本多二朗「共通一次試験を追って」(1980)

 今回は前回少し予告していた、大学入試制度の議論を取り上げてみる。
 本書は、一新聞記者による共通一次試験制度への移行に伴う様々な動きについての報告である。私が本書を読んだのは大学院時代であったが、大学院時代に読んだ本の中でも読んでおいてよかったと思った10冊の中に入る一冊だったという位、非常にためになったと思った内容だった。

 本書において、2つの点について言及しておきたい。

1.大学入試の独立性について
 前回、小尾の高校入試改革の議論をみてきた訳だが、本書においてよくわかるのが、その大学入試の改革の遅さの一端である。これは本多自身意図的に書いているとも思うが、この共通一次の動きというのは同等の共通試験としての性質を持ち得ていた能研テストの廃止(1969年)と無関係ではない。このような共通テストの実施までに10年近く考えてきたということである。そしてこれは単なる大学側の怠慢という批判としてしまうわけにはいかないような、適切な人物を選抜するための方法論の検討の必要性というのは確かにあったと思われる。特に共通テストの有効性は検討当初は疑問視されていたが、試行テストを通して実証されてきたという文脈が仮に本書で過大にとられているという見方をしたとしても(p83-84)、有力な議論となっていたことを否定するのも難しいだろう。最終的な政治的圧力の影響は少なからずあったと本多は見ているものの(p19)、本書では国立大学協会主導でこの共通一次試験制度が実施に至ったとみている。
 しかし、ここで考えなければならないのは、学歴社会論においてはやはり大学の就職の有利さ、東大卒の官僚職独占といった形でなされる議論が有力であり続けたという点である。本書を読むと、小川太郎の進学制度に対する「資本家支配の影響」という解釈についても、本書で読み取れる「大学の独立性」からすればやはり的外れであるように読めてしまう。しかし仮に学歴社会が社会問題であるとみなすのであれば、やはりこの「大学の独立性」が逆にその是正の阻害要因であったと言うのも難しくないと思う。
 これに関連して、大学にとって入試改善と一般人にとっての入試改善のズレという議論(p34-35)も重要な着眼点と言えるだろう。例えば、国立大学協会における共通テストに向けての議論というのは、このようにも指摘されている。

「ただ国立大学協会の考えておられる共通テストというのは、共通テストないし統一テスト論という流れの中においては、どちらかと言うと、内申書、調査書中心にしていくべきだとか、そういった考えとの結びつきの共通テストとはだいぶ質を異にしております。つまり各大学が綿密な試験を行なうためには受験者をある程度規定しなければならないので、その受験者をまず選び出すために行なう、それから全教科を、必ずしも全部テストしなくてもよいものをそれに譲れるとか、そういった点を国立大学共通に行なうその一資料にするという考え方とか、あるいは特に具体的に調査書中心で選抜するといった方式とは必ずしも関連はないのではないかと思われます。でありますから、率直に申し上げて、国立大学協会の方式が採用されて実施された場合に、ともかく国立大学が共通のテストをするという一つの大きな改革をすると言いますか、新しいことをするという意味が非常にあるのでしょうけど、いま言われている受験勉強とか受験地獄とか、そういったものの解消には直接には関係ないのではないかと思われます。つまりよきにつけ、悪しきにつけ、大学サイドの考え方に立って、その立場に立って行なわれるものであるだけに、率直に申して、大学サイドの考え方に立って、その立場に立って行なわれるものであるだけに、率直に申して大学の立場からはさほどの異論は出にくい、ただそれだけに大学側としては、受益するところがあるが、受験者側にとってどれだけ直接的な受益があるかは疑問であるということも話題になっているわけであります。」(日本教育心理学会編「大学入試を考える」1973、p33)


2.大学入試の高校入試への影響力について
 大学院時代私が一番驚いたのは、この点だった。本書では、大学入試の制度変更が、高校入試に大きな影響を与えていると述べているのである(p74)。小尾の議論を振り返ってみると、この仮説が正しいならば、なおさら高校入試の改善を学歴社会の変革という文脈で行うことがいかに不毛かを示しているといえるのではないか。
 もっともこのような仮説は教育社会学をはじめとした学術的分野でもあまり正面きって関係性について語られていないようにも思える。これは一因として、その制度に対する検討自体が難しいという点もあげられるだろう。少なくとも高校入試はさしあたり都道府県レベルで決定しており、大学についても一期校・二期校といった区分はあるが、選抜のされ方は統一的といえない。時代的な傾向を捉えるにせよ、参照しなければならないものが多く、更にはなかなか情報自体も入手しづらい部分があるように思われる。そういう意味で本書での見解は実証的でかつ、新鮮さがあったのである。ただし、この仮説が正しいと断言するには早計かもしれないので、検証をまたねばならないレベルの話かと思う。私自身もその傾向を追ってみたいと思う。
 そしてもう一点、この共通試験により、高校と大学の対話が行われるようになった(p162)という点も興味深い。今でもそうかもしれないが、入試の情報というのはブラック・ボックスとなってしまう側面があるだろうし、当時はそれ以上に評価のされ方が見えなかったということなのかもしれないと感じた。


<読書ノート>
p17「国立大学協会が五十三年まで行われていた各大学独自の入試方式を改め、共通一次試験と各大学独自の二次試験の組み合わせ方式に五十四年から踏み切った背景には三つの動機がある。第一の動機は全国高校長協会からの内申書重視の要望、第二は大学入試に対する政党介入の懸念、第三は国立大学二期校からの一・二期入試期日一本化要求である。」
p18「一方、国大協も四十六年二月には協会内に入試調査特別委を設置して研究し、翌四十七年九月、全国共通テストに関するまとめを初めて発表、同年秋の国大協総会で実施の可否を決定するには継続研究が必要だという結論になった。」
※これの前段として全国高校長協会が入試制度の改善の要望を文部省に出すなどしている(p17)。

p18-19「文部省が調査費をつける時には、「実施を前提にした調査」という考え方があるが、国立大学側にはまだこのころ(※1973年)は「実施するかしないかの研究も含めての調査」という考え方が支配的でかなりのんびり構えていた。こうした空気は個々の国立大学現場という末端へ行くほど濃厚であり、五十一年ごろまでは「共通テストなんて本当にやれるのかね」ともらす教官がほとんどだった。文部省は恐らくジリジリしながらも自ら表面に出ることを避け、国大協が自主的に実施に踏み切るのを待ったに違いない。」
p19「政党は文部省ほど忍耐強くなかった。自民党政務調査会は同党文教部会が二年間かけてつくったという「高等教育の刷新と大学入試制度の改善および私学の振興について――教育改革第二次試案」を四十九年六月発表した。第二次試案は大学入試の改善について「全国共通学力テスト実施を検討する国大協の労力」を評価するとともに、「今日まで私たちは大学自身の入試改善の努力に依存し、また一面で教育者の自主性尊重という名分の陰に隠れて、大学入試の改善を怠ってきたことを深く反省するものである」として、「自民党独自の大学入試改革案を次期通常国会に提出する。実施は五十一、二年を目途とする」と性急な方針を打ち出した。「そちらでやらなければ、こちらがやるぞ」と強弁方針をちらつかせた感じである。」

p23「国立大学の一期・二期制は新制大学が戦後発足した時から、食糧不足で遠い旅行が困難な世相に対応して、遠くへ行かなくても近くで受けられる大学を各地区に二つという考えで取り入れられた。」
p29「一方、国大協の「選抜はやむをえない」という方針に対して真っ向から批判し、大学進学制度を根本からつくり直そうとしているのが日本教育学会の中に設けられた入試制度研究委員会(代表、大田堯氏は当時東大教育学部長、のちに都留文科大学長)のグループだ。
……進路指導のためのセンターを全国いくつかのブロックに設け、大学と高校で協力して運営する。進学先はなるべく地域の大学とし、それに抵抗を感じないように大学の格差を解消、すべて充実したものにする――というのが大まかな構想だ。大学全入的な考え方であり、日教組社会党がこれに近い。」

p30「だが、日教組の中でも大学部は考え方が違う。大学入試を「悪の根源」とは考えていないし、選抜そのものを「破タンした教育制度」とも思っていない。」
p32「(※大学入試センターを設置する旨の国立大学設置法)改正法案を送付された参院文教委員会も(※77年)四月二十一日に次の付帯決議をつけ法案は日付など一部を修正しただけでやはり全会一致で賛成した。
『最近における入試準備教育の過熱状況を是正し、学校教育の正常化を図るためには、政府及び関係者において学歴偏重の打破、各大学における特色ある教育の充実等について具体的確策が一層推進されなければならない。」

p34-35「ところでそれまでの大学入試はいったいどこが悪かったのだろうか。共通一次はそれをどのように改善しようとねらったのだろうか。一般にはわかりきったことと受けとられているが、受験生や親を含む世間の側と国立大学側とでは、この根本的な認識が案外大きく食い違っているように見える。
共通一次の目的にうたわれているように「入試が高校教育の正常な発展を阻害してはならない」というのは共通認識だが、正常な発展を阻害してきたのは「入試地獄だ」と世間は考える。だから正常化のためには受験生の負担をなるべく軽くし、入試地獄をなくさなければならないという論理になる。
ところが国大協の方はそうは思っていない。「共通一次の目的」の中に「入試地獄の緩和」など一言もうたっておらず、最後の部分で「より多くの資料により、より綿密な合否の判定を行う」と締めくくっている。簡単にいえば「いい選抜をする」のが国大協の目的なのだ。」

p66「私立大希望者も多い高校では、国立大だけのための授業は組みにくいので、補習形式をとっているところが多い。放課後の補習を月曜から金曜まで毎日行ない(千葉県農村部のある高校)、補習というより“やみカリキュラム”のようなところもある。そのほか放課後以外に夏休みの補習も三倍増の三週間(徳島・城南)とか、四〇%増(松江北など島根の四校)といった例もある。新しい傾向としては、早朝補習(高知・追手前や徳島・城東)が現れた。両校とも「放課後にやるだけでは追いつかない」というのだ。」
p71「大学入試の改革は高校の入試制度にも影響を与えた。高校入試は五十三年までにも英語、国語、数学、理科、社会の五教科制をとるところが大勢となっていたが、三教科制のところもまだ残っていた。これが大学側の共通一次実施をきっかけに相次いで五教科制に切り替えていった。まず五十四年には青森、岡山両県で移行、ついで秋田が五十六年、山形と東京が五十七年からの五教科制実施を決めた。」

p73「高校入試で九教科やらなくてもいい」と昭和四十一年に文部省が指導し始めたのに応えて、山梨県では翌年から三年間四教科制をとった。四教科のうち国語、数学、英語の三教科は固定し、あとの一教科は理科、社会、保健体育など毎年変わるローテーション方式、他県でも四教科制はこのやり方が多かった。四十五年からは国数英の三教科制へ移行、この方式がこれまで十年続いてきた。」
p74「残る三教科入試県は愛知県だけ。ここは三教科制へ変わるまでに相当議論があったので、まだ五教科制への動きは目立たない。ほかには京都府が九教科入試、兵庫県が総合テスト方式をとるのが例外的存在、他は日本中が五教科制という現状だ。高校入試制度の変更が五十四年前後に集中してバタバタと実現したことは、共通一次の及ぼした影響の大きさを物語っている。」

p83-84「「共通一次? そんなものは苦しまぎれの二期校が利用したくて作るんだろうから、本学としてもつき合いはするけれども、あまり頼りにはしない。やはり本学の独自試験の方が比重が大きいに決まっている」。初めのころ旧帝大系の教官からこういった口ぶりで話されるのをよく耳にした。ところが試行テストが一回、二回、三回と重ねるうちに風向きが変わってきた。九州大では試行テストと翌春の九大入試の双方を受験した学生を対象に得点状況を比べたところ、よく似た傾向がでたので「共通テストで入試の相当部分を肩代わりさせてもいい」という考え方が有力になった。東北大でも同じだった。」

p162「ただこのように大きい問題点をはらみながらも、共通一次試験の内容が正解発表も含めて国民の前にさらけ出され、ガラス張りの中で集中的に批判できることになった効果は大きい。入試問題の是非について大学と高校の先生が大々的に討論するようなことは、以前の大学入試ではほとんど行われなかった。」
p163「大学の先生たちの間で、共通一次を契機に「入試と対応させて大学での教育をどう行うべきか」と考える気風が生まれてきた。昭和五十五年の日教組教研集会大学分科会にその傾向ははっきり現われていた。教研集会の大学分科会にはここ八年ばかり出席しているが、討議の中心課題にも時代の動きとか流れのようなものを感じる。初めのころは職員の待遇とか教員の研究条件が主な話題で、時には研究条件とからんで大学院設置問題が関心事になったりしたこともあったが、学生の教育についてはあまりレポートは多くなかった。それが年とともにだんだんふえる傾向が芽生えていたが、五十五年には共通一次や二次の小論文試験など入試とのからみで入学する学生の資質を論じ、そしてその学生をどう教育すればいいかといった模索的な発言が多くなった。」

p211「大学入試と高校教育を関連づけて考えるなど、当たり前のことと思う人もいるだろうが、大学人の伝統的な考え方は必ずしもそうではなかった。この調査の回答の中でも「高校教育はそこだけで終わる人を含めての全人教育であり、大学入試とは直接の関係があるはずはない」「大学は大学教育を受けるにふさわしい資質と能力をもったものを選び出し、学部学科の必要科目に対する能力をみるわけで、受験生の負担という考え方は理解できない」というのがある。これが伝統的な大学入試観。」
p213-214「また小論文採点の尺度にしても、同じ小論文を第一志望学科と第二志望学科で別々に採点したら、第一志望学科で不合格とされたものが第二志望学科で二〇〇点満点で八〇点も高い評価を受けて合格した大学の例を聞いた。小論文と面接の採点結果が逆相関を示した例もある。しかしこういうのをあまり目クジラ立てて「不公平だ」と追及したりすると、一点の差を問題にする客観テストに逆戻りするので、長い目で大学の模索を見守るしかないのではなかろうか。暴論といわれるかもしれないが、私は入学試験なんて多少いい加減なところがある方がいいと思う。できるものが落ちたり、できないものが間違って入ったりするから救いがあるのであって、全国一律の偏差値的物差しが正確無比につくられ、これに落ちたものは落第生と刻印されるような入試は考えただけで息がつまる。」
※願わくば、間違いで入ることはあって欲しくないが、同じ尺度である必要はないというのは理解できる。

P265フランスの話…「このスシ詰めを入学後の落第でふるいにかけていたわけだが、一九六八年の五月危機で「学力でなく定員で落第させている」という学生の不満が噴き出し、その後のフォール改革で定員を増やすため続々と大学が新設された。二十三大学からたちまち六十五大学へ。特にパリではパリ第一から第十三大学までできた。」