残存が、なおあちこちに強く感じられていたときに記された言葉です。こうしたヴェーバーの言葉は現在いうところの大衆社会現象をすでに半世紀もまえに予見していたと言えないこともありますまい。が、それはともかくとして、私がここで問題にしたいのは、こういうことなのです。——近代の資本主義文化のつくりあげた「専門化」の傾向は、それが極まるところ、ついに精神の抜けおちた「専門人」を生みだしていることになる。……もちろん、そこには、預言者が現われてきて世界史に大きな方向転換の道を指し示すことがなければ、という限定がついていますけれども、ともかく、ここでは、ヴェーバーは「専門人」と「専門化」の将来に対して、暗い疑惑を投げかけて、その限界を歴史的に画し切ろうとしているのです。そうした厳しい姿勢がうかがわれるわけです。」(「大塚久雄著作集 第九巻」1969、p181)

 

 この引用について大塚は「専門としての職業人」における専門性の議論と対照的であると指摘し、専門人に対する明るい見通しと暗い見通しの格差の議論を考察する。これがほとんどこの論文の中心となる。そこで大塚はこの「専門性」について、「理論的専門化」と「実践的専門化」という言葉を区別し、この「精神のない専門人」の議論は「実践的専門化」のなれのはてだとする(同上、p187)。「実践的専門化」とは一言でいえば「生活の現実のなかで人々に解決を迫ってくるようなある具体的な問題をとり上」げ、「それをいかに解決するかという課題を設定」するものである(同上、p184)。一方、「理論的専門化」とは「文化的諸領域のそれぞれに成立する独自な法則を純粋に理論的につかまえて、その独自な法則をそれぞれについて一般的な形に定式化していこうとする営みがある」とする(同上、p184)。その上で、このプロ倫の引用について次のように整理する。

 

「経済学のばあいなら、経済のことがら自体にはなんらの顧慮もあたえないで、ただ、すでにできあがっている理論体系をもってき、それを理論的にまちがいないものへと整理していくというような、よくない意味での神学みたいな仕事だけをやっていましたら、社会科学はいっこうに進歩しないだろう。それどころか、そういうことばかりやっていると、そもそもことがらそれ自体をよく知らないために、いつしか、すべての現象が理論から演繹されて出てくるかのように思い誤る、そういう倒錯した学問になってしまうだろう。ヴェーバーふうにいえば、まさしく精神のない専門人ですね。そういうのではなくて、ある具体的な課題を現実のなかからとりだして、問題を設定し、それを解決しようという角度から学問的にアプロウチする。そういう実践的専門家の方向に立っている研究と、直接あるいは間接に関連を保ちながら、そこから生じてくる必要をいわば牽引力として、理論的研究の方向に専門化していく。理論研究は、まさしく、こうしたやり方によってのみ進歩してきた、これが現在までの歴史的事実だ、とヴェーバーは主張いているのです。そう言ってよいだろうと思います。(同上、p190)

 

 ここでの大塚の「精神のない専門人」の言説は統一感がないように見える。P187の部分においては、どちらかといえば「目先の問題にだけこだわる」者についてこの言葉を用い、p190の部分においては、「理論が万能である」ことを奢る者に対してこの言葉を用いている。実際、大塚は「二つの専門化がたがいに離ればなれになって、「精神のない」ものと化するような可能性を見てとったときに、「専門化」の将来に暗い見通しをもったのだ」と結論付けている(同上、p190)。

 70年代の大塚の言説と比較した場合に、ここで何よりも重要なのは、大塚はかの「資本主義の精神」のエートスの議論の重要性を失っていない、言い換えれば「生産性」原理を否定していないという点である。むしろ、このような注釈を細かく加えることで「近代」原理としての専門性について必死に擁護する態度が60年代までの大塚にははっきり見てとれる。ところが、70年代にはこのような擁護はほとんど影を潜め、むしろヴェーバーの言う通り「預言者の到来」の方に期待するかのような大塚の態度の方が前面に出てくるのである。

 

(2021年3月12日追記)

※7 実際、1948年の論文「宗教改革と近代社会」において大塚は次のように禁欲的プロテスタンティズムの性質を説明する。

 

「第二に、「良心」的人間類型の創造は、さきに指摘した「魔術からの解放」によって、民衆に、人間的な権威や伝統をいささかも恐れることなく批判的でありうる「合理性」を賦与した。そして、それは民衆のうちに、一方において近代的徳性の女王である「公平」の精神を生みおとすとともに、他方において合理的な思惟能力を、科学精神の温床を深くも培ったのである。……ただ禁欲的プロテスタンティズムは、右のように勤労民衆のうちに合理的思惟能力を造り出すことによって、科学を民衆のための民衆のもの、したがって社会全体の共有財産にまで高め、その結果として近代におけるあの顕著な科学の進展のための精神的推進力ともなったのである。」(「大塚久雄著作集 第八巻」1969,p417)

 

 ここには、生産力の向上というものについて、一部の人間に独占させるのではなく、広く大衆に広めることもまた、禁欲的プロテスタンティズムエートスであったことが示される。なぜこのような原理が南北問題の解決策の可能性として大塚は暗に否定してしまったのだろうか。大塚の弁明からは宗教的価値観があまりにも多様であり、このような「合理性」を与えるエートスが介在する余地が残っていないという読み方も不可能ではない。しかし、そのような解釈が正しいのかという疑問符も与えられるべきではななかろうか。何より大塚の態度は「南」だけでなく、「北」の問題に対してもこの原理を適用することを放棄したのであるから。

「主体動員論批判」について―中野敏男「大塚久雄と丸山真男」再訪

 前回、中野敏男に触れた。中野の著書は私のこの読書記録帳の1冊目のレビューで、当時課題についても提示していたこともあったので、このタイミングで私の回答を行っておきたいと思う。

 

 中野の著書は、「ボランティア動員論」に対する批判を、その背景にある戦後民主主義思想との関連性について触れながら行っていた。大塚久雄が「近代の人間的基礎」で行っていた「資本主義への精神」の模倣の強要、更には戦中における「責任」の強調というのは、端的にいって主体(我々個々の日本人)への「啓蒙」に他ならない。その「啓蒙」を行う大塚は一つの「主体」を形成するための言説をヴェーバーの議論に見出し、それを繰り返し主張した。これは大塚に限らず、市民社会論者一般に言える話(私がレビューした松下圭一も)であり、それは確かに「ボランティア動員論」にも結び付いているのかもしれない。

 

「ここに至って、「ボランティア」と「人間の主体性」の限定なき価値評価は、歴史的な欺瞞と罪過に転化する。さらに重要なことは、その同一の自発性の思想が、特に反省されることなく戦後に引き継がれて「近代的人間類型の創出」という主張に再生し、戦後啓蒙をリードする市民社会派の思想的な中核を形成したということである。だから、本当に幾重にも重ねて問題を残し反省しなければならないのは、むしろ戦後の方なのだ。さればこそ、ボランティア活動の高まりに市民社会の可能性を再発見する今日の主張にも、そのような系譜に連なる思想がなお残留しているのではないかと、わたしは疑っているし、またもしそれが当たっているなら問題は重大だと思うのである。大塚久雄から平田清明を経て理論的系譜がつながっている今日の市民社会論者に、そのような反省はあるのだろうか。」(中野1999=2014、p261-262)

 

 しかし、他方で中野はボランティア動員論そのものが問題であるという認識でおり、その点について9年前の私は疑問符を付けた。次のような主張は「ボランティアが大事である」というすべての言説(主張)について否定的な態度をとっているという風に読まざるをえないだろう。

 

「以上のように見てくると、「ボランティアという生き方」の推奨が、現状とは別様なあり方を求めて行動しようとする諸個人を捉えて、その行動を現状の社会システムに適合的なように水路づける方策として、あまりにぴったりであることに驚かされよう。

 何よりも重要なことは、ボランティア活動においては、諸個人は、まず「何かをしたい」とだけ意志する「主体=自発性」として承認されることだ。これにより、現状において別様でもありうると「自由の可能性」を知覚しつつあった個人は、現状を離れて抽象的に意志する「ボランティア主体」になるのである。おそらく、ここが決定的な岐路なのだ。というのも、「個人化のポテンシャル」の中で「自由の可能性」と認められうるのは、現状の中にある権力関係の交錯そのものが、諸個人に「別様でもありうる」という可能性を知覚させ、現状への反省を促すという意味で、自省的―再帰的な〈選択の自由〉の可能性であったはずである。それなのにここに成立しているのは、自省性―再帰性ではなく、抽象的に「何かをしたい」と意志する単なる「主体=自発性」にすぎないからである。

 そこで、この抽象的にすぎぬ主体=自発性には、選択されるべき「内容」があとから与えられることになる。かくてこうなる。このボランティア活動の内容があなたの「意志」であるのは、抽象的な主体=自発性であったあなたが、与えられた内容を「折良く出会ったもの」として選択し、それをあなたのものとして「意志」したからである。……

  要するに、「ボランティアという生き方」の称揚とは、このように抽象的な「ボランティア主体」への動員のことであり、この主体=自発性は、抽象的であるがゆえにかえって、「公益性」をリードする支配的な言説状況にどうしても親和的にならざるをえない仕掛けになっているのであった。」(同上、p280-281)

 

 ここでのポイントは、最後の「「公益性」をリードする支配的な言説状況にどうしても親和的にならざるをえない」という部分が問題なのか、という点である。

 先に中野の結論を紹介しておくならば、結局中野は「肯定的」な言説、つまり「この行為はこういう点がよいから、そのように行為すべきである」とする全ての言説というのは「主体」形成に関する議論として適切ではなく、それは常に「主体」の「分裂=脱構築」をしなければならないものだとする。

 

「「主体が問われる」というのは、実はそういうことなのだ。すなわちここでは、「自己同一的な主体」として/となって責任を負うというのではなく、むしろ、責任を果すプロセスにおいて自らの「主体」に内在する暴力の痕跡を解体するということ、言い換えると、主体の確立がではなく主体の分裂=脱構築が問われているということなのである。」(同上、p294)

 

 これは確かに一理ある主張のように見えるが、まず押さえるべきは中野の主張は真の意味で「脱構築」されている訳ではない点で問題だということである。次の主張は最もらしいが、中野の言う「真の主体論」からすると、非常に問題がある主張である。

 

「ところが、「責任を果たす」ということを、実際にその責任を問う具体的な「他者」への応答として考えると、それは自己同定の営みなのではなく、むしろ逆にそれがまた自己分裂の営みでなければならないと分かってくる。すなわち、「日本人としての責任」を承認しそれを果たすということは、「わたし」にとって、不可避に自己分裂的な葛藤を抱え込みそれを切り開いていくプロセスとなるのである。その出発点は、他者の声を聞くという基本的に受動的な体験である。被害の声がわたしに届くという仕方で、あるいは「突きつけられる」という仕方で、さもなくば見ないで済ませていたかも知れぬわたしが、過去の暴力や憎悪の存在を知るということである。」(同上、p296)

 

 問題はここでいう「他者」とは「何(『誰』という表現は正しくない)」なのかということである。ここでの議論は暗黙の前提として「日本人としての責任は、「日本人たれ!」という命令による主体形成では果たせない」という主張がなされている。つまり、「他者」とは「日本人ではないもの」から発せられる声であり、それは積極的に「日本人であること」を主体化することに対して「脱構築」せんとする主体化である。そのような議論こそ正しいのだと中野は言っているのである。

 この議論の誤りは、「真の主体化=主体の脱構築」が真理かどうかという議論が、「反主体」化せんとする「他者」とは全く関係ないということである。主体の脱構築はどこまでも主体の脱構築であるべきであり、結局中野が言う「他者」の声に対しても脱構築されるべき(つまり、それを「肯定」して聞き入れるべきではない)のは明らかだからである。このような「他者」の主体化を認めるのであれば、中野の言説は根底から疑義が出てくることになるのである。そもそも「他者」とは何なのかをその主体(主体化される当人)に限らず、具体的な「誰か」に行うことができるのか?という問題であり、この答は中野本来の前提からはNOという選択肢以外ありえないのである(※1)。

 

 これに関連して問題が出てくるのが、まさに中野がどんな「肯定」的言説も否定されるべきだと主張していることそのものになる。結局中野は恣意的に「肯定」的言説を選んでしまっているのであり、その選択行為自体は本当に問題とされるべきなのか、という完全な「脱構築」から一歩離れた問いの立て方が成立するのではないのか、ということである。これは少なくとも中野自身の議論からは成立していることになる。

 これは私が過去に本書をレビューした際に問いとした内容の一つ(※2)であり、「自発性」と呼びうる言葉への定義の問題でもあった。ここまでの議論で確認したのは、少なくとも中野の枠組みでは「自発性」は完全に主体個人に還元された議論ではありえない。であれば「他者(誰が)」の次元での「動員」自体はそれ自体悪ではなく、むしろその動員の方法の問題なのではないのか、と思うのである。極めて平たく言えば、「何もやらないよりも、何でもいいからやったほうがいい」し、別にその行為への模倣行為を「意識化」さえできればそれで十分なのではないのか、と思うのである。この「意識化」も与える動員論というのは具体的にどうやるのか、という問題はもちろんあるが、不可能な話では決してないと思う。端的にボランティア活動に「聖性」を与えず「社会経験」とすればそれで足りる、という見方もありえるのではなかろうか。

 

※1 過去のレビューで私は「自発と非自発、主と従といった二項対立図式を突き崩す」ことが必要だと考え、これにあたりドゥルーズフーコーデリダなどを検討してきた。そこで見出した知見の一つは、中野と同様、「二項図式を脱構築する」と主張している者こそが「二項図式に固執している」という事実であった。そして、結局二項図式が崩れていない以上、その「二項図式を崩す=脱構築」という行為は、厳密には意味をなしていないという意味で不毛である(その主張に価値がない)と捉えることができたのである。これは、大塚のように「何らかの価値を否定する=別の価値観に暗黙のうちにコミットしている」ことも意味していることであった。従って、脱構築を主張するのであれば、「何を脱構築し、それにより何を構築したのか」を明言しない限り、その主張はえてして虚偽であるとみなすことができるのである。

 

※2 当時の私のレビューにおける表現が理解しにくいものの、当時の私の疑問は2つに集約される。一つはこの自発性の定義の問題であり、もう一つは動員のための「政策=意図的な主体化作用を目指す働きかけ」というのは、どの範囲までを「政策」とみるのかという点である。