「主体動員論批判」について―中野敏男「大塚久雄と丸山真男」再訪

 前回、中野敏男に触れた。中野の著書は私のこの読書記録帳の1冊目のレビューで、当時課題についても提示していたこともあったので、このタイミングで私の回答を行っておきたいと思う。

 

 中野の著書は、「ボランティア動員論」に対する批判を、その背景にある戦後民主主義思想との関連性について触れながら行っていた。大塚久雄が「近代の人間的基礎」で行っていた「資本主義への精神」の模倣の強要、更には戦中における「責任」の強調というのは、端的にいって主体(我々個々の日本人)への「啓蒙」に他ならない。その「啓蒙」を行う大塚は一つの「主体」を形成するための言説をヴェーバーの議論に見出し、それを繰り返し主張した。これは大塚に限らず、市民社会論者一般に言える話(私がレビューした松下圭一も)であり、それは確かに「ボランティア動員論」にも結び付いているのかもしれない。

 

「ここに至って、「ボランティア」と「人間の主体性」の限定なき価値評価は、歴史的な欺瞞と罪過に転化する。さらに重要なことは、その同一の自発性の思想が、特に反省されることなく戦後に引き継がれて「近代的人間類型の創出」という主張に再生し、戦後啓蒙をリードする市民社会派の思想的な中核を形成したということである。だから、本当に幾重にも重ねて問題を残し反省しなければならないのは、むしろ戦後の方なのだ。さればこそ、ボランティア活動の高まりに市民社会の可能性を再発見する今日の主張にも、そのような系譜に連なる思想がなお残留しているのではないかと、わたしは疑っているし、またもしそれが当たっているなら問題は重大だと思うのである。大塚久雄から平田清明を経て理論的系譜がつながっている今日の市民社会論者に、そのような反省はあるのだろうか。」(中野1999=2014、p261-262)

 

 しかし、他方で中野はボランティア動員論そのものが問題であるという認識でおり、その点について9年前の私は疑問符を付けた。次のような主張は「ボランティアが大事である」というすべての言説(主張)について否定的な態度をとっているという風に読まざるをえないだろう。

 

「以上のように見てくると、「ボランティアという生き方」の推奨が、現状とは別様なあり方を求めて行動しようとする諸個人を捉えて、その行動を現状の社会システムに適合的なように水路づける方策として、あまりにぴったりであることに驚かされよう。

 何よりも重要なことは、ボランティア活動においては、諸個人は、まず「何かをしたい」とだけ意志する「主体=自発性」として承認されることだ。これにより、現状において別様でもありうると「自由の可能性」を知覚しつつあった個人は、現状を離れて抽象的に意志する「ボランティア主体」になるのである。おそらく、ここが決定的な岐路なのだ。というのも、「個人化のポテンシャル」の中で「自由の可能性」と認められうるのは、現状の中にある権力関係の交錯そのものが、諸個人に「別様でもありうる」という可能性を知覚させ、現状への反省を促すという意味で、自省的―再帰的な〈選択の自由〉の可能性であったはずである。それなのにここに成立しているのは、自省性―再帰性ではなく、抽象的に「何かをしたい」と意志する単なる「主体=自発性」にすぎないからである。

 そこで、この抽象的にすぎぬ主体=自発性には、選択されるべき「内容」があとから与えられることになる。かくてこうなる。このボランティア活動の内容があなたの「意志」であるのは、抽象的な主体=自発性であったあなたが、与えられた内容を「折良く出会ったもの」として選択し、それをあなたのものとして「意志」したからである。……

  要するに、「ボランティアという生き方」の称揚とは、このように抽象的な「ボランティア主体」への動員のことであり、この主体=自発性は、抽象的であるがゆえにかえって、「公益性」をリードする支配的な言説状況にどうしても親和的にならざるをえない仕掛けになっているのであった。」(同上、p280-281)

 

 ここでのポイントは、最後の「「公益性」をリードする支配的な言説状況にどうしても親和的にならざるをえない」という部分が問題なのか、という点である。

 先に中野の結論を紹介しておくならば、結局中野は「肯定的」な言説、つまり「この行為はこういう点がよいから、そのように行為すべきである」とする全ての言説というのは「主体」形成に関する議論として適切ではなく、それは常に「主体」の「分裂=脱構築」をしなければならないものだとする。

 

「「主体が問われる」というのは、実はそういうことなのだ。すなわちここでは、「自己同一的な主体」として/となって責任を負うというのではなく、むしろ、責任を果すプロセスにおいて自らの「主体」に内在する暴力の痕跡を解体するということ、言い換えると、主体の確立がではなく主体の分裂=脱構築が問われているということなのである。」(同上、p294)

 

 これは確かに一理ある主張のように見えるが、まず押さえるべきは中野の主張は真の意味で「脱構築」されている訳ではない点で問題だということである。次の主張は最もらしいが、中野の言う「真の主体論」からすると、非常に問題がある主張である。

 

「ところが、「責任を果たす」ということを、実際にその責任を問う具体的な「他者」への応答として考えると、それは自己同定の営みなのではなく、むしろ逆にそれがまた自己分裂の営みでなければならないと分かってくる。すなわち、「日本人としての責任」を承認しそれを果たすということは、「わたし」にとって、不可避に自己分裂的な葛藤を抱え込みそれを切り開いていくプロセスとなるのである。その出発点は、他者の声を聞くという基本的に受動的な体験である。被害の声がわたしに届くという仕方で、あるいは「突きつけられる」という仕方で、さもなくば見ないで済ませていたかも知れぬわたしが、過去の暴力や憎悪の存在を知るということである。」(同上、p296)

 

 問題はここでいう「他者」とは「何(『誰』という表現は正しくない)」なのかということである。ここでの議論は暗黙の前提として「日本人としての責任は、「日本人たれ!」という命令による主体形成では果たせない」という主張がなされている。つまり、「他者」とは「日本人ではないもの」から発せられる声であり、それは積極的に「日本人であること」を主体化することに対して「脱構築」せんとする主体化である。そのような議論こそ正しいのだと中野は言っているのである。

 この議論の誤りは、「真の主体化=主体の脱構築」が真理かどうかという議論が、「反主体」化せんとする「他者」とは全く関係ないということである。主体の脱構築はどこまでも主体の脱構築であるべきであり、結局中野が言う「他者」の声に対しても脱構築されるべき(つまり、それを「肯定」して聞き入れるべきではない)のは明らかだからである。このような「他者」の主体化を認めるのであれば、中野の言説は根底から疑義が出てくることになるのである。そもそも「他者」とは何なのかをその主体(主体化される当人)に限らず、具体的な「誰か」に行うことができるのか?という問題であり、この答は中野本来の前提からはNOという選択肢以外ありえないのである(※1)。

 

 これに関連して問題が出てくるのが、まさに中野がどんな「肯定」的言説も否定されるべきだと主張していることそのものになる。結局中野は恣意的に「肯定」的言説を選んでしまっているのであり、その選択行為自体は本当に問題とされるべきなのか、という完全な「脱構築」から一歩離れた問いの立て方が成立するのではないのか、ということである。これは少なくとも中野自身の議論からは成立していることになる。

 これは私が過去に本書をレビューした際に問いとした内容の一つ(※2)であり、「自発性」と呼びうる言葉への定義の問題でもあった。ここまでの議論で確認したのは、少なくとも中野の枠組みでは「自発性」は完全に主体個人に還元された議論ではありえない。であれば「他者(誰が)」の次元での「動員」自体はそれ自体悪ではなく、むしろその動員の方法の問題なのではないのか、と思うのである。極めて平たく言えば、「何もやらないよりも、何でもいいからやったほうがいい」し、別にその行為への模倣行為を「意識化」さえできればそれで十分なのではないのか、と思うのである。この「意識化」も与える動員論というのは具体的にどうやるのか、という問題はもちろんあるが、不可能な話では決してないと思う。端的にボランティア活動に「聖性」を与えず「社会経験」とすればそれで足りる、という見方もありえるのではなかろうか。

 

※1 過去のレビューで私は「自発と非自発、主と従といった二項対立図式を突き崩す」ことが必要だと考え、これにあたりドゥルーズフーコーデリダなどを検討してきた。そこで見出した知見の一つは、中野と同様、「二項図式を脱構築する」と主張している者こそが「二項図式に固執している」という事実であった。そして、結局二項図式が崩れていない以上、その「二項図式を崩す=脱構築」という行為は、厳密には意味をなしていないという意味で不毛である(その主張に価値がない)と捉えることができたのである。これは、大塚のように「何らかの価値を否定する=別の価値観に暗黙のうちにコミットしている」ことも意味していることであった。従って、脱構築を主張するのであれば、「何を脱構築し、それにより何を構築したのか」を明言しない限り、その主張はえてして虚偽であるとみなすことができるのである。

 

※2 当時の私のレビューにおける表現が理解しにくいものの、当時の私の疑問は2つに集約される。一つはこの自発性の定義の問題であり、もう一つは動員のための「政策=意図的な主体化作用を目指す働きかけ」というのは、どの範囲までを「政策」とみるのかという点である。