河合隼雄「河合隼雄著作集7 子どもと教育」(1995)

 今回は、河合隼雄の「父性原理・母性原理」について考察するにあたり、その特徴をまとめてみたい。河合の著書は「母性社会日本の病理」(1976)をはじめ、教育にも関連する数冊を読んだが、これらの本からまとめると、6点にまとめることができるだろう。

1.一点目として、その性質は本書のp17に書かれているような「切断」と「包摂」という二項図式によりまずもって定義されている。この態度は過去の著作から一貫しているといえるだろう。

「これに対して、父性原理は「切断する」機能にその特性を示す。それはすべてのものを切断し分割する。主体と客体、善と悪、上と下などに分類し、母性がすべての子供を平等に扱うのに対して、子供をその能力や個性に応じて類別する。極端な表現をすれば、母性が「わが子はすべてよい子」という標語によって、すべての子を育てようとするのに対して、父性は「よい子だけがわが子」という規範によって、子供を鍛えようとするのである。父性原理は、このように強いものをつくりあげてゆく建設的な面と、逆に切断の力が強すぎて破壊に到る面と、両面をそなえている。」(河合「母性社会日本の病理」1976,p10)
「母性原理に基づく倫理観は、母の膝という場の中に存在する子供たちの絶対的平等に価値をおくものである。それは換言すれば、与えられた「場」の平衡状態の維持に最も高い倫理性を与えるべきものである。これを「場の倫理」とでも名づけるならば、父性原理に基づくものは「個の倫理」と呼ぶべきであろう。それは、個人の欲求の充足、個人の成長に高い価値を与えるものである。」(同上、p13)

 そして前回も触れたが、これに関連して本書では表で「父性原理」と「母性原理」の特徴をp18でまとめている。これらの特徴の説明は逐一河合は行っていないが、特にR.ベネディクト以降盛んに議論されていると言える「日本人論」における特徴をまとめたものだ、と言われればあながちこのように理解されているといえなくもない(もっとも、そのようなまとめ方を河合は述べていないが)。


2. そして、これはそれぞれが西洋の原理、そして日本の原理として対比した形で語られることになる。かつ、合わせてそれらは相互に参照されるべき価値観であること、つまり母性原理で成り立つ日本には父性原理を、父性原理で成り立つ西洋には逆に母性原理を取り込む必要性を繰り返し述べる。

アメリカは今まであまりにも切り棄ててきた母性をいかに取り戻すかという点で、大きい問題をもっているのに対して、日本では今まであまりにも接触を持ちつづけてきた母性といかに分離するかの問題に悩んでいると考えられる。この点についての詳論は避けるとして、アメリカの状況からみて、あまりに母から切れた自我の危険性も十分に感じられるのである。この点、永遠の少年について述べたとき、日本の社会は父性原理と母性原理の中間的存在ではないかと指摘しておいたが、それを「永遠の少年」などと呼んだのも、西洋的な観点に立ったからであり、そのためにむしろ否定的な把握の仕方をしたが、ここで観点をまったく変えれば、柔軟性のある、バランスのとれた構造と考えられはしないだろうか。」(同上、p30)

「このように述べてくると、筆者の感じているジレンマ、父性的な自我の確立に伴う功罪の問題は、次のように結論づけられることになろう。つまり、日本人の自我における父性原理の弱さは、今後の国際交流の必要度の強さから考えても、やはり問題とすべきであろう。そして、現在のわが国の社会的な混乱も、このような観点を導入することによって、より問題が整理され、無用な誤解や争いも減少するであろう。
 ここで、われわれは父性原理の確立にもっと努力すべきではあるが、それは単純に西洋のモデルを良しとするわけではない。父性原理を確立しつつ、なおかつ母性とのかかわりを失ってしまわないことも大切ではなかろうかと思われる。この点、日本の神話のもつユニークな構造は、第三の道を拓くものとして、案外興味深い示唆を日本人に対してのみならず、世界に対しても与えるものではなかろうか。」(同上、p32-33)
 河合は父性原理と母性原理のどちらが優れているのか明言していない、という意味で価値中立的な立場から、双方の性質の理解とその適切な採り入れについての必要性を述べているといえるだろう。


3. これに関連するが、河合は現在の日本の状況として、すでに父性原理を取り入れ始めている過程にあるものとして位置付けている。本書のp100-103あたりの記述もそうであるが、部分的に父性原理によって行為しようとしている日本人がいることを想定しつつ、母性原理の支配的な状況に挟まれ、アノミー状態になっているかのような見方をしているといえる。そして、それは「西洋化の影響」として語られている。

「日本は母性社会ではあるが、欧米の文化の影響を受けて、父性原理のよさを知りそれを取り入れようとしている。そこにいろいろな混乱も生じているが、欧米と比較すると母性社会の特徴を保持していることで、利点をもっていることも事実である。たとえば常に全体を包みこむ姿勢があるので、わが国の全体的な教育水準の高さは世界に誇れるものである。また、よく言われることだが、日本の都市の安全性の高さ、非行少年の数も少なく凶悪な者が少ないことなどは、その反映である。このような利点が多くあることは決して忘れてはならないが、母性社会特有の圧力が個人に、特にその人が父性原理を好む場合は、強くのしかかっていることも忘れてはならない。」(「河合隼雄著作集14 流動する家族関係」1994,p159)


4. 更にこれに関連して、河合の教育問題に対する議論というのは、母性原理と父性原理の衝突の結果として、いわば日本独特の問題として語られることになる。本書では不登校の問題がそのように語られているが(p100)、いじめの問題についても、西欧とは違った日本的な問題としてそれが現われているものだとみているのである。

「まず、日本において青少年の暴力事件が極端に少ない事実であるが、これは欧米に比較して、日本は暴力に対する一般的抑制力が強いことを示している。……
ところが何でも一長一短で、絶対平等感に基づく一様序列性などが、個人を圧迫してくる。したがって、それぞれの個人が何とも言えぬ被害感をもっているところで、成績が悪いなどと言われるとますます腹が立ってきて「うっぷんばらし」をしたくなってくる。そのとき標的としては、何らかの意味で全体とは異なるところのある者が選ばれやすい。欧米のように弱い者、嫌な者にむかってストレートに暴力に向かうのとは異なる形態をとる。日本では「皆と同じ」でないことは、非常に危険である。
日本ではしたがって、個性的に生きようとする者が「いじめ」の対象となることがある。「生意気」とか「統制を乱す」などと表現されることがあって、このような「いじめ」は日本の職場の各所に生じている。そんな点では大人も子どもも同じだが、すでに述べたように、思春期においてはその程度があまりにもひどくなる点で問題である。」(「臨床教育学入門」1995,p178-179)


5. 次にそもそも「父性原理」と「母性原理」という用語が父・母という言葉を用いていることについて。これについてしっかりと明言している部分はあまりないが、本書のp57で「男性の目」と「女性の目」という表現を「実際の」男性・女性の傾向として捉えて使用していること、また、下記の引用の中でも、自立/依存という区別が「実際の」男性・女性の性質としてみなされていることから、基本的に父・母それぞれが担っている傾向があるものとみなしているといってよいだろう。

「人間は他の動物と異なり、だんだんと男性が力をもつようになる。人類の特徴としての「意識」、「自意識」ということに男性が強くかかわってくる。そして、自立ということに魅力を感じはじめる。自立も結構だが、単純に考えると、自立と依存とを完全な対立概念として捉え、依存を拒否すればするほど自立的である、というスローガンができあがる。これはスローガンとしては論理的で強力だが、およそ実態と合わない。何にも依存せずにいる人間などいない。空気や土や太陽に依存せずに生きることができるだろうか。この基本的依存の形に、人間関係として、もっとも近いのが母・娘関係である。
 人間が自立するということは、自分が何にどの程度依存しているかはっきりと認識し、それを踏まえて自分のできる限りにいて自立的に生きることである。しかし、「自立」ということが先にスローガン的に意識されると、依存はすべて拒否したくなる。」(「河合隼雄著作集 第2期 臨床教育学入門」2002、p108)

 しかし、他方で河合のこの二つの区分はパーソンズのレビューで取り上げた「<シンボル>としての父母」というのも(素朴にであると思うが)想定した議論となっている。必ずしも父性原理を男性に担わせるという意図があるという訳ではないのは、以下のような役割論の語りから見て取れるだろう。

「母親と子どもの結びつきは、このように極めて大変であるが、その母親を支える父親の力が弱いときは、親子関係の在り方が歪んでくるのである。父親の家庭での態度が弱いと、母親はそれを感じとって、知らず知らずのうちに、母親が父親役を演じるようになってくる。そのために、それを補償しようとして父親が母親役をとるようになると、もっぱら母親の役となり、父親は子どもに同情してかばってみたり、妙に甘やかしたりするようになる。このようなパターンは、わが国においては生じやすいように思われる。
 もちろん、父親と母親はテニスの前衛と後衛のようなものであり、時により、状況に応じてその役割が入れ代ることも必要である。あまりにも固定した観念に縛られていては、動きがとれなくなってしまう。しかし、父親と母親の役割がまったく逆転してしまうのは、やはり問題のようである。時には、一人で父親と母親の両方の役割をやり抜くような例外のあることも事実であるが。」(「河合隼雄著作集14 流動する家族関係」1994,p196)

6. もう一点河合の議論の特徴として、彼の議論する「父性原理」論が、日本で議論されている「父性の復権」論と混同されることに対して繰り返し批判をしていることが挙げられる。本書ではp20やp226などがそうだが、他の著書では次のような語りをしている。

「ここで少し困ったのは、原理としての「父性」「母性」ということを誤解する人がでてきたことである。もともとこのような命名は欧米人に日本文化のことを話すときに思いついたことで、よく理解されたのだが、日本人やアジアの国々の人にとっては、「父性原理」の強さというのが昔の権力的な父親像と結びついて、「昔の父は強くてよかった」というように誤解されることがままあることに気がついた。
 原理としての「父性」は、ものごとを明確に区別判断する機能に関係しており、昔の日本の父親は個人としてものごとを判断するよりは、「世間」の考えに従って、それを子どもに押しつけるときは家父長としての権力をもってした。それは一見「強い」ように見えるが、「父性原理」はむしろ弱いのであるこのことを明確にしておかないと、日本の母性原理の強さを反省して、「父権の復興」などということを言いたてることになる。日本においては「復興」などではなく、「父性」の強さを新しくつくり出す努力をしなくてはならないのである。」(「河合隼雄著作集 第2期 臨床教育学入門」2002、pix)


 以上のような特徴を持つといえる河合の「父性原理・母性原理」の議論であるが、まず疑問にせねばならないのは、パーソンズのレビューの際に述べた通り、「理念型」として言語を定義するにせよ、誤解を招く・ないし安易に「<シンボル>としての父母」を「実際の父母」と同一視しないためにも、「父・母」の性質の再生産に加担するような用語を避け、単に「切断」・「包摂」といった用語を使うべきだと思う。
 もっとも、河合は明言していないものの、「個人主義」と「集団主義」といった対比で説明するのを避けるために、あえてそれとは異なる形で用いているという風に解釈する余地はあると思う。個人主義という言葉もまたかなり様々な用法で用いられるものであり、それだけ語弊も生じやすいといえる。
 基本的に河合が「父性原理・母性原理」に限らず、学校教育の議論をする際にも、画一的・集団主義的な学校教育を批判しつつ、個性的・個人主義的な子どもを育てていかなければいけないという前提に立った議論をしている。

「ここでひとつの非常に大きい問題は、クラブの集団がほとんどの場合、日本的集団であることが多く、しかもその程度が強い場合が多いことである。ここに日本的と呼んだことは、筆者の表現を用いると母性原理が優位であることを意味する。全体がひとつに包まれていることが大切で、その集団の個々の成員の個性が時により、その集団のために無視されたり、潰されたりすることがある。そして母性的集団においては「長幼列あり」つまり古参の者が新参者に対して絶対的優位に立つという特徴をもつ。母性的集団では個人差を認めず本来的には全員が平等であるが、序列をつけるとするならば、個人の能力差を認めないので古い者から順番ということになる。」(「河合隼雄著作集 第2期9 多層化するライフサイクル」2002、p118)

「その本人が「好きなこと」は、個性と大いにかかわっている。したがって、ともかく「好きなこと」を尊重することは大変重要である。筆者は「好きなこと」をするためには、相当な犠牲を払ってもいいのではないかと考えている。しかし、以前は「好きなこと」よりも「するべきこと」をするのがいいと考えがちであった。おそらく教師という人は、同様に考える人が多いのではなかろうか。そんな好き勝手なことをする前に、するべきことが多くあるはずだ。各人が好きなことばかりやっていたのでは、全体の秩序が保てない。あるいは、非常に片寄った人間になってしまう。このような考えももっともである。しかし、そちらを強調しすぎて、個性を殺すようなことになっていなかったかと反省するのである。」(「河合隼雄著作集 第2期 臨床教育学入門」2002、p190-191)

「子どもたちに自由を許すと、そこから出てくるものは時に大人をおびやかすものもある。それらと正面から対決することによってこそ、新しい道が見えてくる。子どもが提出してくるいろいろな問題は、新しい発見へのきっかけをつくるものである。個性の尊重ということは、一人一人の責任と課題を重くする。制度の改変は必要であるが、それによって個人が楽になるのではない。日本の成人は各人が自分の意識の変革と取り組む覚悟をもたねばならない。」(
同上、p300)

 このような語りからは、河合が個性の尊重を行うべきである、という意味で、母性原理を批判しているのは明らかといえる。しかし、注目せねばならないのは、だからといって、父性原理の優位を語っていないという両義的な態度を河合がとっている点である。どちらの原理においても問題が出てくるのである。しかし、これでは何故父性原理に近づけることが善いことなのかが説明できない。
 少しこの点について整理してみよう。まず、河合の母性原理を批判する理由として、ネガティブなものとしては、それが子どもの抑圧になっていること、そして本書のp226のように、従属的態度をとることはかつて戦争に加担する態度になったという反戦的態度から見出すことができる。また、ポジティブな意味では「国際交流」という観点から、母性社会に閉じこもらずに父性社会へも適応できる態度を養わなければならないという見方をしている。
 そして、父性原理を批判する理由としては、その「切断」という性質そのものに対する批判を加えているきらいがある。実際問題となっている「アメリカの状況」については詳しく述べられている部分は先程引用した「母性社会日本の病理」のp30と下記のような部分が挙げられる程度である(しかし、ほとんど触れられているとはいえない)。

「筆者としてはここで日本の教育を否定して、アメリカをモデルにしろという気はない。アメリカの高校内の暴力や、麻薬の害を知ると、アメリカの教育が「成功」しているとは言い難い。」(「臨床教育学入門」1995,p82)

 したがってアメリカの父性原理が批判されるべきものであるという理由は、日本の教育水準の高さや都市の安定、非行少年の数が少ないといった、母性社会の性質(河合1994,p159)との対比として読むしかないように思われる。つまり、父性社会は個性を育むのには望ましいが、同時にその「排除」的側面により、少年非行といった社会問題の原因になっているという見方をしている、ということである。
 そして、河合は日本の現状について、父性社会を取り入れつつある状況であると述べていた。本書においても不登校問題をまさにそのような目線から批判しているのは明白であった。実際の所、河合は不登校問題をこのように捉えることで、日本特有の問題として位置付けているとみなすほかないだろう。


 しかし、このようにまとめるとすると、いくつか問題が生じる。
 まず何よりも、母性原理・父性原理批判に対する妥当性そのものについての問題である。先述したように、河合が父性原理・母性原理を厳密な意味でどちらがよいか判断していないとすると、何故それについて批判する価値があるかさえ問えなくなる。結局河合の言い分はどちらの原理にも善し悪しがあるのであるから、両者の性質を押さえた上でその良いところは活かし、悪いところは改善する、という両原理の「部分的」な改善の提起をしたいのだと思われる。
 しかし、そのような態度自体、やはり父性原理・母性原理という言葉を理念型として位置付け議論するという意味ではあまり有意義と思えない。改善すべきは父性原理・母性原理そのものではないのだから、それらを持ち出す必要性を感じないからである。先述のように河合の述べる父性原理・母性原理自体が、素朴な要素の集まりから成っている。そしてそれを裏付けているのは、おそらく古くからある日本人論といった議論を参照にした産物であると思われる。改善の対象とされた要素については焦点があてられるものの、そうでないものについては結局その性質を定義しただけで、特段その性質が「日本的」と呼ぶにふさわしいかの検討を行うことがない。今後このような日本人論については検証できる限りで考察してみたいが、実際にそれらのまとめられた日本人論の疑問符が付けられるのなら、それについては吟味していかなければならないだろう。

 もっと言ってしまえば、河合の「父性原理・母性原理」という言葉は彼のオリジナルではない。私が確認した限りでは、これ以前にすでに江藤淳が「成熟と喪失」(1967)にて同じ言葉を多少異なった文脈で語っている。具体的な問題点については、江藤の論と比較しながら次回行ってみたいと思う。


<読書ノート>
pxii「臨床心理学の仕事から出発して、教育の分野に実際的にかかわることが深くなるにつれて、私は「臨床教育学」という新しい学問領域を確立する必要を痛感するようになった。これまでは現場の教育と教育学者の間にギャップがあり過ぎたのではなかろうか。それに対して、「臨床教育学」では、何と言っても現場と直接かかわり、現場の教師にとっても意味のある研究をすることが使命となっている。しかし、それは単に個別的な事柄をどう処理してゆくか、ということを目標にしているのではなく、個々の具体例を通して、人間の心理について、教育について、できる限り普遍的な原理や方法を見出そうとする努力によって裏づけられていなければならない。」
※ある意味でそれだけ距離ができてしまった、と見ることもできるだろう。そしてこのような発言自体が、過去の教育についての理解の欠落によって成り立っている可能性の示唆にもなる。

P5「教育の「実状」を考えてみると、日本人すべてが、「勉強のできる子はえらい」という、一様な価値観に染まってしまっている、と言えないだろうか。親は子どもの点数のみ、序列のみを評価の対象にする。少しでもよい点をとってきて、少しでも上位にする子は「よい子」なのである。教師も親ほどではないにしても、それに近いであろう。」
※どこに根拠が?どう実状を見たのだろう。

P16「人間のことを考えるのには、いろいろな原理がある。ひとつの原理によって説明することは、単純でわかりやすいが、それはともすると実状に合わなくなるのではなかろうか。一党独裁が危険であることは、最近の世界の情勢がよく知らせてくれたことである。すでに述べたように、生と死、健康と病気、仕事と遊び、などの対極的な見方の、どちらか一方に片寄らず、ものごとを見てゆくことは、教育にとって大切である。
ここにもうひとつ特に取りあげたいのは、私が父性原理、母性原理と呼んでいる、対立するものの考え方である。この呼び名はわが国では、ときに誤解されるのだが、欧米の人たちに言うとよく通じるようだ。それは、ここに言う父性原理は、後でも言うように西洋に発達してきたものなので、そもそも日本人にはわかりにくいのである。これらの原理ではどちらが正しいとか誤りである、というのではなく、まさに一長一短であると私は考えている。ともかく、それがどのようなことかを次に述べる。」
※理念型αは無視し、価値の問題だけを取り出してしまっている。
P17「父性原理、母性原理と私が呼んでいるものは、端的に言うと、父性は「切る」、母性は「包む」機能を主としている。父性は善と悪、できる者とできない者、固いものと柔かいもの、何でも明確に区別してゆく。それに対して、母性はすべてを全体として包みこんでゆく。この原理のどちらが正しいというのではないが、片方の原理が正しいと思うと相手を攻撃したくなってくる。」
※この父と母という言葉はどこから持ってきたのか?

P17「割り切って言えば、日本は欧米に対して母性原理が強い国であったが、国際交流が活発で、かつ欧米の文化を輸入している間に、父性原理の方もだいぶ輸入しつつある。そして、頭で考えるときはーー特にインテリはーー父性原理に近いのだが、実際行動や感情的な面では、まだまだ母性原理によって生きている、というところである。」
※母性原理が強い国とはどういう意味か?社会的なものの議論であるようにも読めるが、後半の話はあきらかに国民の心性ありきの言い方である。
P18父性原理と母性原理のまとめ
※個人の確立/場への所属(おまかせ)、契約関係/一体感(共生感)、言語的/非言語的、個人差(能力差)の肯定/絶対的平等感、進歩による変化/再生による変化、個人の責任/場の責任、しまいには時間の捉え方について「直線的/円環的」という対比までしている。
P20「論を先にすすめる前に、父性原理についてもう少しつけ加えたい。この点について誤解する人が多いからである。わが国において、父性が弱いという認識がだんだんとできてきたのはいいが、「父性原理」などと唱える人がでてきて、軍国主義時代の父親をさも強い父性をそなえた人物であるかのように誤解して、それを押しすすめようとする。これはここに述べた父性原理をまったく誤解している。」
※そもそも河合の父性原理を参照する気があるかどうかから疑問だが。スパルタ教育論などを父性論とするなら、河合の方が後発した父性論者であり、喧嘩をふっているのも河合の方である。

P20「このことがわかっていないと、父性復権のつもりで、生徒に細かい校則を押しつけ、そのためには暴力をも使用する、などということになる。日本には父性原理の復活などということはない。それはもともとなかったものなのだから、もしそれを必要と感じるならば、父性の新たなる獲得として意識されねばならないのである。原理の弱さ腕力でカバーするのは、まったく馬鹿げたことである。」
※言葉遊びのようにしか聞こえないが。河合の批判する父性論者はそもそも父性原理を支持しているわけではない。それをわざと混同させようとし、日本的父性論を弱体化させようとしているのが河合である。これはただの価値のぶつけ合い、イデオロギー闘争でしかない。

P42「一昔前は経済的な条件のため、自宅から通える範囲内の大学にしか行けない人も多かったので、優秀な学生がある程度分散されたが、現在はそのような傾向も少なくなって、日本全体としての大学のランクづけが著しくすすみ、現状のように問題点が大きくなってきたのである。日本人のこのような傾向がもう少し変化しない限り、制度の改変によって大学受験の受験地獄を緩和することはきわめて困難であると思われる。」
※いつの話をしているのか。戦後であるのは間違いないが。そしてこれはいかにすれば実証できる話なのだろう??官僚の出身大学比較?それはむしろ昔の方が一極化していたのでは?
P44「おそらく、自我意識のあり方がどうであれ、日本人は日本人アメリカ人はアメリカ人なりに、個性的であることや、創造的であることは難しいのであろう。このことを教育との関連で言えば、集団の一般的傾向と異なる生き方をすることは、どこの社会でもなかなか難しいことで、教育者が、被教育者の個性的表現を許容したり、促進したりする態度をもつことがいかに難しいか、ということになるだろう。
このように考えてくると、試験の問題に対して、「正しい」答をできる限り早く見出すことを訓練することは、それが「正しい」ことであっても、個性の発展を妨害することがあることに気づくのである。問題を解く際に、いろいろと模索し、間違ってみることのなかに、案外個性の発芽が認められるかもしれない。せっかちに正答を見つけるのではなく、そのような誤答のなかに価値を見出すことも必要である。」
※何故かここでは日米比較をやめ、個性の問題を強調した語り方をする。結局のところこれが問題となるのは正しさを強要する場合だけではないのか?それを取り除いた場合に、ここで述べられている個性とは何を意味するのか?

P45「自然科学の発展の基礎となるような近代自我を、子どものときに確立することが、日本人のなかではどんなに困難であるかは、先に示した帰国子女の例が示している。この点に注目する人は、日本人で創造性の高い人は海外に流出してゆく、と主張する。実際に、日本の「学会」というものが日本的集団構造を強くもっているときは、そのなかで若い人が自由に発言できない、あるいは、能力のある人の足をひっぱる人が多い、などの現象が生じる。
わが国では、すでに述べたように、母性原理による絶対平等感が強いので、特定の能力のある人が、たとえそれにふさわしいだけの待遇を受けていたとしても、それは「民主的でない」ということばで表現される、日本固有の論理によって反対されてしまったりする。このために、創造的な個人がのびのびと活躍する場が奪われてしまうのである。このことは、今後、日本の教育や研究のあり方を考えてゆくうえで、大いに反省しなくてはならない点であろう。」
※前半についてはやはり、心性の問題と社会性の問題を混同した結果、子どもの頃から心性が育たないという結論をしている。創造性の高い人の海外流出は成人してからの話のはずである。それを子どもの話まで素朴に拡張してしまっている。これでは何を反省すべきかわからないという問題にもなりかねない。後半についても、アファーマティブ・アクションといった絶対的平等論とどう馴染むのか。

P57「そこで、私は思いきった表現で、現象を見る目に、「男性の目」と「女性の目」とがある、と考えてみたい。ここに、あえて「男性」、「女性」という表現を用いたのは、これまでの人間の精神史を考えてみると、やはり、男性がより得意としたものの見方と、女性が得意としたものの見方とがある、と考えるためである。したがって、個々の男性や女性をとって考えてみると、必ずしもどちらが得意かは一義的に言えないと考える。
「男性の目」は対象を自分と切り離し、客観的に見る。それは全体よりも、ある部分を切り取り、その部分を明確に認識する。「女性の目」は、自他の未分化な状態のまま、主観の世界を尊重しつつ、ものを見る。それは明確さを犠牲にしても全体を把握しようとする。実のところ、われわれは現象を見る際に、この両方の目を必要とするのであろう。しかし、いわゆる自然科学は、この「男性の目」の方を強調することによって成立してきたことを否めない。そして、それは普遍的な知識を供給してくれるものとして、きわめて有力なものであった。
人間が人間に対するときは、すでに示したように、「女性の目」を必要とする。「女性の目」で見たとき、それは自と他とのかかわりを含むものとなるので、いったい自分がこの子に何ができるのか、この際に何をすべきかがわかりやすい。」
※ここでも価値に限った中立性の主張をしてしまっている。このような素朴な男女の議論は、そのまま父性、母性という言葉にもつながっているとみてよいだろう。問題は「必ずしも当てはまらない」がいかなる意味を持っているのかに尽きるのだが、それについては語っていない。自然科学と男性の目が無関係ではないのは事実である。しかし、これが自然科学と男性の関係としてみる可能性に簡単に繋がることに問題があるのである。結局のところ何を立証したいのかがポイントであり、ここではおそらく自然科学と人間の話に重点があるはずである。であるとすれば、別に男性か女性かの議論をくっつけることを許すような理念型の言葉選びをする必要性などどこにもない。

P58「このように述べている私の専攻する臨床心理学も、「女性の目」を相当に必要とする学問であると考えられる。したがって、それは始まりは精神医学という、比較的「男性の目」を優位とする学問を借りて来なければならなかった。あるいは、「男性の目」を優位とする心理学を借りて来る必要があった。」
P69-70「子どもを育てる、子供が育つ、ということを教育の中心に据えることは実に難しいことである。それはなぜだろうか。その要因のひとつは、教師は「教える」側にまわっているかぎり、楽であり、安全でもあるからだ。「これをしては駄目」、「もうちょっちこのようにしては」と子どものなかを走りまわっている先生の方が、いかにも先生らしく見えるのではなかろうか。熱心な先生だと言われるかもしれない。
これに対して、私が理想としてあげたような、「子どもが育つ」場を提供する教師は、極端な場合は「何もせずに怠けている」とさえ思われないだろうか。こんなところもあって、教師の「教えたがり根性」はなかなか治らないのである。」

p73「日本では教師と生徒の関係は、母と子の関係を基本としている。よい面を言えば、教師は生徒一人ひとりに気を配り、暖かく接する。クラス全体が「家庭的」な雰囲気の一体感をもつ。しかし、悪い面では、教師が生徒を「かかえこもう」としすぎて、無意識のうちに、生徒の自立性を奪ってしまう。教師は生徒がすべて自分の懐のなかにいることを期待して、自由を許さない。」

p93「繰り返しになるようだが、不登校にはいろいろな種類があるのでそれに対処する画一的な方法がない、ということは非常に大切である。叱りつけたら登校したとか、そっとして放っておいたら登校したとか、という場合があるのが事実であるが、それを誰にでも適用しようとするのは間違っている。」
☆p93-94「この子たちの一般的特徴として、なぜ学校へ行けないか、と問いつめると、先生が怖いとか、成績がよくないとか、友人とうまくゆかないとか、いろいろな理由を言うが、それは本当の理由ではなく、実は本人も理由がわかっていないのである。登校しようとして前日には準備までするが、朝になると、どうしても起きられなかったり、足がすくんでしまったり、発熱、嘔吐が生じたりして登校できない。このような子たちは、決して怠けているのではなく、本人も学校へ行きたいのに行けずにいることを、まず理解してやらねばならない。」

p100「本章の第一章に、父性原理と母性原理について述べたところを参考にして考えてみよう。日本は欧米に比して、母性原理の強いところであった。しかし、そこに父性原理を少しずつ取り入れようとしているのが現状である。原理の衝突による摩擦が、そのためにあちこちに生じるのであるが、不登校というのもそのひとつとも考えられる。」
※どうも不登校アノミーの問題らしい。
P100「不登校の事例について、カウンセラーや教師たちが話し合いをする。「母親が家庭内で一番力をもち、子どもの足を無意識のうちに引っぱっている」、「子どもが自立するためのモデルとしての父親のイメージが弱すぎる」などと言っていたが、そのうちに、誰もが自分の家庭も似たようなものだ、と感じはじめ、「明日はわが身ですねー」と誰かが言ったので、「いやいや、今日はわが身です」と私が言って一同爆笑したことがあった。不登校の問題は、現代のわが国も社会全体の問題でもあるのだ。」
※問題を飛躍させすぎでは?

P101「あるいは、言い方をかえると、以前よりも父性原理を取り入れようとする傾向が生じているなかで、その尖兵として戦っているのが不登校の子どもたちである、ということになる。事実、不登校の子どもを抱えて家族が苦闘しているうちに、子どもはもちろん、父親も母親も以前よりは自立的になった。つまり、父性原理を少し取り入れるようになった、と思われる例が多くあるのである。そのような意味で、不登校の子どもたちは、社会の病い、文化の病い、を病んでいるとも言えるのである。」
※ある意味でアノミー的性質の問題であることは間違いないだろうが、それが父性原理の取り入れによる、という説明で成り立つ話かどうかは議論の余地がある。特に個人に期待される役割が増大しているのはp102-103で河合も認めるところだが、それは西洋からの影響という意味での父性原理というよりも、むしろ西洋も同じように要求されているような、社会の自立要求としての父性原理なのではなかろうか?このような見方からするならば、現状の西洋も十分に父性原理に支配されているとは言えない、という可能性も出てくる。
P101「不登校の子どもについて、何が「原因」か、と考える人が多い。そして、よく母親が、そして父親が「原因」にされる。そのような考えが効果を発揮することもある。しかし、どの場合も同じように考えるのもどうかと思う。そのうえ、不登校などという「悪い」ことが起こるのは、親か教師か誰かが「悪い」からだ、と考えて「悪者探し」をするのはナンセンスなことが多い。」

P102-103「社会が変わるにつれて、人々の生き方も変わる。そのためには、それぞれの人が自分の生き方を変えるための努力をしなくてはならない。私たちの父親は、ともかく働いて妻子を食べさせる、というだけで、父親としての役割を果したことになっていた。しかし、今では家庭内における父親の役割はもっと重くなっている。すでに第一章に述べたような、西欧型の父性をもった父親を、子どもたちは期待しはじめている。
子どもが学校へ行かなくなり、父親に対決を迫ってきてはじめてあわてふためいて頑張るよりは、それまでに父親としての生き方を少し変えるように努力した方が、問題を未然に防げることになるだろう。……
エネルギーの出し惜しみをする親は、自分の努力を棚あげして、「風の子学園」のようなところに子どもをあずけようとする。お金を出して、子どものために何かをやっているように見えて、これは一種の「棄子」ではなかろうか。」
※まずもって河合は不登校問題において親の役割が重要であることを否定することはない。そしてその役割は子どももまた期待していると前提にしている。しかし、そもそも子どものその期待もまた、社会的に規定されたものに過ぎないとしか(少なくとも河合の前提からは)言えない。ここでなぜそのような規定そのものを見直そうという議論に向かわせようとせず、親の役割論の議論に終始してしまうのか。もっとも、河合は処方箋を出すという態度を明言しているため、このような議論で終わっても良いという見方もできるが。

P189「もちろん、この二つの原理は相補性を有するものとして、われわれ人間が生きてゆく上で、どちらか一方のみに頼ってゆくことは不可能であり、両者のバランスの上に立っているのではあるが、ある文化がどちらか一方をより優勢とすることは大いにあり得ることである。そして、以前から主張してきているように、わが国の文化が母性原理に基づいていることは明らかなのであって、このことが、これから論じてゆくように、わが国の教育において重要な問題を生ぜしめているのである。」

P226「人は、よく昔のお父さんは強かった、怖かったと言いますが、そんなもには、ひとつも強くない。本当に強かったのならば、戦争に反対すべきですよ。反対もできないで、戦争へ行って死んだだけですから、あんなのは、弱かったんです。つまり、突撃する時にだけ強いんです。誰かが命令すれば、後は死のもの狂いになって頑張るけれども、命令に反抗する強さは全然持っていないというのが、日本の男なんです。つまり、個人として戦うということを、日本人はしないんです。みんな一緒にやりましょうということでやっていくのが、日本人の考え方で、それが悪いとは言っていません。ただ、日本は、そういうふうにやってきた国ですが、これだけ西洋と付き合うようになったなかで、個としての強さを、日本人の心の中に求めようとする気持が、今の若い人の中から出てきていると思うんです。」
※厳父論に対する批判も実証性に乏しい。ここにはそもそも厳父がいかに存在したかとか、そのような厳父的心性がいかに戦争に追随したかという問いの立て方が無視されている。河合のもっともらしさは中途半端に事実に基づいているが、因果関係について正しく考察していないのである。そして、そのような不明虜な議論を、そのまま自らの母性原理の議論の論拠としていることもわかる。また、事実の問題を隠蔽して価値論の議論をしてしまっているのもやはり問題。

P240「昔と違って、先生が生徒に与える教材やテストの問題なども画一化されてしまっている。先生たちは雑用が増えて忙しいかも知れない。しかし、自分の個性によって教育するという点においては、昔よりも相当少なくなっているのではなかろうか。このように考えると、一対一で教師と生徒が個性と個性のぶつかりを体験する教育相談の場は、今日的意義を大いに持っていると言わねばならない。」
※これも根拠がないし、おそらく誤りで、むしろ先生はかつてはもっと子どもの個性を無視することができたのである。それでも学校が機能していたのである。学校化がそれを許さなくなったから問題視されるようになったに過ぎないのではないか。ここでも雑用が増えたという事実らしきことを書いているが、因果の曲解をしている。

P309-310「日本人の言語表現における大きい問題に、タテマエとホンネということがある。公的な場や多数の前ではタテマエのほうを話し、ホンネのほうは隠しておく。ホンネは私的な場や、ごく親しい人にのみ話す。このような傾向を日本人の大人たちは持っているが、小学生の子どももすでにそのような傾向を持っていることが、授業を見ていても感じられる。
日本には欧米で発達した個人主義というのが理解されていない。個人としての自我を明確に確立するという方向ではなく、その場における全体のバランスの上に立って、自分の存在をそこに入れこもうとする。このことは、単純にどちらがよい悪いと割り切ってしまえることではなく、個人と全体とをどのように調和させるかに人間はいつも苦労している、と言っていいわけで、個人主義だから全体のことを考えないとか、日本人は全体のことだけ考えて、自分のことや自分の利益を考えないとかいうことはない。ただ発想の根本姿勢が異なっているのである。
タテマエの意見は、意見としては通りがいいので、ある程度の勢いを持つと全員が賛成する。しかし、そのときも各自がそれぞれホンネをもっており、時にはホンネがタテマエと反対の場合もあることは暗黙の了解事項となっている。したがって、満場一致で可決されたことに、後で従わない者がでてきたりする。これは西洋の論理で言えばおかしいことだが、日本では現実によく生じることである。つまり、日本人は欧米の考え方とは異なる考え方に従って生きているのである。」
※西洋の論理としてはおかしいのかもしれないが、それはひとまず西洋人の心性とは別物と考えるべきでは?これを混同すべきではない。

河合隼雄・加藤雅信編「人間の心と法」(2003)

 今回はいわゆる「日本人論」関連のレビューをしていきたい。
 本書は川島武宣的な日本(東洋)/西洋の対比として用いられていた法意識の議論(p39)に対して、二種類の大規模な海外比較の調査の結果を用いつつ、その検証も含めた法意識の分析を行っている。本書で特に目立った論点は「契約順守意識」についてと、「調停制度の利用」、「裁判所へ訴えること」の3点であるように思う。
 確かに外見上は明らかにアメリカの方が訴訟の受付件数が多く、その意味で川島的な発想を支持するようにも見える。しかし、本書ではそのような外見上の現象とは別に、アメリカ人が裁判を好んで行う「心性」を持っているという見方に対して「そうであるとも限らない」ということを提示している。

 まず「契約順守意識」については、p69の通りである。法治的であれば当然契約についても順守し、そうでなければ順守意識も弱体化することが予想されるが、必ずしもそうでないと示されている。これについては、実際のデータの提示(22ヶ国の比較調査の結果)がないものの、概ね正しいと読んでよいように思う。

 次に「調停制度の利用」については裁判所に訴える訳ではないが、それとは異なる調停の制度活用についての望ましさを聞いたものである。日米中3カ国調査では、「友人が貸した金銭を返そうとしない」「電気器具の不良品の取り換えに店が応じない」「交通事故の賠償金を加害者が支払わない」の3ケースについてどのような対応が望ましいかを聞いている質問がある。これについてはp134のように、どの国についても調整制度の利用は大半が望ましいとしている。

 最後に「裁判所に訴える」ことについては、確かに望ましいと回答するのは米国が日本より多いが、中国の方が更に多く(p39)、また、単純に裁判に訴えるということ自体が訴訟自体が裁判を好む、好まないだけという性向の要素だけで行われる訳ではないことを示している(p96-97)。更に日本人は訴訟が嫌いであるというよりも裁判制度との関わり自体が疎遠であり、むしろ無関心に近いこと(p137-138)が述べられている。
 これについては、先ほどの「調停制度の活用」と比較するとなおわかりやすい。米国の場合「望ましい」「どちらかといえば望ましい」と回答しているのは、「金銭貸借」「電気器具取替」のケースについては、調停制度の方が割合としてかなり高く、「交通事故」の場合についても、割合は拮抗している(調停制度が望ましいとするのは約79%であるのに対し、裁判所に訴えるのが望ましいとしているのは約83%)。

○価値の「絶対性」と「相対性」について
 本書ではこれらをもって川島的二項対立論は支持できない方向性をもって議論している。私自身も仮に川島の議論が本書で示されているような内容であるなら、概ねこのことについては同意するところであるが、他方で特に裁判所への訴えに対する議論は、まだ解釈の取り方によっては議論の余地が残されているように思う。
 特にここで考察したのは、価値の「絶対性」と「相対性」についてである。これはこれまでのレビューのなかで取り上げてきた社会問題について、そしてすでに贈与論の関連で阿部謹也を取り上げた際に合わせて議論していた日本人論などでも大きな論点となってくるものである。
 基本的に両者は理念型としても整理可能である。まずもってそれを理念型として設定する場合は、絶対的な指標として定義されることが理想とされるが、それが現実にどの程度あてはまるかどうかを問う際にはむしろ相対的なものとして取り上げられることが多かった。そして、理念型の議論で注意すべきだったのは、そのような理念型と現実のあてはまりの程度をみていく理念型αの問題と、その理念型が語る因果関係の妥当性についてみていく理念型βとの違いと、たとえ理念型βが重要であるとしても理念型αの問題は無視されるべき性質のものではないということだった。基本的に価値の「絶対性」と「相対性」の問題もこれらの論点で問題をまとめられるだろう。つまり、
1.まずもって両者は違いが意識されることなく、混同されてしまう可能性があること
2.特にそれが相対的な問題としてしか捉えることができない場合は、取り上げられている事象の差異が本当に問題と呼ぶに値するものなのか、という点である。
 

 まず、1.についていえば、本書における川島の法意識論の検証は、それを否定する場合は統計的な指標から述べられている傾向が強い。特にこれが該当するのはp134の主張である。しかし、これについては、絶対的な観点からそう述べられているに過ぎず、相対的な観点からすれば正しい主張とは言えない。つまり、日本、アメリカ、中国の3カ国はどの国も多数の者が調停制度を活用すべきと答えているものの、逆にこれを望ましくないと答えている者は「電気器具取替」「交通事故」のケースで日本が明らかに少ない。相対的観点で見れば、アメリカは日本のような調停制度を好まないという主張も間違えではなくなるのである。
 また、「裁判に訴える」ケースについても考え方次第である。確かにそもそも日本人は裁判制度に対する認識が薄いため、裁判所に訴えることが望ましいかどうか「わからない」と言ってよいだろう。そして日本人も裁判所に訴えるとしている割合は、「電気器具取替」「交通事故」について言えば、それを否定する者と比べれば多い結果になっている。しかし、相対的に言えば、やはりアメリカの方が訴える者の割合は日本よりやはり多い。この事実を素直に読めば、「日本人が裁判嫌い」であるという風には言えないが、「アメリカ人が裁判好きである」というのは相対的に見れば正しいという余地があるのである。

 日本人論の多くは統計調査による比較という形よりも、見聞やそもそものイメージの比較といったものからこれを主張する訳だが、この主張のされ方自体が(両者の違いについて言及しない限り)そもそも絶対的か相対的か判断できないといえるものであるし、また多くの場合、相対的なものを絶対視する場合が多い。これは本来絶対的指標であるべきとされる理念型を実際と比較する場合にもそのような議論の還元に陥りやすいものであることから、当然の傾向といえるかもしれない。
 このような議論において悪い意味で阻害要因になっているのが「社会」というカテゴリーであると言ってもよいのかもしれない。そもそも「社会」の傾向というものについては、それが各個人の傾向とずれている可能性については当然許容される。「社会」はある集団なり地理的分類に基づき、その傾向を述べる場合はそれらの集団・地理的なカテゴリーをもって定義付けられるからである。しかし、このような「社会」はいかに実態を捉えるのかが、それ自体で大きく議論になるようなものである。
 本書における川島の議論は相対的な議論に限定する場合、東洋/西洋という区分による比較が有効でないことについてはその通りであるが、肝心の日本/アメリカの比較に限れば、十分に川島の法意識論を批判したことにならないと言う余地はまだ残しているのである。法をアメリカが重視するのは正しいが、よりソフトな「契約順守意識」の問題については、2つの調査では決定的な議論ができないのである。日米中3カ国調査においては、契約順守の問題は、法の議論と結びつけて議論してしまっている。そもそも法に対する信頼というのは、その法の設立経緯などの要素を多分に含んでいることは本書も認めているところであり、純粋な1対1の契約関係について議論しているのはむしろもう一つの22ヶ国の比較調査による指摘である。確かにこの結果によれば、契約順守の意識は日米でほぼ差はない。しかし、この調査は大学生、しかも2つの学部(しかも法学・経営商学という、ある意味契約順守の立場に近い者が集まると想定される学部)の学生に限定したものであり、これを国民性の議論として展開すること自体に無理があるだろう。
 また、合わせてp69の引用にあるような川島の「日本人の人情問題」について直接的に検証した訳でもない。確かに3カ国調査の「金銭貸借」のケースは友人関係の影響を受け、日本よりもむしろアメリカの方が争いを行おうとしない傾向があると言えるだろう。しかし、これで人情の優劣を測るというのは、あまり適切だとは言えないだろう。
 結果として、少なくとも安易に想定されやすい「日本人の法意識」のいくつかについては反証できているが、少なくとも川島の著作である「日本人の法意識」の引用部分に見合った批判が十分展開されていない側面もあることは押さえておくべきだろう。

 さて、2.についてである。基本的に相対的な価値比較しかできないケースが非常に多いものだと私は思うが、この論点はその差異が問題とされるのはいかなる場合か、ということである。これまでも「社会問題」が問題であるとはどういうことか、といった問いや、古いレビューだとウルリヒ・ベックのレビューで述べたリスク・コミュニケーションの議論でも想定してきた論点である。基本的にこれらを「問題」としてとらえる立場にある者は、その外部の問題系であったり、逆にその「問題」となるような状況が生み出してきたメリットについて無視して問題への批判を行う場合が多いように思う。これはその論者が支持する価値観に反することだから、考慮されることがないという単純な理由であることも多いと思うが、そのような簡略化はそう簡単に行ってしまってよいものだろうか?特にその差異が相対的であるならば、その良し悪しの判断はその時点での「状況」にも多いに依存しうるものといえるのである。そして特に「社会問題」という議論は、その問題を拡大化し、問題解決の必要性を訴えがちである。その問題の事実の有無の確認は当然重要だが、「ある」とする場合には、社会に占める程度、及びその影響力の両者を考慮する姿勢がなければ、その問題は一人歩きしかしないのである。私自身が「社会問題」を歴史的に捉えようとする試みをしているのも、このことを測定していくことが重要と考えているからに他ならないのである。

河合隼雄の日本人論の是非は?
 さて、最後に指摘しておきたいのは、本書において河合隼雄が編者・執筆者におり、自身の「父性原理」「母性原理」論を展開している点である。日米の法意識について懐疑的な議論がなされている中で、河合の理論の中には「父性原理」は契約関係として人間関係を捉え、「母性原理」は一体感(共生感)によって人間関係を捉えるとまとめられている(p12)。繰り返し河合は父性原理を西洋の論理、母性原理を日本の論理として紹介してきたのであるが、本書の主張を通すのであれば、河合の議論についても批判的検討が必要だったのではなかったのか、という疑問がどうしても出てくるのである。
 河合は2つの原理の特徴を人間関係に限らず、いくつかの性質からその違いを指摘している。まさに日本人論の厄介な議論の仕方の典型であるように思うのだが、もっともらしい性質を並べ立てて議論しているため、ある意味で契約関係について批判できても、その他の性質については、批判されないため、その2つの原理が欧米的か、日本的かという区別について十分に批判に晒されることなく、正当性が与えられかねない。

 河合の父性原理・母性原理論ついては、日を改めて検証を加えていきたい。


(読書ノート)
p15「ここに詳しくは論じないが、筆者はどちらの原理も一長一短であり、どちらが正しいとは言えない、と考えている。しかし、ヨーロッパ近代において、非常に強い父性原理による文化が、洗練されて強力となり、それは現代につながる、近代科学や個人主義的な考えを生み出して、それが今では全世界を席捲する状況になっていることは、よく認識しておく必要がある。
日本の現状については後にもう少し詳しく論じるが、欧米に比べると、日本は母性原理優位の文化であることは、前述したところからも、推測されることであろう。」
※by河合隼雄
P16「その(※近代の人間に対する反省の)なかのひとつとして、「自然との共存」ということが注目されるテーマとして浮かびあがってきた。言うなれば、父性原理によって、人と自然を切り離すことを反省し、母性原理による、人が自然に「包まれ」て生きる生き方に、価値を見出そうとする人が、現代人のなかに生じてきたのである。」

P39「川島的な理解の背景には、法治の西洋、法なくしても社会が律せられる桃源郷ユートピアの東洋、というイメージがあるように思われる。それがまた、訴訟社会アメリカと訴訟嫌いの東洋というイメージを生んでいるのであろう。このようなイメージどおりの違いがはたして本当に存在しているか否かは、法意識調査からある程度明らかにできるであろう。……この3カ国調査の結果、桃源郷的法イメージは、日本の一部にはみられるものの、現代中国には存在していない。それどころか、法の不可欠性の評価は、中国のほうがアメリカ以上に高いという結果が判明したのである。」

P59川島の「日本人の法意識」p98以下の引用…「アメリカ人は法律、規則、約束をよく守り、またよくそれを利用する国民である。日本人はそれらに対する観念が十分明りょうではなく、情状、義理、人情、友情、真心などを重んじ、それらに頼る。……彼ら〔アメリカ人〕が日本人よりもよく約束を守ることは周知の事実であろう。……日本人が人と約束する場合には約束そのものよりも、そういう約束をする親切友情が大切なのであって、こういう真心さえ持ち続けていれば、約束そのものは必ずしも言葉どおり非常に政策に行わなくても差支えない。……彼ら〔アメリカ人〕にとっては、約束と友情とははっきり別のものだ。」

P69「また、西洋諸国についても、契約遵守意識はさまざまであり、アメリカの契約遵守意識も多くの質問項目では日本人の場合とそれほど変わりがなく、違いがある質問のなかにも、契約遵守意識がアメリカ人の方が高い質問も、日本人の方が高い質問も存在した。この調査をみるかぎり、日本対アメリカないし日本対西洋という川島的な契約意識の差異にかんする図式は成立していない。」
P75「この点で、自国か外国かにかんし回答者が非常に公平な態度を示し、排外的な要素がほとんどみられなかったのが、(※調査対象の22カ国のうち、)日本、イスラエル、ドイツの3カ国であった。……
ただ、これとは対照的に、わが国の近隣諸国には、フィリピン、韓国、中国等、排外的感覚が強い国が多かった。」
※実施は2000年前後と思われる。

P96-97「小括すれば、アメリカが、友人に対しては、法的手段を控える傾向がみてとれた。ビジネスとプライベートは別というアメリカ人のタイプは実際に存在しそうである。また、日本人が借用書をとることが多いのは、日本のほうが、法的手段を好むというより、いわゆる一筆とっておくのであって、必ずしも訴訟に使おうというわけではないと解釈すべきであろう。友人ということは、長期的かつ広範なつきあいなのであるから、別の件で何か頼めることもあるかもしれないあるいは、再び借りにきたときに断る手段にするといったような関係とみるべきであろう。中国が、借用書を取らないのは、借用書の有効な使い方が乏しいからと考えられる。いずれにせよ、3国間で友人の意味するところが大きく異なっていることに十分な留意が必要である。」

P134「以上のように日米中の3国において、友人間金銭貸借トラブルでの「調停制度の利用」はどちらかといえば望ましいとされ、電気店修理トラブルおよび交通事故では「調停制度の利用」が望ましいとされている。逆に言えば、「調停制度の利用」を望ましいとする傾向は特殊日本的でも特殊アジア的でもなく、3カ国に共通の傾向であることが分かる。」
※なお、金銭貸借トラブルについては、日本は「わからない」の回答が最多。また、交通事故における調停制度の活用を否定した割合でいえば、日本は3.2%に対して、アメリカ、中国10%を超えている。また、電気修理事件についても望ましくないの回答は、日本、中国は3%程度、アメリカは8.6%である。
P137-138「以上のように質問16友人間金銭貸借事件におけるアメリカ人と日本人場合以外では、日米中3国において「裁判所に訴えること」はどちらかといえば望ましいないし望ましいとされている。こうしてみると、日本人は訴訟嫌いであるという主張は事実に即さないと言わざるを得ないと思われる。「わからない」と回答する者が非常に多いことから言えることは、日本人にとって裁判が「遠い存在」であり、よくわからないとせいぜい言えるだけだ、ということなのではなかろうか。」
※「望ましい」が日本が少ないのも事実だが、「望ましくない」もまた日本は少ない。

P161「若者に最も必要とされることは、きちんとした規律、ゆるがぬ決意、そして家族と国のために働き、また戦おうとする心である。」と回答した割合、賛成がアメリカ9割、中国78%に対し、日本は36%。どちらともいえないが41%。
P277「韓国では長く軍事力を背景にした、いわゆる権威主義的体制が続いていた。そして、歴代の統治者たちは、そうした体制を維持するための道具としれ法を利用してきた。従って、国民からすれば、法は政治体制を維持するための権力者の道具であって、国民の権利を守ってくれる道具とは到底思えなかったようである。」

加藤美帆「不登校のポリティクス」(2012)

 本書は、学校ぎらい・登校拒否・不登校といった学校に通わない子どもをめぐる議論の変遷を追う中で、そこに内在する政治性について述べた本、のようである。
 私は以前松下圭一のレビューの中で、一般的な「ネオリベ批判」の言説に対して、否定的に捉えていると述べた訳だが、本書はまさにそのような「ネオリベ批判」の文脈に位置付けられる典型といえる一冊ではないかと思い、今回その問題についても言及していく。

 私自身の問題意識として、70年代以前の議論の忘却をした論考については、問題があるのではないかと考え、70年代より前の著書を多く読むようになったことはすでに述べてきた。これももともとは、70年代末の臨調、そして80年代の臨教審あたりから日本の政治性として述べられるようになった「新自由主義ネオリベ)」の議論の影響を大きく受けた形で教育の議論もなされるようになってきており、むしろその「ネオリベ批判」における政治批判ありきの論調を強く感じていたからであった。

 確かに本書の「不登校」の系譜は戦後直後からの、まだ学校化されていない農村・漁村の登校率の低さの提示と、当時の「学校に通わないこと」のコンテクストが当然今とは全く違ったものである(通学よりも労働そのものに価値を感じる保護者による、通学させることの拒否があった)という話から始まってはいる。しかし、本書は極めて筋書きありきの議論をしてしまっているがゆえに、結果として都合のいいデータにのみ依拠してしまい、私自身からみれば、事実を曲解しているようにしかみえないのである。


○新聞記事の取り上げにおける2つの問題について
 これについて2点指摘しておこう。まずはp12-13で語られている論点である。つまり、80年代後半の不登校問題(当時はまだ登校拒否と呼ばれていた)においては、「いじめ」との関連付けがなされていなかったかのような語りをしている。これはネオリベ批判の系譜から言えば納得してしまうような内容である。確かにこの時期、少年犯罪の第三のピークが過ぎ、非行問題は落ち着きを見せ始め、臨教審の答申が出されるようになった1980年代半ばから後半にかけては、相対的に進学問題がホットな問題となっていた。この影響から80年代後半に答申を出す第17次中教審においても、進学問題に終始していたと、当時の審議会にも関わっていた市川昭午も述べている。

「このように審議会の審議が大学入試の問題に集中したことから、委員諸公の視野には概して高校生の上位半数の者しか入ってこなかった。その結果、高校卒業生の半ば近くを占める非進学組ないしは就職組に関する問題が、審議の対象から落ちこぼれてしまった。全く無視さええたとはいえないにしても、残余の問題として副次的に扱われたにすぎない。
確かに銘柄大学をめざす受験競争に心身を擦り減らすトップ層にも問題があることは否定できないが、それ以上に高校教育から逸脱しかねないボトム層の問題のほうが量的にも大きく、質的にも深刻である。教育問題の多くは進学校よりもいわゆる底辺校で生じているし、受験競争に参加していない生徒がより多く問題を起こしているのである。」(市川昭午「臨教審以後の教育改革」1995、p53)

 しかし、本書で引用された1987年の記事の内容だけをみると、進学問題と登校拒否の関連性がはっきりとみえてこないのである。それもそのはず、元記事にあたってみたところ、該当の記事は同じ一面記事の別々の記事として記載されている内容をこのように解釈しているのである。確かに該当の2記事は一面に記載され、連続した記事であるものの、通常解釈すべき両者の記事の関連性は、直近に公表された文部省の「学校基本調査」の結果をそれぞれ取り上げたにすぎないだろう。両者を加藤のように関連付けて議論しようとすること自体が「普通に読めば」ミスリードであると言わなければならないだろう。
 更にいえば、いじめ問題と登校拒否の問題は、別の記事をさがせば、当時にもはっきりと関連付けて議論されていたことが確認できるのである。

「だが、この事件自体のつらさを超えて、より重苦しくのしかかってくるのは、一体いつまでころした悲劇を繰り返せばすむのか、というやりきれなさである。子どもたちの間に陰湿ないじめが広がっている事実を、大人たちが知って久しい。
登校拒否の増加がこれとかかわっていることも分かっているし、いじめに耐えかねて自殺した子も、もう何人も出ている。(朝日新聞1984年11月13日朝刊社説「悲劇から何をくみとるか」)

「中学校の登校拒否が六十年度に過去最高を記録し、中でも「いじめ」にからむケースが相当あることが九日、文部省の実態調査でわかった。「荒れる学校」の象徴といわれた校内暴力も、ピークは過ぎたが、減り方が鈍りはじめた。自殺も増加に転じており、子どもたちの問題行動全体が姿を変えながら深刻化していることを示している。」(朝日新聞1986年12月10日朝刊一面記事「登校拒否、10年で3.6倍」)

 これらの内容を踏まえると、p12-13の指摘は事実無根であり、むしろデータの操作も含めた悪質な議論の捻じ曲げまで行ってしまっていることがわかるのである。政治的議論への追随ありきに見えてしまう典型的な部分である。


 2点目はp176周辺の議論についてである。ここでは70年代には登校拒否を家庭問題として取り上げられていたものが、80年代になってから、奥地圭子の例を挙げながら親からの登校拒否に対する批判的議論が学校制度そのものへの問いかけへと向かっていったこと、そしてその根に横たわっているネオリベ政策について言及されている。
 ここでの問題の論点は「責任論」である。これについても新聞記事を見返してみたが、確かに70年代には総じて登校拒否が「学校恐怖症」とも呼ばれていたように、「病理」というよりも「病気」というカテゴリーとして位置付いていたといってよいと思う。そしてその位置付けは久徳の「母原病」の話を考えるとわかりやすい。ある意味で登校拒否も「母原病」のように見る考え方が当時には少なからずあったのである。
 もっとも、そこに含まれている「責任」というのが、露骨な「親のせい」であったかどうかは疑問もある。なかったと言えば嘘になるであろうが、山村賢明やパーソンズのレビューの際にみてきたような「親の責任論」については複数の捉え方が可能なのであり、どちらかというと、結果的に家庭への責任が付与されてしまっているという性質が強いのではないかと思う。いわば「子育て」と「登校拒否」が密接に関わっているものと考えられていた以上、育児の一次的な責任者は親でしかありえないからである。

 確かに、朝日新聞、及び毎日新聞の記事を読む限りは家庭の責任論の域を抜け出した議論はほとんどない。しかしながら、全てとはいえない。80年代に見られるようになったという「学校責任論」は、すでに70年代の記事にも散見されるのである。

「以上のような登校拒否相談件数のうち、中学生の占める割合は約二五%である。こうした急増は最近の塾、家庭教師、越境入学、業者テスト、偏差値、入試などにみられる教育の第二次荒廃現象とやはり密接な関係がありそうである。」(朝日新聞1976年4月29日「登校拒否、病む」)

「子どもの登校拒否は子どもや親の側の特異なケースとして切り捨てないで、学校教育の問題として問い直すべきだ――小、中、高校で増え続ける子どもが大きな問題となっているが、四日、東京・千代田区公会堂で開かれた日本児童精神医学会の第十九回総会のシンポジウムで、子どもや家庭環境の問題としがちだった対応の“盲点”を指摘する声が強く出された。……
とくに、思春期に画一的なワクに多様な子どもをはめ込もうとする時、最も登校拒否が起きやすいと言い「教育を子どもにあったものにすべきだ」と主張した。」(毎日新聞1978年11月5日朝刊「登校拒否は「学校教育に問題が」児童精神医学会強い声」)

 また、毎日新聞の1978年1月28日毎日夕刊記事では、日教組教研集会において、登校拒否における母親の責任の問題について触れていたことを報じているが、この記事のタイトルも「登校拒否、母にも責任」であった。ここでいう「も」とは母以外の誰なのか、記事中では明記されていないものの、必ずしも登校拒否について母親(家族)のみの責任ではないと考えられていたことの示唆なのではないかとも読めるのである。

 一方、読売新聞については、両新聞とは少々論調が異なり、登校拒否が問題視されるようになった70年代初頭の時点からすでにこの問題を親の責任として読んだり、自己責任の問題(※1)と捉えるべきではなく、学校制度の問題である、という論調も強かった。

「この資料から、同相談所(※武蔵野市教委の教育相談所)では家庭で甘やかされるのが登校拒否の原因だとし、水泳やマラソンで子どもをきたえたり、いやがる子どもを強引に学校に連れていったりする生活療法の効果を具体的に示している。
家庭で甘やかされる子どもに登校拒否は多いことは、指摘のとおりであろう。しかし、原因の大きな部分が家庭のしつけにあると判断することには疑問が残る。子どもたちが行くのをいやがる学校のほうには原因がないのだろうか。……
ささやかなこの実戦から、登校拒否の原因は学校にあると即断するのは、つつしむべきかもしれない。だが、義務教育なのだから、子どもは学校に行くのが当然だとし、その学校の教育内容や方法に子どもがなじまないのは、子どもが悪いのだとする考え方には反省の必要があろう。」(読売新聞1972年3月1日社説「登校拒否の原因はどこにある」)

「東京都立教育研究所の調査によると、小、中学校の子どもに多い登校拒否が高校生の間にまで広がっているという。同研究所は、高校生にも多くなった登校拒否の理由として?高校が義務教育化し、能力の低い子どもまで入学していること?高校では激しい受験戦争があり、生徒間の友情や連帯感が薄くなっていること?また、家庭では親が子どもに過大な期待をかけ、大学への進学を奨励していることの三つを挙げている。」(読売新聞1972年9月5日社説「高校生の登校拒否への対策」)

 毎日、朝日はこの時期「家庭」や「健康」に関する誌面で登校拒否を捉えつつ、家庭での子どもへの態度の取り方を問題提起した記事しか出していなかった。朝日新聞に関しては武蔵野市教委の教育相談所の指摘については追随する形で記事を作っていたくらいだったにも関わらず、読売はそのような態度自体に疑問符を付け、学校制度の問題であるのではないかと問題提起するのである。もちろん、読売についても登校拒否を病気として捉える傾向があった訳だが、それと同じ位学校制度そのものの批判として登校拒否を捉えていたと言えるのである。

 私自身の「教育問題」に対する認識では、70年代末頃から、教育問題が大きく取り上げられるようになるについて、「教育荒廃」という現象がひとまとめにされた形で議論されるようになったのではないか、と考えてきた。そして、そのようなひとまとめにされた教育問題の責任所在もまた、非常に曖昧なものとしてみなされるようになったのではないのか、いわゆる「学校・家庭・地域」という3セットでの連携により教育問題に取り組むといった姿勢が、(良いのか悪いのかは別にして)個別の病理問題の性質の違いについての議論を弱めてしまったのではないのか、と見てきたのである。そのような見方からすれば、加藤のような責任主体が「家庭から学校へ」というストーリー自体に違和感を感じるのである。むしろ「学校も家庭も」責任が問われるようになったのがこの80年代だったのではないだろうか(※2)。


構築主義に対する雑感
 最後に本書が採用している「構築主義」(p73)の考え方について。この議論は「政治」と「学問」の関連性で言うならば、学問は全て政治的性質を帯びるということを強調する立場と言える。これ自体はヴェーバーの議論で確認したように、間違いとはいえない。結局他人の解釈の仕方に厳密な意味で干渉できない以上、不可避的にそのようになる性質はあると言わざるをえない。しかし他方で、本書もそのような印象を受けるが、「政治」と「学問」という区別自体を放棄し、「全てが政治的議論だ」と言ってしまっている印象が強い。それを言ってしまえば、本書もまた(というか世間に流通している学術書自体が)「学問的な本」と呼ぶに値しないことになるだろう。このような議論は本書で展開するネオリベ批判にも非常に都合がよい「学問的(?)立場」なのである。本書が構築主義を殊更強調するのは、恐らく「学問的(?)立場」の表明の意味で、それこそ学術的な意味で必要なものだということは理解できるものの、どうにも私にはご都合主義的な側面が見えてならない。
 結局の所、構築主義にみられる政治的側面の強調自体が、冷静な現状分析を行うための視野自体を失わせてしまうのではないか、と思ってしまうのである。そもそも構築主義においては、「冷静な現状分析」なるものが不在なのではないかという見方を示してしまうからである。しかし、それは実証的に示されている訳ではないのではないか(※3)。だからこそ私は構築主義自体に疑問を持っているのである。



※1 読売新聞1972年3月1日社説記事にも「子ども自身」の問題として登校拒否を見る議論の可能性が見いだせるが、加藤の議論からはこのような観点が提出されていないのも問題であるように見えてしまう。特に「学校制度批判」としてこの登校拒否問題が取り上げられる場合、「学校の責任か、親の責任か」ではなく、「学校の責任か、子どもの責任か」で議論されている傾向の方がむしろ強かったのではとさえ思える。実際、本書で参照されている奥地圭子の認識もこれに近いといえる。そして、このような「家庭責任論」への過剰な視点付与も、加藤のいうネオリベ政策ありきの議論をしているからではないのか、と考えたくなるのである。

「逆にこの本は、「どんな学校なら必要か」を考えてほしいという問題提起でもある、と本文でも述べた。学校離れを起こしている子どもたちを「直そう」とするのではなく、子どもが背を向けていく学校を問い直すことのほうが必要である。子どもをめぐるどんな問題も、子どもの側に立って、子どもの人格と人権が本当に尊重される中からしか本質的解決は生まれない。」(奥地圭子「学校は必要か」1992、p222)


※2 余談だが、おそらく加藤が朝日新聞の記事に依拠して分析を行ったのは、単純に朝日新聞の新聞データベースである「聞蔵」にアクセスできる身近な環境にあったからだろう。実際、私が所属していた大学院でも、研究室のPCからアクセス可能だったのは聞蔵のみだったし、実態に統計は取っていないが、一紙の新聞記事を分析した研究は朝日新聞に依拠したものが最も多いだろうと思う。
 しかし、大衆紙として最も読まれていることはあくまで読売新聞であり、社会的影響力を考えるならまず読売にあたるべきではないかということ、そして私自身も3紙のデータベースにあたったわけだが、ここ数年来そのようなデータにアクセスすることはかなり容易になっていることからも、他紙の状況くらいの簡単な確認は著者自身もすべきところだったのではないかと思う。おそらくこのような物語を作り上げてしまったことの一因は朝日新聞の記事のみに依拠してしまった点も大きいといえるからである。


※3 本書でも言及されているシャンタル・ムフの議論なども少し読んでみたが、どのような事情があるとしても、下記のように「調和」の存在を否定するような言説は一般的には支持できない。構築主義における政治的態度というのも、結局はこのような見方のもとに成り立っているといえるだろうが、このこと自体が(たとえある程度実証的な側面でそう言えるとしても)一つの価値判断の域を越えているものではなく、そのような価値の先取りによって「学問」と「政治」の区別も全面的に(どのようなケースにおいてもまとめて)否定されるような議論はなされるべきではないと私は考えるのである。

ポスト構造主義による視座は、近代民主主義の種差性を把握するうえで、あらゆる同一性の可能性の条件と同時に不可能性の条件をも表象する還元不可能な他性の主張とともに、合理主義的アプローチよりもはるかに優れた理論的枠組みである。「構成的外部」の概念によって、対立と抗争性の永続を示唆する多元主義の理念へと導かれるだろう。実際、対立や分割は、不幸にも完全には取り除くことのできない妨害として、また調和によって構成されるひとつの善の十全な実現を不可能にする経験的な障害として理解されるべきではない。そもそも私たちは合理的で普遍的な自己と完全に一致することはありえないのだから、そうした調和に到達することはありえないのである。」(シャンタル・ムフ「民主主義の逆説」2000=2006、p51)


(読書ノート)
p12-13「先に挙げた2007年の記事と比較すると、20年を経て「問題」のあり方は大きく変わった印象を受ける。たとえばその理由や背景については1987年の記事は、18歳人口の増加と大学短大への進学希望者の増加によって大学が「狭き門」になっていたことが問題とされ、それと並んで「登校拒否」は注目されている。それに対して2007年の記事では「いじめ」との関連が強調されており、問題をとらえる文脈が大きく変わったことが分かる。」
※1987年の記事出典は朝日新聞(8月11日朝刊)。学校ぎらい、ないし登校拒否といじめの関連性が議論されていなかったとでもいいたいのだろうか?しかも、必ずしも関連性として進学者増加(受験競争)との因果が語られていることが確認できない引用である。
P25「しかし、この『第2集』(※2004年の生徒指導資料)においても、心理的、情緒的な側面を強調するニュアンスは強い。たとえば家庭の貧困、不安定な生活環境がもたらす学習への動機付けの弱さや、また外国籍の子どもたち学校への文化的不適応といったケースについては指摘がない。保護者による虐待についても、その社会的な背景についてはふれられておらず、長期の欠席を社会的・文化的な現象とみる視点は明示されているとはいえない。」

P45「先進国においては国家の経済的危機を救うと同時に、その凝集性としてのナショナリズムの新たな構築の必要性が1980年代には先鋭化していたのである。その解決が教育に求められたのであり、1980年代から先進国を中心に進められた教育改革は、国家の経済的危機を救うと同時にナショナリズムの強化を企図していたといえる。」
P49「また、学校中心の社会への批判がこの研究の主題となっているが、その主張の背景には、それまで登校拒否が「家庭の問題」と扱われてきた経緯がある。第1章で参照した『生徒指導資料第18集』(1983)では、登校拒否の原因として家庭の養育態度をあげ、過保護である、親が子の言いなりである、過干渉である、といった記述で家庭のあり方を問題としていた。このような解釈の枠組みのなかで、子どもの登校拒否を背景にした家庭での親殺し・子殺しの事件がいくつも報じられた。これらは家庭の責任、とりわけ母親の養育責任を問う社会的風潮のなかであらわれた事件だったが、そのなかで親同士が結束し、学校中心の社会のあり方に異議を申し立てる運動が1980年代には各地でおこった。」
※批判が研究の主題という言い方もおかしくないか?

P72「それまで不登校を契機にした運動の中では、不登校の経験について、自らの「選択」というかたちで肯定的な語りが多くなされてきたことを、(※貴戸理恵2004は)当事者たちへのインタビューをもとに問い直したのである。しかしながら不登校の当事者とその親や居場所の関係者との間を峻別し、あくまで〈当事者〉を強調する主張は、むしろ当事者なるものを単一な実体として本質化する危険性をはらんでいる。それは同時に、不登校に対する病理としての解釈を脱構築してきた社会運動を無力化する主張も含んでいたといえる。「選択」というロジックを問うのなら批判するべき対象は、既存の学校の改革の必要性という主張に呼応するかたちで教育改革の正当性をつくっていったニューライトによる支配的言説である。不登校が社会的な不平等と結びついていながら、当事者の自発性や主体性を前提とした語り方によってそれが不可視化しているのなら、「選択の重視」という知の構成によって矛盾を見えなくするという新たな支配の形式を、より広範な文脈と結びつけて議論すべきであろう。」
※本書における家族責任論の単一化にこの議論が適用されないのはなぜだろう。

P73「ここまで見てきたように不登校とはきわめて論争的な概念であり、それをいかに把握し、意味づけるかをめぐって、これまで多くの葛藤と議論が重ねられてきた。さきに確認したように、本書は構築主義に立脚して「不登校」とはつくられた問題であると考える。「不登校」という認識の仕方、問題のとらえ方や呼び名はどのようにつくられ、それが「当たり前」になっていったのか。それは見方を変えれば、学校に行かないことをいかに定義するかによって、就学の自明性を裏書きする過程であったといえる。」
※結局構築主義の問題と読むべきか、それとも本書自体が構築主義もどきでしかないとみるべきか。結局その政治性の問題をフーコーとは異なり一面的に解釈しようとしているように見えてしまうことが何より問題なのである。

P118「この1958年度の全国版の報告書(※長期欠席児童生徒調査)と東京都版の報告書の間の現状認識のずれは、この年を境にした全国調査の終了と、東京都独自の長期欠席者調査の開始につながる。そしてここには「長期欠席者問題の解決」という認識が、当時の政治的な過程のなかでつくられたものであったことが読み取れる。
ひとつには全国調査把握には表れない長期欠席者の状況の多様性が、自治体による認識には表れていたとみることができる。それは同時に、国の教育政策を方向づけるイデオロギーが機会均等から能力開発へと方向転換を迎えようとするなかで、教育の量的な普及という課題に一定の成果を見出そうとする中央省庁の政治的な意図を読むことができる。
他方でこのずれは、文部省が煽り続けてきた長期欠席者の状況の多様性が、自治体による認識には表れていたとみることができる。それは同時に、国の教育政策を方向付けるイデオロギーが機会均等から能力開発へと方向転換を捉えようとするなかで、教育の量的な普及という課題に一定の成果を見出そうとする中央省庁の政治的な意図として読むこともできる。
他方でこのずれは、文部省が煽り続けてきた長期欠席者のあぶり出しと微細な把握というまなざしが、自治体や学校関係者に自律的に内面化させていたことを端的に示している。」
※ただの根拠なき仮説に過ぎない。1952年の長期欠席者率全国平均3.76から58年に1.80、59年には1.29にまで減少していることから、単純に問題が縮小したに過ぎないと解釈する方が普通かと思われる。何より加藤は都が調査を始めた理由を勝手に代弁しているに過ぎないのである。ところで、東京都以外の自治体はどう考えていたのか何も示されていないが、それについてはどう考えるのか?たった1ケースの提示(しかもケース抽出の根拠不明瞭)によってなぜこのような主張ができてしまうのか??もしこれが成り立つのであれば、文部省の意図が読み取れる(もちろん、長期欠席者問題を能力開発政策によって排除しようとする)文章の一つぐらい引用してみたらどうか。それを示さない限り、ただの疑似相関をもっともらしく説明しているにすぎない、というレベルの域を超えない。しかも自治体を煽ったのは本当に「一方的な権力者」とみなされた文部省によるものだったのだろうか?

P122「これまでみてきたように、1950年代から60年代にかけての「長期欠席者」の減少のプロセスとは、中央省庁と東京都教育委員会それぞれの現状認識、重層化した「実態」、そして機会均等から経済成長への戦後教育政策の方向転換、それらが潜在的な緊張関係をもちながら節合していった過程と考えることができる。長期欠席者の減少とは、戦後の新学期の定着とシステム化とともにきわめて短期間のうちに実現したが、しかしそこには数字のうえでの減少には集約しきれない、社会的・文化的断層が残存していたと考えられる。そして1960年前後には、教育の機会均等を掲げ、学齢期の子どもを徹底して学校の秩序に組み込もうとした力が、能力と適性による階層秩序化の力学へと転換をむかえるが、そこで新たに注目されていくのが、「学校ぎらい」による長期欠席者なのである。」
※一文目の話について、「現状認識の違い」「教育政策の方向転換」については根拠がない。
P127「能力開発は社会の発展と福祉の拡大をもたらすという図式は、機会均等と競争の両立を可能にしたのである。こうした政治的文脈のもとで、長期に欠席する子どもの把握にしたのである。そうした政治的文脈のもとで、長期に欠席をする子どもの把握においても質的な転換がおこったのである。」
※ここでいう政治性は明らかに権力者からの一方的な働きかけを前提にしている。

P153「「登校拒否」を「学校ぎらい」に読み替えるという把握の仕方はさきにみたように1970年代から学校においてすでになされ始めていた。しかし、そこにはそれまでの『生徒指導資料』で繰り返し問題とされていた「登校拒否」だけでなく、非行や怠学と見なされるような生徒の状態も含まれていたと考えられる。」
※これは登校拒否が初期には精神遅滞や学校への価値観(労働との関連)、ないし本書では語られないが大人の社会運動的な側面を持ち得たことと関連するが、これも本当に正しいか検証してもよい問題である。
P157-158「そうした子どもたちの長期の欠席の顕在化は、臨教審以降の教育改革のなかでおこった学校、地域、家族の再構造化のなかでの諸変化、またより広く見れば新自由主義新保守主義の一体化した政治改革のなかでの教育と就労の関係の再編、グローバル化による流動性の高まりといった社会の様々な領域の変化とも無関係ではない。ここで示されているのは、長期の欠席を社会変動のなかでの、教育を通じた社会的排除の具体化のひとつとしてみる必要性である。」
※ここで社会的排除とは、結局「長期欠席とされる者の裾野の拡大によって、欠席に背景がより見えにくくなったこと」(p157)と関連していると思われる。しかしこれはひとつ不登校の問題だけはなく、すべての教育病理を「網羅的」に把握し始めた態度そのものに向けられるべきだろう。もっとも、それまでの教育病理の捉えられ方についても検討しなければならないのであるが、それ以前の問題意識も褒められたものとは言い難いのではないか。結局ある種のないものねだりの領域の議論であることに変わりはないのではなかろうか。もしくは、そのような「網羅的」言説に加担してしまっていること自体を問題にし、具体性ををあぶり出すような態度そのものが必要なのではなかろうか。

P176「これらは登校拒否を家族の不和をもたらす「悲劇」としてセンセーショナルなかたちで伝えるものだが、こうした語りには近代家族規範にもとづく親役割の再強化をみることができる。」
※これ自体は誤りと言い難い。
P178「また『「拒否」は病気じゃない 個性抑える学校に原因』(1987.10/24)以降、登校拒否を通じた学校教育への批判が続く。」
※ストーリーとしては、家庭責任論から学校問題が派生したという語りである。そしてこれが教育改革論における学校問題視と共振していたとみている(p179)。これが正しいかどうかの検証が必要。1972年から1983年までを家庭責任論の時期みる。合わせて、80年代後半から登校拒否の病理論的語りが解消されていったとも述べている。

P200-201「ポスト福祉国家における家族は、性別役割批判と集団性が弱まった不安定な関係にありながら、教育や福祉に関してはより多くの役割が課されている。新自由主義的な教育改革が進むなかで選択と投資の主体として、家族は子どもの教育を方向づけるうえでの重要性が増しているのである。」

竹内洋「革新幻想の戦後史」(2011)

 本書は、進歩的文化人を中心にした「革新」の思想周辺の戦後の変遷を追ったものである。
 全体としては多分に実証的な議論に基づいており、「進歩的文化人」の異端さを浮き彫りにするのに一役買っているといえるだろう。以前、大久保のレビューで紹介した「旭丘中学校」問題についても、当時の新聞・資料を用いながら3M教授といった「教育学者」がいかに偏った見解を示してきたのか、その偏りを生みだしたであろう「民主主義的思想」の断片も含めて描いてみせているといえる。
 大久保の議論においては本書で語らせたような政治的な視点からの「旭丘中学校」問題は見いだせなかったが、階層差による支持層の違いや、共産党系教員の多さといった背景が状況を鮮明にしているといえるだろう。また、いわゆる「逆コース」の一環としての教育二法の成立の議論についても、私自身読んできた教育系の本においては、「国家の教育への干渉」という文脈での批判の論調しか読み取れていなかった訳だが、少なからず世論自体がこの「教育への干渉」について共鳴していたという動向もあったのだと理解した(cf.p196)。更に、今はどうか知らないが(少なくとも私が大学院にいた頃はそのような雰囲気の影響を受けずに研究を行うことができる環境にあったが)、教育界における反革新思想に対する排除の傾向が過去にはあったことについてもよくわかる内容であった。当時の教育学が(経験)科学でありえなかったという見方は、ヴェーバーの議論を読んでいた際にも強く感じていたが、そのような見方というのは、かなり前から、明白な形ではないにせよ語られきていたのも本書では示されていた。

 長浜功の著書については、以前私も読み、概ね竹内と同じ感想だった。強いて言えば、長浜が挙げた10数名の教育学者は全て問題があるという結論であったので、長浜の基準で曲がりなりにもよかった例がいなかったのかを検証してもらいたかった。また、結局長浜は戦争に加担した言説は全て悪いし、それについて戦争へ加担したことへの反省の姿勢がないならなお悪いとしていたが、「戦争責任」という言葉について少々煩雑に扱っている傾向もある気がしたので、「責任」とは何なのか、「戦争」が問題があるのならどのような言説を語らねばならないのか、といった建設的な議論をする余地はなかったものかという感想があった。
 しかし、長浜は宗像誠也についてはその中でもかなり好意的に評価している(戦争責任はあるが、その反省についてはしっかり語っており、「まし」な方であるとする)にもかかわらず(※1)、教育界ではそれも無視するという排除的な雰囲気があったことを、本書では長浜から直接聞き取っている(p176)。まだ印象論でしかないが、そして旭丘中の事例においてはそうといえるが、このような「革新」の教育論者というのは、自分に都合の悪い事実について、事実そのものがあたかもなかったかように扱い、何ら内省的態度をとるような様子がないように思う。そういう意味では、長浜の著書についても、同じように扱われたということなのだろう。


○戦後の日本人は主体的たりえたのか?
 本書における竹内の「解釈」は総じて、よく言えば大胆であり、悪く言えば大雑把である。確かにこの大雑把な解釈は実証的なデータでかなりの部分補うことができているために、本書はかなりの良書の部類だと私自身感じた所である。しかし、他方で論点によっては実証的裏付けのないまま大雑把な解釈をしている部分もいくつかあったため、その点について指摘しておきたい。
1つは、p48にある、戦後の日本の敗戦に対する4つの感情論についての議論である。ここで「二十四の瞳」の話を持ち出したが、木下恵介の映画が当時の民衆に受け入れられていたことを考えると、少々この4つの感情論は問題含みなのでないかと思う。
 佐藤忠男によれば、「二十四の瞳」が描き出したのは、戦中期の子どもたちを媒体にした、「徹底的な弱者」像あった。それは、ただの弱者ではなく、「美」としての弱者であったとみている。

「もっとも、弱い者がただ弱いだけであれば、これはみじめだということにすぎない。また、弱い者が強い者に追随しているのであれば、これは卑屈であるにすぎない。感傷的であるためには、弱い者がただ弱い者だけあってはならず、強い者に追随してもいけない。感傷的であるためには、弱い者が正しく美しくなければならないのである。そして、正しく美しい自分が弱いということを、残念がり、悲しまなければならないのである。」(佐藤忠男木下恵介の映画」1984、p171)

 そしてこのような美の描写においては、敵や強者といったものが存在しないような、まさに純粋無垢な弱者を描き方をしているのであった。しかし、ここには、一種の忘却が含まれている。それが加害者たりうる日本人像であったという。

「しかし、こういう弱くて善良なだけの人間であったら、日本は侵略戦争なんか出来るはずもなかった。強くて悪い奴もいたわけである。また、一般的に言えば弱くて善良と言っていいような人たちのなかにも、よく見れば強くて悪い側面もあったであろうし、一見善良そうな人間も戦場では強くて悪い奴に変貌したにちがいない。ただ、この映画では、弱くて善良である面以外は省略され、省略されたことが不自然には感じられないほど、弱さと善良さのイメージが重層的につみ重ねられている。……そのように印象づけられるからこそ、軍国主義教育の実体が省略されても、戦場での教え子たちの侵略者としての姿が省略されても、とくに不自然には感じられないのである。なぜなら、それは本質外のことなのだから。」(同上、p174-175)
 そして、ここで押さえるべきは、このような「弱者」に主体的な態度表明がありえないということ、「個」という概念自体が存立しえないことである。なぜなら、彼らは「個」として生きていくことができない位に「弱者」として描かれているのだから。そう考えていくと、竹内の4つの分類論というのは、この「主体・個」の成立を前提にした上で、戦争をどう感じ、どう今後行動していくのかという議論を行っていた点で、この「二十四の瞳」の「弱者」観とは相容れない発想だということがわかるのである。そして、もし「二十四の瞳」の聴衆が望んでいたことが、この「弱者」たちと同一化し、一種の戦争への浄化にあったとみるのであるならば、これら分類論とは別の非主体的な軸による分類が実際にあったという議論ができるのである。
 もっとも、竹内が分類を行っていたのは、当時の戦争に関連する「言説」をもとにした、メッセージの発信者の態度の分類論としての議論でしかなかった可能性もあるが、当時の戦争受容という観点からすれば、看過できない問題なのである。


○革新思想はエゴイズムの表出が問題だったのか??
 また、もう一点無視できないのは、革新思想の衰退についての理由づけの部分である。P503⁻504に見られるように、竹内はこれを日本人のパーソナリティの変化、エゴイズムの表出として描き、それを革新思想の衰退と結びつけている。これについては残念ながら裏付けされたデータ等は提示されていない。そして、私自身はこの主張についてかなり疑わしいものと考えている。何故なら、このようなパーソナリティの変化は少なからずあったことは認めるとしても、それ以上に、そのようなエゴイズムの思想を問題するような社会的認識の方がむしろ強まった結果だと考えるからである。
 この論点は松下圭一の議論ともかなり密接に関連してくる。松下もまた地域エゴの問題について、70年代はまだ擁護するような態度を見せていたように思うが、次第にこのような議論が通用しないような、利得権益批判に終始するようになった。そしてこのような利得権益批判というのは、むしろ当時の時代背景、丁度二度の石油ショックを受け、日本の景気向上が確たるものとならなくなった時に、そのようなそれまでの行政支援の在り方が見直しをされるようになったことと(少なくとも、パーソナリティの変化よりは)強く関係しているように思えるのである。そして、特に革新自治体の衰退の議論は、このような日本の動向を無視できなかっただろうと思うのである。

「以上のように、革新自治体は、全国の自治体にも国政にも影響を与えたが、一九七九年統一地方選挙の前後から衰退していった。その要因はなんだったのだろうか。
第一の要因は、保守政治勢力による系統的な革新自治体対策である。自民党は、一方で自治省などの国の各省、右派メディアと結束して「革新自治体でのばらまき福祉による財政危機」キャンペーンを七五年から七九年にかけて展開した。他方で、七〇年代後半に民社党公明党との協力関係を深めた。」(渡辺治編「日本の時代史27 高度成長と企業社会」2004、p246)

 また、革新勢力を「エゴイズム」の問題のみにとどめてしまうのは、松下が行った社会教育批判と同じような排除の論理を生むことにもなりかねない。結局「エゴイズム」なるものの具体的な問題系に言及しなければ意味をなさないにも関わらず、エゴイズム批判は「無駄なものを省く」という大義名分の下、具体的検討を省いて機能してしまっていること自体が問題であり、竹内の主張もまた、このような議論に加担してしまうのである。
 竹内自身はこのエゴイズムの問題以外でも、「教育ママ」言説の取り扱いについて、教育ママ言説が流通していることと、実際の親が教育ママではないと言っていることのズレを、「自覚の欠如(=個人のパーソナリティの問題)」として捉えていた(p317-318)。しかし、広田照幸が「少年犯罪の凶悪化」言説において実証しているように、その言説が単なる社会問題の過大表現でしかない可能性もあるのである。特に「社会問題」は、ある一つの、「異常な」事件がマスコミを媒体に伝達される時点で、すでに一種の過大さを持ち合わせているのである。実際の所、実在と言説の乖離がある、という十分な立証はできないものの、だからといって竹内のような解釈をするだけの立証材料も用意されていないのである。

 竹内は本書の後に出た「大衆の幻像」でも、このようなパーソナリティを変化させた「大衆」に対する批判を明確に行っているのだが、このような主張は安易に受け入れるべきではないだろう。

「しかし、一九七〇年代に生じてきた大衆は、常態においても庶民性(吉本のいう「大衆の原像」に近い大衆)ではなく、大衆的大衆である。いい換えれば、大衆人そのものの誕生なのである。では大衆人とはなにか。
『大衆の反逆』を書いたスペインの哲学者オルテガ・イ・ガセットは、大衆人をこういう。自分の道徳的・知的資産は十分とおもう「慢心しきったおぼっちゃま」であり、自分が凡俗であるのを知りつつ、「敢然と凡俗であることの権利を主張し、それをあらゆる所で押し通そうとする」。「喫茶店の会話から得られた結論を実社会に強制する」ともいっている。」(竹内洋「大衆の幻像」2014,p14-15)


※1 余談であるが、私自身は宗像に対する評価はかなり低かったため、長浜のこの宗像への言及について、ある意味で革新思想を擁護しているのではないかとさえ思った位である。他の論者における宗像評としては、次のような指摘もあった。

「宗像の教育運動概念の特色は次の点にある。まず第一は、教育運動を権力との関係において規定したことである。反権力性こそ、教育運動を教育運動たらしめるメルクメールである。これは、裏をかえせば、権力に連なるような運動は、教育運動の概念から排除される。しかし、反権力とは、「権力の支持する教育理念とは異なる教育理念」を支持することにほかならず、「異なる」か「異ならないか」の判断は、もっぱら宗像の価値観・世界観によって決定されるため、その規定は、きわめて主観的かつ恣意的な要素を含んでいる。自己の意にそわない運動は、恣意的に教育運動の概念から排除される場合もありうるのである。」(岡村達雄編「教育運動の思想と課題」1989、p183)


<読書ノート>
pv-vi「こうしたキャンパス文化のもとでは、よほどの保守的思考の持ち主でなければ、大勢(革新文化)に抗することができない。保守派は、バカ者か変わり者とされ、友人をこしらえるにも窮する。いずれかと言えばという程度の保守的思考であれば、萎縮してしまう。さきの東大生・京大生調査でも「わからない」が学年を上がるにつれて、社会党支持に回っているように、立場を決めかねている者なら、次第に革新文化に同化されてしまう。だから当時の大学キャンパスでは、マルクスレーニンを知らないのは言語道断。いくらかでも異議を唱えればバカ者扱いされた。保守的教授は、学識のいかんを問わず、無能で陋劣な教授に見られがちだったし、左派に同情的な教授はそれだけで話のわかる良心的教授であった。左翼に媚びていると思われる教授も少なくなかった。」
※「というのも、わたしたちの世代、たぶん一九七〇年あたりまでに大学に入学した世代にとって、革新幻想はキャンパスの空気(世論)そのものだったからである。」(piv)特に国立有名大学生にその傾向が強かった(pv)。

P41「悔根共同体とは、敗戦後、戦争を食い止められなかった自責の念と知識人として将来の日本を新しくつくっていかなければならない、という気負いとがないまぜとなって形成された感情共同体である。」
P48「もちろん四つの感情、とくに、「罪悪」と「悔根」、「無念」と「復興」は重なり合うとこが多いが、分析的に区別している。「悔根」は、すでにふれたように、二度とこの過ちをおかさないという感情であり、革新幻想の中核を構成した反戦・平和につながるものである。その極限には革命志向がある。「罪悪」は、あの戦争を日本人の罪として見る見方である。東京裁判史観と相同である。「無念」は、敗戦を口惜しいとする感情から勝者による一方的裁きである東京裁判を呑まざるを得なかったという割り切れなさや遺恨である。「復興」は、実務家や保守政治家に見られるもので、敗戦からの経済的復興と貧困からの脱出による日本人のアイデンティティの再構築に向かう感情である。その極北には、「悔根」の革命と対蹠の皇国再建がある。
このように見れば、戦争で死んでいった人々の思いをくむ再生感情は「悔根」派だけの占有物ではなかったことをあらためて気がつくはずである。」
※他方で、「単一の敗戦感情の造形において、悔根共同体のイデオローグであった丸山眞男言説の与えた影響はまことに大きい。」とみる(p49)。しかし、「二十四の瞳」の受容などは、罪悪や無念に近いのだろうが、主体的判断を組み込んでいないという意味では、この四つの分類に組み込むこと自体が不適切な内容かもしれない。

P53「しかし、世論調査をさかのぼって見ていくと、再軍備反対や憲法改正反対の世論が大きくなったのは、昭和三〇年代からのことである。それ以前の世論調査を見れば、後述する昭和三〇年代以後の世論とはまったくちがっている。」
P53「やがて講和条約が締結されたあとの一九五一年九月二〇日の『朝日新聞』に発表された世論調査にはつぎのようなものがある。「『日本も講和条約ができて独立国になったのだから、自分の力で自分の国を守るために、軍隊を作らねばならぬ』といういけんがあります。あなたはこの意見に賛成されますか、反対されますか」。これに対して、回答はつぎのようである。賛成が七割以上(※71%)である。」

P56「昭和三〇年代から憲法改正反対と再軍備反対が多くなっていく。このような世論の変化を、当時の進歩的知識人は「悔根共同体」の勝利のようにとらえ、「新憲法感覚定着」と言っていた。
しかし、そう言ってしまってよいのだろうか。憲法を改正しないで、再軍備を声高に言わない、なぜなら軽武装で経済が豊かになったのだから、であれば、「これで(現状で)よいのではないか」、といったくらいの意識だったのではないか。「革新」という衣裳をまとった保守である。思想としての保守ではなく、現状維持という生活態度としての保守である。だから、こうした世論の変化の時代は他方では、「保守的ムード」と呼ばれていたのである。まさに第二の戦後にせり出してきた実益優先感情に便乗した憲法改正再軍備への反対(ムードとしての革新)であった。」
p63「無着成恭の教育によって卒業生は社会問題についての批判力を得たが、批判力を得たぶん、肝心要の「現実の世の中をどう生き抜いて行くか」がわからなくなっているがゆえの動揺だとしている。この実践家の苦言はわかりすぎるほそわかるのだが……。」
※松丸志摩三「青年運動と村づくり」の内容から。

P67「『自由』が登場した一九五〇年代後半は。スターリン批判やハンガリーポーランドの民衆蜂起、六全協による日本共産党神話の崩壊などによって、マルクス主義も、一枚岩的な絶対的信仰の対象ではなくなってきた時代である。「進歩的文化人」という言葉が嘲笑的に使用されだしたときでもある。」
P71「反対派は、「(安保改定)反対」だけでは、運動を盛り上げることができない。そんなことから、学者は難しいことばかりを言わないで、「安保と台所をどう結びつけるか、それを研究してくれなくては困る」とされ、そこで、「安保が通ると、お豆腐の値段が五円高くなる」という、いま思えば笑えるような、苦し紛れのキャッチフレーズさえ案出されていた。」
P74「一九六〇年三月の世論調査では、改定された新安保条約を「よくないと思う」三六%が「よいと思う」二二%を上廻っていた。しかし、新安保条約の批准書が交換された約一ヶ月あとの安保改定発効と安保改定反対運動への評価は表2-2の下欄のようなものとなった。安保の発効を「よい」とするものと「やむをえない」とするもので、四九%。「よくない」の二二%よりもかなり多い。」
※何故?岸首相が辞任しただけでこうも違うのは、やはり岸首相の強硬なやり方への反発だけだったということか??ただし、二つの調査は質問の方法が異なるため、そのバイアスもあるのでは。確かによいとよくないの減少幅ではよくないが大きいが、大きく変わったとまで読み取るのは暴論。

P87「話は戦争末期にさかのぼるが、Ⅰ章でふれた当時の外相重光葵や秘書官加瀬俊一、そして山本有三志賀直哉和辻哲郎、田中耕太郎、谷川徹三安倍能成などが集まって、戦争終結のための会合をもっていた。外相官邸でも集まったが、官邸が三年町にあったところから、三年会といっていた。あとで参加した柳宗悦によってこの会は「同心会」と名づけられた。」
P133「三人(※宗像、宮原、勝田)とも、一九五一年の日教組第一回教研からの講師団の有力メンバーであった。かれらの意向によって、講師団の構成が決まったほどである。日教組の教研だけでなく、教科研やその機関誌『教育』を通じて全国の教育学者を組織し、教師の啓蒙活動を展開した。三Mは進歩的教育学者のシンボル教授であり、進歩的教育学者の牙城としての東大教育学部の看板教授であった。」

P170「だから、わたしが当時抱いた教育学への疑問は、 知的廉直さと遠く、「価値判断」と「事実判断」がずるずるべったりになることの無自覚さ――進歩的教育学者はその無自覚さと実践と認識の弁証法的統一と言っていたが――への嫌悪だったように思う。
そういえば、全共闘運動が激しくなったころ、教育学者たちが学生の突き上げで右往左往するありさまを見ながら、姫岡勤先生は、わたしたち院生にこう言ったものである。「教育学は、学問なんかじゃありませんよ、信念を開陳するだけなんだから。それならそれで、もっと信念に殉じる気持ちがないとね……」」
p175「(※長浜の著書について)欺瞞を憎む情熱のゆえだろうか、ときおり見られる激しい文体にはやや抵抗はあったものの、膨大な資料を収集し、同一教育学者の戦前と戦後の言動をつきあわせ、変節を抉る労作であることは間違いないと思った。それで、読了直後に、わたしは先輩の教育学者たちに、こんな本があるのだがと、話を向けた。「あの本ね……」ニヤリとし、あとは言葉を濁されることが多かった。たいがいの教育学者は、この本のことを知っていたのである。知ってはいたが、話題にすべき本ではないという雰囲気は伝わってきた。管見の限り、刊行当時この本について教育関係学会誌での書評や引用はなかった。
『教育の戦争責任』は、教育学者にかなりの範囲で読まれていたようであるが、当時の主流は教育学者についての厳しい批判だっただけに、黙殺されていた。」
p176長浜から直接聞き取った当時の影響について…「最も困ったのは当時の私の大学は修士課程の大学院しかなく、博士課程に進学する際、私のゼミだと分かると門前払い同然の扱いを受けました。辛うじて早稲田大学京都大学が私の推薦状を受けてくれました。」
p176「著書刊行後、日教組から出版社へ抗議の電話があったそうです。編集長から「気をつけた方がいい」という忠告を受けました。」

p192宗像「教育と教育政策」からの引用…「私は、教師の教育権は、教師が真理の代理者たることにもとづく、というほかないと考える。真理の代理者とは、真理を伝えるもの、真理を子どもの心に根づかせ、生かし、真理創造の力を子どもにもたせるもの、というような意味である。」
p195-196「文部省が日教組対策を明確にとりはじめるのは、岡野清豪からである。岡野は大臣に就任すると「終身科の復活」や「教職員の政治活動の禁止」などを文教政策の中心にする談話を発表した。それまでの文部大臣とちがって日教組に対してあからさまな対決姿勢を打ち出し、日教組との会見を断固拒否した。
※在任は1952年8月から。
P196読売新聞1954年1月19日掲載の世論調査、「学校の先生の組合が、再軍備反対とか憲法改正反対などの政治活動をすることについて、あなたはどう思いますか」の質問…
現在の程度ならよい33%、行き過ぎだ34%、もっとやってよい5%、わからない28%。
※評価が難しい。実際の当事者に近い学校の保護者などはどうだったのか。しかし、少なくとも政治活動規制の動きが民意を反映していないと断じることはできない状況なのは確か。

P201「しかし、公述人は(※1953年の国会で)、あくまで「日本教職員組合としては、(中略)さような(※政治活動に関する)決定も行動も指示もしたり指令したりしておりません」と述べた。こんな答弁がなされていたのは、このことは人々の間に日教組組合員の政治活動に対する支持が一定の厚みをもっていたからである。」
※竹内は裏付けとして54年の調査を持ち出すが、実際すべき判断はもっと複雑であるべきでは。
P203「この調査(※東京大学教育学研究室が1953年に実施した平和教育調査、朝日新聞1954年1月28日掲載)見ることができるように、平和憲法擁護や再軍備反対の実践教育に挺身するという「実践型」は、日教組に活動が活況を呈していたときでさえ全体の二割にしかすぎない。「観念型」と「無意識型」で八割近くを占めている。しかし、「反撥型」はごく一部にしかすぎないから、「観念型」と「無意識型」は、「実践型」に引きずられていく傾向が生まれる。そもそも昭和初期の左傾活動がさかんな高等教育機関のキャンパスや戦後の全共闘時代の学生集団においてもアクティヴィストがそう多かったわけではない。アクティヴィストの定義にもよるが、せいぜい一割、多くても二割程度のものであろう。しかし、それに抵抗するだけの反撥集団がいなければ、二割以下のアクティヴィストは同調者を調達しやすい。同調者は同調者をよび、やがて空気がつくられていき、反撥しにくい状態ができる。」

P204「といってもひとつの学校が教員五〇人とすると、ひとりは二%にあたるから共産党教員はひとりもいないのが平均的ということになる。そんなときに、ひとつの中学校に共産党教員が教職員の二割近く、同調者を入れれば三割に達する学校があった。これからみていく京都市立旭丘中学校である。」
P207「旭丘中学校の教育が事件となるのは一九五三年一一月二四日(二三日という説もある)、市庁舎でおこなわれた、定例の二十日会をきっかけとしている。二十日会とは、京都市長高山義三を囲む婦人会指導者の会である。この日は教育問題がテーマだったので、教育委員長や教育長も出席した。その場に居合わせたある婦人がこう発言した。「学区制をはずして下さい。子どもをやりたくない学校があります」。この発言を口火にくだんの学区の婦人から同様な発言が相次いだ。」
P209「具体的には、数学や理科の授業中に軍事基地や再軍備の話をしたり『アカハタ』を読んできかせている、映画鑑賞が「ひめゆりの塔」「蟹工船」「ひろしま」など偏りすぎている、文化祭に「内灘問題」を脚色した劇を演じさせた、などである。」

P216「旭丘中学校については、事件の最中、そして事件後に多くの論評や研究が出された。代表的な研究には『旭丘に光あれ』があるが、ほとんどは旭丘中学校の教育に好意的であり、善良な教師が教育の政治的中立を定める教育二法案などの成立のための政争に利用されたというストーリーが多い。旭丘中学校に共産党員の教員が多く、京教組も共産党に牛耳られていたことなどには、ほとんどふれられていない。京教組は共産党系が主流の戦闘的組織であった。このときの京教組の副委員長や執行委員は一九四九年一〇月のレッドパージーー共産党員とその同調者の追放——にあった元教員であった。」
P224旭丘中学の分裂授業(1954年5月)において、自主管理学校と補習授業を受けた生徒の割合は二対一。
※他方で徐々に自主管理学校にいく生徒が漸増している。
P230-231旭丘中にみる階層問題…「ところが、旭丘中学校では、貧しい保護者や生徒こそ革命の尖兵だとされたから、いまふれたような学校社会学の命題(※反学校論的議論における下層階級の学校への反発)はあてはまらず、反転さえしてしまう。地域名望家によるPTA役員の壟断を廃止させ、寄付行為もやめさせたから、肩身が狭かった貧しい親は喜ぶ。「貧乏人でも卑下せんと教育が受けられる」「家のことでも、何でも心配してくれるし先生大好きや」となる。きれいに着飾った母親に、貧しい家庭の生徒が「おばさんは戦争が好きなんやろ」と言って中流階級文化への復讐が公然となされるにいたる。しかし、こうした物怖じしない生徒は、裕福層の保護者から見れば「行儀がなっていない」「放任」「親に反抗的」「言動が過激」ということになる。また平和教育への専念は、「学力がつかない」のではないかという懸念と不満を生む。」
※実際、分裂授業の支持は下層階級に偏りが認められる(p230、「京都市立旭丘中学校の教育に関する調査」より。ただし、ここでの主張はソースが明示されていない。

P231「事件終熄後二ヶ月あとにおこなわれた保護者調査の「旭丘中学校の教育は片寄っていたといわれていますが、それについてどう思われますか」という質問の回答(「片寄っていない」「やや片寄っている」「片寄っている」)でも階級によって受けとめかたが大きくちがっている。重役・上級職員では「片寄っている」「やや片寄っている」(六〇・〇%)が「片寄っていない」(二〇・〇%)の三倍、公務員・会社員・商工業では「片寄っている」「やや片寄っている」が「片寄っていない」の一・五倍である。逆に労働者・無職・織物業では、「片寄っていない」が「片寄っている」「やや片寄っている」の二倍となっている。」
※出典は森口兼二「旭ヶ丘中学問題に関する調査資料」(1955)。ただし、サンプル数のバイアスなどについても考慮すべきでは。

P235「不活発を打開する生徒会活性策が、一九五二年はじめに顧問の寺島教諭から出された。三年生のあるクラスが提案した生徒会解散案を取り上げ、生徒の投票にかけ、自覚を促すというものだった。同年三月に全校投票がなされた。生徒会解散に反対七四〇、賛成三五四、無効一一で存続が決まった。しかし、投票率は七〇%。賛成と無効、棄権(欠席を含む)を入れると七九五人、在校生の五二%になる。無関心もふくめて生徒会をいらないとする生徒が半数前後いたということになる。
こんな状態では、投票で生徒会存続が可決されたからといって、生徒会を通じて生徒が民主的主体となるという顧問教員や共産党教員の思惑とは遠いものだった。だからであろう。半年ほどあとに生徒会顧問教師は、さらなるカンフル剤を実行した。生徒会委員会は顧問の許可がなければ開かれないことや、委員会で決まったことでも、顧問が反対すれば、効力を失うなどを盛り込んだ生徒会保護法案なるものを提起する。」
※このような煽り行為はマルクス主義的な教育実践においては常套手段であったといえるだろう。
P238「さきにふれた生徒会解散案の可否投票のときの投票率でも、一年生八〇・七%、二年生七七・七%、三年生五三・七%で、三年生はもっとも投票率が低い。半数しか投票していないのである。
生徒会委員や新聞部などの生徒を除いて生徒全体の傾向で見れば、旭丘教育がどの程度浸透していたかは、大いに疑問が残る数字である。」
p239アメリカ帝国主義を前提にした旭丘中の中心的教諭の一人の病理言説…「パチンコの流行や、ラジオ、映画などによる植民地的空気の助長等が生徒の心を蝕み、裏表の少ない子供たちだけに学校で「トンコ節」がうたわれたり、天井裏に上ってみたり、掃除をさぼったりするたいはい的、虚無的な空気が漸次ふえつつあったことは教員を非常になやませ、特に学習意慾減少の傾向は毎日共通の話題となっていた。」
※54年の文章。

P239-240「しかし、暴力を含んだ筋肉主義的・刹那主義的文化は、資本主義にもアメリカ帝国主義の植民地文化にも還元できない「貧困の文化」それ自体に起因する部分が多い。貧困者は家族の構造、対人関係、消費パターン、時間の定位感覚、価値体系などで共通な特有のパターン(貧困の文化)をもっている。にもかかわらず、旭丘中教員は、貧困家庭子弟の行動の荒れをもっぱら体制(資本主義社会)還元的にとらえている。生徒会を活発にし、生徒が民主的主体となることによって解決されると考えてしまっているのである。」
※貧困の文化はオスカー・ルイスを参照している。
P242「生徒会委員は裸の暴力問題を提起している。にもかかわらず、寺島教諭は「とにかく暴力に妨害されるほど委員が働いたら、すばらしいと思う」とのんきなことを言っている。そして、「それはそうとして」と話題をすぐに切り替え、「自分はいやだと思っている人が当選するのは、どうかならないものか」と生徒会委員の選出問題に話題を向けなおしている。暴力問題を軽く見ているからである。」
P242-243「そもそも寺島教諭が熱血先生として君臨することができたとしても、イデオロギーを内面化することで「道徳的服従」をしたには一部の優等生的生徒であって、多くの生徒は、さわらぬ神に祟り無しの「功利的服従」か、あるいは前節のタクシー運転手(もと旭丘中生徒)の発言にあったように、「怖かった」(「強制的服従」)からではないのか。
生徒会の存在によって暴力が追放できると思ったのは、さきほどからふれてきたように、暴力問題は生徒を民主的主体に変革することで克服できるし、そうなるべきだという信仰のゆえである。だから、教員の理解に匙を投げるように、「先生の言はあまり、ぼくたちに通用しませんね」となってしまっているのである。」

p246-247「京教祖と旭丘中学校教職員はなぜ、三教諭免職処分の撤回と旭丘中教諭による授業再開の要求を引き下げて敗北してしまったのか。……
「子どもは子どもらしく」「子どもがかわいそう」「子どもを巻き込むな」「一番の被害者は子ども」という「〈子ども〉性の強調・再認」世論の盛り上がりに抗することができなかったことが大きな原因である。」
※代表的言説として平林たい子を取り上げている(1954年5月17日、朝日新聞)
P250「(※1955年3月頃の200人対象の調査に見るように)日教組組合員の多くさえ「子供がよく闘った」(※5人)と答えるよりも「子供をひき入れることは悪い」(※50人)と答えた方がはるかに多い。旭丘中事件によって子どもらしさの確認がなされ、再認された子どもらしさによって旭丘教育が批判されるという循環がなされたと言える。子どもを巻き込んだ闘争への否定感情とならんで、自主管理授業を応援するために旭丘中学校に林立した赤旗も世論に反感をもたらした。」
※なお、日教組として当然反対していた「教育二法案通過に利用された」(40人)よりも多い。この点で子ども言説の優位がある程度理解できる。

P251「旭丘中学校教員とこれを支援した京教祖の敗北の近因は、分裂授業がはじまった三日目の五月一三日に、左右両社会党が共同声明を発表したことによる。反動吉田内閣がこの事件を教員の政治活動を禁止する教育二法案通過の道具とした陰謀と挑発によるものだが、としながらも、つぎのように発表した。

「学校の自主管理」や「生徒を闘争へ巻き込んだこと」などの闘争手段がとられたことは良識ある市民にさえ事の真相を誤解させ、その上自ら反動政府の術中に陥るものである。このような闘争手段は民主的労働組合の活動としても断じて許されることではない。」
※しかし、これを支持するならば、「子ども」言説は直接的問題提起となっていないということである。これを受け日教組も同日生徒たちをただちに闘争から切り離すべきとした(p251)。他方、日本共産党は支援を続けた(p252)。
P255大田堯による旭丘中評価(戦後日本教育史より引用)…「旭丘中学校は全国的な注目を集めた。当時の数多い雑誌論文で市教委を支持する論調はほとんどなく、勝田守一、梅根悟氏ら九人の学者による共同研究調査は、“旭丘教育”が憲法教育基本法の精神につらぬかれた民主的な教育であったことを学問的に実証した。」
※これだけ曲解した言説をこれら教育学者は平気で行ってきていた事実は直視せねばならない。一体学問とは何なのかを問うしかない。1954年7月下旬に行われた京都市民600人程を対象にした調査では、「偏向教育」「赤の教育」といった否定的見解が41.3%、「平和教育」「正しい進歩的な教育」といった肯定的見解は14.5%にすぎなかったという(p255-256、出典は森口兼二1955)。なお、わからないとしたのは36.5%だった。

P256「進歩的教育学者大田堯が、「当時の数多い雑誌論文で市教委の措置を支持する論調はほとんどな」いと言ったように、旭丘中事件の最中はもとより、事件後も多くの文化人は、旭丘中学校教員の肩をもった。憑きものは、旭丘中学校の教員と生徒だけにとりついたのではなかった。知識人の空気=世論にも入り込んでいたのである。」
※ただし、大田の主張は1978年頃の話である。
P259「しかし、この旭丘中事件以来、坂田教授(※坂田吉雄、旭丘中の保護者会の中心メンバーだった)は保守反動者のレッテルを貼られる。禍はその弟子におよんでいった。弟子の助手にある有名国立大学に転出する話がもちあがったときのことである。坂田の弟子ということは反動主義者だと、人事が流れてしまった。結局、その弟子は京都のある私立大学に就職した。晩年、坂田は、旭丘中事件で自身が保守反動学者というレッテルを貼られたのは甘受するが、そのことで弟子の就職を邪魔したことになったのは申し訳なく、慙愧に堪えないと言っていたそうである。」
※ソースは不明。

P260臼井吉見の引用より…「内灘にしても、旭ヶ丘にしても、現地にいった“進歩的文化人”は僕が書いた程度のことは、わかっていたはずだ。行って見さえすれば、だれにも一目でわかることだ。
ところが、僕より何百倍も常識のあるはずの人々が、事実と全然違ったことを書く。どうも世間の人気や評判を気にして、しゃべっているとしか思われない。問題は、常識よりも一歩手前のことじゃ、ないだろうか」
※1957年の文章「現代の常識 臼井吉見論」より。
P266「「進歩的文化人」が蔑称や揶揄の対象になりはじめる。そのきっかけをつくったのは、よく知られているように福田恆存で、『中央公論』一九五四年一二月号の巻頭論文「平和論の進め方についての疑問」で、岩波書店と『世界』を牙城とする平和問題懇談会に蝟集する文化人を槍玉に挙げたことからである。」

P314「学者先生戦前戦後言質集」(1954年3月、福田論文の半年以上前の刊行)のはしがき部分からの引用…「こゝに本書を編纂して世に問う所以のものは、世間では一かどの学者先生であり、進歩的文化人として普く知られている人々が、よく調べてみると少しも尊敬に値しないばかりか、その発言は読者大衆を誤らせる虞れが充分にあると信じたからである。」
P317「たしかに進歩的文化人批判の高まりは、保守派知識人の団体である日本文化フォーラムの設立や日本文化フォーラムを母体にした総合雑誌『自由』の刊行を生んだ背景にはなっている。しかし、一九五〇年代半ばの進歩的文化人批判は必ずしも進歩的文化人支配の勢いをとめることにはならなかった。」
P317-318「そこで思い出すのが一九七〇年代半ばあたりの教育ママ調査である。「世間に教育ママはたくさんいると思いますか」の回答では、肯定がほとんどである。ところが「あなたは教育ママですか」という問いになると否定が圧倒的多数である。これと同じように、進歩的文化人批判がいくらおこなわれても、多くの知識人は、自分は批判される類の進歩的文化人ではないと思う。だから、進歩的文化人批判は、もともと進歩的文化人に批判的な人々の溜飲を下げるはたらき以上のものにはなりにくかった。
当初、進歩的文化人批判が威力をもたなかったことには、それ以上のもっと大きな理由がある。進歩的文化人批判がのはじまりと進歩的文化人の上昇気流のはじまりとが時を同じくしていたことである。
進歩的文化人批判が広がりをもったのは共産党神話が崩壊したことによるところが大きい。進歩的文化人をつつむ共産党という中心が空白になったからである。」

p341「というのもこの時代、つまり一九六〇年代まだは大学生になるということは、知識人になるということと意識されていたからである。人間像がはっきりしていた。「インテリ」は過ぎし日本の「さむらい」、あるいはイギリスにおける「ジェントルマン」のように、あるべき人間像の役目をはたした。」
p351「しかし(※日本の知識人は、大衆からの距離が少ないぶん模倣の対象になりやすいのと)逆に、大衆文化と区画化された知識人独自の文化共同体の輪郭が脆弱だから、かれらは大衆の動向が気になり、左右されやすいことにもなる。知識人の大衆への「うしろめたさ」や「ひけめ」、そして「擦り寄り」も生まれやすい。「人民のなかへ」を合言葉にしたマルクス主義的知識人が多く輩出し、思索だけでなく行動しなければいけないという強迫感をもった知識人が簇生した所以である。」
※もっともらしい主張にも見えるが、これの立証は比較が必要である。また、これを前提にしてよいなら、ジラール的な解釈も当然可能である。

P364「しかし、一九七七年以後、八二年までは、言及回数は二回にとどまる。これを見れば、小田が論壇におけるスターだった時期が一九六〇年代半ばから一九七〇年代半ばあたりまでだったことがわかる。」
P365-366「小田は、この引用文(※2002年の段階)のすぐあとに、自分自身は右から左に変わったわけではない、「まったく変らなかった」「世の中が変ったのだ」と言っているが、晩年の北朝鮮礼賛の小田と一九六〇年代半ばまでのリベラル左派の小田とはずいぶんちがっていることは否めない。ベ平連活動などで、小田は右から叩かれる、次第に右嫌いとなり、そうして左寄りになっていったということはあるだろう。また運動の退潮とともにそのぶんラジカルになったこともあるだろう。しかし、それだけだろうか。わたしがひっかかるのは、初期の自己批評とユーモアに溢れた柔軟な小田と、後半期の陰鬱で硬直した小田の大きな落差である。」
※これについて、小田のパーソナリティが躁鬱傾向があったのではないかとほのめかす(p368)。

P378「一九六〇年代後半の大学紛争は、スチューデント・パワーとして世界同時性をもって爆発し、先進国の大学に共通した要因をもとにしていた。そのうちの大きな要因は、今ふれた学生人口爆発である。学生人口は、一九五〇年から六〇年代半ばまでに先進国のいずれの国でも二〜三倍に増えた。増加率はフランス三・三倍、西ドイツ二・八倍、アメリカ二・二倍だったのである。」
※日本も1958年からの10年で2.5倍近くになっている(p378)
p391「教科書を確実に売るために、巻末にミシン目を入れたレポート用紙をつけていたのである。単位認定にかかわるレポートを提出するためには、この教科書につけてある専用のレポート用紙を使わなければならない。市販の原稿用紙などに書いても受けつけない(!)のである。」
※このようなことは竹内がとある私立大学教員になる1973年の数年前まではこのような教師はその大学に結構いたそうである(p392)
p394「一九六〇年代後半は完全就職や豊かな社会の到来で、マルクスの言う「窮乏化理論」——プロレタリアートの実質賃金は上昇することはなく、窮乏化どころか富裕化だった。マルクス主義者は言うにおよばず、進歩的知識人は、大衆を煽動するに「窮乏化」論にかえて「疎外」論を展開した。『資本論』にかわって『ドイツ・イデオロギー』や『経済学・哲学草稿』などの初期マルクス作品が関心の的になっていった。」
※これは清水幾太郎も1977年に同じことを言っている(p397)。

P399「一九六〇年代後半の完全就職時代には、サラリーマンの疎外された労働を論じたアメリカのマルクス主義社会学者ライト・ミルズの『ホワイト・カラー』や類書がよく読まれていた。大企業といえどもサラリーマンは働きがいのない職業だというのが学生の一致する意見となっていた。当時、新聞社やテレビ局などのマスコミ産業が極度に人気があった。マスコミの時代になったことによるとも言えるが、それよりもマスコミ労働は疎外された労働から相対的に免れている(のではないか)とううことゆえの人気だった。」
P402「それまで(※第一回学徒出陣の1943年12月)は、大学や旧制高等学校などに在籍する学生は、最高満二六歳まで徴兵猶予されていたが、このときから満二〇歳に達した文系学生は在学途中で徴兵されることになった。」

P411雑誌「世界」1969年9月号に掲載された、同年2月の東大生の意識調査では、「闘争の目標で多いのは、順に「大学民主化」「自己主体の確立」「現行大学制度解体」「自己変革」である。「革命の主体形成」としたものは少ない。」
P436-437「あるとき、ゼミで「これからは実務知識人についてもっと考えることが必要ではないか」と言ったら、ある助教授からは、「実務知識人とはどういう意味か」と怪訝そうな質問を受けた。わたしの説明が稚拙だったせいもあるが、「そんな人たちを知識人というのかね」と一蹴された。ゼミに出ていた大学院生もサラリーマンからの出戻り院生の戯言というような反応だった。知識人とは反体制知識人しかありえないと決めてかかっていたからである。
全共闘の学生たちが、わたしが感じたような当時のそんな知の変貌を感じていたとはとうてい思われないが、伝統的知識人アイデンティティが揺らいでいることだけは感じていたと思われる。だからこそ、かれらは、知識人とはなにか、学問とはなにかを執拗に問いかけ、論壇安全左翼知識人=啓蒙知識人も欺瞞を糾弾することになった。」

p485「この発言(※藤原弘達の「現代日本の政治意識」1958での発言)こそ、草の根革新幻想の在りかを示している。「スマート」や「ハイカラ」という反伝統主義的生活感覚が「社会党」支持というイデオロギーと結びついているのである。」
p488「一九四二年生まれのわたしの世代には、保守と革新が「文化政治」だったというのは実感としてよくわかるものである。中学校から高校のわたしたち若者は気にくわない意見には「封建的だ」というレッテルを貼って批判したつもりになっていたからである。」
p495「戦後教育の理念カリキュラムでは、いやなこと、辛いことに対してははっきり自己主張すべきだ、と言明していた。辛さや苦労に耐え自分を押し殺すのは奴隷道徳であるとか道徳的マゾヒズムであるとさえ教えた。すでに、前節までにふれてきた石坂洋次郎の作品、『青い山脈』の島崎雪子先生や寺沢新子、『山と川のある町』の早川のぶ子などがその代表的人間像である。
しかし、近隣社会や家庭ではどうだったろうか。むしろ、苦悩や苦労を引き受け、耐えていくことに人間としての成長があるという美徳としての苦労人物語が存続した。「これも修養だ」とか「勉強になった」という言葉は、大人の会話ではよく使われていた。「あの人は苦労人だから」と言ったときには人情の機微を解した立派な人という意味が込められていた。」

p496「この非公式カリキュラムの最大のものは「日本人らしさ」だった。……義理人情から世間体、恥、罰にいたる倫理がこれである。こうした倫理は、同時に世間で生きていくための世渡りの術でもあったから、生きる術として浸透しやすかった。こうした日本教は、大人の世間にあったのではなく、学校のクラブ活動の先輩後輩関係などを通じても伝達された。」
※ある意味で「モラトリアム人間」などはこれの体現、それまではあくまで非公式であったはずのものを公式化しようとした企てだったのではないのか?
P498「したがって、一九六〇年代前半までの日本社会論は、欧米を極度に理想化し、美化し、日本にはこれがないとかこんなに劣っているとかの欠如論や自罰論が風靡した。丸山眞男の『日本の思想』などの日本社会論が説得力をもったのも、そういう背後事情のなかのことである。
ところが高度成長を境に日本人論の論調は大きく変化する。人類学者の青木保は、戦後における日本文化論を整理して、一九六四年を「肯定的特殊性の認識」の時代のはじまりとしている。一九六四年は『タテ社会の人間関係』の原型になる中江千枝の「日本的社会構造の発見」が書かれた年である。
かくして、それまで、劣っているとか前近代的だとかマイナスに評価されていた伝統的な制度や意識は、実は日本の急速な近代化に大きな貢献をなしたマジックカードだったとして評価されるようになる。」
※これがどれくらい妥当なのかわからない。当然64年以降も言説としては日本を卑下するものあった訳であるから、逆も然りだったのでは??

☆P503-504「伝統主義である日本教は、万人が万人に配慮関心を注ぐ、相身互いの麗しい倫理という面があるが、周囲に気を遣い、雰囲気を読み、自己主張を抑える論理でもある。苦労が人間を鍛えるといった苦労人物語は、我慢の倫理ともなるが、奴隷道徳でもある。むろん、相互監視や集団への拘束は、人間は拘束がなければ放縦になってしまうという人間の道徳的不完全性を前提とする保守思想的な智恵の賜物ではある。
 そんな智恵の賜物である庶民宗教が充満していたときには、自己主張と個性伸張の戦後民主主義教育の理念(市民宗教)が、対抗力(解毒剤や中和剤)としての意味をもったことは否めない。だが、庶民宗教という非公式カリキュラムが蒸発してしまえば、保守思想の原型である智恵が畏れるような自己主張や権利という名のもとでの露骨な欲望の奔流になる。」
※恐らく80年代の社会学的な議論(欲望的主体論)などを想定しているのだろうが、あまりにも雑な説明である。リースマン「大学教育論」も引用しているが、これについては実証的根拠が何もない。
P508「小浜が言う風潮としての民主主義(※人間はみな平等なのだから、個人は自由に欲望を表出することが許されるという発想)こそ大衆モダニズムと手を結んだ革新幻想の末路ではなかろうか。そもそも風潮としての民主主義のキーワードである「権利」をさかさまにすれば、「利権」である。権利、権利と主張する輩は、ただ自分(たち)の利権を主張しているにすぎない場合も少なくない。」
※感覚的には非常に説得力があるが、特にここは実証性に乏しくもあるように思われる。

松下圭一「シビル・ミニマムの思想」(1971)

 今回は、「社会教育の終焉」をレビューした際に出てきた議論をもう少し踏み込んで考察してみる。これにあたり、松下の議論を本書とこの直後に出ている「都市政策を考える」(1971、以下、松下1971bとする)、岩波講座「現代都市政策5」に収録されている「シビル・ミニマムと都市政策」(1973)及び「市民文化は可能か」(1985)を読んでみた。


○松下の70年代と80年代の言説の変化…シビル・ミニマム論とは結局何だったのか?
 本書では、「シビル・ミニマムの設定は現代における生活基準の公的保障を意図しているが、それはなによりも現代における人間の自由時間を形成する物質基盤の充足である。」と述べられる(p224-225)。他方で問題意識としてはp301-302のような形で、国家の枠組みを固定することによるその外部(国家の外)への閉鎖ではなく、地域の自治をもとにした国、そして世界へのミニマム論の展開という意識が、シビル・ミニマムの必要性を述べる一因となっている。

「今日、平和問題、都市問題、南北問題が現代政治の戦略課題になっているが、このシビル・ミニマムはさしあたって都市問題をめぐって想起される政策公準であるとしても、この意味で平和問題、南北問題をもその理論展望におさめうる。すなわちシビル・ミニマムの設定は、必然的にナショナル・ミニマム、インターナショナル・ミニマムの設定を促していき、政策科学からみても平和問題、都市問題、南北問題という今日の戦略課題に対応する統一的方法を構成することになるからである。」(松下1971b、p223-224)

 他方で、日本の農村型生活様式についての問題意識も同時に持っていた以下のような議論がされていた(p189)。これの対応策については、1971年の2つの著書ではあくまでシビル・ミニマムと地方自治をセットにし「自由の王国」をめざすことで解消されるものという意識が強かったように思う(p224-225)。つまり、新しい市民文化はシビル・ミニマムを介して形成され、それが伝統的なものを解消するという見方が強かったようにみえる。

 しかし、1985年の著書においては、次のような形でシビル・ミニマムの必要性が議論されているのが見受けられる。

「シビル・ミニマムとは〈都市型社会〉における「市民生活基準」をいう。このシビル・ミニマムは、一九六〇年代以降の高度成長にともなう都市化の巨大な大波の内部で、
(1) 産業中心から生活中心への国富の再配分
(2) バラマキ型施策を克服するため、政策形成の計画型ルール化
(3) 自治体の政策イニシァティヴの確立
をめざして提起されたものである。」(松下1985、p83)

 ここで注目しなければならないのは(2)の観点である。ここでいうバラマキという表現は、結局自治体という「オカミ」からむやみに「与えられる」ことに対することへの批判として現れているものである。もちろん、「社会教育の終焉」においても、この観点にどっぷり漬かった議論を展開していた。
 しかし、1971年の2つの著書においては、あくまで保守団体と革新団体の対立(p258)として語られたり、日本の歴史的性格から「このように日本の都市はヨーロッパと異なった性格をもっている。したがって日本の都市の主流をなす城下町的都市構造が、中央集権的明治国家へとつらなり、これが東京を中心とする都市の階層制をつくりあげていった。」(松下1971b、p13)といった言及はされても、それ以上に「オカミ」意識問題について触れられることはなかった。

「しかも現実に自治体機構や既成の地域的職業的勢力、それに国の行政機構とむすびついたセクショナリズムにおちいり、その結果自治体機構が地域ボスや各級議員の世話役活動を媒体とした圧力の束になりさがっているならば、大きな声をだした方が勝ちとなって、市民要求はまた裸の「圧力」として噴騰せざるをえないではないか。
 それゆえ今日の緊急課題は、従来のオカミ中心の統制型の政治イメージを逆転させ、市民運動こそ市民自治の可能性をきりひらくという共和理念による参加型の政治イメージからの出発である。事実、従来の自治体政策は、国の政策の下請政策にとどまっており、市民自治的性格を欠如していたといってよい。それを制度的に強制したのが補助金と通達であった。」(松下1973、p22)

 しかし、ここでも松下はその補助金を廃止せよ、という形で議論を行っている訳ではないのである。それが「廃止せよ」となっているのが80年代中頃の松下の議論であったといえるのである。
つまり、松下の言説は以下のような変化があるということである。当初は問題の解決をシビル・ミニマムの確立とそれによる「住民自治」の成立に求めていたが、そうではなくて、次第に問題が発生する要因そのものの除去によって、問題を解決しようという姿勢に変化してきているということである。これは結局「主体」として振舞う「市民」について、70年代においては批判の目が向けられていたとは言い難かったにもかかわらず、80年代にはそれが批判の矛先として向けられるようになったということである。典型的な議論な以下のような批判である。

「ついで、日本の政治成熟には、「市民要求を結集」して、オカミにオネガイシマスあるいはオカミとタタカウゾでは、いずれも同型の政治小児病にすぎないことを強調しておきたい。<私>にオネガイしたり、タタカウゾだったりでは、<公>はオカミにすぎない。そこでは<私>の自治・共和たる新しい<公>の創出はできないのである。」(松下1985,p202)

 確かに松下は具体的な団体組織を挙げた上で批判をすることはないが、このような形で「善い市民性」と「悪い市民性」を区別するような議論を行っているのである。
 これが70年代であればそうはならなかったのではないか。例えば、松下1971bでは労働組合の例が挙げられているが、以下のような語られ方がなされている。

「第一に、この賃金水準の上昇は、企業労働組合の圧力によるとはいえ、管理価格を前提とした企業内の利潤分配という性格をもつため、老齢年金、健康保険、あるいは住宅などが企業福祉制度にくみこまれていることとあいまって、社会の底辺に膨大な低所得者を滞留させることになる。したがって賃金上昇は企業を横断した国民生活構造の改革とは直接結びつかない。第二に、賃金水準の上昇は、たとえば持家の増加による都市スプロールの誘発、自動車の増加による交通問題・公害問題の加重、それに生活水準の上昇にともなう都市廃棄物の大量化・多様化などの都市問題の激化要因をもつくりだすという悪循環をうみだしている。ここでも賃金上昇は国民生活構造の改革と直接には結びつかない。
ここに、従来の農業社会的貧困を前提として賃上げを革命理論と直結し、労働者階級=労働組合=職場闘争という理論図式を構成した日本の革新運動が規定もしなかった事態が発生した。しかも、そこに、日本の労働組合が、企業依存の賃金上昇を追求するのみにとどまるならば、すでに公害にするどくみられるように国民的責任をにないえなくなったという現実すらも露呈したのである。」(松下1971b、p105-106)

 まずもって、労働組合については、直接の批判を受けていないことに注目しよう。一方で労働組合が自身の組織のことしか考えず、例えば公害問題に対して大企業が何もできていなかったという議論と合わせて1970年ころまでにはすでに労働組合も批判の対象として語られることも見られるようになっていた。
 しかし、松下は一歩労組を擁護する立場に立っているものと見える。ここにはこれまでの労働組合の理論では想定していなかったものとして都市問題(公害問題も含まれる)が現われ、「今後は」対処しなければならないという論法によって、擁護をしていることがわかるのである。

 これはあくまでも仮説の域をでないが、60年代に頻出していたアノミー論などにも共通した主体の「未来志向」をみてとることができるのではないだろうか。アノミー論においても社会問題が「未来のための秩序形成の途上に現れた問題」として位置付けることによって、現状の問題の解決は現在の主体の強化に向けられていたといえるのである。71年現在の松下もこの傾向が強いと言ってしまってよいのではないかと思うのである。

 またもう一点、これに関連するが、未来志向の主体に対峙するような形で保守勢力について語ること、もしくは「他者」として支配層による統治について語るという方法によって、「われわれ=市民」が正当化されえたということもできるのではないだろうか?以下の記述はそのような雰囲気を語っているのではないか?

「とくに日本では、戦後改革による名望家層の地域支配の後退、地方自治法の制定にもかかわらず、保守永続政府のもとで、中央政府自治体機構ならびに保守政党それに大企業・財界をふくむ体制的一体化が進行したことに注目しなければならない。とくにその構造的基盤として名望家層より一段下層の旧中間層を背景とした地元有力者層と、自治体との癒着を想起すべきだろう。巨大都市東京の杉並区の自治体関係委員・団体は〔v-1〕のごとくであるが、このようなネット・ワークは実質的に地元有力者層にになわれており、今日、全国津々浦々を掩っているのである。革新自治体といえどもこれを再編するにはながい時間を必要としている。これを地域民主主義にたいして地域保守主義と名付けることができよう。高度成長はこの戦後型の地域保守主義をあらためて掘りかえし、その過程であたらしく地域民主主義をめざす市民運動の擡頭がみられるにもかかわらず、いまだ市民運動はこの地域保守主義の網の目の中で孤立している。そこでは自治体レベルにおける革新運動の脆弱性ことに地域民主主義の未熟とあいまって、地域保守主義を基盤に自治体の下請機構化がすすみ、中央集権的な広域行政、大企業優先の地域開発がたえず自治体危機を誘発している。
 では今日、このような危機状況のもとで、私たち市民は自治体をどのように位置づけるべきであろうか。」(松下1971b,p158-159)

 ここでは、町内会・自治会を正面から批判することなく、むしろそのような保守的な・旧来的な勢力を打破するためにも、我々は市民として主体化されなければならない、と主張されているのである。
 しかし、これは1985年にはこのような語り口へと変わっていることに注視せねばならないだろう。

「いうまでもなく町内会・部落会を下請につかわなくても行政は可能である。……そこにおける市民の生活気分は爽快である。町内会・部落会がなければ市民の生活ができないと考えるのは、都市型社会に対応できていないドグマである。そのうえ、町内会・部落会を下請としてつかうことによって決して行政も効率的ではない。かえって町内会・部落会関係のコストもかかり、そのうえあらゆる施策がその連合会によって制約されることになる。
 市町村レベルで、もしそれぞれの自治体が、町内会・部落会を行政の下請にいっさいつかわなかったならば、町内会・部落会は自然消滅するか、行政と関係のないそれこそ自由な参加の自治会へと再生する。」(松下1985,p212)

 ここでは71年の議論とは真逆の論理によって、新しい市民性を目指そうとしている傾向があると言えないだろうか?もちろん、このような議論のされ方は71年の時点では全くなかったのである。ここでは、「他者を叩くことで問題を解決しようとする」態度が明確であったが、71年の松下はこのような論理ではなく、「他者に対峙した我々が変革することで問題を解決する」という態度を取っていたのである。これは言ってしまえば「他者」という認識については一貫しているものの、70年代においては他者は相手にするべきではないものとみなせると考えており、自分だけでの問題解決をはかれるという期待があった(逆に80年代はそれがなくなった)ということの現われではないかと解釈できるということである。

 これは実は「社会教育の終焉」でも出てきたような、80年代の松下の議論の傲慢さが見え隠れする部分であると言ってもいいのかもしれない。一方で松下は結局行政施策はその自治体の市民によって決定されることをタテマエ上否定していない。しかし、それができていない現状があるからこそ、「わざわざ」松下自身がその必要性の判断についてジャッジし、このような類の批判を始めてしまっていること、それはある意味で70年代にはまだ期待ができていた「未来志向」的主体論の崩壊を了解しているからこそなされる議論なのではないか、という仮説を考えることはできないだろうか?このような行政叩きは松下自身がするものではなく、市民がやるべきものとして位置付いていたのが71年時点の松下だったことが十分推測できる内容だということなのである。

○シビル・ミニマム論の弱体化要因について
 更に、このような「未来志向」を下支えしているのがシビル・ミニマム論であったといえるだろうが、80年代にはかなりの部分、このシビル・ミニマムが達成されたという松下自身の認識もこの言説の変化に影響を与えているといえると思う。これはシビル・ミニマムの量から質への転換という形で80年代に語られている。

「たしかに、このシビル・ミニマムは、量の整備の見通しをもったとはいえ、質をみれば、いまだにコンクリート兵舎のような学校建築、緑化デザインを無視してアスファルトをはりつけただけの道路、あるいは破れた金網の公園や遊び場、地域ぐるみの老人クラブや官僚的運営の福祉施設高齢化社会への政策対応の未熟、国の補助金を批判する自治体自体の補助金バラマキなど、あまりにも国や自治体の施策の質、つまり文化水準が低い。ここからは風格のある美しい地域・都市はうまれない。」(松下1985,p84)
「この地域レベルにおけるシビル・ミニマムの量整備は、当然、市町村、県さらに国の施策を転換させていくことになる。小中学校・高校の新築の予算ないし補助金は、特定の人口急増地区を除いては不必要になり、のこるのは補修あるいは改築だけとなっていく。この事態は行政の各領域におきている。施策の量整備の終了つまり施策の「飽和」の結果、予算・機構のスクラップ・アンド・ビルド、それに職員の配置転換が、市町村、県、国の各レベルへと連動しながら、日程にのぼることになってきた。」(松下1985,p89)

 これらの引用から押さえておきたい論点が二つある。一つはシビル・ミニマムは量においては一定の達成をみることができたということであり、その達成から新たな課題としての質の問題をとり出しているということである。これは10年前の問題関心からすると自己批判的な性質を大きく持ったものと解釈することも可能なのである。10年前にはシビル・ミニマムの達成が民主主義の達成につながるなどと言っていたのであるが、民主主義には何一つ貢献していなかったかのように今度はその質の問題を取り上げ、問題解決につなげていこうとする松下の態度がはっきりとみてとることができるのである。「未来志向」的な市民社会論がある意味で崩壊しているのである。

 もう一点注目すべきは、「社会教育の終焉」で指摘してきた、学校教育のシビル・ミニマムの議論についてである。これは松下のシビル・ミニマム論については全般として言える点であるとほぼ断言できるのであるが、松下のいう「シビル・ミニマム」とは、一貫してインフラの整備と同義なのである。つまり、建物を建てること、道路を作ること、緑を整えることなど、あくまでその領域は狭義の「まちづくり」しか指していないのである。前回議論すべきだと述べておいた「教育の内容」などという発想はシビル・ミニマムの議論には欠落していること、これは「社会教育の終焉」を語る上でも無視してはいけない前提である。にもかかわらず、松下は子どもの教育の領域を暗黙の前提として置いていたのであった。私などは、やはり松下の論理は「盲目的な脱学校論」とでもいうべき性質であると思う。つまり、子どもを教育することを想定していながら、その内実が空っぽであるがために、教育する必要がないという発想(=脱学校論の基本的な考え方)と一致してしまっているということである。

 そして、このようなインフラ整備としてのシビル・ミニマム論というのは、社会問題の解決策としても極めて期待されていたような議論であった。

「それゆえ市民による現代的生活様式の創造はまた空間構造の再編成を必要とする。ようやく現在、都市問題の進化を背景に、都市構造としての生活空間の再構成が日本でも私たちの課題として自覚されはじめた。とくに子供の遊び場の確保、通勤地獄、公害防止をはじめ、都市における貧困あるいは街頭のレジャーの肥大や青少年問題、老人問題などをめぐって、都市の物理構造の改革という都市計画が問われはじめている。それらはいずれも今日の都市空間構造と関連しているからである。」(松下1971b、p88-89)

 このような認識自体もおそらく80年代には変化してきているのではないかと思われる。少年非行とその活動環境という問題は確かに無視ができないような問題であるということができるだろう。しかし、そもそもそのような青少年問題の質自体が70年代を通じて変化しつつあり、時には親の問題として、時には学校内部の問題(学校化の影響)として認識されるようにもなったとき、このような主張は説得力をもたなくなってくるのである。そう考えれば、このようなインフラ整備への期待、すなわちシビル・ミニマムによる社会問題の解決という見方についても、弱体化を免れることができないのである。
 以上のような弱体化要因は、恐らくシビル・ミニマム論の言説への変化を生んでいる要因とみることができるだろう。

○市民は「成熟」しているのか?
 松下の「社会教育の終焉」議論を読み解くポイントの一つとして、市民社会の成熟と社会教育の不要化というものが挙げられていたのはすでに述べた通りである。しかし、松下の議論を読んでいると、70年代、80年代の著書を通じてこの市民が「成熟」しているのかどうかという観点で問をたてると、全く答えを見出せない程、考え方が二極化していることが確認できる。一見支離滅裂なのではと言いたくなるような状況なのである。

 まず、本書においては以前の日本が農村的生活様式であったことを現在の国民も引き継いでいることが述べられる(p189,190)また、「余暇」の使い方についても主体的に捉えられていないという見方(p217)からも、日本の市民社会の未熟さが指摘されている部分であるといえる。他方で、革新自治体の誕生にというのは「戦後的都市市民層の形成を背景とする」ものとみなされている(p194)。ここだけであれば断片的に市民社会が生まれ始めているという解釈が可能であるものの、p316にみられるような「国民の文化水準の上昇」はむしろこの市民社会がすでに全体化しているかのような印象も受ける。
 問題はむしろ80年代の松下の議論である。「社会教育の終焉」においてはむしろ市民が成熟しているのは自明であるかのような議論のされ方であった(松下1986,p4)。だからこそ社会教育不要論であったはずなのだが、他方で1971年の議論と変わらないような市民社会の未熟さは複数の部分で指摘されていることがみてとれるのである。

「今日も都市づくりに有効な制度システムいまだつくられていない。市民、それに市町村は都市づくり法制の不備とあいまって都市づくりに習熟していないというのが実状である。日本の都市化は都市法制の不備のままスプロール型でほとんど終ってしまった。日本の農村型社会から都市型社会へという都市化は、法制不備のままとりかえしのつかない大失敗をしたといってよい。
この都市の現実をはっきりみつめよう。これは日本における市民文化の未熟ないし政治・行政の文化水準の低さの結末なのである。ここからもたらされた劣悪で応急の都市構造を補修・修景ないし改造しようというのが今日の文化行政ないし行政の文化化の課題といってもいいすぎではない。」(松下1985,p191-192)
「日本では、〈私〉は、共和への連帯をつくりえなかった。どこまでも〈私〉どまりであった。〈公〉はオカミとして〈私〉に対立しただけである。……
これでは、〈公〉のストックとしての都市づくりができず、そのための思考訓練もつみあげられるはずはない。〈私〉文化構造は、東洋専制における農村型社会でうまれたものであるが、都市型社会の成熟とともに破綻する。これが日本において、かつて福祉・都市・環境問題が激化した理由であり、今日の都市のみずぼらしさの背景である。」(松下1985、p204)

 にも関わらず、松下は都市型社会については成熟したことを断言している。

「都市型社会の成熟をみた今日、このような岐路に、日本の市民はたっているのである。市民文化の成熟への出発のためには、シビル・ミニマムの量整備を終えつつある今日、シビル・ミニマムの質をめざして、緑その裏返しの再開発がその戦略とならざるをえない。緑ゆたかな風格美のある都市が〈公〉なのである。」(松下1985,p205)

 厳密にいえば、このことは自己矛盾を抱えている。ハードの面では都市化したが、ソフトの面は都市化できていないというシンプルな解釈はできるだろうが、松下はそうではなく量について成熟し、質については未熟であるという解釈をとっている。そもそもシビル・ミニマム論自体がハードの議論であったために、あくまでハードの側面から「シビル・ミニマムの質」を語るしかないのである。

「なぜ、日本の都市は、都市の個性、都市の誇りをもたないのだろうか。たしかにみせ場としての美しい街角がいくらかつくられはじめてはいる。だが、なぜ、住宅地区は乱雑、商店街は画一で、街並みとしての風格はなく、道路はコンクリートアスファルトをはるだけ、学校は兵舎のようで、公園のフェンスですらも金網になるのか。なぜ、駅前は看板と騒音のチマタとなるのか。
市民運動は、シビル・ミニマムの量の整備から質の整備へと発想のレベルを一段飛躍させ、行政ないし施策のみずぼらしい文化水準を問うようになった。いわば、日本の地域ないし自治体の戦略課題は、シビル・ミニマムの量をめぐる第一段階から質をめぐる第二段階へとはいりはじめたのである。逆にいえば、これまで、自治体、国の行政あるいは保・革の政党の文化水準は低いため、シビル・ミニマムの質を考えることなく、量のみが追求されたのである。」(松下1985,p7)

 正直な所70年代の議論、80年代の議論共に松下が市民の成熟性についてどう考えているかについて、私には判断をすることができなかった。しかし、確かなのはこのような状況において、80年代の市民社会が社会教育が不要となるほど成熟していたのかを問うとかなり疑問であるということである。そして、そもそも社会教育自体がこのような市民社会の未熟さに焦点をあて、それにテコ入れをする意図も持ち合わせながら行われてきた側面があるにも関わらず、松下はそれを全否定したのであった。このような状況によって社会教育が否定される筋合いはないのではないか、という見方しか私にはできなかったというのが正直な所であった。


 以上のように松下の議論を読めば読むほど、社会教育を批判するだけの根拠はないのではないかとしか読めなかった反面、おそらく70年代から80年代の社会問題の議論の捉えられ方の変化を読み解く事例としては、恐らく適役の一人なのではないかとも思ったという感想である。
 今回見出した見解は松下の言説の変遷として読み解くには、遠山啓の時と異なり、断片的な文献参照という意味で、厳密性が欠ける分析をしてしまった。私自身は他の論者の議論を今後読みながらこの動きを捉えたいとは思うものの(※1)、厳密な意味での松下圭一の言説変遷を読み解いた論文があるのならば、ぜひ読んでみたいものである。

(2019年2月9日追記)
2019年2月7日の日記で、精読した松下の市民論をレビューを行っています。
見解について若干の修正点もあるのでご参照ください。


<読書ノート>
p34「最近のティーン・エイジャー問題もここから惹起する。もちろん、太陽族月光族カリプソ族、ロカビリー族などつぎつぎ銘うたれてマスコミに登場するようなかたちのティーン・エイジャーは、数字としてはわずか囮商品にすぎない。彼らは身分的安定性をもっていた旧「家族」の崩壊、政治的経済的矛盾の激化、さらに大衆社会状況の露呈にともなって、賎民化したものにすぎない。しかしそれが「例外」としてではなく、「尖端」として、マスコミにのって社会的に拡大再生産されているところに、現代の問題が伏在している。」
※いや、そもそも旧家族とはそれ程安定したものといえたのか??
P35「たしかに五島(※勉)氏のいうように(※青年の巨大な新鮮なエネルギーをせきとめる)壁が問題である。しかし彼らのエネルギーの空虚さは、現在なお資本主義的かつ封建的規制にそのエネルギーを閉じこめられている二重構造の下層の青年たちとの連関においてこそ提起されるべきであろう。
というのは、資本主義的矛盾と封建的過剰重圧のもとに「うちひしがれていく青春」が、徒花のごとく「浪費されていく青春」の裏に日本の構造的必然として存在しているからである。」

p190「都市再開発にあたって、欧米では各ブロックが単一所有者によって所有されているから、ブロック単位の再開発ができるが、日本では各ブロックに多くの零細土地所有者がいるため、ブロック単位の再開発はこれまで不可能にちかかった。ブロックの再開発は、欧米の大地主には有利となるが、日本においては零細地主間の利害の対立をうみだしてしまうからである。ここから、欧米では公共的に住宅政策を確立しないかぎり住宅供給がふえず、したがって持たざるものの急進化を導出するが、日本では個人貯蓄による個人住宅の建設が主流となり、土地の値上りはこの個人の潜在的財産価値の増大、したがってまた持てるものの意識を拡散し、ますます公共的な住宅政策の無視をうみだすのである。その結果、ここでも日本の都市は交通機関ぞいの無限スプロールとなり、水道、ガス、下水道などの都市基盤の欠如となるのである。」
※この再開発とはいつ頃の話をしているのか…
p190「日本の工業化にともなう都市人口の拡大は、こうした風土的背景のもとに進行する。ここでは都市的生活様式の未確立、別の言葉でいえばシビル・ミニマムの欠如となり、農業社会的生活感覚が滞留することになったのである。生産力世界第三位をほこる今日の日本の都市的生活水準の低劣性はたんにアジア的貧困の継続とみなすことはできない。むしろ風土的条件からきた国民自身の生活欲求水準の低さ、すなわち都市的生活様式の未成熟からきているといわなければならない。これを前提としてはじめて、明治以来、中央政府の生産資本優位、社会資本無視の経済成長政策が可能になったのである。政府を批判することはやさしい。しかし国民自身ないし都市人口自体がいまだ農村的生活感覚から脱却しえていないことをより強く問題としなければならないだろう。」

p189「だが日本では都市と農村が連続し、農村からの都市の自立、したがって都市的な生活様式の自立がみられなかったといってよい。日本でも今日、工業の産物としての鉄とセメントによるコンクリート建築が登場しはじめ、ヨーロッパと材質的には異ならないようになってきたが、いまだこの都市の自立性したがって都市的生活様式の自立性という理念は未熟なのである。こうして日本では交通機関ぞいの無限の都市スプロールとなり、逆に農村的生活様式が都市に浸透する。」
※更には石を基盤にした家屋と木製の家屋の違いに触れ、 日本のような木造では「富の蓄積は無理だろう」と断じる(p189)。
P194-195「この革新自治体行政の樹立によって、日本の都市ははじめて中央政府の下請機構から市民の自治体に転化しはじめ、政策の公共性についで計画性が新しく日程にのぼったのである。
この意味でようやく、計画性・公共性・自治性という都市の理念が日本にも息吹きはじめた。たしかに日本の都市は、大企業中心すなわち資本中心の強蓄積の犠牲となって都市問題を激化させており、物理構造からみれば崩壊に瀕しているといっても過言ではないであろう。だが、戦後的都市市民層の形成を背景とする革新自治体の叢生によって、日本ではじめての都市改革ないし都市デザインの主体が現実的な政治課題となった。そこから大企業中心の国土計画や都市計画を、市民自体が自治体を制度的前提として再編する展望がきりひたかれたのである。それゆえにこそ革新自治体もまた社会保障中心主義から脱却して都市改革ないし都市デザイン――新しい生活空間の創造においてこそ、革新的たらねばならなくなったといわなければならない。」
※あまりにも楽観的…

p203(A)社会保障——健康保険、養老年金、雇用対策など
(B)社会資本(1)生活基盤——住宅、交通、情報、水道・光熱、学校、公園など
(2)生産基盤——工業・農業用地、工業・農業用水、産業道路、港湾など
(C)社会保健——公衆衛生、公害など

p213「最後に強調されるべきことは、この都市の可能性は市民の可能性と連関していることである。都市が現代の生活様式したがってまた社会形態を意味するかぎり、都市自体の改革は人間の改革となって市民的エートスの成熟をもたらしうるであろう。この意味で都市改革はユートピアの挑戦といわなければならない。たしかに農業社会から工業社会への過渡期にある現代都市は、崩壊と再生という緊張の過程にある。都市の機能増大と規模拡大にともなう都市問題の激化、そこにおける急激な農業人口の都市化に加速されている政治緊張の爆発がそこにみられる。その解決にあたっては政治民主主義によるシビル・ミニマムの確立という政策展望を必至とし、そこから資本主義・社会主義という体制選択の問題が提起されている。
というのは都市改革にあたっては膨大な資本の計画的投下を必要としているため、社会主義への展望をもたなければならないからである。社会主義は、生産の社会化によって惹起される生活の社会化によって現代における必然的選択となっている。もちろん公共資本と民間資本の役割分担は社会主義体制でも考慮する必要がある。……この体制選択は、それゆえ、たんに「搾取」ないし「生産手段の私有」の止揚という一九世紀的次元だけでなく、現代では具体的な「公共計画」の可能性という次元をとらえなければならないことを意味している。」

p217「日本の余暇は、今日、「レジャー」という形態をとっていると思われる。いわゆるレジャー産業によって利潤追求の対象あるいは企業による労務管理の対象となり、操作されたレジャーとなっているからである。日本の余暇が、管理された余暇としての「レジャー」という疎外形態をとっているかぎり、主体的な余暇としての「自由時間」をあらためて問いなおす必要がある。この「レジャー」と「自由時間」との分極化の緊張のなかに、今日の余暇問題の中心論点が存在しているともいえよう。」
p215-216「この都市のユートピア性の提起は人間の自由の<証し>である。ユートピアはまさに生活様式の自由なデザインを意味する。むしろデザインがつねにユートピアへの志向をもつということが、人間の自由の証しなのである。かつて文明の起源となった都市はユートピアを志向する王の自由なデザインの産物であった。とすれば万人が王である今日、都市は市民の自由なデザインの産物でなければならない。
 くわえてデザインとは生活様式の計画的決定である……現代においてデザインがことに強調されるのは、工業生産力の増大ことに技術の進歩にともなう、大量生産技術の発達と新しい素材の登場によって、デザインの伝統的手法をこえた新しい手法が模索されているためである。したがって今日のデザインの背景には、人類が今日開発した工業の発達にともなう伝統的生活様式の崩壊、したがってまた現代的生活様式の創造というユートピアへの指向が横たわっている。工業社会の成熟にともなう生活様式の転換、それゆえ新しい生活様式の設計という文脈のなかで、今日デザインの課題を位置づけなければならない。」

p224-225「自由時間を制度として保障するには、まず何よりも、①社会保障、②社会資本、③社会保健の各領域における都市生活基準、すなわちシビル・ミニマムの充足がなければならない。シビル・ミニマムの設定は現代における生活基準の公的保障を意図しているが、それはなによりも現代における人間の自由時間を形成する物質基盤の充足である。そのためには、国の行財政構造の改革と、都市における生産空間・居住空間・公共空間の計画的な充実と配置を必要としている。これが今日の政治の第一義的課題である。
しかしシビル・ミニマムの設定は、それだけの意義にとどまるものではない。一定の基準による社会保障・社会資本・社会保健の保障は、また自由時間を享受する生活ルールの形成を指向している。かつての伝統的な生活ルールを保障した共同体の崩壊が今日社会の底辺にまで浸透したが、しかし、いまだ都市における生活ルールの形成は十分はない。公共空間の整備を中心とする都市空間の設計は、いわばこの生活ルールの形成の条件をなすものである。すべての人間に保障されるシビル・ミニマムという発想は、新しい市民的連帯の条件となるからである。
 現代における自由時間の中核である個人自由、したがって市民的自発性の成熟には、このシビル・ミニマムの整備を必要とする。シビル・ミニマムは「必要の王国」を整備することによって、「自由の王国」すなわち新しい市民文化への可能性を政治的にひらくものである。」
※ここでは一言も市民文化や市民的連帯が可能となるとは言っていない。

P256「だが他方、保守自治体共闘がつねに保守自治体の基盤となってきたことを見逃してはならない。保守自治体においては、保守政党、中央官僚に支援されながら、町内会(部落会)連合会をはじめ商工会議所、商店会、業種団体、農協、防犯協会、防火協会、清掃協力会、交通安全協会社会福祉協議会、PTA連合会、青少年保護団体など多様な保守大衆団体のネット・ワーク――共闘が日常的にくまれているのである。いなこの共闘こそが日本の保守支配の構造的基盤となっている。革新自治体共闘は、汚職摘発、コンビナート反対、高校増設などの「カンパニア」的形態においてそれぞれ成果をみてきたとはいえ、いまだ保守自治体共闘におけるような「日常」的形態においては、十分根におろしていないといっても過言ではない。こうして革新自治体活動においては、大胆な政策提起を軸として、民主的地域組織多様な形態において育成しながら、保守的地域組織を民主化し、さらに自治体共闘のルールを成熟させていくことを不可欠としているといえよう。」

P275-276「都市生活水準の上昇のためには、いうまでもなく都市勤労者層の賃金の上昇が必要である。しかしそこで留意すべきは、第一に、この賃金上昇が、労働組合を中心に大企業の利潤分配としておこなわれ、しかも養老年金、健康保険それに住宅建設なども企業福祉政策にくみこまれるため、すべての市民あるいは国民に保障されるシビル・ミニマム、ナショナル・ミニマムの直接の保障にはならないことである。第二には、賃金上昇の結果、たとえば民間の住宅建設はかえって都市のスプロール現象を誘発し、あるいは自動車の増加が交通問題、公害問題に拍車をくわえて生活環境を悪化させていることである。それゆえシビル・ミニマムないしナショナル・ミニマムの設定による国民生活構造の改革と賃金の上昇とが直接むすびつかない。ここに従来の日本の革新理論が想定もしなかったような意味で、日本の企業労働組合が国民的責任をにないえなくなっているという問題がでているのである。」

P276-277「それゆえ工業社会が成熟し、都市化した今日、
A 社会保障(養老年金、健康保険、失業保険、困窮者保護など)
B 社会資本(住宅、交通通信、電気ガス、上下水道廃棄物処理、公園、学校など)
C 社会保健(公衆衛生、食品衛生、公害規制など)
が公共的に拡充されなければならないのである。」

p279「しかしこのシビル・ミニマムの提起は、決して、今日よく論じられるような意味で、国民生活か経済成長か、という俗流選択肢を提起しているのではない。むしろまず第一に、経済成長の人間的規準の提起を意味している。経済成長が、今日の経済計算方法が提起するGNPの量的増大にすぎないならば、たとえば公害の増大は公害産業の発達をうながすため、経済成長にとってはプラス要因であるという悪循環をたえず内包することになることは、すでに先駆的なエコノミストが指摘するとおりである。こうして経済成長自体の政策的再編がここから提起されてくる。さらにまた第二に、経済成長の目標設定の問題がある。経済成長が企業利潤の肥大さらには軍事進出の前提となるのではなく、市民的自由の経済条件の拡大を準備しなければならないかぎり、ここでもまた経済成長自体の目標の再編が日程にのぼるであろう。」
p280「ここであらためて日本の国家目標は、シビル・ミニマムの設定ないしシビル・ミニマムの充足によるナショナル・ミニマムの設定、さらにその基準上昇でなくてはならないことを提起したい。」
p288「たとえば、一九六八年の東京都の例でいえば、保育所は一二万人分必要とし、その一〇〇%充足がシビル・ミニマムであるけれども、現在の充足率は六一・九%、三年後には八三・七%に拡充する、あるいは下水道は一〇〇%の普及率をシビル・ミニマムとして必要とするが、現在の面積上の普及率は区部で三七%、三年後にはそれを五〇%に拡充する、——というかたちでシビル・ミニマムを具体的に理解することができるであろう。」
※結局数値化できるものが重点化される。

☆P301-302「このシビル・ミニマム、ナショナルミニマムの設定にたいしては、ケインズ福祉国家論にたいするような批判が可能であろう。ケインズ福祉国家論は、管理通貨制度を前提に一国社会福祉を意図する封鎖福祉国家であり、南北問題の現実にふれた途端、破産する労働者ぐるみの先進国エゴイズム理論であるという位置づけがこれである。たしかに超国民経済的な経済構造が胎動しつつあるとはいえ、今日の経済の発展段階では、資本主義・社会主義を問わず、いまだ国民経済のワク組を突破することができていないことも現実である。世界革命論が挫折せざるをえないのはこのためである。……
それゆえ社会科学にとって緊急なことは、今日の戦略課題である、(1)平和問題、(2)都市問題、(3)南北問題をめぐる政策科学を統一的展望・方法をもって構成することにあるといってよい。この三政策課題の追求は、ことに先進国の政府機構ないし国民経済、ことに行財政構造ならびに民間資本誘導構造の改革との関連で、有効な政策的統一性をもちうるからである。今日の専門知識をインターデシプリナリに結集していく政策科学の戦略課題はここにあるといってよいであろう。
シビル・ミニマムというかたちで提起した本章のテーマは、さしあたっては、この政策課題の第二の都市問題にたいするアプローチである。だがシビル・ミニマムの提起は、第一の平和問題におけるパンと大砲の矛盾をめぐるナショナル・ミニマムの設定、第三の南北問題におけるインターナショナル・ミニマムの設定と深くかかわっている。たとえばアメリカにおいては、国内南北問題として都市で激発した黒人問題への対処にあたって、世界の憲兵的地位の放棄による国内開発への方向の模索は、批判派を中心に志向されていることをここで指摘したい。平和問題も南北問題も、都市問題を尖端とする国内の改革なくしては展望をもちえないのである。」
※結局何がいいたいのか??ここで批判されているのは「大きな政府論」という話ではないのは確かである。だが、シビル・ミニマム論が「市民(シビル)でないもの」の排除的政策ではないというのはどういう意味なのか。あるいは、癒着といったものに対する否定の理論であることからくる非搾取の発想が共有できると考えたのだろうか。しかし、それはあくまで搾取の禁止であって、実際の不平等解消のための積極的施策と結びつくと言い難い。ここで松下が搾取がなければ平等になるなどという楽観論を前提にしていると厄介。ここでの論理は社会教育批判と全く同じようになっており、妥当な話と考えるべきではないだろう。

P316「ようやく現在の大学問題の激化の過程で大学教師の身分権威も崩壊しはじめた。これは、国民の文化水準ないし民主感覚が上昇した結果であり歓迎すべきことである。……すでに大学教師については、専門バカという言葉がつくられているが、大学教師が専門家であっても、その市民意識において、国民の平均的な文化水準以下におちこまないという保証はないのである。
こうして、日本でも国民の文化水準の上昇がはじめて官僚主義の基盤をほりくずしはじめたといえよう。このことはまさに、国民それぞれの日常行動範囲において、自主管理の可能性がうまれはじめたことを意味している。」
※ここで大学闘争を介して民度があがったことを明らかにし、かつそれを評価していることがわかる。

本多二朗「共通一次試験を追って」(1980)

 今回は前回少し予告していた、大学入試制度の議論を取り上げてみる。
 本書は、一新聞記者による共通一次試験制度への移行に伴う様々な動きについての報告である。私が本書を読んだのは大学院時代であったが、大学院時代に読んだ本の中でも読んでおいてよかったと思った10冊の中に入る一冊だったという位、非常にためになったと思った内容だった。

 本書において、2つの点について言及しておきたい。

1.大学入試の独立性について
 前回、小尾の高校入試改革の議論をみてきた訳だが、本書においてよくわかるのが、その大学入試の改革の遅さの一端である。これは本多自身意図的に書いているとも思うが、この共通一次の動きというのは同等の共通試験としての性質を持ち得ていた能研テストの廃止(1969年)と無関係ではない。このような共通テストの実施までに10年近く考えてきたということである。そしてこれは単なる大学側の怠慢という批判としてしまうわけにはいかないような、適切な人物を選抜するための方法論の検討の必要性というのは確かにあったと思われる。特に共通テストの有効性は検討当初は疑問視されていたが、試行テストを通して実証されてきたという文脈が仮に本書で過大にとられているという見方をしたとしても(p83-84)、有力な議論となっていたことを否定するのも難しいだろう。最終的な政治的圧力の影響は少なからずあったと本多は見ているものの(p19)、本書では国立大学協会主導でこの共通一次試験制度が実施に至ったとみている。
 しかし、ここで考えなければならないのは、学歴社会論においてはやはり大学の就職の有利さ、東大卒の官僚職独占といった形でなされる議論が有力であり続けたという点である。本書を読むと、小川太郎の進学制度に対する「資本家支配の影響」という解釈についても、本書で読み取れる「大学の独立性」からすればやはり的外れであるように読めてしまう。しかし仮に学歴社会が社会問題であるとみなすのであれば、やはりこの「大学の独立性」が逆にその是正の阻害要因であったと言うのも難しくないと思う。
 これに関連して、大学にとって入試改善と一般人にとっての入試改善のズレという議論(p34-35)も重要な着眼点と言えるだろう。例えば、国立大学協会における共通テストに向けての議論というのは、このようにも指摘されている。

「ただ国立大学協会の考えておられる共通テストというのは、共通テストないし統一テスト論という流れの中においては、どちらかと言うと、内申書、調査書中心にしていくべきだとか、そういった考えとの結びつきの共通テストとはだいぶ質を異にしております。つまり各大学が綿密な試験を行なうためには受験者をある程度規定しなければならないので、その受験者をまず選び出すために行なう、それから全教科を、必ずしも全部テストしなくてもよいものをそれに譲れるとか、そういった点を国立大学共通に行なうその一資料にするという考え方とか、あるいは特に具体的に調査書中心で選抜するといった方式とは必ずしも関連はないのではないかと思われます。でありますから、率直に申し上げて、国立大学協会の方式が採用されて実施された場合に、ともかく国立大学が共通のテストをするという一つの大きな改革をすると言いますか、新しいことをするという意味が非常にあるのでしょうけど、いま言われている受験勉強とか受験地獄とか、そういったものの解消には直接には関係ないのではないかと思われます。つまりよきにつけ、悪しきにつけ、大学サイドの考え方に立って、その立場に立って行なわれるものであるだけに、率直に申して、大学サイドの考え方に立って、その立場に立って行なわれるものであるだけに、率直に申して大学の立場からはさほどの異論は出にくい、ただそれだけに大学側としては、受益するところがあるが、受験者側にとってどれだけ直接的な受益があるかは疑問であるということも話題になっているわけであります。」(日本教育心理学会編「大学入試を考える」1973、p33)


2.大学入試の高校入試への影響力について
 大学院時代私が一番驚いたのは、この点だった。本書では、大学入試の制度変更が、高校入試に大きな影響を与えていると述べているのである(p74)。小尾の議論を振り返ってみると、この仮説が正しいならば、なおさら高校入試の改善を学歴社会の変革という文脈で行うことがいかに不毛かを示しているといえるのではないか。
 もっともこのような仮説は教育社会学をはじめとした学術的分野でもあまり正面きって関係性について語られていないようにも思える。これは一因として、その制度に対する検討自体が難しいという点もあげられるだろう。少なくとも高校入試はさしあたり都道府県レベルで決定しており、大学についても一期校・二期校といった区分はあるが、選抜のされ方は統一的といえない。時代的な傾向を捉えるにせよ、参照しなければならないものが多く、更にはなかなか情報自体も入手しづらい部分があるように思われる。そういう意味で本書での見解は実証的でかつ、新鮮さがあったのである。ただし、この仮説が正しいと断言するには早計かもしれないので、検証をまたねばならないレベルの話かと思う。私自身もその傾向を追ってみたいと思う。
 そしてもう一点、この共通試験により、高校と大学の対話が行われるようになった(p162)という点も興味深い。今でもそうかもしれないが、入試の情報というのはブラック・ボックスとなってしまう側面があるだろうし、当時はそれ以上に評価のされ方が見えなかったということなのかもしれないと感じた。


<読書ノート>
p17「国立大学協会が五十三年まで行われていた各大学独自の入試方式を改め、共通一次試験と各大学独自の二次試験の組み合わせ方式に五十四年から踏み切った背景には三つの動機がある。第一の動機は全国高校長協会からの内申書重視の要望、第二は大学入試に対する政党介入の懸念、第三は国立大学二期校からの一・二期入試期日一本化要求である。」
p18「一方、国大協も四十六年二月には協会内に入試調査特別委を設置して研究し、翌四十七年九月、全国共通テストに関するまとめを初めて発表、同年秋の国大協総会で実施の可否を決定するには継続研究が必要だという結論になった。」
※これの前段として全国高校長協会が入試制度の改善の要望を文部省に出すなどしている(p17)。

p18-19「文部省が調査費をつける時には、「実施を前提にした調査」という考え方があるが、国立大学側にはまだこのころ(※1973年)は「実施するかしないかの研究も含めての調査」という考え方が支配的でかなりのんびり構えていた。こうした空気は個々の国立大学現場という末端へ行くほど濃厚であり、五十一年ごろまでは「共通テストなんて本当にやれるのかね」ともらす教官がほとんどだった。文部省は恐らくジリジリしながらも自ら表面に出ることを避け、国大協が自主的に実施に踏み切るのを待ったに違いない。」
p19「政党は文部省ほど忍耐強くなかった。自民党政務調査会は同党文教部会が二年間かけてつくったという「高等教育の刷新と大学入試制度の改善および私学の振興について――教育改革第二次試案」を四十九年六月発表した。第二次試案は大学入試の改善について「全国共通学力テスト実施を検討する国大協の労力」を評価するとともに、「今日まで私たちは大学自身の入試改善の努力に依存し、また一面で教育者の自主性尊重という名分の陰に隠れて、大学入試の改善を怠ってきたことを深く反省するものである」として、「自民党独自の大学入試改革案を次期通常国会に提出する。実施は五十一、二年を目途とする」と性急な方針を打ち出した。「そちらでやらなければ、こちらがやるぞ」と強弁方針をちらつかせた感じである。」

p23「国立大学の一期・二期制は新制大学が戦後発足した時から、食糧不足で遠い旅行が困難な世相に対応して、遠くへ行かなくても近くで受けられる大学を各地区に二つという考えで取り入れられた。」
p29「一方、国大協の「選抜はやむをえない」という方針に対して真っ向から批判し、大学進学制度を根本からつくり直そうとしているのが日本教育学会の中に設けられた入試制度研究委員会(代表、大田堯氏は当時東大教育学部長、のちに都留文科大学長)のグループだ。
……進路指導のためのセンターを全国いくつかのブロックに設け、大学と高校で協力して運営する。進学先はなるべく地域の大学とし、それに抵抗を感じないように大学の格差を解消、すべて充実したものにする――というのが大まかな構想だ。大学全入的な考え方であり、日教組社会党がこれに近い。」

p30「だが、日教組の中でも大学部は考え方が違う。大学入試を「悪の根源」とは考えていないし、選抜そのものを「破タンした教育制度」とも思っていない。」
p32「(※大学入試センターを設置する旨の国立大学設置法)改正法案を送付された参院文教委員会も(※77年)四月二十一日に次の付帯決議をつけ法案は日付など一部を修正しただけでやはり全会一致で賛成した。
『最近における入試準備教育の過熱状況を是正し、学校教育の正常化を図るためには、政府及び関係者において学歴偏重の打破、各大学における特色ある教育の充実等について具体的確策が一層推進されなければならない。」

p34-35「ところでそれまでの大学入試はいったいどこが悪かったのだろうか。共通一次はそれをどのように改善しようとねらったのだろうか。一般にはわかりきったことと受けとられているが、受験生や親を含む世間の側と国立大学側とでは、この根本的な認識が案外大きく食い違っているように見える。
共通一次の目的にうたわれているように「入試が高校教育の正常な発展を阻害してはならない」というのは共通認識だが、正常な発展を阻害してきたのは「入試地獄だ」と世間は考える。だから正常化のためには受験生の負担をなるべく軽くし、入試地獄をなくさなければならないという論理になる。
ところが国大協の方はそうは思っていない。「共通一次の目的」の中に「入試地獄の緩和」など一言もうたっておらず、最後の部分で「より多くの資料により、より綿密な合否の判定を行う」と締めくくっている。簡単にいえば「いい選抜をする」のが国大協の目的なのだ。」

p66「私立大希望者も多い高校では、国立大だけのための授業は組みにくいので、補習形式をとっているところが多い。放課後の補習を月曜から金曜まで毎日行ない(千葉県農村部のある高校)、補習というより“やみカリキュラム”のようなところもある。そのほか放課後以外に夏休みの補習も三倍増の三週間(徳島・城南)とか、四〇%増(松江北など島根の四校)といった例もある。新しい傾向としては、早朝補習(高知・追手前や徳島・城東)が現れた。両校とも「放課後にやるだけでは追いつかない」というのだ。」
p71「大学入試の改革は高校の入試制度にも影響を与えた。高校入試は五十三年までにも英語、国語、数学、理科、社会の五教科制をとるところが大勢となっていたが、三教科制のところもまだ残っていた。これが大学側の共通一次実施をきっかけに相次いで五教科制に切り替えていった。まず五十四年には青森、岡山両県で移行、ついで秋田が五十六年、山形と東京が五十七年からの五教科制実施を決めた。」

p73「高校入試で九教科やらなくてもいい」と昭和四十一年に文部省が指導し始めたのに応えて、山梨県では翌年から三年間四教科制をとった。四教科のうち国語、数学、英語の三教科は固定し、あとの一教科は理科、社会、保健体育など毎年変わるローテーション方式、他県でも四教科制はこのやり方が多かった。四十五年からは国数英の三教科制へ移行、この方式がこれまで十年続いてきた。」
p74「残る三教科入試県は愛知県だけ。ここは三教科制へ変わるまでに相当議論があったので、まだ五教科制への動きは目立たない。ほかには京都府が九教科入試、兵庫県が総合テスト方式をとるのが例外的存在、他は日本中が五教科制という現状だ。高校入試制度の変更が五十四年前後に集中してバタバタと実現したことは、共通一次の及ぼした影響の大きさを物語っている。」

p83-84「「共通一次? そんなものは苦しまぎれの二期校が利用したくて作るんだろうから、本学としてもつき合いはするけれども、あまり頼りにはしない。やはり本学の独自試験の方が比重が大きいに決まっている」。初めのころ旧帝大系の教官からこういった口ぶりで話されるのをよく耳にした。ところが試行テストが一回、二回、三回と重ねるうちに風向きが変わってきた。九州大では試行テストと翌春の九大入試の双方を受験した学生を対象に得点状況を比べたところ、よく似た傾向がでたので「共通テストで入試の相当部分を肩代わりさせてもいい」という考え方が有力になった。東北大でも同じだった。」

p162「ただこのように大きい問題点をはらみながらも、共通一次試験の内容が正解発表も含めて国民の前にさらけ出され、ガラス張りの中で集中的に批判できることになった効果は大きい。入試問題の是非について大学と高校の先生が大々的に討論するようなことは、以前の大学入試ではほとんど行われなかった。」
p163「大学の先生たちの間で、共通一次を契機に「入試と対応させて大学での教育をどう行うべきか」と考える気風が生まれてきた。昭和五十五年の日教組教研集会大学分科会にその傾向ははっきり現われていた。教研集会の大学分科会にはここ八年ばかり出席しているが、討議の中心課題にも時代の動きとか流れのようなものを感じる。初めのころは職員の待遇とか教員の研究条件が主な話題で、時には研究条件とからんで大学院設置問題が関心事になったりしたこともあったが、学生の教育についてはあまりレポートは多くなかった。それが年とともにだんだんふえる傾向が芽生えていたが、五十五年には共通一次や二次の小論文試験など入試とのからみで入学する学生の資質を論じ、そしてその学生をどう教育すればいいかといった模索的な発言が多くなった。」

p211「大学入試と高校教育を関連づけて考えるなど、当たり前のことと思う人もいるだろうが、大学人の伝統的な考え方は必ずしもそうではなかった。この調査の回答の中でも「高校教育はそこだけで終わる人を含めての全人教育であり、大学入試とは直接の関係があるはずはない」「大学は大学教育を受けるにふさわしい資質と能力をもったものを選び出し、学部学科の必要科目に対する能力をみるわけで、受験生の負担という考え方は理解できない」というのがある。これが伝統的な大学入試観。」
p213-214「また小論文採点の尺度にしても、同じ小論文を第一志望学科と第二志望学科で別々に採点したら、第一志望学科で不合格とされたものが第二志望学科で二〇〇点満点で八〇点も高い評価を受けて合格した大学の例を聞いた。小論文と面接の採点結果が逆相関を示した例もある。しかしこういうのをあまり目クジラ立てて「不公平だ」と追及したりすると、一点の差を問題にする客観テストに逆戻りするので、長い目で大学の模索を見守るしかないのではなかろうか。暴論といわれるかもしれないが、私は入学試験なんて多少いい加減なところがある方がいいと思う。できるものが落ちたり、できないものが間違って入ったりするから救いがあるのであって、全国一律の偏差値的物差しが正確無比につくられ、これに落ちたものは落第生と刻印されるような入試は考えただけで息がつまる。」
※願わくば、間違いで入ることはあって欲しくないが、同じ尺度である必要はないというのは理解できる。

P265フランスの話…「このスシ詰めを入学後の落第でふるいにかけていたわけだが、一九六八年の五月危機で「学力でなく定員で落第させている」という学生の不満が噴き出し、その後のフォール改革で定員を増やすため続々と大学が新設された。二十三大学からたちまち六十五大学へ。特にパリではパリ第一から第十三大学までできた。」

小尾乕雄「教育の新しい姿勢」(1967)

 今回は、「地域子ども学校と地域子ども組織」のレビューで少し取り上げた小尾の著書を取り上げる。本書は小尾乕雄自身が東京都教育長時代に書いたものとして、当時の競争的試験制度是正通達であった「小尾通達」の背景を押さえるのには重要な内容であるように思う。

 描かれているシナリオについては非常にシンプルにまとまっているといえるだろう。流れとしては、
1.現代っ子が自分たちの小さい世界に閉じこもり、他人のことや社会のことを考えないようになったこと(p21,p24-25)。
2.しかし、子どもはもともと理想主義的であり(p28)、このような状況は子ども自身の問題ではなく、疎外されたものである。その疎外要因は多岐にわたる。ざっと見るだけで家庭教育(p163)、宿題の問題(p165)、塾の問題(p168)、サラリーマン教師の問題(p273)、学歴評価の問題(p285)といった議論がなされる
3.この問題を解決するために、学校群制度の導入の必要性を強調する(p296)

といった感じである。

 ただ、全体的に主観的な判断で議論している傾向が強く、どれも有効な立証ができているかどうか疑わしいか、誤りであるものばかりであった。特に最初の導入では実証的に東京都の調査の過去との比較をしているように見える分、その後の議論に検証可能な根拠が用意されていない点については、非常に悪質ではないかとさえ感じる話の流れであったように思う。


 それぞれの内容について少し考察してみる。
 まず、1.について。この調査は6つの選択肢の中で最も自分の目指す生き方に近いものはどれか、という内容の抜粋であり、これを根拠に議論を展開しているものである。回答の内容は、高山武志(1968)に同じ質問項目があったので、参照されたい。
http://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/handle/2115/29041

 ここでの議論の問題は、子どもの利己性について、この結果のみから曲解して議論しているという点である。結局この質問では「金や名誉を考えずに自分の趣味に合ったくらし方をすること」「その日その日をのんきにくよくよしないでくらすこと」が東京都の調査で、過去の調査と比べると相対的に高かったという点から導いている。しかし、これはこの質問の性質として一番近いものを選んでいるに過ぎず、そのような利他的な態度が否定されるような質問の回答を想定していないことに全く配慮がなされていないのである。この質問が複数回答可能であって、利他的な内容に回答がないというのであれば小尾のような主張も納得ができるが、価値観の否定にまで及ぶ質問とみなすのは強引であると言わねばならない。

 次に2.について。これについても、家庭教育や塾に対する見方は主観でしかないように見える。例えば、「一般的な家庭教育」がどうかは知らないが、家庭教育として位置付けてよいであろう「しつけ」については、東京学芸大学社会学研究室(1963)が実証的な議論をしている。
http://ci.nii.ac.jp/naid/110001877365
 ここでは、そもそも「しつけ」の中に「勉強をさせる」という項目自体が存在していない点が大いに議論の余地を与えるものといえる。また、進学要求については、特に男子については大学進学まで希望する親が多いことが確認できる。しかし、実際にどのような「しつけ」を重視しているかを聞いたものについては、この「勉強をさせる」に近い「根気づよさ」よりも「健康な体づくり」の方に重点が置かれていることがわかる。少なくとも、小尾のいうような家庭教育像を持ち出すには、議論の余地があるような内容ではなかろうかと思う。
 確かに「社会問題」としての教育ママ言説について言えば、このような形で家庭教育が欠落しているといった議論がなされていたのは事実である。しかし問題なのは、結局これを「社会問題」ではなくて、「一般的な家庭像」として議論をする際にその検証プロセスを全く経ていないということなのである。そして小尾が安易に越境してしまったように、両者の区別(境界)というのは、さほど意識されることもない場合が多いというのもまた事実なのではないかと思う。
 また、「宿題実施の批判」を行っている点については特徴的な点であったと思う。参照文献が不明なのが残念な所だが、この議論がどのようになされているのかは気になった点である。

 最後に3についてである。これについて即座に疑問となったのは、「何故高校入試による是正なのか」という問題であった。つまり、大学入試の変革なしに、高校入試の改革を行うことはいかに有効なのかという論点である。
 これについては、学校群制度導入後、特に東大入学者が日比谷などの公立高校から、灘・開成といった私立や国立高校に移ったということがよく知られている。以下のサイトに詳しい。
http://www.univpress.co.jp/chukou/column/todai_ranking/
 つまり、見方によっては学校群制度の導入は公立学校における序列化の責任回避のための政策としてしか作用されず、その規制から外れることができた私立・国立学校における序列化という形で残り続けたということ、見方によっては私立等にいける子どもが有利になることで、親の所得格差等の影響がより強くなったという仮説を立てるのも難しくないように思える。これは大学入試についての改善がされないために起こったともいえるのではないか。

 本書においてとても気がかりなのは、この大学入試との関連については全く言及されることがないまま、学校群制度の導入を推し進めようとしていた点にあるといえる。何故「日本という社会のゆがんだ現象」の解決として学校群制度が選ばれたのか、という論理がいまいち理解できないのである。この解決策は表面的に過ぎないのは明らかであるが、それでもなおこのような形で政策が選ばれてしまったのか、このような問いの立て方は今後の教育について考える場合にも有効ではないかと思う。
 これについては次回のレビューでも紹介したいが、大学については国立大学協会などの大学による試験制度の管理があり、高校入試は、都道府県レベルの教育委員会により取り扱われるという、素朴な管轄のズレと、それらの対応の速度の違いという見方も可能といえるだろう。

 もう一点学校群制度の導入において注目しておきたいのは、この制度が「高校の多様化政策」とは真っ向から対立しうる内容だということである。しばしばこの多様化と序列化の関係性については問題となり続けていたといえるだろうが、学校群制度は序列化の抑制を行うと同時に、学校の標準化を目指す意味で明らかに多様化とは逆行の政策だったのではないかと思う。学校の多様化を行うのであれば、その適正に合った生徒がより多く集まった方がより多様性が生かせるのは、少なくとも論理的には明らかである。「序列化なき多様化」というのは、客観的には明らかにありえない現象であり、常に多様化について序列化をしようとする人間がいる限りは常に序列化の試みがなされるような性質のものであろう。これについても、結局価値の多様化が生かされるような価値をめぐる議論を具体的に行っていかなければ、絵に描いた餅にしかならないような性質の議論なのではないかと私などは思うが、本書がまさにそうであるように、「高校の多様化」というのは、実質的な内容に欠落した「綺麗事」の代名詞のように語られていた傾向も否定できないのである。
 私自身もこの高校の多様化問題の時代的な流れの整理はできていない所だが、このような学校群制度の導入のような動きも多様化政策への少なからぬ影響があったのではないかとも思える。


(読書ノート)
p19「以上のような傾向に注目してみると、現代っ子には「夢がない」とか「功利的・打算的であまりにも自己本位である」とか「積極的・意欲的な生活態度が見られない」というような批判は、甘んじて受けなくてはならないように思われる。」
※昭和五年の文部省調査(壮丁思想調査、N=8561、対象の8割以上が20歳!)、昭和二十四年の桂広介の調査(中学生を対象とした)と昭和四十一年の東京都調査(N=611、中1-3年対象)が比較されている。桂の調査は大規模だったとされるが、どの程度だったのか?
P19「しかし、だからといって、「今の子どもはだめだ」とは考えたくない。また、そう考えてはいけない。」

P20「というのは、?(※理想主義的・社会的態度を重視する者)の内容をみると、(6)の「自分一身のことを考えずに、社会のために、すべてをささげて暮らす」というのが四〇%以上もある。他人と同時に自分もたいせつにすること、じゅうぶんに個性を発揮するというしかたで社会に貢献することが民主主義の考え方であるから、「自分一身のことを考えずに」ということは、考えようによっては、問題であるといえよう。」
P21「それはともかくとして、先に述べたように、「自分に合った暮らしをする」こと自体は、たいへんけっこうなことであり、そのこと自体を非難するとしたら、それは非難するほうがおかしいといってよい。
問題は、子どもたちの考え方や生活態度が「自分の趣味合った暮らしをする」ことに終始してしまって、他人のことや社会のことを考えないこと、協力とか責任とか奉仕とかいうようなことに無関心になってしまうことにある。」
※このことは調査結果からは全く取り出すことができない論点。
P24-25「以上見てきたように、子どもたちは、年とともに、また学年が進むにつれて、自分たちだけの小さな世界に閉じこもり、いわゆる小市民的なささやかな平和と幸福とを求める傾向が強くなってきている。いったい、これは何によるのであろうか。
もちろん、こうした子どもの考え方は、日本の社会そのもののあり方に根ざしているといえよう。しかしながら、そういってすまされることではない。われわれは教育関係者として、現在の学校教育のあり方について、きびしく反省の目を向けなくてはならない。」
※この調査は一番価値があると思うことに答えてもらった内容であって、その態度が欠落しているかどうかを全く問うてはいない。にもかかわらず、小尾はここで自分の世界に閉じこもる子どもが増えていると断言してしまっている。

P28「考えてみると、この二つの傾向(※人道主義へのあこがれと、消極的・現実的・個人的傾向)は、決して矛盾するものではない。子どもたちはもともと理想主義者であり、ヒューマニズムへの強いあこがれをもっている。しかしながら、現実はきびしい。さまざまな制約の中で、子どもたちは、次第に疎外され、現実主義者としての生活を余儀なくされているのである。」
※何が疎外しているとみなすか?またここでいう「もともと」とは何を意味しているのか?
P29「つまり、もともと理想主義者であり、ヒューマニスチックである子どもたちの、明るく伸びようとする芽が、現代の社会、学校、家庭の中で摘み取られているのではないかと考えられるからである。」

P31-32「欧米諸国では、職業を神によって与えられたものと考え、貴賎がないという考え方が強いが、われわれ日本人は、ともすると職業だけで簡単に人間を評価する傾向がある。だから、進学する高校を選ぶ際にも、適性や能力についてじゅうぶんな配慮をしないで、すこしでもいい職業につくためにはどの学校がいいか、ということに重きをおいて考える風がある。職業についての考え方や進路指導は、今後、学校教育の中で、もっともっと重視されなくてはならない。」
※これは批判としてほとんど意味を持たない。結局そのような信仰自体が格差の根源であるという批判も同時に成り立つのであるから。しかもこの指摘は実態を述べた上での議論では全くない。具体的な実態を把握しない限り、問題の具体的な所在も掴めない。
P33「小市民的ということは、一般には、現実と妥協して、自己本位で安易な生活を送るという意味に使われている。しかしながら、もしそれが、自分の能力や適性を無視した大望をいだくということではなく、正しい自己認識にたった判断であり、平凡ではあっても人間らしい生活をしたいというヒューマニズムにささえられており、さらには、そうした生活を守るためには、みんなで力を合わせて、平和な社会の発展に尽くされなければならないという、開かれた方向をもったものであるならば、あるいは、そういう方向に指導できる可能性をもっているならば、むしろ望ましいという考え方も出てこよう。」

P53「むしろ親として注意しなくてはならない問題は、別のところにあると思う。それは、日本の家庭は、往々にして閉鎖的・排他的傾向が強く、社会に対して開かれていないということである。すなわち、ともすれば「自分の子どもさえよければ」と考えがちであって、子どもを「社会の子ども」としてとらえ、社会連帯意識を家庭で指導するという点が弱いことを考えなくてはならない。」
※この指摘も調査結果からは全く関連性が語れないもの。
P61「しかし、彼らは決して、自ら求めてこの閉鎖的世界に閉じこもろうとしているのではない。各章の結果からも明らかなように、彼らは、豊かな生活を求め、各自の能力を生かして社会に貢献しようとする謙虚な心をもち、親に対する愛情と責任とを自覚して家庭の幸福を願い、平和で文化的な祖国の発展を心から期待しているのである。
彼らのなかには、豊かで実るであろう多くの可能性がかくされている。そうした彼らの積極的な前進をはばみ、彼らをして狭い個人の世界に追いこもうとしているのは、彼らの内部にある条件ではなく、むしろ外的な諸条件ではなかろうか。」

p76「私は、教育の正常化のため、テストの弊害を排除することに努めてきた。私はテストのすべてを否定するつもりはもちろんない。しかし、テストの成績が悪いためにいつもみんなからばかにされている子どもの気持ちを思わずにはいられないのである。テストの成績表を渡され、みじめな思いをしている子どもに、さらに追い打ちをかけるように、テスト成績の一覧表を校内に麗々しく掲示するような、子どもの心を無視した、無神経な教育に怒りをおぼえないわけにはいかないのである。」
p78「たしかに、テストによい点を取ってうれしかったという喜びはあるであろう。しかし、実はその喜びは、この次には点が下がるのではないかという不安や心配によってかき消されてゆく、つかの間の喜びであるにすぎない。この次は他の友だちに負けはしまいかという恐れを含む、落ちつきのない喜びであるにすぎない。それに比べて、長い時間をかけ、多くの努力を傾けて完成した工作とか絵画を見て感じる喜びはどうであろうか。そこには、ゆるぎない満足、満たされた心の充実からくる喜びがあるかもしれない。」
※近視眼的だとか、努力の積み重ねを重視したいという価値判断が明確に見て取れるが、実際に子どもがどう考えるのかはどう考えても別問題。
P82「東京都には、東京の子どもには情操が欠けがちだから、情操教育を学校の重点目標として重視しよう、という学校が少なくない。私も同感である。」

P102「世の母親を(※教育ママとして)このような教育過熱の状態に追い込んだ原因については、いろいろ考えられるが、これには、一部の児童心理学者や教育学者たちのゆきすぎと、母親たちのこの種のテストに対する盲信や過信をあげなければならない。」
※具体的に誰がそのような吹聴をしていたというのか?もちろん、具体例は挙げられていない。知能テストと学力の関連の話をしているようであるが…

☆p142「評価とは、指導ないし学習の成果、あるいはそれが子どもの発達として置き替えられたものとしての結果を測ることである。そのような結果をもたらした指導・学習などのプロセスと子どもの発達との関連がじゅうぶんに考えられなければいけない、ということは知りながら、それがいつのまにか、入学選抜といった、きわめて非教育的な立場から行われるテストと、いつの間にか混同してしまうところに問題があるのである。」

p158「ところで一般に、家庭教育というと、ただちに家庭学習というように考えられがちで、塾に通ったり、宿題をこなすことが家庭教育と思われがちであるが、実は、このような考え方そのものに問題があるのである。」
※この認識は明らかに誤りだろう。当時の一般的な「家庭教育」の文脈はむしろそれを否定しているように思われる。
P160「本来、家庭は、子どもの健康な心身をつくり、豊かな情操を育て、社会人としての基本的な行動様式を身につけさせる場である。」

P161-162「これに対して、正しい家庭学習とはどのようなものであろうか。その一つに、子どもが生活の中で興味を感じ、意欲を燃やすものを伸ばしてゆく学習がある。
たとえば、日曜大工をやっている父親を見て、子どもがそのまねをしたがっている光景をしばしば見受ける。この子が、そのような機会を通して、やがてプラモデルや工作に興味をもち、模型やラジオの組み立てなどもやるように発展してゆくこともある。子ども自身の自発的な興味と必要にささえられた学習は、宿題をやる時などと違って、はるかに積極的であり、熱心である。そのために必然的に深い知識や高度の技能を身につけ、それが中学や高校における科学や数学などの学習に役だってゆく。そして、本人はますます自信をもち、積極的になり、成績も向上する。自発的、自主的な家庭学習といっても、教科の学習に全く無縁なものではなく、かえって強い動機づけがなされ、学習効果があがるのである。このような自発的活動を学校の教科と関連させてみると、下の表のように実にたくさんある。
ところが一般には、このような自発的な家庭学習は、親の目から見れば、かえって学習にとってマイナスと考えられ、それらを育てるどころか、禁止してしまうことが多い。」
※表に示された活動は飼育栽培、手伝い、旅行、地域社会の行事など、すべて極めて日常的なもの根ざしたものしかない。当時はそれでもよかったかもしれないが、現在も同じ発想では、それ以外のものから自発性を高める可能性を排除する可能性もあるだろう。また、家庭教育感を勘違いしているため、禁止などが奨励されていたものとは一般的なレベルでは考えづらい。

P163「学校における学習の場や内容は、教師によって準備され、示されることが多い。これに反して家庭での学習は、友だちとの遊びや、学校における学習の発展のなかから、自分で問題をとらえて解決を試みるなど、子ども自身の力によって自発的に行なわれるところに意味がある。親の配慮や援助は必要であろうが、親が指示し、親の計画で行なわれるべきものではなく、子どもの自主性や積極性を養うようにくふうをすべきである。」
P164「塾が繁栄するということは、見方によっては、学校教育に対する親の不信のあらわれであり、学校教育への痛烈な批判でもある。」
P165「教師自身も、宿題について、経験的にあまり効果を認めていないにもかかわらず、父母の要望もだしがたく、その圧力に押されて出している場合もかなりあろう。
宿題を出す必要がないように教育できないものなのか。宿題がほんとうに学校の授業を助けるのに、どの程度役立っているのか。それはどういう形の宿題ならば可能なのか。これらの点について、教師も親ももう一度よく考え、話し合うことがだいじである。とくに、教育学的、心理学的の立場からの科学的、客観的な研究が必要であろう。」
※ここではまた出典がないが、学者、及びアメリカの小学校時代の家庭学習に関する調査報告により、宿題の効果を否定していることを引き合いに出した上での記述である。

P166「宿題は教室学習の延長や下請けではない。教室の学習を背景とし、きょうの授業の発展であり、またあすの授業を豊かにするためのものである。したがって、教師の指導の加えられていないこと、あるいは子どもの能力で解決できないものなどは宿題にしてはならない。したがって、むろん教科の学習指導の進度にぴったり合っているべきものである。」
※予習についても宿題を想定しているため、ここでの宿題の意味は比較的広義に捉えてよい。
P168「ところが、いまの塾は、一対一の人格のふれあいはもちろん、徹底した自学自習などの尊い精神は全く失われてしまっている。」
※よく断言できるものである。これが寺子屋時代には「一対一の形で行なわれ、そこには、人格と人格とのふれあいがあった。」(p167)と断言している。もちろん根拠に欠く。
P168「最も欠点とされているのは、学校の教育内容や方法を無視した場合がはなはだ多いことである。子どもは、学校の学習で疲れているにもかかわらず、さらに違った指導者の、違った方法で、違った新しい教材を再び学ばせられる。子どもの精神的、肉体的負担は想像を絶するものがあろう。」

P191「すでに述べたように体育の時間だけでは、子どもたちの身体活動の時間はじゅうぶんではない。そこでこれらの学校では業間体操、校内大会、運動会をはじめ、朝会、林間学校、臨海学校、遠足などの保健体育的行事についてくふうするとともに、健康診断や給食などについても、その合理的・効果的なあり方を研究し、実施している。」
P208「最近の子どもは、よく「頭にくる」という。少年非行にも、衝動的な犯罪が多い。つまり、車内で足を踏まれたという単純な原因から、他人を傷つけるような大きな傷害事件を引き起こしたり、お金がほしいが手にはいらないので自動車強盗をするというたぐいである。それほどではなくとも、ほしいと思えば、なんとしてもほしくなる、がまんできない、という子どもが多くなっているといえるであろう。」
※これも根拠なし。

P210「この数年前まで、多くの父親は、子どもの通学している学校の門をくぐることもなく、子どもの担任教師の顔も知らないで過ごしてきた。したがって、新しい学校教育には、きわめて無知であり、新教育は、もっぱら母親まかせであるというような風潮が一般的であった。父親は、いつの間にか学校教育のわく外に置かれているかのような観があった。」
※これはいかなる意味でだろうか?時期的にはいつからのことを言っているのか?
P226「日本人は、とかくわが子が他人から注意されるとむきになっておこる。よその子どものわるさは、危険なことでも知らん顔をして注意しない。子どもはすべて社会が連帯責任をもってりっぱに育てあげるものだという責任感が、国民の間に乏しいのではないか。
※残念なことに、小尾の学校の多様化論について見ても、どのような価値が必要なのかという観点を欠落させており、ここでいう「しかる」行為についても、何を正当化してしかるのか、という価値の問題に対して十分な説明がつけられるのか、疑問である。結局それは「あたりまえ」の基準としてしか語られていない。だからこそ、学校の多様化論についても「あたりまえ」のレベルに留まってしまい「何が必要なのか」や「何によって多様化が可能なのか」という議論を欠落させてしまうのではないのか??

P273「つまり戦前までは、すこし押しつけのくらいはあったにせよ、教職の特性を自覚するという態勢はじゅうぶんあった。それが戦後になって、教師も一般の勤労者となんら変わったものではないということが強調された。つまり戦後教師の特性のほうはタナ上げされて、職業人としての一般性のほうが強調されたのである。そして戦後のいろいろな思想的対立になかで、教職観というものがとまどいしているのが実情である。」
※しかしこれは、教師聖職論とセットのものでしかなかったのではなかったのか?ここで教職の特性とは何が想定されているか?「最近は少し違ってきたが、明治初期に救世済民の道を教職に求めた士族郡によって樹立された教師の権威は、抜きがたい教師への尊敬を、国民の心に植えつけた」(p271-273)とあるが、士族の権威と教師の権威の結びつきは疑わしい。「古いといえばそうもいえるが、教師の誇りは世俗的な成功や、金もうけにあるのではないことは、まちがいないだろう。」(p273)これも何も示していない。「教師は子どもの人間形成を仕事としているのだから、いわばその資本は人格である。」(p275)これが近いか?しかしこれは聖職論では?

P274「仕事の効果が測定しにくく、仕事のしぶりに対して監視の目が届かない教師の職務、そういう教師の仕事に対しては、信頼をもって対するよりしかたがあるまい。」
P275「しかしこれらの学生も教育実習などで、一度子どもと接触すると、考えが変わって、教職に対して積極的な熱意を示してくるという。……つまり望ましい教師像は、純真な童心との結びつきのなかで、形成されてゆく、というのが実際だと思うのである。」
P282「民主主義は本来、個々の人間に究極の価値を認める思想である。個人の持っている多様な個性と能力の可能性を発見し、じゅうぶんにひき出し、育てることこそが、本来の意味での教育の民主化なのである。」
※「これこそ日本の教育が緊急に解決を迫られている問題点である。」(p282)

p285「しかしこれが、人間評価の基準を学歴や学閥に求めるという、わが国の根本的な病弊のえんいんとなって、今日の教育の問題点である学校格差を生み出すにいたったのである。すなわち、人間の価値を決めるのに、本人の個性や能力を問うのではなく、どの程度の学校を出たか、それは国立か私立が行なわれ、また一流か二流かが問われるのである。こうして、学校格差が問われるから、激しい入学試験が行なわれ、入学試験があるから、知識中心のつめこみ教育が助長されたのである。この悪循環はどれが原因で、どれが結果というよりも、どれもが日本という社会の生んだゆがんだ現象である。」
※もしこの議論を前提に高校改革を行ったのなら、明らかに片手落ちだったというしかない。大学の仕組みについてまで変えないと意味がないはずだからである。にもかかわらず高校が先行して改革を行ってしまった。結果として有名私立高校が台頭してくるのは必然だったといえよう。
P286「また、就職する生徒がいても、それを無視してしまって、「ここは入試にたいせつだから、よくおぼえておけ」というようなことを平気で口にする教師も見うけられたのである。」
※ここでは日比谷高校や麹町中学の話として行っているが、結局「中学や高校での就職への影響」という意味での学歴社会言説は全く行われていないのではないか?

P288「これは、生活の安定とともに長欠者実数が大幅に減った反面、年々激化していく受験偏重教育に適応できない生徒が学校ぎらいになったことが大きな原因とみられている。
同じ原因が、疎外された生徒たちを非行にかりたてることにもなる。中学校卒業後直ちに就職する者は、差別されたという意識をもって、自分の最後の学窓を巣立っていくのである。その不満がかれらをどういう方向へ走らすことになるか、思えばおそろしいことである。」
※ここでは落ちこぼれが確かに語られているが、70年代の落ちこぼれと違う語られ方をしているといえるか?

P295都教委の調査会のよって、学校群制度の議論は65年3月にまとまっていた?
P296「たとえ、特定有名校をめざして準備していても、必ずしもそこへ入学できるとは限らない、ということになれば、むりな越境は減少するであろう。また、群志望となれば、一点刻みの志望校への生徒のふりわけも必要がなくなるので、ゆとりをもった本来の学習が行なわれるであろう。こうした期待に裏づけられて、この制度は発足したのであるが、どの群にも従来、世間で注目されている学校が含まれているので、誤った優越感や劣等感から解放され、それぞれの生徒が自分の能力を、自信をもって伸ばしていくことも予想される。従来、劣等感のために情緒の安定が阻害され、そのため本来伸びるべき能力をもちながら、その能力を萎えさせていた高校生が少なからずあったのである。学校群の制度により、明朗さを取り戻し、それぞれが特色ある才能を開花させることができるような道が開けると思われる。」
※いまいち最初の一文が理解出来ない。群の「第二志望を認めない」ことと関係するのか?

P298「わが国の入試制度の改革は常に内申書の尊重へと動きながら、それが現実の壁にぶつかって挫折し、再び学力検査の重視へと帰っていく歴史である。」
P300「入試制度改善のポイントが内申書重視の方向にあることは、何びとも否定しえないことである。この方向が間違いでないとするならば、いろいろの問題点はあっても、これをなんとか克服して、正しい方向にもって行くべきではないだろうか。人物について特記することについても、主観的になるような点に議論があろうが、内申書を教育カルテとして重視するならば、人間としての成長記録を除くことはできまい。そういう議論よりも、どうすれば児童・生徒の全人的な成長の記録が適正に評価され、それが入試にものをいうようになるか、についての研究に向かって、一刻も早くふみきらねばならないと思う。」
※入試そのものを否定する立場からは内申書の議論も批判されるわけだが…結局この議論は競争について態度を曖昧にしているとしかいえない。

P303「学校群の考え方に対しては、直ちに反論として出てくるのは、各学校にはそれぞれの特色があり、長い歴史によってつちかわれた伝統をもっているが、これを無視するのか、ということである。」
※後述する多様性とは結局この学校の特色を指すことになるだろうが、これがなぜ個人の多様性と結びつくのであろうか?そんなことはないだろう。であるならば、子どものため、という入試改革は、ただの言い訳にしかならない。
☆P303-304「後期中等教育の拡充案で、中教審はその多様化を強調しているが、これに対して、日教組などが、多様化は差別化であるといって反対しているのも、格差的な考え方をふまえての議論である。能力適正に応ずる教育を用意すれば、当然多様化する。これはまことに当然のことであるのに、それが差別化として受け取られ、幾多の問題が起こるのは、やはり能力そのものを価値に結びつけて、これに格差をつけるからであろう。全然種類の違う能力に高い低いをつける。つまり、一概に、知能は高い能力で技能は低い能力であると決めてかかるところに問題がある。だから、後期中等教育の対策で多様化を実現しようとするならば、すべての能力は等しく尊いものであるという考え方を確立しなければならない。」
※ここでいう格差的な考え方は学校群制度の発想とかみ合わないのでは。

P304「学校群制度は必ずしも後期中等教育の多様化に直接つらなるものではないが、これに背馳するものでは絶対にない。後期中等教育の多様化とは、現在の高校間の格差をさらに多様化せよ、つまり格差を小刻みにせよ、ということでは絶対にないのである。学校格差による人間の能力格差への幻想を学校群によって打破しようというのだから、むしろ、学校群制度は、高校多様化への地ならし的役割を果たすということができよう。」
※このあたりに本書の学校群制度の推進を政治的に行おうとする小尾の意図が見え隠れしているようにも思える。そして、格差を小刻みにしないという言明は、結局価値について何も考えていないと述べているのと同じである。